歳時記

 

一号遺跡

〈 また彼らはおのおのその割当にしたがって馬および早馬に食わせる大麦とわらを、その馬のいる所に持ってきた。 列王記上4:28〉

”赤駒を山野にはがし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ” 宇遅部黒女 万葉集には多摩の名が出て来る歌は二首しか載っていません。この歌は多摩での馬牧(うままき)を現わしている貴重な歌です、この歌には当時の多摩丘陵での馬牧の様子がよく表されています。古来から多摩では馬牧が盛んでした。丘陵での馬牧は丘に囲まれた谷戸が最適でしたが谷戸は耕作地が少ない多摩では食料生産の場として使われていました。黒女さんのように馬は山野(丘陵)ではがし(放牧)されていたようです。また多摩には大きな集落が少なく小さな集落が点在していました。従って馬の飼育も個人単位で行われていたようです。黒女さんも一頭しか飼っていなかったのでその赤毛の馬を捕まえそこなって防人となって出征する夫を多摩の横山道を歩いて行かせてしまった、と嘆いています。今回の一号遺跡の概要は歴史的には平安末期から室町期にかけての遺跡とされています。遺跡は谷戸を見下ろす南面した丘の中腹を開削して東西約50m南北約10~20m、面積約800㎡の平坦地を造成し尚且つその中央に12m×6m、深さ約1.3~1.5mの大型の竪穴を設けてあります。またその東西には複数の建物群の遺構もあります。資料によると。12世紀に小山田別当有重と言う人がこの地に広大な馬牧を営み配下にも谷戸の開墾を進めた。とありますので確かではありませんが有重の配下の人が起こした馬牧の場であったのかも知れません。私は散歩の折に何度も此処に佇み往時の姿を思い起こしていました。(次回へ続く)

馬牧(うままき): 飛鳥時代の頃に兵部省によって管理された牧場で、主に軍馬や貴族への貢馬、駅伝馬などの供給源とされました。馬牧の立地は、山や丘陵に囲まれた窪地が利用され、袋状の谷戸に馬を追い込み、出入口を馬柵棒(ませぼう)をかって馬の逸出を防いだり、外部からの危害を防ぐ繋飼場(けいしば)にもしたと言う。この小山田の地はその適地だったと言えます。

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