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2026年9月20日福音ルーテル・スオミ・キリスト教会
礼拝説教
マタイによる福音書20章1−16節
「全ての人々へ等しいキリストの福音の約束」
田口 聖
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。
1、「背景」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。
今日の聖書の言葉は、私たちの救いも、そして、そこにある日々新しいいのちの歩みも、それは私たちが何かをして得たものではなく、どこまでも主なる神が約束してくださった通りに与えてくださったものであり、全て神の恵みであることを教えてくれています。
これはイエス様が語った譬え話です。どのような背景でこれを語っているでしょうか。19章の後半を見ると、金持ちの青年の話が記録されています。彼はイエス様のところにやってきて「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と尋ねます。そこには彼は自分はいつも律法に従って良いことを行なっているという自負がありました。なぜなら、イエス様が十戒を示したときに、20節、「そういうことはみな守ってきました。」と言い、「まだ何か欠けているでしょうか。」と答えているからです。彼は「良い行いについて」尋ねていながら、「自分には欠けているところがない」と答えるのです。彼には永遠の命を得る自信がありました。しかしその根拠は、ただの自分は律法を行い欠けたところがないという自信だけでした。それに対してイエス様は彼が決して神の前に完全ではないことを言うのです。21節「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 と。イエス様は彼が律法において欠けているところがないと言うなら、律法が求めることはどのようなものかを示し、そしてそれを行なって自分に従うように招いたのでした。しかし、青年はそのイエス様の言葉を聞いた時、悲しみ立ち去ったのでした。なぜなら、青年は財産を沢山持っていたからでした。そこでイエス様は言います。23節
「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
それに対して弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と驚きます。しかしそれに対してイエス様は言うのです。26節
「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。」
2, 「神の律法の前に義人はいない」
神の前、神の律法の前には、普段から良いことをたくさん行なっているという自負のある青年であっても、不完全です。イエス様は青年をいじめているのでも責めているのもでなく、人間がどれだけ善を行なっても、神の前ではどこまでも不完全である、そのことを青年に教えたかったのでしょう。そして、弟子たちの「それでは誰が救われるだろうか」という問いはある意味、的を射ています。誰でも神の前、律法の前では、ただただ罪人です。不完全です。主なる神が求める律法の完全さに誰も叶うものはありません。つまり、人は、自らの行い、あるいは、自分がどれだけ持っているか、どれだけのことをしたかに救いはかかっているのでは決してありません。そう、私たちの前にある真理は、イエス様が言われる通り、救いは、
「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」
それが紛れもない私たち人間の救いの真理なのです。しかし、27節、ペテロは、それでもおそらくイエス様の言葉の真意を悟るのに鈍かったのでしょう。
「すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」
これはペテロの敬虔な言葉のように聞こえます。しかし、反面、彼は自分たちはこれだけのことをあなたにしたのだから、あるいは、そうすることで従ってきたのだから、いっぱい長く従い、いっぱいあなたのためにしてきたのだから、その行いに見合う多くのものをいただけるでしょう。と言う思いがあるでしょう。イエス様は確かに全てを捨てて従ってきたものには多くの報いがあり、永遠の命を受け継ぐのだと言います。しかし、それは弟子たちの行いのゆえなのでしょうか?弟子たちが沢山行なってきたからなのでしょうか?つまり、救いや新しいいのちの生き方や働きや受けるものは、「人がどれだけのことをしてきたか」にかかっているのでしょうか?そこでイエス様は、この20章1節から天の国は次のように例えられると教えたのでした。
3、「葡萄園での働き人を雇う譬え」
A,「主人からの約束」
そこでは葡萄園の主人が葡萄園での働き人を雇います。主人は、夜明け、9時、12時、3時、そして5時と、合計五回、人々を雇います。2節を見ると「一日につき一デナリオンの約束」でと書かれています。そして4節では、9時に出会った人々に主人は「ふさわしい賃金を払ってやろう」と言っています。さらには、それ以後の時間に出会った人々にも5節「同じようにした」とあるのです。ですから、この労働は、当然ですが、葡萄園の主人が、しかも主人の方から雇い入れるものでした。さらには主人が主人の方から「一日につき一デナリオンの約束」と言う約束を示し、その約束に基づいて雇い入れています。そしてその後も「同じように」とあるように、それがどの時間に雇った人々にも「相応しい賃金として」主人が定め、主人が与えると約束したものでした。つまり、労働者がそれぞれ長く働いたらその長く働いた分だけ与えるという約束はしなかったのでした。夜明けに最初に出会った人にも「一日につき一デナリオン」と約束していたのでした。そして、労働の終わりに、先のものにも後のものにも差はなく、同じ報酬を約束の通りに与えたのでした。それはまさに「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」ように思うでしょう。19節の最後30節でもイエス様は「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言っています。
天のみ国はそのようなものなのです。つまり、先に召されようが後に召されようが、神の約束、神が与える救いや新しいいのちの恵みの全ては、全ての人々に等しく及ぶのです。それが神の約束であるからです。それは人の行いやその量にかかっているものではありません。つまり、先に救われたとか、だから長い時間、沢山、従ってきた、沢山のことを行なってきた、自分はどれだけのことをしてきたとかは、関係ない、約束に従うものは、長かろうが短かろうが、全ての人々に等しい約束のものを受けることができる、それが天のみ国に他なりません。ですから、普段、立派だから、良いことを沢山しているから、より神の国に相応しい、していないから相応しくない、天のみ国はそのようなものではありません。誰であろうと、主人が約束したものをそのまま受ける時、その約束したものをそのまま受けられる、なぜならそれが主人の約束だから。それが天のみ国なのです。
B,「沢山働いたものたちによる不平」
しかしです。10節以下、こうあるのです。
「最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 」
最初に来た人達は、主人のやることに不条理を感じたようです。自分は後から来た人々よりも最初から働いてきた、長く働いてきた、沢山の成果を出し、沢山の労働力を費やしてきた、だからもっとくれてもいいではないか、最後に来て少しし行なっていない働いていない連中と同じ報酬なのか?不平を言うのです。気持ちはよくわかります。確かにこの地上の社会では、そのような原理原則こそが平等であり、いっぱいすれば、いっぱい行えば、いっぱい成果を出せば、そうではない人々よりもより多くのものを受けるはずだ。世の中はそのように動いています。しかし神の国のこと、神の考えていることはそうではないのです。神の救いの神の国の約束は、人がどれだけのことをしたか、どれだけ長いことしてきたか、どれだけ貢献し、どれだけ成果を出し、どれだけ成功してきたのか、にかかっているのではない。約束は全ての人々に語られ向けられ、その約束の通りに受けるものは、その通りに約束のものを必ず受ける、なぜなら、それは人が決めた人から神への約束ではない、どこまでも神が定めた神から人への一方的な約束であり、神が人に与えるものだからです。ですから主人は言うのです。13節。
「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
そう、全ては神のものが神が定め神の約束した通りに与えられる。それが天のみ国、神の国であり、救いの恵みです。私たちが沢山頑張ったからと私たちの行い云々で左右できるような小さな範囲の神の国ではないのです。しかし、世の宗教をはじめ、世の人々は救いを逆に考えてしまいます。まさに世の価値の基準に従って神が与えてくださるものまでも計ります。そしてその通りに受け取れないと、神に不平を言うのです。神はずるい、神は間違っているのではないか、神は不公平ではないか、だから神はいない、インチキだ。しかしそれは神中心ではなく、どこまでも人間中心の、自分がどれだけ行なってきたのか、しかも隣の人がどれだけ行なったかと比べての、狭い視点から見ている神への評価に過ぎないでしょう。それは絶対的なものにはなり得ません。むしろ神を自分たちの評価の枠にはめて神を限界のあるもの小さなものにしてしまっています。
C,「ヨナの不平と重なる」
最初の聖書箇所であった、ヨナ書のヨナの不平も似たようなものがあります。彼はニネベに遣わされますが、行くのを拒みました。そして魚のお腹にあって彼は悔い改め、ヨナ書2章10節にある通り、「救いは、主にこそある。」と告白し、ニネベに向かいます。そしてニネベの人々に神の言葉を伝え宣教をするのです。そして、素晴らしいことに、その宣教は成功するでしょう。ニネベの人々はヨナの伝える神の言葉を聞いて悔い改めるのです。素晴らしい出来事です。しかしです。ヨナは、その結果に大きな不満を表し怒ります。ヨナ書4章2節以下の彼の言葉を見ると興味深いです。
「わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。 」
なんと、ヨナは神が恵みと憐れみの神であり、忍耐と慈しみに満ちていることを知っているのですが、それに対しての不平です。つまり、その恵みと憐れみでニネベの人々を悔い改めさせたことに怒っているのです。なぜでしょう。それは、ヨナにとっては、ニネベの人々は異教徒であり、悪い裁かれるべき民であり救われるべき民ではなかったからでした。だから、彼は最初、怖いからという理由でニネベに行くのを拒んだのではないのです。ニネベの人々に伝えるのを拒んだのです。確かにニネベの民は異教の民で、悪の溢れる民は裁かれるべき、滅ぶべき、人間の感情としては叫びたいのかもしれません。しかしそれはヨナの思い、人間の思いであり、神の思いではないでしょう。神の思いはニネベの人々が悔い改め滅びを免れることです。人の評価から見るなら、悪いことをしている、真の神を信じない、偶像礼拝をしている人々は、神を信じる私たちと同じものは受けるべきではない、そうなるでしょう。しかし、神の思いは違います。全ての人々が悔い改め、真の神に立ち返り、誰でも悔い改めるなら全ての人々に等しく与えると約束している恵みの罪の赦しと救いをそのまま受け取り、滅びないようになることが神の思いです。そう、ヨナも自分中心の行いの評価で神のなさる救いを計っています。そして自分の思い通りではない神がなさることに、それが恵みであっても納得できなかったのでした。そう、葡萄園で最初から働いていて、最後に数時間しか働かない人々と同じ報酬を受け取った時に、約束の通りを受け取ったのに不平を言っている人々と重なるでしょう。ヨナはトウゴマの木のことでもそうです。神がヨナを憐んで与えたトウゴマの木です。その恩恵、その神の恵み、自分が受ける益には感謝し喜ぶのです。しかし自分の願う利益が得られなくなるとその木を惜しみ、その神の恵みに不平を言い、怒るのです。全て自分が基準、自分中心で見てしまっています。神は言うのです。ヨナ4章10節11節。
「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。 11それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
D, 「天のみ国とは」
神はヨナに問いかけているのです。「あなたは自分に利益を与える植物には憐れみを感じるのに、わたしが造った何万人もの人間には憐れみを感じないのか」と。
天のみ国はこのようなものなのです。人間がどれだけのことをしたか、しなければいけないか、に左右されない、それを人間がどう評価し、どう思うかも関係ない。神は全ての人々が悔い改めてイエスキリストの十字架による罪の赦しを受け取り、復活の新しいいのちに生かされていくことを何よりも願っている。そのために私たちは召され、そのために私たちの教会はある。その福音を今日も説教で語り、その福音をそのまま私たちが受け取るように今日も差し出されています。パウロも「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」とまさに自分中心、自分基準を放棄しています。生きるにも死ぬにもキリスト、キリストにあっては死もまた益である。私たちの行い、私たちの勲によって私たちの新しいいのちの生活はあるのではない。すべてはキリスト、全てはキリストの恵み、キリスト・イエスに結ばれているから。だから律法ではなく、キリストの福音に相応しい生活があるのだと。その福音にあって生きなさいと。
4、「結び:空っぽの手で福音を受け取る」
今日も主は約束してくださった通り、この恵みの手段である聖餐を通して、救いの恵み、罪の赦しと新しいいのちを与えてくださいます。私たちは手に自分の何かを握ってまず何かを神のためにするから神は報いてくださるのではない、神が約束のものを約束の通りに与えてくださる。だから私たちは今日も空っぽの手を開いて、主が受けよと与えてくださるイエス様のからだと血をそのまま受け取ろうではありませんか。イエス様は今日も宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ平安のうちに今日も遣わされて行きましょう。
人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。