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アウグスブルグ信仰告白20条と現代(その3)
私は、アウグスブルグ信仰告白20条は内容的に、信仰とは何か、宗教とは何かを改めて考えさせるものではないか、500年近く経った今でもそうしたことを考える材料として有用ではないかと思います。同告白のフィンランド語訳を読んだ時にそれを強く感じました。それで今回、同20条をフィンランド語訳に基づいて、ラテン語原文をチラチラ覗きながら訳してみました。紙に書いたものをコーヒータイムの時に読み上げます。(このコラムの後に添付します。)
殆どはフィンランド語訳に引きずられた訳ですが、ラテン語に関していくつか申し上げますと、
・ bona opera「善い行為」は、先週のコラムで述べたように、「御心に適う行為」と意味を特定化しました。
・ 17項のcertamen perterrefactae conscientiae「恐れ脅える良心の戦い」は何を意味するのか?良心の平安を得るための戦いではないかと考えて解説的に意訳しました。
・ 36項のprimi aut secundi praecepti「第一あるいは第二の掟」は、イエス様が十戒を二つにまとめたもの、神を全身全霊で愛するという掟と隣人を自分を愛するが如く愛するという掟のことと解しました。
・ あと、最後の歌ですが、ラテン語版とフィンランド語訳では内容が異なっています。フィンランド語訳の解説によると、歌はVeni Sandte Spiritus(来たまえ、聖霊よ)の一つのバリエーションとのこと。ラテン語版の方は、聖文舎の日本語訳がそれで、同じ歌の一部とのこと。どうして違う内容なのかは調べていないのでわかりません。紙には両方載せておきます。
20条にはよく、恐れる心、脅える良心、脅える魂などと、平安が失われた状態の問題が出てきます。これは、一義的には、神の意思に反するもの、罪が自分にあることを自覚して、神の怒りや裁きを恐れる心を意味します。そのような心は、イエス様の十字架と復活の業を信じて自分のものにすることで平安を得ます。それでは、罪以外が原因で心に平安がなくなった時は、どうなるのか?私は、これもイエス様の十字架と復活の業が平安を与えてくれるものであると考えます。私たちは、罪と関係なくて困難や苦難に見舞われて、心が心配や恐れに覆われてしまった時は、神は目を注いでくれない、私のことを無関心でいる、神は私に背を向けた、という疑いを持ちます。しかし、その場合でも、イエス様の十字架と復活の業を信じて自分のものにすることができれば、まず、そういう疑いはなくなります。そして、試練は神と一緒に通り抜け乗り越えるプロセスに変わります。
アウグスブルグ信仰告白 第20条 信仰と神の御心に適う行為について
1)彼ら(ルターの改革に賛同する教師たち)が神の御心に適う行為を禁じているなどと言って我々のことを非難するのは間違いである。
2)彼らが、いかなる生活の仕方や行為が各人の召命において神を喜ばせるものであるかを説明する時、あらゆる生活様式と義務について有益な仕方で教えきたことは、彼らの十戒について論じた書物や同じテーマに属する他の書物が証明している。
3)これらの事柄について、説教者たちは以前はほんの少ししか教えなかった。彼らはただ子どもじみた不必要な行為を勧めてきた。定められた聖日を守ること、特別に決められた断食、同胞団の結成、巡礼、聖人崇拝、ロザリオの使用、修道院に入ること、その他類似の事柄がそれである。
4)こうしたことについて、我々に反対する者たちは注意を喚起されてきた。彼らは今ではこれらのことを止めつつあり、もはや以前のようにはこれらの無益な行為について説教することはなくなった。
5)彼らはまた信仰について語り始めるようになった。それについては、驚くべきかな、以前は彼らは沈黙していたのだ。
6)彼らは、我々は行為のみによっては義なる者になれないと教えている。しかし、彼らは、信仰と行為を結びつけて、我々は信仰と行為によって義なる者になれると言っている。
7)この教理は、彼らの古い教理よりは許容できるもので、またより多くの慰めを与えてくれるものである。
8)教会の中心的な教理でなけらばならない「信仰の教理」がこれほどの長い間忘れ去られてしまったため、- 説教では信仰による義認が完全に沈黙させられ、代わりに「行為の教理」が教会内で多すぎるほど論じられてきたことは全ての者が認めなければならない - そのために我々に属する者たちは信仰について諸教会に次のように注意を喚起してきたのだ。
9)第一に、我々の行為は神との和解をもたらすことはできず、また罪の赦しや恵みや義を見返りとして得させることもできない。我々がそれを達成できるのは、キリストのおかげで我々は恵みの中に受けいれられると信じる時、まさにその信仰を通してのみ達成できるのである。そのキリストは、唯一の仲介者、和解の道具として立てられた方であり、彼を通してでなければ父なる神との和解は得られないという方なのである。
10)それゆえ、行為によって恵みを見返りに得るということに信を置く者は、キリストがご自分について「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)で言っているにもかかわらず、彼こそが見返りであることと彼の恵みを排除し、神のもとに至る道をキリストなしに人間の力で探し求める者である。
11)この「信仰の教理」はパウロがいたるところで論じているものである。「あなたがたは恵みによって信仰を通して救われたのである。救いはあたたちから出てくるものではない。神の贈り物である。行為から出てくるものではない」等々(エフェソ2章8節)。
12)誰も我々がパウロの新しい解釈を作り出したなどと非難する口実を得ることができなくなるために、この教理の全ては教父たちの証しの中に土台があることを示そう。
13)アウグスティヌスは多くの書物の中で行為の見返りの役割に反対して、恵みと信仰による義が正しいと論じている。
14)アンブロシウスも著書『異邦人の召しについて』やその他のところで同じことを教えている。同著書の中で彼は次のように言う。「義認は恵みによって起こるものなのに、もし前提にあるのだと言って行為の見返りということに依拠してしまったら、キリストの血による贖いは無価値になり、神の赦しの憐れみは人間の行為の陰に隠れてしまうであろう。そうすることで義認は与える方が見返りなど無関係に自由に与える贈り物ではなくなり、行為者が見返りに得る報酬になってしまうのである。」
15)この教理はたとえ信仰の経験の浅い者からは軽蔑されても、敬虔で神を畏れて震える良心は、まさにそれこそが最大の慰めと励ましを与えてくれると経験を通して知っているのだ。なぜなら、良心はいかなる行為をもってしても平安を得ることはできないからである。そうではなく、キリストのおかげで神との関係が保たれていると良心が本当に納得した時に、この信仰を通してのみ平安を得ることができるからである。
16)パウロは次のように教えている。「われわれは、信仰によって義とされたのだから、我々には神と平和な関係がある」(ローマ5章1節)。
17)この教理全体は、恐れ脅える良心が平安を得るための戦いの武器としてあるのであって、その戦いがなければ把握することができないものである。
18)それゆえ、信仰的に無経験な人々または世俗的な人々がキリスト信仰の義は社会正義ないし哲学が構築する正義以外のものではないと夢想する時、自分たちの粗悪な理解力を露呈するのである。
19)良心は以前、「行為の教理」に煩わされていて、福音から何の慰めも励ましも聞くことができななかった。
20)そのような良心に駆りたてられて、ある人たちは荒野へ行き、あるいは、修道士の生活をすれば見返りに恵みを得られると期待して修道院に入った。
21)別の人たちは、恵みを見返りに勝ち得て罪を償うことができるための別の行為を考案した。
22)それゆえ、このキリストを信じる「信仰の教理」を提示し新装することは真にもって必要不可欠だったのである。それは、恐れ苦しむ良心から慰めと励ましが欠け落ちてしまうことがないようにするためであり、恵みと罪の赦しと義はキリストを信じる信仰にあって得られるということを良心が知るためであった。
23)さらに人々の注意を喚起しよう。「信仰」という言葉は単に歴史的知識を意味するものではない。そのような知識は神を信じない者や悪魔でさえ持っている。「信仰」は歴史的出来事に向けられるものだけでなく、それらの出来事の効用、すなわち罪の赦しの表明にも向けられる信仰を意味する。この教理によれば、キリストを通して我々には恵みと義と罪の赦しがあるのだ。
24)さて、キリストを通して自分には恵み深い父があると知っている人は、本当に神のことを知っているのであり、自分が神に世話されているとわかっており、神に助けを呼び求める者であり、異邦人のように神なしで存在する者ではない。
25)悪魔と神を信じない人たちはこの教理、すなわち罪が赦されることを信じることができない。このため彼らは、神が敵であるかのように神を憎む。彼らは神に助けを叫び求めることもせず、神から良いものが与えらえることを信じもしない。
26)アウグスチヌスも読者に「信仰」の概念についてこのように注意を喚起しているのであり、聖書の「信仰」という言葉を習得された知識として捉えてはならないと教えている。そのようなものは神を信じない者も持っているからだ。そうではなくて、脅える魂を慰め励ましてくれる信頼として捉えるべきであると教えているのだ。
27)我々に属する者たちはさらに、御心に適う行為をすることは必要であると教える。それらは、することで恵みを見返りとして得ることができるなどと信頼するがために行ってはならない。そうではなくて、行うことは神の意思だから行わなければならないのだ。
28)ただ信仰によってのみ罪の赦し、すなわち恵みを手にすることができる。
29)そして、信仰によって聖霊が受け取られるので、心はすぐ新しくされ、新しい方向性を得て、その結果、神の御心に適う行為に自分を合わせることができるようになるのである。
30)アンブロシウスもこのように教えているではないか。「信仰は御心に適う意思と正しい行為の親である。」
31)というのは、聖霊がなければ人間の力は神を信じない心の動きに満たされしまい、神の御前で御心に適う行為を生み出すには弱すぎるからだ。
32)加えて、人間の力は悪魔の支配下にあり、悪魔は人間をあらゆる罪に、神を信じない考え方に、そして明白な悪へと駆り立てる。
33)このことは、哲学者たちの辿った人生から見て取ることができる。彼らは、自分では申し分のない生き方をしようとしたのであるが、それに成功しなかったばかりでなく、多くの明白な悪に手を染めてしまったのだ。
34)人間は、信仰と聖霊なしで生きようとする時、また、人間的な力だけで自分を律しようとする時、こんなにも弱いのである。
35)この教理を、御心に適う行為を禁じているなどと言って非難してはならないことは明白である。それどころか、いかなる仕方で御心に適う行為をすることができるかを示しているので感謝されなければならないのである。
36)というのは、信仰がなければ、人間の本性は第一の掟にしろ第二の掟にしろその行為を行うことができないからである。
37)信仰がなければ、人間の本性は神に助けを叫び求めることもせず、神から助けが来ることを待つこともせず、十字架を忍耐強く背負うこともしない。その代わりに人間の支援を求め、それに信頼する。
38)信仰と神に対する信頼が離れ去る時、心を支配するのはあらゆる種類の欲望と人間的なはかりごとである。
39)そのためにキリストは言われる。「私なしでは、あなたたちは何も成しうることができない」(ヨハネ15章5節)。
40)そして教会も次のように歌うのである
「もしあなたがあなたの霊を取り上げるならば、
無垢な者は存在せず、
あるのは空っぽで貧しい人間だけ。」
「あなたのみ力なしには
人の中には何もなく
無害なものは何もない」