牧師の週報コラム

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ
」2月8日の日課から)
キリスト信仰者は苦難困難に遭遇するとこのように立ち向かうのだ。
「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」(詩篇
118篇1節)
『我々はいかなる不運に遭遇しても、それ自体に目を奪われてはいけない。そんなものは
神が我々に灯してくれた光なんだと思わなければならない。それは、神の恵みと善き業が
本当は数えきれない位の出来事の中にあったことが照らし出されて見えるようになるため
の光なんだと。そうすれば、不運などというあの虫けらのような害悪は、我々からすれば
燃え盛る炎の海に落ちていく一滴の雫にしかすぎなる。そうでなければ、せいぜい大海の
中に落ちていく微小な火花にしかすぎない。不運がこの光にかき消された時、日課の聖句
は我々に最も身近で麗しいものになる。「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈
しみは永遠にあるのだから。」
この言葉で言い表される心意気は次のようなものになろう。「ああ、あなたは私になんと
誠実で慈しみ深く神聖な神でおられることか。私に対してもこの世に対しても大いなるこ
と善いことをこんなに沢山して下さっていたとは。私の感謝は全てあなたに向けられます
ように。」
これと同じ聖句は聖書の中で、特に詩篇の中でしばしば登場する。この聖句は我々に正し
くて最も御心に適う捧げものについて教えてくれる。我々は、神に感謝する以上に大きく
て優れた業を行うことはできないし、心がこもった礼拝を守ることもできないのである
。』(以上ルターの説き明かし)
このように不運を神が灯してくれた光と受け止めると、本当に神の恵みと善き業が数えき
れない出来事にあったことが見えるようになるのでしょうか?私は思います、数えきれな
い出来事を積み重ねた山の頂上にイエス様の十字架と復活があるとわかれば見えるように
なると。(2025年3月2日の週報コラムに掲載)

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