2026年5月17日(日)10時半 主の昇天主日 礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

今日の聖書のお話
ルカによる福音書24章44〜53節
説教題「み言葉を通して私たちに働かれる主」

2026年5月17日
説教者:田 口  聖
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように
。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1、「イエスから弟子たちへ」
イエスは十字架にかけられる前から、弟子たちにご自身の復活をはっきりと約束して
いました。しかし弟子たちは皆そのことを忘れていました。最初に復活のイエスと出会
った女性たちがイエスが復活したという知らせを伝えても弟子たちは信じません。ある
弟子たちは失望のうちにエルサレムを離れてエマオという村に帰ろうとさえします。し
かしそんな彼らのところにイエスの方から現れてくださり彼らの目を開いてくださいま
す。彼らはイエスが復活したと信じてエルサレムに帰り他の弟子たちに伝えます。しか
しその時も弟子たちは信じませんでした。そんな弟子たちに再びイエスの方から現れる
のです。それでも弟子たちは「霊を見ているのだ」と信じません。しかし、そんな信じ
ない弟子たちをイエス様は怒るのでも見捨てるのでもなく、ただ自分の身体を触らせる
のです。それは弟子たちが「信じて、喜び、安心するため」でした。そのようにして弟
子たちは自分からは信じることができないのです。しかしイエスはそんな弟子たちを、
たとえ彼らがどれだけ悟るのに遅いものであっても、そこで裁いたり責めるのではなく
、むしろそんな彼らのためにこそ信じるように「イエスの方から」働いてくださり、イ
エスが信仰を与え、信仰を強め、安心させてくださる、「絶えることのない恵み」を現
されたのでした。
2、「どのようにイエスは働かれるか」
イエスは同じように私たちにもいつでも「イエスの方から」働いてくださるのですが
、今日の福音書からは、ではどのようにしてイエス様は働かれるのかをイエス様は伝え
るのですが、とりわけこれから天に昇られその姿は見えなくなる時、それでもイエス様
はクリスチャンに働かれる、それがどのように働かれるのかを、イエス様は教えようと
するのです。イエスは信じない弟子たちに「イエスの方から」現れ、語りかけ、触れさ
せ、魚まで食べて見せてご自分が生きていることを信じさせるのですが、最後にイエス
はこのような言葉で結ぶのです。44節
「44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いて
ある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っ
ておいたことである。」
イエスは、ここで弟子たちを最も大事なことに立ち帰らせます。それはイエスが十字
架で死んで三日目に復活するということは、それは突然、湧いて出てきたような新しい

2 /

教えではなく「これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである
」とある通りに、十字架の前、一緒に旅をしてきてきた時に、「その頃にすでに話して
いたことではないか、そして、それは旧約聖書全体において約束されてきたことである
と教えてきたことではないか、そのことが全て成就すると既に解き明かしてきたことで
はないか」とイエスはご自身の約束したみ言葉に立ち返らせるのです。
A, 「聖書はイエス・キリストを指し示す」
このところは何を伝えているでしょうか。一つは、聖書は全てイエス・キリストを指
し示している、イエスを伝え証しているということです。ここでイエスご自身が「わた
しについてモーセの律法と預言書と詩篇に書いてある」と言っています。この時代、聖
書は「モーセの律法、預言書、詩篇」です。つまりそれは私たちがいう「旧約聖書」を
指しているのですが、それについてイエスは「わたしについて書いてある」とはっきり
と言っているのがわかります。この言葉の通り、旧約聖書の言葉もまた、全てキリスト
を中心としていて、やがてくるキリストを証していたのだということは、それは後の弟
子たちや初代教会の教父たちが考え編み出した教えでは決してないことがわかります。
それはイエスご自身がそうだと証ししていることなのです。ですから私たちは旧約聖書
を読んでいくときに、このことは大事な助けになります。旧約聖書にはただ律法的な言
葉が並んでいるのでは決してない。あるいは私たちと全く関係のないユダヤ人、イスラ
エル人に関わることだということでも決してないということです。旧約聖書もイエス・
キリストを指し示しているのです。ですから、旧約聖書もキリストを中心として、しか
も十字架と復活を中心に読んでいくとき、そこに私たちは福音と神の本当のメッセージ
を聞くことができるのです。事実、私たちのマルティン・ルターは新約聖書学者ではな
く、旧約聖書学者でした。彼の旧約聖書の註解や講解を読むと、そこでは明確にキリス
トの説教がされていることに気付かされます。そのように旧約聖書にもキリストの福音
は溢れているのです。
B, 「聖書の神のみことばを通して」
第二に、イエスご自身が絶えず聖書を通してみ言葉を語ってきたという事に立ち返っ
ているという事です。それがイエス様の働きの原点でした。つまり主なる神はそのよう
にみ言葉を通し、み言葉を解き明か、み言葉の約束を人々に与え続けることによって、
弟子たちに働き続けてきたということをイエス様はストレートに証しします。イエスは
そこから決してずれません。それが彼らの前に現れ、直接、触れさせるという具体的な
介入をされたとしても、その「み言葉を通して」の一点は決して変わらずとても大事な
んだということがここから伝わってくるのです。
C, 「なぜか?それはみ言葉は真実であり力があるから」
それはなぜでしょうか。それはここでイエスがいう通りです。
「わたしについてモーセの律法と預言書と詩篇に書いてあることは、必ず全部成就する
ということでした」44節
と。なぜ、み言葉を通してなのか?それはまさに「み言葉にこそ神の力はある」から
です。そして、み言葉こそその通りになる真実な力であるからに他なりません。旧約聖
書はその記録です。天地創造は「神の言葉による」創造です。ヨハネの福音書の最初に
「はじめにことばがあった」とある通りです。そして神は言葉で世界とアダムとエバを

3 /

祝福し、言葉で二人を導きます。そしてアダムとエバの堕落は、神の言葉への疑いと否
定から生まれます。その後はどうでしょうか。アブラハムには神はその姿を具体的に現
わされるところから始まっていません。まず見えない神が言葉と約束を語り、アブラハ
ムを「まだ見ぬ地へ」遣わすでしょう。そして人間の常識ではあり得ないような言葉も
あります。100歳のアブラハムとサラに子供が与えられると。二人は全く信ぜず笑い
ます。それに対して「主にとって不可能なことはあろうか」というその通りに、主の言
葉こそ成就していくでしょう。アブラハムとサラが疑ったその思いの通りになっていっ
たのではありませんでした。あの不肖の息子ヤコブに対する神の愛と約束も言葉による
ものでしょう。そしてヤコブはまさに神の約束の言葉を信じて歩んでいき、神の言葉の
通りのことがヤコブの道にはことごとく起きました。モーセは、神を見ることができま
せんでした。しかし神は言葉を持ってモーセを遣わし、言葉を持って助け、言葉はその
通りに成就していきます。彼は最初は自分にはできない他の人を遣わしてくださいとさ
え言っています。しかし、まさに神はモーセを約束の言葉を与え導くでしょう。それは
、ヨシュアしかり、サムエルしかり、ダビデしかり、イザヤなどの預言者しかりです。
ダビデをはじめとする詩篇の沢山の記者もまさにそのことを沢山、証ししています。そ
れは新約聖書でも全く同じで、まさに福音書で見てきたこともパウロの手紙も、み言葉
はその通りになる、真実な言葉であるということであったのです。そのことで一貫して
いるのです。それと変わることなく、イエスはここでもその大事なことへと弟子たちを
向けさせようとしている。そして、同じように、2026年5月を生きる私たちをもそのみ
言葉こそ真実で力があるということへと向けさせようとしているのです。
3、「「イエスが心を開いて」とある」
事実、神であるイエスは私たちに対しても、「イエスの方から」「神の方から」の恵
みの大原則を決してやめません。今でもイエスは、私たちへ、イエスの方から、絶えず
、働いています。しかしその素晴らしい恵みは、何よりみ言葉を通して、み言葉の真実
な約束と、その通りになるその力を与え続けてくれており、それによって私たちを力づ
け、慰め、平安を与え、そして遣わしてくれているのです。
そしてみ言葉だけではありません。私たちがクリスチャンとして歩むために、み言葉
とともに私たちに力強く働く、私たちに与えられている聖霊による神の恵みがあります
。こう続いています。
「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて言われた。「次のよう
に書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の
赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。
エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」45−48節
「み言葉が大事だ」ーそう教えれる時に、ある人はこう言うかもしれません。「ああ
そうか。み言葉が大事だから、自分の力と意志の力で頑張って努力してみ言葉をもっと
悟らなければならない。み言葉を信じなければならない。」「〜しなければ行けない」
と。しかしそうではないことがここにわかるでしょう。弟子たちはイエスからそう言わ
れて、では「自分から自分の力でもっと悟らなければ」と言って自ら悟りに至ってはい
ません。ここに「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」と書いてあるで

4 /

しょう。何度も見てきた通りです。弟子たちは自らでは悟ることはできませんでした。
誰一人です。ここでもそうです。彼らもみ言葉が大事なのはわかったかもしれません。
しかしそのイエスの十字架と復活にある恵みの真理と意味を知り、それを信じ確信し喜
ぶ「信仰」は彼ら自身からではないのです。最初は同じように、彼らも律法的に「自分
が」となったかもしれません。しかしそれだと実は福音を全く悟っていないこと同じで
す。しかし事実は、み言葉を福音として、喜びとして、救いとして、悟らせ、心を開い
たのは、彼ら自身ではなくイエスであったことがここにはっきりと書いてあるでしょう
。「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」と。
み言葉を通してイエスは働きます。み言葉こそ力です。しかし私たちはそこで律法的
に捉える必要はありません。み言葉を通して、福音を悟らせ、私たちを喜びと平安を与
えその歩みを導いてくださるのもイエスなのです。「あなたがたが自らで、信じて、確
信を持って、頑張って努力して、喜びなさい、平安になりなさい」となると何か変でし
ょう。矛盾するでしょう。「頑張って、喜ぶ、安心する」というのはできない、成り立
たないことです。イエスはそのようには教えていないのです。み言葉を持って絶えず私
たちに働き、そしてイエスが心を開いて福音を悟らせてくださり、その福音によって私
たちに喜びと平安が与えられるのです。だからこそ信仰はやはり私たちの行いでも律法
でもなく神の恵み、賜物であり、神が与え、悟らせ、神が喜びと平安で溢れさせる、そ
れが賜物として信仰の素晴らしさであり、それはこのところ「イエス様が心を開いて」
ということにも一致するのです。
4、「何を宣教するのか。福音とは何か」
そしてそのことは47〜48節の言葉にも関わってくる恵みです。これは有名な宣教を示
唆する言葉です。ここでは「罪の赦しを得させる悔い改めが」とあるでしょう。つまり
これは「宣教の内容」「福音の内容」です。はっきりと「罪の赦しを得させる悔い改め
」こそ宣教すべきことであり福音であるとイエスは言っているのです。けれども現代は
「罪や悔い改めは現代の人々が聞きたくない暗い言葉、聞きたくない言葉だから語って
くれるな」と、教会から敬遠され語られなくなることはよくあります。その方が人が集
まるからとも言います。しかしそこで一体どんな福音を語っているのでしょうか。確か
に愛は強調されますが、どんな愛なのでしょうか。十字架と罪の赦しのない「神の愛」
などあるのでしょうか。しかしイエスははっきりと福音とは何か、証すべき宣教すべき
は何かを伝えています。罪の赦しを得させる悔い改めだと。十字架の事だと。そしてそ
の罪の赦し、十字架の証人こそ、教会であり、宣教なんだとイエスは言っているのです
。そうです。人間の理性や常識では、罪の赦しなんてどうでもいいことかもしれません
。人間の理性や感情では「罪などない」になっていきます。罪など聞きたくない暗いこ
とです。人間の好みにそのまま従えば、罪の赦しや悔い改めなどは排除したいこと、そ
れが普通かもしれません。ですから人間は罪人だからこそ、罪の赦しの奥義、十字架は
、私たちの常識や好みでは目を背けたい好ましくない脇に寄せたいこと、私たちが悟り
得ないことです。しかしだからこそ、ここで罪の赦しを得させる福音が証しされるべき
福音なのだと言っていること自体に、私たちの思いをはるかに超えた、私たち自身では
できない「イエスがなさる、イエスが悟らせ心開く」という大原則が貫かれていること

5 /

がわかるのです。イエスが心開いて悟らせてくださることだから、十字架の罪の赦しは
、本当に喜びと真の平安になります。そして「律法によって」ではなく本当に神から与
えられ湧き出てくる喜びと平安であるからこそ、それは義務的でも律法でもない、本当
の証し、本当の宣教、本当の隣人愛や良き行い、真の奉仕になっていくのではないでし
ょうか。イエスはそのことを伝えてくれています。そのことを保証するように49節の
言葉が続いています。
5、「み言葉と聖霊」
「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまで
は、都にとどまっていなさい。」
と。そう、聖霊を与える約束がここにきちんと伴ってるのです。イエスはこの後、天
に昇ります。しかし目に見える復活のイエスがいなくなったからと「イエスの方から」
は止まってしまうでしょうか。そうではありません。イエスの霊が与えられ主は共にお
られ「イエスの方から」はずっと続くでしょう。まさに聖霊は、み言葉に、そして信仰
に豊かに働くイエス様の霊であり、主なる神です。主イエスは天に昇られ目に確かに見
えなくなります。しかし「世の終わりまであなた方とともにいる」(マタイ28:20)と
約束されたように、昇天されてもイエス様は弟子たちに対して働いてくださり、それと
全く変わらず、聖霊は「聖霊の方から」み言葉を通して私たちの信仰にも働いてくださ
り、「イエスの方から」の恵みを続けてくださっているのです。それは「み言葉を通し
て、賜物である信仰に」なのです。ですから説教でみ言葉が語られている時、それは牧
師という罪深い人間を用いて、イエス様ご自身が私たちに語っている素晴らしい時です
。私たちを信じさせ、喜ばせ、安心させるためです。罪の赦しの福音を喜びと感謝を持
って証するように遣わすためにです。牧師はそのための罪深い道具にすぎません。ルタ
ーは錆びた斧だと言っています。錆びた斧を用いて神は宣教をされるのです。まさに人
に、つまり使徒達自身に力があったのではなく、父子聖霊なる神が働き宣教をなさる。
だから約束のものが与えられるまで「都にとどまっていなさい」なのです。そのように
イエスが私たちに働いて、イエスのみ言葉に力があるからこそ、み言葉によって罪の赦
しの福音の奥義が私たちに開かれ、私たちに真の喜び、真の平安が満ち溢れるのです。
それはイエスしか与えることができません。その約束があるからこそ52〜53節にあ
る通り、約束の聖霊を受けるまでエルサレムに止まりながらも宮で非常な喜びに満たさ
れ、賛美に溢れて主のなさることを待っていたのです。その信仰、その喜びはどこから
来るのか?賛美はどこから来るのか?パウロはこう言っています。
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことば
によるのです。」(ローマ10:17)
と。今日もイエス様は宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心
して行きなさい」と。この週も福音をそのまま受け取り、平安に満たされて、ここから
遣わされていこうではありませんか。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリス
ト・イエスにあって守るように         アーメン

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