2025年8月31日(日)聖霊降臨後第十二主日 主日礼拝 説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ルカによる福音書14章1、7〜14

「神の前で自分を低くするもの」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、「上席を選んで座る人を見て」

 今日の箇所は、14章は1節を見てわかる通り、イエス様がパリサイ派のリーダーの家に招かれたとことから始まっています。7節以降が今日の箇所になりますが、イエス様は、その食事につく招かれた客達のある姿を見て例えを語るのです。7節からですが

「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。」

 その食事には、イエスだけでなく、多くの他の人々が招かれていました。その招かれた人々は「上席を選んで」座ったのでした。そこにはそのようにユダヤ人社会で、ある程度、地位が高い人々が招かれていたのでしょう。そのような食事の席でした。ユダヤ人社会は非常に厳格な階級社会ですから、そのような食事の席についての決まり事には厳しいものがありました。偉い人、階級の高い人が上席に座るのです。しかしここで招かれていた人々は、その上席を「自ら

「選んで」座っているとありますから、彼らは周りの人からだけでなく、自分自身でもそうだと認めていて、自分は当然、その上座に座るものだと思って座っていることを、このことは意味しています。そのような情景を見て、イエス様はある例えを話すのです。それは婚礼の披露宴に招かれた話です。

2、「婚礼の披露宴のたとえ」

「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。」8-10

 イエス様は婚礼の披露宴に招かれた場合を想定し述べます。その時にもしそのように最初から上席に座ってしまったら、後で、自分より身分の高い人が来た場合には、その席を動いて譲るように言われ、動かなければいけない。その時は、恥をかいてしまうというのです。これはこのパリサイ派の食事の席で上席を選んで、自分たちは当然そこに座ると思っている人に対して話しているので、そのような例えにあるような場面が起こった場合には、まさにその高いプライドが損なわれるのです。イエス様は、そのような上席を選んで座る人のプライドの高さと、そのプライドは壊れやすく脆く恥をかきやすいものであることも暗に示唆しているのです。ですから、最初から上席に座ってはいけないというのです。むしろ10節ですが、招かれた席では、末席に座りなさいと言います。そうすれば、今度は逆のことが起こるというわけです。招いたホストは、「もっと上席にどうぞと言うでしょう」と。そして面子をつぶすことはないのだと。

 この例えには、イエス様独特の皮肉が込められています。ここにある「恥」とか「面目」とかという言葉は、まず、そのような上席を好んで座る人々の心を大部分、占めているものがプライドであることをイエス様は分かっていることを意味しています。それが上席を好んで、選んで座ることに現れているのですが、それは、絶えず恥や面目を気にし、プライドを大事にし生きて行動している彼らの姿であることをイエス様は例えているのです。

3、「単なる道徳の教え?」

  けれども、イエス様がこの例えを話すのは、ただ「末席に座りなさい」「謙遜でありなさい」「プライドにこだわるな」等々、ただの教訓、ただのあるべき態度や行動、あるいは望ましい道徳や倫理を伝えたいのでしょうか?あるいはただ、彼らを皮肉って批判することがその言葉にある本当の目的なのでしょうか?そうではないでしょう。実はここには、それ以上のことが伝えられていることを、教えられるのです。この例えの最後に、イエス様は、実に意味深い言葉で結んでいます。

A, 「高い、低い」

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」11

 この言葉だけだと確かに人生の教訓めいたもののにも聞こえます。しかし果たしてそうなのでしょうか?ここには「低くされる。高められる」、「高い、低い」とあります。しかしそれは単に人間社会の上下関係のことを言っているのでしょうか?イエス様の神の国にあって、階級があるのかどうか、身分によって上座や末席などがあるかどうか、それはわかりません。そのようなことは一切、書かれてはいません。有名な記録として、弟子のヨハネとヤコブの兄弟は、お母さんに頼んで、神の国が来たら、自分たちをイエス様の右と左において欲しいとお願いした場面があります。しかし、その時も、イエス様は彼らに、それは父なる神がお決めになる、つまり全ては神の御手にあることだと、イエス様は答えただけでした。それは人の側では、全く心配する必要がないという意味でした。

 では、このところでイエス様は何を伝えたいのでしょうか?イエス様はここでどのような神の国を示唆しているのでしょうか?まずイエス様は、この11節の言葉で、そのような世の人々や、特にパリサイ人や上席を好んで座る人々が気にすこととは、むしろ「逆」のところにこそ神の国はあることを伝えようとしていると思われます。それは、神の国にあっては、階級とか身分とかではない、上座かどうかでもない。そして、プライドや恥や面目、面子によって一喜一憂するようなものでも、もちろんない。そのようなことはあろうがなかろうが、神の国にあって重要なことではない、他に最も大事なことがある、として、イエス様は神の国の真理をこう言うのです。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 みなさん、どうでしょう。この「高くするとき、低くされ、低くするとき、高くされる。」ということです。確かに、巷でも、高ぶって自分で上座に座るとき、低くされることがあるわけです。しかしこれが神の国のことであるときどうでしょうか?しかも何より「イエス様が真っ直ぐとエルサレムに目を向けて進んでいる」時です。そのことを踏まえるならば、このイエス様の言葉は、実はただ「人と人との間の階級や位」「人と比べての高いか低いか」あるいは、ただの道徳や「あるべき論」以上のことをイエス様はここで示唆しているでしょう。

B, 「神の前」

 どういうことでしょうか?まずイエス様はこの言葉で、神の国は、そのようなこと「人の前」以上に、「神の前」つまり「神と私たち一人一人との関係」を何より指し示しているのです。先ほども触れました。このところで「上座を選んで座る人」のその席は、自他共に認めて当然のように座る席だった、のかもしれません。そのようにいつも上座に座っていて、日常的に決まっていた席だったからこそ考えもせずにそこに座ったのでしょう。おそらく、それまで例にあるような、自分より地位の高い人がやってきたので席を譲ってあげてくださいというようなこともあまりなかったからこそ、そこを当然のように選んで座ったとも言えます。しかし、実は、そのように彼らの日常ではあまりあり得ないこと、つまり、自分では気づかないことを、イエス様があえて「もし〜」と言うのは、その彼らのプライド、高ぶりが、「人の前」以上に「神の前で」はどうであるのかということこそ、彼らはこの例えで問われているということなのです。

 皆さん、イエス様はここであえて「婚礼」と言っています。「婚礼」はイエス様の場合、約束の救い主の到来と神の国の実現を示しています。ですから、この例えは実は、最高の上座は花婿であるご自身を示唆していると言えるでしょう。そう、これは単なる食事の例えではない、それを超えた、救いの到来の例えとして、まずイエス様は語っているのです。しかし彼らはこの救い主がこられた救いの時でありながら、そもそもイエスを救い主であるとは信ぜず常に監視の目で見ています。そしてイエスを招いておきながら、まさに神の御子が、救い主が、花婿が来られたのに、そもそもそうだと信じていないのですから、神も見えていなければ、人の間の、人の前の自分のことしか見えていないのです。だからいつものように上座に座りました。まさに真の上席に座るお方が来ているのにです。彼らは救い主としてのイエスが全く見えていないのです。もちろん、イエス様自身は自分が上座に座りたい、上座を譲れと言いたいのではありません。しかし、彼らの神の前も神の約束や言葉も忘れ、どこまでも「人の前」と自分しか気にしていない、人と比べての、自分の地位を誇る高ぶりやプライド、自分を高くしようというその在り方によって、目の前の救い主は愚か、神の前にある自分自身の現実さえ気づかないで、自らを盲目にしてしまっている現実が浮かび上がってきます。結果として、「人の前」では自分を高くしようとしていながら、まさに神の前で小さなものとなっているという哀れな事実が、明らかになってくるのです。しかし、それは、決してただパリサイ派だけを示しているのではありません。実はこれは「人の前」ばかりに囚われる時に、「神の前」の自分を見失う、誰でも陥る現実を、イエス様は私たちにも示しているのです。

 しかし、繰り返しますが、すでにエルサレムへと真っ直ぐと目を向けて進み、語っているイエス様です。そのイエス様は、この言葉で、単なる「こうあるべき」という道徳や律法のメッセージだけを伝えようとしているのではないのです。

4、「誰でも高ぶる者は低くされる」

A, 「神の前の現実:罪人」

 みなさん、実に、このようにイエス様のみことばから「人の前」と「神の前」を示される時、今日も変わらず、何より、聖書が伝え私たちに気づかせようとしている大事な事実にやはりイエスは立ち返らせ導いていると言えるでしょう。そのまず一つは、「神の前」では、パリサイ人も、世界の王や偉人や聖人も、私たち、そして私自身も、皆等しく、一人一人、どこまでも罪人であるという現実です。そして何より神の前に高ぶる罪人であるという事実です。神の前に「義人はいない一人もいない。」とある通りの現実です。私たちの神の前の現実は、救われても、それでも尚も、どこまでもその神の前を忘れてしまい、神の前に高ぶってしまうものではないでしょうか。そしてただ「人の前」ばかりを気にして、人と比べて、いつでも自分を王座に座らせたい、あるいは王座に置いて考えてしまう自己中心な存在であることを私自身気付かされます。その自己中心さが、私たちの罪深い歩みの糧となっています。だからと律法として「低くなれ」と言われても、自分自身の力で、本当に、完全に、誰よりも、低くなるなんてことも、私たちは誰もできない現実もあるでしょう。むしろ自分は神の前でも人の前でも、低くなれる、低くできている、自分へ謙虚で謙遜であると思っているなら、実はそこに既に高ぶりと愚かさがあるでしょう。神の前の高ぶりは、何より私自身にもあることであり、ここで示される上席を好む人々の姿は私自身であることを教えられるのです。

 しかしそのように、今まさにそうであるように、聖書から、神の言葉を通して、自分の神の前の高ぶりを気付かされる、その時にこそ、私たちは初めて、神の前の罪の現実を気づかされ、神の前に膝まずかされるのではないでしょうか。そのような神の前の現実を示され、罪を刺し通され、神の前に立つことができない自分であることを知らされ、ただ「憐れんでください

と言うことしかできなくなるのではないでしょうか。そうなのです。その時、まさにこの言葉がそこ実現しているでしょう。「高ぶる時こそ、低くされる」。

B,「低くされる」

 繰り返しますが、これは単なる道徳のメッセージではありません。単なる道徳であれば、説教壇から「自分を低くしなさい。高ぶってはダメですよ、自分で低くすれば、神に受けいられますよ。祝福されますよ」で説教は終わり、律法による派遣で終わりです。つまりそのような自分で果たさなければいけない律法の重荷を背負わされ遣わされて礼拝は終わりです。しかし真のキリスト教会の説教はそうではありません。確かにそこには私たちの高ぶり、罪を示す律法ははっきりとあります。しかし「低くされる」とあるように、それは「自ら低くなる」という意味ではありません。神が、私たちにまず最初に聖書の律法の言葉を持って、神が、教え、神が高ぶりの現実を示し、罪を示すという意味に他なりません。つまり、そのようにこの言葉は、「私たちが低くならなければいけない」と言う道徳や律法ではなく、「神が」まず律法の言葉で、いつでも高ぶる私たちを「低くする」ということを教えているのです。

C,「真に低くなられたお方」

 しかし、イエス様のメッセージは決して律法で終わりではありません。律法が最後の言葉、派遣の言葉でもありません。まさにここでも「へりくだる者は高められる。」と続くでしょう。そのように、神によって低くされ、「神の前」の圧倒的な罪人の現実を私たちが示され知らされ、謙らされるからこそ、そこに、それで終わりではない、もう一つの素晴らしい神の前の事実に私たちは導かれるでしょう。それがイエス様の何よりの目的でありメッセージの核心です。それは、まさにその罪人のため、私たち一人一人のために、まさにそんな私たちを、この十字架によって、その罪から救い出すため、私たちの代わりに死んで、罪の赦しを与えるためにこそ、イエス様は来られた。私たちのために十字架にかかって死んでよみがえられた。その十字架のイエス様の義のゆえに私たちは今日もその罪を赦される。その福音の事実、現実です。

 実に、その福音に、イエス様の真の目的とメッセージは常にはっきりしています。先ほど紹介した、マルコの福音書の10章では、子供のようになるのでなければと、低くされることを教えていますが、そこで、イエス様は、ご自身こそ仕える者となるために来たと言って、それは十字架によってであると示しているのです。そう、まさに「低くされる」、あるいは、最も小さい者となりなさい、と言う言葉は、単なる道徳のメッセージではない、さらには、私たちを低くするだけでもない、何よりその言葉の実現者が、イエス様ご自身であることこそイエス様が伝えているということが示されています。つまり「低くなる」「仕える」は、「私たちが」ではない、何より、イエス様が、私たちのためのこの十字架において全て成就しているということが何よりも気付かされるのです。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」マルコ1045

5、「低くされ、高くされる」 

 イエス様こそがまさにこの十字架において、私たちのためにどこまでも低くなられて死にまで従われました。けれども神は、その死にまで従われ、究極まで低くなれたイエス様を、復活させ、そこに神の栄光があらわされました。そこにこそ神の国、真の勝利と救いがあることをイエス様は証しているのです。実にその十字架と復活の福音の力こそ、イエス様が私たちに与えてくださった最高の天の宝ではありませんか。そして、その福音こそが、高ぶっていた私たちが低くされたときに「へりくだる者は高められる。」と言うそのことを信じる私たちに実現する力なのだと気付かされるでしょう。十字架の横に一緒に処刑された重罪人が、自分は罪深いと認めさせられ、神の前にへりくだらされ、ただ憐れんでほしいと願った時、そこに罪の赦しがイエス様から与えられて、天国の約束があったでしょう。低くされたもの、謙らされたものを神はいつでも高めてくださいました。それは私たちにおいても同じ約束なのです。私たちは皆神の前にあります。しかし神の前に高ぶってしまう罪深い存在です。そのことを日々教えられ、刺し通され、苦しむものです。それは痛みの伴なうことなのですが、しかし、それは神が私たち一人一人を低くするために働いているのです。それはクリスチャンであれば、誰でも経験することであり、日々経験することです。聖霊が与えられている私たちはますますそのことに敏感になります。ですから悔い改めは日々当然あるのです。ないわけがない。しかし、それは聖霊とみ言葉が私たちに日々生きて働いている証拠なのです。なぜなら、そのように低くされ、謙るようにされるからこそ、イエス様によって罪赦され救われる。罪を刺し通されるからこそ、十字架が私たちの罪の赦しであり、それは闇ではなく輝きでありいのちであるとわかる。そのように、その十字架のゆえに、日々罪赦されるからこそ、日々、イエス様が与えると言われた平安が私たちを支配するのです。そのように、私たちを、最終的には、何より高めるためにこそ、イエス様は私たちを日々、まず最初に低くされるのです。キリスト者の生活は、日々、その連続であり、そのことを通して、イエス様は私たちの信仰を日々、新しく、強めることによって、高くしてくださるです。

 そのイエス様はその約束の通り、今日も悔い改めイエス様の前にある私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。ぜひ、罪の赦しを受け、安心して今週も遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

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