2023年度の主題と主題聖句

主題 「使徒的伝統に忠実で相互に交わり聖餐に与り祈る教会になろう。」

主題聖句 「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(使徒言行録2章42節)

1月29日に開かれた教会の年次総会にて、宣教師が提案した新しい年間主題と年間聖句が採択されました。以下は提案の内容です。

主題の趣旨

昨年度の主題は「イエス様と一緒に最終港を目指して、この世という海の航海を続けよう」でした。主題聖句は詩篇107篇30節「彼らは波が静まったので喜び祝い、望みの港に導かれて行った」でした。それらの趣旨は、キリスト信仰者はこの世という海を航海する者であり、復活の日に現れる神の国という最終港を目指して航海するのだ、途中で嵐に遭遇する時もあるが同じ船にはイエス様も乗っているので心配ないのだ、ということでした。

ひょっとしたら、これはキリスト信仰者の個人的な人生の歩みを強調してしまう主題だったかもしれません。私としては、個人的な歩みと一緒に、船に乗っているということで旅の同伴者と一緒に航海するという、教会員の連帯の意味も含ませたつもりでした。しかしながら、この一年を振り返ってみると、パウロが強調する、教会はキリストを頭とする一つの体で、教会員は体の部分部分である、ということが全体的にまだまだ改善の余地があると思いました。

これは、教会員は一個人であることをやめてベタベタくっつけという意味ではありません。信徒一人一人は皆それぞれ異なる境遇や課題や召命を神から与えられて、それぞれ最終港を目指しています。誰も同じ境遇や課題や召命を持っていません。しかし、一見バラバラに最終港に向かっている信徒たちは実は全員、教会での礼拝や学びの時を通して同じ「使徒の教え」を受けています。礼拝中や礼拝外で交わりを持ちます。礼拝の中で神聖なパンとぶどう酒を他の信徒と同時に一緒に頂きます。礼拝中や礼拝外で祈る時も、自分自身や世界・社会のためだけでなく同じ教会に属する者のためにも祈ります。これらのことは、キリスト信仰者が信仰者である所以のものです。教会員はベタベタでもバラバラでもなく同じ最終港を目指して進んでいくのです。

境遇や課題や召命を異にしながらも、イエス様が守り導いてくれる「スオミ教会」丸という船に乗って一緒に航海しているという視点を今年の当教会での信仰生活の中心に据えることを希望します。それで主題聖句は「使徒の教え」、相互の交わり、聖餐式、祈りの4つのポイントを述べている使徒言行録2章42節とし、主題は「使徒的伝統に忠実で相互に交わり聖餐に与り祈る教会になろう」を提案します。

以下は参考までにということで、4つのポイントについての注釈です。神学的な話もありますがわかりやすく記します。

① 「使徒の教え」とは、イエス様の教えと行動それに彼の十字架の死と死からの復活を目撃した使徒たちの証言が土台にあります。使徒には、目撃が復活後だったパウロも含まれます。これらの使徒たちが目撃したことに基づいて旧約聖書を理解し教えたことが「使徒の教え」です。この「使徒の教え」は新約聖書の使徒書簡集の中にあります。「使徒の教え」を凝縮して箇条書きにしたものが「使徒信条」です。キリスト信仰は「使徒の教え」を受け継ぐ信仰です。使徒的伝統に立つ教会がキリスト教会です。教団や神学校によっては、例えば、復活などないと教えるところもあるそうですが、そうなるとそれはもう「使徒の教え」を受け継いでおらず、使徒的伝統にも立っていないことになります。

新約聖書には使徒書簡集の他にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書があります。それらは西暦70年の後に完成したというのが定説です。使徒書簡集の大半は70年の前に書かれました。ということは、福音書を書いた人たちは「使徒の教え」を受け入れてその視点に立って書いたことになります。実は福音書には4つの他にも、トマス、ユダ、ペトロ等の福音書もありました。それらが聖書の中に入れられなかった理由は、「使徒の教え」に立っていないと判断されたからでした。そういうわけで4つの福音書は「使徒の教え」というフィルターにかけられた書物と言えます。それなので福音書を理解したければ「使徒の教え」なしでは理解できないことになります。そのため、「パウロはこう言ったが、イエス様はそうは言わないだろう」式の議論は不毛で使徒的伝統からの逸脱です。

② 「相互の交わり」は、まず礼拝の中で共に罪の告白をし赦しの宣言を受ける、共に御言葉とその説き明かしを聴く、共に信仰告白をし、共に賛美の歌を歌い、共にパンとぶどう酒に与り、共に祈り、共に祝福を受けることにあります。礼拝の後でコーヒータイムや昼食(現在コロナで中止)の時を持ち、共に礼拝の恵みに与った者同士として、一週間お疲れさまでした、新しい一週間お互い頑張りましょう、また来週元気でお会いしましょう、と労い励まし合うことにあります。この他にも「交わり」の形はあります。それについては別の機会にお話しします。いずれにしても、まずこの2つの、礼拝の交わりと礼拝後の交わりが出来ていないと他の形は意味をなしません。

③ 「聖餐」のパンとぶどう酒は、洗礼を受けて復活に至る道を歩む者が挫けずに歩めるための霊的な栄養です。洗礼を受けても人生上手くいかない、もう一度受け直したい、などと考える必要はありません。罪の赦しの宣言が神からの再出発の保証です。聖餐は再出発した者の神からの栄養物です。キリスト信仰者はこれらを何度も何度も繰り返して受けていきます。

聖餐を受ける時、天の神と結びついている一人ひとりが聖卓の前に横に並びます。それはまさに、境遇も課題も召命も異なる信徒たちが一緒になって復活の日の神の国を目指して歩んでいることが見える瞬間です。

(追記 私たちはルター派のキリスト教会です。ルター派の聖餐式の基本的考え方については、2月19日の礼拝説教「この地上の世界と天の御国が接するところ」で教えましたので、ご確認下さればと思います。)

④ 「祈り」とは、個人的に行う祈りの他に信徒同士で行う祈りもあります。礼拝の中に「教会の祈り」があります。いつも教会員の皆様から祈りの課題を募っていますが、まだまだ少ないです。せっかく会衆が一丸となって神のみ前に課題を打ち明ける時ですので、活用すべきと思います。「教会の祈り」で漏れてしまったものがあるという時は、礼拝後の交わりの時にお伝え下されば、歓談一時立ち止まって皆でお祈りします。皆様心の準備が出来ていると思います。ただ、もし課題がとても重いものだったり、簡潔な形で伝えることが難しければ、宣教師が別途、個人的に話を伺って一緒にお祈りします。是非ご活用下さい。

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