説教「時は満ち、神の国は近づいた」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書1章14節-20節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.ガリラヤ湖の岸辺をイエス様が通りかかる。そこで、漁師の兄弟ペトロとアンデレが網を投げて漁をしているのに出くわす。イエス様が、私について来なさい、お前たちを人間をとる漁師にしよう、と声をかけると、二人はすぐに網を捨てて従って行った。さらに進んでいくと、今度は漁業経営者ゼベダイが二人の息子ヤコブとヨハネさらに雇われ漁師たちと一緒に舟の中で網の手入れをしているのが見えた。イエス様はすぐこの兄弟にもついて来るようにと声をかけた。すると、これもまた、父親と雇い人たちを舟に残して従って行った。

これは一体何なのでしょう?イエス様が声をかけると、かけられた人はまるで自動反応のように従って行ってしまいます。このような自動反応的なつき従いは他にもあります。マルコ2章14節をみると、取税人のレビが税を取り立てる場所に座っていたところをイエス様について来なさいと言われて、そのまま立ち上がってついて行きました。同じ出来事を記したルカ5章28節をみると、レビは「全てを捨てて」ついて行った、とあります。二組の漁師の兄弟たちも、自分たちの生業や家族を捨てるようにしてイエス様につき従って行ったのであります。

さて、このところフランスのテロや地下鉄サリン事件の裁判の新しい動きがニュースを騒がしました。そのような時勢ですので、本日の福音書の箇所は読みようによっては、若者が何もかも捨てて宗教的な指導者に従って行ったと受け取られ、やっぱり宗教は怖い危ないという反応を持たれる向きが出るかもしれません。しかしながら、時事的な問題や出来事を土台にして宗教とはこういうものだと結論してしまうと、今度は聖書が伝えようとしていることが見えなくなってしまいます。時事的な問題や出来事はそれはそれとしてひとまず置いといて、ここでは聖書が伝えようとしていることだけに焦点をあて、その伝えようとしていることをわかるようにしていきたいと思います。それがわかったら、そこから時事的なこと周りの世界のことをどう考えていったらよいか、という判断の土台になればと願う者です。

 

2.本日の福音書の箇所の記述を見ると、イエス様とつき従って行った人たちとの間にはなんのやり取りも交わされていないことに気づかされます。「ついて来なさい」という一言でついて行ってしまいます。本当に何か不思議な力が働いて、声をかけられた人が次々と吸い取られていくようです。マルコ福音書とマタイ福音書の記述は、流れとして、イエス様はまず弟子をある程度集めてから奇跡の業や教えの宣べ伝えを大々的に行っていきます。そうすると、最初の弟子たちは、イエス様の教えも奇跡の業もまだ知らないでつき従って行ったことになります。本当に何か不思議な力が働いたとしか言いようがありません。

こういう場合、説明の仕方としてよくあることですが、4人の漁師の若者たちのつき従いを合理的に説明しようと、その時彼らがどんな社会的心理的状態にあったかを推測することがなされます。例えば、ペトロ、アンドレ、ヤコブ、ヨハネの4人は、平凡な漁師の暮らしに満たされないものを感じる日々であったとか、特にヤコブとヨハネは雇い人を持つほどの裕福な経営者の跡取りとして安定を約束されていたが心に空白を感じていたとか、まずそういうことにして、そういう時に突然声をかけてくれた人物を見ると、その眼差しに何かただならぬものを感じて、この人について行けば、きっと満たされないものを満たしてくれて本当の人生を全うできると確信して、それで全てを捨ててついて行った、という具合です。

私は、4人の若者の内面は別に分析する必要はないと思います。第一、福音書にはそのことについて何も書かれていません。書かれていないというのは、福音書記者マルコにとっては、別に知らなくても書かなくてもよいことだったのです。マルコにとっては、イエス様の呼びかけの声の中に聞く者を有無を言わせずにつき従わせる力があったことを知らせるだけで十分だったのです。

それでは、イエス様の呼びかけの声の中に聞く者を有無を言わさずにつき従わせる力があったという、その力についてみていきたいと思います。

 

3.

 最初に、イエス様が公けに活動を始めた頃の様子をマルコの記述をもとに整理してみましょう。そうすると、イエス様の不思議な力のこともわかってきます。

 イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、神から「お前はわが愛する子である」と神の子の認知を受け、神の霊すなわち聖霊を注がれました。こうしてイエス様は神のひとり子としての自覚をもって、彼がこの世に送られた目的である人間救済計画の実現に乗り出しました。公けに活動を開始する直前、イエス様はユダヤの荒野で悪魔から40日間試練を受けてこれに打ち勝ちます。その時、洗礼者ヨハネが、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスによって投獄されました。領主の不倫問題に口をはさんだことが原因でした。まさにその時、イエス様はユダヤ地方からガリラヤ地方に乗り込んで活動を開始します。その時、彼が公けに宣べたスローガン的な言葉が「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」でした。そのガリラヤでの活動の最初の頃に4人の漁師を弟子にして、ユダヤ教の会堂シナゴーグで教えを説き始め、さらに人前で奇跡の業を行い始めたのです。

「時は満ち、神の国は近づいた」というスローガン的な言葉は、イエス様の活動と人について端的に言い表しています。「時は満ちた」の「時」とは、ギリシャ語でカイロスκαιροςという言葉が使われています。これは何か特別な事が起きる時、定められた時を意味し、単に時の流れを意味するクロノスχρονοςと区別されます。つまり、「時は満ちた」というのは、起きるべきことが起きる時がついに来た、機は熟した、ということであります。この「時」が洗礼者ヨハネの投獄の時と重なったのは、これは、ヨハネがもはや人々に「罪の赦しに至らせる悔い改めの洗礼」を与えることができなくなった、これからはイエス様にバトンタッチして「罪の赦し」そのものを確立してもらう段階に入ったということであります。洗礼者ヨハネは悲劇的な運命を辿りますが、主の道を整える役割は果たしたのであります。

「神の国は近づいた」というのは、どういうことでしょうか?「神の国」とは「天の国」とか「天国」とも言い換えられます。言葉だけからみると、空高いどこか、ないしは宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれてしまいます。そうではなくて、「神の国」とは、今私たちが目で見たり手で触れたりして、また数学や物理学を使って測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定したり確定できない世界です。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られたのです。そうすると「神の国」とは、私たちの世界からすれば見えない裏側の世界みたいですが、神から見たらこちらの方が裏側でしょう。神は、天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えられた後、あちら側に引き籠ってしまうことはしませんでした。あちら側から絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。その中で最大の関わりは、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間救済計画を実現したことでしょう。

ところで、旧約聖書のイザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書の多くの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26-29節など)を見ると、今あるこの世は滅びるという終末についての預言があります。その時、神は今ある天と地にかわって新しい天と地を創造し、そこで唯一残るものとして現れてくるのが「神の国」です。そうすると、「神の国」とは天国のことだから、天国はこの世の終わりに現れてくるということになり、あれっ、キリスト教って死んだらすぐ天国に行くんじゃなかったの?という疑問が起きると思います。実はそうではなく、「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活ということが起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることなのです。このことは、普通のキリスト教会で毎週日曜日の礼拝で唱えられる使徒信条や二ケア信条でもちゃんと言われています。そうなると、じゃ、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きると思います。実はこれも、何度も教えたところですが、ルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠っているのであります。復活の日に復活の体と命を与えられて蘇らせられるということであります。

このような「終末」とか「新しい天地」とか「死からの復活」などが大黒柱になっている死生観は、日本の仏教や神道と大きく異なっています。仏教でしたら、亡くなってから33年間の修行のあと極楽浄土に入れ、神道でしたら、郷土ないし日本国全体にとって意味のある人となれば神になって神社に祀られることなります(そうすると、亡くなった人によっては、居る場所が極楽浄土と神社が指定する場所の二つを持つということも考えられます)。

話しが脇道にそれましたが、それでは、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、彼は終末が近づいたと言っていたのでしょうか?そうだとすれば、イエス様の時代はおろか、あれから2000年たった今でもまだ天と地はそのままなので、イエス様の言ったことは当たっていなかったことになります。しかし、イエス様は少し違うことを言っていたのです。

どういうことかと言うと、イエス様の行った奇跡の業が、神の国が近づいたことと関係があります。イエス様は無数の奇跡の業を行いました。大勢の難病や不治の病の人を癒したり、悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、枚挙に暇がありません。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげたという人道支援の意味もあったでしょう。また、自分は神のひとり子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上にいて困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜそうしないで、さっさと十字架の道に入って行ったのか、という疑問が起きます。

イエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せた、味あわせたということがあります。神の国とは、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神によって労われるところです。神の国はまた、同じ黙示録21章4節で言われるように、神がそこに迎え入れられた者の目からことごとく涙を拭い取り、悲しみも嘆きも労苦もないところです。つまり、この世の人生で被った不正義や損失が最終的に神の手によって償われるところです。このように最終的に労われたり償われるところがあるので、キリスト信仰者というのは、この世ではとにかく神の御心に従って、神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛して生きようとする。その時、人の目から見て無意味で取るに足らないことでも、神の目から見ればとても意味のある素晴らしいことである、と知っているのです。それゆえキリスト信仰者は、何かをなそうとする時、神の御心に沿うようにしよう、神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛するようにしよう、そうすれば結果は期待外れでも無駄だったとか無意味だったとかいうことは何もない、とわかっているのです。ルターが言った言葉として伝えられていますが、「明日この世が終わると知っていても、今日リンゴの木を植えて育て始めよう」というものがあります。まさにそういう心意気が生まれるのです。

このように神の国とは、神の正義と栄光が貫徹されていて、そこに迎え入れられた者はこの世で受けられなかった償いと労いを最終的に全部受けられて、あらゆる害悪や危険そして死そのものがなく、永遠に平和と安心の中で生きられるところです。イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹というものもなく、自然の猛威に晒されるということもない状態が生まれました。つまり、神の国そのものがイエス様の一つ一つの奇跡の業を通して人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は神の国と共にあって歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになって目に前に現れて、「私について来なさい」と言ったら、人間は抵抗できるでしょうか?イエス様の呼びかけの声の中に聞く人を有無を言わさずにつき従わせる力があったというのは、まさにここにあります。病気が治れと言われて健康に変わったように、悪霊が出て行けと言われて出て行ったように、嵐が静まれと言われて静まりかえったように、「ついて来なさい」と言われたらついていくしかなかったのです。イエス様の眼差しとか声の調子の中に何か満たされないものを満たしてくれる何かを感じたとか、そういう感傷的なレベルの話ではないのです。イエス様の呼びかけの声の中には、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた神の力が働いていたのです。

 

4.

 そういうわけで、イエス様がこの世で活動していた時、神の国が彼と共にあったということ、彼の行った奇跡の業は、まさに神の国の実在性を示すものであったということがわかりました。イエス様に呼びかけられて自動反応のようにつき従って行った弟子たちも神の国の力を及ぼされたので、これも奇跡の業と言ってもよいでしょう。

 ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神との結びつきを失って神への不従順と罪を代々受け継いできました。人間は、そのままの状態では神聖な神の国に入ることはできません。人間は神聖な神とあまりにも対極なところにいる存在だからです。罪と不従順の汚れが消えなければ神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしても、宗教的な修行を積んでも、人間は心と体と魂に染みついている罪と不従順を消去することはできず、自ら神聖な存在に変身することはできません。

人間が神との結びつきを回復できて神の国に迎えられるように問題を解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。神は、人間が罪と不従順の汚れを自分で除去できない以上、その罰を全部自分のひとり子に請け負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。私たち人間は、まさにイエス様が十字架で流した血を代価として、罪と不従順の奴隷状態から買い戻されたのです。神は、私たちの命をそれくらい価値あるものと見て下さったのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を今度は死から復活させて、死を超えた永遠の命に至る扉も人間のために開かれました。私たち人間は、これらのことが自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の身代わりの犠牲に免じて罪が赦されるということが本当に起こり、神との結びつきが回復して、見事に神の国に迎え入れられるのです。私たちのために御自分のひとり子も惜しまなかった愛と恵みの神のみ名が永久にほめたたえられますように。

5.

 最後に蛇足ですが、本説教の初めで、時事的な問題や出来事のために、宗教に関わることで否定的な印象を生み出す可能性があると申しました。イエス様に呼びかけられた若者が有無を言わない状態でつき従って行ったというのは、何か宗教団体や宗教運動のいかがわしい勧誘を想起させてしまうのではないかと。しかし、イエス様がいわゆる教祖とか幹部などという宗教指導者と全く異なる方であることは、本説教からも明らかになったと思います。イエス様とは、神の国が一緒について回り、また天と地と人間を造られて人間一人一人に命と人生を与えた神の力が働いた方で、まさに神から送られた神のひとり子でした。それのみならず、最後はそうした神的なものを一切かなぐり捨てて十字架の道に入られた方でした。人間を通して生まれて人間の体を持っていたので、人間と同じ痛み苦しみを味わえる者として、本当に痛みと苦しみを味わうことになると知りながら、あえて十字架の道に入られたのです。そうしないと、私たち人間はいつまでたっても神との結びつきを回復できず神の国に入ることができないからです。手足を五寸釘で打ちつけられて、わき腹をこれでもかと槍で刺されて、本当に痛みと苦しみの中で死に絶えました。そして三日後、天地創造の神の力によって、復活の体と命をもって復活させられました。このような方に、宗教指導者という名称はあてはまりません。

 それから、イエス様に「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われて弟子になった若者たちはどうなったでしょうか?彼らは宗教団体の教祖とか幹部だったでしょうか?彼らの使命はと言えば、それは、イエス様と始終共にいて、彼の教えと業をつぶさに見聞きすること、そしてイエス様から受けた教えと授かった力をもって宣教することでした(マルコ3章13-15節)。彼らがイエス様と行動を共にしたことが、後に目撃者としての彼らの証言を生み出すことになりました。そして、彼らの迫害を顧みない命を賭した証言を聞いて、イエス様を知らなかった人たちが彼を救い主と信じるようになる、そういう連鎖反応が起こっていきました。その集大成として聖書の新約の部分ができあがったのであります。弟子たちの証言と旧約新約双方の聖書がなければ、誰も信仰を持つことができず、主が扉を開いた神の国にも入れません。そういうわけで、イエス様は神の人間救済計画そのものを実現しましたが、弟子たちは実現された救済が国と時代を超えて多くの人たちに及ぶようにする役割を担ったのであります。

 その時、彼らはどんな教えをひろめたでしょうか?それは皆様に使徒書簡をしっかり読んでいただくようお願いしたく思います。時事的な問題や出来事からキリスト信仰を捉えようとする向きには、イエス様の十字架と復活というものが本当はどんな倫理道徳を生み出すのか、一つの例として使徒パウロの次の言葉を見てみるとよいと思います。これはほんの一例です。

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12章9-21節)

 またパウロは、聖霊を受けた信仰者は、聖霊が結ぶ実を結べる器にされていくとし、その実として、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制をあげています。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


顕現節第3主日
1月18日の聖書日課 マルコ1章14節-20節、エレミア16章14節-21節、第一コリント7章29-31節 


説教「なぜイエス様は洗礼を受けなければならなかったのか?」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書1章9節-11節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けるとは、一体どういうことか?マルコ1章4節に、ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」を人々に宣べ伝えていたとあります。「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」とは、将来罪の赦しを得られるために、今神に背を向けて生きている生き方を方向転換して神の方を向いて生きる、その方向転換の印としての洗礼と言い換えてよいと思います。罪の赦しそのものを与える洗礼は、復活後のイエス様が命じた洗礼なので、洗礼者ヨハネの洗礼はその前段階の洗礼、方向転換の印としての洗礼ということになります。いずれにしても、イエス様のように方向転換するもなにも、そもそも神の霊によって宿り乙女から生まれ、罪の汚れもしみもない神のみ子にどうして洗礼など必要なのでしょうか?マタイ3章をみると、洗礼を受けにやってきたイエス様を目の前にして、洗礼者ヨハネはとまどって言います。「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」(14節)と。

 なぜイエス様は洗礼を受ける必要があったのでしょうか?本日はこの問いの答えを明らかにしていこうと思います。

 

2.イエス様の洗礼なぜイエス様はヨハネから洗礼を受ける必要があったのか?この問いの答えを見つけようとする場合、まず、イエス様が行ったり教えたりしたこと、さらにイエス様に起こった出来事の全ては神の人間救済計画の実現に関係があるということをよく覚えておく必要があります。つまり、イエス様の洗礼も神の人間救済計画の実現に結びついているのです。そこで初めに、神の人間救済計画とは何か、ということがわからなければなりません。それは大体以下のようなことです。

創世記3章にあるように、最初の人間が造り主である神に対して不従順に陥って罪を犯したために、人間は死する存在となってしまい、神聖な神との結びつきを失って生きていかなければならなくなってしまいました。使徒パウロが、罪の報酬は死である、と教えている通りです(ローマ6章23節)。人間は罪と不従順がもたらす死の力に従属する存在となってしまいました。詩篇49篇に言われるように、人間はどんなに大金をつんでも死の力から自分を買い戻すことはできないのです。そこで、父なるみ神は、人間が再び造り主である自分との結びつきを持ってこの世を生きられ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は自分のもとに戻れるようにしてあげよう、と計画をたてられ、それを実行しました。これが神の人間救済です。

人間が神聖な神との結びつきを回復できるようになるためには、なによりも人間を罪の奴隷状態と死の力から解放しなければなりません。しかし、肉をまとい肉の思うままに生きる人間には、自身に宿る罪と不従順を取り除くことは不可能です。そこで神は、御自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪と不従順からくる罰を全て負わせて死なせ、その身代わりの死に免じて人間を赦すことにしました。この神のひとり子がゴルガタの十字架の上で血みどろになって流した血が、私たち人間を罪の奴隷状態から解放する身代金となったのです(マルコ10章45節、エフェソ1章7節、1テモテ2章6節、1ペテロ1章18-19節)。さらに、神は、一度死んだイエス様を復活させることで、今度は死を超えた永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。人間は、神がみ子イエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け取ることで、彼の身代わりの死に免じて罪を赦されて、神との結びつきを回復することができるようになったのです。つまり、救われるのです。「罪の赦しの救い」を受け取るというのは、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。こうして、神との結びつきを回復できた人間は、この世の人生の段階で、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めることになります。神との結びつきがあるので順境の時にも逆境の時にも常に神から良い導きと助けを得られて生きられるようになり、万が一この世から死んでも、その時は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになります。

以上が、神の人間救済計画とその実現についてでした。それでは、イエス様が洗礼を受けたことが、この神の人間救済計画の実現にどう結びつき、どう役立ったのかをみていきましょう。

神のみ子であるイエス様は、洗礼を受けることで洗礼を必要とする人間たちと同列に加えられることとなりました。「フィリピの信徒の手紙」2章に次のように記されています。「キリストは神の身分でありがなら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。人間と同列に置かれ、人間が被る死の苦しみを自分自身被ることができるようになる。それで人間の不従順と罪から来る罰をまさに罰として引き受けることができるようになる、ということです。このことは、元日礼拝の説教でも触れました。その時は、イエス様の割礼が福音書の箇所でした(ルカ2章21-24節)。イエス様は、割礼を受けることで、外面的な印をもってアブラハムの子孫の一人に加えられ、モーセの律法の効力の下に置かれました。神聖で罪の汚れひとつない神のみ子が、神聖さを欠いて罪の汚れを持つ人間の立場を持たされました。人間の中でも、罪の汚れから贖われるために数多くの宗教的儀式をこなさなければならないユダヤ民族の立場を持たされたのです。本来ならばそうしたことは一切不要な立場にある方なのにもかかわらず、全く逆の立場を持たされることによって神からの罰を罰として本気で受け、死の苦しみを本気で受けて本気で死ぬ者になったのです。もしイエス様がこうした立場を持たされずに、単に神聖な立場のままにいたら、死も苦しみもイエス様に近寄ることはできなかったでしょう。パウロが述べたように、「律法の支配下にある者たちを救い出すために律法の支配下にある者たちと同じになった」(ガラテア4章4節)のであります。ただ、何度も繰り返すように、我々と同列に加えられ人間と同じ立場を持たされたとは言っても、イエス様は不従順と罪は持たない神聖な神のみ子だったのです(ヘブライ4章15節)。そのような方が、人間と同列に加わることとなり、人間の悩み苦しみと直につきあい、また御自身も人間と同じように苦しみや試練や誘惑に直面しなければならなかったです。それゆえ、「ヘブライ人への手紙」2章18節に言われるように、主は、試練に遭う者たちを本当にわかって助けることができるのです。

人間と同列に加わったというのは、神が人間に寄り添う姿勢を示したとか、人間と連帯しようとしたなどと言うことが出来ます。ただし、ここで一つ忘れてはならないことがあります。それは、この「同列に加わる」というのは、「寄り添う」とか「連帯」という言葉では言い尽くせない、そんな言葉が生易しく聞こえてしまう位もっと大きな意味があるということです。どういうことかと言うと、先ほど、神の人間救済というものは、神が人間に与える「罪の赦しの救い」であると申し上げました。この「罪の赦しの救い」を実現するためには、誰かが人間にかわって罪の罰を受ける犠牲にならなければなりませんでした。もし罰が起きなければ、神は罪を是認したことになるからです。しかし、神は人間が背負いきれない罰を背負って押し潰されて滅んでしまうのを望まなかった。罪は断固として認めないが、しかし人間は救われなければならない。このジレンマを解決するために、神は犠牲を自ら引き受けることにしました。神の人間に対する愛が、自己犠牲の愛であると言われる所以です。しかしながら、神が犠牲を引き受けるというとき、天の御国にいたままでは、それは行えません。なぜなら、人間の罪と不従順の罰を全て受ける以上は、罰を純粋に罰として受けられなければなりません。そのためには、律法の効力の下にいる存在とならなければなりません。律法とは神の神聖な意思を示す掟です。それは、神がいかに神聖で、人間はいかにその正反対であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は、当然、律法の上にたつ存在です。しかし、それでは、罰を罰として受けられません。犠牲を引き受けることは出来ません。罰を罰として受けられるために、律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければなりません。まさに、このために神の子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのです。そして割礼を受けて律法の下に置かれ、さらに洗礼者ヨハネから洗礼を受けなければならなかったのです。実に、そうすることで使徒パウロが述べたように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったのです(ガラテア3章13節)。イエス様が人間と同列に加わった、と言う時、私たちは、この「わたしたちのために呪いとなった」ということ、イエス様が人間に降りかかって染みついている呪いを全て自分のものとして請け負って下さったことをいつも心に刻み付けておかなければなりません。私たち人間も困窮した人たちに寄り添ったり、連帯したりします。しかし、神がイエス様を通して示した寄り添いや連帯は、もっともっと根本的なものであるということを忘れてはなりません。

 

3.イエス様が洗礼を受けたのは、私たち人間と同列に加わるという意味があったということが明らかになりました。同列に加わると言っても、とても深い根本的な意味があることもわかりました。ここで角度を少し変えて、今度は洗礼を受けた時にイエス様に聖霊が降ったり、天から「お前は私の愛する子である。私の心に適う者である」という神の声も轟いたという出来事を中心にイエス様の洗礼をみていきましょう。この出来事は、本日の旧約の日課であるイザヤ書42章1-7で言われている預言の成就です。イエス様の洗礼は、預言の成就のためになされる必要があったということが明らかになります。そこで、この預言の内容を見てみる必要があります。

このイザヤ書の箇所で、神は、将来地上で活動する僕(つまりイエス様のこと)が神からの霊、つまり聖霊を受け、同時に神から特別な力を与えられて、何かを実現していくことが預言されています。何を実現するのでしょうか?

私たちの用いる新共同訳を見ると、「彼は裁きを導き出す」(1節)、「裁きを導き出して、確かなものする」(3節)、「この地に裁きを置く」(4節)と、「裁き」という言葉が三度も繰り返されて、神の僕が何か裁きに携わることが強調されます。しかし、これは困った訳と言わざるを得ません。「裁きを導き出す」とか「裁きを置く」とは一体なんなのでしょう?そもそも「裁き」とは「置く」ものなのでしょうか?裁判官や陪審員が訴訟で「判決を導き出す」という言い方はあるでしょうが、「判決を置く」という言い方はあるでしょうか?私も含めてここにいる皆さんは「裁き」という言葉、「導き出す」という言葉、「置く」という言葉のそれぞれの単語の意味はわかるでしょう。しかし、意味がわかる単語をそのままくっつけて文にした時、その文も同じように意味がわかるかというと必ずしもそうならないことがあるのです。受験の国語の成績が良い人ならこういう奇抜で難解な表現を見ても意味を推測することが出来るかもしれません。しかし、その推測した意味が聖書のもともとの意味と同じであるという保証はどこにあるのでしょうか?

いずれにしても、私たちは、個々の単語の意味がなまじっかわかるのでそれをつなぎ合わせた文も何となくわかったつもりで読み進んでしまう。すると立ち止まって、振り返ってみるとどうでしょう。これは一体何だったのだろうということが起きてしまうのです。そういうわけで、皆様も聖書を読む際には「この箇所は一体何が言いたいんだ」という追及する姿勢をお持ちになることをお奨めします。理解が難しい箇所は無数に出てくると思います。その中でも、「ここは今の自分にとって何か大きな意味があるのではないか」というような箇所があったら、立ち止まって何度か読み返して考えてみたり、聖書の他の箇所を手掛かりにして理解できるか試みたりして下さい。神からの知恵を祈り求めることも忘れてはなりません。それでも自分の力で解明できない時は、注釈書を繙いたり、牧師先生や宣教師に聞いたりしましょう。そうすることで神の御言葉である聖書と私たち自身の関係は深くなります。逆に言えばそうしないと深くなりません。

少し脱線しましたが、イザヤ書42章の神の僕の活動についてみていきます。神の僕が携わることになると強調されている「裁き」ですが、これはヘブライ語の元の単語はミシュパートמשפטと言い、「何が正しいかについて決めること」とか「何が正しいかということについての決定」という広い意味があります。その広い意味から、「裁き」とか「判決」というような限定した意味がでてきます。しかし、広い意味から限定した意味はそれだけに尽きません。「何が正しいかについて決めること」「何が正しいかということについての決定」ということを出発点にすれば、「裁き」や「判決」の他にも、「正当な要求」「正当な主張」という意味にもなるし、そこからさらに「正当な権利」とか「正義」という意味にもなります。他にもまだあります。参考までに、各国の聖書の訳はこのイザヤ書42章の新共同訳の「裁き」をどう言っているか見てみましょう。英語の聖書は大抵justice、ずばり「正しいこと」、「正義」です。「裁き」judgementとは言っていません。ルター訳のドイツ語聖書ではdas Rechtで「権利」とも「正しいこと」とも訳せます。スウェーデンのルター派教会が使用している聖書ではrätten、これは「権利」の意味が強くなります。フィンランドのルター派国教会が使用している聖書ではoikeus、これは「権利」も「正しいこと」も「正義」も意味します。以上のようなわけで、イザヤ42章の神の僕が携わることは「裁き」ではなく、「正しいこと」とか「正義」とか「正当な権利」と理解できます。それから、「導き出す」とか「置く」とか訳されている動詞(יצא、שים)も、「もたらす」とか「据える、打ち立てる」と訳して何の問題もありません。以上から、神の僕が「国々の裁きを導き出す」というのは、実は「諸国民、特にイスラエルの民以外の異邦人をさしますが(גוי)、諸国民に正義(正しいこと、正当な権利)をもたらす」ということ。「この地に裁きを置く」というのは「この世に正義(正しいこと、正当な権利)を打ち立てる」ということであります。

そこで、神の僕がもたらしたり、打ち立てたりする正義(正しいこと、正当な権利)とは何かを明らかにしなければなりません。神の御言葉である聖書の中で正義とか正しいこととか正当な権利とか言ったら、それは神の目から見ての「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」ということです。それでは何が神の目から見て「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」なのでしょうか?それは、先ほども申し上げましたように、人間が罪の奴隷状態や死の力から解放されることであり、それらから解放されて神との結びつきを持つ者としてこの世を生きることであり、そして、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻るということであります。これが神の目から見た「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」なのであります。これらは全て、神のみ子イエス様が十字架の死と死からの復活をもってこの世にもたらし、打ち立てたものであります。

イエス様が洗礼を受けた時、イザヤ書42章の初めに預言されたことが成就しました。天から預言どおりの神の声が轟き、聖霊がイエス様に降り、神の人間救済計画を実現するための力が与えられました。もちろん洗礼者ヨハネから洗礼を受ける前の赤ちゃんイエスや子供時代のイエス様も神聖な神のみ子でした。しかし、洗礼は預言の成就をもたらすために必要な手続きでした。洗礼を通して聖霊と特別な力を得て、イエス様が主体的に神の人間救済計画を実現させる活動を始める出発点となったのでした。

 

4.以上が、なぜイエス様は洗礼者ヨハネの洗礼を受けなければならなかったかという問いの答えです。洗礼を受けることで、人間と同列に加えられる意味がある。ただし、そこには神の人間救済計画が完全な形で実現されるという深い意味があることがわかりました。加えて、神が預言者を通して約束されたことが成就するという意味がありました。そこから私たちは、神とは真に約束したことを必ず果たされる忠実な方であることを知ることができます。

最後に洗礼者ヨハネがイエス様について、「聖霊をもって洗礼を授ける」(マルコ1章8節)方であると言ったことについて若干申し上げておきたく思います。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、他の人に起こらなかったことが起こりました。聖霊が彼の上に降ったということです。この聖霊の降臨は、私たちの洗礼にも起きます。つまり、イエス様の洗礼は、後のキリスト信仰の洗礼の先駆けになっているのです。私たちは洗礼を受ける時、水をかけられますが、「聖霊をもって」する洗礼、洗礼される人に聖霊が降る洗礼とは、どういう洗礼でしょうか?

私たちは洗礼を受ける時、聖書を朗読して神の御言葉と結びつけられた形で水をかけられます。化学や物理学を用いた計測では、水は御言葉に結びつけられてもられなくても水としての成分は同じです。しかし、御言葉に結びつけられた水は、神の目から見ると、これは聖霊が降る洗礼を可能にする要素に変貌しているのです。聖霊が降るということについて、少し詳しく言うと、人は洗礼を受ける前にも、既にイエス様を救い主と信じ始めます。遥か昔の彼の地で起きた出来事は現代を生きるこの自分のためになされたのだということをわかり始めます。それが起こるのは、聖霊がその人に働き始めたからであります。使徒パウロが教えるように、聖霊の力が働かなければ、人はイエス様を救い主と信じることはできません(第一コリント12章3節)。イエス様を何か歴史上の人物の一人として知識で知ってはいても、それは自分の救い主として信じることとは何の関係もないのです。聖霊が働かなければ、イエス様について知っていることは単なる知識にとどまるだけです。

しかし、洗礼を受けることで、人は持続的に聖霊の影響力のもとに置かれることになります。これは赤ちゃんも同じです。「罪の赦しの救い」は神からの贈り物である以上、赤ちゃんも、親の愛を注がれてただそれを受け取るのと同じように神の贈り物も受け取るのです。赤ちゃんや子供が、その後の人生で聖霊の力が働く受け皿として育っていくかどうかは、あとは家庭や教会がどう育てていくかということに大きくかかってきます。 

そういうわけですから、兄弟姉妹の皆さん、私たちは聖霊を受けた者として、神のことを「アッバ、お父さん」と呼べるくらい神の子とされていることを忘れないようにしましょう。使徒パウロが随所で教えているように、神の子とされているならば、それはイエス様と兄弟の立場を持たされているということです。イエス様と共に神の御国を継ぐ跡継ぎにされているのです(ローマ8章15-17節、29節、ガラテア3章27-27節、4章5-7節、エフェソ1章11、14節)。そのことを忘れないようにしましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


 主日礼拝説教 主の洗礼日
1月11日の聖書日課  マルコによる福音書1章9節-11節、イザヤ42章1節-7節、使徒言行録10章34-38節


説教「博士の訪問」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書2章1~12節

2015年とう新しい年を迎えました。今日の御言葉は、マタイ福音書2章1~12節であります。

1節を見ますと、「イエスは、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」

救い主が、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったということ。そして、救い主はユダヤのベツレヘムでお生まれになった。とマタイはまず、しっかりと、私たちに告げています。

次に、そのとき、占星術の学者たちが東の方からエレサレムに来た。と告げています。マタイは歴史の事実として、ユダヤの王の年代から記しています。1節にある「ヘロデ王の代にイエスがベツレヘムでお生まれになった」マタイは、どんなメッセージをこめて、この一言を書いているか。ローマ帝国の支配のもとに、ヘロデが王として、全ユダヤを治めていた、ということ、バークレーによりますとヘロデはユダヤ人とエドム人の間に生まれた、エドム人の血が混じっていた彼はパレスチナの内乱の際、ローマのために業績をあげたため、ローマ人の信用をえて、紀元前40年に王の称号をえた。紀元前4年まで長期間権力をふるった。彼はヘロデ大王と呼ばれたがパレスチナの支配者たちの中でパレスチナの平和を維持し、混乱の世に秩序をもたらした。

しかし、ヘロデの性格には致命的な欠陥があった。それは狂気に近いほど猜疑心が強かったことである。もともと、疑り深い性格であったが、それが年とともにこうじて遂に晩年には「殺意にみちた老人」と呼ばれるようになった。誰かが自分の権力の座をおびやかすと思えば、すぐその人を葬り去ってしまった。彼は自分の妻や、その母も息子たちも殺していった。ヘロデの野蛮で残酷な性格は近づく自分の死を前にしていよいよあらわとなっていった。

このようなヘロデ王のもと東方からの占星術を専門とする三人の博士たちが輝く星に導かれて、まずヘロデ王の宮殿を訪れたのです。「ユダヤ人の王として、お生まれになった、お方はどこに、いらっしゃいますか」これを聞いたヘロデ王は、もうびっくりでしょう。ユダヤの王は、このおれだ。自分の他に新しく王が生まれたとは、どうしたことか、それはどこに生まれたのか。彼の内心は怒りに燃えたでしょう。

預言者でもない異国の天恩学者たちに「ユダヤを救う」ところのメシヤが誕生した事を告げられたのですから。3節を見ますと「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。」エレサレムの人々も同様であった。エレサレムの人たちは、ヘロデがこのような消息を突き止めると子供を殺すことをよく知っていたからです。ヘロデは祭司長と律法学者を召集した。神からの油を注がれて生まれる新しい王がどこに生まれるのか、聖書は、どのように示しているのかたずねたのです。彼らは旧約聖書、ミカ書5章2節を引用して答えた。

 ヘロデ王は博士たちをよびよせ幼な子が生まれた場所をくまなく探すために派遣した。自分も幼な子を拝みに行きたいから、と言ったが彼の唯一の願いは王として生まれた幼な子を殺すことであった。博士たちは再び星に導かれてベツレヘムの馬小屋に寝かせてある幼な子、救い主と出会うことができた。そして彼らにできる精いっぱいの神様への応答として宝の箱を献げたのでありました。彼らは、ひれ伏して幼な子を拝み、宝の箱を開けて黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 博士たちが王の宮殿で期待していた幼な子はいなかった。しかし、神のしるしは最後まで彼らを導いたのでした。そしてベツレヘムにおいて博士たちは想像だにしなかった暗い洞窟の家畜小屋で、貧しくてどうしようもない状況の中に神の子メシアを見出したのであります。博士たちが、母マリアと幼な子の貧しさに、つまづかないように、神からの贈り物であった、神のしるしである光り輝く星よりも、もっと偉大なキリストを彼らが見ることができるように神さまは彼らを支えて下さるのであります。

 最期、この福音書を書いていますマタイがこの博士たちの訪問で私たちへのメッセージが何であるか、ヘロデ王の代わりに東の方からの博士たちがメシアの生まれた事を告げたということです。ヘロデ王のもとで苦しむ民、暗闇の世に救い主イエス・キリストがまことの光としてお生まれになった。ヨハネ福音書では1章5節でこう表現しています。

「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」14節「言は肉となって私たちの間に宿れれた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって恵みと真理とに満ちていた」。

 私たちの間に宿られた栄光を異邦人である、東の国の博士たちがヘロデ王に告げた、ということであります。この出来事を記している福音書はマタイだけであります。ローマ帝国の権力をほしいままにしているヘロデにまことの救いをもたらす新しい王が生まれたと異邦人から突きつけられている、そのことをマタイはくどくどと2章でしっかりと書いているのであります。ここでマタイが言っていることは、イスラエルが異邦人にキリスト誕生を記していったのではない。

東の国の3人の博士たち、異邦人が神に用いられて遠い遠い長旅を乗り越えて救い主メシアの誕生を告げているということです。東の国からの博士たちがエレサレムをたずねて来たことはまことに不思議なことであります。更に不思議なことは、イエスが誕生された頃、不思議にも世界中に王を待ち望む機運が満ちていたことであります。このことはローマ帝国の歴史家さえも知っていた。

タキトウスという歴史家が書き残している中に「人々が固く信じていたことは、その頃、東の国が強力になり、ユダヤから出した支配者が全世界を包括する定刻を築くということである。」このようなことは古代には、容易に起こりうることであった。人々は神を待ち望んでいた。こうして待ち望む世にイエスが来られたのである。

星を眺め、研究していた博士たちの名はマギと呼ばれる人々であった。彼らはメディアの種族でペルシャでは権力や野心を捨てて、祭司の種族となった、といわれる。彼らは哲学、薬学、自然科学に秀でていた。当時の人々はみな、占星学を信じ、星によって未来が占えると思い、又ある星のもとに生まれると、その星によって運命が定められる、と信じていた。星の運行は一定していて、宇宙の秩序をあらわす。そこへ突然に明るい星が現れたり、特別な現象によって天体の不変の秩序がみだれると、それは神が創造の秩序を破って何か特別なことを告示するのだと考えらた。

3人の博士たちは突然明るく輝く星を見出した。古代の占星術師はこうした異変は偉大な王の誕生を告げると信じて疑わなかった。そこで3人の博士たちは新しくお生まれのなった王に会いたいと旅立ったのです。彼らがエレサレムまで輝く星に導かれて行ったことは想像だにできない神の計画の中に星をしるしとして、それら全てを神が用いていかれたということであります。

今年、新しい年を迎え神様は私たちをどのように用いていかれるでしょうか、祈っていきたいと思います。    アーメン

 顕現主日。

 

2015年 今年も宜しくお願いいたします。

説教「奇跡を超える信仰」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書2章1節-11節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

カナンの結婚、イエス1.本日の福音書の箇所は、ガリラヤのカナという町でイエス様が行った奇跡の業について記していますが、福音書の中でよく知られている話の一つです。結婚式の祝宴でお祝いに飲むぶどう酒が底をついてしまった。そこで、イエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行って、祝宴は無事に続けられたという話です。奇跡と呼ぶには、少し大げさに聞こえるかもしれませんが、結婚式の祝宴というものはイエス様の時代にも大がかりなものであったことを考えてみるとよいでしょう。祝宴会場にユダヤ人が清めに使う水を入れた水瓶が6つあり、それぞれ2,3メトレテス入りとありますが、ひとつにつき80-120リットル入りです。それが6つありました。すでに出されていたぶどう酒が底をついてしまった時に、イエス様は追加用にこの水瓶の水全部480-720リットルをぶどう酒に変え、祝宴が続けられるようにしたのです。一人何リットル飲むかわかりませんが、相当大きな祝宴であったことは想像つきますし、大量の水を瞬く間にぶどう酒に変えたというのは、やはり奇跡と言うしかありません。

この福音書の箇所はまた、イエス様が困難に陥った人たちを助けてくれる心優しい方であることを述べている箇所としても知られ、結婚式に関わる出来事なので、キリスト教会の結婚式や婚約式での説教の聖書の箇所としてもよく用いられます。あなたたちはこのように見守ってくれる主の御前で式をあげているんですよ、あなたたちにはこのような優しい方がついておられるんですよ、というメッセージは、新しい門出を旅立つ新郎新婦の心を和ませてくれるでしょう。

ところで、この箇所は、よく読んでみると、わかりにくいことがいろいろあります。それは、ぶどう酒が底をついた時に、イエス様の母マリアが彼に祝宴会場にはもう全然ぶどう酒がない、と言った時のイエス様の答えです。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」という答えです。「わたしとどんなかかわりがあるのです」というのは、ギリシャ語の原文が少しわかりにくいのですが、「この件に関して、私とあなたとの間にはなにがあるというのか」、もう一歩訳し進めると「この件に関して、あなたはわたしにどうしてほしいというのか」という意味になります。そのすぐ後にイエス様は、「わたしの時はまだ来ていないのだ」と続けられます。

こうしてみると、マリアは祝宴からお祝いムードがどんどん冷めていくのを見るに耐えかねて、イエス様に、お前何かできないかね、と打診して、それに対してイエス様は母親に、あなたが私に頼む筋合いではない、私の時はまだ来ていないのだ、と答えたのであります。イエス様は、はい、わかりました。ひと肌脱ぎましょう、とは言わなかったのであります。イエス様の答え方はまるで、自分の知ったことではない、と突き離す内容に聞こえます。心優しいどころか、何と冷たい人なのかと思わされます。ところが、このような冷たい答えにもかかわらず、マリアは何を思ったのか祝宴の召使いに、イエスが何か命じたらすぐそれを実行するように、と言いつけます。つまりマリアは、イエス様はなんだかんだ言っても助けてくれると理解していたのであります。結果をみれば、その通りになって優しいイエス様の面目は保たれるのですが、それにしても最初のやりとりはわかりにくく、イエス様はあまのじゃくで、素直な方ではないと思わされます。

しかしながら、実はイエス様はあまのじゃくな方でも、素直でない方でもなく、ちゃんと意味の通ることをおっしゃっているのです。「わたしの時はまだ来ていない」という言葉をちゃんと理解できれば、そのことがわかります。以下にそれについて見ていきましょう。

2.「わたしの時はまだ来ていない。」「わたしの時」とはどんな時で、その時が来るのはどんな時なのでしょうか?ヨハネ12章で、次のような出来事があります。イエス様が最後のエルサレム入城を果たして、大勢の群衆の前で神や神の国について教えて、ユダヤ教社会の指導層と激しい論争を行っていた時、地中海世界の各地から巡礼に来ていたユダヤ人たちが、イエス様に会いたいと言って来ました。それを聞いたイエス様は弟子たちに次のように言いました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12章23節)。さらに、ヨハネ17章で、十字架にかけられる前夜の最後の晩餐の席上、イエス様は次の祈りを父なるみ神に捧げました。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を顕すようになるために、子に栄光を与えて下さい」(17章1節)。

つまり、「イエス様の時」とは、イエス様が十字架にかけられて死を遂げる時、その前に受ける拷問を含めて大いなる苦しみを受ける時、そしてその後で神の力で死から復活させられて神の栄光を現わす時であります。イエス様が苦しみを受けて十字架にかけられて死ななければならなかったのは、これは、人間が全ての罪と神への不従順を神から赦していただくための神聖な犠牲となるためでしたから、これは神にとっても人間にとっても大事な時だったのであります。さらに、イエス様が死から復活させられたことで、死の力が無力にされて死を超える永遠の命の扉が開かれたことになりました。人間は、父なるみ神とみ子イエス様のおかげで、神との結びつきを持ってこの世を生きて、死を超えた永遠の命に至る道を歩む可能性を与えられたのです。「イエス様の時」とは、まさに人間にこの可能性を与える出来事を起こす時、十字架と復活の時を意味していたのです。地中海世界の各地からイエス様に会いたいと人が来たのを聞いて、イエス様はいよいよ、この出来事が起きた後でその知らせが世界中に伝わる素地が整ったと判断されたのでしょう。

そういうわけで、「わたしの時はまだ来ていない」というのは、どんな意味かというと、それは、「まだ私が十字架の苦しみの道に足を踏み入れておまえたちから離れる時ではない。まだおまえたちのもとにいて神の意思と計画について、また神の国というものについて正確に教え、さらに神がおまえたち人間をどれだけ愛してくれているか、それを教えと奇跡の業を通して示していかなければならないのだ。まだ十字架と復活の前の段階の今は、私はこのミッションを続けなければならいのだ」という意味であります。

 

3.このように「わたしの時はまだ来ていない」というのは、まだ十字架と復活の時ではない、まだおまえたちのもとにいて自分のミッションを続けなければならない時だ、という意味だとわかれば、「わたしの時はまだ来ていない」という言葉は奇跡の業を行うことと関係があるとわかってきます。

イエス、癒しイエス様の奇跡の業は枚挙にいとまがありません。大量の水を一瞬のうちにぶどう酒に変えた本日の出来事を皮切りに、数多くの難病や不治の病を癒してあげたり、一度息を引き取った人を生き返らせたり、大勢の群衆の空腹を僅かな食糧で満腹にしてあげたり、自然の猛威を静めたり、悪霊に憑りつかれている人からそれを追い出したり、と無数にあります。

イエス様がこのように人助けの奇跡の業を数多く行った理由として、イエス様や彼を送った父なるみ神が優しい愛に満ちた方で困っている人を助けずにはいられなかった、というふうに考える向きが多いと思われます。もちろん、イエス様や父なるみ神は優しくて愛に満ちた方というのは否定できないから、そう見ることもできますが、それだけが奇跡の業を行った理由というのは一面的すぎるでしょう。もし、それだけならば、イエス様はなぜもっと地中海の東海岸地方の限られた地域だけでなくてもっと世界各地を回って奇跡の業をし続けなかったのか、ということになります。世界各地にはまだまだ病気や飢饉はあちこちにあったのですから。しかし、イエス様は時間一杯とばかり、ミッションを限られた地域にとどめ、さっさと十字架の苦しみの道に入られました。それは、イエス様と彼を送った父なるみ神にとって、十字架の死と死からの復活の出来事を起こして、そこから神と人間の結びつきを回復して、人間が永遠の命に至る道に置かれてその道を歩めるようにすることが何にもましてすべきことだったからです。

イエス様が、十字架と復活の時が来るまで奇跡の業を行った理由として、そのことを通して、人々が彼を神のひとり子であると信じさせるひとつの手段として用いていたことがあります。ヨハネ14章でイエス様は、イエス様がまだ神から送られた方だと実感できないと言う弟子のフィリポに対して、次のように言います。「フィリポ、こんなに長い間、一緒にいたのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見たものは、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父を示してください』と言うのか。わたしが父の内にいて、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におわれる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(14章9-11節)。人間は、ただ言葉で聞いても信じられない、それならば、イエス様が行った業をもとに信じなさい、ということです。

しかしながら、こうした信仰の手段として奇跡を用いることはイエス様自身も問題があることをよくご存知でした。ヨハネ6章で、5千人の群衆がわずかな食糧で空腹を満たされた後、イエス様の後を追いかけてきます。その群衆に対してイエス様は次のように言われました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(6章26節)。奇跡を経験した人々は、それをイエス様が神から送られたひとり子であることを示すしるしとまではとらえるには至らなかった。イエス様のことを、ただ人々の欲や必要を満たしてくれるありがたい方、一緒にいればまだまだいいことがある、そういう期待を持って追いかけてきたことをイエス様は見抜いたのであります。奇跡を経験した人が、もしイエス様を神のひとり子と本当にわかって信じることができれば、その人の心は、どうやって自分の必要や欲をさらに満たしてくれるかということから、どうやって自分は神の意思に従って生きることができるか、ということに向けられるようになります。それができるというのは、やはり、十字架の死と死からの復活という奇跡の中の奇跡が起きる前はなかなか難しいことなのであります。

このようにイエス様は、人間というものは、言葉だけでは信じられない弱さがあると知って、奇跡の業を信仰に至る手段として用いつつも、それが必ずしも正しい信仰をもたらさないリスクを持っていることを知っていました。このように人間とは、神の手に負えないしょうもない存在なのであります。それにもかかわらず、神は、そんな私たち人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにと、しかもその生きる道が死を超えた永遠の命に至る道であるようにするために、イエス様をこの世に送られ、彼を用いてこの人間の救いを実現して下さったのです。このような神は、永遠にほめたたえられますように。

4.以上から、イエス様が母マリアに「私の時はまだ来ていない」と言ったのは、彼はまだ人々と共にいて自分のミッションを続ける立場にある、ということを意味したことが明らかになりました。ミッションの中には、人々を信仰に導くための奇跡の業も含まれますから、このぶどう酒が底をついて祝宴が台無しになり出した状況に対しても、何かしなければならないことはよくわかっている、というのであります。そうすると、イエス様の言葉、「この件に関して、あなたはわたしにどうしてほしいのか。わたしの時はまだ来ていないのだ」というのは、私の知ったことか、何にもしないよ、という意味ではなく、私がまだ人々の間にいる以上は何かするつもりでいるのは当たり前ではないかという意味であることが明らかになります。ただし、何かするにしても、それを行うのは、自分が神のひとり子であることを示す以外の目的では行うのではない、母親を含めて単に人にお願いされたから自動的にそうしてやるのではない、ということが含まれていることを忘れてはなりません。いずれにしても、マリアはイエス様の言葉を聞いて、ああ、イエスは何かをするつもりだなとわかったのであります。それで召使いたちに、言われた通りにしなさいと命じたのでした。イエス様は別にあまのじゃくでも、素直でない方でなく、彼とマリアのコミュニケーションは、問題なく通じていたのであります。(私たちの新共同訳の聖書では、イエス様が問題の言葉を述べた後、マリアが召使いに言いつける際、「しかし、母は召使たちに」と「しかし」という言葉が入っています。ギリシャ語原文には「しかし」はありません。ここで逆接の接続詞を入れたから、イエス様の言葉があまのじゃくのようになってしまったと思われます。)

 これまで申し上げてきたことの中には、奇跡が私たちの信仰にとって持つ意味やリスクを考えるよい材料があったと思います。私たちの目の前には、当時の人たちと違って、奇跡の業を目の前で行ってくれるイエス様がいらっしゃりません。彼は今、天の御国の父なるみ神の右に座し、再臨の日まではそこから私たち一人一人に対して大抵は見えない形で働きかけられます。もし、イエス様が当時のように私たちの目の前におられ、奇跡の業を行ってくれれば、私たちも信じやすくなるのにな、と思う人がいるかもしれません。しかし、当時の人たちと私たちの間にはひとつ決定的な違いがあります。当時、奇跡を目のあたりにした人たちは、「イエス様の時」がまだ来ていない時に生きていた人たちでした。イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前に生きて奇跡を目撃した人たちでありました。私たちはと言えば、十字架と復活の出来事の後の時代を生きる者ですから、イエス様の来た後の時代を生きていることになります。この違いは決定的です。

どういうことかと言うと、イエス様の同時代の人たちも、やがて十字架と復活の出来事を目撃して、イエス様が神の子であることが、これ以上の証拠はいらないという位にわかって信じることになりました。その結果、自分の必要や欲を満たしてくれるから神の子として認めてやるという考え方は消え去り、自分を犠牲にしてまで人間と神との結びつきを回復しようとされた救い主として信じるようになったのです。それで、どうしたら神の意思に沿う生き方ができるかを真剣に考えるようになったのです。私たちも実は、このように十字架と復活の出来事の後に、つまり「イエス様の時」が来た後に、心が入れ替わった信仰者と同じ信仰を持っているのです。自分の置かれた状況や境遇に左右されない信仰です。私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆さん、このことを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2014年12月28日の聖書日課  ヨハネ2章1節-11節、イザヤ62章1節-5節、コロサイ1章15-20節


降誕祭前夜礼拝、説教「人類の希望のクリスマス」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書2章1-20 節

私たちの父なる神と主イエス・キリトから恵みと平安が 、あなたがたにあるように。  アーメン

1.クリスマスと言えば、 一般には何か希望が叶う素敵な日といイメージ持 たれていると思ます。例えば、子供が欲しかっものをプレゼントにもらったりすると、クリスマは希望が叶う素敵な日いうイメージ定着します。 また、私が子供の頃、テレビ・ドラマか映画だったか忘れ ましが離れ離れになった親子がお互いを一生懸命探し続けて、やと 再会 を果たすのがクリスマの日だったと いうよな 感動ものを見た記憶があります。 クリスマに結びつけた、似たような筋書きの映画やドラマは沢山出ているのではないかと 思います。皆さんも何かそのようなものを見たことがおありではしょか?

どうして、クリスマは希望が叶う素敵な日という意味を持っるのでょうか? それは、世界史上最初のクリスマが今から 2000 年プラス 20 年位 前 に起きた第一回目のクリスマが、 まさに 希望が叶 った日だことに由来しています。それで、クリスマは希望が叶う日という意味を持つよになった のです。それでは、その時叶った希望とは一体何だったのでしょうか?それについては、先ほど読んでいただいた福音書の箇所に ある天使言葉が明らかにしています。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大き喜びを告げる。今日ダビ デの町で、あなたがたのめに救い主がお生まれになった。こ方そメシアである」(ルカ 2章 10 -11 節)。

「この方こそ主メシアである」と言うのは、つい先ほどダビデ王ゆかりの町 ベツレヘムで赤ちゃんが生まれた、それがあの待望のメシアである。待望のメシアがやっとこの世に来た、みんな希望叶がやっと叶った。という意味であります。

ここで、いろいろな疑問が起ってきます。「待望のメシア」という時、メシアとは何か?というこがまずありす。それから、このメシアとやらは、あ なたがたのため の救い主と言われますが、「あなたがた」とは誰を指のか?さらに、 このメシアが「救い主」として機能すると言うからには、その者は誰を何の危険から救い出すのか? そうい疑問です。 実を言えば 、「メシア」の意味も、「あなたが」 が指している 者も、「救い」の 意味 内容についても、当時の人たちに は統一見解がありませんでした。それらについて、大きく分けて三つの異 なる見解がありました。それぞれの見解に応じて、希望の内容も三つの異なるものが ありました。これから、そについて見ていきたく思いますが、結論 を 先に申し上げると 、三つの希望うち二つはユダヤ民族が中心 の希望で、これは予想外れ、期待外れに終わりました。三つ目は全人類に関る希望で、こちらの希望が最終的に成就したのでした。

 

2. 三つの希望のうち、最初のものはメシアというものを、ユダヤ民族を他 国支 配から解放 してくれる、ユダヤ民族にとっての解放者 と考える希望です。メシア、ヘブライ語 のマーシァハ משיח は、もともとは 「油を頭に注がれた者」いう意味があり ました。「油を注ぐ」というのは 、神が与え る任務を遂行する者 が世俗から区別されて神聖な目的に仕える就任式の意味 を持ちました 。実際に は、ダビデ王朝の王様が即位する時に油を注れた のでメシア「油を注がれた者」は同王朝の王を意味することが伝統になりました。ところが、紀元前 500 年代初めにダビデ王朝の王国はバビロン帝国に滅ぼされて、 国民は集団捕虜としてバビロンに連行されてしまいました 。世界史の教科書で「バビロン捕囚」 と呼ばれる事件です。紀元 前 500 年代後半に なると 今度は 、ペルシャ帝国がバ ビロン帝国を滅ぼして 古代オリエント世界の覇者にな ります。 この時 、ユダヤ 民族は故国への 帰還が認められて 、エルサレムの町や神殿を復興させました。 しかし、それからも ずっとペルシャ帝 国、それに続くアレクサンダー大王の国に支配され続けました。紀元前 100 年代に 一時、ほぼ 独立を回復しますが、 ほどなくして ローマ帝国の支配下に置かれてしまい、イエス様が誕生する日 を 迎えたのであります。先ほど読んでいただいた福音書の箇所で、ローマ皇帝アウグストゥスが全領土の住民に課税ため登録を命じというのは、まさにユダヤ民族が当時置かれていた状況だっのであります。 このようにバビロン 捕囚 以後、 ダビデ王朝の国は復活しなかったですが、

ユダヤ民族の間では、 将来 ダビデ家系の王 様が現れて、神の助けを得て国民を他国支配から解放し、強大な国家 を建設する、そして諸国に号令をかけ、世界中の民がひれ伏すように してやってきてエルサレムの神殿に捧げ物を 持ってくる、 というよな希望が 生まれした。どうてそんな 希望が生まれたかと言 うと、旧約聖書の中にそよな将来を意味すると思われ預言があるからです(例としてイザヤ 2章)。先ほど読んでいただイザヤ書 9章の預言も、そうしたダビデ王国復興の預言と理解されたのです。

そう しますと、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と言った天使の言葉 ですが、これは、ユダヤ民族を他国支配から解放するビデ家系のヒーロの到来という希望の成就成 になります。 この場合、メシア「油注がれた者」 とは王様そのもを指し、「救い主」とはユダヤ民族を他民族支配から救うという民族解放を意味し、「あなたたち」とはユダヤ民族を指します。

 しかながら、ユダヤ民族の間で抱れていた希望は、ダビデ王国復興より も、もっとスケールの大きな希望ありました。 これが二つ目の希望です次にそれを見てみましょう。

旧約聖書という書物 は、古代オリエント世界の民族興亡 や国家間関係の記録 という側面もありますが、もっと 歴史の 時間と空間を超えた普遍的な側面 を持 っていること も忘れてはなりません。それは、今 私たちの周りにある 天と地の 誕生 から 始まって、それら が終わりを告げる終末までを視野に含めいるからです。例えば、 イザヤ書の 終わり方の 60 章や 65 章をみると 、かつて天と地 と人間を造られた創造主 の神が今 ある 天と 地にかわる新しい天と地を造ることが預言されています。らにダニエル書 みると、 今の世が終わりを告げる時に 死んだ者 たち の復活が起こり、天地創造の神 に相応しい者は永遠命を得て神のもとに迎えられ、そうでない者は全く異る運命をたどることが預言されています。

 こうした終末的な預言 を念頭に置いて、 ダビデ家系の救い主メシア を考える とどうなる でしょう か? メシアとは終末の時に神のもとから地上送られて、 神に相応しい者たちを集めて、 彼らを 新し く出現す る神の国に迎え入れて君臨 するという 、そういう超越的な 王として理解されるように なります 。つまり、 メシアとは、もはや現世的な王様ではなく文字通り超越的な存在です。 先週 まで二回の主日で読れた福音書は 、洗礼者ヨハネについて伝える内容でした。 ヨハネが「悔い改めよ、神の国は近づた」と公けに宣べ伝えた時、当時の人々 は、ついに 終末の日が 来た、天からメシアが送られる、自分 は神聖な 神の意思  に反して生きいた 、罪を犯してきた ことを素直に認めて赦しをいただこうと、 こぞってヨハネのもとに集まって洗礼を受けたのでした。しかしながら 、ヨハネの洗礼は、まだ 「罪の赦しの救い」を与える洗礼ではありませんした。 「罪の赦しの救い」は、イエス様の十字架の死と死からの復活によってはじめて可能となったのです。

さて、 終末的な預言と結びついた メシア とは誰を何から救う のでしょうか? 天 地が入れ替わるという森羅万象の大変動中で 、神に相応しい者を集めるというのは、 それは、ユダヤ民族の視点を超えたスケールではあります。しかし、やはり神に相応しい者とうのは、ユダヤ民族、正確に言えばユダヤ民族の中でもさらに神の意思に従って生きる者たちなので、こ希望 もユダヤ民 族の観点に立つ希望です。

 

3. 天使の言葉「今日ダビデ町で、あな たがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」は、実ユダヤ民族の利害をはるかに超えた、もっと深い広い壮大なスケールの希望を意味してま。この希望を理解 できるためには 、なぜ神のひとり子 が、わざわざこの世に降って来なけれ ばならかったの、 本来なら天の神の御国で全てに優越した場所いてふん ぞり返っていればもいいものを何を好き好んで、わざわざこ世に降ってこなければならかったのか、 しかも、神 そのものの存在の形を捨てて 限られた存在 にしか過ぎない人間の形をとってこ世に生まれ来なければならなかったのか、 こうしたことが希望を理解する 鍵になります。 もし、メシアも救い主も現世的 な民族解放運動指導者だったら、別に普通の男女結びつきか生まれてくる人間でもよかったでしょう。また、 もしメシアが 、終末の時に神に相応しい者 を守り集める 超越的な救い主であれば、なにもわざわざ赤ちゃんから始必 要はな いのであって、 そのま 神聖な 恐るべき姿かたちを とって 天使の軍勢を 従えて 天から 下ってくればよかたのです。

 なぜ神そのものの存在であった 神の ひとり子が人間の形をもって、こ世に 来なければらか ったのでしょうか ?神 は人間を何から救おうとしたの で しょうか?

 神がひとり子を人間の形をもってこの世に送ったのは、まさ救うためでした。一体人間を何から救うといのでしょうか?それは、人間が自分の造り主である神との関係を失ってしまった状態から救うことでした。創世記に記されてい ますが 、神に造られた当初の人間は神との結びつきを持った存在で した。それが、 神の意思に背こうとする罪と不従順が人間入り込んだために。人間は神との結びつきを失い、死ぬ存在なって しまいました。使徒パウロが 「ローマの信徒への手紙」 6章 23 節で 述べているように、罪の報酬は死なのであります。 人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。これに 対して神は、人間が再び自分との結つきを持って生きられるようにしよう、たとえこの世から死んでもその時は永遠に造り主である自分のもとに戻ることができるようにしてあげようと考えました。 結びつきが回復できるた めには、 人間から罪を除去しなければなりませきん。人間には それは不 可能でした。それで、神はひとり子を この世に送り、彼を人間の全ての罪を背 負わせて、あたかも彼が全の張本人であるようにして、全ての罪の罰を負わせて死なせたのです。これがゴルガタの丘の十字架の出来事です。神は、このひとり子の身代わりの犠牲の死に免じて、人間の罪を赦す と いう手法をったのです 。

 それでは、人間 の方ではどうしたら 罪を赦されて神との結びつきを 回復できるでしょうか?それは、人間がこれらの 神がなさった全てのことは まさに自分 のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この信仰をみた神はその人の罪を赦して下さるのです。 洗礼を受け たと言っ ても人間はまだ 肉を纏う存在ですから、まだ内には罪を内在させてい ます 。しかし、神はイエス様を救い主と信じる信仰を持つ者には、 彼の犠牲に免じて赦しを与えて下さるのです。しかも、 神は イエス様を十字架の死に引き 渡した時、 罪と死 をも一緒に 滅ぼして両者から 絶対的な力を 消し去 りました。 それで、 イエス様を救い 主と信じる者には罪と死は最終的な力持ってないのであります。

 加えて、 神は一度死んだイエス様を 今度は 復活させて、永遠の命への扉を人 間に開かれました。イエス様を救い主と信じる者は、永遠の命に至る道に置かれて歩きはじめます。こうして神との結びつを回復した信仰者は、順境の時も逆境の時もたえず神から守りと良い導きを得れるようになり、万が一こ世から死ぬことになっても、その時はイエス様が御手を引き上げて下さり、永遠に造り主である神のもとに戻ることができ るようになったのでありま す。この ように 、罪と死は信仰者に対して最終的な力を持ってい ないのであります。

こで、イエス様の 身代わりの犠牲の質を考えてみましょう 。神その ものの存在である方が犠牲になったのですから、これ以上神聖ものはないと言えくらい神聖な犠牲の生け贄です。人間を罪と死の支配下から贖う生け贄として、これ以上完璧なものはいと言えるくら完璧な犠牲の生け贄です。 このこと を逆に言えば、神は自分のひとり子を惜しまない 位に私たちを大切に思っているということです。イエス様がの世に送られた以上の贈り物を人間は 持ちえないのであります。この神の贈物を 既に 受け取っている方は、その大切 さを忘れないようにして、いつも神に感謝しましょう。まだ受け取っていない人は、 一日も早く受け取るようにして下さい。今からで遅は ありません。

 

4. 以上から、 本日の 福音書の箇所の天使 の言葉 「今日ダビデの町で、あなたが たのめに救い主がお生まれになった。この方こそメシアである」の意味が明らかになりました。メシアとは、全ての人間を罪と死の支配下から救い出して神との結びつき を持って生きられるようにしてくれて、 死を超えた永遠の命 を持てる日まで 共に歩んで下さる全人類の救世主であります。「なたがた」と いうのは、もうこの聖書の御言葉を目にし耳にする全て人を指 します 。この ように クリスマというのは 、過去の時代の特定の民族の希望成就なのではでなく、全人類に関わる希望の成就です。旧約聖書をもっと広く深く読んいくと、自らを犠牲にして人間の罪を贖う神の僕にも出わします(イザヤ書 53 章) ルターが、旧約聖書は 救い主 イエス様を見いだす書物である と言っているのは、誠にその通りであります。

最後に 、神そのものの存在が人間の形を持って生まれてきたことが、人間にとってだけでなく、神にとっても有益だったということにも触れておきましょう。イエス様は、本来ならば天の神の御国で優越的な場所でふんぞり返っていても良い方でした。それが、犠牲の贖を実現するめにこ世に降ったのですが、人間の心と体を持つこで喜びや痛み悲しも味わうこととなりました。神が人間の喜びや痛みや悲みを人間が味わうのと全く同じように味わうこと になったのです!だから、神は私ちの悩みや苦しも全てわかって下さる方です。天地を創造 された全知能の方ですから、私ち 以上にのことを痛みも含めてわかっおられるです。そような神は、 全てに優る 信頼を寄せるに相応しい方 であることが、「ヘブライ人への手紙」 4章 15 -16 節に記されていますので、そ箇所を引用し本説教締めと致します。 「この大祭司(イエス様を指す)は、わたしちの弱さに同情で きない方ではなく、罪を犯されかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐みを受け、恵みにあずって、時宜にかなった助けをいだくために、大胆に恵みの座に近づ こうではありませんか。」

人知 ではと うてい測り知ることのできない神平安があなたがたの心と思いをキリスト・イエに あって守るように         アーメン

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2014年12月24日の聖書日課   ルカ2章1-20 節、イザヤ 9章1- 6節


説教「キリストは死の陰に座する者を平安に導く光」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書1章67節-79節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 本日の福音書の箇所は、エルサレムの神殿の祭司であり洗礼者ヨハネの父親となるザカリアの預言です。この預言は、ラテン語でベネディクトゥスBenedictusと呼ばれていますが、それは預言の初めの部分「イスラエルの神である主は称えられよ」の「称えられよ」の部分です。ちなみに、ルカ福音書1章47-55節に聖母マリアの賛歌がありますが、これもラテン語でマグニフィカトmagnificatと呼ばれており、それは賛歌の初めの部分「私の魂は主を大いに賛美する」の「大いに賛美する」の部分です。それから、同じルカ2章にシメオンの賛美があります。これもラテン語でヌンク・ディミッティスNunc dimittisと呼ばれており、賛美の出だし部分「主よ、あなたは今、あなたのお言葉通り、あなたの僕を安らかに去らせて下さいます」の「今、去らせて下さいます」の部分です。これらマリアのMagnificat、ザカリアのBenedictus、シメオンのNunc dimittisの三つは、キリスト教会の司式の中で古くから使われてきた祈りの歌です。特に西方教会において、Benedictusは朝の祈り(laudes)の中で、Mディミッティスagnificatは夕べの祈り(vesper)の中、Nunc dimittisは一日の終わりの祈り(kompletorio)の中で用いられてきました。従って、本日は朝の祈りの言葉が説教のテーマということになります。
本日のザカリアの預言には、私たちの信仰にとって大切な事柄がいろいろ含まれています。本説教ではそれらから三つだけを取り上げてみていきたいと思います。

1.信仰とは、自分の外的な出来事や事情がいかに変わろうとも、神が自分に与えて下さる恵み・憐れみは相も変わらず同じである、という神への信頼を自分の内に持っていることである。

この最初の大切な教えは、ザカリアの信仰からみることができます。ザカリアの妻エリサベトは、もう出産が望めない高年齢にもかかわらず子供を宿しました。聖書には、高齢の婦人が出産する例として、他にアブラハムの妻サラがあります。この二つの事例には、信仰ということに関して共通することがあります。まず、双方とも、願っている子供が生まれなくても、神に失望したり背を向けたりはしなかったということです。それから、念願が叶ったら叶ったで、今度はその念願成就の結晶である子供を神のご用のために捧げたということです。

アブラハムの場合は、まさに息子イサクの命を捧げる寸前まで行きました。もちろん、神はイサクの命を望んでいたのではなく、アブラハムがどこまで自分の言葉に従うかを見極めようと試したのであります。創世記22章1節で「神はアブラハムを試そうと決めた」と言っているのは重要です。神は「試し」、アブラハムは「試された」のです。もし、アブラハムが血も涙もない機械人間で、子供を生け贄に捧げなさいと言われて、何も感ぜず何も考えずにハイと言ってすぐ実行してしまったら、それは「試された」ことには全くなりません。「試された」以上は、凄まじい葛藤の中に投げ込まれたのです。しかし、神は、イサクが誕生する前にアブラハムに対して、「お前の子孫は夜空の星のように多くなる」という約束をしており、それに背くことはせず、全く忠実だったわけです。このような御自分の約束に忠実な神の御名は永遠に誉めたたえられますように。

洗礼者ヨハネについてみますと、彼がいつ家を出て荒れ野の生活に入ったかはわかりません。ルカ1章80節で、「成長し、聖霊にあって強められた。そしてイスラエルの民の前に出現する日まで荒れ野にいた(ギリシャ語原文による)」と言っているので、ある程度成長してからでしょう。いずれにしても、洗礼者ヨハネの両親は天使ガブリエルから息子が神に用いられる者となる旨を告げられて(ルカ1章13-17節)知っていました。それで、彼が祭司の家系を捨てて荒れ野に出て行くのをそのままにしたのであります。

それから、これは高齢出産ではないのですが、サムエル記上で、エルカナの妻ハンナは、不妊で苦しんでいた時、神に祈り、もし男子を授けてくれればそれを神の用に役立つよう捧げると誓いました。そして、サムエルが誕生すると、ハンナはその通りにして、祭司エリに男の子を引き渡しました。

もう子供を得ることは無理だろうとわかっても、神は願いを聞いてくれないひどい方だ、と文句を言ったり、失望するわけでもない。アブラハムはイサクが産まれる前も、生まれた後も同じように神に忠実でした。ザカリアとエリサベトの二人は子供はなくとも、「神の前に正しく、主の全ての掟と定めに従って非の打ちどころなく生きて」(ルカ1章6節)いました。つまり、願いが叶わなくても、神を信じ、信頼し、神の意思に聞き従って生きるということには何ら変更はないのです。もし不可能な願いが叶えられれば、それは奇跡ですが、その時は神への賛美と感謝に身も心も満たされましょう。しかし、それでも神を信じ、信頼し、神の意思に聞き従って生きるということは、アブラハムにしても、ザカリアにしても、奇跡が起きようが起きまいが同じなのであります。

このような「奇跡が起きようが起きまいが同じ」ということがないと、どうなるでしょうか?その場合、神を信じ信頼し、神の意思に従うということは、願いが成就するかしないかということに左右されてしまいます。願いが叶わなければ、そんな神は神として認めてやるもんか、と別の何かを探し求めることになります。反対に、願いが叶えられれば叶えられたで今度は、それが神からいただいたものであるとか、神に属するものであるとか、神のご用に役立てられるものとか、そういう発想は起こらないでしょう。

願いが叶うにしろ叶わないにしろ、そういう外的な条件がどうであるかにかかわりなく、いつも全く同じように神を信じ、信頼し、神の意思に聞き従おうとする生き方は、どのようにしてできるでしょうか?それは、まず、神の方で、人間の外的条件により価値が増えたり減ったりしないもの、いついかなる場合でも高い価値のままにとどまる何かを用意してもらい、それを人間が持てる時にそのような生き方ができます。キリスト信仰では、そうした不変不滅の高い価値のものは、イエス様の十字架の死と死からの復活がそれです。

イエス様の十字架の死と死からの復活を不変不滅の価値として持っている人は、不妊であろうが病気であろうが金がなかろうが、たとえ外的な条件が悪くても、神が自分に与えてくれる恵み・憐れみそのものは、外的条件が良い時と全く同じであると知っています。それで神を信じ、信頼し、神の意志に聞き従うことに何の変更も起きないのであります。そこで、もし、そのような信仰を持つ不妊の人が子供を産んだり、不治の病の人が健康になったり、金のない人が金を得たりしたら、どうなるか?その時は、これは神からいただいたものだ、神から預かったものだ、だからもともとは神に属するものだ、という考えなので、神のご用に役立てようという考えになります。自分の用のために役立てようとか、自分の欲のために消費しようとか、そういうことには執着しないのです。そういうわけで、もともと子供のいる人、健康の人、お金のある人も、こうしたことが自分にはどうあてはまるのだろうかと考えてみることは大事でしょう。

2.神は、全ての時代の全ての国民・民族を射程において、人間救済計画をたてて実施したが、計画と実施自体は特定の時代の特定の民族を通して行った。

次にザカリアの預言の本体をみてみましょう。この預言は、来るべき救世主メシアについて預言しているものではありますが、内容も言葉づかいもとてもユダヤ民族の利害と観点を反映しています。69節で「神は私たちのために救いの角をその僕であるダビデの家から起こされた」と言いますが、その「救い」とは、71節で「私たちの敵からの救い、私たちを憎む全ての者の手からの救い」であると言っています。つまり、ユダヤ民族に敵対する諸民族の脅威から自由になることが「救い」を意味しているのです。そうして、敵対民族の手から救われたあかつきには、74-75節にあるように、「私たちの全ての日々において、神の御前にて、神聖さと義にあって、おそれを抱くことなく、神に仕える」ことができるようになるのであります。このようにメシアの役割は、イスラエルを完全な民族自決国家として再興させて、あらゆる敵対民族を撃退してそれらの汚れを遠ざけて、神聖さのうちに完全な礼拝を実現させるというふうに考えられています。そのようなメシアの登場は、太古からの預言者の預言(70節)や神のアブラハムへの約束(73節)の中に言われていたというのであります。さて、67節で、ザカリアは「聖霊に満たされて」預言したと言っていますが、それでは聖霊を送った神は、来るべきメシアを全世界に及ぶものでなく、特定の民族にかかわるものと考えていたのでしょうか?

実は、神はメシア救世主を全世界的なものと考えていました。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥ったために罪が人間の命に入り込むという堕罪が起きてしまいました。しかし、その直後、創世記3章15節に神の人間救済計画が早くも預言されています。神はそこで、蛇の姿をとる悪魔に対し、「将来、人間から生まれてくる一人の者がお前の頭を叩き割る。だだし、お前も彼の踵を打ち砕くことになるが」と宣言されます。つまり、自分を犠牲にして悪魔を打ち滅ぼす者が現れるというのであります。それが、イエス・キリストでした。創世記12章3節で、神は後にアブラハムという名前にかわるアブラムに対して、彼が受ける祝福は世界の全ての民族にとって祝福になる、と約束します。このように神の考える救いとは、全世界の人間に及ぶものなのです。それでは、なぜザカリアの預言では、救いがユダヤ民族中心のもののように言われるのでしょうか?

それは、神が全世界の人間の救いを考えて、御自分の意思を人間に伝える時、意思を伝えられた人間の方は特定の具体的な歴史状況の中で生きていたという事情があります。それで、全世界的な観点と一民族的な観点のギャップが生まれる原因になったのです。神は、悪魔の頭を叩き割る救世主がユダヤ民族の中から生まれてくると定められました。そうなると、救世主が登場するまでは神の目はユダヤ民族を中心に向けられ、ユダヤ民族の歴史とともに歩むことになります。そこで、御自分の意思を告げる時はいつも、将来実現する全世界の人間の救いが根底にはあるとは言え、その意思はいつもユダヤ民族のその時その時の具体的歴史状況に関係するものにもなります。例として、イザヤ書53章に、人間の罪を背負って自ら苦しみを受けることで人間を罪から贖う神の僕についての預言があります。キリスト信仰の観点では、これはイエス様を指す預言だとわかります。しかし、この預言は、バビロン捕囚が終わる頃の歴史的状況にいたユダヤ人にとっては、捕囚に陥った自分たちが民族の犯した罪の罰を受けた、それで民族は赦しを得て再出発できるという、そういう理解になります。その場合、捕囚のユダヤ民族が神の僕になってしまいます。

神が特定の民族の特定の歴史と関係を持ちながら、人間救済計画を立案し実施したという事実は、特に旧約聖書を読むときに注意する必要があります。そこには、全世界の人間の救いを実現しようとする神の意思が働いているにもかかわらず、神から啓示を受けた人たちやそれを書き留めた人たちは皆、特定の歴史状況の中で生きていた人たちでした。そうした状況に基づく利害や観点が表面に出てくるのは当然です。現代において、旧約聖書を読む人の中には、神の人間救済計画などという超歴史的なものは一切見ないで、純粋にその場限りの歴史を語る歴史書物として読む人が大勢います。そういう人は、旧約聖書の個々の書物の歴史状況やそれに基づく利害や観点や思想を知ろうとして、旧約聖書を繙くのです。しかしながら、もし、キリスト信仰者が旧約聖書を信仰の書物として読もうとするのならば、歴史的な利害や観点を常に超える神の人間救済計画というものを念頭に置いて読まなければなりません。ルターも、キリストを見出さない旧約聖書の読み方は意味がないと言っています。それに、天と地と人間を造った旧約の神と救い主イエス・キリストを送られた神は同じ神であるというのがキリスト信仰なのですから。

3.キリストは、死の陰に座する全世界の全ての人々を照らして、平安に導く光である。

ザカリアの預言には、メシア救世主とその役割の理解についてユダヤ民族の利害・観点が強くでていると申し上げました。しかしながら、預言の終わりの方になると、ユダヤ民族中心のメシアなのか、全世界の人間の救いを担当するメシアなのか、はっきりしなくなる部分がでてきます。まさに、個々の歴史状況の利害と観点に覆い隠されてしまってはっきり見えなかった全人類的な救済計画が頭をもたげてくる部分です。

まず、76節に入って預言は、ザカリアの息子洗礼者ヨハネについて述べます。ヨハネがメシアに先立ってその道を整えるという、イザヤ書40章3章の預言の実現であることが言われます。そして、77節で、ヨハネはユダヤ民族に「救いの知識を与える」と言われていますが、その救いは先に述べたような敵対民族からの解放ではありません。ここでは、救いは、「罪の赦しに結びつくもの」と言われています。さらに78節に入ると、その罪の赦しに結びつく救いは、「神の憐れみ深い心によるもの」と言われて、その神の憐れみ深い心があることで、「いと高きところから朝日のような光が地上の私たちのところにやってくる」。79節に入ると、その光がやってくる目的が明らかにされます。それは、「暗闇と死の陰に座する者たちに顕現するためであり、彼らの足取りを平和の道に向けるようにするためである」。

天から到来する光が、死の陰に座する者たちの目の前に輝き現れて、彼らの足取りを平和の道に向けるようにする。これは、まさにユダヤ民族を超えた全世界の全ての人にかかわる救いを意味します。先にも述べましたように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になったことが原因で、人間の内に罪が入り込み、その罪の呪いの力が働いて、人間は死する存在になってしまいました。「ローマの信徒への手紙」6章23節で使徒パウロが、罪が払う報酬は死である、と言っている通りです。人間は、代々死んできたころから明らかなように、不従順と罪を代々受け継いできたのです。「死の陰に座する」というのは、まさに、人間が不従順と罪の支配の下におかれて死に定められている状態を指します。しかし、神は、人間の全ての罪と不従順を全部イエス様に背負わせて、彼があたかも全ての張本人であるかのように仕立てて、十字架の上で全ての罰を受けさせて死なせました。このイエス様の身代わりの犠牲に免じて、人間の罪を赦すという手法を神は採ったのです。それだけで終わりませんでした。今度は神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて、堕罪以来閉ざされていた永遠の命への扉を人間のために開かれました。このように神は、ひとり子イエス様を用いて、罪が人間に対して持っていた支配力を無力にし、死を超える命の可能性を人間のために開かれたのです。これが、天地創造の神の人間救済です。

これから明らかなように、「足取りが平和の道に向けられる」という「平和」とは、敵対民族との戦争状態がユダヤ民族の勝利で終わって平和がもたらされるということではありません。ここでいう「平和」とは神との平和であります。神聖な存在である神は罪や不従順の汚れを憎み、焼き尽くしたいと思う方です。そのため、堕罪以来、人間と神の間には戦争状態が存在していました。ところが神は、先ほど申し上げたように戦争状態の原因であった人間の罪と不従順を全部イエス様に背負わせて、私たちの身代わりとして罰を受けさせて死なせたのです。「ガラテアの信徒への手紙」3章13節で使徒パウロが言うように、神のひとり子が私たち人間にかわって呪われた者にされて神の罰を受けたのです。まさに、私たちがその罰を受けないですむように。そこで私たち人間がイエス様こそ自分の真の救い主であると信じて洗礼を受けるならば、その人は、イエス様の身代わりの犠牲の死に免じて神から罪の赦しを得られます。人間は神から罪の赦しを受けると、神との戦争状態から脱して(エフェソ2章16-17節)、神との結びつきを回復します。こうして人間は、神との平和を永遠に享受することになるのです。「永遠に」というのは、神から「罪の赦しの救い」を受けた時点から、この世の人生の歩みにおいてずっと、さらに死を超えて永遠の命を持って生きるようになるまでの間ずっと、ということです。

だから、この世の人生の歩みにおいて、なにか外的に不利な条件を被ることが起きても、それは、私たちが神から与えられている罪の赦しの恵みと憐れみが減ったということではありません。人によっては、不治の病にかかったり、経済的な困難に陥ったりすると、神に見捨てられたとか、神の怒りに触れたとかいうような捉え方をする人もありますが、キリスト信仰においては、そんなことはありえません。洗礼を受けた以上、不従順と罪の呪いから解放されて永遠の命に至る道を歩んでいるということは、病気になろうが貧乏になろうが、そのままだからです。神との平和を享受しているということはそのままです。このことを人生の土台にして、あとはその人生に入り込んだ不利な条件にどう対処していくかです。不利な条件が大きすぎたり重大なものだったりして、人生がひっくり返るくらいのものに感じられる時があるかもしれません。しかし、イエス様の十字架の贖いの業と死からの復活という人生の土台は微動だにしません。そうした土台の上に立つ人生もひっくり返ることはありません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように  アーメン

 

 

主日礼拝説教 2014年12月21日 待降節第四主日の聖書日課 ルカ1章67節-79節、ゼファニア3章14節-17節、フィリピ4章2-7節

説教:高井保雄 牧師(羽村教会) 本日は羽村教会との講壇交換により高井保雄 牧師をお迎えいたしました。

羽村教会との講壇交換のために吉村先生は羽村教会にて司式・説教の奉仕をなさいました。

羽村教会での吉村博明宣教師の説教。

主日礼拝説教 

2014年12月14日(待降節第三主日)羽村教会

ヨハネ1章19-28節、イザヤ61章1-4節、第一テサロニケ5章16-24節

 説教題 「主が来られる道を整えよ」

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 今年は11月30日が待降節の第一主日となって、キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。そういうわけで、本日は教会新年の三回目の主日です。待降節とは、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間であります。この期間、私たちの心は、2千年以上の昔に現在のパレスチナの地で実際に起きた救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を送られた神に感謝し賛美しながら、降臨した救い主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。

待降節や降誕祭は、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、私たちキリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからであります。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、主の第一回目の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨を待つ心を活性化させる期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、ああ終わった、めでたし、めでたし、のお祝いですますのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を強めて、身も心もそれに備えるようにしていかなければなりません。イエス様は、御自分の再臨の日がいつであるかは誰にもわからない、と言われました。イエス様の再臨の日とは、この世の終わりにあたる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。それはまた、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつであるかは、父なるみ神以外には知らされていません。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。主の再臨を待ち望む心を強め、身も心もそれに備えるようにする、というのが、この「目を覚ましている」ということであります。

それでは、主の再臨を待ち望む心とは、どんな心なのでしょうか?「待ち望む」と言うと、何か座して待っているような受け身のイメージがわきます。しかし、そうではありません。キリスト信仰者は、今ある命と人生は自分の造り主である神から与えられたものであるという自覚に立っています。それで、各自、自分が置かれた立場、境遇、直面する課題というものは、取り組むために神から与えられたものという認識があります。それらはまさに神由来であるがゆえに、キリスト信仰者は、世話したり守るべきものがあれば、忠実に誠実にそうする。改善が必要なものがあれば、やはりそうする。また、解決が必要な問題は、解決に向けて努力していく。こうした世話や改善や解決をしていく際の判断の基準として、キリスト信仰者は、まず、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかどうか、ということを考えます。それと同時に、この神への全身全霊の愛に基づいて、自分は隣人を自分を愛するが如く愛しながらやっているかどうか、ということを絶えず考えます。このようにキリスト信仰者は、現実世界の中にしっかり留まり、それとしっかり向き合い取り組みながら、なおかつ、心の中では主の再臨を待ち望むのであります。ただ座して待っている受け身な存在ではありません。

さて、主を待ち望む信仰者が心得ておくべきことがいろいろあります。本日の福音書の箇所は、そのことについてひとつ大切なことを教えています。今日は、そのことを見てまいりましょう。

 

2. 本日のヨハネ福音書の箇所は、先週のマルコ福音書1章同様、洗礼者ヨハネが来るべきメシア救世主のために道を整える役割を果たしたと伝えるところです。ヨハネは、人々に「悔い改めよ」と説いて、来るべきメシア救世主を受け入れる準備としての洗礼を施し始めました。ユダヤ教社会の宗教指導者たちは、これが旧約聖書マラキ書3章に預言されている神の裁きの日の前に神から送られる預言者エリアではないかと心配しました。ご存知のように、エリアは列王記下2章に記録されているように、生きたまま天に上げられた人物だったので、ユダヤ教社会では、このマラキ書の預言に依り、神は来るべき日にエリアを地上に送ると信じられていたのです。しかし、洗礼者ヨハネは、自分はエリアではなく、ましてはメシア救世主などでもない、自分は、イザヤ書40章に預言されている「主の道を整えよ」と叫ぶ荒野の声である、と自分について証します。つまり、神の裁きの日、この世の終わりの日はまだ先のことで、その前に、本日の旧約の箇所イザヤ書61章にも預言されている神の僕がまず来なければならない、自分はその方のために道を整えるものだ、と自分の使命について証をします。そのために、人々に罪の告白をさせて、身も心も神への立ち返りを目指すようにする助けとして洗礼を授けたのです。ただ、これはまだイエス様が実現する「罪の赦しの救い」そのものを与える洗礼ではありませんでした。ヨハネの洗礼は、人々を「罪の赦しの救い」に導くための出発点だったのです。

「主の道をまっすぐにせよ」とは、ギリシャ語の単語エウテュナテευθυνατεは「平らにせよ」とも訳せますが、いずれにしても道を整えなさいということです。つまり、主が遠方から私たちのところにやってくるので、私たちのところに来やすいように曲がりくねっている道を真っ直ぐにし、道の上の障害物を取り除きなさいということです。バリアフリーにしなさいということです。ここで注意しなければならないのは、神も神が送られるメシア救い主も、もし本気で私たちのところに来ようと思えば、障害物などものともせずに到達できます。もし到達できないとすれば、それは神と救い主に障害物を超えられない弱さがあるからではありません。私たちが自分で障害物をおいているか、または取り除かないままにして、ここから先は来ないで下さいと決めてかかるので、神の方でそのままほっておかれるのです。

 私たちの内にある神と救い主の近づきを妨げる障害物とは何でしょうか?それを、私たちはどうやったら取り除くことができるでしょうか?そもそも、神と救い主が私たちに近づくというのは、どういうことなのでしょうか?私たちは、その近づきがとても良いものであるとわからなければ、何が障害になっているのかとか、それをいかに取り除くことができるかということには興味を持とうとはしないでしょう。そういうわけで、最初に、神と救い主が私たちに近づくということはどういうことなのか、どうしてそれが素晴らしいことなのか、ということについて考えてみます。

「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。神はなぜ離れたところにいるのか?実は神は、もともとは人間から離れた存在ではありませんでした。創世記の最初に明らかにされているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいる存在だったのです。それが、最初の人間アダムとエヴァが、悪魔の言うことに耳を傾けたことがきっかけで、神の言った言葉を疑い、神が取ってはならないと命じた実を食べてしまいました。この神への不従順が原因で人間の内に、神の意思に背こうとする罪が入り込み、その罪の呪いの力が働いて、人間は死する存在になってしまいました。「ローマの信徒への手紙」6章23節で使徒パウロが、罪が払う報酬は死である、と言っている通りです。人間は、代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできたのです。このように、神が人間から離れていったのではなく、人間が自分で離別を生み出してしまったのです。こうして、人間は、神との最初にあった結びつきを失ってしまいました。

 これに対して、神はどう思ったでしょうか?身から出た錆だ、勝手にするがいい、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、たとえこの世から死ぬことになっても、その時は永遠に自分のところに戻ることができるようにしてあげよう、と考えて人間救済の計画をたてました。そして、それを実現するために、ひとり子のイエス様をこの世に送られたのです。神の人間救済計画は、旧約聖書を通して、その都度その都度その都度預言されていきます。実に旧約聖書は、来るべき救世主について証する書物群なのです。

 神が人間の救いのためにイエス様を用いて行ったことは次のことです。人間は自分の力で罪と不従順を心身から除去することができない。それが出来ない以上、人間は罪の呪いの力の下に留まるしかない。そこで神は、人間の全ての罪と不従順を全部イエス様に背負わせて、彼があたかも全ての張本人であるかのようにして、十字架の上で全ての罰を受けさせて死なせる。このイエス様の身代わりの犠牲に免じて、人間の罪を赦すという手法を取ったのです。それだけで終わりませんでした。今度は神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて、堕罪以来閉ざされていた永遠の命への扉を人間のために開かれました。このように神は、ひとり子イエス様を用いて、罪が人間に対して持っていた力を無力にし、死を超える命の可能性を人間のために開いたのです。これが、天地創造の神の人間救済です。

 このように、遠いところにおられる神は、ひとり子イエス様を人間のいる地上に送ることで、さらにその彼を通して、私たちに近づかれたのです。それは、私たち人間が神との結びつきを回復できて、再び永遠の命を持つことができるためでした。このことは、ヨハネ福音書3章16節にイエス様の言葉として凝縮されています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

3. それでは、神がこのように私たちに近づかれた時、私たちの方で神の近づきを妨げるものは何でしょうか?それは、どうやって取り除くことが出来るのでしょうか?この質問に答える前に、まず逆に、どうやったら神の近づきを受け入れることができるのかを見てみましょう。

私たちは、十字架に架けられたイエス様が全ての人間の全ての罪と不従順を背負われたと聞きました。その時、まさに自分の罪と不従順が他の人たちの分と一緒に十字架上のイエス様の肩に重くのしかかっていることに気づくことができるでしょうか?それが決め手になります。ああ、あそこに血まみれになって苦しみあえいでいるイエス様の肩に、頭に、私の罪と不従順がはりつけられている、と直視することができるでしょうか?それができた瞬間、それまで歴史の教科書か何かの本で言われていたこと、2000年前の彼の地である歴史上の人物が処刑されたという遠い国の遠い昔の事件が、突然、現代のこの日本の地に生きる自分のためになされたのだということが明らかになります。それは、異国の宗教の話などではなく、まさに天と地と人間を造り、人間に命と人生を与えた全人類の創造主である神の計らいだったのだということが明らかになります。あのおぼろげだった歴史上の人物が、明瞭に私たちの目の前に私たちの救い主として立ち現われてくるのです。

 イエス様が私たちの救い主として立ち現われた時、それはもう彼を自分の救い主と信じることです。人間は、イエス様を自分の唯一の救い主と信じた時、神から相応しい者、義なる者と認められます。神は、お前は私がお前に送ったイエスを救い主と信じた、だから彼の身代わりの犠牲に免じて、お前の罪を赦そう、と言ってくれるのです。私たち人間はまだ肉を纏っている以上は、罪と不従順を内に宿しています。しかし、神は、それが理由で神との結びつきを認めない、とは言われません。イエス様を救い主と信じる以上は罪を赦す、と言われるのです。罪が赦されるというのは、罪の効力が無効にされたということ、罪の支配力がその人に対して無力になったということです。人間は、罪の赦しを得ることで神との結びつきを回復できるのです。

しかしながら、罪の支配力が無になったとは言っても、支配力を無にされた罪は怒り狂って、あたかもまだ勢力を保っているように見せかけて、隙を見つけては信仰者を惑わし、再び人間を罪の支配下に置いて、神との結びつきを失わせようとします。これが悪魔の仕事なのです。人間は、イエス様を唯一の救い主と信じる信仰で、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け取ることができのですが、それが一過性のもので終わってしまったら、それは救いではありません。この救いを持続的に持てるために、洗礼が必要なのです。なぜなら、洗礼によって、人間に神の霊、聖霊が注ぎ込まれるからです。聖霊は、私たちがこの世の人生の歩みの中で、ややもするとイエス様が唯一の救い主であることを忘れたり、自分が救われた者であることを忘れてしまう時に、いつも私たちをイエス様のもとに連れ戻す働きをします。私たちに残存する罪や悪魔だけでなく、私たちが人生の中で遭遇する様々な苦難や困難も、私たちには救い主がいることを忘れさせようとします。そのような困難の真っ只中にあっても、イエス様が私たちの救い主であることになんら変更はない、私たちが救われていることは洗礼の時からそのままである、としっかり答えられるのは、これは聖霊が働いている証拠です。使徒パウロも同じ聖霊の働きを受けて次のように述べたのです。

「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」(ローマ8章38~39節)

 

4. それでは、このような素晴らしい救いを与えて下さる神とイエス様の近づきを、人間が受け入れない理由は何なのでしょうか?ひとつには、宗教的な理由があります。世界のいろいろな宗教はそれぞれ、救いの意味や内容について自分たち独自の定義を持ち、救われ方もそうした定義に基づいているので、聖書の神とイエス様の近づきは当然相容れないものになります。宗教によっては、現世の問題解決に役立つことを強調して人を惹きつけるものもあります。そうした人たちから見たら、先のパウロの言葉のように、苦難・困難の真っただ中にあっても、イエス様を救い主と信じる限り、神の愛は苦難・困難がない時と同じくらいに注がれている、という確信は、きっとナンセンスでしょう。しかし、私たちキリスト信仰者にとって、それは真理なのであります。

神とイエス様の近づきを受け入れないのは、宗教的でない理由もあります。その一つとして次のような考え方があります。「なぜ、ことさら罪とか不従順とかを強調するのか、そんなのは神の裁きから救われる必要性を持ち出す便法だ。誰も完全な人間など存在せず、ひとりひとりが弱さと強さ、良い点と欠点を持っているのだから、人間をそういうものとして認めて受け入れるのが本当の愛だ というものです。実は、神も、人間のことを弱さや欠点を持っている者として認めて受け入れているのです。それだからこそ、罪と不従順を全部イエス様に負わせたのです。人間には背負いきれないと知っていたからです。人間に、「罪と不従順を即刻除去せよ、さもないとお前は永遠の火に焼かれる とはおっしゃりませんでした。「私は、お前の罪と不従順をお前から取り除いて、私の独り子に張り付けて彼にその罰を下したのだ。それを忘れるな とおっしゃっているのです。私たちが優等生だから褒美としてイエス様を送られたのではなく、どうしようもない存在だから送られたのです。

そういうわけで、キリスト信仰で人間をそれとして認めると言う時、それは、創造者を抜きにした被造物同士の認め合いではありません。自分を造ってくれた神が、神の意にそぐわなくなってしまった自分を御子イエス様の犠牲のゆえに受け入れてくれたということが出発点になっています。そうした神の私たちに対する深い愛への驚きと感謝の念がその後の私たちの人生の屋台骨を形作ります。神の御心と意思に沿う生き方をしよう、少なくとも沿う考え方をしよう、と志します。しかし、それはいつも限界にぶつかり、挫折もします。それゆえ、主日礼拝で罪の告白を相も変らず唱え続けなければなりません。告白に続く罪の赦しは、「洗礼でお前に与えられたものは何も失われていないから安心して行きなさい と確証を与えるものです。主の道を整えるとは、このように、洗礼を受ける前だけではなく、洗礼を受けた後も続きます。ルターは、人間が完全なキリスト教徒になるのは、死ぬ時に朽ち果てる肉体を脱ぎ去って、復活の日に朽ちない体をまとう時になってからだと教えます。その日までは、神の意思に反することが自分自身にも自分の周囲にも沢山現れて、私たちを気落ちさせて神の愛から切り離そうとします。そうしたことを相手に苦しい戦いを強いられることが何度も何度も繰り返されます。しかし、神の意思に反することを体現しているものは、恐るべきものではありません。本当に恐れるべきものは、人間を造り、一人一人の髪の毛の数まで数えておられ、肉体だけでなく魂も滅ぼすことが出来る神であります。その神が大きな愛を示して私たちにイエス様を送って下さいました。イエス様は、十字架の死と死からの復活を成し遂げられることで、罪と死と悪魔が私たちを服従させようとする力を無にして下さいました。そのイエス様が、マタイ福音書28章20節で、信じる者たちと毎日、世の終わりまで共にいる、と約束されました。なにをか恐れじです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「バプテスマのヨハネの出現」木村長政 名誉牧師、マルコによる福音書1章1~8節

12月に入りました、いよいよクリスマスが近づいてまいりました。イエス様のご誕生を祝う前に、必ずと言って良い程バプテスマのヨハネが現れた、ことが語られます。 今日の聖書はマルコによる、福音書1章1~8節です。これまで何回となく、この箇所を見て来ましたが、たいていは、先ず1節については読むだけでマルコ福音書全体の表題がつけられたような気持ちで通り過ぎます。

そして、今日の箇所の本題は、2節から4節に行きます。そこには、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現われて、罪の赦しを得させるため、『悔い改め』の洗礼」を延べ伝えた」。 そのヨハネは旧約聖書の時代から、すでに、預言者イザヤによって、預言された人物であった。と2節から3節で記しているわけです。聖書学者、ウイリアム・バークレーによりますとマルコはイエスの物語を遠くさかのぼって始めている、と言っています。イエスの地上への誕生で始まっていない。バプテスマのヨハネの荒れ野出現で始まってもいない。それは預言者たちの夢をもって始められた。と言っているのです。

つまり、ずうっと昔に神の心の中で始まった、と言うのです。神の秩序の中にある計画があった。歴史は、最初に最後を見ておられる神によって導かれていくものである。聖書の福音書の最初の出だしの一行がどんなに大切な意味をもって、始められているかとても重要な点です。それでマルコ福音書のは、「神の子、イエス・キリストの福音の初め」。と記されています。マタイ福音書の1章1節には「アダムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」ではじまっています。イエス・キリストの誕生の出来事については18節から記されています。マルコ福音書はクリスマスの出来事について何もふれていないのです。

マルコによる福音書、とありますから、これはイエス様についての伝記ではない「マルコが伝えた福音」ということです。福音書は確かに伝記のような形で書いてありますが、 ただ歴史的興味から読むべきではなく、教会の信仰によって、貫かれた福音書を読むべきでしょう。著者のマルコは、ペテロの通訳であったらしいのです。ですから、ペテロから聞いた話も多くあるのでしょう。そして初代教会で伝えられていることをまとめて、編集したでしょう。大体紀元65年頃書かれた、と言われます。四つの福音書の中で一番古い福音書であります。

マルコは主イエス様がなさった事、語られた教えを福音書の中で語りながら、だひたすら福音を語るつもりで書いているのです。こうして冒頭の言葉は「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」であります。これは神の子について書いたものである、ということです。 この福音書を読んで主イエス様のなさったこと、教えられた言葉を知って信じることで「福音」を得ることができる。福音は神のによって救われるということ。そうするこのお方はただの人ではない、ことがわかります。それは神がこの地上に来られた、ということであります。神の子が地上に来られた、ということは、はあまりにも異常なことであり、不思議な神秘に満ちたことです。

マルコはイエス様のご生涯のことを書いたのでしょうが彼は、はじめから「神が来た」と言っているのです。そのことが福音である、というのです。神は何のために、この世に来たのでしょうか、それは神が造られた世界を神が取り戻すためであります。神が造られた世界は人間の罪のゆえに神から離れてしまいました。だから、もう一度、神のものにしようというのです。そのためには、どんなことが必要でしょうか。問題は人間の罪をどう解決しようとするかです。罪を解決するには、その罪に対して罰したら解決するでしょうか。 罪を厳しく加えていっても罪がなくならない。罪の解決は罪を赦すほかないのです。

神の子が来て、この世で働かれたのもそのためでありました。神の子が働く、というのは 具体的にはどいうことでしょうか。それが、イエス・キリストの生き方そのものであります。マルコが「神の子イエス・キリスト」と言ったのは、神がこの世にあって働く、ということはイエス・キリストにおいて見ることができるというこなのです。イエス・キリストを見るというのは、イエス・キリストというお方をキリスト、救い主として信じることであります。マルコは主イエスというお方のことを、人間の伝記のように語りまがら、ここに神が救い主として働いておられる、ことを示そう、としたのです。

人間イエスの事を書いているように見えながら、実は救い主キリストのことを信仰をもって書いているのであります。「神の子、イエス・キリストの福音が始まった」そして、いよいよ、マルコ福音書には次に洗礼者ヨハネが荒れ野に現れた、ことを記しています。その冒頭に、預言者イザヤの預言をもってきました。「見よ、わたしは、あなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする、『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」と宣言しています。こうして預言者の預言のとおり、神より遣わされたヨハネのいでたちと生活がどんなものであったか、6節以下、8節までに記しています。ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締めていなご、と野密を食べていた。

どうして、このような生活をしていたのでしょうか。ユダヤ人の普通の生活では想像できない、野蛮的な姿です。今回私は、ここで新たな発見をしました。今まではここを読むだけで、とにかくヨハネはよほどの変わり者で荒れ野に現れたのだから、らくだの毛衣に腰に皮の帯であったのだろうと想像するくらいでした。ところが旧約聖書、列王記下1章8節に「預言者エリヤはらくだの毛衣を着て皮の帯を腰にしめていた。」とあります。そうすると。ヨハネは預言者エリヤと同じ格好で登場したということです。もう一つ注目したいのは、「荒れ野に現れた」ということです。イザヤ書40章3節の言葉が引用されているのです。第二イザヤと言われる人がイスラエルの歴史の中で最も悲劇的な時代であった、バビロンの捕囚の時に記している預言です。

ここでは、荒れ野というのはバビロンの地のことです。バビロンに捕らわれの身であるイスラエルの民は故郷イスラエルのことを思い、望郷の念にかられた、いつか帰国を切望しながら、故国への遥かな道のりを思い、そこに横たわる荒野を見るのです。その荒れ野で声が聞こえた。それと同じように洗礼者ヨハネはユダヤの荒れ野に立てこもって叫んだのです。荒れ野には人が住んでいません。又住もうとも思わない、そういうところです。とにかく水がないのです。ですから草木も花も何もない、岩と石ころの荒れはてた地です。しかし、出エジプトをしたイスラエルの民を40年間荒れ野の旅をするのです。 そこには徹底した神の導きと助けによって歩むことができた旅でありました。預言者エリヤは自分の弱さを知り、嘆き途方にくれた時、荒れ野に導かれて、神の声を新しく聞きなおしました。荒れ野とは神と共にあるところです。神のみ声を聞くところです。そうして神の導きがあります。

バプテスマのヨハネは、そのような荒れ野に立ち、そしてやがて「悔い改めよ」と叫び、 ヨルダン川で洗礼を授けます。ユダヤ全土からぞくぞくとこのヨハネのもとに来たのです。 身分の差別なく、ユダヤ人も異邦人も貧しい人々も誰もが来たのです。洗礼を誰もが受ける、ことができる。罪の赦しは、皆が受けなければならないのです。罪の赦しがなければ、誰も生きられないからです。誰もが罪の許しを得るために、悔い改めなければならないからです。悔い改めなしに生き得る義人はいないのです。人は自分で悔い改めができる程 、するどい、良心というものを求められるわけではありません。悔い改める、ということは向きを変える。生き方の方向を変えられることです。自分中心の、わがまま、から自分の思っていることが一番と思い込んでいる自分をすてることです。神様の導きを受け入れる、神様に向きを変えられて、祈っていく生活です。神の、みもとに帰るのです。

そこにヨハネの、バプテスマの意味がありました。そうして、ヨハネは言われました「わたしよりも優れた方が後から来られる」と。優れた方とは、「より力がある方」という意味です。この方は「聖霊によって、バプテスマを授ける方」です。ヨハネは言いました「わたしは、この方の靴のひもを解く値打ちもない。」靴のひもを解く務めを与えられた、奴隷にも値しないのです。というのです。主イエスという方が、いかに高い存在の方か。神なのですから比べようがありません。そのイエス様が、ここに来て下さる、聖霊による業を始めて下さるのです。

私たちは、教会の礼拝で、まもなくクリスマスを迎えます。救い主、イエス様が降誕された喜びを迎えるため、み言葉によって、清められその心を備えていきましょう。アーメン

説教「ホサナ - 人知をはるかに超える神の計画」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書11章1-11節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 本日は待降節第一主日です。教会の暦では今日が新年です。これからまた、クリスマス、顕現主日、イースター、聖霊降臨主日等の大きな節目をひとつひとつ迎えていく一年が幕を開けました。スオミ教会と教会に繋がる皆様が父なるみ神の恵みと憐れみのうちにとどまり、皆様一人一人の日々の歩みの上に神からの豊かな祝福と良い導きがありますように。

(c) 2006-09-25 by MMBOX PRODUCTION

 本日の福音書の箇所は、イエス様が子ロバに乗って、エルサレムに「入城」する場面です。ここで少しノスタルジーになってしますが、フィンランドやスウェーデンのルター派教会での待降節第一主日の礼拝はどのようなものか少しお話しして、それから本題に入っていこうと思います。

 両国の待降節第一主日の礼拝の流れは毎年同じで、福音書の日課は、本日と同じマルコ11章1~11節、またはマタイ21章1~11節ないしはルカ19章28~40節です。福音書の朗読が群衆の歓呼のところまでくると、そこでいったん止まってパイプオルガンが威勢よくなり始め、会衆みんな一斉に讃美歌第一番「ホーシアンナ、ダビデの子よ」を歌います。そのようにして、聖句の群衆の歓呼の部分をみんなで歌うことで置き換えます。普段は人気の少ない教会もこの日はなぜか人が多く集まり、国中の教会が新しい一年を元気よく始める雰囲気で満ち溢れます。礼拝のみんなが歌う場面は、テレビのニュースにも毎年必ずと言っていいほどでるくらいです。ただ、フィンランドもスウェーデンも、国民の教会離れ、聖書離れは近年強まる傾向にあり、こうした国民的なキリスト教の伝統は果たしていつまで続くでしょうか?

 ところで、先ほど言及しましたフィンランドとスウェーデンの讃美歌第一番ですが、日本語訳の聖書にあるホサナという言葉ではなくて、ホーシアンナ/ホシアンナという言葉を使います。両国のルター派の聖書の本日の箇所も、ホサナではなく、ホーシアンナ/ホシアンナになっています。何が違うのでしょうか?このホサナとかホーシアンナ/ホシアンナというのは、もともとは詩編118篇25節の中にある言葉から来たものです。それは、「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」と神に助けを求める歌です。原語のヘブライ語に忠実に訳すと「主よ、どうか救って下さい。どうか、栄えさせてください」となりますが、この「どうか救って下さい」というのが、ヘブライ語でホーシィーアーンナーהושיעה נא と言います。本日の箇所の群衆の歓呼の内容は、まさにこの詩編118篇25~26節からの引用に基づいています。そのため、日本語訳聖書のようなホサナと言わずに、ホーシアンナ/ホシアンナと言った方が、引用元の詩編の聖句に忠実ということになります。では、どうして日本語の聖書ではホーシアンナ/ホシアンナと言わずに、ホサナと言うのでしょうか?

ホサナというのは、実はヘブライ語のホーシィーアーンナーהושיעה נא をアラム語に訳したホーシャーナーהישע־נא のことです。イエス様の時代、現在のパレスチナの地域では、ヘブライ語は旧約聖書を初めとするユダヤ教社会の書物の言葉としては使われていましたが、人々が日常に話す言葉はアラム語という言葉でした。ユダヤ教の会堂シナゴーグで礼拝が行われる時も、ヘブライ語の旧約聖書の朗読にはアラム語の訳がつけられていました。さて、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事の後、それらの出来事の目撃者となった弟子たちが生き証人になって、イエス様は真に天地創造の神のひとり子であり、人間の救い主であると宣べ伝え始めました。最初は口伝えの伝承と断片的に書きとめられた記録が宣べ伝えの媒体で、その言葉はアラム語でした。やがて宣べ伝えがローマ帝国の東側に広がりだすと、そこはギリシャ語が公用語の世界でしたので、アラム語の伝承と記録はどんどんギリシャ語に訳されていき、それで新約聖書は最終的にギリシャ語で出来上がったのでした。

しかしながら、伝承と記録全てがギリシャ語に直されたわけではありません。本日の箇所の群衆の歓呼は、ギリシャ語の文ではホーサンナωσανναになっていて、これはアラム語のホーシャーナーの言葉を訳さずに、そのまま音声をギリシャ文字で言い表したものです。ホーシアンナ/ホシアンナを使っているフィンランド語とスウェーデン語の聖書は、群衆が声に出したアラム語の言葉ホーシャーナーを引用元の詩篇のヘブライ語の言葉ホーシィーアーンナーに戻したことになります(ドイツ語の訳[ルター1912年版]も同様)。してみると、ホサナを使っている日本語訳の聖書は、意外にも当時の群衆の肉声がそのまま伝わるようになっていると言えます。(英語訳の聖書[NIV]やドイツ語のEinheits‐übersetsungはホサンナとなっていて、これはギリシャ語の発音にならうものです。)

 以上述べましたたことは、私たちの信仰の成長という観点から見たら、瑣末なことではあります。しかし、知っていれば、いればで、聖書を読む時、当時その場面にいあわせた人々の生の声に接することができます。聖書に書いてある出来事が何か空想から生まれたおとぎ話という淡い夢を打ち破り、本当にあったのだという臨場感を与えます。新約聖書にはこのホサナの他にも、イエス様自身が述べた言葉や文がアラム語の音声のまま記されて、日本語訳ではカタカナで表記されている箇所がいくつかあります。さらにマグダラのマリアの叫び声やイエス様に目を開けてもらった盲目の人の嘆願、また使徒パウロが初期のキリスト教徒たちから聞いた唱え文句の中にもアラム語の音声のままになっているものがあります。それらのうち一つは日本語の単語に訳されてしまっていますが、あとはアラム語の音声がカタカナで表記されています。聖書をよく読まれている方は、あのことだなと、すぐ思いつくでしょう。それらについては、いつか機会があれば一つ一つ見ていきたいと思いますが、ここで大切なことは、最初の目撃者たちの伝承をギリシャ語に直した人たちは印象深い言葉をギリシャ語に置き換えず、もともとの言葉のままにしたということであります。私たちは、聖書を読む時、こうしたアラム語の音声に触れることで、イエス様をはじめ当時それらを口にした人々の肉声に触れることができるのです。

イエス、ロバ、エルサレム入城2.さて、前置きが長くなりました。本題に入りましょう。このホサナないしホーシアンナ/ホシアンナは、もともとは、天と地と人間の造り主である神に救いをお願いする意味でした。それが、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時に歓呼の言葉として使われるようになっていました。従って、本日の福音書の箇所で群衆は、子ロバに乗ったイエス様をイスラエルの王として迎えたのであります。しかし、これは奇妙な光景であります。普通王たる者がお城のある自分の首都に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがった堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、子ロバに乗ってやってくるのです。この光景、出来事は一体何なのでしょうか?

 加えて、イエス様は弟子たちに子ロバを連れてくるように命じますが、まだ誰もまたがっていないものを持ってくるようにと言いました。まだ誰にも乗られていない、つまりイエス様が乗るという目的に捧げられるという意味であり、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのであります。つまり、この行為をもってこれから神の意志を実現するというのであります。さあ、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為、これから神の意思を実現するものであると、ひとり子ロバに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

 このイエス様の神聖な行為は、旧約聖書の預言書の一つであるゼカリヤ書にある預言の成就を意味しました。ゼカリヤ書9章9~10節には、来るべきメシア救世主の到来について次のような預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ロバの子であるろばに乗って。
わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。
戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。
彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。」

  ここで、「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原語のヘブライ語の文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」となります。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者です(私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってそのような義なる者とされます)。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した10節から明らかなように、神の力を受けて、世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者であります。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことを実現する者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と登場するのではなく、子ロバに乗ってやってくるというのであります。イエス様が弟子たちに子ロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。

 「神の神聖な意志を体現した義なる者」が「へりくだった者」であるにもかかわらず、最終的には全世界を神の意志に従わせる、そういう世界をもたらずという預言はイザヤ書の11章1~10節にも記されています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
目に見えるところによって裁きを行わず
耳にするところによって弁護することはない。
弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。
その口の鞭をもって地を打ち
唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
正義をその腰の帯とし
真実をその身に帯びる。
狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。」

このように危害とか害悪というものが全く存在せず、全てが神の守りの下に置かれている世界はもうこの世のものではありません。この世が終わった後に到来する新しい世です。その新しい世を導く「エッサイの根」とは何者かというと、エッサイはダビデの父親の名前なので、ダビデ王の家系に属する者であります。つまり、イエス様を指します。やがては今の世にかわって、このような神の神聖で善い意志に服する新しい世が到来する。その時に主導的な役割を果たすのがイエス・キリストということであります。今の世が新しい世にとってかわるという預言書に預言された大事業は、イエス様が担うことになりました。子ロバにのってエルサレムに入城するというのは、まさにその預言書にのっとった手順だったのです。それでは、今の世が新しい世にとってかわるという大事業は、イエス様によってどのように展開されていったのでしょうか?

3.この大事業は、当時の人たちの目から見て、まったく思いもよらない予想外の仕方で展開しました。というのは、彼らにとって、ダビデ王の末裔が来て新しい国を打ち立てるというのは、ローマ帝国の支配を打ち破ってユダヤ民族の王国を再興することを意味していたからです。人によっては、通常の地上の王国を考えていた者もいました。また、別の人たちは、今のこの世が終わりを告げて天と地が新しくされて死者の復活が起きる時(イザヤ66章22節、ゼカリヤ14章7節、ヨエル3章4節、ダニエル12章1~3節)、出現する超越的な世界を考えていた者もありました。この世的な王国であれ、超越的な世界であれ、いずれにしても当時の人々は、ユダヤ民族の王国が再興されるという形の新しいダビデの王国を考えていました。イザヤ書2章やゼカリヤ書14章に、諸国の軍事力が無力化されて、諸国民は神の力を思い知り、神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言があります。それだけを見れば、再興したユダヤ民族の王国が勝利者として全世界に号令をかけるという理解が生まれます。しかし、それはまだ預言の一面的すぎる理解でありました。イエス様の大事業には、預言の全ての面が含まれていたのであります。それを、以下にみてまいりましょう。

 エルサレムに入城したイエス様は、ユダヤ教社会の宗教指導層と激しい論争を繰り広げます。宗教指導層がもうこの男を生かしてはおけないと激しく憎悪を燃やした理由は三つありました。一つには、神殿から商人を追い出して、当時の神殿崇拝のあり方に真っ向から挑戦したということがあります。実は、このイエス様の行動は、ゼカリヤ書14章21節「万軍の主の神殿に商人はいなくなる」という預言と、イザヤ書56章7節「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という預言の成就を意味していたのです。二つ目の理由は、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王としてエルサレムに入城したことです。これには、ユダヤ教社会の指導層も、占領者ローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせてしまう、せっかく一応の安逸を得ているところに帝国の軍事介入を招いてしまう危険がある、なんと余計なことをしてくれるのかと慌てふためいたのでした。三つ目の理由は、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章に出てくる終末の日に到来する「人の子」であると公言していたことでした。「人の子」とは、終末の日に到来するメシア救世主を意味します。つまり、イエス様は自分を神に並ぶ者としていたのです。さらには、もっと直接的に自分を神の子と見なしていました。

こうしたことが原因となって、イエス様は逮捕され、死刑の判決を受けました。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。しかしこれは、旧約聖書の預言の一部分にしか着目しなかったことによる理解不足でした。まさにイエス様が十字架にかけられた後で、旧約の預言の全体が理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。

 イエス様が死から復活されたことで、死を超えた永遠の命への扉が開かれたことが明らかになりました。その扉は、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥って罪を犯して以来、人間は死する存在となって、ずっと閉ざされていました。それが、イエス様の復活によって再び開かれたのです。人間は、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、死を超えた永遠の命を持つことが出来るようになったのです。こうして、人間を死に打ち勝てない存在に貶めていた原因である神への不従順と罪が、人間に対する支配力を失ったことが明らかになりました。どこでどうやって、罪と不従順は支配力を失ったのでしょうか?それは、イエス様が十字架の上で人間の不従順と罪を全て請け負って人間のかわりに全ての罰を受けたことによります。人間は、イエス様のこの身代わりの犠牲に免じて、神から罪を赦されるのです。人間は、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この「罪の赦しの救い」を自分のものとすることができるのです。こうして、イエス様の言葉「人の子は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」(マルコ10章45節)の意味が明らかになりました。人間は罪と不従順の支配下にある奴隷の身だったのが、イエス様が自分の命を身代金として支払って解放して下さったのです。こうして、旧約聖書の預言の意味も次々に明らかになりました。イザヤ53章に預言されている神の僕とはまさにイエス様のことだったとわかったのです。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(3~6節)

「彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをなしたのは
この人であった。」(11~12節) 

 実にイエス様の十字架の死と死からの復活は、ユダヤ人であるかないかにかかわらず、全ての人間に救いをもたらすものとなったのです。イエス様の神聖なエルサレム入城は、この「罪の赦しの救い」の成就が目的だったのです。今のこの世が終わって次に来る世の王国の出現はまだ先のことになりました。神がイエス様を用いて「罪の赦しの救い」を実現した後は、今度は出来るだけ多くの人がこの救いを持てるように、イエス・キリストの救いの福音を宣べ伝えていかなければならなくなりました。その宣べ伝えはいろいろな反対者、時には迫害者をも生み出していきました。この軋轢と対立の中で人間の歴史は進んできました。これからも同じように進んでいくでしょう。しかし、それでも最終的には、「ヘブライ人への手紙」12章26~29節に預言されているように、この世の終わりが来て、天と地が新しくされるような大変動が起こり、今見えるものは全て揺り動かされて取り除かれて、唯一揺り動かさない神の国だけが見える形で現れて、新しい世が始まります。

イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事は、この神の国の構成員になる者がもはやユダヤ民族という特定の民族ではなく、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け取った人たちであるということを明らかにしました。さらに、諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言も、もはや地理上のエルサレムを意味せず、黙示録21章で天上のエルサレムと呼ばれる神の国そのものを意味することが明らかになりました。このように、イエス様の十字架と復活の出来事が起きたことで、旧約聖書の預言は、ユダヤ民族の王国復興の願いをはるかに超えた、全人類の救いにかかわるものだったことが明らかになります。これこそが、天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えた神の意図だったのです。このことを明らかにしたのが、イエス様でした。最初は、人々に教えることを通して、そして最後は、自分の命をうち捨てて神の計画を実現することで、神の意図を明らかにしたのです。

4.以上から、神の意図と計画を実現する大事業の第一弾として、イエス様が子ロバにまたがってエルサレムに入城したことの意味が明らかになりました。この大事業は、当時のユダヤ人たちの一面的な旧約理解をはるかに超える形で展開していきました。まさに、イエス様の十字架と復活の出来事は、旧約聖書を全体的に理解できるきっかけになったのです。

十字架と復活の後に続く時代、つまり私たちが今生きている時代は、いずれはイエス様が再臨する時に終わりを告げ、新しい世にとってかわられます。先ほども申しましたように、この間の時代は、人間が「罪の赦しの救い」を自分のものとすることができるように、イエス・キリストの救いの福音を宣べ伝えていく時代であります。この救いは全ての人間のために実現されたものである以上、できるだけ多くの人がその所有者になってほしいというのが神の意志です。それゆえ、いち早く「罪の赦しの救い」を受け取った私たちキリスト信仰者は、今度は、まだ受け取っていない隣人の心を、人間の造り主であり、かつ人間を罪の支配から贖い出して下さった神に向けさせるように心がけなければなりません。隣人に神とイエス様について教え伝える機会があれば、相応しい言葉を語ることが出来るように、神に祈りましょう。もし、適当な機会がなかなか得られなければ、機会を与えてくれるように祈りましょう。そして、その機会が来る日まで、またその後も、神がその方に働きかけられるよう、お祈りしていきましょう。それから、既に「罪の赦しの救い」を受け取ったキリスト信仰者同士でも、救いを手放してしまわないよう、それをしっかり持ち続けられるよう、お互いが支え合い助け合っていかなければなりません。ここでも、お祈りすることが重要な意味を持ちます。このように、神の御心に適った隣人愛を実践する際には、お祈りは大切です。このことを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2014年11月30日の聖書日課 マルコ11章1-11節、イザヤ63章15節-64章7節、第一コリント1章3-9節 


説教「最後の審判で神は何を裁くのか」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書25章31-46節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 本日は、聖霊降臨後最終主日です。教会の暦の一年は今週で終わり、教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。この教会の暦の最後の主日は、北欧諸国のルター派教会では、「裁きの主日」と呼ばれます。一年の最後に、将来やってくる主の再臨の日、それは最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもありますが、その日に心を向け、いま自分は永遠の命に至る道を歩んでいるかどうか、自分の信仰を自省する日です。

本日の福音書の箇所は、キリスト信仰者が社会的弱者や病気その他の苦しみにある人たちを助ける行動へと駆り立てる聖句としても知られています。ここに出てくる王というのは、終わりの日に到来する人の子であると31節で言っているので、再臨するイエス様を指します。そのイエス様がこう言われます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」これを読んで、多くのキリスト信仰者が、弱者や困窮した者、特に子供たちに主の面影を見て、支援や救援に乗り出して行くのであります。

しかしながら、本日の箇所をこのように理解すると、神学的に大きな問題にぶつかります。というのは、人間が最後の審判の日に神の国に迎え入れられるか、それとも永遠の火に投げ込まれるかの基準は、弱者や困窮者を助けたか否かということが中心になってしまう。つまり、人間の救いは善い業をしたことに基づいてしまいます。それでは人間の救いを、イエス様を救い主と信じる信仰に基づかせるルター派の考えと相いれなくなります。ご存知のようにルター派の信仰の基本は、イエス様を救い主と信じる信仰によって人間は神に義と認められるという、信仰義認の立場を強く出します。私がフィンランドに住んでいた時、隣の市の教会の主任牧師の選挙があり、ちょうど時期が「裁きの日」の頃でした。地元の新聞に三人の候補者をいろいろテストする特集記事があり、本日の箇所であるマタイ25章31~46節と信仰義認の関係をどう考えるかという質問が向けられました。三人ともとても歯切れが悪かったのを覚えています。一人の候補者は、「私はルター派でありたいが、この箇所は善い業による救いを教えている」などと答えていました。

問題は、ルター派だけに限られません。善い業を行えば救われると言えば、もうイエス様を救い主と信じる信仰も洗礼もいらなくなります。J・イェレミアスという第二次大戦後ドイツの世界的に著名な新約学者などは、歴史上のイエスのこの箇所での意図は、まさにそこにあったと言っているほどです。そんなことを言ったら、仏教徒だって、イスラム教徒だって、果てはヒューマニズム人間中心主義を追及する無神論者だって、みんな弱者や困窮者を助けることの大切さはキリスト教徒に劣らないくらい知っているので、みんなこぞって神の国に入れることになります。しかし、それは、ヨハネ14章6節におけるイエス様の言葉「わたしは道であり、真理であり、命である(注 ギリシャ語原文ではどれも定冠詞つき)。わたしを介さなければ誰も天の父のもとに到達することはできない」と全く相いれません。唯一の道であり、真理であり、命であるイエス様を介さなければ、いくら善い業を積んでも、誰も神の国に入ることはできないのです。イエス様は矛盾することを教えているのでしょうか?

この問いに対する私の答えは、イエス様は矛盾することは何も言っていないというものです。はっきり言うならば、本日の箇所は、善い業による救いというものは教えていません。目をしっかり見開いて読めば、本日の箇所も、信仰による救いを教えていることがわかります。これから、そのことをみてまいりましょう。ひょっとしたら、本説教は途中まで聞くと、この箇所を拠りどころとしてさまざまな支援活動に携わるキリスト教徒を憤慨させてしまうかもしれません。しかし、最後まで聞けば、本説教は、支援活動に水を差すものでは全くなく、活動に新しい土台を据えるものであることがわかると思います。

 

2. 最後の審判の日、天使たちと共に栄光に包まれてイエス様が再臨する。裁きの王座につくと、全ての諸国民を御前に集め、羊飼いが羊と山羊をわけるように、人々の群れを二つのグループにより分ける。羊に相当する者たちは右側に、山羊に相当する者たちは左側に置かれる。そして、それぞれのグループに対して、判決とその根拠が言い渡される。ここで、普通見落とされていることですが、実は、この最後の審判の場には、人々のグループは二つではなく、三つあります。40節で再臨の主は、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは」と言いますが、これがその三つ目のグループであります。つまり、主の兄弟グループも同じ場にいるのです。日本語で「この最も小さい者」の「この」と言っているのは、ギリシャ語原文では実は複数形なので「これらの」という意味です。全文を原文に忠実に訳すと、「これらの取るに足らない私の兄弟たちの一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」となります。つまり、主は、羊と山羊の二グループに対し、「ほら、みなさい」と、兄弟グループを指し示しているのであります。

それでは、この主の兄弟グループは誰のことを言うのか?日本語訳では「最も小さい者」となっているので、何か身体的に小さい者、無垢な子供たちのイメージがわきます。しかし、ギリシャ語のエラキストスελαχιστοςという言葉は、物理的身体的な小ささを意味するより、「取るに足らない」というような抽象的な意味です。何をもって主の兄弟たちが取るに足らないかは、本日の箇所を見れば明らかです。衣食住にも苦労し、牢獄にも入れられるような存在です。社会の基準からみて価値なしとみなされる存在です。従って、主の兄弟たちは子供には限られません。むしろ、大人を中心に考えた方が正しいと思います。

では、この主の兄弟グループは、もっと具体的に誰であるか特定できるでしょうか?できます。同じような表現が既にマタイ10章にあります。そこから答えがすぐに得られます。10章で、イエス様は一番近い弟子12人を使徒として選び、宣教に派遣します。その際、使徒たちに宣教旅行の規則を与え、迫害に遭遇しても神は決して見捨てはしないと励まします。そして、使徒たちを受け入れる者は使徒たちを派遣した当のイエス様を受け入れることになる(10章40節)、預言者を預言者であるがゆえに受け入れる者は預言者の受ける報いを受けられる、義人を義人であるがゆえに受け入れる者は義人の受ける報いを受けられる(41~42節)と述べて、次のように言います。「弟子であるがゆえに、これらの小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、その報いを失うことは決してない」(42節)。「これらの小さい者の一人」の「小さい」ミクロスμικροςは、身体的に小さかったり、年齢的に若かったりすることも意味しますが、社会的に小さい、取るに足らないことも意味します。このマタイ10章ではずっと使徒たちのことについて述べているので、この「小さい者」は、子供は指しません。使徒たちです。使徒とは誰のことかと言うと、イエス様が自分の教えることをしっかり聞きとめるようにと、また自分がなさる業をしっかり見届けるようにと、選んだ直近の弟子たちであります。そして、イエス様の教えと業だけでなく、彼の十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、神の人間救済計画が実現したという福音を命を賭してでも宣べ伝えるようにと選んだ弟子たちであります。本日の箇所の「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」も全く同じです。マタイ10章では、使徒を受け入れて、渇きに苦しむ使徒に水一杯を与える者は、報いを受けられると言っていますが、本日の箇所でも同じことを言っているのです。使徒を受け入れて、衣食住の支援をしてやり、病床や牢獄に面会・見舞いに行ったりした者は、神の国に迎え入れられるという報いを受けると言うのであります。

 

3.以上から、「これらの取るに足らないわたしの兄弟たち」が使徒を指すことが明らかになりました。そうなると、これを社会的弱者・困窮者一般と解して、その支援のために世界中に飛び立つキリスト教徒たちは、どうなってしまうでしょうか?キリスト者とは人を助けてこそキリスト者たりうると考えている人は、支援の対象が福音を宣べ伝える使徒に限られていると聞いたら、なんと視野の狭い解釈だと怒ってしまうでしょう。しかし、これは解釈ではなく、書かれてあることに忠実な理解なのであります。それでは、この箇所は支援の対象を使徒に限っているので、もう弱者・困窮者一般の支援は考える必要はないということになるでしょうか?いいえ、そういうことにはなりません。イエス様は、善いサマリア人のたとえ(ルカ10章25-37節)で隣人愛は民族間の境界を超えるものであることを教えています。弱者・困窮者一般の支援もキリスト信仰にとって重要な課題です。問題は、何を土台にして隣人愛を実践するかということにあります。土台を間違えていれば、弱者支援はキリスト信仰と関係ないものになり、別にキリスト教徒でなくてもできるものになります。先ほども申し上げましたが、人を助けることの大切さをわかり、それを実践するのは別にキリスト教徒でなくても、仏教徒でも、イスラム教徒でも、人間中心主義的な無神論者でも、無宗教の人も、みなわかるし、実践しています。では、キリスト信仰者が人を助ける時、何が土台になっていなければならないのか。本説教は、そのことも明らかにしていくことになります。

 さて、使徒というのは、先ほども申しましたように、イエス様が、自分の教えをしっかり聞きとめるようにと、また自分の業をしっかり見届けるようにと、選んだ者たちです。実際に彼らは、イエス様の教えと業そして十字架の死と死からの復活の目撃者、生き証人となって、この神の人間救済計画実現の福音を宣べ伝え始めました。こうして福音が宣べ伝えられていく時、人々の間で二つの異なる反応を引き起こしました。一方では、使徒たちが携えてきた福音を受け入れて、彼らが困窮状態にあればいろいろな仕方で支援してあげる人たちが出る。他方では、福音を受け入れず、困窮状態にある彼らを気にも留めず意にも介さない、全く無視する人たちも出る。ここで思い起こさなければならないことは、支援をした人たちは、支援することで、逆に使徒と同じ仲間だとレッテルを張られたり、危険な目にあう可能性を顧みないで支援したということです。その意味で、支援した人たちというのは、使徒たちがみすぼらしくして可哀そうだから助けてあげたのではなく、使徒たちが携えてきた福音を信じたから、彼らを受け入れ、支援するのが当然となってそうしたのであります。つまり、支援した人たちは、イエス様を救い主と信じる信仰を持つに至った者たちであります。逆に使徒たちに背を向け、無視した人たちは信仰を持たなかった者たちであります。つまるところ、福音を受け入れるに至ったか至らなかったか、信仰を持つに至ったか至らなかったか、ということが、神の国に迎え入れられるか、永遠の火に投げ込まれるかの決め手になっているのであります。そういうわけで、本日の箇所は、善行義認なんかではなく、文字通り信仰義認を教えているのです。

 

4.以上から、イエス様の取るに足らない兄弟たちとは使徒を指し、彼らに対する支援は彼らが携えてきた福音を受け入れることから生まれてきたことが明らかになりました。ここで大きな疑問がいくつか出て来ます。神の国に迎え入れられるか否かの基準は、使徒たちが携えてきた福音を受け入れて、使徒たちを支援するのが当然というくらいにまで福音を受け入れることと言うならば、使徒の後の時代の人たちはどうなるのか?12使徒の中でヨハネが一番長生きしたとして、どんなに長くとも西暦100年位とすると、それ以後の人たち、使徒と接触することもなく、支援しようにもできない人たちは、最後の審判ではどうなるのか?イエス様は、西暦100年以後の人たちは最後の審判は関係ないと思っていたのでしょうか?

 いいえ、そうではありません。イエス様の教えの主眼は、使徒を受け入れて支援するか否かではなくて、使徒が携えてきた福音を受け入れて、その結果として使徒を支援するかどうかということなのです。中心的なことは、福音を受け入れたかどうかということです。福音を受け入れたかどうかということは、使徒の時代の後もずっと今の時代の私たちにもあてはまることですので、私たちも皆、最後の審判の該当者です。もちろん、本日の箇所には、使徒たちをいろいろな仕方で支援することが記されていますが、これは、もし仮に使徒たちが今生きていたら、私たちも同じように支援してあげる準備が出来ていなければならない、と理解すべきです。逆に言えば、それくらい彼らが携えてきた福音を受け入れなければならないということです。

 ここで、使徒たちが携えてきた福音とは何かということについて触れておきます。福音とは、一言で言えば、人間が失っていた大切なものを人間の造り主である神が取り戻して下さったという、素晴らしい知らせであります。人間が失っていた大切なものとは、自分の造り主である神との結びつきです。このもともとあった結びつきは、人間が神への不従順に陥り罪を犯したために失われてしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されています。神との結びつきを失った人間は死ぬ存在となり、人間は代々死んできたように代々罪と不従順を受け継いできました。

これに対して神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしよう、この世から死んでもその時は永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげようと決めて、それを実行するために、ひとり子イエス様をこの世に送られました。神がイエス様を用いて行ったことは以下のことです。人間に浸みついている不従順と罪が神との結びつきを妨げているので、まずイエス様に人間の罪を全部背負わせて、あたかも彼が全ての張本人であるかのようにして全ての罪の罰を受けさせて死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしました。これがゴルガタの丘の十字架で起きた出来事です。さらに神は、一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命の扉の門を人間に開かれました。

人間は、こうしたことが自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この「罪の赦しの救い」を自分のものとして所有でき、その瞬間から罪の赦しが効力を発揮するのです。こうして人間は神との結びつきを回復でき、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始め、それからはずっと、順境の時にも逆境の時にも、絶えず神から良い導きと助けを得られて生きられるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御許に引き寄せて下さり、人間は永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるようになったのです。以上が、使徒たちが携えてきた救い主イエス・キリストの福音であります。

人間は、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」がまさに自分のためになされたのだとわかった時、神に対する深い感謝から、神の意思に従って生きるのが当然という心を持つようになります。また、神から受けた恩寵の大きさから自分の利害のちっぽけさがわかるようになって、自分の持っているものに執着せず、それを他の人々のために役立てようという心を持つようになります。キリスト信仰にあっては、善い業とは救われるために行うものではなく、救われた結果として生じてくる実のようなものだと言われる所以です。

ここで、神の意思に従って生きるという時の「神の意思」について。2週間前の説教でもお話ししましたが、神の意思とは、要約すると、神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することの二つに尽きます。神への全身全霊の愛とは、天地創造の神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることです。そのような愛が持てるのは、この神が自分にどれだけのことをして下さったかがわかるようになった時です。隣人愛ですが、キリスト信仰にあっては、それは全身全霊を持ってする神への愛を土台にしています。そういうわけで、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の行いが神を全身全霊で愛する愛に即しているかどうかを吟味する必要があります。神は、全ての人間が「罪の赦しの救い」を受け取るようにと望んでいるので、キリスト信仰者は隣人愛を実践する際には、このことを念頭に置かなければなりません。

 

5.使徒たちが携えてきた福音を受け入れてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることが、最後の審判の日に神の国に迎え入れられるか、永遠の火に投げ込まれるかの基準になる。このように言うと、次のような疑問が沸き起こります。それは、福音を受け入れるもなにも、福音を伝えられないで死んでしまった人たちはどうなるのか?態度決定する機会も与えられずに、お前は福音を受け入れなかったと言われて火に投げ込まれてしまうのはあんまりではないか、というものです。この疑問は、特に多くの日本のキリスト信仰者にとって微妙なものではないかと思われます。というのは、復活の日、キリスト信仰者の自分は信仰者でなかった肉親に再会できないのだろうかという不安が生じるからです。

近年ではキリスト教会の中でも、いろんな宗教があるというのはいろんな登山道を登って同じ頂上に到達するようなものだという考え方をする人が増えてきたように思われます。そんなご時世ですから、先ほどのイエス様の言葉、彼こそが天地創造の神のもとに到達する唯一の道、命、真理であるという言葉をそのまま信じると、お前は時代遅れの世間知らずだなどと言われてしまうでしょう。しかし、そう言われるのを承知の上で話を続けていきます。

福音を伝えられずに死んだ人に対する神の処遇はどうなるのか?これについて、黙示録20章の預言を手掛かりにしてみます。そこでは、死者の復活と最後の審判が起きる時、最初に復活させられて神の御許に引き上げられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした者たちと述べられています(4節)。それ以外の人たちの復活はその後に起こりますが、その時、それらの人たちがこの世でどんな生き方をしてきたかが全て記された書物(複数形)が開かれて、それに基づいて判決が下されると述べられています(13~15節)。それ以外の者たちとは、文字通り、信仰のゆえに命を落とした者たち以外の全部の人たちです。つまり、まず、信仰を持っていたが、特に命と引き換えにそれを守るような極限状況には置かれないで済んだ人たちがいます。そして信仰を持たなかった人たちもいます。信仰を持たなかったというのは、洗礼を受けたがそれが何の意味を持たなかった人たちがありましょう。また、福音を伝えられたが受け入れなかった人たちがありましょう。そして、福音自体が伝えられなかった人たちがおりましょう。これらの人たちは全てひっくるめて神の記録に基づいて判断されるのです。

ただ、ひょっとしたら、洗礼を受けたあの人は、私たちの目から見て信仰者に相応しくない生き方をしていたが、実はイエス様を唯一の救い主として信じる信仰を追い求めて苦しんでいたのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。真実の詳細は神の記録に残されており、私たちはその内容を知ることはできない。だから、その人の処遇は神に任せるしかない。また、ひょっとしたら、洗礼を受けなかったあの人は、ルカ23章に出てくる強盗が息を引き取る直前にイエス様を救い主と告白して神の国に迎え入れられたように、死の直前に改心があったのかもしれない。しかし、その詳細は私たちにはわからない。真実を知っている神に任せるしかない。そういうわけで、福音が伝えられなかった人たちについてはなおさら、神に任せるしかないのであります。

キリスト信仰を持たずに死んだ人と復活の日に再会できるかどうかという問題について、このように全てを神に任せるというのは、大抵の場合、心に平安をもたらします。しかし、時としてそれでは物足りないというような不安も出てくるのではないかと思います。そのような時は、アブラハムが神に対して罪の町ソドムのために祈ったことを思い出すとよいでしょう(創世記18章)。神はソドムの町をその大きな罪のゆえに滅ぼすと宣言します。それに対してアブラハムは、もし町の中に50人神の意思に従う正しい人がいたら、彼らを罪びとと一緒に滅ぼしてしまうのですか、と聞く。それに対して神は、その50人のゆえに滅ぼさないと答える。それに対してアブラハムは、それでは正しい人が40人いたら、30人いたら、20人いたらと必死に値切っていき、最後は10人いたら町を滅ぼさないというところまで譲歩を引き出します。結果は、正しい人は10人いなかったので、町は焼き尽くされてしまいましたが、それでも、神はアブラハムの必死の祈りを聞いて恩赦の枠を広げたのです。

ここで注意しなければならないことがあります。それは、神がその祈りを聞いてあげたアブラハムという人物は、中途半端な信仰の持ち主ではなかったということです。使徒パウロが大きく指摘したように、アブラハムは信仰によって義とされた信仰義認の第一人者です(ローマ4章9節)。そのような人の祈りが神の恩赦の枠を広げる影響力があったのです。もしあなたが、キリスト信仰を持たずに亡くなった方との復活の日における再会を望み、その望みを神に打ち明けるのならば、あなたは、イエス様を唯一の救い主と信じる信仰をしっかり持つ者として打ち明けなければなりません。中途半端な信仰の持ち主ではいけません。中途半端でない信仰とは、神を全身全霊で愛するのが当然であり、それに基づいて隣人を自分を愛するが如く愛するのが当然であるという心を持っていること、そして、洗礼と聖餐式が与える罪の赦しの恵みの中にしっかりとどまっていることです。そのよう者として神に望みを打ち明けるならば、使徒パウロの次の言葉は真にその通りになる筈です。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4章6~7節)

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように    アーメン


聖霊降臨後最終主日
2014年11月23日の聖書日課  マタイ25章31-46節、エゼキエル34章11-16、23-24節、第一テサロニケ5章1-11節