説教「嵐が来ても大丈夫な家の中に」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書6章37-49節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

  本日の福音書の箇所の終わりのところで、イエス様は、二人の人を比較します。一人は、家を建てる時、最初に地面を掘って岩盤にあたったところで土台を置いてその上に柱を立てる建て方をする人。もう一人は、地面を掘ることをせず、土台も置かず、直接地面の上に柱を立てる建て方をする人。その後で何が起きたかと言うと、嵐になり川が氾濫して洪水が起きる。地中の岩盤の上に土台を置いMMBOX PRODUCTION www.christiancliparts.netた家は揺るがずしっかり立ち続けたが、ただ地面の上に土台もなく柱を立ててしまった家は倒れて流されてしまった。

作り方からみれば、なるべくしてなったとしか言いようがないのですが、ここで大事なのは、この二人の人は何かに例えられているということです。地面を掘って岩盤の上に土台を置いて建てた人、これはイエス様の教えを聞いてそれを実行する人です。地面に直接柱を立てて建てた人、これはイエス様の教えを聞くが実行しない人です。このたとえは何を意味しているのでしょうか?

まず、イエス様の教えを聞いてもそれを実行しない人についてみてみます。この人は、この世の人生でそこそこの「嵐」に何度か出会ったかもしれないが、その人の「家」は何事もなくみかけは立派に立ち続けた。ところが人生で最大かつ最後の「嵐」である死が来た時、その人はそれを乗り越える力はなく、無残にも倒れて流されてしまう家のようにその人の全ては終わりを告げ、全てが失われてしまう。翻って、イエス様の教えを聞いてそれを実行する人は、この世の人生でいろんな「嵐」に出会って打ちのめされたかもしれないが、その人の「家」の土台や柱はしっかり建てられたままであった。そしてこの世の人生で最大で最後の「嵐」、死が来たとき、揺るぎもしなかった家のように、その人はそれを乗り越える力が与えられていて、終わりを告げるのはむしろ「嵐」と死の方で、その人は永遠の命を持って生き始める。

そうなると、ここで問題になって来るのは、イエス様の教えを聞いて、それを実行するというのはどういうことか、ということです。イエス様の教えを聞くだけでは足りない。それを実行しなければならない。そうしないと、土台を置かず地面に直接柱を立ててしまった人と同じように家ともども悲惨な運命を辿ってしまう。つまり永遠の命を持てず死を超えられない。ご存じのように、ルター派では、イエス様を救い主と信じる信仰によって神から「お前は私の目に適う者だ」みなされる、「よし」とみなされる、ということが強調されます。神に「よし」とみなされるというのは、罪を内に持ってはいるが、信仰によって罪を赦されて神の裁きを免れる。神の裁きを免れるというのは、永遠の命を得られるということです。信仰によって神から「よし」と認められる、「義」と認められるということで「信仰義認」と呼ばれます。人間は、律法に命じられた掟を守ることで神に「よし」と認められるのでなく、また善い行いを積み重ねて神に「よし」と認められるのでない。イエス様を救い主と信じる信仰によって「よし」と認められるというのです。そうすると、本日の箇所で、自分の教えを実行することが大事だと言うイエス様は、信仰義認ではなく、律法主義や善行義認を意味しているのでしょうか?この問題を考えてみましょう。

 

2.

 確かに、イエス様の教えには、「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たちに命令するものが多くあります。こういうイエス様の命令は本当はどんなものかについてルターが解き明かしているところがあるので、それを見てみようと思います。それは、本日の福音書の箇所のはじめで、イエス様が「あなたがたは、自分の量る秤で量りかえされる」(6章38節)と教えているところです。キリスト信仰者は、他人を見下したり侮ったりすれば、自分も神から見下されたり侮られたりするということです。他人に情け容赦なく振る舞えば、神もその人に対して情け容赦なく振る舞うということです。ルターは、この箇所について、次のように教えます。

『これは、まことに奇妙な教えだ。神は、隣人に仕えることの方が神に仕えるよりも大事だと教えているようにみえるからだ。神は、御自分にかかわることでは我々の罪を全て赦し、我々の背きに復讐しないと言われる。ところが、隣人にかかわることとなると、そうではないのだ。もし我々が隣人に対して悪く振る舞えば、神はもう我々と平和な関係にはない、以前与えた赦しも全て無効にすると言われるのだ。

 実を言うと、この「量る、量りかえされる」というのが起こるのは、我々が信仰に入った後のことで、入る前のことではない。君は、信仰に入った時のことを覚えているだろうか?神は、業績や能力にもとづいて君を受け入れたのではなかった。一方的なお恵みによって君を受け入れてくれたのだ。そして今神は、信仰に入った君に次のように言われる。「私がお前にしてやったように、お前も他の人にせよ。さもないと、お前が他の人たちにしたのと同じことがお前にも起こる。お前は彼らを顧みて上げなかった。それゆえ私もお前を顧みない。お前は他の人たちを断罪したり見捨てたりした。それゆえ私もお前を断罪し見捨てる。お前は彼らから取り上げるだけで、何も与えなかった。それゆえ私もお前から取り上げ、何も与えないことにする」と。

信仰に入った後の「量ること、量りかえされる」というのは、このようにして起こる。神は、信仰者の我々が隣人に向ける行いにこれほどまでに大きな意味を与える。それで、もし我々が隣人に善いことをしようとしなければ、神も我々にお与えになった善いことを取り消されるのである。その時、我々は、自分に信仰がないことを表明し、誤ったキリスト教徒であることを示すのである。』

厳しい教えです。しかし、ルターが言わんとしていることは、次のことです。私たちは神から計り知れない恵みをいただいているのだから、そのことがわかっているならば、そのような計り知れないことをして下さった神を心から愛して仕え、その方の言われることには従うのが当然という心になる。そして、そのいただいたものの計り知れなさを思いやれば、隣人に対して出し惜しみするとか恨みを持ち続けることは実に取るに足らないものになる、ということです。つまり、キリスト信仰者にとって、イエス様の命令に聞き従うというのは、神に救われた結果として自然に生ってくる果実のようなものなのです。神から救いを勝ち取るための努力や修行ではないのです。

そうすると、イエス様を救い主と信じる信仰に入ることで救われて、そんなに自然にイエス様の命令が実行できるようになるのか、と訝しがる向きもでてくるかもしれません。実はそんな時こそ、自分が救われたことがどんなに大きなことであるか、立ち止まって振り返る必要があります。

 

3.

  人間の救いとは何か、何が救われていない状態で、そこからどのようにして救われた状態に入れるのか、それを明確に教えているのが聖書です。救いということがわかるためには、まず人間には造り主がいるということを認めなければなりません。造り主を認めず、人間なんてただ単に、いろんな化学物質の偶然の合成からできて勝手に進化して今ある姿かたちになったんだ、という見方をとれば、救いということはでてきません。そもそも必要もありません。なぜなら、死ねば、化学物質のように分解して姿かたちは消え去るだけだからです。救いとは、この世を去る時、最後の一線を越えた瞬間、自分の造り主が約束通りがっしりと自分を受け取ってくれるということです。このように聖書は、人間とは創造主の神に造られたものであり、神から命と人生を与えられたという立場に立っています。そして、その造り主である神と造られた人間がどんな関係にあるか、そこにどんな問題があって、それはどう解決されるのか、そういうことを明らかにしている書物です。救いとは、つまるところ、造り主の神と造られた人間の間の関係にかかわることなのです。

創世記の初めに記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神の意思に反して、神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、造り主である神と造られた人間の間に深い溝ができてしまいました。死ねば永遠に造り主から切り離されて滅びの苦しみを受けるしかなくなった人間を、神は深く憐れみ、再び関係を回復して神のもとに戻れるようにしようと計画して、それで自分のひとり子をこの世に送り、彼を用いて計画を実現されました。それは、人間の罪から生じる神罰を全てこのひとり子イエスに請け負わせて十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、この身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで、永遠の命への扉を人間に開かれました。

人間は、このイエス様の十字架の死と死からの復活が全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この神の整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は、罪を赦された者として神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。神との結びつきがあるので、順境の時にも逆境の時にもかわることなく絶えず神の守りと導きがあります。万が一、この世から死ぬことになっても、造り主である神の御許に引き上げてもらって永遠にそこに留まることができるようになりました。私たち人間にこれほどまでのことをして下さった神に、これ以上何を求める必要があるでしょうか?

こうした神の私たちに対する愛の大きさがわかれば、私たちは喜びと感謝のあまり、他人が自分に気にさわることをしたとか言ったとか、そういうことは全て些細なことになります。そして、そのようなとてつもなく大きなことを私のために成し遂げて下さった神を全身全霊で愛するのが当然と思うようになります。さらに、そこから出発して、神がしなさいと言われる隣人愛、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということもそうするのが当然となっていきます。

 

4.

  以上から、イエス様が「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たちキリスト信仰者に命じる時、それは同時に、「お前は、私が十字架と復活をもってもたらした救いを受け取ったことを忘れるな」という注意書きが含まれていることが明らかになりました。このことがわかると、本日の福音書の箇所のイエス様の教えもよくわかります。

まず、37-38節。「裁いてはいけない、有罪としてはいけない」とイエス様は命じられます。ここで注意しなければならないのは、これは、悪や犯罪を放置しろ、悪や犯罪をし放題にさせろ、ということではありません。天地創造の神は、罪や不正義や不従順を激しく憎む方です。神は神聖な方ですから、罪の汚れを目の前にすれば、即座に焼き払われる方です。従って、私たちは、犯された罪を目の当たりにした時、うやむやにしたり曖昧にしたりすることなく、それは罪である、神の意思に反するものである、と態度と見解を明確にしなければなりません。

しかし、ここで忘れてはならないことがあります。それは、神は罪や不従順を断罪せずにはいられない方であるが、同時にその御心は、人間が罪と抱きかかえに裁きを受けて永遠の滅びの苦しみに落ちてしまうことではなく、「罪の赦しの救い」を受け取って神との関係を回復することにあるということです。それなので、キリスト信仰者が罪について明確な態度をとる時、どうするかと言うと、罪を犯した人を断罪してはいけないということです。「こんなことをしたお前は神との関係が断ちきれたままで、関係修復の見込みはない」などと言ってはならないということです。神と関係修復の見込みがないかどうかは、神が将来最終的に決めることです。ひょっとしたら、その人は、いつの日かイエス様を自分の救い主と受け入れるかもしれないのに、今断罪してしまったら、これは呪いをかけるも同然です。神の目的は出来るだけ多くの人が「罪の赦しの救い」を受け取ることができるようにすることなのに、それを阻止したら神に反対する者になってしまいます。神の反対者であれば、それこそ神から呪われる者になってしまいます。罪を犯した人に対して、キリスト信仰者は、断罪するかどうかは神に任せて、自分としては、罪を犯した人がイエス様を救い主として信じ受け入れられるような働きかけをする、ということです。

もちろん、罪を犯した人の心がとても頑ななため、働きかけが効果を生まない場合もあります。その場合は、神に祈って祈ることから始めます。祈ることも大事な働きかけです。とにかく働きかけをするのが、神の目的に仕えるキリスト信仰者の任務です。罪びとが「罪の赦しの救い」を最後まで拒否し続ければ神の断罪は免れません。しかし、それを受け入れてイエス様を救い主と信じるならば、どんな大きな罪も赦されて神との関係が回復されるのです。もし罪が社会の法律的な処罰や償いを求められるような犯罪であればあるほど、「どんな大きな罪も赦される」と言っても、なかなか受け入れられないかもしれません。しかし、その人と神との関係が回復したら、法律上の処罰や償いということはあっても、神の目から見たら関係の回復はもうその通りなのです。

 39-40節のイエス様のたとえの教え。盲目の人が盲目の人を道案内しようとすれば、二人とも穴に落ちてしまう。道案内をしようとする盲目の人とは、先に述べた、罪びとに「罪の赦しの救い」が及ぶのを邪魔する者、神の専権事項である断罪を自分の仕事にする者のことです。このような者の断罪を被ってしまう罪びとは、救いを受けることを妨げられ、気の毒です。断罪を行う者は行う者で、そのために神から断罪されかえされてしまい、憐れです。二人とも救いの可能性を失い、穴に落ちてしまう、これは悲劇です。

ここで、イエス様は、弟子は教師に優るものではないが、全ての弟子は、やがて必要な課程を修了して教師のようになる、と言われます。(ギリシャ語のκαταρτιζωが日本語訳では「十分に修行を積む」となっていますが、「必要な課程を修了する」です。どんな「課程」かは後で明らかになります。「修行」ではありません。)ここでは動詞の未来形(εσται)が使われ、将来そうなると約束されます。どういうことかと言うと、イエス様が、これらの教えを述べているのは、まだ十字架と復活が起きる前のことです。まだ「罪の赦しの救い」は実現されていません。そんな時に、罪びとを裁くな、赦せなどと教えられても、人々にはそれを実行するための土台がないのですから、途方にくれるしかありません。この時、弟子は教師であるイエス様に遠く及ばない存在です。しかし、イエス様の十字架と復活により「罪の赦しの救い」が実現して以降は、状況が一変します。自分は神のひとり子が十字架で流した尊い血を代償にして神に買い戻されたとわかって、この救いを受け取る者がでてくる。そして、その者が今度は他の人たちもその救いを受け取ることができるように働き始める。まさに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるという「課程を修了」して、イエス様の真の弟子になって、教師が始めた仕事を受け継いで救いを拡げていく。その意味で教師のようになるのです。イエス様は、この教えを述べた当時、今はまだ不可能だが将来可能になる、と約束しているのです。その約束は実現されたのです。

こうして、41節から後のイエス様の教えは、「罪の赦しの救い」を拡げていく者とそれを妨げる者の対比となります。41-42節に出てくる、他人の目にある小さなゴミには気がつくが、自分の目にある大木には気がつかない人とは、まさに他人を断罪して「罪の赦しの救い」を拡げることを妨害する盲目の信仰者のことです。43-45節の良い実を実らせる良い木とは、「罪の赦しの救い」を拡げていく者であり、悪い実を実らせる悪い木とはそれを妨げる者です。そして、最後に46-49節で、イエス様の教えを聞いて実行する者とは、まさに「罪の赦しの救い」を自ら受け取って、それを当然のように拡げていく者です。そのような人の建てた家は堅固な土台の上に立つ家で、死という嵐にもびくともしません。教えを聞いて実行しない者とは、赦しを受け取っていない人です。イエス様の教えを聞いたかもしれないが、「罪の赦しの救い」を受け取るまでには至らなかった。それで、イエス様を救い主とまだ信じていない。または、信じたつもりが、どこでどう間違えたか、断罪者になってしまって赦しを拡げることを妨げてしまった。このような人たちの建てた家は死という嵐に耐えられないのです。

 

5.

  イエス様が「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たち信仰者に教えられる時、それは、「お前は、私が十字架と復活をもって実現した救いを受け取ったことを忘れるな」という注意書きが含まれている、と前に申しました。そして、もし私たちが、イエス様の十字架と復活を通して神から計り知れない恵みを受けたことが自覚できるならば、そのような計り知れないことをして下さった神を私たちは心から愛して仕え、その方の言われることには従うのが当然だという心になる。また、その受け取ったものの計り知れなさを思いやれば、隣人に対して出し惜しみするとか恨みを持ち続けることが実に取るに足らないものになる、と申しました。まさに、神の私たちに対する愛と恵みのなんたるやを知った時に、私たちの心に愛が点火される、ということです。

ただ、そうは言っても、現実はなかなか甘くはありません。隣人を自分を愛するが如く、と言っても、いつも壁にぶつかるし、ましてや神を全身全霊で愛していると言えるかどうか。そこで、ルターは、キリスト信仰者のこの世の人生とは、洗礼の時に植えつけられた聖霊に結びつく新しい人と以前からある肉に結びついた古い人との間の内的な戦いであると教えます。古い人を日々死に引き渡し、新しい人を日々育てていく戦いであると。キリスト信仰者は、この世から死ぬ時に古い人は肉と共に滅びて、完全なキリスト信仰者になると言っています。この戦いは、本当に一進一退の戦いです。しかし、しっかり聖書の神の御言葉に聞き聖餐式にちゃんと与っていれば、罪と死と地獄と悪魔に対して完全勝利を収めたイエス様としっかり結びついていますから、大丈夫です。何も心配はありません。

最後に、イエス様の教えを聞いてそれを実行する人、つまり「罪の赦しの救い」を受け取って、それを他の人にも拡げていく信仰者の人生について一言。残念ながらイエス様は、救いを受け取った信仰者に安逸な人生が保障されるとは教えません。しっかりした地盤の上に建てられた家も、土台なくして建てられた家となんら変わりなく、嵐や洪水に見舞われると言われます。つまり、人生の歩みの中では、信仰者であるかないかにかかわらず、同じように苦難や災難に遭遇するということです。いくら土台の上に建てられたと言っても、家が激しく揺れたら、さすがに恐れや心配を抱いてしまうでしょう。いくら神との結びつきが回復して、日々守りと導きを受けていると言われても、苦難や災難に遭遇したら、立ち向かっていけるか心配になるでしょう。しかし、イエス様は、「罪の赦しの救い」を受け取って神との結びつきが回復した者、そしてそこから生まれる喜びと感謝をもって自分の生き方を神の意思に沿うものにしようと志向する者、そういう者は倒壊しない家にいるのと同じなのだ、だから、恐れる必要はないのだ、と教えられるのです。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れずに共に歩んでまいりましょう。

それから、今はまだイエス様を救い主として信じていない人、信じているつもりが断罪者になってしまった人は、最後まで倒れる家に留まるしかないということではありません。神のもとに立ち返ることができれば、彼らは倒れない家にいることになります。ですから、兄弟姉妹の皆さん、彼らも嵐が来ても大丈夫な家に引っ越すことができるように働きかけていきましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 


主日礼拝説教 聖霊降臨後第三主日
2016年6月5日 聖書日課 エレミア7章1-7節、第一コリント15章12-20節、ルカ6章37-49節

説教「なぜ神は三位一体なのか?」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書16章12-15節

主日礼拝説教、三位一体主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えてくれた神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神なのです。

 そうは言っても、わかりにくい教えです。三つあるけれども一つしかない、というのはどういうことか?理屈で理解しようとしてもできません。これは、もうこういうことなのだ、と観念するしかありません。そこで、皆さんの理解を助けるために、ひとつのことをお見せしたく思います。昨年の三位一体主日の時にもお見せしたものですが、昨年いらっしゃらなかった方たちのために今年も披露いたします。

ここに大きな三角形があります。それぞれの頂点には、父、御子、聖霊と記されています(写真1)。

三位一体写真1

この三角形全体が三位一体の神です。まず、イエス様が地上に送られる前は、三つの頂点は天の御国にいますから、説教壇の表面を地上とすると、三角形は地上に対して上方に平行してあります(写真2)。

三位一体写真2

ただし、聖霊はずっと天にいっぱなしだったのではなく、旧約聖書を見ると、聖霊がイスラエルの民の指導者に力を与えたり、預言者を空間移動させたりすることがありました。そのように聖霊は、時として地上にいる特定の個人に働きかけることがありました(士師記6章34節、13章25節、Iサムエル11章6節、エゼキエル2章2節、37章1節)。しかし、聖霊が本格的に地上に送られてそこに留まって大勢の人間に働きかけるようになったのは、やはり、イエス様が天に上げられて10日たった後に起きた聖霊降臨の時からです。

さて、イエス様が地上に送られました。神の身分でありながら神と等しい者であることに固執せず、自分を無にして僕の身分となり(フィリピ2章6-7節)、乙女マリアから人間として生まれました。三角形は平行でなくなって、イエス様の頂点を下にするようになりました(写真3)。

三位一体写真3

さて、イエス様が十字架の上で死なれ、死から復活させられ、そして天に上げられる日が来ました。イエス様は、自分が天の父のもとに戻った後は、信仰者が一人ぼっちに取り残されることがないように、父のもとから聖霊を送る、と何度も約束されました(ヨハネ14章、15章26節、16章4-15節、ルカ24章49節、使徒1章8節)。さあ、イエス様は天に上げられます。聖霊は本当に送られるでしょうか?どうなるでしょうか?(三角形の御子の頂点を上げると、聖霊の頂点が下がって、父と御子の頂点が上になる。写真4)

三位一体写真4

ほら、大丈夫でした。ちゃんと聖霊が送られました。イエス様は、しっかり約束を守りました。

聖霊が送られたおかげで、人間はイエス様を救い主と信じることができるようになります(第一コリント12章3節)。聖霊は、聖書の御言葉を通して人間に働きかけ、キリスト信仰者がしっかり神との結びつきを持ってこの世の人生を歩めるように助けてくれます。また聖霊は自分の判断に基づいて、信仰者にいろいろな賜物を与えます。賜物を与えられた人は、まだ信じていない人を信仰へ導いたり、既に信じている人には信仰をしっかり守るように助けたりします。そのようにしてキリスト教会がまとまりを保って成長するように助けます。皆さん、どうですか?父と御子は天におられるとは言っても、三位一体と聖霊のおかげで、全然遠くにいる感じがしないでしょう。それどころか、私たちには聖書の御言葉と聖餐式があるので、神はまさに私たちの耳元や口元にまでおいでになられるのです。

 

2.

  三つが一体を成しているということは、本日の福音書の箇所にもよく出ています。まず、イエス様は弟子たちにこう言います。お前たちには言うべきことがまだ沢山あるのだが、おまえたちはそれらを「背負いきれない」、「耐えられない」(日本語訳では「理解する」ですが、ギリシャ語動詞βασταζωはこっちのほうがよい)、と(12節)。イエス様が弟子たちに言おうとすることで弟子たちが耐えられないとはどういうことか?それは、人間を罪と死の支配から解放するために、イエス様がこれから十字架刑に処せられて死ぬことになるということです。このようなことは、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、聞くに耐えられないことでした。

しかしながら、十字架と復活の出来事の後、弟子たちは起きた出来事の意味が次々とわかって、それらを受け入れることができるようになりました。つまり、神の力で復活させられたイエス様は本当に神のひとり子であったということ、そして、この神のひとり子が十字架の上で死んだのは、人間の罪を神に対して償う神聖な犠牲の生け贄になったということ、さらに、イエス様の復活によって永遠の命に至る扉が開かれて、イエス様を救い主と信じる者はそこに至る道に置かれて、もう罪と死の支配力が及ばなくなったということ、以上のことが真理だとわかって、それを受け取ることができるようになったのです。これができるようになったのは聖霊が働いたためです。イエス様が13節で言われるように、聖霊が「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」ということが起きたのです。

ところが、こうした神の真理がわかってイエス様を救い主と信じて永遠の命に至る道を歩むようになっても、この世には罪の力がまだ働いていて、神の真理を曇らせよう、イエス様が救い主であることを忘れさせようとします。そうなると、それまではするのが当然だと思っていた、神を全身全霊で愛することや隣人を自分を愛するが如く愛することはだんだん自分に無関係なものになっていきます。キリスト信仰者は、このような変わり様を悲しみ、なんとかまた当然のことになるようにともがき始めます。この時、神の真理にしっかりとどまれるよう私たちを応援し助けてくれるのが聖霊なのです。先程のイエス様の13節の言葉は、日本語訳では「聖霊があなたたちを導いて真理をことごとく悟らせる」でしたが、ギリシャ語原文では「聖霊は真理全体をもってあなたたちを導いてくれる」とか「真理全体の中にとどまれるように導いてくれる」とか「真理全体へと導いてくれる」などと訳すことも可能な文です(οδηγησει υμας εν τη αληθεια παση)。つまり、真理をわからせてくれるだけでなく、真理にしっかりとどまれるように助けてくれる、それが聖霊なのです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちがこの世の罪の力に対して戦う時、私たちは一人ぼっちではなく、イエス様が約束されたように聖霊が働いてくれることを忘れないようにしましょう。

13節から15節にかけてイエス様が教えていることは、聖霊が私たちを導いてくれる時、それは聖霊が自分で好き勝手なことを告げるのではなく、イエス様がこう言いなさいと言ったことを私たちに告げるのだ、ということです。父なるみ神のものは同時に御子のものでもある、と言われているのは(15節)どういうことかと言うと、イエス様がこう言いなさいと聖霊に言うことは、それは父なるみ神がこう言いなさいと言ったことでもある、ということです。このように、父と子と聖霊は共通の真理のもとで働くという意味でも、三位一体なのです。

 

3.

  キリスト教は、カトリック、正教、プロテスタントなどにわかれていますが、わかれていてもこれらが共通して守っている信仰告白はどれも神を三位一体として受け入れています。そうした共通の信仰告白には、使徒信条、二ケア信条、アタナシウス信条の三つがあります。わかれていてもキリスト教がキリスト教たるゆえんとして三位一体があると言えます。また、わかれた教会が一致を目指す時の土台とも言えます。もし三位一体を離れたら、それはもはやキリスト教ではないということになります。

 ところで、神が三位一体という説は、キリスト教が誕生した後で作りだされた考えにすぎないという見方があります。しかし、その見方は正しくありません。三つの人格を一つにして持つ神というのは、既に旧約聖書のなかに見ることが出来ます。

その例として、ソロモン王の知恵の集大成である箴言の8章22-31節を見ると、神の「知恵」というものがいかに人格を持った方であるかが言われています(「知恵」は「彼」と呼ばれます)。「知恵」は天地創造の前に父から生まれ、父が天地創造を行っていた時にその場に居合わせていた、と言われています。ところでイエス様は、自分がソロモン王の知恵より優れたものであると言っていました(ルカ11章31節、マタイ12章42節)。ソロモン王は神の知恵を人間に伝達しましたが、イエス様は自分のことを神の知恵そのものであると言ったことになります。そこで箴言のなかに登場する「知恵」、天地創造の場に居合わせた「知恵」について、初期のキリスト教徒たちは、これがイエス様を指しているとすぐわかりました。そのために、御子は既に天地創造の時に父なるみ神と一緒にいたと言うようになったのです(第一コリント8章6節、コロサイ1章14-18節、ヨハネ1章、ヘブライ1章1-3節)。さらに、神は天地創造の時、「光あれ、大空あれ」と言葉を発しながら万物を作り上げていきましたが、その時、御子が創造の業に積極的にかかわったことを明らかにしようとして、それでイエス様のことを神の「言葉」そのものと言うようになりました(ヨハネ1章)。

ところで、天地創造の場に居合わせたのは神の「知恵」や「言葉」である御子だけではありませんでした。創世記1章2節をみると、神の霊つまり聖霊も居合わせたことがはっきり述べられています。創世記1章26節には興味深いことが記されています。「我々にかたどり、我々に似せて、人間を造ろう」。父なるみ神が天地創造を行った時、その場には人格を持った同席者が複数いたことになります。これはまさしく御子と聖霊を指しています。

 

4.

  次に、なぜ私たちの神は三つの人格を一度に兼ね備えた一人の神なのか、ということについて考えてみます。神が三位一体であるというのは、神の私たちに対する愛と大いに関係があります。私たちに愛と恵みを注ぐために、神は三位一体でなければならない、三位一体でなければ愛と恵みは注げない、と言っても言い過ぎでないくらい、神は三位一体な方なのです。以下、そのことを見てまいりましょう。

まず、思い起こさなければならないことは、神と私たち人間の間には途方もない溝が出来てしまったということです。この溝は、創世記に記されている堕罪のときにできてしまいました。「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって最初の人間たちは禁じられていた実を食べてしまい、善だけでなく悪をも知って行えるようになってしまいました。そして死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」5章で明らかにしているように、死ぬということは、人間は誰でも神への不従順と罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれなのであります。もちろん、悪いことをしない真面目な人もいるし、悪いこともするが良いこともちゃんとしているという人もいます。それでも、全ての人間の根底には、神への不従順と罪が脈々と続いている。このように人間が罪ある存在とわかると、神は全く正反対の神聖な存在です。神と人間、それは神聖と罪という二つの全くかけ離れた存在です。

ここで、「神聖」という言葉について少し考えてみます。日本語ではよく「聖」という言葉を使います。「聖なる万軍の主」とか言うように。でも、それは少し弱い言葉だと思います。明治憲法に「天皇は神聖にして侵すべからず」とありましたが、「神聖」という言葉の方が、「聖」より凄味と迫力があって、本質に迫れる言葉だと思います。

神の神聖さとは、罪を持つ人間にとってどんなものであるか、それについて本日の旧約の箇所イザヤ6章はよく表しています。エルサレムの神殿で預言者イザヤは肉眼で神を見てしまう。その時の彼の反応は次のようなものでした。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は滅びてしまうからだ。なぜなら私は汚れた唇を持つ者で、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が、王なる万軍の主を見てしまったからだ」。これが、神聖と対極にある罪ある者が神聖な方を目にした時の反応です。罪の汚れをもつものが神聖な神を前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。神から預言者として選ばれたイザヤにしてこうなのですから、預言者でもない私たちはなおさらです。

イザヤは自分の罪と自分が属する民の罪を告白しました。それに対して天使の一種であるセラフィムが来て、燃え盛る炭火をイザヤの唇に押し当てます。それがイザヤを罪から清めました。そして彼は神と面と向かって話ができるようになります。モーセは、そのような罪の清めは受けずにシナイ山で神と面と向かって話すことを許されましたが、山から下るとその顔は光輝き、人々の前で話をするときは顔に覆いを掛けねばならないほどでした(出エジプト記34章)。神の神聖さは、罪の汚れを持つ人間にとって危険なものなのです。

神を直接見ることのない私たちにとって、神聖の危険はわかりにくいかもしれません。聖礼典と呼ばれる洗礼や聖餐は、神聖な礼典です。確かに、洗礼式や聖餐式において、私たちは焼き尽くすような光や熱に遭遇しません。しかし、それらの礼典の持つ影響力は、莫大なものであることを忘れてはなりません。

洗礼によって、私たちは、イエス・キリストの義という純白な衣を頭から被せられます。義というのは、神の神聖な意志が実現している状態、神聖な神の目に適う状態です。イエス様は神の御子なので、そのような義を持っています。不従順と罪にまみれた私たち人間は義を持てません。義が持てないと神の御前に立つことも近づくこともできません。ところが、本当ならば私たちが受けるべき罪の罰をイエス様が十字架の上で代わり引き受けて下さった。そこで、イエス様こそ救い主だと信じて洗礼を受ければ、神はイエス様の犠牲に免じて私たちの罪を赦して下さる。罪を赦された者として私たちは、神の目に適うものとされる。これが、イエス様の義を純白な衣のように頭から被せられるということです。このように義は自分の力で獲得したり築き上げるものではなくて、イエス様の義を神から一方的に与えられるものです。イエス様を救い主と信じる信仰がその受け皿となります。神は、私たちが衣の内側にまだ罪の汚れを持っているのにもかかわらず、それでも私たちがしっかり手放さずに纏っている白い衣を見て、それで私たちのことを目に適う者と見て下さいます。洗礼には、このような途轍もない中身が含まれています。

聖餐も同じです。この世の人生を歩むとき、私たちの内に残る罪が、私たちの纏っている義の衣のことを忘れさせようとします。それを手放させようと誘惑します。そこで、聖餐の主の血と肉を受けることで、私たちは、自分が純白な義の衣を被されていることをはっきり思い起こすことができます。そして、その衣を纏う者としてふさわしく生きるための力と栄養を受け取ることができます。パウロはコリントの信徒たちに、聖餐がいかに神聖なものであるかを教え、次のように注意しました。聖餐を受ける前にまず、自己吟味をしなければならない。つまり、「私は、罪の汚れのために義の衣を纏うことが難しくなりました。纏い続けることができるように力と栄養をお与えください」と神に祈り求めて聖餐に臨まなければならないということです。しかし、もし自己吟味もせず、聖餐が神聖なものであることをわからずに受けるならば、それは主の体と血に対して罪を犯すことになり、ひいては、その人に対して裁きをもたらすことになる。実際、コリントの教会の中で、聖餐を誤った仕方で受けた者が、病気になったり命を落とした例があると、パウロは注意を呼び掛けています(第一コリント11章26-32節)。

 以上のように、神の神聖さに対して、私たち人間は、怖れをもって注意しなければなりません。しかし、今の世が終末を迎えて新しい世にとってかわる日、死者の復活が起きて、私たちが永遠の命に入る日には全てが一変します。そこで、私たちは神聖な神を顔と顔を合わせるように目にすることが出来るのです(第一コリント13章12節)。その時、私たちは、神の神聖さに燃やし尽くされません。なぜなら私たちが神聖な者に変えられたからです。

 

5.

  このように神は、私たち人間との間に出来てしまった果てしない溝を超えて、私たちに救いの手を差しのばされ、私たちがイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時にその手と手が結ばれます。その後は私たちが自分から手を離さない限り、神は私たちを天の御国に導いて下さり、復活の日に私たちを神聖な御自分のもとに迎え入れて下さいます。この神の私たちに対する愛は、三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりわかります。まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪と不従順に陥ったために、神は今度はひとり子を用いて私たち人間のために罪と死の支配力を無力化して、私たちをそれらから贖い出して下さいました。こうして、私たちは罪の赦しの中に生きることとなりましたが、人生の歩みのなかで試練に遭遇すると罪の赦しに生きていることを忘れそうになります。そのたびに、聖霊から導きや指導を受けられるようになりました。

そこで、この三つは別々の人格ではなくて、一つの人格の神が三つの異なる事柄を行っているにすぎない、だから、あえて三つの異なる人格を出す必要はないと言ったらどうなるでしょうか?つまり、三位一体の三位を否定することです。そうなると、イエス様が地上におられた時、神全体が地上にいることになり天の御国には父なるみ神も聖霊もいなくなってしまいます。やはり三つの人格がなければなりません。

逆に、三つの人格は完全に独立してバラバラで、それ以上のものはない、と言ったらどうでしょうか?つまり、三位一体の一体を否定することです。先ほども見ましたように本日の福音書の箇所で、聖霊が告げることはイエス様が告げなさいと言ったこと、イエス様が告げなさいと言ったことは父なるみ神が告げなさいと言ったこととありましたように、三つはバラバラなものではありません。加えて、三つの人格の機能は別々のものにみえても、どれもが一致して目指していることがあります。それは、人間が罪と死の支配下から解放されて生きられるようになってこそ、神に造られた目的を果たすことになる、ということです。

以上のように、三位一体は理屈で考えると、どのようにして三つの人格が一人の神になるのかということばかりに目が行ってしまいます。逆に、神が三位一体であるおかげで、私たちの神がどんな方なのかがよくわかるということの方が大事です。神は本当に私たち人間を助けたく思っておられる方であり、また助けるためならどんな犠牲もいとわない、それくらい私たちのことを愛してくれている方なのです。このことがわかれば、神が三位一体であるというのは当たり前の感じになり、別に理屈で考える必要はなくなります。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 三位一体主日
2016年5月22日 聖書日課 イザヤ6章1-8節、ヨハネ16章12-15節、ローマ8章1-13節

説教「聖霊とは何者か?」神学博士 吉村博明 宣教師、使徒言行録2章1-21節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

  本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーπεντηκοστη ημεραと呼ぶことから、聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭日です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が私たちの救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭の時、私たちの救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が、自らの死と復活をもって死の力を無力にして、私たちが神のもとに戻れる道を開いて下さったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の時には、イエス様が約束通り私たちに聖霊を送って下さり、聖霊の力で私たちが信仰を持てて、神の真理に導かれて生きられるようになったことを喜び祝います。

 そこで、聖霊とは一体何でしょうか?イエス様は死から復活された後、弟子たちに世界に出て行って福音を宣べ伝えるように命じました。その時、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けなさいとも命じました(マタイ28章19節)。キリスト信仰では、神というのは、これら三つの人格を持つ者が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父やみ子と同じように人格があるのか、と驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体のようだからです。ところが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)、まさしく人格を持つ者です。それで日本のキリスト信仰者の中には、「聖霊様」と呼ぶ人もいます。

 それでは、人格を持つ聖霊とは一体、どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章の中でイエス様は最後の晩餐の席上で弟子たちにあることを約束します。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。さらに、死から復活させられるが、その後で天の父なるみ神のもとに上げられることになる。それで弟子たちとは別れることになる。しかし、天の父のもとから聖霊を送るので、弟子たちがこの世に取り残されて一人ぼっちになるということはない。そのように聖霊を送る約束をします。イエス様は聖霊のことを「真理の霊」とか「弁護者」と呼びます。つまり、聖霊とは、私たちキリスト信仰者に天地創造の神の真理を教え、それに従って生きられるようにする方であり、また私たちを弁護して下さる方であるということです。それでは、神の真理とは何か?私たちを何に対して弁護してくれるのか?このことは、後ほど見ていこうと思います。

この他にも聖霊は、キリスト信仰者に何か特別な力を賜物として与えて下さる方です。そうした特別な力について使徒パウロは第一コリント12章でいろいろ挙げています(12章4-11節)。正しい信仰を教える力、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、習ったことのない外国語で神やイエス様のことについて語る力などがあります。これらの力は、教会が一つにまとまって成長するために与えられるのですが(12章7節)、そのようなものは他にも考えられます。ところで、習ったことのない外国語で神やイエス様のことを語る力を「異言を語る力」と言います。先ほど読んで頂いた聖霊降臨の日の出来事は、まさに異言を語る力が与えられた出来事でした。このような特別な力は恵みの賜物とか聖霊の賜物と呼ばれ、ギリシャ語でカリスマ(χαρισμα)と呼ばれます。こうした賜物は、教会が一つにまとまって成長するのに資するようにと、聖霊が自分の判断で誰に何を与えるか決めて与えるものです(第一コリント12章11節)。だから信仰者個人の希望や態度で決まることはありません。もし賜物が与えられても、与えることが出来る方は取り上げることも出来る方としっかりわきまえて、謙虚に本来の目的のみに仕えるように用いなければなりません。

 

2.

  先ほど読んで頂いた使徒言行録2章には聖霊降臨の日の出来事が記されています。その日一体何が起きたのかをもう少し詳しく見てみましょう。

 イエス様が天に上げられて10日が経ちました。復活の日から数えたら50日目です。イエス様の弟子たちはある家に集まっていました。そこに聖霊が不思議な現象を伴って彼ら一人一人に降りました。その時、天から激しい風が吹くような音がしたので、人々はその方へ集まってきました。その頃エルサレムは、過越祭の後の5旬節という祝祭日だったので、地中海世界の各地からユダヤ人が大勢やってきていました。

 音がしたところに集まって来た人たちは、信じられない光景を目にしました。ガリラヤ出身者のグループが突然、集まってきた人たちそれぞれの母国語で話し始めたのです。どんな言語にしても外国語を学ぶというのは、とても手間と時間がかかることです。それなのに弟子たちは、留学もせず語学教室にも通わずに突然できるようになったのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(使徒言行録2章4節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話したのでしょうか?集まってきた人たちの驚きを誰かが代表して言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(2章11節)」。

イエス様の弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」(τα μεγαλεια του θεου複数形なので正確には「数々の業」)とは、どんな業だったのでしょうか?集まってきた人たちは皆ユダヤ人です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と理解するものの筆頭は、何と言っても出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで神から十戒を授けられ、神の民として約束の地カナンに移住場所を獲得していく、という壮大な出来事です。神の偉大な業としてもう一つ考えられるのは、バビロン捕囚からの帰還です。一度国滅びて他国に強制連行させられた民が、神の人知を超える歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還が実現したという出来事です。もう一つ神の偉大な業として考えられるのは、神が無から私たち人間を含めた万物を造られた天地創造の出来事も付け加えてよいでしょう。

ところがイエス様の弟子たちが「神の偉大な業」について語った時、上記のようなユダヤ教に伝統的なものの他にもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが直に目撃して、その証言者となった新しい出来事、つまり、あの「ナザレのイエス」は単なる預言者なんかではなくまさしく神の子で、その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の力で復活させられた、そして大勢の人々の前に再び現れて、つい10日程前に天に上げられたという出来事です。これは、まぎれもなく「神の偉大な業」です。こうして、ユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。

 天と地と人間を造られた神の偉大な業というものを、いろんな民族が理解できるようにそれぞれの言葉で語られたというのは、とても深い意味があります。本日の旧約聖書の日課は創世記11章でした。そこではバベルの塔の出来事が記されていました。最初人間たちには一つの言語しかなく、大きな事業を総動員をかけて行うのにコミュニケーションが楽でしやすかった。そこで人間たちは、神の座す天に届く塔を建設するという大事業に着手した。それを脅威に感じた神は、人間たちの言語をバラバラにして意思疎通を困難にして、住む場所もそれぞれの言語グループに分かれるようにして離れ離れにして、二度と大それた事業を行えないようにした、そういう出来事です。人間が創造主の神と張り合あうとするとろくなことがないということは、堕罪の時に証明済みでした。蛇の姿をした悪魔に「これを食べれば、神のようになれるぞ」とそそのかされて禁断の実を食べてしまう。その結果、人間に罪が入り込んで死ぬ存在となってしまい、神のもとを追放されて神との結びつきを失ってしまったのです。

そういうわけで、世界に沢山の言語があり、それを話す民族が沢山あるというのは、人間が一丸となって神に対抗しようとしないためなのです。私たちは、世界にたくさんの言語、民族があるという事実のなかに、人間を小さなものに留めておこうとする神の力や強さを見て取ることができるのです。

使徒言行録17章のなかに、伝道旅行でギリシャのアテネに到達した使徒パウロが野外集会場アレオパゴスで居並ぶギリシャの知識人を前にして自分の信仰について弁明する場面があります。そこでパウロは、神がそれぞれの民族に住む場所を定めた時、民族が自分の場所で神を探し求めるようにする意図があったと述べています。しかしながら、諸民族の神の探し求め方はそれこそ暗闇の中を手探りで探すようなものになってしまい、それで人間はついつい自分の想像力に頼っていろんな拝む像を作りだしてきてしまった。しかし、それらは真の神とは何の関係もない、単なる偶像にしかすぎない。神の方では人間のこういう無知を長い間、我慢してきたのであるが、この無知の期間が終わらなければならない事態が起きた。というのは、神のひとり子が人間に救いをもたらすために十字架と復活の業を行ったからで、これらの出来事が起きた日からはもう神に関して無知でいることは許されなくなったのである。以上がアテネのアレオパゴスでのパウロの教えです。

そういうわけで、聖霊が弟子たちに全く未知の言語で神の偉大な業について語らせたという聖霊降臨の出来事は、全ての民族が天地創造の神について正しく知らなければならない時代、もはや神について無知が許されない時代の幕が開けられたということなのです。神について正しく知ることができるために、全ての民族に福音が伝えられていかねばならないのは言うまでもありません。諸民族のなかに福音が伝えられて神について正しく知られるようになればなるほど、言語の違いを超えて神の子とされる者が増えていき、こうして人間はバベルの塔の事件で失った統一性を、全く別の形で回復することになるのです。

 

3.

  さてペトロは、集まってきた群衆に向かって、この聖霊降臨の出来事について解き明しを始めます。ペテロの解き明しは大きく分けて二つの部分からなっています。最初の部分は、この異国の言葉を話し出すという現象は旧約聖書の預言の実現であるというところです。先ほど読んで頂いたようにペトロはヨエル書を引用しています(使徒2章14-21節)。それに続いてペトロは、イエス様の出来事そのものについて解き明しをします。(22-40節)。ただし、この二つ目の解き明しは、本日の使徒言行録の箇所の後になります。

ペトロは、この異国の言葉を使って神の偉大な業を語りだすという出来事について、これはヨエル書3章1-5節の預言の成就である、と解き明かしします。天から激しい風のような轟く音がして、炎のような分岐した舌が弟子たち一人一人の上にとどまった時、異国の言葉で「神の偉大な業」について語りだすことが始まりました。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言の言葉そのままの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きた、つまり、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だった、とわかったのです。

聖霊降臨は旧約の預言の実現であるということに続いて、ペトロはさらにこの現象がどんな意味をもっているのかについても解き明かしていきます。これは本日の箇所の後の2章22-40節にかけてあります。あの、神から力を授けられて無数の奇跡の業を行って神の栄光を現わしたイエス様を、ユダヤ教社会の指導者やローマ帝国の支配者が一緒になって十字架にかけて殺してしまった。しかし、神は偉大な力でイエス様を死から復活させた。そもそもイエス様というのは、もともと天におられた時は死を超えた永遠の命を持って生きられる方であった。だから、十字架で殺されるようなことが起きても、神は復活させずにはいられないのだ。それでイエス様が死の力に服するということはそもそも不可能なのだ(2章24節)。このことは、既に旧約聖書に預言されていた(25-28節、詩篇15篇)。

こうして復活して天に上げられたイエス様は今、全ての敵を自分の足を置く台にする日まで、父なるみ神の右に座している(34-35節)。これも、旧約に預言されている通りである(34-35節、詩篇109篇)。これらのことから、イエス様というのは、旧約に預言されたメシア救世主であることが明らかになる(36節)。お前たちは、そのイエス様を十字架にかけて殺してしまったのだ。もちろん直接手を下したのは支配者たちだが、イエス様が神のひとり子でメシア救世主であることを知ろうとも信じようともしなかったということでは、お前たちも支配者たちと何らかわりはない。さあ、ここまで事の真相が明らかになった今、イエス様を救い主と信じるか信じないかのどちらかしかない。お前たちは、神のひとり子、神が遣わしたメシア救世主を殺した側に留まるのか?ペトロはこのように群衆に迫ったのです。

これを聞いた群衆が心に突き刺さるものを感じたのは無理もありません。自分たちはどうすればよいのか、という群衆の問いに、ペトロは悔い改めと洗礼を勧めます。悔い改めとは、それまで神に背を向けていた生き方、神の意思に背くような生き方を改めて、これからは神の方を向いて神の意思に沿うように生きていこうと方向転換をすることです。洗礼とは何かと言うと、イエス様が全ての人間の全ての罪を請け負って身代わりに罰を受けることで「罪の赦しの救い」が生み出されました。それを贈り物のように受け取ることが洗礼です。

ペトロの解き明しと勧めを聞いた群衆は、悔い改めて洗礼を受けました。神に背を向けてイエス様を殺した側を離れ、神の方に向き直って歩む者となったのです。この聖霊降臨の日に洗礼を受けた人たちは3000人に上りました。こうして、聖霊降臨の日に全く異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。まさにそうした宣べ伝えの初日に3000人もの人たちが洗礼を受けて「罪の赦しの救い」を受け取りました。キリスト教会が誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。

 

4.

  最後に聖霊が「真理の霊」、「弁護者」と言われるのはどういうことかについて見てみましょう。このことについては以前の説教でもお教えしましたが、何度繰り返して教えてもよい大事な事柄です。

 聖霊が「弁護者」であると言う時、何に対して弁護してくれるのか?それは私たちを告発する者がいるから弁護してくれるのですが、何者が私たちを告発するのか?それはサタンと呼ばれる霊です。悪魔です。サタン(שטן)とは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが外面的にも内面的にも十戒の光に照らされた時、神の御心に沿う者でないことが示されると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、この自覚を失意と絶望に増幅させようとします。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ」と。また、ヨブ記の最初にあるように、神の前に進み出ては「この者は見かけはよさそうにしていますが、一皮むけば本当はひどい罪びとなんですよ」などと言います。悪魔のそもそもの目的は神と私たちとの間を引き裂くことですから、もし私たちが神の愛を信じられなくなるくらいに落胆したり、または罪を認めるのを拒否して神のもとを立ち去ったりすれば、悪魔は目的を達成したことになるのです。

そのような時、聖霊は、私たちがどんな状況にあってもしっかり神のもとにとどまり、神の愛を信じられるように私たちを助けて下さいます。彼は罪の自覚を持つ私たちを神の御前で弁護して下さいます。「この人は、イエス様の十字架の業が自分に対してなされたとわかって、それでイエス様を救い主として信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と。翻って私たちにも向かって、「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられています」と言われます。私たちは神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦しを頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通して聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ、「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲の死に免じて赦す。もう罪は犯さないようにしなさい」と言って下さるのです。その時、私たちは感謝に満たされて、本当にもう罪は犯すまいという心を強く持つでしょう。

聖霊が「真理の霊」と言うのは、私たちに神の真理を教えたり伝えたりするというよりは、ずばり、私たちが神の真理の中で生きられるようにして下さるということです。まず、キリスト信仰者といえども私たちは十戒に照らせば罪を持っていることを知らせます。ここで悪魔は私たちを神から引き離そうとするのですが、聖霊はすかさず、神のひとり子の犠牲の上に赦しがあるという真理を知らせるので、私たちは神のもとに留まる以外に道はないとわかるのです。まさに聖霊の弁護と真理のおかげで、私たちの良心は落ち着きを取り戻し、イエス様のおかげで神の御前に出てもやましいところは何もないと思って大丈夫なんだと大きな安心を得られ、神に対して感謝の気持ちで満たされて、これからは罪を犯さないようにしようと注意深くなり、愛を全うしようと決意することができるのです。本当に畏れ多いことです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 

説教:木村長政 名誉牧師、使徒言行録 1章1~11節

今日の礼拝は、昇天主日です。イエス様が天に上げられる様子が使徒言行録1章6節~11節に記されています。特に9節を見ますと「こう、話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」とあります。イエス様にとって、弟子たちの肉眼の目でイエス様の姿を見ることができ、イエス様との話しができるのは、いよいよ最後の時となりました。それで、イエス様にとって弟子たちに、どうしても言っておかねばならない重要なことが二つありました。第一は、イエス様は十字架の上で死をとげられた、けれども三日目によみがえられたこと。復活の後もイエス様は生きて働いてくださる、ということこの事を、まず弟子たちがしっかり知って理解し、信じること、でありました。そのために数多くの証拠をもって使徒たちに、その事を示し40日間現れたのでしたち。使徒言行録1章3節を見ますと「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを数多くの証拠をもって、使徒たちに示し、40日間にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」ここに40日間にわたって彼らに現れた。もうひとつは神の国について話された。この二つのことが弟子たちにしっかりと正しく、わかっていなかったからでしょう。

ルカによる福音書24章37節を見ますと、復活の体で弟子たちの前に現れても、彼らは恐れおののき玄霊を見ているのだと思った。そして私をさわって良く見なさい。玄霊ではない、彼らの前で焼いた魚を食べられた、とあります。イエスは「よみがえられた」ということを信じる、ことが大変重要なことであるからです。ですから、ルカ24章44節から48節にわたって、とても大切な最後のメッセージとして言われているのです。「わたしについてモーセの律法と、預言書と詩篇にかいてある事柄は必ずすべて実現する。これこそあなた方と一緒にいたころ言っておいたことである。」そしてイエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて言われた。次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け三日目に死者の中から復活する。また罪の赦しを得させるために悔い改めが、その名によって、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなた方は、これらのことの証人となる。

第二の課題は、神の国について話されます。イエス様が一貫して教えてこられた神の国と弟子たちがイエス様に期待していた神の国の理解が全く違っていたからです。弟子たちはイエス様の中に神の力、奇跡の力を起こして、最後には民衆も一緒にローマ帝国の支配から開放してくださる、ことを神の国としてえがいて期待した。だから、イエスとの別れの前に訴えています。使徒言行録1章6節です。使徒たちは集まって言っています。「主よ、イスラエルの国のために国を建て直ししてくださるのはこの時ですか。」とたずねた。主人への最後のチャンスです。彼らは真剣に革命を起こすことで、イスラエルに平和をもたらしてくださる神の国を描いていました。イエス様の神の国とは違うものでしたから、この大きなギャップをどうしたらいいものか、大きな課題でした。イエス様は教えられた。「神の国は天の父がご自分の権威をもって、お定めになった時であってあなた方の知るところではないのだ。」そこにはイエス様の代わりにあなた方の上に聖霊がが降りてくる。そして力を受けるのだ。そこで、イエス様は神の国の福音を全世界に向けて宣べ伝えいくように、弟子たちに命じられたのです。これまで、イエス様が教えられたこと、行われたことの証人となっていくのだ。と命じられました。

この使命は重い重荷です。弟子たちに頼るしかない。マタイ福音書の方では最後のところで、力強い弟子たちへの派遣の言葉と言われています。マタイ28章18~20節です。「わたしは、天と地との一切の権能を授かっている。だからあなた方は行って全ての民をわたしの弟子にしなさい。」と言われた。復活の主、イエス様が「わたしは天と地との一切の権能を授かっている。」というのはどういうことでしょうか。大変重要な言葉です。コリント第一の手紙45章22~28節を見てください。パウロは終末の時、復活のキリストがどういう方であるかを示してくれています。22節から見てみますと「キリストによって、すべての人が生かされていることになるのです。ただ一人ひとりそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いでキリストが来られた時にキリストに属している人たち、次いで世の終わりが来ます。〈ここからがすごいことが示されています。〉その時キリストは、全ての支配、全ての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストは全ての敵をご自分の足の下に置くまで国を支配されることになっているからです。最後の敵として死が滅ぼされます……….」すごいことが語られているんです。実はここは「キリストの復活そのもの、目的」が書いてあるからです。キリストの復活が目指しているものは何かということです。主の来臨に際してキリストに属する者も生きることになる。それから終末になる。その間に特別な時があったように言う人もありますが、そうではなく主の来臨に際して、キリストに属していた者が救われて終わりが来る。それから終末になって、いよいよキリストの復活の力が発揮されるようになるのであります。

キリストは全ての支配、全ての権威、勢力を滅ぼされます。キリストは、キリストに属する者を復活させられたが、その本当の目的はあらゆるものに勝つことであります。これこそ、まことに復活の意味であります。なぜなら、あらゆるものは死ぬはずであります。だから、それら死にゆく者に勝つ道は、死なないことです。すなわち、復活であるはずです。少なくとも、復活することの出来たキリストであった、。と言うことが出来るでありましょう。世の終わりが来た時、キリストは全ての支配、全ての権威と勢力を滅ぼし父である神に国を引き渡されます。それは、キリストが全てのものに勝って、王として君臨し、やがてはその王としての支配を神に渡される。なぜならキリストはあらゆる教えをその足もとに置く時までは支配を続けることになっているからである、25節に記してあります。キリストこそはまことの勝利者でいらっしゃることが明らかです。それならば復活の目的が「勝利」にあったということです。しかし、それならば最後の敵とは何でありましょう。もろもろの力も強いかもしれませんが、ほんとうに強いのは死であります。なぜなら死はどんなものも滅ぼすからです。そこで、ここには最後の敵として滅ぼされたのは死である(26節)というのです。どんなに強い人でも病気などしない人でも、最後には死には勝てません。人間のあらゆる努力は、死に勝ちたい、ということかもしれませんがそれは絶望です。

死が最後の敵であり、もっとも恐ろしい敵であります。その最後の死を復活されたキリストは滅ぼされたのです。死がどんなに強いといっても復活に勝つことは出来ません。従ってキリスト復活の最終目的は死に勝つことでありました。さて、そうなると何が起きたのでしょうか。キリストは万物をその足の下に従わせられたのです、ですからこのように復活のキリストは、マタイ28章18節を見ますと「わたしは、天と地の一切の権能を授かっている」。だから、あなた方はすべての民を弟子としなさい。こうして、全世界に福音を宣べ伝える派遣を命じられたのです。「わたしは、いつもあなた方と共にいる」と言われるのであります。 アーメン

説教「神との平和 心の平安」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書14章23-29節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

 本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに「わたしの平和」を与えると約束しています。「平和」とは何か?普通は、国と国が戦争をしないでそれぞれの国民が安心して暮らせる状態というように理解されています。もちろん、国と国が戦争しなければ、国民は必ず安心して暮らせるかというとそうでもなく、例えば国の経済が破綻するとか、また国民の自由や権利が制限されて国家権力におびえなければならかったら、安心した暮らしなど出来ないでしょう。その場合、国の中に「平和」がないと言うこともできるかもしれませんが、どちらかと言えば「平和」は国と国との関係が安定した状態にあることと理解されるのが多いのではないかと思います。もちろん、国が複数の民族から構成されている場合、もし民族間で紛争が起きれば、それはもう国と国との間の事柄のようになって、国内といえども「平和」がないと言うことができるでしょう。

イエス様が弟子たちに与えると約束した「平和」とは何か?イエス様の約束は弟子たちだけに限られません。ヨハネ福音書を手にしてこの御言葉を読んだり、説教を通して聞いたりするキリスト信仰者全員に向けられています。イエス様は弟子たちや私たちが戦争に巻き込まれないで安心した暮らしができることを約束しているのでしょうか?人間の歴史を振り返ると、戦争や紛争、動乱や内乱、社会の不安定は無数にありました。多くのキリスト信仰者がその渦中に置かれました。それらは、今もあります。イエス様は約束を守れなかったのでしょうか?

そうではありません。イエス様が約束される「平和」にはもっと深い意味があって、普通に考えられる「平和」とちょっと違うのです。このことを理解できるために、ルターがこのイエス様の言葉を解き明かしているところが大いに役に立ちます。それを以下に引用します。

「ヨハネ14章27節の御言葉で主が与えると約束されている平和こそが真の平和である。それは、不幸がない時に心が落ち着いているというような平和ではない。そうではなくて、まさに不幸の真っ只中にあって外面的にはあらゆることが激しく揺れ動いている時にこそ心を落ち着かせる平和である。

この世が与える平和と主が与える平和には大きな違いがある。この世が与える平和とは、外面的な揺れ動きを引き起した元の害悪が消滅することを言う。主が与える平和はこれと全く反対である。外面的には疫病や敵、貧困や罪や死それに悪魔といったものが絶えず我々を揺さぶることがつきものの平和である。そもそも、我々が常にこれらのものに取り囲まれているというのは避けられない現実である。それにもかかわらず、我々の内面では心に慰めや励ましそして平安がある。これが主の約束される平和なのである。この平和が与えられると、外面的には不幸でも心はもはや外面的なものに縛られない。そればかりか、不幸がない状態に比べて、こっちの方が心の中に勇気と喜びの度合いが増すのである。それゆえ、この平和は使徒パウロが「フィリピの信徒への手紙」4章で述べたように、「あらゆる人知を超えた神の平和」(7節)と呼ばれるのである。

我々の理性が把握できるのは、この世が与える平和だけである。理性は、不幸や害悪が消えずに残っているところに平和があるなどと理解できない。不幸や害悪がある限り平和はありえないと考える理性は、どのようにして心を落ち着かせることが出来るかを知らない。主がなんらかの理由で外面的な悲惨をそのままにするということがある。しかし、忘れてはならない大事なことは、主はその人を必ず強めて下さるということだ。それは、臆病な心を恐れないものに、良心の咎に苛まれる心を安心に満ちた心に変えて下さるということである。主から平和を与えられてそのような心を持てるようになった人は、この世全体がおびえるような不幸や害悪があるところでも、喜びを失わず深い安心を持っているのである。」

 以上、外面的には平和がなく不幸や害悪がのさばって激しく揺り動かされた状態の中におかれても、内面的には平和があるという教えです。この場合、内面の平和は「平安」と言い換えても良いでしょう。どうして聖書の日本語訳は「平安」と言わないで「平和」と言うのか?これは、原文のギリシャ語のエイレーネーειρηνηという言葉が、同じ言葉で外面的な平和と内面的な平安の両方の意味を含むことが関係すると思われます。英語やフィンランド語やドイツ語の訳を見ますと、聖書の中でエイレーネーが外面的な平和を意味する時も内面的な平安を意味する時も皆、同じ言葉(peace, rauha, Frieden)で訳されています。それらの言葉も外面的なものと内面的なもの両方を意味することができるので、訳する時に同じ言葉を使っても大丈夫なのでしょう。でも、日本語で内面の平安を「平和」と訳して大丈夫でしょうか?この「平和」は内面の平安を意味すると言い聞かせて読まなければなりません。興味深いのはスウェーデン語には、外面的な平和を意味する言葉(fred)と内面的な平安(frid)を意味する言葉が別々にあって、このヨハネ14章27節でイエス様が約束されるものは内面的な平安を意味する言葉(frid)で訳されています。参考までに、使徒パウロの書簡の初めの決まり文句は「神の恵みと平和があなたがたにありますように」と日本語で訳されていますが、スウェーデン語の訳は「平和」(fred)でなく「平安」(frid)です。

 

2.

 以上から、イエス様が与えると約束された内面の平安とは、外面的には揺り動かされ不幸や害悪がある状態の中にあっても、内面的には心の中に勇気と喜びが増し、深い安心を持つことが出来ることであるとわかりました。次にどうしたらこのような平安を持てるようになるのかを考えてみたいと思います。

どうしたらイエス様が与えると約束された平安を持てるようになれるのか?答えは難しくありません。イエス様が与えると約束されたものを受け取ればいいのです。それでは、イエス様は平安をいつ、どのようにして与えて下さったのでしょうか?

 イエス様がこの約束をしたのは十字架にかけられる前日の最後の晩餐の時でした。この後で受難があり、十字架の死があって死からの復活がありました。一度死なれたイエス様が神の力によって復活させられた時、あの方は本当に神のひとり子で旧約聖書に約束されたメシア救世主だったのだ、と理解されました(使徒言行録2章36節、ローマ1章4節、ヘブライ1章5節、詩篇2篇7節)。そうなると、神のひとり子が十字架にかけられて死ななければならなかったというのは、これも旧約聖書に預言されていたことの実現、すなわち、人間の身代わりになって人間の罪の神罰を受けることで人間がそれを受けないですむようにしてあげること(イザヤ53章)だったのだとわかったのです。人間が罪の神罰を受けないですむようになるというのは、イエス様の犠牲に免じて罪が赦されるということです。このようにして神から罪の赦しを頂けるというのは、最初の人間アダムとエヴァの堕罪の事件以来、崩れてしまった神との結びつきが回復するということです。神との結びつきが回復するというのは、イエス様が復活によって扉を開いて下さった、死を超える永遠の命への道を歩めるようになるということです。神との結びつきをもって永遠の命への道を歩めるというのは、この世の人生でどんなことがあっても、神は絶えず助けと良い導きを与えて下さるということです。それだけではなく、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げて下さって、元々人間の造り主であった神のもとに永遠に戻れるようにして下さるということです。

このようにイエス様の十字架の死と死からの復活は、神がひとり子を犠牲に用いて人間に罪の赦しを与えて自分との結びつきを回復させようとする、途轍もない救いの業だったのです。人間と神との結びつきは、もともとは万物の創造の時にはありました。それが、人間に罪が入り込んだために失われてしまったのです。それが罪の赦しで回復する可能性が開かれたのです。神は罪を罰せずにはおられない神聖な存在です。罪のために神との結びつきが途絶えてしまったというのは、神と人間は戦争状態に陥ったのも同然でした。それで神と結びつきを回復するというのは、神と人間の間に平和をもたらすことになるのです。この平和は、神がひとり子を犠牲に用いて打ち立てました。

それで、人間は、本当にイエス様は神のひとり子、メシア救世主である、彼が十字架にかけられたのは、弟子たちが罪を赦されて神との結びつきを持てるようにするためだけでなく、時代を超えて今を生きる自分のためにもなされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを頂いて神との結びつきが回復するのです。そのような人は、まさに使徒パウロがローマ5章1節で言うように、「主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いるのです。

 

3.

 しかしながら、この世というところは、あらゆる手立てを尽くして私たちを疲れさせたり絶望させたりして、神との結びつきを弱めよう失わせようとする力に満ちています。また、私たちを罪の赦しがあるところから離れさせて、再び罪が支配するところに戻させようとする力に満ちています。例えば、困難や苦難に遭遇すると、本当に神との結びつきはあるのか、神は自分を見捨てたのではないか、私のことを助けたいと思っていないのではないか、と疑うことが起きてきます。この場合、自分には何の落ち度があったのか、と神に対して非難がましくなる時もあれば、逆に自分には落度があった、だから神は見捨てたのだろうと諦めの気持ちになる時もあります。いずれにしても、そのような態度を取れば、神に対して背を向け始めることになります。

私には何も落度はないのにどうしてこんな目にあわなければならないのか、と非難がましくなるのは、有名な旧約聖書ヨブ記の主人公ヨブにもみられました。しっかり良い人間でいたのに悪い事が起きたら、良い人間でいたことに何の意味もないではないか。そういう疑問を持つヨブに対して最後に神は、お前は天地創造の時にどこにいたのか?と問い始めます(38章)。神は森羅万象のことを全て把握しておられる。なぜなら全ては自分の手によって造られたものだからだ。それゆえ全てのものには、神の意思が人間の知恵ではとても把握できない仕方で働いている。それで、良い人間でいたのに悪い事が起きても、良い人間でいたことが無意味だったということにはならない。人間の知恵では把握できない深い意味がある。だから、良い人間でいたのに悪い事が起きても、神が見捨てたということにはならない。神の目はいついかなる境遇にあってもしっかり注がれている。

しかも神は、その人に目を注いでその境遇を知っていれば、それで十分と考えるような方ではありません。神は、人間が自分との結びつきを回復して永遠の命に至る道を歩めるようにするために、ひとり子をこの世に送って犠牲にすることも惜しみませんでした。神は、私たちがどんな境遇にいても、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がこの道をしっかり歩めるようにあらゆる支援を惜しまないでしょう。なぜなら、神がひとり子の犠牲を無駄にすることはありえないからです。

このようにイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、どんな境遇にあっても神との結びつきには何の変更もなく、見捨てられたなどということはありえません。境遇は、結びつきの強さ弱さをはかる度合いではありません。大事なのは、イエス様の成し遂げて下さった業のおかげで、かつそのイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、私たちと神との結びつきがしっかり保たれているということです。周りでは他の全ての平和が失われるようなことが起きても、神との平和は失われずにしっかりあるということです。

 次に、この世が人間自身に落ち度があったと思わせて意気消沈させ、自分は神に相応しくないと思わせて、神から離れさせていく場合を見てみます。これも、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、神は私たちを相応しい者と見て下さるということが真理です。それにもかかわらず、私たちを非難し告発する者がいます。悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて、その自覚を失意と絶望に追い込もうとします。ヨブ記の最初にあるように、神の前に進み出て「この者は見かけはよさそうにしていますが、一皮むけば本当はひどい罪びとなんですよ」などと言います。しかし、本日の箇所でイエス様は何とおっしゃっていましたか?弁護者である聖霊を送ると言われます(14章26節)。

私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて、必要以上に私たちを責めるようになっても、聖霊は私たちを神の御前で弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエス様の十字架の業が自分に対してなされたとわかって、それでイエス様を救い主として信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と。翻って、聖霊は私たちに向かって、「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり立てられています」と言われます。神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦しを頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通して聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ、「わかった。わが子イエスの犠牲に免じて赦す。もう罪は犯さないようにしなさい」と言って下さいます。その時、私たちは感謝に満たされて、もう罪は犯すまいという心を強く持つでしょう。

 以上みてきたように、イエス様の十字架と復活の業によって私たちと神との間に平和が打ち立てられました。この平和は、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、微動だにしない確固とした平和です。それに揺さぶりをかけるようなものが現れても、その度、神はイエス様を用いて私に何をして下さったかを思い起こせばよいのです。その時、心は一層安心と喜びに満たされて勇気も湧いてくるでしょう。まさに、揺さぶりをかけるもののおかげです。感謝してもいいくらいです。

 まさにこのような時キリスト信仰者は、自分の心の中に大きな平安があることに気づきます。これがイエス様の約束された平安なのです。この平安は、神から罪の赦しを頂いて神との平和を打ち立てられた時に与えられます。まさに神との平和、そして心の平安が来るのです。

 

4.

 ここで、このような平安を与えられた者が苦難や困難に遭遇した時、どんな態度をもってそれらに臨むかということについて、ルターが別のところでもう少し具体的に述べていますので、最後にそれを引用して本説教の締めとしたく思います。ルターが解き明かそうとしている聖句は、フィリピ4章7節「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」です。ここでは、ギリシャ語のエイレーネーを「平和」でなく「平安」で訳します。

「この聖句をみた人は、こんな平安は誰も知ることも、確認することも出来ない、などと思ってはいけない。一度我々と神との間に平和が打ち立てられ以上、我々がこの平安を心と良心で知ることができないということはありえないのだ。できないと言ってしまったら、我々の心や思いはどのようにして、この聖句で言われるように、平安によって守られることがありえようか?この聖句は次のように理解しなければならない。心配事や試練に遭遇した時、祈ることも神のもとに避難することも知らない者たちは平安を探し求めるであろう。しかし、彼らが探し求めるものは、理性で理解できたり獲得できる類の平安である。理性が知ることができる平安とは、不幸が終わった時に生まれてくるものにすぎない。このような平安は、「あらゆる人知を超える」ものなどではなく、せいぜい人知と同レベルの平安である。

翻って、神との結びつきの中にあって常に喜びを持ち続ける人は、まさに自分が神と平和な関係にあることで十分です、それ以上何もいりませんと言える人である。そのような人は、心配事や試練の中にあっても、理性が喜ぶような平安つまり不幸が終わった時に出てくる平安を追い求めることはしない。ただ雄々しくしていられる。彼は忍耐強く信仰に立って、神から内面的な強さを備えられるのを待つ。彼にとって、不幸が短い期間のものか長くかかるかは大した問題ではない。彼はまた、全てのことがどのように終息するかということばかり気にして不安や疑いに押し潰されることもない。そうではなくて、彼は全てのことを父なるみ神の御手に委ねてしまうのである。不幸が終わるのはいつなのか、どんな仕方で終わるのか、誰か助け人を送ってもらえるのか、そうしたことを知ろうとはせず、一切を神の御手に委ねてしまうのである。まさにそれゆえに神は、彼にとって最も有益な仕方で、それでいて誰も予想も期待もできない形で不幸の終り方を準備して下さるのである。神はそのような仕方で彼に恵みを示される方なのである。」

 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン

木村長政名誉牧師による聖餐式がありました、宣教師不在中の聖餐式補助の練習も何とか努める事が出来ました。

 


主日礼拝説教 復活後第五主日
2016年5月1日 聖書日課 使徒言行録14章8-18節、黙示録21章22-27節、ヨハネ14章23-29節

説教「隣人愛の試練とこの世の挑戦」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書13章31-35節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の箇所でイエス様は、十字架にかけられる前日、弟子たちに新しい掟を与えると言って、「互いに愛し合いなさい」と命じました。キリスト教で「愛」とか「愛する」と言えば、すぐイエス様の教え「神を全身全霊で愛せよ。隣人を自分を愛するが如く愛せよ」が頭に思い浮かぶと思います。イエス様は十戒の掟を、神に対する愛と隣人に対する愛の二つの愛の掟に要約したのです。皆様もご存知のように、十戒の掟は一見すると「~するな、~するな」と、人を禁止条項で縛りつけるように見えます。ところがイエス様は、最初の三つの掟は神に対する愛、残りの七つは隣人に対する愛、そういう神と隣人に対する愛を実践するものであると教えるのです。本日の箇所でイエス様が「互いに愛し合いなさい」と言っているのは、神に対する愛ではなくて隣人愛に関わります。

隣人愛はキリスト教の専売特許のように言われますが、そもそも、どんな愛のことを言うのでしょうか?困難や苦難に陥った人を助けることを意味するのでしょうか?阪神淡路大震災や東日本大震災の時には、大勢の人が被災地に赴いて支援活動に参加しました。今次の熊本地震では地震活動が活発に続いたため当初はボランティア募集は見合わせていたようですが、先週から募集が始まったとニュースで聞きました。きっとまた大勢の人たちが被災地に向かうでしょう。こうしたボランティアの中には、キリスト教徒もいることは言うまでもないのですが、総数でみたら、きっとキリスト教徒でない方の方が圧倒的に多いでしょう。つまり、困難や苦難に陥っている人を助けるというのは、別にキリスト教徒でなくてもできるのであります。こんなことは、支援活動に参加した仏教徒や無宗教の人たちからみたら当たり前すぎて、言うこと自体がキリスト教徒の傲慢ととらえられてしまうかもしれません。

しかしながら、キリスト信仰者が困難や苦難に陥った人を助ける場合、外見はキリスト教以外の人たちの活動と変わりがないようでも、実は隣人愛の土台にあるものが決定的に違っています。それは、イエス様が「神を全身全霊で愛せよ」と教えたように、神に対する愛とセットになっているということです。マルコ12章で律法学者から「一番重要な」(πρωτη)掟は何か、と聞かれて、イエス様は「一番重要な」(πρωτη)ものは、と言って次のように答えました。「イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(30節)」。つまり、神に対する愛とは、この天地創造の神を唯一の主として、その御言葉に聞き従い、全身全霊で愛せよ、ということです。

「一番重要な」掟を聞かれたのに、イエス様は続けて、「二番目に重要な」(δευτερα)掟についても述べます。それが、「隣人を自分のように愛しなさい(31節)」という隣人愛でした。

イエス様は、この二つの愛の掟をもって、「この二つにまさる掟はほかにない(31節)」と言われますが、この二つの最も重要な掟の中でも一番目と二番目の序列があることは今見てきたように明らかです。先に神に対する愛があって、次に隣人愛がきます。隣人愛はしなければならない愛であるが、それは神に対する愛が先にあってすべきもの、神に対する愛を土台としてすべきものであり、もし神に対する愛と切り離して行ったり、それに反するように行ったりしたら、それはイエス様の教える隣人愛ではなくなるのです。そういうわけで、キリスト信仰の隣人愛は神に対する愛と不可分な関係にあります。それで、ひょっとしたら、キリスト教以外の隣人愛で行えることがキリスト信仰では神に対する愛のゆえに行えないことがあるかもしれません。また逆に、キリスト教以外の隣人愛で行えないことが行えるということもあるかもしれません。そうしたことを具体的に一つ一つ明らかにすることは本日の説教の目的ではありませんが、キリスト信仰にとって隣人愛は何かを考える材料の一つになるかと思います。

 

2.

 初めに見ましたように、本日の箇所の「互いに愛し合いなさい」という掟は、イエス様が十字架につけられる前日、弟子たちと一緒に過越祭の食事をしていた時に述べられました。最後の晩餐の時です。これから人間の救いのために自分の命を捧げようとする方が「しなさい」と命じる掟です。とても重みがある掟だと思います。

ところで、イエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダが食事の席から立ち去った後で、イエス様は「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と言われました。裏切る者がこれから目的を果たそうと出て行って、イエスが栄光を受けた、神も栄光を受けた、とは、どういうことでしょうか?

それは、イエス様が受難を受けて死ぬことになるということが、もう後戻りできない位に確定した、ということです。それでは、どうして死ぬことが栄光を受けることになるのか?しかも、それで、神も栄光を受けることになるのか?

イエス様が死ぬことには、普通の人間の死にはない非常に特別な意味がありました。どんな意味かというと、最初の人間アダムとエヴァの時以来、全ての人間が先祖代々受け継いできてしまった神への不従順と罪というものがあって、イエス様はこの罪の支配状態から人間を解放するために犠牲になったということです。ここで、人間は良い人もいれば悪い人もいるので全ての人間が罪を持っているというのは言い過ぎではないかと言われるかもしれません。特に生まればかり赤ちゃんなどは無垢そのもので、どうして罪を持っているなどと言えるのか納得いかないと言われてしまうかもしれません。しかし、アダムとエヴァの堕罪の事件の時に人間は死ぬ存在になったので、死ぬということが人間は罪の力の下に服しているということなのです。使徒パウロが、死とは罪が支払う報酬である、と教えている通りです(ローマ6章23節)。

この人間が受け継いでしまった罪をそのままにしておけば、人間はいつまでたっても自分の造り主である神との関係が断ちきれたままで、この世から死んだ後も造り主のもとに戻ることはできません。神としては、人間がこの世の人生を自分との結びつきの中で生きられ、この世から死んだ後は造り主である自分のもとに永遠に戻ることができよう望まれたのです。それで、ひとり子イエス様をこの世に送り、人間全ての罪を全部彼に請け負わせて人間に代わって罰を受けてもらうというやり方をとったのです。少し法律的な言葉を交えて言うと、本当は神に対して有罪なのは人間の方でしたが、その罰は人間が背負うにはあまりにも重すぎるので、神はそれを無実の方に負わせて、有罪の者が背負わないですむようにしたのです。有罪の者は、気がついたら無罪となっていたのです。

そのようにして、人間の罪の支配からの解放は、神のひとり子の犠牲に免じて罪が赦されるという形で実現しました。そこで人間は、イエス様の十字架の死とは自分のためになされた犠牲の業だったのだということがわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを頂いた者として生きることになります。こうして信仰者は、神との結びつきが再興されて永遠の命に至る道に置かれてそこを歩んでいきます。そのような人に対しては、罪はもはや人を死の永遠の滅びに追いやる力を失っています。そもそもイエス様が死から復活させられたことで、死を超える永遠の命に至る扉が開かれました。死は支配者の地位から引きずり降ろされたのです。

 

3.

 以上から、神のひとり子であるイエス様が死ぬことになるというのは、神の人間救済計画が実現することであり、それゆえイエス様が栄光を受けることになり、それはまた計画者であり実行者である神が栄光を受けることになるということが明らになりました。私たち人間は、こうしたこと全てを神の意思に従って成し遂げたイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、罪を赦された者として罪の支配から脱せられる。そして神との結びつきをもって永遠の命に至る道を歩めるようになる。その道ではいろんなことが起きるが、神との結びつきがあるから、順境の時も逆境の時もいつもかわらぬ導きと力添えを頂ける。もし万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手をもって御許に引き上げて下さり、永遠に自分の造り主の許に戻ることができる。

これだけの途轍もないことを父なるみ神とみ子イエス様が自分のために成し遂げて下さったのだとわかった人は、大きな感謝の気持ちで一杯になり、これからは神の御心に沿う生き方をしようと志向します。神に対する愛はここから生まれます。掟を守ることも自由な気持ちで行えます。反対に、神が自分にどれだけ大きなことをしてくれたかもわからず、感謝の気持ちもなくて掟を守ろうとすると単なる束縛になってしまいます。

このように、神が過去にどれだけ大きなことを成し遂げて下さったかをわかると感謝と自由な気持ちが生まれます。加えて、神は将来何をしてくれるのかということも知っておくと心に平安が得られます。本日の黙示録21章の箇所で、死者の復活が起きる日、今の天と地にとってかわって新しい天と地が創造される日、神が御許に集められた者をどうするかが預言されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しいみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである(3-4節)」。

目から「全ての涙」(παν δακρυον)をぬぐわれるというのは、この世の人生の段階で被った害悪が最終的かつ完全に償われるということです。もちろん、この世の段階でも正義の実現のために努力がなされて原状回復や補償や謝罪などを勝ち取ることはできましょう。それでも心の傷は簡単に癒えないことが多く、また正義は努力しても実現に至らないこともあります。いろんなことがこの世の段階で残ってしまい、それを背負い続けたり、未解決のままこの世を去らねばならないことが多いと思います。ところでキリスト信仰にあっては、復活の日が来ると、神の正義の尺度から見て不完全、不公平に残ってしまったもの全てが完全かつ最終的に清算されると信じられます。そのことを全部一括して「目から全ての涙をぬぐう」と言うのです。そういう時が来ると知っているので、キリスト信仰者はこの世で、およそ神の意思に沿うことであれば、たとえ志半ばで終わってしまっても、または信仰が原因で害悪を被ってしまっても、無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるのです。聖書の随所に「命の書」という最後の審判の時に開かれる、全ての人間に関する神の記録書が登場しますが、神は自分が造られた人間全員一人一人に何が起きたかについて全てご存知で、何も見落としてはいないのです。誰も自分のことをわかってくれない、と嘆き悲しむ人もいますが、神は誰よりもその人のことを知っています。髪の毛の数さえ知っておられる神ですから、その人本人以上よりもその人のことを知っています。

復活の日、天の御国で全てのことが清算されて報われることの他に、天の御国は結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます(黙示録19章5-9節、マタイ22章1-14節、黙示録21章2節も参照)。つまり、この世での労苦が労われるということです。

以上のように、キリスト信仰者というのは、過去に父なるみ神がイエス様を用いて「罪の赦しの救い」を実現してくれたということを知っているだけでなく、将来自分が死から復活する時にこの世の労苦や害悪に対する労いや償いを限りなくしてくれるとも知っているので、神に大きな感謝、心に深い平安を持つことが出来、それで神を全身全霊で愛そう、神の御心に沿うように生きようとするのが当然になるのです。

 

4.

 このような神に対する愛と一体にある隣人愛とはどんな愛でしょうか?ここで、イエス様が互いに愛し合いなさいと命じた時、「私があなたがたを愛したように」と言っていることが重要です。イエス様がわたしたちを愛したように、わたしたちも互いに愛し合う。確かにイエス様も、不治の病の人たちを完治したり、食べる物がなくて困った群衆の腹を満たしたりして困難や苦難に陥った人々を助けました。

しかしながら、イエス様のそもそもの愛の実践とは何であったかを振り返ると、それは、人間とその造り主である神との結びつきを回復させて、人間が神との結びつきのなかでこの世の人生を歩めるようにして、この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるようにする、このことを実現するものでした。そして、その障害となっていた罪の力を私たちから除去すべく罪から来る神罰を全部引き受けるというものでした。そういうわけで、キリスト信仰にあって隣人愛とは、神のひとり子が自分の命を投げ捨ててまで人間に救いを準備したということがその出発点であり、この救いを多くの人が持てるようにすることが目指すべきゴールなのであります。そういうわけで、苦難や困難に陥っている人を助ける場合でも、この出発点とゴールの間で動くことになります。これから外れたら、それはキリスト信仰の隣人愛ではなくなり、別にキリスト信仰でなくても出来る隣人愛になります。

 そうなると、キリスト信仰の隣人愛は、相手が既にイエス様を救い主と信じて「罪の赦しの救い」を受け取った人の場合と、まだ信じていなくて受け取っていない人の場合とでは現れ方が異なって来ると思います。既に受け取った人の場合だと、隣人愛はその人が受け取った救いにしっかり留まれるようにすることが大事になり、まだ受け取っていない人の場合は受け取れるようにすることが大事になるからです。

 本日の箇所ではイエス様は互いに愛し合いなさい、と弟子たちに言っているので、信仰者同士の隣人愛が問題になっています。キリスト信仰者といえども、罪に陥ったり、また罪と関係はないのに苦難や困難に陥ってしまうことがあります。そのような時、神との結びつきを疑うことが起きてきます。この世にはそうした疑いを引き起こす力が満ち溢れています。見回しただけで気が重くなることだらけです。神の目から見れば、信仰者はどんな状況にあっても結びつきはちゃんと保たれているのに、それを信じられなくなって自分から結びつきから離れてしまうことも起きます。そのような時、どうしたら、その人が疑いに打ち勝って、再び神との結びつきを信じて命の道を歩んで行けるようになれるために、キリスト信仰者の隣人はそのような兄弟姉妹たちのためによく祈り、考えて行動しなければなりません。

 ところでルターも言うように、キリスト信仰者とは、完全な聖なる者なんかではなく、この世にいる限りは常に霊的に成長していかなければならない永遠の初心者です。つまり、皆が皆、多かれ少なかれ霊的な支援を必要としています。そこをわきまえていないと、完全だと思っている人とそう思っていない人が現れて両者の間に亀裂が生まれてしまいます。本日の箇所でイエス様は、私たちが愛を持っていれば周りの人たちは私たちが彼の弟子であるとわかる、と言っています。しかし、もし亀裂や分裂や仲たがいをしてしまったら、イエス様の弟子ではないことを周りの人に知らしめてしまい、目もあてられなくなります。そのために使徒パウロが第一コリント12章で教えるように、キリスト信仰者の集まりはキリストの体であり、一人一人はその部分である、という観点はとても大事です(27節)。このことについてルターは次のように教えています。

「この御言葉は、我々が信仰の兄弟姉妹に対する愛を実践するように、また、言い争いや不和が教会内に生まれるのを阻止するように勧めるものである。もし、誰かが信仰の兄弟姉妹から不愉快な思いをさせられた時、それがその人にとって重荷とならないためにも、これは大切な教えである。まず、我々がわきまえていなければならないことは、信仰の兄弟姉妹とは言っても、実際には我々の間には、弱さや道を誤ることは頻繁にあり、避けられないということである。そのことに立腹しても仕方のないことである。誰だって、誤って舌を噛んでしまった時とか、目にひっかき傷を造ってしまった時とか、転んで足にけがをしてしまった時、痛んでいる舌や目や足にいちいち腹を立てることはないだろう。それと同じことである。

 次のように考えてみるとよい。一つの体全体を君自身とすると、兄弟姉妹であり隣人でもあるその人はその一部分である。体が部分から成っていることには何もなしえない。さて、その人が君に不愉快な思いをさせた時、次にように考えよう。彼は注意深さが欠けていたのだ。またそれを回避する力が不足していたのだ。悪意をもってそれをしたというのではなく、ただ弱さと理解力の不足が原因だったのだ。もちろん、君は傷ついて悲しんでいる。しかし、だからと言って、自分の体の一部分をはぎ取ってしまうわけにもいくまい。させられた不愉快な思いなど、ちっぽけな火花のようなものだ。唾を吐きかければ、そんなものはすぐ消えてしまう。さもないと、悪魔が来て、毒のある霊と邪悪な舌をもって言い争いと不和をたきつけて、小さな火花にすぎなかったものを消すことの出来ない大火事にしてしまうであろう。その時はもう手遅れで、どんな仲裁努力も無駄に終わる。そして、教会全体が苦しまなければならなくなってしまう。」

 もしキリスト信仰者が、神はイエス様を通して自分にどれだけ大きなことをして下さったかをちゃんとわかっていれば、隣人がもたらした不愉快なことなど、本当に唾を吐きかけていいような取るに足らないものになるのです。

 

5.

 最後に、隣人愛の対象がキリスト信仰者でない場合をみてみます。相手の方は、まだ神の整えた救いを受け取っていないので、その人が受け取ることができるようにしていくのが隣人愛となります。しかし、これはたやすいことではありません。もし相手の人がキリスト信仰に興味関心を持っているなら、信仰者としては、心から教えたり証ししたりすることができます。しかし、相手の人に興味関心がない場合、または誤解や反感を持っている場合、それはまず不可能です。それでも、信仰者はまず、お祈りで父なるみ神にお願いすることから始めます。祈りの内容としては「父なるみ神よ、あの人がイエス様を自分の救い主とわかり信じられるようにして下さい」という具合に一般的に祈るのもいいですが、もう少し身近なことにして「あの人にイエス様のことを伝える機会を私に与えて下さい」と祈るのもよいでしょう。その場合は、次のように付け加えます。「そのような機会が来たら、しっかり伝え証しできる力を私に与えて下さい」と。神がきっと相応しい機会を与えてくれて、聖霊が必ずそこで働いて下さると信じてまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 復活後第四主日
2016年4月24日 聖書日課 使徒言行録13章44-52節、黙示録21章1-5節、ヨハネ13章31-35節


説教「汚れた衣を小羊の血で白くされて」神学博士 吉村博明 宣教師、黙示録7章9節-17節

主日礼拝説教 2016年4月17日 復活後第三主日

  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

 本日の聖書の日課の一つは黙示録の7章です。黙示録は、今のこの世が新しい世にとってかわる終末の時、そして死者の復活が起こって今ある天と地が消え去り新しい天と地が創造される時に何が起きるかについて記された預言書です。本日の箇所は、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に」立つという場面です。玉座というのは、天地創造の神が座しているところ、小羊というのは神のひとり子、つまり復活の主イエス・キリストのことです。場所は明らかに天の御国です。そこに集う白い衣を身に着けた大群衆とは誰のことでしょうか?いろんな国民や民族の中から集まった、というのでとても国際的な集団です。彼らが誰であるか、天の長老がヨハネに教えます。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。

「小羊の血」とは、言うまでもなくイエス様がゴルゴタの丘の十字架の上で流された血のことです。イエス様が流された血で衣が洗われて白くされた、というのはどういうことでしょうか?衣服を血なんかで洗ったら白くなるどころか、赤くなってしまい、ちょっとまともなことを言っているようには聞こえません。

イエス様が流された血で衣が白くされる、というのはどういうことかと言うと、次のことです。イエス様は、人間が神から罪の罰を受けないで済むようにとご自分が身代わりの犠牲の生け贄となって血を流して死なれた。だから私たちは、彼こそ救い主なのだ、と信じて洗礼を受けると、私たちは神から罪の赦しを頂いて罪の汚れを洗い落とされる、ということです。

汚れた衣が人間の罪を表わすという比喩は旧約聖書の中にも出て来ます。ゼカリア3章に、天使が大祭司ヨシュアから汚れた衣を脱がせる場面があります。天使はそれでヨシュアから罪を取り去った、と言います(イザヤ1章18節も参照のこと)。生け贄の血が清めの役割を果たすことについては、モーセがイスラエルの民を率いてエジプトから脱出してシナイ半島の荒れ野にて神と契約を結ぶ時、神聖な神の面前に出ても大丈夫なように雄牛の血を民に振りかけたという出来事があります(出エジプト24章8節)。エルサレムに神殿が建設されてから後は、ユダヤ人が個人的な罪や国民的な罪の償いのために動物の生け贄の血を捧げるということは普通に行われていました(レビ記17章11節)。

しかしながら、動物の生け贄の血で本当に罪が償われるのか、本当に神の面前でやましいところがない、潔癖な者になれるのかどうかについて意外な事実が隠されていました。生け贄の血にせよ、その他の罪の償いや清めの掟にせよ、それらは神が命じたものであるにもかかわらず、実は本当の罪の償い、清めの予行演習のようなものにすぎなかったのです。まだ償いや清めの本番ではなかったのです。先週の聖書研究会のテーマは「ヘブライ人への手紙」9章でしたが、そこで、エルサレムの神殿やそこで行われている礼拝や儀式は「まことのものの写しにすぎない」(23節)と言われていました。「まことのもの」が来たら無用になるものだったのです。つまり神殿では、罪の償いのために生け贄を捧げることを繰り返し、繰り返し行わなければなりませんでした。ところが、一回限りの犠牲で全ての人間の罪を未来永劫にわたって償えるという、とてつもない生け贄が捧げられたのです。それが、神の神聖なひとり子、イエス様の十字架の死だったのです。私や皆さんの罪も含めて全ての人間の罪がイエス様の犠牲によって償われて帳消しにされた、それでイエス様は私にとって救い主なのだと信じて洗礼を受けると誰でも神から罪の赦しを受けられる。こうして神から罪の赦しを受けた人は、神の裁きや罰を受けなくて済むようになるので、本当に罪の支配から脱した新しい命を生きられるようになります。

こうしてイエス様の犠牲のゆえに神から罪の赦しをいただいた人は、いつか神聖な神の面前に立つことになっても、私はイエス様を救い主と信じています、神聖なあなたのみ前でこの至らない私が頼れるのはイエス様しかいません、イエス様をこんな私のためにお与え下さったことを感謝します、そう言えば、神はその人にやましいところはない、と認めて下さるのです。人間が神聖な神の面前に立っても大丈夫でいられるようになるのは、神の目に相応しい者として扱ってもらっているからです。ただし、それは私たちが自分の力で相応しい者になれたということではありません。イエス様が成し遂げた業のおかげで、そしてそれを本当のことと信じて受け入れる信仰のおかげで、相応しい者にしてもらったということです。第一ペトロ1章2節に、キリスト信仰者はイエス様の血をかけてもらうために選ばれた者、と言われています。ヘブライ9章では、動物の生け贄の血では人間の良心までは清められない、せいぜい外面的な部分での清めにすぎない、イエス様の血が人間の良心を死んだ業から清めた、と言われています(9-10、14節)。ガラテア3章27節では、洗礼を受けてキリストに結ばれた者はみな、キリストを着ている、と言われ、ローマ13章14節では、罪と戦うためにキリストをしっかり身に纏うことが大事だと言われています。

このようにキリスト信仰者とは、イエス様の血によって罪の汚れを洗い落とされて、イエス様という神聖な衣を頭から被せられて、それで神の目に相応しいとされている者です。 

そうすると、先ほどの黙示録7章の白い衣を着た群衆というのはキリスト信仰者ということになります。キリスト信仰者は、いろんな国民、民族、言語集団の中にいるのであります。彼らは、「大きな苦難を通って来た者」とも言われています(14節)。「大きな苦難」とは、黙示録全体と黙示録が書かれた頃の歴史的背景をあわせて考えると、一義的にはキリスト信仰者に対する迫害を指すと考えられます。しかし私は、迫害以外にも「大きな苦難」を考えてもよいのではないかと思います。いずれにしても、ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、殉教にしろ、何か他の苦難のために命を落としたにしろ、天の御国の神のみ前に行けるのは、自分が流した血のおかげではないということです。彼らの衣が白いのはイエス様の流した血のおかげです。そうなると、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は誰でも同じように白い衣を纏えるので、自分でそれを手放さない限りはみな同じように神のみ前に立つことができるのです。

 

2.

 さて、天の長老はヨハネに群衆の正体を教え、「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と言いました。私たちが用いる新共同訳では「彼らは大きな苦難を通って来た者」、「通って来た」と過去の形になっています。ギリシャ語の原文をみるとなぜか「苦難の中から来る者」、「来る」と現在形になっています。はて、群衆は苦難を通って来た後で今、天のみ神のみ前に立っているのだから、今は過去を振り返って「通って来た」と言った方が正確ではないのか?(13節の長老の質問では、これらの者は「どこから来たのか?」と過去の形になっていることに注意。ギリシャ語原文もそうです。)なぜ、神のみ前というゴールに到達した今でも、「苦難の中から来る者」と現在の形で言うのか?

これは、天の長老とヨハネの視点が天の御国から今のこの世に移動して、今この世で苦難を通っている者を指しているからです。最終的には天のみ神のみ前に到達するのだが、この世の今のところは苦難を通っている者を指しているのです。もちろん、ヨハネが目の前で見せられている終末の時は遠い将来のことで、その時から振り返って見れば「苦難を通って来た者」と言えます。ところが「苦難の中から来る者」と現在形で言うと、ヨハネの同時代の時に苦難を通っている人を指すことができます。さらに、ヨハネの後の時代に黙示録を手にする人みんなにとって自分の同時代の苦難を通っている人を指すことができます。このように、この箇所を読んだり聞いたりする人は、自分が今通っている苦難の現実のすぐ反対側には神のみ前に立つゴールが用意されていて、そっちの現実とこっちの現実が繋がっていることに気づくのです。

「衣を小羊の血で洗って白くした」というのは、過去の形です(ギリシャ語原文もそう)。つまり、ゴールに到着する前のこの世の人生の段階で一度、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神から罪の赦しを頂いて、衣を小羊の血で洗って白くしたということです。そういうわけで、天のみ神のみ前というゴールに到着するというのは、衣を最後まで肌身離さずしっかり纏い続けたということになります。この世というところは、この着せて頂いた白い衣を罪の汚れで汚そうとしたり、さらには衣自体を脱ぎ捨てさせようとする力がたくさん働くところです。そうした力に抗して衣を白く保ち、しっかり纏い続けることが苦難をもたらします。迫害の形をとることもあるし、それ以外にもいろいろあります。そこで、次に、この衣を白く保ち、しっかり纏い続けるにはどうしたらよいかということについて考えて見たく思います。

 

3.

 何が白い衣を汚そうとするのか、それを脱がそうとするのか、それには二つのことが考えられます。一つは、罪を犯してしまうということがあります。もう一つは、自分の罪が原因ではないのに苦難や困難に陥ってしまうということがあります。

まず、白い衣を汚そうとしたり脱がそうとさせる力として罪の問題を考えてみます。私たちは、イエス様の成し遂げた業と彼を救い主と信じる信仰によって、罪を洗い落され、罪の支配から救い出されたにもかかわらず、神の意思に反するような思いや考えを神や隣人に対して抱いてしまうことがあります。また言葉に出してしまうこともあります。最悪の場合は行いに出してしまうこともあります。

これは、イエス様の白い衣を頭から被せられても、内側にはまだ罪が残っていることによります。神は私たちが纏っている白い衣をみて、よしとされるのですが、私たちに残っている罪はその衣を汚したり捨てさせることに活路を見いだそうとします。本当は罪は、十字架の上でイエス様と一緒に神罰を下されて人間を支配する力を失っているのですが、それでもまだ力があるかのように思わせようと信仰者を惑わします。どうしたら惑わされないですむか、それはもう、罪を罪として認め、本気で忌み嫌い、それを遠ざけよう避けようとするしかありません。その時、心の目をゴルゴタの十字架に向けて、罪はあそこで力を失ったのだ、と思い出します。その時、私たちは白い衣をしっかりつかんで引き剥がされないようにしています。神は私たちが衣をしっかり離さないようにしているのを見て、よしとされます。その時、汚れがついてしまったと思っていた衣は前と変わらぬ白さを持って輝いていることに気がつくでしょう。

そもそも、イエス様の白い衣は汚れなど付着することは不可能なもので、罪が私たちの目を惑わして汚れが付着しているように見せかけて、纏っていても意味がない、と私たちをあきらめさせて脱がせようとさせているのです。

イエス様が成し遂げた贖いの業と被せて下さった白い衣は、私たちが罪に堕ちようがどうなろうが、全く無関係に同じ力強さ、同じ輝きを保っています。それゆえ、その力強さと輝きから一度離れてしまった私たちがまたそこに戻れるかどうかが、問題の核心となります。罪に陥った時、私たちに出来ること、またしなければならないことは、先ほども申しましたように、神に罪を罪として認めて、イエス様を救い主として信じますから赦して下さいと願い求めることです。そうすれば神は、我が子イエスの犠牲の死に免じて赦そう、もう罪を犯さないようにしなさい、と言って赦して下さるのです。その時、イエス様の十字架と復活に現れた神の恵みと愛は、私たちが洗礼を受けた時と全くかわらない力と輝きを持って、私たちを包み込みます。このように洗礼を受けた者は、いつも立ち返って、やり直しを始める原点があります。

もう一つ、白い衣を汚し脱ぎ捨てさせようとするものに、私たちが自分自身の罪が原因ではないのに苦難や逆境に陥ることがあります。この問題はどう解決を見いだしたらよいか、とても難しいのですが、一つ言えることは、そのような時でも、イエス様の成し遂げた贖いの業と被せてくれた衣に力がなくて、自分が苦難と困難に陥るのを阻止できなかったということではありません。

「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」ではじまる詩篇23篇の4節に「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あながた共にいてくださる」と謳われます。主がいつも共にいてくださるような人でも、死の陰の谷のような暗い時期を通り抜けねばならないことがある、災いが降りかかる時がある、と言うのです。主がともにいれば苦難も困難もないとは言っていません。そうではなくて、苦難や困難が来ても、主は見放さずに、しっかり共にいて共に苦難の時期を一緒に最後まで通り抜けて下さる、だから私は恐れない、と言うのです。実に、洗礼の時に築かれた神との結びつきは、私たちが自分で捨てない限り、いかなる状況にあってもしっかり保たれているのです。それから、聖餐式でパンとぶどう酒を通して受ける主の血と肉は、私たちと神との結びつきを一層強めるものです。イエス様の血は罪の汚れを洗い落とすもの、と先ほど申し上げました。イエス様を救い主と信じる信仰にしっかりとどまって聖餐式を受ければ受けるほど、内側に潜んでいる罪に重圧をかけて押し潰していくことになります。

パンとぶどう酒を受けて、天地創造の神との結びつきが強められるなどと言われても、そう見えないし感じることはできません。洗礼の水をかけられて神との結びつきが築かれたなどと言われても、そう見えないし感じられもしません。しかし、神の目から見れば、結びつきは築かれ強められているのです。人間は限られた存在ですから、神との結びつきを信じられるために、どうしても見えるものに頼ってしまいます。例えば、病気が治るとか、何か欲しいものが手に入るとか、自分だけは苦難や困難に陥らないとか、陥りそうになっても見事にかわせるとか。しかし、たとえ人間が五感と理性を使って見ることも感じることもできなくても、神が、これで築かれた、強められた、と言えば、そうとしか言えないのです。信仰とは、つまるところ、私たちの限りある目から見てどうなんだ、ということではなく、神の目から見てどうなんだ、ということです。その神の目で見ることができる事柄というのは、聖書を通してでなければ知ることができません。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、日々聖書を繙いて、自分自身でまたは信仰の兄弟姉妹たちと一緒に御言葉に触れる時を持つことは大事です。もちろん、礼拝の説教を通して触れることも大事であることは言うまでもありません。

最後に、ルターが罪の汚れを持つ人間が清くされるということはどういうことかについて教えているので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。ルターが解き明かそうとしている聖句は、詩篇51篇9節でダビデ王が神に「私を洗い清めて下さい。雪よりも白くなれるように」と嘆願しているところです。

「罪を持つ人間はどのようにして雪よりも白くなれるだろうか?答えは以下の通りである。人間には霊的な部分と肉的な部分がある。聖パウロが教えたように、人間には肉的な汚れと霊的な汚れがとどまり続ける。霊的な汚れとは何か?それは、罪の赦しを与えて下さる神の恵み深さを疑うこと、信仰の弱さ、神に対して不平不満を抱き、苦々しい思いに自分から留まってしまうこと、以上まとめて言えば、神が我々にどれだけ良くしようとしてくれているかという御心を知ろうともせず理解しようともしないということ、これが霊的な汚れである。肉的な汚れとは、悪い欲望、敵意殺意、盗もうとする心、憎む心、妬みや羨望の眼差し、その他同類のもの全てがそうである。

 キリスト信仰者とはどんな者かを正しく評価する際には、信仰者が自然の状態ではどんな者かを見てはならない。なぜなら、その場合、信仰者の中に何も清いものは見いだせないからだ。そうではなくて、キリスト信仰者というのは、聖霊の力で新しく誕生した者として観察しなければならない。この新しい誕生は、人間の力では成しえないものである。それを成し遂げて下さるのは、神をおいて他にはいない。

 この新しい誕生が起きる時、人間は雪よりも白くなるのであり、その時、罪を受け継いでしまった最初の誕生はもはやキリスト信仰者を損なうことはない。たとえ信仰者にはまだ汚れが残っているにしても、損なうことはない。主なる神はただ、洗礼の時に信仰者に着せられた白い衣にしか目を留められないのである。白い衣とは、新しく誕生した者の信仰であり、その者を清く飾りつけるために流された神の愛するひとり子の清く神聖な血である。このようにして洗礼の時に着せられる衣は雪よりも白いのである。

そういうわけで、キリスト信仰者とは、自然の状態ではまだ汚れを持つものであるが、洗礼と聖霊がもたらした新しい誕生を経て、イエス様を救い主と信じる信仰にあって、まさに主を衣のように着せられた、雪よりも白い者なのである。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン


主日礼拝説教 復活後第三主日
2016年4月17日 聖書日課 使徒言行録13章26節-39節、黙示録7章9節-17節、ヨハネ10章22-30節

説教「パウロの回心(かいしん)と私たち」神学博士 吉村博明 宣教師、使徒言行録9章1節-20節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 キリスト教会やキリスト教そのものにとって使徒パウロが重要な人物であることは誰もが認めるところでしょう。もちろん、神の神聖な犠牲の生け贄になって十字架の上で死なれて人間を罪と死の支配から解放してくれたのは、言うまでもなく神のひとり子のイエス様です。パウロではありません。十字架の死と死からの復活の主人公はイエス様です。パウロが重要だというのは、このイエス様の十字架の死と死からの復活は一体何だったのか、そしてそれがどれだけ全ての人間にとって大事なことであるのか、こうしたことをはっきり理解して、それを福音と呼んで教え広めたことにあります。

皆さんのお手元にある聖書の新約聖書の部分をみてみましょう。全部で480ページあります。そのうち、212ページが福音書と呼ばれる、イエス様の言行録が4つあります。その後に「使徒言行録」と呼ばれる、イエス様の後に福音伝道に携わった使徒たちの言行録が続きます。60ページあります。この福音書と使徒言行録は起きた出来事についての歴史を扱った書物です。新約聖書の終りには有名な「黙示録」があり、29ページあります。これは今のこの世が新しい世にとってかわる終末の時の出来事についての比喩に満ちた預言書です。そして、これらの歴史書と預言書に挟まれるようにして、179ページわたる使徒書簡と呼ばれる21通の手紙があります。これは使徒が自分自身ないしは、恐らく使徒の直近の弟子が先生の名を使って、各地のキリスト教徒に書き送った手紙で、実はこれらの手紙の中に福音の教えが沢山含まれているのです。パウロの名が冠された手紙は全部で14通、合計128ページあり、使徒書簡の大きな部分を占めていることがわかります。もしパウロがいなかったら、またいても、本日の聖書の箇所にあるような出来事が起きなかったら、イエス様の十字架と復活の意味も解明されず、福音の内容もはっきりしなかったでしょう。そうしたら本当のキリスト教もキリスト教会も生まれなかったでしょう。

 

2.

 そのように言いますと、じゃ、パウロと違ってイエス様の十字架と復活を直に目撃したペトロや他の使徒たちは何もわかっていなかったのか?それはちょっと言い過ぎではないか、という疑問が起きるかもしれません。イエス様の十字架と復活というのは、人間を罪と死の支配から救い出すために神がひとり子をメシア救世主としてこの世に送って成し遂げさせた業であり、これは旧約聖書に預言されたことの実現であるということ。そして人間はこのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、神から罪の赦しを得られて救われて永遠の命を持てるということ。こうしたことをペトロたちもしっかりわかっていたということは、聖霊降臨の時にペトロが群衆の前で行った大説教(使徒言行録2章)をはじめ、使徒言行録に記録されている多くの教えの言葉からも、またペトロの手紙からも明らかです。

パウロもペトロも同じ福音を宣べ伝えるのですが、ただパウロの場合は私たちのような非ユダヤ人、つまり異邦人にとって大きな意味を持っています。ユダヤ人以外の民族のことを言い表す時、ヘブライ語でゴーィגוי、ギリシャ語でエトゥノスεθνοςという言葉がよく使われますが、日本語で異邦人と訳されます。ところでペトロたちは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者はユダヤ人であるべきということにこだわりました。これは理解できます。というのも、イエス様も使徒たちも聖母マリアも皆、ユダヤ人として、旧約聖書の律法や預言を受け継ぐ民族の一員としてこの世に生まれました。男の人は皆、律法の戒律に従って割礼を受けています。そういうわけで、イエス様を旧約聖書に約束された救世主メシアだと信じる者は旧約を受け継ぐ者でなければならない、そう考えられても不思議ではありません。そこで、もし、ユダヤ人でない異邦人がキリスト信仰者になろうとするなら、まず割礼を受けてユダヤ人にならなければならない。もちろん天地創造の神は、そうではないということをペトロにかなり具体的に教えて、それがもとでローマ帝国軍の将校コルネリウスに洗礼を授けたこともありました(使徒言行録10章)。それにもかかわらず、エルサレムの使徒たちがユダヤ人のこだわりを長く持ち続けたことは、パウロの「ガラテアの信徒への手紙」からも伺えます。

 パウロの明確な立場は、人がイエス様を救い主と信じて福音を受け取る際には割礼を受けてユダヤ人になる必要はないということです。私どものような異邦人は異邦人として、つまり日本人は日本人として、欧米人は欧米人として、アフリカ人はアフリカ人として、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けられて天地創造の神の子とされる資格があるということです。イエス様もペトロもマリアもユダヤ人だったからと言って、わざわざ割礼を受けてユダヤ教に改宗してからキリスト信仰者になる必要は全くなくなったのです。実にありがたいことです。

 

3.

 では、自分自身ユダヤ人であるパウロはどうしてそんなことを言い出したのでしょうか?彼は、旧約聖書や律法や預言を放棄してしまったのでしょうか?実はそうではないのです。それどころが、ある意味でパウロの場合、十戒の掟が一層厳格になったとさえ言えるのです。どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?それを以下にみてみましょう。

パウロは、もともとはファリサイ派に属する律法に厳格なユダヤ教徒の一人でした。ファリサイ派というのは、イエス様の時代のユダヤ教社会内部にあった信徒運動で、旧約聖書に記述された律法だけではなく、口述で伝承された掟も同じくらい大事だと主張したグループです。特に、清めに関する掟は大事で、神が与えると約束した土地に住んでいる以上は、異邦人や罪びととへたに接触して汚れをうつされてはいけない。律法を全てしっかり守ることで神の目に相応しいものとなれるという考えでした。ファリサイ派とイエス様の考え方には類似点もあるのですが、決定的に違う点も多く、ファリサイ派はいつもイエス様に論争を吹っかけては撃退されていました。有名な論争の一つに、何が人間を不浄なものにして神聖な神から遠ざけられてしまったかというものがあります(マルコ7章)。イエス様は、人間を汚れたものにするのは外部から入ってくる汚れではなく、人間内部に宿っている様々な性向である、だからどんな清めの儀式や戒律を守っても人間は清くなれないと教えました。本当に神から罪を赦してもらうことから始めないと人間は清くなれないのであって、そのためにイエス様は十字架にかけられたのでした。

ファリサイ派のパウロ、当時はサウロという古代イスラエルの王サウルに因んだ名前を持っていましたが、彼はキリスト信仰者の迫害者として広く知られていました。(パウロの生涯と教えについて詳しくみることは興味深いのですが、ここは大学の講義ではなく教会の説教の場ですので御言葉の解き明かしに専念し、パウロのことは別の機会に譲りたいと思います。)あの、宗教指導者が異邦人の総督に引き渡して十字架にかけて殺してしまったナザレのイエスは実は、旧約聖書に約束されたメシア救世主だった、などというのは、指導者たちにとってとうてい受け入れられるものではありません。それでペトロたちに対して、イエスの名を言い広めたら命はないぞ、と何度も脅しをかけるのですが、相手側としてはイエス様の復活を目撃してしまった以上は引き下がることなど出来ません。対立はどんどんエスカレートして、ついに勇敢なステファノが殉教したのをきっかけにキリスト信仰者に対する大規模な迫害が起こりました。

そこでパウロも一生懸命迫害に加担し、本日の箇所にあるように、エルサレムの神殿の大祭司から委任状をとって、ダマスコ周辺のキリスト信仰者をエルサレムに連行する権限を得ることまでしました。そして手下を従えて出発したところ、その途上で先ほど朗読していただいたように、文字通り想定外の出来事が起きました。天に上げられてこの地上にはいないはずの復活の主がそれこそワープしてきたかのように間近に来たのです。これはアナニアが「幻の中」(10節)でイエス様の声を聞いたのとは性質が異なります。アナニアは個人的に声を聞きましたが、パウロの場合は個人的ではなく、従者も皆、異常な現象を目撃し声を聞いたのです。つまり大勢の人が出来事を共有したと言ってよいのです。

パウロはこの出来事をきっかけに、キリスト信仰の迫害者からその擁護者、伝道者へと変貌しました。私たちの新共同訳聖書の9章の見出しに「パウロの回心」と付されています。本日の説教題に「かいしん」と送り仮名を付したのは、この漢字は「えしん」とも読めるとのことで、その場合は仏教の言葉となって、辞書によれば「心を改めて仏道に入ること、とか、小乗の心を改めて大乗を信じること」などと出ていました。「かいしん」の方は、「神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返る個人的な信仰体験」とありました。パウロの回心ですが、注意すべきことは、それはただ単に、迫害者として悪いことをしてしまったなぁ、と後悔して、これからは心を改めて真人間になってキリスト信仰を擁護し伝道に努めよう、などという、そんな悪人が改心して善人になったという話では全くありません。律法を守ることに徹していたパウロは、それこそが神に相応しいと見なされる道である、と固く信じていたのです。それ自体が純粋な信仰だったのです。そのような信仰を持つ者からすれば、イエス・キリストを救い主と信じて神から罪の赦しを受けられて神の目に相応しい者とされるというのは、大切な律法をないがしろにする邪道にしかすぎませんでした。

ところが、それまでキリスト教徒たちの出まかせにすぎないと思っていた復活のイエスが突然、目を開けられない位の強い光を伴って間近に来た。もう、イエス様は単に権力者に楯突いて処刑された反乱者などではなくなりました。本当に信仰者たちが告白しているように神のひとり子であることが、一瞬のうちに明らかになったのです。パウロを覆い包む強い光は真に真理を照らし出す光でした。光の中から「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声がした時、地に倒れたままのパウロは「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねますが、「主」というのは、神の呼び名です。パウロは神の臨在がわかったのです。

イエス様は、声の主が自分であることを告げ、あわせてこれからパウロがすべきことを告げます。パウロがすべきことについて、イエス様はアナニアにも知らせました。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」(15節、16節)。これで、パウロの運命は決まりました。迫害者は使徒にかえられたのです。後にパウロは「ガラテアの信徒への手紙」の中で、神は既に自分を母の胎内にあるときから福音伝道者に選んでいて、自分が召し出されたのは神の恵みによると告白しています(1章15節)。つまり、神はパウロにまず律法を厳格に守るファリサイ派の経歴を歩ませてから、その次に福音伝道者に召し出したのです。兄弟姉妹の皆さん、神はこのように私たちに深く真理をわからせるために、最初それと反対の世界を歩ませることもされるのです!

復活の主イエス様の臨在がわかった以上、パウロはもうイエス様が神のひとり子であること、旧約聖書に約束されたメシア救世主であることを否定できなくなりました。神がイエス様を用いて十字架と復活の業を成し遂げさせたのは、まさに人間を罪と死の支配から解放するためであった。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、人間は神から罪の赦しを得られて神から相応しい者と見なされて永遠の命を持つことが出来る。そうなりますと律法を守ることで神に相応しいと見なされるということはなくなってしまいます。律法は不要になってしまったのでしょうか?

 

4.

 律法は不要にはなりませんでした。律法は新しい役割を持つようになったのです。どういうことかと言うと、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けても、自分の中にはまだ罪が残っていることは否定できない事実です。ということは、イエス様を救い主と信じる信仰のせいで律法が存在価値を失ってしまったということはなく、かえってそれは自分が罪深い者であることを思い知らせる鏡のようになったのです。律法は依然として効力を保っているのです。ただ、ゴルゴタの丘に立てられた十字架が否定できない歴史的事実である以上、いくら律法が罪を自覚させても神の赦しは厳然とあるのです。そうなると、キリスト信仰者というのは、内に罪を残したまま、イエス様の罪のない純白な衣を頭から被せられて神に相応しいとみなされているのであり、罪を残してはいるものの、この衣をしっかり纏っていよう、そういう生き方を志向する者なのです。

このようにパウロにとって、それまで神に相応しいと認めてもらおうと一生懸命に守ってきた律法の役割が変わってしまいました。神に相応しい者になれるのは、イエス様が自分に代わってそのようにしてくれたことを信じることでなれるのです。もし罪を犯して相応しさを失ってしまったら、すぐ十字架のもとに立ち返れば、イエス様の犠牲に免じてまた相応しい者と認めてもらえるのです。この時、律法は、私たちに罪を気づかせることで私たちを十字架のもとに追いやってくれる役割を持ちます。

そういうわけで、パウロからみれば、割礼を施してまずユダヤ人という神の目に相応しい者にしてから洗礼を授けるという手順は、それこそ律法を守って神の目に相応しくなろうとすることと同じになってしまうのでした。それで認められないのです。もちろん、パウロやペトロなどのように生まれた時から割礼を受けていて初めからユダヤ人であれば、そのままにするしかありません。新しくキリスト信仰者になる者に対しては、割礼は意味がないばかりか、施してしまうと、神の目に相応しくなることがイエス様を救い主と信じる信仰によらなくなってしまいます。 

ところで、もともとユダヤ人で割礼を受けた状態でキリスト信仰者になる者はユダヤ・キリスト教徒、異邦人から信仰者になる者は異邦人キリスト教徒と呼ばれます(注)。私たち日本人のキリスト信仰者も、欧米人やアフリカ人のキリスト信仰者も皆異邦人キリスト教徒です。パウロの異邦人を中心とする熱心な伝道の結果、キリスト信仰はすぐ当時のローマ帝国の東半分に広がって行きました。キリスト信仰は、地中海世界の人々の倫理観、死生観、性モラルに新しい風を吹き込みました。特に、以前からユダヤ教の教えに接して多神教を捨てて天地創造の唯一神を信じるようになった多くの女性たちが、パウロの教えを支持しました。いつしか異邦人キリスト教徒とユダヤ・キリスト教徒の比率は逆転し、西暦70年のローマ帝国軍によるエルサレム破壊の後は、ユダヤ・キリスト教はほとんど歴史の舞台から姿を消していったのであります。

 

5.

 以上、迫害者パウロが、復活の主の大接近を受けて、イエス様が神のひとり子、メシア救世主であることを受け入れざるを得なくなってしまったことをみました。そしてパウロは、神に相応しい者にされるのは律法の掟を守ることではなく、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに神から「罪の赦しの救い」を頂いて相応しい者にされることがわかったということもみました。特に、キリスト信仰者になるのに割礼を受けてユダヤ人になる必要はない、異邦人は異邦人のままイエス様を救い主として信じて「罪の赦しの救い」を受けられるというパウロの立場は、彼にとって律法の役割が大きく変わったことと結びついていたこともわかりました。

 最後に、パウロに大接近したイエス様が述べた言葉の中で、私たちにとって励みになるものがありますので、それについて述べてみたく思います。それは、パウロが声の主が誰であるかを尋ねた時、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(9章5節)と答えました。イエス様を救い主と信じる者が迫害される時、それはイエス様にとって自分が迫害される、迫害は自分に及んでいる、というのです。私たちキリスト信仰者が、何か害悪を被ったり、災難や困難に遭遇した時、イエス様はそれを自分のことのように受け取るのです。イエス様は私たちの境遇に無関心ではないのです。このことについてルターが次のように教えていますので、それを引用して本説教の締めにしたく思います。ルターが解き明かそうとしている聖句は、ヨハネ15章1節「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」です。

「見よ、主は苦しみと死に向かって進まれている時に、このように述べて悲しみを乗り越えられた。同時に主は、我々もこの御言葉をしっかり心に刻みつけるようにと教えられる。主が言わんとしていることは次のことである。『私はまことのぶどうの木、父なるみ神が御自分でお植えになった愛すべき木である。だから、お前たちは、私と父の両方にとって愛すべき枝なのである。これほど一生懸命に丁寧に肥料をまかれ、剪定され、きれいにされるぶどうの木は他にあるだろうか?このぶどうの木に害を加えようとするものがあるなら来るが良い。悪魔やこの世がお前たち枝に何か危害を与えようとするなら、させてみればよい。どうせ彼らは、愛する父が許可する以上のことは何も成しえないのだ。』

我々の天の父は、ぶどうの木であり枝である我々をしっかり守って下さるあまり、我々に降りかかる危害さえも自分自身に及ぶものと受け止めてくれる方なのである。これは、なんと我々を勇気づけてくれることであろうか!そもそも信頼できる農夫というのは、ブドウ園にとどまって一つ一つの枝を守り、簡単に他の者に渡したりしない。最後まで自分でぶどうの木を守り世話をする。

主のこのような御言葉を心に刻みつけるには、霊的な耳や目を必要とする。なぜならば、この世の目には、全てのことは全く正反対に見えてしまうからだ。主を信じながらも困難に陥ったり迫害を受けたりする我々のことを、この世は神のぶどうの木、枝などとは呼ばないだろう。彼らからすれば、悪魔の雑草か茨にしかみえないであろう。それは彼らが霊的な耳や目を持っていないからにすぎない。主の語られたこの美しいたとえを信じてこれを宝物のように携えている者は、どんな困難に遭遇しても勇気を失わないであろう。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

  注 スウェーデン語やフィンランド語では、ユダヤ・キリスト教徒(judisk kristen/juutalaiskristitty)、異邦人キリスト教徒(hedna kristen/pakanakristitty)との呼び名がありますが、英語では、ユダヤ・キリスト教(Jewish Christianity)と「ヘレニズム・キリスト教」(Hellenistic Christianity)という区別のようで、地理的・歴史的に限定された言い方です。


主日礼拝説教 復活後第一主日
2016年4月10日 聖書日課 使徒言行録9章1節-20節、黙示録5章11節-14節、ルカ24章36-43節


 

今日は木村長政牧師による聖餐式が執り行われました、夏の吉村先生の留守に備えて聖餐式助手の練習をしました、緊張の連続でした。

説教「エマオでのよみがえりの主」木村長政 名誉牧師、ルカによる福音書24章13~35節

今日の聖書は、エマオで復活のイエス様が二人の弟子に現れた、有名な出来事です。

ルカはこの出来事を、かなり詳しく、多くの行数を用いて書いています。

マルコの方は、ほんの数行で書いています。

  まず、マルコの方の記事を見ますと、16章12~13節「その後、彼らのうちの二人が、田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿でご自身を現された。この二人も行って、残りの人たちに知らせたが、彼等は二人のいうことも信じなかった。」

マルコの方は、復活されたイエス様のことを信じなかった、信じなかったとそればかり書いているんですよ。

  安息日が終わって、マグダラのマリアたち婦人たちが墓に行ってみると、墓の中は、空っぽだった。そこへ、天使がきて告げたのです。16章6~8節を見ますと、「驚くことはない。あなた方は、十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って弟子たちと、ペトロに告げなさい。『あの方はあなた方より先に、ガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこで、お目にかかれる。』と。

 婦人たちは、墓を出て、逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった、恐ろしかったからである。

 ここでの婦人達は、白い衣を着た若者が恐ろしかったのではないんです。

イエス様なきがらがなくなってしまっている事に驚いた。震え上がって、正気を失っている人です。なぜでしょう。

婦人たちの本心をもっと言いますと、十字架で死なれたイエス様がよみがえらされている、もうここにはいない、ということ。

正確には、肉のイエス様は死んで、神によってよみがえらされた。

婦人たちは、自分のできる手でイエス様に精いっぱいつくそうとして来てみたが、もう、それどころではないことがわかった。

神の御手のうちに、人間の考えの領域を超えた大変な事が起こっていることを、感じとった婦人たちはもう正気を失って、逃げ去っています。

恐ろしかったからである。・・・こうマルコは書いているんです。

16章11節を見ても、イエスは生きておられる、と他の弟子たちはその知らせを聞いても信じなかった。とあります。

 

 さて、ルカの方では、エマオに向かっている二人の弟子も、イエス様が十字架に死んでしまわれた事に失望、落胆して、復活されたイエスの知らせを聞いても、信じられないで、もう自分たちの故郷のエマオに歩いて帰っているのでした。

そこへ、復活のイエス様ご自身の方から近づいて、一緒に歩いていかれたのであります。

 

 ルカ24章13~16節を見ますと、「ちょうどこの日、二人の弟子がエルサレムから60スタディオン離れた、エマオという村へ向かってあるきながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い、論じ合っていると、イエス様自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

 この中に私たちへのメッセージは何かといいますと、人生の歩みに失望した、名もなき平凡な人々の中へ、復活したイエス様は、いつでも生きて働いていて下さる、ということです。そのことは、私たちの目には見えません。気づいてもいないことです。

16節に「二人の弟子の目にはさえぎられていて、イエスだとは分からなかった。」

マルコの方では、「イエスが別の姿でご自身を現された」とあります。

 十字架の上で死をとげられたイエス様の体はもう、肉にあるのではありません。あえて言えば、霊の体、復活の体にあるイエス様で、二人の弟子は今、西に向かって夕陽に目がくらんでなお、いっそうイエス様であることに気づかなかったのであります。

 

 マルコにあるように、あえて、別の姿で二人の者に近づいておられる。不思議な出合いであります。

イエスは、知らぬ顔して、二人に問われた。

「あなた方が、道を行く途中で議論して、やりとりしていた話は何のことですか。」

 二人のうちのクレオパという人が答えていった。「エルサレムでの大変な出来事について、あなたは、御存知なかったのですか。」と、19節から24節にわたって、くわしく、ルカは書いています。

十字架にかかられたイエス様のことを、復活されたイエス様本人に向かって、話しているのです。

復活のイエス様は、それを、ずーっと聞いて、二人に語られるのです。「その方は、復活するはずではなかったのか。」と、そのことを旧約聖書の予言から説き明かし話されたのでした。

 熱心な話が続くうちに、目指す村に近づいて来て、イエス様はそのまま進んで行かれる様子であったのですが、二人の弟子は、エマオに一緒にお泊り下さいと、無理矢理引き止めた、とあります。

 

 さて、30節を見ますと、「一緒に食事の席にいたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えてパンを裂き、お渡しになった。すると、二人の目が開けてイエス様だと分かった。が次の瞬間にはその姿は見えなくなった。」

 夕食の食卓でパンを裂いて祈られ、ここには食卓の主人となって、二人の弟子にパンを渡される手もとを見てその瞬間、二人の目が開いてわかった。何と、イエス様だ!何という驚くべき、劇的な展開ではありませんか。

 

 なぜ、パンを裂いて渡される瞬間、目が開いたのであろうか。ある聖書学者は、恐らく5000人の多くの人に、パンと魚を与えられたあの奇跡の場に、この二人の弟子も参加していて、パンが裂かれ、ふえている奇跡のイエス様の手もとを、印象深く心にとめていたのではないか、と言います。

実に素朴な田舎の貧しき食卓で、うす暗い中に、復活された姿のイエス様の手もとと、1人の弟子に光が射しているこの光景を題材にして、カラバッジョという有名な画家が絵に描いています。その絵が、今、東京にきているのです。

 名もなき二人の弟子は、復活のイエス様と出会えた、この瞬間の、祝福に満ちた空間は素晴らしい光景であります。

 

 復活の体のイエス様がガリラヤに行き、そこで弟子たちに会いたもうた。と、マタイ28章に記されています。

ヨハネ20章にも、マルコ16章にもあります。

又、弟子たちと別れの昇天をされたのは、オリブ山のふもとのベタニヤでありました。(ルカ24:50)

このようにガリラヤは、イエス様の故郷であって、初期伝道が行われた地域でありました。

又、ベタニヤはイエス様の愛するマルタとマリヤ姉妹の家があったところで、ここを拠点として滞在され、エルサレムへ上られたのでした。

どちらも、イエス様にとって最もなつかしい土地でありますから、復活された後も、そこで弟子たちに再会されたことは極めて自然の事柄であります。

 

 ところが、ここにエマオというこれまでにイエス様の生涯に一度も出て来たことのない村です。

イエス様と、縁もゆかりもない土地であります。

エルサレムから見ると、ガリラヤは北の方です。ベタニヤは東の方です。ところでエマオは西の方であります。復活のイエス様がまず、わざわざ二人の弟子のために、エマオへの道を共に歩まれたのはなぜでありましょうか。

 

 さて、次にこの二人の弟子に現れたのは、なぜでしょうか。1人の名はクレオパという人で、もう1人については名もわからないのです。

 この二人は、あの12使徒たちと比較されるような重要な人物ではなかったことは明らかです。

彼らの地位が重要でなかっただけでなく、聖書を理解するのにも愚かであって、信ずるには心にぶいものであったでしょう。

 このような名もなき二人の愚かな弟子のために、復活されたイエス様がわざわざ現れて、聖書の真理を説き明かし、十字架のイエスは、復活するのではなかったかと、復活の御自身をまず示されたのです。

 エマオという場所といい、二人の弟子の人物といい、たいして重要でない小さいものの為に、イエス様が復活の当日、何よりすぐに現れておられる。

共に道を歩いて下さっており、共に宿をとり、聖書を解き明かし、食事ではまず先にパンをさいて与えて下さった。

この福音書を書いているルカは、私たちに誘っているのです。

イエス様が、神の子として復活し、生きて働いて下さる。

しかも誰もが考えるような12の使徒ではない、名もなき二人の弟子に、しかもエマオという場所も地域を越えて、やがて福音書は広く、広く、全世界と広げられていくことをルカは、強く、強く、このエマオの物語で印象深く、感動を覚えるメッセージとして私たちに与えてくれているのであります。

 ハレルヤ アーメン

復活祭の説教「イエス・キリストは我らの復活の初穂なり」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書20章1-18節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が神の大いなる力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的のようです。イエス様が天の父なるみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから人として生まれたことを記念してお祝いするのはクリスマス・降誕祭でした。復活祭はクリスマスに劣らずキリスト教会では大事なお祝いです。一度死んだ者が復活させられて、死の悲しみが生の喜びにかわるということで、ちょうど暗い寒い冬が明るい暖かい春にかわる時期にぴったりのお祝いにみえます。

 ところで、イエス様が復活されたことの何が私たちにとってそんなに喜ばしいことになるのでしょうか?復活祭の本当の意味がわかるために、このことを少し考えてみましょう。イエス様は沢山の苦しみを受けて十字架につけられて死なれたが、復活させられた、ということで、復活祭とはイエス様の不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と言ったらどうでしょうか?また、イエス様が死んだため悲しみにくれていた弟子たちが、復活させられたイエス様に出会って喜び勇気づけられた、ということで、弟子たちの不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と言ったら?復活祭とは、歴史ドラマでも観るように、昔の人物たちの運命の変転をハラハラしながら追って最後にめでたしめでたしの気分を味わえるお祝いでしょうか?いいえ、決してそうではありません。イエス様が死から復活させられたことは、当時の人物たちの時代という時間の壁を突き破って、今を生きている私たちの運命の変転そのものに関係することなのです。そのことがわかるために、イエス様の復活とはそもそも何かということを考える必要があります。

そこで、イエス様の復活とは何かをわかるためには、イエス様はなぜ死ななければならなかったのかを考えなければなりません。もちろん、それはイエス様が当時のユダヤ教社会の宗教エリートに楯突いて反感を買って、ローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された、ということなのですが、実はそれは見かけ上の出来事です。見かけの奥にある真実はこうです。旧約聖書に記された神の計画が、イエス様の十字架と復活という形を取って実現したということです。

それでは、旧約聖書に記された神の計画とは何でしょうか?それは、罪にまみれて神聖な神との結びつきを失い死ぬ存在になってしまった人間が、罪を洗い流されて神との結びつきを回復してこの世を生きられるようにするという計画です。この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるようにするという計画です。それでは、この神の計画とイエス様の十字架・復活はどう関係するでしょうか?それは次のように関係します。まず、イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を全部代わりに受けてくれて、神に対して罪の償いを全部してくれました。このように私たちの罪を請け負って神の罰を受けたので、罪はイエス様と一緒に神の罰を受けて破綻しました。こうしてイエス様が自分を犠牲にして罪の力を無力にしたので、私たちは罪の支配から解放されました。さらにイエス様が復活させられたことで、死を超える永遠の命への扉が私たち人間に開かれました。その扉は、罪に支配されたままの者は入れませんが、イエス様を救い主と信じて神から罪の赦しを得て罪の支配から解放された者は入れるようになりました。

このように罪と死の支配から人間を救おうとする神の計画が実現したことで、今度は私たち人間もイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしました。こうして人間は新しい希望をもってこの世を生きることができるようになりました。新しい希望とは、一つには、たとえこの世の人生が終わっても、命は復活の日を経て永遠の命という形をとって続いていく、だから死は終わりではないという希望です。もう一つには、死者の復活が一斉に起きる復活の日、神は御心に従って、懐かしい人同士が合いまみえるようにしてくれるという復活の日の再会の希望です。実に神は、私たちがこうした希望をもってこの世を生きられるようにしてくれたのです。

そういうわけで、復活祭とは、イエス様が復活させられたことで、実は私たちの将来の復活が可能になったことを喜び祝う日です。また、復活させられるという希望と復活の日に再会できるという希望を私たちに与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活させられた主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったのです。イエス様自身のためでもなく、弟子たちを喜ばせるためでもなく、イエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちにとって大きな喜びの日になるのです。

 

2.

 イエス様の復活は、まさに私たちの復活に先だって起きました。イエス様の復活が起きなければ、後に復活は続きません。イエス様の復活が将来の私たちの復活の先駆けになっていることは、先ほど読んでいただいた本日の使徒書である第一コリント15章からも明らかです。23-24節で復活には順序があると言われています。「最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち」、つまりイエス様の復活は今から約2000年前に起きましたが、その他全ての者の復活はイエス様の再臨の日に起きるということです。

第一コリント15章20節には「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言われています。「初穂」とは、ギリシャ語のアパルケーαπαρχηの日本語訳ですが、「最初の者」とか「第一子」というのがもともとの意味です。興味深いことに、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語訳の聖書では素直に「眠りについた人たちの中で第一子となられました」となっています。英語訳(NIV)では「最初の果実」firstfruitsで、植物になぞらえることで日本語訳に近いです。「初穂」の意味ですが、単純に「年の一番最初に実った穂」という意味の他に、宗教的な意味もあるので注意が必要です。日本の宗教的な伝統では、年一番最初に収穫して神仏に捧げる穀物を意味します。穀物ではないですが、似たようなことがユダヤ教の伝統にもあり、人間であれ家畜であれ第一子は神に捧げられるものとして聖別せよという律法の規定がそれです(出エジプト13章1-2節、12-13節、22章28節、34章19節、民数記3章13節)。ルカ2章に赤ちゃんのイエス様が両親に連れられてエルサレムの神殿に行く場面がありますが、その目的の一つが第一子の聖別でした(23節)。

日本語訳で「初穂」としたのは、何か神に捧げられるものという意味をもたせる意図があったのかどうかはわかりませんが、一つ注意しなければならないことがあります。それは、復活して復活の体を持つイエス様はもう捧げものではない、ということです。イエス様は既に十字架の上で全ての人間を罪の支配から贖い出すために御自身を神聖な生け贄として神に捧げたのです。十字架の出来事の後で、もう神に捧げる犠牲などありません。そうは言っても、十字架の出来事の後にも人間には罪がまとわりつきます。それでは、罪がまとわりつく時、人間が罪の支配から贖われた状態を保てるにはどうしたらいいのか?それはもう、イエス様が成し遂げた全てのことのゆえに、彼こそが自分の救い主だと信じて洗礼を受けてイエス様と結びつくこと、そして聖餐式でイエス様の血と肉を受けてその結びつきをしっかり保っていくこと、それしかありません。

そういうわけで、イエス様は復活の「初穂」と言う時、それは単純に眠りについた者たちの中で一番最初に復活させられた者ということです。私たちに先だって復活した、イエス様の復活が起きたので続いて私たちの復活も起きるということです。皆さん、ここで広々とした田んぼ、または麦畑を思い浮かべてみて下さい。秋の収穫の時が近づきました。どの穂か、最初に実った穂があったかと思うと次々と他の穂も実っていって、田んぼや麦畑は黄金色に輝きます。稲や麦のように私たちもイエス様という初穂に続いて行きます。イエス様の再臨の日、それは復活の日であり、また天地が新しく創造される日ですが、私たちは眠りから覚まされて、復活の体を着せられて天の御国に迎え入れられます。実をならせた穂として。

 先ほどみた第一コリント15章20節で「眠りについた人たちの初穂」と言われていますが、聖書ではこの世から死んだ後は、復活の日、イエス様の再臨の日までは「眠り」の期間です。ルターによれば、この「眠り」は、この世の痛みや苦しみから解放された心地よい眠りである反面、眠っている本人にすれば目を閉じてから復活の日までの長い眠りは、本人にはほんの一瞬にしか感じられないという眠りです。眠っているだけなので、飢えも渇きも感じないし、また、この世で生きている人を見守ったり、影響力を及ぼすこともありません。この間ずっと起きて目を覚ましていて、この世の人を見守ったり影響力を及ぼすのは、天地創造の神だけです。死んだ人の霊や魂などではありません。

 

3.
本日の福音書の箇所で、復活の主イエス様とマグダラのマリアの再会が記されていますが、これは想像を絶する出来事です。というのは、この地上の体を持つマリアが復活の体を持つイエス様にすがりついているからです。復活したイエス様が持っている復活の体とはどんな体なのか?それについては、使徒パウロが第一コリント15章の中で詳しく記しています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42-43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52-54節)。イエス様は、ずばり「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言われます(マルコ12章25節)。

復活というのは、ただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば、遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起きません。復活とは、肉体が消滅しても、復活の日に新しい復活の体を着せられて復活することです。その体は、もう朽ちない体であり、神の栄光を輝かせている体です。天の御国で神聖な神のもとにいられる体です。この地上は、そのような体を持つ者のいる場所ではありません。イエス様は本当なら復活の後、吸い取られるよう天に昇らなければならなかった。なのに、なぜ40日間も地上にとどまったのか?その期間があったおかげで、弟子たちをはじめ大勢の人に自分が復活したことを目撃させることが出来ました。きっと、それが目的だったのでしょう。

復活したイエス様が、私たちがこの地上で有する体と異なる体を持っていたことは、福音書のいろいろな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事が記されています。弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。

 復活したイエス様の体について、もう一つ不思議な現象は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったということです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事が記されています。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経った後のことでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初イエス様だとはわかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。

Waiting For The Word RALPH PALLEN COLEMAN

さて、天の御国の神聖な神のもとにいられる復活の体を持つイエス様と、それにすがりつく、地上の体を持つマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。「すがりつく」というのは、相手が崇拝や尊敬の対象である場合は、ひれ伏して相手の両足を抱き締めるということだったでしょう。イエス様に気づく前、マリアはずっと泣いていました。イエス様が死んでしまった上にその遺体までなくなってしまって、その喪失感と言ったらありません。では、イエス様に気づいてすがりついた時のマリアはまた泣いたでしょうか?次のように考えて見たらどうでしょうか?最愛の人が何か事故に巻き込まれたとします。もう死んでしまったとあきらめていたか、またはまだあきらめきらないというような時、その人が無事に戻ってきて目の前に現れるとする。その場合、たいていの人は感極まって泣き出して抱きしめたりするでしょう。イエス様にしがみつくマリアもおそらく同じだったでしょう。

イエス様が「すがりつくな」と言ったということですが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」μη μου απτουです。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」Do not hold on to meです。聖書の訳にも日米同盟があるみたいですが(もっとも、ドイツ語ルター訳でないEinheitsübersetzung訳をみると、「私にすがりつくな」Halte mich nicht festでした)、イエス様はマリアに対して、「触れるな」と言っているのか「すがりつくな」と言っているのか?

私は、イエス様が復活した体、まさに天の御国の神のもとにいることができる体を持っているということを考えると、ここは原文通りに「私に触れてはならない」の方がよいと思います。イエス様は、この言葉の後にすぐ理由を述べます。「私はまだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は、自分に触れるな、と言われる。その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが有している肉体の体とは異なる、神の栄光を体現する霊的な体を持つ者となった。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で天の父なるみ神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間はこの地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上のものなので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。

 このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じていることです。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(ψηλαφησατε、βαλε両方ともアオリスト命令形)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は、「今の自分は本来は神聖な神のもとにいるべき存在なのだ。だから触れてはいけないのだ」と言っているのです(απτου現在の命令形)。そういうわけで、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止なのです。確認のためとかイエス様が許可するのでなければ、むやみに触れてはならない、ということなのです。

 神聖な復活の体を持って立っているイエス様。それを地上の体のまますがりつくマリア。本当は相いれない二つのものが抱きしめ、抱きしめられている、とても奇妙な光景です。そこには、かつて旧約の時代にモーセやイザヤが神聖な神を目前にして感じた危険はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだ、と言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。感動的な場面です。イエス様は、今マリアは地上の体ではいるが、自分を救い主として信じている以上、復活の日に復活の体を持つ者になるとわかっていたのでしょう。イエス様の次の言葉から、そのことが窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。イエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられる道が開かれたのである。」

 

4.

 兄弟姉妹の皆さん、今日は復活祭です。イエス様の復活を通して、私たちにも復活の道が開かれました。イエス様が復活の初穂ならば、私たちはそれに続いて実を実らせる穂です。イエス様は有名な種まき人のたとえの中で、良い土地に蒔かれた種はしっかり成長して、30倍、60倍、100倍の実を実らせると教えました。

 十字架の贖いの業のゆえにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様と結びつく者は、

神の意思に照らせばまだ自分に罪が宿ることを思い知らされつつも、

その度に十字架の主に心の目を向けて、罪の赦しが揺るがないことを繰り返し覚え、

神に対する感謝の念を新たにし、本当に神の意思に沿うように生きようと志向する。

この時、私たちは良い土地に蒔かれた種であり、「罪の赦しの救い」から絶えず栄養を受けて成長していて、やがて30倍、60倍、100倍と実を結び、初穂のイエス様に続いて、復活の日に復活するのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン


主日礼拝説教 復活祭
2016年3月27日 聖書日課 出エジプト15章1節-11節、第一コリント15章21節-28節、ヨハネ20章1-18節