説教「イエス様につき従った弟子たち、そして私たちは」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書4章18-25節、イザヤ43章10-13節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

  イエス様はヨルダン川にて洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。その時イザヤ書の預言通りに聖霊が彼に降って、いよいよ天地創造の神が定めていた人間救済計画の実現に乗り出すことになります。イエス様はまず、ユダヤの荒野で悪魔から誘惑の試練を受けて、最後にこれに打ち勝って、それからイザヤ書の預言通りにガリラヤ地方にて活動を開始しました。ただし、自分が育った町ナザレでは人々に受け入れられなかったため、ガリラヤ湖畔の町カペルナウムに活動の拠点を移しました。以上がイエス様が洗礼を受けた出来事から本日の福音書の日課までのあらすじです。本日の福音書の箇所は、カペルナウムに移った後で何が起こったかということについてです。

イエス様がガリラヤ湖畔を進んで行くと、二人の漁師が投げ網漁をしていました。二人は兄弟で名前をペトロとアンデレと言いました。彼らに向かってイエス様が言います。「私に従って来なさい。お前たちを、人間をつかまえる漁師にしよう。」「人間をつかまえる漁師」とは、エレミア書16章16節にある預言の言葉です。この預言は、イエス様の時代から600年くらい前に遡った頃に与えられました。その意味ですが、預言が与えられた時代の文脈でみると、バビロン捕囚のために世界各地に散り散りになったイスラエルの民を将来、イスラエルの地に戻す、漁師が魚を捕るように集めて戻す、ということです。つまり、バビロンからの帰還を意味するという理解がされました。さて、イスラエルの民の祖国帰還はイエス様の時代から500年程前に実現しました。それでは、イエス様はどのような意味でこの古い預言の言葉を述べたのでしょうか?実は、このような預言は、イエス様の時代には、死者の復活とか最後の審判ということを考える人たちの間では、そういうこの世の終わりの時にメシア救世主を信じる者が世界中から集められて神の国に迎え入れられる、そういう理解がされていました。ただ、漁師のペトロとアンデレはそのような理解をしたでしょうか?そもそも二人はそのような預言があること自体を知っていたでしょうか?いずれにしても、二人は「すぐに網を捨てて」イエス様に従って行きました。こんなに簡単について行くというのはどういうことでしょうか?

ペトロとアンデレだけではありませんでした。さらに進んでいくと、舟の中で父親と一緒に網の手入れをしている二人の兄弟が見えました。名前はヤコブとヨハネ。イエス様が声をかけると、この二人の兄弟も「舟と父親を残して」イエス様に従って行きました。

4人の漁師たちは、ただ声をかけられただけで、そのまま「網を捨てて」、「舟と父親を残して」すっとイエス様に付き従って行ってしまいました。イエス様を一目見て、その一声を聞いて付き従って行ってしまうとは、何か不思議な力が働いているとしか言いようがありません。この段階ではイエス様は、まだ権威ある教えを大々的に述べて、奇跡の業を行うことはまだしていません。彼がガリラヤ全域の会堂で教えを宣べ始めて奇跡の業を行い出すのは、本日の福音書の日課で言われるように、4人の漁師を弟子にした後のことだったのです。この段階では、彼らにとってイエス様はまだ素性のわからない人物です。それなのに、一声かけられて生業も父親もほっぽり出して、そのまま付き従って行ってしまうとは、これはもう人間の内側の心理的なやり取りで説明できる話ではなく、人間の外側から働く力、まさに神の力によるものだったとしか言いようがありません。それはまさに、イエス様が、病気から治れと命じたら治ってしまうように、嵐よ、静まれと命じたら静まってしまうように、また、悪霊よ、この人から出て行けと命じたら出て行ってしまうように、イエス様がついて来なさいと言ったら、そうなってしまうのです。マタイ9章9節をみると、徴税人のマタイが座っていたところをイエス様に声をかけられるやいなや有無を言わずに立ち上がって従って行った、とありますが、これも同じことでしょう(マルコ2章14節とルカ5章27-28節では徴税人の名前はレビ)。

 

2.イエス様につき従った弟子たち

イエス様が呼び出したらもうついて行かざるを得ないということは、本日の旧約の日課イザヤ書の預言が実現したことを意味しています。そこでは、神が自分が成す業を目撃してその証人になる者を選ぶということが預言されています。イザヤ書43章13節をみると、「今よりも後も、わたしこそ主。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を起こせば、誰がもとに戻しえようか」とあります。「わたしの手から救い出せる者はない」というのは、少し注釈が必要です。「救い出す」と言っているのは、ヘブライ語の動詞נצלをそう訳しているからですが、「悪から救い出す」と言うのならわかりますが、「神から救い出す」というのは意味をなさないと思います。この動詞の基本的な意味は「取り去る」です。それで、「わたしの手から取り去る者はない」の方がよいでしょう。つまり、神が証人として選んだ者はもう神の手にしっかり握られているので、何をもってしても証人をやめさせることはできない、ということです。まさに、「わたしが事を起こせば、誰が元に戻しえようか」ということです。このイザヤ書の預言に従えば、イエス様が4人の漁師をはじめ弟子たちを呼び集めたというのは、第一にイエス様の業と教え、そして彼に起きる出来事をつぶさに目撃させて、その証人になってもらうことがありました。第二には、この呼び集めは神の力で行うものなので、一度呼び出されたら個人的な事情は関係なく、ただやるしかないことがありました。神の力でイエス様の目撃者、証人にさせられるというのが、イエス様の弟子の呼び集めの趣旨であったと言えます。

 そうすると、イエス様の教えや業や出来事の目撃者、証人になることはよいにしても、有無を言わさずにあたかも人形の駒のように呼び出しに従わせるのは、ちょっと強引すぎるのではないかと思われるかもしれません。しかしながら、天地創造の神は、人間救済計画を実現する時が来た、それを一気に実現してしまおうとしたのです。この、一気に実現してしまおう、という神の意気込みは、イエス様のこの世での活動の期間がとても短いものであったことからもうかがえます。聖書の読者には意外かもしれませんが、イエス様が神の計画の実現に携わった期間というのはとても短かいものでした。マタイ福音書を見ると、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けて活動を開始してから十字架と復活の出来事までページ数は58ページあります。ところが、誕生から洗礼までは2ページしかありません。そのためイエス様の活動期間は長かったような印象が持たれるのですが、この期間は普通、大体3年位と見なされています。短く見積もる研究者は大体1年ぐらいと言う人もいます。イエス様の地上での全生涯は大体30年少しというのが定説ですので、全部の福音書の大半を占める活動期間の出来事は、実に生涯の最後の期間、短くて1年、長くて3年位の期間に集中しているのです。神が計画されていたことを速やかに確実に成し遂げるという時に、弟子たちの呼び集めというものも完全に神主導になって有無を言わせない動員になったと言うことができます。

 イエス様がこの地上での生涯のまさに最後の期間に行ったことというのは、まさに神の人間救済計画を実現することでした。神の人間救済計画とは、端的に言えば、人間を神の国に迎え入れられるようにするということです。イエス様は公けに活動を開始した時、「悔い改めよ。神の国が近づいた」と宣べました。先週の説教でもお教えしましたように、「神の国が近づいた」と言う時、それは本当に神の国がイエス様と一体となって来たことを意味していました。

神の国がイエス様と一体となって来たことは、彼の行った無数の奇跡に如実に示されています。イエス様の奇跡の業の恩恵に与った人々、そしてそれを目のあたりにした人々は、将来この世が終わりを告げる時に到来する神の国とは、この世で奇跡と捉えられることが普通の当たり前になっているところなのだ、と身をもって体験したのです。しかしながら、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来、神への不従順と罪を代々受け継いできた人間は、神聖な神の国に入ることはできないのです。罪と不従順の汚れを持つ人間は神聖なものとあまりにもかけ離れた存在になってしまったからです。この汚れが消えない限り、神聖な神の国に迎え入れられません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。

この問題を最終的に解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活だったのです。神は、本来なら人間が受けるべき罪の罰を全てひとり子のイエス様に請け負わせて、あたかも彼が全ての罪の責任者であるかのようにして十字架の上で死なせ、その身代わりの死に免じて人間の罪を赦すという解決策に打って出たのです。そこで人間の方が、「あの、2000年前の昔の彼の地で天地創造の神がひとり子イエス様を用いて人間のために罪の赦しの救いを実現したのは、現代を生きる自分のためにも行われたのだ」とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の身代わりの死に免じて確立した罪の赦しがその人に効力を持ち、罪が赦されるので神の目に適う者となり、神の国に迎え入れられる者に変えられるのです。その人は、そのように変えてもらった以上はそれを汚すようなことはしてはならない、と思うようになり、そのように生まれ変わって新しい命を生きるようになるのです。

さて、このようにしてイエス様は、私たちが神の国に迎え入れられるようにと、天の父なるみ神の意思に忠実に従って、十字架の死と死からの復活の業を成し遂げて、神の人間救済計画を実現しました。つまり、この地上での生涯の最後の1-3年ほどの短い期間に本当にとてつもないことを成し遂げられたのです。全ての人間の罪の罰を全部請け負って、人間が罪の赦しを受けられて神の国に迎え入れられる道を開いたのです。神の国に迎え入れられない絶望的な状況を希望ある状況に変えて下さったのです。

この大事業の完遂にあたってイエス様は弟子たちを呼び集めました。弟子たちに課せられた使命は、イエス様と共にいてその教えと業そして起きる出来事をつぶさに見聞きして目撃者になること、そしてイエス様から授かった教えと力をもって、神の国の実在を証しして罪の赦しを宣べ伝えることでした(マルコ3章13-15節)。彼らがイエス様と行動を共にしたことが、後に目撃者としての彼らの証言を生み出すことになりました。そして、彼らの迫害にも屈しない命がけの証言を聞いてイエス様を見なかった人たちが彼を救い主と信じるようになりました。そういうことが連鎖反応的に起こって、最終的に弟子たちの証言やそれに基づく教えや信仰の証しがまとめられて、聖書の新約の部分ができあがりました。弟子たちの証言や聖書がなければ、誰もイエス様を救い主と信じることはできません。イエス様が門を開いて下さった神の国にも入ることはできません。そういうわけで、イエス様は神の人間救済計画そのものを実現しましたが、弟子たちは実現した救いが国と時代を超えて多くの人たちに及ぶようにする役割を果たしたのです。

イエス様が使徒と呼ばれる弟子たちを選んで呼び出したのは、このような重要な役割を担わせるためでした。この呼び出しは、神のひとり子の十字架の死とその死からの復活という、まさに人類を闇から光に方向転換させる出来事を間近にして行われました。このような大きな出来事を間近にしたイエス様の呼び出しに個人的な事情を顧みない、有無を言わせない力があったというのは当然でしょう。本当に何か途方もない力が働いて、人間が次々に吸い取られていくような雰囲気がありました。福音書は、このように自動反応のごとくイエス様につき従い始めた弟子たちの内面的葛藤とか一切触れていません。きっと実際に自動反応のようなことが起きたのでしょう。それで、その雰囲気をそのまま伝えたいために、余計な説明を付け足すことをしなかったのでしょう。

イエス様自身、このような自動反応を期待していたことが、信心深い百人隊長の信仰がそのようなものであることを知って感心したことに伺えます(ルカ7章1-10節、マタイ8章5-13節)。ところが、呼び出されても自動反応が起きない場合は、イエス様はとても手厳しかったです。ある呼び出しを受けた人が死んだ父親を葬りに行ってもいいかと聞くと、「死者は死んだも同然の者たちに葬らせればよい」と答えます(ルカ9章59-60節、マタイ8章21-22節)。神の力が及んでも、人間の自由意思がそれを押しとどめた例と言えます。その人がそのままイエス様に従って行ったかどうかはわかりませんが、神の力が及んで付き従った筈の弟子たちにも、自由意思の葛藤はもちろん起きます。「私たちは全てを捨てて従って来ました、何をいただけるのでしょうか」という情けない質問も出ました。イエス様が逮捕された時、弟子たちは皆逃げてしまいました。しかし、そうした、神の力と人間の自由意思の葛藤に揉まれるというプロセスを経て、イエス様の復活を目撃した後は、迫害にも屈しない文字通りの「使徒」に変えられたのでした。

 

3.そして、私たちは

それでは、私たちも同じようにしなければならないのでしょうか?もし神の召し出しを受けたら、私たちもゲームのコマのように駆り出されて、4人の漁師のように、生業やさらには親や家族を置いて出て行かなければならないのでしょうか?それが私たちにとってイエス様の弟子になる、彼の後をつき従うということになるのでしょうか?

ここでひとつ注意しなければならないのは、私たちに関して言えば、神の人間救済計画は既に実現しているということです。実現の目撃者、証言者になって聖書を編み出すという役割は、既に使徒たちが果たしてくれました。私たちはイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通してイエス様の弟子になります。私たちがイエス様の弟子になるというのは、まず、実現済みの救いを受け取る者になるということを意味します。それから、「イエス様の十字架と復活の業は自分のためにもなされた、だからイエス様は私の救い主です」と言って、周りに証しできることも弟子であることの内容です。そして、周りの人もイエス様を救い主であることをわかって信じることが出来るように働きかけることも入ります。大きく言って、救済の実現に際して特別な役割を託された弟子たちとは状況と立場が少々異なっているので、弟子たちが受けたのと同じような、自動反応をもたらすような召し出しは恐らくないのではないかと思われます。ただ、もちろん、周りに証することは弟子たちと共通しているので、それを忘れてはならないと思います。

ところで、キリスト信仰者は、堕罪の時以来、人間を神から切り離して神の国に入れないようにしようとする力が今もずっと働いているということを忘れてはいけません。そのため、その悪い力は手立てを尽くして、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者からその信仰を取り去ろうとします。究極的な場合、肉親を信仰の反対者に立てて、信仰を捨てるか肉親を捨てるかどちらかを選べという苦しい選択に追い込むこともします。そのような時は、どうしたら良いでしょうか?

昔フィンランドで聖書を学んでいた時、私はこの問題について聖書の教師に尋ねたことがあります。「もしキリスト信仰者でない親が子供のキリスト信仰を悪く言ったり、場合によっては信仰を捨てさせようとしたら、十戒の第四の掟『父母を敬え』はどうすべきか」と。彼が教えたことは次のことでした。「何を言われても騒ぎ立てたり取り乱したりせず自分の立場をはっきりさせておきなさい。たとえ意見が正反対な相手でも尊敬の念を持って尊敬の言葉づかいで話をすることは可能です。ひょっとしたら、親を捨てるとか、親から捨てられる、という事態になるかもしれない。しかし、ひょっとしたら親から宗教的寛容を勝ち得られるかもしれないし、場合によっては親が信仰に至る可能性もあるのだから、すべてを神のみ旨に委ねてたゆまず神に祈り打ち明けなさい。」

 信仰に反対する者に対して敬意をもって自分の立場を明らかにするというのは、ダニエルがバビロン帝国のネブカドネツァル王に言った言葉を思い出します。ネブカドネツァルは、ダニエルに対して、王が作った金の像を拝むか火の炉に投げ入れられるか、どちらかを選べと言われて、次のように答えました。

「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ずや救ってくださいます。そうでなくとも、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」(ダニエル3章16-18節)

 キリスト信仰者においては、捨てる、捨てない、と言っている信仰とは一体何なのかということをしっかり明らかにしておかなければなりません。それがはっきりしないのに、捨てるとか捨てないとか言っても、話になりません。信仰とは、本説教で申し上げてきたことに関連して言えば、大体次のようなことになります。イエス様が自分のために十字架と復活の業を成し遂げて下さったおかげで、私は神聖な神の前に立ってもやましいところがない、潔癖な者であると見なしてもらえるようになった、ということを本当にその通りだとしていることです。

本当ならば神聖な神の前でやましいところがない、潔癖だなどとは言えない身なのですが、イエス様が神聖な神のひとり子でありながら私の身代わりになって十字架の上で死なれた、それでイエス様こそ救い主です、と信じて告白すれば、神は彼の身代わりの犠牲の死に免じて私にはやましいところがない、潔癖な者として見なして下さるのです。このことは、人間がこの世の人生を終えて、次の未知なる大いなる世界に足を踏み入れる時にとても大事なことになります。なぜなら、この全く未知の恐るべき世界に足を踏み入れる時、自分には手を取って御許に引き上げて下さる方がおられるとわかることができるからです。私のことをやましいところがない、潔癖であると認めて下さる方がいらっしゃるので、それがわかるのです。本当に神がそのように認めてくれるというのは、あの2000年前の彼の地に打ち立てられた十字架という歴史上の出来事があるから、わかるのです。

 そのように、大いなる安心と信頼をもって、自分の全てを大いなる意思に委ねて未知の世界に足を踏み出すことができる。このような安心と信頼を、どうして捨てなければならないのでしょうか?また、どうして奪い取ろうとするのでしょうか?奪い取ろうとするのは、何かもっと確かな安心と信頼を保証してくれるからなのでしょうか?奪い取ろうとする者がそれを示せると言うのなら、イエス様の十字架を超えるような出来事が歴史上あったのか示せると言うのでしょうか?もし示せないで奪い取ろうとするのならば、一体何のために奪い取ろうとするのでしょうか?自分ではその大いなる安心と信頼を求めたいと思わないのでしょうか?全く理解できないことです。

最後に「ペトロの第一の手紙」3章13-16節の聖句を引用して本説教の締めとしたく思います。

「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

説教「悔い改めよ。神の国は近づいた。」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書4章12-17節

主日礼拝説教 2017年1月22日(顕現節第三主日)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.イザヤの預言の成就

 先週の福音書の箇所は、イエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事についてでした。イエス様という本来ならば洗礼など必要のない神聖な神のひとり子がなぜ洗礼を受けなければならなかったのか?それは、イザヤ書に記された預言に従って、創造主の神が人間救済計画を実現するために必要な手続きであった、ということを先週の説教でお教えしました。洗礼の後でイエス様に何が起きたかと言うと、ユダヤの荒野で40日間に渡って悪魔から誘惑の試練を受け、それに打ち克つという出来事がありました(4章1-11節)。そのことがテーマになる主日は、日本のルター派教会では、イースター前の四旬節の最初の主日に定められています。今年は3月5日です。イエス様が悪魔から受けた試練については、その時に譲りたく思います。

本日の福音書の箇所は、イエス様が悪魔の誘惑の試練に打ち克った後に起きた出来事についてです。イエス様がいよいよ神の人間救済計画を実現するための活動を公けに開始したというところです。まず、洗礼者ヨハネがガリラヤ地方の領主、ヘロデ・アンティパスに捕えられたという報が伝わります。捕えられた理由は、ヨハネがアンティパスの不倫を神の意思に反することだとはっきり言ったためでした。牢獄につながれたヨハネは後で首をはねられてしまいます(14章1-12節)。さて、イエス様は、ヨハネが捕えられたと聞いて、そのガリラヤ地方に乗り込んでいきます。(新共同訳では「ガリラヤに退かれた」とありますが、アンティパスの本拠地に行くわけなので、「退かれた」ではないでしょう。)ただし、育ち故郷の町ナザレに戻ってそこを活動拠点にはせずに、ガリラヤ湖畔の町カペルナウムに落ち着くことにしました。なぜかと言うと、ナザレの人たちがイエス様を拒否したからでした。ナザレに戻ったイエス様に何が起こったかということについては、ルカ4章16-30節に記されています。

さて、カペルナウムを拠点として、イエス様のガリラヤ地方での活動が始まりました。そのことがイザヤ書にある預言の成就であったと記されています。「ゼブルンの地とナフタリの地」という文句で始まるところです。イエス様のガリラヤ地方での活動開始が、どうしてイザヤの預言の成就であると言えるのか、それは、この預言の全体を見てみるともっとよくわかります。少し見てみましょう。

イザヤ書の預言は、同書の8章23節から9章6節までのところです。この預言が語られた歴史的背景を見てみます。時は紀元前700年代、ダビデ王の王国が南北に分裂して二つの王国が互いに反目しあって200年近くが経った頃のことです。こともあろうに、北側のイスラエル王国が隣国と同盟して、兄弟国である筈の南側のユダ王国に攻撃をしかけようとしました。ユダ王国は、王様から国民までパニック状態に陥ります。そこで、預言者イザヤが現れて、「攻撃は絶対成功しない、なぜなら神の御心がそうだからだ、だから心配に及ばない」と宣べ伝えます。実際、北王国とその同盟国は、東方の大帝国アッシリアに滅ぼされてしまうので、ユダ王国に対する攻撃計画は実現しませんでした。しかし、神の民であるユダヤ民族の北半分が滅びてしまいました。本日の福音書の箇所に引用されているイザヤの預言の出だしの部分は、このことについて述べています。引用元のイザヤ書8章23節に次のように記されています。「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」

ゼブルン、ナフタリというのは、ヤコブの12士族のうちの2つで、ガリラヤ地方に移住した士族です。場所的には北王国にあたります。それで、同国が滅びたことが「ゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けた」ことを指します。しかし、預言は一つの国の滅亡に終わりません。まだ続きがあります。同じ8章23節の後半で、「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける」と言われます。異民族に蹂躙されてしまったこのガリラヤ地方が神の栄光を受ける場所になるというのです。どういうふうに神の栄光を受けるかということについては、イザヤ書の続く9章1節からの預言に記されています。聖書の中で有名な箇所の一つです。「闇の中を歩く民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。これが本日の福音書の箇所に引用されています。預言はさらに続きます。9章5-6節には次のように記されています。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」ここで預言されている人物は、まぎれもなくイエス様です。

この預言が示されてから700年の後、イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃して、神の人間救済計画が実現したとわかった人たちが最初のキリスト信仰者になりました。彼らは、イエス様こそ「人間を闇の中、死の陰の地から導き出す光である」とわかったのです。そして、ああ、そう言えば、イエス様の公けの活動はまさにガリレア地方で始まったではないか!と思い当たり、そうか、あれは全てイザヤ書8章23節から9章6節までの預言の成就だったのだ、とわかったのであります。それで、その預言が、短縮された形ですが、本日の福音書の箇所に引用されるに至ったのです。

本日の旧約の日課であるアモス書3章の7節には、「まことに、主なる神はその定められたことを僕なる預言者に示さずには何事もなされない」と述べられていますが、まことにその通りです。このように創造主である神は、人間救済計画がどのように実現されるかということを、何百年前だろうが前もって預言者に告げ、約束されたことを全て果たされた忠実、誠実な方なのです。

 

2.「悔い改めよ」

 少し前置きが長くなりましたが、本日の福音書の箇所の大事なところをみていきましょう。それは、イエス様が公けに活動をした時に冒頭で述べられた言葉「悔い改めよ。天の国は近づいた」です。二つの短い文ですが、大切な事柄が沢山凝縮されています。それを見ていきましょう。

まず、「悔い改めよ」について。「悔い改める」というと、何か「悔いる」とか「後悔する」とか「反省する」というような意味があるように感じられます。「悔い改める」のギリシャ語原文の言葉は、メタノエオ―μετανοεωという動詞で、もともとの意味は、「考えを改める」とか「考え直す」です。ところが、新約聖書の中でメタノエオ―と言ったら、それは「神のもとに立ち返る」という意味を持ちます。どうしてもともとの意味が神に向けられるように限定されたのかと言うと、ヘブライ語の旧約聖書の中にシューブשובという、「神のもとに立ち返る」という意味で使われる動詞があって、それに対応するギリシャ語は何か?ということで、メタノエオ―μετανοεωが使われるようになったという事情がありました。こうして、「考えを改める」、「考え直す」が「神との関係で考えを改める」「神との関係で考え直す」というふうになり、今まで神に対して背を向けていた生き方を改めて、これからは神に向き直して考える、行動する、生きるという意味になりました。そういうわけで、メタノエオ―μετανοεωは新約聖書の中では「神のもとに立ち返る」という意味です。(もちろん、エピストレフォ―επιστρεφω「立ち返る」も同じ意味を持ちますが、μετανοεωの場合は、語源的にみて「立ち返り」の内面的作用に注目するものと言うことができます。)

それでは、このメタノエオ―μετανοεω、「神のもとに立ち返る」とは、一体どのようなことをすることでしょうか?それがわかるために、まず、人間は自分の造り主である創造主の神とどんな関係にあるかということを考えてみる必要があります。神との関係はいいのか?悪いのか?うまくいっているのか?いっていないのか?

人間と神との関係について、イエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然、行為に及ばなくても神が与えた十戒の第5の掟を破ったことになる、また異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第6の掟を破ったことになる、と教えました。つまり、十戒を外面的だけでなく内面的にまで守れないと、神の意思に反することになると言うのです。そうなると、神の意思を凝縮した十戒の掟を全てそのように完璧に守れる人間、神の意思を完全に体現できる人間は存在しなくなります。

マルコ7章の初めにはイエス様とユダヤ教社会の宗教エリートとの論争があります。何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争です。イエス様の論点は、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものと言えば、それは律法のような戒律や様々な宗教的な儀式でした。しかし、戒律を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現・体現には程遠く、神の裁きを免れて永遠の命を得る保証にはならないとイエス様は教えたのです。

人間には、神の意思に反しようとする神への不従順や罪が内在している。しかも、それらは人間が自分の力では除去できない。とすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世の人生では神との結びつきがないままで、この世から死んだ後も、自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることはできない。何をもって「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神の解決策はこうでした。自分のひとり子をこの世に送り、全ての人間の全ての罪の罰を彼に請け負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間の罪を赦す、というものでした。人間は誰でも、このイエス様を犠牲に用いた神の解決策はまさに自分のために行われたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主であると信じて洗礼を受けることで、この神が整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取ることができるようになりました。こうして人間は、自分の造り主である神との結びつきを回復できてこの世の人生を歩み始めることとなり、順境の時にも逆境の時にも常に神から守りと良い導きを得られるようになり、万が一この世から死んだ後も永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのです。

以上のように、人間は、イエス様の十字架と復活の出来事を経て、神との結びつきや永遠の命を保証するメタノエオ―μετανοεω、「神のもとへ立ち返る」手がかりを得ることができました。それは、戒律を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、そういったものに拠り頼んでも自分からは罪の汚れは消え去らないと観念して、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けて、まずイエス様の神聖な純白な衣を頭から被せられること。もちろん自分の内に残る罪は必ずや、その衣を脱ぎ捨てるようにそそのかすけれども、ひたすらそれにしがみつくように着ていること。罪は純白な衣にそぐわないことをしろとそそのかし、私たちが弱さや油断からそうしてしまうことがあったとしても、その度、「父なるみ神よ、私の罪を赦して下さい。イエス様以外に拠り頼む方はいません!」と祈れば、神は「わかった、私のイエスの身代わりの死に免じてお前を赦そう、もう罪は犯さないように」と言って下さり、私たちがイエス様の白い衣をしっかり纏っていられるようにして下さるのです。本当にイエス様こそが「神のもとへの立ち返り」の手がかりであり、それ以外にはないのです。

イエス様がガリラヤ地方で公けに活動を開始した当時は、まだ十字架と復活の出来事はありませんでした。そのため、「神のもとへ立ち返れ」と言われても、人々は、何をどうしたらいいのか、戒律や宗教的儀式を積めと言うのならともかく、そうでなければ一体何なんだ、と途方にくれたでしょう。イエス様は、厳しい教えを突きつけて、人々をいったん途方にくれさせて、最後に自らを十字架の死に委ね、死から復活させられたことをもって全てを明らかにしたのです。

 

3.「天の国は近づいた」

 次に本日の福音書の箇所でもうひとつ大事なこと、「天の国は近づいた」を見ていきましょう。「天の国」は、他の福音書では「神の国」と呼ばれています。マタイは、「神」という言葉を畏れ多くて避ける傾向があり、それで「天の国」と言います。

 実は、洗礼者ヨハネも同じ言葉「悔い改めよ。天/神の国は近づいた」を述べていました(マタイ3章2節)。しかし、イエス様とヨハネの言葉の意味には決定的な違いがありました。イエス様が「天/神の国は近づいた」と宣べて活動した時、ヨハネと違って様々な奇跡の業が伴っていました。皆様もご存知のように、イエス様は数多くの難病や不治の病を癒し、悪霊を退治し、群衆の空腹を僅かな食糧で満たしたり、自然の猛威を静めたりするという無数の奇跡の業を行いました。これらを通してイエス様は、神の国が自分と一体となって来たことを示したのです。ヨハネの場合、「神の国が近づいた」というのは、それがもうすぐイエス様と共に来る、ということですが、イエス様の場合は、自分と一緒にもう来ている、ということだったのです。

 イエス様が行った奇跡の業は神の国がどんなものであるか、その一端を明らかにするものでした。それでは、神の国の全貌はというと、例えば黙示録20章から21章にかけて描かれています。それは、大きな結婚式の祝宴にたとえられ、そこに迎え入れられた人は、目の涙を神からことごとく拭い取ってもらい、もはや死も、悲しみも嘆きも労苦もない、というところです。ここで注意しなければならないことは、この神の国とは、今ある天と地が新しい天と地にとってかわるという、今の世が終わる時に現れるものということです。「ヘブライ人への手紙」12章には、今の世が終わりを告げ、全てのものが揺り動かされて取り除かれるとき、ただ一つ揺り動かされないものとして神の国が現れることが預言されています。神の国が結婚式の祝宴にたとえられるということも、この世での信仰の戦いや人生の労苦が全て労われることを意味しています。さらに、神の国で涙が全て拭われるというのは、この世の人生で被ったり、解決に至らなかった不正義が最終的に全て償われるということです。そうであるからこそ、キリスト信仰者は、この世の人生では、神の意思に反することに手を染めない、不正や不正義には対抗する、という努力をとにかくする、たとえ実を結ばなくても、最終的には神の国で実を結ぶので、無駄や無意味に終わることはないと知っているのです。

 ところで、神の国はまだ世の終わりなどとは無関係に、2000年前に一度、イエス様と共にやって来ました。その時、人々はイエス様の奇跡の業を目のあたりにして、将来到来する神の国とはこのようなことが当たり前になっているところなのだと体でわかったのであります。ところが、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来の神への不従順と罪を受け継いできた人間は、まだ神聖な神の国に入ることはできません。人間は神聖なものとあまりにも対極なところにいる存在だからです。罪と不従順の汚れが消えなければ神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。それを入れるようにして下さったのがイエス様なのでした。イエス様の十字架の死と死からの復活が全てを可能にしたのです。父なるみ神がひとり子を用いて私たち人間のために「罪の赦しの救い」を実現した、これはまさにこの自分のために行われたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、私たちはこの救いの所有者になります。こうして、私たちは神の目に適う者、義なる者とものと見なされて、神の国の立派な一員として迎えられるのです。

 

4.おわりに

 さて、復活されたイエス様が天に上げられて、その再臨を待つ今の時というのは、神の国がその日に顕現するのに備えて待機状態にある時と言ってよいでしょう。だからと言って神の国は今、私たちと無関係にあるのではなく、キリスト信仰者にあっては、しっかり信仰に留まる限り、そこへの入国許可証を手にしているのです。「我らの国籍は天にあり」(文語訳フィリピ3章20節)というのは、まことにその通りです。キリスト信仰者は二重国籍者です。もちろん現実の世界で二重国籍を認める国は多いので、そういう人たちも多くいます。しかし、死んでしまえばゼロです。天の御国に国籍がある二重国籍者は、どこにいようが、死のうが生きようが失われず、有効であり続ける国籍を持っています。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちは天国に永住権を有しているのです。この永住権の「永」は文字通り死を超える永遠のものです。キリスト信仰にあっては、たとえ他の全てのものが失われても、これだけは失われないという、そういうものがある、天の御国の国籍はまさにそれなのです。このことを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「イエス様が受けた洗礼と私たち」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書3章13-17節

主日礼拝説教 2017年1月15日(主の洗礼日)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の日課は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事についてです。これは驚くべき出来事です。どうしてイエス様が洗礼を受ける必要があったのでしょうか?ヨハネの洗礼というのは、救世主メシアの到来と来るべき神の裁きの日に備えて人々を準備させるものでした。どのように準備させるかというと、人々が罪の告白をして神のもとに立ち返るという決心をして、救世主メシアをお迎えするのに相応しい者になるということです。実際のところ、ヨハネのもとに来た人たちは、彼の洗礼ですぐ罪が洗い流されて清くなり神の裁きを免れると思っていたようです。しかし、ヨハネの洗礼はあくまで、もうすぐ来る救世主メシアを迎えるのに相応しい者にするということであって、罪を帳消しにするような決定的なものではありませんでした。そのことについては、ヨハネ自身、自分の後に来る方の名のもとに行われる洗礼こそが決定的な洗礼になると述べています。

その救世主メシアであるイエス様自身がヨハネから洗礼を受けるというのは、つじつまが合わないことです。なぜならイエス様は、神の神聖なひとり子であり、聖霊の力で乙女マリアから人間の体を持ってこの世に生まれてきますが、罪の汚れを持たない神のひとり子としての性質はそのままです。それなのでイエス様は、なにも罪の告白をして神のもとに立ち返る決心などする必要はありません。ヨハネの洗礼というのは、今申し上げたように、受ける人が救世主メシアを迎えるのに相応しくなるようにするものです。イエス様が自分自身を迎えるのに相応しくなるなんて意味をなしません。ヨハネから洗礼を受ける必要など全くなかったのです。それだから、イエス様が目の前に現れた時、ヨハネは驚いてしまったのです。「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」と言っているほどです。ヨハネのとまどいはよく理解でします。では、なぜイエス様は洗礼を受けにヨハネのもとに行ったのでしょうか?

この問いに対する答えとして、「イエス様は神の子でありながら、人間と同レベルになることに徹しようとした。それで、罪がないのに罪ある人間たちの間に入って洗礼を受けたのだ」と考える人もいます。つまり、人間にとことん寄り添う憐れみ深いイエス様、連帯心の強い方ということですが、実はもっと深い意味があります。もちろん、寄り添いや連帯ということは否定しませんが、それでもそうした捉え方ではとても収まりきれない、もっと大きなことがあります。その大きなこととは何かを知る手掛かりは、本日の旧約聖書の日課イザヤ書42章にあります。そういうわけで、本日の説教は、イエス様がヨハネから受けた洗礼とは何だったのかということをイザヤ書の預言から見てみることにします。そして終わりのところで、イエス様が洗礼を受けたことが私たちにとって何だったのかということを見ていこうと思います。

 

2.

 なぜイエス様がヨハネから洗礼を受けなければならなかったのか?この問いの答えは、本日の福音書の箇所の中にあります。マタイ3章15節でイエス様が、躊躇するヨハネに対して、次のように言います。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」つまり、イエス様がヨハネから洗礼を受けることは「正しいこと」だからだというのですが、なぜそれが正しいのかは見えてきません。イエス様とヨハネが正しいことを行うというのはあまりにも当たり前すぎて、それがどうイエス様の洗礼と関係するのかわかりません。これを理解するためには、福音書のギリシャ語の原文を見てみる必要があります。この問題は以前にもお教えしましたが、少し復習します。

 15節を原文に忠実に訳すと次のようになります。「今は言う通りにしなさい。このようにして義を全て成就することは我々にふさわしいのだから」。ふさわしいのは何かと言うと、「正しいことをすべて行う」ことではなくて、「義を全て成就すること」πληρωσαι πασαν δικαιοσυνηνです。この訳が、私の好き勝手な訳でないことは、いくつかの国の聖書を繙いてみてもわかります。英語訳の聖書(NIV)、ドイツ語のルター訳、スウェーデン語やフィンランド語の聖書を見ても、みな同じように「義を成就すること」が言われています([英]to fulfill all righteousness、[独ルター]alle Gerechtigkeit zu erfüllen、[ス]uppfylla allt som hör till rättfärdigheten、[フィン]täyttäisimme Jumalan vanhurkaan tahdon)。そういうわけで、この箇所は、「正しいことをすべて行う」ではなくて、原文に忠実な「義を全て成就する」でいこうと思います。

 そこで問題となるのが、それでは「義を全て成就する」とは何なのか、ということです。まず、「義」δικαιοσυνηという言葉ですが、これは、ルター派がよく強調する信仰「義」認の「義」、つまり、イエス様を救い主と信じる信仰によって神から義と認められる、その「義」です。「義」というのは、つまるところ、神の意思が完全に実現されている状態を指します。神の意思が完全に実現されている状態とは、端的に言えば、十戒が完全に実現されている状態です。十戒は、「私以外に神をもってはならない」という掟で始まりますが、最初の三つの掟は神と人間の関係について神が人間に求めているものです。残りの七つは、「父母を敬え」、「殺すな」、「姦淫するな」、「盗むな」、「偽証するな」、「貪るな」など、人間同士の関係について神が人間に求めているものです。神自身は、十戒を完全に実現した状態にある方、十戒を体現した方ですから、神そのものが義の状態にある、義なる存在であるということになります。

 この神の義というものを今度は人間の側について見ると、人間はそのままでは義を失った状態にあります。その理由は、人間は内に罪と神への不従順を宿しているからです。十戒に反しようとする性向を持っているからです。人間が義を失った状態でいるとどうなるか?それは、創造主であり自分の造り主でもある神との結びつきが失われた状態でこの世の人生を歩むことになります。さらに、この世から死んだ後も造り主の神のもとに永遠に戻ることができなくなってしまいます。人間が神の義を持てて、神との結びつきを持って生きられるためにはどうしたらよいか?そのことについてユダヤ教の中では、十戒や律法の掟をしっかり守ろうと言って、義を自分の力で獲得することが目指されてきました。しかしイエス様は、人間がいくら自分たちの作った掟や儀式で罪を拭い去ろうとしても、罪は人間の内に深く根を下ろしているので不可能であると教えました(マルコ7章、マタイ5章)。使徒パウロも、神が与えた十戒の掟というものは、自分に課せば課すほど、逆に自分がどれだけ神の意思に反するものであるか、義のない存在であるか、思い知らされてしまうと観念したのです(ローマ7章)。

 この世にいても次の世にあっても創造主の神としっかり結びついていられるためには神の義を持てなければならない。それを持てるために成すべきことは十戒に定められている。しかし、神の神聖さにピッタリ合うくらいに十戒を完璧に達成することは誰にもできない。この行き詰まり状況を神自身が打開して下さったのです。どのようにして打開したかと言うと、ご自分のひとり子イエス様をこの世に送って、彼に全ての人間の全ての罪の罰を受けさせて、ゴルゴタの十字架の上で死なせたことです。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。人間は、このような犠牲の業を果たしたイエス様こそ自分の救い主であると信じて、この神が与えて下さった罪の赦しを受け入れた瞬間、神から義なる者と見なされるのです。もちろん、イエス様を救い主と信じても、人間は肉を纏っている限り、罪の思いを持ち続けます。罪を完全に拭い去ることはできません。しかし、神から罪の赦しを受け取ることができると、神との結びつきを持って生きられるようになります。神との結びつきがあれば、残っている罪にもう人間と神の間を引き裂く力、人間を永遠の滅びに陥れる力はありません。「イエス様を救い主と信じますから罪を赦して下さい」と祈ると、神は「わかった。私のイエスの犠牲の死に免じてお前を赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言ってくれるのです。

このように神から罪の赦しを受ける者は、絶えず受け続けることで、残っている罪を日に日に干からびせていきます。ただ、イエス様を救い主と信じることで罪は決定的な打撃を受けたとは言え、それでも必ず隙を狙ってきます。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限り、結局は罪の無駄な抵抗に終わります。

 

3.

 以上みてきたように、イエス様が洗礼を受けるためにヨハネのもとにやって来たのは、「義を全て成就する」ためでした。「義を全て成就する」というのは、人間が神の義を持てるようにしようとする神の計画を実現することでした。それでは、ヨハネから洗礼を受けることがどうしてそうした神の計画を実現することになるのでしょうか?

イエス様が洗礼を受けた時、何が起きたを思い出しましょう。まず神の霊、聖霊がイエス様に降りました。加えて、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が響きました。これらの出来事は全て、本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書42章1~7節の預言がそのまま成就したことを示しています。イザヤ書に出て来る神の「僕」とはイエス様を指します。天から響く声と聖霊の降りは、1節の内容そのものです。

そこで、神の僕が「国々の裁きを導き出す」と言われますが、どういうことでしょうか?3節にも「裁きを導き出す」とあり、4節には「裁きを置く」と言われています。少しわかりにくいことです。「机の上に何か物を置く」というのはわかりますが、「裁きを置く」とはどういうことか?日本語として意味をなしているのか?どうやって「裁き」を「置く」のか?私は、「裁き」という言葉も「置く」という動詞も意味を理解できますが、それらの理解できる言葉を並べたら理解できなくなるというのは不思議です。英語やスウェーデン語やフィンランド語の聖書を見ると、「正義をもたらす/実現する」、「正当な権利をもたらす/実現する」などと訳しています。もとにあるヘブライ語の言葉משפטが難しい言葉です。その基本的な意味は、「対立する者たちを仲裁して対立を解決する」ということです。そのような解決をもって得られたものとして、「正義」とか「正当な権利」も意味として入ってきます。さて、どの意味が適当なのでしょうか?それは、イエス様が実際に何をもたらしたか、何を実現したかをみればわかってきます。(そういうわけで本説教では、イザヤ書42章をバビロン捕囚が終わる日を預言したものではなく、エルサレム帰還後の時代を預言したものとみなします)。

先ほども述べましたように、イエス様は全ての人間の全ての罪の罰を請け負われて十字架の上で死なれました。その身代わりの犠牲のおかげで、人間は神から罪の赦しを受けることが可能になり、こうして神と人間の結びつきが回復して両者の間に平和がもたらされることになりました。つまり、イエス様がもたらしたものというのは、自分を犠牲にして神と人間の間を仲裁して両者の間を本来あるべき姿にもどしたということです。その意味で、イザヤ書42章1、3、4節で「裁き」とか言っているのは、そうではなくて、「彼は、諸国民のために神と人間の間に平和をもたらす」(1節)ということです。3節も、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、神と人間の平和を恒久に打ち立てる」(3節)となり、「暗くなることも、傷つき果てることもない、この地上に神と人間の平和をもたらすまでは」(4節)ということになります。

実際、イエス様は十字架の業を通して、神と人間の間の対立関係を解消して平和な関係に戻すことを行ったのですが、それをどのように行ったかについてはイザヤ書42章の箇所によくあらわれています。2節「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」というのは、同じイザヤ書の53章の中にあるテーマと共通しています。そこでは、神の僕が人間の罪の償いのために自分を犠牲にする時、それは小羊が口を開かず物を言わずに屠られていくのと同じだと預言されています。 

3節 神と人間の恒久の平和を打ち立てる時、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」打ち立てるというのは、詩篇51篇19節「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」と同じテーマです。何が神に喜ばれる生け贄か?それは、神殿で多くの捧げ物をするような形式的な宗教的儀式ではない。そうではなくて、神に対して心から罪を悔いて新しく生まれ変わりたいと切望する心、また苦難にあって打ち砕かれて、どうか見捨てないで下さい、と神に必死にすがりつく心、そういう神以外に拠り頼むものはありませんという心を神は最上のいけにえと見なすのです。傷ついた葦、暗くなってゆく灯心とはまさに、打ち砕かれて悔いる心を持つ人のことです。イエス様は、そういう人たちを助けるために、自分自身を犠牲の生け贄にして人間が神との結びつきを持って生きられるようにしたのです。

4節 イエス様が「『暗くなることも、傷つき果てることもない』、この地上に神と人間の平和をもたらすまでは

というのは、イエス様が十字架にかけられる寸前まで激しい拷問を受け、最後に五寸釘のような太釘で手足を十字架に打ち付けられながらも最後まで身代わりの犠牲を果たしたことを意味しています。

5節 天の父なるみ神が万物の創造主であることが言われています。「主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生じるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる。」

その創造主である神と造られた者である人間との関係が、人間に罪が入り込んでしまったことで崩れてしまった。それを回復するために、神はひとり子を犠牲にして人間が神との結びつきを取り戻せるようにした。そのことが6節に言われます。「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。」新共同訳では「恵みをもってあなたを呼び」とありますが、「恵みをもって」というのは注意が必要です。ヘブライ語の辞書をみると確かにそうとも訳せると書いてありますが、英語、スウェーデン語の聖書をみると、「神の義において」という訳になっています。ヘブライ語の言葉בצדקはそうとも訳せるのです。「主である私は、私の義においてあなたを召し出した」ということになります。ただ、これでもまだわかりにくいと思います。ここで興味深いことは、フィンランド語の聖書では「主である私は、私の義なる計画に従ってあなたを召し出した」となっています。これは、先ほどもみましたが、イエス様がとまどうヨハネに対して、「義を全て成就する」のは大事だと言っていたことと一致する訳です。「義を全て成就」するというのは、神の義なる計画、つまり罪の赦しを打ち立てて人間を罪の支配下から救い出すという計画を実現することに他ならないからです。

こうして神のひとり子イエス様は、神と人間の平和を実現するために召し出されて、十字架の上でそれを実現しました。罪の支配下から抜け出せず、どうやって神との結びつきを得られるのか手立てのない人間を一挙に神の御許に導いて下さいました。それはさながら、7節で言われるように、目の見えない人たちを見えるようにし、牢獄で囚われの身となっていた人たちを解放するようなことだったのです。

以上から明らかなように、イエス様がヨハネから洗礼を受けるというのは、実にイザヤ書42章1~7節の預言が全て実現するために必要なことだったのです。洗礼を受けた時点で、1節にある聖霊の降臨と天から響く声の預言が実現しました。ここから、神の計画を実現するイエス様の活動が始まります。イエス様は、神の意思と将来復活の日に現れる神の国について人々に教えました。また無数の奇跡の業を行って神の国がどういうところであるかを示しました。そして最後は、本日のイザヤ書の日課にあるように、十字架の犠牲の業を成し遂げて、神と人間の間に平和をもたらし、神の義なる計画を実現しました。まさにイザヤ書の預言の成就のため、その預言に基づいて神の計画が実現していくために、イエス様はヨハネから洗礼を受ける必要があったのです。

 

4.

最後に、イエス様の受けた洗礼には、私たちがキリスト教会で受ける洗礼を先取りしていることがあることを述べておこうと思います。それは、聖霊が降ったということです。ヨハネの洗礼は、受ける人に聖霊が与えられる洗礼ではありませんでした。(そのことは使徒言行録19章に記されている出来事に明らかです。)キリスト教会の洗礼は、受ける人に聖霊が定着するように与えられる洗礼です。聖霊だの、霊だの、与えられるなどと言うと、事情を知らない人は薄気味悪い感じがするかもしれませんが、要は、イエス様が約2000年前に成し遂げた十字架の業というのは、現代を生きる自分のためにもなされたのだ、イエス様の身代わりの犠牲のおかげで自分は創造主である神と結びつきが持てて、生きるも死ぬも神から守りと導きを得られるようになったのだ、とわかり、それで十字架のイエス様は自分の救い主なのだと信じられるようになる、そのようにわかり信じる時には聖霊が働いているということなのです。逆に言うと、イエス・キリストなる人物が約2000年前に十字架刑に処せられたというのは歴史の本に書いてあったので知っているぞ、というのは単に知識だけの話で、まだ聖霊が働いていません。実にイエス様を救い主と信じる信仰は、聖霊の働きによるものなのです。

 聖霊が働いて、イエス様のことを単なる歴史上の人物ではなく、自分の救い主と信じられるようになった時、洗礼を受けることで聖霊をしっかり自分の内に定着させることになります。そうしてイエス様を救い主と信じる信仰を携えて神との結びつきの中で生きることができます。せっかくイエス様が自分の救い主とわかっても洗礼を受けないでいると、わかったことは一過性のものになって、知識に戻って、神との結びつきは得られないことになってしまいます。

赤ちゃんが洗礼を受ける場合はどうかと言うと、洗礼とは、ルターが教えていますが、神の言葉が水に結び付けられることで水はただの水ではなくなり、文字通り洗礼となります。それで、赤ちゃんにも罪の赦しの救いを贈り物として与えて、その所有者にする力のある水になることは大人の場合とかわりません。ただし洗礼を受けた後は、両親、教保、教会が子供の霊性を育てて、イエス様のことを知識ではなくて、ちゃんと自分の救い主であると信じられるように育てていかなければなりません。そうすることで子供も、定着した聖霊が働く大人になっていきます。

兄弟姉妹の皆さん、イエス様のことが単なる知識にすぎなくなっていないか、それとも自分の救い主としておられるか、いつも注意し自己吟味することは、皆さんの霊性にとって大事なことですので忘れないようにしましょう。もし知識に戻ってしまうようなことがあれば、父なるみ神はいろんな仕方で信仰に引き戻そうとします。それは試練の形をとって起きることもあります。そのために心が打ち砕かれても、それはそれ位しないと知識の殻を破れないということなので、生まれ変わらせてもらうのにお任せするしかありません。しかし、そのプロセスを過ぎれば、神から頂く愛を以前よりももっと多く隣人に分け与えられる器に変えられていることに気づくのではないかと思います。神の導きに対して従順になり、謙虚さを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教「使徒となったパウロ」木村長政 名誉牧師、コリントの信徒への手紙一 1章1~3節 

第一回

コリントの信徒への手紙一

1章1~3節

今年は、私の説教ではコリントの信徒の手紙一を連続説教をして行きたいと思います。

1章1節です。「神の御心によって、召されて、キリスト・イエスの使徒となったパウロと兄弟ソステネからコリントにある神の教会へ・・・・・」とあります。パウロの手紙は、いつものようにまず、発信人の名前を書いてあて先の教会を書いています。原文では一番はじめに「パウロ」という名を書いて、その後自己紹介の説明を書いています。肩書きとして自分がどういう立場の人間であるか、ということを、まず知らせています。パウロは、いつでも定まったことを書いています。それは自分が使途である、ということです。それでは何のためにそれを言う必要があったのでしょう。ある神学者の言葉では「それは権威と温情を備えよと努めたからではないでしょうか」と言うのです。パウロの手紙は普通の手紙ではありません。牧師のいない教会に牧会をするために必要事を書くということでありました。従ってそれは、ただの説教ではありません。教会を建てるために書いているのであります。

 ※ 今回から「コリントの信徒への手紙」から連続説教をしていこうと思ったのは、ここのところを考えての事であります。当教会は長い目で見て、今一つの大きな転換点にあるからと思うからであります。つまり教会を根本から建てるためにはどう考えていったらいいか、パウロの手紙から聞いていきたいと思うからです。パウロがこの手紙を書こうとせるのには、牧師の代わりをするために、何とかしようとするわけです。それなら牧師は何をするのでしょうか。牧師の任務は教会を建てることであります。それは教会の経営ということではなくて、教会がキリストの体となるようにすることであります。教会の中の一人ひとりの信者をその教会の体の肢となるように、手や足や目や耳と言ったキリストの体の部分部分の役目をしっかりだし合ってお互いが良い関係をより強力に力を出し合うようになることでです。

 そのためには、ただの説教だけではどうにもなりません。それを行う使徒、つまり牧師は神の権威というものを持たなければなりません。神の権威というのはその人が威張ることではなくて、その人の業を通して神の権威が感じられるようにすることであります。そのためには、その人自身はどんな意味でも自分の偉さをあらわすのでなく、むしろ自分の貧しさを知り、それを誇るのでなければなりません。使徒また牧師に温かい情つまり温情というものがあるのは当然でしょう。しかしそれも普通の人の親切とか優しさということと違うはずであります。その温情も又神の温情を現すものでなければなりません。人間の温情などたかが知れています。神の温情はただ人間に優しいというのでなくて人間を救うためにあるのです。それは優しいだけでなく悔い改めを迫り神により頼むようにしていくものであります。これもはじめから人間に備わっているものではありません。こういう権威と温情を持った使徒であります。

パウロはそういう意味での神に召されて使徒となったなったと言うのであります。召されたというのですから、自分の考えによったのではない、自分自身としてはその資格はないのに召されたというのです。しかもそれを強調することによって、この仕事が神の業であることを言いたいのであります。

権威も温情も神から出たものであることを知ってもらいたいのであります。そのために、ここではもう一つのことを付け加えてています。それは「神の御旨により」ということです。すべては神の意志から出たことです。そして神の意志が全うされることこそパウロたちの願いであったのです。パウロは自分の名前と一緒にソステネという人の名を書いています。彼がどういう人であったか良く分かりまん。使徒言行録18章17節にもあります。同じ人ならユダヤ教の堂司であったということになります。しかしソステネには使徒とは書かないで兄弟と書いています。そうするとこの人は伝道者ではかったということになります。

 するとパウロはこの手紙を書くのに自分と伝道者ではない一人の信者との名前を書いたことにことになります。伝道者と信者それが教会というものであります。それならばこの手紙の発信人は教会であるということになります。次に受信人の名が出てきます、受信人はコリントにある教会であります。するとこの手紙は教会から教会へ宛てて書いたものであるということになります。そのように考えていきますと教会というものが非常に大切なことがわかります。

 人が救われるのはキリストの体である教会であります。教会の手となり足となってキリストの体の働きをなしていくことです。教会は人間が集まっているものであります、物流センターのようなのでない。だから教会の性質はそこに集まっている人間の性質で定まると言って良いのではないでしょうか。ここで手紙を見ますと「私たちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めている全ての人々と共に」という句が先に来ていますが、本当はこれは後になっているのです。そこでまず教会は「キリスト・イエスにあって聖められた聖徒として召された方々」という句がまず教会の性質なのであります。教会にいる人はキリスト・イエスにあって聖められた者」たちであります。「キリスト・イエスにあって」というのはパウロがよく用いる言葉です、キリストを信じる者と言っても良いのです。キリストを信じるとはキリストはこういうお方であると思うだけでなくキリストの支配を受けキリストに救われる者ということであります。

 ※ 私たちはどうでしょうか、自分はキリストに救われた者としてキリストの支配をどう受け取っているでしょうか。キリストにあって救われた者は実はキリストによってキリストの者とせられ神の者とせられた者なのです。キリストにあって選ばれて神の者と聖別されその意味でこの世から分離された者ということであります。その性質によるのでなくキリストの救いのゆえに今は神の者とせられているということであります。別な言い方をすれば「聖徒として召された」と言うことになるのです、従ってこの場合の聖徒とは聖人のことではなく神の者とせられた人ということであります。そのためには自分で願っていることでなく神に召されることが必要なのであります。これはコリントにある教会の人々について言われたことでありますが、もうひとつの教会の人々がありました。

 それが「私たちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求める人々」であります。これは発信人とも受信人とも読めます、そうするとこの手紙の宛先はコリント教会のほかに「至る所でイエス・キリストの御名を呼び求めている人々」であります。そうであれば教会の人の性質はキリストによって聖められること、召されて聖徒となった人、あおして三番目に神の御名を呼び求める人々ということになるのではないでしょうか。神の御名を呼び求める人は旧約の詩篇99章6節にも出てきます。又

ヨエル書2章32節にも書いてあるところを見ると旧約の時代以来、神と民とは御名を呼び求める者であることが分かります。更に新約ではこの句がローマ署10章13節に引用されています。主の御名を呼び求める者とは、主の御名によって救われたいと願って呼び求める者であります。こうして、三つのことが教会の条件であることが分かります。この手紙はパウロの個人的なものということより発信人は教会でありました、受信人も教会でありました。そして何れも主イエス・キリストの御力によって救われ、生かされている人々であります。教会とはキリストを主とする者の集まりであります。

 さて次は3節でありますが、挨拶であります。この挨拶がパウロ独特のもの、少なくとも教会にだけあるものですから、それはまことに信仰に貫かれたものであります。しかもそれは挨拶だけでなく祈りであります、それは壮大な祈りであります。私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和があなた方にあるように。この祈りは恵みと平安を祈るものであります。しかも平安こそは全ての人間が最後に求めるものであります。しかし、まことの平和は神に対する平和から来るものであり、

魂の平安によってのみ与えられるものであります。罪が取り除かれること、罪からの救いがなければ平安はありません。この罪からの救いがなければ平安はありません。この罪から救われることは私たち自身の力ではできることではありません。それは神の御力によるほかありません。神に対して罪を犯している者に神の身力とは神の救い以外にはないのであります。神に罪を犯している者に対する救いは神の恵み、深い御心による恵みであります。もう一つ大事なことは{私たちの父なる神とイエス・キリストから]と書いてあることです。恵みは神から与えられるものであります。しかし神はこれを主イエス・キリストによってお与えくださいます。キリストを遣わしキリストの十字架と復活とによって恵みをお与えになったのであります。それならば、この挨拶の言葉、祈りの中には神の人間に対する救いの御業の一切が簡潔に語られている、ということになるのです。コリント人への手紙は全ての教会にとって慰めの書であります。そこに神が全ての教会をどんなに愛しておられるかを知ることができるのであります。

 アーメン・ハレルヤ!

次回は2月12日(日) 4節から9節までを見ていきます。

説教「新年 - イエス様の命名日に思う」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書2章21~24節、第二ペトロ1章1~11節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

西暦2017年の幕が開けました。新しい年が始まる日というのは、古いものが過ぎ去って新しいことが始まることを強く感じさせる時です。前の年に嫌なことがあったなら、新しい年は良いことがあってほしいと期待するでしょうし、前の年に良いことがあったならば、人によってはもっと良くなるようにと願うかも知れないし、またはそんなに欲張らないで前の年より悪くならなければ十分と思う控えめな人もいるでしょう。日本では大勢の人がお寺や神社に行って、そこで崇拝されている霊に向かって、手を合わせて新しい年に期待することをお願いします。その意味で新年の期間というのは、多くの日本人を崇拝の対象に強く結びつける期間と言えます。

 キリスト教では新年最初の日はイエス様の命名日に定められています。天地創造の神のひとり子がこの世に送られて乙女マリアから人の子として誕生したたことを記念してお祝いするクリスマスが12月25日に定められています。その日を含めて8日後が、このひとり子がイエスの名を付けられたことを記念する日となっていて、それが1月1日と重なります。キリスト教会によっては、この日礼拝を行ってイエス様の命名日を記念するところもありますが、行わないところもあるので、1月1日というのは、毎週必ず礼拝が行われる日曜日と比べて何か特別大きな意味があるというわけではないようです。当スオミ教会では、1月1日の礼拝は2年前から行うようになりました。日曜日の礼拝と同じように、イエス様の命名を記念する日にも、天地創造の神の御言葉を聴き、神を賛美し、神に祈りを捧げて、ちょうど始まった新しい年の歩みの上に神からの祝福をお願いするのは相応しいことと考えたからです。今年の1月1日はたまたま日曜日と重なりましたので、全世界のキリスト教会は今日礼拝を守っていることになります。

2.

 イエス様の命名日は同時に、彼が割礼を受けた日でもあります。割礼と言うのは、天地創造の神がかつてアブラハムに命じた儀式で、生まれて間もない男の赤ちゃんの性器の包皮を切るものです。律法の戒律の一つとなり、これを行うことで神の民に属する者の印となりました。こうしてユダヤ民族が誕生しました。イエス様は神のひとり子として天の御国の父なるみ神のもとにいらっしゃった方でしたが、この世に送られてきたときは、旧約聖書に約束されたメシア救世主として、その旧約聖書の伝統を守るユダヤ民族の只中に乙女マリアの胎内から生まれてきました。人間の救い主となる方がある特定の民族の伝統に従ったのは、その方が歴史的にその民族の一員として生まれてきたことによります。しかし、それだけではありませんでした。後で述べるように、人間を罪の呪縛から救うために一旦、神の定めた戒律に服する必要があったのです。

 神のひとり子が人間としてこの世に生まれてきたことや、彼がイエスの名を付けられて割礼を受けたということは歴史上の出来事です。それは、ローマ帝国が地中海世界に支配を拡大して、現在のパレスチナの地域とその地に住むユダヤ民族を支配下に治めていた時でした。アウグストゥスが帝国の皇帝で(治世は紀元前27年~紀元14年)、プブリウス・スルピキウス・キリニウスという人物が帝国のシリア州の総督に就いていた時代でした。さらに、同州のユダヤ地方を中心とする領域でヘロデ王という、ローマ皇帝に従属する王が一応ユダヤ民族の王としての地位を保っていた時代でした。

 このような場所と時代に、人間として生まれた神のひとり子はイエスという名を付けられ、旧約聖書の律法の戒律に従い、生後8日後に割礼を受けました。ここで一つ注意すべきことは、このイエス様の命名と割礼はどこで起きたかということです。生後8日ということですが、マタイ福音書2章によると、ヘロデ王は、ベツレヘムに「ユダヤ人の王が誕生した」という知らせを聞いて、その命を狙おうとして兵を送り、その地域の幼児を虐殺する暴挙に出ます。生まれたばかりのイエス様と母マリアと育ての父ヨセフは、天使の告げ知らせのおかげで事が起こる前にエジプトに避難します。イエス様の命名と割礼は、ベツレヘムでなされたのか、避難先のエジプトか、避難する途中だったかのどれかが考えられます。旧約聖書レビ記12章を見ると、男子を出産した母親は血を流したことから清められなければならないとして、合計38日間が清めの期間として定められていました。その期間は外出禁止でしたから、その規定通りだったとすると、イエス様の命名と割礼はベツレヘムだった可能性が高くなります。そうなるとヘロデ王の兵隊が押し寄せてくる寸前だったのではないでしょうか。

 さらに、本日の福音書の箇所によると、イエス様は清めの儀式を受けるためにエルサレムの神殿に連れてこられます。この儀式は、今述べたレビ記12章にある律法の戒律によるものです。母親の清めの期間が終わったら、神殿の祭司に鳩などの動物の生け贄を捧げて、祭司が儀式を行って、母親は汚れから解放されるというものです。このエルサレムでの儀式がいつ起きたかということも、歴史的な確定が難しいところです。本日の福音書をみると、生後8日後の命名と割礼のすぐ後にこの儀式が来るので、二つの出来事が連続して起きたような印象を受けます。しかし、先ほども述べましたように、イエス様親子はヘロデ王の虐殺を逃れてエジプトに渡って、王が死ぬまでそこに滞在していたので、命名と割礼のすぐ後に神殿の訪問はありえません。ヘロデ王が死ぬのは紀元前4年です。イエス様の誕生の年は紀元前5年とか6年とか諸説があります。いずれにしても、エルサレムの神殿に連れてこられたイエス様は1歳とか2歳だったことになります。

 以上のように、聖書の中に記録されている出来事は正確な年代を確定することは困難なのですが、それでも、それぞれの記述や流れをよく見て、聖書以外の歴史の記録と突きあわせて見ると、大まかな時期はつかむことができます。

3.

ここで、人間として生まれた神のひとり子に付けられた、「イエス」という名前についてみていきましょう。乙女マリアが神の霊つまり聖霊の力を及ぼされて身ごもる前の段階で、天使から、生まれてくる子には「イエス」の名前を付けなさいとの指示がありました(マタイ1章21節、ルカ1章31節)。これは、ギリシャ語のἸησοῦϛを日本語に訳した名前です。そのἸησοῦϛは、もともとはヘブライ語のיהושעをギリシャ語に訳した名前で、יהושעというのは、日本語では「ヨシュア」、つまりヨシュア記のヨシュアです。יהושעという言葉には「主が救って下さる」という意味があります。יה「主が」יושע「救って下さる」。つまり、「イエス」の名前はヘブライ語のもとをたどれば「主が救って下さる」という意味があります。ヨセフにこの名を付けなさいと命じた天使は、その理由として、「彼は自分の民を罪から救うことになるからだ」と言いました(マタイ1章21節)。つまり、「主が救って下さる」のは何かということについて、「罪からの救い」であるとはっきりさせたのです。

 「神が民を救う」というのは、ユダヤ教の伝統的な考え方では、神が自分の民イスラエルを外敵から守るとか、侵略者から解放するという理解が普通でした。ところが、ここでは救われるものが国の外敵ではなく、罪であるということに注意する必要があります。「罪から救って下さる」というのは、端的に言えば、罪がもたらす神の罰から救って下さる、神罰がもたらす永遠の滅びから救って下さる、という意味です。創世記に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが創造主の神に対して不従順になったことがきっかけで罪が人間の内に入り込み、人間は死する者になってしまいました。何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのか、と疑問をもたれるところですが、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた(もちろんそれらも含みますが)、すべての人間に当てはまる根本的なものをさします。自分の造り主である神への不従順がそれです。もちろん世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく神への不従順に染まっており、そこから抜け出られないということの証なのです。

 それでは、神は人間をどのようにして罪から救い出すのでしょうか?神はそれをひとり子イエス様を用いて行われました。イエス様は、人間に向けられている罪の罰を全部人間に代わって請け負って、私たちの身代わりとして十字架にかけられて死なれました。神のひとり子として、神の意思を体現する方であったにもかかわらず、神の意思に反する者全ての代表者であるかのようにされたのです。誰かが身代わりとなって神罰を本気で神罰として受けられるためには、その誰かは私たちと同じ人間でなければなりません。そうでないと、罰を受けたと言っても、見せかけのものになります。これが、神のひとり子が人間としてこの世に生まれて、神の定めた律法に服するようにさせられた理由です。私たち人間が罪の呪縛から解放されるために、御自分のひとり子を犠牲にするのも厭わなかった父なるみ神と、神と同質の身分であることに固執せず、父の御心を実現して私たちに救いをもたらして下さった御子イエス様は永遠にほめたたえられますように。

イエス様が十字架の死で成し遂げられたことは、たとえを用いて言うと、次のようになります。私たちが身にまとっている罪の汚れた衣をとって御自分にまとい、御自分の汚れなき白い衣はそれを取って私たちにかぶせてくれたということです。神はその汚れた衣を着たイエス様を神罰の死の苦しみに委ね - これは一人分の苦しみでなく全人類の分です - 白い衣を着せられた私たちの罪は問わないと宣されたのです。普通、聖書や教会で「神の恵み」と言っているのは、まさに「罪の赦しの恵み

を意味します。まさに御自分のひとり子が流した尊い血を代価として、私たちを罪に支配された状態から解放して下さったのです。しかし、それだけでは終わりませんでした。神は今度はイエス様を三日後に死から復活させることで、死を超えた永遠の命に導く扉を私たちのために開かれたのです。このようにして神は、イエス様を用いて人間の救いを全部整えてしまいました。救いは神の方で完成させてしまったのです。

 しかしながら、イエス様が十字架にかかり、死から復活したことで全てが解決したかというと、それはまだ解決の一歩 - 決定的な一歩ではありますが - なのです。今度は人間のほうが、そうした神が全部整えた救いを自分のものとしないと、この完成済みの救いは人間の外側によそよそしくあるだけです。では、どうしたら自分のものにできるのか?それは、まず、「2000年前に神がイエス様を通して行われたことは、実は現代の今を生きる自分のためになされたのだ」と気づき、そのイエス様を真の救い主と信じて洗礼をうけることです。その時、人間はイエス様の白い衣を頭から被せられたことになります。

4.

 洗礼は、天地創造の神の民の一員であることの印として、割礼にとってかわるものになりました。実は、キリスト信仰者にとって割礼は必要ないということは、当初は自明のことではありませんでした。イエス様はユダヤ民族の一員としてこの世に来た、旧約聖書に約束された人間の救いをイエス様が実現したわけだが、それを受け取ることができるのは旧約の伝統を受け継ぐユダヤ民族である、だからそれに属さない異邦人は救いを受け取れるためにまずユダヤ民族人ならなければならない、つまり割礼を受けなければならない、そのように考えらえたのでした。

 初期のキリスト教会の中で、この考え方に異議を唱えたのが使徒パウロでした。彼の主張の主旨は、人間が罪の呪縛から救われるのは律法の戒律を守ることによってではなく、イエス様を救い主と信じる信仰によってである、というものでした。彼の主張は、「ガラテアの信徒の手紙」の中に展開されていますが、割礼不要論の中で、このように信仰と律法を対比させる議論はとても有名なものです。

割礼不要論には、もう一つ大事なポイントがあります。これは信仰と律法の対比に比べてあまり目立たたないものかもしれませんが、やはり重要なものです。そのポイントは、使徒パウロの「コロサイ人への手紙」2章11~12節に言い表されています。

「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」

 割礼の儀式の底にある意味は、それを行うことで血が出るわけですが、血を流すことで神の民の一員に迎えられるということ、つまり神に受け入れられるために血を流したという意味がありました。ところが、洗礼では、天地創造の神の民の一員に受け入れられるために、もう血を流すどころか何も犠牲を払う必要はなくなりました。なぜなら、その神のひとり子が私たち人間の代わりに十字架の上で血を流して下さったからです。今引用したパウロの言葉にあるように、洗礼を受けた者には、イエス様に起こった死が起きて、罪に結びつく古い人間が死んだように無力になります。同時にイエス様に起こった復活も起きて、聖霊に結びつく新しい人間が生まれ、その人は文字通り新しい命を持って生き始めます。

洗礼を受けた者は、こうした洗礼の意味を絶えず思い起こすことで、新しい命を与えられていることを確かめることができます。洗礼の意味を思い起こすことは、天地創造の神がひとり子を用いて成し遂げた罪の赦しの救いを思い起こすことです。これは毎日思い起こすべきことですが、今日のような全てを一新したい気持ちに満たされる日には、特に思い起こしてよいことでしょう。

5.

本日の使徒書である「ペトロの第二の手紙」の中に「神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」という祈りがありました(1章2節)。これまで申してきたことは、私たちの造り主なる父なるみ神と救い主であるひとり子イエス様を知ることを目指して話したことです。神と主イエス様を知ることによって、本当に罪の赦しの恵みと良心の平安が皆さんにますます豊かに与えられるように、このペトロの祈りに合わせたく思います。

 最後にこの聖句について、ルターが解き明しをしていますので、それを引用して、本説教の締めにしたく思います。

「『恵み』と『平和』という二つの言葉は、キリスト信仰がそもそも何であるかを言い表す言葉である。『恵み』は罪の赦しを与えるものであり、『平和』は安心と喜びを良心に与えるものである。

 それに対して、『罪』と『不安に怯える良心』は、私たちを苦しめる二つの悪い霊を言い表している。しかし、キリストがこれらの恐るべき敵に打ち勝って、今のこの世においても次の世においても完全に滅ぼして下さったのである。罪が赦されないところには、良心の平安はありえない。罪の赦しというものは、人間が律法の戒律を守ることによっては得られない。誰も律法の掟を完全に守れる者はいないからだ。律法というものは、罪を暴露し、良心を不安に怯えさせ、神の怒りを宣言し、人間を絶望に陥らせることをその本分とするものだからだ。

 罪というものは、神が与えた律法の掟を守ることをもってしても除去できない。そうである以上、人間が作りだした営みや業を持ってしても、なおさら除去できるものではない。そうしたものは、すればするほど神に対して罪を増やすことになってしまう。見せかけの聖人たちは、罪を取り除こうと努力して、すればするほど逆効果になってしまっている。罪を除去できるのは、神が与える罪の赦しの恵み以外にはない。このことをしっかり心に留めておかなければならない。多くの人は、たいてい聖書の御言葉を簡単に理解する。しかし、誘惑や試練の時になるとどうか。そのような時、果たして我々は、罪の赦しの恵み以外には何の手段もこの地上にも天にも必要ないということを、本当に神の一方的な恵みのみで、罪の赦しと良心の平安を持つことができるという真理にしっかり踏みとどまれるであろうか。

主にあって兄弟姉妹の皆さん、このように神が与える罪の赦しの恵みを心にしっかり留めていけば、毎日罪の赦しと良心の平安のしっかり持てて、父なるみ神の見守りが日々あることがわかります。この一年も神と主イエス様を知ることを怠らないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教「はじめにことばありき」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書1章1-14節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

はじめにことばありき - 聖書の文句のなかで、これほど有名なものはないでしょう。キリスト信仰者でなくても、この聖句を知っている人なら誰でも、この「ことば」というのはイエス・キリストのことを指すと知っているのではないでしょうか。ヨハネ福音書のこの出だしの部分は、イエス様とは本質的にどんな方であるのかを詩的な口調で表現しています。皆様もご存知のようにマタイ福音書とルカ福音書では、イエス様が乙女マリアから生まれる出来事が最初にきます。父、御子、御霊の三位一体の神、その中の御霊つまり聖霊が力を及ぼして乙女が身ごもってイエス様を産む。その意味では、イエス様誕生の出来事の記述も、イエス様が本質的にどんな方であるかを示しています。ヨハネ福音書では、イエス様が本質的にどんな方であるかということについて、著者がイエス様と共にいた日々を振り返って自分の目で見、耳で聞いたことをもとに総括・分析した、その結果を冒頭に持ってきたわけです。それを、さらに詩的な口調で表現しているのです。

このようにしてヨハネ福音書1章1節から18節までは、イエス様についての真理が語られます。そして、この真理は詩的に語られるので、これは「詩的な真理」と言えます。途中の6-7節と15節で洗礼者ヨハネのことが出て来るので、少し脇道にそれるようになりますが、それはイエス様の本質をさらに明らかにするために入れられたものであることはすぐわかります。

このヨハネ福音書冒頭のイエス様についての詩的な真理というものは、真理であるがゆえに、人間を大いなるものを前にして謙虚にする力があります。また詩的であるがゆえに、人間の心を大いなるものを受けとめられるくらいに豊かにする力があります。そういうわけで本日の説教では、この聖句を通して、私たちを謙虚にし、かつ私たちの心を豊かにする力に触れられることを目指していこうと思います。

2.天地創造の前からいた神のひとり子

「初めに言があった」。この「はじめ」とはいつのことを指すのでしょうか?多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記1章1節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると。しかし、実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしにある「はじめ」とは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。時間をずっとずっと過去に遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いたら、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに「ことば」と称される神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。説教題の「はじめにことばありき」の「はじめ」を漢字にしなかったのですが、どうしてかと言うと、漢字にすると、何かが始まる時の初めというように意味を狭めてしまうのではないか、本当はその前のことなのに。それでひらがなにとどめた次第です。

この永遠のところにいた神のひとり子が「イエス」の名前で呼ばれるようになるのは、今から約2000年少し前に彼がこの世に送られてからのことでした。ひとり子そのものは、既に天地創造の前の永遠のところに父なるみ神と共にいて、天地創造のあと時間が始まった後もまだしばらくは父のいる永遠の御国にいたのです。そして、父が定めた時、つまり今から約2000年少し前の時にこの世に送られました。人間の姿かたちを持つ者として人間の母親から生まれて、「イエス」の名がつけられたのです。

それでは、天地創造の前の永遠のところにいた神のひとり子とは一体どんな方だったのでしょうか?ヨハネ福音書の著者ヨハネは、ひとり子を「ことば」、ギリシャ語でロゴスと呼びました。ギリシャ語というのは、ヨハネ福音書をはじめ新約聖書の書物が書かれている元の言語です。ギリシャ語のロゴスという言葉ですが、これはとても幅広い意味を含みます。もちろん、文字にして紙に書き記したり(昨今では紙に書かないでキーボードをたたくのが主流ですが)、口で話して音になる「言葉」を意味するのは言うまでもありません。これは私たちが普段日本語で「言葉」と言っているものと同じです。他にも、何か内容を持つ話、スピーチを意味したり、「教え」とか「噂」とか「申し開き」、「弁明」とか「問題点」とか「根拠」とか「理に適ったこと」とか、日本語だったら別々の言葉で言い表す事柄がロゴスに収まります。さらに、古代のギリシャ語の文化圏では、哲学のある一派の考え方として、世界の事象の全て、森羅万象を何か背後で司っている力というか、頭脳というか、そういうものがあると想定して、それをロゴスと言っていた派もありました。日本語では「世界理性」とでも訳されるのでしょうか。

このような森羅万象を背後で司るロゴスというのは、古代ギリシャの哲学の話で、もともとはユダヤ教キリスト教とは何のゆかりも縁もない、人間の頭で考えて生み出されたものでした。ところが、聖書に依拠するユダヤ教とキリスト教は、天地創造の神が人間に物事を伝えたり明らかにしたりして、人間はそれを受け取るという立場ですので、生み出す大元にあるのはあくまで神です。哲学では、その大元は人間ということになります。

ヨハネ福音書の著者ヨハネは、神のひとり子のイエス様というのは、ある意味で森羅万象を背後で司るロゴスが人間の形をとったものと考えたのでした。ここで注意しなければならないのは、ヨハネはギリシャ哲学の内容をイエス様に当てはめたのではないということです。そうではなくて、旧約聖書の伝統とイエス様自身が教え行ったことに基づいて、イエス様を捉えた結果、このとてつもないお方を、自分が伝えようとしているギリシャ語世界の人々の頭にすっと入るコンセプトはないものか、と考えたところ、ああ、ロゴスがぴったりだ、ということになったのです。土台にあるのはあくまで、旧約聖書の伝統とイエス様の教えと業です。哲学のいろんな理論や議論ではありません。

では、旧約聖書のどんな伝統が、イエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたかというと、それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の8章22-31節をみると、この「知恵」は実に人格を持ったものとして登場し、まさに天地創造の前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の時にも父と同席していたことが言われています。同席だけではありません。ヨハネ福音書の1章3節をみると、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に創造の業を行ったのです。どうやってか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記1章3節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように、ひとり子は神の言葉の側面を持つと考えれば、彼も天地創造になくてはならないアクターだったことがわかります。先にも見たように、ロゴスは直接的には「言葉」という意味を持ちますから、ひとり子をロゴスと呼ぶことで彼が創造の役割を果たす「神の言葉」であることも示せます。

本日の説教題「はじめにことばありき」で「ことば」を漢字にしなかったのですが、どうしてかと言うと、漢字にすると何か話された言葉とか書かれた言葉のように意味を狭めてしまうのではないか、本当は背後にあるもっと壮大なものを意味するのに。それでひらがなにした次第です。

このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。実はイエス様はこの地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であるとおっしゃっていたのです。ルカ福音書11章49節、マタイ11章19節にあります。(もちろんイエス様が実際に口にした言葉は、ギリシャ語のソフィアσοφιαでなくて、ヘブライ語のחכמהか、アラム語のそれに近い語だったでしょう。)イエス様は本当に、天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられた方だったのです!ヨハネ福音書8章を見ると、イエス様が自分のことをそういう果てしないところから来られた方であると言っているのに、ユダヤ教社会のエリートたちときたら全く理解できず、「お前は50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか」などととんちんかんな反論をします。50年どころか50億年位のスケールの話なのに。しかし、こうしたことはイエス様の十字架の死と死からの復活が起きる前は、とても人知では理解できることではなかったのです。

ところで、イエス様を箴言にある永遠の「神の知恵」とすると、一つやっかいなことが出て来ます。箴言8章をみると「神の知恵」は「生み出された」と言われています(24、25節、ヘブライ語חיל )。「生み出された」と言うと、ひとり子も私たちと同じように何か造られた感じがします。私たち人間も生まれるのだし、そもそも人間は神に造られたものですから。さらに箴言8章22節を見ると、「神の知恵」である「わたし」、つまりひとり子も父なるみ神に「造られた」と書いてあります。神のひとり子も被造物なのでしょうか?

これはよく注意してみなければなりません。まず、箴言8章22節の「造られた」のヘブライ語の元の動詞(קנה)は、創世記1章1節の「神は天地を創造された」の「創造された」(ברא)と異なる動詞を使っているので、造りは造りでも何か質的に違うものだということに気づきます。そこで、箴言8章をよく見ると、神の知恵が「造られた」のは、天地創造の前に起きたことが強調されています。つまり時間が始まる前の永遠のところでひとり子は「造られた」のです。

「生み出される」についても同じです。確かに神に造られた被造物である私たち人間も「生まれる」のですが、「神の知恵」「神の言葉」であるひとり子が「生み出される」というのと全然事柄が違います。人間や動物の場合は、天地創造の時に造られて、被造物の生殖を通して被造物として「生まれ」ます。被造物としての地位はかわりません。この、天地創造の前のひとり子の「生み出され」は、これは天地創造がない、時間がない、永遠のところのことです。天地創造の後の被造物の「生まれる」とは質的に異なります。それが具体的にどんな「生み出され」なのかはもう誰にもわかりません。聖書に、天地創造の前に私は生み出された、と言っているから、それはもうそうとしか言いようがないのです。全ては天地創造の前のことなので、私たち被造物が造られたように造られたのではないということをしっかりわきまえておくしかありません。それ以上のことはわかりません。時間の中に存在する私たちは、その外側の世界のことはわからないのです。ひとつだけ確実に言えることは、この「生み出される」があるおかげで、生み出された方は生み出した方の「ひとり子」なのであり、生み出した方を「父」と呼ぶ、そういう関係ができたということです。

 このようにロゴスと呼ばれる神のひとり子は、天地創造の前から父なる神と共にいて、創造の時には父と共に働かれました。それで、ヨハネ福音書1章1節にあるように、ロゴスはもう神としか言いようがないのです。このヨハネの分析は、キリスト教会の伝統に受け継がれていきます。私たちの礼拝でも唱えられる信仰告白の一つである二ケア信条にひとり子のことを「父と同質であって」と言われていることがそれです。

3.永遠の命をもたらし導く光

4節と5節をみると、光と闇と命について述べられます。「命」というのは、ヨハネ福音書ではたいてい、私たちが今生きている限りある命を超えた「永遠の命」、まさに父なるみ神のもとにある「永遠の命」を指します。創世記の初めに明らかにされているように、人間は堕罪の時に神に対して不従順になって罪を持つようになってしまったがために、この「永遠の命」を失ってしまいました。それを再び人間に取り戻してあげて、人間がこの世を生きる命とその次の永遠の命の両方を合わせもった大きな命を生きられるようにするために、神のひとり子が父のもとからこの世に送られてきたのです。

永遠の命が「人間を照らす光」というのは、ギリシャ語の原文では「照らす」とまでは言っておらず、ただの「人間の光」です。もちろん暗闇の中を照らす光として、人間に永遠の命への道を示してあげるという意味を持ちます。しかし、それだけではなく、人間が闇の力に支配されないように、人間の内に灯してもらう光も意味します。闇の力とは、人間を神に対して不従順にして罪を植えつけて永遠の命を失わせてしまった悪魔の力です。

5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とありますが、これはいろんな意味を持つギリシャ語の動詞καταλαμβανωが元にあり、訳仕方がわかれるところです。フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語訳の聖書ですと、「暗闇は光を支配下に置けなかった」ですが、英語NIVとドイツ語の別の訳(Einheitsübersetzung)だと、日本語と同じ「暗闇は光を理解しなかった」です。どっちが良いのでしょうか?もちろん、悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持つか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解することができます。ただ、十字架にかけられて全ての人間の罪の罰を一身に請け負ったイエス様は、父なるみ神の力で死から復活させられて、死を超える永遠の命の扉を開かれた、このことを思い起こせば、暗闇は光を支配下に置けなかったというのがよりピッタリではないかと思います。なぜなら、悪魔は罪を最大限活用して人間を永遠の命から切り離そうと企てるのですが、それはイエス様の十字架と復活の業で事実上破たんしてしまったのですから。

4.インカーネーションの良い知らせ

 父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、人間を罪の呪縛から解放して再び永遠の命を携えて生きられるようにするためにこの世に送られました。あなたは、もう神から罰を受けないですむようになったんですよ、あの方が全部請け負って下さったんですよ、と言えるためには、その方が本当に神罰を神罰として純粋に本気で受けられないといけません。受けた罰がみせかけのものではいけません。本当に罰の名に値する苦しい痛いものであるためには、受ける者はそれを身に沁みて受ける生身の人間でなければなりません。しかし、自分一人の罪さえ背負いきることのできない人間が、全ての人間の罪を背負って神罰を受けることなどは不可能です。父なるみ神は、それを全部自分のひとり子に請け負わせることにしたのです。これが、神のひとり子がこの世に送られるとき、人間の姿かたちを持って人間の母親を通して生まれてこなければならなかった理由です。まさに、ヨハネ福音書1章14節に言われるように「言ロゴスは肉となった」のです。この何気ない一言に神の人間に対する大いなる愛と恵みが凝縮されています。ここに神の大いなる真理があります。まさにキリスト信仰の核がここにあるのです。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それを父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)。

 イエス様の十字架と復活を目撃した人たちは、イエス様というのは人間が神の罰を受けないで済むように、罪の呪縛から解放されて、永遠の命を持てるようになるためにこの世に送られて、それで十字架と復活の業を成し遂げられた。そのことが、ジグソーパズルが一挙に埋まるようにわかったのです。旧約聖書の趣旨はそうした全人類的な救いにあるとわかったのです。それで、出来事の直接の目撃者である使徒たち、さらに、天に父のもとに戻られたイエス様から直接啓示を受けたパウロが中心となって、「罪の赦しの救い」の福音を宣べ伝え始めました。まさに、本日の旧約の日課の箇所イザヤ書52章で言われるような「山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足」になりました。

イザヤ書52章9節に「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ」と言われます。「エルサレムの廃墟」というのは直接的には、イエス様の時代から約600年近く前に起きたバビロン捕囚の時代のエルサレムが廃墟だったことを指しています。同時にこれは、打ちひしがれた人、心が打ち砕かれて廃墟のようになってしまった人たち全てを象徴しています。実は「歓声をあげ」という句の前に、ヘブライ語の原文では「心を平安にせよ」という句(פצחו)があるのですが、どういうわけか、日本語、英語、スウェーデン語、フィンランド語訳の聖書では皆省かれています。恐らく「歓声をあげ」ることからみたら、余分なものとされてしまったのでしょう。(ただし、イザヤ書14章7節では52章9節と同様、この同じ動詞が「歓声をあげる」という動詞と一緒に使われていますが、そちらはちゃんと訳されています。)しかし、これは大事な句です。この「心を平安にせよ」というのは、正確には「嵐が過ぎ去った海や空のように心を静めて穏やかにしなさい」という意味です。つまり、廃墟のようになって悲しんでいる人たちに向かって次のように語っているのです。「嵐は過ぎ去った。もう廃墟のままとどまる時は終わったのだ。なぜなら、天地創造の神から送られたひとり子が、私たちが背負いきれない本当の重荷を背負って下さったからだ。だからそこを出発点にして、それを真の希望の拠りどころとして立ち上がりなさい。この方を救い主と信じていく限り、あなたは他の重荷をきっと背負っていけるでしょう。そのために主は必要に応じてあなたに休息を与えてくれるでしょう。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教:河田 優 牧師(ルーテル学院大学・神学校チャプレン)

今日の説教は中央線沿線7教会+神学校の講壇交換の日に当たり河田優牧師をお迎えして説教のご奉仕をお願いいたしました。

ルカ1:46-55

 

ルーテル学院大学・神学校チャプレンの河田です。本日はスオミ教会とルーテル学院との講壇交換ということで来させていただきました。お招きをいただいてありがとうございます。

 

待降節第4主日として私たちに与えられる御言葉は、マリアの賛歌と呼ばれる箇所です。今、私たちは主イエス様のお生まれのクリスマスに備えて、心整えて待っています。そして本日は、このマリアの賛歌から聞き取り、私たちはどのようにクリスマスを待ち、主をお迎えするのかを共に分かち合っていきましょう。

日課の47節から55節までのマリアの賛歌は私たちにもよく知られているみ言葉であり、教会では「マグネフィカート」と呼んできました。「マグネフィカート」これは長い間、教会で用いられてきたラテン語であり、「あがめる」という意味です。47節の「わたしの魂は主をあがめ」この言葉から、マリアの賛歌全体をマグネフィカートと呼んできたのです。

そしてまた、この「マグネフィカート」という言葉は、そもそも「拡大する。大きくする。」の意味を持つものなのです。ですからマリアの賛歌を次のように言い返ることもできます。「私の魂は、主を大きくします。」

神様をあがめ、神様を讃美することは、神様を大きくすることです。そして神様を大きくするということは、反対に自分自身を小さくすることになります。

 

毎日の生活の中で神様とこの自分が向かい合うときに、私たちは神様を大きくしているでしょうか。それとも自分自身を大きくしているでしょうか。私たちはやはり自分が大事であり、この世の様々な誘惑にも負けてしまいます。自分自身を大きくしながら、神様を大きくすることはあり得ないでしょう。自分自身を大きくする者は、神様を小さくしているのです。

でもマリアは「神様を大きくします」と主を褒め歌いました。それは神様の前では自分はほんに取るに足りない小さな者である、というマリアの心からの謙遜がそこに告白されているのです。

 

実際に、主なる神様がイエス様のお生まれのために母としてお選びなったマリアは、王家の娘や大祭司の娘ではありません。ナザレという小さな片田舎でひっそりと生活していた娘マリアであったのです。マリアの年齢はおそらく10代半ばもいかない歳であったと思われます。それは48節のマリア自身の言葉にも表わされます。

「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。」

このように人知れず生活してきた小さな娘を神様はイエス様のお母様として選び取りました。

しかし、御言葉を通して思わされることは、ここに主なる神様のご計画が明確にされているのではないかということです。たとえば、名門の家に生まれ、裕福な家庭に育ち、誰からも素晴らしい女性として尊敬されるような女性がイエス様の母として選び取られたならば、おそらくこの女性は、「神様を大きくします」と主を讃美することができなかったかもしれません。それはどうしても自分自身を大きくしてしまうからです。自分自身を大きくする分、神様を小さくしてしまうのです。

ですから主なる神様は、謙遜を知るいと小さき娘マリアを主イエス様の母親としてお選びになったと御言葉は告げているのです。

イザヤ57章にも次のように神様は約束してくださいます。

57章15節「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」

主なる神様は、打ち砕かれへりくだる者と共にあることをイザヤは語ります。それは大いなる方として私たちにまことの命を与えてくださるためなのです。

 

さて、まもなくクリスマスを迎えます。教会ではよくクリスマスの礼拝でまた礼拝後の集会で、教会学校の子供たちが中心にクリスマスの聖劇を行ったりします。私の住んでいる三鷹や武蔵野の地域には超教派の市民クリスマス礼拝が毎年開催されていますが、そこで活躍するのも聖劇を行う子供たちです。私たちの通うルーテル三鷹教会でも毎年のようにクリスマス愛餐会でイエス・キリストのお生まれの劇を行ってきました。

 

この聖劇の中での印象的な場面のひとつとして、身重であるマリアと夫ヨセフが、一晩の宿を探してベツレヘムの町をさまよう場面があります。主イエス様が今にも生まれそうである。ところがベツレヘムの町の宿屋は、どこもいっぱいで二人が泊まる場所がないのです。

劇の中では次のような歌をマリアとヨセフを演じる子供たちが歌います。

「泊めてください。トントントン。お部屋は空いていませんか。」

すると宿屋の主人が出てきて、こう歌います。

「だめです。今夜は超満員。となりをあたってごらんなさい。」

マリアとヨセフは仕方がなく、となりの宿屋を訪れます。しかしそこでもやはり超満員。再びマリアはとなりの宿屋へと向かうわけです。

そして最後の宿屋の主人がこう歌うのです。

「馬小屋ならば空いてます。そこでよければ、さあどうぞ。」

マリアとヨセフは、宿屋の主人から馬小屋に案内され、イエス様はこの馬小屋でお生まれになります。

 

宿屋が超満員ということは、私たちの心にも通じることです。神様をお迎えしようにも自分自身があまりにも大きくて神様をお迎えすることができないのです。さらに言うと、自分自身を大きくしてしまう心は、神様が今、私たちのもとに来られていることにさえ気づかないのかもしれません。

主が私たちの心をノックします。トントントン。しかし私たちは歌うのです。

「だめです。今夜は超満員。となりをあたってごらんなさい。」

イエス様が、そのお生まれの場所を小さな馬小屋に選ばれたことは、私たちの小ささや謙遜の中に、お生まれになることを示しています。イエス様は小さな飼い葉桶の中に静かに休まれました。馬小屋の中の小さな飼い葉おけ、私たちのそのような心に主イエス様はお出でになるのです。私たちは子供たちが歌う3番目の宿屋の主人のように、自分たちの心の馬小屋をイエス様に差し出し、「そこでよければ、さあどうぞ。」と歌うのです。

 

マリアは自分に預けられた神の子の命を決して小さなものとはしませんでした。マリアはまだ生まれてもない命も神様から与えられた大切な命として受け止める覚悟をしたのです。それが自らを小さい者として、さらに神様を大きなものとして賛美するマグニフィカートに表されていました。

そして、このマリアが謙遜のうちに受け止めた小さな命が、十字架にお架かりになることによってすべての人を救う命となるのです。小さいけれど大きな大きな命です。生涯を救い主として歩み通された神の子イエス・キリストの命です。

クリスマスを待つ私たちも今、神様の前に自分自身を小さくして、主イエス様のお生まれに備えましょう。いと小さき私に大きなまことの命がもたらされます。これがクリスマスの喜びです。神に感謝します。

 

説教:木村長政 名誉牧師、マタイ1章18~23節

 今日の礼拝はクリスマスを迎え、待ち望む降誕節第三主日です。聖書はマタイ福音書1章18節から23節までです。イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。とクリスマスの出来事を私たちに告げています。

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この福音書を書きましたマタイは新約聖書の冒頭にいきなり、まずイエス・キリストの系図を記しています。なぜでしょうか、ユダヤ人にとって系図はとても大切な事柄でありました。私たち日本人には到底想像もつかない深いものがありました。その上マタイは福音書をユダヤ人のために向けて書いたようであります、ですから系図をきちんと記してイエス・キリストに至るまでのことを記しています。

アブラハムの子・ダビデの子・イエス・キリストの系図。

17節
「アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンへ移住まで14代、そしてキリストまで14代。」16節を見ますと「ヤコブは、マリアの夫ヨセフを儲けこのマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」とあります。福音を書くのにキリストの系図をドーンと延々とカタカナで書いて人の名ばかり綴られています。そして今日の聖書18節にこれを全部受けてイエス・キリストの誕生の次第は次のようであった、と入って行く。

これは救い主、キリストの降誕に至るまでに、いかに壮大な神の計画がユダヤという民族に向けられて進められて来たか、と言うことを書いている。マタイは自分もユダヤ人の血が流れている者として神様がユダヤという民を特別に選ばれ、長い長い旧約聖書に明らかにされているように長い歴史を貫いて働かされてきた。その神の恵みを万感の思いを込めて綴り始めているのです。

そこには世界中、どこにもない戦いや敗北もあった苦しい苦しい民族の歴史です。そのような民を神は選び神の計画の中にあっては、そこには計り知れない神の恵みがあった、その恵みは何者にも束縛されない全き神の自由であります。その奥には神の「人類を救う」という神秘の計画、隠された神の秘義があって救いの系図の最後の人として今やヨセフがその選びに預かり、重大な課題を託されようとしている。

その内容を次に展開して行く訳です。

大工の倅、貧しくも若きヨセフには結婚の約束をしていたマリアがいた。そのマリアに思いもかけない事態が起こった。結婚前にすでに妊娠している、という課題であった。18節でマタイは絶妙の表現で書き表しています。「マリアとヨセフは婚約していたが、二人が一緒になる前に聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」マリアはまことに清らかな信仰をもっている乙女でありました。普通の人と変わらぬ一人の人間です。罪の根源をみんなその人の本性の中に持っているところの人間の一人にすぎない。その罪に染まった人間の姿を持って誕生されるのです。

マタイは素晴らしい言葉を使って記しています。「聖霊によって身ごもっている」ことがあきらかになった。聖霊によって身ごもる、ということはどういうことでしょう。神の福音は神の霊の世界のことであります。宗教は霊の世界であります。人間には到底わからない。神秘の霊の世界にかかわる、ということです。

神ご自身が人の姿をもって神の子として乙女の胎内を通して人であり又同時に救い主キリストとして生まれられるのであります。聖霊によって身ごもった、ということがそこに秘められている霊の世界の神秘であります。分からない世界であります。それを偉そうな顔をした哲学者や神学者たちがその神秘を何とかして説明しようといろいろ考えている。当時の一番身近な例を持ってきてギリシャ神話の中にある神が人間の女性と交わって神の子を生む、という話が多くあります。プラトンやアレキサンダー大王などの偉い人が父親なしに生まれたと言いまわったのでありました。その伝承や言い回しが用いられるかも知れないそこで、マタイは乙女マリアの胎内に聖霊によって身ごもった生まれる子が自分の民を救うキリストとなられる、ということをはっきり示しています。婚約者のヨセフとしてはもう信じがたい異常な事態でありました彼がどんなに戸惑い悩んだことか。

19節を見ますと「夫ヨセフは正しい人であったのでマリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。当時は婚約者であっても妻と同じように見なされていましたからマリアが身ごもった事が公になった場合、それは大変なことです。

申命記22章22節には「妻たる者の淫行が発覚した場合これを死刑に処すべきである」という規定がありました。夫ヨセフはこうした律法にも正しい人であったでしょう。彼は公になる前にどんなに

愛していても愛するがゆえに秘かに離縁しようと決心したのであります。ヨセフでは到底抱えきれない愛の重さがあります。そのどん底にまで彼は突き落とされたような状態であります。神様はその全てを知り尽くして彼に天の使いをもって救いのみ手を下されるのです。天使が夢に現れて主のみ旨をヨセフに直接伝えたのです。神様はどんな瞬間にも、思いをかけないみ手をもって事を起こされるのであります。

マタイはしっかりと20節から23節まで記しています。主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。

ヨセフはこの天使からの声を聞き夢の中で語っているとはいえ彼を信じ受け入れた、といことです。そしてこれから容易ならぬ試練に立って行くことになります。特にユダヤ教の伝統の中に処女は身ごもって子を産むというようなことなど絶対にないことでしょう。ヨセフはそのような神の選びに預かった、到底信じがたい異常な事態を黙って一心に主のみ旨を負っていたのであります。そうして、こう言われています。「古き自己を死に引き渡す以外に到底不可能な決断であった。」と。つまりこれまでのいっさいの己を捨てて死を覚悟しての「主のみ旨を受け入れてゆく人生」の始まりでありましょう。主のみ旨は何か、と言いますと「恐れを克服し敢てマリアを受け入れよ」と命じるのであります。そしてこの妊婦は不倫の結果ではなく、聖霊による天から与えられる賜物である、とみ使いは言うのでありました。

イエスという名はヘブライ語のもとの意味は「ヤハウェーは救い」というつまり救いであられると言う、やがてイエスは彼の民イスラエルを「罪から救う」という使命を負っていかれるのであります。「イエスこそ救い主キリストであられる」このことを証言することがマタイの主眼でありました。こうして預言の言葉を添えるのであります。イザヤ書7章14節のみ言葉で「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む、その名はインマヌエルと呼ばれる」。その名は「神は我々と共におられる」と言う意味である。

そしてマタイは福音書の最後の言葉を28章20節で「見よ、わたしは世の終わりまで、いつも、あなた方と共にいる」という同じインマヌエルで結んでおります。救い主として、この世に生まれて来てくださった神の子いえす・キリストはいつもあなた方と共にいてくださるのであります。

                                                                                                                                                                                                                                                                  アーメン・ハレルヤ

説教「良い実を結ぶ木のように」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイ3章1-12節、イザヤ11章1-10節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 先週の主日に、キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。今日は教会新年の二回目の主日です。教会の新年開始からクリスマスまで、4つの主日を含む4週間程の期間を待降節とかアドベントなどと呼びますが、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間です。この期間、私たちの心は、2千年以上の昔、現在のパレスチナの地で実際に起きた救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を送られた父なるみ神に感謝し賛美しながら、降臨した主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。

 待降節やクリスマスは、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、私たちは、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあります。その意味で、待降節という期間は、イエス様の最初の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨を待つ心を活性化させるよい期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、今年も終わった、めでたし、めでたし、で済ませるのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を持つようにして、身も心もそれに備えるようにしなければなりません。イエス様は、御自分の再臨の日がいつなのかは誰にもわからない、と言われました。イエス様の再臨の日とは、この世が終わりを告げる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつであるかは、父なるみ神以外には知らされていないのです。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。主の再臨を待ち望む心を持って、身も心もそれに備えるようにする。それが、「目を覚ましている」ということです。

それでは、主の再臨を待ち望む心とは、どんな心なのでしょうか?「待ち望む」などと言うと、何か座して待っているような受け身のイメージがわきます。しかし、そうではありません。キリスト信仰者は、今ある命は自分の造り主である神から頂いたものだという自覚に立っています。それで、自分が置かれた立場や境遇、直面する課題というものは、各自取り組むために神から与えられたものという認識があります。それらは実に神由来であるがゆえに、世話したり守るべきものがあれば、忠実に誠実にそうする。改善が必要なものがあれば、やはりそうする。また、解決が必要な問題があれば、解決に向けて努力していく。そうした世話や改善や解決をする際の判断の基準として、キリスト信仰者は次の二つの原則に照らし合わせてそうします。まず、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかどうか、次に、自分は隣人を自分を愛するが如く愛しながらそうしているかどうか、この二つを基準にして考えます。このようにキリスト信仰者は、現実世界としっかり向き合いながら、心の中では主の再臨を待ち望むのであります。ただ座して待っているだけの受け身な姿勢ではありません。

そこで、主を待ち望む者が心得ておくべきことあります。本日の福音書の箇所は、そのことについて大切なことを教えています。今日は、そのことを見てまいりましょう。

 

2.

 本日の福音書の箇所は、洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場する場面です。ヨハネは、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、ルカ1章80節によれば、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました。らくだの毛の衣を着、腰に皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。そして、神の定めた日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の人が、ユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ3章には、この出来事がいつだか詳しく記されています。それは、ローマ帝国皇帝ティベリウスの治世の第15年で、ポンティオ・ピラトが帝国のユダヤ地域の総督だった時でした。ティベリウスは、あのイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で、西暦14年に即位します。その治世の第15年ということですが、彼が即位したのは西暦14年の9月で、その年を数え入れて15年目なのかどうかは不明です。いずれにしても、西暦28年か29年の出来事いうことになります。

 洗礼者ヨハネのスローガンは、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というものでした。「天の御国」とは、他の福音書で「神の国」と言われています。マタイは「神」と言う言葉を畏れ多くて避ける傾向があり、「天」と言い換えます。それでは、「天の国」、「神の国」とは、どんな国かと言うと、例として「ヘブライ人への手紙」12章に記されています。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうという終わりの日に、唯一揺り動かされずに現れる国です。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうというのは、イザヤ書65章や66章にあるように、天地創造の神が今ある天と地にとって替えて新しい天と地を創造するということです。黙示録21章にはもっと端的に、新しい天と地が創造される時に神の国が見える形で現れることが記されています。

 本日の旧約の日課イザヤ書11章にも、将来現れる神の国のことが述べられています。「何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」(9節)ことがどういうことかを分からせるために、野獣猛獣、家畜と幼子が一緒にいても何も危険はないということが言われます。それくらい安心と安全が完璧な夢のような国です。加えて、神の正義が完璧に実現される国でもあります。「エッサイの株から萌え出でる若枝」がそれを実現します。エッサイはダビデの父親の名前ですので、この若枝はダビデ王朝に属する者としてイエス様を指します。再臨するイエス様は最後の審判の時に裁きを司りますが、5節で「正義」と「真実」を帯のように纏っていると言われます(「真実」というのは、ヘブライ語אמונהの正確な意味は「頼り切って大丈夫なこと」です)。彼が裁きを行う時、「目に見えるところによって行わない、耳にするところによって行わない(3節)というのは、人の目には見えないことや、人の言葉では言い尽くせないことまで全て真実を把握して裁きを行うということです。だから、この世でいろんなことを見落とされて不利益を被ったり、真実を見てもらえずに無念の涙を流した人たちにとっては朗報以外の何ものでもないでしょう。しかし同時にイエス様は、不正義を行った者もその犠牲者も等しく、全て心の奥底にある見えない部分もちゃんと見抜いておられる。そうなると一体誰が、この正義と安全と安心しかない国に迎え入れられるのか?この問題は、本説教の後半で明らかされていきます。

さて、そんな夢のような神の国が2000年前に「近づいた」とヨハネが言ったのは、一体どういうことなのか?神の国というのは、今ある天と地がなくなってこの世が終わる時に出現するものではないか?そうならば、今ある天と地は当時も今もそのままではないか?新しい天と地はまだ創造されてはいないではないか?いろんな疑問が沸き起こります。実は2000年前に神の国が近づいたというのは、イエス様が行った無数の奇跡の業と関係があります。皆様もご存知のようにイエス様は、不治の病の人々を完治したり、わずかな食物で大勢の群衆の空腹を満たしたり、大嵐を静めて舟が沈まないようにしたり、悪霊に憑りつかれた人々を救ったり、とにかく無数の奇跡の業を行いました。黙示録21章4節を思い出しましょう。将来現われる神の国は、「涙が全て拭われ、死も心配も嘆きも苦しみもない」ところです。2000年前のイエス様の存在と活動というのは、そのような将来の神の国を、まだ今の天と地がある段階で人々に体験させる、味あわせる、そういう意味がありました。それで、神の国が本格的に出現するのは、やはりあくまでイエス様が再臨する日、今の天と地が新しい天と地にとって替わられる日だったのです。

それでは、今私たちは神の国とは無関係なのでしょうか?そうではありません。イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、彼こそ救い主と信じる信仰に生きる者は、既にこの神の国と結びつけられています。もし、イエス様の再臨が私たちの生きている時代に起きれば、信仰に生きる者はそのままそこに迎え入れられます。もし再臨の前に死んでいれば、再臨の日に復活させられてそこに迎え入れられます。そういうわけで、洗礼者ヨハネが「神の国が近づいた」と宣べ伝えたのは、この世の終わりが今すぐ来て神の国が本格的に現れると言ったのではなく、この神の国を人々に体験させられる方、イエス様が来られる、ということを意味していたのです。

 洗礼者ヨハネのスローガンのもう一つは、「悔い改めなさい」でした。「悔い改め」と言うと、何か悪いことをして後で悔いる、もうしないようにしようと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、この普通「悔い改め」と訳されるギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)には、もっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書によく出てくる言葉で「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになります。つまり、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで自分の造り主である神に背を向けて生きていた生き方を改めて生きる、神のもとに立ち返る生き方をする、そういう意味を持つようになったのです。

 そういうわけで、洗礼者ヨハネのスローガン「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というのは、「あなたがたは自分の造り主でおられる神に対して背を向けていた生き方をやめて、神のもとに立ち返りなさい。なぜなら、神の国を体現する方が来られるからだ。その方を通して、あなたたちは神の国に迎え入れられることになるのだ」という意味になります。

 

3.

 さて、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた大勢の人たちは、まだイエス様のことを知りません。それで、ヨハネのスローガンを聞いた時、ああ、この世の終わりがすぐ来るんだ、今ある天と地が預言者の言った通りに新しい天と地に取って替えられる日がすぐに来るんだ、と理解したようです。そのような終わりの日はまた、預言書に基づき、神が人類全てに裁きを行う日であるとも理解されていました(イザヤ書24章21~22節、26章20~21節)。実際、ヨハネは、特にファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教社会の宗教エリートの人たちには手厳しく、蝮の子らよ、お前たちは神の怒りから免れると思っているのか、お前たちは斧が根元に置かれた木と同じで、良い実を結ばない木だから、切り倒されて火に投げ込まれてしまうんだぞ、などと非難します。それなので人々は神の怒りと裁きから免れるために、神に対する罪と不従順を赦してもらわなければならないと考えたのは無理もありません。皆こぞって洗礼者ヨハネに洗礼を授けてもらおうと彼のもとに集まってきました。そして、洗礼に際して罪を告白したのです(6節)。

 どうしてヨハネの洗礼と罪の赦しが結びつくと考えられたのでしょうか?当時のユダヤ教社会には、水を用いた清めの儀式がありました。ヨハネの洗礼は、一見清めの儀式に似ているところがありますが、実は大きく異なるものでした。皆様もご記憶にあるかと思いますが、マルコ7章の初めに、イエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。ファリサイ派が特に重視した宗教的行為として、食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清め等がありました。それらの目的は、外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。(興味深いことに、これらの水を用いる清めの儀式も、ギリシャ語では洗礼を意味するのと同じ言葉βαπτιζω、βαπτισμοςが使われています[マルコ7章4節])。しかし、イエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものはと言えば、律法の様々な掟や様々な宗教的儀式を守ったり行ったりすることでした。しかし、律法を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらないのだ、神の意思に沿ったりそれを実現することには程遠く、神の国への迎え入れを保証するものではないのだ、とイエス様は教えるのです。

 人間が自分の力で罪や不従順の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、自分を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。何をもって「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対して神が編み出した解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が受けるべき罪の罰を全部このひとり子に請け負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すというものでした。人間は誰でも、このひとり子を犠牲に用いた神の解決策がまさに自分のためになされたのだとわかって、そのひとり子イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この罪の赦しの救いを受け取ることができるようになりました。使徒パウロが教えるように、人間は、洗礼を受けることで、不従順と罪の汚れを残したままイエス様の神聖さを頭から被せられる、イエス様を純白な衣のように着せられるのです(ガラテア3章27節、ローマ13章14節、さらにエフェソ4章23~24節とコロサイ3章9~10節では、着せられるのは霊に結びつく新しい人となっています)。イエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限りは、父なるみ神は私たちの罪ある内側には目を留めず、私たちに被せられた神聖な清い純白な衣に目を留めて下さるのです。

 ところで、ヨハネの洗礼は、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前のものでした。神が人間に贈り与えるものとしての、罪の赦しはまだ実現していません。そうですから、ヨハネから洗礼を受けても、それは、人間を神への立ち返りに向かわせるきっかけか出発点のようなものです。これとは別に、神の国に迎え入れられるのを確実にする完璧な罪の赦しが必要です。それが、今申し上げたイエス様の身代わりの犠牲がもたらしてくれる罪の赦しです。ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと預言しました。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。火を伴う、というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2~3節)、罪からの浄化を意味します。もちろん、洗礼を受けても、人間は肉を纏う以上は、罪を内在させています。しかし、洗礼を受けることで、人間は罪の赦しの救いを受け取る者となり、たとえ罪を内在させてはいても、信仰にとどまる限りは、罪自体には人間を神の国から引き離す力は消滅している。その意味で人間は罪から浄化されるのです。

 こうして人間は、神の国に迎え入れられる道に置かれて、その道を歩むこととなりました。そして、順境の時にも逆境の時にも常に造り主の神から守りと良い導きを得られてこの世の人生を歩むようになり、万が一この世から死ぬことになっても、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになりました。このような計り知れない恵みと愛の業を私たちに成し遂げて下さった神は、とこしえにほめたたえられますように。

 ヨハネの洗礼は、完全な罪の赦しの救いをもたらす洗礼ではありませんでした。けれども、彼が人々に自分の洗礼を呼びかけたのは、宗教エリートが唱道する清めの儀式では神のもとに立ち返ることなどできない、それほど人間は汚れきっているのだ、むしろその汚れきっていることを認めることから出発せよ、そうすれば、もうすぐ起こる罪の支配からの解放を全身全霊で受け取る器になれる、ということでした。まさに、預言者イザヤが述べたように、道を平らにする、まっすぐにする、ということでした。ところが、人間の掟や儀式で汚れが無くなると言うのなら、神が実現した救いはいらなくなってしまいます。それでは、道は整えられず、でこぼこのままです。

 

4.

 以上のようなわけで、人間は、イエス様の十字架と復活のおかげで、「神のもとへ立ち返る」生き方ができる手がかりを得られるようになりました。それは、律法を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けること、そうして受け取った罪の赦しの救いの中にしっかり留まり、聖書の御言葉と聖餐式のパンとぶどう酒を栄養にすることで、肉に結びつく古い人を日々弱体化させ、聖霊に結びつく新しい人を日々育てること。これが、「神のもとに立ち返る」道を歩むことです。この道を歩む者から「悔い改めにふさわしい実」、「良い実」が実ってきます。それはどのような実でしょうか?

一般的に言えば、次のようなことです。罪の赦しの救いを受け取った人は、聖霊と共にいろいろな賜物を神から頂く。その頂いた賜物を今度は神の意思に沿うように用いる。そうすると、イエス様の福音が周りの人々に伝えられたり示されたりし、人々が罪の赦しの救いを受け取ることができるようになって教会が成長する。そして、賜物を用いる人自身も、使徒パウロが教えるような聖霊の結ぶ実を結ぶようになる。これはスオミ教会の今年の年間主題でもありますが、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制といったものに満たされるようになる。これら全てのことが、「神への立ち返りに相応しい実」、「良い実」です。

最後に、そのような実について、具体的なことを述べておきます。いろんな具体例が考えられますが、ここでは一例としてあげておきます。キリスト信仰者が、一生懸命の努力と真摯な祈りをもって何か事業に成功してお金持ちになったり名声を博したりしたとします。「良い実」というのは、この成果のことではありません。その人がこの成果を自分のためにではなく、神の意思に沿うように用いようとすること、つまり神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することに沿うように用いること、これが「良い実」です。もちろん、みんながみんな、そういう神の意思に沿って用いられる成果を手に入れられるわけではありません。ただその場合でも、もし伴侶がいれば、こんな至らぬ自分をも神は顧みて伴侶を与えて下さったのだと感謝して、神の愛と恵みが溢れるような家庭を築いて行こうと努力すること。また子供がいれば、こんな至らぬ自分をも神は顧みて子供を授けて下さったのだと感謝して、子供にも神の愛と恵みが伝わるように育てていこうと努力すること。これが「良い実」です。さらに、不運にも病の床についてしまい、成果も得られず家庭もなかなか築いていけないような場合は、このような境遇にあっても、信仰の兄弟姉妹たちの心遣いと祈りに支えられて生きることができるくらい神は顧みて下さる、と感謝すること。そして、自分自身のことに加えて、多くの人たちのためにも祈ること。これが「良い実」です。これらはみんな、父なるみ神の目から見て等しく良い実です。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教「イエス様の大事業と私たち」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書21章1ー11節

待降節第1主日


 

 

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日は待降節第1主日です。教会の暦では今日この日、新しい一年が始ります。これからまた、クリスマス、顕現主日、イースター、聖霊降臨主日などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神がスオミ教会と教会に繋がる皆様を顧みて、皆様お一人お一人の日々の歩みの上に祝福を豊かに与えて下さいますように。また皆様が神の愛と恵みのうちにしっかりとどまることができますように。

 本日の福音書の箇所は、イエス様がロバに乗って、エルサレムに「入城」する場面です。昨年もお話ししたのですが、フィンランドやスウェーデンのルター派教会では待降節第1主日の礼拝の時、この出来事について書かれた福音書が読まれる際、群衆の歓呼のところまでくると一旦朗読を止めます。するとパイプオルガンが威勢よくなり始め、会衆みんな一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌います。普段は人気の少ない教会もこの日は人が多く集まり、国中の教会が新しい一年を元気よく始める雰囲気で満ち溢れます。夜のテレビのニュースでも毎年のように「今年も待降節に入りました。画像は何々教会の礼拝での『ホサナ』斉唱の場面です」と言って、歌が響き渡る様子が映し出されます。

 2.

 ところで、先ほど一緒に歌った「ダビデの子、ホサナ」ですが、フィンランド語とスウェーデン語では「ホサナ」ではなくて、「ホシアンナ」です。福音書の記述も、群衆がイエス様を迎える歓呼は日本語では「ホサナ」ですが、フィンランド語とスウェーデン語は「ホシアンナ」です。昨年もお話ししたのですが、この違いを考えることは聖書をより身近に感じられるきっかけになります。ただ、今回説教を準備している時にまた新しい発見をしましたので、昨年申し上げたことに補足をしなければなりません。このように聖書は読むたびに、それまで気づかなかったことに出くわすことがよくあるので、本当に飽きさせない書物です。

 このホサナ、ホシアンナというのは、もともとは詩篇118篇25節にある言葉から来たものです。「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」と神に助けを求める歌です。「わたしたちに救いを」をいうのは、原語のヘブライ語を忠実に訳すと「主よ、どうか救って下さい」になります。これが הושיעהנא ホーシィーアーンナァ、つまりホシアンナです。本日の福音書の箇所の群衆の歓呼がある9

10節はこの詩篇の箇所が土台にあります。そういうわけで、ホサナと言わずにホシアンナと言った方が、引用元の聖句の原語に忠実になります。ところで、ホシアンナという言葉は、古代イスラエルの伝統では、群衆が王を迎える時の歓呼の言葉として使われるようになりました。日本語的に言えば、「王様、万歳」になるでしょう。

では、どうして日本語の聖書ではホシアンナと言わずにホサナと言うのか?ホサナהישע־נא  というのは、実はヘブライ語のホシアンナをアラム語に訳したものです。正確にはホーシャーナァと発音します。ヘブライ語のホーシィーアーンナァと違います。アラム語という言語ですが、それはイエス様の時代のパレスチナの地域の主要言語でした。ヘブライ語は旧約聖書を初めとする書物の書き言葉として残ってはいましたが、人々が日常に話す言葉はアラム語でした。会堂シナゴーグで礼拝が行われる時も、ヘブライ語の旧約聖書の朗読の後にアラム語で解説的な通訳がつけられていました。それで、群衆が叫んだ言葉も、ヘブライ語のものよりはアラム語の可能性が高いと考えられるのです。

そこで、肝心のマタイ福音書の原語のギリシャ語のテクストではどうなっているかを見てみると、ホーシィーアーンナァでもホーシャーナァでもなく、ホーサンナωσανναです。英語訳の聖書は、綴りとしてはこのギリシャ語に倣っていて、ホサンナHosannaと書いています。しかし、そのホサンナを英語はホゥザナと発音します。英語は本当に一筋縄ではいかない厄介な言語だと思います。

さて、ヘブライ語のホーシィーアンナ(ホシアンナ)、アラム語のホーシャナ(ホサナ)、ギリシャ語のホーサンナ(ホサンナ/ホゥザナ)の3つが出そろいました。ここで興味深いのは、ギリシャ語は、ヘブライ語やアラム語の言葉を訳さないで、ただ発音をギリシャ文字に置き換えただけということです。皆様もご存知のように「メシア」はヘブライ語のムーシィーアハですが、それがギリシャ語に訳されてクリストス、「キリスト」になりました。ところがホシアンナ、ホサナの場合は、そのような訳がなされず、発音をそのままギリシャ文字に置き換えただけで、さながら日本語が外来語を訳さないでカタカナに置き換えるのと似ています。

 こうしたことをどのように考えたらよいかと言うと、まず、本日の福音書の箇所に出て来る人たちはアラム語を話す人たちなので、叫んだ言葉はアラム語でホサナと言った可能性が高い。しかし、シナゴーグの礼拝でヘブライ語の旧約聖書の朗読も聞いていたので、ひょっとしたらホシアンナを覚えていて、それで叫んだ可能性も否定できない。いずれにしても、この出来事も含めたイエス様の言行録は最初、口伝えで伝えられていき、次第に記録として書き記されるようになる。さらにキリスト教がアラム語圏を超えてギリシャ語圏に広まり始めると、アラム語で伝えられたものはどんどんギリシャ語に訳されていく。そこで、この出来事の記録を訳した人は、ホシアンナだったにせよホサナだったにせよ、このエグゾチックな言葉をみて、ギリシャ語の単語に訳さず、ただギリシャ文字を当てはめて書き記したのです。実は、このおかげで聖書を読む人は、この出来事が起きた時その場にいあわせた人々の生の肉声に触れることができるのです。ギリシャ文字を当てはめて書いた人は、その効果を狙ってそうしたのは間違いないでしょう。

 以上のことは、キリスト信仰の観点からみたら瑣末なことですが、知っていれば、聖書を読む時、当時その場にいあわせた人たちの音声の世界に引き戻されます。聖書に書いてある出来事は後に創作された話だ、などという淡い期待を打ち破り、本当にあったという臨場感を与えます。このホサナの他にも新約聖書には、イエス様自身や関係者が述べた言葉や文がギリシャ語に訳されずにアラム語の発音のまま記されて、日本語訳の聖書ではカタカナで表記されているものがいくつもあります。ギリシャ語に訳した人たちは、このようにしてまで現場の生の声をそのまま残そうとしたのです。

3.

 先ほども述べましたように、ホサナないしホシアンナは、古代イスラエルの伝統では群衆が王を迎える時の歓呼の言葉として使われていました。従って、本日の福音書の箇所で群衆は、ロバに乗ったイエス様をイスラエルの王として迎えたのです。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがった堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、ロバに乗ってやってくるのです。これは一体何なのでしょうか?

 さらに、同じ出来事を記したマルコ福音書やルカ福音書では、イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じた時、まだ誰もまたがっていないものを持ってくるようにと言います(マルコ11章2節、ルカ19章30節)。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味で、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、ロバに乗ってトコトコ、エルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

 実は、これは何かのパロディーでもなんでもありません。まことに真面目で、人類の運命に関わる重大かつ神聖な出来事だったのです。以下、そのことを明らかにしてまいりましょう。

 まず、イエス様のこの行為は、旧約聖書のゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味しました。ゼカリヤ書9章9-10節には、来るべきメシア救世主の到来について次のような預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。/見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ロバの子であるろばに乗って。/わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。/彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原語のヘブライ語の文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者ということです。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した箇所から明らかなように、神の力を受けて世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者です。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういう途轍もないことをする者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と登場するのではなく、ロバに乗ってやってくるということです。イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。

 「神の神聖な意志を体現した義なる者」が、全世界を神の意志に従わせる、そういう世界をもたらすという途轍もないことをするにもかかわらず、その実現の仕方は軍事力の行使とは全く正反対な仕方で行うということが、イザヤ書11章1-10節に預言されています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとまる。/知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。/彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。/目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。/弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。/その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。/正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。/狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。/牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。/わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。/その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。/そのとどまるところは栄光に輝く。」

このように危害とか害悪というものが全く存在せず、あらゆることにおいて神の守りが行き渡っている世界は、聖書の立場からすれば、今のこの世が終わった後に到来する新しい世を意味します。イザヤ書や黙示録に預言されていますが、神が今ある天と地にかえて新しい天と地を創造された時の世です。その新しい世に相応しい完全な正義を実現する「エッサイの根」。それは何者か?エッサイはダビデの父親の名前なので、ダビデ王の家系に属する者です。つまり、イエス様を指します。やがて今ある天と地とこの世とにかわって、神の神聖な意志に完全に従う新しい世が新しい天と地と共に到来する。その時に正義を完全かつ最終的に実現するのがイエス様ということです。

以上のように、今の世が新しい世にとってかわるという、預言書に預言された大事業は、イエス様が担っていくことになりました。ロバにまたがってエルサレムに入城するというのは、まさに預言書にのっとった手順だったのです。それでは、今の世が新しい世にとってかわるという、とてつもない大事業はイエス様によってどのように展開されていったのでしょうか?

4.

 この大事業は、当時のイスラエルの人たちの目から見て、まったく思いもよらない予想外の方向に展開しました。というのは、彼らは、ダビデ王の末裔が来て新しい世を打ち立てるというのは、ローマ帝国の支配を打ち破ってイスラエル王国を再興することを意味すると理解していたからでした。人によっては、この来るべき王国のことを、天と地が新しくされて死者の復活が起きる時に(イザヤ66章22節、ゼカリヤ14章7節、ヨエル3章4節、ダニエル12章1-3節)現れると考えていた者もありました。ただ、その場合でも、ユダヤ民族の国が再興されるということが中心でした。先ほど読んで頂いたイザヤ書2章1ー5節では、諸国の軍事力が無力化されて、諸国民は神の力を思い知り、神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言がありました。それだけを見れば、再興したユダヤ民族の国家が勝利者として全世界に号令をかけるという理解が生まれます。しかし、それはまだ一面的すぎる理解でありました。イエス様の大事業には、旧約聖書の預言のもっと別の面も含まれていたのです。どんな面か、以下にみてまいりましょう。

 エルサレムに入城したイエス様は、ユダヤ教社会の宗教指導層と激しく衝突します。まず、エルサレムの神殿から商人を追い出して、当時の神殿崇拝のあり方に真っ向から挑戦しました。それから、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者であるローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせてしまう、せっかく一応の安逸を得ているのにローマ帝国の軍事介入を招いてしまうということが危惧されました。三つ目として、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章に預言されている終末の日に到来するメシア「人の子」であると公言していることも問題視されました。特に、自分を神に並ぶ者としていることや、さらにもっと直接的に自分を神の子と見なしていることも指導層にとって赦せないことでした。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けます。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。しかしこれは、旧約聖書の預言を一面的にしか捉えられていなかったことによる理解不足でした。そこで、イエス様が十字架にかけられた後、旧約の預言が全て理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。

 イエス様が死から復活されたことで、死を超えた永遠の命への扉が開かれたことが明らかになりました。最初の人間アダムとエヴァの堕罪以来、人間が死ぬ存在になってから閉ざされていた扉が開かれたのです。人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、死を超えた永遠の命につながることが出来るようになりました。人間が死を超えられなくなってしまったそもそもの原因は、人間が罪を持つようになって神の罰に服するようになってしまったからでした。それが、「お前の罪は赦された、だから神の罰は受けなくてもよくなった」ということが起きたのです。どこでどうやって罪が赦されたのでしょうか?それは、イエス様が十字架の上で人間の罪に対する神の罰を全部引き受けて下さったことによります。その時、イエス様の言葉「人の子は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」(マルコ10章45節)の意味が明らかになりました。イエス様が自分の命を身代金として支払って、人間を罪の支配下から解放して下さったのです。これにあわせて旧約聖書の預言が次々に明らかになりました。例えば、イザヤ53章に預言されている神の僕とはまさにイエス様のことを指すものでした。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼がになったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(3-6節)

「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをなしたのはこの人であった。」(11-12節) 

 イエス様の十字架の死と死からの復活というのは、ユダヤ人であるかないかにかかわらず、私たち人間すべての罪の償いを神に対して成し遂げたという、犠牲の業でした。加えて、罪の償いをしてもらった私たち人間が、この世のあらゆる悪と誘惑を踏み越えて常に神のもとに向かって進んでいけるようになれるための贖いの業だったのです。実にイエス様の神聖なエルサレム入城は、この犠牲と贖いの上に成り立つ人間の救いが真の目的だったのです。この世が終わって次に来る世の王国の出現はまだ先のことだったのです。まず、神がイエス様を用いて実現した救いに出来るだけ多くの人が与れるようにしなければならない。しかし、それはいろいろな反対者、時には迫害者をも生み出す。この軋轢と対立の中で人間の歴史は進み、最終的にはこの世の終わりが来て、天と地が新しくされるような大変動が生じて今見えるものは全て崩れ落ちて、唯一崩れ落ちないものとして神の国だけが見える形で現れて、新しい世が始まる(ヘブライ12章26-29節)。このように神の国の構成員となるのは、もはやユダヤ民族というより、イエス様を救い主と信じた人たちということになります。イザヤ書2章にあるような、諸国民が天地創造の神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるというのは、もはや地理上のエルサレムをささず、黙示録21章にある天上のエルサレムを意味します。このように、旧約聖書の預言は、ユダヤ民族という一つの民族の思いを超えた、全人類にかかわるものだったのです。それが神の意図でした。これを明らかにしたのがイエス様でした。神のひとり子であるがゆえに、神の意図を明らかにすることができたのです。

5.

 以上から、天地創造の神の意志と計画を実現する大事業の第一弾として、イエス様がロバにまたがってエルサレムに入城したことが明らかになりました。そしてその大事業は、当時のユダヤ人たちの一面的な旧約聖書の理解を超えた形で展開しました。しかし、旧約を全体的に理解すれば、イエス様の十字架と復活こそ、大事業が計画通りに進んでいることを示す出来事であったとわかるのです。

さて、今私たちが生きているこの時代、イエス様の最初の降臨と次の再臨の間の時代は、神がイエス様を用いて実現した罪の赦しの救いを、一方では受け入れて自分のものにした人たち、他方ではまだ受け取っていない人たちに二分する時代であります。しかし、罪の赦しの救いは全ての人間のために実現されたものである以上、全ての人がその所有者になってほしいというのが神の御心です。それゆえ、兄弟姉妹の皆さん、それを先に受け取った私たちキリスト信仰者は、まだ受け取ってない人たちが受け取ることが出来るよう、絶えず祈り、機会を見いだしては働きかけていかなければなりません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン