説教「だめそうでも、神に祈り求めよう」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書10章46-52節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.はじめに

本日は、ルター派のキリスト教会では宗教改革主日と定められています。ドイツのヴィッテンベルグ大学の聖書学の教授、神学博士マルティン・ルターがヴィッテンベルグ城の教会の扉に有名な95箇条の論題を釘づけして、当時のカトリック教会に挑戦状をたたきつけて宗教改革の口火を切ったのは、1517年10月31日のことでした。今度の土曜日がその記念日となります。宗教改革の歴史やルターの神学は、それ自体興味の尽きないテーマで、礼拝の説教の場を借りてお話しすることもふさわしいかもしれませんが、説教は説教。講義や講演ではありませんので、ここは本日与えられた福音書の日課の解き明しに専念したく思います。もちろん、解き明しは、いつものように宗教改革の精神に基づいて行いたく思います。つまり、人間の救いは、神の御言葉である「聖書のみ」、イエス・キリストを通して示された「神の恵みのみ」、そのイエス様を救い主と信じる「信仰のみ」、という三つの「のみ」に基づく。これが宗教改革の精神です。

 本日の福音書の箇所は、イエス様が弟子たちや群衆を従えてエルサレムに向かう途中でエリコという町に立ち寄り、そこで一人の盲人の物乞いの目を見えるようにしたという奇跡についてです。本日の説教では、次の2つの事柄について考えてみたく思います。

 一つめは、イエス様がこの盲人の男バルティマイを癒す直前に、「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われますが、これは一体どんな意味なのか?癒された後でそう言ったならば、信仰があったから見えるようになったと言っているのだとわかります。しかし、イエス様は癒す前にそう言ったのです。そこで、イエス様は信仰があれば病気は治ると前もって言って、それを事後的に実現して見せた、と理解することもできます。後に言うべき言葉を先に述べたというわけです。そうすると今度は、病気が治るというのは信仰があったおかげということになり、もし治らなければ信仰がないということになってしまいます。イエス様は本当にそんなことを言っているのでしょうか?

 もう一つ考えてみたく思うことは、お祈りすることにはどんな意味があるのか、ということです。イエス様は、天の父なるみ神は私たちが願う前から必要なものを全て知っている、と教えました(マタイ6章8節)。神は既になんでも知っているのであれば、なぜあえてお祈りする必要があるのか?本日の箇所でも、イエス様はバルティマイが見えるようになりたいと知っていて、何をしてほしいのか?などと聞くのです。神は既に知っていても、私たちはそれをあえて神に打ち明けて知らせなければならないのです。なぜでしょうか?そのことも考えてみたく思います。

 

2.「あなたの信仰があなたを救ったのだ」

「あなたの信仰があなたを救ったのだ」というイエス様の言葉の意味について。この言葉は、同じ出来事が記されているルカ18章にも言われています。また違う出来事の時にも同じ言葉が使われています。マルコ5章とマタイ9章で、12年間出血が止まらず治療に財産を使い果たした女性がイエス様の服に触れば治ると考えて、それをして出血が止まりました。この時イエス様は女性が癒された後で問題の言葉を述べました。信仰があったから治ったと言っているように聞こえます。でも、そうすると、病気が治らないのは信仰がないことになってしまいます。ルカ7章をみると、何か大きな罪を犯した女性がイエス様から赦しを受けて、感謝の行為をイエス様に行う出来事があります。その時、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言います(50節)。この時は特に病気の癒しはありません。そういうわけで、「信仰が救った」というのは、必ずしも病気が治ることに結びつくわけではないということになります。

このイエス様の言葉の意味を考える時、ギリシャ語の原文を見てみるのがよいです。以上述べた5か所で「救った」という動詞は現在完了形です(セソーケンσεσωκεν)。現在完了などと言うと英語の授業みたいで嫌ですが、ギリシャ語の現在完了は英語とは違うところがあるので英語のことは忘れましょう。ギリシャ語の現在完了の基本的な意味は、「過去のある時点で起きたことが現在まで続いている状態にある」ということです。それに即して問題のイエス様の言葉の意味を考えてみると、こうなります。「過去のある時点から現在まであなたは信仰によって救われた状態にある」ということです。過去のある時点と言うのは、イエス様を救い主と信じた時です。つまり、イエス様を救い主を信じた時から現在に至るまで、その人は救われた状態にあった、ということです。これは少し変です。というのは、まだ目が開かれる前に既に救われていたと言うからです。普通なら、病気が治ったことをもって救われたと言うはずのに、イエス様ときたら、治ってもいない時にお前は既に信仰によって救われた状態にあるというのです。なぜでしょうか?

それは、イエス様にしてみれば、病気が治ることと救われることとは別問題だからです。病気の状態にあっても救われた状態にあると言っているのです。それでは救いとは一体何なのか?それは、人間が堕罪の時に神との結びつきを失ってしまったことに対して、その結びつきを回復して神から守りと導きを受けてこの世を生きられるようすること、そして万が一この世から死んでもその時は神が御手をもって自分を御許に引き上げてくれて永遠に神のもとに迎え入れられること、これが救いです。そのような神との結びつきの回復を妨げているものとして、堕罪の時に人間の内に巣食うようになってしまった罪があります。神から送られたひとり子のイエス様は、人間の全ての罪を全部自分で請け負って、まるで自分に人間全ての罪の責任があるかのようにされて、神から来る全ての罰を受けてゴルゴタの十字架の上で死なれたのです。そして三日後に死から復活させられて、今度は死を超えた永遠の命に至る扉を開かれたのでした。これらのことが自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は、まさにイエス様の身代わりの犠牲の死に免じて神から罪の赦しを受けられます。神から罪の赦しを受けられれば、神との結びつきが回復でき、今のこの世と次の世を合わせた大きな生を神との結びつきの中で生きることができるようになったのです。これが救いです。  

この救いは、まさに神がひとり子イエス様を用いて人間にかわって人間のために整えてくれたものです。そういうわけで、救われるために人間がすることと言えば、全てが自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けるだけです。それで、この救いを受け取ることができます。受け取る人が健康であるか病気であるかは関係ありません。また、救いを受け取ったとき、それで病気がすぐ治るということでもありません。もちろん、医療の発達やそれこそ奇跡が起きて病気が治ることもあります。しかし、たとえ治らなくても、病気の信仰者が受け取った救いは健康な信仰者が受け取った救いと何ら変わりはありません。もし重い病気が奇跡的に治ったら、その人は、神の栄光を今度は病気の時と違った形で現わしていかなければならない、まさにそのために命が助けられたのだと理解しなければならないでしょう。

ところで、盲人バルティマイの場合、まだ十字架と復活の出来事は起きていません。それなので、「あなたの信仰があなたを救った」と言われても、なかなか自分は救われているとは思えないでしょう。「あなたは私を救い主と信じる信仰によって既に救われた状態にあった」と言われても、何も起きなかったらただの口先にしか聞こえないでしょう。その意味で、癒しが与えられたことはイエス様の言葉は口先だけではないことが明らかになりました。イエス様の言葉は口先だけのものではないということは、マルコ3章の全身麻痺の人の癒しのところでも起きました。イエス様は、その人とその人を必死になって連れてきた人たちの信仰を見て、「あなたの罪は赦される」と言いました。これに対して、様子を窺っていた律法学者が、人間の罪を赦すことが出来るのは神しかいないのにこの男は口先でこんな出まかせを言って自分を神同等扱いにして神を冒涜した、と批判する。これに対してイエス様は、自分の口から出る言葉は単なる音だけでないことを示すために、男の人に立ちあがって行け、と命じると、その人の麻痺状態は消え去って本当に歩いて行ってしまった。「罪は赦される」と言った言葉が口先だけでないことが示されたのです。

ルカ7章の罪を赦された女性の場合は、病気の癒しはありませんが、罪の赦しを与えてくれたイエス様に対して深い感謝の気持ちを現わしました。罪の赦しを与えられたことで、断ち切れていた神との結びつきが回復する。そしてまだ罪を内にもっていながらも、イエス様の十字架の贖いの業のおかげで、いつも罪の赦しの恵みの中で生きられるようになる。こうして神との結びつきをもって、今のこの世と次の世を合わせた大きな生を生きられるようになる。これが救いで、それはイエス様を救い主と信じる信仰で持つことが出来る。ここから生まれ出る感謝の念が、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛する心と力を生み出していく。罪を赦された女性はその例であると言えます。

 

3.祈ることの意味

 次に、お祈りすることの意味についてみてみましょう。お祈りすることにはどんな意味があるのでしょうか?特に、天の父なるみ神は祈る前から私たちの必要なものを知っている。それなら、なぜあえて祈る必要があるのでしょうか?

一つには、祈りは私たちが神を信頼していることを神に対しても自分に対しても示す最高の機会ということがあります。もし、神に祈ることもせず心の中にあるものを打ち明けもしなければ、それは相手が神では意味がない、とか、自分はこの課題を自分の力で解決する、とか、ひょっとしたら別の何ものかの力を借りて解決すると言っているのと同じです。そういう人は、神をもう信頼していません。

使徒パウロは、キリスト信仰者は聖霊の影響力により神のことを「アッバ、父よ」と言って呼ぶのだと述べています(ローマ8章15節、ガラテア4章6節)。アッバというのは、アラム語の父という単語の呼び名の形です。日本語に直せば、お父さん、お父ちゃん、パパ、というところでしょう。ルターによれば、神は自分がそのように呼ばれるのを聞くと、とても心を動かされ、そう呼んだ人の祈りを聞かないではいられなくなるということです。人間の父親だって、自分の子供が何か必要なものがあればそれを用意してあげようと思うことが出来るのだから、人間の造り主でもあり人間との絆を回復するために自分のひとり子を犠牲にするのも厭わない方であれば、なおさら必要なものを用意して下さるのではないでしょうか?

ここで一つつまずきの種になることがあります。それは、神がそれくらい祈る人を大事に考えてくれるのならば、なぜ祈ったことが起こらないということが往々にしてあるのか。また起こったとしてもあまりにも時間がかかりすぎるとか、祈ったことと全然違うことが起こるとか、どうしてそういうことが起こるのかということです。これについてルターは、神に助けを祈り求める人は、いつ、どんな仕方で、誰を通して等々、神を縛りつけるような祈りはしてはいけないと教えます。そんな祈りをしたところで、いつ、どんな仕方で、誰を通して等々については神が自分の判断で決めるので、神が良かれと判断しなければ何も起こりません。祈り求めたことには、必ず答えが返って来る。それが、祈り求めた内容と一致しなくても、時間がかかったとしても、それは神が良かれと判断してそうしたことなので受け入れなければならない。人間の救いのためにひとり子をこの世に送り犠牲にすることも厭わなかった神の判断である。だから、自分が祈り求めた内容よりも、神が与えた祈りの答えの方がよいものとして受け取らなければならないのです。

このことに関連して、特別支援の必要な子供が生まれた両親の祈りについて触れておきましょう。両親ともにキリスト信仰者で、健康な赤ちゃんが生まれますようにと祈り続けていました。ところが期待に反する結果になってしまった。子供の染色体に異常があったことが原因ですが、そのような異常は何万人のうちに一人生じる。そうするとどなたか両親がそのような子供を引き受けなければならない運命にある。よりによって自分たちにその役が回ってきてしまった。白羽か黒羽かわからないが神から弓矢を向けられて見事命中してしまった。あなたたちやりなさい、と神に選ばれてしまったわけだが、それは逆に言えば神はこの家族に目をつけたということで、その意味で当たった矢は案外白羽で、目をつけた以上、神はこの家族を見捨てないということがわかってきました。

加えて、特別支援の子供の誕生は、キリスト教信仰の中で最も大事な事柄の一つである復活ということをとても身近なものにしました。使徒パウロの教えによれば、復活の日、朽ちる体は朽ちない体に変えられ(第一コリント15章35~55節)、イエス様によれば、復活した者は皆天使のようになります(マルコ12章25節)。神は全てが可能な方なので、この世の人生の期間中に染色体異常が解消することが起きるかもしれない。しかし、それが起きなくても、復活の日が来れば神の栄光を映し出す朽ちない体を与えられて懸案はそこで最終的に解決するのです。そういうわけで、特別支援の子供の誕生は、両親にとってとても終末論的な出来事になりました。終末論的出来事というのは、そのような子供が生まれて、この世が終わったという気分になったということではありません。そうではなくて、人生とは今のこの世の期間と次の新しい世の期間の双方を合わせたものという具合に突然広がりをもったということです。

話しが少し横道にそれましたが、以上、祈るのは、私たちの神に対する信頼を神に対しても自分に対しても示すためであり、またその信頼関係を私たちの側で維持したり強めていくために必要であるということを申し上げました。

祈るもう一つの理由として、私たちが課題や心配事に押し潰されないためということもあります。そのことについて、ルターが「ペトロの第一の手紙」5章7節の聖句を解き明かした時によい教えを述べているので、それを見てみたいと思います。第一ペトロ5章7節というのは、新共同訳では「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」となっています。この訳は少し弱いと思います。原文のギリシャ語はもっと強く、「思い煩いは、何もかも神に投げ捨ててしまいなさい。なぜなら神はあなたがたの面倒をみて下さる方だからです」となります。「神は心にかけてくれる」では弱すぎます。「神は面倒をみてくれる」のです。英語やドイツ語やスウェーデン語やフィンランド語の聖書の訳をみても、強い意味をとっています。スウェーデンやフィンランドでは、キリスト信仰者は試練にある兄弟姉妹を励ます時によくこの聖句を贈り言葉に用います。日本の信仰者は、どの聖句を用いるでしょうか?話が脇にそれましたが、この聖句についてのルターの教えを以下に引用します。

「あなたたちは抱えている課題をただ自分の重荷に留めてしまってはいけない。なぜなら、あなたたちはそれを負い続けることは出来ないからだ。そんなことをしていたら、やがてはその重荷に押し潰されてしまうであろう。そうではなくて、重荷をかなぐり捨てて、それを喜んで安心して神に投げ捨てて、神が処理してくれるのに任せなさい。そして次のように祈りなさい。『父なるみ神よ、あなたは私が仕えるべき主であり、私の神です。あなたは、私がまだ存在しない時に私を造って下さり、それだけでなく、あなたのひとり子イエス様を通して私を罪と死の奴隷状態から自由の身にして下さいました。そのあなたが、成し遂げなさいと言ってこの課題を私に与えてくださいました。ところが、それは私が望む通りにはうまくいきませんでした。多くの事柄が私の心身を重苦しくして、心配事が次々に押し寄せてきます。もう自分自身で助けも助言も見つけられません。どうか、あなたが助けと助言をお与えください。どうか、これら全ての課題や困難や心配事の中であなたが全てを掌る全てになって下さい。』

 この祈りは、真に神の御心に沿う祈りである。神は、私たちにしなさいと言っておられるのは、与えられた課題に取り組むことだけである。それ以上のこと、例えば、取り組みがどんな結果をもたらすかの心配については、それは神が持っていればよいのである。

このように祈れるキリスト信仰者の課題や心配事への向き合い方は、そうでない者たちよりも勝っている。キリスト信仰者は、心配事の鎖から自由になる術を心得ている。他の者は、自分で自分をいじめるような不幸を背負い、しまいには希望のない状態に陥ってしまう。それに対して、キリスト信仰は次の聖句をしっかり握りしめている。『思い煩いは、何もかも神に投げ捨ててしまいなさい。なぜなら、神はあなたがたの面倒をみて下さる方だからです。』そして、この御言葉は真にその通りであると信じて疑わないのである。」

 

4.主の祈り - 祈りの中の祈り

祈りについて、最後にもう一言付け加えておきたく思います。祈る課題の性格上、祈りづらい、祈れない、ということもあります。どうしても解決不可能にみえる課題があり、その解決を神にお願いしても、もし得られなかったらどうしよう、神に責めを着せたくないために祈れないということもあります。例えば、病気が重くなってもう医者も万事休すと言う時、まだ奇跡が起きますようにと祈ることはできます。しかし、愛する人が亡くなった時、神様どうして癒しを与えてくれなかったのですか?死んでしまったら、さすがに生き返らせて下さいとはもう祈れません。そういう時何をどう祈っていいのか?出てくる言葉はきっと、神様なぜなのですか?でしょう。

 どう祈ってよいのかわからない時、祈る言葉が見つからない時、それでも、神との信頼関係を保つために、自分が心配事に押し潰されないために祈らなければならないのならば、どう祈ればよいのでしょうか?イエス様がこう祈りなさいと教えた「主の祈り」がまさにそのためにあります。その祈りには、どんな状況に置かれていてもキリスト信仰者ならば祈らなければならないことが全て入っています。すなわち、祈る人がどんな状況に置かれていても、

父なるみ神の御名が神聖なものとして保たれますように、

神の御国が神の決められた時に到来しますように、

神の御心が御国と同じように地上でも行われますように、ということです。

これらは祈る人がどんな状況に置かれても祈らなければならない事柄です。さらに「主の祈り」には、神にお願いしなければならないことがまだあります。

日常に必要な食べ物、着る物、家族や友人がありますように、

神から罪を赦された者として隣人の自分に対する罪を赦すことができますように、

そして襲いかかる誘惑や悪から守られますように、ということです。

これらはいつどこででもどんな状況に置かれていてもお祈りしなければならないことです。私たちには、このような「祈りの中の祈り」を与えられていることを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


主日礼拝説教 聖霊降臨後第22主日
2015年10月25日の聖書日課  エレミア31章7-9節、ヘブライ4章1-13節、マルコ10章46-52節

説教「神にできて人間にできないこと」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書10章17-31節

  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.
ある男の人がイエス様に「永遠の命を受け継ぐためには何をすべきですか?」と聞きました。永遠の命とは、キリスト教信仰で最も大事な事柄の一つです。私たちは今のこの世の人生を生きています。キリスト教信仰では、将来いつか今のこの世が終わって新しい天と地が創造される新しい世が来る、その時既に死んで眠りについていた人たちが眠りから起こされて、ある者は新しい復活の体を与えられて自分の造り主である神のもとに迎え入れられる。これが永遠の命です。ただし、別の者は、そうならないで、永遠に自分の造り主と切り離された悲惨な状態に陥ってしまいます。

そこで、復活した者たちが迎え入れられるところとはどんなところかと言うと、これは盛大な結婚式の祝宴に例えられるくらい(黙示録19章、マタイ22章、ルカ14章)、この世の労苦が完全に労われるところです。また、「全ての涙が拭われる」と言われるくらいに(黙示録21章4節、7章17節、イザヤ書25章8節)、この世で被った不正や悪が神の正義の尺度で完全かつ最終的に清算されるところです(ローマ12章19節、イザヤ35章4節、箴言25章21節)。さらに、この世で神の意思に沿うように生きよう、神の愛を周囲に伝え自らも行っていこうとしたのだが、いろいろうまくいかなかったとしても、それらは全く無駄ではなかったことが明らかになるところです。そういう復活した者たちが迎え入れられるところをキリスト教では、「神の国」とか「天の御国」とか「天国」とか言います。そういうわけで、永遠の命を得るというのは、復活させられて永遠に神の国に迎え入れられるということです。

この男の人は、永遠の命を受け継ぐには何をすべきか、と聞きました。「受け継ぐ」というのはギリシャ語の単語(κληρονομεω)の直訳ですが、まさに財産相続の意味を持つ言葉です。男の人はお金持ちだったので、永遠の命というものも、何か正当な権利があって自分のところに転がり込んでくる財産か遺産のように考えていたのでしょう。自分は何をしたらその権利を取得できるのか?

これに対してイエス様は、お前は十戒を知っているだろう、と言って、そのいくつかを述べます。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え。すると男の人は、先生、そうしたものは若い時から守ってきました、と答える。これで十分なのですか?他にすることはないのですか?あればおっしゃって下さい。それも守ってみせます。全ては永遠の命の権利を取得するためですから。そんな思いが男の人の答えから伺えます。ところがイエス様はとんでもない冷や水を浴びせかけました。「お前には欠けているものがひとつある。所有する全ての物を売り払い、貧しい者たちに施しなさい。そうすればお前は天国において宝を持つことになる(εξεις未来形)。それから私の後に従って来なさい」と答えました。「天国において宝を持つことになる」とは、永遠の命をもって神の国で生きることを意味します。地上における宝、富と対比させるために、永遠の命を天国の宝と言ったのでした。

 男の人は悲しみに打ちひしがれて退場します。金持ちのその人は、永遠の命という天国の宝を取るか、それとも地上の宝を取るかの選択に追い込まれてしまい、前者のために後者を捨てることができませんでした。天国の宝などという目に見えないものよりも、やはり地上の宝という実際手にしているものの方に人間の心は向いてしまうのだ、と私たちも男の人の気持ちがわかったような気がします。実は、ここは、もっと深い意味があるので以下それを見てみましょう。

2.

この男の人は、単なる私利私欲で富を蓄えた人ではなかったと言えます。まず、イエス様のもとに走り寄ってきます。そして跪きます。息をハァハァさせている様子が目に浮かびます。永遠の命を受け継げるためには、何をしなければならないのか、本当に知りたい、とても真剣そのものです。イエス様に十戒のことを言われると、若い時から守ってきています、と答えます。これは、自分が非の打ちどころのない人間であると誇示しているというのではなく、自分は若い時から神の意思を何よりも重んじて、それに従って生きてきましたという信仰の告白です。イエス様もそれを理解しました。皆様のお手元の聖書には「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」と書いてありますが、「慈しんで」というのはギリシャ語の原文では「愛した(ηγαπησεν)」です。イエス様がその男の人を「愛した」というのは、その人の十戒を大事に思う心、神の意思を重んじる心が偽りのないものとわかって、それで、その人が永遠の命を得られるようにしてあげたいと思ったということです。ところが同時に、その人が永遠の命を得られない大きな妨げがあることも知っていた。その妨げを取り除くことは、その人にとって大きな試練になる。その人はきっと苦悩するであろう。イエス様は、そうしたことを全てお見通しで、それで同情したのです。愛の鞭がもたらす痛みをわかっていました。そして愛の鞭を与えたのです。

この男の人の問題はなんだったのでしょうか?それは、神の掟をしっかり守りながら財産を築き上げたという背景があったため、なんでも自分の力で達成・獲得できると思うようになり、永遠の命も財産と同じように自分の力で獲得できるものになってしまったということです。また、神の意思に従って生きて成功した人は往々にして、自分の成功はそうした生き方に対する神からのご褒美と考えるようになることがあります。詩篇1篇を見ますと、「主の教えを愛して、それを昼も夜も口ずさむ人」はどんなに神から祝福を受けるかということが述べられています。「主の教え」というのは、ヘブライ語でトーラー(תורה)で、まさに律法ないし十戒を指します。そのような人は、「流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人がすることはすべて、繁栄をもたらす」と言われています。この男の人の生き方は、一見すると詩篇1篇で言われていることを絵に書いたような具体例に見えます。

詩篇1篇の理解の仕方について、研究者たちから、これは律法を守れば褒美として神から繁栄をいただけると理解してはいけないとの指摘がなされてきました。ある研究者によれば、この箇所は、人間の造り主が定めた掟を守って生きればちゃんと育って実を結ぶ木のようになると言っているだけで、必ずしも金持ちになるという意味ではない、金持ちでなくてもいろんな育つ仕方や実の結び方がある、ということです。また別の研究者は、十戒を守る人の成すことは金持ちであろうがなかろうが、すべて神の目から見てよいものである、ということを意味しているにすぎないと言います。いずれにしても、詩篇1篇は数と量で量られる繁栄をもって神の祝福のあらわれであると理解しないように注意しなければなりません。

しかしながら、そういう理解の仕方の教わっていないところでは、どうしても、十戒をしっかり守って財産を築き上げたというのは、やはり神からの祝福の現われ、神の祝福は努力に対するご褒美、報酬というふうに考えてしまうのは人情でしょう。弟子たちが驚きの声をあげたこともよく理解できます。神から祝福を受けて繁栄した人が神の国に入れるのは駱駝の針の穴の通り抜けよりも難しいと言うのならば、それでは、それほど神から祝福を受けていない人はどうなってしまうのか?駱駝どころか恐竜が針の穴を通るよりも難しくなってしまうのではないか?財産を売り払ってしまいなさい、というイエス様の命令は、今まで神の祝福の証と考えられていたものが実はそうではなかったと思い知らせるショック療法でした。加えて、永遠の命というものは、人間の力や努力で獲得できるものではないということも思い知らされました。

人間が神の御心に適う者になれるかどうか、神の目に相応しいと認められて永遠の命をいただけるかどうかという問題について、イエス様は実に厳しいことを教えました。他にもいろいろあります。

マタイ5章では、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第5の掟を破ったことになる、また、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第6の掟を破ったことになる、と教えます。十戒を外面的だけでなく心の中まで完璧に守れる人間、神の意思を完全に満たせる人間は存在しないのであります。マルコ7章の初めにはイエス様と律法学者・ファリサイ派との有名な論争がありました。何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が「悔い改め」をしようとして手がかりになるものは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、十戒を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現には程遠く、永遠の命を得る保証にはなりえないのだとイエス様は教えるのであります。

3.

それではイエス様は何のためにこの世に送られてきたのでしょうか?神の意思に従って生きるように教えながら、そんなことをしても永遠の命は得られない、などとは。イエス様は、ただ人間の限界を思い知らせて、人間をがっかりさせるためにこの世に送られてきたのでしょうか?

 いいえ、そうではありません。全く逆です。イエス様は、人間が超えられない限界を改めてわらかせた上で、今度は自らその限界を人間にかわって超えてあげる、そうすることで人間が永遠の命を持てるようにする、そのために送られたのです。それでは、どうやってイエス様は人間にかわって人間の限界を超えてくれたのでしょうか?

 人間が永遠の命を持てない、神の国に入れない最大の原因は、人間に宿る罪の汚れでした。神は神聖な方なので、罪の汚れを持つ人間がその前に立とうものならたちまち焼き尽くされてしまいます。人間が永遠の命を持てて神の国に入れるようになるためには、人間に宿る罪の汚れをなんとかしなければなりません。人間はそれを自分の力では洗い落とすことができません。ではどうすればよいのか?神が講じた策は以下のことでした。神のひとり子イエス様を犠牲の生け贄にして、彼に人間の罪を全部請け負わせて、あたかも彼が全ての罪の原因であるかのようにして、その罰を全て負わせて、ゴルゴタの十字架の上で死の苦しみを受けさせた。こうして神のひとり子の身代わりの犠牲に免じて、人間は神から罪を赦してもらえるという可能性が開かれた。さらに神はイエス様を死から復活させることで、今度は永遠の命に至る扉を人間のために開かれた。人間は、これらの出来事が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神の罪の赦しがそのまま頂けて、その人は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めることになる。

十戒の掟、神の意思は、人間が罪を行為にして犯さないように人間を縛り、見張っています。それでは心の中の罪はどうなるでしょうか?罪は行為として犯さなくても、心の中では残ります。それに対して神が十戒をもって見張っていて、いつでも落ち度を見つけようとしていると思っただけで死にそうになります。しかし、イエス様を救い主と信じる者は落度があるとわかっていながら、良心の平和があるのです。イエス様の十字架に心の目を向けることで、確かに自分は罪深い者ではあるが神はあのイエス様の犠牲に免じてこの自分を赦して、神の子として扱って下さっているのだ、その証拠にあの十字架があるのだ、と言い聞かせることができるのです。ここから、どんな時でもどんな状況でも神に対して感謝する気持ちが生まれ、永遠の命に至る道を歩み続けることができるのです。

 このようにして、罪を内に持っていながらも永遠の命を得られることが可能になったのです。それは、神がイエス様を用いて罪の赦しの救いを実現したことと、それが本当にあった、それでイエス様こそ救い主と信じる信仰の二つがタイアップして、永遠の命が得られるようになったのです。一方で神が行ってくれた業があり、他方でそれを信じて受け入れる信仰が一緒になって、永遠の命が得られるのです。もう、財産があるかどうか、自分に能力や実力があるかは全く関係なくなったのです。本日の福音書の箇所の最後でイエス様は、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言っていますが、これは、まさに、永遠の命を自分の力で獲得できると考えている人たちが先の者で、彼らが先頭から後部に置かれてしまうということなのです。また、永遠の命を自分の力で獲得などできないとうていできないと無力感の中にあった後部の人たちが、イエス様を救い主と信じて神の整えた救いを受け入れることで永遠の命を得られるようになって先頭に置かれるということなのであります。

 しかしながら、こうしたことは、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前の段階ではわかりません。イエス様に、捨ててしまいなさい、と言われて、男の人はそれが出来ずに肩を落として立ち去ってしまいました。まだ神が罪の赦しの救いを実現する前のことなので仕方ありません。願わくば、その男の人が、十字架と復活の出来事の後、神が人間にかわって救いを実現してくれたという福音を聞いて、イエス様こそ救い主と信じて、本当に永遠の命を手に入れることができたように。そして、永遠の命という天国の宝は、地上の宝を量る物差しで測りきれない価値があり、その前では地上の宝など色あせてしまうことがわかったように願わないではいられません。

4.

ところが、逆に、捨てなさい、売り払ってしまいなさい、と言われて、そうですか、わかりました、やってみせましょう、という人も出てくるかもしれません。これは、一見豪傑に見え、神といえども一目置かざるを得なくなるようにみえます。しかし、これは、永遠の命や救いを人間の力や努力で獲得しようとする考えで、金持ちの男の人と同じです。男の人の場合は、永遠の命は人間の力で獲得できるものだが自分は力及ばずと言って退場しました。売り払えると言う人は、自分にはその力があると言う人です。どちらももともとの考え方は同じです。

実は、ペトロが弟子たちを代弁して、この考えを口にしました。「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。」あの金持ちは捨てることが出来なかったが、私たちは違います。だからイエス様、永遠の命を得られるのでしょうか?これに対するイエス様の答えは、一見ペトロに同意しているように見えます。私のため福音のために親兄弟家財の一切合財を捨てた者は、百倍受け、永遠の命を受ける。だから、お前たちも捨てた以上は受けるのだ、という具合です。しかし、よく注意しましょう。捨てる根拠として、「イエス様のためだけ」ではなく「福音のために」とも言っています。この段階ではイエス様の十字架と復活の出来事はまだ起きていません。福音とは、先ほども申しましたように、イエス様の十字架と復活があって、それで永遠の命と救いが神の力で実現したという朗報です。まだこの段階ではその朗報自体がないので、イエス様のこの言葉は将来に向けられたと考えるべきです。それで、弟子たちが全てを捨てたと言っても、100倍受けて永遠の命も受けられるほどの捨て方になるのは、まだ先のことで、この時点での捨て方は永遠の命を保証するものではありませんでした。このように福音がなく、ただイエス様人物だけでは、カリスマ的な指導者に帰依するだけのことです。

 ここで、このイエス様の言葉がもたらす大きな難しさについて見てみましょう。永遠の命を受けられるためには、親兄弟家財の一切合財を捨てなければならないのでしょうか?財産を即刻売り払って家族のもとを立ち去らなければならないのでしょうか?

いいえ、そういうことではありません。イエス様が「わたしと福音のゆえに」と言っていることに注意する必要があります。つまり、イエス様と福音を選ぶか、親兄弟家財を選ぶか、という二者選択の状況に追い込まれた時はじめて、この捨てるという問題が出てきます。もし幸運にも家族の者が皆同じ信仰を持っていれば、二者選択の問題は生じないので、「捨てる」ということもでてきません。

さらに、自分は迫害に見舞われた時でもそれを遥かに上回る良いものを得ることができるのだ、次の世では永遠の命を得ることが出来るのだ、と信じて疑わない人は、たとえ財産を持っていても、それは心を縛りつけるものではなくなって、たまたま神から有効に使いなさいと預かっているものにしか感じられなくなります。ルターが教えているように、そのような人は富の奴隷ではなく、主人なのです。彼の言い方にならえば、自分の持っているお金に対して、「親愛なる私の金貨君、あそこに着る服がなく震えている人がいる。さあ、すぐ行って助けてあげなさい」と言える人です。

しかしながら、もし肉親が無神論者であったり、異なる信仰を持っていてキリスト信仰に難癖をつけたり、最悪の場合それを捨てるように要求する場合には、二者選択の問題がでてきます。そこでイエス様と福音を選ぶ時、「捨てた」ということが起きます。それでは「捨てる」とはどういうことか?家を出てしまうということか?これもそうではありません。イスラム教国のようにキリスト教徒になれば家族といえども命の危険が生じる場合は家を出るのはやむを得ないと思いますが、日本社会ではそういう危険はないでしょう。家に留まっても、イエス様と福音を選んでいる以上は、それらのゆえに、反対する肉親を捨てているということは起きています。同じ屋根の下にいて「肉親を捨てている」などと言うと、何か、口も聞かず、背を向き合っているような冷え切った人間関係が支配するような感じがしますが、これもそうではありません。そのことを最後に述べて、本説教の締めにしたいと思います。

私が昔フィンランドで聖書の勉強を始めた時、教師に次のような質問したことがあります。「もし非キリスト教徒の両親が子供のキリスト信仰を悪く言ったり、場合によっては信仰を捨てさせようとしたら、第4の掟『父母を敬え』はどうしたらよいのか?」彼は次のように答えて言いました。「何を言われても騒ぎ立てず取り乱さずに落ち着いて自分の立場をはっきりさせておきなさい。意見が正反対な相手でも尊敬の念を持って尊敬の言葉づかいで話をすることは可能です。ひょっとしたら、親を捨てる、親から捨てられる、という事態になるかもしれない。しかし、ひょっとしたら親から宗教的寛容を勝ち得られるかもしれないし、場合によっては信仰に至る道が親に開ける可能性もある。だから、すべてを神のみ旨に委ねてたゆまず神に祈り打ち明けなさい」ということでした。

このように、肉親と家財に対してはイエス様と福音を選びながらも、肉親に愛を持って仕え、財産の主人になることは可能です。というより、イエス様と福音を選んでこそ、そうできるようになると言ってよいのでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


主日礼拝説教 聖霊降臨後第21主日
2015年10月18日の聖書日課  アモス5章6-15節、ヘブライ3章1-6節、マルコ10章17-31節


説教「大切な家族」マルッティ・ポウッカ牧師、マルコによる福音書10章1-16節

 女性と男性のことを考えると、女性はよく家庭とか料理について話しますが、男性機械とか自動車の話が好きと思います。

 どの男の子が知っているとおりに車には運転するためにエンジンがあります。もしエンジンが無いと運転することもできません。車は動きません。

これに従って、社会の「エンジン」は何でしょうか。お金ですか。それも必要ですが、どの社会にも家族があります。それは社会の一番大切な「エンジン」だと思います。

今日の聖書の箇所を読むとイエスも家族を大切にされたということがわかります。

 1.家族を大切に

 マルコ10.2.ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。

イエスはご夫婦について質問されました。質問をされたファリサイ派の人々の目的はなんでしょうかは分かりませんが、答えにはイエスが家族のことをとても大切にしました。

 6.しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。7.それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、8.二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。9.従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

 イエスが教えになったことは、神様に与えられた家族の目的は、夫と妻は喜びの時も苦しみの時も一緒につづけることです

 家庭および家族についてこのような教えがあります。

 良い家庭は神の偉大な賜物であり、両親や子供や、また他の家庭の者と睦み合います。家庭の基礎は結婚ですが、結婚によって夫と妻とは全生涯の契約を結ぶのです。夫婦の使命はお互いとその子孫とを敬虔な心で擁護し、また教育することです。

「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません」(ヘブライ13:4)。

わたくしたちの罪のために結婚生活はいつも成功しませんが、つづけるのは神様に与えられた目的です。

 2.私のところに来なさい

 マルコ10.13.イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。14.しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。15.はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

16.そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

 子どもたちをイエスのところにつれて生きましょう。イエスが教えになったことは子どもにとってもよいことですから。聖書のの話、祈り、歌など子どもと一緒に。

3.子どもとプレゼント

最後に子どもとプレゼントのことを考えましょう。わたくしたちは子どもにプレゼントを上げると子どもはそれを喜んでもらいます。

わたくしたちは信仰によって救われる。神様の恵みはプレゼントみたいなものです。

 宣義というのは、

 信仰によって、キリストを救い主として受け入れるならば、神はキリストの功のために、私たちに罪を負わせず、その罪を赦し、キリストの聖めと義とを着せてくださいます。このようにして、神は私たちを義とされるのです。

「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで、信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(ローマ1:17)。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」(ローマ5:1)。

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ローマ8:1)。

「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(エフェソ1:7)。

「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」(ローマ8:16)。

 私たちは子どものように神様の恵みのプレゼントを頂きましょう。そして、イエスが教えられた家族を大切にしましょう。

 

祈りましょう

天の父なる神様、私たちはあなたののみ前で大切な人間です。家族も子どももそうです。私たちには理解ができないほどあなたは私たちを愛してくださっています

子どもの例えに従ってあなたの素晴らしいプレゼントを頂くように。あたたに頂いた救いの希望のプレゼントです。子どもたちにもこのことについて教えられるように。

 よいニゥウズは、イエスが復活されたということです。これは私たちの一番大きな喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。そして、私たちの本国の天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちの天国への道を見せてください。ペテロのように私たち一人一人に任務(にんむ)を教えてください。あなたの教えを聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音や神の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。また、子どもと隣人をあなたに与えられた力によって大切にするように、大震災によって苦しんでいる人を助けられるように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。    アーメン

 

説教「神の前の自分」木村長政 名誉牧師、マルコ福音書9章38~50節

 先日、テレビで有名な作家を招いてインタビューする番組をみていました。その対談の中で中国の古い言葉について話が出たのです。その言葉というのは、

「理解は偶然、誤解は当然」。日本という国に、1億2千万もの人が生活している中で考えてみたら、自分のことさえ、よくわからないのに自分の言葉を理解してもらえる、というのはものすごいこと、理解されたのは偶然で、誤解されるのが当然という話です。

自分の伝えたい、本当の心を真に理解し、わかってもらえた、心底、理解し合えるというのは、まさに偶然でしかない。いくら説明しても、わかってもらえない、相手が「はい、わかりました」と言っても全然わかっていない。何も変わらない。いかに人間というもの、理解されないまま、形では、わかったふりをして私たちは何と誤解され、誤解したまま、すごしていることでしょう。

本心から理解し合えるなんて、偶然でしかない。理解されないし、又自分も理解していない。人間というものは、何とあいまいで、ごまかされていることだろう。自分でも、うんざりしてしまう。

実に味わい深い、真実の言葉だなあと、この頃ずうっと心に残っています。

「理解は偶然、誤解は当然」

このことを、心にとめて、少しでも暖かい心で、根掘り葉掘り、コミ二ュケー

ションを深め、本心から理解し合えるようにしていきたい、大きな課題です。

人は変えられるのか、理解するのは難しい!

さて、今日のみ言葉について見ますと、まずマルコ8章31~37節にイエス様が弟子たちに、ご自分の十字架上で死ぬ、ことと3日の後、復活することを予告されます。そして9章30~32節で、もう一度話されました。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後、復活する。」弟子たちは、この言葉がわからなかったが、怖くて尋ねられなかった、とあります。イエス様が殺されるなんて、とても弟子たちには理解できなかったのです。

まして、三日の後に死んだ人が復活するということなど、とても信じられない、弟子たちには理解されなかった。8章31節からの第1回目に予告されたのが、詳しく話されています。31節「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、司祭長、律法学者たちから排斥され、殺され、三日の後に復活することになっている。と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことを、はっきりお話になった」この話を聞いた弟子たちには大変に驚いたことでしょう。また何のことか、よくわからなかったでしょう。するとペトロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って弟子たちを見ながらペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず人間のことを思っている。」

ここでイエス様はペトロに、サタンに「引き下がれ」と言われて、神のことを思わない者はサタンの誘惑に負けている。弱い者だから神のことを思わないようにと、サタンが支配している。そうした上で、今日のみ言葉の9章42~47節

を見ると具体的に結果としてどうなるか、弱い者をつまずかせる者、罪へ誘惑する者は地獄に投げ込まれるのだ。命にあずかりたいなら罪の誘惑へ、つまづかせる手やあし、目さへ切り取ってしまえ、と言われる。大変きびしいお言葉です。

42節「わたしを信じる、これらの小さな人をつまづかせる者は、大きな石臼を首にかけられて海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまづかせるなら切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火のなかに落ちるよりは片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまづかせるなら切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりも、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまづかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは一つの目になっても神の国に入る方がよい。」

弱い、どうしようもない自分が、神の前に立たされている。そして罪を犯す手や足を切り捨ててでも神のみ国に入りなさい、神の命に生かさるようにしなさい。というのが今日のメッセージです。イエス様は罪の誘惑の恐ろしさというものを知ってほしいと思っておられるのです。罪の誘惑の深刻さを、わたしたちは、あいまいにしていたので、イエス様は十字架の苦しみを受け、私たちの罪をあがなって下さったのです。純心で罪の誘惑に落ちてしまいがちな弱い者たちをつまづかせる者には、イエス様は何の恵みも持ちあわせておられない、ということです。だから、つまづかせる者に対して最悪の警告をしておられるということです。この箇所には、罪につまづかせる片手と片足、片目をすててしまいなさいと、言ってありますが、それだけではない、もっと人をつまづかせ人の心を傷つけてのは、自分の舌、自分の口がしゃべっている言葉でしょう。

自分では気づかないところで、私たちは心を傷つけ苦しめてしまっていることでしょうか。神の前に立って、罪を犯してしまう、それらのものを切り捨ててでも究極的に一番大切なものは、命にあずかる方がましだ、と言っておられる。

また神のみ国に入る方がましだ、と言っておられる。この二つです。そして、あなた方は、この世にあっては塩味のきいた塩になりなさい。49~50節で言われています。塩は良いものである、自分自身の内に塩をもちなさい。この塩こそは、私たちの罪のいっさいを十字架の上であがなって下さった、イエス・キリストを「私の救い主」と信じることです。

最後に、みなさん世界の喜劇王と言われた「チャップリン」をご存知でしょう。沢山の映画に出演し劇場で人々を笑わせ、」皮肉って、皮肉って笑わせたいと命をかけてきたチャップリンが言った言葉「人生は地獄だ」と言ったのです。チャップリンから見たこの世の姿はまさに「地獄」だと言っているのでしょう。

私たちは、いつもイエス・キリストと共にこの世にあってイエス・キリストの命にあずかって生きとうございます。        アーメン・ハレルヤ!


主日礼拝説教 聖霊降臨後第19主日
2015年10月4日の聖書日課 マルコ福音書9章38~50節


 

説教「神が子供を抱きしめた瞬間」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書9章30-37節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

 先週の説教で、マルコ8章27-38節はマルコ福音書全体の中で大きな転換点をなしているということを申し上げました。それまでイエス様はガリラヤ地方とその周辺地域で活動をしていましたが、ここでガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで先週の箇所の出来事があり、イエス様は初めて弟子たちに自分の受難と死からの復活について弟子たちに預言しました。9章に入って「高い山」、ヘルモン山と推定される山に登って自分の姿が変わるところを弟子たちに目撃させる出来事があります。それから後はただただエルサレムに向かって南下していきます。

本日の箇所でイエス様と弟子たちは、まずガリラヤ地方に戻ってきます。少し奇妙なことにイエス様は自分がガリラヤ地方に入ったことを人に知られたくなかった(30節)とあります。なぜでしょうか?これは、先週申し上げたことを思い出すとよいと思います。先週の箇所で、イエス様は弟子たちに自分がメシアであることを人々に言い広めてはいけないと命じたことがありました。その理由として、メシア、すなわち頭に油を注がれて神の目的のために聖別された者ですが、そのメシア理解についてイエス様が自分のことを考えていた内容と人々の理解の間に大きな相違がありました。イエス様にとってメシアというのは、人間と神との間の壊れた関係を修復して人間が神との結びつきを持って今の世と次の世を両方生きられるようにする、そういうことを実現する者で、まさに人間の救い主、救世主でした。ところが当時の人々は、メシアと聞けば、ダビデ王朝の家系に属する者がユダヤ民族を他民族支配から解放して王の位について諸国に号令をかけるという民族解放者をイメージしていました。このような理解が持たれたのは、旧約聖書にそう理解できる預言があちこちにあったからですが、天と地と人間を造られた神の意図はそんな一民族の解放にはありませんでした。しかし、特定の歴史状況の中で生きてその中で抱かれてきた夢や願望を皆が共有していると、旧約聖書にある神の意図を本来の広さ深さで理解することはなかなか難しいことでした。これは、きわめて人間的なことであります。メシアが神の意図に沿って正しく理解されるようになるためには、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事を待たなければなりませんでした。

そういう時勢でしたから、もしイエス様がメシアであると言い広められたらどうなるか?ユダヤ民族の多くは自分たちの解放者がついにやって来た、と大喜びですが、当時ユダヤ民族を実効支配していたローマ帝国やそれに取り入る傀儡政権の指導層は絶対反対だったでしょう。ローマ帝国は反乱に神経をとがらせていたので、もし鎮圧部隊出動ということにでもなれば、イエス様のエルサレム入城予定に支障をきたしたでしょう。イエス様にしてみれば、全ての出来事が福音書に記されているように起きるためには、今のところは自分がメシアであると言い広められない方が目的に適ったのであります。

 

2.

 さてイエス様一行は、懐かしのカペルナウムに到着しました。ガリラヤ湖沿岸の町です。かつてユダヤ地方で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、まっさきに乗り込んできて活動を開始したところです。漁師の兄弟ペトロとアンデレまたヤコブとヨハネをはじめとする12弟子を選んだところです。33節で、一行がカペルナウムのある家に入ったことが言われていますが、カペルナウムの家と言えば、マルコ1章でイエス様がペトロとアンデレの家に入って、ペトロの病気の姑を癒したことが記されています。その後で町中の人が病人を連れて来ました。2章ではある家で全身麻痺状態の人を罪の赦しとセットで癒す奇跡を行っていますが、これがペトロの家か別の家かは定かではありません。またイエス様の弟子となった徴税人レビが自分の家にイエス様一行とともに大勢の罪びとを一緒に食事に招いたこともあります。本日の箇所のカペルナウムの家はこれらのどれか、また別の家か定かではないですが、出来るだけ人に知られないように行動しようとするなら、前行った家の可能性が高いのではないかと思われます。

ところで、一行がガリラヤ地方に入って、まだカペルナウムに到着する前のことでした。イエス様は再び自分の受難と死からの復活について預言します。最初の預言の時には驚いたペトロが、そんなことはあってはならないと預言を否定して、イエス様から、お前は人間の栄光ばかり考えて神の計画を無にしようとしている、悪魔同然だと叱責されてしまいます。ペトロのメシア理解が民族解放の英雄であったことを露呈したのであります。二度目の預言の時も、弟子たちはまだ預言の意味を理解できず、反論すると厳しい叱責が待っているので怖くて何も聞くことができません。メシアの正しい意味を理解できるためには、本当に十字架と復活の出来事が起きないと無理なのであります。

この時、弟子たちの間にイエス様に従っていくことは一体何なのだろうという疑問が起きたと考えられます。この方は、エルサレムに入城した後は神の大いなる業を呼び起こして、天から降ってくる天使の軍勢の力を持って占領者と傀儡政権を打ち倒し、ユダヤ民族を解放して真の王として君臨して諸国に号令をかける、そういう方だと信じて、我々はついてきたのではなかったか?それなのに、自分は殺されてしまうなどと言われる。しかも、3日後に死から復活するなどとも。それではユダヤ民族の解放はどうなってしまうのか?直近の弟子としてついて来ている我々の立場はどうなってしまうのか?殺されてしまうと言うのは、あまりにもあっけない結末ではないか?しかし、死から復活するというのは一体何なのだ?死から復活した者として新たに指導を開始し民族解放運動が新局面に入るということなのか?こういうふうに、弟子たちのそれまで抱いていた民族解放や解放の英雄のイメージが壊されて、新しいイメージが描ききれないという状況があったと思われます。このイエス様の再度の預言の後で弟子たちは、「誰が最も偉大な者か」ということについて議論し合い始めますが、恐らくメシア・イメージが混乱したことが原因にあったと考えられます。

 

3.

 さて、カペルナウムの家に入られたイエス様は弟子たちに道中何を話し合っていたのかと聞きました。弟子たちは答えませんでしたが、イエス様は全てをお見通しでした。そこでイエス様は、最も偉大な者について、どういう者が神の御心に適う最も偉大な者かについて教えます。人間の目から見たのではなく、神の目から見て最も偉大な者ということです。イエス様の教えは35節から37節のたった3節に凝縮されています。イエス様は、まず言葉で教えます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい(35節)」。

これは、まさにイエス様が行ったことでした。イエス様は神のひとり子であり天の御国にて神の栄光に包まれていれば良い方でした。それが、神に対する不従順と罪のゆえに神との結びつきが失われてしまった人間が再び神との結びつきを持って生きられるようにしようと、神はひとり子イエス様をこの世に送られました。人間の心と魂と体を持つ者として、人間の悩みと苦しみがわかり、最後は罪と不従順がもたらす神の罰を全ての人間の身代わりとなって十字架の上で受けて死なれました。人間は、この神のひとり子の犠牲の身代わりが自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の犠牲に免じて神から罪の赦しを受けられ、神との結びつきが回復するのです。

それだけではありません。神は一度死なれたイエス様を今度は死から復活させて、永遠の命の扉を人間のために開かれました。それで、イエス様を救い主と信じる者は、永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めるようになります。神との結びつきを持って生きる者として、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになってもその時は自分の本当の造り主である神のもとに永遠に戻ることができるようになったのであります。私たち人間にこのような計り知れない救いをもたらすために、イエス様は神の栄光に満ちたひとり子でありながら、私たちと同じ人間の姿かたちをとってこの世に送られて十字架の死を受け入れたのです。まさに、全ての人の後になって全ての人に仕えて、いちばん先の者になったのです。イエス様の十字架と復活の出来事の後でメシアの本当の意味がわかった人たちが、まさにこのことを次のように手短く言い表しました。使徒パウロがそれを「フィリピの信徒への手紙」2章の中で引用しています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公けに宣べて、父である神をたたえるのです(6-11節)」。

 このようにイエス様は、もともといちばん先の者だったのが全ての人の後になって全ての人に仕えて、再びいちばん先の者となられました。イエス様は弟子たちに、いちばん先になりたかったら、全ての人の後になって全ての人に仕えなさい、後になろうともせず仕えようともしない者は本当にいちばん先にはなれない、と教えられます。これは、どういうことなのでしょうか?もちろんこれは、弟子たちも犠牲の生け贄となって十字架にかかって、人間が神から罪の赦しを受けられるようにしなさい、ということではありません。罪の赦しの救いと神との結びつきの回復をもたらす犠牲は神のひとり子が全て行いました。私たち人間が神のひとり子と同じくらい神聖な生け贄になれるわけがありません。神が受け入れられるくらいに神聖な生け贄は神のひとり子しかいないのです。神は自分のひとり子を犠牲にしてもいいと思うくらいに、私たち人間が救われることを重視したのです。そういうわけで、罪から贖われる犠牲はイエス様の十字架一回限りで、それ以上はいらないということになります。そうすると、「すべての人の後となり、すべての人に仕える」というのはどういうことなのでしょうか?

 

4.

 それについてイエス様は、言葉と行為をもって教えます。まず、「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」(36節)。ここはとても劇的な場面ですので、一字一句みて、どれだけ劇的なことかを再現してみたく思います。

イエス様一行は、カペルナウムのある家の中に入られました。その中のある部屋にイエス様と12弟子が一緒に入りました。皆が座っています。子供を真ん中に立たせたということは、真ん中が空くように座ったということなので、車座のような座り方だったのでしょう。最も偉大な者は誰かという弟子たちの議論に対する答えとして、イエス様はまず、全ての人の後になれ、全ての人に仕える者となれと教え、その後で、子供の手を取って真ん中に立たせました。ギリシャ語原文には「手を取る」とまでは書いてありませんが、座っていたイエス様が立ち上がって、別の部屋か一番近くにいた子供を弟子たちがぐるりと見ている真ん中まで自分で連れて行ったのであります。

次にイエス様がしたこと。私たちの新共同訳では「抱き上げて」とありますが、ギリシャ語の動詞(εναγκαλισαμενος)は、少し厄介な言葉です。動詞の成り立ちは、「曲げた腕(αγκαλη)の中に入れる(εναγκαλιζομαι)」という意味ですので、そのままでいけば「抱きしめる」の意味です。必ずしも「抱き上げる」とか「抱っこする」ではありません。どっちでもいいではないかと思われるかもしれませんが、使われている言葉や動詞の形から可能な限り正確な情景描写を試みたいと思います。問題のギリシャ語を英語の聖書(NIV)はどう訳しているかと言うと、「抱き上げた」とも「抱きしめた」とも取れます(taking him in his arms, もしtaking him up in his armsならば明らかに「抱き上げた」でしょう)。ドイツ語の聖書でルター訳ですが、「抱きしめた」(herzen)です。ところが、Einheitsübersetsung訳をみると「抱き上げた」の意味が強く出ます(nahm es in seine Arme, もしnahm es auf seine Armeなら完全に「抱き上げた」でしょうか?)。フィンランド語訳では、「抱きしめた」とでも「抱き上げた」とでもとれます。スウェーデン語訳ははっきり「腕を回して抱いた」ですので、「抱きしめた」です。

イエス様は子供を抱っこしたのか、または立たせたまま自ら屈んで抱いたのか、どっちか決めかねるのですが、36節に出てくるギリシャ語の動詞の用法をよく見ると、イエス様が子供を真ん中に立たせたと言うところの「立たせた」が他の動詞よりも重く感じられます(すぐに後に来る「言った」を除いて)。それにこだわると、子供は立ったままということで、イエス様が屈むようにして腕を回して抱いたということになります。もちろん、子供を真ん中に立たせた後すかさず、よっこらしょっと、と抱っこした可能性も否定できません。ここから先は個人的な見解になってしまいますが、子供を抱っこするというのはよくあることなので、立たせたまま屈んで抱いた方がとても劇的な感じがします。皆様はどう思われるでしょうか?

いずれにしてもイエス様は、全ての人の後になって仕えるということを教えるために、弟子たちみんなが見ている前に子供を連れて抱っこするなり抱きしめるなりしました。そして行為を言葉に言い換えて言われます。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れるものは、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(37節)。イエス様を受け入れ、またイエス様をこの世に送られた神を受け入れるということは、これはイエス様を救い主と信じ、神をイエス様の父として信じることです。まさにキリスト信仰そのものです。子供を受け入れることがキリスト信仰を証しするような、そんな子供の受け入れ方をしなさい、それが全ての人の後になって仕えることになる、と言うのであります。これはいったいどういうことでしょうか?

子供を受け入れることがキリスト信仰を証するような、そんな子供の受け入れ方とは、どんな受け入れ方なのでしょうか?ここでカギになってくるのが、子供を受け入れる時、「私の名のために」と言っていることです。イエス様の名のために子供を受け入れる。それでは「イエス様の名のために」とはどんなことなのか?これもギリシャ語の厄介な表現がもとになります(επι τω ονοματι μου)。先ほどみた英語、ルター・ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の訳の聖書ではどれも、「私の名において」です(in my name, in meinen Namen, minun nimessäni, i mitte namn, ただし、Einheitsübersetzung訳では「私のためにum meinetwillen」)。イエス様の名において子供を受け入れる、これもわかりそうでわかりにくい表現です。それでは、イエス様の名前と子供の受け入れはどう関係するのでしょうか?

ギリシャ語の表現のもともとの意味は、「イエス様の名に基づいて」とか「依り頼んで」という意味です。そうは言っても、それが子供の受け入れをどう規定するかはわかりにくいです。一つはっきりしていることがあります。それは、子供を受け入れる際に依拠するのがイエス様の名前であって、他の何者の名前にも拠らないということです。子供を受け入れる時、引き合いに出すのは例えば誰か過去の偉人が慈善を沢山行ったから自分もそれに倣ってそうする、ということではないし、また他ならぬ自分が善意を持って慈善を行うという自分自身に依拠することでもない。ましてやいろんな宗教の神々や霊の名を引き合いに出すことなどしない。ただただイエス様の名前だけを引き合いに出してそれに依拠して、子供を受け入れるということです。

それでは、その唯一の名前の持ち主であるイエス様というのはどんな方でしたか?イエス様とは、十字架上の犠牲の死を遂げることで人間を罪の支配力から贖い出した方、そして死から復活させられたことで人間に永遠の命の扉を開かれた方です。このように人間の救いを実現して下さった方なので、その名前は先ほどの「フィリピの信徒への手紙」の引用にも謳われていたように、あらゆる名にまさる名であり、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてがひざまずく名なのです。そのような名を引き合いに出して子供を受け入れるというのは、受け入れられる子供も、受け入れをする大人と同じように、イエス様が実現した罪の赦しの救いを受けられるようにすることです。そして大人と同じように永遠の命に至る道を歩めるようにすること、つまり大人と同じように神の御国の一員に受け入れ一員として扱い、かつ一員でいられるように育てたり支えたりすることです。たとえ子供であっても大人同様に、イエス様が実現した罪の赦しの救いは提供されている、また永遠の命に至る道は開かれている、ということをしっかり認めて、子供もそれを受け取ることができるようにしてあげる、その道を歩むことができるようにしてあげる。このように考えれば、イエス様の名のために、とか、イエス様の名において、とか、その名に依拠して、とか言って、子供を受け入れるとはどういうことかおわかりになるのではと思います。こういう子供の受け入れ方をした時、ああこの人はイエス様を受け入れている、イエス様を送られた父なるみ神を受け入れているということがわかるのです。そのようにして子供を受け入れ導いた時、その子供はイエス様に抱っこされたか、または抱きしめられたことになるのです。

ところで、兄弟姉妹の皆さん、神がイエス様を用いて実現した罪の赦しの救いと永遠の命に至る道というものは、子供だけに提供されたり開かれたものではありません。提供されているにもかかわらずまだ受け取っていない人、開かれているにもかかわらずまだ道を歩んでいない人は大人も子供も含め世界にまだまだ大勢いるのです。また、一度は受け取って歩み始めた人で、受け取ったことを忘れてしまったり道に迷ってしまった人も大勢います。兄弟姉妹の皆さん、私たちは、洗礼を受けた時にイエス様に抱っこされたり抱きしめられたのです。イエス様の抱きしめをしっかり受け続けられるために、聖餐式を受け続けるのです。そういうわけで、イエス様に抱きしめられた者として、また抱っこしてもらった者として、お互いに信仰の成長を大切に考えていきましょう。まだ救いを受け取っていない人や道に迷ってしまった人たちに対しては、受け取ることが出来るようにと、また正しい道に戻ることが出来るようにと祈り続けましょう。もしそうした人たちに教えたり諭したりする時が与えられたら、神が聖霊を働かせて相応しい時と言葉が与えられるように祈りましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


主日礼拝説教 聖霊降臨後第十八主日
2015年9月27日の聖書日課  エレミア11章18-20節、ヤコブ4章1-10節、マルコ9章30-37節


説教「福音は命の永久保証書」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書8章27-38節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 先日、家電屋に冷蔵庫を買いに行きました。保証期間は1年と言われ、ちょっと短いなと思ったのですが、冷蔵庫の価格の5%を追加で払えば5年に出来ると言われ、しかもポイントでカバーできるというのでお願いしました。冷蔵庫の値段より1円も多く払わないで保証期間を延ばせたので、何かとても得をした気分になりました。これで5年間は故障してもタダでなおしてもらえる。それ以後は、壊れたらきっと修理代は高くついて新しいのに買い換えなさいということになるのだろうな。でも、5年先のことなんか今はまだ悩む必要はないなどと自分に言い聞かせたりしました。

 その翌日に今日の説教の準備を始めたのですが、本日の福音書の次の箇所で立ち止まりました。聖書を読まれる方なら誰でも知っているイエス様の有名な教えです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために失う者は、それを救うのである。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか(マルコ8章34-37節)。」

 これを読む人はたいてい、イエス様は命の大切さ、かけがえのなさを教えているのだと理解するでしょう。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得にもならない。それくらい命は価値のあるものなのだ、と。そうすると、最初に言っていること、つまりイエス様に付き従いたい者は自分を捨てて自分の十字架を背負いなさい、というのはなんのことだろうか?自分を捨てるというのはどういうことなのか?イエス様が背負いなさいと言っている十字架とは何なのか?人生の苦難や困難から逃げてはいけない、しっかり取り組みなさい、ということなのか?苦難や困難のない安逸安泰な人生を望んではいけないのか?

それから、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」というのは、一体どういうことか?人間、どうせいつか必ず死ぬので、自分の命を救いたい、救いたいと思うこと自体が無駄だということなのだろうか?それに加えて、イエス様のため、福音のために命を失った者は、失ったにもかかわらず、それを救うというのはどういうことなのか?大抵の方は、ああ、迫害を受けて殉教した者は天国に入れることを言っているんだな、と理解するのではないでしょうか?

そういう理解も間違いではないのですが、まだ少し浅いと思います。今見てきた福音書の箇所はマルコ8章34節から38節までですが、本日与えられた箇所は、27節から33節までが最初にあり、最後に39節がきます。これらを全部ひっくるめてしっかり読むと、今見た34節から38節の内容ももっとよくわかります。結論から言いますと、先ほどの冷蔵庫の保証期間に結びつけて考えると、イエス様と福音を携えて生きる者は命の保証期間が永久にあるようなもので、携えないで生きる者は保証がなく全部自己負担で生きようとするのと同じではないかということです。壊れた冷蔵庫の場合は、保証がなくても自費で修理か買い替えかのいずれかを選ぶことができますが、命の場合は、失われたらどんなに大金を積んでも取り戻すことはできません。自己負担の限界です。しかし、イエス様と福音を持つ者は、この世での命が失われても、復活の日に神から復活の体を与えられて新しい命を生きることになるので、命の保証期間は永久にあります。こうしたことがわかるために、以下、本日の福音書の箇所をみていきましょう。

2.

 まず、本日の福音書の箇所であるマルコ8章27-38節ですが、これは、マルコ福音書全体の中で大きな転換点にあります。これまでイエス様はガリラヤ地方とその周辺地域で活動していましたが、ここでガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで、本日の箇所の出来事があり、その後でヘルモン山と推定される「高い山」に登って姿が変わったところを弟子たちに目撃させる。それから後はただただエルサレムに向かって南下していきます。そういうわけで、本日の箇所はまもなくエルサレムで起こる十字架の死と死からの復活の出来事に向かい始める出発点であります。まさにそれに相応しく、本日の箇所でイエス様は初めて、自分の受難と復活について預言します。

 本日の箇所の前半部分を見ていきましょう。マルコ8章27節から33節までです。まず、人々はイエス様のことを何者と考えているか、という質問をイエス様がします。弟子たちの答えから、人々は彼のことを過去の預言者がよみがえって現われたと考えていることが明らかになりました。それに対して、弟子のペトロがイエス様をそうした預言者ではなく、「メシア」と信じていることが明らかになりました。その後でイエス様は、自分の受難と死からの復活について預言しました。それを聞いてショックを受けたペトロがそれを否定すると、イエス様は厳しく叱責したのです。ここで疑問として起きることは、まず、この「メシア」とは何かということです。普通、救い主とか救世主を意味すると言われます。しかし、それならイエス様はなぜメシアである御自分のことを誰にも話してはならないと弟子たちに命じたのでしょうか?それから、ペトロがイエス様の受難と復活の預言を否定した時、イエス様は激しく叱責してペトロのことをサタン、悪魔とまで言う。ペトロはそんなに悪いことを言ったとは思えないのに、どうしてなのか?こういう疑問が起きてきます。以下にそれらを明らかにしていこうと思います。

 まず初めに、「メシア」について。これはヘブライ語の言葉マーシーァハ(משיח)で「油を注がれた聖別された者」の意味です。具体的には、ユダヤ民族の初代王サウルが預言者サムエルから油を頭から注がれて正式に王となったこと(サムエル記上10章1節)に由来します。サウルの後に王となったダビデも同じで、それ以後は神の約束もあって(サムエル記下7章13、16節)、ダビデの家系に属する王を意味するようになります。(それ以外の使い方としては、イザヤ45章1節、レビ記4章3節、ダニエル9章26節、詩篇105篇15節等ご参照。)ユダヤ民族の王国が滅びると今度は、将来ダビデの家系に属しユダヤ民族を他民族支配から解放して君臨する王が現れるという期待が高まります。さらにイエス様の時代に近づくと、メシアとは、この世の終わりに現れてユダヤ民族の解放を主な任務としつつも全世界に神の救いを及ぼす、そういう一民族の解放に留まらず、文字通り「世の救い主」、「救世主」という理解も出て来るようになります。

このヘブライ語のメシアは、新約聖書が書かれたギリシャ語ではキリスト(クリストスχριστος)という言葉に訳されます。イエス・キリストのキリストとはイエス様の名字ではなく、メシアというヘブライ語起源の称号をギリシャ語に訳して、イエスという名に付けたということであります。

 さて、ペトロがイエス様のことをメシアと言いました。イエス様は弟子たちに「御自分のことを誰にも話さないように戒めた」とありますが、これは理解に苦しむところです。なぜなら、イエス様はこれまでも大勢の群衆の前で神の国や神の意志について教え、それだけでなく、群衆の目の前でも無数の奇跡の業も成し遂げて、大勢の人が遠方から病人や悪霊に取りつかれている人を沢山運んできたくらいにその名声は広く行き渡っていたからです。

実は、イエス様が「誰にも話さないように」と戒めたのは、自分のことを誰にも話すな、ということではありません。触れ回ってはいけないのは自分がメシアであるということ、これを言いふらしてはならないということだったのです。どういうことかと言うと、先ほども申しましたように、メシアという言葉には、ユダヤ民族を他民族支配から解放し王国を復興させるダビデ系の王という意味がありました。もし人々がイエス様をそういうメシアだと理解してしまったら、どうなるか?イエス様は、本当は神の救いをユダヤ人であるなしにかかわらず全世界の人々に及ぼすためにこの世に送られた。それなのに一民族の解放者に祭り上げられてしまったら、それは神の人類救済計画の矮小化です。それだけではありません。占領者のローマ帝国は王国復興を企てる反乱者には神経をとがらせていました。もしガリラヤ地方で反乱鎮圧のため軍隊出動という事態になっていれば、エルサレムで受難と復活の任務を遂行するというイエス様の予定に支障をきたすことになったでしょう。

 ペトロのメシア理解にもおそらく一民族の解放者のイメージが強くあったと思われます。それで、イエス様が宗教指導層に迫害されて無残にも殺されるという預言を聞いた時、王国復興の夢を打ち砕かれた思いがして、そんなことはあってはならないと否定してしまったのだと思います。

 それにしても、預言を否定したペテロに「サタン、悪魔」と言って叱責するのは、いくらなんでも強すぎはしないか?しかし、神の救いを全世界の人々に及ぼすために十字架の死を通って死からの復活を実現しなければならない。そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのは、まさに神の計画を邪魔することになる。神の計画を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、計画を認めないということは、悪魔に加担することと同然になってしまいます。これが、イエス様の強い叱責の理由です。ここで、この神の計画というものを少しおさらいする必要があります。

キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られた被造物であるということを一番の大前提にしています。この大前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまった、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥って罪を犯したために人間は死ぬ存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ6章23節)。このように人間が死ぬということが、造り主である神との関係が壊れているということの現れなのです。

このため神は、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に造り主である自分のところに戻れるようにしてあげようとしました。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間からその罪と不従順を除去しなければならない。しかし、それは不可能なことでした。三週間前の主日の福音書の箇所はマルコ7章の初めの部分でした。そこでの問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまったか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。

人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、人間を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき罪の呪いをひとり子に背負わせて、罪からくる罰を彼に叩きつけて十字架の上で死なせ、その身代わりの死に免じて人間を赦す、というものです。そこで人間は誰でも、このひとり子を犠牲に用いて行った神の解決策はまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ける。そうするとことで人間は、この「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。人間は洗礼を受けることで、不従順と罪を持ったままイエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられます。こうしてイエス様を救い主と信じる者は神の目に義(よし)とされて神との結びつきが回復して、それからは順境の時も逆境の時も絶えず神から守りと良い導きを受けて生きられるようになり、万が一この世から死んだ時も、その時は御許に引き上げられて、永遠に自分の造り主である神のもとに戻ることができるようになったのです。

 さて、イエス様の弟子たちは、イエス様にユダヤ民族解放の夢を託していました。大勢の支持者を従えてエルサレムに入城し、天から降る天使の軍勢の力を得てローマ帝国軍とそれに取り入る傀儡政権を打ち倒して、永遠に続くダビデの王国を再興し、全世界の諸国民に号令する - そういう壮大なシナリオを思い描いていました。ところが、「迫害されて殺されて三日目に復活する」などと聞かされて、何のことかさっぱりわからなかったでしょう。しかし、全てのことが起きた後で、それこそが本当に全人類の歴史にとって大きな転換点になったとわかったのであります。

3.

以上マルコ8章27節から33節までをみてきました。神の人間救済計画の全容が明らかになったと思います。この計画の実現のために神はイエス様をこの世に送ったのですが、人々は自分たちの民族的悲願のため、神の計画のスケールの大きさが理解できませんでした。全てのことがわかるのには、十字架と復活の出来事を待たねばならなかったのです。神の人間救済計画についてわかったところで、マルコ8章34節から38節を見るとその内容もよくわかってきます。

 それでは、イエス様が、つき従う者つまり私たちキリスト信仰者に対して背負いなさいと言っている十字架とは何か?そして、命を救う、失う、と言っていることは何か?それらについてみてみましょう。

 まず、私たちの背負う十字架ですが、これは、イエス様が背負ったものと同じものでないことは明らかです。神のひとり子が神聖な犠牲となって全人類の罪と不従順を全部請け負って、罪から来る神の罰を全て引き受けて、人間の救いを実現した以上、私たちはそれと同じことをする必要はないし、そもそも神のひとり子でもない私たちにできるわけがありません。

 それでは、私たちが各自背負うべき十字架とは何でしょうか?自分を捨てるとはどんなことなのでしょうか?ルターは、キリスト信仰者というのは自分の内に、神の霊に結びつく新しい人を植えつけられた者だと教えます。それでキリスト信仰者の人生は、この神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくことになるのだと教えます。古い人を死なせるというのはどぎつい言葉ですが、これはそんなに物騒なことではありません。ルターが言わんとするところは、まず、自分の肉に古い人がいることを認めて、それが神の意志に反して生きるようにと自分をたえずそそのかすことを忌み嫌うこと。忌み嫌っているのに神の意思に反するようにと引っ張る力が働くのも現実にある。しかし、それにもかかわらず神はイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに私を罰するかわりに赦して下さる、その赦しを神から受け取ること。これが古い人を死なせ、新しい人を育てることなのです。神の赦しという重石をのせられて、古い人は日々押し潰されていくのであります。

そういうわけで、「自分を捨てる」というのは、肉に結びついた古い人を死なせていこう、神の霊に結びついた新しい人を育てていこう、そういう生き方を始めることです。それはまさに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まります。「自分を捨てる」と言うと、なにか自分で自分を律するようにして無私無欲の立派な人間を目指すように聞こえますが、そうではありません。また、自分自身を放棄することでもありません。そうではなくて、神が与える赦しの恩恵に包まれて、もっともっと包まれようと赦しに次ぐ赦しを受けて自分が新しくされていく、そのことに身も心も委ねてしまうことです。古い人が衰えれば衰えるほど、新しい人が育っていくということです。

そういうわけで、私たちがそれぞれ背負う十字架も、洗礼を受けた時に始まる新しい人と古い人との間の内的な戦いということになります。戦いの現れ方は、それぞれ人が置かれた状況によって違います。例えば職場や家庭などの具体的な人間関係の中で、死なせるべき古い人の特徴がはっきり出てくるかもしれません。自分より良い境遇の人を妬むことで古い人が強まるかもしれません。あるいはキリスト信仰の故に、誤解を受けたり仲間外れになったりすると、イエス様を唯一の救い主と信じることが揺らいでしまって、新しい人の育ちが後退するかもしれません。このように背負う十字架は、それぞれ見た目は違っても、新しい人と古い人の間の戦いを戦うという点では内容はみな同じです。

 さてここで、命を救うこと、失うことについて見ていきましょう(注)。36節でイエス様は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言います。ここの「命を失ったら」の動詞「失う」(ζημιοω)と、前の35節で二度「命を失う」と言っている動詞「失う」(απολλυμι)ですが、原語のギリシャ語ではそれぞれ違う言葉を使っています。36節の動詞の正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。そのため、この動詞を「失う」と訳してはいけないと注意する辞書もあるくらいです。そうなると35節と36節はどう理解したらよいでしょうか?

先ほど、「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて古い人と新しい人との内的な戦いを始めることであると申しました。この見方に立つと、35節と36節で命を救うとか失うとか言っているのは、実は、この内的な戦いを戦いながら神のもとに戻る道を歩んでいるかいないかを意味することが明らかになってきます。以下、35節から先を整理してみます。

35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」これは、解説的に言い換えるとこうなります。「イエスを救い主と信じず古い人の言いなりのままにいて新しい人を植えて育てようとしない者は、永遠の命を望んでも、それを得られない。なぜなら、自分の造り主である神のもとに戻る道を歩んでいないからだ。しかし、イエスを救い主と信じて内的な戦いを始めた者は、たとえその信仰が原因で命を失うことがあっても馬鹿を見たことにはならない。その者は永遠の命を得る。なぜなら神のもとに戻る道を歩んでいるからだ。」

36節と37節「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」これも次のように言い換えることができます。「イエス様を救い主と信じず古い人の言いなりになって生きていて神のもとに戻る道を歩んでいない者は、命に傷がついているのである。そのような者が全世界を手に入れても何の得があろうか?全世界を支配して莫大な財産を有していても、そうしたものでは永遠の命を買い取ることはできないのだ。」

詩篇49篇8-9節をみると、「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」と言われています。まさにその通りです。保証書がなくて壊れた冷蔵庫だったら自費で直したり買い換えたりできます。しかし命の場合は、失ってしまったら、全世界の資産の合計を差し出しても、元に戻らないし、新しい永遠の命にも変えることができません。ところが、人間にこの代価、身代金を支払って下さった方がおられるのです!イエス・キリストという神のひとり子が私たちの犠牲の生け贄となって十字架の上で血みどろになって流した血が全世界の総資産にも勝る代価、身代金となったのです。それをもって、人間を罪の支配力から解放し、本来の造り主である神のもとに買い戻して下さったのです。私たち一人一人は、神の目から見てそれくらい高価なものなのです。

さらに神は一度死んだイエス様を復活させることで、今度は永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。それで、イエス様を救い主と信じる者は、永遠の命に至る道に置かれてそこを歩むようになったのです。福音というのは、神がイエス様を用いて実現した人間の救いを伝える良い知らせを意味しますが、それは真に人間にとって命の永久保証書です。冷蔵庫の保証書はポイントを使って5年に延ばすことができましたが、こちらの方は、神のひとり子が高価な代価を払ってくれて、無限に延ばすことができました。どれだけ得をしたか考えただけで、兄弟姉妹の皆さん、気が遠くなりませんか?

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


(注 35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという少し厄介な言葉です。これは、生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力そのものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。)


主日礼拝説教 聖霊降臨後第十七主日
2015年9月20日の聖書日課  イザヤ50章4-11節、ヤコブ2章1-18節、マルコ8章27-38節


説教「歓呼の中で最終目的地にて出迎えを受ける喜び」神学博士 吉村博明 宣教師、イザヤ書35章4-10節 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 皆さんは、大勢の人から歓呼で迎えられたり歓声を受けた経験がありますか?スポーツの選手だったら、競技の最中とか、また試合や競争に勝った時は観客の歓声を浴びるでしょう。音楽を本格的にする人だったら、演奏や歌が終わった時、聴衆から拍手を受けるでしょう。そうなると、大勢の人の歓声を受けると言うのは、スポーツ選手や音楽家のように特別な才能ある人に限られて、普通の人はあまり機会がないかもしれません。それでも、小学校や中学校の運動会で走った時は応援の声を浴びたり、ゴールインした時は、たとえ一番でなくても誰かしら拍手してくれたり、「よく頑張った!」と言ってくれたのではないでしょうか?また学芸会の劇とか合唱コンクールにクラス全員で出て、観客から拍手を受けた時などは、たとえ自分は脇役くらいだったとしても、大勢の人たちから大きなこと成し遂げたと見てもらったような感じがしたのではないでしょうか?こうしたことは、大人になってしまったら、どんな感じだったかもう覚えていない人がほとんどかもしれません。しかし、大抵は誰でも歓声や拍手を受けた経験はあるものです。

本日の旧約聖書の箇所であるイザヤ書35章は、人は誰でも歓呼や歓声をもって出迎えられる可能性があることについて述べています。しかしながら、その歓呼や歓声の場所は、スポーツ競技場でもコンサート会場でもありません。それではどこでしょうか?イザヤ書35章は、神の国、別名天の御国、またの名を天国と言いますが、人がそこに迎えられる時の出迎えの様子について述べています。しかも、その歓呼や歓声たるや、大勢の天使たちが出迎えをしてあげるものです。10節に「とこしえの喜び」とあるように、永遠に続く喜びに満ち溢れた歓呼・歓声です。スポーツ競技場やコンサート会場の観客の一過性の歓声とは全く質が違う、天国に響き渡り、永遠に続く喜びに満ちた歓呼・歓声です。特別の才能があろうがなかろうが、またどんなに目立たない人生を送ってきた人でも、そのような盛大な出迎えを受けられる可能性がある、ということをイザヤ書の箇所は教えています。どうしてそのようなことが可能なのか、以下みてまいりましょう。

2.

イザヤ書35章を一読すると、渇いた荒れ地に水が溢れ出て草花が咲き乱れたりすることとか、またエルサレムに通じる道が現れて、そこを喜びに溢れて進んでいくことなどが書かれています。そうすると、この箇所は、イザヤ書40章から55章にかけて述べられている、ユダヤ民族のバビロン捕囚からの解放とエルサレム帰還を先取りする内容のように見えます。バビロン捕囚からの解放とエルサレム帰還というのは、紀元前500年代後半に起きた歴史的な出来事です。当時のイスラエルの民にとって、解放と帰還はそれこそ喜びに満ちた帰還でした。バビロンからエルサレムまでの荒野の道はそれこそ、水が溢れ出たり花が咲き乱れるような気分で歩むことができたでしょう。囚われの身だった人々が解放されたというのは、さぞかし歩けなかった人が鹿のように躍り上がったり、口の利けなかった人が喜び歌う、そういうイメージを彷彿させたでしょう。

 しかしながら、キリスト信仰者がこの箇所を読む時は、これを歴史的な出来事のイメージ豊かな描写という理解で終わってはいけません。5節と6節で「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」と言われていますが、これは、単なるイメージ描写ではありません。なぜなら、本日の福音書の箇所から明らかなように、こうしたことは、バビロン捕囚からの解放と帰還の500年後にイエス様が実際に全て行ったのです。本日の福音書の箇所では、耳と口が不自由な人が癒された奇跡が記されていますが、イエス様は盲目の人の目も見えるようにしたり、手足の萎えた人が自由に動けるようにする奇跡も行っています。そうしたことは単なるイメージだけでなく、実際に起きることがイエス様の事例で明らかなのです。

加えて、9節と10節をみると、「解き放たれた人々」とか「主に贖われた人々」が道を進むことが述べられています。「解き放たれた者」(9節)とは一見、バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民を意味すると考えることができます。しかし、原語のヘブライ語ではそれこそ「贖われた者」( גאולימ< גאל )という意味の単語です。「贖われた」とは、囚われの身だった者が誰かが請け負ってくれたので自由の身にしてもらった、という意味です。10節の「主に贖われた人々」はもっと意味がはっきりしています。原語のヘブライ語( פדויי< פדה)では「主が身代金を払ってくれたので自由の身にしてもらった」という意味です。

「贖われる」とか「身代金を払ってもらって自由になる」という考え方は、キリスト信仰にとって要となるものです。なぜならキリスト信仰者は、人間は罪の汚れのために神聖な神との結びつきを失ってしまったが、イエス様がゴルゴタの十字架で人間の罪を請け負って神の罰をかわりに受けてくれたおかげで、神から罪の赦しを受けられるようになり、それで神との結びつきを回復できるようになったのだ、と信じます。まさにそれゆえにイエス様は真の救い主であり、彼が十字架の上で流した血こそが私を罪の奴隷状態から解放するための身代金になった、そのように自分のひとり子を犠牲にするのも厭わないくらいに神は私を大切な存在に扱ってくれたのだ、とわかります。それでキリスト信仰者は、神に感謝してひれ伏し、神の意思に沿うように生きようと志向するのです。さらに、そこまで自分を愛してくれる神なら自分の思いや悩みを真摯に受けとめて聞いてくれるだろうと信頼して、神に祈りを捧げ、思いと願いを全て打ち明けるのです。

道、真理、命

そういうわけで、イザヤ書35章9節10節にある「解き放たれた人々」、「主に贖われた人々」というのは、イエス・キリストの十字架の贖いの業が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じるようになった人たちを意味します。まさに、キリスト信仰者です。今から2500年以上前の歴史的出来事の人々にとどまりません。さらに、10節の最後をみると、「喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」と言われています。同様なことが黙示録21章でも言われています。それは、最後の審判と死者の復活が起きる時に出現する新しい天と地についての預言です。その時、復活させられて神のもとに迎え入れられる者たちについて次のように言われています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである(3-4節)」。

ギリシャ語の新約聖書のテキストの欄外に編者の注のようなものがありますが、この黙示録の箇所はイザヤ書35章10節をもとにしていることが記されています。つまり、黙示録を書いたヨハネにとって、イザヤ書の35章は過去の歴史的出来事ではなく、新しい天と地が現れる将来の出来事を意味したのです。10節にはまた、「喜び歌いつつシオンに帰り着く」と言われています。シオンというのは、エルサレムを指す言葉ですが、ヨハネの黙示録では新しい天と地が出現する時に天から降ってくる天の御国のことをエルサレムと言っています。地上の町のことではありません。

ここで、旧約聖書の読み方について注意しなければならないことを述べておきます。旧約聖書は、もちろんイエス様以前のイスラエルの民の歴史やユダヤ民族の信仰について知る書物として読むこともできます。それはそれで意味があります。しかし、キリスト信仰者はそれにとどまってはいけません。旧約聖書には来るべき人間の救いとその救い主についての約束が随所に記されています。ルターが、旧約聖書を読む時はキリストを見いだすように読みなさい、と教えている通りです。従って、このイザヤ書35章の内容は以下のようなものと言うことができます。イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに神から罪の赦しを得て罪の奴隷状態から解放された者たちが、この世の人生の歩みを経て天の御国という最終目的地に到達して、そこで歓呼と歓声をもって出迎えられるということです。以下、このことを踏まえて、35章を少し詳しく見ていきます。少し聖書研究会のようになってしまい恐縮ですが、皆様、お手元の聖書をお開き頂き、それを見ながら話をお聞き下さい。

3.

1-2節 私たちの用いる新共同訳では「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ」という具合に、「喜び躍れ」は命令文です。英語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書をみると、「喜び躍ることになる」と未来の意味で訳され、命令の意味ではありません(ドイツ語の旧約聖書は手元にないので割愛します)。私としては、ヘブライ語の文法上、命令が正解と思われ、日本語訳に軍配があがるのですが、その後がよくない。最初を命令の意味に訳すと、文法上その後は目的とか結果の意味に訳さないといけないのです。つまり、こうです。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠が喜び花を咲かせるために(または、「そうすれば砂漠は喜び花を咲かせるであろう」)。

 「レバノンの栄光」とか「カルメルとシャロンの輝き」というのは、これらの場所が荒れ野と全く対称的な自然豊かな土地だったのでしょう。ただここは、荒廃した自然が緑豊かに回復するという意味ではなく、今ある天と地にかわる新しい天と地の出現を暗示しています。それがわかるのが、2節の終わり「人々は主の栄光と我らの神の輝きをみる」という節です。人間は誰も神の栄光や輝きをみることはできません。罪に汚れた人間が神聖な神の前に立つと、焼き尽かされてしまいます。人間と神との落差はそれほど絶望的なものです。しかし、イエス様を救い主と信じる者に神は次のように言います。「そうか、お前は私が送ったイエスを救い主と信じ、私が彼を用いて実現した罪の赦しの救いを受け入れるのだな。ならば、お前の罪はお前のその信仰のゆえに赦される。」このように言われた者は、最後の審判や死者の復活が起きる日に神の栄光や輝きをみることができ、見ても大丈夫なのです。

3-4節 「敵を打ち、悪に報いる神が来られる。」ヘブライ語の原文では「敵」とか「悪」という単語はありません。原文に忠実に訳すと、「報復が来る。神の報償が」です。この世で不正義、悪、不条理の犠牲になった者は何百倍にも償いを受けて完全な補償を受ける。逆にそのような犠牲をもたらした者は、この世の人生の段階で神の前にへりくだって赦しを乞わない限り、何百倍もの報いを受け永遠の苦しみを受けることになる。そういう人間の生前の行いが最終的に完璧に全て清算される時が来るということです。もちろんこの世の段階で、不正義、悪、不条理の問題はある程度は解決できて、被害者に償いや補償を行うこともできましょう。しかしながら、解決できないものも多く、解決できた場合も完全に正義を実現したのか疑わしい時も多々あります。だから、最後の審判の日に全ては神の意思に沿って完全かつ最終的に清算されるのです。

先ほど引用した黙示録21章4節に、神は涙をことごとく拭い取って下さる、とありましたが、それはまさに神の完全かつ最終的な清算を象徴しています。加えて、黙示録19章では天の御国は結婚式の盛大な祝宴にたとえられています。これは、この世での労苦に対する最上の労いを意味します。キリスト信仰者は、将来こういう時が待っていると知っているので、この世で悪に手を染めず、悪から試練を受けても「雄々しくあれ、恐れるな」という言葉が絶えず耳に響いているのです。およそ神の意思に沿うことなら、何事も無意味だったとか、無駄だったとかいうことは何もないとわかっているのです。

5-7節 見えない人が見えるようになり、聞こえない人が聞こえるようになり、歩けなかった人が躍り上がり、口の利けなかった人が喜び祝う。これは、死者の復活が起きる時、神の御国に迎えられる者が復活の体という特別な体を与えられることを意味します。復活の体について使徒パウロは、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです(第一コリント15章42-43節)」と教えます。イエス様は復活させられた者がどんなものかについて、ずばり「天使のようになる」と言っています(マルコ12章24節)。

 「口の利けなかった人が喜び歌う」の次ですが、ヘブライ語の原文では「なぜなら」という言葉があります。つまり、いろんな障害を抱えている人が輝かしい者に復活する。なぜなら、荒れ野に水が湧きいでて、荒れ地に川がながれるからだ、と言うのであります。この自然描写は、最後の審判と死者の復活が起こる時に出現する新しい天と地について述べています。

8節-9節 「そこに大路が敷かれる」の「そこに」というのは、ヘブライ語の言葉としては「そこに至る」と訳しても大丈夫な言葉です。新しい天と地のある場所、つまり神の御国に至る大路が敷かれたということです。イエス様を救い主と信じ、神から罪を赦してもらった人は、その道の上に置かれてあとは御国を目指して歩み続けます。「汚れた者」がその道を通れないと言われますが、これは罪の汚れを持つ者です。ただし、キリスト信仰者も肉を纏って生きている以上、罪の汚れを持っています。どこが違うかというと、信仰者の場合は信仰のゆえに罪を赦してもらっているが、信仰者でない場合はまだこの神からの赦しを得ておらず罪の汚れが汚れとして残っているのです。

8節で「主御自身がその民に先だって歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない」と言われます。最初の部分を原文に忠実に訳すと、「その道は、その道を通る者のものである」。なんだか当たり前すぎてよくわかりません。しかし、次の行「愚か者がそこに迷い入ることはない」をよくみれば意味がわかります。「愚か者」とは、神の知恵からかけ離れた者のことです。神の意思を知らず、神の導きに自分を委ねたくない人です。翻って、「その道を通る者」とは神の意思を知っていて、神の導きに自分を委ねる、神の知恵に与った人です。「道」は、そのような者の道なのです。

 この天の御国に至る道は、獅子も獣も入り込めない道と言われます。つまり、しっかり守られ安全な道なのだという。しかし、御国に至る道を歩む者が危険や災難に一切遭遇しないとは言い切ることはできません。だったら、安全ではないでないか?と言われてしまうでしょう。使徒パウロが次のように教えていることを思い出しましょう。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことは出来ないのです(ローマ8章38-39節)」。危険や災難に遭遇しても、それらには信仰者から神の愛を引き離す力は持っていないのであります。それで安全なのです。

10節「主に贖われた人々は帰って来る」。「主に贖われた人々」とは、イエス様が十字架で犠牲の死を遂げたことで私の罪は赦され、イエス様のおかげで罪の奴隷状態から贖われた、と信じる者です。「帰って来る」というのは、神から罪の赦しを受けて神との結びつきを回復させた者が、最初の人間アダムとエヴァが堕罪前にいた楽園にまた帰って行く、という意味です。このようにイエス様の十字架の贖いの業というのは、最初の人間が失ったものを取り戻す意味があります。

「シオン」とは、先ほど申しましたようにエルサレムの別名で、エルサレムも地上にあった現実のエルサレムの町の意味の他に、天の御国も意味します。

「とこしえの喜びを先頭に立てて」。ヘブライ語の原文では、「とこしえの喜びは彼らの頭上にある」です。「喜びと楽しみが彼らを迎え」。「迎え」と言っているのは、原文では「取って替わる」という意味がある動詞です。「喜びと楽しみが取って替わる」というのははっきりしませんが、すぐ後で「嘆きと悲しみは逃げ去る」と言っているので、「贖われた人々にとって喜びと楽しみが全てに取って替わり、嘆きと悲しみはもう入り込む余地がなくなって退散せざるを得ない」という意味でしょう。

4.

以上、イザヤ書35章というのは、キリスト信仰者が歩むことになる道、永遠の命に至る道がどんな道でどこに至るかをよく教えている箇所であることが明らかになりました。その途上で信仰者は決して危険に遭遇しないとは言えないけれども、どんな危険や困難も、信仰者を神の愛から引き裂く力を全く持っていないのです。そしてこの世が終わりを告げて死者の復活が起こる時、信仰者は朽ちない復活の体を与えられ、天の御国にて神の天使たちの盛大な出迎えを受けます。到着する方も出迎える方も、ただただ喜びに満たされています。それこそ、天使たちが「おめでとうございます!よく頑張りましたね!」と叫ぶのが聞こえそうなくらいです。

本日の福音書の箇所で述べられているイエス様の奇跡の業について一言。イエス様は、イザヤ書35章や他の章にも預言されているいろんな癒しの奇跡を行いました。イザヤ書35章をよく見ると、難病が癒されるのはそれこそ終末の時、新しい天と地が出現する時の出来事として記されています。それがまだその時でない段階で、どうして奇跡の業を行ったのでしょうか?

それは、神の国がイエス様とともにあったからです。イエス様は活動開始の頃、「悔い改めよ。神の国は近づいた!」と宣べ伝えました。「近づいた」というのは、ギリシャ語の原文ではエンギケン(ηγγικεν)という言葉で、これは「近づいた」と言うよりは、ずばり「もう来た」とか「もうここにある」という意味です。神の国は、先ほども見ましたように、復活の体を与えられて朽ちない存在に変えられた者が集い、なんらの嘆きも悩みも苦しみもなく死もなく、病気も飢えもない世界です。そんな神の国がイエス様にくっつくようにして一緒にいたのです。だからイエス様が触れたりまたイエス様に触れれば、神の国の影響力が働いて病気が治ってしまう。イエス様が一声かければ嵐は静まり、わずかな食糧で数千人もの人たちを養ったりしました。つまり、当時の人たちは、まだ最後の審判や復活の日が来る前に神の国を垣間見たないし味わったのです。

しかしながら、いくらイエス様に癒してもらったり、空腹を満たしてもらったりして神の国の力や影響力を体験したとは言っても、これらの人々はまだ神の国の外部に留まっています。神の国の内部にはいれるようになるためには、これはイエス様のゴルゴタの十字架の贖いの業と死からの復活がなされるのを待たなければなりませんでした。それらが成就した後で、人はこれらの出来事が自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、神の国に至る道に置かれてその道を歩み始めるのです。まさに、イエス様がイザヤ書35章で言われる大路、聖なる道を敷いたのです!キリスト信仰者は、この道がどこに向かって、最終目的地はどんな場所か、そしてそこでは歓呼と歓喜を持って出迎えを受けるということを知っています。

雄々しくあれ、恐れるな。חזקו  אל-תיראו
喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。
ששון  ושמחה  ישיגו  ונסו  יגון  ואנחה

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメ

 


主日礼拝説教 聖霊降臨後第十六主日
2015年9月13日の聖書日課  イザヤ35章4-10節、ヤコブ1章19-27節、マルコ7章31-37節


説教「わたしは命のパンである」木村長政 名誉牧師、マルコによる福音書7章24~30節

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今日の福音書は、マルコ7章24~30節です。
表題に「シリア・フェニキアの女の信仰」とありますように、舞台はガリラヤではなくて、ず~っと北のティルスという地方です。口語訳の聖書では、「ツロ」と言われていたところです。つまりティルスという地方は、イエス様が伝道を始められた、ガリラヤやユダヤとはちがう、異邦人の地でありました。この異邦人の地に、イエス様と弟子たちが行かれた時に、起こった出来事であります。今日のみことばのカギは、異邦人の地で起こったカナン人の女と、イエス様のことであります。

イエス様は、少し落ち着いて静かな雰囲気で過ごされたかったことでしょう。
ガリラヤでは毎日群衆がおしよせ、ユダヤ教の律法学者たちと論争し、毎日がいわば戦争です。7章1~2節を見てもわかります。そこで、ず~っと北のほうにあるツロまで来られて、弟子たちと共に静かにしたいところでした。
24節、「ある家にはいり、誰にも知られたくないと思っておられたが」とありますように、ここにも人々がイエス様のうわさを聞いて、おしよせて来たわけです。ここで1つのハプニングが起こります。ギリシャ人でシリア・フェニキア生まれの女がイエス様の前にひれ伏し、悪霊にとりつかれて苦しんでいる娘を助けて下さい、と懇願するのであります。この女の願いに対してイエス様は意外にも、冷たいような言葉を返しておられます。

27節を見ますと「イエスは言われた。『まず子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』」。この言葉はどういうことでしょうか。女は悪霊を追い出して下さい、とたのんでいるのに、何という言葉でしょうか。普通の人が聞いても、何のことをイエス様は仰っているのかわからない。病人を助けてほしいという女の、必死の願いの前に「まず、子供たちに食べさせなければならない」と言われるのです。これは衝撃を与えるような言葉です。27節でイエス様は言われました。子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。
小犬にやってはいけないと言われた言葉から、この女には全てがわかって、イエス様の言葉に対応していくのです。イエス様は今、異邦人の地に来ておられるという事が前提にあって、悪霊を追い出して下さいという、病をいやす事がここに偶然に起こったのでしょうか。イエス様の言葉には、謎めいた重たい内容が女に返されています。
「小犬にやってはいけない。」と言われた「犬」というのは、愛される番犬等のことを言っているのではありません。ふつう、「犬」は不名誉の象徴として使われたのでした。ギリシャ人にとっては、犬と言えば「恥知らずのずうずうしい女」を意味しました。ギリシャ生まれの彼女には、ずしりとくる言葉でした。そして、その意味することも、すべて分かったのです。ユダヤ人にとっても、これは軽蔑的な言葉でありました。「聖なるものを犬にやるな」聖書にも出てくるくらいです。(ピリぴ3:2、黙示22:15)
それは異邦人を軽蔑する、ユダヤの言葉でありました。

ここに大事な点があります。
犬という言葉を用いる時の声の調子によって、全く同じ言葉がひどい軽蔑になるし、又、愛情あふれる呼びかけにもなるのでした。ここでのイエス様は、軽蔑の言葉から調子を変え、愛情のこもったペットの小犬を呼ぶような意味を、含ませておられたというのです。まず子供たちに食べさせるべきである、とイエスは言われた。しかし、ただ「まず」であって、家のペットたちのためにも肉は残されていた。つまり、まず神様は、イスラエルの民に最初に福音を与えられた。しかし、ただ最初であったにすぎない。

さて、この時代、食事をするのにナイフやフォーク等使っていません。両手で食べました。もし手が汚れていたら、彼らは手の汚れをパンのかたまりで拭いて捨てたのです。落ちたパンくずは、家で飼っていた犬がそれを食べたのです。この習慣をよく知っているギリシャ生まれの、かしこいカナンの女は、すぐさまイエス様に、精一杯の愛をもって答えていくのです。彼女は言いました。
「わたしは子供たちに、最初に食べさせるのを知っています。ごもっともです。しかし、子供たちが捨てたパンくずもいただけないのですか。」というのです。
たしかに神様はイスラエルの民に、まず信仰を恵まれました。マタイは書いています。「しかし、主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」と、一番最初に口に出しているのです。神のあわれみも、あのパンくずのようにあるでしょう。

イエス様は彼女を受け止め、愛をもって言われます。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」この時、娘の病気はいやされた。ここに、信仰をダメだ、と拒絶するような答えというものはないのです。明るい信仰がある。あわれみによる、救いを信じる信仰があるのです。娘の苦しみを全身で我が身に受けて、苦難の中にいた彼女の心は、ほほえみをもって答えられました。彼女の信仰はためされ、機転のきいた賢い言葉をもって、イエス様とのやりとりの中で、異邦人の女の信仰を真実な信仰として、受け入れて、答えていかれた。彼女の祈りは答えられたのです。

イエス様に、壁のように立ちはだかっていた、まずユダヤの民だけが神の恵みにある、これを打ちくだかれています。ユダヤ人たちが異邦人を拒否して、遠くに投げ捨てた「天からのパンくず」を、彼女は受けていったのです。
「主よ、しかし食卓の下の小犬も、子供のパンくずはいただきます」と、イエス様を最大級の尊敬を込めて、「主よ」と叫んで、そして自分が小犬であることを認めているのです。その上でパンくずを求めるのであります。
救い主が、ユダヤの中にお生まれになることは、神の御計画による事実であります。しかし、神の救いはユダヤ人に限定されるべきものではない。彼女はギリシャ人であっても、小犬のようであっても、パンくずとして神の恵み、あわれみを受けるのでありました。主イエスからのパン、それにすべてがかかっていると、信じて求めるのでした。主イエス様が与えて下さるパンこそは、ユダヤ人によって、又、ローマ帝国の支配から開放されることでありました。罪の支配から、又、神に逆らう力からの開放を示すことでありました。

ヨハネ福音書6章41節に、主は御自信を「わたしは天から降ってきたパンである」と言われました。或いは6章48節では「わたしは命のパンである」と言われています。このようにヨハネでは、御自身をパンとして私たちに与え、罪による悲惨から救い出して下さったのであります。
異邦人の地において、ギリシャ人の女に、福音の救いはもたらされました。
異邦人の前に立ちはだかっていた壁は打ち砕かれ、神の福音は全ての異邦人世界へと、やがて広げられていった、その原点がここにあったということであります。    アーメン・ハレルヤ!


聖霊降臨後第15主日  
2015年9月6の聖書日課  マルコ7章24~30節


説教「福音は心を軽くするそよ風」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音7章1~15節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1.
先週末にフィンランドから戻ってきました。宣教師の留守中、スオミ教会の主日礼拝が教会の皆様のご奉仕に支えられて木村先生と田中先生のもとで猛暑の中でも無事に守られたことは大きな感謝です。

この夏のフィンランド滞在で今年特に印象に残った体験があります。それは、風が今年は何故かとても心地よく感じられたことでした。この夏のフィンランドは7月までは日本と全く逆の冷夏で20度以下の日が続きました。8月に入ってやっと20度を超える暖かさになり、ちょうどその頃、妻の実家に滞在しました。

実家は酪農業で、家の裏に牛が150頭位入る牛舎と大型トラクターが何台も入る大きな車庫があります。その後ろは広大な牧草地がなだらかな起伏をもって広がり、その周囲を森が延々と取り巻いています。牧草地わきに延びる小道を毎日散歩したりジョギングしたりしました。その時、いつも気持ちの良い風が吹いて来て、立ち止まってはそれを味わったのです。暖かいというのでもなく冷たいというほどでもなく、本当に丁度良い気温で、しかもほどほどの強さで、吹かれていると何か心に重く残っていたことや嫌なことを吹き消してくれるような感じがしました。それなので、風向きが変わるとこちらもそれに合わせて向きを変えて正面から受けるようにしました。誰かが見たら、何を風見鶏みたいなことをしているんだと思われたかもしれませんが、それほど気持ちがよかったのです。森の木々の間を吹き抜けて牧草の上をなでるようにして吹いてきた風に、本当に体中が清涼感に満たされるような感じがしました。東京に戻ったらこんな気持ちのいいことは味わえないだろうと思うと残念でしたが、意外にも先週は朝夕は20度位で、窓を開けると涼しい風が入って来て、もちろん森の木々ではなく家々の間を通り抜ける風でしたが、それでもとても心地よかったです。

フィンランドの田舎の道

聖書を読まれる方はご存知のことと思いますが、旧約聖書のヘブライ語と新約聖書のギリシャ語では「風」を意味する単語(רוח、πνευμα)は「霊」も意味します。ヨハネ福音書3章でイエス様は、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8節)と言われます。これはどういう意味かと言うと、以下のようなことです。洗礼を受けて神の霊つまり聖霊を注がれて、その導きに身も心も委ねる者は新しく生まれた者である。その人の内面の変化は周囲の目には見えないが、外面の変化はその人が神の御心に従って生きようと志向するのが周囲にもわかるようになる。それはちょうど風の働きと同じで、空気が移動するのは誰の目にも見えないが、木の枝や葉がざわつくと風が吹いたことがわかるのと同じことである。

ここで注意しなければならないのは、北欧の心地良いそよ風を浴びて心が軽くなったというのは、これは霊的なことと何も関係はありません。そよ風が心を軽くしてくれたから、風に何か霊的な力が働いたなどと思ってはいけません。そんなことを考えたら、天と地と人間を造られた神に背を向けることになります。人を惑わす宗教の始まりです。

心配事や悩み事というのは心を重くするものですが、そうしたものは肉体にもストレスを与えます。ストレスを軽減できると、心も軽くなった感じがします。ストレスを減らせる方法として、適度な運動とか十分な休息とかいろいろありますが、自然の中でそよ風に当たるのも効果があると思います。

しかしながら、自然の風は心配事や悩み事そのものを吹き消してはくれません。心が軽くなった感じにはさせますが、本当に軽くはしません。心配事や悩み事を吹き消し、心を本当に軽くするのは、イエス・キリストの福音とそれを基盤とする聖書の神の御言葉だけです。こう言うと、じゃ聖書を読んだら悩みも憂いも消えうせるのか、と言われてしまいそうですが、消えてなくなるというのは単純すぎるでしょう。そうではなくて、福音や神の御言葉に接すると、心配事や悩み事に取り組む力が与えられる。あるいは、それらを今まで眺めていたのと違った角度から見られるようになって取り組みやすくなる、ということです。その意味では、それまで自分を押し潰すだけだった心配事や悩み事は消え去ると言ってもよいでしょう。

自然のそよ風で心が軽くなった感じが与えらえるとすれば、福音や神の御言葉は心を軽くする霊的なそよ風です。礼拝で説教をする者は、会衆の方々が聖書から吹いてくるこの霊的なそよ風を受けられるように、窓を開けて風通しを良くするような役割を持っていると言うことが出来ると思います。これからも、このことを心に留めて説教を行っていきたいと思います。

2.
前置きが長くなりましたが、本日の福音書の箇所をみていきましょう。本日の箇所もわかりそうでわかりにくい内容です。ファリサイ派の人たちと律法学者のグループとイエス様のやりとりです。James Tissot The Pharisees Question Jesusファリサイ派とは、当時のユダヤ教社会にあった一大信仰運動で、旧約聖書に収められているモーセ律法だけでなく、そこに収められていない、口頭で伝承された教えをも遵守すべきだと唱道した派です。本日の箇所で、「昔の人の言い伝え」(3、5節)、「人間の言い伝え」(8節)、「受け継いだ言い伝え」(13節)と「言い伝え」(ギリシャ語παραδοσις)という言葉が何度も出て来ますが、これは、聖書に書き記された掟に対する「父祖伝来の言い伝えられた教え」のことです。その内容は、本日の箇所からも窺えるように、清めに関する規定が多くありました。食事の前に手を洗うこと、広場から帰ったら身を清めてから食事をすること、いろいろな食器類や寝台を洗うことなどが挙げられています。どうして清めにこだわるかと言うと、自分たちが住んでいる場所は神が約束した神聖な土地なので、自分たちも神聖さを保たなければならないという考えです。

ファリサイ派の人たちと一緒に律法学者もいたとあります。律法学者とは、文字通り聖書に書き記された律法の専門家で、律法の内容や解釈を人々に教え、またユダヤ教社会の訴訟や裁判で影響力を持っていました。律法学者たちの中でファリサイ派に同調する人は多かったようです。

そのファリサイ派の人たちと律法学者が、弟子たちのことでイエス様を批判しました。それは、手を洗わないで食事をしたことでした。それが、「言い伝えの教え」に反すると言うのです。手はきれいに洗って食べた方が衛生に良いので、ファリサイ派の言っていることは理に適っているように見えます。ところが、ここで問題になっているのは衛生管理ではないのです。「汚れた手」(2,5節)の「汚れた」とは、ギリシャ語ではコイノス(κοινοσ)と言います。それは「一般的な」とか「全てに共通する」という意味です。つまり神聖な神の民と不浄の異教徒・異邦人を分け隔てしなくなってしまうという意味で「一般的」、「全てに共通する」ので、それで「汚れた」という意味になるのです。衛生管理の問題ではなく、宗教的、霊的な汚れを言っているのです。

私たちの新共同訳の聖書では「念入りに手を洗ってから(3節)とありますが、この訳だととことん汚れを落とす洗い方を連想させます。ところが、原語のギリシャ語では「拳で」(πυγμη)という意味の単語で、それは手を握った状態で洗うのか、それとも拳ほどの少量の水で洗うのか解釈がわかれます。他の国ではどう訳されているかというと、ドイツ語とフィンランド語の聖書は「少量の水で洗う」でした。少量の水ですから、念入りに丁寧に洗う洗い方ではないでしょう。象徴的な洗いと言ってよく、そういうわけで衛生的でなくて宗教的儀式的な洗いなのでしょう。ちょうど、日本の神社やお寺に柄杓で水を手にかける場所がありますが、そんなものを考えてよいのかもしれません。英語の聖書(NIV)では、ずばり「儀式的な洗い」です。(スウェーデン語の聖書はただ単に「手を洗う」でした。)

ファリサイ派はこのような清めの規定、旧約聖書のモーセ律法に書かれていない言い伝えの教えをいくつも持っていて、その遵守を唱道していました。これらも律法同様に、人間が神聖な神の目に適う者となれるために必要だと考えたからです。ところが、イエス様がそのような規定の遵守を教えていないことが明らかになりました。イエス様は、それらが大事なものとは全然考えてなかったのです。

3.
なぜイエス様は、当時のユダヤ教社会の宗教エリートであるファリサイ派が重要視した「父祖伝来の言い伝えの教え」を全く顧みなかったのか?それは、8節のイエス様のファリサイ派に対する答えから明らかです。それは、そうした教えが、「人間の言い伝え」(8節)、つまり人間の編み出した教えであって、神に由来する掟とは何の関係もなかったからです。神に由来する掟は、書き記されて聖書として存在します。それ故、それ以外は人間の意思に由来するもので、神の意思に由来するものではない。V0034553 Christ curses the Pharisees. Etching by F.A. Ludy after J.F.ファリサイ派としては、神の意思を実現しなければならないと考えつつも、書かれた掟では不十分とばかり、書かれていない言い伝えも引っ張り出してきて、できるだけ多くの規定を持って守った方が、神の意思に沿った生き方になる、そういう考え方だったようです。しかし、神の意思をよくご存知である神の御子イエス様からすれば、それは大変な誤りだったのです。

その理由として、先ほど申しましたように、父祖伝来の言い伝えの教えが神の意思にではなく人間の意思に基づいていることがあります。それに加えて、そうした人間由来の教えが神の意思に反するものになっていくことをイエス様は指摘します。その具体例がコルバンについての規定です。

コルバンというのは、エルサレムの神殿に捧げる供え物を意味しますが、特に、私はこれこれのものを捧げます、と誓いを立てて捧げるものです。一度誓いを立てたらもうキャンセルはできません。イエス様が問題として取り上げたことは、人が自分の両親に役立つものを神殿に捧げますと両親に伝えたら、もう両親に何もする必要はないとファリサイ派が教えていたことです。「お父さん、お母さん、あなたがたは私から必要なものを得られるはずだったのですが、それらはみなコルバンにします。」そう言ったら、もう両親に何もしなくてもいい。宗教的な理由で親の扶養を放棄しても構わないというのは、まるでいかがわしい宗教団体のように聞こえますが、イエス様はそのような規定は、モーセ律法の十戒の第4の掟「汝の父母を敬え」を無効にしている、と批判するのです。そのような神の意思に反する規定が他にも多くある、とイエス様は指摘します(13節)。

ファリサイ派としては、自分たちの動機では神の意思をより確実に実現するつもりでやっていたことが、実は神の意思に反することに陥っていたのです。

4.
イエス様は、批判者に反論した後で、今度は群衆を前にして、一番肝要な問題について論じます。それは、宗教的な清さ、霊的な清さはどうやって実現できるかという問題です。

イエス様は教えます。「人間の外部からきて内部に入るもので、人間を宗教的霊的に汚すことができるものは何もない」(15節)。手を儀式的に洗わず、それで仮に食べ物が宗教的に汚れたとしても、それを食べた人間が宗教的霊的に汚れることはない。本日の箇所の後になりますが、マルコ7章19節でイエス様はこのことについて解説します。儀式的に洗わなかった手で食べたものは、人間の心には何の影響もなく、ただ単にお腹を通って排泄されるだけである、と。実に単純明快な答えです。

それでは、人間を宗教的霊的に汚すものはあるのか?イエス様はあると言います。15節の後半部分を見てみましょう。人間の内部から出てくるものが、人間を宗教的霊的に汚れたものにするのである。それでは、その人間内部から出て来るものとは、それは21節にリストアップされています。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、人間の心から出てくる悪いものです。

 ここで注意しなければならないことがあります。イエス様がここで言っていることは、人間Aから出てくるこうした悪いものが、人間Bを宗教的霊的に汚れたものにする、と言っているのではないということです。両者は同一人物を指しているのです。つまり、人間Aの心から出てくるこうした悪いものが、A自身を宗教的霊的に汚れたものにする、ということなのです。イエス様に言わせれば、人間はその存在自体が宗教的霊的に汚れたものなのです。キリスト教会の礼拝の初めの部分で会衆一同による罪の告白が行われますが、本スオミ教会の式文にも「私たちは生まれながら罪深く、汚れに満ち、思いと行いと言葉によって多くの罪を犯しました」と記されている通りです。この汚れは、最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来全ての人間が受け継いできたもので、まさにDNAに組み込まれているとしか言いようがないくらい、全ての人間に根付き染みついているものなのです。

ルターは、国が法律を作って処罰を定めれば、こうした悪いことが行為に現れるのを防ぐ役割を果たす、けれども、それはあくまで外面的なことだけで、内面の悪までは立ち入らない、と教えています。神の掟である十戒はまさに、外面の行為についてそうであれと命じているだけでなく、内面の心の有り様までそうあれと命じているのです。だからイエス様は、殺人を犯していなくても兄弟を罵ったら同罪である(マタイ5章22節)、姦淫を犯していなくても異性をふしだらな目で見たら同罪である(マタイ5章28節)と教えたのです。

5.
そうなると、人間は生まれながらにして宗教的霊的に汚れたもの、神の目に相応しくなく、神聖な神の前に立とうものなら焼き尽くされてしまう存在ということになります。いくら宗教的な規定を作って守っても、何か修行をしても、この汚れを消すのには何の役にも立たないとイエス様は教えるのです。逆にそうした人間的な規定は、自分たちは汚れを取り除けていると錯覚させ、規定を守らなかったり、守れなかったりする人たちを見下すというような盲目さも生み出します。ヨハネ福音書9章41節でイエス様はファリサイ派の人たちがこうした盲目状態に陥っていることを指摘しています。

人間は自然のままでは、神の前に立てない救いようのない存在だというのがイエス様の主眼です。実に厳しい見解です。では人間はどうしたらよいのか?実はイエス様は、人間の汚れの問題の解決策を知っていました。知っていただけではなく、その解決自体をもたらしてくれました。救いようのない存在である人間を救いがある存在にするための解決をもたらしてくれたのです。

 イエス様はどのようにして人間の汚れの問題を解決してくれたのでしょうか?人間が神の目の前に立っても大丈夫な存在にしてくれたのでしょうか?してくれました。それは、神聖な神の意思に反するあらゆる悪いもの、霊的な汚れが引き起こす神の裁きや罰を、イエス様が人間の身代わりとなって、ゴルゴタの十字架の上で引き受けて下さったことです。人間が、神の裁きと罰を受けないで済むようになる手立てを整えてくれたのです。Fr_Pfettisheim_Chemin_de_croix_station_XII_Christ_head_detaiイエス様が身代わりに裁きと罰を受けたということは、私たち人間が持っている神の意思に反する悪いもの、すなわち罪を、彼が全て請け負って罰を受けたということです。私たち人間の代わりに罰を受けてもらったということは、張本人の私たちの罪が帳消しにされたということです。

もちろん、人間の霊的な汚れや罪は、イエス様の十字架の贖いがあった後も引き続き人間に取りついて受け継がれていきました。罪は残っています。帳消しではないではないか、と言われるかもしれません。しかし、「イエス様は本当に私の罪を請け負って罰を受けて下さったのだ。それで私は神から赦しをいただくことができるのだ。だからイエス様こそは私の真の救い主なのだ」と信じる者には、神の赦しは本当のことになるのです。罪は残っていても、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに、それはもはや神の裁きと罰をその人に引き寄せる力を持っていないのです。その意味で罪は帳消しされたことになるのです。それゆえ、キリスト信仰者が、まだ自分に内在する罪に気づかされる時があっても、それを認めて告白し神に赦しをお願いすれば、神は次のように言って下さいます。「わかった、私が遣わしたイエスを救い主と信じるお前の信仰のゆえに、イエスの犠牲の死に免じてお前を赦すことにする。イエスがあの罪の女に言ったように、私もお前に言う。『行きなさい。もう罪は犯さないように』(ヨハネ8章11節)」。このようにしてキリスト信仰者は絶えず罪の赦しを受けて、絶えず新しいスタートを切ることができるのです。

 人間の霊的な汚れは、手を洗ったり清めの儀式をしても落ちることはありません。人間は、イエス様が十字架で行った贖いの業とその彼を救い主と信じる信仰のおかげで、汚れが残っているにもかかわらず、神から目に適う者と見なされるようになったのです。「私は清くないのに、神はイエス様のおかげで私のことを清い者に見てくれている。イエス様、私のために犠牲になってくれたことを感謝します。神よ、イエス様を送って下さったことを感謝します。」こう言いながら、キリスト信仰者は生きて行くのです。

ところで、イエス様の救いの業は十字架の贖いだけにとどまりませんでした。神はイエス様を十字架の死から三日後に復活させて、永遠の命の扉を人間のために開かれました。その扉の向こうに神の御国があり、この世の旅路を終えてそこに迎え入れられる者は霊的に完全に清くされているのです。イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、「今はまだ霊的な汚れは残ってはいるが、神はそれがさもないかのようにして見守って下さる、そして復活の日が来ればそれは本当になくなるのだ」という確信を持ってこの世を生きられます。

私たちの人生には一人一人皆、いろいろな課題や挑戦があって、その解決のために苦労しなければなりません。その中でイエス様は、私たちの生死に関わる課題を解決してくれました。これを人生最大の課題と言わずして何をそうだと言えましょう。イエス様を救い主と信じる信仰で、この解決が与えられたのです。ですから、兄弟姉妹の皆さん、人生最大の課題を解決してもらった者として、明日からもまた日々の課題や挑戦に取り組んでまいりましょう。今日は安息日なので、お休みしましょう。

Το πνευμα πνευσειεν εις τας καρδιας υμων.
皆様の心に霊的な風が吹きましたように!

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

フィンランド、牧草の刈り入れ冬の牛の飼料の貯蔵のため、8月は牧草の刈り入れがピークになります。

 


主日礼拝説教 聖霊降臨後第十四主日
2015年8月30日の聖書日課  申命記4章1~8節、エフェソ6章10~20節、マルコ7章1~15節


説教「キリストにあって成長していく」木村長政 名誉牧師、マルコによる福音書6章45~52節

 今日の福音書は、マルコ6章45~52節の御言葉です。イエス様がガリラヤ湖の上を歩いて、弟子たちに近づいて来られるという、有名な奇跡の出来事です。45節からみますと、「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ向こう岸のベトサイダへ先に行かせた、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と分かれてから、祈るために山へ行かれた。」とあります。ここでイエス様は弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ行きなさい、と命じておられる。そして、イエス様は群衆を解散させられました。なぜ、群衆を解散させ、弟子たちだけを舟に乗せて、分かれさせておられるのでしょうか。そして、御自分は祈るため山へ行かれたのです。

45節の一番はじめに、つなぎの言葉があります。「それから、すぐに・・・・」そこで、6章30~44節を見ますと、マルコは5000人以上の人々に、五つのパンと二匹の魚をもって人々を満腹するまでに食べ物を与えられた。という奇跡の出来事が記してあります。そのパンの奇跡に続いて、今日の奇跡が起こるのです。ともかく、パン五つと二匹の魚から次々とイエス様によって食べ物が与えられていく。なんという、驚くべき、ことが起こっていたのでしょうか。これを目の当たりに体験した群衆はイエス様をあがめ、今度は自分たちの王になってほしいと、いうような、群衆の叫びに変わりそうになったのを、イエス様は察知して、この群衆を解散させられたのでした。

いつの時代でも、この世の人々が救いを求めるのは政治の貧困から救われたい。そして、パンの問題からの救いであります。人間にとって、ほんとうに必要な救いが何であるか、ということがわかっていないのです。イエス様によって、もたらされる本当の「救い」というものが、どういうものであるか、ということです。人々は、目の前に直面する、病気の苦しみ、飢えや貧困、社会的抑圧から開放されたい、とイエス様のもとに集まって来るのであります。神の御子のイエス様がもたらしてくださる、「まことの救い」が何であるか、神から離れた「人間の罪」の解決と滅びの問題であります。群衆は何もわかっていない、とイエス様は言いたいのでありましょう。本当に必要な「救い」は、神様との正しい関係が回復されること、神の恵みによって罪から開放されることであります。

群衆は、このイエスという方が真に誰であり、彼によってもたらされる十字架の死の罪のあがない、と復活によってもたらされる、永遠の命の救い、がいかなるものであるのか、今では全くわからないのであります。イエス様は悩まれ天の父なる神に祈るため、山へと行かれたのでしょう。シュラッターという神学者は46節の御言葉のところを次のように言っているのです。「イエス様は群衆を解散させ、群衆と分かれて祈るため、山へ入って行かれた」。イエスは、いつも守っている原則に従って群衆から離れられた。つまり、5000人以上の群衆を五つのパンと二つの魚で満腹させたという奇跡が民衆を深くとらえた。まさに、この時イエスは群衆から離れたのである。そして奇跡のしるしのことを人々が深くかんがえるように。このしるしが神を指す、働きとなって、いくようにと祈られたのである。

しかし、満腹した群衆は、神への思いなど全くない。差し迫った肉的欲望を満たした情熱が、この方を王にしようと民衆がさわぎ出していく、そのことでイエスの目指される道を妨げてしまうことになっては、ならないのです。そこで弟子たちを強いて舟に乗せて向こう岸へ行くように命じられたのです。弟子たちは思ったでしょう。なぜ自分たちだけ舟で行くように命じられたのか、イエス様といっしょではないのか。弟子たちには、よくわからなかった。彼らが、ガリラヤ湖の真ん中あたりに来た頃、風は強くなり舟はなかなか進まない。イエス様はこの逆風の中で漕ぎ悩んでいる弟子たちを遠くから、ごらんになり夜の明ける頃、湖の上を歩いて彼らのところに近づかれ、そばを通りすぎようとされた、と記されています。

弟子たちは、イエスから遠く、はなれたところで、逆風に妨げられ、どこにも頼るところがない。不安の中に投げ出されていたのであります。このことは、私どもがどんなに神から遠く引き離され、神にすてられたような、恐れと不安の中に置かれましょうとも、イエス様は決して私どもから目をはなすことなく遠くから、絶えず見守ってくださる、ということです。そして私どものところに近づいてくださるのであります。風が静まることが救いではない。主イエス様が私たちのところに来て、私たちと共に、いてくださることが、救いであります。ヨハネ福音書14章18節を見ますと、イエス様は弟子との最後の別れにあたって、言われました。「わたしは、あなた方を、みなし子には、しておかない。あなた方のところに戻って来る。」

このイエス様の約束を信じて生きるのが救いであります。湖の上を歩いて、弟子たちに近づいて来られたイエス様は、そのまま、そばを通りすぎようとされた。「通りすぎようとされた」というのは、弟子たちが困っているのを、見すごしにされた、ということではありません。ヨブ記9章11節に「神がそばを通られても、私は気づかず、過ぎ行かれても、それと悟らない」とあります。列王記上19章11節には、ホレブの山に逃れた預言者エリヤのそばを「主が通り過ぎて行かれた、」とあります。「通り過ぎる」という言葉は神が現臨しておられることを意味しています。しかし、私どもは弟子たちと同じように心が鈍くなっているので、主が私どものそばに生きて、共に存すことに気がつかないのです。

ですから、弟子たちは波を踏んで近づいて来られる方を幽霊かと思っておびえたのです。恐らく弟子たちは、後になって復活の主との出合いを経験したときに、はじめて、彼らに近づいて来られた方が誰であったかを正しく悟ることができたのです。イエス様がそばを通られても、気づかずに過ぎ行かれても、それと悟らない鈍い弟子に向かって「安心しなさい。私だ、恐れることはない」とお語りになります。この短い言葉によって、イエス様は神が御自身において、弟子たちと共に存すことを、彼らに気づかせようとされているのです。シュラッターはこう言います。イエスの突然の出現を前にして、弟子たちは驚愕した。そして波の上でイエスがなさった業の力に対して驚嘆した。この恐れと驚きの中から徐々に彼らの中に信仰が育って行くのであります。また、それはどこまでも高く、重すぎるものになっていたことはあきらかである。以上はシュラッターの理解です。深い信仰の真理の世界に導いてくれます。

さあ、これで、湖の上を歩かれた、奇跡の出来事は弟子たちが非常に驚いたことで終わりのようですが、それで終わらない。この奇跡でイエス様は何を弟子たちに示そうとされたのだろうか。逆巻く嵐の恐怖と戦う弟子たちにイエスは驚かせるために、波の上を歩かれたのか、それでは単なる現象です。福音書は、この事件を弟子たちが経験した、ということで終わらない。マルコは52節に、突然に、湖のイエスのこととは全く関係のないことを記しているのです。「パンの出来事を理解せず、心が鈍っていたからである。」ここに、5000人に食べ物を与えられた軌跡の出来事に続いて、マルコは湖の上を歩いて行かれた奇跡を記しているのです。そしてその最後に、パンの出来事で、イエス様が示そうとされたことも、続いて起こされた幽霊だと恐れたイエス様の湖上での出来事で示そうとされたイエス様の意図は弟子たちには理解されなかった。心が鈍くなっていたからである。

イエス様がなさった奇跡の中には、弟子たちが見たり聞いたり食べたりした経験の世界で驚いたことよりも、もっともっと奥の深い神の御国の真理と、イエス様御自身の神の御子の内に秘められた神の御力の神秘は弟子たちには理解できない。イエス様は弟子たちに「いったい、あなた方には信仰がないのか」と言っておられる、そのことをマルコは記しているのです。シュラッターの表現で言いますと、イエスは弟子たちに対して行われたすべてのこと、教えや奇跡のしるし、それらのすべてを通して弟子たちへ内的な永続する贈り物を与えられた。イエスというお方を通して、弟子たちにとって「神が何であられるのか」という洞察を与えようとされたのである。

ところが、彼らは恐れたり驚いたりの思いにいっぱいで天の御父との交わりで起こされていることを目の前で見ていながら、その鈍い心では理解することができない。ここにマルコは弟子たちの弱さが明らかになり、へりくだりを促すことになった次第を語っているのです。それは、また、イエスの計り知れない豊かさの前で弟子たちの貧しさを示している、ということです。イエス様は私たちに対しても、どんなに慈しみを持って忍耐してくださっておられることか、またご自分を信じるようになるまで、どんなに待っておられることかを、私たちに分かるようにしてくださるのであります。 アーメン、ハレルヤ

 


聖霊降臨後第13主日  2015年8月23日

聖書日課 マルコ6章45~52節