説教「すべては御言葉を聴くことから始まる」田中良浩 牧師

(Ⅲ) 7月24日(日)聖霊降臨後第10主日(詩15編)

日課 創18:1~14、コロ1:21~29、ルカ10:38~42

説教「すべては御言葉を聴くことから始まる」

 

1 詩編:「どのような人が、聖なる山に住むことができるでしょうか?」

“聖なる山”それは“神の家”である。言い換えれば神と共なる生活である。

神の家での生活、神と共なる生活で大切なことは何か?

 

ダビデは、神をほめたたえながら告白する(2節):

「それは完全な道を歩き、あなたの幕屋に宿り、心には真実な言葉がある人」

つまりここでは「心には真実な言葉がある人」が、最も大切な聖句である。

“真実は言葉”とは何か?

原文では「心から真実を語る人」。口語訳聖書も同様に訳されている。

しかも、「神の恵みの言葉に基礎づけられた」言葉ということができる。

人間の言葉は極めて、自己中心的であり、時には自己欺瞞でさえある。

私たちは日常生活に言葉を使う以上、常に神のみ言葉に聴き、神の恵みの

言葉に塩漬けられた言葉を用いたいと思う。

 

 

2 旧約の日課は、「イサク誕生の予告」である。

神はアブラハムに約束された。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」

アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15章)

再び、主は約束の子が与えられると言われたが、アブラハムは「この百歳の男に、そして90才の妻サラに子が産めるだろうか?」と言って、笑った。

創世記17章35節~17節参照。

 

こうした経過があって約束が実現する出来事が起こった。

アブラハムが、3人の天使を迎え、心からの“もてなし”(接待)をした。

3人の天使は、アブラハムの妻サラに「男の子が生まれる」と語った。

アブラハムと共に高齢になっていたサラも、「ひそかに笑った」。

 

<その数か月後、サラは身ごもり、やがて男の子を産んだ>21章参照。

「サラは言った『サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」と。

「そんなことがある筈はない」と3人の天使によって語られた神の祝福の

言葉を嘲笑したサラは、今や約束のイサクが与えられ神よって人生の真実の笑い(イサク)を得たのである。

神の救いの約束は、不可能を可能にするのである!(創世記18:14)。

結果的に信仰者の父、アブラハムは自らの思いを超えて、神との約束を信じざるを得なかったのである。つまり恵みの信仰である!

同様に、そのように信じる信仰こそ、私たちの生き方、恵みの生活である。

 

有名な画家マルク・シャガールはロシア生れ、東欧系ユダヤ人である。

アメリカに亡命し制作活動を続け、最後にはフランスに定住した。

絵画の制作にも、神との触れ合い、そこに喜びを見出すことを大切にした。

聖書に精通し、聖書をテーマにした様々な絵画やステンドグラスがある。

フランスのニースには有名な「聖書のメッセージ美術館」がある。

 

その一つに、シャガールの「アブラハムと3人の天使」という絵がある。

ある解説者は、「シャガールは、この3人の天使に羽を描いているが、それは主の復活を連想させるものである。」と言っている。

旧約聖書の“信仰の父と呼ばれたアブラハム”の物語が、単に旧約聖書、つまり律法の世界の物語で終わるのではなく、イエス・キリストの福音(復活)へと繋がる、神による救済史の物語としてシャガールは理解していた。

マルク・シャガール(人物、また絵画やステンドグラス等の作品)についてご存知のかたがあれば、どんなことでもご教示いただければ幸いである。

 

 

3 福音書の日課は、美しい物語である。

先ず、主イエスと弟子たちの一行はある村にお入りになった。それは

ベタニア村であり、マルタ、マリアそしてラザロの三兄弟の家庭がある。

四福音書は、主イエスと弟子達がベタニアをしばしば訪ねたと記している。

エルサレム近郊のオリーブ山添いにある美しい村である。

 

ラザロの蘇えらされた場所(ヨハネ⒒章)であり、主イエスのエルサレムへの最後の入城の日の夕べお泊りになった村(マタイ21章)であり、ライ病の

人シモンの家で、ある女が主イエスの足に高価な油を塗った村(マタイ26章)

であり、最後に主イエスの昇天の場所でもある。主イエスの愛された人々や家庭のある、主の愛された村である。

姉のマルタは接待のことで心せわしく働いていた。しかしマリアは主の足もとに座って、主イエスのみ言葉に心を傾けていた。

マルタは思い余って言った「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と。

私がその場にいたら、どうしたであろうか?多分マルタの手伝いであろう!

皆様は、どうでしょうか?あなただったら、どうしたでしょうか?

主イエスとその弟子たちの一行をもてなすことは重要な務めである。しかし

主イエス・キリストの教えは、180度異なるのである!

人間的な行動ではなく、御言葉を聴く黙想である!動ではなく静である!

聖書の語る判断基準も、そのことを繰り返し語っている!

例 マタイ4章4節 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と主は言われた。

またマタイ6章33節 「なによりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」

すべてに勝って神の言葉に聴くことが重要視されなければならない。

 

ヨハネ1章は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」

今日の福音書を理解するために、このヨハネの言葉は重視されねばならない。

 

 

4 ホスピスで、クリスチャンのご婦人、Sさん(86才)とお会いした:

出会った時にSさんは私に「前の病院で後3か月の命だと、言われました。でも私は“普通に生活したい”と思っています」と静かに語りました。

私が「普通とはどういうことですか?」と聞きますと、Sさんは「普通です。

朝起きて、普段着に着替えます。寝間着やパジャマでなくて普段着です。

そして身支度をして、病室ではなく、食堂でご飯をいただきます。

食事が終わると、いつものように聖書を読んでお祈りします。そして身体の調子が良ければ、やりたいことをやります。読書でも、散歩でも、何でも!

Sさんは、ホスピスのアートプログラムには殆ど、毎日淡々と参加しました。

押し花、絵や書、生け花、指網、皆で歌おう、折り紙等。

私が宿直の時はSさんの希望で夕食後、聖書の学びと祈りの会を続けました。

これがSさんにとっての“普通の生活”でした。最初、3か月の余命と宣告されたSさんは2年以上もホスピスで過ごしました。

亡くなった後から聞いたところでは、彼女は「愚痴や悩みを数人のNsから聞いていた」のです。神の言葉に聴く者は、隣人の言葉にも耳を傾けることができるのだ、ということを、Sさんから学びました。

 

<教会讃美歌240(聖書Ⅰコリント1:18=「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」

 

主なる神さまのお恵みが皆様の上に豊かにありますように。アーメン!

 

説教「無条件の愛こそ」田中良浩 牧師

(Ⅱ) 7月17日(日)聖霊降臨後第9主日(詩25編)

日課 申30:1~14、コロ1:1~14、ルカ10:25~37

1 今日の詩編の作者は表題に“ダビデ”とある。イスラエルの王である。

このダビデは、“苦悩のうちに”ある。

「身近に敵が迫っており(2節)」、「若い時の罪を思い起こしている(7節)」、

繰り返し、「自らの罪に言及している(⒒節)」。

そしてダビデは自らを「貧しく、孤独で、悩んでいる」と告白する(16~17)。

 

このような中で、ダビデは25編4節において、謙虚な祈りをささげる。

「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください」

それに対して、25編12節では、その答えが記されている。

「主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう」

 

<悩み、不安、罪、弱さにも関わらず、主は求める者に生きる道を示される>

 

 

2 旧約聖書の日課、申命記は大きく分けて3部から成り立っている。

第一は、ホレブ(シナイの山)での神の契約の言葉(1章~29章)

シナイ山は、神の民イスラエルの荒れ野での生活の新たな出発の地である。

そこで神は神の民として生きる掟、十戒を基本として律法を与えられた。

第二は、今日の日課から始まる部分で、モアブの地での神の契約の言葉。

モアブは40年に亘る流浪の生活の終わりの地。新しい生活への序章、心構え。

第三は、新しい指導者ヨシュアの選任である。(31章~34章)

 

さて、今日の申命記30章は第二の部分であり、その中心的なみ言葉は:

① 申命記30:6「心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を

得させるようにしてくださる。」=十戒、律法の中心的思想。

② さらに、(30:11~14)

「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」=信仰生活つまり神の民の生きる指針、倫理である。

 

◎私たちは神の言葉を、生活の中で、身近に、意識し、実践していくものとして、認識し、また自覚しなければならない!(今日の福音書に関連する)

3 今日の福音書は有名な「善きサマリア人」の物語である。

ここで律法の専門家(律法学者)が登場する。そして主を試そうとして

質問した。「先生何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と。

「永遠の命」という言葉は旧約聖書にはただ2回だけ用いられている。

一つは、モーセの歌(申命記32:40)=ここでは信仰の父と呼ばれた、アブラハムが「永遠の神」(創世記21:33)と呼んだ神によって恵みと祝福、そして救いに与ることを意味している。

二つは、ダニエルの預言(12:2)である。ダニエルはここで永遠の命を復活と関連付けている、これは象徴的であり、重要な預言的言葉である。

 

これに対して主イエスは尋ねた、「律法には何と書いてあるか?」と。

律法学者は、答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」(これは律法の神髄である。(申命記6:5=神の民はこのシェマの祈りを、一日二回唱えることを習慣とした。レビ19;18)。

そしてイエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と。

 

続いて、この律法学者はなおも自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とは誰ですか?」と、主イエスに問い返した。

それに対して主イエスは「善きサマリア人の物語」を語られたのである。

◎ある旅人が強盗に襲われ、身ぐるみはがされ、半死半生の状態になった。

ここに同じ旅をしている三人の旅人が登場する。最初にある祭司が来た。神と人との仲介者、祭儀を司る聖職者であるが、「道の向こう側を通って」行ってしまったのである。次に来たのが、レビ人である。祭司であり、神殿の奉仕者、教育者であった。彼も同じように「道の向こう側を通って」行った。

神への愛を説き、教える祭司やレビ人には、隣人への愛はなかったのである!

マザーテレサは「愛の反対語は、憎しみではない。無関心である。」という。

まさに、演出された、悲劇的な、隣人愛の無関心さである。

 

それと反対に、隣人愛を実践したのは、旅人にとってはサマリア人であった。

サマリア人は、ヨハネによれば「ユダヤ人とは交際しない」国の人であった。

主イエスがサマリアの町で、ヤコブの井戸のほとりに座り、「水を飲ませてください」と頼んだ時に、サマリアの女は「ユダヤ人のあなたが、どうしてサマリアの女のわたしに水を飲ませてくださいと頼むのですか」と言った。

さらに、ルカ9章51節以下によると、イエスを歓迎しなかったサマリアの村を、中心的な弟子のヤコブとヨハネが「主よ、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」とさえ、厳しい言葉を放っているのである!

 

ここに第三の旅人が登場する。

聖書の歴史では、宗教的にも、心情的にも関係性の悪いサマリア人であった。

この第三の旅人、サマリア人は、同じユダヤつまり神の民の指導者達とは、

全く違っていた!傷つき、半死半生の状態になっていた旅人の「そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』と言った。主イエス・キリストは、実に簡潔に物語を語られた。

 

 主イエスは山上の説教において、「敵を愛しなさい」(マタイ5章)とお教えになった。実にこの主のご命令は、民族、文化、国境を超える命題である。

実に現代世界では宗教をさえ超える、重要な命題である。

「善きサマリア人の物語」もそれと同様、「無条件の愛」を教えている。

他にない!

 

今日詩編の示す、今日の主日の主題に戻ろう。

「主に従う者に、現代社会、各自の生活に生きる道を示される!」

福音書の示す道は、「神と隣人に対する無条件の愛に生きること」である!

(ルカ10:27、)(マタイ22:34以下、マルコ12:28以下も同じ・参照)

 

◎<PHでのAさんの場合>

Aさんは、入院して来た日からベッドで顔に覆いをかけたまま寝ていた。

Nsさえも、初めはその顔をなかなか見ることは出来なかった。

理由は、彼女の患っていた乳がんのためである。祖母も、母も乳がんで亡くなった。そのために、「あなたには悪霊(厄)がついている」との理由で家族と夫から離婚を迫られた。彼女には中学生の娘さんと小学生の男の子がいた。

そのために離婚届に印鑑をおすことが出来なかった。

そのような状態の中で入院してきた。私は聖書を読んだ。癌の末期の痛みと、離婚問題の苦しみを抱えながら・・・。Aさんは最後には、チャプレンで

ある私に、その夫と家族への赦しと子供たちへの祝福の祈りを求めた。

説教「キリスト者の自由」鈴木 浩 牧師(ルター研究所 所長)、ガラテヤ5章2節から26節

わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが皆さんの上に豊かにありますように、アーメン。

 本日は使徒書の日課から御言葉を聞いていきたいと思います。ガラテヤ書5章2節以下の箇所であります。ガラテヤ書は使徒パウロがガラテヤの諸教会に宛てて書いた手紙ですが、執筆されたのは、第三回伝道旅行でガラテヤ地方を訪問した後、エフェソに滞在中か、マケドニア地方に赴いたときに書かれたと考えられています。ですから、紀元54年か55年頃ということになります。

 文頭に書かれた短い挨拶の後に、パウロは、いきなり「キリストの恵みへ招いて下さった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」と書き出しています。更に、3章の冒頭では「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか」と苛立ちを隠していません。ガラテヤの諸教会が真の福音から、偽りの福音へと逸脱しようとしていたので、パウロの危機感は大きかったのです。パウロはこの手紙の中で、使徒たちの柱、ペトロとも、異邦人と一緒の食事をめぐって論争になり、ペトロを公然と非難していたことも記していました。

 本日の箇所は、そのガラテヤ書の締め括りともいうべき部分にあたります。

 パウロの直前の箇所で、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にして下さったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」と語っていました。パウロがここで「自由」と言っているとき、それはほとんど「救い」と同義語になっています。言い換えれば、パウロはキリストの救いに与ることを「自由への解放」として言い表しているのです。新共同訳聖書もきょうの箇所に「キリスト者の自由」という小見出しを掲げています。

 今日の箇所は、「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」と始まっています。「割礼を受ける」というのは、「ユダヤ人になる」という意味を持っています。教会の中に、キリストの救いに与るためには、ユダヤ人になる必要があるといって、割礼を強要していた人びとがいたのです。ユダヤ主義者と呼ばれた人々です。パウロにとっては、キリストに会っては「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つ」だったのです。

 ガラテヤの諸教会は、ユダヤ主義者たちの影響を受けて、割礼を受けようとしていたのです。救いに与るためには、割礼を受ける必要があると思い始めていたのです。そのことを知ってパウロは、重大な危機感を感じたのです。パウロの使徒としての資格をあれこれ問題にする人も出たでしょう。パウロが教会を迫害していたという前歴があったからです。

 パウロ自身、次のように書いています。「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」。このようにパウロは、教会を迫害したという前歴を持っていたのです。そこをつかれると、スネに傷のあるパウロは苦しい立場に追い込まれることになります。実際、パウロは論敵からそのように非難されること、一度や二度ではなかったのです。

 しかし、パウロには確信がありました。そのような前歴にもかかわらず、自分が神の召しを受けているという確信です。それどころか、母親の胎内にいるときから、使徒として召されていたという思いさえもありました。ですから、次のように続けたのです。「しかし、(神は)わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった。この事実と確信とが、使徒としてのパウロを支え続けていたのです。

 「わたしを母の胎内にあるときから選び分け」という言葉遣いは、明らかにエレミヤの証明を意識しています。エレミヤ書の1章4節以下ですが、「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた』」。パウロはエレミヤに対する神の言葉をほぼそのまま引用して、自分をエレミヤと重ね合わせているのです。エレミヤは預言者として立てられたがゆえに、苦しい立場に追い込まれ、投獄もされ、命に危険にも晒されました。パウロも同じでした。パウロはそのたびに、エレミヤのことを思い起こし、自分の支えともしていたのだと思います。

 さて、「キリスト者の自由」という言葉を聞くと、すぐに思い起こすのが、マルティン・ルターの『キリスト者の自由』という著作です。『キリスト者の自由』は、数多くあるルターの著作の中でも、日本で一番よく読まれた著作であることは間違いありません。早くから「岩波文庫」の一冊として出版され、何度も版を重ねてきたからです。それに、値段が安く、ポケットにも入るのがいいところです。実際、このルターの著作は、本日の箇所でパウロが語っていることの解説だと言うことができます。

 冒頭には、次のように掲げられています。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服さない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する」。つまり、キリスト者は「すべてのものの上に立つ自由な主人であって、同時にすべてのものに仕える僕である」ということになります。

 このように、「だれにも服さない主人」と「だれにでも服す僕」という相互排他的な事態が同時に成立しているのがキリスト者である、というのがルターの主張です。相互排他的な事態を「同時に」という言葉で連結した命題は、「義人にして同時に罪人」とか、「神はイエス・キリストの十字架の苦難と死の中に、啓示されていると同時に隠されている」(ハイデルベルク討論)とか、「健康にして同時に病気」(ローマ書講義)といった命題にも共通しています。ルターのこうした主張を一般化すれば、「白にして同時に黒」ということになるでしょう。

 13世紀に頂点を迎えたスコラ神学は、アリストテレスの論理学を基礎構造にして成り立っていました。そこでは、「白とは明度の充満」のことであり、「黒とは明度の欠如」と定義されるでしょうし、「義人とは罪人ではない人」のことであり、「罪人とは義人ではない人」のことになります。ここでは、「白」と「黒」とは、徹底的に、そして最後まで、相互排他的です。スコラ神学の思考回路では、「義人にして同時に罪人」とか「啓示されていると同時に隠されている」といった主張は、明確に矛盾した命題であると判断されます。しかし、相互排他的な事態を「同時に」という連結詞で結び付けるルターの思考回路はどうなっているのでしょうか。

 例えば、水面のことを考えましょう。水面は水の中の世界とその外の世界との境界面です。しかし、境界面はあくまでも「面」ですから、厚みはありません。つまり、距離はないのです。ですから、水の中の世界とその外の世界との間の距離は、端的に「ゼロ」ということになります。他方、水の中に棲む魚は水の外の世界では生きることができないし、水の外に住む人間は水の中では生きることができないという意味では、二つの世界には無限の隔たりがあります。すると、次のような相互排他的な命題が得られることになります。「水の中の世界とその外の世界を隔てる距離は、ゼロであると同時に無限大である」。

 ここでは二つの視点が交差しています。距離がゼロというのは、「物理的視点」からの判断です。他方、距離が無限大というのは、「生息環境」という視点からの判断です。「水の中の世界とその外の世界との距離は、ゼロであると同時に無限大である」という命題では、物理的視点と生息環境的視点とが交差しています。

 ルターは、哲学の領域(理性的判断領域)と神学の領域(神学的判断領域)を峻別したオッカムの伝統を受け継いで、「神の前で」と「人々の前で」という二つの判断領域を峻別しました。一方は「神の判断では」ということであり、他方は「社会倫理的判断では」という意味になります。ルターの発言を理解する際には、この区別が決定的に重要です。ルターの神学的発言では、この二つの判断領域が常に交差しているからです。

 キリスト者は「義人にして同時に罪人」であるという発言にも、二つの視点の交差があります。一方は「神の前で」という視点であり、他方が「人々の前で」という視点です。「人々も前では」(社会倫理的判断)ではどんな立派の人も、「律法の基準に照らせば」(神の判断によれば)罪人です。ここでは律法が機能しています。

 「信仰によって義とされた人は、義人であると同時に罪人である」という命題は、逆方向にも機能します。信仰のある人は当然ながら律法を真剣に受け止めます。すると、その人は自分が罪人であることを強く自覚します。「律法が入り込んできたのは、罪(の認識)が増し加わるためでありました」(ローマ5.20)というパウロの言葉は、そうした事態を正確に捉えています。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」というパウロの言葉が指し示している事態が起こります。ここでは、「キリスト・イエスの贖いの業を通して(つまり、十字架によって)、神に恵みにより」罪人が義とされるのです。ここでは、福音が機能しています。

 このように、「キリスト・イエスの贖いの業を通して、神の恵みにより」義とされるという事態が、義認が成り立つ客観的根拠であり、「イエス・キリストを信じることにより」が、その義認が人間のものとされる主体的成立根拠になっています。

 「罪人であること」は、カール・バルトの言葉を使えば、「最後から一歩手前の神の言葉」、つまり律法による判決であり、「義人であること」は、「神の最後の言葉」、つまり福音による判決ということになります。言い換えれば、「罪人であること」は地方裁判所の判決ですが、「義人であること」は、最高裁判所の判決ということになります。

 だから、「罪人にして同時に義人」という命題では、「律法によって」という判断基準と「福音によって」という判断基準とが交差しているのです。

 律法に照らせば、自分が罪人であることは目に見える事実です。実際に罪人だからです。他方、義人であるという事実は、神の言葉(福音)が告知している事実ですが、罪人である自分には目に見えない事実です。しかし、パウロは「わたしたちは目に見えるものではなく、目に見えないものに目を注ぐ」と語ります。それが、信仰だからです。信仰とは、「わたしは義人である」という目に見えない事実を、「わたしは罪人である」という目に見える事実以上に確かな事実として承認するということです。

 さて、キリスト者は「自由な主人にして、同時にすべてのものに仕える僕である」という『キリスト者の自由』の相互排他的な命題では、どのような判定基準が機能しているのでしょう。『キリスト者の自由』では、前半が「自由」を、つまり「主人であること」の根拠を論じ、後半では「奉仕」あるいは「愛」が論じられています。

 「自由」という言葉は、中世のヨーロッパでは「教会の自由」という文脈で理解されることが多かったのです。つまり、常に教会の内情に干渉しようとする俗権からの自由のことです。修道院改革を目指したクリュニー修道院が、自らの財産を「ペトロとパウロに」寄託したのは、教区の司教や俗権からの支配や干渉を回避するためでした。しかし、ルターの場合には、ガラテヤ書の「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放してくださったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」(口語訳、5.1)というパウロの言葉遣いにならっていることは間違いありません。ガラテヤ書では、「自由」はほとんど「救い」の同義語になっています。

 ルターが「自由」というとき、それは「……からの自由」(悪魔と罪からの自由、律法からの自由)であると同時に、「……への自由」も意図されています。端的に言って『キリスト者の自由』の後半は、「奉仕への自由」が意図されているのです。

 僕は、主人の意志に従うことによって、主人の意図を達成していきます。それは、僕の義務であり、責任です。主人によってその強制力の度合いは様々でしょうが、僕はその義務と責任に強いられて、奉仕の業に励みます。他方、律法から自由にされたキリスト者は、一切の強制なしに自ら進んで隣人に仕えるために奉仕の業へと立ち上がっていきます。外から見た場合、両者の違いはすぐには目に見えません。同じことをやっているからです。しかし、「動機」は決定的に違っています。

 この場合、「奉仕への自由」は、「律法からの自由」があって初めて成立します。ですから、「律法からの自由」が、「奉仕への自由」の成立根拠ということになります。『キリスト者の自由』では、「自由」と「奉仕」とが並立していますが、「自由」と「奉仕」は等価ではなく、「自由」が「奉仕」の前提であり、必要条件なのです。ルターが本書を『キリスト者の自由と奉仕』としないで、『キリスト者の自由』としたのは、おそらくそれが理由だったと思われます。

 「律法からの自由」とは、「強制からの自由」のことです。パウロはときには割礼を容認したのに、ある場合には、今日の箇所にあるように、それに断固反対しました。その場合とは、それが強制されたときでした。

 パウロが、「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放してくださったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」と語っているように、ここでは「自由」は「救い」と事実上同義です。言い換えれば、「自由」は……そして具体的にいえば、「律法からの自由」は、キリスト者であることの根本規定である、ということになります。そして、その場合にのみ、「奉仕への自由」が可能になるのです。

 ですから、「すべてのものの上に立つ自由な主人であって、同時にすべてのものに仕える僕である」という命題は、一見対立しているように見えるし、矛盾しているようにも見えますが、そこには対立も矛盾もなく、「奉仕への自由」こそが、「キリスト者の自由」が持つ根本的特質なのです。なぜなら、「奉仕への自由」へと解放されていなければ、その人は未だに自由ではないからです。

説教「柔和ま人々は、幸いである。」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書5章5節

今回の聖書は5章5節です。「柔和な人々は、幸いである、その人たちは、地を受け継ぐ。」

今日で第3回目です。山上の説教で、心の貧しい人から次に悲しむ人になり、三番目に「柔和な人々」ということになりました。この三つは、いずれも関係の深いものでしょう。古い訳によりますと、4節と5節とが入れ替わっているものがある、とも言われています。この5節は2節の後に、その説明として欄外にあったものを、ある時3節の後に入れられたものであろう、とも言われ今は5節となっています。

この三つのうちでは「柔和」というのが最もわかり易い、と思うでしょう。一般の人から見て、キリスト者というと柔和な人として見られています。しかし、柔和というのはどういうことでしょうか。やさしい、ことでしょうか。おだやか、ということでしょうか。しかし、やさしい、とかおだやか、というものも、ただそういう気持ちだけでは、ここで言われていることとは違うのでは無いでしょうか。それは忍耐強いことである、と言った人もあります。つまり、柔和とう中には忍耐強いことがある、というのです。そうだろうと思います。信仰は望みでもありますから信仰のあるところには忍耐がある、と言えるのであります。

また、ある人は別の言い方で柔和と言うのは「権力が無いことである」と言いました、これなら少しわかります。権力が振り回され、おごり高ぶっているようなところに柔和といったものはありません。柔和と権力とはおおよそ違うものです。権力というと特別のもののように思われますが、それは権威を主張していることである、と言うことです。だれでも、自分の権威というものを持っています。自分の立場を守ろうとする意地でありましょう。柔和と言うのは、やさしい、と言う気持ちだけでなく自分の立場を主張せず謙虚であるとも言えます。そのことに続いて言えば柔和と言うのは自分は学ぶ必要がある、そして又赦される必要もある、と考えている人のことである。自分はもう何も学ぶ必要はない、と思っている、とすればそれは自分の権威を主張することである、そこから柔和になることは、とてもできるることではない。自分は赦される必要のある人間である、と言うことは大事なことであります。柔和であるためには、へりくだるる必要がある、と思います。へりくだる道は自分が赦されなければならない罪びとであることを知ることであります。そのことこそ主の赦しによって示され、又、与えられるものであるに違いありません。信仰者は自分が罪びとであることを知っています。信仰者にとって最も大切ことは赦されること、赦されている、ということであります。そうであれば柔和と言うことは、結局、自分の意思をどうするか、ということに関係してくる、ということです。自分を高く考えたり、忍耐ができなくて怒りっぽくなる、と言うことは柔和ではありません。

しかし、そういうものに打ち勝つにはどうした良いのでしょう。それは自分の権威を捨てること、自分の意地っ張りをなくし、自分の意思に勝つことであります。簡単に言えば自分に勝つことでありましょう。しかし、自分に勝つことは、どんなことより難しいことだろうと思います。自分に勝つのが難しいのは自分の意思に勝つことだからです。自分の意思をどうすりゃいいんだ、と考えるだけでは、それに勝つことはできません。そこで大事なことは、他の人の意思ががあることを知ることであります。ことに一番大事なのは、神の意思がある、と言うことを知ることです。神様が何を求められておられるか、を知ることであります。そうすると、そこに神様が何を求めておられるか、と言うだけでなく、神のお求めになっていることが、いかに大きく恵み深くあるか、と言うことを知るのであります。神の意思があることを知っただけでは自分の意思に勝つことにはなりません。神の意思が自分にとってどんなに恵み深くあるかを知ったときに、はじめて自分の意思に勝ち、柔和になることが出来るのであります。神の意思に従うにのですから、柔和はただ、やさしい、ことだけではありません。怒りをおさえ忍耐すると共に、怒るべき時は怒るのであります。主イエス様がそうでありました。〈たえず、天の父にたずね求め、怒り戦いの連続でした。〉信仰者にはこのような生活のもとが与えられているのであります。

さて、[柔和な人たちは、地を受け継ぐ、と言われました。]※詩篇37:11 
地を受け継ぐと言うのは、どういうことでしょう。ここですぐに思い出すのは、イスラエルの民が出エジプトをして、長い旅の末、約束の国カナンに入った話であります。地を継ぐ地とは、ただの地ではなくて、神の民に対して約束されていた地である、と言うことであります。地を継ぐというのは、何より新しい生活がはじまる、と言うことでありましょう。しかも、地を継ぐ、と言うのですから、それは全く新しい生活であります。大地から新しくなるのですから、今までとはあらゆる点において全く新しくなっている、と言うことであるに違いありません。柔和な者に対して約束されているのは、そういう新しい世界であります。信仰によって与えられる国は新しい国でありますが、それは何によって新しくなったのでありましょうか。約束によるのであります、約束によると言うのは神の約束によることであります。神は何のために新しい土地をご用意なさったのでありましょう。それはどの土地よりも神のみ旨を行いやすくするためでありましょう。柔和な者は自分の力によって柔和になったのではありません。自分の意思を捨てて神の意思に従ったからであります。この新しい土地においては、神のみ心が行われることが大事な目的でありました。

 イスラエルの民がエジプトから連れ出されたのは、神を礼拝するためでありました。考えてみれば、神を拝むためにあの40年にわたる大旅行が必要であってなされた、そのために約束の国が与えられたと言うことは大変なことなのであります。それが、この新しい土地において行われる筈であったのでした。イスラエルはその意味で神の民としての生活をすることを求められていたのであります。それなら今、信仰によって柔和にせられた者はそれと同じように神のご期待に応えるために新しい生活が与えられたのであります。それが柔和にせられた者の特別の権利であります。

また、そうして喜びなのであります。それが「幸いである」ことの内容であります。もう少し考えを深め、更に申しますと、地を受け継ぐと言う、継ぐ、は嗣業として受け継ぐことです。嗣業と言うのは、その土地の王となる、と言うこと。ある訳では「神は彼らに地の全てを持ち物として与えて下さるであろう。」としております。しかし、人間が全てのものを持つようになる、と言うことは考えられないことであります。何よりも、この地は神によって新しくつくられた地であり、神によって新しく生かされた世界であります。それは言うまでも無く、キリストによって新しくつくられた国のことであります。したがって、その中で、もし王となるとすれば、それはキリストと共に王となることになるのです。それならば、そこで王になることができるのは、何よりもキリストがその王でいらっしゃることを認めることにならねばなりません。それならば自分がつくったものである筈がありません。キリストがおつくりになった新しい生活を受け継いでそこで王のように自由に生きると言うことであります。だれでも王のように自由に生まれたらと思います。しかしそれは自分が我侭に振舞って生きることの出来る生活ではないこともすぐ分かることです。王のようになりたいと思いながら自分ほど王に相応しくないこともすぐに分かります。自分にはその力もありません、自分のようなものが王のように思うままの生活をしたらすぐに行き詰るのであります。そうかといって暴力によって、この地を自分のものにするのではありません。柔和によるのです。キリストの柔和によるのです。そうであれば自分が王となることが出来る道は主イエス・キリストを王としてあがめ、もし王となり得るなら主と共に王となるほかないのであります。つまり柔和と言うのは自分の願いを捨てて神の願いのままに生きることである。そのことはそのままここで生かされるのです。そのような生活を与えられた者がこの新しい世界ではそのまま生きることができると言うことであります。

テモテ第2の手紙2章11~12節にこう書いてあります。「もし、わたしたちが彼らと共に死んだなら、また彼らと共に生きるであろう。もし耐え忍ぶなら彼と共に支配者となるであろう」。我々がキリストと同じように耐え忍ぶことができるわけがありません。キリストによって耐え忍び柔和になることであります。それはキリストによって与えられた生活を生きると言うことであります。「柔和な人たちは幸いである、地を受け継ぐ」この言葉をまとめて別の言葉で次のように訳した人があります。「おお、祝福された人は正しいときに怒り、正しくない時には怒らない。全ての本能、衝動、欲情を制御し謙虚になるゆえに、自分の無知と、自分の弱さを良く知っている。このような人こそ人生の中にあって王になる者である。」と言うのであります。柔和と言うことが、いかに深く豊かなことであるかがわかります。〈アーメン・ハレルヤ〉

 次回は8月7日、5章6節「義に飢え渇く人」についてきいていきましょう。

説教「悲しむ人々は、幸いである。」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書5章4節

今日の聖書は山上の説教から、マタイ福音書5章4節です。まず「山上の説教」について話をしますと、5章の少し前の4章23節を見ますとイエス様はガリラヤ中を回って民衆のありとあらゆる病気や患いを癒された。こうして大勢の群集がイエス様のところへやって来たわけです。5章1~2節を見ますと「イエスはこの群集を見て山に登られた。腰をおろされると弟子たちが近くに寄って来た。そこでイエスは口を開き教えられた。」こうして3節以下の言葉を語っていかれた、と思っていつもですとこの順序で教えられた、すばらしい福音の真髄を明らかにされた言葉として読んでいました。ところが今回、私は新しい発見をしまして少し驚きました。山上の説教は5章から7章まであります。7章の最後には次のようにまとめ上げています。7章28節「イエスがこれらの言葉を語り終えられると群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威のある者としてお教えになったからである。」とマタイは山上の説教の言葉に権威ある力強いものがあることを強調しています。山上の説教にはいろいろなことが語られています。単純に「戒め」というようには言えないものです。内容に応じてたとえ話が多く語られていますし又主の祈りもあります。ですから山上の説教は恐らく主イエス様が一度にお話になったものではないでしょう。するといろいろ機会にお話になられたものを集めたものであると考えられています。私はそんなことなど考えもしませんでした。山の上で弟子たちに語られた大切な神の国へとつながる美しい教えである、というくらいに考えていました。いろいろな時に多くの深い内容を持って語っていかれた、しかもこれは信仰のある者たち、イエス様への全服の信頼を持っている者へのメッセージであるということです。今回の教会の者に告げられているイエス様からのみ言葉です。ある人はこれを「神の国の計画」という題をつけて本を書いたというほどのものです。

さて、今日の本題は「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」私たちが生きています現実のこの世は悲しみに満ちている、といってもよいほどの苦しみや不安であります。※先日のニュースでイギリスがEUから離脱するという、さあ世界中の経済が混乱して行くでしょう。信仰を持って生活している人々にとってもいろんな深い悲しみの中にあるものも事実であります。特に自分だけでなくでなく、主にある兄弟姉妹たちには互いに涙を流し重荷を背負いあって行くものあります。5章4節で言われていることは、ただの人間の悲しみではありません。それはすでに主イエス・キリストの恵みのうちに救いを受け幸いである、と言われている人の悲しみであります。幸いなことよ悲しんでいる人々、彼らは慰められるであろう、と言われる!この言葉は悲しんでいる人が慰められる時に用いられるものではないでしょうか。従って信仰を持っている人は、その悲しみが必ず慰められると言うことを信じて知っている、その慰めの時に用いられる言葉ですから喜んでいる筈なのではないでしょうか。そのことは、今の深い悲しみの中にあっても、それを乗り越えた勝利の中にある喜びである筈であります。それなら信仰者の悲しみ、と言うのはどういうものでしょうか、信仰を持って生きるというのは正しい生活をすることであります。罪深いこの世にあっては信仰生活をすることは決して喜びだけではありません。信仰者はこの世の罪と闘い、罪を憂え悲しむ生活になるに違いありません。信仰者は自分が罪びとであることを知っていますから、世をいたずらに裁くことが出来ないのです。この世の罪はむしろ自分の重荷として担わなければならない筈です。そしてキリストに従う者の悲しみ、というべきものがあるにちがいがありません。九つの「幸い」といわれる説教はキリストの救いによって幸いにせられた者を考えているのであります。この九つの信仰生活は、みな別ではなくお互いに関係がある筈であります。信仰者にしかない悲しみというものがどんなものかを知らねばならないでしょう。信仰者は信仰を持っているゆえに何を悲しむのでありましょうか。ルターの95ヶ条の項目の第1条には「信仰者の生涯は、絶え間ない悔いと回心の連続であるべきである。」とあります。私たち信仰者の悲しみの中心は罪に対する悲しみであります。今はすでに罪許された者でありますが、それだけに罪の重さと怖ろしさを知っているのであります。罪は罪に苦しむ時それを悲しみますが、罪の赦しを得た時にはこの罪がどんなに高くついたものであったがわかります。すなわち御子の死を必要としたことがわかります。従ってそれから後にも罪を赦されていることを知りながら罪の力と、その無情さとを考えずにはおられないのであります。もっと突き詰めて行きますと死に対する悲しみであります。どうしようもない罪を持っている自分で、どう対処しようと言うのでしょうか。生きている時も死の時をも通して慰めと言えるもの、すなわちただ一つの慰めとなってくださる方、それは言うまでも無く神であります。神こそ悲しんでいる者を慰める方なのであります、主役はいつも神なのであります。神はどうしてくださるのでしょうか。「神は彼らの重荷を取り去ってくださるであろう」とも言われます。重荷がどう除かれるのでしょう、重荷と言っても罪の重荷です、それを取り除くというのはどうすることでしょう。私たちはいつもこの言葉を使っているので怪しみませんがその重荷を除かれたらどうなるのか、と言うことまであまり深く考えてはいないのではないでしょうか。重荷と言ってもそれは心に掛かるおもにでしょう、つまり罪の責任であります、神に対する罪の責任であります。だから、もしその重荷が除かれると言うのであればそれは神からその責任を取り除いていただく他にないでしょう。つまり神によって罪の責任を取り除いて赦していただく他にない筈であります。それはどのようにして出来るのでしょうか、それはこの「慰める」という字が手がかりになるのです。慰め、と言う字は自分の傍らに呼ぶと言う字であります。自分の傍らに弁護してくれるように、なると言うことです。神はそういう意味で私たちの味方になってくださるのであります。重荷が除かれる、と言うのは私たちが罪を犯して背いていたにもかかわらず、神が私たちの味方になってくださった、と言うことなのです。「慰められる」のはいつからそうなるのであろうと言うのでなく、今すでに慰められている、と言うことをあらわしているのであります。ハレルヤ・アーメン

説教「新たな命の約束が与えられる」田中良浩 牧師

(Ⅰ) 聖霊降臨後第5主日(詩30編)

聖書日課 王上17:17~24、ガラ1:11~24、ルカ7:11~17

 

1 今日の主題は「主はいのちを得させてくださる」である。

今日の詩編30編3節以降にこのように記されている。

「わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを、あなたは癒してくださいました。

  主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせわたしに命を得させてくださいました。主の慈しみに生きる人々よ、主に賛美の歌をうたい、聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。」

=ここに今日の主日のメッセージの主題が歌われる。

 

2 旧約聖書の日課は、預言者エリヤが、ガリラヤの北方、地中海沿岸の町、サレプタに滞在していた時、やもめの一人息子が死んだが、神はエリヤの

祈りに応えて、その息子に新たないのちをお与えになった物語である。

これはサレプタの貧しいやもめにとって希望をつなぐ出来事であり、さらに、今日の福音書の物語(出来事)の〝前触れ(予表)“となる出来事であった。

 

3 今日の福音書の物語

旧約のシドンのサレプタの町と、ナインの町に起こった出来事からいくつかのことを対比しながら学びたい。

 

① 両方の物語の主人公は、夫を失った『やもめ』(寡婦)である。

やもめはいつの時代にも弱者である。とくに聖書の時代ではなおさらであった。

やもめは、惨めな境遇にいる者で、寄留者、孤児と共に、社会的に保護の対象であった。(レビ記19:9~10、申命記24:19~22)

「ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。」と律法で、繰り返し命じられている。

新約時代も、教会は同じ態度を継承している。(ヤコブ1:27)

「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、・・・」と記される。

 

これらのやもめは、いずれも一人息子を失ったのである。さらなる悲劇である。

② 福音書の物語では、主イエスはナインの町に行かれたのである。

ナインとは、原語ではミドラッシュ(愛らしい、楽しい)との意味である。

そして人々をめぐる町の情景が、『二つの群れ』として生き生きと描かれる。

一つの群れは、イエスと弟子たち、そしてそれに従う大勢の群衆である。

これは言うまでもなく、喜びの福音を告げ知らせる神の国の群れである。

他の群れは、やもめと一人息子が死んだので、棺を担ぎさす群れである。

これは葬列の群れである。

神の国の群れは、町に入るところ、葬列の群れは町から出るところであった。

神の国は喜びと希望、永遠のいのちを告げ知らせる群れであり、他方

葬列は死と悲しみつつ死者を葬る群れである。この二つの群れが出会った!

 

③ そして主イエスはこの母親を見て、憐れに思い、

「もう、泣かなくてもよい!」と言われたのである。なんと力強い言葉!

これがまさに福音=喜びの告知である。

それは、「死という現実に嘆くき、悲しむ者への勝利の宣言である」

 

④ 主イエスの「若者よ、あなたに言う。起きなさい!」の言葉によって

やもめの一人息子は、再び、いのちを与えられたのである。

 

⑤ ここで今日の詩編30編の言葉は成就、実現したのである。

ここで、私たちは確認しておく必要がある。このやもめの一人息子は

死んでいたのに。主イエスによって再び命が与えられ、母親に返された。

しかし、その息子もやがて死をむかえることになるのである。

しかしながら、今日の喜びの奇跡は、一時のいのちのためではない!

それは永遠のいのちの約束であり、来るべき日の復活を意味している。

それゆえ「新たな命の約束が与えられる」出来事だったのである。

 

4 今日の主題は他人ごとではなく、自分の身の上にも起こった。

高校生の時、小学1年生の弟が死んだ。大きな悲しみであった。

しかし、主イエスの十字架の復活の出来事によって、希望を与えられた。

次のみ言葉がいつも私の心に響いている。

「わたしたちはいつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。

アーメン!

説教「山上の説教、連続解説説教 第1回」木村長政 名誉牧師、マタイ福音書 5章1~3節

今回の礼拝から「山上の説教」の連続説教をいたします。山上の説教は皆様もよくご存知と思います。有名な聖書の箇所で、主イエス様が山の上で語られた説教と言われます。

(※眼下にはガリラヤの湖が広がっている、素晴らしい眺めです。)

マタイ5章1~2節で記しています、「イエスは、この群集を見て山に登られた。腰を下ろされると弟子たちが近くに寄って来た。そこでイエスは口を開き教えられた。」教えられたとあるように多くの場合、山上の説教には美しい道徳だと思われている、多くの人々が愛しています。実際には山上の説教には5章から7章まであって、そこにはいろいろなことが語られています。簡単には道徳だとは言い切れないものであります。山上の説教を少しでも真剣に自分のこととして取り組んで受け止めようと考えたら、これは美しい道徳の話ではすまない、そんなこと言われても、とても自分には出来ないと思う。そして更に踏み込んで静かに考えてみれば、自分には出来なくとも良い、出来なければ、出来ないだけ、ただ理想としてでもあれば良い、と思うのであります。これが示されている以上は、たとえ絶望的であっても、出来るだけのことは、やってみよう、と思うのであります。そこに人間としてのあるべき生活が開けてくるのではないかと考えるのです。そうして悪戦苦闘して実行してみよう。この山上の説教の内味を題材にした小説や、芸術、音楽などの世界で用いられています。トルストイやシェークスピァの小説などで有名であります。人間の憎しみと赦し、愛の問題の苦闘です。5章44節などには直接に「敵を愛せよ」。とあります。「敵を愛せよ」など出来るものではない。それにも関わらず、この言葉がある、というだけで、どんなに人間に影響を与え慰めとなってきたことが知れないのであります。それは山上の説教の一つの読み方であります。しかし主イエス様は、はたしてそのように望まれたのでしょうか、少しでもイエス様の思いの真相に深く入り込んで見て行きたいと思っています。山上の説教は誰のためになされたのでしょうか。このことは説教全体の背景となる重要なことであります。それによって、その受け取りかたも変ってくるでしょう。5章1~2節では主が山の上で座られると弟子たちが御許に集まってきました。とあります。ルカも6章20~49節の方を見ますと平地であったかもしれません。何れにしても、多くの群集もいたのでしょう。恐らく弟子たちに対して語られたであろうと思われます。更にまたマタイ5章13・14節を見ますと「あなた方は地の塩である。」「世の光である。」とあります。そうしてみると山上の説教は信仰を持っている人のために語られた、と言わねばなりません。信仰を持っていると言うことは、キリストの救いによって罪を赦されている、と言うことになります。次に大事な点は山上の説教はキリスト教の中心であり、真髄を語ったものであると言われます。たしかに信仰の中心的なことは語っていますが教科書のように書いているわけではないのです。それなら何でしょう。それは福音を語っているのです。例えばマタイ4章23節を見ますと、そこに主イエス様が「御国の福音を宣べ伝えた」と書いてあります。このことは大事なことであります。ここで語られていることは「福音」であって、それを主に従うものたちにお話になったのであります。多くの戒めが記されているように見えますがそれは「喜びを告げるメシアの説教」である、と言わねばならないものです。それなら、これを読む私たちもここに福音を読み取ろうとするものでなければならない。ある意味では常識的な考えを捨てて全く新しい思いで読まねばならないものであります。

山上の説教のはじめには九つの教えがあります。それは「さいわいである」と言う言葉がついているのです。文語訳では、はじめに「幸福なるかな」となっています。この方がもとの言い方に近いし意味の上からもそう言えるものです。さて、3節を見ますとそこには「心の貧しい人は、さいわいである、天国はかれらのものである」とあります。ほんとうは、いきなり「さいわいなるかな」、「幸福であるよ」と言っているのです。もちろん、心の貧しさは「さいわい」である、と言うのでしょうが、まず何よりも先に、さいわいである、あなた方はさいわいである。と叫ぶように語り掛けているのです。英国のある聖書学者が同じように読んでいます。その人はこう言うのです。これは最も重要なことです。なぜなら至福の説教は来るべきことに対する信仰深い望みではありません。また未来の祝福に対する漠然とした預言ではないのです。それは今あるものに対する祝いなのです。今の祝福なのです。「おお、キリスト者であることの祝福よ。おお、キリストに従う喜びよ。おお、イエス・キリストを救い主、主と知ることのなんと言う喜びよ」と、ここには書いてあるのだ。こういうことをしたら幸いになる、と言うのではなく、すでに今さいわいになっているのです。話はそこから始まるのであります。3節には「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」と言うことですが、ある人がこう言いました。「さいわいであると言うのは、天から鐘の音が何度も何度も歌われ、鳴り響いている。この世に鳴り響き渡って、すべての人に御國に入るように招いているのである」私たちは現実の祝福されていない、この世でそんな風には普通考えない。すでに招かれているので、それに答えて行きさえすれば祝福されるのです。その準備はすでに整えられているのです。だからこそ、その恵みを告げる鐘が鳴っているのです。救いは成就した、ただそれを受けなさいと言うことです。ところが、それなのに私たちは、神の恵みの御業が本当にはよく分かっていないので、いつでも自分が何とかしなければ祝福は無いはずだと思い込んでいるのです。それは、この「さいわい」を作ってくださった神さまからの恵みをというものを忘れているのです、全く気づいていないのです。イエス・キリストが十字架にかかり、死んで甦って下さったことが、何を与えたか、と言うことが分かっていないのです。それを受けても、やはり、また何かを自分の力でしないと、さいわいになれないと思うのであります。ここに、すべてのことはもう出来上がっているので、これを元として幸いな生活が始まることを忘れているのです。すでに、「さいわい」になっていることを見落としているのです。「幸い」という字は、そのまま祝福という字ではありませんが、しかし信仰生活においては「さいわい」と言うのは祝福されていることです。「神が祝福する」と言うことであります。そのために人間が何もしなくても良いのです。どんな状態にあろうとも神が救いを与えてくださる、と言うことであります。そうすると「さいわい」と言うのは、これから造りだすものではなくて、すでに与えられているものであります。そういう人々に対して、これらの言葉が語られているわけであります。

さて、「心の貧しい人たちは、さいわいである」と言うことですが、これは心を貧しくしなさい、と言う戒めではないことはわかります。むしろ、あなた方は救われているから心貧しき者たちであるのですよ、と言うことです。ルカ福音書の方では6章20節に「あなた方貧しい人たちはさいわいである」とあります。これが、もし戒めであるとすれば、貧しい人になりなさい。と言うことになります。これは正しくないことは誰にもわかることであります。それだけでなく、ここには「あなた方、貧しい人」と書いてあって、あなた方はすでに貧しいのだ!と言っているのです。そうであるとすれば「あなた方は心の貧しい者である」と言われることを正直に聞かねばなりません。キリストに救われた者がどうして心の貧しい者であるか、と言うことであります。それは救われた時のことを考えてみれば分かります。私たちは何のいさおもないのに救われるといわれます。それは何の良いところもないのに救われると言うことであります。ただ、神の恵みによって救われるのです。これならば救われた人は自分を頼みとしないで、ただ神を頼みとしている筈なのであります。だから、心の貧しい者….と言うのは神に頼む者であります。手に何も持たずに神の前に立つことであると、ある人は言いました。自分の方にこれがあると言って、手に持っているものを見せようとすることではない、と言うことなのです。心と言うのはほかのところでは「霊」と訳されている字でもあります。聖霊の「霊」ですね、霊というのは心の最も深いところ、ということでありましょう。そうすると霊において考えて行くと貧しい者というのは全く貧しいということになることであります。自分には自分を救う力がない、神の御力によって、生きているだけであると言うことであります。そのことをはっきり知って、そのことによって生きている者ということであります。これこそ、まさに自分の貧しさを知っている、心の芯まで本当に自分の中に何にも無い貧しき自分を知っている、と言うことであります。「心の貧しい者」と言うのは美しい言葉であります。誰でもそうなりたい、と思うに違いありません。しかしそれは謙遜になろうとしたり、自分の弱点を数え挙げてできることではありません。神の前において自分を見ることが出来なければ、出来ることではあります、霊において心のままに自分を見ることでしょう。しかし神の前で反省しても、懺悔しても心が貧しくなれるものではありません。それは救われなければ出来ないことです。文字通り救われるのには自分に何も無いことを言い表さなければならない。それは神によって救われ、神の恵みによってだけ生きられる、と言うことが分からなければあり得ないことであります。救われた者はそのようになっている筈であります。心の貧しい者と言うのは、そういう意味から言えば、救われている者の姿の一つであると言えるのであります。

しかし、この世において信仰によるこのような生活は簡単なことではありません。貧しいと言うことは、ただ貧しいだけで終わるわけではありません。貧しいゆえに、いろいろな圧力がかけられてくるでしょう、この生活の只中で物質の面でも精神の面でも,辛くなることもあります。人々から侮辱を受け、踏みつけられるような辛いこと、痛いこと、言葉に言えない迫害を受けることもある。貧しいゆえに心を空っぽにするゆえに、おのれを空しくすることは、いろいろなことにぶつかって、人々が大事なことと痛感することであります。生易しいことではありません。なぜなら、それは自分を赦すことになるからであります、しかしそのことは神の御国においては「幸いな、よろこびの世界」となるのであります。それには、ただ一つの道があります。それは自分の罪を知ること、その罪を赦されることであります。それが与えられれば私たちもまたその祝福にあずかることが出来るのであります。心を貧しくすることについてルターは興味深いことを言っています。祝福の説教を十戒になぞらえて「心の貧しい人を十戒の第一の戒めである、神のほかに何ものをも神としてはならない」このことからルターは「心の貧しい人」と言うのはいかなる偶像をも拝まず、ただ神のみを拝む者のことである。というものであります。ルターの言葉をそのままに言えば、それは偶像を拝まないとというだけでなくて、「心の中に地上のいかなる物、いかなる被造物にも執着することなく素直な自由な心で、ただ神にのみ尽くすことであります。」そうしてみると貧しいと言うのは自分に誇るべきものは何も無い、ただ神のみを仰ぐと言う信仰のことであり、それがキリストの救いによって与えられると言うことになるわけであります。実際には神によってでなければ生きることが出来ないという事なのであります。それがまことの貧しさであると言うことになります。それに続いて「天国は彼らのものである」とあります。ここには「なぜならば」という字がはっきりと記されています。このことは大変大事なことであります。普通には心の貧しい者はさいわいである。彼らには神の国が与えられるであろう、と言うように考えるでしょう。特別に考えることなく何となくそう思っているのであります。しかしここにはそう書いていないのです。まず何となればという理由があります。その上で天国は彼らのものである。となっていて彼らのものになるであろうとは書いていないのであります。心の貧しい者はさいわいなのです。それは天国が彼らのものだからなのであります。これから天国が彼らに与えられるからとは書いていないのです。<このことは間違いやすいことであります。>神の国といってもそういう国があるわけではなくて神が支配されるところと言うことであります。そうすると、ここの意味は次のように言える。神に救われて、ただ神によってのみ生きている人々は幸いなのである、なぜならもうすでに神は彼らの間にいきておらるからである。イザヤ書57章15節にこう書いてあります。”わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けてへりくだる者と共に住み、へりくだける者の霊をいかし、砕けたる者の心を生かす。”神はすでに私たちを省みていてくださるのです。私たちはその神が何かためらっておられるように思うのであります。しかし神がわたしの救い主であり、わたしを支配しておられることは明らかなのであります。それゆえに幸いである、と言えるのです。

ハレルヤ・アーメン  3節は以上。

 

説教「嵐が来ても大丈夫な家の中に」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書6章37-49節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

  本日の福音書の箇所の終わりのところで、イエス様は、二人の人を比較します。一人は、家を建てる時、最初に地面を掘って岩盤にあたったところで土台を置いてその上に柱を立てる建て方をする人。もう一人は、地面を掘ることをせず、土台も置かず、直接地面の上に柱を立てる建て方をする人。その後で何が起きたかと言うと、嵐になり川が氾濫して洪水が起きる。地中の岩盤の上に土台を置いMMBOX PRODUCTION www.christiancliparts.netた家は揺るがずしっかり立ち続けたが、ただ地面の上に土台もなく柱を立ててしまった家は倒れて流されてしまった。

作り方からみれば、なるべくしてなったとしか言いようがないのですが、ここで大事なのは、この二人の人は何かに例えられているということです。地面を掘って岩盤の上に土台を置いて建てた人、これはイエス様の教えを聞いてそれを実行する人です。地面に直接柱を立てて建てた人、これはイエス様の教えを聞くが実行しない人です。このたとえは何を意味しているのでしょうか?

まず、イエス様の教えを聞いてもそれを実行しない人についてみてみます。この人は、この世の人生でそこそこの「嵐」に何度か出会ったかもしれないが、その人の「家」は何事もなくみかけは立派に立ち続けた。ところが人生で最大かつ最後の「嵐」である死が来た時、その人はそれを乗り越える力はなく、無残にも倒れて流されてしまう家のようにその人の全ては終わりを告げ、全てが失われてしまう。翻って、イエス様の教えを聞いてそれを実行する人は、この世の人生でいろんな「嵐」に出会って打ちのめされたかもしれないが、その人の「家」の土台や柱はしっかり建てられたままであった。そしてこの世の人生で最大で最後の「嵐」、死が来たとき、揺るぎもしなかった家のように、その人はそれを乗り越える力が与えられていて、終わりを告げるのはむしろ「嵐」と死の方で、その人は永遠の命を持って生き始める。

そうなると、ここで問題になって来るのは、イエス様の教えを聞いて、それを実行するというのはどういうことか、ということです。イエス様の教えを聞くだけでは足りない。それを実行しなければならない。そうしないと、土台を置かず地面に直接柱を立ててしまった人と同じように家ともども悲惨な運命を辿ってしまう。つまり永遠の命を持てず死を超えられない。ご存じのように、ルター派では、イエス様を救い主と信じる信仰によって神から「お前は私の目に適う者だ」みなされる、「よし」とみなされる、ということが強調されます。神に「よし」とみなされるというのは、罪を内に持ってはいるが、信仰によって罪を赦されて神の裁きを免れる。神の裁きを免れるというのは、永遠の命を得られるということです。信仰によって神から「よし」と認められる、「義」と認められるということで「信仰義認」と呼ばれます。人間は、律法に命じられた掟を守ることで神に「よし」と認められるのでなく、また善い行いを積み重ねて神に「よし」と認められるのでない。イエス様を救い主と信じる信仰によって「よし」と認められるというのです。そうすると、本日の箇所で、自分の教えを実行することが大事だと言うイエス様は、信仰義認ではなく、律法主義や善行義認を意味しているのでしょうか?この問題を考えてみましょう。

 

2.

 確かに、イエス様の教えには、「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たちに命令するものが多くあります。こういうイエス様の命令は本当はどんなものかについてルターが解き明かしているところがあるので、それを見てみようと思います。それは、本日の福音書の箇所のはじめで、イエス様が「あなたがたは、自分の量る秤で量りかえされる」(6章38節)と教えているところです。キリスト信仰者は、他人を見下したり侮ったりすれば、自分も神から見下されたり侮られたりするということです。他人に情け容赦なく振る舞えば、神もその人に対して情け容赦なく振る舞うということです。ルターは、この箇所について、次のように教えます。

『これは、まことに奇妙な教えだ。神は、隣人に仕えることの方が神に仕えるよりも大事だと教えているようにみえるからだ。神は、御自分にかかわることでは我々の罪を全て赦し、我々の背きに復讐しないと言われる。ところが、隣人にかかわることとなると、そうではないのだ。もし我々が隣人に対して悪く振る舞えば、神はもう我々と平和な関係にはない、以前与えた赦しも全て無効にすると言われるのだ。

 実を言うと、この「量る、量りかえされる」というのが起こるのは、我々が信仰に入った後のことで、入る前のことではない。君は、信仰に入った時のことを覚えているだろうか?神は、業績や能力にもとづいて君を受け入れたのではなかった。一方的なお恵みによって君を受け入れてくれたのだ。そして今神は、信仰に入った君に次のように言われる。「私がお前にしてやったように、お前も他の人にせよ。さもないと、お前が他の人たちにしたのと同じことがお前にも起こる。お前は彼らを顧みて上げなかった。それゆえ私もお前を顧みない。お前は他の人たちを断罪したり見捨てたりした。それゆえ私もお前を断罪し見捨てる。お前は彼らから取り上げるだけで、何も与えなかった。それゆえ私もお前から取り上げ、何も与えないことにする」と。

信仰に入った後の「量ること、量りかえされる」というのは、このようにして起こる。神は、信仰者の我々が隣人に向ける行いにこれほどまでに大きな意味を与える。それで、もし我々が隣人に善いことをしようとしなければ、神も我々にお与えになった善いことを取り消されるのである。その時、我々は、自分に信仰がないことを表明し、誤ったキリスト教徒であることを示すのである。』

厳しい教えです。しかし、ルターが言わんとしていることは、次のことです。私たちは神から計り知れない恵みをいただいているのだから、そのことがわかっているならば、そのような計り知れないことをして下さった神を心から愛して仕え、その方の言われることには従うのが当然という心になる。そして、そのいただいたものの計り知れなさを思いやれば、隣人に対して出し惜しみするとか恨みを持ち続けることは実に取るに足らないものになる、ということです。つまり、キリスト信仰者にとって、イエス様の命令に聞き従うというのは、神に救われた結果として自然に生ってくる果実のようなものなのです。神から救いを勝ち取るための努力や修行ではないのです。

そうすると、イエス様を救い主と信じる信仰に入ることで救われて、そんなに自然にイエス様の命令が実行できるようになるのか、と訝しがる向きもでてくるかもしれません。実はそんな時こそ、自分が救われたことがどんなに大きなことであるか、立ち止まって振り返る必要があります。

 

3.

  人間の救いとは何か、何が救われていない状態で、そこからどのようにして救われた状態に入れるのか、それを明確に教えているのが聖書です。救いということがわかるためには、まず人間には造り主がいるということを認めなければなりません。造り主を認めず、人間なんてただ単に、いろんな化学物質の偶然の合成からできて勝手に進化して今ある姿かたちになったんだ、という見方をとれば、救いということはでてきません。そもそも必要もありません。なぜなら、死ねば、化学物質のように分解して姿かたちは消え去るだけだからです。救いとは、この世を去る時、最後の一線を越えた瞬間、自分の造り主が約束通りがっしりと自分を受け取ってくれるということです。このように聖書は、人間とは創造主の神に造られたものであり、神から命と人生を与えられたという立場に立っています。そして、その造り主である神と造られた人間がどんな関係にあるか、そこにどんな問題があって、それはどう解決されるのか、そういうことを明らかにしている書物です。救いとは、つまるところ、造り主の神と造られた人間の間の関係にかかわることなのです。

創世記の初めに記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神の意思に反して、神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、造り主である神と造られた人間の間に深い溝ができてしまいました。死ねば永遠に造り主から切り離されて滅びの苦しみを受けるしかなくなった人間を、神は深く憐れみ、再び関係を回復して神のもとに戻れるようにしようと計画して、それで自分のひとり子をこの世に送り、彼を用いて計画を実現されました。それは、人間の罪から生じる神罰を全てこのひとり子イエスに請け負わせて十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、この身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで、永遠の命への扉を人間に開かれました。

人間は、このイエス様の十字架の死と死からの復活が全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この神の整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は、罪を赦された者として神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。神との結びつきがあるので、順境の時にも逆境の時にもかわることなく絶えず神の守りと導きがあります。万が一、この世から死ぬことになっても、造り主である神の御許に引き上げてもらって永遠にそこに留まることができるようになりました。私たち人間にこれほどまでのことをして下さった神に、これ以上何を求める必要があるでしょうか?

こうした神の私たちに対する愛の大きさがわかれば、私たちは喜びと感謝のあまり、他人が自分に気にさわることをしたとか言ったとか、そういうことは全て些細なことになります。そして、そのようなとてつもなく大きなことを私のために成し遂げて下さった神を全身全霊で愛するのが当然と思うようになります。さらに、そこから出発して、神がしなさいと言われる隣人愛、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということもそうするのが当然となっていきます。

 

4.

  以上から、イエス様が「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たちキリスト信仰者に命じる時、それは同時に、「お前は、私が十字架と復活をもってもたらした救いを受け取ったことを忘れるな」という注意書きが含まれていることが明らかになりました。このことがわかると、本日の福音書の箇所のイエス様の教えもよくわかります。

まず、37-38節。「裁いてはいけない、有罪としてはいけない」とイエス様は命じられます。ここで注意しなければならないのは、これは、悪や犯罪を放置しろ、悪や犯罪をし放題にさせろ、ということではありません。天地創造の神は、罪や不正義や不従順を激しく憎む方です。神は神聖な方ですから、罪の汚れを目の前にすれば、即座に焼き払われる方です。従って、私たちは、犯された罪を目の当たりにした時、うやむやにしたり曖昧にしたりすることなく、それは罪である、神の意思に反するものである、と態度と見解を明確にしなければなりません。

しかし、ここで忘れてはならないことがあります。それは、神は罪や不従順を断罪せずにはいられない方であるが、同時にその御心は、人間が罪と抱きかかえに裁きを受けて永遠の滅びの苦しみに落ちてしまうことではなく、「罪の赦しの救い」を受け取って神との関係を回復することにあるということです。それなので、キリスト信仰者が罪について明確な態度をとる時、どうするかと言うと、罪を犯した人を断罪してはいけないということです。「こんなことをしたお前は神との関係が断ちきれたままで、関係修復の見込みはない」などと言ってはならないということです。神と関係修復の見込みがないかどうかは、神が将来最終的に決めることです。ひょっとしたら、その人は、いつの日かイエス様を自分の救い主と受け入れるかもしれないのに、今断罪してしまったら、これは呪いをかけるも同然です。神の目的は出来るだけ多くの人が「罪の赦しの救い」を受け取ることができるようにすることなのに、それを阻止したら神に反対する者になってしまいます。神の反対者であれば、それこそ神から呪われる者になってしまいます。罪を犯した人に対して、キリスト信仰者は、断罪するかどうかは神に任せて、自分としては、罪を犯した人がイエス様を救い主として信じ受け入れられるような働きかけをする、ということです。

もちろん、罪を犯した人の心がとても頑ななため、働きかけが効果を生まない場合もあります。その場合は、神に祈って祈ることから始めます。祈ることも大事な働きかけです。とにかく働きかけをするのが、神の目的に仕えるキリスト信仰者の任務です。罪びとが「罪の赦しの救い」を最後まで拒否し続ければ神の断罪は免れません。しかし、それを受け入れてイエス様を救い主と信じるならば、どんな大きな罪も赦されて神との関係が回復されるのです。もし罪が社会の法律的な処罰や償いを求められるような犯罪であればあるほど、「どんな大きな罪も赦される」と言っても、なかなか受け入れられないかもしれません。しかし、その人と神との関係が回復したら、法律上の処罰や償いということはあっても、神の目から見たら関係の回復はもうその通りなのです。

 39-40節のイエス様のたとえの教え。盲目の人が盲目の人を道案内しようとすれば、二人とも穴に落ちてしまう。道案内をしようとする盲目の人とは、先に述べた、罪びとに「罪の赦しの救い」が及ぶのを邪魔する者、神の専権事項である断罪を自分の仕事にする者のことです。このような者の断罪を被ってしまう罪びとは、救いを受けることを妨げられ、気の毒です。断罪を行う者は行う者で、そのために神から断罪されかえされてしまい、憐れです。二人とも救いの可能性を失い、穴に落ちてしまう、これは悲劇です。

ここで、イエス様は、弟子は教師に優るものではないが、全ての弟子は、やがて必要な課程を修了して教師のようになる、と言われます。(ギリシャ語のκαταρτιζωが日本語訳では「十分に修行を積む」となっていますが、「必要な課程を修了する」です。どんな「課程」かは後で明らかになります。「修行」ではありません。)ここでは動詞の未来形(εσται)が使われ、将来そうなると約束されます。どういうことかと言うと、イエス様が、これらの教えを述べているのは、まだ十字架と復活が起きる前のことです。まだ「罪の赦しの救い」は実現されていません。そんな時に、罪びとを裁くな、赦せなどと教えられても、人々にはそれを実行するための土台がないのですから、途方にくれるしかありません。この時、弟子は教師であるイエス様に遠く及ばない存在です。しかし、イエス様の十字架と復活により「罪の赦しの救い」が実現して以降は、状況が一変します。自分は神のひとり子が十字架で流した尊い血を代償にして神に買い戻されたとわかって、この救いを受け取る者がでてくる。そして、その者が今度は他の人たちもその救いを受け取ることができるように働き始める。まさに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるという「課程を修了」して、イエス様の真の弟子になって、教師が始めた仕事を受け継いで救いを拡げていく。その意味で教師のようになるのです。イエス様は、この教えを述べた当時、今はまだ不可能だが将来可能になる、と約束しているのです。その約束は実現されたのです。

こうして、41節から後のイエス様の教えは、「罪の赦しの救い」を拡げていく者とそれを妨げる者の対比となります。41-42節に出てくる、他人の目にある小さなゴミには気がつくが、自分の目にある大木には気がつかない人とは、まさに他人を断罪して「罪の赦しの救い」を拡げることを妨害する盲目の信仰者のことです。43-45節の良い実を実らせる良い木とは、「罪の赦しの救い」を拡げていく者であり、悪い実を実らせる悪い木とはそれを妨げる者です。そして、最後に46-49節で、イエス様の教えを聞いて実行する者とは、まさに「罪の赦しの救い」を自ら受け取って、それを当然のように拡げていく者です。そのような人の建てた家は堅固な土台の上に立つ家で、死という嵐にもびくともしません。教えを聞いて実行しない者とは、赦しを受け取っていない人です。イエス様の教えを聞いたかもしれないが、「罪の赦しの救い」を受け取るまでには至らなかった。それで、イエス様を救い主とまだ信じていない。または、信じたつもりが、どこでどう間違えたか、断罪者になってしまって赦しを拡げることを妨げてしまった。このような人たちの建てた家は死という嵐に耐えられないのです。

 

5.

  イエス様が「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たち信仰者に教えられる時、それは、「お前は、私が十字架と復活をもって実現した救いを受け取ったことを忘れるな」という注意書きが含まれている、と前に申しました。そして、もし私たちが、イエス様の十字架と復活を通して神から計り知れない恵みを受けたことが自覚できるならば、そのような計り知れないことをして下さった神を私たちは心から愛して仕え、その方の言われることには従うのが当然だという心になる。また、その受け取ったものの計り知れなさを思いやれば、隣人に対して出し惜しみするとか恨みを持ち続けることが実に取るに足らないものになる、と申しました。まさに、神の私たちに対する愛と恵みのなんたるやを知った時に、私たちの心に愛が点火される、ということです。

ただ、そうは言っても、現実はなかなか甘くはありません。隣人を自分を愛するが如く、と言っても、いつも壁にぶつかるし、ましてや神を全身全霊で愛していると言えるかどうか。そこで、ルターは、キリスト信仰者のこの世の人生とは、洗礼の時に植えつけられた聖霊に結びつく新しい人と以前からある肉に結びついた古い人との間の内的な戦いであると教えます。古い人を日々死に引き渡し、新しい人を日々育てていく戦いであると。キリスト信仰者は、この世から死ぬ時に古い人は肉と共に滅びて、完全なキリスト信仰者になると言っています。この戦いは、本当に一進一退の戦いです。しかし、しっかり聖書の神の御言葉に聞き聖餐式にちゃんと与っていれば、罪と死と地獄と悪魔に対して完全勝利を収めたイエス様としっかり結びついていますから、大丈夫です。何も心配はありません。

最後に、イエス様の教えを聞いてそれを実行する人、つまり「罪の赦しの救い」を受け取って、それを他の人にも拡げていく信仰者の人生について一言。残念ながらイエス様は、救いを受け取った信仰者に安逸な人生が保障されるとは教えません。しっかりした地盤の上に建てられた家も、土台なくして建てられた家となんら変わりなく、嵐や洪水に見舞われると言われます。つまり、人生の歩みの中では、信仰者であるかないかにかかわらず、同じように苦難や災難に遭遇するということです。いくら土台の上に建てられたと言っても、家が激しく揺れたら、さすがに恐れや心配を抱いてしまうでしょう。いくら神との結びつきが回復して、日々守りと導きを受けていると言われても、苦難や災難に遭遇したら、立ち向かっていけるか心配になるでしょう。しかし、イエス様は、「罪の赦しの救い」を受け取って神との結びつきが回復した者、そしてそこから生まれる喜びと感謝をもって自分の生き方を神の意思に沿うものにしようと志向する者、そういう者は倒壊しない家にいるのと同じなのだ、だから、恐れる必要はないのだ、と教えられるのです。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れずに共に歩んでまいりましょう。

それから、今はまだイエス様を救い主として信じていない人、信じているつもりが断罪者になってしまった人は、最後まで倒れる家に留まるしかないということではありません。神のもとに立ち返ることができれば、彼らは倒れない家にいることになります。ですから、兄弟姉妹の皆さん、彼らも嵐が来ても大丈夫な家に引っ越すことができるように働きかけていきましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 


主日礼拝説教 聖霊降臨後第三主日
2016年6月5日 聖書日課 エレミア7章1-7節、第一コリント15章12-20節、ルカ6章37-49節

説教「なぜ神は三位一体なのか?」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書16章12-15節

主日礼拝説教、三位一体主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えてくれた神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神なのです。

 そうは言っても、わかりにくい教えです。三つあるけれども一つしかない、というのはどういうことか?理屈で理解しようとしてもできません。これは、もうこういうことなのだ、と観念するしかありません。そこで、皆さんの理解を助けるために、ひとつのことをお見せしたく思います。昨年の三位一体主日の時にもお見せしたものですが、昨年いらっしゃらなかった方たちのために今年も披露いたします。

ここに大きな三角形があります。それぞれの頂点には、父、御子、聖霊と記されています(写真1)。

三位一体写真1

この三角形全体が三位一体の神です。まず、イエス様が地上に送られる前は、三つの頂点は天の御国にいますから、説教壇の表面を地上とすると、三角形は地上に対して上方に平行してあります(写真2)。

三位一体写真2

ただし、聖霊はずっと天にいっぱなしだったのではなく、旧約聖書を見ると、聖霊がイスラエルの民の指導者に力を与えたり、預言者を空間移動させたりすることがありました。そのように聖霊は、時として地上にいる特定の個人に働きかけることがありました(士師記6章34節、13章25節、Iサムエル11章6節、エゼキエル2章2節、37章1節)。しかし、聖霊が本格的に地上に送られてそこに留まって大勢の人間に働きかけるようになったのは、やはり、イエス様が天に上げられて10日たった後に起きた聖霊降臨の時からです。

さて、イエス様が地上に送られました。神の身分でありながら神と等しい者であることに固執せず、自分を無にして僕の身分となり(フィリピ2章6-7節)、乙女マリアから人間として生まれました。三角形は平行でなくなって、イエス様の頂点を下にするようになりました(写真3)。

三位一体写真3

さて、イエス様が十字架の上で死なれ、死から復活させられ、そして天に上げられる日が来ました。イエス様は、自分が天の父のもとに戻った後は、信仰者が一人ぼっちに取り残されることがないように、父のもとから聖霊を送る、と何度も約束されました(ヨハネ14章、15章26節、16章4-15節、ルカ24章49節、使徒1章8節)。さあ、イエス様は天に上げられます。聖霊は本当に送られるでしょうか?どうなるでしょうか?(三角形の御子の頂点を上げると、聖霊の頂点が下がって、父と御子の頂点が上になる。写真4)

三位一体写真4

ほら、大丈夫でした。ちゃんと聖霊が送られました。イエス様は、しっかり約束を守りました。

聖霊が送られたおかげで、人間はイエス様を救い主と信じることができるようになります(第一コリント12章3節)。聖霊は、聖書の御言葉を通して人間に働きかけ、キリスト信仰者がしっかり神との結びつきを持ってこの世の人生を歩めるように助けてくれます。また聖霊は自分の判断に基づいて、信仰者にいろいろな賜物を与えます。賜物を与えられた人は、まだ信じていない人を信仰へ導いたり、既に信じている人には信仰をしっかり守るように助けたりします。そのようにしてキリスト教会がまとまりを保って成長するように助けます。皆さん、どうですか?父と御子は天におられるとは言っても、三位一体と聖霊のおかげで、全然遠くにいる感じがしないでしょう。それどころか、私たちには聖書の御言葉と聖餐式があるので、神はまさに私たちの耳元や口元にまでおいでになられるのです。

 

2.

  三つが一体を成しているということは、本日の福音書の箇所にもよく出ています。まず、イエス様は弟子たちにこう言います。お前たちには言うべきことがまだ沢山あるのだが、おまえたちはそれらを「背負いきれない」、「耐えられない」(日本語訳では「理解する」ですが、ギリシャ語動詞βασταζωはこっちのほうがよい)、と(12節)。イエス様が弟子たちに言おうとすることで弟子たちが耐えられないとはどういうことか?それは、人間を罪と死の支配から解放するために、イエス様がこれから十字架刑に処せられて死ぬことになるということです。このようなことは、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、聞くに耐えられないことでした。

しかしながら、十字架と復活の出来事の後、弟子たちは起きた出来事の意味が次々とわかって、それらを受け入れることができるようになりました。つまり、神の力で復活させられたイエス様は本当に神のひとり子であったということ、そして、この神のひとり子が十字架の上で死んだのは、人間の罪を神に対して償う神聖な犠牲の生け贄になったということ、さらに、イエス様の復活によって永遠の命に至る扉が開かれて、イエス様を救い主と信じる者はそこに至る道に置かれて、もう罪と死の支配力が及ばなくなったということ、以上のことが真理だとわかって、それを受け取ることができるようになったのです。これができるようになったのは聖霊が働いたためです。イエス様が13節で言われるように、聖霊が「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」ということが起きたのです。

ところが、こうした神の真理がわかってイエス様を救い主と信じて永遠の命に至る道を歩むようになっても、この世には罪の力がまだ働いていて、神の真理を曇らせよう、イエス様が救い主であることを忘れさせようとします。そうなると、それまではするのが当然だと思っていた、神を全身全霊で愛することや隣人を自分を愛するが如く愛することはだんだん自分に無関係なものになっていきます。キリスト信仰者は、このような変わり様を悲しみ、なんとかまた当然のことになるようにともがき始めます。この時、神の真理にしっかりとどまれるよう私たちを応援し助けてくれるのが聖霊なのです。先程のイエス様の13節の言葉は、日本語訳では「聖霊があなたたちを導いて真理をことごとく悟らせる」でしたが、ギリシャ語原文では「聖霊は真理全体をもってあなたたちを導いてくれる」とか「真理全体の中にとどまれるように導いてくれる」とか「真理全体へと導いてくれる」などと訳すことも可能な文です(οδηγησει υμας εν τη αληθεια παση)。つまり、真理をわからせてくれるだけでなく、真理にしっかりとどまれるように助けてくれる、それが聖霊なのです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちがこの世の罪の力に対して戦う時、私たちは一人ぼっちではなく、イエス様が約束されたように聖霊が働いてくれることを忘れないようにしましょう。

13節から15節にかけてイエス様が教えていることは、聖霊が私たちを導いてくれる時、それは聖霊が自分で好き勝手なことを告げるのではなく、イエス様がこう言いなさいと言ったことを私たちに告げるのだ、ということです。父なるみ神のものは同時に御子のものでもある、と言われているのは(15節)どういうことかと言うと、イエス様がこう言いなさいと聖霊に言うことは、それは父なるみ神がこう言いなさいと言ったことでもある、ということです。このように、父と子と聖霊は共通の真理のもとで働くという意味でも、三位一体なのです。

 

3.

  キリスト教は、カトリック、正教、プロテスタントなどにわかれていますが、わかれていてもこれらが共通して守っている信仰告白はどれも神を三位一体として受け入れています。そうした共通の信仰告白には、使徒信条、二ケア信条、アタナシウス信条の三つがあります。わかれていてもキリスト教がキリスト教たるゆえんとして三位一体があると言えます。また、わかれた教会が一致を目指す時の土台とも言えます。もし三位一体を離れたら、それはもはやキリスト教ではないということになります。

 ところで、神が三位一体という説は、キリスト教が誕生した後で作りだされた考えにすぎないという見方があります。しかし、その見方は正しくありません。三つの人格を一つにして持つ神というのは、既に旧約聖書のなかに見ることが出来ます。

その例として、ソロモン王の知恵の集大成である箴言の8章22-31節を見ると、神の「知恵」というものがいかに人格を持った方であるかが言われています(「知恵」は「彼」と呼ばれます)。「知恵」は天地創造の前に父から生まれ、父が天地創造を行っていた時にその場に居合わせていた、と言われています。ところでイエス様は、自分がソロモン王の知恵より優れたものであると言っていました(ルカ11章31節、マタイ12章42節)。ソロモン王は神の知恵を人間に伝達しましたが、イエス様は自分のことを神の知恵そのものであると言ったことになります。そこで箴言のなかに登場する「知恵」、天地創造の場に居合わせた「知恵」について、初期のキリスト教徒たちは、これがイエス様を指しているとすぐわかりました。そのために、御子は既に天地創造の時に父なるみ神と一緒にいたと言うようになったのです(第一コリント8章6節、コロサイ1章14-18節、ヨハネ1章、ヘブライ1章1-3節)。さらに、神は天地創造の時、「光あれ、大空あれ」と言葉を発しながら万物を作り上げていきましたが、その時、御子が創造の業に積極的にかかわったことを明らかにしようとして、それでイエス様のことを神の「言葉」そのものと言うようになりました(ヨハネ1章)。

ところで、天地創造の場に居合わせたのは神の「知恵」や「言葉」である御子だけではありませんでした。創世記1章2節をみると、神の霊つまり聖霊も居合わせたことがはっきり述べられています。創世記1章26節には興味深いことが記されています。「我々にかたどり、我々に似せて、人間を造ろう」。父なるみ神が天地創造を行った時、その場には人格を持った同席者が複数いたことになります。これはまさしく御子と聖霊を指しています。

 

4.

  次に、なぜ私たちの神は三つの人格を一度に兼ね備えた一人の神なのか、ということについて考えてみます。神が三位一体であるというのは、神の私たちに対する愛と大いに関係があります。私たちに愛と恵みを注ぐために、神は三位一体でなければならない、三位一体でなければ愛と恵みは注げない、と言っても言い過ぎでないくらい、神は三位一体な方なのです。以下、そのことを見てまいりましょう。

まず、思い起こさなければならないことは、神と私たち人間の間には途方もない溝が出来てしまったということです。この溝は、創世記に記されている堕罪のときにできてしまいました。「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって最初の人間たちは禁じられていた実を食べてしまい、善だけでなく悪をも知って行えるようになってしまいました。そして死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」5章で明らかにしているように、死ぬということは、人間は誰でも神への不従順と罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれなのであります。もちろん、悪いことをしない真面目な人もいるし、悪いこともするが良いこともちゃんとしているという人もいます。それでも、全ての人間の根底には、神への不従順と罪が脈々と続いている。このように人間が罪ある存在とわかると、神は全く正反対の神聖な存在です。神と人間、それは神聖と罪という二つの全くかけ離れた存在です。

ここで、「神聖」という言葉について少し考えてみます。日本語ではよく「聖」という言葉を使います。「聖なる万軍の主」とか言うように。でも、それは少し弱い言葉だと思います。明治憲法に「天皇は神聖にして侵すべからず」とありましたが、「神聖」という言葉の方が、「聖」より凄味と迫力があって、本質に迫れる言葉だと思います。

神の神聖さとは、罪を持つ人間にとってどんなものであるか、それについて本日の旧約の箇所イザヤ6章はよく表しています。エルサレムの神殿で預言者イザヤは肉眼で神を見てしまう。その時の彼の反応は次のようなものでした。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は滅びてしまうからだ。なぜなら私は汚れた唇を持つ者で、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が、王なる万軍の主を見てしまったからだ」。これが、神聖と対極にある罪ある者が神聖な方を目にした時の反応です。罪の汚れをもつものが神聖な神を前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。神から預言者として選ばれたイザヤにしてこうなのですから、預言者でもない私たちはなおさらです。

イザヤは自分の罪と自分が属する民の罪を告白しました。それに対して天使の一種であるセラフィムが来て、燃え盛る炭火をイザヤの唇に押し当てます。それがイザヤを罪から清めました。そして彼は神と面と向かって話ができるようになります。モーセは、そのような罪の清めは受けずにシナイ山で神と面と向かって話すことを許されましたが、山から下るとその顔は光輝き、人々の前で話をするときは顔に覆いを掛けねばならないほどでした(出エジプト記34章)。神の神聖さは、罪の汚れを持つ人間にとって危険なものなのです。

神を直接見ることのない私たちにとって、神聖の危険はわかりにくいかもしれません。聖礼典と呼ばれる洗礼や聖餐は、神聖な礼典です。確かに、洗礼式や聖餐式において、私たちは焼き尽くすような光や熱に遭遇しません。しかし、それらの礼典の持つ影響力は、莫大なものであることを忘れてはなりません。

洗礼によって、私たちは、イエス・キリストの義という純白な衣を頭から被せられます。義というのは、神の神聖な意志が実現している状態、神聖な神の目に適う状態です。イエス様は神の御子なので、そのような義を持っています。不従順と罪にまみれた私たち人間は義を持てません。義が持てないと神の御前に立つことも近づくこともできません。ところが、本当ならば私たちが受けるべき罪の罰をイエス様が十字架の上で代わり引き受けて下さった。そこで、イエス様こそ救い主だと信じて洗礼を受ければ、神はイエス様の犠牲に免じて私たちの罪を赦して下さる。罪を赦された者として私たちは、神の目に適うものとされる。これが、イエス様の義を純白な衣のように頭から被せられるということです。このように義は自分の力で獲得したり築き上げるものではなくて、イエス様の義を神から一方的に与えられるものです。イエス様を救い主と信じる信仰がその受け皿となります。神は、私たちが衣の内側にまだ罪の汚れを持っているのにもかかわらず、それでも私たちがしっかり手放さずに纏っている白い衣を見て、それで私たちのことを目に適う者と見て下さいます。洗礼には、このような途轍もない中身が含まれています。

聖餐も同じです。この世の人生を歩むとき、私たちの内に残る罪が、私たちの纏っている義の衣のことを忘れさせようとします。それを手放させようと誘惑します。そこで、聖餐の主の血と肉を受けることで、私たちは、自分が純白な義の衣を被されていることをはっきり思い起こすことができます。そして、その衣を纏う者としてふさわしく生きるための力と栄養を受け取ることができます。パウロはコリントの信徒たちに、聖餐がいかに神聖なものであるかを教え、次のように注意しました。聖餐を受ける前にまず、自己吟味をしなければならない。つまり、「私は、罪の汚れのために義の衣を纏うことが難しくなりました。纏い続けることができるように力と栄養をお与えください」と神に祈り求めて聖餐に臨まなければならないということです。しかし、もし自己吟味もせず、聖餐が神聖なものであることをわからずに受けるならば、それは主の体と血に対して罪を犯すことになり、ひいては、その人に対して裁きをもたらすことになる。実際、コリントの教会の中で、聖餐を誤った仕方で受けた者が、病気になったり命を落とした例があると、パウロは注意を呼び掛けています(第一コリント11章26-32節)。

 以上のように、神の神聖さに対して、私たち人間は、怖れをもって注意しなければなりません。しかし、今の世が終末を迎えて新しい世にとってかわる日、死者の復活が起きて、私たちが永遠の命に入る日には全てが一変します。そこで、私たちは神聖な神を顔と顔を合わせるように目にすることが出来るのです(第一コリント13章12節)。その時、私たちは、神の神聖さに燃やし尽くされません。なぜなら私たちが神聖な者に変えられたからです。

 

5.

  このように神は、私たち人間との間に出来てしまった果てしない溝を超えて、私たちに救いの手を差しのばされ、私たちがイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時にその手と手が結ばれます。その後は私たちが自分から手を離さない限り、神は私たちを天の御国に導いて下さり、復活の日に私たちを神聖な御自分のもとに迎え入れて下さいます。この神の私たちに対する愛は、三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりわかります。まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪と不従順に陥ったために、神は今度はひとり子を用いて私たち人間のために罪と死の支配力を無力化して、私たちをそれらから贖い出して下さいました。こうして、私たちは罪の赦しの中に生きることとなりましたが、人生の歩みのなかで試練に遭遇すると罪の赦しに生きていることを忘れそうになります。そのたびに、聖霊から導きや指導を受けられるようになりました。

そこで、この三つは別々の人格ではなくて、一つの人格の神が三つの異なる事柄を行っているにすぎない、だから、あえて三つの異なる人格を出す必要はないと言ったらどうなるでしょうか?つまり、三位一体の三位を否定することです。そうなると、イエス様が地上におられた時、神全体が地上にいることになり天の御国には父なるみ神も聖霊もいなくなってしまいます。やはり三つの人格がなければなりません。

逆に、三つの人格は完全に独立してバラバラで、それ以上のものはない、と言ったらどうでしょうか?つまり、三位一体の一体を否定することです。先ほども見ましたように本日の福音書の箇所で、聖霊が告げることはイエス様が告げなさいと言ったこと、イエス様が告げなさいと言ったことは父なるみ神が告げなさいと言ったこととありましたように、三つはバラバラなものではありません。加えて、三つの人格の機能は別々のものにみえても、どれもが一致して目指していることがあります。それは、人間が罪と死の支配下から解放されて生きられるようになってこそ、神に造られた目的を果たすことになる、ということです。

以上のように、三位一体は理屈で考えると、どのようにして三つの人格が一人の神になるのかということばかりに目が行ってしまいます。逆に、神が三位一体であるおかげで、私たちの神がどんな方なのかがよくわかるということの方が大事です。神は本当に私たち人間を助けたく思っておられる方であり、また助けるためならどんな犠牲もいとわない、それくらい私たちのことを愛してくれている方なのです。このことがわかれば、神が三位一体であるというのは当たり前の感じになり、別に理屈で考える必要はなくなります。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 三位一体主日
2016年5月22日 聖書日課 イザヤ6章1-8節、ヨハネ16章12-15節、ローマ8章1-13節

説教「聖霊とは何者か?」神学博士 吉村博明 宣教師、使徒言行録2章1-21節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

  本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーπεντηκοστη ημεραと呼ぶことから、聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭日です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が私たちの救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭の時、私たちの救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が、自らの死と復活をもって死の力を無力にして、私たちが神のもとに戻れる道を開いて下さったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の時には、イエス様が約束通り私たちに聖霊を送って下さり、聖霊の力で私たちが信仰を持てて、神の真理に導かれて生きられるようになったことを喜び祝います。

 そこで、聖霊とは一体何でしょうか?イエス様は死から復活された後、弟子たちに世界に出て行って福音を宣べ伝えるように命じました。その時、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けなさいとも命じました(マタイ28章19節)。キリスト信仰では、神というのは、これら三つの人格を持つ者が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父やみ子と同じように人格があるのか、と驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体のようだからです。ところが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)、まさしく人格を持つ者です。それで日本のキリスト信仰者の中には、「聖霊様」と呼ぶ人もいます。

 それでは、人格を持つ聖霊とは一体、どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章の中でイエス様は最後の晩餐の席上で弟子たちにあることを約束します。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。さらに、死から復活させられるが、その後で天の父なるみ神のもとに上げられることになる。それで弟子たちとは別れることになる。しかし、天の父のもとから聖霊を送るので、弟子たちがこの世に取り残されて一人ぼっちになるということはない。そのように聖霊を送る約束をします。イエス様は聖霊のことを「真理の霊」とか「弁護者」と呼びます。つまり、聖霊とは、私たちキリスト信仰者に天地創造の神の真理を教え、それに従って生きられるようにする方であり、また私たちを弁護して下さる方であるということです。それでは、神の真理とは何か?私たちを何に対して弁護してくれるのか?このことは、後ほど見ていこうと思います。

この他にも聖霊は、キリスト信仰者に何か特別な力を賜物として与えて下さる方です。そうした特別な力について使徒パウロは第一コリント12章でいろいろ挙げています(12章4-11節)。正しい信仰を教える力、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、習ったことのない外国語で神やイエス様のことについて語る力などがあります。これらの力は、教会が一つにまとまって成長するために与えられるのですが(12章7節)、そのようなものは他にも考えられます。ところで、習ったことのない外国語で神やイエス様のことを語る力を「異言を語る力」と言います。先ほど読んで頂いた聖霊降臨の日の出来事は、まさに異言を語る力が与えられた出来事でした。このような特別な力は恵みの賜物とか聖霊の賜物と呼ばれ、ギリシャ語でカリスマ(χαρισμα)と呼ばれます。こうした賜物は、教会が一つにまとまって成長するのに資するようにと、聖霊が自分の判断で誰に何を与えるか決めて与えるものです(第一コリント12章11節)。だから信仰者個人の希望や態度で決まることはありません。もし賜物が与えられても、与えることが出来る方は取り上げることも出来る方としっかりわきまえて、謙虚に本来の目的のみに仕えるように用いなければなりません。

 

2.

  先ほど読んで頂いた使徒言行録2章には聖霊降臨の日の出来事が記されています。その日一体何が起きたのかをもう少し詳しく見てみましょう。

 イエス様が天に上げられて10日が経ちました。復活の日から数えたら50日目です。イエス様の弟子たちはある家に集まっていました。そこに聖霊が不思議な現象を伴って彼ら一人一人に降りました。その時、天から激しい風が吹くような音がしたので、人々はその方へ集まってきました。その頃エルサレムは、過越祭の後の5旬節という祝祭日だったので、地中海世界の各地からユダヤ人が大勢やってきていました。

 音がしたところに集まって来た人たちは、信じられない光景を目にしました。ガリラヤ出身者のグループが突然、集まってきた人たちそれぞれの母国語で話し始めたのです。どんな言語にしても外国語を学ぶというのは、とても手間と時間がかかることです。それなのに弟子たちは、留学もせず語学教室にも通わずに突然できるようになったのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(使徒言行録2章4節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話したのでしょうか?集まってきた人たちの驚きを誰かが代表して言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(2章11節)」。

イエス様の弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」(τα μεγαλεια του θεου複数形なので正確には「数々の業」)とは、どんな業だったのでしょうか?集まってきた人たちは皆ユダヤ人です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と理解するものの筆頭は、何と言っても出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで神から十戒を授けられ、神の民として約束の地カナンに移住場所を獲得していく、という壮大な出来事です。神の偉大な業としてもう一つ考えられるのは、バビロン捕囚からの帰還です。一度国滅びて他国に強制連行させられた民が、神の人知を超える歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還が実現したという出来事です。もう一つ神の偉大な業として考えられるのは、神が無から私たち人間を含めた万物を造られた天地創造の出来事も付け加えてよいでしょう。

ところがイエス様の弟子たちが「神の偉大な業」について語った時、上記のようなユダヤ教に伝統的なものの他にもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが直に目撃して、その証言者となった新しい出来事、つまり、あの「ナザレのイエス」は単なる預言者なんかではなくまさしく神の子で、その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の力で復活させられた、そして大勢の人々の前に再び現れて、つい10日程前に天に上げられたという出来事です。これは、まぎれもなく「神の偉大な業」です。こうして、ユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。

 天と地と人間を造られた神の偉大な業というものを、いろんな民族が理解できるようにそれぞれの言葉で語られたというのは、とても深い意味があります。本日の旧約聖書の日課は創世記11章でした。そこではバベルの塔の出来事が記されていました。最初人間たちには一つの言語しかなく、大きな事業を総動員をかけて行うのにコミュニケーションが楽でしやすかった。そこで人間たちは、神の座す天に届く塔を建設するという大事業に着手した。それを脅威に感じた神は、人間たちの言語をバラバラにして意思疎通を困難にして、住む場所もそれぞれの言語グループに分かれるようにして離れ離れにして、二度と大それた事業を行えないようにした、そういう出来事です。人間が創造主の神と張り合あうとするとろくなことがないということは、堕罪の時に証明済みでした。蛇の姿をした悪魔に「これを食べれば、神のようになれるぞ」とそそのかされて禁断の実を食べてしまう。その結果、人間に罪が入り込んで死ぬ存在となってしまい、神のもとを追放されて神との結びつきを失ってしまったのです。

そういうわけで、世界に沢山の言語があり、それを話す民族が沢山あるというのは、人間が一丸となって神に対抗しようとしないためなのです。私たちは、世界にたくさんの言語、民族があるという事実のなかに、人間を小さなものに留めておこうとする神の力や強さを見て取ることができるのです。

使徒言行録17章のなかに、伝道旅行でギリシャのアテネに到達した使徒パウロが野外集会場アレオパゴスで居並ぶギリシャの知識人を前にして自分の信仰について弁明する場面があります。そこでパウロは、神がそれぞれの民族に住む場所を定めた時、民族が自分の場所で神を探し求めるようにする意図があったと述べています。しかしながら、諸民族の神の探し求め方はそれこそ暗闇の中を手探りで探すようなものになってしまい、それで人間はついつい自分の想像力に頼っていろんな拝む像を作りだしてきてしまった。しかし、それらは真の神とは何の関係もない、単なる偶像にしかすぎない。神の方では人間のこういう無知を長い間、我慢してきたのであるが、この無知の期間が終わらなければならない事態が起きた。というのは、神のひとり子が人間に救いをもたらすために十字架と復活の業を行ったからで、これらの出来事が起きた日からはもう神に関して無知でいることは許されなくなったのである。以上がアテネのアレオパゴスでのパウロの教えです。

そういうわけで、聖霊が弟子たちに全く未知の言語で神の偉大な業について語らせたという聖霊降臨の出来事は、全ての民族が天地創造の神について正しく知らなければならない時代、もはや神について無知が許されない時代の幕が開けられたということなのです。神について正しく知ることができるために、全ての民族に福音が伝えられていかねばならないのは言うまでもありません。諸民族のなかに福音が伝えられて神について正しく知られるようになればなるほど、言語の違いを超えて神の子とされる者が増えていき、こうして人間はバベルの塔の事件で失った統一性を、全く別の形で回復することになるのです。

 

3.

  さてペトロは、集まってきた群衆に向かって、この聖霊降臨の出来事について解き明しを始めます。ペテロの解き明しは大きく分けて二つの部分からなっています。最初の部分は、この異国の言葉を話し出すという現象は旧約聖書の預言の実現であるというところです。先ほど読んで頂いたようにペトロはヨエル書を引用しています(使徒2章14-21節)。それに続いてペトロは、イエス様の出来事そのものについて解き明しをします。(22-40節)。ただし、この二つ目の解き明しは、本日の使徒言行録の箇所の後になります。

ペトロは、この異国の言葉を使って神の偉大な業を語りだすという出来事について、これはヨエル書3章1-5節の預言の成就である、と解き明かしします。天から激しい風のような轟く音がして、炎のような分岐した舌が弟子たち一人一人の上にとどまった時、異国の言葉で「神の偉大な業」について語りだすことが始まりました。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言の言葉そのままの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きた、つまり、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だった、とわかったのです。

聖霊降臨は旧約の預言の実現であるということに続いて、ペトロはさらにこの現象がどんな意味をもっているのかについても解き明かしていきます。これは本日の箇所の後の2章22-40節にかけてあります。あの、神から力を授けられて無数の奇跡の業を行って神の栄光を現わしたイエス様を、ユダヤ教社会の指導者やローマ帝国の支配者が一緒になって十字架にかけて殺してしまった。しかし、神は偉大な力でイエス様を死から復活させた。そもそもイエス様というのは、もともと天におられた時は死を超えた永遠の命を持って生きられる方であった。だから、十字架で殺されるようなことが起きても、神は復活させずにはいられないのだ。それでイエス様が死の力に服するということはそもそも不可能なのだ(2章24節)。このことは、既に旧約聖書に預言されていた(25-28節、詩篇15篇)。

こうして復活して天に上げられたイエス様は今、全ての敵を自分の足を置く台にする日まで、父なるみ神の右に座している(34-35節)。これも、旧約に預言されている通りである(34-35節、詩篇109篇)。これらのことから、イエス様というのは、旧約に預言されたメシア救世主であることが明らかになる(36節)。お前たちは、そのイエス様を十字架にかけて殺してしまったのだ。もちろん直接手を下したのは支配者たちだが、イエス様が神のひとり子でメシア救世主であることを知ろうとも信じようともしなかったということでは、お前たちも支配者たちと何らかわりはない。さあ、ここまで事の真相が明らかになった今、イエス様を救い主と信じるか信じないかのどちらかしかない。お前たちは、神のひとり子、神が遣わしたメシア救世主を殺した側に留まるのか?ペトロはこのように群衆に迫ったのです。

これを聞いた群衆が心に突き刺さるものを感じたのは無理もありません。自分たちはどうすればよいのか、という群衆の問いに、ペトロは悔い改めと洗礼を勧めます。悔い改めとは、それまで神に背を向けていた生き方、神の意思に背くような生き方を改めて、これからは神の方を向いて神の意思に沿うように生きていこうと方向転換をすることです。洗礼とは何かと言うと、イエス様が全ての人間の全ての罪を請け負って身代わりに罰を受けることで「罪の赦しの救い」が生み出されました。それを贈り物のように受け取ることが洗礼です。

ペトロの解き明しと勧めを聞いた群衆は、悔い改めて洗礼を受けました。神に背を向けてイエス様を殺した側を離れ、神の方に向き直って歩む者となったのです。この聖霊降臨の日に洗礼を受けた人たちは3000人に上りました。こうして、聖霊降臨の日に全く異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。まさにそうした宣べ伝えの初日に3000人もの人たちが洗礼を受けて「罪の赦しの救い」を受け取りました。キリスト教会が誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。

 

4.

  最後に聖霊が「真理の霊」、「弁護者」と言われるのはどういうことかについて見てみましょう。このことについては以前の説教でもお教えしましたが、何度繰り返して教えてもよい大事な事柄です。

 聖霊が「弁護者」であると言う時、何に対して弁護してくれるのか?それは私たちを告発する者がいるから弁護してくれるのですが、何者が私たちを告発するのか?それはサタンと呼ばれる霊です。悪魔です。サタン(שטן)とは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが外面的にも内面的にも十戒の光に照らされた時、神の御心に沿う者でないことが示されると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、この自覚を失意と絶望に増幅させようとします。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ」と。また、ヨブ記の最初にあるように、神の前に進み出ては「この者は見かけはよさそうにしていますが、一皮むけば本当はひどい罪びとなんですよ」などと言います。悪魔のそもそもの目的は神と私たちとの間を引き裂くことですから、もし私たちが神の愛を信じられなくなるくらいに落胆したり、または罪を認めるのを拒否して神のもとを立ち去ったりすれば、悪魔は目的を達成したことになるのです。

そのような時、聖霊は、私たちがどんな状況にあってもしっかり神のもとにとどまり、神の愛を信じられるように私たちを助けて下さいます。彼は罪の自覚を持つ私たちを神の御前で弁護して下さいます。「この人は、イエス様の十字架の業が自分に対してなされたとわかって、それでイエス様を救い主として信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と。翻って私たちにも向かって、「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられています」と言われます。私たちは神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦しを頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通して聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ、「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲の死に免じて赦す。もう罪は犯さないようにしなさい」と言って下さるのです。その時、私たちは感謝に満たされて、本当にもう罪は犯すまいという心を強く持つでしょう。

聖霊が「真理の霊」と言うのは、私たちに神の真理を教えたり伝えたりするというよりは、ずばり、私たちが神の真理の中で生きられるようにして下さるということです。まず、キリスト信仰者といえども私たちは十戒に照らせば罪を持っていることを知らせます。ここで悪魔は私たちを神から引き離そうとするのですが、聖霊はすかさず、神のひとり子の犠牲の上に赦しがあるという真理を知らせるので、私たちは神のもとに留まる以外に道はないとわかるのです。まさに聖霊の弁護と真理のおかげで、私たちの良心は落ち着きを取り戻し、イエス様のおかげで神の御前に出てもやましいところは何もないと思って大丈夫なんだと大きな安心を得られ、神に対して感謝の気持ちで満たされて、これからは罪を犯さないようにしようと注意深くなり、愛を全うしようと決意することができるのです。本当に畏れ多いことです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン