説教「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に - あなたはどの死生観に立って生きるか?」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書 2章15-22節

主日礼拝説教 2023年10月22日 聖霊降臨後第21主日

聖書日課 イザヤ45章1-7節、第一テサロニケ1章1-10節、マタイ22章15-22節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに ― イエス様の言葉の歴史的背景

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」。この言葉は何かとても大きなことを言っていると感じさせます。一方はこの世の権力の頂点に立つ者、他方は万物の創造主である神。イエス様は私たちキリスト信仰者に、この世の権力と創造主の神という二つのものにどう向き合うべきかについて教えています。どう向き合うべきか?今日の説教は、そのことを明らかにしていこうと思います。

 まず、この言葉が出てくる原因となった質問を見てみます。イエス様に反対する者たちが聞きました。「皇帝に税金を納めることはいいことか、よくないことか。」私たちの新共同訳では「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているか、適っていないか」ですが、ギリシャ語の原文を見ると「律法に適って」はありません。そういう訳をしたのは、ひょっとしたらその言葉が入っている写本があるのかと思ってチェックしたのですが、どうも見当たりませんでした。それで「律法に適って」は翻訳者が勝手に付け加えたものと言えます。それを付け加えた気持ちはわからないではないですが、私はここは原文通りに付け加えない方が本来の意味のためによかったと思います。このことについては後でまたお話しします。

 それでは、どうしてイエス様の反対者はそんな質問をしたのでしょうか?ここには、とても大きな歴的背景が横たわっています。

 ユダヤ民族の居住地域は紀元前63年までにローマ帝国の支配下に入ります。ローマ帝国はこの地域を直接支配せず地域の実力者を通して間接支配します。民族の実力者にヘロデというユダヤ民族出身でない者がのし上がります。彼はローマ帝国に上手く取り入って王の地位を認められ、エルサレムの神殿を大増築してユダヤ民族の支持も獲得します。このヘロデ王はベツレヘムで生まれたばかりのイエス様の命を狙うことになる王です。ヘロデ王の没後、この主権を持たない王国は二人の息子に分割され、一人はガリラヤ地方の領主、もう一人はユダ地方の領主という具合に王から領主に格下げになりました。本日の日課の中にヘロデ派というのが出てきますが、ヘロデ王朝の支持者で、要はローマ帝国のお情けのもとで権力を保持できればいいという人たちだったと言えます。ユダ地方の領主が死んだ後、同地方は帝国から派遣された総督が直接支配するようになります。要所要所に異国の軍隊が駐屯して目を光らせています。帝国には税金も納めなければなりません。ユダヤ民族の完全な解放をもって「神の国」が実現すると考えた人たちにとって許しがたい状況でした。

 まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場しました。ダビデの子、ユダヤ民族の王がやって来た!と群衆の歓呼に迎え入れられてエルサレムに乗り込んできました。さぁ、大変なことになりました。ユダヤ教社会の指導層には盾をつく、群衆は民族の解放者として担ぎ上げている、あの男をこのままにしたら自分たちの権威が危うくなるだけでなく、ローマ帝国の軍事介入を招いてしまう、なんとかしなければと、そこで出てきたのが、皇帝に税金を納めてもいいのかどうかという質問だったのです。狙いは一目瞭然です。もし、納めてもよいと答えたら、群衆は、なんだこの男もヘロデ並みか、民族の真の解放者だと期待したのに皇帝に頭が上がらない臆病者だと失望を買って支持者は離反していくだろう。もし、納めてはならないと言ったら、その時は待ってましたとばかり、反逆者として当局に差し出してしまえばいい。まことに巧妙な質問でした。反対者も群衆も固唾を飲んでイエス様の答えを待つ緊迫した様子が目に浮かびます。

 先ほど反対者の質問はギリシャ語原文では「律法に鑑みて」という言葉はないと申しました。以上の背景説明からわかるように、質問は極めて政治的な内容のものです。律法に鑑みていいことかどうかという問題も含んではいますが、それを超えた意味を持っていることにも注意しなければなりません。それで、原文のように律法と無関係にいいか悪いかと聞いたというのが正解です。

 さて、イエス様の答えは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」でした。反対者も群衆もとても驚いた様子が目に浮かびます。税金を納めてもいいことになるのだが、しかし、皇帝に頭が上がらない臆病者には聞こえません。万物の創造主である神が出てきたからです。こちらの方が人間より格が上です。神を出されたことで皇帝も皇帝に納める税もちっぽけなものになってしまう、何か大いなるものの下に置かれたような感じがします。イエス様のこの答えは質問者を黙らせ群衆を驚嘆させましたが、彼らはちっぽけに「感じた」以上のことがわかったでしょうか?私は、イエス様の十字架と復活の出来事の前では「感じた」より先には進めなかったのではと思います。私たちは十字架と復活の出来事の後の時代にいますから、イエス様の答えの内容を詳しく知ることが出来ます。以下にそれを見ていきましょう。

 2.「神のもの」とは「神の国」に関わること

イエス様の答えに万物の創造主の神が出てきました。「神のものは神に返しなさい」というのはどういう意味でしょうか?「皇帝のものは皇帝に返す」というのは税金のことだから、「神のものは神に返す」は教会に献金を捧げることかなと考える人もいるかもしれません。しかし、そうではありません。まず、「神のもの」と言う言葉について見ると、ギリシャ語の用法では神の持ち物、所有物という意味だけでなく、「神に属するもの」というふうにもっと広い意味になります。そこで、このやり取りの流れを思い出すといろんなことがわかってきます。

 イエス様と反対者のやり取りは、その前にあったイエス様の3つのたとえの教えの続きとして出てきました。3つのたとえの教えとは、マタイ21章28~32節の二人の息子のたとえ、33~41節のブドウ園と農夫たちのたとえ、そして22章1~14節の王子の婚宴のたとえです。3つのたとえの教えで明らかになったのは、将来現れる「神の国」に宗教エリートたちは迎え入れられないということ、そのかわりに今罪びとと目されている人たちやユダヤ民族以外の民族がイエス様を救い主と信じて迎え入れられるということでした。

 少し脇道にそれますが、「神の国」について当時の人たちが思い描いていたものとイエス様が教えたものは必ずしも一致していませんでした。当時の人たちにとって「神の国」とは、将来ダビデの子孫が現れてユダヤ民族を異民族支配から解放し、神が直接支配する国を打ち立てる、そして諸国民は神を崇拝するためにエルサレムに集まって来る、そういう自民族中心史観の「神の国」でした。ところがイエス様の教えた「神の国」は、まず神の子が民族に関係なく全ての人間を罪と死の支配から解放する、そして、今の世が終わって新しい天と地が創造される時に神の子は再臨して、罪と死の支配から解放された者たちを「神の国」に迎え入れる、そういう神の人間救済計画のゴールが「神の国」でした。イエス様が教えた「神の国」が正しい理解だったわけですが、それがはっきりするのは彼の十字架と復活の出来事の後になってからです。

 当時の宗教エリートたちは「神の国」を正確に理解できていなかったとしても、それはユダヤ民族に約束されたものと考えていましたから、お前たちは排除されるというのは受け入れられません。3つのたとえを聞いた後、早くこの男を始末しなければと決めます。そこで、今度は言葉尻を捉えて当局に訴えてやろうと、やって来たのです。そこでこの皇帝への納税の質問をしたのです。

 さて、3つのたとえは皆、将来現れる「神の国」について述べていました。その延長上に今日のやり取りが来ます。このやり取りで、一方に皇帝というこの世の国の代表者、他方で神という「神の国」の代表者が対比されます。そういうわけで「神のもの」というのは「神の国」に関係するものであると気づかなければなりません。

 それと、「神のものは神に返す」と言う時の「返す」ですが、これもギリシャ語の動詞αποδιδωμιは「返す」だけでなく、「引き渡す」「譲り渡す」(例としてマタイ27章58節)という意味もあります。「返す」だけにとらわれると、お金の支払いに注意が行ってしまいますが、実は「引き渡す」、「譲り渡す」という意味も入ってるんだと意識して広く考えなければなりません。

以上を踏まえると「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」というのは、次のような意味になります。この地上の国のことは地上の国に服している。税金もそのようなものとして払ってよい。しかし、「神の国」にかかわることは地上の国には服さないので地上の国に引き渡してはならない、譲り渡してはいけない。「神の国」にかかわることを地上の国の思い通りにさせてはならない。イエス様の答えは、そういう地上の国の権威を超えるものがあることを予感させたのです。それでは、「神の国」にかかわることで地上の国に譲り渡さない、思い通りにさせてはならないこととはどんなことでしょうか?地上の国に譲り渡さないこととは、将来「神の国」に迎え入れられることであり、今この世で「神の国」に向かう道を歩んでいるということです。これらを地上の国に譲り渡さないということです。もし地上の国がその道を進ませないようにしようとしたら、それに屈しないということです。

「神の国」にかかわることとは、「神の国」に向かう道を歩むことである。このことは、イエス様の十字架と復活の出来事を踏まえてみるとわかってきます。これについてもう少し詳しく述べます。

 キリスト信仰者というのは、神のひとり子イエス様がゴルゴタの十字架で私の罪を全て私に代わって神に対して償って下さったのだ、だから彼は私の救い主です、と信じてそう告白する者です。信仰者はまた洗礼を受けたのでこの罪の償いが効力を発揮して神から罪を赦された者と見なされる者です。神から罪を赦されたということは、神との結びつきを持ててこの世を生きるようになったということです。神との結びつきの中で生きるキリスト信仰者は、私のようなもののために神はひとり子を犠牲にすることも厭わなかったと神を畏れかしこみ、これからは神に背を向けずにその意思に沿うように生きようと志向するようになります。

しかしながら、そういう志向が生まれても、それに反しようとする性向もまだ残っています。それでキリスト信仰者は二つのものの間に挟まれて生きることになります。しかし、信仰者が罪の自覚を持たされる度に、洗礼の時に信仰者の内に駐留するようになった聖霊がすぐ信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてくれます。そこで神は「わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪はあそこで赦されている。だからこれからは罪を犯さないように」と言って下さり、神と信仰者の結びつきは失われずにしっかりあると教えて下さいます。罪以外のことでも心が打ち砕かれて神との結びつきなどなくなってしまったと感じられる時もあります。その時も同じです。洗礼を通して与えられた神との結びつきは自分から脱ぎ捨てない限り消え去ることはありません。

このようにキリスト信仰者はゴルゴタの十字架に立ち返ることを何度も何度も繰り返しながら前へ進みます。目指しているのは復活の日に「神の国」に迎え入れられることです。そもそもイエス様の復活というのは、死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、その命に至る道を人間に開いたということです。キリスト信仰者はその道に置かれてそれを歩むようになった者です。

キリスト信仰者は十字架に立ち返りながら将来の「神の国」を目指し、その間はこの世でしなければならないことをします。仕事があればそれをし、なければ探し、世話をする人がいれば世話をし、戦う病気があれば戦う、それらを絶えず十字架に立ち返りながら「神の国」を目指します。その時、しなければならないことの仕方、姿勢も定まってきます。パウロが言うように、高ぶらない、自惚れない、悪を憎み、悪に悪に返さず、全ての人の前で善を行い、喜ぶ人と喜び泣く人と共に泣き、自分では復讐せず最後の審判の時の神の怒りに任せ、今は敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々、そういう仕方、姿勢でしなければならないことをするのが当然になるということです。

キリスト信仰者が十字架に立ち返りながら「神の国」を目指して進む生き方をする時、日曜日の礼拝はそうした生き方にとって心臓と同じ役割を果たします。礼拝で神の御言葉に聴き、神を賛美し祈りを捧げ、聖餐に与ると霊的な清い血液が全身に送り出されて、平日の日常の中で各自が置かれた場で十字架への立ち返りと「神の国」を目指す力になります。あたかも疲れて汚れた血が再びきれいにされて心臓から全身に送り出されるように、信仰者も礼拝を通して清められて新しい週に旅立っていくのです。

3.あなたはどの死生観に立って生きるか?

そういうわけで、キリスト信仰者にとって礼拝を中心にした信仰の生き方ができれば別に皇帝がいても構わないということになります。しかし、民主主義が人間にとってベストな政治体制と考えられるようになった現代、ローマ皇帝のような専制君主がいても構わないなんて言うのはなんだかはやりません。まるで、現在、世界各地で民主主義に挑みかける権威主義体制を擁護するように聞こえてしまうかもしれません。イエス様は専制君主や権威主義を容認したことになるのか?実はそういうことではありません。そのことがわかるために、少し逆説的に聞こえるかもしれませんが、ローマ13章の教えを見てみます。

 そこでパウロはこの世の権威や権力に従うべしと教えています。権力は社会秩序のために処罰を行う、だから権威を敬い、税金をしっかり納めるようになどと勧めています。権力者が聞いたらキリスト教徒はなんと物分かりがいい連中だと微笑むでしょう。しかもパウロは従う理由として、全ての権威は神によって立てられたなどと言います。これをローマの皇帝だけでなく後世のあらゆる支配者が読んだらみんな大喜びでしょう。パウロは、俺の権力が神のお墨付きと言ってくれたぞ、と。

 ところが、この「神によって立てられた」というのは大変な裏があります。支配者が神によって立てられたということは、支配者の上に神があることになり、神が望めば支配者はいつでもその座から滑り落ちることになります。このことは、本日の旧約の日課イザヤ書45章でもはっきり言い表されています。キュロスというのは、ペルシャの国王でバビロン帝国を滅ぼして古代オリエントの覇者になった人です。ユダヤ人ではない異民族の人なのに聖書の神が彼を覇者の地位につかせるというのです。なぜ神はそうするのかと言うと、バビロン帝国を滅ぼすことでイスラエルの民を解放して祖国に帰還させるという昔からの預言を実現するためでした。これは歴史上、実際その通りになり、バビロンを滅ぼした後キュロスは勅令を出してイスラエルの民の祖国帰還とエルサレムの神殿の再建を許可します。紀元前538年に祖国帰還が実現します。イザヤ書45章7節で神は「平和をもたらし、災いを創造する者」と言われます。ヘブライ語の原文を直訳するとそうですが、神は地上の権力者の上に立つという観点でみたら、ここは「神は国に繁栄をもたらし滅亡をもたらす方」と訳した方がいいと思います。

このように天地創造の神は、異民族の王を用いてイスラエルの民のために預言を実現させました。ただし、日課の個所にもはっきり記されているように、キュロス自身は自分を動かしている神を知らずに、これらのことを行いました。本人はあたかも自分の力で全てのことを成し遂げているつもりだったのでしょうが、実はそうではなかったのです。宗教改革のルターも、国や民族の興亡は全て神の手に握られていて、国が興隆して栄えるのは神が風船に息を吹き込んでふくらますようなものであり、神が手を離したら最後、空気は抜けていくだけで誰もそれをくい止めることはできないと言っています。それ位、権力者というのは最後のところでは神に手綱を握られているというのが聖書の観点で、パウロもイエス様もそれをお見通しなわけです。そうであればあらゆる権力者の上に立つ神がやはり本当の権力者となり従うべき方となります。

この世の権力に従うことと神の意思に従うことが衝突しなければ問題ないのですが、歴史はそうならない事例に満ちてしまいました。まず、ペトロとヨハネがユダヤ教社会の指導部の前に連れていかれ、イエスの名を広めたら罰を受けると脅されました。それに対して二人は「神に従わないであなたがたに従うことが神の前に正しいかどうか考えよ」と答えます(使徒言行録4章19節)。これがこの世の権力に従う時のキリスト教徒の基準になりました。やがて権力者が、信仰を捨てるか命を捨てるかの選択を迫って迫害が起こるようになります。この日本でも起こりました。

信仰の自由が基本的人権として保障される現代では、そのような選択を迫られることはないというのが大前提です。しかしながら、最近の民主主義国で起こっていること、特にインターネットやSNSを通してどんな意見や考えが多数派を形成するか危なっかしい時代では、信仰を守るということでも目を覚ましていなければならないと思います。その場合、信仰を守ると言う時に何を守ることが信仰を守ることになるのか今一度考えてみることは大事です。礼拝を妨害を受けずに守れること、これが大事なことは言うまでもありませんが、もっと深いところにも心を留める必要があります。何かと言うと、死生観です。

この説教でお教えしてきたことから明らかなように、信仰というのは死生観を持って生きることと言うことが出来ます。キリスト信仰の死生観とは、復活の日に眠りから目覚めさせられて、肉の体とは異なる朽ちない復活の体を着せられて「神の国」に迎え入れられる、そういうことがあるのでこの世の歩みはそれを目指す歩みになるということです。その歩みをする際、絶えず主の十字架に立ち返りながら復活の日を目指すという歩み方になります。これがキリスト信仰の死生観です。キリスト信仰者がこのような死生観を持って生きるのは、聖書を繙いて学んでそうなのだと確信したからです。信仰の自由の侵害とはつまるところ、その死生観をやめてこっちにしろ、ということです。

キリスト信仰の死生観を捨てさせようとしたり、別の死生観を持たせようとする動きがないか注意することはいつの時代でも信仰の自由を守る基本であると言えるでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2023年10月15日(日)聖霊降臨後第20主日 主日礼拝

 

<マタイ22:1~14>

「神の恵みを受けよ」   スオミ教会2023・10・15

「子供は国の宝」と言います。日本で、今その子供の数が減って、お年寄りばかり増えています。これでは将来、国を支える働き手が、もう大変な事になります。

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子供が減っている、という事は、若い男女が結婚することが少ない、結婚しても子供を育てる事が大変だから、という事でしょう。さて、今日の聖書では、イエス様が語られた「王の一人息子、王子の婚宴」の譬えです。「イエスは、また、譬えで彼らに語って言われた。天国は、一人の王がその王子のために婚宴を催すようなものである。」イエス様はマタイ福音書21章のところで、二つの譬えを話されています。そして、今度はそれに加えてまた、重要な天国について、別の角度から話されたのです。21章の二つの譬えでは、いわばユダヤ教の指導者たちパリサイ人、又サドカイ人たちに向けての、彼らの罪と罰を痛烈に批難されました。その一つが「悪い葡萄園の農夫たちが主人の僕たちを次々に殺し、最後には主人の一人息子まで殺してしまう、そこで主人は大変怒ってこの悪い農夫たちを全部、滅ぼしてしまうという話です。今度の王の婚宴の譬えは、王の招きを拒んでしまう者への罰です。前と違うのは特に新しい国民であるキリスト教会の在り方について詳しく示しています。今度の譬えで語られた「王」と言うのは神様のこと、「王子」はイエス・キリストの事です。「婚宴」とは、神の国の事、「招かれていた人たち」とは、ユダヤの民の事です。

そして、神はここでも、婚宴の用意をすべて一手に引き受けておられます。又、神はここでもまず「客を招き」実際の婚宴の時刻になると「僕たちを遣わし」断られても、ほかの僕たちを遣わす、と言うほどの忍耐と寛容を示しておられます。前の「悪い葡萄園の農夫」の譬えでもそうでした。遣わされた僕たちが殺されても主人は忍耐して、最も大事な1人息子を遣わすのです。神の忍耐と神の恵み、寛容の豊かさに関しては二つの譬えは全くおなじです。今度の譬えで二つの新たな真理を教えておられる。第一は、この譬えで神の国が「婚宴」という喜びの場に、たとえられている点で神の恵みは一層大きなものになっています。又、前の譬えでは、神の国は「葡萄園」であり、ユダヤ人は働き人でなければなりませんでした。今度の神の国は「婚宴」でありユダヤ人は飲み食い楽しめばよい。第二は、前の譬えの事件が起こったのは葡萄の収穫の季節でした。今度の譬えでは「王子のための婚宴」という時です。収穫の秋は毎年巡って来ますから、悪い農夫の代わりに別の新しい農夫に委託すれば来年からは、やり直しの余地があります。ところが王子の婚宴は毎年やり直しのきかない一度限りの目出度い時です。神の招きは充分準備も整えられて熱意に満ちています。神の並々ならぬ熱意です。従って、今度は派遣される僕たちも、すべてが整った終わりの時の僕たちです。さて、第三には、前の譬えの悪い葡萄園の農夫たちは、つまりユダヤ民族の指導者が中心でした。今度は神の招きを受けているのはユダヤ人全部です。そして、神の招きは楽しい、しかもやり直しのきかない婚宴の招きですから、これを拒むユダヤ人の罪は、前よりはるかに重く悪質になります。この譬えで、この招きを拒否した者どもの一つは、婚宴の招待を受けていながら、知らぬ顔をする者です。具体的には自分の畑に行かねばならないから、或いは自分の商売に出て行くので参りません、と言った態度です。つまり、王のことより自分の事を優先して考え、目出度い大切な婚宴を無視する態度です。もう一つは悪い農夫と同じく僕たちを侮辱し殺してしまう、という敵対的態度です。この両方の態度は同じで、どちらも王子の婚宴に来ないという点で王と王子への反逆を露骨に示す極悪人です。ですから、王は立腹し、軍隊を送って人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払ったのです。そうして王は更に僕たちに言った。「婚宴の用意は来ているが招かれていたのは相応しくない人々であった。だから、町の大通りに出て行って出会った人は誰でも婚宴に連れてきなさい」と命じました。そこで僕たちは道に出て行って出会う人は悪人でも善人でも、皆集めて来たので婚宴の席はいっぱいになった。これがこの譬えの第二幕です。言い換えますと神が用意した御国をユダヤ人が見向きもしないで、み心に応じなかった。それなら、異邦人に神の恵みを提供してやろうとされた。それは神ご自身の体面、神ご自身の栄光のためでありました。このように王の方針は大きく変わったのです。神の救いはユダヤの民に限らず異邦人の全世界へと広まるのであります。次に、この招きは悪人でも善人でも、みんな誰もが招かれているのです。イエス様は既に21章31節で「徴税人や遊女はあなた方より先に神の国に入る」と言われました。こうした悪人と言われる人たちさえ決して招きから除外されてはいない。どれほど罪と悪に沈んでいた人も、王の婚宴に来て王の喜びに加わる事によって、あの無礼な客たちよりも王を喜ばせ、王の誉れを上げる事が出来るのです。神様の招きはどんな民族であっても、或いはどんな肌の色の人種の区別なく、又、文化や習慣の区別なく、招かれている恵みの世界です。この招きと約束は誠実です。神の聖なる世界ですから。人生の旅路において通り過ぎないで、足をとめ、方向転換し、神の悦ばしい招きに応えて行く人生へと変えられるのです。

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さて、11節~13節を見ますと、婚宴の席はいっぱいになり、そこへ客として迎えた人々を見て、そこに礼服をつけていない一人の人を見て言った。「友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで此処へ入って来たのか」しかし彼は黙っていた。そこで王は、そばの者たちに言った。「この者の手足を縛って外の闇に放り出せ、そこで泣き叫んだり、歯噛みをしたりするであろう」。これが第三幕です。

13節で言われている「外の闇に放り出させ」とありますが、普通なら宴会場の外の闇と理解するでしょう。でもユダヤの宴会は必ずしも夜だけ開かれたわけではありません。平民でも婚宴は一週間ぶっ通しで行われましたから、まして王子の婚宴ならもっと長い間、昼も夜も徹して催されたでしょう。ですから「外の暗闇」というのが宴会場の外の庭や道を指すとは考えられない。むしろ、これは地獄の暗闇に落とされる、という怒りと審きの姿を表すところの慣用句でありました。この譬えの結果が教える厳粛な事実は審き日に列席者の中からはみ出される者がある、という事実です。確かに神はすべての人を招き、しかも誠実に熱心に招いておられる。しかし、では招かれればみな宴会の席に着けるか、というとそうではない、ということです。イエス様が特に選んだ使徒の中からさえ裏切り者のユダが出たではありませんか。この譬えで言われた「礼服」とは何を指すのでしょう。

7章21節には「主よ、主よ、と言う者がみな天国へ入るのではない、ただ、天にいます我が父のみ旨を行う者だけが入るのである」と言われました。18章3節には「心を入れ替えて幼子のようにならなければ天国に入る事は出来ないであろう」とあります。つまり「礼服」とは幼子のようにへりくだる謙遜さ、キリストを人前で言い表す信仰、律法学者やパリサイ人以上の義なる生活の全体ということです。言い換えると「礼服」とはガラテヤ書で言われている「キリストに合うバプテスマを受けたあなた方は皆キリストを着たのでる」そのキリストであります。又、エペソ書4章22節以下に「滅び行く古き人を脱ぎ捨てて心の深みまで新たにされ神にかたどって造られた新しい人を着るべきです。」この新しき人に変えられる事こそ王の前に礼服を着ることであります。婚宴の招きに応える人は王の客に相応しい「礼服」をつけ、新しき人を着ることであります。では「礼服」は何処で手に入れる事が出来るでしょうか。譬えの中ではその必要性が強調されるだけで、触れられてはいません。何故か当時の人々には分かりきっているからです。まず、この招きは婚宴が開かれる直前に僕たちが通行人を一刻の猶予もなく王宮へ直行させたと思われます。誰もが礼服など持っていません。礼服は王宮で王からちゃんと支給されたのです。この習慣は広く行われていました。ところが1人だけ礼服をつけていなかった。この人だけ王から与えられる「礼服」を拒否したのです。彼は招きに応えて神の家に来た、しかし神の威光の前に出るのに必要な与えられる恵みの賜物を拒んだのです。ともかく神の子の婚宴に出る必要な礼服をないがしろにしたのです。神の栄光を表すに要する賜物を無視する人は永遠の地獄の暗闇に放り出されるのであります。神は私たちに溢れるばかりの恵みの賜物を与えて下さっているのであります。その神の賜物と、この神の招きを受けるに相応しい人生を送ってこそ、神の喜び、祝福に預かる事が出来るのであります。

アーメン・ハレルヤ

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

説教「キリスト信仰者は神の国を目指す」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書 21章33-44節

主日礼拝説教 2023年10月8 日 聖霊降臨後第19主日 市ヶ谷教会にての説教

聖書日課 イザヤ5章1-7節、フィリピ3章4b-14節、マタイ21章33-44節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イザヤ書5章の「ブドウ畑」のたとえ

本日のイエス様のたとえの教えは、聖書を読んだことのある人なら理解しやすいのではないかと思います。ブドウ園の所有者は天地創造の神を指し、所有者が送った僕たちは神が遣わした預言者たちを指す。これに乱暴を加え殺すことまでしてしまう農夫たちはユダヤ教社会の指導者たち、そして所有者が最後に送る息子はイエス様、という具合に登場人物が誰を指すかは一目瞭然です。

これがわかれば、たとえの内容もわかります。天地創造の神は世界の数ある民族の中からイスラエルの民を自分の民として選ばれた。彼らはモーセを介して神から律法を授けられて、それを誇りに思い一生懸命に守ろうとした。ところが民の心は次第に神から離れていって、神の意思に反する生き方に走っていってしまった。社会秩序も乱れ悪と不正がはびこってしまった。

そこで神は民が自分のもとに立ち返ることが出来るようにと預言者を立て続けに送った。しかし、誰も耳を貨さず迫害して殺してしまった。最後の最後には愛するひとり子のイエス様を贈ったが、それさえも彼らは十字架にかけて殺してしまった。このように私たちは、イエス様のたとえをなんなく理解できます。でも、それは私たちが、イエス様が十字架にかけられたことを知っているからです。ところが、このたとえを十字架の出来事の前に聞かされたら、どうでしょうか?このたとえは当時のユダヤ教社会の指導者たちに向けて話されました。彼らはこれをどう理解したでしょうか?

指導者たちがこのたとえを理解できる手掛かりがひとつありました。それは、本日の旧約聖書の日課イザヤ書5章1~7節の聖句です。天地創造の神とその「愛する者」があたかも一心同体の者のようにぶどう畑を持っていたという、これもたとえです。そこで、一生懸命働いて良いぶどうが実るのを待ったが、出来たのは酸っぱくて、ぶどう酒に向かないぶどうが出来てしまった。そういうことを歌にして歌った後で神は、この恩知らずのぶどう畑はイスラエルの民の情けない現状である、と解き明しを始めます。ここでブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すことが明らかになります。その神と一心同体になってぶどう畑を所有して世話を焼く「愛する者」とは一体誰か?キリスト信仰の観点からすればやはり御子イエス様を指すのは間違いないでしょう。

さて神は、イスラエルの民が良い実を実らせるように出来るだけのことをした。民を奴隷の地エジプトから解放して約束の地カナンに定住させた。その途上で律法を授け、敵対する民族の攻撃から守ってあげた。それなのに民は神の意思に反する生き方に走ってしまった。イスラエルの民が良い実を実らせないぶどう畑にたとえられるというのは、そういう当時の状況をよく言い表していました。さて、当時ユダヤ民族は南北二つの王国に分裂していましたが、北の王国は紀元前722年にアッシュリアという大帝国に滅ぼされてしまいました。南の王国はその後130年近く持ちこたえますが、これも紀元前587年にバビロン帝国に滅ぼされてしまいます。まさにイザヤ書5章5~6節で言われるような神に見捨てられたぶどう畑のようになってしまったのです。イザヤが書き記した神の御言葉はまさに預言として実現してしまったのです。

2.イエス様の「ブドウ園と農夫たち」のたとえ

イザヤの時代から700年以上経った後で、イエス様がブドウ畑と農夫のたとえを話しました。相手はユダヤ教社会の指導的地位にある人たちでした。みんな旧約聖書の中身をよく知っている人たちです。イエス様が「ブドウ畑の所有者が垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てて」などと話すのを聞いて、彼らはすかさずイザヤ書5章の冒頭を思い浮かべたでしょう。それで、ブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すということもわかったでしょう。ところが、イエス様のたとえにはイザヤ書にないものがいろいろ出て来ます。農夫がそうですし、所有者が送った僕や息子もそうでした。指導者たちは「この預言者の再来と民衆に騒がれているイエスは、イザヤ書の聖句を引き合いに出して何を言おうとしているのだ?」と首を傾げつつ耳を傾けたでしょう。

実はイエス様のたとえにはイザヤ書の引用ということの他に、当時の社会と経済の現実が織り交ざっているという面もありました。どういうことかと言うと、ブドウ畑の所有者は農夫に畑を任せて旅に出ました。日本語で「旅に出た」と訳されているギリシャ語の動詞(αποδημεω)ですが、これは「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして外国が旅先になるのかと言うと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ畑を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者と労働者が異なる国の出身ということはごく普通だったのです。「外国に出かけた」というのは、所有者が自国に帰ったということでしょう。こうした背景を考えると、農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたのは筋が通ります。普通だったら、そんなことをしたらすぐ逮捕されて自分たちのものなんかになりません。しめしめ、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国だ、邪魔者はいない、ブドウ畑は俺たちのもの、ということです。

そうなると、このたとえはブドウ畑の外国人所有者に対する現地労働者の反乱について言っているように聞こえるかもしれません。しかし、イザヤ書の聖句が土台にあることを忘れてはなりません。そうすると、所有者に対する反乱は神に対する反乱であることがわかります。所有者が送った僕が殺されるというのも、バビロン捕囚の経験からして神が送った預言者たちを国の指導者たちが迫害したことだとわかります。そうなると邪悪な農夫たちは国の指導者を指すとわかります。

それならば、所有者の息子とは誰のことなのか?所有者が神を意味するなら息子は神の子ということになる。指導者たちが神の子をも殺してしまうなどと言っている。それは一体なんのことなのか?たとえを聞いた指導者たちはそう思ったでしょう。そして思い当たりました。そう言えば、このイエスは自分を神の子と自称しているそうではないか。まさか…という感じになった、まさにその時でした。イエス様が指導者たちに質問しました。「ブドウ園の所有者が戻ってきたら、雇われ農夫たちをどうするか?」まだたとえの本当の意味がわかっていない指導者たちは当たり前のように答えます。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ブドウ園はきちんと収穫を収めるほかの農夫たちに貸すだろう。」

この答えの後でイエス様はすぐ「隅の親石」の話をします(42節)。家を建てる者が捨てたはずの石が、逆に建物の基となる「隅の親石」になったという、詩篇118篇22ー23節の聖句です。これも、私たちから見れば、意味は明らかです。捨てられたのは十字架に架けられたイエス様、それが死からの復活を経てキリスト教会の基になったのです。その石を捨てた、「家を建てる者」とは、イエス様を十字架刑に引き渡したユダヤ教社会の指導者たちです。十字架と復活の出来事が起きる前にこの聖句を聞いた人たちは一体何のことかさっぱりわからなかったでしょう。ただ、「隅の親石」を捨てたというのは、価値あるものを理解できない者であるとわかります。それは、先ほどの農夫同様に邪悪な者を指しているとわかります。一体、この男はイザヤ書と詩篇の聖句をもとにして何を言いたいのか?指導者たちはイエス様の次の言葉を固唾を飲んで待ちました。

 そこでイエス様は全てを解き明かします。「それゆえ、お前たちから神の国は取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)。日本語で「民族」と訳されているギリシャ語の言葉(εθνος)は、たいていはユダヤ民族以外の民族を指す言葉です。日本語で「異邦人」と訳されます。ここにきてイエス様の教えの全容がはっきりしました。イエス様はイザヤ書のたとえを土台にして彼の時代の社会経済状況を織り交ぜて、ぶどう畑のたとえを話されました。それは、イザヤ書のたとえはバビロン捕囚に至るユダヤ民族の過去の歴史で完結していないことを教えているのです。神の意思はイザヤの時代も今も変わらない、それなので神が望むような実を結ばなければ社会の衰退と混乱、国土の荒廃をもたらすだけでなく、神の国を受け継ぐ資格も失ってしまうと教えているのです。イエス様の時代の700年以上も前に預言されて500年以上も前にとっくに実現済みと思われていたことは、実はまだ続いているということを教えているのです。

 ここまでイエス様の話を聞いていた指導者たちが激怒したのは無理もありません。ブドウ畑を神の国と言うのなら、その所有者は神です。神が送ったのに迫害され殺された僕たちとは旧約聖書に登場する預言者たちのことです。つまり、邪悪な農夫はユダヤ教社会の指導者たちのことです。その指導者たちが神の子を殺してしまうなどと言う。我々が神の子を殺すとでも言うのか?この男が神の子だと言うのか?これこそ神に対する冒涜だ!しかも、我々ユダヤ民族が受け継ぐことになっている神の国が取り上げられて、異邦人が受け継ぐようになるなどと言う!冗談も休み休みにしろ!このように怒りが燃え上がった指導者たちは寸でのところでイエス様を捕えようとしましたが、まわりにイエス様を支持する群衆が大勢いたためできませんでした。

3.「神の国」とは?

イエス様のたとえの中でまだ実現していなかったこと、神のひとり子が指導者たちによって殺されて、ユダヤ民族が神の国を受け継ぐ資格を失い代わりに異邦人が受け継ぐようになるということ、これはゴルゴタの十字架の出来事が起きることでその通りになりました。そしてイエス様の復活後にキリスト教会が誕生しました。イエス様を救い主と信じるユダヤ人に加えて同じ信仰を持つ異邦人がなだれ込んで来るようになりました。さらに西暦70年にユダヤ民族の首都エルサレムとその神殿はローマ帝国の大軍の攻撃により壊滅し、その後キリスト教の主流はユダヤ人キリスト教徒から異邦人キリスト教徒に移っていきました。このようにイエス様の言われたことは見事に実現してしまったわけですが、このたとえも過去のものとして片付けてしまっていいのでしょうか?

そうではないのです。このイエス様のたとえは、全てのことが実現した後でも、人間にどう生きるべきかを教えているのです。イエス様の時代から2000年経った今でもそうです。現代の私たちの地点から見たら過ぎ去った過去のことを言っているにしか見えないかもしれませんが、今を生きる私たちにどう生きるべきか教えているのです。そのことがわかるために、「神の国」が「神の国の実を結ぶ民族」に与えられる、と言っていることに注目します。新共同訳では「それにふさわしい実を結ぶ民族」となっていますが、「それ」は「神の国」を指します。「神の国にふさわしい実を結ぶ」というのは、ギリシャ語原文を忠実に訳すと「神の国の実を結ぶ」です。「ふさわしい」はなくてずばり「神の国の実」そのものを結ぶということです。「民族」というのは、先ほども申し上げたように、ユダヤ民族以外の「異邦人」です。つまり、ユダヤ民族であるかどうかに関係なく、「神の国の実を結ぶ者」に「神の国」が与えられると言っているのです。それでは、「神の国の実を結ぶ」とは何なのか?何をすることが「神の国の実を結ぶ」ことなのか?そもそも、その「神の国」とは何なのか?ユダヤ民族の指導者たちは取り上げられると言われて激怒したが、異邦人の私たちは与えられて嬉しいものなのか?

 神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」とか「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間が五感や理性を用いて認識・把握できる現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とこの中にあるもの全てを造られた後、自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、この現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、愛するひとり子を御許からこの世に贈り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。

 神の国は今は私たちの目に見える形にはありません。それが、目に見えるようになる日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる日です。その時、再臨されるイエス様が、その時点で生きている信仰者たちと、その日眠りから目覚めさせられて復活する者たちを一緒にして、神の国に迎え入れられます。もちろん、最後の審判があることも忘れてはなりません。

その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを言い当てています。

 このように神の国は神聖な神の神聖な意思が貫かれているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間というのは、もともとはそのような神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神の意思に反する罪を持つようになってしまったために神のもとにいることができなくなり、神との結びつきが失われてしまいました。それで人間は死ぬ存在になってしまったのです。この辺の事情は創世記3章に詳しく記されています。

 神は、このような悲劇が起きたことを深く悲しみ、なんとか人間との結びつきを回復させようと考えました。神との結びつきが回復すれば人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。この世から別れることになっても、復活の日まで安らかな眠りにつき、その日が来たら目覚めさせられ、復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。こうしたことが可能になるためには、神との結びつきを失わせている罪を人間から除去しなければなりません。人間は罪のない清い存在にならなければならないのです。しかし、人間は神の意思に完全に沿うように生きられないのでそれは不可能です。

 この問題を解決するために神はひとり子イエス様をこの世に贈りました。人間の罪を全部イエス様に背負わせてゴルゴタの十字架の上にまで運び上げさせ、そこで神罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせました。神は文字通りイエス様に人間の罪の償いをさせたのでした。話はそこで終わりません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、その命に至る道を人間に切り開かれました。そこで今度は私たち人間の方が、これらのことは全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、罪を償われたからその人は神から罪を赦された者と見てもらえます。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになって、感謝と畏れ多い気持ちに満たされて、これからは罪を犯さないようにしようと、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようという心になります。

 ところが、キリスト信仰者と言えどもこの世ではまだ肉を纏って生きていますから、まだ罪を内に持っています。しかし、信仰者は神の意思に反することが自分にあると気づくと神に背を背けずに直ぐ神の方を向いて赦しを祈り願います。すると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてこう言います。「お前の罪はあそこで赦されている。だからもう罪を犯さないように。」そのように信仰者を新しいスタート地点に立たせてくれるのが罪の赦しです。罪を許可することではありません。罪は犯してはいけないのです。行いや言葉だけでなく心の思いも神の意思に反することは罪なのです。そんな罪ある私たちが神との結びつきを持てるようになるために神のひとり子の犠牲がなければならなかったのです。キリスト信仰者は神の意思に反する罪をイエス様の犠牲に免じて不問にしてもらって新しく出直すことを繰り返す種族です。そのことは本日の使徒書の日課フィリピ3章の中で使徒パウロも言っています。「過去のことは顧みないで前にあるものに身を乗り出すようにして自分はゴール目指してひたすら走る」と(13~14節)。ゴールとは、言うまでもなく神の国へ迎え入れられる地点です。神の国への迎え入れが賞として授与されるのです。

4.神の国の実を結ぶとは?

最後に「神の国の実を結ぶ」とはどういうことか見てみます。イエス様は、その実を結ぶ者に「神の国」が与えられると言われました。先ほど述べたことからわかるように、罪の赦しという神のお恵みを頂いて神の国への迎え入れを目指して歩むキリスト信仰者に神の国が与えられます。ということは、罪の赦しのお恵みの中で生きて神の国への迎え入れを目指して歩むことが神の国の実を結ぶことになります。つまり、こういうことになります。

 キリスト信仰者というのは、罪の赦しのお恵みを頂いたので神の意思に沿うように生きようと志向する者です。神の意思に沿うようにしようとするのは、神に目をかけてもらうためとか、何かご褒美を期待してするのではありません。全く逆です。こちらはまだ何もしていないのに一足先に神の方が私に目をかけて罪の赦しをお恵みのように与えてしまった、だからもう神の意思に沿うように生きるしかないと観念する。そのように神の意思に沿うことが何かの手段ではなく結果になっていることが神の国の実を結ぶことです。それともう一つ。罪の赦しのお恵みの中で生きると、罪を自覚し赦しを祈り願う、そしてイエス様の犠牲に免じて罪の赦しを頂いて新しく出直す、このことを何度も何度も繰り返す生き方になります。そうすることで神の意思に反することに与しない、罪に反抗する生き方をしていることになります。これも神の国の実を結ぶことです。

 そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しのお恵みに留まって神の国の迎え入れを目指して歩むことが神の国の実を結ぶことになるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

2023年10月8日(日)聖霊降臨後第19主日 主日礼拝

「これは、主がなさったことで」マタイ21:33-46

[はじめに]

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。(2コリント 1:2ほか)

[導入]

私たちは、自分自身の人生を意味あるものにしたいと願っています。そのために、自分の人生の価値を高めるために、より効率的に、より生産的に生きたいと願うことは自然なのかもしれません。最近では「タイパ」という言葉がよく使われるそうです。タイム・パフォーマンスの略で、短い時間でいかに効率良く成果を上げられるか、という意味だそうです。その一環として、動画配信サイトなどでは、映画のあらすじを5-10分程度で紹介する動画もとても人気だそうです。しかし、2時間の映画を10分に短縮したら、それは情報にはなるかもしれませんが、元の映画が表現しようとしたものは伝わるのかと言えば、はなはだ疑問であると言わざるを得ないでしょう。効率と生産性を求め、無駄・無意味を排除していくことは、実はむしろ人生の中での様々な体験を貧しいものにしてしまうことになるのではないでしょうか。そして、むしろ自分が無駄・無意味であると考える時、そこでしか出会えない、聖なるものがある、ということも、私たちの人生における神秘であると思うのです。それは、聖書の語る主イエスの十字架、福音の出来事にもまた通じるのではないか。そのように思うのです。

本日の日課から聞いて参りたいと思います。

[展開]

マタイによる福音書では21章の冒頭で、主イエスは「平和の王」として都エルサレムに入城します。大勢の群衆が主イエスを歓呼をもって迎えますが、同時に多くの者がこの人は何者なのかと訝しんだことが報告されています。このイエスという人物を受け入れるべきか、拒むべきなのか、主イエスの都の舞台への登場は人々に戸惑いを引き起こすこととなったのでした。そしてエルサレムの都にある唯一の神殿の境内で主イエスは人々に教えを語ることとなります。神殿の境内とはいわば、宗教的な権威者達が自分のテリトリー・縄張りとしていた場所に他なりませんでした。それゆえに、そこに入り込んで来て、人々に勝手に語るイエスという男に対して「何の権威でこのようなことをしているのか」と宗教的な権威者達は問い糾すこととなったのでした。彼らからの詰問に応える形で、主イエスは3つの譬え話を語られることとなります。一つ目のたとえの結びでは主イエスは、宗教的な権威者達に対して、「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」と語られます。つまり、当時の社会秩序の基準からは、排除されていた者たちの方が、誰よりも信仰深く多くの知識を有していると自認している者たちよりも先になると語られるのです。それは、神殿の中枢にいる、いわば最も神の国に近いと自認している者たちに対して、主イエスは彼らの立っているその足元を揺るがされるのでした。それにさらに続いて本日の福音書の日課の譬え話が語られることとなります。

主イエスが語られる「ぶどう園と農夫」の譬え話は、もしこの箇所だけを取り出して読むならば、何を言いたいのか理解しがたいと言わざるを得ないでしょう。無防備に使いの者を派遣しつづける、ぶどう園の主人はまるで無策としか言いようがありません。それどころか、先の多くの使者に暴力がふるわれているにも関わらず、またしても何の対策も無しに跡取り息子を派遣するのです。その姿は、およそ危機管理というものを知らないのではないかと思わずにはいられません。そのようなことが出来る主人がもし存在するとするならば、遣っても遣っても減ることのない無尽蔵の資産を持っているか、あるいは、およそ人間ではありえないような愛情と寛容さを備えているかとしか考えられないといえるでしょう。しかし、私たちは先の第1のたとえからの続きでこの第2のたとえを読むとき、これが私たち人間の価値観に基づいているのではなく、その根幹にあるものは神の国の基準であることを思い起こすこととなる。それはこの地上において見える序列や権威とは相反する価値基準であり、この地上においては無策・無価値とも見えるほどの無限の寛容さと愛情に基づくものであることを思い起こすこととなるのです。

本日の譬え話は、主なる神が民に遣わしてきた預言者達の運命を示唆していること、そして最後に神の子である主イエスの派遣とその運命を象徴していることは、言われてみれば一目瞭然であると言えるでしょう。その意味でこの譬え話は主イエスの受難の予告である、とも言えるのです。「何の権威でこのようなことをしているのか」と問い糺されたことに対して、この譬え話が語られる時、主イエスの権威とは、この地上における序列でもなければ、人として有する知識や敬虔さの深さでもない、ということ、すなわち主イエスの権威とは、そのひとり子をこの地上に送られた主なる神のその無限の愛と寛容さに基づくものに他ならないのです。主イエスはただ、主なる神の限りのない、そしてまた人にははかり知れない神の愛のゆえに、その十字架の運命の待つこの地上に与えられたのでした。主イエスがこの地上に使わされ、無力な姿で十字架へと歩むその道筋は、私たち人間の目には、無駄で無策な歩みにしか映りません。しかしそれは、この地上においてその苦しみの中で生きる者を救おうとする神の限りのない愛のゆえに実現した出来事であることを、聖書は私たちに示すのです。

[結び]

42節で引用されている詩編の言葉は、この主イエスを基礎の石として教会が造り上げられていることを語ります。人の目から見るならば捨てられるしかない石こそが、逆に私たちを砕くと聖書は語るのです。この地上において、私たちは自分自身の知っているところ、見えるところの価値基準によって、人を裁いてしまいます。しかし実は、その同じ価値基準によって、自分自身もまた裁かれてしまうのです。この地上において私たちは、これこそが効率的・生産的であり、多くの実りを生み出す正解であると思えるものを求め利用する生き方をしています。しかし実は、そのことを繰り返していく中では、自分自身もまたただ自分が使い尽くされ、消費されていくだけの存在であるという事実に、いずれ直面することとなるのです。この地上においてはこの私もまた、時と共にもはや価値など無いと断じられ、捨てられる時が来ることをただ怯えるしかないことを私たちは知るのです。けれども、捨てられた石、十字架にかけられた主イエスを基として教会は建てられました。そこで私たちは、神の限りのない、そしてはかり知れない神の愛に私たちが出会い、自らの価値基準そのものが大きく変えられていく、こととなるのです。

本日の譬え話が語られた都と神殿は、その後のローマとユダヤとの戦争によって徹底的に破壊されてしまうこととなります。しかしその一方で、神の限りのない愛は永遠に砕けることなく残り続けるのでした。

無制限の愛と寛容さとをもって主なる神がなさったこと、それは私たち人間の目には、なんとも理解しがたい事柄です。けれどもそれを言うならば、この地上にこの小さく弱い存在でしかない私たち自身に命を与えられたことそのものが、まさに無制限の愛と寛容さゆえの出来事に他なりません。そしてさらにその小さく弱い存在でしたかに私たちに、新しい命の力を与えるため、主イエス・キリストを与え、主イエスの命を、十字架を通して分かち合ってくださったのです。だからこそ、十字架を見上げるとき、私たちはそこに主なる神の私たちへの限りの無い愛を思い起こすのです。主イエスの十字架を通して私たちに与えられた神の深い、無限の愛に生かされ支えられつつ、新しい週を共に歩んで参りましょう。

[終わりに]

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。(ローマ15:13)

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

説教「過去の呪縛や祟りから解放されて新しく生きる」吉村博明 宣教師、エゼキエル18章1-4、マタイによる福音書 21章23-32節

主日礼拝説教 2020年10月1日(聖霊降臨後第18主日)

聖書日課 エゼキエル18章1-4、25-32節、フィリピ1章1-13節、マタイ21章23-32節

説教をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の旧約聖書の日課エゼキエル書の個所と福音書の日課マタイの個所は全く異なる出来事が記されていますが、よく見ると共通するものが見えてきます。過去の呪縛から解放されて新しく生きるということです。

 エゼキエル書の個所は紀元前500年代の時の話です。かつてダビデ・ソロモン王の時代に栄えたユダヤ民族の王国は神の意思に背く生き方に走り、多くの預言者の警告にもかかわらず、指導者から国民に至るまで罪に染まり、国は分裂、社会秩序も乱れ、外国の侵入にも晒され続けます。最後は神の罰としてバビロン帝国の攻撃を受けて完全に滅びてしまいます。民の主だった者たちは異国の地に連行されて行きました。世界史の授業にも出てくる「バビロン捕囚」の出来事です。

 ユダヤ民族の首都エルサレムが陥落する直前の時でした。人々はこんなことわざを口々に唱えていました。「先祖が酢いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く。」熟していない酸っぱいぶどうを食べて歯が浮くような違和感を覚えるのは食べた本人ではなく子孫だと言うのです。これは、先祖が犯した罪の罰を子孫が受けるという意味です。滅亡する自分たちは、まさに先祖が犯した罪のせいで神から罰を受けていると言うのです。民の間には、それは当然のことで仕方がないというあきらめがありました。それをこのことわざが代弁していました。先祖のせいで神罰を受けなければならないのなら、今さら何をしても無駄、自分たちの運命は先祖のおかげで決まってしまったのだと。これに対して神は預言者エゼキエルの口を通して民のこの運命決定論の考えを改めます。今こそ悪から離れて神に立ち返れ、そうすれば死ぬことはない必ず生きる、と。そして、このことわざも口にすることがなくなる、と。以上がエゼキエル書の個所の概要です。

マタイ福音書の方は、バビロン捕囚から600年位たったあとの、ユダヤ民族がローマ帝国に支配されていた時代の出来事です。イエス様が民族の解放者と目されて群衆の歓呼の中を首都エルサレムに入城しました。そこの神殿に行き、敷地内で商売をしていた人たちを荒々しく追い出しました。商売というのは神殿で生贄に捧げる動物などを売っていた人たちですが、イエス様の行動は神殿の秩序と権威に対する挑戦と受け取られました。さらにイエス様は群衆の前で神と神の国について教え、病気の人たちを癒す奇跡の業を行いました。人々は彼のことをますます王国を復興する王メシアと信じるようになりました。

これに対して民族の指導者たちは反発し、イエス様のもとに来て聞きます。「お前は何の権威でこのようなことをしているのか?」イエス様はそれには直接答えず、洗礼者ヨハネの洗礼は神由来のものか人間由来のものか、と尋ね返します。指導者たちははっきり答えなかったので、イエス様も答えるのを拒否しました。これを読むとなんだか素っ気ない感じがします。私など、洗礼者ヨハネのことなんか持ち出さないで、すぐ自分の権威は天の父なるみ神から来たと言えばよかったのになどと思ったりします。

その後に二人の息子のたとえが続きます。父親にブドウ畑に行って働きなさいと言われて、一番目の息子は最初行かないと言ったが思い直して行った、二番目のは最初行くと言ったが実際は行かなかったという話でした。イエス様は、一番目の息子は洗礼者ヨハネの教えを信じた徴税人や娼婦たちのことで、彼らは指導者たちに先駆けて神の国に迎え入れられるなどと言います。洗礼者ヨハネのことがまた出てきました。きっと先のイエス様と指導者たちのやり取りが続いているということなのですが、どう続いているのか繋がりがよく見えません。実は、このマタイ福音書の個所も過去の呪縛から解放されて新しく生きることを言っていることがわかると、その繋がりが見えてきます。そういうわけで、本日の説教はエゼキエル書の個所とマタイ福音書の個所を中心に見ていこうと思います。

2.エゼキエル18章1~4、25~32節

エゼキエル書の個所で問題となっていたのは、イスラエルの民が滅亡の悲劇に遭遇しているのは先祖たちの罪が原因で今自分たちはその神罰を受けているという見方でした。そのことを皆が口にすることわざが言い表していました。先祖たちがどんな罪を犯していたか、本日の日課から外されている5~21節に記されています。それを見てみますと、偶像を崇拝したりその供え物を食べること、他人から奪い取ったり負債を抱える者に情けを示さないこと、不倫を行うこと、食べ物や衣服に困った人を助けないこと、貸す時に高い利子を付けて貸すなど自分の利益しか考えないこと、不正に手を染めること、事実に基づかないで裁きを行うこと等々、神の意思や掟に従わないことです。なんだか現代の日本の社会のことを言っているみたいですが、どうでしょうか?神は、こうしたことをやめて神に立ち返る生き方をしなさい、そうすれば死なないで生きるのだ、と言われます。

 この、死なないで生きるというのは深く考える必要があります。一見すると、神の意思に沿うように生きれば外国に攻められて死ぬことはなく平和に長生きできるというふうに考えられます。しかしながら、聖書では「生きる」「死ぬ」というのは実は、この世を生きる、この世から死ぬというような、この世を中心にした「生きる」「死ぬ」よりももっと深い意味があります。この世の人生を終えた後で、永遠に生きる、あるいは、永遠の滅びの苦しみを受けるという、そういう永遠を中心にした「生きる」「死ぬ」の意味で言っています。天地創造の神は、ご自分が選んだイスラエルの民の歴史の中で、神の意思に沿えば国は栄えて民は生きられるが、逆らえば滅んで死んでしまうという出来事を起こします。そのようにして神は、特定の民族の具体的な歴史をモデルにして、自分には永遠の「生きる」や「死ぬ」を決める力があることを全ての人間にわかりやすく示しているのです。

 先にも申しましたように、イスラエルの民の問題点は、自分たちの不幸な境遇は先祖の犯した罪が原因だと思っていたことにありました。そうであれば、自分たちが何をしても運命は変えられません。先祖がそれを決定づけてしまったのですから。今さら神の意思に沿うように生きようとしても無駄です。しかし、神はそのような見方から民を解き放とうとします。そこで神は言います。裁きは罪を犯した者だけに関わるのであると。だから、お前たちがこれから神の意思に沿うように生きることは無駄なことではなく、お前たちは死なずに生きることになるのだ、と。この「死なない」「生きる」は先にも申しましたように、滅亡寸前の祖国でうまく敵の手を逃れて生きながらえるという意味よりも大きな意味です。たとえ、敵の手にかかって命を落とすことになっても、永遠の滅びの苦しみには落ちないで永遠の命に迎え入れられるということです。神のもとに立ち返って神の意思に沿う生き方を始めることが無意味、無駄ということはなくなるのです。

 さて、罪の責任は先祖や他人のものはもう自分は負わなくてすむことになりました。そこには大きな解放感があります。もう、自分と神の関係を考える際に、先祖は神とどんな関係だったかは全く無関係になりました。日本風に言えば、先祖の祟りとか何かの祟りとか全く関係なくなったのです。だとすると、ちょっと、待てよ、そうなると自分と神の関係は全て自分の問題になるということになるではないか?つまり、今度はこの自分の罪、自分が神の意思に背いて生きてきたことが問われて、まさにそのことが自分の永遠を中心として生きるか死ぬかを決定づけることになる。これは大変なことになった。永遠の命に迎え入れられるかどうかを決定づけるのは他の何ものでもない自分自身なのです。

 聖書を繙くと、今あるこの世が終わりを告げるという終末論の観点と、その時には新しい天と地が創造されると言う新しい創造の観点があります。終末と新しい創造の時には死者の復活と最後の審判というものがあります。全ての人、死んだ人と生きている人の全てが神の前に立たされる時です。その時、この私は神のもとに立ち返る生き方を始めてその意思に沿うように生きようとしたのだが、果たしてそれはうまくいったのであろうか?神はそれをどう評価して下さるのだろうか?また、立ち返る前の生き方は何も言われないのだろうか?なんだか考えただけで今から心配になってきます。ここで、マタイ福音書の個所を見るよいタイミングとなります。

3.マタイ21章23~32節

ユダヤ教社会の指導者たちがイエス様に権威について問いただした時、もちろんイエス様としては、自分の権威は神から来ていると答えることが出来ました。ただ、そうすると指導者たちは、この男は神を引き合いに出して自分たちの権威に挑戦していると騒ぎ出すに決まっています。それでイエス様は別の仕方で自分の権威が神から来ていることをわからせようとします。

二人の息子のたとえに出てくる父親は神を指します。一番目の息子は、最初神の意思に背く生き方をしていたが、方向転換して神のもとに立ち返る生き方をした者です。洗礼者ヨハネの教えを信じた徴税人と娼婦たちがこれと同じだと言うのです。二番目の息子は神の意思に沿う生き方をしますと言って実際はしていない者で、指導者たちがそれだというのです。それで、徴税人や娼婦たちの方が将来、死者の復活に与ってさっさと神の御許に迎え入れられるが、指導者たちは置いてきぼりを食うというのです。

ここで徴税人というのは、ユダヤ民族の一員でありながら占領国のローマ帝国の手下になって同胞から税を取り立てていた人たちです。中には規定以上に取り立てて私腹を肥やした人もいて、民族の裏切り者、罪びとの最たる者と見なされていました。ところが、洗礼者ヨハネが現れて神の裁きの時が近いこと、悔い改めをしなければならないことを宣べ伝えると、このような徴税人たちが彼の言うことを信じて悔い改めの洗礼を受けに行ったのです。先ほど申しましたように、聖書には終末論と新しい創造の観点があり、死者の復活と最後の審判があります。旧約聖書の預言書にはその時を意味する「主の日」と呼ばれる日について何度も言われています。紀元前100年代頃からユダヤ教社会には、そうした預言がもうすぐ起きるということを記した書物が沢山現れます。当時はそういう雰囲気があったのです。まさにそのような時に洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場したのでした。

娼婦についても言われていました。モーセ十戒には「汝姦淫するなかれ」という掟があります。それで、多くの男と関係を持つ彼女たちも罪びとと見なされたのは当然でした。そうすると、あれ、関係を持った男たちはどうなんだろうと疑問が起きます。彼らは洗礼者ヨハネのもとに行かなかったのだろうか?記述がないからわかりません。記述がないというのは、こそこそ行ったから目立たなかったのか、それとも行かないで、あれは女が悪いのであって自分はそういうのがいるから利用してやっただけという態度でいたのか。現代にもそういう態度の人はいますが、そんな言い逃れて神罰を免れると思ったら、救いようがないとしか言いようがありません。

話が少し逸れましたが、このようにして大勢の人たちがヨハネのもとに行き洗礼を受けました。その中に徴税人や娼婦たちのような、一目見て、あっ罪びとだ、とすぐ識別できる人たちもいたのでした。ヨハネが授けた洗礼は「悔い改めの洗礼」と言い、これは後のキリスト教会で授けられる洗礼とは違います。「悔い改めの洗礼」とは、それまでの生き方を神の意思に反するものであると認め、これからは神の方を向いていきますという方向転換の印のようなものです。キリスト教会の洗礼は印に留まりません。人間が方向転換の中で生きていくことを確実にして、もうその外では生きられないようにする力を持つものです。印だけだったものがそのような力あるものに変わったのは、後で述べるように、イエス様の十字架と復活の業があったからでした。

さて、人々はもうすぐ世の終わりが来て神の裁きが行われると信じました。それはその通りなのですが、ただ一つ大事なことが抜けていました。それは、その前にメシア救世主が来るということでした。メシアが人間の神への方向転換を確実なものにする、しかもそれを旧約聖書の預言通りに特定の民族を超えた全ての人間に及ぼすということ。それをしてから死者の復活と最後の審判が起こるということでした。ヨハネ自身も自分はそのようなメシアが来られる道を整えているのだと言っていました。その意味でヨハネの洗礼は、悔い改めの印と、来るメシア救世主をお迎えする準備が出来ているという印でもありました。それなので、世の終わりと神の裁きはまだ先のことだったのです。当時の人々は少し気が早かったのかもしれません。

ヨハネから悔い改めの洗礼を受けた人たち、特に徴税人や娼婦たちはその後どうしたかと言うと、イエス様に付き従うようになります。彼らは、方向転換したという印をヨハネからつけてはもらったけれども、裁きの日が来たら、自分の過去を神の前でどう弁明したらいいかわかりません。方向転換して、それからは神の意思に沿うようにしてきましたと言うことができたとしても、転換する前のことを問われたら何も言えません。それに方向転換した後も、果たしてどこまで神の意思に沿うように出来たのか、行いで罪を犯さなかったかもしれないが、言葉で人を傷つけてしまったことはないか?心の中でそのようなことを描いてしまったことはないか?たくさんあったのではないか?そう考えただけで、ヨハネの洗礼の時に得られた安心感、満足感は吹き飛んでしまいます。

まさにそこに、私には罪を赦す権限があるのだ、と言われる方が現れたのです。神が贈られたひとり子イエス様です。罪を赦すとはどういうことなのか?過去の罪はもう有罪にする根拠にしない、不問にするということなのか?でも、そういうことが出来るのは神しかいないのではないか?あの方がそう言ったら、神自身がそう言うことになるのか?どうやって、それがわかるのか?口先だけではないのか?いや、口先なんかではない。あの方は、全身麻痺の病人に対してまず、あなたの罪は赦される、言って、その後すかさず、立って歩きなさい、と言われて、その通りになった。罪を赦すという言葉は口先ではないことを示されたのだ。真にあの方は罪を赦す力を持っておられるのだ!そのようにして彼らはイエス様に付き従うようになっていったのです。もちろん、付き従った人たちの中には罪の赦しよりも民族の解放ということが先に立ってしまった人たちが多かったのは事実です。しかし、罪からの解放が切実な人たちも大勢いたのです。

イエス様が持つ罪の赦しの権限は、彼の十字架の死と死からの復活ではっきりと具体化して全ての人間に向けられるものとなりました。イエス様は、十字架の死に自分を委ねることで全ての人間の全ての罪を背負い、その神罰を全て人間に代わって受けられました。人間の罪を神に対して償って下さったのです。さらに死から三日後に神の想像を絶する力で復活させられて、死を超える永遠の命があることをこの世に示しました。そこで人間がこのようなことを成し遂げられたイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになります。罪が償われたから神から見て罪を赦された者と見なされます。神は過去の罪をどう言われるだろうかなどと、もう心配する必要はなくなったのです。神は、我が子イエスの犠牲に免じて赦すことにした、もうとやかく言わない、だからお前はこれからは罪を犯さないように生きていきなさい、と言われます。もう方向転換した中でしか生きていけなくなります。

イエス様が指導者たちに自分の権威は神に由来するとすぐ言わなかったのは、まだ十字架と復活の出来事が起きる前の段階では無理もないことでした。言ったとしても、口先だけとしか受け取られなかったでしょう。そこでイエス様はヨハネの悔い改めの洗礼を受けた罪びとたち、正確には元罪びとたちのことに目を向けさせたのです。彼らは今まさにイエス様の周りにいて指導者たちも目にしています。今、方向転換の印を身につけていて、もうすぐそれは印を超えて実体を持つようになる時が来るのです。その時になれば、イエス様の権威が神由来であったことを誰もが認めなければならなくなるのです。

4.勧めと励まし

主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって神を向いて生きる方向転換を遂げてその中で生きていくことになりました。そこでは、自分に弱さがあったり、また魔がさしたとしか言いようがないような不意を突かれることもあって、神の意思に反することが出てくることもあるでしょう。しかし、あの時ゴルゴタの十字架で打ち立てられた神のひとり子の罪の償いと赦しは永遠に打ち立てられたままです。そこはキリスト信仰者がいつも立ち返ることができる確かなところです。この世のふるさとよりも確かなところです。そこでのみ罪の赦しが今も変わらずあることと、神と自分の結びつきが揺るがずにあることを知ることが出来ます。

そして、いつの日か神のみ前に立つことになる時、父なるみ神よ、私はあなたが成し遂げて下さった罪の赦しが本物であると信じて、それにしがみつくようにして生きてきました。そのことががあなたの意思に沿うように生きようとした私の全てです。そう言えばいいのです。その時、声を震わせて言うことになるでしょうか、それとも平安に満たされて落ち着いた声でしょうか。いずれにしても、神は私たちの弁明が偽りのない真実のものであると受け入れて下さいます。そう信じて信頼していくのがキリスト信仰者です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教「罪との戦いがキリスト信仰者の仕事歴」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書20章1-16節

主日礼拝説教 2023年9月24日(聖霊降臨後第十七主日)

聖書日課 ヨナ3章10-4章11節、フィリピ1章21-30節、マタイ20章1-16節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

先週に続いて今日の福音書の日課もイエス様のたとえの教えです。日の出から日の入りまで12時間炎天下の中で働いた人たちが最後の1時間しか働かなかった人たちと同一賃金だったので、雇用者に不平を言う。もっともなことです。ところが雇用者は朝雇う時に1デナリオンで合意したではないか、別に契約違反ではない、と。これももっともなことです。しかし、長く働いた者からすれば、一番短く働いた者が1デナリオンもらえるのなら自分たちはもっともらえて当然ではないか、と。もっともな話です。それに対して雇用者たるぶどう畑の所有者は「私の気前の良さをねたむのか」と言って自分のしたことは間違っていないと言う。ギリシャ語の原文は少しわかりにくくて、直訳すると「私が善い者であることでお前の目は邪悪なのか?」、つまり「私が善い者であることをお前は邪悪な目で見るのか?」ということです。お前は私が善いことをしたのに正しくないと言って覆すつもりか、私は間違ったことはしていない、それに反対するのは悪い心だと言うのです。

これは一体どういう教えなのでしょうか?1デナリオンは当時の低賃金労働者の一日の賃金です。先週もやりましたが、今のお金の感覚で言えば、東京都の最低時給が今年1,113円、それで12時間働いたら13,356円です。1時間働い人が同じ額をもらえたとなると12時間の人は心穏やかではなくなるのは当然です。まさか、キリスト教は自己犠牲の愛を教える宗教なので、一番長く働いて苦労した人は一番短く働いて楽した人と同じ扱いを受けて当然と思わなければいけないということなのか?でも、このたとえのどこに自己犠牲があるでしょうか?一番短く働いた人が13,356円もらえたのは、長く働いた人のおかげではありません。専ら所有者の方針によるものです。

ここのイエス様の趣旨は、私たちも給料や報酬を支払う時は同じようにしなければならないということではありません。この教えはたとえです。なにをたとえて言っているか知ることが大事です。初めに「天の国」はブドウ畑の所有者にたとえられると言います。「天の国」とは天地創造の神がおられるところです。「神の国」とも呼ばれます。マタイは「神」という言葉を畏れ多く感じてよく「天」に置き換えます。本説教では「神の国」と言うことにします。

「神の国」がブドウ畑の所有者、国が人にたとえられるのは変な感じがします。これは、「神の国」というのはこれから話すブドウ畑の所有者の方針が貫かれている国だということです。所有者は神を指します。イエス様はこのたとえで、神はどのようにして人間を神の国に迎え入れるか、その方針について教えているのです。本説教では神の方針について次の3つの点に注目して見ていこうと思います。第一点は、人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を受けることによって神の国に迎え入れられる、そこでは信仰と洗礼がいつだったか、早かったか遅かったかは問題にならないということ。第二点目は、人間は自分の能力や業績や達成によっては神の国に迎え入れられない、迎え入れは神のお恵みとしてあるということ。そして第三点目は、洗礼と信仰によって神の国に迎え入れられる道を歩み始めたら、この世では罪との戦いが仕事になるということ。

2.イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたのが早い遅いは関係ない

神の国に迎え入れられるとはどういうことか?それは、聖書が打ち出す人間観と死生観がわかればわかります。聖書の人間観とは、人間というものは神の意思に反するものを内に持っていて、それを心に抱いたり言葉に出したり行いに出したりしてしまう。それをひっくるめて罪と呼びますが、そういうものを持っているということです。聖書の死生観とは、人間はそういう罪を持つがゆえに造り主の神と結びつきを失った状態に置かれてしまっている。もしそのままでいたら神との結びつきがない状態でこの世を生きなければならなず、この世を去る時も神との結びつきがないまま去らねばならないということです。そこで、これではいけないと思った神は、人間が自分と結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、この世を去った後も自分のもとに、つまり神の国に迎え入れられるようにしてあげよう、そのために人間の罪の問題を解決しなければ、ということで、ひとり子のイエス様をこの世に贈られました。これが人間に対する神の愛ということです。

それでは、神はイエス様を贈ることでどのようにして罪の問題を解決したのか?それはまさに、イエス様に人間の罪を全部負わせて神罰を受けさせて人間に代わって罪の償いをさせることで果たされました。ゴルゴタの十字架の出来事がそれだったのです。さらに、一度死んだイエス様を今度は想像を絶する力で三日後に復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、その命に至る道を人間に切り開かれました。神の人間に対する愛がイエス様を通して示されたというのはこのことです。

 そしてその次は、人間の方がこれらの出来事は本当に自分のために起こされた、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は永遠の命が待つ神の国に至る道に置かれてその道を歩むようになります。その人は罪を償われたので罪を赦された者と神から見てもらえます。罪を赦されたから神との結びつきを持ってこの世を生き神の国を目指して進みます。この世の人生の後、復活の日に目覚めさせられて神の国に永遠に迎え入れられます。これら全てをひっくるめたことが、キリスト信仰でいう救いです。その救いを命を賭してまで私たち人間に備えて下さったイエス様は真に救い主です。

ここで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということですが、そのタイミングは人それぞれです。親がキリスト信仰者で赤ちゃんの時に洗礼を受けて神との結びつきを持つようになり、信仰者の親のもとでイエス様が救い主であることが当たり前という環境の中で育って大人になる場合があります。また、大人になってイエス様を救い主と信じるようになって洗礼を受けて神との結びつきを持つようになる場合もあります。このように子供の時からずっとキリスト信仰者である場合があり、また、大人になってから、それこそ晩年でも死ぬ直前でもキリスト信仰者になる場合もあります。しかし、どの場合でも神の国への迎え入れということについて差は生じません。信仰者の期間が長かったから迎え入れられやすいということはありません。みな同じです。そのことを、たとえの労働者がみんな同じ1デナリオンをもらったことが象徴しています。神から頂く罪の償いと赦しは全て同じ値なのです。

そういうことであれば、晩年やこの世を去る直前に洗礼を受けることになっても何も引けを取ることはないとわかって安心します。長年キリスト信仰者の人も神の愛はそういうものだとわかっています。なので、あの人は信仰歴が短すぎるなどと目くじら立てません。全く逆で、私が神から頂いた計り知れないお恵みにあの方もやっと与ることが出来て本当に良かった、と言ってくれます。

ここで一つ気になることは、赤ちゃんの時に洗礼を受けても、イエス様が救い主であることがはっきりしない状態で大人になってしまう場合があることです。近年のヨーロッパではそう言う人が多いです。この場合、神の国への迎え入れはどうなるのか?この問題は本説教の終わりで触れます。

3.人間の能力や業績によるのではなく神のお恵みで迎え入れられる

次に、神の国への迎え入れは人間の能力、業績、達成によるのではなく、神のお恵みとしてあるということについて。本日のイエス様のたとえは実は前の19章の出来事の総括として述べられています。どんな出来事があったかと言うと、金持ちの青年がイエス様のもとに駆け寄って来て「永遠の命を得るためには、どんな善いことをしなければならないのか」と聞きました。イエス様は十戒の中の隣人愛の掟を述べて、それを守れと答える。それに対して青年は、そんなものはもう守ってきた、何がまだ足りないのか、と聞き返す。それに対してイエス様は、足りないものがある、全財産を売り払って貧しい人に分け与え、それから自分に従え、と命じる。青年は大金持ちだったので悲痛な思いで立ち去ったという出来事です。

この対話の中で、青年が「どんな善いことをしなければならないか」と聞いたときに、イエス様が返した言葉はこれでした。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。」善い方はおひとりと言う時、それは神を指します。イエス様は話の方向を善い「こと」から善い「方」へ変えるのです。青年は「善い」は人間がすること出来ることと考えて質問しました。それに対してイエス様は「善い」は神の属性で、「善い」を体現するのは神しかいないと言い換えるのです。そもそも「善い」を体現していない人間が神の国への迎え入れを保証する「善い」ことをすることが出来ると考えるのは的外れと言うのです。神の国への迎え入れは、神が土台にならないといけないのに、青年は人間を土台にしているのです。

このように、神が「善い」を体現していることを忘れると、人間は救いを自分の能力や業績に基づかせようとします。それはいつか必ず限界にぶつかります。青年の場合は、イエス様が全財産を売り払えと命じたことでその限界が明らかになりました。救いは人間の能力や業績にではなく、ただただ神が「善い」ということに基づかせなければならないのです。

イエス様と青年の対話から、神が「善い」方ということが救いの大前提であることが明らかになりました。神が「善い」方ということは本日のたとえの中にまた出てきます。冒頭で申し上げましたが、「わたしの気前の良さをねたむのか」というのは、ギリシャ語原文では「私が善い者であることをお前は邪悪な目で見るのか」ということでした。ここの「善い」と青年との対話に出てきた「善い」は両方ともギリシャ語原文では同じ言葉アガトスαγαθοςです。日本語訳では本日のところは「気前の良さ」と訳されてしまったので繋がりが見えなくなってしまいますが、原文で読んでいくと本日のたとえは青年との対話と繋がっていて、それを総括していることがわかります。どう総括しているかと言うと、永遠の命が待つ神の国への迎え入れは人間の能力や業績や達成に基づくのではない、神が「善い」方であることに基づくということです。神がそのような「善い」方であるというのは、ひとり子イエス様を私たち人間に贈って、彼を犠牲にしてまで私たちを罪と死の支配から解放して、私たちが神の国に迎え入れられるように全てを備えて下さったということです。これが神が「善い方」ということです。

4.罪と戦うという仕事

神の国への迎え入れが人間の能力や業績に基づかず、善い神のお恵みに基づくなどと言ったら、じゃ、人間は迎え入れのために何もしなくてもいいのか?と言われてしまうかもしれません。それだったら、所有者はわざわざ何度も広場に出向いて人を雇うのではなく、夕暮れ時にみんなを集めてお金を渡してもいいではないか?しかし、1時間でも働いてもらうというからには、何か人間の側でもしなければならないことがある。それは何だろう?洗礼を受けてクリスチャンになったら、毎週がんばって礼拝に通い、ちゃんと献金して人助けや慈善活動をすることか?

そういうこともあるにはあるのですが、ここではもっと根本的なことが問題になっています。教会通いとか献金とか慈善活動はその根本的なことがあってこそ出てくるものです。それがないと教会通いなどは見かけ倒しになります。それでは、人間の側でしなければならない根本的なこととは何か?それは、神の国への迎え入れが人間の能力や業績ではなく善い神のお恵みによるものであるということ、これが自分にとって本当にその通りであるという生き方をすることです。それでは、神の国への迎え入れが神のお恵みによるものであることが自分にとってその通りであるという生き方はどんな生き方か?答えは、罪と戦う生き方です。罪と戦う時にキリスト信仰者は、神の国への迎え入れは神のお恵みによるものであることがその通りであるという生き方をするのです。

罪と戦うというのはどういうことか?キリスト信仰者は罪が償われて罪が赦されて罪から解放されたと言っているのに、まだ戦わなければならないというのはどういうことなのか?それは、キリスト信仰者とは言っても、この世にある限りは肉の体を纏っているので神の意思に反する罪をまだ内に持っています。なんだ、それではキリスト信仰者になっても何も変わっていないじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、変わっているのです。神から罪を赦された者と見なされて神との結びつきを持って生きるようになりました。なので、神の意思に沿うような生き方をしようと神の意思に敏感になり、それでかえって自分の内に罪があることに気づくようになります。イエス様は、十戒の掟は外面的に守れても心の中まで守れていなければ破ったことになると教えました。

自分の内に神の意思に反する罪があることに気づいた時、神は、せっかくひとり子を犠牲にしたのになんだこのざまは、と呆れて失望するだろうか怒るだろうか、神との結びつきは失われてしまうだろうかと不安になります。その時は、神に罪の赦しを祈り願います。イエス様は私の主です、どうか彼の犠牲に免じて私の罪を赦して下さい。そうすると、神は、お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている、安心していきなさい、お前の罪はあそこで赦されている、もう罪は犯さないように、と言ってゴルゴタの十字架を指し示されます。十字架の上で首を垂れる主を心の目で見たキリスト信仰者は、厳粛な気持ちになって、これからは罪を犯さないようにしようと襟を正します。

しかしながら、この世を生きていろんなことに遭遇すると、また自分の内に神の意思に反する罪があることに気づきます。そして、また赦しの祈り願いがあり、神からの十字架の指し示しがあり、襟を正しての再出発となります。キリスト信仰者はこれを何度も繰り返しながら進んでいくのです。教会の礼拝の最初で罪の告白と赦しの宣言が毎週繰り返して行われるのも同じです。

やがてこの繰り返しが終わりを告げる日が来ます。神の御前に立たされる日です。神はこの繰り返しの人生を見て、お前はイエスの十字架と復活の業に全てをかけて罪に背を向ける生き方、罪に与しない生き方をした、罪に反抗する生き方を貫いたと認めて下さいます。まさに罪と戦う人生を送ったと。そう認めてもらったら、朽ち果てた肉の体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に迎え入れられます。その体の内に罪はなく、罪の自覚も赦しの祈り願いも赦しの宣言もなくなるのです。

 このように、罪を自覚して、イエス様を救い主と信じる信仰により頼んで罪の赦しのお恵みにしっかり踏み留まることができていれば、立派に罪と戦っていることになります。戦いがこの世の人生の長い期間であっても短い期間であっても、戦う人からすればどれも、神の国への迎え入れが神のお恵みによることが本当になる戦いです。12時間働いたろうが、1時間しか働かなかったろうが、神から見たら、内容的には同じ働きをしたことになるのです。

 ここで一つ忘れてはならないことを手短に述べておきます。詳しいことは後日に譲りたく思います。何かと言うと、神の意思に反する罪が内に留まらないで表に出てしまった場合はどうするかということです。言葉に出たり行いに出てしまう場合です。その場合は相手がいます。表に出してしまったことが神の意思に反するもので神に赦しを祈り願うべきものであれば、相手に対して謝罪しなければなりません。ただしその場合、神に対する罪の赦しの願いと相手に対する謝罪は別々に考えるべきと思います。というのは、もし相手の方が、絶対に許せないと言って謝罪を受け入れない場合、とても動揺し不安になります。それは残念なことですが、そのような時でも忘れてはならないことは、たとえ相手の方との関係はこじれてしまっても、神との関係はイエス様の十字架と復活の業により頼む限り大丈夫ということです。心は動揺し不安はありますが、安心して大丈夫です。その安心の上に立って、あとは取り乱さずに正しく立ち振る舞っていけばいいと思います。

4.洗礼を受けても罪と戦っていない人たちはどうするのか?

最後に、赤ちゃんの時に洗礼を受けても、イエス様が救い主であるとわからないで大人になってしまう場合はどうなるかということについてひと言。これはやっかいな問題です。教派によっては、赤ちゃん洗礼は意味がない、イエス様が救い主であるとわかって告白してから受けないと意味がないというところもあります。私たちのルター派の場合は、救いは人間の能力や業績に基づかず神のお恵みとしてあるということにこだわるので、自分を出来るだけ無力な者として受けた方がお恵みということがはっきりする、それで、むしろ赤ちゃんの方が相応しいということになってしまうのです。しかしながら、子供に洗礼を授けることを願う親は皆が皆、イエス様が救い主であると教え育てたり、信仰の生き方をするとは限らない現実もあります。

その場合はどうしたらよいのか?これはもう、まだわかっていない人に教えていくしかありません。あなたが受けた洗礼はあなたと神を結びつけるものなのだ、それをわからず罪と戦わないままでいると、せっかくある結びつきからどんどん遠ざかっていってしまう、しかし、わかるようになって罪と戦う生き方を始めれば大きな祝福があるのだ、と。

このように教える活動があります。私とパイヴィを派遣しているフィンランドのミッション団体「フィンランド・ルター派福音協会SLEY」は海外伝道だけでなく国内伝道もやっています。国内伝道とは、まさに洗礼を受けても何もわからずに生きている人たちに伝道することです。国内伝道のキャッチフレーズはまさに「おかえりなさい!Tervetuloa kotiin!」です。翻って、海外伝道はまだ洗礼の恵みに与っていない人たちにその恵みを伝えて分け与えることです。国内伝道は恵みに与っている筈なのに分からない人たちがわかるようにすることです。両方行っているのです。ただ、最近はフィンランドも、キリスト教以外の国からの移民や難民が増えたので彼らに対する伝道も行っています。またフィンランド人でも洗礼を受けない人が増えていて、ヘルシンキ首都圏では生まれてくる子供の受洗率は50%以下になってしまいました。それで国内伝道も海外伝道みたいになってきています。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「罪の赦しは許しにあらず」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書18章21-35節

主日礼拝説教 2023年9月17日(聖霊降臨後第十六主日)

聖書日課 創世記50章15-21節、ローマ14章1-12節、マタイ18章21-35節

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説教題 「罪の赦しは許しにあらず」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

今日のイエス様のたとえの教えはこうでした。王様に多額の負債があった家来が泣きついて情けをかけられて借金を帳消しにしてもらった。ところが、その家来は自分に対して少額の借金がある仲間の家来に対しては泣きつかれても耳を貸さず、返済するまで牢屋に入れてしまった。それを知った王様はこの情けのない家来を怒って、自分がしたように情けをかけるべきではなかったかと言って、返済するまで牢屋に入れてしまった。これを読んだ人は、ああイエス様は、情けをかけてもらったら他の人にもそうしなければならないと教えているんだなと思うでしょう。なんだか当たり前な話に聞こえます。

 ここに出てくる金額を少し具体的に見てみます。そうすると情けをかけることが当然ということがよくわかります。情けのない家来が仲間の家来に貸していたのは100デナリオン。1デナリオンは当時の低賃金労働者の1日の賃金です。それで100デナリオンは100日分の賃金。これを今の金額で考えてみます。少し乱暴な比較になりますが、東京都の最低賃金は今年から時給1,113円になりました。一日8時間働いたら8,904円。端数を切捨てて一日8,900円として、100日分だったら89万円。これが100デナリオン。それだけの貸しがあった。そこで、情けのない家来が王様に負っていた負債額を見ると、1万タラントン。1タラントンは6,000デナリオンなので、5,340万円になります。これが1万あるとすると、0をさらに4つつけて5340憶円になります。情けのない家来は5340億円の負債を帳消しにしてもらったのに、他人の89万円の借金は免除してあげなかった。なんとも度量の狭い人間です。これだけ大きな情けを受けたら、普通は他者に対しても同じようにするのは当たり前なことに感じられます。イエス様はなんでこんな当たり前な話をしたのでしょうか?

 このたとえは、イエス様がペトロのある質問に答えてその続きとして話したものです。ペトロの質問とは、兄弟が自分に罪を犯したら何回まで赦してあげるべきか、7回までかというものでした。つまり、赦しには限度があってそれを越えたらもう赦さなくていいのか、というです。それに対するイエス様の答えは、7回までではない、7を70回繰り返すまでだ、つまり490回でした。聖書の訳によっては77回とするものもあります。ギリシャ語原文を見るとどっちにも取れます。どちらにしても、イエス様の意図は赦すことに制限を設けるなということです。赦すことに制限を設けない根拠として、情けのない家来のたとえを話したのです。

 キリスト信仰者は罪を犯した兄弟を無制限に赦さなければならないというのは、信仰者自身が1万タラントンの負債を帳消しにされたような罪の赦しを受けているからだ、だから兄弟の犯した罪など5340憶円に対する89万円くらいのみみっちいものにすぎない、それがわかれば兄弟の罪を赦すのは大したことではなくなるのだ、という趣旨なのです。そういうわけで今日は、キリスト信仰者は巨大な負債を帳消しにされたと言えるような罪の赦しを受けているということについて少し深く見ていこうと思います。

2.「兄弟」とは?「罪」とは?「赦す」とは?

まず初めに3つの基本的な事柄を整理しておきます。一つ目は、「私の兄弟が罪を犯したら」と言いますが、兄弟とは誰のことか?二つ目は、罪を犯すとはどんな悪さをすることか?そして三つ目は、罪を赦すとはどうすることか?についてです。

 まず、「私の兄弟」とは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者のことです。信仰者が別の信仰者から罪を犯されるという問題について論じているのです。それでは、キリスト信仰者が信仰者でない人から罪を犯されたら、どうなのか?赦さなくていいのか?いや、やはり赦すべきなのか?この問題は説教の終わりの方で明らかにします。

 次に、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者が同じ信仰を持つ者に「罪を犯す」とはどんな悪さをすることでしょうか?「罪を犯す」などと言うと、何か法律上の犯罪を犯すことを連想します。しかし、これはもっと広い意味があります。要は、十戒の掟に示されている神の意思に反することをしてしまうことです。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな等々を行為だけでなく、言葉に出してしまったり、心の中で持ってしまうことです。このように神の意思に反することを行為のみならず、心の中で持ってしまったり、言葉で言い表してしまうことが罪を犯すことです。

 三つ目はとても難しい問題です。罪を赦すとはどういうことか?キリスト信仰で罪を赦すというのは、単純化して言うと、相手が神の意思に反する罪を犯した時、犯された側が、それをさもなかったかのようにする、今後は取りざたしない、とやかく言わない、というのが赦しです。イザヤ書43章25節で、神は言われます。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」思い出さないことにするというのが赦すことです。エレミヤ書31章34節でも神は同じように言われます。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」もう心に留めないというのが赦すことです。ミカ書7章19節で預言者は言います。「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」神は民の罪を表ざたにしないで奥深く沈めてしまう、これが罪の赦しです。神の意思に反する罪は起きてしまった、それはもう打ち消すことができない事実である、しかし、それをさもなかったかのようにするから、新しく出直しなさい。そういうふうに、神の罪の赦しには罪を犯した者が新しく出発できるようにするということが一緒になっています。

 ここで一つ注意しなければならないことがあります。私も時々聞かれるのですが、キリスト教は罪を赦すので処罰はなにもないのか、犯罪を犯しても、さもなかったかのようにしてしまったら、犯罪は野放しになってしまうではないか、というものです。罪を赦すとは、してもいいよと罪を許可することではありません。日本語の「ゆるす」は二つの異なる漢字があるので混同されやすいと思います。罪は神の意思に反することなのでしてはいけないのです。心の中で思っても口に出してもいけないのです。もし犯したら、「命の書」に書き留められて最後の審判の時にお前はこうだったと突きつけられるのです。まさに、本日の使徒書の日課ローマ14章で言われるように、かの日には各自一人一人が神の前に立たされて自分自身について申し開きをしなければならなくなるのです。果たして神に対して申し開きなど出来るでしょうか?

 ヨハネ8章でイエス様は罪を犯したために石打の刑にかけられそうになった女性を助け出して次のように言いました。「わたしもあなたを裁かない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」ギリシャ語原文では「裁かない」ですが、新共同訳では「罪に定めない」です。悪くない訳です。イエス様が裁かないと言うのは、お前の罪は「命の書」に書き留められてしまったが、最後の審判者からとやかく言われることはもうない、だから申し開きの必要もないということです。なぜそうなったかと言うと罪が赦されたからです。まさに罪に定められていないということです。イエス様からそのような赦しを受けて、「もう犯したらだめだよ」と彼に言われたら、本当にその通りにしなければと思うでしょう。このように罪を赦すというのは罪を許可することと全く正反対な方向に向かうのです。

 犯罪は処罰しないのかということが出たので、少し考えてみます。社会には法律があり、犯罪について規定があり、刑罰や賠償について規定があります。それらに従って犯罪を確定して刑罰や賠償が課せられるのは当然だと思います。神は、殺すな、傷つけるなと命じているので、そのようなことが社会で好き勝手に行われるのを放置してはいけないのです。そう言うと、じゃ、やはり、なかったかのようにしていないじゃないか、赦していないじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、犯罪の場合の罪の赦しというのは、被害を受けた人の心に関わることだと思います。処罰や賠償というのは、社会の秩序が正義に基づくために設けられたものです。なので処罰や賠償は社会に関わることです。このように罪の赦しと処罰や賠償は別々に考えられると思います。

 罪の赦しは心に関わるということをもう少し見てみます。キリスト信仰では、完全な正義は最後の審判の時に実現するという立場です。パウロはローマ12章で、キリスト信仰者は自分で復讐をしてはならない、神の怒りに任せよと注意喚起します。神の怒りに任せよというのは、最終的な判決、処罰、賠償は最後の審判の時に神が行うのでそれに任せよ、ということです。最終的な判決、処罰、賠償をこの世で目指すと復讐することになってしまうと思います。自分で復讐をしないで最後の審判の神の怒りに任せるのがキリスト信仰者だとすると、信仰者がこの世で正義を実現しようとすると次のようになると思います。万能薬ではない社会の規定を、神の意思から外れないように用いて、最善の正義を目指すということになると思います。そういうふうにキリスト信仰者は正義を目指しつつ、同時に、敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ、とパウロは教えます。実際に行動に移せる可能性があるかどうかは別にして、少なくとも心の有り様はこのようになっていなければならないのです。果たしてキリスト信仰、イエス様を救い主と信じる信仰で、このよう心の有り様は生まれるでしょうか?本日のイエス様のたとえは、それが生まれることを教えるものです。

3.罪の赦し = 神に対する莫大な負債の帳消し

そこで、本日のイエス様のたとえが、キリスト信仰者にとって罪の赦しは莫大な負債を帳消しにされたのと同じだと言っていることについて見ていきましょう。このたとえを最初に聞いた弟子たちは、莫大な負債を帳消しにしてもらったら他人の小さな借金など取るに足らないものに感じられるというのはわかったでしょう。しかし、それが罪の無制限の赦しとどう結びつくのか?お前たちは莫大な負債を帳消しにしてもらったのだ、だから兄弟の罪など小さな借金と同様だ、兄弟の罪を無制限に赦してやるのは当然だ、そう言われても、自分たちにとって莫大な負債の帳消しとは一体何なんだ?ということになってしまいます。兄弟の罪に対する無制限の赦しと自分たちの莫大な負債の帳消しの結びつきが見えてきません。

 ところが、それがはっきりわかる日が来るのです。イエス様の十字架の死と死からの復活の日です。イエス様が神の想像を超える力で死から復活されて天の神のもとにあげられたのを目撃した弟子たちは、あの方は、かつてダビデ王自身が私の主と呼んだ方で、父なる神の右に座すことになった方なのだ、つまり神のひとり子だったのだということが明らかになりました。それではなぜ、神のひとり子ともあろう方が十字架にかかって痛々しく死ななければならなかったのか?これも旧約聖書に預言されていたように、人間の罪に対する神罰を人間に代わって受けて、神に対して人間の罪を償う犠牲の死だったことがはっきりしました。このように全てのことが事後的に次々とわかるようになったのです。十字架と復活の出来事の後にわかるようになった使徒たちは次のように記しました。

パウロ「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ1章7節)

ペトロ「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(第一ペトロ1章18~19節)彼らはイエス様が十字架の前に言われた次の言葉の意味がわかったのです。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」(マルコ10章45節)

 神聖な神のひとり子が十字架の上で流した血を代償として罪と死の支配から神の御許に買い戻される道が人間に開けたのでした。神の子の命が身代金になったのです。この代償の価値から見たら5342億円など1円にも満たないものです。神は、私たちがこの世で神との結びつきを持って生きることを妨げていたもの、この世の人生の後で神の国に迎え入れられることを妨げていたもの、罪という負債を帳消しにしたのです。

 このようにして人間は自分では何も犠牲を払っていないのに、神のひとり子の十字架と復活の業のおかげで罪を償ってもらった者、償ってもらったから罪を赦された者として見てもらえる、そういう状況が生み出されました。

 そこで今度は人間の方が、イエス様の十字架と復活の出来事は本当に自分のために起こったのだとわかってそれでイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、この罪の赦しの状況に入れることになりました。そこに入れると、人間は死を超えた永遠の命に向かう道に置かれてその道を歩み始めることになります。この世を去る時が来ても、その時は安心して信頼して神の御手に自分を委ねることができます。本日の使徒書の日課ローマ14章でパウロが、キリスト信仰者は生きる時も死ぬ時も主のものとしてあると言っている通りです。この世を離れて復活の日までの眠りの時も主のものであり続けるのです。そして、復活の日に目覚めさせられて永遠に自分の造り主である神の御許に迎え入れられるのです。このように人間は、イエス様の十字架と復活の業によって、かつ、そのイエス様を救い主と信じる信仰によって、罪と死の捕らわれ状態から解放されて神の御許に迎え入れられる地点を目指して歩む者となったのです。これがキリスト信仰者です。

 ただしキリスト信仰者と言えども、肉を纏ってこの世を生きる以上は罪はまだ残っています。しかし、洗礼と信仰によって神との結びつきが生まれました。その結びつきの中で神の国に迎え入れられる日を目指して歩んでいることは、礼拝の罪の赦しと聖餐式を受けることで確実なことになりました。やはり罪は帳消しになったのです。

4.奨めと励まし

これでキリスト信仰者は莫大な負債の帳消しが自分たちに起こったことがわかりました。罪という神に対する負債で、そのままにしておくと、この世で神との結びつきを持てず、この世の次に到来する世で神の国に迎え入れられなくなってしまうという負債です。それを神はひとり子を犠牲にして帳消しにして下さったのです。このような帳消しを受けたら、この世で兄弟が犯した罪などちっぽけなものになるはずです。しかし、ここで忘れてはならない大事なことがあります。それは、兄弟の罪を無制限に赦さなければならないというのは、それが取るに足らないものだからそうせよ、ということではないからです。取るに足らないというのは、赦さなければならない理由ではなく、難しいことではないと言っているだけです。赦さなければならない理由は別にあります。

 兄弟の罪を無制限に赦さなければならない理由とは何でしょうか?兄弟が罪を犯したというのは、その人の神との結びつきが揺らいで御国への道の歩みに支障が生じたことです。そのようになってしまった兄弟をキリスト信仰者は助けてあげなければなりません。兄弟が神との結びつきに戻れるように道の歩みに戻れるようにすることが助けることです。そのためにどうすべきか?その時はやはり、兄弟が自分自身もイエス様の莫大な犠牲を払われて罪の赦しを得たことに思い当たることが大事です。そのことに思い当たれるために無制限の赦しの態度を示すべきだというのがイエス様の趣旨だと思います。同じことは、キリスト信仰者でない人の罪の場合にも当てはまるのではないかと思います。その人の場合は、まだ神との結びつきがなく、復活の日を目指す道の歩みをしていません。キリスト信仰者の兄弟の場合は戻れることが目指されますが、信仰者でない場合は結びつきと道の歩みに入れるようにすることが目指されます。その時、イエス様の莫大な犠牲に思い当たれるために無制限の赦しの態度を示すことは大事になると思います。

 以上、罪の無制限の赦しは、神との結びつきと御国への道の歩みから離れてしまった兄弟が戻れるようにすること、まだ結びつきを持たず道に入っていない隣人が入れるようにするということが目的としてあることを忘れないようにしましょう。こういう目的があることを忘れて罪の無制限の赦しを目指すと、人間が自分で自分を高潔な倫理的存在にすることになってしまい、キリスト信仰から離れて行ってしまうと思います。

 最後に、罪の無制限の赦しなど果たして兄弟や隣人が神の莫大な負債帳消しを思い至らせるのに役立つだろうか、案外、悪用されたりして馬鹿を見てしまうのではないかという疑いも出てくるかもしれません。私もそうです。でも、聖書にはそういう疑いを失くさせる話が沢山あります。本日の旧約の日課でヨセフが兄たちに述べた言葉はその一つです。ヨセフの兄たちはかつて弟をエジプトに奴隷として売り飛ばしたことを後悔し、ヨセフが復讐しないように憐れみを乞います。ヨセフは今やエジプトの高官の地位につき国民を大飢饉から救った英雄です。しかし、彼は権力を振りかざすことはなく、何も心配はいらないと言って兄たちを安心させます。復讐心を剥き出しにするどころが、逆に兄たちの悔恨を聞いて涙ぐんでさえしまいます。なんと心の清い人なのでしょう。ヘブライ語原文に忠実に訳します(創世記50章20節)。

「あなたがたは私に悪を企みましたが、
神はそれを良いことと見なしたのです。
そう見なしたのは、今日において多くの
人々の命が助かるようになさるためでした。」

神は悪いことが起きてもそれを全く別物に作り替えられるのです。

 パウロもローマ8章28節で同じことを言っています。

「神を愛する者たちのため、
ご決定により選ばれし者たちのため、
神は万事が良いものになるように働かれる、」

 このようにキリスト信仰者は、害悪を被っても失望や絶望、悲しみや復讐心に埋没してしまわない超越的な視野と、真っ暗闇の中でも消えない光を聖書から得ることができるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

2023年9月10日(日)聖霊降臨後第15主日 主日礼拝

[私たちの、父なる神と主イエス・キリストから恵みと、平安とが、あなた方にあるように。アーメン]

聖書 マタイ福音書18章15~20節                    2023年9月10日(日)

説教題 「神の愛による、ゆるし」

皆さんも、よくご存知の美空ひばりさんの歌に「一本の鉛筆」という歌があります。”一本の鉛筆があれば、私は戦争はイヤだ、と書く”この歌の一言に胸がジーンとせまります。戦争はイヤだ、と誰でも思っている。しかし、現実には世界で今も戦争で多くの人が殺されている。戦争は無くならない。マルチンルターは「主の祈りの講解」でこう書いています。「この世に於いては平和がない。」我らの平和は神のうちにある。神の愛につながっていなければ、安らぎはないのです。神様は人を創造されました。しかし、その人間が神に背き、人間の意のままに、何でもなして行こうとする。この罪というものが人間の根底にある。そして戦争を引き起こします。この「罪を犯してしまう」人間の根本の大問題をどうしたらよいか。今日の聖書でのイエス様の教えです。マタイ福音書18章15~20節のところで、あなたの貴重な兄弟が罪を犯した場合、彼に対して、どういう対処をしたらよいか。もし、自分の大切な兄弟が自分に対して個人的な問題として裏切り罪を犯した事を知った時、なすべき事は二つあります。第1は「行って忠告しなさい」という教えです。これは「行って、そして、忠告しなさい」と言うような悠長な命令ではない。「そして」という接続詞ぬきの「行け、忠告せよ」という慌ただしい命令です。一刻の猶予もなし、即、行けという事です。旧約聖書レビ記19章17~18節に次のようにあります。隣人愛の教えです。「あなたは、心に兄弟を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに,諫めて、彼のゆえに罪を身に負ってはならない。復讐してはならない。あなたの民の人々に、恨みを抱いてはならない。あなた自身のように、あなたの隣人を愛さなければならない。私は主である。」ここでは、隣人を愛する人は罪を犯した隣人をねんごろに、諫めるべきです。という事。「諫めなさい」という原文では、強く戒めている言葉です。ですから、「ねんごろ」に「諫めなさい」そうしないと罪を負う事になる。何故なら、罪を犯した兄弟は必ずしも自分のした事の罪深さに感づいていないからです。旧約聖書サムエル記上24章5節以下には、ダビデがサウル王に追われ洞窟の奥に潜んで隠れている所にサウル王が来て用を足す間にダビデはサウル王の上着の端を密かに切り取った、しかし、ダビデはこのことを後悔し心に責めを感じるほど良心的なダビデでしたが、サムエル記下12章を読みますと、ダビデは自分の家臣ウリヤの妻バト・シェバを自分のものにしようとウリヤを戦場に出し戦死させてしまった。この事を預言者ナタンがダビデに責め寄ります。その時までダビデは良心の呵責を感じませんでした。このように、どんな良心的な人といえども,何時も同じように良心が済み切っているわけではありません。人間って強いようで弱いところがあるものです。ですから、兄弟が罪した時には、その都度、即、彼を諫める必要があるのです。それも、早く諫めなければなりません。何故なら、話し合いを一旦延ばすうちに、心に「憎しみ」或いは「恨み」を抱き軽蔑と増悪が募るからです。

さて、第2にはその忠告を「彼と二人だけの所でする事です。」15節で述べています、それは、あなた自身に対する、個人的な罪である場合、なるべく、穏便に済ませるためです。たとえ、公の場合でも率直に懺悔を語られるようにしてあげるためです。自ら良心の呵責に苦しんでいる兄弟の魂、或いは忠告されて良心が疼き始めた兄弟の魂は傷ついています。その心の傷口を労わりながら、静かに、しかも厳かな雰囲気の部屋で二人だけで話合うべきです。もし、この段階で聞いてくれないなら、他に1人・2人を一緒に連れて行きなさい。(16節)それは旧約聖書の申命記19章15にこうあります。「どんな不正であれ、どんな咎であれ、総ての人の犯す罪はただ1人の証人によって定めてはならない、2人の証人の証言により、または3人の証人の証言により、その事を定めなければならない。」とあるからです。申命記の時代、原告も証人として扱われれていましたので、1人の証人ではだめで、2人・3人以上の証言が必要なんだ、ということです。こうして、罪を犯した兄弟に決してこちらの忠告は個人的中傷ではない事を悟らせる事、そして彼が一層、厳粛に自分の罪に気づくよう導かれねばなりません。そうは言っても、このようにうまく忠告を素直に受け入れてくれるか難しいところでしょう。しかし、相手のためを思って密かに忠告する配慮を忘れてはならないでしょう。その他、それが、ただ自分一人の意見でなく、正義の戒めである事を厳かに証言して、兄弟を悔い改めへ、と導くべきでありましょう。それでも、もし、彼らの言う事も聞かないなら教会へ申し出なさい。17・18節を見ますと、それでも、なお、聞かないならその人を異邦人又は収税人同様の扱いにしなさい。よく言っておく、あなた方が地上でつなぐ事は天でもみなつながれ、あなた方が地上で解く事は天でもみな解かれるでああろう。 ここには、兄弟が自分の説得もきかない、又他の友人2人或いは3人の手を変え品を変えて忠告しても聞こうとしない。”頑固”という

罪で教会に於いて神の前で悔い改めを訴えても聞かない。もう、どうにも手に負えない、彼はもはや”兄弟愛”、”真理と正義への従順”と言った、キリスト者に本質的な、美徳を捨てたも同然、公の犯罪者だからです。そこで、もともと、私だけの罪を犯したのだから、私さえ我慢すれば、済むことだ・・・と言う変な諦め、から放置しておくのは恐ろしい罪の中に放置しておくことに他ならない。

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だとすれば、素人療法で直せない病人を病院に連れて行くのは家族や兄弟としての当然の配慮でしょう。しかし、ここで、「教会に申し出る」それでも「教会の言う事を聞かない」なら、と漠然とした表現で語られています。実際に誰に申し出たらよいのか、或いは誰の手で審議され判決が宣告されるのか、ここから結論する事はできません。最終的に教会戒規はこの不従順な罪人を「異邦人,又は収税人同様に扱う」ところで終わるしかない、ということです。イエス様の時代、その兄弟を「異邦人、又は収税人同様に扱う」という事は要するに教会の兄弟になる前の状態に逆戻りした者として、教会から除名することに他なりません。しかし、教会の戒規というものは、あくまで、彼が悔い改めて、神に立ち返る事を願っての愛の鞭、としての役を持つものであります。コリント第一5章2~5を見ますとパウロはコリントの教会内で不品行な兄弟を除名するよう命じて申しました。「そんな行いをしている者があなた方の中から除かれなければならない、ことを思って悲しむべきではないか」しかし、私自身としては体は離れていても霊では一緒にいて、その場に居合わせた者のように、、そんな行いをした者を既に裁いてしまっている、即ち主イエスの名によって、あなた方と私の霊が共に私たちの主イエスの権威のもとに集まって、彼の肉が滅ぼされるように、彼をサタンに引き渡したのです。それは主の裁きの日に彼の霊が救われるためです。つまり、除名の戒規はあくまでも彼の霊が救われることを願っての処分であったのです。あとでパウロはコリント第二2章6~8のところで「その人にとっては多数の者から受けたあの処罰でもう充分なのだから、あなた方はむしろ彼を赦し又慰めてやるべきである。そうしないと、その人はますます、深い悲しみに沈むかもしれない。そこで私は彼に対して愛を示すようにあなた方に勧める」と忠告しています。

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教会に、この兄弟愛がない、ところでは教会のどんな戒めの規律も正しくは行われないからです。そこで、18節では言われています。「よく言っておく、あなた方が地上でつなぐ事は天でも皆つながれ、あなた方が地上で解く事は天でも皆、解かれるであろう」とあります。ペテロを代表として教会が受けた「天国の鍵」の権能は教会の戒めの規則に於いてそのまま行われている、ということです。ですから、もし「教会は私を戒めの規則に処分したが神様は、きっと私を赦して下さるにちがいない。」或いは「地上の教会は私を有罪にしたが私は天の法廷で判決を覆してみせる」等というような、自惚れた反逆心を犯人に決して持たせてはならない。ということです。ここで言われている事は、地上での教会決議は天の決議と等しいという断言でもあります。教会の兄弟姉妹のわずか2人・3人が集まっているところには、その中にキリストが臨在し、すべてを守って下さる、ということです。19節でイエス様は言われました。「もしあなた方の内の二人が 願うどんな願い事についても

天の父はそれをかなえて下さる」と約束してくださいます。しかし、罪を犯した兄弟の扱い方を論じて来た教えの中では「どんな願い事も、皆、彼が自分の罪を悔い、神に立ち返る事に結びついているべきこと」は言うまでもありません。それは2人・3人の集まりにキリストが臨在して下さる約束があくまでも「私の名によって集まっている」正しい集まりでなくては無意味だからです。

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大切な事は「心を合わせて、イエス・キリストの名によって」集まり、祈り合うことであります。何故なら14節の「これら小さい者の1人が滅びることは、天にいます、あなた方の父のみ心ではない、」からであります。最後にペテロは第一の手紙4章8節で次のように書いています。「何よりも、まず、互いの愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪を覆うものである」「愛を持って祈り合う」それが多くの罪を覆い、兄弟を罪から引き戻す力であります。

<人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。  アーメン>

2023年9月3日(日)聖霊降臨後第14主日 主日礼拝 司式・説教 司式 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

マタイ16章21−28節

「十字架の罪の赦しと復活に与る洗礼から始まる真に平安で日々新しいいのちの歩み」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「前回」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。 

 先週は、イエス様の「あなたはわたしを何というか」という問いに、ペテロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた(16節)ことについて、イエスが「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と、その信仰告白は人間によるものではなく、天の父が現して下さったものなのだと教えました。さらにイエス様は「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と、神が与えて下さった岩の如き信仰告白の上に、ペテロの教会でも偉人の名の教会でもなく、「わたしの教会」つまり「キリストの教会」を立てるのだと、イエス様は教会は律法ではない、人のわざでもない、どこまでも恵みの存在である幸いを宣言したのでした。今日は、その後、続けて語られるイエス様の言葉を見ていきます。「わたしの教会を建てる」の後に、こう続いています。18節最後ですが、

2、「陰府の力も対抗できないキリストの教会」

「陰府の力もこれに対抗できない。

A,「天の国の鍵」

 イエス様は「わたしの教会を建てる」と言われましたが、その「わたしの教会」は「陰府の力もこれに対抗できない」と言います。ここは新改訳聖書ですと「ハデスの門もそれには打ち勝てません。」とあり、ハデスはギリシャ語の通りですが、死者の国という意味です。ですから「陰府」に近い意味になりますが、英語のESVバイブルでは、”The gate of hell”とあり「地獄の門」という意味です。いずれにしても、それは、ペテロに信仰の告白を表した「天の父」との対峙で書かれているように思われます。イエス様が言われるように、イエス様が建てる「わたしの教会」つまり真の「キリストの教会」は、地獄の門さえ対抗できない、新改訳聖書ですと「打ち勝てない」、そんな存在だというのです。しかしそれはどのようにでしょうか?イエス様はそれは、教会に与える「天の国の鍵」によるものであるというのです。19節、こう続いています。

B,「つなぐ、解く」

「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

 鍵で「つなぐ、解く」とはどういうことでしょうか?それは、教会に、弟子たちに、つまりクリスチャンには、天の鍵を与えられていて、教会でその鍵で、誰かをつなぐなら、天でもつながれ、その鍵で、誰かを解くなら、天でも解かれるというのです。本来、天で行われるはずの権限を、与えられた者が地上でそのまま行えば、天でも行われたこととなると言うのですから、そこまでの重大な権限が与えられているということが分かります。では、何をつなぎ、解くのでしょうか。それは21節からのイエス様の言葉にわかるように、罪の赦しのことに他なりません。教会が地上で、誰かを赦すなら、天でもその人の罪は赦されるのであり、逆に罪を赦さないでいるなら、天でもまだその人の罪は赦されないままだというのです。しかしそれは「『天の』国の鍵」であり、それが天から「与えられ、託される」のですから、人の思いのままに、自分中心に赦す赦さないということでは決してなく、どこまでもイエス・キリストのみことば、み旨に基づいて、さらに言えば、イエス様の来られた目的である十字架と復活に基づいて、それを行うということを、イエス様は、何よりも教会に、私たちに託しておられるということなのです。なぜならイエス様のこの言葉と天の国の鍵が、イエス様のこれからの教会の使命にとっていかに大事であり、結びついるのかを示すように、こう続いているからでです。21節からですが、

C,「ご自身の十字架と復活を指し示すキリスト」

「21このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 とあります。「この時から」とあります。つまり、この17節以下の「わたしの教会」を建てる宣言、そして、19節の「教会の天の国の鍵の働き」を弟子たちに約束した、その時から、イエス様は、はっきりとエルサレムへと弟子たちの目を向けさせ、そこで具体的に何が起こるかまでを伝え始めるのです。それは、イエス様が、多くの苦しみを受けて殺されること、21節で「十字架」とは言ってはいませんが、この後、24節で「自分の十字架を背負って」と述べているように、イエス様は、十字架で死ぬことまでもはっきりと見て、弟子達にそのことを口にし指し示しているのです。そして、殺され、3日目に復活することまでを話し始めたのでした。まさに、イエス様は、ここで人間の罪の圧倒的現実とそのための身代わりとして死ぬことになる十字架を指し示しているのですが、それは、その目の前にいる弟子たち、そして全ての人々の罪が赦されて、救われるために他なりません。このように、天国の鍵の力は十字架と復活につながっており、だからこそそれをつなぎ解くのは罪の赦しであり、そして、そのイエス様が成し遂げる事の最大の目的とその力と権威こそが、つまり、天の国の鍵として罪の赦しこそが、弟子たち、教会に託されることにつながっていくのです。

3、「人間的な思いでイエスをいさめ、主の御心を妨げる」

 しかしです。そのイエスの言葉の後、そのすぐ前には16節で、神によって現され告白をしたペテロが、同時に自らでは決して、み言葉を悟れない不完全な罪人でもあることを示すように、彼の罪深い肉の叫びが続くのです。22節

「 22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

A,「そんなことがあってはならない」

 宗教指導者に逮捕され苦しめられ殺される、それは恥ずべき重罪でもあり、神への侮辱ともされ、社会からも攻撃されます。ですから、ペテロが、いや他の弟子たちも含めて、この方こそ救い主だ、王様だと、解放者だと、メシアだと、信じついてきた方に、そんなことが起こるはずがない、と言うのは、ペテロにとっては当然の反応でした。他の弟子たちも戸惑ったことでしょう。そして、ペテロがイエスを諌める言葉はイエスを師として慕えばこその行動や言葉でもあったでしょう。しかし、そんなペテロにイエス様ははっきりというのです。

B,「サタン、引き下がれ」

「23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 と。17節で、ペテロのその信仰の告白に「あなたは幸いだ」とまで言った、さらには、地獄の門にまで打ち勝つ鍵も与えると約束された、イエス様ですが、それとはなんと正反対な厳しい断罪の言葉でしょうか。「サタン、引き下がれ」。なんと地獄の門を支配するサタンとまで言います。みなさん、イエス様の愛情は、矛盾しており、捻くれているのでしょうか?理不尽なのでしょうか?人間中心の感情論で言ったら、「なんて酷いことを言うんだ、イエス様は酷い方だ、愛なんてないじゃないか、等々」そう見える、聞こえて当然でしょう。しかし、イエス様は、愛情がひんまがっているのでも、捻くれているのでも、理不尽で矛盾しているのでもないのです。イエス様ははっきりとしているのです。16〜17節で、「生ける神の御子キリストです」という告白については、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言っています。それはペテロの口から出ていても、イエス様は、神の言葉から出て導かれた神の与えた告白であることをはっきりさせていますが、しかしこのイエスを諌めるペテロの言葉はその全く正反対でしょう。神の心ではなく人間の価値観によって「神はこうあるべきではない、こうあってはいけない」という人間中心の思いです。むしろ神の御心に反対する人間の思いです。なぜならイエス様もこう言っているからです。

C,「神のことを思わず、人間のことを思っている」

「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 神のことを思わず、人間のことを思っていると。ペテロにとっては、ある意味、かわいそうなことかもしれません。なぜなら、イエス様が十字架と復活のことを語っても、そこにこそ、その身代わりによって罪の赦しと新しい永遠の命が与えられる、という神様の成そうとすることを、彼はこの時まだ全く理解できでいなかったからでした。このように怒られた後でさえも、十字架の直前、復活の日の朝までも、ペテロのみならず、全ての弟子が、十字架と復活の意味を理解できず、復活の後、聖霊によって目が開かれて彼らは初めて理解することだからです。ですから、「サタン」とまで言われて、人間的には、ちょっとかわいそうな気はしますが、しかしイエス様の教えは、矛盾したり、揺れ動くどころか揺れず一貫してはっきりとしているのです。それは、人間の思いや力では、神の成そうとすることを理解できないばかりではなく、むしろ、神の計画を妨げることさえあるということです。ペテロをはじめ、その当時の人々のメシアへの期待は、目に見える王国のローマからの政治的解放とダビデとソロモンの王国のような独立と繁栄を再び、という政治的経済的な期待でした。弟子たちも、その地上の政治的王国の右に誰が着くかと論争する始末でした。彼らがイエスに見て期待していたメシアはそのようであり、ですからそんなメシアは宗教指導者たちに逮捕され苦しめられ殺されるはずがないのです。しかしそれは人間が予想でき、期待できる、事前の概念でしかありませんでした。それは、神から出たものではなく、人間の期待であり、理想であり、人間の心から生み出した幻であり、そして肉の目の前にすぐになるであろう、なって欲しい期待であり予想でした。それは人の前ではとても崇高な期待で、敬虔そうな幻であり、人から見れば、師にはそんなことが起こるはずがないと守ろう、助けよう、支えようと言う、敬虔で立派な言葉や態度になるかもしれません。しかし人の前でどんなに立派に見えても、それは、神様が計画した愛する御子を十字架で死なせ復活させることによって、罪の赦しを全世界にもたらそうとう御心には、明確に反するし、妨げようとさえする言葉であり思いなのです。それはまさしくサタンが堕落の初めから、アダムとエバに成功し多くの信仰者を誘惑しては苦しめ、躓かせてきた、そして、同じようにあの荒野の誘惑でも、イエス様を誘惑してきた、神のみ心や約束から逸れさせ、正反対のことをさせよう、という、サタンの働きそのものなのです。だからこそ「サタン、引き下がれ」なのです。

D,「神の御心だけがなり、人ではなく神がなす」

 このところは大事なことを教えてくれています。

 第一に、神のみ心を行うのは、人間ではなく、人間は与えられ用いられるだけで、行うのは、神と神の言葉から出て与えられた信仰とその告白のみによる行いであり、どこまでも神のわざであるということです。一方で、人間の思いや感情、願望、期待、予想、なんであれ、それらは神のことを考えない、神の言葉に立たない、御心を行えないのであり、むしろどこまでも神の思いに反抗し、妨げるということです。むしろ、私たちは、このイエス様の告白から学ぶことができます。それは、イエス様がここで告白するイエス様がこれから受けられる苦しみも十字架も復活も、私たち自身から出るものでは、何も貢献できない、私たちのわざ、行い、協力、功績、そのようなものは一才あり得ないし、それは不可能であると言うこと。そして、まさにその神の御心である十字架は、どこまでも「神が」果たすことであり、ただ一人神の一人子であるキリストご自身が全てを背負われ果たされるのであり、つまり、私たちの十字架と復活の救いは、どこまでも神のわざ、神の恵みであるということです。逆に、「私たち人間から出るものでも、何か、救いや神の国、その理想に貢献できる、しなければいけない。人の目から見れば神のそのような言葉や計画はあまりにも人間にとって合理的ではないから、イエス様、そんなことはやめましょう。そんなことはあり得ません。こっちの方がいいです。私たちのこの考えの方が聖書的で、現代の世の中や文化や風潮や流行に合っており、私たちも心地よいでし、みんなが平和です、みんな聖書に理解を示し親しめます。だからイエス様、現代ではそんなあり得ないこと言わないでください」と言って、み言葉を否定して、人に都合よく解釈して神の言葉をある意味「いさめる」のは、それがどんなに世間受けして、世の中に賞賛され、合理的でわかりやすく理解しやすい内容であっても、イエス様の声は、

「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 なのです。

4、「十字架を背負って従うー日々洗礼に生きる」

 確かに、この後、イエス様は、24節「十字架を背負って従いなさい」とか、27節、「行いに応じて報いる」とか、何か私たちの行いを、救いに要求しているように読み取れるような箇所もあります。だから、これらの言葉のゆえに、「十字架を背負って従え」と言っているんだから、信仰は一部分は、律法なんだ、私たちの力やわざなんだと、いう教えをする教会もあるかもしれません。しかし、私たちは忘れてはいけません。この後、誰が、十字架を負うのですか?ペテロですか?弟子たちですか?ー違います。彼らではありません。イエス様ではありませんか?そして、ペテロでもモーセやアブラハム等々、誰の十字架でもない、このイエス様の十字架の死こそを父なる神は受け入れて、私たちに罪の赦しを宣言してくださっているでしょう?このキリストの十字架のゆえに、もう罪は赦され、罪から解放されると。パウロもこう言っているでしょう。ローマ6章3−6節です。

「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 4わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 5もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。 6わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。

 このように、全てを捨てて、十字架を背負って生きるとは、まさにこのことであり、それは律法の要求ではなく、むしろ恵みを与える手段である洗礼のことであると、パウロは教えています。「イエスのために「命を失う」ものはそれを得る」と言う言葉も、まさにここにある洗礼のことと当てはまるでしょう。洗礼でイエス様とともに罪に死んで命を一度失うから、つまり「全てを捨てる」からこそ、イエス様は、罪赦された新しい命を与えてくれる、それが救い、ニコデモも間違って理解した「新しく生まれる」ことの神秘であり真理です。事実、洗礼は私たちも十字架で死ぬことだとパウロは教えています。つまり全てを捨てて十字架で死ぬことが洗礼です。それはイエスは主であると信じて、この十字架のイエス様が全ての罪を背負ってくださっていると、そのイエス様のくびきを負って全てをイエス様に明け渡して死んで復活で新しく生きる信仰こそが、まさに洗礼から始まるイエス様の十字架を負う生き方そのものなのです。その洗礼は律法ではなく、救いの招きであり、差し出されている神の恵みそのものをなのですから、そのまま導かれるままに信じて受けるなら、イエス様が求める自分を捨て十字架の背負ってイエス様に従う歩みはすぐに始まるのです。だからこそ、それは律法の歩みの始まりではあり得ないのです。洗礼によってイエス様の恵みと福音に囲まれた信仰の日々新しく生かされる歩みが始まるのです。これが日々十字架を背負って生きることなのです。洗礼を受ける日までは恵みで、それまでは教会の人も親切にお客様のようにしてくれたけれども、受けた後から180度変わり、奉仕や献金など教会のあらゆる義務が律法のように重荷のように課せられ律法の日々が始まるように導く教会が少なくないようで、多くの新しく洗礼を受けた人々がその矛盾に躓いては信仰を捨てていくという現実が日本の教会ではあるようです。とても残念なことですし、まさにそれは律法と福音の混同の被害ですね。何よりイエス様はそのことを悲しんでおられるでしょう。洗礼は律法ではなく、恵み、福音であり、その後の信仰生活も宣教も律法ではなく、どこまでも福音なのです。むしろ日々死に、日々新しい洗礼の恵みは日々あるのですから、私たちはただ日々悔い改め、イエス様の十字架に立ち返り福音の信仰の日々に生きることで安心していいですし、そのイエスの与える安心が真の良い行いや隣人愛に導く真の天の力なのです。

5、「天の国の鍵ー互いに赦しあって」

 そしてだからこそ天の国の鍵の恵みなのです。そう、このように、罪の赦しこそ、何より神が与えようとしたものであり、そして何より大事なこととして神が教会に、そしてクリスチャン一人一人に託している、大事な鍵、大事な宝です。イエス様はルカ7章で「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださっています。皆さん、安心するでしょう。イエス様の罪が赦されていますという宣言は、安心して行くことができるでしょう。イエス様の罪の赦しは平安、安心の鍵でもあります。それを教会に、私たちに与えられていることは意味がある大事なことなのです。私は前の教会でも、礼拝の最後に「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と宣言してきました。皆、安心して派遣されますが、ある人は「何の権限があって、罪の赦しを宣言するのか」と苦情を言う人もいました。しかしイエス様は「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言っているのです。ペテロだけではない教会にです。クリスチャン一人一人にです。そして、イエス様が新しい戒めを与えてるその互いに愛し合うことの原点は、まさしくこの罪の赦しです。イエス様はヨハネの福音書で「わたしがあなた方を愛したように」と言って、互いに愛し合うことを命じているでしょう。「わたしがあなた方を愛したように」、そうそれはこの十字架ではありませんか。まず罪を互いに赦し合うことがこの新しい戒めの要であり、隣人愛の原点でありその第一条です。イエス様は聖餐を受ける前にまず和解をしなさいと言っているくらい罪を互いに赦すことは大切なことです。それは、世の中の華やかな隣人愛に比べれば、地味で目立たず、そして何より難しいことです。しかし、イエス様はそのことこそを隣人愛の基本として求めています。私たちにはできないことです。しかし、十字架のイエス様にこそそれができました。そしてイエス様が与える信仰と福音の力は、その罪を赦すと言う天のわざを私たちにもさせることがおできになるのです。だからこそ、天の鍵を福音として私たちに与えてくださっているのです。だからこそまず、私達は、今日もイエス様から罪の赦しを受けましょう。イエス様は今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と宣言してくださっています。そのまま受けて、安心していきましょう。イエス様は私たちを豊かに用いてくださいます。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

2023年8月27日(日)聖霊降臨後第13主日 主日礼拝 司式・説教 司式 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

2023年8月27日スオミ教会礼拝説教

マタイによる福音書16章13〜20節

説教題「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。 

 さて、これまで13章から15章に渡って、イエス様の伝える天の国とその福音の素晴らしさを見てきています。その天の国、あるいは神の国とも言いますが、それはこの地上でもイエス様の言葉が語られ、福音が宣言されているところにはすでに実現しており、つまり、この罪の世にあって、まさにイエス・キリストがおられ福音が宣言される教会こそが、その神の国の先取りであり、私たちは今まさにその恵みに与っている素晴らしさを教えられてきました。そして、今日のところでは、その神の国の先取りである、教会の礎、根拠、あるいは土台は何であるのか、そしてその土台があるからこそ、教会はいかに素晴らしい使命に与っているのかを、教えられています。13節から20節までが今日の箇所にはなっていますが、いつものように、前後の文脈が必ず関連しています。前後も踏まえてともに見ていきましょう。まず13節をもう一度お読みします。

2、「人々はイエスを誰だと言っているかー誰も自らでは正しく言えない」

「13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。

A,「誰も自ら正しくイエスは誰であるのかいうことはできない」

 フィリポ・カイサリアは、ガリラヤ地方の北、ヘルモン山麓南の高台にある、ヘロデ大王の息子フィリポによって建てられた新しい町でした。そこに来た時に、イエス様は弟子達に「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねます。この質問は、この後15節の、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」という質問の導入とも言える質問ですが、意味深い質問です。人々は人の子、イエスを誰だと言っているか。弟子達は、14節で、ある人々は『洗礼者ヨハネだ』と言い、ある人は『エリヤだ』と言い、また他のある人は『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言っている、と、その人々が口にするイエスの評判や評価を答えています。大勢の人々にとって、イエス様の存在は、とても注目と関心の的でした。多くの奇跡を行い、病人を癒したその情報は、ユダヤ、ガリラヤ、イスラエル全土の異邦人に至るまで知られていました。しかし、イエスが誰であるのか。それは否定的な評価であっても、肯定的な評価であっても、誰も正しくイエスは誰であるのかを、いうことはできませんでした。

B, 「人間中心の判断:目に見え期待する「しるし」に判断しようとする」

 1節からは、ファリサイ派とサドカイ派の人々のことが書かれています。彼らは、イエスを試そうとしてやってきますが、「天からのしるしを見せてほしい」とあるように、彼らは、イエス様が、何か目にみえる奇跡的な現象を行うかどうかと、試そうとしています。「奇跡など、目に見えるすごいことを」それは、ファリサイ派やサドカイ派の人たちだけではなく他の多くの人々のイエスへの注目点ですし、評価の基準でした。まさに人間の目に見える、見たいもの、しかも「天からの」とあるように、普通ではない驚くべきしるしを、見せてくれれば、イエスを評価しよう、信じよう、認めよう、そのような人々が多かったのです。現代でも、何か目に見える、期待する偉大な行いやわざがあれば、あるいは、してくれれば、それを自分の信仰の根拠にしよう、信じようという声はよくあるでしょう。「こうであるなら、私は信じます。」「これを見せてくれれば私は信じます」と。しかし、それは、神を判断する基準、あるいは信仰の基準は、どこまでも自分です。ご利益信仰というのは、日本人に限らず、どの国や文化にもあると思いますが、それは人間の側で、期待する通り、願う通り、その通りになれば、神を評価しよう、信じようという、信仰や、神様への評価です。しかし、それは、どこまでも実は、人間が中心、ある意味、自分が神になっていて、信仰の対象を評価しているという大きな矛盾、皮肉、そして身勝手さがあります。それは、キリスト教会やクリスチャンの中でも様々あることで、例えば、文化的な変化や、社会の価値観の変化によって、聖書の解釈や神への理解を巧妙に都合よく変えていこうとすることも同じです。それは、まさに、しるしや目に見えるもので、神の国や救い主やみ言葉を測ろう、判断しようということですが、人間中心の価値判断であるために、人間の都合や好みで、例えそこに隣人愛などの崇高な思いがあったとしても、聖書の教えが巧妙に変えられていってしまっているのです。教会で、キリストの名を叫びながらも、人間や人間の理性が神となっているという皮肉です。

C,「真のしるしは、人が思いもしない、キリストと、そして十字架と復活のみ」

 イエス様は、そのようなしるし、つまり、何か自分が期待するような奇跡的なことで、神を試そうという姿勢を皮肉ります。4節「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」と。イエス様は、その前に人間は、自然のしるしから天気を予測することを挙げていますが、しかし、そこでヨナのしるしの他にはしるしを与えられない、と答えて立ち去っています。そのヨナのしるしについては遡って12章38節以下で彼らに既に述べたことで、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中で過ごして出てきたという旧約聖書の言葉から、ここにヨナに勝るものがいると、イエス様は示したのでした。つまりそれは、明らかにイエス様がこれから受けられる十字架の死と3日目に復活されることを示した「しるし」なのですが、しるしは、そのしるしだけだとイエス様は言っています。しかし思い出してください。その十字架という「しるし」は、人間が期待し、望むような、しるしではなく、人には理解も予想もできない、人の思いを超えたしるしであったでしょう。このことは、まさに人間の、期待や予想ができ、願うような、そんなしるしで、神を図り、評価できるほど、救い主キリストも神の国も、決して小さくないし、むしろ、計り知れなく大きく、人間の力では、神の正しい理解や霊的な悟りには至らないことを示しているのです。

D,「人間中心の判断:過去の栄光や偉人に見ようとする判断」

 それでも、ある人々は、イエスを見て、『洗礼者ヨハネだ』『エリヤだ』『エレミヤだ』あるいは『預言者の一人だ』とある意味、一見良い評価をします。しかし、その評価も、これまでに過去に存在し、偉大な功績を残し尊敬され、著名な優れた人間を超えるものではありませんでした。それも、また彼らが期待し待ち望んでいた、実在した過去の偉大な存在であり、むしろ、かつて、バビロンやアッシリアの囚われから解放してくれた時のように、国をローマの圧政や抑圧から解放してくる立派な指導者を超えるものではなかったのでした。そう、このように、神の国も、救い主キリストを、そのような、過去の栄光や、成功者、偉大な指導者や貢献者を基準に、同じようなものに追い求め、同じようなものを見ようとしても、正しく、見ることができず、間違って見てしまうのです。それは、現代でもありうることで、聖書よりも、過去の繁栄していた時代の教会を基準に、つまり人間の経験を基準にして、あるいは、その過去の栄光に囚われ、その時代の優れた功績を残した人をある意味、神のごとく崇め奉っているかのように、その通りの、それを基準とし、その基準や期待に合致した教会や指導者を求めたり、再度、同じ栄光や繁栄を実現することが何か宣教であるかのように勘違いして熱心に律法的に活動している教会を目にすることがありますが、しかし、過去の栄光や繁栄、そしてその時のエリヤの如き優れた預言者、説教社、指導者を追い求めるあまり、キリストとその福音がわからない、見えない、あるいは見失ってしまうのです。

 「イエスは誰であるのか」、それは、罪深い人間の価値基準や経験や判断では、それを正しく答えることはできないのです。ここで、イエスは、弟子達にまさに核心となる問いかけをします。15節

3、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ

「15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

それに対して、ペテロが答えます。

「16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

A,「ペテロの告白:ペテロも弟子達も自ら告白できる力はない」

 ここで言う人がいるかもしれません。「ペテロは、きちんと答えているではないか。イエス様もそれを賞賛しているではないか。そら、人間は、きちんと修行を積めば、経験を積めば、イエスはメシアだ、生ける神の子だと告白できるではないか、だから、人間の経験の力、意志の力、なんだ、人間の力で信仰を告白できるんだ」と。そういうかもしれません。

 しかし、それは違います。この後の17節を見ればわかるのですが、5節以下の弟子達のことを見ても、イエス様の言葉の意味を悟ることのできない弟子達の姿があります。イエス様は、6節で「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」といったことを、弟子たちは、パンを持ってこなかったことを注意されたのだと思い込み論じ合いました。その前のイエス様とファリサイ派達とのやり取りのことなども忘れてしまったかのように、目先のパンがないこと、食べるものがないことを、忘れてしまったことをどうしようかということに囚われ心配しています。弟子達も、ヨナのしるしが何を意味しているか当然ですが、理解できていませんし、しるしを欲しがるよこしまな時代の警告の意味もわかっていないのです。そればかりではなく、食べるもの、パンのことを、心配する必要がないことは、見てきた5千人の給食からも、その前の山上の説教からも教えられてきたことでした。しかしそれでも悟るのに遅い弟子達です。いや弟子達でさえも自らの力では、イエス様の真理には至ることができないのです。この16章でも8節以下イエス様に教えられて初めて、彼らは、最後にパン種の意味を悟っているのです。そう、弟子達がイエスと長く過ごし、経験を積んできたことによって、何か神の真理や知識や悟りに至るということでは決してないのです。事実、この後、十字架の直前まで、彼らは、誰が偉いかと論じ、イエスが誰かが裏切ることを伝えたときも、口では立派に「他の誰が裏切っても自分は裏切らない」と豪語しても、彼らは皆裏切って行きます。人間の意思の力はその通りにならないのです。そして復活の日の朝も、イエスの約束を忘れて、恐れて失望のうちに部屋に閉じこもっていたでしょう。彼らが経験を積んで、意志が訓練され強くなり、自分の意志や行いで悟り告白したにはならないのです。

B, 「ペテロの告白:人間ではなく、わたしの天の父なのだ」

イエス様は、16節のシモン・ペトロの

「あなたはメシア、生ける神の子です」

 と答えたのに対して、はっきりとその告白がどこからきたのかを教えてくれています。 「17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。

「あなたはメシア、生ける神の子です」ーそのイエスは誰であるのかの告白、信仰の告白は、それを現し、明らかにしたのは、「人間ではない」とはっきりといっています。ペテロのこれまで過ごしてきた修行の賜物、経験の積み重ねから出た人間の力や意志のわざ、ではないとはっきりと言っています。あるいは「人間ではない」ということは、それは、誰か他の人間が説得してくれた、信じさせてくれた、誰かがこれだけのことをして、貢献してくれたから、その人と自分の力で信じることができた、でもないということです。もちろん、誰かが信仰を告白するに至るまで、多くのクリスチャンの証しが用いられます。しかし人は用いられるだけです。信仰の告白は人間によるのでないのです。イエス様は言います。「わたしの天の父なのだ」と。そう、天の父である、神こそが、信仰を与え、告白を与えてくださったのだと、イエス様は言っています。さらに言えば、そこに働いていたのは、まさに8節以下でも、イエス様に教えられて、つまりイエス様のみ言葉によって教えられて、目が開かれたように、天の父が、御子イエス様のみ言葉を通して、その信仰を、その告白を現してくださったと、言っているのです。人間によるのではないのです。

 パウロもはっきりと言っています。エペソ2章8〜9節にこうあります。

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。

C,「み言葉を通し恵みのゆえに悔い改めと信仰が今日もある素晴らしさと救いの確信」 

 皆さん、感謝なことです。皆さんは、今日もみ言葉の律法によって罪を示され、心を刺し通され、悔い改めを持ってこの前に集められています。そして、今日も十字架と復活のイエス様の前にイエス様によって集めれています。信仰を持って、神のみ言葉に聞いています。そして今日も、信仰によってイエス様の罪の赦しの宣言を受けて、平安をもらってここから信仰にあって遣わされようとしています。しかし、その信仰は、皆さんが自分の努力で、自分の力で得たものではない、それは、天の父なる神の賜物、贈り物、プレゼント、神が下さった恵みなんだと、今日もイエス様ははっきりと教えてくれています。皆さんが、今日もイエス・キリストを救い主と告白し、祈ることができるのは、天の父が現してくださった、与えてくださった、神の賜物であり、人間によるのではないのです。つまり、私たちには決してできない、天の神が今日も私たちに明らかにしてくださった信仰という素晴らしい真の奇跡が今日もここに、私たちに起こっているのです。ですから、今日もここに恵みに生かされている事実、自ら信じることのできなかった私たちがここに今、神の言葉から、キリストを信じ告白している事実、出来事が、今日のこの時にもある。そうであるなら、ぜひ喜んでください。安心してください。なぜなら、私たちは天の父によって与えられ、今確かにイエス様と共にあり、確かに救われている。救いの道、新しいいのちの道を私たちは確実に導かれていると、主キリストにあって、約束の言葉にあって確信できるのですから。

D,「しかし信仰が律法、私たちの行いや意思の力だとするなら〜平安も確信もない」

 しかしもしそうでないと言うなら、つまり、信仰は行いであり、人のわざ、意思の力であり、告白も、私たちのわざ、功績であり、経験の積み重ねであり、意志の力、決心の一歩であると言うなら、どうでしょうか。全ては私たちの行いや力や意思にかかっているというのなら、どうでしょうか。そうであるならば、私たちは、どこまでも不完全で、罪深い、自分の現実の前に、絶対に安心も確信もなく、いつでも、救われているのだろうか、天国に行けるだろうかという、不安と曖昧さの中で、生き続けなければなりません。その上、さらに努力をしなければという、達成できないおろすことのできない重荷に苦しんで生きていくことになります。それは、救いではありませんね。「重荷を下ろせ」と言われ、「平安があるように」と言われ、「いつもあなたと共にある」と言われたイエス様に矛盾するのではありませんか。しかしそのように福音ではなく律法によって派遣され矛盾に苦しむ、いやその矛盾と苦しみにさえ気づかないクリスチャンはいかに多いことでしょう。そうであってはいけません。信仰は、素晴らしい恵み、賜物、父子聖なる神様が、み言葉を通して与えてくださった贈り物、プレゼントなのです。だからこそ、あのルカ10章でイエス様は、忙しなく動き回って平安なく、ただみ言葉を聞いているだけの妹マルタを裁き、イエス様を裁く、マリヤに優しくいうでしょう。

「41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」ルカ10章

 感謝を持ってみ言葉に聞き、信仰の告白が与えられている恵みを感謝しましょう。

4、「教会は、キリストが建てたキリストの教会」

そして、最後、結びたいと思いますが、イエス様はとても大事なことを伝えます。18節以下

「18わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

A,「神が与えた岩のごとき信仰告白の上に:キリストが福音で建てる」

 イエス様は「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。この岩というのは、岩という名のペテロのことだとよく言われます。しかし、そうではありません。この岩とは、このペテロに現された、神から与えられた岩の如き信仰の上にという意味になります。つまり、大事な点は、その信仰は、律法としての信仰ではなく、先ほど伝えてきた、神が明らかにし現した賜物としての恵みの信仰、つまり福音としての信仰のことであるということです。皆さん、世の中の多くの教会は、ここを間違えて、律法としての信仰の上に、自らの力で教会を建てようと躍起になっています。一生懸命で熱心であるかもしれません。明るく楽しく見せはしますが、それさえ律法になり、そうすることに信仰があるかのように考えて、教会員を信仰に律法的に駆り立てます。それは、人間的に期待する成果も出し、数的にも見た目にも大きくはなり、見せることもできるかもしれません。しかし、それは神の恵みである福音による信仰の上ではなく、どこまでも人間の力の上に立つ教会ですから、砂の上に建てられた教会と同じです。それは、イエス様がいう「わたしの教会」ではなく、「人の教会」に過ぎません。真の教会は、律法ではなく、福音からくる賜物としての信仰の上に立つのです。

B,「神が与えた岩のごとき信仰告白の上に:わたし(キリスト)の教会」

 そして、イエス様は「わたしの教会」と言います。つまり「イエス・キリストの」教会であることを忘れてはいけません。正統的なコンフェッショナルなルーテル教会ではあり得ないことなんですが、福音派の教会などでは、看板はキリストとか福音とかついていても、何の疑問も抵抗もなく、牧師先生や功績のある指導者の名前をとって、「〜先生の教会」という言い方をするのをよく聞きます。実際に、キリストよりも、「その先生が建て、大きくした、その先生の教会である」と正論で当然であるかのように理解した発言を聞くと、「キリストはどこへ?」と首を傾げたくなる、そんな教会さえもあります。しかし、そのような言い方も考えも間違いです。「〜先生の教会」ではないのです。厳密に言えば、教会は、ルターの教会でも、カルヴァンの教会でも、ウェスレーの教会でもありません。どこまでもキリストが建てキリストがその言葉で成長させる「イエス・キリストの教会」なのです。イエス・キリストのものなのです。実際ルター自身が「私は、人々が私の名前に言及しないようにお願いします。自らをルター派ではなく、クリスチャンと呼ぶように」と言って、自分の名前の教会と呼ばないように言っているのです。事実、聖書は、他の誰かや有名な実績ある牧師、教皇、あるいはルターやカルヴァンが、ではなく、イエス・キリストが、そして、イエス・キリストこそ、世に与えられた罪から贖い出す約束の子羊として、私たちの罪のために、私たちが受けるべき罰の代わりに、十字架にかかって死なれ3日目に復活されたと、はっきりと伝えているでしょう。そのキリストのゆえに、その十字架と復活のゆえに、神は今日も律法によって悔い改める私たちに「あなたの罪はもう赦されています。安心して生きなさい」と福音の宣言をしてくださり、私たちは、今日も、日々新しく、罪赦された喜びと新しく生かされたことに、喜び、安心して、出ていくことができるのです。今日もイエス様は私たち一人ひとりに言ってくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と。ぜひ今日も。安心してここから出て行きましょう。今日のところの鍵の権能のことは、来週のところとと併せて続けて見て行きます。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン