説教「霊的な目が開かれるということ」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書9章1-41節

主日礼拝説教 2023年3月19日 四旬節第四主日

聖書日課 サムエル上16章1-13節、エフェソ5章8-14節、ヨハネ9章1-41節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様は人道支援の模範を超える方

本日の福音書の日課は、目の見えなかった男の人がイエス様の奇跡の業のおかげで見えるようになったという出来事です。イエス様と弟子たちの一行が通りかかったところで、生まれつき目の見えない男の人が物乞いをして座っていました。それを見て弟子たちがイエス様に尋ねます。この人が生まれつき目が見えないのは、自分で罪を犯したからか?それとも親が罪を犯したからか?要するに、本人ないし親が犯した罪の罰としてそうなってしまったのかという質問です。しかし、よく見るとこの質問にはおかしいところがあります。男の人が目が見えないのは生まれた時からです。罰を受けるような罪を生まれる前に犯していたということになるからです。もちろん、キリスト信仰では、人間は誰しも母親の胎内にいる時から最初の人間アダムの罪を受け継いでいると言います。ただ、その罰として目が不自由な者として生まれたと言ってしまったら、何も問題なく生まれてきた人は罰を受けなかったことになってしまいます。人間は生まれながらにしてみな罪びとだと言っているのに不公平な話です。それでは、罰の原因は本人ではなく親が犯した罪なのか?

この質問に対するイエス様の答えは人間の視野を超えています。人が何か障害を背負って生まれてきたのは何かの罰でもたたりでもない。そのように生まれてきたのは、創造主の神の業がその人に現れるためなのである、と言うのです。その人に現れる神の業とは何でしょうか?本日の個所を読めば、ああ、それはその人の目が見えるようになる奇跡の業のことだなと思うでしょう。もちろん、奇跡的に重い病気や障害が治ることもありますが、治らなかったら神の業が現れなかったということなのでしょうか?人間誰でも病気や障害が治ることはとても切実なことですので、「神の業」と聞いたらそれにつきると考えてしまいます。しかし、神の業には、目が見えるようになる癒しを超えたもっと大きなこともあったのです。その大きなこととは何か?それがわかると、イエス様という方は、単に困った人を助けてあげる人道支援の模範を大きく超えた方であることがわかります。

2.肉体的な目の開きから霊的な目の開きへ

神の業には癒しを超える大きなことがある、そのことがわかるために、目が見えるようになる奇跡には特別な意味があることを明らかにしようと思います。男の人の奇跡の出来事の後でイエス様は周りにいる人たちに聞こえるような声で驚くべきことを言いました。自分がこの世に来たのは裁くためであると言って、裁きの内容がどんなものかを言います。それは、「見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる」でした。これを聞いたイエス様に敵対するファリサイ派の人たちが、見えない者とは自分たちのことを言っているのかと聞き返します。それに対するイエス様の答えは分かりにくいです。もし、お前たちが目の見えない者であれば罪はないのだが、お前たちは「見える」と言い張るのでお前たちの罪は留まることになる、と。つまり、目が見えませんと認めれば、お前たちの罪は留まらないのだと。これは一体どういうことでしょうか?

この「見える」、「見えない」ということには旧約聖書の背景があります。それを少し見てみましょう。イエス様の時代から約700年以上も昔のことでした。イスラエルの民が王様から国民までこぞって神の意思に反する生き方をし続けたたため、神は預言者イザヤに罰下しを命じます。どんな罰かと言うと、民の心をかたくなにせよ、その目が見えなくなるようにし、耳が聞こえなくなるようにせよ、と言うのです(イザヤ6章9~10節)。ただしこれは、文字通りに肉眼の目を見えなくなるようにするとか聴覚を不調にするということではありません。そうではなくて、神の御心が見えなくなってしまう、神の声が聞こえなくなってしまう、という霊的な目と耳の塞ぎを意味しました。

この罰下しの役目を負わされたイザヤは不安の声で神に聞きます。「主よいつまで民をそのような状態に陥れておくのですか?(6章11節)」それに対する神の答えはこうでした。イスラエルの民が他国に攻撃されて荒廃し、人々は連れ去られ、残った者も大木のように切り倒され焼かれて、そして最後に切り株が残る時までだ、その切り株が「神聖な種」になる、と(11~13節)。そのような切り株が現れるまでは霊的な目が見えない、耳が聞こえない状態になるのだ、と言うのです。これは逆に言えば、切り株が現れることが霊的な目が見え耳が聞こえる民の誕生ということになります。この預言の後、イスラエルの民に何が起こったでしょうか?

当時イスラエルの民は南北の王国に分かれていました。まず紀元前700年代に北の王国がアッシリア帝国に滅ぼされます。残った南の王国はすんでのところでアッシリアの攻撃を撃退しますが、その後も一時を除き神の意思に反する生き方を続けてしまい、最後はバビロン帝国の攻撃に遭い紀元前500年代初めに滅ぼされます。国の主だった人々は異国の地に連れ去られて行きました。それから半世紀程たった後、ペルシア帝国がバビロン帝国を倒してオリエント世界の覇者となると、ペルシャ王の計らいでイスラエルの民は祖国帰還を果たします。イザヤ書の後半を見ると、神の僕なる者が現れて祖国帰還の民の目を開き耳を開くという預言が出てきます(イザヤ書42章7節、50章4~5節)。帰還を果たした民は、神が再び自分たちのそばに来て自分たちも神の意思に従える民になったと希望で胸が一杯になったことでしょう。

ところが、イスラエルの民は帰還した後もペルシャ帝国、アレキサンダー帝国、ローマ帝国と他民族が支配する状況が続きました。国内状況を見ても、神の意思に従う生き方をしているか疑問が持たれるようになりました。イザヤ書の終わりの方にある預言者の嘆きの言葉がそれを言い表しています。「主よ、いつまで私たちの心をかたくなにされるのですか?(63章17節)」つまり祖国帰還した後も、まだ民の目と耳は開かれていなかったのです。一時、民の目と耳が開かれる預言は祖国帰還の時に実現すると考えられたのですが、次第に、民の目と耳が開かれるのは祖国帰還の時ではなく、もっと将来のことを指していると理解されるようになります。

イエス様が歴史の舞台に登場したのはまさにそのような時でした。なんと、この方は目の見えない人たちの目を開け、耳の聞こえない人たちの耳を聞こえるようにする奇跡を行うではありませんか!もちろん、旧約聖書をよく知っていた人たちは、目や耳を開けるという預言はあくまでも霊的な目と耳のことだとわかっていました。しかし今、目の前で起きていることは、霊的な目や耳が開いたかどうかはともかく、肉体的な目と耳が開くということが起きているのです。あまりにも具体的です。もし、この人の霊的な目は開かれたと言ったら、それが本当かどうか誰もわからないでしょう。しかし、肉眼の目が見えるようになったら、あの人は見えてなんかいないと誰も否定することはできません。

実は同じようなことは他の奇跡の所でも起きていました。全身麻痺状態の人がイエス様の前に運ばれてきました。イエス様は最初、お前の罪は赦されると言いました。周りにはそれを信じようとしない人たちがいました。そこでイエス様は、それならば、と言って、その人が立って歩けるようにしました。これを見た人たちは、この方は口先だけの人ではない、本当に罪を赦す力があるのだと思わざるを得なかったでしょう。

また、会堂長の娘とラザロが死んだ時、イエス様は、死んではいない、眠っているだけだ、と言って生き返らせました。これは復活について具体的に教えるものでした。イエス様を救い主と信じる者にとって、死というのは復活の日に目覚めさせられるまでの眠りにすぎないということ、そして、眠りから起こす力はイエス様が持っていることを教えるものでした。そういうことを口で言っても誰も信じないでしょう。しかし、生き返らせる奇跡と一緒に言ったら、誰も信じないではいられないでしょう。同じように、目や耳を開けるイエス様の奇跡の業は、後で霊的な目と耳の開きが起こることを信じさせる前触れ的な業だったのです。

それでは霊的な目と耳の開きはどのようにして起こったでしょうか?それは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起こったことで起きました。イエス様は、人間が内に持ってしまっている罪、神の意思に反しようとする罪を全部背負ってゴルゴタの十字架の上にまで運び上げました。そこで、神から神罰を人間に代わって受けて死なれました。それは、人間が罪の重荷を自分で背負わないですむように、また神の罰を受けないで済むようにするためでした。しかも、神の救いの業はイエス様の十字架の死で終わりませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させられました。これで死を超えた永遠の命があることがこの世に示されました。このようして神はひとり子イエス様を用いて人間の救いをお膳立てしたのでした。

そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に自分のために行われたのだ、だからイエス様は救い主なのだ、と信じて洗礼を受ける。そうするとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったことになるので、神から罪を赦された者と見なされます。罪を赦されたので、太古の昔に失われてしまった神との結びつきが回復します。神との結びつきを持てて復活の日を目指してこの世を生きることになります。この世から別れることになっても、復活の日までのひと眠りの後で目覚めさせられて、今度は朽ちない復活の体を与えられて造り主である神のもとに永遠に迎え入れられます。その人はイエス様を救い主と信じるようになって以後は、十字架に架けられたイエス様と彼が葬られた墓が空っぽになっていたことを肉眼の目ではない霊的な目で見ていたのです。聖書を繙く時、神が語りかけているのが霊的な耳に響いていたのです。このようにイエス様の十字架と復活が起こったことで人間の霊的な目と耳が開かれることが始まったのです。

そこでファリサイ派の問題は何かと言うと、霊的な目が見えないのに見えると思っていたことでした。もしそうなら、彼らにはイエス様の十字架も復活も必要ありません。でも、それでは罪の償いも赦しも得られません。逆に霊的な目が見えないと認めることが出来れば、イエス様を救い主と信じることですぐ見えるようになります。霊的な目が見えるようになれば、罪の赦しのお恵みの中で人生を歩めるようになります。見えないのに見えると思っていることが問題だったのです。

3.神の業は私たちにも及ぶ

これで、イエス様とファリサイ派のやり取りの意味がわかるようになったと思います。本日の日課の中でもう一つ難しい箇所があります。9章4~5節です。そこでイエス様は、我々は私を遣わした神の業を日中の内に行わなければならない、誰も行うことが出来なくなる夜が来る、私がこの世にいる間は私は世の光である、と言います。これは、以上述べたことを踏まえて考えれば、次のように理解することが出来ます。

日中の明るい時とは、イエス様という光がまだこの地上におられる時です。その時に彼をこの世に贈った神の業を行わなければならない。しかし、暗い夜が来たら、つまりイエス様がこの地上からおられなくなったら、神の業を行うことが出来なくなると。それは一体どんな業なのでしょうか?

先ほども申しましたように、イエス様の十字架と復活の出来事が起きて人間の霊的な目と耳の開けが始まりました。ただ、十字架と復活の出来事の前にイエス様は、前もって霊的な目と耳が開かれることを信じられるようにする業を行いました。肉体の目と耳を開けることがそれです。そうすることで、霊的な目と耳が開かれることが起こると前もって信じさせようとしたのです。全身麻痺状態の人を癒すことで罪の赦しがあることを信じさせようとしたのです。死はイエス様を救い主と信じる者にとっては復活までの眠りにしか過ぎないことを信じさせるために生き返らせることをしたのです。それらを信じさせるために具体的に目と耳を開けてあげる、歩けるようにする、生き返らせることをしたのです。これらの具体的な奇跡の業は、十字架と復活が起きた後はもう、別になくても大丈夫になりました。なぜなら、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けれさえすれば、霊的な目と耳は開かれ、罪は赦され、復活を遂げられるからです!

さて、イエス様が天に上げられてからは、彼が行ったのと同じ奇跡の業をする者はこの地上にはいません。ただし、聖霊の賜物として癒す力を与えられた人が癒しの奇跡の業を行うことはあるかもしれません。しかし、キリスト信仰者全てに共通する最も大事なことは、霊的な耳と目が開かれて、罪の赦しのお恵みに留って、自分も復活を遂げると確信を持って生きることです。

イエス様は今、一時的にこの世にいません。それで今は夜ですが、しかし何も心配はいりません。エフェソ5章8節に書いてある通りだからです。

「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」

霊的な目と耳が開かれて罪の赦しのお恵みに留まって復活を遂げることになる者、すなわちキリスト信仰者は、夜の暗闇のようなこの世の中で光の子になっているのです。そして、パウロがローマ13章12節で言うように、夜は更け、日は近づいているのです。イエス様の再臨の日は毎日、一日ずつ近づいているのです。

本日の肉体の目が見えるようになった男の人は、まだ十字架と復活の出来事の前ではありますが、霊的な目が開かれて光の子として歩み出したことが見て取れます。特に真実を曲げなかったということに見て取れます。彼の両親は息子の癒しについて知っていましたが、シナゴーグから追放されることを怖れて、本当のことを言いませんでした。しかし、男の人は全然怯みませんでした。ファリサイ派の人たちは何としてでも、奇跡がなかったことにしようとか、安息日に行った奇跡は律法違反なので神の働きなどないという態度でした。男の人は真実を曲げなかった結果、シナゴーグから追放されました。日本語訳では「外に追い出された」で、男の人がファリサイ派の尋問を受けた部屋から外に追い出されたという意味です。ここは微妙な箇所で、シナゴーグから追放されたことを意味することも可能です。

男の人が追放されたと聞いてイエス様はすぐ戻ってこられました。イエス様のせいで大変な目に遭ってしまったが、目の前にいるイエス様を見て、そんなことは次第にどうでもよくなりました。男の人はイエス様を「人の子」、つまり終末の時にこの世に現れる救世主であると告白しました。私たちも男の人のように真実を曲げないでいると、曲げることで利益を得る人たちの反感や怒りを買います。それこそ追放されて天涯孤独のようになってしまうかもしれません。しかし、イエス様はすぐ男の人のところに戻ってきて、自分が救い主であると告白するように導きました。私たちの場合も、イエス様は聖書の御言葉を通して、聖餐式を通して私たちのすぐそばにいらっしゃいます。私たちの祈りをいつも聞き遂げて下さいます。このように私たちのすぐそばにおられることで、私たちを信仰告白に導かれます。

私たちも男の人と同じように告白ができたら、天涯孤独など些細なことになります。なにしろ告白は、万軍の主である神が私の味方について下さっていることを自分でそのとおりだと認めるものだからです。男の人の信仰告白は私たちの信仰告白を先取りしています。イエス様は、男の人が生まれつき目が見えないのは「神の業がこの人に現れるためである」と言いました。本当に肉体的な癒しを超える神の業が男の人に現れたのでした。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

説教「聖霊とキリスト信仰者は風のごとく往く」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書3章1-17節

2023年3月5日(日)四旬節第二主日 主日礼拝
聖書日課 創世記12章1~4a節、ローマ4章1~5、13~17節、ヨハネ3章1-17節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに ニコデモ - 自省するファリサイ派

 本日の福音書の日課の個所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答です。ここでイエス様は4つの大切なことを教えます。一つ目は、人間は母親のお腹から生まれた有り様は肉的な存在である、しかし、洗礼を受けると霊的な存在になるということ。二つ目は、霊的な存在になって神の国に迎え入れられる、これが救いであるということ。三つ目は、人間がそのような霊的な存在になれるために天地創造の神はイエス様を贈った、これが神の愛であるということ。四つ目は、その神が贈ったイエス様を救い主と信じる信仰が人間を救う、人間が神に国に迎え入れられるようにするということ。今日はこれらのことについて少し詳しくみていきます。

 まずニコデモという人について。彼が属していたファリサイ派というのは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということにとてもこだわったグループでした。旧約聖書にあるモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則も厳格に守るべきと主張しました。何しろ、自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。

 そこにイエス様が歴史の舞台に登場しました。彼が数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々を集め始めると、ファリサイ派と衝突するようになります。イエス様に言わせれば、神の前での清さというのは外面的な事柄に留まらない、内面的な心の有り様も含めた全人的な清さでなければならない。例えば、モーセ十戒の第五の掟「汝、殺すなかれ」は、実際に殺人を犯さなくても心の中で他人を憎んだり見下したりしたらもう破ったことになる(マタイ5章22節)。第六の掟「汝、姦淫するなかれ」も、実際に不倫をしなくても心の中で思っただけで破ったことになると教えたのです(同5章28節)。イエス様は十戒を厳しく解釈したように見えますが、十戒を人間に与えた神の本来の意図はまさにそこにあるのだと、神の子として父の意図を人々に知らせたのです。

 全人的に神の意思に沿えているかどうかが基準になると、人間はどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方で勝手に規則を作って、それを守ったり修行を積めば清くなれるんだぞ、と自分にも他人にも規則を課すのは愚かしいことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。

 ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、グループの中には、このやり方で神の前で清くいられるだろうか、神に義とされて天の御国に迎え入れられるだろうか、と疑問に思った人もいたでしょう。ニコデモはまさにそのような自省するタイプのファリサイ派だったと言えます。3章2節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。日中だと、ファリサイ派の人たちはいつもイエス様と議論の応酬だったので、夜こっそり一人で出かけたのです。(余談ですが、この対話をきっかけにニコデモはイエス様を救い主と信じ始めたようです。例えば、最高法院でイエス様を逮捕するかどうか話し合われた時、ニコデモは弁護するような発言をします(ヨハネ7章50

52節)。さらに、イエス様が十字架にかけられて死んだ後、ローマ帝国総督のピラトのもとに行き許可を得てイエス様の遺体を引き取り、それを丁重に墓に葬ることもしています(19章39ー42節))。

2.「生まれ変わる」ではなく「新たに生まれる」

 さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである、人間が肉的な存在から霊的な存在になるというのはどういうことか見ていきます。イエス様はニコデモにイエス様はいきなり言われます。

「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」(3節)

 「新たに生まれる」ということについて注意します。それは、「生まれ変わる」ということと全く違います。例えば、自分は前世では誰々だったが、今の自分はその生まれ変わりであるなどと言う人がいます。こういう考えを輪廻転生と言います。そこまで大胆でなくとも、今度生まれたら金持ちになりたいとか、有名人になりたいなどと言う人は沢山いると思います。あるいは、赤ちゃんが生まれた時、亡くなったおじいちゃんかおばあちゃんに似ているので、この子はおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだ、などと言うのもよく聞かれると思います。

 聖書の信仰には輪廻転生はありません。私この吉村博明はこの世から死んだ後は何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはもうありません。宗教改革のルターも言うように、この世から死んだ後は「復活の日」が来るまではみんな神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。「復活の日」とは、今のこの世が終わって天と地が新しく創造される日のことです。その日この吉村博明は目覚めさせられてイエス様のおかげで(※)朽ちない復活の体を着せられて永遠の命を与えられて吉村博明が続いていくことになります。それでは、「生まれ変わり」ではない「新たに生まれる」とはどういうことでしょうか?(※ この「イエス様のおかげで」を礼拝の説教では「運が良ければ」と言ってしまいました。「イエス様のおかげで」ということは本説教の後で強調されることなので、ここでは冗談ぽく言っておこうという軽い気持ちでした。礼拝後のコーヒータイムで教会員から、とても気になったとご指摘を受けました。良くなかったと反省しました。お詫びして訂正いたします。)

 イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」はもはや母親の胎内を通って起こる誕生ではありません。どんな誕生かは、次のイエス様の言葉を聞いてみましょう。

「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5ー6節)。

 イエス様が教える新たな誕生とは「水と霊による誕生」です。これは洗礼を受けて神の霊、聖霊を注がれることを意味します。

 人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてきますが、それはまだ肉的な存在で霊的な存在ではないというのです。その上に今度は神の霊、聖霊を注がれないと「霊から生まれたもの」になれないのです。「水と霊による誕生」の「水」は洗礼を指し、「霊」は聖霊を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は母の胎内から生まれた有り様は肉的な存在であるが、洗礼を受けることで聖霊を注がれて霊的な存在になり、これが新しく生まれることです。

3.肉的な存在から霊的な存在へ

 それでは、霊的な存在というのはどんな存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえ気味悪く思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。洗礼を受けて聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、外見からではわからない変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)

 なにかとても深いことを言っていると思わせる言葉です。何を言っているのでしょうか?風は空気の移動です。空気も風も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。気流の流れによってはゴーっという音もします。聖霊を注がれて霊的な存在になった者はみなそういうものなのだと。一体どういうことでしょうか?

 さて、ニコデモは困ってしまいました。イエス様の言っていることがさっぱりわかりません。この時はまだイエス様の十字架の死も死からの復活も起きていません。洗礼を通して聖霊が注がれるということもまだ先のことです。イエス様はそれらを先取りして言っているので、理解できないのは無理もありません。加えて、風のたとえを難しくしているもう一つの理由は、ギリシャ語では「風」と「霊」は同じ言葉プネウマということです。イエス様とニコデモは間違いなくアラム語で会話しています。それが後にギリシャ語に翻訳されて新約聖書になりますが、アラム語でも「風」と「霊」は同じ言葉ルーァハです。それで、「風は思いのままに吹く」と言うのは、「霊は思いのままに吹く」と言い換えることができます。「霊」とは神の霊、聖霊のことです。「聖霊」の場合は「吹く」と言わずに「往く」と言った方がよいでしょう。ギリシャ語の意思を表す動詞テロ―が使われているので、風の場合は「思いのままに吹く」でいいですが、聖霊の場合は「自分の意思に従って往く」という意味になります。洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者もそうであると言うのです。そうならば、聖霊もキリスト信仰者もどこから来てどこへ往くのか誰にもわからないというのはどういうことなのか?それについては後で見ることにして、今はイエス様とニコデモの対話に戻ります。

 理解できず困ってしまったニコデモに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、なんと情けないことか!清めの規定とかそういう地上に属することについて私が正しく教えてもお前たちは聞こうとしない。ましてや、こういう天に属することを教えて、お前たちはどうやって理解できるというのか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。ニコデモは真剣な眼差しになったでしょう。

 イエス様は核心部分に入ります。これから、今まで述べたこと、水と霊から新しく生まれること、肉的な存在から霊的な存在に変わること、そうすることで神の国に迎え入れらえるようになること、こうしたことが、どのようにして起こるのかについて明らかにします。

「天から一度この地上に下ってから天に上ったという者は誰もいない。それをするのは『人の子』である。(13節)」

 ここでイエス様は、「水と霊による新たな生まれ」を起こすのは他ならぬ自分であると教えます。「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。イエス様は、それは自分のことであると言い、自分は天からこの地上に贈られた神の子であると言っているのです。それが、ある事を成し遂げた後で天にまた戻るということも言っているのです。そして、そのある事というのが次に来ます。

「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』」も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。(14節)」

 モーセが掲げた蛇というのは、民数記21章にある出来事です。イスラエルの民が毒蛇の大群にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅で作った蛇を旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じことが自分にも起きると言うのですが、どのように起こるのでしょうか?

 イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることを意味しました。イエス様はなぜ十字架にかけられたのでしょうか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。人間は神の意思に背こうとする性向、罪をみんな持ってしまっている。そのために神との結びつきを失った状態にある。それを神は結びつきを持てるようにしてあげようと、そのためにひとり子をこの世に贈られたのです。神はこのひとり子を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき罪の罰を彼に受けさせました。それがゴルゴタの十字架の出来事だったのです。しかし、それが全てではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、その命に至る道を人間に切り開かれました。

 それでその後は人間が、これらのことは本当に起こった事でありイエス様は本当に救い主だとわかって信じて洗礼を受ける、そうすると彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったことになり、神から罪を赦された者と見なされるようになります。罪を赦されたから神との結びつきが回復します。それからは神との結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠の命に向かう道を進んでいきます。この世から別れる時も神との結びつきをもったまま別れ、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠の命を持てて万物の主である神のもとに永遠に迎え入れられます。イエス様が言われたこと、洗礼と聖霊をもって新たに生まれた者が「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。

4.聖霊とキリスト信仰者は風のように往く

 このように洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者は復活の日に永遠の命を与えられて神の国に迎え入れられるということがわかりました。それが、イエス様の風のたとえとどう結びつくでしょうか?先にも申しましたが、アラム語やギリシャ語では「風」と「霊」は同じ単語で言い表します。ここでイエス様は両方をひっかけて教えているのです。このたとえで教えようとしていることは、肉的な人にとって聖霊は理解不能なものであるということです。風がどこから吹いてきてどこへ吹いていくのかわからないのと同じである。ただ、風は枝葉の音や風自体の音があるので実在するのはわかる。聖霊も、聖霊降臨の出来事の時に激しい風の吹くような音がしたり(使徒言行録2章2節)、フィリポに向かってエチオピアの宦官のもとに行けなどと言葉を発したりするので(8章29節)、実在するとわかる。しかし、聖霊はあくまで自分の意思に従って往くので肉的な人には聖霊のことはわからない。

 これと同じことが洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者にも当てはまる。肉的な人からみたら、キリスト信仰者は姿かたちも見えるし声も聞こえるから実在するのはわかる。しかし、聖霊と同じように、あくまで自分の意思に従って往くので肉的な人にはわからない。このことはパウロが第1コリント2章14~15節で言っていることと一致します。

「肉的な人は聖霊が示すものを受け入れない。なぜなら、肉的な人にとってそれは馬鹿げたことだからだ。それは、霊的な状態をもって吟味されるものである。だから、肉的な人には理解できない。霊的な人がそれを吟味する。しかし、霊的な人は肉的な人から吟味されない。」

 それでは、洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者は、肉だけの人と何が違うのでしょうか?以下それを見ていきます。そこで聖霊の働くについてもわかってきます。

 キリスト信仰者は新たに生まれて霊的な存在になっても、最初に生まれた時の肉の体を纏っています。まだ復活の体ではありません。そのため、神の意思に反する性向、罪をまだ持っています。その点は肉的な人と変わりありません。ただ、人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。この凌ぎ合いがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。この戦いに入るか入らないかが霊的な存在か肉的な存在かの違いになります。使徒パウロも自分で認めように、「他人のものを自分のものにしたいと欲してはいけない」と十戒の中で言われていて、それが神の意思だとわかっているのに、自分はそうしてしまう、そういう神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に従える人はいないのです。どうしたらよいのでしょうか?どうせ従えないのだから神の意思なんかどうでもいい、などと言ったら、神のひとり子の犠牲を台無しにしてしまいます。しかし、心の奥底から完全に従えるようにしよう、しようと細心の注意を払えば払うほど、逆に従えない自分が気づかされてしまう。

 まさにこの時が聖霊の出番です。聖霊は次のように言って私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて下さいます。「あそこにいるのは誰だか忘れたのですか?あの方が神の意思に沿うことができないあなたの身代わりとなって神罰を受けられたのではありませんか?あの方があなたのために犠牲となったおかげと、あなたにあの方を真の救い主と信じる信仰があるおかげで、神はあなたを赦して下さるのです。あなたが神の意思に完全に沿えることができたから赦されたのではありません。そんなことは不可能です。そうではなくて、神はひとり子を犠牲に供することで至らないあなたを先に赦して受け入れて下さったのです。あなたは先に救われたのです。あの夜、あの方がニコデモに言ったことを思い出しなさい。

「モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、「人の子」も高く掲げられなければならない。それは、「人の子」を信じる者が永遠の命を得るためである。

神はそういう仕方で世の人々に対する愛を示された。それでかけがえのないひとり子を与えることにした。それは、彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るためである(ヨハネ3章14~16節)。」

 この瞬間、キリスト信仰者は自分の内から罪が消えた感じがします。神の意思に沿う存在になった感じがします。神への感謝に満たされて、神の意思に沿うように生きようと心を新たにして再出発します。しかしながら、神との結びつきを持って生きる以上は、再び自分を神の意思に照らし合わせ始めます。すると、消えたはずの罪が戻って来ているのに気づきがっかりします。その時はまた聖霊の出番です。先ほど聖霊が話しかけると言いましたが、普通は聖霊の話し声は聞こえないと思います。ただ、心の目をゴルゴタの十字架に向けることができ再出発できるというのは、耳には聞こえないが聖霊とのやり取りは確かにあったのです。だから再出発に至ることが出来たのです。実にキリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきます。実はこうすることが、自分は罪に与していない、罪に反抗して生きていることの証しなのです。

 このような聖霊が働く内なる霊的な戦いは、本当に内なる戦いなので、外部の人、肉的な人には信仰者の内で何が起きているのかはわかりません。肉的な人にはそのような内なる戦いは無意味なものです。なぜなら、肉的な人にとって、例えば人を傷つけるようなことを言ったり行ったりしなければ十分である、心の中まで神の意思に照らし合わせたら身が持たないと言うでしょう。しかし、霊的な戦いに身を投じた人は、イエス様が救い主になっているので心の中まで神の意思に照らし合わせても大丈夫なのです。ここのところが肉的な人にとって理解できないところになると思います。

 たとえ肉的な人がわからなくても、キリスト信仰者は内なる霊的な戦いは全て自分をゴールに導く戦いであるとわかっています。ゴールは復活の日に神の御国に迎え入れられるところです。かの日、天地創造の神のみ前に立たされる日、神は、キリスト信仰者が旧い世で罪を内に持っていたにもかかわらず、罪の赦しのお恵みに留まって罪に与せず罪に反抗する生き方を貫いたと認めて下さいます。その時、霊的な戦いは終結します。なぜなら、肉の体に代わって神の栄光を現す復活の体を着せられるからです。キリスト信仰者が受ける栄冠です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

2023年2月26日(日)四旬節第一主日 主日礼拝  説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

本日の礼拝のストリーミングはウェブカメラの不調により途中で中断してしまいました。申し訳ありません。田口先生の説教文を掲載しますのでご覧下さい

マタイによる福音書4章1−11節。

「絶えることのない誘惑にあって勝利の恵みに与らせる唯一の救い主」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン。

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 「はじめに」

 このところはイエス様が荒野で悪魔から誘惑を受けられる箇所です。これは、3章終わりのイエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、そして天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声があった後、そして、12節以下、イエスが伝道を開始される前の出来事になります。この誘惑は、悪魔や天使が登場し、「聖霊に導かれて」とあったり、さらには、人から見れば、悪魔の誘惑があまりにも壮大で超自然的に見えたり聞こえたりするので、これは神であるイエス様だけの特別な出来事、特別な試練であり、私たち人間とは何も関係のない出来事であるかのように見えたり思えたりするかもしれません。あるいは、クリスチャンの中でも、このように書かれている「悪魔」や「天使」などは、人間の理性に反するからそんなのはいないんだと言う人たちもいますから、そのような人にはこの場面は単なる空想話や譬え話なんだと主張する人もいるでしょう。ゆえに、このところはただの人間が見習うべき律法であり、道徳律を教えているんだと結論づけられるかもしれません。しかし、このところは、空想話や道徳律でもなければ、律法だけに終わるものでもありません。人間に全く関係のないイエス様と悪魔だけの出来事でもありません。このところは、正しく人間とその罪の深さと大きさを何よりも表していると同時に、未信者というよりは、とりわけ、まさに洗礼を受けて伝道へと出ていくクリスチャン、教会を指しているメッセージでもあり、そのクリスチャンや教会が直面する誘惑はいかに巧妙で恐ろしいかを警告しています。しかし何より、まさに受難節に入るこの聖日にふさわしいところでもあり、イエス様の生涯は、この荒野だけではない、生涯、そして受難と十字架を頂点としての試練の歩みであり、この荒野の試練は、その公の歩みを始めるその最初の一歩であるということ、そして、何より、イエス様はそんな私たちのためにこそ、この誘惑を受けられるのであり、やはり、ここでも今日も、イエス様の十字架の福音が私たちに示されていることを教えられるのです。1節から見ていきましょう。

2. 「霊によって導かれて」

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」(1節)

 「悪魔から誘惑を受けるため」とありますが、同時に「「霊」に導かれて」とあります。これは聖霊のことであり、聖霊によって荒野に導かれてこの試練は始まります。ですから、これは試練が悪魔によるものか、それとも神によるものであるのか、どちらなのかと言うなら、悪魔ではなく神によって意図され導かれたものであり、ヨブ記の神との問答を思い出すのですが、悪魔がイエスを誘惑するのを、神はそれをそのままさせた、いや、その場にむしろ導いたのですから、神様の明確な目的があるのです。ここで、ある人は、「神は試みに会わせるのか?それは主の祈りに矛盾するのではないか」と思うかもしれません。しかし、悪魔の試みは、私たちに信仰を捨てさせ滅びに導くものであり殺すための試みですが、神の試みは、あくまでも試みるためそれだけの目的ではなく、ヘブル書12章に「訓練するため」「平安の義の実に与らせるため」「聖さに与らせるため」ともあるように、どこまでも相手を生かすためであり信仰に進ませ強める、救いのためのものです。この荒野の誘惑も、聖霊に導かれているとあることからも、それは、神様の私たちのための壮大な救いの計画のための一つの大事な出来事であり、つまり世のため、私たちのためのものであると言うことが見えてくるのです。

3. 「苦難の生涯のはじめ」

そして「荒野」の誘惑や、2節の

「そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」(2節)

 とあること。これは、まさに旧約聖書で、イスラエルが荒野に40年間導かれ、大きな試練に立たされたことや、空腹であったことなどを思い起こされるのです。よく言われるように、イエス様が空腹を覚えられとあるように、私たちと同じ肉体を持ったイエス様であることがわかるのですが、まさに聖書のヘブル書4章で「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。(4:15)」とある通りに、イエス様は空腹だけでなく、まさしく人となられ、私たちと同じように、つまり、イスラエルが荒野の40年で経験したのと同じように試練に遭われるし、むしろその試練の内容を吟味するなら、それはこの荒野の40日間や空腹だけでもない、「あらゆる点で」とあるように、そう、まさしく、その究極は十字架の受難と死で頂点に達するその苦難の全生涯で、イエス様はその言葉の通りに、私たちと同じくなられる、そこまでも低くなられ、全てを負われ、そして生きられることを、この洗礼を受けられて直後、まさにそのことを私たちに具現される出来事がこのところなのだと示されるのです。

4. 「三つの誘惑」

 そして、三つの誘惑です。このところは思い巡らすほど、実に深く心刺されるものを感じさせられるところです。まず3節

「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」」(3節)

A.「悪魔の誘惑は巧妙に」

 皆さんは、試練や誘惑はどのようにくると思いますか?多くの人は、明かな目に見える迫害の形でわかりやすいように来ると考えるかもしれません。もちろん、そこにも誘惑や試練は当然あります。あるいは、十戒の中の明らかに「〜しては行けない」と言う言葉に反するよう迫ってくるはっきりと認識できる罪への誘惑も確かにあります。それも誘惑であり、試練であり、私たちは、祈りとみ言葉と聖霊の助けによって悔い改めと克服に導かれなければならないことはとても大切なことです。しかし、悪魔の神への信仰を捨てさせよう、救いを疑わせ捨てさせよう、滅ぼそうとする誘惑は、目に見えるような形でわかりやすくくるものだけでは実はありません。むしろ真の悪魔の誘惑は、その信仰と福音のために重要な教会とみ言葉こそを責めてきます。しかもあからさまに攻撃するようにではなく、非常に巧妙であり、「偽預言者は羊の形をしてやってくる」と聖書にあるように、むしろ聖い姿さえ装ってやってくる、恐ろしいものであると言うことがまさにここで教えられているでしょう。まずこの3節です。

B.「みことばを用いて」

「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

 皆さん。悪魔は「神の子なら」と語りかけています。この意味がわかるでしょうか?この直前の3章17節で天からの声はこう言っています。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。そう、悪魔は、その天からの神の声、イエスは神の愛する子であるという、そのみ言葉を明らかに知っているのです。「神の子なら」と。つまり、悪魔はその3章17節の天の声、神のみ言葉さえも誘惑に用いているという事実です。天の声がそう言っているのならと。これは第二の誘惑でも同じです。6節以下ご覧ください。こうあります。

「6節〜「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、

あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』

と書いてある。」

 ここでも「神の子なら」とありますが、それだけではありません。今度はもっとはっきりと、悪魔は聖書を用いるでしょう。旧約の詩篇の言葉(91篇11−12節)を用いて誘惑するのです。聖書にこう書いてあるではないかと。悪魔は、私たちに聖書を否定させようと試みる存在です。しかし、彼らは明かに聖書の言葉を否定し侮辱し嘲るようにして誘惑し試みてきません。もちろんいつの時代も外側から、そのようにして明確に聖書を否定して誘惑してくる誘惑や試練はあり、今の時代も溢れているでしょう。しかし悪魔の誘惑は、むしろクリスチャンの間で、教会の中で、実に巧妙に働き、しかもわかりにくく現れるのです。むしろ聖書の言葉さえ敬虔そうに用いてきます。「聖書はこう言っているでしょう?」と。そのように聖さを装ってさえ悪魔は教会を荒らすことは実は少なくないし、それは外側からの迫害と同じくらい、いやそれ以上に多いと言うことを神学や教会の歴史は物語っていますし、この教会ではなくとも、世界中、日本中の教会内で今もあることです。

C. 「「もし〜なら」によってみ言葉を条件化する誘惑」

 そして、それだけではありません。注目したいのは、悪魔は「どのようにして」み言葉を悪用するのかということです。それは「もし〜なら」という言い方が隠されていることです。「神の子なら」「天の声がそう言うなら」「みことばにそう書いてあるなら」と。この「もし〜なら」は実に私たちが誘惑されやすい言葉でありますが、その「もし」という意味には「本当にそうなのか」「本当にその通りなら」、つまり、裏返せば「そうではないのでないか」という「疑い」が実は必ず含まれている質問だということに気付かされるはずです。いわば、「もし」には、質問する側、求める側の条件付けが必ずなされているということであり、神やその言葉を条件付けることが起こります。つまり、神ではなく、こちらが人間が、主導権の質問や願いになるということです。

 皆さんこれは実は、先ほど第一の聖書朗読でも読みました。創世記3章の悪魔の誘惑と同じなのです。悪魔はエバに言うでしょう「神は本当にそう言ったのか」「もし食べても死なない」「もしそれを食べるなら〜神はご存知である」と。ここでも同じです。もし天の声が言うように、あなたが神の子なら、「これらの石がパンになるように命じたらどうだ。神殿の頂から飛び降りたらどうだ。そうすれば、空腹は満たされる。そうすれば、みことばの通り、天使たちがあなたを助けるだろう」。悪魔はイエスはそれができないと思って言っているのでもないし、天使がみことばの通りには助けに来ないとも思っていません。できることはわかっているのです。実際に、イエス様は石をパンに変えることもできますし、神がみことばにある通りに、イエスを助けることもできるのです。しかし、このみことばを用いてまでの「もし〜なら」には深刻な落とし穴があるでしょう。「もし〜なら」と投げかけているその問いかけは、それがどれだけ敬虔な祈りや願いであったとしても、その通りになることを願う悪魔中心、人間の思いや願望が中心、土台にあって、その通りになることで、結局は、人間の思いや願望に神を従わせようとする思いが隠されているのです。悪魔の言う通りにイエスがするのなら、イエスは自分自身の栄光を自分で自分のために得ることにはなりますが、悪魔の「もし」への同意することになります。そしてその結果は、人に、救いとは神の恵みのわざではなく、「自分自身の栄光を自分で自分のために果たすことだ」と言うその偽りの模範をまさに示すことになります。そして人間の救いの道はまさにそのようなものになり、恵みも信仰義認も何もなくなり、ただ自分で果たす律法になっていたことでしょう。悪魔の問いかけの狙いはそこにあります。実に巧妙です。しかしそれはずっと変わらない手法なのです。堕落の時も、悪魔の「神は本当にそう言ったのか、〜もしその身を食べるなら生きるようになる」という言葉の通りになっていくところには、アダムとエバの、神の言葉や御心よりも「神にようになれる」「賢くなれる」「見るに慕わしい」という彼らの思いや願望が優先し、それにみ言葉を勝手に解釈し当てはめ、従わせようとして堕落するでしょう。その過程と結果は、どこまでも罪人で救いようのない私たちの現実ではありませんか。堕落の時の「もし」の手法に悪魔は成功し、初めからいつまでも変わらない。狙いも常に変わりません。この狙いによって教会はどうなるでしょう。「もし〜なら」とみことばを用いて、結局は、神中心のみことばではなく、罪人である人中心でみ言葉を理解しようとする、解釈しようとする、人の思いや願望にみ言葉を当てはめよう、従わせようとすることが起こっていないでしょうか?それは正しく悪魔の思いのまま、狙い通りの誘惑に、人が陥ることです。そのようにして、教会で、福音は律法にすり替えられ、律法があたかも福音であるかのように語られるようになったり、理性や道徳やヒューマニズムが語られるようになりますが、しかし大事なことです。そこには救いも平安もありません。そうなってしまうと正しく、悪魔の勝利に他なりません。実はそれが教会にとっても、クリスチャンにとっても、つまり、宣教や伝道にとっても何よりも恐ろしいことであり、悪魔はいつでも巧妙に教会に入り込み、混乱させようとしているのです。

D. 「人中心の解釈で歪められるみことば」

 皆さん、聖書の言葉、確かに私たちにとって大事です。誰も否定しません。しかしただ

「聖書の言葉、聖書の言葉」と掲げていれば、それだけで安心でもなければ、正しいキリストの救いの教えかどうかは実は判断できません。なぜなら、異端でも「聖書の言葉」を掲げ「聖書は何より大事だ」と声高に言うからです。自分達は聖書の言葉を第一にしているのだと。リベラルでも熱狂主義者でも律法主義者でも「聖書は大事」「聖書は第一」と聖書の言葉を掲げます。「聖書は第一、大事」と、聖書を掲げているだけなら、世界中のキリスト教のどんな団体も、異端でさえも、誰も意義を挟まないことでしょう。しかし、「みことば」を掲げても、「神が私たちに真に何を伝えたいのか、神が何を伝えているのか」ではなくて、まさに「もし〜なら」の人間中心の土台で聖書を人間の思いに従わせ、人間の都合に合わせ、文化や流行りに合わせ、世界の潮流に合わせるようにして聖書を解釈して、それが、間違った解釈なのに、文化や潮流がそうだから正しい神の教えなんだと、教会で説教されたり教えられたりするようなことはいつの時代も常にあるし、この現代は人間中心主義のもとでなおのこと顕著になってきています。それは多くの人々には心地よい教えなのかもしれません。人間の「もし〜なら」に聖書を当てはめ都合よく解釈しているのですから。しかし、それが本当に神が、イエス様が私たちに伝えていることではなく、単に人間が聞きたいことを聞いているだけであるなら、まさにそれは、イエスが悪魔の声に従って石をパンに変えてしまったこと、神殿の頂上から飛び降りたこととと、同じです。究極的にはイエスも十字架もなきものにしているのです。人の前では上手くいっているように思えても、神の前では、悪魔への敗北であり、そこで「みことば」と幾ら掲げても、真のキリストはいない、真のみことばもない教会のような建物や集まりであり、そこに真の宣教も伝道もないと言えるでしょう。

5. 「イエスの答え」

A. 「〜と書いてある」

 イエス様はどう答えるでしょうか。4節

「イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

 そして7節

「イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

 そして、世のすべての繁栄が見えるところで、もし私にひれ伏せばこの繁栄を全て与えようという最後の誘惑に対しても、10節

「すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

 イエス様はこれら三つの誘惑への答えとともに、まさに真の教会とは何かを私たちに示しています。それは、もちろんみことばです。しかしそこには人間の側の「もし〜なら」などの条件付けは何もない、「こう書いてある」「神はこう言われる。聖書にはこうある。」それだけです。人の側が「もしこうであれば」「もしこうでなければ」「こうであったなら」と、みことばを人間の思いや願いや文化で捻じ曲げてでも聞きやすいように、わかりやすいように、受け入れやすいように教える、伝える、説教する、では決してない。神が私たちに何を伝えているか、何を伝えたいのか、そのまま、神はこう言っている、神はこう言われた、聖書はこう書いてある。教会の宣教、説教、教えは、これに尽きる、そしてイエス様や使徒たちがしたように「こう書いてある」ことの正確な解き明かしに尽きるのだとイエス様は私たちに教えているのです。そのようにみ言葉の正しい福音を受けて救われ聖霊に導かれているものは、「もし〜なら」の人間中心で条件付け神を従わせるみ言葉利用ではなく、「神はこう言われる」の福音にこそ聞くのであり、その言葉にこそ、日々、罪を示され、悔い改めを与えられると共に、そこに、十字架の救いの光をはっきりと見せられ真の平安を経験するのです。

B. 「全ては私たちのために」

 そしてここでもう一つ大事な点があります。イエス様の試練の道は、この後も続き、イエス様はあのゲッセマネの祈りでも、もちろんイエス様も「この杯を取り除けてください」と、その思いをあからさまに祈っています。願うことは決して悪いことではありません。しかし、イエス様は、その自分の人としての肉体の苦しみの願いに神の計画や御心までも従わせようとせずに、最後にこう祈りを結んでいます。しかし「父の御心のなる通りに」と。そして、イエス様は、まさに十字架に至るまで、私たちの経験する以上の大いなる苦しみと死を受けられました。しかし何よりそれは私たちが受けるべきものの身代わりとして、私たちの罪のためであり、その罪とその結果から救うためであったでしょう。この荒野の悪魔の三つの誘惑から始まる、イエス様の試練の道、苦難の道、それは私達への律法でもなければ模範や道徳律でもない。どこまでも私たちのために神はイエス様を導いています。その道を、イエス様は悪魔の「もし〜なら」の願望を刺激する誘惑の通りに、自分自身の栄光を自分のための自分で果たすようなことはせず、むしろ、イエス様は、どこまでも、神を神とし、神のみ言葉そのまま、神のなさることにそのまま黙って従い、仕える者の姿となり、十字架にまで従われます。イザヤ書にはそれが私たちのための神の御心であったとあるでしょう。苦難や重荷を私たちに負わせるのではない、それらを私たちのために担い背負ってくださる救い主が私たちに示されているのです。

6. 「福音によって遣わされる」

 皆さん。ここでも福音によって私たちは遣わされています。私たちは、自らの力では、決して誘惑に打ち勝つのことできないものです。最初の人は、その誘惑に負けました。イスラエルも誘惑や試練に負けました。弟子たちも負けました。私たち人間は誰も生まれながらの力でも理性でも、この誘惑と試練に打ち勝つことはできません。罪人だからです。しかしこの箇所は、あなた方罪人が自らの力で誘惑に勝ちなさいという道徳や律法の教えでは決してありません。イエス様が言いたいのはそんな私たちに重荷を負わせることではありません。絶えることのない荒野の世の、悪魔の目に見える誘惑と巧妙な目に見えない両方の誘惑に対して、私たちはあまりにも弱いのですが、しかし、何よりイエス様が私たちのために、この十字架と復活で、打ち勝ってくださった。みことばで、そして十字架で。そしてその事実とそれが恵みとして私たちに与えられるこそがこの聖書に「こう書いてある」と今日もいつまでも変わらず、何よりも私たちに示されている救いの約束の核心ではありませんか?そして、事実、イエス様こそが同じようにこれからもこのみことばを持って誘惑を退けてくださるお方であり、十字架のイエス様こそが、今日も変わらず私たちに宣言してくださいるでしょう。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。

 私たちは今日も罪を悔い改め、「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と豊かに罪を赦してくださるこの十字架のイエス様の福音を受け、安心してここから出ていきましょう。そのような私たちをイエス様は新しい週も主の勝利の器として豊かに用いてくださるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教「この地上の世界が天の御国と接するところ」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書17章1-9節

2023年2月19日(日) 主の変容主日 主日礼拝

聖書日課 出エジプト記24章12-18節、第二ペトロ1章16-19節、マタイ17章1-9節

説教をYouTubeで見る

説教題 「この地上の世界が天の御国と接するところ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

本日の福音書の日課は、イエス様が高い山の上で姿が変わるという変容の出来事についてです。弟子のペトロとヤコブとヨハネがそれを目撃しました。この出来事は、私たちルター派は聖餐式をどう考えているかを理解する手助けになると思います。今日はそのことについてお話しします。

聖餐式はキリスト教会の神聖な儀式ですが、それがいかなる儀式かについて教派によっていろいろ考え方の違いがあります。ルター派の考え方は、アウグスブルク信仰告白の第10条に端的に述べられています。「聖餐式ではキリストの体と血は本当にそこにあるのであり、キリストの体と血は受け取って摂取する者に分け与えられるのである。」

「キリストの体と血」と言うように「体」と「血」を別々に言っていますが、「体」と「血」というのは合わせて人そのものを意味します。それで、聖餐式ではキリストそのものがそこにおられ、聖餐に与る者はパンとぶどう酒を口にすることでキリストを摂取するということになります。ここで理解できないことがいろいろでてくると思います。これからそれらを一つ一つ見ていきますが、まず初めに忘れてはならない一番大事なことは、ルター派にとって聖餐式とは、イエス・キリストが本当にそこにいるという儀式であるということです。確かに目には見えないが、実は本当にそこにいるというのです。ラテン語の原文で「本当に、実際に」と強調しているのはそのためです。

見えないのにいるだなんて、まるで幽霊みたいで気持ち悪いと思う人も出るかもしれませんが、でも、幽霊とかそういう問題ではないのです。それは聖餐式のパンとぶどう酒は何かがわかるとわかります。ルター派では、正当に職務に定められた牧師が聖餐式を執り行います。その時、儀式の設定のための聖句をパンとぶどう酒に語りかけると、パンとぶどう酒はただのパンとぶどう酒ではなくなって聖餐式用のパンとぶどう酒に変わる、つまりイエス・キリストがその場に本当にいることを可能にするパンとぶどう酒に変わるというのです。

それは、パンとぶどう酒を介してイエス・キリストがその場にいるということです。パンとぶどう酒を介してその場にいるということをルター派は次にように説明します。キリストがパンとぶどう酒の中におられる、パンとぶどう酒と共におられる、パンとぶどう酒という外見の下におらえる、そういう、中に、共に、下に、という三つで、キリストとパンとぶどう酒の結びつきを考えます。

なぜルター派は聖餐式をこのように考えるのかと言うと、それが、イエス・キリストの本質にピッタリあうからです。イエス・キリストの本質とは、神であり同時に人間でもある方であるということです。外見は紛れもなく人間であるが、外見の下に神のイエス・キリストもあるということです。このように、神という超越するものが人間という超越していないものと組み合わさっているというのがイエス・キリストの本質です。聖餐式でイエス様が本当にいるというのも、パンとぶどう酒という超越していないものにイエス・キリストという超越したものが組み合わさっているから本当にいるのです。

他の教派の聖餐式の考え方と比べると違いがはっきりします。カトリック教会は、パンとぶどう酒は本当にイエス様の血と肉に変質すると強調します。イエス様が、これは私の肉である、私の血である、と自らおっしゃったからです。もちろんパンはパンの味で、ぶどう酒もぶどう酒の味のままですが、聖餐式で摂取するのは本当はパンではなくイエス様の肉であり、ぶどう酒ではなくイエス様の血なのです。恐ろしい位に神聖な感じがします。しかし、そうなると、パンとぶどう酒はなくなってしまうことになり、全てのものが超越的なものになります。ルター派のポイントは、超越的なものが超越的でないものと組み合わさっているというものです。

これと対照的に宗教改革のもう一つの雄であるカルヴァン派は、聖餐式はイエス様が裏切られ十字架にかけられる出来事を記念する儀式であることを強調します。イエス様が記念のためにこれを行いなさいとおっしゃったからです。しかし、そうすると、超越的でないパンとぶどう酒はあるが、超越的なものとそれはどう結びつくのだろうかとルター派は考えてしまいます。

もちろんカトリックもカルヴァン派のどちらも聖書の中のイエス様の言葉に基づいて聖餐式を考えます。イエス様はこれは私の肉である、血であると言っているし、また、記念のために行いなさいとも言っています。じゃ、ルター派はそれらの言葉をどう考えるのか?この問題について、ルター派は彼らのような明快な答えは出せないと思います。それでも、ルター派はやはり、イエス・キリストは神であり同時に人間であるお方であるということにこだわって聖餐式を考えます。それなので、イエス・キリストはパンとぶどう酒を介して本当にそこにいるという立場を取らざるを得ないのです。このように聖餐式の考え方の違いがキリスト教会を分裂させているというのは残念ながら本当のことです。私は、ルター派の立場で話を進めていきます。

2.

さて、聖餐式でイエス・キリストが本当にそこにいるとなると、一つ大きな疑問が起きます。それは、イエス・キリストは復活して天に上げられて今は最後の審判と天地の再創造の日まで天の父なるみ神の右に座している、と毎週礼拝の使徒信条で唱えているではないか、それとどうかみ合うのか?という疑問です。天のみ神のところにいるはずなのに聖餐式の時に降って来るのか?しかも、聖餐式が同じ日に多くの教会であったら、イエス・キリストはそのどこにでもいるということなのか?それでは分身の術を使っているみたいではないか。天にいるはずなのに聖餐式の時になると降って来て、しかも同時多発的に降って来て、聖餐式が終わるとまた一斉に天に戻るということなのか?

もちろん、そういうことではありません。イエス・キリストはもちろん聖餐式の時も天の父なるみ神の右に座したままです。それならば、聖餐式の時に本当にいるというのはどういうことなのか?この種の疑問は信仰歴が長い方はさほど問題に考えていないと思います。人間の理解力では理解できないが、そういうものなのだ、と受け入れているからです。ルター派はそういう諦めのよさがあると思います。およそ神に関することは人間の理性や理解力では把握できないことだらけである、もし把握できてしまったら、それは神が人間並みになってしまうことだ、だから、こうとしか言いようがないことはそうしかない、イエス・キリストは天の父なるみ神の右に座していると同時にこの地上での聖餐式にも本当におられる、そこには時間と空間を超えた途轍もないことがある、そう観念してしまうのです。そうすることで、自分を神よりもはるかに劣った者に、神を自分よりもはるかに高い方に留めておくのです。私もそのように観念するようになっていったのですが、聖書のみ言葉そのものがそう観念するように導いたと思います。今日の高い山の上での出来事も、よく見ると、天にいるイエス・キリストが聖餐式の時にもいるということは可能であると納得させてくれるところです。これからそれを見ていきましょう。

3.

高い山の上で何が起こったでしょうか?イエス様が変容して光り輝き出しました。そこにモーセとエリアが現れて弟子たちの見ている前でイエス様と話し始めました。ペトロが三人のために幕屋を建てますと言った時、輝く雲が三人を覆って、雲の中から神の声が轟きました。「これは我が愛しむ子なり、わが悦ぶものなり、汝ら之に聴け」と。弟子たちは恐れおののいて地に伏してしまいました。するとイエス様が彼らの所に来て、手でさするか軽く叩くかして安心させるように言いました。「起きて立ちなさい。恐れなくてもよい。」弟子たちが恐る恐る目を開けてみるとイエス様の他にはもう誰もいませんでした。イエス様も変容する前のイエス様に戻っていました。以上が、山の上での出来事でした。山から下る時、イエス様は弟子たちに、この出来事は自分が死から復活した後で公けに話すようにと命じました。

初めに、イエス様が白く輝いたことについて。イエス様の顔が太陽のように輝き出して、着ているものも白く光り出しました。黙示録1章16節を見ると、ヨハネが天の父なるみ神のもとにいるイエス様を目撃します。その顔は太陽のようであったと言います。私たちは太陽を目で見ることはできません。ほんの瞬きする間くらいしか見れません。その色は白に近いですが、輝きが強烈すぎて見極めることのできない白です。イエス様の顔も着ているものも白く輝いたというのは、このヨハネが目撃した、天のみ神のもとにいるイエス様と同じです。つまり、山の上でイエス様は神としての本性を現わしたのです。人間の外見が外されて、外見の下に隠されていた本性が現れたのです。

そこにモーセとエリアが現れました。二人の出現はこの出来事を理解する上でとても大事です。かたや紀元前1300年代、かたや紀元前800年代の遥か昔にこの世を去った人たちです。これは幽霊でしょうか?でも、幽霊だったら、ペトロたちはきっと恐怖に慄いたでしょう。彼らはイエス様が死から復活して目の前に現れた時、幽霊だと思ってパニックに陥りました(ルカ24章36~43章)。しかし、山の上ではそうなりませんでした。どうしてでしょうか?

当時、ユダヤ民族の間ではエリアがいつか再臨するということが信じられていました(マタイ17章10ー11節、マルコ9章11ー12節)。この世の終わりが近づくと、天からエリアが再臨して神の裁きを準備するというのです。つまり、エリアは天のみ神のもとにいて待機しているのです。でも、これは変です。聖書には死者の復活ということが言われているのではなかったか?この世が終わる時に最後の審判があって、死んだ者と生きた者が一緒に裁かれる、そこで神の目によしとされた者は復活の体を与えられて神の国に迎え入れられる。そうすると、最後の審判の日の前にこの世を去った者たちは神のみぞ知る場所にいて眠りについていることになります。眠りから目覚めさせられるのが復活ということになります。これが聖書の立場です。それなので誰が天国に行けるのか行けないのかという問題は、この世の終わりまで待たなければわからないのです。それなのに、モーセとエリアが天から来たというのは、この世の終わりを待たずに天国に入れたということになります。

エリアに関して言えば、その点は問題ないと思います。というのは、列王記下2章にあるように、エリアは生きたまま神のもとに引き上げられたからでした。それでエリアは既に天のみ神のもとにいて、世の終わりの時に再臨すると信じられたのです。このように聖書は、将来の終末や復活の日を待たずして既に天に迎え入れられた者があるということを認めているのです。ところが、モーセの場合は少しやっかいです。申命記34章を見ると、彼はモアブの地で死んだとありますが、神自身が彼を葬ったので誰も彼の埋葬地を知らないと謎めいたことを言っています。それで、モーセは一度死んだが復活の日を待たずして神のみ許に引き上げられたと考えることが可能です。実際、イエス様の時代のユダヤ教社会にはモーセは既に天に上げられたと伝える書物「モーセの昇天」があったのです。ただし、その書物は一部分しか現存しておらず、肝心のモーセの昇天のところは欠けていて、残っているのはモーセがヨシュアに預言を述べる部分だけです。

そうなると高い山の上での出来事は、復活の日を待たずにして天に迎え入れられたモーセとエリアが神の本性を現わしたイエス様と一堂に会しているということになります。そして輝く神の雲が現われ、その中から神の声が轟きました。天の御国がすぐそばにあったことになります。高い山の上で、天の御国の扉が開いたのです。ところで、神がおられる神の国は天の国と呼ばれるので、いつも空の上にあるようなイメージがわきます、しかし、それは高度何万メートルの高い所とか宇宙空間にあるのではありません。天と言っているのは、私たちの手に届かない所にあるということを象徴的に言っているのです。神の国は、目で見えて触ることができるこの世の反対側にある世界だとイメージしたほうがいいと思います。こちらの世界の裏側に天地創造の神がおられる世界がある、と言うか、あちらが表でこちらが裏と言うのが正解でしょう。とにかく、そんな次元が全く異なる世界があるのです。その世界が高い山の上で間近にあった、あたかもその世界の扉が高い山の上で開いたのです。

イエス・キリストが聖餐式に本当におられるというのも、山の上の出来事と同じように考えてよいと思います。正当に職務に定められた牧師がパンとぶどう酒に御言葉を語りかけて聖餐式が始まる段になると、そこで天の御国の扉が開いてイエス・キリストがそこにおられるのです。全ての聖餐式が行われるところで扉が開き、全てが一つの御国におられる一人のイエス・キリストに通じるように接するのです。同時多発的に降って来るなんてことはないのです。御言葉を語りかけられて聖餐式用に変えられたパンとぶどう酒、それらが御国の扉を開いてイエス・キリストに接近できるという途轍もない状況を生み出しているのです。真に聖餐式の場はこの地上の世界と天の御国が接するところです。

4.

実に、この途轍もない状況を生み出しているパンとぶどう酒を私たちは頂くのです。アウグスブルク信仰告白の第10条では、「キリストの体と血は、これを受け取って摂取する者に分け与えられる」と言われます。私たちが本当にいるイエス・キリストを摂取するというのはどういうことでしょうか?イエス様を食べてしまったら、いなくなってしまうではないかと心配する人もいるかもしれません。それになんだか人食い人種みたいです。

そういうことではありません。イエス・キリストを摂取するというのは、イエス様が自分の命と引き換えにしてまで私たち人間に果たしてくれたものを摂取するということです。彼が命を犠牲にしてまで私たちに果たしてくれたものとは、人間の罪の償いであり、人間を罪の呪いから贖うことです。イエス様はこれをゴルゴタの十字架の上で果たされました。

私たち人間は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって、これを自分のものにできます。罪を償われ、罪から贖われたので、神から罪を赦されたものと見なされて神との結びつきを持ってこの世を生きることができるようになります。

しかしながら、キリスト信仰者と言えども、まだ肉をまとっており、それは神の意思に反しようとする性向、罪を宿しています。そのためにキリスト信仰者は罪の自覚とそこから来る罪の赦しの祈り、それに続く罪の赦しを頂くことを何度も何度も繰り返していきます。繰り返しても罪は消えないから罪に負けているように感じます。しかし、この繰り返しは、自分は罪に与していない、罪に反抗して生きている証しです。この繰り返しは実は、罪を手段にして神との人間の結びつきを失わせようとする悪魔にとって痛手になるものです。繰り返しをやめるようにとあの手この手を使って人間をそそのかしたりやる気を失わせようとします。

これに対して聖餐式のパンとぶどう酒は、キリスト信仰者が洗礼の時に自分のものにした罪の償いと罪からの贖いを手放さないようにする力を与えます。罪の自覚と赦しの祈りと赦しを頂くことの繰り返しを続ける力を与えます。聖餐は真にキリスト信仰者の霊的な栄養なのです。私たちが聖餐を受ければ受けるほど悪魔は苦しくなって叫び声をあげます。詩篇23篇の5節で「主は私の敵の前で私のために食卓を整えて下さる」と言っているのはまさに聖餐式のことです。新共同訳では「私を苦しめる者を前にしても」ですが、それでは聖餐式のことを言っているのか見えにくくなります。せっかくヘブライ語の言葉ははっきり「私の敵」と言っているのだから、そう訳すべきでした。

最後に聖書の原語からもう一つ、聖餐式の神秘に近づける発見があるのでお教えします。新共同訳ではイエス様と三人の弟子が「高い山に登られた」と言っています(1節)。ギリシャ語原文では、イエス様は三人を「運び上げた」と言っています。単に「登った」というのは無責任な訳だと思います。「運び上げた」のです。「運び上げた」とはどういうことでしょうか?舞台になっている「高い山」は間違いなく、現在のレバノンとシリアの国境にあるヘルモン山という標高2814メートルの山です。麓のフィリポ・カイサリアの町から出発したら標高差2000メートル以上を登らなければなりません。目的も告げられず登山につき合わされた三人の弟子たちはなんでまたこんなことを、とブツブツ言いながら登ったのか、それでイエス様はおんぶとまではいかなくとも、叱咤激励しながら登ったので「運び上げた」という言い方をしたのか?真相はわかりません。ただ、一つはっきりしていることは、イエス様は三人をこの地上の世界が天の御国と接する場所に連れて行った、そのことを「三人を運び上げた」という言い方は意味しているのです。

同じことは聖餐式でも起こります。聖餐式を行いなさいと命じたイエス様は、聖餐式に与る私たちキリスト信仰者をこの地上の世界と天の御国が接する場所に運び上げて下さるのです。聖餐式に与る度に、何度も何度も運び上げて下さり、最後は本当に天の御国に到達できるようにして下さるのです。そこには、神の神聖さに焼き尽くされないように守ってくれる雲はもうありません。肉の体に代わる復活の体を着せられた私たちにはもうそのような防御壁はなくても大丈夫だからです。パウロが、旧い世でおぼろに映ったものを見ていたことはなくなり、顔と顔を合わせてみることになると言っている通りになるのです(第一コリント14章12節)。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

説教「キリスト信仰者の本分は罪の赦しの恵みに踏みとどまることにあり - 然らば、地の塩、世の光たるべし」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書5章13-20節

主日礼拝説教 2023年2月5日(顕現節第五主日)

聖書日課 イザヤ58章1-12節、第一コリント2章1-16節、マタイ5章13-20節

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説教題 「キリスト信仰者の本分は罪の赦しの恵みに踏みとどまることにあり - 然らば、地の塩、世の光たるべし」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

本日の福音書の箇所は、イエス様が弟子たちに君たちは「地の塩」だ、「世の光」だと言う個所です。弟子たちに言われたということは、私たちキリスト信仰者にも向けられた言葉です。「地の塩」、「世の光」とは具体的に何を意味するでしょうか?何か世の中のためになるもの、人々の模範になるような立派なものではないかという感じがします。16節に「立派な行い」なんて言っているからです。しかもイエス様は「地の塩」、「世の光」になれ、とは言っていません。キリスト信仰者はもうそうなんだと言うのです。皆さん、どうでしょうか、私たちは自分のことを「地の塩」、「世の光」だと胸を張って言えるでしょうか?イエス様がそう言う以上、よーし、そうなるぞー、と気合いが入る人もいれば、逆に自分には無理と尻込みする人もいるかもしれません。しかし、気合いを入れるにせよ尻込みするにせよ、キリスト信仰者が「地の塩」、「世の光」というのは、イエス様が言う通り、既にそうなのです。だから、そういうものとして生きるしかないのです。それでは、「地の塩」、「世の光」とは何なのか?何か立派なものなのか?これについて後ほど見ていきます。

「地の塩」、「世の光」のことを言った後で、イエス様は自分のことを律法や預言を廃止するためにこの世に贈られたのではない、実現するために贈られたのだと言います。律法と預言というのは旧約聖書のことです。旧約聖書を廃止するためでなく実現するために贈られたのであると。律法とは、キリスト信仰の観点からみれば十戒が最重要の掟ですが、十戒以外にも沢山の掟がありました。例えばエルサレムの神殿での礼拝の規定がそうです。しかし、神殿はもう存在しないので神殿関係の掟は守ろうにも適用する対象がありません。ところが、人間の罪の償いのために犠牲の生贄が必要ということがあります。イエス様の十字架の死はそのための犠牲だったのです。それなので、神殿で生贄を捧げる掟は適用できなくなっても、罪というものは神に対して償いをしなければならないということ、人間は罪の呪いから贖われなければならないということ、これは神殿がなくなっても、そのままです。だからイエス様の十字架の死と死からの復活は人間の救いのために今もなくてはならないものです。

このように神殿が消滅したという状況の変化があっても、律法が目指すものはそのまま残っているのです。律法が目指すものは十戒の中に全て含まれています。十戒は状況が変化しても適用される普遍的な掟です。十戒が目指すものをイエス様はさらに二つにまとめました。一つは、神を全身全霊で愛することと、もう一つは、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛することです。イエス様は、旧約聖書はこの二つを土台にしていると教えました。

イエス様は律法と預言を廃止するためにこの世に贈られたのではない、実現するために贈られたと言います。どういうことでしょうか?神のひとり子のイエス様は神と同質な方なので神の意思に反する罪を持たない方、神の意思を完全に満たしている方です。だから律法を実現している方です。預言とは、神と人間の断ち切れてしまった結びつきを神が回復して下さるという預言、それを行ってくれる救い主が贈られるという預言です。イエス様は十字架の死と死からの復活を遂げることでそれを実現しました。イエス様はまことに旧約聖書の中にある神の意思と計画を実現した方です。

ここでイエス様は驚くべきことを言われます。キリスト信仰者の義が律法学者やファリサイ派の人達の義より勝っていなければ神の国に迎え入れられないと。義というのは、私たち人間が天地創造の神の前に立たされる時、お前は大丈夫、やましいところはない、と神に認めてもらえることを意味します。律法学者もファリサイ派も当時の旧約聖書の専門家で、自分たちこそ律法を守っていると自信に溢れた人たちです。私たちはどうしたら、そのような人たちの義に勝って、神の前に立たされても大丈夫、申し分ないと認めてもらえるような義を持つことができるでしょうか?このことについても後で見ていきます。

2.「地の塩」とはどのような者か?

それでは「地の塩」、「世の光」とは何かについて見ていきましょう。まず、「地の塩」についてです。

塩が塩味を失ったら、役立たずになって捨てられて踏みつけられると言います。当たり前のことです。塩味を失った塩は砂や土の粒と同じなので、地面の一部になって踏みつけられるだけです。イエス様は、キリスト信仰者というのは地面の土の粒や砂の粒と同じではない、粒に塩味がついた塩粒なのだ、地面と区別されるものなのだと言うのです。

ここで、イエス様がヨハネ3章でニコデモに「新たに生まれる」ということについて教えていたことを思い出しましょう。「肉から生まれたものは肉である、霊から生まれたものは霊である」と言います(6節)。人間は母親の胎内から生まれた時はまだ肉だけの状態です。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰が伴う状態で洗礼を受けると聖霊が注がれて霊的な状態が加わります。それでキリスト信仰者は肉だけの状態ではなくなって、霊の状態も加わり、これが新たに生まれることになります。粒に塩味がついて塩粒になる、するとそれはもう地面の土粒、砂粒ではなくなります。最初の人間がアダムと呼ばれたのは、アダムが土から造られたからです。ヘブライ語で土のことをアダム(アーダーム)と言うからです。ルターは、キリスト信仰者というのは自分の内に残る旧い人アダムを日々、圧し潰していって、聖霊に結び付く新しい人が日々、成長していく者であると言っています。

本日の使徒書の日課でもパウロは、「自然の人」は神の霊に属する事柄を受け入れない、なぜなら、それはその人にとって愚かなことであり理解できないからである、と言います(第一コリント2章14節)。「自然の人」とは、神の霊、聖霊を受けていない人です。洗礼を受けておらず肉だけの状態の人です。その人から見れば、神のひとり子ともあろう者が十字架にかけられて無残に殺されるというのは馬鹿々々しい話です。しかし、キリスト信仰者から見れば、それはパウロが言うように、神の秘められた計画という神の知恵の現われであり、キリスト信仰者が復活の日に栄光の体を着せてもらえるために神が天地創造の前から決めていた知恵なのです(7節)。このようにイエス様の十字架から神の秘められた計画と知恵を見出すことができるキリスト信仰者は土ではない「地の塩」なのです。

3.「世の光」とはどのような者か?

次に世の光について見てみます。山の上にある町というのは、ギリシャ語でポリス、日本語では「都市」とも訳されます。イエス様の時代にはイスラエルの地にもギリシャ風の都市があちこちに建設されていました。当時、ガリラヤ湖のカペルナウムの対岸から20~30キロ程のところにヒッポスとかガダラというギリシャ風の都市が丘や崖の上に建てられていました。神殿や多くの柱石を有したこれらの都市は朝日や夕焼けの時は遠方からでも全体が輝いて見えたと伝えられています。つまり、キリスト信仰者が光を放つというのは、これらの都市と同じように自ら光を放つのではなく、太陽のような本当の光の源から光を受けて輝くことができるということです。そして、それは誰にも隠されていない、公然と輝く光であるということです。

輝く山上の都市に続いて、燭台に置いたともし火のことが言われます。誰もともし火を升の下に置かない、燭台の上に置く。当たり前です。すると暗かった部屋の中の事物は光を受けて照らし出されます。もし事物に目があるとすれば、部屋の事物はみなともし火の光を目にします。これも誰にも隠されていない、公然としてある光です。

イエス様は、キリスト信仰者が放つ光は山上の都市や燭台のともし火と同じである、だからそれらと同じように全ての人の前で光を放つのがキリスト信仰者であると言われます。そして、立派な行いがその光であると言います。人々は、キリスト信仰者の光のような立派な行いを見て、父なるみ神を賛美するようになると。さあ、困りました。光にたとえられる立派な行いとはどんな行いでしょうか?ギリシャ語の言葉カラ エルガ(複数形です)は「立派な行い」とも訳せますが、「良い業」、「素晴らしい業」とも訳せます。どんな業なのでしょうか?

そこで本日の旧約の日課イザヤ書の箇所を見ると、「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で」とあります(58章6~8節)。人助けをすることが光になることを言っています。それではイエス様も、キリスト信仰者が世の光であるというのは、こういう人助けをするからだ、もししなかったら光を放たないことになると言っているのでしょうか?でも、そう言ってしまったら、人助けをしたくても、病気だったり障害があったり、または困窮状態にあって自分の方が助けを必要としているキリスト信仰者はもう光を放てないことになってしまうのでしょうか?

人助けというのは、少し考えてみれば、別にキリスト信仰者でなくても行えるものです。自然災害の多い日本では何かあれば大勢の人がボランティアになって支援活動をします。キリスト信仰者でない人も大勢参加します。もし人助けが世の光ならば、イエス様はキリスト信仰者でない人たちも世の光であると言うでしょうか?確かにキリスト信仰者も信仰者でない人も人助けをする、しかし、信仰者には、信仰者でない人にはない特殊な事情があります。このことに注意しないといけません。どんな事情かと言うと、信仰者の場合は聖霊を受けて肉だけの状態でなくなっている。それなので、神のひとり子の十字架の死は愚かなことではなくなって、天地創造の神の大いなる計画と知恵の現れであるとわかっている事情です。キリスト信仰者が「地の塩」、「世の光」になっているというのはこの事情があるからです。「地の塩」、「世の光」になった結果として、周りに見えるような良い業が出てくるというのがキリスト信仰者です。さらに大事なことは、その良い業というのは人助けに限られないということです。良い業はもっと広いものを意味しています。それなので、病気や困窮してしまって人助けどころではないキリスト信仰者から良い業は出てくるのです。健康で困窮していない余裕のある信仰者からは人助けが出てくるでしょう。いずれにしても、そういう広いものが良い業であるということです。

光のように輝く良い業が人助けに限られないということは、本日のイザヤ書の箇所をもっと先まで読むと明らかです。9節を見ると「軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉を吐くことを取り去ること」も光を放つことと言っています。軛を負わすというのは、誰かを束縛すること、重荷を負わせることでその人を苦しめることです。指をさすとは後ろ指を指すことで陰口をたたくことです。

「呪いの言葉を吐く」について、「呪いの」と訳されているヘブライ語の言葉アーヴェンはヘブライ語の辞書を見ると、魔術的な意味があるかどうかはクェッスチョン・マークと書いてあります。日本語の訳者はそう訳してしまったのですが、ここは単語の基本的な意味でよいと思います。そうすると「有害な言葉を吐く」になります。「有害な言葉」は誰かを傷つけたり騙したりする言葉で、十戒の第4から第10までの掟の禁止事項に関係してきます。「有害な言葉」を神に向ければ第1から第3までの掟にも関係してきます。それなので、たとえ困っている人に衣食住を提供しても、そんな言葉を吐いてしまったらもう光を放てないのです。

さらに12節では、古い廃墟を築き直すことや代々の礎を据え直すことが言われています。「古い廃墟」とは、原文を忠実に見ると「古い」ではなく、かなり長い期間廃墟のまま打ち捨てられたという意味です。「代々の礎を据え直す」も正確には、代々崩れ落ちたままだった城壁を建て直すという意味です。さて、この箇所をイザヤ書の狭い歴史の枠の中で考えると、イスラエルの民を外国の支配から解放して王国を復興させる時が来るという預言に解することができます。そうではなくて、これを天地創造の神の人間救済計画という広い枠の中で考えると、この預言はもっと大きな内容を持ちます。つまり、神との結びつきを失って廃墟のようだった人間が結びつきを回復できるようになるという内容です。この回復を実現したイエス様はもちろん、使徒たちのようなイエス様の良い業を人々に伝えて人間が神との結びつきを回復できるように導く人たちも光を放つのです。

このようにキリスト信仰で良い業は人助けだけでなく十戒全体と結びついています。それに加えて、人間と神の結びつきを回復する働きも良い業になります。これらがわかると、キリスト信仰者が放つ光は信仰者でない人たちの光と違うことがわかると思います。

4.ファリサイ派や律法学者の義に勝るキリスト信仰者の義

イエス様は、お前たちは「塩」である、「光」であるとは言わず、「地の塩」、「世の光」であると言いました。「塩」と「光」に、この地上、この世を言い表す言葉を付け足していったのです。そうすることで、将来新しい天と地が再創造される時に現れる神の国の対極にあるものとして、「この地上」、「この世」が強調されます。「この地上」と「この世」は神と人間の結びつきが失われたままのところです。結びつきを回復してくれたのが神のひとり子のイエス様でした。結びつきを断ち切っていた原因である罪の問題を人間に代わって解決して下さったのです。人間は誰しも神の意思に反しようとする性向を持っています。それが罪です。イエス様は本当だったら人間が受けなければならない罪の罰を、人間が受けないで済むようにと、自分で全部引き受けてゴルゴタの丘の十字架で人間の代わりに神罰を受けて死なれました。人間のために神に対して罪を償って下さったのです。それだけではありません。父なるみ神は想像を絶する力で一度死なれたイエス様を死から復活させて、永遠の命があることをこの世に知らしめて、そこに至る道を切り開いて下さいました。

それで今度は私たち人間の方が、これらのことは歴史上本当に起こったこととわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償われたから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになっています。この、神との結びつきが失われている地上にあって、この世の中で神との結びつきを持てるようになったのです。そうして、この世の人生を神との結びつきを持って歩み始めます。目指すところは、復活の日に目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を持って神の国に迎え入れられるところです。神との結びつきは、自分から手放さない限り、いついかなる時にも失われることはありません。この世から別れる時も結びつきを持って別れられ、復活の日には結びつきをもったまま眠りから目覚めさせられます。

このことがわかったキリスト信仰者は、こんなすごいことをしてくれた神にただただ感謝の気持ちで一杯になるので、それでもう神の意思に沿うように生きるのが当然という心になります。その心から良い業が出てくるのです。このように人間は罪の赦しのお恵みを受け取ることで「地の塩」、「世の光」になるのです。

ところで、キリスト信仰者はこの世にある限りは、肉の体を纏っています。肉には神の意思に反しようとする罪が染みついています。信仰者は神の意思に敏感になるので、自分の内にある罪に気づきやすくなります。気づいた時、自分は神と結びつきを持てるようになるには失格だという思いに囚われます。しかし、その時こそ、神に背を向けず、神の方を向いて赦しを祈る時です。そうすると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、こう言われます。「お前の罪の赦しはあそこにある。お前が我が子イエスを救い主と信じる以上は、お前の罪は彼の犠牲に免じて赦される。だから、罪を犯さないようにしなさい」と。その時キリスト信仰者は、神への感謝からまた神の意思に沿うように生きなければという心を新たにします。その心から良い業が出てくるのです。このように人間は洗礼の時に受け取った罪の赦しのお恵みに踏みとどまることで「地の塩」、「世の光」であり続けるのです。

このようにキリスト信仰者は、この世にある時は、罪の自覚と赦しの祈りと神からの赦しの宣言を受けることを何度も何度も繰り返していきます。繰り返しても罪は消滅しないので辛いかもしれませんが、それで良いのです。なぜなら、かの日、神のみ前に立たされる時、神はこう言われるからです。「お前は旧い世で罪を持ってはいたが、罪の赦しの恵みに踏みとどまって罪に反抗する生き方を貫いたのだ」と。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、これがキリスト信仰者の義です。

ファリサイ派と律法学者の義は、神に義と認められるために掟を守るというものです。だから、人間由来の義なのです。彼らは、掟を守る時に自分は他の誰よりも上手に守っていると思ったら優越感にも浸ります。キリスト信仰者の義は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって、先に神から義と認められてしまう義です。ファリサイ派や律法学者のように人間由来の義ではありません。神に由来する義です。だから、勝っているのです。神に由来する義でそれを神から一方的に与えられてしまった、そこから畏れ多い気持ちと感謝の気持ちが生まれ、神の意思に沿うように生きようという心になって、そこから良い業が生まれてくるのです。良い業を行って神に認められようとするのではなく、先に認められたから行おうというものです。そこには優越感など入り込む余地はありません。なぜなら、イエス様の十字架と復活の業が全ての誇りの源だからです。人間の業が自信の源になってしまっては、宗教的な行為を行っていても、肉だけの状態で行っていることです。ここからもイエス様の十字架と復活の業は人間を霊的な存在にする業であることがわかります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

 

 

 

2023年1月29日(日) 顕現節第4主日 主日礼拝

本日の説教は動画配信でご覧ください

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

ペンティ・マルッティラ牧師は、SLEY海外伝道局アジア地域コーディネーターとともにSLEYのハメーンリンナ教会の牧師も兼任しています。SLEYで仕事をする前は「フィンランド福音ルター派ミッション(フィンランド語で「種まき人)」というミッション団体の宣教師としてモンゴルでキリスト教伝道をされたこともあります。

 

 

2023年1月22日(日)顕現節第三主日 主日礼拝

司式 吉村博明 SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師
説教・聖餐式 ペッカ・フフティネン牧師・SLEY元海外伝道局長
本日の説教は動画配信でご覧ください。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

説教「見よ、世の罪を取り除く神の小羊、神の救いを地の果てまで及ぼす諸国民の光」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書1章29-42節

主日礼拝説教 2023年1月15日顕現後第二主日
聖書日課 イザヤ49章1-7節、第一コリント1章1-9節、ヨハネ1章29-42節

説教をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」洗礼者ヨハネはイエス様のことをそう呼びました。小羊とは可愛らしいです。白い毛の衣に被われたフワフワした可愛らしい羊を皆さんもどこかで見たことがあるでしょう。ヨハネは、イエス様のことを世の罪を取り除く小羊だと言います。それは一体どういうことでしょうか?そもそも、世の罪を取り除くとはどういうことでしょうか?世の中には悪いことが沢山あります。人を傷つけたり騙したり、自分のことだけを優先して他の人のことを顧みないということが沢山ある。それらが犯罪行為になって法律で処罰されるということが沢山あります。「世の罪を取り除く」というのは、そういう悪や犯罪をなくするということか?イエス様が取り除きをする時、それを小羊のようにするというのはどういうことか?悪や犯罪をなくすのなら、ライオンとかもっと雄々しい動物に例えた方が迫力があるのではないか?小羊では少し頼りないのでは?

それに「世の罪を取り除く」と言っても、現実にはこの世にはたくさんの悪や犯罪があります。イエス様は取り除いていらっしゃるかもしれないが、それでも減らない、逆に増える一方です。イエス様の罪の取り除きはやはり小羊並みの頼りないものなのか?実はそうではないのです。イエス様の罪の取り除きは完璧なものです。どうしてそんなことが言えるのかをこれから見ていきます。

2.神に対する罪の償いについて

「神の小羊」と言っているので、まず「神」について考えてみます。聖書の話ですので、あくまで聖書の神です。聖書の神は何と言っても、天と地とその間にあるもの全て、見えるものと見えないもの全ての造り主、創造主です。私たち人間も神の手に造られたというのが聖書の立場です。人間一人ひとりに命と人生を与えられました。しかも、母親の胎内に宿った時から、私たちのことを知っていました。そのことが旧約聖書と新約聖書の至るところで言われています。本日の旧約の日課イザヤ49章1節でも「主は私が胎内にいる時から声をかけ、母のお腹の中にいる時から私を名前で呼んでいた」と言っています。胎内にいるときからこうですから、生まれ出てきた後も、私たちのことをよく見て全て知っています。私たちは気づきませんが、私たちが何をしているか何を考えているか、キリスト信仰者であるかないかにかかわらず神は全てお見通しです。人には隠し立て出来ても神に対しては出来ません。何しろ、私たちの造り主だからです。

聖書の神は造り主であると同時に、ご自分の意思を聖書を通してはっきり述べられる方でもあります。十戒という掟があります。それは、創造主である神こそが崇拝する対象であるとか、その名を汚してはならないとか、週一日は仕事の手を休めて神に心を傾ける日とせよとか、神との関係でこうしろああしろという掟があります。この他にも、父母に敬意を払えとか、人を傷つけたり殺したりするなとか、自分のであれ他人のであれ夫婦関係を損なうようことはするな不倫などもってもほかとか、盗むなとか、嘘をついたり他人を悪く言ってはいけないとか、他人を妬んだり他人のものを横取りしてはいけない、というふうに人間との関係でこうしろああしろ(というか、こうしてはいけない、ああしてはいけない)という掟があります。これらの掟に従っていれば、神の意思に沿う者、神の目に適う者になります。

ところが、私たち人間は完全ではなく弱さや隙があります。それで掟を破ってしまうことがあります。行いだけでなく言葉や思いでも破ってしまいます。そうなると神はどう出るか?神の意思に反したことになるので、神の失望と怒りを買って罰を受けることになります。それで何か償いをしなければならなくなります。神が償いを受け入れれば、罪を赦してもらったことになります。罪を償う仕方として、旧約聖書では動物の生贄を捧げることが定められました。レビ記4章をみると、掟を破ったのが祭司の場合だったり、共同体の場合だったり、その代表者の場合だったり、個人の場合だったりに応じて牛や山羊を犠牲の生贄に捧げることが定められています。生贄を捧げると神から罪が赦されるとあります。まさに罪の償いのための生贄です。レビ記16章をみると、第七の月の10日に贖罪日という国民的な儀式の日が定められ、この時も罪の赦しを得るために動物の生贄が捧げられました。

そうすると、神に背いたのは人間じゃないか、人間が罰せられるべきで動物を生贄に捧げるなんてちょっと身勝手で動物が可哀そうと思われるかもしれません。しかし、ここで理解しなければならないことは、人間が神から赦しを得てもう一度やり直せるチャンスを得るというのはとても大きな犠牲を要するということ、それくらいに罪というのは神にとって重いことだということです。もし人間が神罰を受けて死んでしまったら、やり直しなど出来ず元も子もありません。人間が死なないでやり直しできるためには誰かに代わりに死んでもらわないといけない、神の意思に背くというのはそれくらい命に係わる重大なことだということです。

このように創造主がいて人間はその意思に背くと創造主との関係が損なわれる、だから背いてしまったら償いをして関係を修復しなければならないということが聖書の神と人間の間にあります。ところで、聖書の外の世界を見渡すと、不幸が起こらないように霊的な何かを宥めるということがあります。日本的に言えば、バチが当たらないように、ということでしょう。しかし、聖書の場合は、創造主との関係修復というのは、不幸に陥らないバチがあたらないようにする宥めとは違います。聖書の場合は不幸に陥らないバチがあたらないということが中心的な関心事ではありません。聖書の場合は、神との結びつきを持ってこの世を生きられ、結びつきを持ってこの世を別れられ、結びつきを持って復活の日に復活させられるという、いつどんな時でも神との結びつきを持てることが中心的な関心事です。いわゆる御利益宗教から見たら理解できないことかもしれません。それなのでキリスト信仰者は苦難困難に陥っても呪われたとか祟られたとか言って慌てふためくことはないし、そういうことに付け込む誘いの声は耳に届かないのです。キリスト信仰者の苦難困難の遭遇の仕方は、よし、上等だ、一緒にいてくれる神と乗り越えてやろうという心意気になります。詩篇23篇4節で「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を恐れじ、汝、我と共にませばなり、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」と言われていることがその通りという生き方です。

3.神のひとり子の犠牲の生贄

動物の生贄の話に戻りましょう。イスラエルの民は罪の赦しを得るために律義に動物の生贄を捧げ続けました。ところが、神との関係を保つ方法として、それは持続可能でないことが明らかになりました。民が罪の赦しのためと言って生贄を捧げても、神の意思への背きは繰り返されていました。贖罪の儀式が形式的、表面的になって、儀式を行った人の心は何も変わっていないということが明らかになりました。儀式を盛大に格調高くやっていれば別に心の中のことはとやかく言わなくてもいいというのは聖書の世界に限ったことではないでしょう。儀式が華やかで大掛かりなこと自体が何か心がこもっていることの証しのように考えられるというのはよくあることと思います。神は心の変化を伴わない儀式を目の当たりにして、きっぱりと、生贄を捧げても何も意味はない、そんなもの持ってこられてももううんざりだ、と言うようになります(イザヤ書1章11~17節、エレミア書6章20節、7章21~23節、アモス書4章4~5節、21~27節などにあります)。

つまり神は、外見だけでは意味がない、内面が変わらなければ意味がない、と言われるのです。このことは、後にイエス様が、十戒の掟は外面上守れても、内面までも守れなければ守ったことにならないと教えたことに重なります。人を殺していなくても罵ったら同罪であるとか、不倫をしていなくてもふしだら目で異性を見たら同罪である、と。

神は、せっかく自分に似せて造った人間がなんとか自分の意思に沿うようになって、自分と一緒に永遠に生きることができるようにと、そのために心が変われるようにと何か別の方法を採らなければならなくなりました。そのことがイザヤ書53章で予告されています。そこでは、人間の罪を人間に代わって背負って自分自身を罪の償いの捧げ物にして命を捨てる「主の僕」なる人物について述べられています。彼は屠り場に引かれる小羊のようであったと言われています。このイザヤ書の予告はイエス様が全て実行に移しました。彼は罪を持たない神聖な神のひとり子でした。なのに、私たち人間の罪を全部引き取って十字架の上に運び上げて、そこで人間の罪の責任は全部自分にあるかのように私たちに代わって神罰を受けられたのです。実にイエス様は、かつての動物の生贄のように人間の罪を償う犠牲の生贄となったのでした。

ところで、犠牲に供されたのは動物ではなく神聖な神のひとり子でした。これ以上の犠牲はないという位の完璧な犠牲でした。それゆえ、神に罪を赦して頂くための犠牲はこれで完了しました。エルサレムの神殿で行われていた動物を生贄に捧げる儀式は根拠を失いました。神との結びつきを持ててそれを保てるために人間の側ですることは何もなくなりました。神がひとり子を用いて全部して下さったからです。

あとは人間が、イエス様がゴルゴタの丘の十字架で私たち人間の罪を償って下さったことは本当のことと受け止めて、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いはその人に効力を持つようになり、その人は罪を償ってもらった者に変わります。神のひとり子に罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者と見なしてもらえます。神から罪を赦されたから、神との結びつきを持ってこの世の人生を歩むようになります。動物の生贄は毎年のように捧げなければなりませんでした。罪の赦しには賞味期限というか有効期限があったのです。しかし、神のひとり子の犠牲はこれっきりでいいという位の完璧な永久保存のものでした。それなので信仰と洗礼を通して打ち立てられた神との結びつきは自分から捨てない限り、何があってもどんな状況にいても失われない堅固な結びつきなのです。

4.罪に与せず反抗して生きる

かつて動物の生贄を捧げていた時は、儀式が外面的、表面的なものになって心の変化が伴わなくなって神は受け入れを拒否してしまいました。それでは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神から罪を赦された者になったら、心は変化して完全に神の意思に沿うようになるのでしょうか?答えは、そうとは言えない面とそうと言える面の両方があるが、そうと言える面が勝っているということです。どういうことか見てみましょう。

人間はキリスト信仰者になっても、この世にいる限りは肉の体を纏っているので神の意志に反する罪を持っています。しかも、信仰者になる前に比べて神の意志に敏感になるので自分の内にある神の意志に反するものに気づきやすくなります。流石に行いや言葉に出すことに歯止めがかかるようになりますが、それでも弱さや未熟さがあったり隙をつかれたりして出てしまうこともあります。その時は、神の意志に反したので神に赦しをお願いしなければなりません。行いや言葉で反したのであれば誰か相手がいるので相手に対しても赦しをお願いしなければなりません。心の思いで反した場合は相手にはわからないことです。行いや言葉の罪とは勝手が違うかもしれませんが、それでも神に対して赦しをお願いしなければなりません。

神の意志に反することが自分にあると気づいたら、それに目を背けてはいけません。その時はすぐ神に赦しをお願いします。お願いの仕方は「イエス様は私の救い主です、イエス様の犠牲に免じて私の罪を赦して下さい」と祈ります。そうすると神はすかさず、私たちの心の目をしかとゴルゴタの十字架に釘付けにしてこう言われます。「お前の罪は全てあそこで償われた。お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないように。」このようにキリスト信仰者は罪の自覚を持って神に罪の告白をして神から罪の赦しを宣言してもらって再出発します。キリスト信仰者はこれを何度も何度も繰り返していきます。一見無意味なことを繰り返しているように見えるかもしれません。実はこうすることこそが自分は罪に与していない、罪に反抗する生き方をしていることの現われなのです。

やがてこの繰り返しが終わる日が来ます。今の天と地が終わって新しい天と地に取って代わられる日です。その日、神のみ前に立たされ、お前は旧い世で罪に与しないで反抗する生き方をしたと認めてもらえます。それで、既に消滅した肉の体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せてもらって神の御許に永遠に迎え入れられます。ルターが、キリスト信仰者が完全な信仰者になるのは復活の時であると言ったのはその通りです。その時キリスト信仰者は、旧い世ではイエス様を救い主と信じて洗礼を受けたにもかかわらず自分には罪が残っていて辛かった、しかし、罪は自分と神の結びつきを引き裂く力を失っていたというのは本当だった、だからここに来れたのだ、とわかるでしょう。

5.世の罪を取り除く神の小羊 神の救いを地の果てまで及ぼす諸国民の光

兄弟姉妹の皆さん、イエス様は真に私たちの罪を償い、私たちを罪の呪いから贖い出して下さった犠牲の小羊です。神が贈られたので真に「神の小羊」です。この小羊の償いと贖いの業のおかげで、罪が持つ神と人間の間を引き裂く力は無にされ、永遠の命と復活の体が与えられる地点に向かう道が人間に開かれました。そこで、どうしてこれが世の罪を取り除くことになるのでしょうか?「世の罪を取り除く」と言ったら、この世から罪や悪を取り除くことではないのか?でも実際には罪や悪はこの世に一杯あるではないか?説教の冒頭で述べたように、そういう疑問が起きると思います。しかし、イエス様が世の罪を取り除くというのは真理です。どうしてそう言えるのか、次の2つのポイントをみればわかります。

第一のポイントは、「取り除く」と言っているギリシャ語の動詞アイローは「運ぶ、背負う」という意味と「死なせる、滅ぼす」という意味を持っているということです。マルコ2章4節で「4人の男が中風の人を運んできた」の「運ぶ」はアイローです。マタイ16章24節で「自分の十字架を背負って」の「背負う」もアイローです。イエス様は世の罪を十字架の上に背負って運び上げたのです。ヨハネ11章48節で祭祀長とファリサイ派が心配して「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と言った時の「滅ぼす」もアイローです。イエス様は、神と人間の結びつきを失わせる罪の力を無にしたのです。罪を滅ぼしたのです。そういうわけでイエス様が「世の罪を取り除く」というのは、イエス様が罪を十字架の上に背負って運び上げて滅ぼしたことと同じことです。これが第一のポイントです。

第二のポイントは、やはり「世の罪を取り除く」は実際にこの世から罪を除去することを意味するということです。なぜなら、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者が増えていけば、罪に与しない罪に反抗する生き方がこの世に増えていくことになるからです。この世は神の意志に反することが沢山溢れています。神との結びつきを持てないようにしようとする力が猛威を振るっています。そのような世に対してイエス様は罪を十字架に背負って運び上げて滅ぼしました。それは、罪が滅んだ状況を作ってそこに人間を導き入れて神との結びつきを持って生きられるようにするためでした。それは、神との結びつきを失っている全ての人間に向けられているのです。そのことが本日の旧約の日課イザヤ書49章ではっきり言われています。

イザヤ書40章から55章までは第二イザヤと呼ばれ、そこに登場する「神の僕」とは、バビロン捕囚から解放されて祖国に帰還するユダヤ民族を指すとよく言われます。しかし、49章は一民族の歴史上起こった祖国帰還ではなく、全世界の人たちの歴史を超えた神の国への帰還が視野に入っているのです。5節と6節が大事です。5節は新共同訳では「主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力」が節の初めに来ています。ヘブライ語原文では節の後ろです。なので、ここは、「今や、主は言われる、母の胎にあった私をご自分の僕として形作られた主は。主が私を僕に形作られたのはもともとはヤコブを御許に立ち帰らせるためであり、そうすることでイスラエルはもう取り去られることはなく、私も主の目に栄誉ある者となり、私の神が私の力になるはずだった。」それで6節に行くとその神が驚くべきことを言います。お前はイスラエルの民の祖国帰還なんかで満足するなと言わんばかりのことを言うのです。まさにここで「主の僕」は祖国帰還する民を意味せず、救い主メシアを意味することがはっきりします。新共同訳では「だがそれにもまして」とあって、祖国帰還の仕事もしてもらうがそれに加えて救いを地の果てにもたらすこともしてもらうと二つの仕事があることを言っています。しかし、原文はもっと迫力があります。こうなります。「主はこう言われる。『ヤコブの諸部族を立ち上がらせてイスラエルの残りの者を連れ帰らせる程度のスケールの小さなことでお前を僕なんかにはしない。わたしはお前を諸国民の光とし、私の救いを地の果てまで及ぼす者とする。』

人間と神との結びつきを失わせようとする力が働くこの世を闇とすると、闇の力を無にしたイエス様は本当に闇の中で輝く希望の光です。キリスト信仰者はその光を持っているので何も恐れることも心配することもないのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

説教「全知全能の神とこの世の悪」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書2章13~23節

2023年1月1日降誕節第二主日 主日礼拝
聖書日課 イザヤ書63章7~9節 (旧1164頁)、ヘブライ2章10~18節(新402頁)、 マタイ2章13~23節(新2頁)

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神は悪に対して無力か?

本日のマタイ福音書の箇所は、旧約聖書の預言が3つ成就したことについて述べています。

初めに、2章15節にある言葉「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」。これはホセア書11章1節にある神の言葉です。イエス様親子はヘロデ王の追っ手を逃れてエジプトに避難しました。そして王が死んだのでイスラエルの地に帰還できました。マタイはこの出来事がホセア書の預言の実現とみました。あるいは初代のキリスト教徒たちがそう見て、マタイが福音書を書いた時にそれに倣ったということかもしれません。

二つ目は、2章18節にある言葉「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」。これはエレミア書31章15節の引用です。ヘロデ王が赤ちゃんのイエス様を殺そうとして、どこにいるかわからないのでベツレヘム周辺の2歳以下の子供を皆殺しにするという残虐な事件が起こりました。マタイないしは初代のキリスト教徒たちがエレミア書の預言はこの事件を指しているとみたのです。

三つ目は、2章23節にある言葉「彼はナザレの人と呼ばれる」。実は、旧約聖書の中にこれと同じ預言の言葉は見当たりません。ひとつ明らかなことは、ナザレという言葉は、「若枝」を意味するヘブライ語の言葉ネーツェル(נצר)と関係があります。「若枝」というのはイザヤ書11章1節にでてくる有名なメシア預言「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち」のそれです。同じイザヤ書の53章には人間が受けるべき神の罰を神の僕がかわりに受けて苦しむという預言があります。イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃した人たちは、エッサイの若枝ネーツェルとはイエス様のことだとわかりました。このようにイエス様が「ナザレの人」と呼ばれたのが預言の実現だったというのは、彼が住んでいた町がナザレだったということよりも、ネーツェル預言があったからでした(「ナザレ」については、この他に民数記6章1-21節や士師記13章5、7節にある「ナジル人」との関係を考えることも可能です。ただ、これらは預言の言葉ではないので本説教では立ち入りません。)

ところで、本日の福音書の中で一番難しいことは、ベツレヘムの幼児虐殺の事件です。一人の赤子の命を救うために大勢の子供たちが犠牲になったことに納得しがたいものを多くの人は感じるかもしれません。もし、その赤子は将来救世主になる人だから多少の犠牲はやむを得ない、などと言ったら、それは身勝手な論理でなはないか、救世主になる人だったら逆に自分が犠牲になって大勢の子供たちが助かるようにするのが本当ではないか、という反論がでるでしょう。ここでひとつはっきりさせておかなければならないことがあります。それは、幼児虐殺の責任はあくまでヘロデ王にあって神ではないということです。神はイエス様をヘロデ王の手から守るために天使を遣わして、まず東方の学者たちを導いてヘロデに報告しに行かないようにしました。それから、イエス様親子をエジプトに避難させました。学者たちが戻ってこないのに気づいたヘロデ王は、さては赤子を守るためだったなと悟って、ベツレヘム一帯の幼児虐殺の暴挙にでたのでした。天使がヨセフに警告したことは「ヘロデがイエスを殺すために捜索にくる」でした。それなのに、ヘロデは捜索どころか大量無差別殺人の暴挙にでたのでした。神の予想を超える暴挙でした。

そう言うと今度は、神の予想を超えるとは何事か!神は創造主で全知全能と言っているのにヘロデの暴挙も予想できないというのは情けないではないか?大勢の幼子を犠牲にしないで済むようなひとり子の救出方法は考えつかなかったのか?そういう反論がでるかもしれません。この種の反論はどんどんエスカレートしていきます。神はなぜヘロデ王のみならず歴史上の多くの暴君や独裁者の登場を許してきたのか?なぜ戦争や災害や疫病が起こるのを許してきたのか?そもそも、なぜ人間が不幸に陥ることを許してきたのか?もし神が本当に全知全能で力ある方であれば、人間には何も不幸も苦しみもなく、ウクライナの戦争もコロナも東日本大震災もなかったはずではないか?人間はただただ至福の状態にいることができるはずではないか等々の反論がでてくるでしょう。

そういうわけで、本説教では、神は本当に悪に対して力がないのか?もしあるのなら、どうして悪はなくならないのか?そうしたことを本日の日課をもとに考えていきたいと思います。

2.全知全能の神とこの世の悪 ― キリスト信仰の観点

もし神が本当に悪に対して力ある方ならば、人間は悪から守られて不幸も苦しみもなく、至福の状態にいることができるではないか、そうではないのは神に力がないか、あるいは神など存在しないからではないか?この問題についてキリスト信仰者はどう考えるかということを以下に述べていきたいと思います。

聖書によれば、天地創造当初の最初の人間はまさに至福の中にいました。そして、それは創造主の神の御心に沿うものでした。ところが、神の意図に反して人間は自分の仕業でこの至福を失うことになってしまったことが、創世記の1章から3章まで詳しく記されています。何が起きたかというと、「これを食べたら神のようになれる」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間は禁じられていた知識の実を食べ、善いことと悪いことがわかるようになってしまいます。つまり善いことだけでなく悪いこともできるようになってしまいました。そして、その実を食べた結果、神が前もって警告したように人間は死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」のなかで明らかにしているように、最初の人間が神に不従順になったことがきっかけで神の意志に反する罪が人間に入り込み、人間は神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまったのです。人間は別に神のようになる必要はなく、神のもとで神の守りの中で生きていればよかったのに、神のようになりたい神と張り合いたいという考えを持ったことが間違いの元だったのです。

ところで、何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのかと煙たがれます。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた、全ての人に当てはまる根本的なものを指します。神の意志に反しようとする性向です。神の意志とは十戒に凝縮されています。殺すな、姦淫するな、盗むな、嘘をつくな、妬むな等々、実際にそうしてしまうだけでなく心で思い描くことも罪があることを示しています。もちろんこの世には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく罪を持っていることの証なのです。

このように人間は神の意図に反して自ら滅びの道に入ってしまいました。そこで人間から不従順をつきつけられた神はどう思ったでしょうか?自分で蒔いた種だ、自分で刈り取るがよいと冷たく突き放したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。失われてしまった結びつきを人間が取り戻せるために神は計画を、人間救済の計画を立てました。人間の歴史はこの計画に結びつけられて進むことになりました。神の人間救済の計画は旧約聖書の預言を通して少しずつ明らかにされていき、最後にそれはイエス様の十字架の死と死からの復活をもって実現しました。そのことを明らかにするのが新約聖書です。

それでは、神と人間の結びつきはどのようにして回復したでしょうか?人間は皆、罪の呪いのために死の滅びに定められています。その呪いをイエス様が全部自分で請け負って、私たちの身代わりに十字架にかけられて神罰を受けて死なれました。神のひとり子の犠牲の死が人間にとてつもなく大きな意味を持っていることが、本日の使徒書の日課ヘブライ2章でも言われています。神聖な神のひとり子が人間と同じように血と肉を備えた者になったのはなぜか?それは、人間を死の滅びに陥れる悪魔の力を無力にするためであった。そのためには、神のひとり子が犠牲になって人間が陥る死を代わりに死んでもらわなければならない。その神のひとり子が死ねるためには、神の姿形では無理なので人間の姿形を取らなければならない。こうして人間が陥る運命にあった死をイエス様が代わりに死んで下ったことで人間が陥らないですむ状況を作って下さったのです。

そういうわけでイエス様が人間と同じようになったのは、ヘブライ2章15節の言葉を借りれば、生きている間ずっと死に対する恐怖の中にいて罪の奴隷になっていた者たちを解放するためだったのです。それでは人間を解放した後はどうなるのか?罪の奴隷状態から解放されるのはわかった、じゃ、どこへ解放されるのか?それは、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになって、この世から別れる時も神との結びつきを持って別れられ、将来復活の日が来たら、神との結びつきを持つ者として目覚めさせられる、そういう神との永遠の結びつきへと解放させられるのです。

もしイエス様が人間の形をとらず神のままでいたら、神罰を受けたとしても、それは見かけ上のことで痛くも痒くもなかったでしょう。人間として受けたので本当の罰受けになって人間の罪を償うことが出来ました。ヘブライ 2章17節で言っている通りです。そして18節で言われるように、イエス様は神のひとり子でありながら人間として試練を受けて苦しみました。それがあるので試練を受けている人たちを助けることが出来るのです。痛くも痒くもなかったら試練を受けることがどんなことかわからず、何をどう助けてよいかわからないでしょう。イエス様は神のひとり子でありながら、それがわかるのです。

イエス様の十字架の死が起きたことで、人間が死の滅びに陥らない状況が生み出されました。もう一つ大事なことが起きました。父なるみ神は想像を絶する力でイエス様を死から3日後に復活させました。これにより死を超えた永遠の命が存在することがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。解放された人間が行く行き先が確立したのです。悪魔は人間を死に陥れる力を無力にされただけでなく、行き先も奪われてしまったので二重の打撃です。

神はこのようにして人間に救いを整備して下さいました。今度は人間のほうが、神が整備した死に至らない状況、復活と永遠の命に導かれる状況、そうした状況に人間が入り込まなければなりません。そうしないと、神がイエス様を用いて整備した救いは人間の外側によそよそしくあるだけです。では、どうしたら整備された状況の中に入れるのか?それは、「2000年前に神がイエス様を用いてなさったことは、実は今を生きる自分のためであった」とわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。洗礼を受けるとイエス様が果たした罪の償いを純白な衣のように被せられます。そうするとと、もう呪いは近寄れません。罪の償いを纏っているので、神からは罪を赦された者として見てもらえます。罪を赦されたのだから、神との結びつきが回復しています。もちろん自分の内には罪が残存しているが、被せてもらった償いがどれだけ高価で貴重なものであるかがわかれば、もう軽々しいことは出来なくなります。なにしろ、神のひとり子が十字架で流した血が神との結びつきを回復させる代償になっているからです。あとは、この高価な衣をしっかり纏って、その神聖な重みで内にある罪を圧し潰していきます。かの日に神の御前に立たされる時、しっかり纏っていたことを認めてもらって、今度は神の栄光に輝く復活の体を与えられます。

このようにキリスト信仰者は復活の日の永遠の命に向かう道に置かれてそれを歩んでいきます。神との結びつきがあるので順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと導きを得られます。順境と逆境の両方ということは、平穏と無事だけでなく苦難や困難もあります。しかし、それは詩篇23篇でも言われています。「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れじ、汝、我と共にませばなり、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」と。イエス様を救い主と信じていても「死の陰の谷」進まなくてはならない時があるのです。しかし、聖書の御言葉の繙きを通して聖餐を通して祈りを通してイエス様はいつも私たちと共におられるので災いを恐れる必要はないのです。イエス様の衣を纏って進む限り、復活と永遠の命に向かっていることには何の変更もないのです。

以上申し上げたことから見えてくるのは、世界に悪と不幸がはびこるのは神が力不足だからという見解は、キリスト信仰の観点ではズレた見解ということです。キリスト信仰の観点では、悪と不幸がはびこる世界に対して神が人間の救済計画を立ててそれを実現した、そして人間一人一人がこの救済に与れるようにと手を差し伸べている、という見解になります。もちろん、これはこの世の観点からはズレた見解です。しかし、それでいいと言うのがキリスト信仰です。キリスト信仰の観点で見れるようになれば、神が何々をしてくれなかったとか、何々ができなかったということで悩むことはなくなります。神がこの私にこんなに大きな救いを果たして下さったということの方に目が向いて、自分が復活の永遠の命に向かう道に置かれていることに気づきます。悩むよりその道を歩むようになります。

3.正義と赦し

終わりに、キリスト信仰にあっては、不正義がなんの償いもなしにそのまま見過ごされることはありえない、正義は必ず実現される、ということを強調したく思います。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、今のこの世が終わって新しい世が到来する時に必ず償いがなされというのが聖書の立場です。黙示録20章4節を見ると「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした者たちが最初に復活することが述べられています。続いて12節には、その次に復活させられる者たちについて述べられています。彼らの場合は、神の書物に記された旧い世での行いに基づいて、神の御国に入れるか炎の海に落とされるかの審判を受けることになっています。特に「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海となっています(15節)。天地創造の神が御心に従って造り上げたものに対して、また神が御心に従って与えて下さるものに対して、それらを受け取った人たちに対して酷い仕打ちをする者たちの運命は火を見るよりも明らかでしょう。ヘロデ王の行いもこの観点から判断されます。

人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを示しています。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。この世で多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならないという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるなんて言ったら、来世まかせになってしまい、この世での解決努力がおざなりになってしまうと批判的になる人もいます。しかし、キリスト信仰はこの世での正義は諦めよとは言いません。神は、人間が神の意思に従うようにと十戒を与え、神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛せよと命じておられます。このことを忘れてはなりません。それなので、たとえ解決が結果的に新しい世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる間は神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければなりません。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決に至らない場合もある。しかし、解決努力をした事実を神はちゃんと把握していて下さる。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さいます。神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は何百倍にして埋め合わせて下さいます。それゆえ、およそ人がこの世で行うことで、神の意思に沿うようにしようとするものならば、どんな小さなことでも目標達成に遠くても、無意味だったというものは神の目から見て何ひとつないのです。神がそういう目で私たちのことを見ていて下さっていることを忘れないようにしましょう。

最後に、キリスト信仰は罪の赦しを専売特許のように言うくせに、炎の地獄とか最後の審判とか言うのはどういうことか?やっぱり赦しはないということなのか?それについてひと言。もちろん、キリスト信仰は先ほども申しましたように罪の赦しを土台とする信仰です。しかし、取り違えをしてはいけません。キリスト信仰の罪の赦しとはまず、この私にかわって命を捨ててまで神に対して罪の償いをしてくれたイエス様にひれ伏すことと表裏一体になっています。これと併せて、神に背を向けて生きていたことを認めて、これからは神のもとへ立ち返る生き方をするという方向転換とも表裏一体になっています。それなので、方向転換もなし、イエス様にひれ伏すこともなしというところには本当の赦しはありません。これを逆に言うと、どんな極悪非道の悪人でも、このような神への立ち返りをすれば、神は赦して受け入れて下さいます。たとえ世間が赦せないと言っても、神はそうして下さるということです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

説教「キリスト教徒は光を目指す」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書1章1-14節 2022年12月25日(日) 降誕祭/クリスマス 聖日礼拝

主日礼拝説教 2022年12月25日降誕祭
聖書日課 イザヤ52章7-10節、ヘブライ1章1-12節、ヨハネ1章1-14節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.天地創造の前からいた神のひとり子

はじめにことばありき - 聖書の文句のなかで、これほど有名なものはないでしょう。キリスト信仰者でなくても、この聖句を知っている人なら誰でも、この「ことば」というのはイエス・キリストを指すと知っているのではないでしょうか。ヨハネ福音書の1章1節から18節までは、イエス様とは本質的にどんな方であるのかを述べているところです。皆様もご存知のようにマタイ福音書とルカ福音書では、イエス様が乙女マリアから生まれる出来事が最初にあります。父、御子、御霊の三位一体を構成する神の御霊、つまり聖霊が力を及ぼして乙女が身ごもってイエス様を産む。その意味ではイエス様誕生の記述も、イエス様が本質的にどんな方であるかを示しています。ヨハネ福音書では、イエス様が本質的にどんな方であるかということについて、著者ヨハネがイエス様と共にいた日々を振り返って自分の目で見、耳で聞いたことをもとに分析・総括して、その結論を冒頭に述べているわけです。

「初めに言があった」。この「はじめ」とはいつのことを指すのでしょうか?多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記1章1節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。それで、神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると思われるのではないでしょうか?実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしにある「はじめ」というのは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです(後注1)。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。時間をずっとずっと過去に遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いて、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに「ことば」と称される神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。

 この永遠のところにいた神のひとり子が「イエス」という名前を付けられるのは、今から約2000年少し前に彼がこの世に贈られてからです。しかし、ひとり子そのものは、既に天地創造の前の永遠のところに父なるみ神と共にいたのです。そして、天地が創造されて時間が始まった後もまだしばらくは父のいる永遠の御国にいたのです。そして、父が定めた時、つまり今から約2000年少し前の時にひとり子はこの世に贈られたのでした。人間の姿かたちを持つ者として人間の母親から生まれて、「イエス」の名がつけられたのです。

 それでは、天地創造の前の永遠のところにいた神のひとり子は人間の肉体を持ってこの世に生まれ出る前は一体どんな風だったのでしょうか?ヨハネ福音書の著者ヨハネは、ひとり子を「ことば」、ギリシャ語でロゴスと呼びました。ギリシャ語のロゴスという言葉はとても広い意味を持っています。紙に書き記して文字になる「言葉」や、口で話して音になる「言葉」を意味するのは言うまでもありません。これは私たちが普段日本語で「言葉」と言っているものと同じです。他にも、何か内容のある「話」や「スピーチ」を意味したり、また「教え」とか「噂」とか「申し開き」、「弁明」とか「問題点」とか「根拠」とか「理に適ったこと」などなど、日本語だったら別々の言葉で言い表す事柄が全部ロゴス一語に収まります。さらに、古代のギリシャ語の文化圏では、哲学のある一派の考え方として、世界の事象の全て、森羅万象を背後で司っている力というか頭脳というか、そういうものがあると想定して、それをロゴスと言っていた派もありました。日本語で「世界理性」と訳されたりします。

 ただ、こういう森羅万象を背後で司るロゴスというのは古代ギリシャの哲学の話です。ユダヤ教キリスト教とは何の縁もゆかりもない、人間の頭で考えて生み出された概念です。翻って、聖書に依拠するユダヤ教とキリスト教は、天地創造の神が人間に物事を伝えたり明らかにする、それを人間はただ受け取るという立場です。生み出す大元はあくまで神という立場です。哲学では、生み出す大元は人間の頭です。

 一見すると、ヨハネ福音書の著者ヨハネは、神のひとり子のイエス様のことを、森羅万象を背後で司るロゴスが人間の形をとったものと考えたように見えます。ここで注意しなければならないのは、ヨハネはギリシャ哲学の内容をイエス様に当てはめたのではないということです。そうではなくて、旧約聖書の伝統とイエス様自身が教え行ったことに基づいてイエス様を捉えたのです。そこで、このとてつもないお方を、ギリシャ語の世界の人々の頭にすっと入るコンセプトはないものか、と考えたところ、ああ、ロゴスがぴったりだ、ということになったのです。土台にあるのはあくまで、旧約聖書の伝統とイエス様の教えと業です。哲学のいろんな理論や議論ではありません。

 では、旧約聖書のどんな伝統が、イエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたかというと、それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の8章22ー31節をみると、この「知恵」は実に人格を持つものとして登場します。まさに天地創造の前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の時にも父と同席していたと言われています。しかし、ひとり子の役割は同席だけではありません。ヨハネ1章3節をみると、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に創造の業を行ったのです。どうやってでしょうか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記1章3節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように、ひとり子は「神の言葉」という側面を持つとわかれば、彼も天地創造になくてはならないアクターだったことがわかります。先にも見たように、ロゴスは直接的に「言葉」という意味を持ちますから、ひとり子をロゴスと呼ぶことで彼が創造の役割を果たす「神の言葉」であることも示せるのです。

 このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。興味深いことにイエス様は地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であるとおっしゃっていたのです。ルカ11章49節、マタイ11章19節にあります(後注2)。イエス様は本当に、天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられた方だったのです!ヨハネ福音書8章を見ると、イエス様が自分のことをそういう果てしないところから来た者であると言っているのに、ユダヤ教社会のエリートたちときたら全く理解できず、「お前は50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか」などととんちんかんな反論をします。50年どころか50億年位のスケールの話なのに。しかし、こうしたことはイエス様の十字架の死と死からの復活が起きる前は、とても人知では理解できることではなかったのです。

2.ことばは肉となったが神の栄光を映し出していた

父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、父なるみ神のもとから人間のいるこの世に贈られてきました。人間の女性マリアから肉体を持つ人間として生まれました。ただ、聖霊の力が働いたため処女から生まれたという生まれ方をしました。なぜ神のひとり子はこのような仕方でこの世に贈られたのでしょうか?そもそも、なぜ神のひとり子はこの世に贈られなければならなかったのでしょうか?天の父なるみ神のもとで神の栄光に包まれてのんびりしていればよかったのに。

 それは、天地創造の後に堕罪の出来事が起きて、人間が神の意志に反する性向、罪を持つようになってしまったためでした。そのために人間と神の結びつきが失われて、人間は神との結びつきがないままこの世を生きることになり、この世を去った後も結びつきがないまま、神のもとに戻って生きることができなくなってしまいました。そこで神は人間が自分との結びつきを持ってこの世を生きられるように、この世の人生を終えた後は復活の日に復活させて永遠に自分のもとに迎え入れることができるように、それでひとり子をこの世に贈ったのです。ひとり子を贈って何をさせたかというと、人間の罪を全部引き受けさせて人間に代わって神罰を受けさせて人間が受けないで済むように代わりに全ての罪を神に対して償って下さったのです。そのことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。今から2000年位前の世界の中で起こった出来事です。

 なぜ神はこの大役を他の誰でもなくご自分のひとり子に担わせたのでしょうか?それは、人間の全ての罪を全部引き受けて未来永劫に神に対して償うことが出来るためには、神のひとり子が本当に神罰を神罰として純粋に本気で受けられないといけません。どうせ神なんだからと、受けた罰が痛くもかゆくもなかったら話になりません。本当に罰の名に値する苦しい痛いものであるためには、受ける者はそれを身に沁みて受ける生身の人間でなければなりません。しかし、普通の人間が全ての人間の罪を背負って神罰を受けて全ての人間の罪を神に対して償うことなどは不可能です。自分の分が精一杯で、しかも受けたらそれで滅んで終わってしまい新しい出発も何もありません。そこで、人間を救うのに他に手立てがないと見た神は、それを全部自分のひとり子に引き受けさせることにしたのです。通常の生殖作用を通してではなく聖霊の力で処女から生まれさせたので神聖さを持っています。神聖な神のひとり子の犠牲なので犠牲としてはこれ以上のものはありません。また、人間の肉体を持っているので人間として神罰を受けられます。これが、神聖な神のひとり子が人間の姿かたちを持って生まれたことの意味です。まさに、ヨハネ福音書1章14節に言われるように「言ロゴスは肉となった」のです。この何気ない一言に神の人間に対する大いなる愛と恵みが凝縮されています。聖書の神の本質について大いなる真理がここにあります。まさにキリスト信仰の核がここにあります。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)。

「わたしたちの間に宿られた」と言いますが、「私たちと共に生き生活した」と言った方がはっきりします。当時の人々はイエス様を通して天地創造の神の知恵と力を見ました。神の栄光を見たのです。正確には垣間見たのです。罪ある人間は神の栄光を直視することはできないからです。神の栄光は被造物の太陽の光よりも強い光です。イエス様がそのような栄光を現わした出来事もありました。現在のレバノンとシリアの国境にあるヘルモン山と推定される高い山の上でした。さらに弟子たちをはじめ大勢の人たちが死から復活したイエス様を目撃しました。復活の主を通して神の栄光を垣間見たのです。私たちが神の栄光を直視できる日がやがて来ます。それが復活の日です。その日、復活させられる者は神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を持って神の御許に永遠に迎え入れられるのです。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は罪を償ってもらい神との結びつきを持ってこの世を生きることになり、結びつきを持ってこの世から別れ、神と結びついた者として復活の日を迎えることになります。

3.永遠の命に導く光

 ヨハネ1章4節と5節をみると、命と光と闇について言われています。「命」は、ヨハネ福音書ではたいてい、死で終わってしまう限りある命ではなく死を超える永遠の命を意味します。神のことばなるお方は乙女マリアから生まれる前に永遠の命がある方だったと。永遠の命は「人間の光」であったと(4節)。新共同訳では「人間を照らす光」と訳していますが、ギリシャ語原文では「照らす」とは言っていません。ただの「人間の光」です。「人間の光」とは、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにする光、この世を去った後は永遠の命が待っている神の国に迎え入れられるようにする光、まさに「人間のための光」、イエス様そのものです。

 どうして「人間を照らす」と訳したかと言うと、9節に「全ての人を照らす」と言っているので、そうしたのではないかと思います。ここで「人を照らす」とはどういうことかに注意します。これは人間に光を照射するような照明器具のような意味ではありません。フォティゾーというギリシャ語の言葉は、見えない状態を光の力で見える状態にするという意味があります。神との結びつきを失い罪を持つ状態に甘んじて生き神の愛も恵みも見えない状態の人間が見えるようになるという意味です。キリスト信仰者はそのような光を持っているのです。ヨハネ8章12節でイエス様が言われる通りです。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」先ほど申しましたように、ヨハネ福音書では「命」は「永遠の命」を意味するので、「命の光」は「永遠の命に導く光」です。

 さらに5節を見ると、「人間の光」つまり「永遠の命に導く光」が闇の中で輝いていると言います。闇とは、神と人間の結びつきを失わせ人間が永遠の命を持てないようにしようとする力が働いているこの世のことです。その中で輝く光とはその反対の力、神との結びつきを人間に持たせて強めてあげようとする力です。まさにイエス様のことです。

 5節はさらに「暗闇は光を理解しなかった」と言います。これはいろんな意味を持つギリシャ語の動詞カタランバノーが元にあり、訳仕方がわかれるところです。前にもお話したことがありますが、この個所は他の国の言葉ではどう訳されているか見てみました。フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語訳の聖書では「暗闇は光を支配下に置けなかった」です。英語NIVとドイツ語の別の訳(Einheitsübersetzung)は、日本語と同じで「暗闇は光を理解しなかった」です。前にも言ったことがありますが、原文がどう訳されているかいろいろ比べてみると、日本語と英語の聖書が一致して、フィンランド語とスウェーデン語とルターのドイツ語が一致するということが多いです。それで、聖書の翻訳には日米同盟と欧州連合の対決があるようだなどと言ったことがありますが、よく考えるとそういうことではないことがわかりました。フィンランド語とスウェーデン語の訳というのはそれぞれの国のルター派教会が訳したものです。それに対して、日本語と英語の聖書はキリスト教のいろんな教派が合同で訳したものです。それなので、ルター派以外の考えも反映されてくるのではないかと思います。(とは言っても、スウェーデンの最新訳はルター派の伝統から離れてしまったところがあるので、ルター派の考えが反映されていると言えなくなってしまいました。)

 話が横道にそれましたが、「暗闇は光を理解しなかった」がいいのか「支配下に置けなかった」がいいのか。どっちでしょうか?一つの考え方として、悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持つか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解することができます。それで日本語や英語のように訳していいかもしれません。しかし、悪魔は人間を罪の支配下に置こうとして人間から神との結びつきを失わせようとしても、その企みはイエス様の十字架と復活によって完全に破綻してしまったのだから、やはり暗闇は光を支配下に置けなかったと理解するのがいいのではないかと思います。

 イエス様は人間のための光、これがあるおかげで暗闇の中でも消えない光を私たちは持つことが出来ます。肉眼の目では見えないけれども心の目でいつも見ることが出来る光です。それは私たちがいつも見続けることができるようにと消えることなく絶えず輝いています。しかし、光の方はこのように輝き続けているのに私たちの方でそれを見失うことがあります。自分の内に神の意志に反する罪があることに気づいて神との結びつきが大丈夫かどうか不安になる時がそうです。また、どうしようもない困難や苦難に陥って神との結びつきがあるなどと思えなくなってしまう時がそうです。

 しかし、私たちキリスト信仰者は聖書を繙くたびに、み言葉に聞くたびに光は消えていないこと、光は輝き続けていることを確認できます。そして罪の赦しの祈りと赦しの宣言を受けることで神との結びつきには何の変更もないことを確信できます。ざらに聖餐式のパンとぶどう酒を通して主の血と肉を受けることで神の方で結びつきを維持して下さっていることを知ることが出来ます。何があっても神との結びつきは失われないのです。それがわかれば目はまた開き光が見えます。永遠の命に導く光です。

 このように、人間のための光は私たちの方で見えなくなる時があっても、それは光の方が消えたのではなく、私たちの目が見えなくなっただけのことです。再び光が見えるように、そのために聖書の御言葉と聖餐が与えられているのです。御言葉と聖餐を唯一の確かな手掛かりにして神のもとに立ち返ることで光はまた見えるようになります。キリスト信仰者は光を目指して進むのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

(後注1)「あった」ηνが過去形なのに注意。もし「はじめ」が天地創造の時を指して、その時点で「ことば」が出てきたということならば、過去形のηνではなくて、アオリストのεγενομην/εγενηθηνにすべきでしょう。

(後注2)。もちろんイエス様が実際に口にした言葉は、ギリシャ語のソフィアσοφιαでなくて、ヘブライ語のחכמהか、アラム語のそれに近い語だったでしょう。