2023年9月3日(日)聖霊降臨後第14主日 主日礼拝 司式・説教 司式 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

マタイ1621−28

「十字架の罪の赦しと復活に与る洗礼から始まる真に平安で日々新しいいのちの歩み」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「前回」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。 

 先週は、イエス様の「あなたはわたしを何というか」という問いに、ペテロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた(16節)ことについて、イエスが「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と、その信仰告白は人間によるものではなく、天の父が現して下さったものなのだと教えました。さらにイエス様は「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と、神が与えて下さった岩の如き信仰告白の上に、ペテロの教会でも偉人の名の教会でもなく、「わたしの教会」つまり「キリストの教会」を立てるのだと、イエス様は教会は律法ではない、人のわざでもない、どこまでも恵みの存在である幸いを宣言したのでした。今日は、その後、続けて語られるイエス様の言葉を見ていきます。「わたしの教会を建てる」の後に、こう続いています。18節最後ですが、

2、「陰府の力も対抗できないキリストの教会」

「陰府の力もこれに対抗できない。

A,「天の国の鍵」

 イエス様は「わたしの教会を建てる」と言われましたが、その「わたしの教会」は「陰府の力もこれに対抗できない」と言います。ここは新改訳聖書ですと「ハデスの門もそれには打ち勝てません。」とあり、ハデスはギリシャ語の通りですが、死者の国という意味です。ですから「陰府」に近い意味になりますが、英語のESVバイブルでは、The gate of hellとあり「地獄の門」という意味です。いずれにしても、それは、ペテロに信仰の告白を表した「天の父」との対峙で書かれているように思われます。イエス様が言われるように、イエス様が建てる「わたしの教会」つまり真の「キリストの教会」は、地獄の門さえ対抗できない、新改訳聖書ですと「打ち勝てない」、そんな存在だというのです。しかしそれはどのようにでしょうか?イエス様はそれは、教会に与える「天の国の鍵」によるものであるというのです。19節、こう続いています。

B,「つなぐ、解く」

「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

 鍵で「つなぐ、解く」とはどういうことでしょうか?それは、教会に、弟子たちに、つまりクリスチャンには、天の鍵を与えられていて、教会でその鍵で、誰かをつなぐなら、天でもつながれ、その鍵で、誰かを解くなら、天でも解かれるというのです。本来、天で行われるはずの権限を、与えられた者が地上でそのまま行えば、天でも行われたこととなると言うのですから、そこまでの重大な権限が与えられているということが分かります。では、何をつなぎ、解くのでしょうか。それは21節からのイエス様の言葉にわかるように、罪の赦しのことに他なりません。教会が地上で、誰かを赦すなら、天でもその人の罪は赦されるのであり、逆に罪を赦さないでいるなら、天でもまだその人の罪は赦されないままだというのです。しかしそれは「『天の』国の鍵」であり、それが天から「与えられ、託される」のですから、人の思いのままに、自分中心に赦す赦さないということでは決してなく、どこまでもイエス・キリストのみことば、み旨に基づいて、さらに言えば、イエス様の来られた目的である十字架と復活に基づいて、それを行うということを、イエス様は、何よりも教会に、私たちに託しておられるということなのです。なぜならイエス様のこの言葉と天の国の鍵が、イエス様のこれからの教会の使命にとっていかに大事であり、結びついるのかを示すように、こう続いているからでです。21節からですが、

C,「ご自身の十字架と復活を指し示すキリスト」

21このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 とあります。「この時から」とあります。つまり、この17節以下の「わたしの教会」を建てる宣言、そして、19節の「教会の天の国の鍵の働き」を弟子たちに約束した、その時から、イエス様は、はっきりとエルサレムへと弟子たちの目を向けさせ、そこで具体的に何が起こるかまでを伝え始めるのです。それは、イエス様が、多くの苦しみを受けて殺されること、21節で「十字架」とは言ってはいませんが、この後、24節で「自分の十字架を背負って」と述べているように、イエス様は、十字架で死ぬことまでもはっきりと見て、弟子達にそのことを口にし指し示しているのです。そして、殺され、3日目に復活することまでを話し始めたのでした。まさに、イエス様は、ここで人間の罪の圧倒的現実とそのための身代わりとして死ぬことになる十字架を指し示しているのですが、それは、その目の前にいる弟子たち、そして全ての人々の罪が赦されて、救われるために他なりません。このように、天国の鍵の力は十字架と復活につながっており、だからこそそれをつなぎ解くのは罪の赦しであり、そして、そのイエス様が成し遂げる事の最大の目的とその力と権威こそが、つまり、天の国の鍵として罪の赦しこそが、弟子たち、教会に託されることにつながっていくのです。

3、「人間的な思いでイエスをいさめ、主の御心を妨げる」

 しかしです。そのイエスの言葉の後、そのすぐ前には16節で、神によって現され告白をしたペテロが、同時に自らでは決して、み言葉を悟れない不完全な罪人でもあることを示すように、彼の罪深い肉の叫びが続くのです。22

22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

A,「そんなことがあってはならない」

 宗教指導者に逮捕され苦しめられ殺される、それは恥ずべき重罪でもあり、神への侮辱ともされ、社会からも攻撃されます。ですから、ペテロが、いや他の弟子たちも含めて、この方こそ救い主だ、王様だと、解放者だと、メシアだと、信じついてきた方に、そんなことが起こるはずがない、と言うのは、ペテロにとっては当然の反応でした。他の弟子たちも戸惑ったことでしょう。そして、ペテロがイエスを諌める言葉はイエスを師として慕えばこその行動や言葉でもあったでしょう。しかし、そんなペテロにイエス様ははっきりというのです。

B,「サタン、引き下がれ」

23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 と。17節で、ペテロのその信仰の告白に「あなたは幸いだ」とまで言った、さらには、地獄の門にまで打ち勝つ鍵も与えると約束された、イエス様ですが、それとはなんと正反対な厳しい断罪の言葉でしょうか。「サタン、引き下がれ」。なんと地獄の門を支配するサタンとまで言います。みなさん、イエス様の愛情は、矛盾しており、捻くれているのでしょうか?理不尽なのでしょうか?人間中心の感情論で言ったら、「なんて酷いことを言うんだ、イエス様は酷い方だ、愛なんてないじゃないか、等々」そう見える、聞こえて当然でしょう。しかし、イエス様は、愛情がひんまがっているのでも、捻くれているのでも、理不尽で矛盾しているのでもないのです。イエス様ははっきりとしているのです。1617節で、「生ける神の御子キリストです」という告白については、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言っています。それはペテロの口から出ていても、イエス様は、神の言葉から出て導かれた神の与えた告白であることをはっきりさせていますが、しかしこのイエスを諌めるペテロの言葉はその全く正反対でしょう。神の心ではなく人間の価値観によって「神はこうあるべきではない、こうあってはいけない」という人間中心の思いです。むしろ神の御心に反対する人間の思いです。なぜならイエス様もこう言っているからです。

C,「神のことを思わず、人間のことを思っている」

「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 神のことを思わず、人間のことを思っていると。ペテロにとっては、ある意味、かわいそうなことかもしれません。なぜなら、イエス様が十字架と復活のことを語っても、そこにこそ、その身代わりによって罪の赦しと新しい永遠の命が与えられる、という神様の成そうとすることを、彼はこの時まだ全く理解できでいなかったからでした。このように怒られた後でさえも、十字架の直前、復活の日の朝までも、ペテロのみならず、全ての弟子が、十字架と復活の意味を理解できず、復活の後、聖霊によって目が開かれて彼らは初めて理解することだからです。ですから、「サタン」とまで言われて、人間的には、ちょっとかわいそうな気はしますが、しかしイエス様の教えは、矛盾したり、揺れ動くどころか揺れず一貫してはっきりとしているのです。それは、人間の思いや力では、神の成そうとすることを理解できないばかりではなく、むしろ、神の計画を妨げることさえあるということです。ペテロをはじめ、その当時の人々のメシアへの期待は、目に見える王国のローマからの政治的解放とダビデとソロモンの王国のような独立と繁栄を再び、という政治的経済的な期待でした。弟子たちも、その地上の政治的王国の右に誰が着くかと論争する始末でした。彼らがイエスに見て期待していたメシアはそのようであり、ですからそんなメシアは宗教指導者たちに逮捕され苦しめられ殺されるはずがないのです。しかしそれは人間が予想でき、期待できる、事前の概念でしかありませんでした。それは、神から出たものではなく、人間の期待であり、理想であり、人間の心から生み出した幻であり、そして肉の目の前にすぐになるであろう、なって欲しい期待であり予想でした。それは人の前ではとても崇高な期待で、敬虔そうな幻であり、人から見れば、師にはそんなことが起こるはずがないと守ろう、助けよう、支えようと言う、敬虔で立派な言葉や態度になるかもしれません。しかし人の前でどんなに立派に見えても、それは、神様が計画した愛する御子を十字架で死なせ復活させることによって、罪の赦しを全世界にもたらそうとう御心には、明確に反するし、妨げようとさえする言葉であり思いなのです。それはまさしくサタンが堕落の初めから、アダムとエバに成功し多くの信仰者を誘惑しては苦しめ、躓かせてきた、そして、同じようにあの荒野の誘惑でも、イエス様を誘惑してきた、神のみ心や約束から逸れさせ、正反対のことをさせよう、という、サタンの働きそのものなのです。だからこそ「サタン、引き下がれ」なのです。

D,「神の御心だけがなり、人ではなく神がなす」

 このところは大事なことを教えてくれています。

 第一に、神のみ心を行うのは、人間ではなく、人間は与えられ用いられるだけで、行うのは、神と神の言葉から出て与えられた信仰とその告白のみによる行いであり、どこまでも神のわざであるということです。一方で、人間の思いや感情、願望、期待、予想、なんであれ、それらは神のことを考えない、神の言葉に立たない、御心を行えないのであり、むしろどこまでも神の思いに反抗し、妨げるということです。むしろ、私たちは、このイエス様の告白から学ぶことができます。それは、イエス様がここで告白するイエス様がこれから受けられる苦しみも十字架も復活も、私たち自身から出るものでは、何も貢献できない、私たちのわざ、行い、協力、功績、そのようなものは一才あり得ないし、それは不可能であると言うこと。そして、まさにその神の御心である十字架は、どこまでも「神が」果たすことであり、ただ一人神の一人子であるキリストご自身が全てを背負われ果たされるのであり、つまり、私たちの十字架と復活の救いは、どこまでも神のわざ、神の恵みであるということです。逆に、「私たち人間から出るものでも、何か、救いや神の国、その理想に貢献できる、しなければいけない。人の目から見れば神のそのような言葉や計画はあまりにも人間にとって合理的ではないから、イエス様、そんなことはやめましょう。そんなことはあり得ません。こっちの方がいいです。私たちのこの考えの方が聖書的で、現代の世の中や文化や風潮や流行に合っており、私たちも心地よいでし、みんなが平和です、みんな聖書に理解を示し親しめます。だからイエス様、現代ではそんなあり得ないこと言わないでください」と言って、み言葉を否定して、人に都合よく解釈して神の言葉をある意味「いさめる」のは、それがどんなに世間受けして、世の中に賞賛され、合理的でわかりやすく理解しやすい内容であっても、イエス様の声は、

「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 なのです。

4、「十字架を背負って従うー日々洗礼に生きる」

 確かに、この後、イエス様は、24節「十字架を背負って従いなさい」とか、27節、「行いに応じて報いる」とか、何か私たちの行いを、救いに要求しているように読み取れるような箇所もあります。だから、これらの言葉のゆえに、「十字架を背負って従え」と言っているんだから、信仰は一部分は、律法なんだ、私たちの力やわざなんだと、いう教えをする教会もあるかもしれません。しかし、私たちは忘れてはいけません。この後、誰が、十字架を負うのですか?ペテロですか?弟子たちですか?ー違います。彼らではありません。イエス様ではありませんか?そして、ペテロでもモーセやアブラハム等々、誰の十字架でもない、このイエス様の十字架の死こそを父なる神は受け入れて、私たちに罪の赦しを宣言してくださっているでしょう?このキリストの十字架のゆえに、もう罪は赦され、罪から解放されると。パウロもこう言っているでしょう。ローマ6章36節です。

「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 4わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 5もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。 6わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。

 このように、全てを捨てて、十字架を背負って生きるとは、まさにこのことであり、それは律法の要求ではなく、むしろ恵みを与える手段である洗礼のことであると、パウロは教えています。「イエスのために「命を失う」ものはそれを得る」と言う言葉も、まさにここにある洗礼のことと当てはまるでしょう。洗礼でイエス様とともに罪に死んで命を一度失うから、つまり「全てを捨てる」からこそ、イエス様は、罪赦された新しい命を与えてくれる、それが救い、ニコデモも間違って理解した「新しく生まれる」ことの神秘であり真理です。事実、洗礼は私たちも十字架で死ぬことだとパウロは教えています。つまり全てを捨てて十字架で死ぬことが洗礼です。それはイエスは主であると信じて、この十字架のイエス様が全ての罪を背負ってくださっていると、そのイエス様のくびきを負って全てをイエス様に明け渡して死んで復活で新しく生きる信仰こそが、まさに洗礼から始まるイエス様の十字架を負う生き方そのものなのです。その洗礼は律法ではなく、救いの招きであり、差し出されている神の恵みそのものをなのですから、そのまま導かれるままに信じて受けるなら、イエス様が求める自分を捨て十字架の背負ってイエス様に従う歩みはすぐに始まるのです。だからこそ、それは律法の歩みの始まりではあり得ないのです。洗礼によってイエス様の恵みと福音に囲まれた信仰の日々新しく生かされる歩みが始まるのです。これが日々十字架を背負って生きることなのです。洗礼を受ける日までは恵みで、それまでは教会の人も親切にお客様のようにしてくれたけれども、受けた後から180度変わり、奉仕や献金など教会のあらゆる義務が律法のように重荷のように課せられ律法の日々が始まるように導く教会が少なくないようで、多くの新しく洗礼を受けた人々がその矛盾に躓いては信仰を捨てていくという現実が日本の教会ではあるようです。とても残念なことですし、まさにそれは律法と福音の混同の被害ですね。何よりイエス様はそのことを悲しんでおられるでしょう。洗礼は律法ではなく、恵み、福音であり、その後の信仰生活も宣教も律法ではなく、どこまでも福音なのです。むしろ日々死に、日々新しい洗礼の恵みは日々あるのですから、私たちはただ日々悔い改め、イエス様の十字架に立ち返り福音の信仰の日々に生きることで安心していいですし、そのイエスの与える安心が真の良い行いや隣人愛に導く真の天の力なのです。

5、「天の国の鍵ー互いに赦しあって」

 そしてだからこそ天の国の鍵の恵みなのです。そう、このように、罪の赦しこそ、何より神が与えようとしたものであり、そして何より大事なこととして神が教会に、そしてクリスチャン一人一人に託している、大事な鍵、大事な宝です。イエス様はルカ7章で「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださっています。皆さん、安心するでしょう。イエス様の罪が赦されていますという宣言は、安心して行くことができるでしょう。イエス様の罪の赦しは平安、安心の鍵でもあります。それを教会に、私たちに与えられていることは意味がある大事なことなのです。私は前の教会でも、礼拝の最後に「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と宣言してきました。皆、安心して派遣されますが、ある人は「何の権限があって、罪の赦しを宣言するのか」と苦情を言う人もいました。しかしイエス様は「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言っているのです。ペテロだけではない教会にです。クリスチャン一人一人にです。そして、イエス様が新しい戒めを与えてるその互いに愛し合うことの原点は、まさしくこの罪の赦しです。イエス様はヨハネの福音書で「わたしがあなた方を愛したように」と言って、互いに愛し合うことを命じているでしょう。「わたしがあなた方を愛したように」、そうそれはこの十字架ではありませんか。まず罪を互いに赦し合うことがこの新しい戒めの要であり、隣人愛の原点でありその第一条です。イエス様は聖餐を受ける前にまず和解をしなさいと言っているくらい罪を互いに赦すことは大切なことです。それは、世の中の華やかな隣人愛に比べれば、地味で目立たず、そして何より難しいことです。しかし、イエス様はそのことこそを隣人愛の基本として求めています。私たちにはできないことです。しかし、十字架のイエス様にこそそれができました。そしてイエス様が与える信仰と福音の力は、その罪を赦すと言う天のわざを私たちにもさせることがおできになるのです。だからこそ、天の鍵を福音として私たちに与えてくださっているのです。だからこそまず、私達は、今日もイエス様から罪の赦しを受けましょう。イエス様は今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と宣言してくださっています。そのまま受けて、安心していきましょう。イエス様は私たちを豊かに用いてくださいます。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

聖餐式:木村長政 名誉牧師

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