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私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵みと平安が、あなた方にあるように。 アーメン
「湖上を歩くキリスト」 2023年8月13日(日)
聖書 マタイ福音書14章22~33節
皆さんは、礼拝をするために、教会へ来ておられます。その礼拝で、神様への賛美と祈りを捧げ、そして神の言葉である聖書の話を聞かれています。
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聖書の中でも中心は神の子、イエス・キリストという方がどういう方であるか、そのイエス様の語る言葉や教えから、神の国はどういうものか、又イエス様がなさった行い、とりわけ奇跡の業をもって弟子たちに何をなそう、とされているのか、これ一つの大切な点であります。そういう意味からも、今日の聖書では、湖の上を歩かれる、という驚くべき、キリストの奇跡の物語です。誰が考えても、湖の上を歩くなんて、とても理解できない。しかも荒れ狂う暴風雨の湖を悠然と歩いて来られた、と言うのですから、もう恐怖の驚きです。イエス様はこの奇跡の出来事で、弟子たちに何を示そうとしておられるのでしょうか。イエス様の弟子のうちでも、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレといった人たちは元はガリラヤ湖の漁師たちです。ですから、ガリラヤ湖については、誰よりも詳しく知り尽くしています。さて、14章22節から見ますと、「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせた」とあります。そして、群衆を解散させておられる間にイエス様は祈るため密かに山へ登られた。夕方になっても、ただ一人そこにおられた。
ここで群衆を慌ただしく解散させておられます。何故でしょう。群衆を解散させようとされた、慌ただしさの理由は何か、と言いますと、ヨハネ福音書6章14~15節に記しています。5000人以上の人々に5つのパンと2匹の魚で満腹させられる、という奇跡に群衆が熱狂し、イエス様を無理にでも王に即位させようとしたのを知って、こうした群衆の誤った政治運動を未然に防ぐため、すぐに解散させようとされたのです。同時にイエス様は強いて弟子たちを舟に乗りこませ、なさいました。恐らく弟子たちも群衆と同様に今こそ我らの師匠であるイエスの旗揚げの時が来た、そしてメシアの本格的活動を期待したのでしょう。そこで、イエス様としては、まだその時ではない、弟子たちの信仰を正しく育成して行くには是非ともこの熱気に包まれた群衆の中から、弟子たちを引き離す必要があったのです。ですから、イエス様は無理やりにでも,舟に乗り込ませて向こう岸に行くようになさったのです。こうして群衆と弟子たちとを左右に分けて、イエス様ご自身は祈るために密かに山へ登られたのです。イエス様は山の中で何を祈られたのでしょうか。イエス様はメシアとしての正しい在り方について、神と語り合い、助けを求め、神のみ心を確認し直されたに違いありません。恐らくご自分の任務を誤解している群衆のためにも祈られたでしょう。又弟子たちが誤った世論から守られて正しいメシア信仰に導かれるためにも祈られたことでしょう。
旧約聖書ヨナ書1章にはヨナが主の派遣命令を嫌って勝手にタルシンへ逃れようと船出しました。その時主は激しい暴風を起こして船を悩ませ、ヨナを海の中へ投げ込まれました。暴風を起こして海へ投げ込まれるのには意味があったのです。それは主の命令に背いた神の僕に与えらえた当然の懲らしめでした。しかし、今ガリラヤ湖に船出したイエス様の弟子たちは主から離れたくない、ヨナとは全く反対です。それを「強いて」舟に乗り込ませられた。ガリラヤ湖の自然は人間の思いを超えた恐ろしい様に急変します。四方からの強風にさらされ、たちまちにして大荒れの湖になります。弟子たちの乗った舟はたちまち暴風に巻き込まれています。一方イエス様は山へ一人登って祈っておられます。マルコ福音書によれば6章48節にイエス様はちゃんと弟子たちが嵐の中で漕ぎ悩んでいるのをご存知のはずです。ところが、主はそれを充分知っていながら「夜明けの4時頃まで腰を上げられません。」弟子たちは前日の夕方からほぼ半日掛かっても、たかだか5km位しかないベッサイダにまだ着いていません。ヨハネの福音書によると6章19節には「四・五丁漕ぎだした時に」と書いています。全行程のほぼ終わり近くまでたどり着いた時、やっとイエス様は湖の上を歩いて近づいて来られた。イエス様は驚くことに弟子たちの窮状を助けようとされずに、そばを過ぎようとされたのです。どう考えても主は弟子たちの漕ぎ悩んでいる状態を見て、見ぬふりをして過ぎようとされたのです。イエス様から離れたくない思いでいる弟子たちを強いて先に行かせて、弟子たちの事も祈りながら突風の嵐の中に突き落とし、彼らの苦労を承知の上で見殺しにしておき、彼らに近寄って、目の当たり疲労困憊している実情を見ながら通り過ぎようとされるイエス様!何と言う事でありましょう。イエス様は弟子たちに何をされようとしておられるか。ここでは、そういう試練を与え、訓練を、いまイエス様は与えておられるのです。実際、もしそうでなければ、なぜメシアの弟子たちが嵐の湖の只中で木の葉のように揺れる小舟で必死になっているのをそのままにされているのでしょうか。イエス様は荒野にマナを降らせる第2のモーセであられます。昔杖を振って海を分け、イスラエルの民を歩かせて助けられたモーセのように、神の力を持ってガリラヤの湖を裂いて渡り行かせてもよい方であられます。マナを降らせガリラヤの海を裂いてみせる事ぐらいメシアとしてのイエス様は出来られるお方でありながら、あえて舞台は始めから弟子たちの信仰を訓練されるためにしつらえていたのです。だとすれば、主がその嵐の中、吠え長ける波の上を歩いて来られた、事自体は何も不思議な事ではない。ペテロたちは漁師でありましたが、ガリラヤ湖に逆風が吹き、この風にどうすることも出来ない。恐ろしい嵐のちからのことも充分知っているはずです。だからこそ、漁師の大男たちが暴風の湖の上を歩いて来られる、イエス様の姿を見て悲鳴を上げたのです。イエス様のこの奇跡の業を目の前にして弟子たちがどのように反応するか、これがイエス様にとって関心事であったのです。26節から見ますと「弟子たちは湖の上を歩いておられるのを見て”幽霊だ”と言って怖じ惑い恐怖のあまり叫び声を上げた。」とあります。第1も反応は「幽霊だ」と言った、叫びに現れれています。この「幽霊だ」という言葉は「ファンタマス」と言い英語のファンタジー(幻想)の由来です。見えるようになった幻の現れ等を意味します。ですから、死人の霊が現れ見えるようになったもの、すなわち幽霊を表す言葉。或いは生きている人でも遠い地にいる人の霊が意外なところに現れた場合などを意味します。そうすると、いま嵐の只中で見たイエス様の姿をどう見たか?後から舟で追いかけられた先生が嵐にのまれて死んでしまい、幽霊になって出てきた、と考えたのか、或いは又陸にいるはずの先生の霊がここに不可思議な出現をした、と考えらのか、或いは何かの霊が祟って暴風を起こし、姿を現した、と考えたのか。何れにしろ何人もの男たちが金切り声を上げ,喚いているのです。とにかく明らかな事はみんながこの嵐の中にイエス様が来られるはずがない、と信じ切っている、ということです。そういう現実の中にイエス様の姿だとわかった途端、いや、あれは幻に違いない。するとイエス様が言われます。「しっかりするのだ、わたしである、おそれることはない」どうでしょうか。私たちにも、どうにもならない困難な只中でイエス様が「しっかりするのだ、私である、恐れることはない」と言ってくださる。しかし現実に、この世の中で目に見えないと信じられない、のではないでしょうか。
第2の反応はペテロがここでとった行動です。28節に「するとペテロが答えて言った『主よあなたでしたか。では私に命じて水の上を渡って身許に行かせてください』。と言ったのです。ペテロは素朴な主を愛する熱情にあふれる男です。主が通り過ぎようとされるのを見て、身許にわたしも行かせてください」と叫びました。ペテロは決して奇跡をやってみようとかたんなる好奇心や冒険心から願ったのではないでしょう。ヨハネ福音書21章7節には、ヨハネが「あれは主だ」と言った一声で自分が裸であったので着物を着たまま湖に飛び込んだこともあった、そういうペテロです。いま嵐の中でも愛する主のもとに、ただ行きたかった、だけです。イエス様の「来なさい」という一声にペテロは水の上を歩いて主のもとに行った、ところが風を見て恐ろしくなり、そのため足が波の中に沈みかけました。イエス様はすぐさま手を伸ばし彼を捕まえて言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」・・・・ここでペテロの「信仰の薄い者よ!」「なぜ疑ったのか」それは風を見て恐ろしくなった」からでしょう。イエス様への愛と信頼そのものを失ったわけではありません。「主よお助け下さい」と叫ぶだけの信仰は持っていたのです。ただ、目の前に吹きすさぶ、もうれつな波と「風」を見た時、それはもう恐ろしいものです。風と波、そのものに自分を滅ぼす、自分以上の「力」が襲って来る、そういう自然の脅威がイエス様とは独立して突き放してしまうのです。イエス様の許へ召し寄せられる自分と、イエス様との人格的交わりを、はねのけるほどの自然の力がある、ということに沈んでゆく自分があるのです。イエス様はこの暴風の中にも湖の上を歩いて来られた。ペテロはその超人間的なイエス様を信じて、主の身許めがけて突っ込んでいるのです。しかし、現実には自分を飲み込もうとする波、風の恐ろしさには勝てない。この矛盾した二つの只中でまとめて把握できない。これがイエス様の言われた「信仰の薄い者よ」と言われるものです。イエス様という方がどういう力を持ち、大自然を支配されるお方であるか、をまだまだ信じ切れないペテロへの試練であります。嵐の湖の荒れ狂う力に、まともに立ち向かう死の恐怖です。死と直面しているのです。なぜ、イエス様が荒れ狂う暴風の湖の上を平然と歩いておられるのか。(イエス様は今この世とは違う次元、神の時と神の力の中にある。)恐怖のどん底に舟の中でもがいている弟子たちに神の御子としてのご自分の姿を見せて、この大宇宙のすべてを支配しておられる、神の力をも備え持っておられるお方。この神の御子キリストの真の姿を弟子たちはどれほど信じ、受け止めうるか、「この信仰の薄き者よ」と叱って言われたのです。現代の私たちの信仰が口では言っているがそれぞれ、どれほどのものか、考えさせられます。今日のみ言葉を通してペテロと同じような状況の中で私たちにも現わしておられるイエス様という方の凄さ、はるかに理解できない自然の力のすべてを支配する力をお持ちであるお方、このイエス様の一声で嵐は静まった。弟子たちが言った言葉は「ほんとうにあなたこそ神の子です」でありました。この奇跡の出来事を弟子たちの全身を通して弟子たちの心と魂のすべてに浴びせかけられて心底から「まことに、イエス様こそ神の子です。」という、その信仰への試練を与えられたのです。
イエス・キリストは父なる神の時というものを、そのまま受け取って行かれた方です。神の永遠なる意思の許に、この世の只中で奇跡の出来事を起こして行かれました。人間には理解できない神の時の中で力を発揮されて行かれます。このイエス様にあずかってこそ、私たちは神様の素晴らしい時、永遠の時、救いの時、完全な時に預かることが出来るのです。ヨハネ15章でぶどうの木の譬えをもって言われました。キリストから離れたら私たちは全く神の時から見放され、ただ滅びしかない。しかし、キリストにつながる時、ただキリストにこの私という全存在を委ねる時、全部をキリストに依り頼んで行く時に恵みの時に常に預かって行くことが出来るのであります。嵐の中の弟子たちにも命が神も子イエス様によって救われ、イエス様とつながって神の時の中に生かされて行くのであります。
人知では、とうてい測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
2023年8月6日スオミ教会礼拝説教 マタイ14章13−21節
説教をYouTubeでみる。
「『それをここに持ってきなさい』に現されている『宣教は福音』の恵み」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン 1、「初めに」 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。 先週まではマタイの福音書の13章からイエス・キリストの福音と神の国について学んできました。そこで語られるイエス様の神の国は、群衆には例えのみで語り、その意味を、弟子達に解き明かすという形で繰り返し語られており、メッセージは主に、弟子達、つまり、クリスチャンと教会へ向けられたものでした。そこでイエス様が伝える、その神の国の先取りである教会の働きは、人間の価値観で期待するようないつでも右肩上がりで成功していくようなものではありませんでした。福音の種を蒔いても全ての人がすぐ受け入れるわけではなく、多くの人は、世の中の目に見える事柄や、自分の思い優先に流されていき、神の言葉を聞かなかったり、聞いてもすぐ忘れ聞かなくなり、受け入れても、すぐに捨ててしまうなどが、普通に起こるのであり、そのように罪深い人間の心はどこまでも頑なであり、私たち人の力では、その福音を芽吹かせ成長させることはできないという現実をまず伝えていました。しかし、そのような涙を持って種を蒔くような教会の歩みであっても、「私たちが」ではなく「イエス様が」、その福音の種を芽吹かせ、実らせてくださり、収穫のために私たちを用いてくださる、そんな恵みに私たちはあるのだということを教えてくれました。さらには、先週の箇所では、そのように与えられている福音とそこに働くイエス様の力を、私たち人間の方がそれを小さなものとしてしまうけれども、それでも福音は私たちの思いをはるかに超えて豊かに働くし、そのために召された私たち一人一人も、どんなに小さな存在のように思えても、しかし、小さなからし種が大きな木になり、わずかなパン種がパンを膨らますように、イエス様がそんな小さな私たちを用いて大きなことをしてくださるのだ、ということも思い起こさせてくださいました。実は、今日のこの有名な、5つのパンと二匹の魚の奇跡も、これまでと同様の神の国の恵みを私たちに教えてくださっているのです。13節から見ていきますが、
2、「見て深く憐れみ」 「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。
「イエスはこれを聞くと」と始まっています。「これ」というのはこの前のところ1〜12節までに書かれているように、バプテスマのヨハネが捕らえられ、ヘロデに処刑される出来事を指しています。その知らせを聞いて、船に乗って人里離れたところに退かれたのですが、それは自分も捕らえられることがないようにではあるのですが、十字架にかけられるために世に来られ、十字架に向かって歩んでいたイエス様なのですから、退かれたのは恐怖とかではなく、その時は、まだその十字架の時ではないために退かれたと言えるでしょう。ルカ9章にあるように、イエスは弟子達と共にガリラヤ湖を船で渡り、湖の北東の湖岸のベツサイダの人里離れたところへ移動したのでした。しかし、そのような人里離れたところでも、群衆はイエスのことを聞きつけて、町々から追いかけてきたのでした。そのように追ってきた群衆を見てですが、14節 「14イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
ここでは、イエス様は、決して、人々を避けて、人々が嫌で、そんな否定的な理由で、船に乗ってこの所へ来たのではないことがわかります。なぜなら、そのようにわざわざ歩いて追いかけてきた大勢の群衆を見て「深く憐れみ」とあります。それは、「内臓が揺り動かされるように」という意味がありますが、私たちが悲しみや苦難の時に心動かされる時の感情を表しています。そのように、イエス様は、ご自身を求めて、中には癒しを求めてやってきた人もいます。そのようにやってきた人の苦しみや悲しみと、そこにある憐れみを求める思いを、イエス様は、見て、知られ、そして、内臓が揺り動かされるほどに深く、同情し、憐れまれたことがこの言葉から教えられます。そして、その求めてきた人々に癒しを与えてくださったのでした。みなさん、この言葉の通りに、イエス様は必ずいつでも私たちをも見てくださっています。そして、それが、人には理解されない、言うことも相談することもできない、どんな思いであっても、イエス様はそれを見て、その心のうちを全て知ってくださって、同じように、深く、同情し、憐れんでくださる方であることを今日も教え、思い起こさせてくださること、そしてそんなイエス様にいつでもすがり、祈り求めることができる幸いをまずは、ぜひ感謝したいのです。
3、「不可能な命令」 そのようなイエス様の深い憐れみは、それに留まりません。時は夕暮れになります。15節からですが、 「15夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
A, 「弟子たちの当たり前の判断」 人里離れたところです。夕暮れですから、弟子達はその5000人上の大勢の群衆のことを心配したのでしょう。特に、食事のことです。この人里離れた場所では、食事を買う場所もないので、弟子達は、解散を提案したのでした。それは、人間の常識や想定できる状況や理解では当然のことであり、人の前では正しい提案であったことでしょう。しかしここでイエス様は弟子達に言うのです。 B,「あなたが食べさせなさい」 「16イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
なんとイエス様は、弟子達のその常識的、かつ現実的な提案に同意しません。むしろいうのです。「あなた方で彼らに食べ物を与えなさい」と。繰り返しますが弟子達の提案は、常識的でした。ここでは、人間の常識や能力から見れば、食べ物を用意することはどう考えても、不可能なのです。ではイエス様は弟子達に意地悪を言った、命じたのでしょうか。そうではありません。できるかどうか試そうとしたレッスン、あるいはどうすれば準備できそれが果たせるのかの試験なのでしょうか?そうでもありません。これは人間の力では、弟子達には、全く不可能なのです。イエス様もそれが全く不可能なことを知っているのです。不可能なことを知った上で、イエス様は、「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」と言われたのです。
4、「「あなた方が食べさせなさい」の意味」 ではその意図、意味、目的は何でしょうか?この出来事は、この後、有名な5千人以上の人々が五つのパンと二匹の魚で養われる奇跡が描かれていますが、群衆の反応は書かれていません。むしろ、群衆は、奇跡が行われたことさえ知らず食べた人が大勢いたとも言えることでしょう。つまり、ここでもやはり群衆というよりは、弟子達、つまりクリスチャンと教会へのメッセージが込められています。そして、何より、これまで見てきた13章でイエス様が教えてきたことと一貫していて、「あなたがたが果たしなさい。達成しなさい」という律法のメッセージではなく、どこまでも、イエス様が「あなた方ではなく、わたしが行う」と、弟子達に向けられた、福音の素晴らしさ、完全さ、その力を伝える、イエス様の神の国の恵みのメッセージであることがわかってくるのです。弟子達はイエス様のそんな無理難題に対してこう答えます。 A, 「神の使命の前に人間は無力であることを知らせるために」 「17弟子たちは言います。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」
弟子達のこの言葉には、期待とか希望ではなく、悲壮感と不可能さしか漂っていません。「ここにはパン五つと魚二匹『しか』ありません。」と言っています。当時、パンと魚というのは、非常に貧しい食事であったと言われています。それがたったこれだけです。弟子達の言葉には、これだけで一体何ができようか、不可能であるという、思いが溢れているでしょう。そう、人間の目から、あるいは、人の基準や常識、科学的な合理的な視点から見ても、もちろん一つ一つ、人数分にとても小さくちぎれば、理論上は分けることができますが、食べさせ満足させるという意味では、これだけでこの大群衆に食べさせ、養うなど、全く不可能なのです。 しかし、ある意味、その人間の不可能であり無力であるという現実にぶつからせることこそがイエス様の目的の第一歩、第一段階なのです。その不可能さに直面した弟子達に今度は、イエス様は、その僅かばかりの食べ物を持ってくるように言います。 B,「それをここに持ってきなさい」 「18イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、 19群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。 20すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。 21食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。
イエス様が解散させず、弟子達に不可能な命令をしたのは、このことのためでした。もちろん、5000人以上を食べさせ養うためではあります。しかしそれ以上に、それは、弟子達ではなく、イエス様こそが、その人間の目には不可能に見えるほんの僅かな食べ物で、5000人以上の人々を満腹にさせるという、その「主にとっては不可能なことはない」(創世記18章14節)という、ご自身の言葉の力と真実さを弟子達に、つまりクリスチャンである私たちと教会に表すためであったのです。 そう、これはまさに13章で見てきたイエス様のメッセージと一貫しているでしょう。弟子達の声は、当たり前の常識的な人間の声です。これだけで何ができようか。その通りなのです。人間の力では、「あなた方で食べさせなさい」という神様の与えた命令や使命を果たすことができません。神の命令、神の言葉、神の国、救いを前にして、私たちが自分達の現実を見るなら、あるいは、ただ自分の能力だけを見るなら、なんとちっぽけでしょうか。なんと僅かでしょうか。なんと弱々しく、なんと貧しいでしょうか。しかし、イエス様の「あなた方で食べさせなさい」と与えたイエス様の使命は、実際は、あなた方が自分のその力で、努力、工夫、等々で、果たしなさいという使命ではないことがここにわかるでしょう。何よりイエス様は、この与えている使命で、弟子達に自分にはできない。不可能であるとあえて知ることに直面させようとしているでしょう。「わずかこれだけしかありません。」そうその叫びです。その現実です。しかし、そこでイエス様がまず何より弟子たち、私たちに望んでいるのは、それを自分達で果たすことではありません。そのイエス様が与えてくださった使命の前に、そのように「自分にはわずかこれだけしかない。何もありません。何もできません。」そのように認め、イエス様に告白し答えることなのです。そして、そのように認め告白するからこそ、そんな私たちに、イエス様は、何と言っていますか?イエス様は 「それをここに持って来なさい」 と言われるのです。そのほんの僅かな、人間の目には、一体これだけで何になろう、不可能ですというそれだけのものを、そのままを、イエス様は、「ここに」、つまり、イエス様のところにそのまま持ってきなさいと言っているでしょう。その通りに、弟子達が、それだけのものを、イエス様が言われ通りに、イエス様のところに持ってきた時に、何が起こっていますか?19節以下
5,「イエスが持ってこられた僅かなものでも感謝し祝福される」 「19群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
ここに私たちへの福音があります。イエス様は、人の目には、ほんの僅かで、何ができようかと見える、その僅かなものを、イエス様は、天に感謝と賛美の祈りをしています。どうでしょう。イエス様は、天に向かって「こんな僅かなものしかありません、弟子達はこれしか用意できません。何もできません、命令を果たせません。彼らはダメです、だから、彼を罰して裁いてください、祝福しないでください」等々と、天に嘆いてはいないではありませんか? そうではなく、イエス様はむしろその僅かなものを、天に感謝と賛美の祈りをするのです。人間の世界では、そのように、それはクリスチャン同士や教会内でさえも見られるのですが、人間の目に見える、自分や他人の行いや、能力や、持てるものを見て、そんなふうに、嘆いたり、自分や相手をさばいたりすることがあるかもしれませんね。より多くを持っていればより多くを出来たり達成できれば、賛美賞賛し、できなければ軽蔑し裁く、それが、教会やクリスチャン同士にさえある人間の罪深い社会の現実です。しかし、イエス様のしていることは全く逆ですね。人間にとってはわずかで、こんなものがなんになろう、不可能だと思えるようなものを、そのまま受け取り、天に感謝しています。賛美しています。祝福を祈っています。その時に、そのイエス様が祝福したパンと魚が、群衆へと与えられるときに、弟子達の思いを遥かに超えた、すばらしい出来事が現されているではありませんか。それは、弟子達が何かをしたからではありません。弟子達がその力と知恵で、使命を果たしたのではありません。イエス様が与えた使命に、弟子達は「これしかない、これだけで何ができようか」と差し出した僅かなものを、イエス様が受け取り、そして、祝福したものによって、イエス様が、ご自身の使命を果たしたことが、わかるではありませんか。弟子達は、自らではできないことを知り、そしてイエス様に持ってくるように言われたその僅かなものを持っていき、手渡し、そしてイエス様が祝福したその僅かなものを、イエス様が言われる通りに配っただけです。しかし、それがイエス様が意図したこと、目的であり、それが、教会であり宣教だということなのです。どうですか?教会も宣教も、決して律法ではないでしょう?どこまでも福音であることがここにもわかるでしょう? このように、13章からのイエス様の教えてきたことが、どこまでも一貫して弟子達に教えられており、まさに具体的なレッスンとしてここに現されているのです。種を芽吹かせ、成長させ、実を結ぶのは、人間である弟子達ではない。彼らには不可能であり、できない。しかし、イエス様がそれをなされことをここに明らかにされたのです。13章で見てきたように、小さなからし種や僅かなパン種を神の国のようだとイエス様は言われました。人間は、福音とその力を小さなものにしてしまいます。しかし、人の目には小さく見える、そのからし種が、大きな木になり、実を結ぶように、あるいは、僅かなパン種がパンを大きく膨らませるように、神の国は、その人の目には、小さなように見える福音から生まれ、芽吹き、大きくなる。そればかりではない、小さな存在を用いて、人の思いをはるかに超えた大きなことを、イエス様が福音でなさる、それがイエス様が伝える神の国でした。まさに、そのようにこの所で、このたった五つのパンと二匹の魚を通して、イエス様は、その神の国の事実を、なおも現し教えてくださっているのです。
6, 「宣教は律法ではない、宣教は福音である」 宣教は、私たちの大事な使命です。イエス様が私たちに与えてくださった使命であり、教会はそのためにあります。しかし、イエス様はそれが私たちの力や努力では決して実現できないし果たすことができないこと、私たちの力や説得では人を信じさせること、信仰を与えることもできないこと、そしてそのような私たちの力で、教会を大きくするとか、日本のクリスチャン人口を1%以上超えさせるとか、あるいは、福音をまだ完成していないもの、あるいは、不完全なものと決めつけ、だからその未完成な福音を私たちが完成させなければならないのだとか、等々、そんなことはよく聞きますし、実際に、教えられ奨励されるのですが、しかし、それらのことは罪深い人間にはできない不可能なことです。そして、何よりそのことをイエス様が誰よりも知っていますし、人間が自分の力で果たして欲しいなど思っていません。ところが、むしろ人間の方が、クリスチャンでさえも、それを認められず、自分たちにはできる、協力できる、達成できる、力がある、などなどと言い、奨励し、説教し、教えて、福音を律法にしてしまったり、律法を福音ぽく語って混同してしまいます。しかし、イエス様は、神の前にあって、その出来ない不可能な現実、無力さこそを弟子達に、そして私たちに常に分からせたい、人間は神の前に、神の使命の前にどこまでも無力であることを気づかせたいのです。なぜなら、イエス様は、私たちがその無力な存在のままでご自身のところに来て、ご自身にのみ問題を持ってくる、求めすがる、祈り求める、そのような信仰こそを求めているからです。しかし、私たちは逆をしていることがあるのではないでしょうか。イエス様が「あなた方で食べさせなさい」という命令を、何か、自分達だけで、その力や努力で、果たさなければいけない、実現させなければならない、自分達にはその能力があるかのように思って躍起になり、そのような思いや行いやわざが、立派な信仰であるかのように何か持て囃され、敬虔であるかのようにされる、熱心だと賞賛される、そして、自尊心、プライドを満たす、ある程度の達成感で自分が果たしたかのように自らを誇ってしまう。逆にできないと裁き合いが当たり前になる。そんな姿は、伝道熱心だと言われる教団、教派、教会では、よく見られることですが、しかし、イエス様はそんなことは望んでいないでしょう。むしろ、それではイエス様ご自身が果たそうとしていることが、その熱心で妨げられていますし、自分はできませんと神の前に謙り、神に全てを持っていくことが神の御心なのに、自分はできる、みんなもできなければならないと、自分を誇り、恵みはそっちのけになり、福音ではなく律法が中心になってしまっています。そうではない。イエス様は、どこまでも罪深く、今日も悔い改めを持って、主よ憐れんでくださいとしか言えない、そんな私たちこそを、今日もここに招き、十字架と復活の恵みにあって祝福してくださっています。そして、本当に大事な、本当に力があり、本当に全てをなすことができる、イエス様の完全で完成した、十字架と復活の福音による、罪の赦し、復活の新しいいのちを与え、「安心して行きなさい」と平安のうちに派遣してくださる。そのように、福音のゆえに安心した自由な信仰で行っていく私たちに、思い超えた実を結んでくださるのです。イエス様は今日も宣言しています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ、そのまま受け取り、安心して行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
2023年7月31日スオミ教会礼拝説教
マタイ13章31〜33節、44〜52節
題:「からし種のごとき小さなものを宝として大事に用いて全てを行うキリスト」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「初めに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。
このマタイ13章では、イエス様は、前々回の「種まきの例え」、そして前回の、「毒麦の例え」を通じて、世界の中にある天の国を伝えてきたのですが、群衆にはただ譬えだけを話され、そして、弟子達にその喩えを具体的に解き明かして、その意味を教えてきました。そのようにイエス様は、その譬えを、主に、その世界の中で福音の宣教に遣わされる弟子達、つまりクリスチャン達と教会へと教えていました。今日は、そのこれまでのところに挟まれるように、イエス様が語られている喩えなのですが、これまでの文脈の通り、この譬えも、その困難な世の中に遣わされるクリスチャン、教会へと語られたメッセージになります。しかし、これもまた、一貫して、そのように遣わされる宣教は、決して律法で遣わす宣教ではなく福音で遣わす宣教、つまり「宣教は福音である」ことを伝えており、そのような福音によって遣わされた宣教の働きは、世にあってどんなに困難があっても、必ずイエス様が結ぶ恵みであることを私たちに教えてくれている、幸いな箇所になります。毒麦の譬えを話された後、そして前回のその解き明かしの前になりますが、またこんな別の例えをイエス様は話されます。31節〜33節を改めてご覧ください。
2、「からし種とパン種の喩え」
「イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
ここでは、からし種とパン種の例えを話していますが、どちらも同じことをイエス様は伝えています。イエス様は「天の国はからし種に似ている」と言います。からし種、マスタードシードですが、これは種の中でもかなり小さな種の一つとされています。イエス様も「どんな種よりも小さいのに」とその小ささを理解した上で、天の国はその極小さなからし種に似ていると言うのです。私たち人間の想像や価値観から「天の国」というのなら、むしろ、果てしなく大きく、広く、完成されたものとして天の国を思い浮かべるでしょう。しかし、イエス様は、その天の国は、なんと、どんな種よりも小さい、からし種に似ていると言うのです。人間の想像や感覚から見れば、矛盾しているように見えるかもしれません。そんなにも小さい天の国なのかと失望するでしょうか。期待はずれだと言うでしょうか?しかし、イエス様が言いたいのは、そのような人間の目に見える大きさ、スケールのことを言っているのではないようです。
「人がこれを取って畑に蒔けば、 32どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。
と言っているように、大きさ、スケールではなく、天の国の有様、本質、営みが、からし種のようだと言っているのです。そんな小さな種が、成長していき、大きくなり、豊かに実を結び、その鳥が巣を作るほどになる、それが天の国の有様、本質、営みであると、イエス様は弟子達に教えたのでした。
同じように、イエス様は、天の国は、パン種に似ていると言います。パン種はほんの僅かだけ、粉に混ぜられるのですが、そのほんの僅かな量で、パンは膨れて大きくなるのだとイエス様は、からし種と同じような、天の国の営みを、パン種を用いて繰り返し表しているのです。パン種に関していえば、新約聖書では第一コリント5章7節で、「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」とかマタイでも16章11節に「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」ともあるように、悪や悪い教えが膨らんでいくことの象徴として用いられることが多いものですが、この所では、天の国のために用いられる存在として例えられています。
イエス様は、そんな天の国に似ている、からし種とパン種を何に喩えているでしょうか。それは、前回と前回の例えにならっても、種ということで一貫していえば、福音のことでもあるでしょうし、そして、同時に、そのために用いられる弟子達一人一人、つまり、クリスチャン一人一人とその教会を例えているといえるでしょう。
3、「二つの適用」
そのことを踏まえ、二つのことを教えられるのです。
①「福音を小さい不完全なものにする人間」
第一に、種である福音を小さく不完全なものにする人間の罪深さです。もちろん、当然ですが、イエス・キリストによる罪の贖いのための十字架と復活、そこにある罪の赦しと新生の福音はどこまでも完全で、神の前にあっては、人を変え、人を救う力がある唯一のものであり、まさに、神の国の生けるパン、永遠のいのちのための、いのちの糧そのものです。福音は「神の前」にあっても、「人の前」にあっても、決して小さなものではありません。完全でその力は人間の思いを超えて遥かに大きなものです。それを信じ、より頼むようにとイエス様はどこまでも教えています。しかし、実は、それを小さなもの、不完全なもの、力のないものとしてしまうのは、人間の方です。クリスチャンでさえ、教会でさえそうしてしまったり、そういう教えや声を聞くのです。そう、クリスチャンも教会も、「福音!福音!」「自分たちこそ福音派だ」等々、福音を掲げて声だかに叫びます。しかし、実際は、その教会においてさえ、福音よりも、あるいは、イエス様の力や働きや計画やそれがなされることを待ち望むよりも、そんなの待てない、生ぬるい、活気がない、と、自分や誰か人間の何らかの行い、振る舞い、功績、知識や判断の方がより、信頼できる、判断できる、期待しやすい、より現実的、合理的なんだ、と簡単になりやすいものです。もちろん、それらのことや人のわざや功績や能力は、「人の前」の事柄としては時には役立ち、教会でも、神が用いてくださるるものとしては、とても大事な賜物であると理解はできますが、しかしそれは、決して、福音に勝るものとはなり得ませんし、むしろ天の国や神の国のためには何もなし得ないし、「神の前」には、何の功績にも誇りにもなり得ないものです。天の国にとっては、どこまでも福音がいのちの種であり、いのちのパンです。人間は牧師も含めて神に用いられる存在に過ぎません。しかし、そうではなく、むしろ福音やイエス様のなさることそっちのけで、自分の目に見えること、目先のこと、自分が感じること、そうなってほしいと願ったり期待したり予想すること、自分ならこんなにもできると誇れること、等々、それらにフィットし当てはまるような判断や決定がなされたり計画が立てられ進められ上手くいくことによって、自ずと、福音よりも、何か人間の知恵や力や判断、目に見える行いや功績や計画の方が、より頼りやすい、信じやすい、となり、それにより自ずと、人の側で、何か福音を小さくし、力のないものにしてしまいやすい、ということは実は教会でよく起こります。私は牧師ですから、やはりイエス様の御言葉に従って、律法で罪を示し、そこで心を刺し通され悔い改めに導かれた人々に、イエス・キリストの十字架と復活の福音によって罪の赦しを宣言し平安のうちに派遣する務めと使命があり、教会は福音の家として、キリストと福音を指し示していくが本当の教会だと信じて、そのように伝えたりするのです。しかしそのように伝えるとよく言われたものです。もちろんこのスオミ教会ではありませんが、「先生、そんなこと言っても、それは現実的ではないでしょう。現実はねえ。もっと現実を見てください」「そうはいっても、結局、人間の力、知恵と努力、人間の立てる方策が、教会、宣教、伝道を達成するでしょう。」「神の恵みや福音なんて言われても、教会もビジネスなんだから、企業努力が必要でしょう。聖書や神学書よりもビジネス書をもっと読んだ方がいいですよ、先生」などなど。福音を軽く見るか信じていない、そんな声をあげればキリがありません。世の中の価値観や合理性や目に見えることだけで判断すれば、そう言いたい気持ちはわかります。罪の世はそのように動いているのですから。しかし、イエス様が私たちに伝えているのは、天の国、神の国です。そこで何より力があり、いのちを与え、神の国へと導き入れてくださるのは、どこまでもイエス様の福音でしょう。いや福音だけです。それがクリスチャンの現実であるだけでなく、罪深い闇の世にあっての唯一の光の現実です。しかし、いとも簡単に、人間の側、いやむしろそのことを信じているはずのクリスチャンが、その神がなさった恵みである「福音」を、人がしなければならない「律法」と混同してしまい、小さくしてしまう。力のないものとしてしまう。そう、まさに、種が蒔かれても根付いていかないで枯れてしまったりする種と同じように、人間の罪深い心が福音の邪魔をする。目に見えるものや人間の合理性や感情や感動、そのようなものの誘惑に流されやすく信じない、人間の方が、福音をからし種ほどに小さくしてしまうのです。
しかし、もちろんイエス様は福音を決して小さなものとは思っていないのですが、イエス様は、人間の側で、それほどまでに小さく見る、力のないように、信じられない、それほどまで小さく見える福音であっても、それは力がないのではない、その人間がからし種ほどに小さくする、そんな福音こそ、天の国、教会で、芽を出すのだ。人間のわざや知恵や意志や決心ではない、そのイエス様が与えてくださった福音こそ、福音だけが、天の国では成長し、どんな野菜よりも大きくなる。空の鳥が来て巣を作るほどに揺るぎなく頑丈な枝をつけ、成長するのだと、イエス様は教えてくれているのではないでしょうか。事実、人間の目に見えるものとしてですが、福音によらなくても、あるいは福音なしに、人間のわざや努力、知恵や方策、それこそ、ビジネス的手法で、目に見え数で判断できるものとして、教会、教団、組織を大きくできるのです。成長したように見せることはできます。何か世に貢献したような隣人愛を見せることもできるでしょう。評判も良くすることもできるでしょう。しかし、それはどこまでも、「人の前、人の目にあっては」にすぎません。しかし、そこに真の福音がないなら、福音から遣わされるのではないなら、「天の国のよう」ではないのです。どんなに大きくても成功しているように見えても、神の前では、何の意味もないのです。皆さん、私たちは、律法ではなく、福音によって罪赦され、新しくされたのではありませんか?律法ではなく福音によって平安のうちに遣わされ、今日もあるのではないでしょうか?イエス・キリストの十字架と復活の福音にこそ、いや、福音にだけ、天の国は開かれているし、真の天の国、真の教会の営みと成長があるのです。
② 「小さな存在であるクリスチャン」
そして、同時に、このからし種は、小さな存在である、クリスチャン一人一人でもあるでしょう。私たちは、そのように、誇れる功績があればいいのですが、実は、神の前にあっては、天の国では、その天の国のために、救いのために、何もできない、どこまでも罪人の一人一人です。事実、先ほども告白したように、私たちは誰一人として、自らの力で信仰を持った、神の国を掴んだ、救いを獲得したといえる人はいません。それは、どこまでも神の一方的な恵みであり、父子聖霊の主が、救ってくださり、罪を赦してくださり、新しいいのちを与えてくださって、平安のうちに遣わしてくださっているでしょう。それは、私たちの功績ではありません。私たちが大きから、つまり、何か能力があり、功績があり、立派で、何か条件や基準を満たしているからではないでしょう。私たちは神の前にあってどこまでも小さな存在ではありませんか。しかし、「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 32どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」のです。それは、イエス様の私たちへの約束です。どんなに小さなものであったとしても、人の子であり、真の神であり、真の人であるイエス様が、ご自身が生み蒔いた小さな種である私たちを通して、小さなものを用いて、イエス様が、成長させ、イエス様が実らせてくださる。それが天の国の営みなんだと、約束してくださっているのです。これは感謝なことではありませんか。それはパン種も同じですね。ほんの僅かな小さなパン種です。しかも目立たない。粉の間に混ぜられ、埋め込まれます。しかし、そのパン種は静かに、気づかれないように、パンを膨らませていくでしょう。イエス様は、天の国の営みはそのようなものなんだと言っているのです。
教会によく見られる傾向として、とかく、何か大きな行いや存在、何か、立派な華やかな目立つ行為や奉仕や能力、何か、人を感動させるような劇的な証しがある、今、流行っているアトラクション、イベントがある、等々、世の中だけでなく、教会でさえもそのようなものを求め、そのようなものに何か教会を大きくする、成長させる価値や力があるとか、そのようにして見た目や数的に大きくなった教会が真の教会としての価値と意義があり、それが真の宣教や伝道であるかのように、考えたり求めたりしやすい傾向は、キリスト教世界で少なくなく見られるものです。しかし、天の国の営みである真の教会は、そんな薄っぺらいものではありません。世の中がすぐに食いついては流されていくようなものと同じレベルでは決してありません。イエス様は、小さなものを用いられるのです。本当に、人も少ないとか、高齢化しているとか、若い人がいないとか、何も自分には賜物がないとか、人間は色々、悲観的に言いたくなるものです。人間の心配で悲観的になると、今度は、心配と恐れゆえに、誰かを批判したり裁いたりしやすくなります。しかし皆さん、パン種が知らず知らず、気づかないうちに膨らんで行くように、イエス様は、人間が注目しない、目立たない、それぐらい小さな存在を、用いて、静かに、気づかないように、パンを膨らませてくださる、真の天の国を大きくし、実現していくお方であり、そのことを約束してくださっているのです。
ですから、私たちは確かに、現実を見て、足りなさ、小ささを覚えることでしょう。「もっと、ああであったらいいのに、」と言いたくなることも沢山あるでしょう。私自身そうです。そう思うこともあってもいいのですが、しかし救われた私たちはそこで終わり、それが全てではありません。イエス様の約束があるのです。私たちの思いや理解や価値観を遥かに超えて、イエス様はこの小さなものを用いて働いてくださる。それは、それでもなおも罪深い、「聖徒であり同時に罪人である」日々罪深いクリスチャンを用いてくださるイエス様なのです。
ルターは「錆びた斧」という話をしています。彼は言っています「もし人が錆びついたギザギザな斧で持って切るとき、たとえその働き手が有能な職人であっても、その斧で切断された面は粗悪で、でこぼこで不格好である。これと同じように神は私たちを通して働きたもう。」 と。私たちは「義となった」のではなく、なおも罪深い者が私たちにある何らかの義のゆえではなく、キリストの義のゆえにただ義と認められただけです。私たちは立派で錆びも傷もない光り輝く未使用の斧に「なった」のではなく「錆びついた斧」のままなのですが、しかしそれを用いて神は働かれるということです。その行いにはなも罪はあるし完全ではないのですが、しかしその人の目 には愚かで不完全と思えるところ、罪が溢れていると思われるところに神のわざと恵みが現されているという「逆説」があるのです。イエス様は、そのように小さな種である私たちの思いを超えて、その小さな私たちに実を結び、イエス様が神の国を完成してくださるのです。ですから、私たちは目の前のことに悲観する必要は全くない。すべきではないのです。なぜなら、イエス様の福音が私たちを今日も平安のうちに遣わし、用いる、天の国の営みが今日も確実に始まっているからです。
4、「宝を見つけ全てを売り払って喜んで畑(世)を買い取られる主」
最後に、44節以下の例えを少し触れて終わりますが、この例えは、まさにその恵みに満ちた天の国の素晴らしさをイエス様は伝えています。実は、ここは私たちが主体で語られている例えのように見えますが、キリスト中心に解釈をするならば、畑に隠されている宝も、高価な真珠も、それは私たちのことです。そして見つけて喜んでいるのはイエス様ご自身のことです。みなさん、私たちは、イエス様によって見つけられ、福音を語り掛けられ、福音によって、ただ恵みによって救われました。信仰もイエス様が福音と聖霊によって与えてくださった賜物です。父子聖霊なる神様は、そんな私たちを本当に探しておられ見つけて、喜んで、そして大事なところですが、持ち物をすっかりと売り払って、その宝のある畑、そして真珠を買い取るとあるではありませんか。これはこのイエス様が十字架でされたことですね。まさに、「畑がこの世界」と言っているイエス様は、神はこの畑には素晴らしい宝があるからと大事なものを売り払って買い取った。それは一人子を世に与え十字架の死に従わせるほどに世を愛された神様の姿です。、そしてルカ15章の、迷子の羊を見つけて喜んで帰ってきた羊飼い、大事な金貨を見つけて大喜びした婦人、そして、放蕩した息子が遠くから帰ってくるのを見つけるまで待っていたお父さんのように、神様は失われた私たちをどこまでも探していた、そして見つけた私たちのために、その一人子である、人となられたイエス様の全て、まさに十字架の上で、いのちの代価を払ってまで、私たちをサタンの虜から、罪から、滅びから、買い戻して、神のものとしてくださったことにつながるでしょう。それほどまでに私たちは、神にとっては一人子をこの十字架で死なせるほどに、大事な宝、大事な真珠であり、そして、私たちがイエス様のゆえに救われたのは、どこまでも神の喜びなのです。
ですから、そんなイエス様の目にあって、教会も宣教も、決して律法ではありえません。つまり、教会は決して株式会社でも経営でもないし、教会の中のクリスチャンは株式会社で業績のための労働力や戦力としてノルマを課せられる駒のような存在ではないということです。イエス様はいかに私たちを大事な存在としているのか、それはどんなに小さな存在であっても、宝や真珠のごとくに価値ある存在であり、そのために命を献げて買い取るほどに大事にしてくださっていて、営業の駒としてではなく、どこまでも福音によって、平安のうちに世に遣わし、イエス様がそのご自身の計画のうちに用いて、イエス様が世にあって実を結ばせようとしている、恵みと祝福の存在なのです。そんなイエス様は今日も私たちに大事な大事な福音の宣言をしてくださいます。この十字架と復活にあって、イエス様は今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」そう言ってくださっています。イエス様が言ってくださっているそのままの言葉、その罪の赦しと新しいいのちを福音の言葉からそのまま受け取り、安心してここから遣わされていきましょう。
マタイ13章24〜30節、36〜43節
「毒麦の例え」が伝える世にある天の国とキリストの福音」
1、「はじめに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
先週は、イエス様は「種をまく人の例え」から、キリストの証し人として宣教へと遣わされる弟子達、つまり、教会とクリスチャンへ、福音の種を巻く宣教の働きというのは、いつでも聞く人、全ての人がその福音を喜んで受け入れ、右肩上がりで何の困難もなく成長していくものでは決してなく、むしろ皆が福音を聞いても受け入れないとか、すぐ離れていく、そのような中へ弟子たちを、そして同じように、私たちも召され遣わされているのだと言うことを伝えていました。しかし、同時に、そのような罪深い世で、困難な涙を持って種を蒔くような宣教であっても、それでも、福音の種から、信仰を起こさせ、成長させるのは、私たちではなくイエス様であり、多くの実を結んでくださるのも私たちではなくイエス様ご自身である、と言う福音にある約束と希望のうちに私たちは遣わされているのだと、いうことを学んだのでした。
今日の「毒麦」の例えも、群衆など全ての人々への明確なメッセージというよりは、弟子達へ、つまり、全てのクリスチャン、教会へと語られているものであるのですが、ここでも前回と同じように、この罪の世にあって、天の国の現れである教会が直面する困難さと厳しさの現実を伝えていると同時に、イエス様とそのみ言葉にあって歩むものには揺るがない希望の約束があることを伝えてくれているのです。
2、「この世のある「天の国」」
イエス様はここでも、まず例えで話します。そして36節以下、弟子達が、改めてその意味を教えてほしいとお願いし、それに対してイエス様が、その譬え話の意味を解説されるという流れになっています。
まずイエス様はこの毒麦の譬えを、24節に、「天の国は次のように例えられる」と始めます。つまり、これは天の国の話です。しかし、内容自体は、厳しい内容であり、37節以下でイエス様は、畑はこの世界と言っているので、この世界を意味しています。「天の国」のことでありながら、この地上のこの世界の話でもあり、世界の厳しさの中にある天の国であり、この罪の世の『中に』ある「天の国」であると言うことがわかります。ある人にとっては、もしかしたら、「天の国」とあるので、文字通り、死の先の「あの世」を連想させられ、このような「世の中に」「地上に」天の国があるのかと不思議に思われるかもしれません。しかしもちろんそのような天の御国があるのですが、同時に、イエス様が来られ技が行われたところでは、既に神の国は地上でも始まってもいますし、何より、やがて父子聖霊の主によって約束され、建てられ生まれ、はじまる教会こそが、天の御国の先取りとして約束されていることをイエス様はここでも示しているのです。イエス様ご自身がルカの福音書でも言っています。
「神の国は、見える形では来ない。 21『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」ルカ17章20−21節
「20しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」ルカ11章20節
つまり、イエス様の救いのわざがあるところ、それは福音の言葉によるのですから、何より、神の御言葉が説教されるところにイエス様はおられるのであり、そこで律法の言葉によって罪を示され悔い改めに導かれ、そして福音によって罪の赦しが宣言されるところ、そして、その御言葉の語られるところでイエス様ご自身が、牧師をイエス様のからだと血が配られ、そして、信仰者によって食され、平安のうちに遣わされていくところは、すでに天の御国が地上に実現し始まっていることをイエス様は見ているのです。その通りに、畑はこの世界であり、その畑の中にある神の国の先取りである教会は、遠く離れた天国に建てられているのではなくて、まさに今もこの畑である世界、地上の、この罪の世に建てられ、その罪の世に彷徨う人々へと遣わされているのです。ですから、私たち自身も世界にあり同時にその神の国に今まさにあるのですが、それはイエス様にあって日々新しくされた聖徒でありながら、同時に、古い人もいる罪人でもあることにも重なります。そのようにイエス様の言う「天の国」というのは、その畑である罪深い世界の中にあり、「聖徒であり同時に罪人である」クリスチャンによって成る、まさしく世にある教会を意味していることが教えられます。
3、「「毒麦のたとえ」の解き明かし」
そのことを踏まえ、この例えは何を伝えているでしょうか。例えそのものは、シンプルです。ある人が良い種を蒔いたが、敵が来て毒麦を巻いてしまい、どちらも芽を出してしまいます。しもべ達はすぐにでも毒麦を取り除こうと言うのですが、主人は、敵の仕業だと分かっていながらも、収穫まで待とうと言います。なぜなら、芽が出たばかりで成長していない時には、良い麦と毒麦の区別ができないために、間違って良い麦も集めてしまう危険性があるからでした。だから、区別ができる収穫の時まで待ち、その時に、良い麦は未来のために蓄え、毒麦は害を及ぼさないように焼いてしまいましょう。そんな例えです。しかし、大事なのはその意味です。その意味を弟子達もわかりませんでした。イエス様は、31節以下で、からしだねとパン種の譬えも加えていて、今日の例えと関連しているのですが、この箇所は来週になります。ひとまず、36節からのイエス様の毒麦の解き明かしを見ていきますが、イエス様は、群衆から離れ、家、おそらくペテロの家とも言われていますが、戻ってきます。そこでは弟子達だけが共にいるのですが、弟子達は、例えが何を意味するのか分からなかったので、イエス様による解き明かしを求めたのでした。
そこでイエス様は、37節以下になりますが、毒麦の譬えの意味を説明するのです。
「良い種を蒔く者は人の子、 38畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。 39毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 40だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。 41人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 42燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 43そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」
ここでは、前回とイエス様は同じように「種」を例えに用いていますが、種まきの例えと意味が違ってきます。種まきの例えでは、種は、人というよりは、御言葉の種のことであり、蒔かれる土地は、人の心でもありました。しかし今日のところでは、畑は世界を表し、種は、御国の子達、信仰者を指しています。その世界に悪魔は、その良い種、良い麦に紛れ込ませて、収穫まで区別できないように毒麦を蒔くことをイエス様は伝えています。それは世界に蒔かれるのですが、今日は特に「天の国」のこととあり、地上にある天の国でそこにも毒麦は蒔かれるのですから、特に教会にも蒔かれることに適用の範囲を広げてここでは見ていきます。その蒔かれる麦ですが、良い麦と毒麦は、私たちには、はっきりと区別できるように出てくるのではないということです。つまりこの例えは、「教会、それ以外」、あるいは、「信じるもの、信じないもの」、「クリスチャン、クリスチャン以外」、と言う、そんなはっきりとわかる区別ではないと言うことがまずわかります。キリスト教世界の中、教会の中、クリスチャンの中に、私たちには区別できないように、収穫の時、つまり世の終わりまで、主人であるイエス様ご自身とみ使いにしか区別できないように、悪魔の麦、毒麦は紛れ込んでいると言うことを意味しています。その毒麦は、世の終わりに、天使達に集められ、燃える路の中に投げ込まれる、泣いて歯軋りするとあり、一方で、良い麦は、間違って毒麦として刈り取れることなく、正しく刈り取られ父の国で輝くのだと言います。このように、ここには、明確な救いと裁きが書かれていることがわかるのですが、キリスト教世界の中に、偽りの教会があり、教会の中に、偽りのキリスト者がいることを示唆しているのです。しかし、このところは、いたずらに罪深い人間の想像力を駆り立てられるところでもあるでしょう。
3、「この例えからの人間の行き過ぎた想像や決めつけ」
ある人は、自身の想像力を膨らませて、あの人は、あんな悪い行いをしているから、あんなひどい人間なんだから、きっと毒麦なんだとか、口に出して話したり、口に出さなくとも心の中で思ったり、あの教会は、あの牧師は、ひどい教会だ、ひどい牧師だ、聖書とは関係ない、あるいは聖書を捻じ曲げた酷い内容の教えを語って教えている、だから、毒麦なんだ、等々、話したり、心の中で思ったりしてしまうことがあるかもしれません。あるいは、自分にも当てはめて、自分はダメな人間だ、何もできない、罪を繰り返してしまう、心が汚い、人から良い人間だと思われていない、悪い評価がされている、だから自分は毒麦なんだ、等など、自分自身のことを、口で言ったり、心で思ってしまったりすることもあるかもしれません。
しかし、このところは、そのような誰が毒麦かを見分けその毒麦を除くことを私たちに求めているのでは決してないことがわかります。もちろん、イエス様は、そのように毒麦が混ざっている事実をはっきりと伝えていますし、毒麦には大きな裁きがあることも事実なのです。そしてイエスは、偽キリストに注意するようにと言っているように、間違った教えには常に注意が必要ではあります。しかし、誤解してはいけないのは、私たち人間が、人間の目に見えたり感じる、人や自分の行いなどの事柄で、つまり、そのような目に見えることを根拠に、自分の勝手な、ある意味独善的な、価値観、偏見、決めつけ、などなどで、あの人は毒麦だ、この人は毒麦だと、あの教会、あの牧師は、毒麦だ、あるいは、自分は毒麦だとなどと、決して断定できないし、すべきことではないと言うことです。今は、もちろん終末の世かもしれませんが、まだ世の終わりではありません。つまりまだここで言うところの収穫ではありません。つまり、まだ区別ができない状況です。そのような中で、しもべ達は、毒麦を取り除こうとしますが、しもべ達にはその区別はできないことを伝えており、まさにしもべ達が誤って、良い麦も刈り取ってしまう危険性を主人はよく分かっているでしょう。そう、そもそもしもべは区別はできないのです。むしろ、良い麦を刈り取ってしまう危険性さえあるのです。私たちは自分の目に見え感じることで、自分の価値観で、本当は良い麦かもしれないものを、毒麦だとしてしまうことがあるかもしれないということでもあるでしょう。そのように、私たち人間は、そのようなことを決して判別、区別できない、判断できないのです。事実、私たち人間のなす評価はどこまでも不完全でしょう。世の中のことでさえそうです。正しく隣人を評価できませんし判断できません。あくまでも私たちが目で見ることと、感じることで、しかもそこには私たちの好みや個々の価値観が強く働いて相手を評価、判断します。それは決して絶対的なものにはなり得ません。あくまでも、個人的なものであるし、それが社会において多数の評価であっても、絶対的では決してあり得ないものです。多数派の評価や判断でさえも大きな過ちを犯すのは、世の中を見ても歴史の悲惨な出来事を見てもあまりにも多くあるでしょう。世の中のことでさえそうであるのですから、神の国のことはなおさらではありませんか。私たちが、この人、この教会、あるいはこの牧師は毒麦だ、など判断できないのです。そして、言う資格もありません。なぜなら、収穫の時でさえイエス様は言っているでしょう。39節、「刈り入れる者は天使たちである」、41節、「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、」と。そう、良い麦か毒麦かを判断し取り除くのは私たちではありません。私たちにできません。イエス様は言われます。「刈り入れるものは天使達」だと。天使達を使わし、毒麦を集めさせるのだと。集めるのは、神のみ使いなのです。み使いは、神のみ心を忠実に行う被造物です。ですから、み使いは刈るだけで、毒麦を判断するのは、どこまでも神であると言うことを伝えているでしょう。終わりの日に、人によってではない。神によって全ては明らかになるのです。そして、毒麦である人々は、神様によって、「燃え盛る炉の中に投げ込まれ」「彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりする」、それは事実なのです。
4、「行いではなく、キリストの十字架と復活、そして信仰」
しかし、それでも、自分は誰か他人、隣人を毒麦だと言わないとしても、しかし、自分自身については確信がないと誰もが思うのではないでしょうか。それは私自身も同じであり、誰でも罪深い自分やその行いや心を見るなら、確信を持てないのです。隣人を裁かなくとも、自分は毒麦かもしれない。そう思ってしまいます。神様によって良い麦としてきちんと刈り取ってもらえるのだろうか、心配になるのは、当然なのです。しかし、皆さん、この箇所だけで、まして私達人間にある何かで、イエス様と神の国を判断すべきではありません。イエス様は今や、完全な神の言葉とその約束である福音を私たちに与えてくださっているでしょう。その福音は、4つの福音書を通して、そしてパウロなど使徒達弟子達の証しを通して、私たちにしっかりと確信できる完全な約束と救いを私たちに示しているでしょう。そう、このイエス・キリストとその十字架と復活です。
皆さん、私たちは堕落の子です。どこまでも罪人です。私たち人間は、少しは神や神の国の実現のために、知ること行うことでも、何か自ら貢献できる、自ら神のみ心が行える、人間はその程度の堕落なのであり、半分は良く、半分だけ堕落している罪人だ、なんてことはないのです。人間の罪は圧倒的です。どこまでも罪人です。私たちは自らでは決して、神を知ることも、信じることもできません。むしろ私たちの自由意思は、どこまでも背を向けて否定していくだけの意志であり、そんな存在なのです。その神の前の罪深ささえ、私たちは自分達では気づきません。むしろ神の前にあっても、私たちは自分たちには罪はない、そんなに罪はない、そのように言う存在です。私たちはその通り、私たち自身のそのような肉の性質、罪深さを、罪深い、心、行いを見るなら、そう、どこまでも神の怒りのうちに、見捨てられる、滅びゆく存在でしかありません。しかし、そのような圧倒的な堕落と罪の報い、定めから、救い出してくださったお方がおられる、指し示されている、そしてそこにある私たちの救いが、私たちの何かでは決してなく、どこまでもその方の圧倒的な完全な恵みとして、私たちに示され、与えられている救いであることを、聖書ははっきりと、このお方、イエス・キリスト、そして、この十字架と復活に示しているではありませんか。ローマ3章21−26節でパウロはこのように言っています。
「21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 26このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
律法によってではない、私たちの行いやわざや、私たちにある何かによってではない、どこまでもイエス・キリストによる十字架の贖いのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされた。それも私たちの義ではなく、神の義、キリストの義を私たちに示された、そのキリストの義を信じるもの、私たちに与えてくださっている。その信仰さえ、福音と聖霊の賜物であると聖書は言っています。私たちはその全くの神の恵みであるイエス・キリストの福音を信じるものではありませんか。それをそのまま受けたことによって、救われたと告白するものではありませんか。その信仰ゆえに、神は、肉にあっては、まだ罪深くとも、それでもキリストのゆえに、あなたは義である、あなたの罪は赦されています、安心して行きなさい、と、聖書は何度も何度も、繰り返し繰り返し、多くのところで、宣言してくださっているでしょう。そしてそれで安心する者でしょう。ですから確信はここにあるのです。私たちの何かに、行いに救いの確信があるのではありません。どこまでもイエス・キリストとその言葉、約束にあるのです。罪を悔い、そのような悔いる私たちのために今日も私たちの前にあって、イエス・キリストの十字架と復活の福音を宣言し差し出してくださっている、その福音を信じ、福音を受ける時にこそ、今日も、揺るがない、安心と確信がはっきりと私たちにはあるのです。そのイエス・キリストにあるなら、私たちは安心していいのです。誰も誰が毒麦であると判断できなくとも、悔い改めを持って、イエス・キリストの十字架と復活に立ち返り、イエス様が与える福音を今日も受け、平安のうちに出ていくなら、イエス・キリストのゆえに、私たちは良い麦である、決して毒麦ではない、とイエス様は認めてくださると、確信へ導かれているのです。
5、「キリストにあって平安になり、キリストにある平安を証しする」
最後に、ここには忍耐を持って収穫を待つ主人の姿にも教えられます。それは、福音によって真の平安と確信を与えられた私たちにも同じ、忍耐と愛が溢れ出てくることを意味しています。つまりもはや誰が毒麦だと裁いたり、刈ったりするために私たちはいるのではないということです。パウロは、こう言っていますね。第二テモテ2章24〜26節
「主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、 25反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。 26こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。
毒麦が良い麦に変わると言うことは物理的はないのですが、しかし、どんなに邪悪な人でも、イエス様の御言葉はその人を変えることができます。ですから、私たちはその与えられた福音の確信に平安であるからこそ私たちも、争わず、忍耐と柔和を持って、隣人にその福音と平安を証しするのです。そのために私たちは召されているしイエス様は用いようとしておられるのです。私たちは人を変えることはできませんし、私たちの計画がなるのではありませんが、イエス様は日々新しい私たちを豊かに用いることによって福音を証ししてくださるのです。私たちはわからなくとも、予想も計画もできなくとも、私たちを通して、イエス様は、そのような教会の中にさえいると言われる滅びゆく魂に真理を認識させたり、目覚めさせ、罠から逃れさせたり、イエス様はできるし、そのために私たちは人知を超えてイエス様によって用いられている、そんなイエス様にある希望も教えられているのです。だからこそ、今日も、イエス様が語ってくださっている福音を、今日も「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」という福音の宣言を、そのまま受け取って、安心してここから遣わされていきましょう。
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田口 聖牧師(日本ルーテル同胞教団)
マタイ13章1〜9節、18〜23節
「「種まく人の例え」が伝えるキリストの福音と恵みの宣教」
今日の「種をまく人の例え」。この例え話そのものは、18節以下のイエス様自身の解説もあるので理解できることかもしれません。しかし、イエス様がこの譬えを語ることで、何を伝えようとしているのかについては、難しさもありますし、誤解される部分もあるかもしれません。私は教会学校で育ちました。教会学校などでも例えそのものは絵を用いてわかりやすく説明するのですが、その子供へのメッセージは、とかく、律法的な教えに終始してしまい、そのように教えられてきたように思います。つまり、「このような根付かない土地や種のようなあなたではダメなんだよ。その土や種のようなの心を持っていてはダメなんだよ。だからあなた方自身が、この良い土地のような、身を沢山結ぶような、土や種に、良い心になりましょう、自分で頑張って種を大きくし変えましょうね。そのように、あなた方がみ言葉に従って、しっかりと何十倍、何百倍の実を結ぶようにならなければならないんですよ。」と、理解させられきたと思います。つまりここは私たちへ課せられた律法としてイエス様は教えているんだと。どうでしょうか?皆さんは、そのように教えられてきたでしょうか?あるいは、そのように理解していた思っていたということはないでしょうか?しかし、それは誤解、間違った教え、理解であり、イエス様はそのようなことを私たちに伝えたいのではないのです。むしろ、ここでもイエス様は、私たちに恵みとそこにある幸いを伝えていると言うのが今日のメッセージになります。
まず、1〜9節までですが、イエス様はおそらくペテロの家を出て、湖の岸に座っていました。そこに大勢の群衆が集まってきました。イエス様が行くところ行くところ、話を聞くために大勢の人が集まってくる日々でしたから、この日もイエスの噂を聞いて、群衆が集まってきたのでしょう。そこで、3節以下の話をイエス様はするのですが、最後に「耳にあるものは聞きなさい」と言う言葉で結び、群衆には譬え話だけで終わります。
そして今日の聖書箇所は、18節以降のその例えの解説にいきなり飛んでいます。しかし、その省略された10節〜17節の文脈もこの例えを理解する上で重要です。弟子たちも、譬え話だけで終わったことに疑問を抱いたようでイエスに尋ねました。10節「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と。それに対してイエス様ははっきりと答えます。11節からですが、
「11イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。 12持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 13だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
彼らは見にくる。聞きはする。しかし、見ていない。聞かない。そして理解できないのだと。そしてそれはイザヤの預言でも証しされていた現実なのだと、イエス様は答えたのでした。イエス様は、聞きに集まる人々の現実をきちんと見抜いていました。ヨハネの福音書の6章でも、五つのパンと二匹の魚で、5000人以上の人々を養うという奇跡の後に、さらにイエス様についてまわる群衆に、対して、「あなた方がついてくるのは、パンを食べて満腹したからだ」と、彼らが着いてくるのは、イエスの福音を、理解し受け取り、信じたからではないと見抜いていました。ここでもイエス様は自分のところに集まる人々の現実を見抜いて、その現実を伝えているのが、種をまく人の例えであったのでした。
それは何か冷たいように感じられるかもしれませんが、それは、イエス様が群衆を見捨てたという意味で、そのように語っているのではなく、ここでは、イエス様にはきちんと目的があって語っているといえるでしょう。それは11節で、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないから」とあり、18節以下で、その譬えの解き明かしを弟子たちに教えているように、何よりも、この例えは、群衆というよりは、むしろ弟子たちに向けられていると言うことを理解しなければならないのです。つまり、私たちに当てはめるのなら、まさにキリストの証し人として、福音によって召し出され、福音を証しし伝えるために世に遣わされているクリスチャン一人一人、そしてその教会に向けられている言葉なのです。
イエス様は、弟子たちをイエス様の方から「ついてきなさい」と召し出して、共に生活し、共に歩んできました。そして、絶えず聖書から神の国を教えてきました。しかしもちろん、弟子たちでさえ、この時に、完全に神の国の福音を悟っていたのではありません。むしろ彼らでさえも悟らず、十字架の直前まで「誰が一番偉いか」と論じたり、イエス様が彼らに、自分は十字架にかけられて死ぬことや復活することを伝えても、彼らはその意味も全くわからず、そんなことはありえないとさえ言いました。彼らが全てを理解し悟るのは、復活の後、聖霊を受けてからでした。しかしご自身と共に歩んできた、その弟子たちでさえ、悟るに遅く、自らでは理解できないことを知っているからこそ、イエス様は共に歩み、そのように、絶えず、繰り返し、聖書から神の国を教えてきたのです。そして、それは、やがて彼らが福音の意味を、聖霊によって目を開かれ悟り、その福音の「種をまく人」として遣わされていくためであるでしょう。
A, 「教会も宣教も、人間の期待するような右肩上がりではない」
しかし、まさにその遣わされていく、その種をまく働きは、人間が期待したり計算したり、思い描きやすい、いつでもうまくいき、右肩上がりで、絶えず成功する、というようなものでは決してありません。それにも関わらず、そのように人間が期待したり計算したりするように、体の目や人間の価値観に合い、数字的にわかるように、絶えず右肩上がりでうまくいき成功していくことが、イエス様の祝福のはかりであり基準なんだ、それが真の教会の姿なんだと、当たり前のように、当然のように、口にする教会は少なくありません。そのような教会や伝道の考え方は、合理的で、人々を刺激しやすく、わかりやすく、律法的に駆り立てて教会を導くことはとても容易ではあります。しかし、イエス様がそのように見ていないことは、まさに今日のところを見てわかるのです。そう、種を蒔いても、どこまでも、自分中心で、神に背こうとし、信じようとしない人間の性質や世の現実には、その種が成長をするのを妨げようとする現実がある、イエス様はこの例えでその現実をまさに私たちにまず最初に伝えているでしょう。そのことを、18節以下で、イエス様は弟子たちに解説しています。
B,「教会、宣教は困難の連続:涙とともに種を蒔く」
福音を伝える働き、それは教会、そしてクリスチャン一人一人に与えられているイエス様の恵みであり特権です。しかし、詩篇126篇5〜6節に
「5涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。6種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
とある通りに、それははじめは涙を持って蒔く働きです。その言葉はイエス様をも表しており、イエス様のご自身の宣教そのものが、不理解と拒絶、裏切りと苦難と死でした。それは、弟子たちも同じように遣わされ、弟子たちも経験することそのものでした。福音を伝えたり、証ししても、一生懸命説明しても、その反応は様々であり、まさにここにある通りです。ある人々は、何か聞いた時は感動したりしても、終われば、一歩外を出れば他の重要なことが優先され福音はもう何処かへと行ってしいます。道端に巻かれた種です。あるいは、み言葉を受け入れるところまで行きます。喜んで受け入れます。しかし、石の如く、固い、根を張るのを拒むような、困難や試練に直面すると躓いてしまい、み言葉を疑う、信じなくなる、喜ばなくなる。石だらけの所に撒かれた人です。そして、み言葉を聞いても、世の中の様々な誘惑、富、様々な欲望、価値観、等々の方が自分の心を満たしたり、合理的であるからそちらの方が信じやすい、頼りやすい、そうなると、み言葉が馬鹿らしく思えてきます。
C, 「育たない地と環境は、人間の罪の現実を表す〜人は成長させることはできない」
世の中にはそのように妨げるものは、三つに限らず、無数にあるのですが、しかし、その妨げるものに問題があるのではありません。むしろ、深刻なのは、イエス様も聖書も常に初めから伝えている通り、あらゆるものを用いて信じることを妨げようとする、信じないようにさせるサタンの働きと、そして何より堕落の初めから変わらず、どこまでも神とその言葉を疑い、背を向けていこうとする人間の罪なのです。ですから、この例えの成長しない土壌と環境は、全ての人の罪の現実と、その堕落と罪ゆえに、誰も自らでは神と神の国を、そして福音を悟ることも理解することもできない。どんな素晴らしい種を蒔かれても、自らでは、その種を芽吹かせ、それを大きく成長させることもできない。その現実を表しているのです。事実どうでしょう。弟子たちも、この時、全てを悟るわけではありません。彼らはこれまでイエス様に律法と福音の御言葉の種を繰り返し蒔かれてきました。しかし、先ほども言いました。まだ理解していません。悟っていません。もちろん彼らはやがて福音を悟り宣教をしていきますが、それは、イエス様の約束の通り聖霊が与えられ、イエス様によって目が開かれたからでしょう。それまでは、自分達の力と意思と理想で、何かをしよう、功績や実績を立てよう、成功しよう、としたことはことごとくなっていかなかったでしょう。それは十字架の直前までもそうでした。イエス様が誰かが裏切ると言いました。その時に、弟子たちは、他の誰かが裏切っても自分だけは裏切らない。どこまでもイエスについていく。一緒に死のうではないか、と断言しました。彼ら自身から出る決心や言葉は立派でした。しかし彼らから出る計画や決心や決意は、その通りにはならなかったでしょう。そう、自らでは誰も種を芽吹かせ、成長させることはできないのです。そして、私たち自身そうではありませんか?私なんかはそうです。クリスチャンの家庭に育っても、神から離れていこうとしました。
しかし、そのような自分を戻してくださった、信仰を再び与えてくださったのは、自分ではない。自分の意思や力では決してない。どこまでもみ言葉と福音、イエス様の恵みでした。この中で、誰が自分の力で理解し、自分で信仰を作り出し、それを成長させたといえるでしょうか。自分ではない、そこにあったのは神の恵みであった、イエス様の言葉、福音であったと、皆、告白するのではないでしょうか。
A, 「私たちにはできない、しかし、キリストができる」
そうです。イエス様はその私たちの現実を、まず伝えています。その罪の世、頑なな世、人の心に、イエス様は、種を蒔かれる。そのように、教会もクリスチャンも種をまくように遣わされる。それはイエス様もそうであったように、私たちも涙を持って種を蒔いていきます。多くの人は、拒みます。聞いてもすぐ冷めます。受け入れてもすぐに誘惑の先に、宝を簡単に捨ててしまいます。証しも宣教も、そのように、困難な使命です。いや、私たちの力では、全く不可能です。それなのに、宣教を律法、人のわざ、私たちが実現すること、果たすこととしてしまい、人の功績にしてしまい、期待通り、右肩上がりにうまくいかないと、誰のせいだ、あの人のせいだ、牧師のせいだ、などなど、どれだけ「福音だ、愛だ」と声高にかかげる教会に、イエス様が望まない裁き合いが溢れていることかとよく耳にします。宣教が律法になっている教会の結果ですが、それはイエス様が望む教会ではありません。しかし、このとこでは、弟子たちに対してもそうであったように、そして私たちに対してもそうであるように、そして、全く敗北と思われるような、十字架の死にこそ、勝利と新しいいのちと救いの光が開き、輝いているように、イエス様は、その困難な宣教の現実があっても、全く絶望であるとは言わないし示しません。その様な中でも、必ず「御言葉を聞いて悟る人」が起こされることこそを例えの最後に結んでいるでしょう。そして、「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶ」とイエス様は、「そうしなさい」と命令しているのではなく、「そうなる」と約束されるのです。そうです。涙のうちに種を蒔いても、しかし、イエス様は、必ず、その種から、聞いて悟る人を起こしてくださり、実を結んでくださる。そう、私たちではない。イエス様が必ず、そうしてくださるということです。ですから、この罪の世にあって、種をまくことは、人間的な価値観から見れば決して右肩上がりの期待するような結果にはなっていかないし、無駄なことの様にさえ思える。救われる人が起こされない。数が増えない。色々な問題が次から次から現れ、全てが無駄なことのように見えたり思えたりしたとしても、しかし、イエス様にあって、この今日のみ言葉にあって、福音の約束とそこに働く計り知れない力と計画にあって、何も無駄なことはないのです。今日の第一の聖書朗読箇所にもあるでしょう。イザヤ書55章10〜11節
「10雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ種蒔く人には種を与え食べる人には糧を与える。11そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす。」イザヤ書55章10〜11節
種は、天からのイエス様の福音、完全な福音、いのちの福音なのですから、イエス様の御心に従って、必ず報われる種である。人間の予想した通り、思い描いた通りではなくても、イエス様にあっては、種は必ず芽を出す。イエス様は成長させてくださり、多くの実を結んでくださるのです。
B,「宣教は福音:枝だけでは実を結べない。ヨハネ15章4−5節から」
事実イエス様は、種以外にも、ブドウの木の例えでこう言っています。ヨハネの福音書15章4〜5節
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
実を結ぶのは、誰ですか?枝ですか?弟子たちですか?私たちですか?違います。イエス様ははっきりと言っています。木だと。つまり、わたしはブドウの木とご自身について言われるイエス様ご自身ですね。枝だけでは何もできませんが、私たち枝が木であるイエス様にしっかりとつながっているなら、つまりその言葉に聞き、信頼し、枝が木から栄養を与えられるまま受けて実を結んでいくように、イエス様が与えてくださるものをそのまま受けるなら、イエス様が実を結んでくださると、イエス様は約束してくださっているでしょう。そう、私たちとイエス様の関係においてもそうなのですから、宣教において、蒔かれる種が私たちの思いを超えて、イエス様が実を結んでいくことも、全く矛盾しません。この通りなのです。イエス様にあって種をまく人は、幸いです。福音は私たちの種ではなく、イエス様の種、イエス様の福音です。ですから、私たち自身には種をどうこうする力は全くなく、むしろ私たち自身の罪の性質は、まさにここにある育たない土壌と環境そのものです。しかし私たちには出来なくとも、私たちの信仰を与えるときもそうであったように、イエス様は、必ず、ご自身の種から悟る人を起こし、成長させ、実を結んでくださるのです。それがどんなに小さな、目立たない結果のように見えても、イエス様が結んでくださる結果だからこそ、それは幸いであり、真の祝福なのです。だからこそ、宣教は、私たちが自分の力で、なし果たさなければならない律法では決してない。どこまでもそれはイエス様がなしてくださる恵みであり、どこまでも宣教は福音なのです。
5、「結び:宣教は福音ー罪赦され、平安のうちに派遣される」
イエス様は、そのような素晴らしい計画のうちに、この例えを通して、素晴らしい、福音の神の国を弟子たちに語っているし私たちにも語っているのです。そして、恐れと失望で互いに裁き合うのではなく、むしろ、恵みが取り囲んで導いているのだから、何も心配しなくていい、恐れなくていい、安心していきなさい、と恵みのうちに、私たちにイエス様の種をまくようにと、キリストの証人として、私たちを遣わしてくださっているのです。今日も、イエス様は、それでも罪深く、罪を犯してしまい、それでも悔い改める私たちに、今日も変わることなく、その十字架にあって、私たち一人一人の罪の赦しを宣言し、新しいいのちを与えくださっています。「あなたの罪は赦されています」と。そして「安心していきなさい」と。今日もイエス様が福音にあって信仰を新たにし、平安のうちに私たちを遣わしてくださり、私たちを通して多くの実を結ぼうとしておられるのです。ぜひ、その福音を受け取り、信じ安心してここから出ていきましょう。
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安があなた方にあるように。 アーメン
「悔い改めよ、そして魂よ、目覚めよ」 2023・7・9(日)
聖書 マタイ11章16~19・25~30
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今日は福音書、マタイ11章16節から19節までのみ言葉を中心に聞いてゆきたいと思います。まず、16節を見ますと、今の時代を何に譬たらよいか。広場に座って、他の者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった.』
ここの、み言葉に至るまで、実は7節から15節までの流れを見ていった方が良いかとおもいます。
<そこでは一言で申しますと>
イエス様は、バプテスマのヨハネがいかに偉大な大預言者であったか、という事を褒めておられるわけです。7節を見ますと、「彼らが帰ってしまうと、イエスはヨハネの事を群衆に語られ始められた。」と、あります。ここにあるバプテスマのヨハネが獄中から、弟子たちをイエス様のもとへ行かせて、こう言わせた。「あなたこそ、来たるべき方です。それとも他の者を私たちは待っているのでしょうか。いやいや、とんでもないイエス様、あなたこそメシヤとして来られた。あなたの働きを全面的に祝福して、祈っていますよ、という熱い思いをもって弟子たちを遣わしたのでした。その弟子たちが帰ってしまうと、イエス様は群衆に向かって、バプテスマのヨハネのことを語り始められたのです。
イエス様は獄中に捕らえられている、ヨハネの熱い思いを充分に汲んで、その心と比べたら、この群衆の何と煮え切らない態度であるか、そのことを叱っておられるのです。それで言われた、あなた方は何を見に荒野に出て来たのか、風に揺らぐ葦であるか。では何を見に出て来たのか。柔らかい着物をまとった人か、柔らかい着物をまとった人々なら王の家にいる。では何のために出て来たのか。預言者を見るためか。そうだ、あなた方に言うが預言者以上の者である。『見よ、私は使いをあなた方の先に遣わした、あなたの前に道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。あなた方に言っておく、女の産んだ者の中でバプテスマのヨハネより大きい人物は起こらなかった」<ヨハネをほめておられる>バプテスマのヨハネは捕らわれの身となってしまったが、イエス様がガリラヤ伝道に乗り込まれる前には、ヨルダン川で悔い改めのバプテスマを宣べて、華々しい活動をしていました。3章5~6節を見ますと「エルサレムとユダヤ全土、ヨルダン川付近一帯の人々がぞくぞくとヨハネの所に出て来て自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた。」とあります。こうして、バプテスマ、のヨハネのもとに集まって来た群衆が求めたものは預言者を見るためか、そうじゃないだろう。預言者以上の者だろう。このヨハネの偉大さは彼の職務の重大さにありました。それでは、バプテスマのヨハネが神様からの使命を果たすための、その職務とはどんな点にあったか、と言いますと。
第1は、「見よ、私は使いをあなたの先に遣わし、あなたの前に道を整えさせるであろう」と書いてあるのはこの人のことである。という事。つまり、彼は預言者たちによって預言されていた者です。そして、その予言通りに彼が現れ、予言通りに彼は、その使命を最大限に働いていった、ということです。こうして、先の預言者たちの預言を成就していった。という事です。それは預言者以上のものでありました。
第2に、彼の任務がメシヤの先に遣わされた任務でありました。旧約聖書マラキ書31章1節には「見よ、私は使いをあなたの先に遣わす」と預言しています。メシヤが来られる前には多くの露払いの役目をする僕がいて、彼らは「主はずうっと後から終わりに来られる」としか言うことが出来ませんでした。その後には、次々に身分の高い僕が続き、そしてその最後に主の目の前には最も尊い家臣が付き添うていて「私の後から来る方が主である」と言うことが出来た。ヨハネこそその人であって、彼は人々に叫びました。「私の後から来る方は、私よりも力のある方で、私はその方の沓を脱がせてあげる値打ちもない」。こうして、ヨハネはメシヤであられる方を指し示したのであります。マタイは3章11節に書いています。
第3に、ヨハネの任務はメシヤの前に道を整える点にありました。ヨハネはイザヤ書40章3節に預言されてい「荒野に主の道を備えよ」と呼ばわる声であった。ヨハネは悔い改めのバプテスマを施すことによってメシヤが来られるための「道」を整えたのです。紀元前9世紀の預言者エリヤは真の神を捨てて偶像崇拝に走ったイスラエルの王とイスラエルの民に悔い改めを迫った偉大な神の人でした。その後400年の間ユダヤの民は、来たるべきエリヤを、まだかまだか、と待ちわびてきたわけです。しかし、そのエリヤは既にきていた。実はヨハネこそエリヤとしての役を担って来た預言者であった。ユダヤの滅びゆく民に悔い改めを叫び洗礼を施しメシヤが来られる前の道を整えていった。そして、イエス様こそ、メシヤであられる救い主であられることを証言していったのです。ここに、メシヤの時代が招きいれられて、やって来たのです。メシヤをこの世に連れ込んだのです。これが、イスラエル民族に現れた最後の預言者の最後の声でありました。13節にはこうあります。「すべての預言者と律法、つまり旧約聖書が預言したのはヨハネの時までである」。旧約聖書の預言と約束の時代を終わらせ成就の時代、神様のみ旨がイスラエルの民を通して、人類の歴史の只中に実現してゆく時代となったのです。ヨハネは歴史の重要点にたって神の恵みと救いの時を来たらせ、神の救いの歴史のページをめくったと言える、そこにヨハネの職務の偉大さがありました。では、ヨハネがもたらした新しい時代とはどういう時代でしょうか。マタイ11章12節~13節を見ますと、こう書いています。「彼が活動し始めた時から、今に至るまで天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者が、それを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのはヨハネの時までである。」言い換えますと、ここで示されていることは、バプテスマのヨハネがイスラエルの歴史の上で登場した時を境にしてヨハネの働きは、とてつもない大きな職務を、神様は彼にさせていかれた、という事です。
ヨハネの時までは「預言者と律法」という神が与えられていた働きがあった。しかし、イスラエルの民は悔い改めもしないで自分たちの都合の良い方向に律法の権威を用いて、天国は目に見えない悪魔の力で激しく襲われている。と言われるのです。ヨハネが荒野で叫び声を上げ「悔い改めよ」と天の国の救いを迫って、ヨルダン川で洗礼を施し、人々は続々と新しい天の国の時代に変えられている。そして、「見よ、神の子羊を」と叫び、あの方こそ真の聖霊のバプテスマを持って神の国の到来をなしてゆかれるメシヤであられる。こうして、ヨハネはキリストを力強く指して言った。これらの、彼の短い生涯の中でなした職務はまことに大きいものでありました。マタイは今やイエス様によって福音宣教が力強く展開し始めている。その前にはヨハネの大切な働きがあった、ことを書いているのです。12章28節以下を見ますと、神の国は今、伝道されつつある、見よ!「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人は清まり、耳しいは聞こえ、死人は生き返えらせている。」このように力強い働きが発揮されている、まさに、地上に福音は突入しつつある、と言いたいのであります。イエス様ご自身も、こう言われました。12章28節で「私が神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国は既に、あなた方のところに来たのである。」然るに、ユダヤの民はどうか。今日の福音書の11章16節~19節のところでイエス様は言われる。「今の時代を何に譬えようか」と言って広場に座った子供たちに、なぞらえておられます。この子供たちは、はじめ結婚式のような祝いの場面を演じようとして、笛を吹きますが誰も相手になってくれない。次に葬式ごっこをしますが、それも相手にされないので、ぶつぶつ不平を並べています。この譬えの笛を吹く子供たちを誰に譬えているか、ユダヤの人々が快楽の生活を求めたためにバプテスマのヨハネが笛にのらず、謹厳な宗教生活をし、むしろ悔い改めを迫ってきた。次には人々がしめやかで荘厳な救い日を期待したのにメシヤであるイエスはメシヤらしからぬ振る舞いで彼らは不満を持ったのです。もっと、はっきりこの譬えの意味を分かるのにルカは次のように7章29節~30節で大切な事実を記しています。「これを聞いた民衆は,皆、また徴税人たちもヨハネの洗礼を受けて、神の正しいことを認めた。」ところが、パリサイ人と律法学者たちはヨハネの洗礼を受けなかった。そじて、神のみ心を無にした。イエス様が子供たちに譬えられた「今の時代」はこのように、神のみ心を無にしたパリサイ人や律法学者のことです。彼らが愚かな子供のようなのは、次の点である、と言われているのです。
第1に、彼らは自分勝手に「さあ、結婚式ごっこをしよう、とか葬式ごっこをしよう、と決めてしまったことに他人が調子を合わせてくれない」と怒ってしまう子供のようです。預言者なら、こう言ってほしかった、とかメシヤなら、こういう風に救ってほしい、と決めつけているのです。要するに、彼らは自分の心で作り上げたイメージで偶像を描いてしまった。
第2は、彼らは、よく気が変わる点で、子供に似ている。結婚式ごっこをしたかと思えば、葬式ごっこに変える。あー、言ったかと思うと、こう言う。自分たちの思うままを、やったり、言ったりしている。それで、最後に、これは子供の遊びである、と言う点で似ています。「激しく襲う者たちが、天国を奪い取っている」と言うのに、彼らは自分の魂が襲われている、恐ろしい危機感という、そういう体当たりの真剣味がない。彼らは律法の決まりを守ることのみに自己の都合を混ぜ合わせて、自分たちの思う通りにならない者を批判する。利己的な遊びに現を抜かしているに過ぎないのだ。ヨハネがどんな偉大な預言者であり、命をはって叫んでいる声も聴こうとしない。新しい恵みの時が来ていることも、イエスが来たるべき、まことのメシヤであることも分からないのであります。
19節には「しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」と言われました。神様はヨハネのような悔い改めの使者を送られた、神の知恵、罪人の友となる救い主イエスを遣わされた神の知恵。そうした「知恵の正しいこと」は結局は「その働き」が客観的に証明するのです。この正しい働きについては5節のイエス様の言葉で明らかでした。「盲人は見え、足なえは歩いている、ライ病人は清まり、耳しいは聞こえている。死人は生き返えらされている。」こうした様々な奇跡の業、それはメシヤの働きの結果、つくられた神の知恵の作品とも言えるものです。今や、現代では世界中に広まっているキリストの教会で洗礼を受けて救われ信仰生活を送っている全世界のキリスト者はすべて神の働きによってみ業がなされた、神の知恵の作品であありましょう。天のみ国の子供たちです。この天のみ国の子供たちこそ、天のみ国の到来の時を来たらせ給うた神の知恵の正しさを証明しているものです。今の時代の人々はどうでしょうか、この日本の地にあって、多くの人々はイエスをメシヤとして、私たちの救い主である、として受け入れる時代でしょうか。今は恵みようみの時、今は救いの日である、と認めたがらない。彼らは頑固な先入観を持っています。その時々の変化に応じて都合よく成り行き任せの移り気の早い浮草のようです。自分の好みに任せて遊びごとのようにしか宗教を考えてみようともしません。こうして、彼らは神のみ心を無にしています。しかし、私たちが神の子となることによって新しく変えられてゆきます。神がなさるからです。神は私たちに信仰を与えられ、そして、神の救いは歴史の中で、神の知恵とその知恵の深さ、正しさが立証されてゆきます。パウロはコリントの教会への手紙第2の6章2節でこう書いています。「神はこう言われる『私は恵みの時にあなたの願いを聞き入れ、救いの日に、あなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。」そうです、イエス・キリストが十字架にかかって、私たちのために死んでくださった。そして、私たちのために復活してくださった、死に打ち勝ってくださった。そうして私たちを、この復活の命、永遠の生命にあずからせてくださった。このイエス・キリストの死と復活に於いて私たちにとって、あらゆる時と言うものが恵みの時となった、救いの時となったのです。神によって造られ、与えられている命、人生のすべての出来事が恵みの時となります。救いの時となります。そうなるために、神の前に悔い改めよ!そして、私たちの魂がいよいよ目覚めさせられ、そして、私たちの信仰は激しく熱く燃え、天のみ国の業を求め続けてゆくことです。
人知ではとうてい測り知る事の出来ない神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
主日礼拝説教 2023年7月2日(聖霊降臨後第五主日)
聖書日課 エレミア28章5-9節、ローマ6章12-23節、マタイ10章40-42節
説教をYouTubeで見る。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の聖書日課は、旧約聖書はエレミヤ書、新約聖書は使徒書のローマとマタイ福音書からですが、この3つには共通のテーマがあります。それは、神の真理です。真理とは、時や場所に関係なく、いつどこででも本当であるという事柄です。いつどこででも当てはまる法則も真理です。それでは、神の真理とは何か?それを、まずエレミア書の日課から明らかにします。その次に、神の真理を土台にして生きるとどんな生き方になるのかを、ローマの日課をもとに見てみます。そして終わりに、そのような生き方をするとこの世の歴史と社会の中でどんなことに遭遇することになるか、どんな目に遭うか、それに対してキリスト信仰者はいかに立ち振る舞うべきかということについて、マタイ福音書の日課をもとに考えて行こうと思います。
そういうわけで本日の説教は三部構成です。第一部は神の真理とは何か?第二部は神の真理を土台にする生き方、第三部は神の真理を土台にして生きるとどんなことに遭遇し、それに対してどう立ち振る舞うか?
本日の旧約の日課エレミア28章の個所は紀元前7世紀から6世紀の変わり目の頃の出来事です。ユダ王国にハナンヤという預言者が現われて、国民の耳に心地よい預言をした、それに対して預言者エレミアが反論するところです。
この辺の歴史的背景を超特急でおさらいしておきましょう。太古の昔イスラエルの民は天地創造の神に導かれて奴隷の国エジプトから脱出して約束の地カナンの地に定住します。紀元前11世紀に国は王制をとり、ダビデ王ソロモン王の時に最盛期を迎えます。ところがその後、王国は南北に分裂、国全体が神の意思に反する生き方を繰り返し、まず北王国が紀元前8世紀にアッシュリア帝国の攻撃を受けて滅亡します。南のユダ王国は寸でのところで危機を脱しますが、その後も神の意思に反する生き方が一時を除いて続き、神は罰としてバビロン帝国の攻撃を仕向けます。紀元前598年ヨヤキン王の時に大きな攻撃があり、エルサレムは陥落してしまいます。この辺の事情は列王記下の24章に詳しく記されています。それと照らし合わせながらエレミア書を読むと預言者エレミアがまさに激動の歴史の中で活動したことが手に取るようにわかります。エルサレム陥落の後、ヨヤキン王はじめ王国の主だった人たちがバビロンに連行されて行きます。バビロンの王はヨヤキンの叔父ゼデキアを王に立てて引き上げます。もうユダ王国は独立国とは言えませんでした。
このゼデキア王の治世4年目に預言者ハナンヤが現れて国民の前で、あと2年したら神はバビロンの軛を打ち砕き、ユダ王国から持ち去った物や連れ去った人たちは祖国に戻ると預言します。他方エレミアはハナンヤが現れる前、国民に対して、ユダ王国はバビロンによって徹底的に破壊される、その軛を受け入れなければならないと宣べ伝えていました。エレミアはそれが神の計画であることを象徴して自分の首に軛をかけることもしていました。丁度その時にハナンヤが現れて、エレミアと正反対のことを預言したのでした。国民は既にエレミアの預言にあきあきしていました。ハナンヤの預言を聞いた時、こっちの水は甘いぞと心が動かされたことは容易に想像がつきます。本日の個所の後になりますが、ハナンヤはエレミアが首にかけていた軛を打ち砕くというパフォーマンスもします。これを見たら誰でも、説得力があると思ったでしょう。
ところが実際には歴史はハナンヤが言った通りには進みませんでした。ゼデキア王は治世9年目にバビロン帝国に反旗を翻します。それがもとで王国は再度の大攻撃を受けます。エルサレムは2年間兵糧攻めにあい、最後は敵の大軍に蹂躙され王国は完全に滅亡します。エルサレムの神殿も完全に破壊され、残りの市民もバビロンに連行されてしまいます。紀元前587年のことでした。全てエレミアが預言した通りになったのです。
神はエレミアに国の滅亡を預言させたわけですが、その意図は一体なんだったのでしょうか?神は天地万物を創造し人間を造られた全知全能の方です。人間に罪を犯すなと命じ十戒を与えた神聖な方です。神はそうした自分の意思を表す十戒やその他の掟をイスラエルの民に授けました。世界中の数ある民族の中から自分たちが選ばれてこのような神聖なものを授けられたと、イスラエルの民が自負心を強く持ったとしても不思議ではありません。ところが、民は次第に神の意思に反する生き方を繰り返すようになり、神が遣わした預言者の警告にも耳を貸さないようになってしまいました。そうなると、神は自分の意思に反する者、罪を犯す者を完膚なきまで滅ぼす裁きの主という姿が明らかになります。
ところが、エレミア書を見るとイスラエルの民の復興についても預言されています。民が連行された異国の地で心から神に立ち返って神の名を呼び求め祈りを捧げるならば神は民を祖国に帰還させると言うのです。神の計画は災いの計画ではなく将来と希望を与える計画であると言われるのです(29章11~14節)。実際、歴史もそのように進みました。紀元前6世紀の終わりにペルシャ帝国がバビロン帝国を倒してオリエント世界の新しい覇者になります。イスラエルの民はこのペルシャ王の勅令によって祖国帰還が認められ、紀元前538年から帰還が始まります。これもエレミアが預言した通りでした。
神の計画は災いではなく将来と希望を与えるものであるならば、なぜ自分の民にバビロン捕囚のような大きな苦難を与えられたのか?それは、やはり神は罪を見過ごせない方、罪をはっきり罪と言い、それを焼き尽くさずにはいられない神聖な方だからです。しかし、人間が罪の罰を受けて焼き尽くされてしまえばいいということではありませんでした。罪は神の神聖さと相いれないためそれを持つ者を滅びに陥れてしまうという呪いがあります。神は人間をその呪いから救い出して、罪は滅びても人間は滅ばないようにしたかったのでした。それはどのようにして可能でしょうか?とりあえず神は、イスラエルの民の祖国帰還を可能にすることで、罪を赦して、赦された者が新しく生きることを始められるようにするという例を示したのです。
このように神は罪を忌み嫌いそれに対しては神罰を下さずにはいられない裁きの主です。それと同時に、人間が罪のゆえに神罰を受けて永遠に滅びてしまうことから助けたい憐みの主でもあります。これが神の真理です。私たちは旧約聖書の遥か昔の遠い国の出来事の歴史を見る時、天地創造の神は本当に罪を忌み嫌い罰せずにはおかない方であることをわからなければなりません。しかし、そこで終わってはいけません。神は同時に罪のある人間をなんとかして自分のもとに立ち返らせよう、人間が罪を忌み嫌うようになって罪から離れて生きようとする者に変えてあげようとされる方であることもわからなければなりません。
バビロン捕囚と祖国帰還という歴史的出来事から、神は二つの大きな目的を持っていることが明らかになります。罪に対する裁きと罪の赦しという目的です。ところで歴史的には、罪の赦しの目的は実はまだ民の祖国帰還の時には実現していませんでした。当時の人たちの中には実現したと考えた人もいましたが、事はユダヤ民族に属する人の罪が問題だったのではありません。そうではなく、神に造られた全ての人間の罪が問題だったのです。そういうわけで、ユダヤ民族の祖国帰還というのは実は、そういう一つの歴史的出来事を通して、全ての人間に及ぶ罪の赦しの救いを前もって予感させるものでした。そして、全ての人間に及ぶ救いはイエス・キリストの十字架の死と死からの復活で歴史的に実現したのです。
神は、罪を忌み嫌いそれに対しては神罰を下さずにはいられない裁きの主であると同時に、人間が神罰を受けて永遠に滅びてしまうことから助けたい憐みの主でもある、これが神の真理でした。この神の真理が如実に現れたのが、ご自分のひとり子イエス・キリストの十字架の死と死からの復活の出来事だったのです。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上であたかも彼が人間の罪の責任者であるかのように断罪して人間の罪の償いをさせました。そして、死なれたイエス様を今度は想像を絶する力で三日後に復活させ、神の御許に迎え入れられる道を人間のために切り開いて下さいました。神の真理は、イエス様の十字架と復活の出来事で不動のものになったのです。それでは、この神の真理を土台にして生きる生き方はどのようなものになるのでしょうか?このことがローマ6章によく記されています。
使徒パウロは教えます。キリスト信仰者は洗礼を受けたことでイエス様の死と復活に結びつけられていると。イエス様の死に結びつけられると「罪に対して死んでいる」と言われます。わかりにくい言い方です。ギリシャ語の用法で、死ぬことが罪にとって不利益になるということで、要は罪がキリスト信仰者にちょっかい出そうにも出せない、影響力を行使しようにもできない、従わせようとしても従ってくれない、全て肩透かしをくらってしまう、それ位にキリスト信仰者は罪に対して冷たく死んでしまっているということです。
しかも、洗礼を受けることで結びつけられるのはイエス様の死だけではありません。彼の復活にも結びつけられます。パウロは、この結びつけられるということはキリスト信仰者の有り様や生き方を根本から変えるものである、だから信仰者はそれに気づくべきであると教えます。どう根本から変えるのか?罪に対して冷たく死んだ者は、今度は神に対して生きるだけだと言います。神に対して生きるというのと罪に対して死ぬというのは同じコインの裏と表です。人が罪に対して死ぬと、罪はその人を指図できず、その人は罪から自由になっている、罪と無関係になっている。その時、その人が関係を持つのは神になる。これが神に対して生きることになることです。罪から離れ神を向いて生きることです。洗礼を受けた者は、そういう状態に入ったというのです。もちろん、イエス様の死と復活に結びつけられたと言われても、自分はまだ死んで葬られてもいないし復活も遂げていないので、そうなったという実感は起きません。しかし、洗礼はイエス様の死と復活に結びつけるものなので、一度受けたらが最後、罪に対して死に、神に対して生きるという状態に入ってしまうのです。後は、いつの日か本当に死んで葬られて復活の日に復活を遂げるという形式的なことが残っているだけで、実質的なことはもう起きたことになります。
それなので、神の真理を土台にしてこの世を生きるというのは、実質的に新しくされた命を持って生きるということになります。古いものは全てイエス様と一緒に十字架につけられてしまったからです。
それでは、新しくされた命を持ってこの世を生きるというのはどんな生き方になるでしょうか?12節で大きな命題が掲げられます。「あなた方の体は罪と結託してしまいがちな死の体である。その体の中で罪が支配者として君臨しないようにしなさい。君臨してしまえばあなた方は体の欲望に聞き従ってしまうだけだ。あなた方はそうした状況に陥ってはならない。」「体の欲望」と言うと何か性的なことが頭に浮かぶかもしれません。それも含みますが、もっと広い意味です。神聖な神の意思に反するとはわかっていてもやらずにはいられない、口にしないではいられない、そういう何か抗しがたい、本当に「肉の思い」としか言いようがないもの、それが欲望です。具体的に考えるならば、十戒の第四から第十の掟を逆に考えればいいと思います。両親を大切にしないこと、人を傷つけるようなことを口にしたり行ったりしてしまうこと、異性を淫らな目で見たり不倫すること、他人のものを自分のものにしてしまうこと、自分のものを他人のために役立てようとしないこと、偽証したり他人を貶めるようなことを言うこと、他人を妬んだり、その持っているものを自分のものにできないかと思い描くこと等々、これらが「体の欲望」、肉の思いです。
こうした欲望、肉の思いに従ってしまうのは罪が支配者になっているからである、しかし、洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられたら罪に対して死に神に対して生きることになるので本当は罪は支配者でなくなっている筈です。しかし、キリスト信仰者もまだ肉の体を纏っているので、行いや言葉が自然に自動的に神の意思に沿うものにならないもどかしさがあります。でもそれは復活の体を着せられる前のことなので仕方のないことです。それなので、自分は洗礼によって本当はどんな状態にあるかを知って自覚して生きることが大事になります。それでパウロは、自分の肢体を神の義のための道具、武器にして肉の思いに対して戦えと言うのです。「神の義」とは、神聖な神の前に立たせられても大丈夫だと見てもらえ、焼き尽くされない状態を意味します。イエス様に罪の償いをしてもらったことを本当にそうなんだと信じて受け取った人は神の義を持てます。
ところでパウロにとって、神の義の武器になりなさい、というような「~しなさい」と命じる教え方は本意ではなかったと思います。というのは、イエス様の十字架と復活のおかげで罪の支配から解放されたら、その解放は神のお恵みです。人間が律法を守り抜いて勝ち取ったものではありません(そもそも、そんなことは不可能です)。それで「私たちは律法の下にではなく恵みの下にいる」と言うのです。しかし、「~しなさい」と言うと律法的になっていきます。本当はそういうふうに命令されないで自然に自動的に肉の思いを消すことが出来ればいいのですが、肉の体を纏っている以上は出来ません。やはり自覚して戦うしかないのです。19節で「あなたがたの肉の弱さのゆえに人間的な言い方で言っているのです」と言っているのはまさにこのことです。本当は罪に対して死に神に対して生きている状態にあるのだから「~しなさい」などと言う必要はないのに、肉の弱さのために言わなければならない。実にもどかしいことですが、神の真理を土台にして生きるとそうならざるを得ないのです。この「~しなさい」は、律法的に捉えず、自分たちが本当はどんな素晴らしい状態にいるのかを自覚させる注意喚起と捉えるのが良いのではないかと思います。
福音書の日課マタイ10章40~42節のイエス様の教えは、預言者を預言者という理由で受け入れる人は預言者の報酬を得る、義人を義人という理由で受け入れる人は義人の報酬を得る(日本語訳では「正しい人」ですが、ギリシャ語のδικαιοςはずばり「義なる人」、義人です)、そしてイエス様の弟子を弟子であるという理由で冷たい水一杯でも与える人は弟子の報酬を得るということです。これは一体何を意味するのでしょうか?まず「預言者」というのは、神から告げられた言葉を宣べ伝える役目を持つ人です。言葉の内容は将来の出来事の預言に限られません。神の意思や計画を伝える言葉は皆預言になります。「義人」というのは、イエス様を救い主と信じて神の真理に立って生きる者です。キリスト信仰者のことです。そして「弟子」というのは、神の真理を宣べ伝える者です。ここでひと言、預言者について、神の言葉が私に下ったなどと言う人がみんな預言者にはならないことに注意しましょう。神の意思に沿っていないといけないからです。神の意思は聖書にあります。聖書にある神の意思に沿っているかどうかを判断するカギとして、キリスト教会の伝統的な信仰告白があります。使徒信条、二ケア信条、アタナシウス信条です。また、それらを正確に理解できるようにと、ルター派は一致信条集もあります。
マタイ10章はキリスト信仰者が受ける迫害について述べています。それで今日の個所も迫害の文脈で理解します。そうすると、迫害のさ中に預言者や義人や伝道者を追い払ったりせず受け入れて世話をする人は、預言者や義人や伝道者が神から将来受ける報酬と同じものを受けるということになります。パウロを初めとする使徒たちやローマ帝国の迫害期にそのように世話をした人たちがいたことは想像に難くありません。世話をした人が世話を受けた人と同じ報酬を受けるというのは、世話した人たちにも危険が及ぶことを意味します。使徒言行録17章を見ると、テサロニケでパウロをかくまったヤソンとその兄弟が当局に引っ張られていく場面があります。日本のキリシタン迫害の時がまさにそうでした。帚木蓬生の「守教」の中で密告に対する報奨金制度が出てきます。この制度のもとでは聖職者や信者を世話したり匿った者もキリシタンと見なされて拷問を受けました。まさに世話する人がされる人とこの世の権力から同じ報いを受ける事態になったのでした。しかし、次に到来する世では神から同じ報酬を受けられるのです。
幸いなことに、現代の日本ではこのような迫害状況はありません。日本には数多くのキリスト教系の社会事業あり、学校あり、著名な文化人も多くいて、社会の中でキリスト教が果たす役割や存在は無視できないものがあり、一目置かれるようになりました。それでは、もう同じ報酬を受けるという極限的な状況はないと言えるのか?キリスト教会にとってそんな安泰な状況があるのか?少し考えてみましょう。日本ではキリスト教徒の割合が全人口の1パーセントというのは、日本人の中にはまだキリスト教に距離を置く何かがあります。
それについては宗教学や社会学、文化人類学からいろいろな説明の仕方があると思いますが、一つには、キリスト教は欧米の宗教で日本人の風土と精神には合わないというような議論です。遠藤周作の有名な「沈黙」の中で、棄教して仏教徒になった宣教師フェレイラが、日本はキリスト教が根を下ろさない沼地だと言っているところがあります。その言い方はいかがなものか。暴力と武力で教会を壊滅させた後で、根を下ろさない沼地だなどと言うのは問題のすげ替えではないか?いずれにしても、キリシタンを壊滅したことが日本人のキリスト教に対する態度に遺伝子的な痕跡を残したのではないかと思います。キリスト信仰者になると欧米に魂を売り渡したと見なす人もいる位です。果たしてキリシタンの時代の信仰者は自分たちは何か日本人に合わないことをしていると思って信仰していたでしょうか?
しかも、明治維新や敗戦直後の頃と違って、今、キリスト教を信じることは欧米化することと同じとは言えなくなってきているのではないでしょうか?当時は欧米の圧倒的な力を見せつけられましたが、今はそのような力の差はあるのか?ただし、この20、30年の間の日本の国力は物凄い落ち込みようで、また欧米に差をつけられるようになってしまったかもしれません。欧米どころか、お隣の韓国にも平均賃金や一人当たりのGDPで抜かれてしまいました。かつての「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は見る影もない時代になってしまいました。
ところが、欧米にまた差を付けられるようになってしまったとは言っても、その肝心の欧米ではキリスト教、特に伝統的なキリスト教は人々の教会離れ聖書離れが進んでいるというのが現状です。フィンランドを見ても、90年代まではルター派国教会の所属率は全国民の90%以上でしたが、以後どんどん低下して今では65%、ヘルシンキでは過半数を割っています。そんな時代なのです。もちろん、そういう時代だからこそ踏みとどまる信仰者も大勢います。フィンランド・ルーテル福音協会も、海外伝道だけでなく国内伝道にも力を入れているのです。
こういう時代だからこそ、キリスト教は欧米の宗教という見方から自由になれるチャンスなのです。もちろん、キリスト教は欧米を経由して入ってきたことは否定できません。しかし、聖書の内容は欧米の文物の紹介なんかではありません。それは、天地創造の神が古代オリエント世界を舞台にして人間の救いの意思と計画を明らかにしたということ、それをその舞台の人たちが一生懸命、後世の世界に伝えようとしたものが聖書です。私たち人間の命がどこから来てどこに向かい、その間にあるこの世ではいかに生きるべきかという道を示してくれるものです。神の真理を礎にして、先ほど申し上げた体の欲望、肉の思いと戦いながら生きることがその道です。一体これのどこが悪いのか?一体これのどこが欧米化なのか?今の時代は、こういう態度でいいと思います。神がキリスト信仰者のことを誰よりもわかっていて下さる、だから、何もわかっていない者から何を言われても、どう見られても関係ない、そういう姿勢でいればいいのです。
主日礼拝説教 2023年6月25日(聖霊降臨後第四主日)
聖書日課 エレミア20章7-13節、ローマ6章1b-11節、マタイ10章24-39節
本日の旧約の日課はエレミア書20章の預言者エレミアの告白、福音書はマタイ10章の終わりにあるイエス様の教えです。エレミア書の方は、かつて栄華極めたダビデ・ソロモンの王国が神の意思に反する生き方をして内憂外患に陥り、最後は東方の大帝国バビロンに滅ぼされるという、その動乱の時期の紀元前7世紀終わりから6世紀初めにかけての頃のことです。神は、国に迫る危機を国民に知らせて神に立ち返るようにしなさいとエレミヤに命じます。エレミアはその通りにするのですが、国民はこぞって彼に反対し、人心を惑わす者として迫害してしまいます。本日の個所でもそのことについてのエレミアの苦悩と神への愚痴が述べられています。
マタイ福音書の方を見ると、イエス様は自分のことを救い主と信じる者が将来迫害を受けると預言しています。エレミアもイエス様も、神から人々に伝えなさい、自分の信仰を知らしめなさい、と言われてその通りにすると命にかかわる大変な目に遭うと述べています。しかし、両者とも、神はその者たちの魂を救うと言われます。
そこで本日の説教では最初に、神が魂を救うというのはどんな救いかを見てみます。その時、「魂」とは何かを考えなければなりませんが、これがなかなか難しいです。魂と似た言葉に「霊」もあります。これもわかりそうでわかりにくい言葉です。旧約聖書のヘブライ語で「魂」と訳されるもとの言葉はネフェシュ、「霊」と訳される言葉はルーァハです。新約聖書のギリシャ語で「魂」と訳されるもとの言葉はプシュケー、「霊」と訳される言葉はプネウマです。「魂」と「霊」ははっきり区別されるものですが、聖書の中では時たま重なっていることもあります。今回は「霊」の方は見ずに「魂」の方を中心に見ていきます。
神が魂を救うとはどんな救いか?それは、キリスト信仰では「魂の救い」が「復活」と結びついていることに気づけばわかります。その結びつきは本日のエレミヤ書の日課の個所にも見ることが出来るのでそれを見てみます。終わりに、マタイの個所が提起している問題、すなわち、人前で自分はイエス様を救い主と信じると公表すればイエス様もその人のことを天の父なるみ神の御前で自分に属する者であると認めてあげる、しかし、もし人前でイエス様を否定したら、彼も天の神の前でその人を否定するということについて少し考えてみます。この日本でイエス様を救い主と信じることを公表することにはどんな難しさがあるか、それをどう乗り越えていけるかということについて考えてみます。
「魂」という言葉にはいろいろな定義があると思います。聖書に出てくる「魂」を理解しようとしたら、その言葉が出てくる箇所を全部見て、どんな文脈でどんな使われ方をしているかを見て意味を捉えることが重要です。先ほど申しましたように、「魂」という日本語に訳されるもともとの言葉はヘブライ語でネフェシュ、ギリシャ語ではプシュケーです。ネフェシュが出てくる箇所を全部洗い出す、同様にプシュケーが出てくる箇所も全部。しかし、それはなかなか大変な作業です。新約聖書だったらいつかそれをしてみようという気が起こりますが、旧約聖書だったらちょっと尻込みします。分量が多いのでこの年齢で始めたら命が一つだけでは足りないのではないかと思います。それで、ここで申し上げることは本当に氷山の一角のさらまた一角の一角にも満たない定義だということをどうかご了解頂き、話を進めてまいりたいと思います。
本日の福音書の日課のイエス様の教えの中で「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(10章28節)という箇所があります。人間には体の部分と魂の部分があるということです。体の部分は殺されて腐敗してしまっても、殺されず腐敗しない部分がある。それが魂ということになります。ただし、その魂も神は滅ぼすことが出来る。「地獄で」と言っているので最後の審判のことを言っています。しかし人間には魂を滅ぼすことは出来ない。人間が滅ぼすことが出来るのは体の部分まで。人間が人間を滅ぼそうとしても、殺せるのは体までで魂は殺せない、なので人間は人間を完全には殺せない、滅ぼせないということです。逆に神は最後の審判の時に体と魂の両方を殺せる、完全に滅ぼせると言われるのです。
魂は人間の目で見えない部分です。体は目で見える部分です。体は手や足など肢体があり肉体があり骨や内臓があります。みな目で確認できます。しかし、魂は目で確認できません。体は死んだら腐敗してしまいますが、魂はそうならないで残ります。もちろん、神に守られていればの話です。そこで、その目で見えない魂は人間のどんな部分なのか少し旧約聖書をもとに見ていきます。
詩篇130篇をみると、「わたしの魂は望みをおき、わたしの魂は主を待ち望みます」と言われています。手足と違って神を待ち望む器官がある、それが魂となります。この場合は魂は日本語の「心」に置き換えることが出来ます。詩篇23篇を見ると、「主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる」(2~3節)とあります。「生き返らせて下さる」などと言うと、死からの復活を連想させてしまいますが、ここは文字通りの復活ではありません。ヘブライ語の動詞ユショベーブは、疲れ切った状態から回復させるというような、元気回復、リフレッシュの意味です。元気回復するのは手足を含めた人全体です。つまり、ここでは「魂」が人全体を言い表す使い方です。さらに詩篇121篇では、主が「あなたの魂を見守ってくださるように」と言われます。この場合、体も含めた人全体を言い表しているとも言えるし、また、体とは別に魂だけに特化して守りをお願いしているとも言えます。その場合は魂は日本語の「命」に置き換えることができます。
さて、聖書の「魂」は、人全体を言い表したり、「命」や「心」にも置き換えられる言葉であることがわかってきました。本当は聖書の使い方の例をもっと沢山調べた方がいいのですが、この程度でも方向性が見えてくるのではないかと思います。方向性というのは、日本語の「魂」という言葉を聞いて頭に浮かんでくるものに耳を傾けず、あくまで聖書に出てくるネフェシュやプシュケーに耳を傾けるということです。
そこで、魂は肉体が消滅してもあるということについて。肉体が消滅して、肉体のような見える形は持たないが何かその人が残っていることになります。肉体を持たない人格のようなものです。ここでキリスト信仰の中で大事な事柄、「復活」の出番となります。復活とは、使徒パウロが教えるように、死の眠りから目覚めさせられて、肉体の体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられる、ということです。体は肉から復活の体に変わっても、人格は変わりません。それなので「私は吉村博明である」という自分が続きます。目覚めた時、この世で纏っていた朽ち果てる体にかわって神の栄光に輝く体を纏っている自分に気づくのです。
本日の福音書の個所の終わりでイエス様が「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言っています。これも聖書の「魂」が復活と結びついていることを示すところです。「命」と訳されていますが、もとの語はギリシャ語のプシュケー「魂」です。だから、本当は「自分の魂を得ようとする者は、それを失い、わたしのために魂を失う者は、かえってそれを得るのである」と言っているのです。「わたしのために魂を失う者は、かえってそれを得る」と言うのは、明らかにキリスト信仰者が迫害にあって命を落とすことです。そうすると、あれっ、さっきイエス様は魂は殺されないと言ったではないかと言われてしまうのですが、ここは「魂」が「命」に置き換えられるところと考えればよいでしょう。迫害で命は落としても、肉体のない人格は復活の日に復活の体を着せられるまで神に守られて眠りについている、なので「魂」は殺されてはいないのです。そして復活の日に復活の体を着せられて神の御許に永遠に迎え入れられる。その時の命は「永遠の命」です。「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」とはまことにその通りです。
逆に、イエス様が自分の救い主になっていない者は、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものにしておらず、罪から贖い出された状態にもありません。そのような者が永遠の命を持てるようにしよう、しようと努力しても、最後の審判の時に罪が償われておらず罪からも贖い出されていない状態のまま神の御前に立たされることになってしまいます。それは非情に厳しいと思います。「自分の命を得ようとする者は、それを失う」というのはまことにその通りです。しかし、神がひとり子イエス様を用いて果たして下さった罪の償いと罪からの贖いは、神が私たち人間に受け取りなさいといつも提供して下さっているのです。今からでも受け取るには遅すぎることはありません。
エレミアは、神から宣べ伝えなさいと言われてその通りにすればするほどひどい目にあってしまうという悲劇の預言者でした。果たして、国は滅び人々は占領国に連行されてしまいます。しかし、神は悔いる民に憐れみを示して祖国帰還を実現するという希望の預言も残します。神は罪に汚れた民をただ罰して消滅させてそれで終わりという方ではない。新しく生まれ変わらせ建て直して下さる方でもあることがはっきりするのです。だから祖国滅亡しても自暴自棄にならず、神を信頼して建て直しの時を待つのが正しい生き方です。
エレミアのメッセージは、神の御言葉を宣べ伝えたり人々に信仰を証しすることで迫害を受けることになっても、それですべてが終わりではないというものです。今日の日課の個所もそうです。神は必ず、その者に報い補償をして下さる。それは、およそ神の御心に沿うものとして行ったことは無意味、無駄なものは何一つないという神の約束を意味します。この考えは旧約聖書、新約聖書の随所に見られます。
7節から10節は、神が宣べ伝えよと命じた通りにすると、どれだけ散々な目に遭うかという複雑な心境が吐露されます。ところが11節で、神は迫害者よりも偉大なのだという確信を述べます。その根拠が12節と13節で言われます。「万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ。わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明けお任せします。主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。」
ここで注意しなければならないことがあります。「わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを」の「復讐」という言葉ですが、ヘブライ語・英語の辞書によれば、人間がするものなら「復讐」でいいが、神がするものならば「報い」、「補償」にするとありました。そこで、何の「報い」、「補償」になるのかと言うと、最後の審判の時に行われる正義と不正義のアンバランスの大清算です。神に立ち返る生き方をした者がしなかった者から受けたあらゆる仕打ちや損害に対して、それこそ神の正義の尺度に基づく補償、賠償が行われる。この世でないがしろ中途半端にされてしまった正義が最終的に実現するということです。逆に、仕打ちや損害を与えた者たちには正反対の報いが待っているということです。ローマ12章でパウロが復讐は私たちがするのではない、神に任せよ、と言うのも同じです。最後の審判で正義が最終的かつ完全に実現する大清算が行われる、だから今は敵が飢えていたら食べさせよ渇いていたら飲ませよ、という行動規範が生まれます。それで相手が心を改めたら、悪事が止むのでこちらも安心でき、相手も地獄の炎に堕ちなくてすむので両方にとってウインウインになります。しかし、もし相手が心を改めなかったら、それは将来自分に降りかかる悲惨を自分で一生懸命積み重ねることになります。
エレミアが神の補償を見ることになると言う根拠が次に来ます。日本語訳にはありませんが、ヘブライ語には「なぜなら」と根拠を言っています。「なぜなら、自分の訴えをあなたに委ねたからです」。訴えをあなたにお委ねしますので、あとはお任せしますということです。パウロの、復讐は自分でしないという考えと同じです。訴えを全て神に委ね任せたので、あとは最後の審判の時に補償してもらえるということです。
13節の「貧しい人の魂」の「貧しい」ですが、辞書では「抑圧された者、虐げられた者、迫害された者」の意味があります。金銭的な貧しさだけではありません。エレミアが置かれた立場がまさにそうでした。ところがエレミアは、神に褒め歌を歌え、賛美をせよ、と読者に勧めます。なぜなら神は虐げられた者であるこの私の魂を悪を行う者の手から救い出して下さったからだ、と言うのです。ヘブライ語では動詞は完了形なので「救い出して下さった」と訳します。これは面白いことです。なぜなら、今まさに迫害の渦中にあるのに自分の魂は既に神の手中にある、体の部分は痛い目にあっているが魂の部分は神の手中にあって守られている、だから迫害のさ中にあっても神に褒め歌を歌い賛美をするのが当然だと言うのです。
このことは本日の福音書の日課の中で、神は私たちの髪の毛の数も全て数えて把握していると言われていることと同じです。キリスト信仰者にとって、これは神の手中にあることがこれだけ完璧であることを言っているのです。神の手中にあって私のどこも神の手からこぼれ落ちていない。そのように守られるから、最後の審判と復活の日をクリアーできる。まさに、今日の説教題「神は信仰を守り告白する者を最後まで責任をもって面倒を見てくれる」のです。
このような、今は理想的な状態にいるとは言えないのに、その状態にあるのと同然だということは本日の使徒書の個所ローマ6章にもあります。洗礼を受けた者がイエス様の死だけでなく復活にも結びつけられているということです。復活は将来のことですが、洗礼でイエス様の死に結びつけられて罪の体が葬られた、それで罪が自分をもう支配できない状況が生じた。あとはその状況に入り込もう、入り込んだら今度はそこから出ないようにしっかり留まろう、そのようにして生きるだけである。それが「罪に対して死に、神に対して生きる」ということです。キリスト信仰者とは、ルターの言葉を借りれば、片方の手はこの世を掴んでいるが、もう一方の手は復活を掴んでいるということになります。あとは肉の体から離れれば、両手は復活を掴むことになります。パウロが「フィリピの信徒への手紙」の中で早くこの世を去りたいと願ったのはこのためです。しかし、彼はキリスト信仰者には神から託された使命、課題があり、それを果たさずにこの世を去ることは許されないこともわかっていて、そこにジレンマを感じていました。このジレンマはパウロだけでなく全てのキリスト信仰者に共通のものです。
本日の福音書の個所でイエス様は、人前で自分はイエス様を救い主と信じる者であると公表すれば、イエス様も天の神の御前でその人のことを自分に属する者であると明言する、しかし、もし人前でイエス様を否定したら、彼も天の神の前でその人を否定すると述べました。その場合、日本の潜伏キリスト教徒たちのことをどう考えたらよいのか?彼らは、踏み絵を踏み檀家制度に組み込まれ、人前では仏教徒を装いましたが、隠れた所では代々密かに洗礼を授け、主の祈り、使徒信条、天使のマリア祝詞、十戒を唱え祈りました。週の7日目は仕事を控え、クリスマスと聖金曜日は大事な日であると心に留めました。これは、イエス様が教えられたことと照らし合わせてどうなのか?信仰を守り通したことになるのか、それとも信仰を公けに言い表さなかったことになるのか?
この問題について、何年か前の説教で帚木蓬生の小説「守教」から大事な視点を得たことをお話ししました。どんな視点かと言うと、一つは、潜伏キリスト教徒たちは神父から、殉教は聖職者がすることである、信徒は何百年たとうが宣教師は再び必ず来日するから、その日に備えて信仰を絶やさないようにして将来の教会の再建の種を残しなさいという使命を託されました。もう一つは、隠れて信仰を続けることは実は命がけで勇気が要ることだったということです。もし、見つかって奉行所に引っ張って行かれたら、申し訳ありません、棄教しますと言っても何の助けにもなりません。拷問と死刑が待っています。小説の中では、見つかって連行されたキリスト教徒たちは棄教しようがしまいが結果は同じだからと、役人たちに向かって、あなたたちも神に造られた者だから神を拝まなければなりません、などと伝道します。まさに聖霊が語るべき言葉を与えた場面です。
そこで、現代日本でイエス様を救い主を信じると公けにせよというイエス様の命令を守るとどうなるかについて考えてみます。私たちの場合はキリシタン禁教の時代のように命に係わることはないと思います。潜伏キリスト教徒のように表向き仏神教徒を装って信仰を隠す必要も理由もありません。教会もあります。聖職者もいます。信仰を公けにすることで公権力から処罰もされません。ただし、キリスト信仰者が圧倒的少数派の社会に生きていますから、賢明に立ち振る舞わないと圧倒的多数派の中に埋もれて埋没してしまう危険があります。圧倒的少数派であるがゆえに声をあげなければならない、イエス様の命令が一層重要になると思います。
その時、自分が救い主と信じているイエス様がどんなお方であるか、どんなイエス像を提示するのかを考えることも重要です。現代社会ですと、イエス様を人権推進者ヒューマンライツ・ヒーローのように提示することは世の注目を集めると思います。マイノリティーに寄り添うイエス様、などと言ったら、世間からとても肯定的、好意的に見られるようになります。もちろん人権に反対する人にはウケないでしょうが、今の社会の趨勢は人権推進なのでイエス様をそのような方として提示するのは時流に適っていると言えます。イエス様は、信仰を告白すると迫害が起きるのは不可避と言われましたが、ヒューマンライツ・ヒーローなら大丈夫です。心配ないでしょう。
これに対して、私と私を派遣するミッション団体はそういう時流からみるとかなりズレています。イエス様を提示する時は、「創造主の神のもとに行ける唯一の道である」とイエス様の「唯一性」を強調します。今時このようなことを言うと反発を受けることが多いです。イエス様はそんなに狭い考えの持ち主ではない、と。「唯一の道」と言ったのはイエス様本人なのですが..。このような提示の仕方の方がイエス様の預言が現実性を帯びてきます。そうであれば、髪の毛の数を全て数えられる位に自分は神の手中にあることが身近になります。そうであれば、エレミヤの告白、主が私の魂を救って下さったということも身近になります。
主日礼拝説教 2023年6月18日(聖霊降臨後第三主日)
聖書日課 出エジプト19章2~8a節、ローマ5章1~8節、マタイ9章35~10章23節
1.
本日の福音書の箇所は一回読めば意味は大体わかります。しかし、難しいです。言っていることの意味はわかるのに難しいとはどういうことか?それは、キリスト信仰者になると迫害を受けるとイエス様が言っているからです。信仰のゆえに当局に引き渡されるとか、果ては信仰者でない肉親が信仰者の肉親を死に引き渡すとか、信仰のゆえに全ての人に憎まれるとか、こんなの読んだら誰もキリスト信仰者になりたいと思わないでしょう。信仰者も、ここを読み返したら心配になる人も出てくるかもしれません。これらが、意味的には難しくないが内容的に難しいところです。
意味的に難しいところもあります。例えば、10章16節でイエス様は伝道に送り出す弟子たちに、「蛇のように賢くあれ。鳩のように素直であれ」と指示します。「鳩のように素直であれ」というのはわかるとしても、「蛇のように賢くあれ」とはどういうことか?創世記3章1節で、人類を罪と死に追いやった蛇が「全ての動物のなかで賢い」などと言われています。イエス様は、送り出す弟子たちにあの蛇のようになれと言っているのでしょうか?もう一つ意味的に難しいところは10章23節、一つの町で迫害を受けたら別の町に逃げよと言っているところです。イエス様が再臨する日まではイスラエルの町をまだ全部逃げ終わっていないなどと言います。そこで、イエス様はまだ再臨されていません。と言うことは、キリスト信仰者はまだイスラエルの町々を転々と逃げ回っていることになりますが、今そんなことは起きているようには見えません。このイエス様の言葉はどう理解したらよいのでしょうか?
このように内容的にも意味的にも難しいところがいろいろある本日の日課は説教でどう説き明かしていいのか困ってしまうところです。そこで解決の手がかりとして、イエス様が弟子たちを伝道旅行に派遣する場面がマルコ福音書とルカ福音書にもあることに注目します。それらと本日のマタイ福音書の記述を比べるといろいろ違いがあります。違いがあるというのは、同じ出来事の記述ではあるが、マタイはマルコ、ルカと少し違う視点で同じ出来事を眺めているということです。それを明らかにして、先ほど述べた難しい事柄をもう一度見直してみると最初と少し違って見えてきます。そんなに心配にならなくなると思います。本当にそうか、これから見てまいりましょう
2.
本日の福音書の日課のマタイ10章はイエス様が12弟子を伝道旅行に送る際に述べた教えです。同じ出来事を扱っているマルコ福音書6章とルカ福音書9、10章の記述と大きく異なっています。どういうふうに異なっているかと言うと、まずマタイの方は最初に旅行のいろいろな規定が述べられます(5~15節)。伝道はユダヤ民族を相手にしろとか、金目のものは一切持って行くな、余分な服も靴も杖も持って行くなとか、弟子たちを受け入れない町から立ち去る時は足のほこりを落とせとかいうものです。
こうした旅行規定を言った後で迫害のことが述べられます(16節~)。最初に「弟子たちはオオカミの群れの中に派遣されるのと同じだから、蛇のように賢く、鳩のように素直になれ」とか、「イエスのゆえにあちこちで迫害を受け裁判にかけられるが、弁明の言葉は聖霊に任せよ」とか、「イエスの名のゆえに家族にさえ憎まれるが、最後まで信仰に踏みとどまれば救われる」とか述べます。その後で、先ほど触れた、イエス様の再臨の日まで逃避行が続くということが来ます。その後の続きは来週の日課になります。少し先取りして言うと、「憎しみや迫害や誤解の的になっても驚くな、主自身に起きたことは弟子たちにも起きるのだから」(24節)とか、「肉体を殺しても魂を殺せない者は恐れるべき者ではない」(28節)とか、「雀でさえ天地創造の神の意志のもとで生かされている、人間はなおさらそうである」(29~31節)などと続きます。このように最初に旅行規定を言って、その次に迫害の注意喚起とそれへの心構えについて教えるのがマタイ福音書の流れです。
ところが、マルコ6章とルカ9章でイエス様が12弟子を送る場面とルカ10章で72人の弟子を送る場面を見ると、マタイ福音書と同じような旅行規定を述べますが、マタイにある迫害の注意喚起と心構えはありません。そればかりか、マルコとルカでは旅行規定を言った後すぐ弟子たちは伝道に送られます。出かけた弟子たちは各地で神の国について宣べ伝え、病気の癒しや悪霊の追い出しを行ってイエス様のもとに帰還します。ところが、マタイでは11章1節でイエス様が弟子たちと別行動を取って自分一人で伝道を続けたように言われます。つまり、弟子たちは伝道に派遣されたのです。ところが、帰還については何も述べられていません。イエス様自身の伝道活動が11章全体で述べられ、12章に入るといきなり、イエス様がある安息日に麦畑の傍らを弟子たちと進んでいる場面がきます。弟子たちはいつ伝道旅行から帰ってきたのか?
皆様も既にご存じのように、4つの福音書には同じ出来事を扱っていてもそれぞれ描写に多かれ少なかれ違いがあることが多々あります。本日の箇所もそうです。こうした違いは、違いが全くないことに比べると、かえって出来事が歴史的事実性を強く帯びるということを以前お話ししました。ここでは繰り返しませんが、マタイの記述がマルコやルカと違うことで、マルコやルカからは見えてこないことが見えてきます。これからそれを見ていきましょう。
3.
なぜマタイ福音書では弟子たちが伝道旅行から帰ってきたことが語られないのか?
マルコ福音書とルカ福音書は弟子たちが帰ってきたことをはっきり記すことで、彼らの伝道旅行はイエス様の十字架と復活の出来事の前に起きたことがはっきりします。ところがマタイ福音書では、弟子たちが帰ってきたことが述べられていないので、弟子たちの伝道旅行はマルコやルカと比べると完結した感じがしなくなります。伝道旅行はもちろん十字架と復活の前にあったことですが、マタイは十字架と復活の後に起こる伝道旅行も視野に入れているということが見えてきます。
それともう一つ、マルコとルカでは迫害の注意喚起はありません。実際、伝道先では病気を治したり悪霊を追い出したりしてミッションは成功だったと弟子たちはイエス様に報告します。迫害を受けたことは報告されていません。マタイ福音書では伝道旅行は迫害を伴うと言われます。実際、十字架と復活の後の弟子たちの伝道は、使徒言行録を繙けばわかるように迫害を伴うものでした。ここからも、マタイが伝道旅行に際して迫害の注意喚起を入れたのは、伝道旅行を十字架と復活の前のものだけでなく後のものも視野に入れていたことが見えてきます。もちろんマルコとルカにも、イエス様の迫害の注意喚起はあります。ただし、それは、エルサレムの神殿が破壊される時とか、この世の終わりが来る時とか、そういうイエス様の再臨を待つ時代に起こることとして述べられます。要するに、マタイもマルコもルカもイエス様の十字架と復活の後の伝道は迫害を伴うということでは一致しているのです。ただ、マルコとルカは十字架と復活の前の伝道旅行と後の伝道は別々に扱い、マタイは十字架と復活の前の伝道旅行と後の伝道旅行が繋がっているようにしているのです。
ここで、伝道が十字架と復活の前と後で意味合いが異なってくることに気づくことは重要です。十字架と復活の出来事が起きる前の伝道とは、人間を罪の支配状態から救い出す神の救済計画が実現する前の伝道です。その時のイエス様の伝道の主眼は、「神の国が近づいた」と人々に告げ知らせ、旧約聖書を神の意図通りに正確に教え、あわせて不治の病を癒し悪霊を追い出すことでした。「神の国が近づいた」ことは、病の癒しや悪霊の追い出しから明らかになりました。病気や悪霊の力を超えた力が存在し、そういう力が働く領域があるということがはっきり示されたからです。黙示録21章にあるように、「神の国」とは全ての涙が拭われて悩みも嘆きも苦しみもそして死さえない国だからです。そのような国がイエス様とくっつくようにしてやってきたのです。イエス様は弟子たちを伝道に派遣する時も、自分と同じようにしなさいと命じました。「神の国が近づいた」と人々に告げ知らせ、それが本当だとわかるように、病を癒す力と悪霊を追い出す力を弟子たちに授けたのです。
しかしながら、いくらイエス様とその力をもって神の国が近づいたことが明らかになっても、最初の人間アダムとエヴァの時に人間に備わってしまった、神の意思に反しようとする性向、罪は代々人間に受け継がれたままです。人間はそのままの状態では神の国に入ることはできないのです。罪のゆえに人間は神聖な神とあまりにも対極なところにある存在になってしまったからです。罪の問題を解決しなければ神の国に迎え入れられません。いくら病気を治してもらっても悪霊を追い出してもらっても、罪の問題の解決なくして、人間はまだ神の国の外側にとどまっているのです。癒しを受けた人たち悪霊を追い出してもらった人たちは神の国に迎え入れられたのではなく、来るべき神の国がどんな国であるか、黙示録で言われている国であることを前もって垣間見た、味わっただけなのです。
人間が神の国の外側からその内側に迎え入れられるようにして下さったのがイエス様でした。イエス様は本当であれば私たち人間が受けるべき罪の神罰を全部引き受けて十字架の上で死なれました。私たち人間の罪を私たちに代わって神に対して償って下さったのです。さらに、神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、その命に至る道を私たちのために切り開いて下さいました。神がひとり子のイエス様を用いて人間のために罪の問題を解決してくれたのです。
あとは人間の方が、これらのことは本当に起こったのであり、だからイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになります。罪を償ってもらったからその人は神から罪を赦された者と見なされます。罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになります。永遠の命と復活の体が与えられる日を目指して進む道に置かれて、その道を神との結びつきを持って進むようになります。
その時、キリスト信仰者といえども、まだ復活の体ではない肉の体を纏っているので、罪は残っています。しかし、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、罪は信仰者の道の歩みを妨げる力を失っています。人間的な弱さや隙をつかれて道の歩みを邪魔される時もあります。しかし、一度打ち立てられた十字架の罪の赦しは永久に打ち立てられたままです。十字架が現す罪の赦しと罪からの贖い、復活の命などに洗礼によって結びつけられました。罪には信仰者の道の歩みを妨げる力がないことは明らかすぎるほど明らかです。信仰者はこの神のお恵みによって道の歩みを続けることができるのです。
以上から、ガリラヤ時代のイエス様の弟子たちの伝道は、神の国が実在することを告げ、それをわからせるために病気癒しと悪魔祓いをする伝道でした。それが、イエス様の十字架と復活の後になると、伝道の目的は人間をまさに神の国の中に入らせることに変わったのです!こうなると、イエス様を救い主メシアと認めないユダヤ教社会の指導層と以前にも増して対立することになります。それだけではありません。他の神々や霊、果ては人間の支配者を崇拝するよう要求する各国政府との衝突も避けられません。マタイは十字架と復活の出来事の後に福音書をまとめ始めたわけですが、マルコやルカのようにガリラヤ時代の弟子たちの伝道を歴史的な過去として扱うことはせず、全ての時代に当てはまる普遍的な出来事として扱ったのです。伝道とは、神の国を外側から垣間見させる、味わせることではない、神の国の内側に入れるようにするのが伝道であるという視点で書いたのです。それで迫害の注意喚起と心構えについてのイエス様の教えを、ガリラヤ時代の伝道旅行のところに持ってきたのです。
4.
このマタイの視点をもって、今度は意味的に難しいこと、内容的に難しいことを見てみましょう。
まず、「蛇のように賢くあれ、鳩のように素直であれ」。ここは言葉の問題があると思います。創世記3章1節にある蛇はどんなだったかという言葉ァルームは、ヘブライ語・英語の辞書を見ると「賢い」もありますが、「巧妙な」、「巧みな」、「抜け目のない」もあります。蛇のやったことを考えたら、こちらの方が「賢い」よりもピッタリなのではないかと思います。マタイ10章の蛇はギリシャ語ではフロニモスと言われます。これは辞書では「賢い」という意味ですが、少し考えなければならないことがあります。ヘブライ語の旧約聖書はイエス様の時代の200~300年前にギリシャ語の翻訳されました。創世記3章1節の問題のヘブライ語の言葉はこのフロニモスに置き換えられました。しかし、訳した人は蛇のやったことを当然知っていたので、フロニモスに「巧妙さ」、「巧みさ」の意味を含ませたと考えるのが妥当です。なので、マタイ10章のフロニモスも同じように「巧妙な」、「巧みな」と考えた方がよいと思います。
創世記3章の蛇は人間を神から引き離すという明確な目的を持ち、それを見事に達成しました。「これを食べたら神のようになれるぞ」という誘惑の言葉が決め手となりました。被造物にとどまるのは嫌だ、創造主の神の地位に上りたいという人間の心に上手く付け入ったのです。「巧妙」と言うのは、こうした明確な目的とそれを達成する最適な手段の選択によくあらわれています。
しかしながら、イエス様は蛇の次に鳩を出すことで、目的と手段はなんでもいいということではなくなって決った方向に方向付けられます。日本語訳では鳩は「素直」となっていますが、ギリシャ語の言葉アケライオスは「汚れがない、清い、無垢、無実、潔白」という意味です。「素直」ではなんだか言われたことを従順に聞き従う感じになってしまいます。「汚れがない、清い、無垢、無実、潔白」というのは神の御前でそうだと言うことです。それなので、明確な目的を持ち最適な手段を選ぶという点では蛇と同じだが、目的と手段は神の目から見て相応しいものでなければならなくなります。伝道の明確な目的とは言うまでもなく、人間を神の国の中に迎え入れられるようにすることです。そのための最適な手段は何かを状況に応じて考えなければなりません。それを見つけられれば、鳩のように「清く」、蛇のように「巧み」になれます。
次に迫害の問題について、信仰者でない肉親が信仰者の肉親を死に至らせるなどとは恐ろしいことです。歴史的に迫害が激しかった時代にはそのようなことがあったことは想像に難くありません。現代でもイスラム教が厳格なところではそのようなことが起こると聞いたことがあります。信仰の自由が保証されている時代に生きられて本当に良かったと思います。しかしながら、マタイ10章にある迫害の注意喚起は、先ほども申しましたように、マルコ福音書とルカ福音書では、ガリラヤ時代の伝道旅行の所ではなく、十字架と復活の後のこととして出てきます。エルサレムの神殿が破壊される時とか、この世の終わりが近づく時とか、イエス様の再臨を待つ時代に起こる迫害の注意喚起が述べられます。なので、キリスト信仰者は平穏の時代を生きている時も(それは感謝すべきことですが)、それは本当の姿ではない仮の姿だという警戒心を持っていないといけないと思います。
警戒心だなんて、そんなこと言っていたら人生楽しくなくなると言われるかもしれません。しかし、そうではないのです!永遠の命と復活の体が待っている日を目指して進むキリスト信仰者にとって人生はどのようなものになるか、そのことが本日の使徒書の日課ローマ5章でも的確に述べられています。イエス様を救い主と信じる信仰により、神の目に相応しい者、義なる者とされる、神聖な神の前に立たされても大丈夫な者になる。それで神との間に敵対関係はもうなく、ただただ平和な関係にある。天地創造の神と平和な関係にあれば、他のものは全て造られた被造物なので造り主より劣るのは明らかである。そんなものが敵対してこようが恐れるに足らず。このような信仰に立てれば、試練があってもそれは忍耐に転化する。忍耐は鍛えられた心に転化する。そして鍛えられた心は希望に転化する。パウロは、「希望」とは神の栄光に与る希望だと言います(2節)。どんな希望かと言うと、復活の日に死の眠りから目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるという希望です。私たちがまだ罪びとであった時に、私たちがそのような栄光に与れるようにとイエス様は自らを十字架の死に委ねられたのでした。これが神の愛です。この愛を神は、洗礼の時にキリスト信仰者に与えた聖霊を通して信仰者の心に注いで下さいます(5節)。それでキリスト信仰者は聖霊のおかげで霊的な喜びに満たされるのです。
この福音を伝道することがどれだけ大切なことであるか、本日のマタイ9章の終わりでイエス様が述べています。群衆が羊飼いのない羊のように打ちひしがれて見捨てられた状態にある。それは、神との平和な関係を持たず、罪の力にされるがままにある状態のことです。神の愛も霊的な喜びもありません。人々がその状態から脱せられて神と平和な関係を持てるように、そのために福音を宣べ伝え教える働き人が必要なのです。
最後に、イエス様の再臨の日までキリスト信仰者は迫害を逃れてイスラエルの町々を逃げ回っているという言い方について。もちろん、私たちキリスト信仰者は迫害を受けて今イスラエルの町々を行ったり来たりしていません。そうではなくて、イエス様の言葉は、キリスト信仰者というのは本質的にこの世にではなく神の国に属する者であるということを意味する言葉と考えればよいでしょう。再臨の日が来ても、まだ全部の町を逃げ終わっていないというのは、この世には安住の場はない、本当の安住の場は神の国なのだということです。それ位、キリスト信仰者はこの世に属する可能性はゼロで100%神の国に属してしまっているということです。そこまで完璧に属しているのであれば、逆に安心ではないでしょうか?
<私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安が、あなた方にあるように>
「罪人を招くキリスト」 2023年6月11日
聖書:マタイ福音書9章9~13節
きょうの聖書のテーマはキリストは地上では罪を許す権威を持つ方である。ということです。
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福音書を見ますと、この権威をめぐって、イエス様とユダヤ教の律法学者との間にはいつも対立がありました。この対立が激しくなって、ついにイエス様を十字架上で処刑するという恐ろしいことになってしまいました。対立や憎しみ、争いからは何も良い事は生まれません。行き着く先は悲劇の結果しかない。その悲劇が今も世界で戦争が続いています。きょうの聖書のマタイ9章9節から13節までのところでもイエス様を批難する、という対立が出て来ます。まず9章9節には、徴税人のマタイをイエス様は弟子の一人に招かれたのでした。この福音書を書いた「マタイ」その人です。このマタイという人がどういう人であったか。マルコ福音書2章14節によれば、「アルパヨの子レビ」と呼ばれていました。だから元の名は「レビ」であった。ヨハネ福音書1章の42節のところで、シモン・ペテロの兄弟アンデレが兄のペテロに「イエス様に会ったよ」と言って紹介した。そしてシモン・ペテロをイエスのところに連れて行った。イエス様はそこで「あなたはヨハネの子、シモンであるがケファ(岩という意味)と呼ぶことにする」と言われた。ちょうどそれと同じように、アルパヨの子レビもイエス様の弟子とされた時「マタイ」とあだ名されるようになった。と言うのです。マタイ9章9節を見ますと、「イエスはそこを去り、通りがかりにマタイという人が徴税所に座っているのを見かけて『私に従いなさい』と言われた。」と書いています。マタイが自分の事を書いているんですね。このマタイという人が徴税所に座っていた。ですから、彼はユダヤ人でありながら税金を取り立てる仕事をしていたのです。ユダヤは、この当時ローマ帝国の支配下にありました。ユダヤはローマ帝国に税金を納めなければならない。その税金を取り立てる仕事をマタイは請け負っていたわけです。徴税人と呼ばれユダヤの民からは蔑まれ、憎まれ、裏切り者と呼ばれ売国奴として皆から嫌われていました。イエス様はマタイのそうした職業の立場で苦しんでいることなど、すべてをご存知の上でマタイに目をかけて声を掛けられたのでありました。実はイエス様は、この前に既にガリラヤの漁師をしていたペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレと言った漁師たちを「これからは人間をとる漁師にしよう」と言って弟子として招いておられました。漁師ですから、彼らは力強い、素朴な男たちです。でも貧しく教養もない者たちです。こうした男たちに、まず弟子となる声を掛けられたこと自体が驚きでした。しかし、今度はマタイを弟子にされています。漁師たちと違って、彼は教養もあり金もある、しかしユダヤの同胞からは嫌われていた徴税人であった彼に声を掛けられていいます。
これは、また一層の驚きであります。「私に従って来なさい」とのひと声にマタイは立ち上がりイエス様に従ったのです。マタイはこれまで徴税人として、かなり金も持っていて家族や友人などもあったかもしれない。それらの一切を捨ててイエス様に従ったのです・。これは大変なことです。彼の一生の一大転換の出来事であったでしょう。何故イエス様のひと声にマタイは従って行ったのでしょうか。マルコ福音書2章13節を見ますと、「イエス様が中風の人を癒す奇跡の出来事をなさって、イエスは再び湖のほとりに出た行かれた、群衆が皆そばに集まって来たのでイエスは教えられた。」とあります。恐らく彼方此方で群衆がイエス様のもとに集まってきたので、そこで大切な教えをなさった。また、行く先々で病人を癒したり、人々が驚くような奇跡を起こされた。その噂を人づてマタイは聞いていたのでしょう。特にイエス様の語られる教えに胸打たれ、また罪人や弱い人々を限りなく慈しんでゆかれる姿に心惹かれ、マタイは常々話を聞いては考えさせられていた。自分はどうしてこういうユダヤ人として生まれてきたのか。生きていくため本当は望まない仕事でも、やらざるを得ない。彼は貧しい自分の民から無理やりでも税を取り立てて、心がどんなにか痛んでいたことでしょう。そうした中にイエス様の目にとまり、ひと声の招きを聞いた瞬間、彼の全ての思いと魂が光に打たれたような、運命的なみ霊に包まれて導かれて行ったのです。そして、即座に自分の過去もこれからの事も一切このお方に委ねてゆく決心をして立ち上がり、ただ従って行ったのです。もう、後戻りはできない。これから自分の人生がどうなって行くのかもわからない!漁師であったペテロ、ヤコブたちは又戻っても恐らく兄弟たちか家族があとを継いで漁師をやっていますでしょう、だから後戻りが出来るでしょう。マタイは税を取り立てていたサラリーマンでしたから、もう彼の後釜は誰かがやっていて道は塞がっている、後戻りなどできない。前に進むしかない、イエス様の弟子たちと共に運命を預けて行くことになったのです、マタイの思いはどうだったでしょう。私自身もサラリーマンを捨てて神学校に入った途端、それまでの月給もボーナスも収入は全くない、学費と生活のための一切をどうして生きていったらよいのか。マタイの気持ちが良くわかります。
さて、10節を見ますとマタイはイエスとの出会いで、もうとても嬉しかったのです。「それから、イエスが家で食事の席についておられる時のことである。」とあります。イエス様に召されたマタイのした事は第一には職業を変えた、という事。第二にはイエス様や弟子たち、そして徴税人、罪人と共に宴会を開いた、という事です。ところで、10節のところを良く読んでみますと、はじめにある「イエスが」というのは「彼が」というただの代名詞です。次の「家で」というのは冠詞がついていて「その家で」と記されている。ここを文法的に直訳すると、10節はこうなります。「そして彼がその家で席に着いていた時のこと、見よ、多くの徴税人や罪人も来て、イエスと彼の弟子たちと共に席に着いた。」とこうなります。9節から続いて読みますと「すると、彼は立ち上がってイエスに従った。そして彼がその家で席に着いた。」こう読めます。これは、いかにもマタイが立ち上がってイエスに従いイエスの家に行き、その食卓に着いた」と言うようです。マルコ福音書の方では「そこで彼は立って彼に従った。そして彼が彼の家で席に着いている」こうあります。席に着いた「彼」というのをイエスと解すればイエスが自分の家で席に着いた、ことになります。今度は「彼」というのをマタイであるとすれば、マタイが自宅で宴会を開いた、となります。このように、どちらの文章も宴会を開いたのがマタイなのかイエスなのか、また会場がマタイの家なのかイエス様の家だったのか、大変にわかり難い文章です。この事実はルカの福音書の方で明らかになります。ルカは5章29節に、その宴会はマタイの家で催された。しかもイエスのために開かれたのでした。ですから、会場はマタイの家で開かれ、余程うれしかったと思います。そこで費用もマタイが全部出しているのでしょう。ここで大切な事は宴会そのものはイエス様のための宴会で、マタイ自身のためのものではなかったというとです。食事を共にして、もてなしをしたい、というマタイの主イエス様に捧げたい気持ちがここにあふれるように思われます。現代の私たちの教会で礼拝をすること自体マタイのように自分の一切を捧げて神様を敬う、その一つの表れとして献金を捧げる、ことにあると思われます。さて、きょうの聖書の中心点はイエスは罪人を招くために来られた、ということです。マタイは自宅を開放し、友人たち、徴税人を招き、貧しく困った生活をしている人々に、これまでつれなく酷い税の取り立てで冷たくあしらった人々を招き、そうした罪滅ぼしの気持ちを表したい、そして社会的に日陰で辛い思いをしている人々を、いくらかでも明るく解放してあげたいとも思ったのでしょう。マタイは特に裏の社会の悲惨さも充分知っていた人ですから、皆を招いてイエス様と一緒の食事をしたかったのでありましょう。ここで私たちに教えられているメッセージは何でしょうか。マタイが催したように自分の家を開放して、いつでも心置きなく訪ねられる、又、食事を共にしてイエス様の大事な話を聞けるようにしてやったことであります。聖書を見ますと、マタイがしたように漁師であったペテロもそうでした。自宅を開放し、イエス様のカぺナウムでの伝道の拠点とされました。使徒言行録10章24節にはコリネリオも自宅に友人や親族を招いてペテロの伝道集会を開きました。又、使徒言行録12章12節ではマルコの母マリヤも自宅を開放してエルサレム教会の会場としました。更に、使徒言行録16章14節にはルデヤも自宅を開放しピリピの伝道の会場としました。使徒言行録18章26節を見ますとアクラとプリスキラもエペソの自宅にアポロを招き伝道しました。又、ロマ書16章3節ではアクラとプリスキラがローマの新居をローマ教会の集会場に開放しました。コロサイ書4章15節にはラオデキアのヌンパも自宅を教会に捧げまいた。ピレモン書2節にはピレモンも自宅を教会に聖別して捧げました。こうした、初代教会の輝かしい進展は主によって招かれたひとりびとりが自宅をイエスのために捧げ、解放して多くの友や罪人たちをイエス様の救いに与からせて行きました。考えてみますと私たちは誰でも初めての教会を訪ねた時、気恥ずかしく気後れするものです。自分のような者でも神様の礼拝に与からせてもらえるものかしらと、何度も教会の玄関ま行っても教会の敷居は高く感じるものです。心の悩みや心に重荷を負った人、罪の意識にどうしたら良いか迷っている人々は教会の門まで遠いものです。そこに貧しくとも、悩み困惑しつつあっても快く迎えられる教会の解放された姿こそイエス様が望まれた姿でしょう。さて、11節から13節を見ますとマタイの家での罪人たちとイエス様と弟子たちとが共に食事をしている光景をパリサイ派と言われる律法学者たちが来てイエス様の弟子たちに言った。「なぜ、あなたの先生は徴税人や罪人たち等と食事を共に交わっているのか」と非難したのです。それに対してイエス様は二つの反論をもってお答になりました。
第一は医者の例を話され、医者という者は病人のためにあるのだ。医者が病人に接して病気がうつるからと言って離れていては病人は治らないでしょう。そのように、救い主も救いを必要とする罪人を招くために来たのである。パリサイ派の人の如く「自分は健全だ」と自惚れ「自分こそ義人だ」と言っている者にはイエス様とは縁がないでしょう。自ら救われたい、と願っている魂の病人にとってはイエス様は慰めと癒しを豊かに与えて下さる医者であられます。
第二に、イエス様は言われます。「私が好むものは憐みであって、生贄ではない」これは旧約聖書のホセア書6章6節の言葉を引用してパリサイ人に答えられたのです。「憐み」というのはヘブル語の原語では「ケセド」と言い「慈しみ」と記されています。BC8世紀の預言者ホセアは「エフライムよ」と言って北のイスラエル人に呼びかけました。又、「ユダヤよ」と言って南のユダヤに呼びかけて南北、全イスラエル人の罪を責めました。その罪とは「あなた方の愛、ヘブル語のケセドが雲か露のように消え失せる、儚さにありました。反対に神様が求めたもうものは、まさにそのケセドである愛、慈しみなのです。ですからイエス様が好まれるのは神への愛、神への慈しみなのだ、と言っておられるのです。それには、神を知ること。神を喜ぶことであります。その「知る」というのは知識として神を知るだけではなく、結婚関係を結ぶほどの一体となる体験的知り方を表しています。つまり、神と結婚関係に入ったイスラエルが、つまり神の選ばれた民が神との契約に忠実なことを意味しています。”エフライムよ、ユダよ、あなたの貞節は実にはかない、それで私は。我が口の言葉で裁いた。私が欲しいのは見せかけの供え物などではない。本当に神の花嫁らしい、操が欲しいのだ”と言われておられるわけです。イエス様は供え物という礼拝形式よりも、神への忠実さが大切だ、と言っておられるのです。パリサイ人は供え物のような規則を守ることや、異邦人とは交わるな、と言った形ちばかりを追いかけて行く、それは本末転倒で神への忠実という中身を忘れている、というのです。
イエス様は、ただ罪人と席を共にするために来たのではない、罪人を招き、神に忠実な民へと生まれ変わらせるために来たのである。、とそう言っておられるのであります。
<人知では、とうてい測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。> アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。