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主日礼拝説教 2023年6月25日(聖霊降臨後第四主日)
聖書日課 エレミア20章7-13節、ローマ6章1b-11節、マタイ10章24-39節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の旧約の日課はエレミア書20章の預言者エレミアの告白、福音書はマタイ10章の終わりにあるイエス様の教えです。エレミア書の方は、かつて栄華極めたダビデ・ソロモンの王国が神の意思に反する生き方をして内憂外患に陥り、最後は東方の大帝国バビロンに滅ぼされるという、その動乱の時期の紀元前7世紀終わりから6世紀初めにかけての頃のことです。神は、国に迫る危機を国民に知らせて神に立ち返るようにしなさいとエレミヤに命じます。エレミアはその通りにするのですが、国民はこぞって彼に反対し、人心を惑わす者として迫害してしまいます。本日の個所でもそのことについてのエレミアの苦悩と神への愚痴が述べられています。
マタイ福音書の方を見ると、イエス様は自分のことを救い主と信じる者が将来迫害を受けると預言しています。エレミアもイエス様も、神から人々に伝えなさい、自分の信仰を知らしめなさい、と言われてその通りにすると命にかかわる大変な目に遭うと述べています。しかし、両者とも、神はその者たちの魂を救うと言われます。
そこで本日の説教では最初に、神が魂を救うというのはどんな救いかを見てみます。その時、「魂」とは何かを考えなければなりませんが、これがなかなか難しいです。魂と似た言葉に「霊」もあります。これもわかりそうでわかりにくい言葉です。旧約聖書のヘブライ語で「魂」と訳されるもとの言葉はネフェシュ、「霊」と訳される言葉はルーァハです。新約聖書のギリシャ語で「魂」と訳されるもとの言葉はプシュケー、「霊」と訳される言葉はプネウマです。「魂」と「霊」ははっきり区別されるものですが、聖書の中では時たま重なっていることもあります。今回は「霊」の方は見ずに「魂」の方を中心に見ていきます。
神が魂を救うとはどんな救いか?それは、キリスト信仰では「魂の救い」が「復活」と結びついていることに気づけばわかります。その結びつきは本日のエレミヤ書の日課の個所にも見ることが出来るのでそれを見てみます。終わりに、マタイの個所が提起している問題、すなわち、人前で自分はイエス様を救い主と信じると公表すればイエス様もその人のことを天の父なるみ神の御前で自分に属する者であると認めてあげる、しかし、もし人前でイエス様を否定したら、彼も天の神の前でその人を否定するということについて少し考えてみます。この日本でイエス様を救い主と信じることを公表することにはどんな難しさがあるか、それをどう乗り越えていけるかということについて考えてみます。
「魂」という言葉にはいろいろな定義があると思います。聖書に出てくる「魂」を理解しようとしたら、その言葉が出てくる箇所を全部見て、どんな文脈でどんな使われ方をしているかを見て意味を捉えることが重要です。先ほど申しましたように、「魂」という日本語に訳されるもともとの言葉はヘブライ語でネフェシュ、ギリシャ語ではプシュケーです。ネフェシュが出てくる箇所を全部洗い出す、同様にプシュケーが出てくる箇所も全部。しかし、それはなかなか大変な作業です。新約聖書だったらいつかそれをしてみようという気が起こりますが、旧約聖書だったらちょっと尻込みします。分量が多いのでこの年齢で始めたら命が一つだけでは足りないのではないかと思います。それで、ここで申し上げることは本当に氷山の一角のさらまた一角の一角にも満たない定義だということをどうかご了解頂き、話を進めてまいりたいと思います。
本日の福音書の日課のイエス様の教えの中で「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(10章28節)という箇所があります。人間には体の部分と魂の部分があるということです。体の部分は殺されて腐敗してしまっても、殺されず腐敗しない部分がある。それが魂ということになります。ただし、その魂も神は滅ぼすことが出来る。「地獄で」と言っているので最後の審判のことを言っています。しかし人間には魂を滅ぼすことは出来ない。人間が滅ぼすことが出来るのは体の部分まで。人間が人間を滅ぼそうとしても、殺せるのは体までで魂は殺せない、なので人間は人間を完全には殺せない、滅ぼせないということです。逆に神は最後の審判の時に体と魂の両方を殺せる、完全に滅ぼせると言われるのです。
魂は人間の目で見えない部分です。体は目で見える部分です。体は手や足など肢体があり肉体があり骨や内臓があります。みな目で確認できます。しかし、魂は目で確認できません。体は死んだら腐敗してしまいますが、魂はそうならないで残ります。もちろん、神に守られていればの話です。そこで、その目で見えない魂は人間のどんな部分なのか少し旧約聖書をもとに見ていきます。
詩篇130篇をみると、「わたしの魂は望みをおき、わたしの魂は主を待ち望みます」と言われています。手足と違って神を待ち望む器官がある、それが魂となります。この場合は魂は日本語の「心」に置き換えることが出来ます。詩篇23篇を見ると、「主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる」(2~3節)とあります。「生き返らせて下さる」などと言うと、死からの復活を連想させてしまいますが、ここは文字通りの復活ではありません。ヘブライ語の動詞ユショベーブは、疲れ切った状態から回復させるというような、元気回復、リフレッシュの意味です。元気回復するのは手足を含めた人全体です。つまり、ここでは「魂」が人全体を言い表す使い方です。さらに詩篇121篇では、主が「あなたの魂を見守ってくださるように」と言われます。この場合、体も含めた人全体を言い表しているとも言えるし、また、体とは別に魂だけに特化して守りをお願いしているとも言えます。その場合は魂は日本語の「命」に置き換えることができます。
さて、聖書の「魂」は、人全体を言い表したり、「命」や「心」にも置き換えられる言葉であることがわかってきました。本当は聖書の使い方の例をもっと沢山調べた方がいいのですが、この程度でも方向性が見えてくるのではないかと思います。方向性というのは、日本語の「魂」という言葉を聞いて頭に浮かんでくるものに耳を傾けず、あくまで聖書に出てくるネフェシュやプシュケーに耳を傾けるということです。
そこで、魂は肉体が消滅してもあるということについて。肉体が消滅して、肉体のような見える形は持たないが何かその人が残っていることになります。肉体を持たない人格のようなものです。ここでキリスト信仰の中で大事な事柄、「復活」の出番となります。復活とは、使徒パウロが教えるように、死の眠りから目覚めさせられて、肉体の体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられる、ということです。体は肉から復活の体に変わっても、人格は変わりません。それなので「私は吉村博明である」という自分が続きます。目覚めた時、この世で纏っていた朽ち果てる体にかわって神の栄光に輝く体を纏っている自分に気づくのです。
本日の福音書の個所の終わりでイエス様が「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言っています。これも聖書の「魂」が復活と結びついていることを示すところです。「命」と訳されていますが、もとの語はギリシャ語のプシュケー「魂」です。だから、本当は「自分の魂を得ようとする者は、それを失い、わたしのために魂を失う者は、かえってそれを得るのである」と言っているのです。「わたしのために魂を失う者は、かえってそれを得る」と言うのは、明らかにキリスト信仰者が迫害にあって命を落とすことです。そうすると、あれっ、さっきイエス様は魂は殺されないと言ったではないかと言われてしまうのですが、ここは「魂」が「命」に置き換えられるところと考えればよいでしょう。迫害で命は落としても、肉体のない人格は復活の日に復活の体を着せられるまで神に守られて眠りについている、なので「魂」は殺されてはいないのです。そして復活の日に復活の体を着せられて神の御許に永遠に迎え入れられる。その時の命は「永遠の命」です。「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」とはまことにその通りです。
逆に、イエス様が自分の救い主になっていない者は、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものにしておらず、罪から贖い出された状態にもありません。そのような者が永遠の命を持てるようにしよう、しようと努力しても、最後の審判の時に罪が償われておらず罪からも贖い出されていない状態のまま神の御前に立たされることになってしまいます。それは非情に厳しいと思います。「自分の命を得ようとする者は、それを失う」というのはまことにその通りです。しかし、神がひとり子イエス様を用いて果たして下さった罪の償いと罪からの贖いは、神が私たち人間に受け取りなさいといつも提供して下さっているのです。今からでも受け取るには遅すぎることはありません。
エレミアは、神から宣べ伝えなさいと言われてその通りにすればするほどひどい目にあってしまうという悲劇の預言者でした。果たして、国は滅び人々は占領国に連行されてしまいます。しかし、神は悔いる民に憐れみを示して祖国帰還を実現するという希望の預言も残します。神は罪に汚れた民をただ罰して消滅させてそれで終わりという方ではない。新しく生まれ変わらせ建て直して下さる方でもあることがはっきりするのです。だから祖国滅亡しても自暴自棄にならず、神を信頼して建て直しの時を待つのが正しい生き方です。
エレミアのメッセージは、神の御言葉を宣べ伝えたり人々に信仰を証しすることで迫害を受けることになっても、それですべてが終わりではないというものです。今日の日課の個所もそうです。神は必ず、その者に報い補償をして下さる。それは、およそ神の御心に沿うものとして行ったことは無意味、無駄なものは何一つないという神の約束を意味します。この考えは旧約聖書、新約聖書の随所に見られます。
7節から10節は、神が宣べ伝えよと命じた通りにすると、どれだけ散々な目に遭うかという複雑な心境が吐露されます。ところが11節で、神は迫害者よりも偉大なのだという確信を述べます。その根拠が12節と13節で言われます。「万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ。わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明けお任せします。主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。」
ここで注意しなければならないことがあります。「わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを」の「復讐」という言葉ですが、ヘブライ語・英語の辞書によれば、人間がするものなら「復讐」でいいが、神がするものならば「報い」、「補償」にするとありました。そこで、何の「報い」、「補償」になるのかと言うと、最後の審判の時に行われる正義と不正義のアンバランスの大清算です。神に立ち返る生き方をした者がしなかった者から受けたあらゆる仕打ちや損害に対して、それこそ神の正義の尺度に基づく補償、賠償が行われる。この世でないがしろ中途半端にされてしまった正義が最終的に実現するということです。逆に、仕打ちや損害を与えた者たちには正反対の報いが待っているということです。ローマ12章でパウロが復讐は私たちがするのではない、神に任せよ、と言うのも同じです。最後の審判で正義が最終的かつ完全に実現する大清算が行われる、だから今は敵が飢えていたら食べさせよ渇いていたら飲ませよ、という行動規範が生まれます。それで相手が心を改めたら、悪事が止むのでこちらも安心でき、相手も地獄の炎に堕ちなくてすむので両方にとってウインウインになります。しかし、もし相手が心を改めなかったら、それは将来自分に降りかかる悲惨を自分で一生懸命積み重ねることになります。
エレミアが神の補償を見ることになると言う根拠が次に来ます。日本語訳にはありませんが、ヘブライ語には「なぜなら」と根拠を言っています。「なぜなら、自分の訴えをあなたに委ねたからです」。訴えをあなたにお委ねしますので、あとはお任せしますということです。パウロの、復讐は自分でしないという考えと同じです。訴えを全て神に委ね任せたので、あとは最後の審判の時に補償してもらえるということです。
13節の「貧しい人の魂」の「貧しい」ですが、辞書では「抑圧された者、虐げられた者、迫害された者」の意味があります。金銭的な貧しさだけではありません。エレミアが置かれた立場がまさにそうでした。ところがエレミアは、神に褒め歌を歌え、賛美をせよ、と読者に勧めます。なぜなら神は虐げられた者であるこの私の魂を悪を行う者の手から救い出して下さったからだ、と言うのです。ヘブライ語では動詞は完了形なので「救い出して下さった」と訳します。これは面白いことです。なぜなら、今まさに迫害の渦中にあるのに自分の魂は既に神の手中にある、体の部分は痛い目にあっているが魂の部分は神の手中にあって守られている、だから迫害のさ中にあっても神に褒め歌を歌い賛美をするのが当然だと言うのです。
このことは本日の福音書の日課の中で、神は私たちの髪の毛の数も全て数えて把握していると言われていることと同じです。キリスト信仰者にとって、これは神の手中にあることがこれだけ完璧であることを言っているのです。神の手中にあって私のどこも神の手からこぼれ落ちていない。そのように守られるから、最後の審判と復活の日をクリアーできる。まさに、今日の説教題「神は信仰を守り告白する者を最後まで責任をもって面倒を見てくれる」のです。
このような、今は理想的な状態にいるとは言えないのに、その状態にあるのと同然だということは本日の使徒書の個所ローマ6章にもあります。洗礼を受けた者がイエス様の死だけでなく復活にも結びつけられているということです。復活は将来のことですが、洗礼でイエス様の死に結びつけられて罪の体が葬られた、それで罪が自分をもう支配できない状況が生じた。あとはその状況に入り込もう、入り込んだら今度はそこから出ないようにしっかり留まろう、そのようにして生きるだけである。それが「罪に対して死に、神に対して生きる」ということです。キリスト信仰者とは、ルターの言葉を借りれば、片方の手はこの世を掴んでいるが、もう一方の手は復活を掴んでいるということになります。あとは肉の体から離れれば、両手は復活を掴むことになります。パウロが「フィリピの信徒への手紙」の中で早くこの世を去りたいと願ったのはこのためです。しかし、彼はキリスト信仰者には神から託された使命、課題があり、それを果たさずにこの世を去ることは許されないこともわかっていて、そこにジレンマを感じていました。このジレンマはパウロだけでなく全てのキリスト信仰者に共通のものです。
本日の福音書の個所でイエス様は、人前で自分はイエス様を救い主と信じる者であると公表すれば、イエス様も天の神の御前でその人のことを自分に属する者であると明言する、しかし、もし人前でイエス様を否定したら、彼も天の神の前でその人を否定すると述べました。その場合、日本の潜伏キリスト教徒たちのことをどう考えたらよいのか?彼らは、踏み絵を踏み檀家制度に組み込まれ、人前では仏教徒を装いましたが、隠れた所では代々密かに洗礼を授け、主の祈り、使徒信条、天使のマリア祝詞、十戒を唱え祈りました。週の7日目は仕事を控え、クリスマスと聖金曜日は大事な日であると心に留めました。これは、イエス様が教えられたことと照らし合わせてどうなのか?信仰を守り通したことになるのか、それとも信仰を公けに言い表さなかったことになるのか?
この問題について、何年か前の説教で帚木蓬生の小説「守教」から大事な視点を得たことをお話ししました。どんな視点かと言うと、一つは、潜伏キリスト教徒たちは神父から、殉教は聖職者がすることである、信徒は何百年たとうが宣教師は再び必ず来日するから、その日に備えて信仰を絶やさないようにして将来の教会の再建の種を残しなさいという使命を託されました。もう一つは、隠れて信仰を続けることは実は命がけで勇気が要ることだったということです。もし、見つかって奉行所に引っ張って行かれたら、申し訳ありません、棄教しますと言っても何の助けにもなりません。拷問と死刑が待っています。小説の中では、見つかって連行されたキリスト教徒たちは棄教しようがしまいが結果は同じだからと、役人たちに向かって、あなたたちも神に造られた者だから神を拝まなければなりません、などと伝道します。まさに聖霊が語るべき言葉を与えた場面です。
そこで、現代日本でイエス様を救い主を信じると公けにせよというイエス様の命令を守るとどうなるかについて考えてみます。私たちの場合はキリシタン禁教の時代のように命に係わることはないと思います。潜伏キリスト教徒のように表向き仏神教徒を装って信仰を隠す必要も理由もありません。教会もあります。聖職者もいます。信仰を公けにすることで公権力から処罰もされません。ただし、キリスト信仰者が圧倒的少数派の社会に生きていますから、賢明に立ち振る舞わないと圧倒的多数派の中に埋もれて埋没してしまう危険があります。圧倒的少数派であるがゆえに声をあげなければならない、イエス様の命令が一層重要になると思います。
その時、自分が救い主と信じているイエス様がどんなお方であるか、どんなイエス像を提示するのかを考えることも重要です。現代社会ですと、イエス様を人権推進者ヒューマンライツ・ヒーローのように提示することは世の注目を集めると思います。マイノリティーに寄り添うイエス様、などと言ったら、世間からとても肯定的、好意的に見られるようになります。もちろん人権に反対する人にはウケないでしょうが、今の社会の趨勢は人権推進なのでイエス様をそのような方として提示するのは時流に適っていると言えます。イエス様は、信仰を告白すると迫害が起きるのは不可避と言われましたが、ヒューマンライツ・ヒーローなら大丈夫です。心配ないでしょう。
これに対して、私と私を派遣するミッション団体はそういう時流からみるとかなりズレています。イエス様を提示する時は、「創造主の神のもとに行ける唯一の道である」とイエス様の「唯一性」を強調します。今時このようなことを言うと反発を受けることが多いです。イエス様はそんなに狭い考えの持ち主ではない、と。「唯一の道」と言ったのはイエス様本人なのですが..。このような提示の仕方の方がイエス様の預言が現実性を帯びてきます。そうであれば、髪の毛の数を全て数えられる位に自分は神の手中にあることが身近になります。そうであれば、エレミヤの告白、主が私の魂を救って下さったということも身近になります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
主日礼拝説教 2023年6月18日(聖霊降臨後第三主日)
聖書日課 出エジプト19章2~8a節、ローマ5章1~8節、マタイ9章35~10章23節
1.
本日の福音書の箇所は一回読めば意味は大体わかります。しかし、難しいです。言っていることの意味はわかるのに難しいとはどういうことか?それは、キリスト信仰者になると迫害を受けるとイエス様が言っているからです。信仰のゆえに当局に引き渡されるとか、果ては信仰者でない肉親が信仰者の肉親を死に引き渡すとか、信仰のゆえに全ての人に憎まれるとか、こんなの読んだら誰もキリスト信仰者になりたいと思わないでしょう。信仰者も、ここを読み返したら心配になる人も出てくるかもしれません。これらが、意味的には難しくないが内容的に難しいところです。
意味的に難しいところもあります。例えば、10章16節でイエス様は伝道に送り出す弟子たちに、「蛇のように賢くあれ。鳩のように素直であれ」と指示します。「鳩のように素直であれ」というのはわかるとしても、「蛇のように賢くあれ」とはどういうことか?創世記3章1節で、人類を罪と死に追いやった蛇が「全ての動物のなかで賢い」などと言われています。イエス様は、送り出す弟子たちにあの蛇のようになれと言っているのでしょうか?もう一つ意味的に難しいところは10章23節、一つの町で迫害を受けたら別の町に逃げよと言っているところです。イエス様が再臨する日まではイスラエルの町をまだ全部逃げ終わっていないなどと言います。そこで、イエス様はまだ再臨されていません。と言うことは、キリスト信仰者はまだイスラエルの町々を転々と逃げ回っていることになりますが、今そんなことは起きているようには見えません。このイエス様の言葉はどう理解したらよいのでしょうか?
このように内容的にも意味的にも難しいところがいろいろある本日の日課は説教でどう説き明かしていいのか困ってしまうところです。そこで解決の手がかりとして、イエス様が弟子たちを伝道旅行に派遣する場面がマルコ福音書とルカ福音書にもあることに注目します。それらと本日のマタイ福音書の記述を比べるといろいろ違いがあります。違いがあるというのは、同じ出来事の記述ではあるが、マタイはマルコ、ルカと少し違う視点で同じ出来事を眺めているということです。それを明らかにして、先ほど述べた難しい事柄をもう一度見直してみると最初と少し違って見えてきます。そんなに心配にならなくなると思います。本当にそうか、これから見てまいりましょう
2.
本日の福音書の日課のマタイ10章はイエス様が12弟子を伝道旅行に送る際に述べた教えです。同じ出来事を扱っているマルコ福音書6章とルカ福音書9、10章の記述と大きく異なっています。どういうふうに異なっているかと言うと、まずマタイの方は最初に旅行のいろいろな規定が述べられます(5~15節)。伝道はユダヤ民族を相手にしろとか、金目のものは一切持って行くな、余分な服も靴も杖も持って行くなとか、弟子たちを受け入れない町から立ち去る時は足のほこりを落とせとかいうものです。
こうした旅行規定を言った後で迫害のことが述べられます(16節~)。最初に「弟子たちはオオカミの群れの中に派遣されるのと同じだから、蛇のように賢く、鳩のように素直になれ」とか、「イエスのゆえにあちこちで迫害を受け裁判にかけられるが、弁明の言葉は聖霊に任せよ」とか、「イエスの名のゆえに家族にさえ憎まれるが、最後まで信仰に踏みとどまれば救われる」とか述べます。その後で、先ほど触れた、イエス様の再臨の日まで逃避行が続くということが来ます。その後の続きは来週の日課になります。少し先取りして言うと、「憎しみや迫害や誤解の的になっても驚くな、主自身に起きたことは弟子たちにも起きるのだから」(24節)とか、「肉体を殺しても魂を殺せない者は恐れるべき者ではない」(28節)とか、「雀でさえ天地創造の神の意志のもとで生かされている、人間はなおさらそうである」(29~31節)などと続きます。このように最初に旅行規定を言って、その次に迫害の注意喚起とそれへの心構えについて教えるのがマタイ福音書の流れです。
ところが、マルコ6章とルカ9章でイエス様が12弟子を送る場面とルカ10章で72人の弟子を送る場面を見ると、マタイ福音書と同じような旅行規定を述べますが、マタイにある迫害の注意喚起と心構えはありません。そればかりか、マルコとルカでは旅行規定を言った後すぐ弟子たちは伝道に送られます。出かけた弟子たちは各地で神の国について宣べ伝え、病気の癒しや悪霊の追い出しを行ってイエス様のもとに帰還します。ところが、マタイでは11章1節でイエス様が弟子たちと別行動を取って自分一人で伝道を続けたように言われます。つまり、弟子たちは伝道に派遣されたのです。ところが、帰還については何も述べられていません。イエス様自身の伝道活動が11章全体で述べられ、12章に入るといきなり、イエス様がある安息日に麦畑の傍らを弟子たちと進んでいる場面がきます。弟子たちはいつ伝道旅行から帰ってきたのか?
皆様も既にご存じのように、4つの福音書には同じ出来事を扱っていてもそれぞれ描写に多かれ少なかれ違いがあることが多々あります。本日の箇所もそうです。こうした違いは、違いが全くないことに比べると、かえって出来事が歴史的事実性を強く帯びるということを以前お話ししました。ここでは繰り返しませんが、マタイの記述がマルコやルカと違うことで、マルコやルカからは見えてこないことが見えてきます。これからそれを見ていきましょう。
3.
なぜマタイ福音書では弟子たちが伝道旅行から帰ってきたことが語られないのか?
マルコ福音書とルカ福音書は弟子たちが帰ってきたことをはっきり記すことで、彼らの伝道旅行はイエス様の十字架と復活の出来事の前に起きたことがはっきりします。ところがマタイ福音書では、弟子たちが帰ってきたことが述べられていないので、弟子たちの伝道旅行はマルコやルカと比べると完結した感じがしなくなります。伝道旅行はもちろん十字架と復活の前にあったことですが、マタイは十字架と復活の後に起こる伝道旅行も視野に入れているということが見えてきます。
それともう一つ、マルコとルカでは迫害の注意喚起はありません。実際、伝道先では病気を治したり悪霊を追い出したりしてミッションは成功だったと弟子たちはイエス様に報告します。迫害を受けたことは報告されていません。マタイ福音書では伝道旅行は迫害を伴うと言われます。実際、十字架と復活の後の弟子たちの伝道は、使徒言行録を繙けばわかるように迫害を伴うものでした。ここからも、マタイが伝道旅行に際して迫害の注意喚起を入れたのは、伝道旅行を十字架と復活の前のものだけでなく後のものも視野に入れていたことが見えてきます。もちろんマルコとルカにも、イエス様の迫害の注意喚起はあります。ただし、それは、エルサレムの神殿が破壊される時とか、この世の終わりが来る時とか、そういうイエス様の再臨を待つ時代に起こることとして述べられます。要するに、マタイもマルコもルカもイエス様の十字架と復活の後の伝道は迫害を伴うということでは一致しているのです。ただ、マルコとルカは十字架と復活の前の伝道旅行と後の伝道は別々に扱い、マタイは十字架と復活の前の伝道旅行と後の伝道旅行が繋がっているようにしているのです。
ここで、伝道が十字架と復活の前と後で意味合いが異なってくることに気づくことは重要です。十字架と復活の出来事が起きる前の伝道とは、人間を罪の支配状態から救い出す神の救済計画が実現する前の伝道です。その時のイエス様の伝道の主眼は、「神の国が近づいた」と人々に告げ知らせ、旧約聖書を神の意図通りに正確に教え、あわせて不治の病を癒し悪霊を追い出すことでした。「神の国が近づいた」ことは、病の癒しや悪霊の追い出しから明らかになりました。病気や悪霊の力を超えた力が存在し、そういう力が働く領域があるということがはっきり示されたからです。黙示録21章にあるように、「神の国」とは全ての涙が拭われて悩みも嘆きも苦しみもそして死さえない国だからです。そのような国がイエス様とくっつくようにしてやってきたのです。イエス様は弟子たちを伝道に派遣する時も、自分と同じようにしなさいと命じました。「神の国が近づいた」と人々に告げ知らせ、それが本当だとわかるように、病を癒す力と悪霊を追い出す力を弟子たちに授けたのです。
しかしながら、いくらイエス様とその力をもって神の国が近づいたことが明らかになっても、最初の人間アダムとエヴァの時に人間に備わってしまった、神の意思に反しようとする性向、罪は代々人間に受け継がれたままです。人間はそのままの状態では神の国に入ることはできないのです。罪のゆえに人間は神聖な神とあまりにも対極なところにある存在になってしまったからです。罪の問題を解決しなければ神の国に迎え入れられません。いくら病気を治してもらっても悪霊を追い出してもらっても、罪の問題の解決なくして、人間はまだ神の国の外側にとどまっているのです。癒しを受けた人たち悪霊を追い出してもらった人たちは神の国に迎え入れられたのではなく、来るべき神の国がどんな国であるか、黙示録で言われている国であることを前もって垣間見た、味わっただけなのです。
人間が神の国の外側からその内側に迎え入れられるようにして下さったのがイエス様でした。イエス様は本当であれば私たち人間が受けるべき罪の神罰を全部引き受けて十字架の上で死なれました。私たち人間の罪を私たちに代わって神に対して償って下さったのです。さらに、神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、その命に至る道を私たちのために切り開いて下さいました。神がひとり子のイエス様を用いて人間のために罪の問題を解決してくれたのです。
あとは人間の方が、これらのことは本当に起こったのであり、だからイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになります。罪を償ってもらったからその人は神から罪を赦された者と見なされます。罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになります。永遠の命と復活の体が与えられる日を目指して進む道に置かれて、その道を神との結びつきを持って進むようになります。
その時、キリスト信仰者といえども、まだ復活の体ではない肉の体を纏っているので、罪は残っています。しかし、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、罪は信仰者の道の歩みを妨げる力を失っています。人間的な弱さや隙をつかれて道の歩みを邪魔される時もあります。しかし、一度打ち立てられた十字架の罪の赦しは永久に打ち立てられたままです。十字架が現す罪の赦しと罪からの贖い、復活の命などに洗礼によって結びつけられました。罪には信仰者の道の歩みを妨げる力がないことは明らかすぎるほど明らかです。信仰者はこの神のお恵みによって道の歩みを続けることができるのです。
以上から、ガリラヤ時代のイエス様の弟子たちの伝道は、神の国が実在することを告げ、それをわからせるために病気癒しと悪魔祓いをする伝道でした。それが、イエス様の十字架と復活の後になると、伝道の目的は人間をまさに神の国の中に入らせることに変わったのです!こうなると、イエス様を救い主メシアと認めないユダヤ教社会の指導層と以前にも増して対立することになります。それだけではありません。他の神々や霊、果ては人間の支配者を崇拝するよう要求する各国政府との衝突も避けられません。マタイは十字架と復活の出来事の後に福音書をまとめ始めたわけですが、マルコやルカのようにガリラヤ時代の弟子たちの伝道を歴史的な過去として扱うことはせず、全ての時代に当てはまる普遍的な出来事として扱ったのです。伝道とは、神の国を外側から垣間見させる、味わせることではない、神の国の内側に入れるようにするのが伝道であるという視点で書いたのです。それで迫害の注意喚起と心構えについてのイエス様の教えを、ガリラヤ時代の伝道旅行のところに持ってきたのです。
4.
このマタイの視点をもって、今度は意味的に難しいこと、内容的に難しいことを見てみましょう。
まず、「蛇のように賢くあれ、鳩のように素直であれ」。ここは言葉の問題があると思います。創世記3章1節にある蛇はどんなだったかという言葉ァルームは、ヘブライ語・英語の辞書を見ると「賢い」もありますが、「巧妙な」、「巧みな」、「抜け目のない」もあります。蛇のやったことを考えたら、こちらの方が「賢い」よりもピッタリなのではないかと思います。マタイ10章の蛇はギリシャ語ではフロニモスと言われます。これは辞書では「賢い」という意味ですが、少し考えなければならないことがあります。ヘブライ語の旧約聖書はイエス様の時代の200~300年前にギリシャ語の翻訳されました。創世記3章1節の問題のヘブライ語の言葉はこのフロニモスに置き換えられました。しかし、訳した人は蛇のやったことを当然知っていたので、フロニモスに「巧妙さ」、「巧みさ」の意味を含ませたと考えるのが妥当です。なので、マタイ10章のフロニモスも同じように「巧妙な」、「巧みな」と考えた方がよいと思います。
創世記3章の蛇は人間を神から引き離すという明確な目的を持ち、それを見事に達成しました。「これを食べたら神のようになれるぞ」という誘惑の言葉が決め手となりました。被造物にとどまるのは嫌だ、創造主の神の地位に上りたいという人間の心に上手く付け入ったのです。「巧妙」と言うのは、こうした明確な目的とそれを達成する最適な手段の選択によくあらわれています。
しかしながら、イエス様は蛇の次に鳩を出すことで、目的と手段はなんでもいいということではなくなって決った方向に方向付けられます。日本語訳では鳩は「素直」となっていますが、ギリシャ語の言葉アケライオスは「汚れがない、清い、無垢、無実、潔白」という意味です。「素直」ではなんだか言われたことを従順に聞き従う感じになってしまいます。「汚れがない、清い、無垢、無実、潔白」というのは神の御前でそうだと言うことです。それなので、明確な目的を持ち最適な手段を選ぶという点では蛇と同じだが、目的と手段は神の目から見て相応しいものでなければならなくなります。伝道の明確な目的とは言うまでもなく、人間を神の国の中に迎え入れられるようにすることです。そのための最適な手段は何かを状況に応じて考えなければなりません。それを見つけられれば、鳩のように「清く」、蛇のように「巧み」になれます。
次に迫害の問題について、信仰者でない肉親が信仰者の肉親を死に至らせるなどとは恐ろしいことです。歴史的に迫害が激しかった時代にはそのようなことがあったことは想像に難くありません。現代でもイスラム教が厳格なところではそのようなことが起こると聞いたことがあります。信仰の自由が保証されている時代に生きられて本当に良かったと思います。しかしながら、マタイ10章にある迫害の注意喚起は、先ほども申しましたように、マルコ福音書とルカ福音書では、ガリラヤ時代の伝道旅行の所ではなく、十字架と復活の後のこととして出てきます。エルサレムの神殿が破壊される時とか、この世の終わりが近づく時とか、イエス様の再臨を待つ時代に起こる迫害の注意喚起が述べられます。なので、キリスト信仰者は平穏の時代を生きている時も(それは感謝すべきことですが)、それは本当の姿ではない仮の姿だという警戒心を持っていないといけないと思います。
警戒心だなんて、そんなこと言っていたら人生楽しくなくなると言われるかもしれません。しかし、そうではないのです!永遠の命と復活の体が待っている日を目指して進むキリスト信仰者にとって人生はどのようなものになるか、そのことが本日の使徒書の日課ローマ5章でも的確に述べられています。イエス様を救い主と信じる信仰により、神の目に相応しい者、義なる者とされる、神聖な神の前に立たされても大丈夫な者になる。それで神との間に敵対関係はもうなく、ただただ平和な関係にある。天地創造の神と平和な関係にあれば、他のものは全て造られた被造物なので造り主より劣るのは明らかである。そんなものが敵対してこようが恐れるに足らず。このような信仰に立てれば、試練があってもそれは忍耐に転化する。忍耐は鍛えられた心に転化する。そして鍛えられた心は希望に転化する。パウロは、「希望」とは神の栄光に与る希望だと言います(2節)。どんな希望かと言うと、復活の日に死の眠りから目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるという希望です。私たちがまだ罪びとであった時に、私たちがそのような栄光に与れるようにとイエス様は自らを十字架の死に委ねられたのでした。これが神の愛です。この愛を神は、洗礼の時にキリスト信仰者に与えた聖霊を通して信仰者の心に注いで下さいます(5節)。それでキリスト信仰者は聖霊のおかげで霊的な喜びに満たされるのです。
この福音を伝道することがどれだけ大切なことであるか、本日のマタイ9章の終わりでイエス様が述べています。群衆が羊飼いのない羊のように打ちひしがれて見捨てられた状態にある。それは、神との平和な関係を持たず、罪の力にされるがままにある状態のことです。神の愛も霊的な喜びもありません。人々がその状態から脱せられて神と平和な関係を持てるように、そのために福音を宣べ伝え教える働き人が必要なのです。
最後に、イエス様の再臨の日までキリスト信仰者は迫害を逃れてイスラエルの町々を逃げ回っているという言い方について。もちろん、私たちキリスト信仰者は迫害を受けて今イスラエルの町々を行ったり来たりしていません。そうではなくて、イエス様の言葉は、キリスト信仰者というのは本質的にこの世にではなく神の国に属する者であるということを意味する言葉と考えればよいでしょう。再臨の日が来ても、まだ全部の町を逃げ終わっていないというのは、この世には安住の場はない、本当の安住の場は神の国なのだということです。それ位、キリスト信仰者はこの世に属する可能性はゼロで100%神の国に属してしまっているということです。そこまで完璧に属しているのであれば、逆に安心ではないでしょうか?
<私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安が、あなた方にあるように>
「罪人を招くキリスト」 2023年6月11日
聖書:マタイ福音書9章9~13節
きょうの聖書のテーマはキリストは地上では罪を許す権威を持つ方である。ということです。
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福音書を見ますと、この権威をめぐって、イエス様とユダヤ教の律法学者との間にはいつも対立がありました。この対立が激しくなって、ついにイエス様を十字架上で処刑するという恐ろしいことになってしまいました。対立や憎しみ、争いからは何も良い事は生まれません。行き着く先は悲劇の結果しかない。その悲劇が今も世界で戦争が続いています。きょうの聖書のマタイ9章9節から13節までのところでもイエス様を批難する、という対立が出て来ます。まず9章9節には、徴税人のマタイをイエス様は弟子の一人に招かれたのでした。この福音書を書いた「マタイ」その人です。このマタイという人がどういう人であったか。マルコ福音書2章14節によれば、「アルパヨの子レビ」と呼ばれていました。だから元の名は「レビ」であった。ヨハネ福音書1章の42節のところで、シモン・ペテロの兄弟アンデレが兄のペテロに「イエス様に会ったよ」と言って紹介した。そしてシモン・ペテロをイエスのところに連れて行った。イエス様はそこで「あなたはヨハネの子、シモンであるがケファ(岩という意味)と呼ぶことにする」と言われた。ちょうどそれと同じように、アルパヨの子レビもイエス様の弟子とされた時「マタイ」とあだ名されるようになった。と言うのです。マタイ9章9節を見ますと、「イエスはそこを去り、通りがかりにマタイという人が徴税所に座っているのを見かけて『私に従いなさい』と言われた。」と書いています。マタイが自分の事を書いているんですね。このマタイという人が徴税所に座っていた。ですから、彼はユダヤ人でありながら税金を取り立てる仕事をしていたのです。ユダヤは、この当時ローマ帝国の支配下にありました。ユダヤはローマ帝国に税金を納めなければならない。その税金を取り立てる仕事をマタイは請け負っていたわけです。徴税人と呼ばれユダヤの民からは蔑まれ、憎まれ、裏切り者と呼ばれ売国奴として皆から嫌われていました。イエス様はマタイのそうした職業の立場で苦しんでいることなど、すべてをご存知の上でマタイに目をかけて声を掛けられたのでありました。実はイエス様は、この前に既にガリラヤの漁師をしていたペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレと言った漁師たちを「これからは人間をとる漁師にしよう」と言って弟子として招いておられました。漁師ですから、彼らは力強い、素朴な男たちです。でも貧しく教養もない者たちです。こうした男たちに、まず弟子となる声を掛けられたこと自体が驚きでした。しかし、今度はマタイを弟子にされています。漁師たちと違って、彼は教養もあり金もある、しかしユダヤの同胞からは嫌われていた徴税人であった彼に声を掛けられていいます。
これは、また一層の驚きであります。「私に従って来なさい」とのひと声にマタイは立ち上がりイエス様に従ったのです。マタイはこれまで徴税人として、かなり金も持っていて家族や友人などもあったかもしれない。それらの一切を捨ててイエス様に従ったのです・。これは大変なことです。彼の一生の一大転換の出来事であったでしょう。何故イエス様のひと声にマタイは従って行ったのでしょうか。マルコ福音書2章13節を見ますと、「イエス様が中風の人を癒す奇跡の出来事をなさって、イエスは再び湖のほとりに出た行かれた、群衆が皆そばに集まって来たのでイエスは教えられた。」とあります。恐らく彼方此方で群衆がイエス様のもとに集まってきたので、そこで大切な教えをなさった。また、行く先々で病人を癒したり、人々が驚くような奇跡を起こされた。その噂を人づてマタイは聞いていたのでしょう。特にイエス様の語られる教えに胸打たれ、また罪人や弱い人々を限りなく慈しんでゆかれる姿に心惹かれ、マタイは常々話を聞いては考えさせられていた。自分はどうしてこういうユダヤ人として生まれてきたのか。生きていくため本当は望まない仕事でも、やらざるを得ない。彼は貧しい自分の民から無理やりでも税を取り立てて、心がどんなにか痛んでいたことでしょう。そうした中にイエス様の目にとまり、ひと声の招きを聞いた瞬間、彼の全ての思いと魂が光に打たれたような、運命的なみ霊に包まれて導かれて行ったのです。そして、即座に自分の過去もこれからの事も一切このお方に委ねてゆく決心をして立ち上がり、ただ従って行ったのです。もう、後戻りはできない。これから自分の人生がどうなって行くのかもわからない!漁師であったペテロ、ヤコブたちは又戻っても恐らく兄弟たちか家族があとを継いで漁師をやっていますでしょう、だから後戻りが出来るでしょう。マタイは税を取り立てていたサラリーマンでしたから、もう彼の後釜は誰かがやっていて道は塞がっている、後戻りなどできない。前に進むしかない、イエス様の弟子たちと共に運命を預けて行くことになったのです、マタイの思いはどうだったでしょう。私自身もサラリーマンを捨てて神学校に入った途端、それまでの月給もボーナスも収入は全くない、学費と生活のための一切をどうして生きていったらよいのか。マタイの気持ちが良くわかります。
さて、10節を見ますとマタイはイエスとの出会いで、もうとても嬉しかったのです。「それから、イエスが家で食事の席についておられる時のことである。」とあります。イエス様に召されたマタイのした事は第一には職業を変えた、という事。第二にはイエス様や弟子たち、そして徴税人、罪人と共に宴会を開いた、という事です。ところで、10節のところを良く読んでみますと、はじめにある「イエスが」というのは「彼が」というただの代名詞です。次の「家で」というのは冠詞がついていて「その家で」と記されている。ここを文法的に直訳すると、10節はこうなります。「そして彼がその家で席に着いていた時のこと、見よ、多くの徴税人や罪人も来て、イエスと彼の弟子たちと共に席に着いた。」とこうなります。9節から続いて読みますと「すると、彼は立ち上がってイエスに従った。そして彼がその家で席に着いた。」こう読めます。これは、いかにもマタイが立ち上がってイエスに従いイエスの家に行き、その食卓に着いた」と言うようです。マルコ福音書の方では「そこで彼は立って彼に従った。そして彼が彼の家で席に着いている」こうあります。席に着いた「彼」というのをイエスと解すればイエスが自分の家で席に着いた、ことになります。今度は「彼」というのをマタイであるとすれば、マタイが自宅で宴会を開いた、となります。このように、どちらの文章も宴会を開いたのがマタイなのかイエスなのか、また会場がマタイの家なのかイエス様の家だったのか、大変にわかり難い文章です。この事実はルカの福音書の方で明らかになります。ルカは5章29節に、その宴会はマタイの家で催された。しかもイエスのために開かれたのでした。ですから、会場はマタイの家で開かれ、余程うれしかったと思います。そこで費用もマタイが全部出しているのでしょう。ここで大切な事は宴会そのものはイエス様のための宴会で、マタイ自身のためのものではなかったというとです。食事を共にして、もてなしをしたい、というマタイの主イエス様に捧げたい気持ちがここにあふれるように思われます。現代の私たちの教会で礼拝をすること自体マタイのように自分の一切を捧げて神様を敬う、その一つの表れとして献金を捧げる、ことにあると思われます。さて、きょうの聖書の中心点はイエスは罪人を招くために来られた、ということです。マタイは自宅を開放し、友人たち、徴税人を招き、貧しく困った生活をしている人々に、これまでつれなく酷い税の取り立てで冷たくあしらった人々を招き、そうした罪滅ぼしの気持ちを表したい、そして社会的に日陰で辛い思いをしている人々を、いくらかでも明るく解放してあげたいとも思ったのでしょう。マタイは特に裏の社会の悲惨さも充分知っていた人ですから、皆を招いてイエス様と一緒の食事をしたかったのでありましょう。ここで私たちに教えられているメッセージは何でしょうか。マタイが催したように自分の家を開放して、いつでも心置きなく訪ねられる、又、食事を共にしてイエス様の大事な話を聞けるようにしてやったことであります。聖書を見ますと、マタイがしたように漁師であったペテロもそうでした。自宅を開放し、イエス様のカぺナウムでの伝道の拠点とされました。使徒言行録10章24節にはコリネリオも自宅に友人や親族を招いてペテロの伝道集会を開きました。又、使徒言行録12章12節ではマルコの母マリヤも自宅を開放してエルサレム教会の会場としました。更に、使徒言行録16章14節にはルデヤも自宅を開放しピリピの伝道の会場としました。使徒言行録18章26節を見ますとアクラとプリスキラもエペソの自宅にアポロを招き伝道しました。又、ロマ書16章3節ではアクラとプリスキラがローマの新居をローマ教会の集会場に開放しました。コロサイ書4章15節にはラオデキアのヌンパも自宅を教会に捧げまいた。ピレモン書2節にはピレモンも自宅を教会に聖別して捧げました。こうした、初代教会の輝かしい進展は主によって招かれたひとりびとりが自宅をイエスのために捧げ、解放して多くの友や罪人たちをイエス様の救いに与からせて行きました。考えてみますと私たちは誰でも初めての教会を訪ねた時、気恥ずかしく気後れするものです。自分のような者でも神様の礼拝に与からせてもらえるものかしらと、何度も教会の玄関ま行っても教会の敷居は高く感じるものです。心の悩みや心に重荷を負った人、罪の意識にどうしたら良いか迷っている人々は教会の門まで遠いものです。そこに貧しくとも、悩み困惑しつつあっても快く迎えられる教会の解放された姿こそイエス様が望まれた姿でしょう。さて、11節から13節を見ますとマタイの家での罪人たちとイエス様と弟子たちとが共に食事をしている光景をパリサイ派と言われる律法学者たちが来てイエス様の弟子たちに言った。「なぜ、あなたの先生は徴税人や罪人たち等と食事を共に交わっているのか」と非難したのです。それに対してイエス様は二つの反論をもってお答になりました。
第一は医者の例を話され、医者という者は病人のためにあるのだ。医者が病人に接して病気がうつるからと言って離れていては病人は治らないでしょう。そのように、救い主も救いを必要とする罪人を招くために来たのである。パリサイ派の人の如く「自分は健全だ」と自惚れ「自分こそ義人だ」と言っている者にはイエス様とは縁がないでしょう。自ら救われたい、と願っている魂の病人にとってはイエス様は慰めと癒しを豊かに与えて下さる医者であられます。
第二に、イエス様は言われます。「私が好むものは憐みであって、生贄ではない」これは旧約聖書のホセア書6章6節の言葉を引用してパリサイ人に答えられたのです。「憐み」というのはヘブル語の原語では「ケセド」と言い「慈しみ」と記されています。BC8世紀の預言者ホセアは「エフライムよ」と言って北のイスラエル人に呼びかけました。又、「ユダヤよ」と言って南のユダヤに呼びかけて南北、全イスラエル人の罪を責めました。その罪とは「あなた方の愛、ヘブル語のケセドが雲か露のように消え失せる、儚さにありました。反対に神様が求めたもうものは、まさにそのケセドである愛、慈しみなのです。ですからイエス様が好まれるのは神への愛、神への慈しみなのだ、と言っておられるのです。それには、神を知ること。神を喜ぶことであります。その「知る」というのは知識として神を知るだけではなく、結婚関係を結ぶほどの一体となる体験的知り方を表しています。つまり、神と結婚関係に入ったイスラエルが、つまり神の選ばれた民が神との契約に忠実なことを意味しています。”エフライムよ、ユダよ、あなたの貞節は実にはかない、それで私は。我が口の言葉で裁いた。私が欲しいのは見せかけの供え物などではない。本当に神の花嫁らしい、操が欲しいのだ”と言われておられるわけです。イエス様は供え物という礼拝形式よりも、神への忠実さが大切だ、と言っておられるのです。パリサイ人は供え物のような規則を守ることや、異邦人とは交わるな、と言った形ちばかりを追いかけて行く、それは本末転倒で神への忠実という中身を忘れている、というのです。
イエス様は、ただ罪人と席を共にするために来たのではない、罪人を招き、神に忠実な民へと生まれ変わらせるために来たのである。、とそう言っておられるのであります。
<人知では、とうてい測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。> アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
主日礼拝説教 2023年6月4日 三位一体主日
聖書日課 創世記1章1-2章4a節、第二コリント13章11-13節、マタイ28章16-20節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
今日は教会のカレンダーでは「三位一体主日」です。先週の主日は聖霊降臨祭でした。聖霊がイエス様の弟子たちの上に降って、そのうちの一人ペトロが群衆の前で大説教をし、その結果3,000人の人が洗礼を受けてキリスト教会が形成され出したことを記念する日でした。父、御子、聖霊の三者がそろった後の主日ということで今日は三位一体を覚える主日です。
皆さんご存じのように、キリスト信仰では神は父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、三位一体の神として崇拝されます。日本語では聖霊のことを「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と人格を持つ者として言い表されています。他の言語は確認していないですが、大体皆そうではないかと思います。三つの人格はそれぞれ果たすべき役割を持っていて、父は無から万物を造り上げる創造の役割、子は人間を罪の支配下から救い出す贖いの役割、そして聖霊はキリスト信仰者をこの世から聖別する役割を果たします。この世から聖別するとは、人間を神聖な神の御前に立たせても恥ずかしくない者、神に相応しい者にしていくということです。
これら三つの人格、三つの役割は別々のようなものでも、全部が一緒になっているのがキリスト信仰の神です。一つでも欠けたら神という全体が成り立たないのです。この全体が神の大いなる愛を表しています。第一ヨハネ4章8節で「神は愛なり」と言われますが、三位一体の大いなる愛のことを言っています。
本日の説教は二部構成になります。第一部では、マタイ福音書の日課の箇所でイエス様が弟子たちに、世界の人々に「父と子と聖霊との御名によって洗礼を授けよ」と命じていることについて見てみます。三位一体の神と洗礼は不可分に結びついているということについて見てみます。第二部では旧約聖書の日課、創世記の天地創造の話を見てみます。進化論から見たら聖書の天地創造は馬鹿々々しい話になってしまうのですが、実は天地創造は現代において意外にも意味がある話であることをお話ししようと思います。
本日の福音書の日課はイエス様の大宣教令と呼ばれる箇所です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」父と子と聖霊の名によって洗礼を授けるというのは、洗礼を受ける者が三位一体の神に結びつけられるということです。神は創造の業を行う父であり、人間を罪の支配下から贖う御子であり、そしてキリスト信仰者をこの世から聖別する聖霊である、この三位一体の神に結びつけられるのです。結びつけられた後は、神に創造された者として、罪の支配から贖われた者として、そして絶えずこの世から聖別される者としてこの世を生きていきます。そして、この世が終わって次の世が始まる時に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて神の御国に迎えられます。
三位一体の神と結びついて生きる時、私は「神に創造された者」という自覚を持つことは特に大事と考えます。と言うのは、その自覚は、キリスト信仰に入れるか入れないかどうかのカギになるからです。また信仰に入った後もしっかり信仰に踏み留めるかどうかのカギになるからです。どういうことかと言うと、自分が神に造られた者との自覚を持つと次に、造られた自分は造り主と今どんな関係にあるかということを考えるようになります。何も問題ない、全てうまく行っている関係か、それとも何か問題があってうまく行っていないか?
聖書は、関係はうまく行っていない、だから問題を解決しないといけない、という立場です。何がどううまく行っていないのかと言うと、造られた人間と造り主の神との結びつきが失われてしまうようなことが起きてしまったからです。どうしてそんなことが起きたかというと、人間は神に造られたという立場を謙虚に受け入れていればよかったのに、神と張り合おうという気持ちを悪魔にたきつけられてしまって、言うとおりにしてしまった。そのために人間の内に神の意思に反しようとする性向、罪が備わってしまった。そのことが創世記3章に記されています。このいわゆる堕罪の出来事の結果、人間は死ぬ存在となってしまい、この世では神との結びつきもないまま人生を送り、そのままの状態ではこの世を去った後は復活の体も永遠の命もなく神のもとに戻れることもなくなってしまったのです。パウロが教えるように、死とは罪の報酬です。人間が代々死んできたというのは代々罪を受け継いできたことの現れです。
しかし神は、人間がこの世では神との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、この世を去った後は永遠に自分のもとに帰れるようにしてあげようと、罪の問題を人間のために解決することにしたのです。それが、ひとり子のイエス様をこの世に贈ったことでした。この神のひとり子が人間の罪を全て背負ってゴルゴタの十字架の上にまで運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けて人間の罪を神に対して償って下さったのでした。さらに父なるみ神は、一度死なれたイエス様を最大級の力で復活させて、復活の体と永遠の命が待っている天の御国への道を私たち人間のために切り開いて下さったのでした。
そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになり、その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになって、天の御国に向かう道に置かれて神との結びつきを持ってその道を進むようになります。
ところが、この世には人間がその道に入れるのを阻止する力、入っても道から踏み外させてやろうという力が働いています。そのような力に襲われた時は、洗礼の時に注がれた聖霊が大事な役割を果たします。聖霊は人間が洗礼によって神との結びつきが出来ていることを思い出させてくれます。神に背を向けてしまうようなことがあっても、聖霊はすぐに私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてイエス様の犠牲の上に築かれた神との結びつきは揺るがずにあることを示してくれます。その時、私たちは再び神の御前にひれ伏すようになり、神の意思に沿うようにしなければと襟を正してまた天の御国に向かう道を進んでいきます。
このように、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けるというのは、神に造られた人間が神と人間を引き離そうとする力から贖い出されることです。それと、造られ贖われた者が天の御国に向かう道を歩める力と支えを得られるようになることです。実に三位一体の神と結びつけられる洗礼は、復活の体と永遠の命が待つ天の御国に迎え入れられるという約束を神からしてもらうことです。
先ほど申し上げましたように、三位一体の神と結びついて生きる時、「神に創造された者」という自覚を持つことは大事です。その自覚がないと、造り主と自分の関係はどうなっているかという問いは起きません。その問いがなければ、神のひとり子がこの世に贈られて十字架の死を遂げ死から復活されたことが何の意味があるのかわかりません。意味が分からなければ、聖霊が聖別の役割を果たそうとしても空振りに終わります。それ位、人間が神に造られたということを認めるか認めないかは信仰に入るか入らないかの決め手になるのです。
ところが、今日では神の創造ということを信じることがますます難しくなっています。それは、進化論が生命について説得力ある説明をしていると考えられるからではないかと思います。生物は長い年月をかけて単純なものが複雑なものに進化していく。そのプロセスで環境の変化についていけないものは消え、変化に適応できる力をつけたものが進化して続いていく、そのように説明すると、生き物は神が一つ一つ造ったなどとは言えなくなります。
何年か前にイスラエルのハラリという歴史学者の書いた「ホモデウス」という本が話題になりました。その中で、彼は進化論の立場に立って、なぜキリスト教は進化論に否定的なのか?それは進化論が魂の存在を否定するからだ、と言っていました。これにはなるほどと思いました。生き物は、人格と意志を持つ創造主が造るのではなく、無数の化学反応の集積から構成されて変化していくと見たら、魂などという科学的に説明できないものは入り込む余地はなくなります。人格を持った神なんか持ち出さずにいろんなことが説明できるようになります。そうなれば、もう人間は、造り主がどう思っているかなんて考えないで、自分の好きなようにやればいい、自分こそ自分の主人であり、神なんかにとやかく言われる筋はない、ということになります。天地創造を出発点にする聖書とその聖書を信じて生きる人たちにとって大変な時代になりました。
そこで、ここから先は本日の旧約聖書の日課、創世記の初めのところをもう一度振り返り、天地創造は本当は現代においても意味のある話であることを見てみたいと思います。この問題に関して近年では進化論に対抗するものとしてインテリジェント・デザインという考え方が注目されたようですが、私はおそらくその議論についていけるインテリジェンスを持っていないので、ひたすら聖書をじっくり見ていくことにします。じっくり見る聖書とは、旧約聖書はヘブライ語のBiblia Hebraica Stuttgartensiaで(一部はアラム語で書かれていますが)、新約聖書はギリシャ語のNovum Testamentum Graeceです。私にとって大切な聖書のテキストです。
創世記1章について、本説教では2つのことを見て、聖書の天地創造は今日でも意味があることを確認したいと思います。一つは、天地創造の時間の流れについて。もう一つは、造られたものとしての人間と動物の立場についてです。
まず、天地創造の時間の流れについて。天地創造によると、神は6日間で天地とその中にあるものを造り上げ、7日目に休まれたとあります。これなどは、多くの人は真に受けないでしょう。物理学などで地球は何十億年前に誕生したと言っています。それなのに、最初の24時間で光が出来、次の24時間で空、次の24時間で海と陸と植物、次の24時間で太陽、月、星、次の24時間で魚と鳥、次の24時間で陸の生き物と人間、合計144時間、分にして8,640分、秒にして518,400秒、これで地球誕生から最初の人類まで間に合うのか、誰も見向きもしないでしょう。
もちろん、神に不可能なことはないというのが聖書の立場なので、144時間で完結したという可能性も残しておきますが、ここは次のように考えることも出来ます。毎日の終わりに「夕べがあり、朝があった。第何の日である」という締めの言葉があります。ヘブライ語の原文の言い方は、「そして日の入りとなり、そして日の出となった。以上が第何の日である」という意味です。ここにあるのは、一日というのは日の出で始まり次の日の出までという考え方です。なので「日の入りとなって日の出となった」と言うのは、その日は暗くなったので仕事は終わりですという、その日の終わりを告げる合図の文句です。
つまり、天地創造の記述の観点は、造られたものを6つの段階的なグループにわけて、それぞれの段階の長さは私たちの時間の観念ではどれくらいなのかはわからないが、とにかくそれぞれの段階の終わりに「これで一日が終わりました」と言って、それぞれの段階が1日という扱いになって全部で6日になるように見せようとしていると考えることができます。それぞれの段階の長さは、私たちの時間の観念でひょっとしたら何億年もかかっているかもしれないが、それぞれに一日の終わりを意味する締めの言葉をつけることで1段階を一日と言っていると考えることができます。それでは、どうして6段階を6日にすることにこだわるのかと言うと、それは神が人間に1週間7日というリズムを与えて、7日目は安息日に定めるという意図があるからです。このように6日というのを6段階と考えれば、天地創造は時間的流れに関しては問題はなくなります。
次に造られたものとしての人間と動物の立場について。先ほどのハラリは進化論に立つので霊の存在を否定します。そうすれば人間と動物は能力の差はあれ、同じ種類になるので決定的な差はなくなります。それなので進化論から見ると、キリスト教というのは人間を霊的な存在にはするが動物はそうせず、それで人間を優、動物を劣にしているというふうに見ます。ところが、聖書をよく読むと、動物も実は霊的な存在で、進化論が言うのとは逆の意味で人間と動物が同じ種類に入るということがあるのです。ひょっとしたら、これはあまり注目されてこなかったことかもしれません。少し注意しながら聖句を見てみましょう。
5日目に神は魚と鳥を祝福します。そのまま続けて読んでいくと、6日目に人間も祝福します。あれ、人間と同じ日に造られた動物は祝福されないのか?やはり動物は神の祝福に与れない、人間より劣ったものなのかと思わされます。しかし、それならば、なぜ魚と鳥は祝福を受けられるのか?魚と鳥は動物以上で人間並みということなのか?
これは、ヘブライ語の原文の厄介さがあります。複数形と単数形が入り乱れて、どれが何を指しているかよく考えないといけません。問題となるのは27節と28節です。28節を逐語訳すると、「神は彼らを祝福した。そして神は彼らに言われた。『お前たちは産めよ、増えよ、地に満ちよ。そして、お前は地を従わせよ』」となります。最後の「地を従わせよ」と命令されている相手は単数形なので「お前は」です。その前の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」の相手は全部複数形です。それで「お前たちは」です。それが突然「お前は」になるのです。これはどういうことか?可能な考え方として、神が祝福した「彼ら」は人間だけではなく、同じ日に造られた動物も含まれる。そして両者に対して「産めよ、増えよ、満ちよ」と言った。ところが、「地を従わせよ」のところで相手を人間に絞ったということです(後注)。鳥や魚が祝福を受けて「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われるのなら、動物も祝福を受けられて同じように「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われてもおかしくなく、それは文法的にも可能です。つまり、動物も魚も鳥も人間と同じように神の祝福を受けられ、みな「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われるのです。
動物が霊的な存在ということを考える時、民数記22章でバラムを乗せたロバが行く手に天使を見て立ち止まり、天使が見えないバラムに対して人間の言葉で話し出した出来事を思い出すと良いでしょう。人間には見えなくても動物には天使が見えたということが聖書にはちゃんと記載されているのです。
そこで、26節と28節に人間に動物、魚、鳥を「支配させる」と言われていることを見てみます。それは、聖書が人間に優越的な地位を与えていると考えられるところです。ところが、この「支配する」というヘブライ語の動詞רדהですが、詩篇72篇8節でも使われています。そこを見ると、正義を守る理想的な王の支配について言われています。力や数に任せた身勝手な権力行使ではないのです。そのように動物や魚や鳥に対しても、神の創造ということを念頭において何か注意深さ賢明さが必要ということになります。
さらに29節を見ると神は人間に食べ物として植物から採れるものを与えると言い、鳥や動物にも植物を食べ物として与えると言います。神が与える食べ物は人間も鳥や動物もかわりません。ところが、現実は、人間は動物や鳥も食べるし、鳥や動物の中には他の鳥や動物そして人間を食べるものもいます。それなので、神が人間と動物と鳥の食べ物について言ったことは、天地創造当初の理想状態の時のもので、それが堕罪の後で変わってしまったというふうに考えられます。そこで興味深いのは、イザヤ書11章にエッサイの切り株から出てくる若枝がこの世の権力者とは全く異なる仕方で世界を治めるという預言があります。エッサイはダビデの父親なので、エッサイの末裔から出る若枝とはイエス様のことです。イエス様が世界を治めるというのは、これは今の世が終わった後の次の世に現れる天の御国のことです。そこでは猛獣たちも他者を傷つけることなく家畜と一緒に仲良く並んで草を食べています。これは、まさに堕罪が起きる前の天地創造の理想的な世界が戻って来ることを示しています。つまり、動物たちも天の御国にいられるのです。
それならばなぜ、聖書は動物のことをもっと出さないのか、もっと踏み込んで動物の救いについて言わないのかという疑問を持たれるかもしれません。それはやはり、人間が神の意思に反する性向、罪を持つようになってしまったために救いが人間の問題になったことがあります。人間がどれだけ神の意思に反するものかを示すものとして十戒が与えられました。人間が罪から贖われて神との結びつきを回復できるためにイエス様の十字架の死と死からの復活があったのであり、贖いと結びつきを自分のものに出来るために洗礼と聖餐を受けることが必要になりました。これらは動物には関係のないことです。しかし、恵みの手段は人間だけに関係するものだと言っても、だからと言って動物が神から祝福を受けられないということにもならない。じゃ、動物の救いは何かと言うと、それは聖書にはそれ以上のことはないのでわからない。聖書は本当に人間の問題が中心なので、動物のことは書いてある以上のことは何も言えないのです。人間としては、書いていないことについては神に任せて、神の創造の業と祝福が動物に及んでいることを覚えつつ、自分たちの救いに専念するしかないのです。
5.
以上、創世記の天地創造は、時間の流れについても受け入れるのに問題がないこと、人間と動物の立場についても神の創造に属するものとして同じ祝福に与っていることを見ました。もちろん、聖書は人間の問題に集中しているので動物のことは書いてある以外のことはわからず、神に任せるしかありません。いずれにしても天地創造は、救いを人間を超えて生態系にも及ぼしていることを予感できるだけで十分と思います。それなので、時代遅れなんかではないのです。しかも、天地創造はこの世をどう生きるかという倫理的な視点も与えます。もし、自分は神なんかに創造されていないと言ったら、その時はもう造り主がどう思っているなんか考える必要はなくなります。自分こそ自分の主人だから自分の好きなようにやればいい、神なんかにとやかく言われる筋はない、という生き方になります。逆に自分は神に創造されたと認めたら、神との関係は必ず心配の種になりますが、神が贈ってくれた贖い主がおられる。彼のおかげで神との関係は大丈夫、心配ないとわかれば、神の意思に沿うように生きるのは自然なこと、別にとやかく言われるからするということではなくなります。
(後注)
ここで厄介なことがいろいろありますが、解決策を考え出すことも可能だと思います。
一つの厄介なことは、「お前は地を従わせよ」と言った後すぐ、今度は「お前たちは海の魚、空の鳥(etc)を支配せよ」と言います。つまり、「支配する」人間が単数から複数に変わるのです。そうなると、その前で「お前たちは産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言っていたのは、人間プラス動物ではなく、やはり人間だけなのではないかと思えてきます。しかし、26節と27節では人間は単数扱いになったり複数扱いになったり目まぐるしいのです。27節で「神は自分に似せて彼を(אתו単数)造った。男と女とに彼らを(複数אתם)造った。」とあります。28節の「支配する」が複数なのは、26節で複数形で言われている文をそのままそこにコピー&ペーストしたことで起こったのではないかと思います。
もう一つ厄介なことは、「支配する」動詞のרדהですが、詩篇8篇で神が人間に他の被造物を支配することを委ねたというところで、このרדהを期待したのですが、なんとמשלでした。実はこのמשלは創世記1章18節で「太陽が日中を支配し、月が夜を支配するために」のところでも使われています。秩序だった支配を意味すると考えれば、詩篇72篇8節の正義の支配と重なりますが、משלは現在分詞で「暴君」の意味もあるということで、頭が痛いところです。今回は解決策の模索はここで休止します。またいつの日か考えなければならない時が来ると思います。
主日礼拝説教 2023年5月21日 昇天主日
聖書日課 使徒言行録1章1-11節、エフェソ1章15-23節、ルカ24章44-53節
説教をYouTubeでみる。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
今日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は創造主の神の計り知れない力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのは実はこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは祝日です。そして今日は昇天日の直近の主日なので、「昇天後主日」とも呼ばれています。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天の父なるみ神の許から送ると約束していた聖霊が弟子たちに降る聖霊降臨の出来事が起こります。次主日にそれを記念します。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。
さて、イエス様の昇天ですが、それは一体いかなる出来事で、現代を生きる私たちに何の関係があるのかということを毎年礼拝の説教でお教えしているところです。今年は使徒言行録の昇天の記述とルカ福音書の記述の両方をよく見比べて、主の昇天が私たちに大いに関係があることをお話ししようと思います。その前に、まず昇天とはどんな現象かということについて、そしてイエス様が上げられた天とはどんなところかについて毎年お教えしていることを復習しておきます。その後でルカ福音書と使徒言行録の記述から、イエス様の昇天と私たちの関係を考えてみます。
新共同訳では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみる空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書かれています(1章9節)。この訳は問題です。これでは、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわいてしまいます。誰もスーパーマンやドラえもんを現実にあるものと思いません。イエス様の昇天を同じようなにイメージしてしまったら、同じように現実にはないものと思われてしまうのではないかと心配します。
ところが、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。イエス様の昇天はスーパーマンやドラえもんとは全く異なる、極めて聖書的な現象であることがわかります。どういうことかと言うと、雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったというのが原文の書き方です。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけです。その中か上にいる筈のイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します。因みに、フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルター版のドイツ語訳聖書もそのように原文に忠実に訳しています(後注)。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが」と言いますが、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に上がった後に雲が出てきてイエス様を覆い隠してしまった印象を与えてしまうと思います。
そうなると、新共同訳の「雲」は空に浮かぶ普通の雲にしかすぎなくなります。しかし、聖書には旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろあります。それを思い出さないといけません。モーセが神から掟を授かったシナイ山を覆った雲しかり、イスラエルの民が民族大移動しながら運んだ臨在の幕屋を覆った雲しかりです。イエス様がヘルモン山の上でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。さらに、イエス様が裁判にかけられた時、自分は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)再臨すると預言されました。本日の使徒言行録の箇所でも天使が弟子たちに言っています。イエスは今天に上げられたのと同じ仕方で再臨する、と。つまり、天に上げられた時と同じように雲と共に来られるということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」です。それでイエス様の昇天はとても聖書的な出来事なのです。
これで、イエス様の昇天はスーパーマンやドラえもんのタケコプター飛行の類のものではない、聖書に出てくる神の雲の出来事の一つであることが明らかになりました。シナイ山やヘルモン山の雲の出来事が信じられるのであれば、同じように信じられるものです。しかし、それでも生身の体の者が雲に乗って上げられるというのは、やはり空想的すぎると言われるかもしれません。ムーミンにも似たような話があります。「ムーミン谷の春」という物語の中で大きなシルクハットの中から不思議な雲がもくもく出てきて、みんながそれに乗って空を飛び回るという話です。誰もムーミンなんて実在しないとわかるので、同じイメージを持って見たらイエス様の昇天も空想の産物に見えてしまいます。
ここで聖書を読む人が思い出さなければならないことがあります。それは、天に上げられた時のイエス様の体は既に普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが沢山ありました。例えば弟子たちに現れても、すぐにはイエス様と気がつかない何かがありました。それから、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが自分にはあるぞ、と言って、十字架で受けた傷を見せたり、何か食べ物はないかなどと聞いて、弟子たちの見ている前で焼き魚を食べたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主である神と同質な方なので、被造物の天使と同じではありません。イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。
イエス様の昇天は聖書的な出来事で、上げられた時の体は復活の体であったということで、私たちの見方も空想の産物から解放されたと思います。どうでしょうか?ここでダメ押しとして、天の御国というものをどう考えたらよいのかということについて見てみます。天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通キリスト教会の礼拝で毎週、信仰告白の部で唱えられます。私たちも説教の後で唱えます。果たしてそんな天空の国が存在するのか?
毎年述べていることですが、世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても、天の御国とか天国は恐らく見つからないのではと思います。
なぜかと言うと、ロケット技術とか地球や宇宙に関する知識は信仰というものと全く別世界のことだからです。地球も宇宙も人間の目や耳や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?
信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものです。天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の観点は天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたというものです。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。
もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などないと考えることも可能です。そうすると当然ながら、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなります。そうなれば、自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来ただけで、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。
ところがキリスト信仰者にとって、自分自身も他の人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものです。さらに信仰者は、自分の命と人生はこの世だけではない、今のこの世は始めがあったように終わりもある、終わりの時には天と地が新しく再創造されてそこに神の国が唯一の国として現れる、自分の命と人生はそこで続いていくことになると考えます。この世では肉体の体をもって生きたように、この次に到来する世では復活の体をもって生きるようになる、そういうふうに人生を二つの世にまたがるものとして考えます。この人生観を持つ信仰者は、神がどうしてひとり子を私たち人間に贈って下さったかが分かります。それは、私たちの人生から天の御国の部が抜け落ちてしまわないためだったということです。つまり、人間が今のこの世の人生と次に到来する世の人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。生きる舞台が今のこの世とこの次に到来する世の二つにまたがっているということは、本日の使徒書の日課エフェソの1章21節でも言われています。キリストが全ての上に立つのは「今のこの世だけでなく次に到来する世においても」と言っている通りです。
それでは、イエス様を贈ってどうやって人間が大いなる人生を持てるようになるのでしょうか?それは次のような次第です。人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てない。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまい神との結びつきを失ってしまったからです。神の意思に背こうとする性向、罪は行為や言葉に現れるものも現れないものも全部含まれます。そうした神の意思に背くようにさせようとする罪が神と人間の間を切り裂いてしまい、人間は代々、罪を受け継いでしまったというのが聖書の立場です。そこで神は、失われてしまった人間との結びつきを回復するために罪の問題を人間のために解決することにしたのです。
どのようにして解決して下さったのでしょうか?神は人間に宿る罪を全部ひとり子のイエス様に背負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせました。つまり罪の償いを人間に代わってひとり子に果たさせたのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開きました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると彼が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになります。その人は罪を償われたので神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ神の国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ってその道を進んでいきます。この世を去ることになっても、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。このようにしてこの世の人生とこの次に到来する世の人生を一緒にした大きな人生を生きられるようになったのです。
以上、昇天とはどんな現象か、そしてイエス様が上げられた天とはどういう所か、私たちがそこに迎え入れられるようになるためにイエス様が大役を果たされたことを見ました。それでは次に、イエス様の昇天が現代を生きる私たちとどんな関係があるかについて、ルカ福音書と使徒言行録の記述から見ていこうと思います。
ルカ福音書と使徒言行録のイエス様の昇天の出来事の記述は、同じ出来事を扱っているとはいえ、内容が少し違っていることに気づきます。使徒言行録の方がルカ福音書より詳しく書かれていますが、イエス様が弟子たちに話す内容が違っていたり、使徒言行録では昇天の時に雲や天使が出てくるのにルカ福音書にはありません。どういうことでしょうか?
ルカ福音書と使徒言行録は同じ著者によるものです。著者がルカという人物であるというのは初代の教会からの言い伝えですが、それに対する反論はなく定説になっています。パウロのコロサイの信徒への手紙4章14節、ティモテへの第二の手紙4章11節、フィレモンへの手紙24節にパウロと共に福音伝道に携わった同志として名前が出てきます。
ルカは福音書と使徒言行録をテオフィルスという位の高い人に献呈する書物であると双方の出だしで言っています。使徒言行録の出だしでは、テオフィルス様、先に私は、イエスが弟子たちに指図を与えて天に上げられる日まで彼が教えたり行ったりしたこと全てを第一巻として書き下ろしました、と言います。その第一巻とは言うまでもなくルカ福音書のことです。実際、ルカ福音書はイエス様が弟子たちに指図を与えて天に上げられたところで終わっています。イエス様が与えた指図というのは、天の神から力を受ける時までエルサレムに留まっていろということです。天の神からの力とは、聖霊が降ってきた時に受けられる力というふうに聖霊由来の力です。
ところでルカは、使徒たちのようなイエス様の直接の目撃者ではなく、使徒たちの伝道を聞いて信仰者になって伝道に従事するようになった者です。ルカにとってイエス様は少し前の過去の人ですが、使徒たちは同時代の人です。そのことはルカ1章からわかります。そこで、自分はどのようにしてイエス・キリストの言行録を書いていくかということを述べます。目撃者の証言と信頼できる記録を集めて書くのだと。つまり、自分は直接の目撃者ではないが、信頼できる資料を集めて書き上げるのだと。使徒言行録ではそういうことは言っていません。それは、ルカが使徒たちから直接聞いたというだけでなく、自分自身使徒たちと行動を共にし使徒たちの生きざまの直接の目撃者であったからです。使徒言行録16章10節から、書き方が「私たちは~した」という言い方になり、目撃者としての立場を明らかにしています。
このような背景がわかると、どうしてルカ福音書と使徒言行録の昇天の記述が異なってきているかがわかります。ルカは、福音書の方はあくまでイエス・キリストの言行録に留めよう、イエス様がこの世に贈られてから、この世で教え行ったことの記録をまとめようと、イエス様の言行録に徹したのです。どこで終わりにするかについてイエス様の昇天で終わりにすることにしたのですが、どういうふうに昇天を記述したらいいか、続く使徒言行録の出だしとの兼ね合いで考えなければならなくなりました。もちろん、ルカ福音書の終わりに使徒言行録の出だしとそっくり同じことを書いて重複させることも可能だったでしょう。しかし、ルカはそうしませんでした。なぜか?私は、ルカが手元にある沢山の資料を福音書用と使徒言行録用に使い分けたと考えます。どういうふうに使い分けたのか?
ルカ福音書の方に、イエス様が十字架で死なれ死から復活されたことは旧約聖書の預言の実現であるというイエス様の言葉が入れられました。それでルカ福音書は彼が旧約聖書の預言の実現であることを明確にして完結させます。預言が実現したことで「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」(ルカ24章47節、新共同訳は「罪の赦しを得させる悔い改め」)、そういう神への立ち返りを人間が出来るようになった、そのことを人間に教え伝えなければならないというイエス様の言葉を載せて、使徒言行録への繋ぎとしました。
続く使徒言行録では、もうイエス様が旧約聖書の預言の実現ということは繰り返されず、新しい動きに入っていきます。それは、人間が将来到来する神の国ないし天の国に迎え入れてもらえる可能性をイエス様が開いた、今度はその可能性を人間が持てるようにする働きが始まったのです。イエス様は40日の間、弟子たちに神の国について教えたと言われます。この教えで、弟子たちは、神の国が当時考えられていたような、支配民族を打ち倒してかつてのダビデの王国を再興するというような地上の国ではないとわかったでしょう。ダニエル書に預言された死者の復活が起きた以上はこの世を超えた終末論的な国だとわかったでしょう。
ところが弟子たちは、この終末論的な神の国が遠い将来に現れるのではなく、今すぐにでも現れると考えたようです。それは彼らの「あなたがイスラエルの民に王国を再興するのは今のこの時ですか」という質問に見て取れます。イエス様は神の国について教えた時、自分はまず天に上げられて後で再臨する、その時に神の国が現れると教えなかったのでしょうか?それとも、教えたけれども、弟子たちは目の前にいる復活の主に心を奪われて、神の国の王が今まさに目の前におられる、王国はいよいよ打ち立てられると気がせく状態だったのでしょうか?いずれにしても、弟子たちの頭には主の昇天も再臨も全然入っていません。
しかしながら、この時点での神の国の樹立は神の御心ではありませんでした。そんなことしたら、せっかくひとり子を用いて全ての人間に整えた可能性、人間が神の国に迎え入れられる可能性をまだほとんど誰も受け取っていない段階で新しい天と地の創造や最後の審判を行うことになってしまいます。これからしなければならない本当のことは、神の国に迎え入れられる可能性を全世界の人間が持てるようにすることでした。そのためには最初の目撃者たちに聖霊が降って力を得てイエス様について人々に証言しなければならなかったのでした。
それでは、証言するのにどうして聖霊が降らなければならないのでしょうか?それは、ただ単にイエス様が十字架にかけられて復活したのを目撃しましたと言っても、それだけでは、すごいなあ、不思議だなあ、で終わってしまいます。十字架と復活の出来事は「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」を人間が出来るようになるために起きた出来事であるということを伝えないと何の意味もないのです。
人間に神の意思に反しようとする罪があることを気づかせるのは聖霊です。同時にイエス様の十字架と復活に罪の赦しがあることをわからせるのも聖霊です。それなので聖霊が自分の内に働くようにする人は罪の自覚を持てて赦しを願う心を持ちます。これが神への立ち返りです。この立ち返りが起これば聖霊はすぐ心の目に主の十字架を示してくれます。これが罪の赦しをもたらす神への立ち返りです。この立ち返りは聖霊が働かないと起きないし、伝えることも出来ません。イエス様は弟子たちに、洗礼者ヨハネは水で洗礼を授けたが、お前たちは「聖霊を伴う洗礼」を授けると言いました。「聖霊を伴う」というのは、洗礼を受ける者に「罪の赦しをもたらす神への立ち返り」が実際に起こるようになるということです。そして、洗礼を受けた者が他の者に同じ立ち返りを伝えることができるようになるということです。それで、聖霊が自分の内に働くようにしているキリスト信仰者は神への立ち返りをしながら生き、他の者に立ち返りを伝えるのです。これは最初の使徒たちが行ったことそのままです。
使徒言行録はパウロがローマに到着したところで終わっていますが、使徒言行録のテーマは終わっていません。イエス様が開いて下さった可能性、人間が将来到来する神の国に迎え入れてもらえる可能性を人間が持てるようにする働きはまだ続いているからです。とにかく主の再臨の日まで続く働きですから、私たちは使徒言行録の続編を生きているのです。
(後注)英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。
2023年5月7日 復活節第五主日 主日礼拝説教
聖書日課 使徒言行録7章55-60節、第一ペトロ2章2-10節、ヨハネ14章1-14節
本日の福音書の日課の箇所は、イエス様が十字架にかけられる前夜、弟子たちと最後の晩餐を共にした時の教えです。初めに「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じます。「心を騒がせるな」とは、この時、弟子たちが不安を抱き始めたためイエス様が述べたのです。弟子たちはどうして不安を抱いたのでしょうか?
弟子たちにとってイエス様はユダヤ民族の期待のヒーローでした。無数の不治の病の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出し、嵐のような自然の猛威も静め、わずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたりするなど沢山の奇跡の業を行いました。誰が見ても天地創造の神が彼の味方にいるとわかりました。さらに、創造主の神について人々に正確に教え、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの誤りをことごとく論破しました。弟子たちも群衆も、この方こそユダヤ民族を他民族の支配から解放してかつてのダビデの王国を再興する真の王と信じていました。そうして民族の首都エルサレムに乗り込んできたのです。人々は、いよいよ民族解放と神の栄光の顕現が近づいたと期待に胸を膨らませました。
ところが、イエス様は突然、私はお前たちのもとを去っていく、私が行くところにお前たちは来ることができない、などと言い始めたのです(ヨハネ13章33、36節)。これには弟子たちも面喰いました。イエス様が王座につけば直近の弟子である自分たちは何がしかの高い位につけると思っていたのに突然、自分は誰もついて来ることができない所に行くなどと言われる。それでは王国の復興はどうなってしまうのか?イエス様がいなくなってしまったら、取り残された自分たちはどうなってしまうのか?ただでさえイエス様は宗教エリートの反感を買っているのに、肝心のリーダーがいなくなってしまったら自分たちは弾圧されてしまうのではないか?こうして弟子たちは不安に襲われて心が騒ぎ出したのでした。そこで、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と命じたのです。この世で敵に囲まれて取り残されてしまう弟子たちが心を騒がせないで済むようにイエス様は教えていきます。その教えは当時の弟子たちだけでなく現代を生きるキリスト信仰者にとっても大事なものです。以下そのことを見ていきましょう。
イエス様は、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて弟子たちをそこに迎えると言われます。「神のもとに行く」というのは、死から復活して神聖な復活の体を持つイエス様がおられるのに相応しい場所、言うまでもなく天の父なるみ神のもとです。そこに帰ることを意味します。「また戻ってくる」というのはイエス様が再臨する日のことです。その日イエス様は弟子たちを自分が用意した場所に連れて行ってくれると言うのです。どこに連れて行ってくれるのでしょうか?それは、今のこの世が終わって天と地が新しく再創造される日、新しい天と地のもとで新しく始まる世の中にあります。この時、死者の復活が一斉に起こり、神の目に義と見なされる者たちが見出されて父なるみ神の御許に迎え入れられます。この迎え入れられる場所のことを聖書は「神の国」とか「天の国」などと言います。
そこは黙示録で言われているように全ての涙が拭われて痛みも嘆きも死もない国です。全ての涙というからには痛み悲みの涙だけでなく無念の涙も含まれす。つまり、その国では旧い世の不正義の報いが完璧に果たされます。また、そこは盛大な結婚式の祝宴にも例えられます。イエス様は祝宴に迎え入れられる一人ひとりのために席を用意しに行き、時が来たら迎えに来ると約束しているのです。また来るから心配するな、来たら直ぐお前たちを新しい世の神の国に連れて行ってやると約束しているのです。神を信じイエス様を信じるということは、神とイエス様はこの約束を必ず果たされると信じることです。信じたら、この世で神の意思に沿うように生きようとして困難や苦難にあっても、この約束があるので何も心配いらないという気持ちを持てるのです。
しかしながら、イエス様の十字架の死と死からの復活が起こる前に復活に関係する話をされても何のことか理解できません。自分はまた戻って来るから大丈夫だと言った後でイエス様は恐らく反論を予想して言います。「お前たちはわたしが行こうとしている場所に通じる道を知っているのだ」(4節)。予想通りトマスが当惑して言い返します。あなたがどこへ行くのかわかりません。それなので、そこに至る道というのもわかりません。行先が分からなければ道なんかもわからない。もっともなことです。これに対してイエス様は待ってましたとばかりだったでしょう、とても有名な言葉を述べます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。
イエス様自身が天の父なるみ神のもとに至る道であると言うのです。しかも、彼を介さなければ、だれも神のもとに行くことはできないという位、イエス様は創造主のもとに至る唯一の道だと言うのです。唯一の道ということは、ギリシャ語の原文でもはっきりしていて、道、真理、命という言葉全部に定冠詞へーがついています。定冠詞とは皆さんご存じの英語のtheと同じもので、the way, the truth, the lifeです。定冠詞がつくと、イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版という意味になります。どういう決定版かというと、創造主の神のもとに至る唯一の道という意味で決定版なのです。いくつかある道の中のどれか一つではないのです。その場合は定冠詞はつかず、英語ならa way, a truth, a lifeになります。イエス様はそうは言っていません。日本語は定冠詞がないので、注意しないと、沢山ある中の一つを言っているなどと誤解する人が出てきます。
このように言うと、人によっては、いや、それはこの福音書を書いたヨハネの考えであって、実際のイエス様はそんな偏狭な考えの持ち主ではないと言う人もいます。そういう人にとって、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は実際のイエス様の言行録ではなく、それらを書いた人の限りなくフィクションに近い文学作品なのです。そういう、福音書を見ても実際のイエス様の教えや業は見えてこないという考え方はドイツの有名な聖書学者W.ヴレーデやR.ブルトマンの時代から1980年代まで聖書学会に根強くありました。福音書を文学作品のように扱うと、作者の意図は何かということに関心が行きいろんな解釈が生まれます。人を感心させたり感動させる解釈が注目を集めます。文芸評論みたいになります。ただ、それが実際のイエス様と関係ないことは、福音書は作者の文学作品であるという前提から明らかです。そのような解釈が信仰にとって妥当かどうかは、キリスト信仰の土台である使徒的伝統に照らし合わせてみればすぐわかります。
話がわき道に逸れたので戻ります。イエス・キリストが道の決定版などと言うと、宗教の業界では煙たがれます。ああ、キリスト教は独り勝ちでいたがる独りよがりな宗教だなど、と。それでか、最近はキリスト教関係者の間でも、この世から死んだあと天国でも極楽でもなんでもいいが、そういう至福の状態に至る道はいろいろあっていいのだ、それぞれの宗教がそれぞれの道を持っているが到達点はみな同じなのだ、そうことを言う人が増えてきました。そういうふうに言えば、キリスト教はなんと懐の深い宗教だろうと評価を受けます。
しかしながら、至福に至る道に関してキリスト教を他の宗教と同列にできない点があることを忘れてはいけません。恐らく多くの宗教では人間はこの世を去ったらあの世に行ってそこからこの世にいる人たちを見守っているというような、この世とあの世が同時併行してあるという見方ではないかと思われます。キリスト教の場合は復活と天地再創造があるので同時併行にならないのです。今ある天と地が終わって新しい天と地が再創造される、そこに旧い世の時には異なる次元にあって見えなかった神の国が唯一の国として現れてくる、死者が一斉に眠りから覚まされる復活が起きて創造主の神の前で義とされる者は新しい復活の体を与えられてそこに迎え入れられるという流れになります。もちろん、この説明は大雑把なもので、細かいことを言えば、復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた聖人はいるし、復活も黙示録を見ると2段階あるように書かれています。詳細は人間の理解力では把握できませんが、大きく見れば、この世とあの世の同時併行ではなく、この世がなくなってあの世に取って代わられるということです。それで、キリスト教がゴールと考えているところは他の宗教がゴールと考えているところと次元が全く異なるのではないかと思われます。他の宗教ではこの世から離れると至福の地点に到達するまで修行の旅をするというような何かを行っているという見方があると思われます。キリスト信仰では復活の日まで特に何もせず、ただ静かに安らかに眠っているだけです。
道以外にもイエス様は、自分は真理の決定版、命の決定版であると言われます。
真理の決定版というのはどういうことでしょうか?真理とは普通、時や場所に関係なくいつどこででも妥当する普遍的な法則のようなものです。例えば、イエス様の十字架と復活の業によって人間は罪の支配下から解放されて将来復活を遂げることができるようになる可能性が生まれたこと。これは、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間にその可能性が生まれたので、これは真理なのです。そしてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、それは可能性に留まらず本当のことになるということ。これも、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間に本当のことになるので、これは真理なのです。ところが、最後の審判はキリスト教徒だけの問題だ、キリスト教以外の人は最後の審判は関係ないと言ったら、キリスト教から真理を取り下げることになります。最後の審判はキリスト教徒か教徒でないかに関係なく全ての人間に関わるというのが聖書の立場です。最後の審判が真理であるということです。
次に命の決定版ということについて見てみます。イエス様が「命」とか「生きる」ということを言われる場合、いつもそれは今のこの世の人生のことだけでなく、今の世が終わった後に到来する新しい世の人生も一緒にした、とてつもなく広大な人生を「生きる」「命」を意味します。死から復活させられたイエス様はまさにその広大な人生を生きる命を持つ方です。そればかりではありません。彼を救い主と信じる者たちにも同じ広大な人生を生きる命を与えて下さる方なのです。それで、イエス様は命の決定版なのです。
7節でイエス様は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われます。イエス様を知ることは、父なるみ神も知ることになる。イエス様を見ることは、父なるみ神を見ることと同じである。それくらい御子と父は一体であるということが7節から11節までずっと言われます。そう言われてもフィリポにはピンときませんでした。イエス様を目で見ても、やはり父なるみ神をこの目で見ない限り、神を見たことにはならない、と彼は思いました。イエス様と父なるみ神は一体であるということがまだわからないのです。これは、十字架と復活の出来事が起きる前は無理もなかったでしょう。しかし、十字架と復活の出来事の後に全てが一変します。弟子たちはイエス様が真に天の父なるみ神から贈られた神のひとり子だったとわかったのです。さらにこのひとり子は、人間を罪の支配下から解放して将来復活を遂げられるようにしてあげようとする神の人間への愛を自ら実践し、それで十字架の死は人間の解放のための犠牲の死であったこともわかりました。そのようなことを成し遂げる位にひとり子は父に従順だったこと、彼が人間に教えたり行ったことは全て父が教えたり行ったことで、自分で好き勝手に教えたり行ったのではないこと、それくらい父と御子は一体だったことがわかるようになったのです。
12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言われます。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか?まさかイエス様が多くの不治の病の人を完治した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?しかも、信じる者が大きな業を行うことが、イエス様が天のみ神のもとへ行くこととどう関係があるのでしょうか?
弟子たちがイエス様の行う業を行うと言う時、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して広大な人生を生きられるようにする可能性を開きました。これに対して弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものとすることができるようにしました。つまりイエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して、この世とこの次に到来する世を合わせた広大な人生を生きられる道に乗せてあげられるようにするという点では同じ業を行っているのです。
それから、弟子たちの場合は活動範囲がイエス様の時よりも急速に広がったことが重要です。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、それが弟子たちが遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。使徒たちの伝道は地中海世界の東側全域に及びました。パウロはスペインを目指しましたが果たせませんでした。パウロの後に続く者たちに委ねられました。伝説によるとトマスはインドにまで伝道しに行ったとのことです。地理的な意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うことになったのです。弟子たちの働きはイエス様が天に上げられた後で本格化します。ヨハネ16章7節でイエス様は、自分が天の父のもとに戻ったら、今度は聖霊を送ると約束しました。お前たちをみなしごのようにしないと言うのです。聖霊は福音が宣べ伝えられるところならどこででも働き、人間が罪のなすがままの状態にあるという真理と、そこから解放するのが神の愛であるという真理を人々が見れるようにと導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られてきて、弟子たちが伝道すると聖霊が働き、キリスト信仰者の群れはどんどん大きくなっていったのです。
イエス様は13節と14節で、わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これはとても難しいところです。昔、私の知り合いのキリスト信仰者の方が、自分の抱えている問題がとても大きくて人間的に見て解決はどう見ても不可能、祈っても解決を得られなかったら、自分はイエス様に失望してしまうかもしれない、それが怖くて祈れないと言われた方がいらっしゃいました。気持ちはよくわかったのですが、私としてはやはり、神に全てを打ち明けることは十戒の第一の掟に入るので、義務として祈らなければならなかったと思います。「何でもかなえよう」がその方にとって躓きの石になったと思います。
自分は金持ちになりたい、有名になりたい、というようなことをイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければなりません。利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまいます。キリスト信仰者とは神との結びつきを持って復活の日を目指して歩む者です。キリスト信仰者が願うことはもちろん、いろんなことがありますが、つまるところは「イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって得ることができた神との結びつきがしっかり保たれて、道の歩みがしっかりできますように」という祈りに行きつくのではないかと思います。「これしきの困難で歩みが出来なくなるようなことがないように」と祈ると、神はその人の歩みが出来るように、困難に解決を与えて解消してくれるか、または困難を耐えられる忍耐力のどちらかをお与えになります。それに、まだ神との結びつきを持てておらず復活の日を目指す歩みも始まっていない隣人のために、その歩みが始まりますように、そのために何か相応しい言葉や働きかけを教えて下さいと願う祈りも切実なものになると思います。復活の日の再会がかかっていればなおさらです。イエス様がその通りにしてあげると約束された以上は、どんなに時間がかかっても、それを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者の忍耐が試されるところです。
イエス様は、心を騒がせるな、神を信じ私を信じなさい、と弟子たちに言われました。そこで、復活が関係する将来のことを話しましたが、まだ十字架と復活の出来事が起きる前です。弟子たちは何のことかわかりませんでした。イエス様はさらに、自分と父なるみ神は一体であることも教えましたが、それもわかりません。そこでイエス様は、言葉で信じることができなければ、イエス様の業のゆえに信じなさい、その業はイエス様と一体である父なるみ神が行うのである、それくらいイエス様と父なるみ神は一体なのであると言います。弟子たちはイエス様の行った数多くの奇跡の業を思い出したのではと思われます。
しかしながら、それで弟子たちが心を騒がせなくなったかどうかはあやしいです。というのは、最後の晩餐の後でイエス様が逮捕されてしまうと、弟子たちは逃げてしまったからです。ペトロに至っては、お前はあいつの弟子だっただろうと聞かれて、あんな人知りませんと3度も答えてしまいました。
ところが、弟子たちが心を騒がせなくなるような真の業がこの後に起こったのです。イエス様の復活がそれです。これこそイエス様と一体である父なるみ神が行う業の中で最高の業でした。復活された主を目撃した弟子たちは一変しました。権力者から、イエスの名を広めたら命はないぞと脅され続けたにもかかわらず、彼らはひるまず恐れず伝道していったのです。それでイエス様が、言葉で信じるのが難しければ業のゆえに信じなさい、と言った時の業とは復活だったことが明らかになりました。このように復活というのは、神がイエス様を通して行う業のなかで一番心を落ち着かせて勇気を与える業なのです。それなので復活の日を目指して歩むこと自体が、心騒がず勇気を持って歩める歩みになるのです。
主日礼拝説教 2023年4月30日 復活後第四主日 聖書日課 使徒言行録2章42-47節、第一ペトロ2章19-25節、ヨハネ10章1-10節
本日の福音書の日課の個所はイエス様のたとえの教えです。日課は10節までですが、本当は16節までがひとくくりのところです。どういう流れかというと、最初1~5節までイエス様は羊の囲いについて話をします。羊飼いや羊を盗む泥棒のこと、羊飼いが羊の群れを囲いから出して牧草地に連れて行くことを話します。これを聞いた人たちは、何のたとえかわかりませんでした(6節)。それでイエス様は7節から説き明かしをします。まず、自分は羊の囲いの門であると明かします。7節から10節までです。その次に自分は良い羊飼いであると言います。11節から16節までです。
これらを聞くと、ああ、イエス様は私たちを守って下さるお方なんだ、何とありがたいお方なんだという気分になります。しかし、具体的にわかろうとすると難しくなります。イエス様が良い羊飼いのように私たちを危険から守り導いてくれると言っているのはわかりますが、イエス様が囲いの門というのはわかりにくいと思います。それに、囲いの門は何を意味しているのか?牧草地は何を意味しているのか?皆さんは直ぐわかるでしょうか?
実を言うと、これらのたとえの正確な意味は、イエス様の十字架の死と死からの復活の後でわかるようになります。そもそもイエス様の教えというのは、十字架と復活の出来事と結びつけて、その出来事の意味を知った上でないとわからないのです。本日の箇所に限ったことではありません。イエス様の十字架や復活と結びつけないでイエス様の教えを理解しようとすると、自分に都合の良い解釈がどんどん生まれていき、イエス様が言いたいことはこれだなどと言ってしまう危険があります。注意しないといけません。
本日の日課は、イエス様が自分を羊の囲いの門であると言うところまでです。本当は良い羊飼いと言っているところまであった方がいいのになと思ったのですが、囲いの門のたとえは本日の使徒書の日課、ペトロの第一の手紙の箇所と合わせてみると、より深く理解できることに気づきました。それで日課が囲いの門どまりであったことに感謝した次第です。
1節から5節はたとえそのものです。イエス様は本当に当時の社会の日常的なことを話します。
「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
羊の飼育が盛んなところでは、木材や石材で塀の囲いを作って、羊を牧草地に連れて行かない時はそこに入れていました。泥棒が「乗り越える」というから、それなりの高さがあったのでしょう。イエス様の話し方から、囲いの中には、複数の所有者の羊が一緒に入れられていたことがわかります。羊を所有する羊飼いが、さあ、これから自分の羊を牧草地に連れて行こう、とやってきて、門番に本人確認をしてもらって門を開けてもらう。そして、自分の所有する羊を呼び集める。羊は、生まれた時から同じ羊飼いに飼われているので、自分を牧草地に連れて行ってくれる羊飼いを声で聞き分けられる、別の羊飼いが近づいて来て連れ出そうとすれば、すぐわかって引き下がる、イエス様は羊飼いと羊のそんな理想的な関係について言われます。こうして、羊飼いと羊の群れは一緒になって囲いの外に出て牧草地を目指して進んでいきます。
以上の話は、当時の人には日常的な当たり前な話でした。イエス様が日常的な事柄を話していることは、ギリシャ語の原文を見ると、ここの動詞のほとんどが現在形であることからわかります(後注)。しかし、これを聞いた人たちは、話としてはわかるが、だから一体何なのだという感じになりました。それで、イエス様は自分は囲いの門である、自分は良い羊飼いであると明かしたのです。しかし、それでも、まだ十字架と復活の出来事の前ですので、イエス様がどういうふうに囲いの門なのか、良い羊飼いなのかはわかりません。しかし、私たちは十字架と復活の出来事が起きたことも、その意味も知っているのでわかる立場にあります。以下それについて見ていきましょう。
イエス様は、自分は羊の囲いの門である(7節)と言って、たとえの解き明しを始めます。9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」ギリシャ語原文を見ると、ここの動詞は全部現在形ではなく未来形になっています。救われることも牧草地を見つけることも未来の意味になっていて、日常を超える話をしているのだというシグナルを出しているのです。ここで注意すべきことは、日本語訳では「門を出入りして」と言って、出たり入ったする日常的な放牧の営みのイメージを出しています。ところが、原文ではそうは言っていません。「囲いの中に入って、外に出ていく」と未来形で言っていて、その結果、牧草地を見つけると未来形で言っています。囲いの中に入ることも、外に出ていくことも、牧草地を見つけることも全て日常を超えた事柄を意味しているのです。それはどんな事柄でしょうか?答えのカギは、囲いの中に入る際にイエス様という門を通らなければならないということがあります。さあ、ここで、十字架と復活の意味を知る者の出番です。
イエス様という門を通って中に入るというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者の群れに入ることを意味します。どんな群れかというと、創造主の神、人間に命と人生を与えた造り主の神と結びつきを持ってこの世の人生を進む者たちの群れです。この世から別れても将来の復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて神のみもとに永遠に迎え入れられる者たちの群れです。永遠に迎え入れられる神のみもととは、「神の国」とか「天の国」とか呼ばれるところです。8節で言われるように、彼らはいろんな霊的な声がするのを聞いたけれども、結局はそれらに聞き従わず、イエス様の声に聞き従った者たちです。
このようにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様という門を通って中に入って救われた群れに加わる。そうすると、今度は「外に出て牧草地を見出す」ことになります。これは、イエス様を羊飼いのように先頭にしてこの世の荒波の中に乗り出して行き、最後は緑豊かな牧草地にたとえられる神の国に到達することを意味します。荒涼として渇いた荒地を長く歩いた羊にとって牧草地は別天地であり、安息の場です。それと同じように、この世の荒波を生きぬいた者たちにも神の国という安息の地が約束されているのです。
このように、この世の人生を天地創造の神と結びつきを持って生き、神の国に迎え入れられる日を目指して進み、最後には迎え入れが実現する、この世とこの次に到来する世の二つの世の人生を生きられること、これが「救われる」ことです。10節で「命を持つことが出来るように、それももっともっと持つことが出来るように」と言っているのは、まさに二つの世の人生を生きることを意味します。
それでは、二つの世のまたがる人生を生きられるために、なぜイエス様を救い主と信じて洗礼を受けないとダメなのか?それは、そのためには神と結びつきを持てることが必要不可欠で、その結びつきはイエス様を抜きにしては持てないからです。どうして持てないかと言うと、もともと人間は天地創造の時に造られた時はそれなりに良いものとして神との結びつきを持っていました。ところが、神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまったために失われてしまったのです。神聖な神との結びつきを回復するためには、人間は内に持っている罪をどうにかしなければならない。人間は自分の力で罪を除去できないというのが聖書の立場です。この問題を解決するために神はひとり子をこの世に贈ったのです。贈って何をしたかと言うと、あたかも彼が全ての人間の罪の責任者であるかのようにして彼に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせたのです。人間の罪の償いを神のひとり子に果たさせたのです。
そこで今度は人間の方が、このことは本当に起こったんだとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受ければ、罪の償いはその人にその通りになり、罪が償われたからその人は神から罪を赦された者として見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てて生きられるようになったのです。
このように、私たちが造り主の神との結びつきを持てて、今のこの世と次に到来する世の両方を生きられるようになるためには、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるかどうかにかかっているのです。それがイエス様という門を通って救われた群れに加わるということなのです。イエス様はさらに、救いの門は自分一つだけであるということをヨハネ14章6節で宣言します。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
ギリシャ語原文では、道、真理、命、それぞれに定冠詞ヘーηがついています。定冠詞とは、英語で言えば、皆さんご存知のtheです。イエス様は天の父なるみ神のみもとというゴールに至る唯一の道、真理、命であると自分で言っているのです。いろいろ沢山ある道、真理、命の中の一つではなく、自分が決定版であると、他でもないイエス様が言っているのです。
こうして、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様という門を通って救われた群れに加わった者は今度は、良い羊飼いのイエス様を先頭にして囲いを出て荒波猛るこの世に乗り出していきます。牧草地に例えられる永遠の安住の地、神のみもとに向かって進んでいきます。その進みはどのような進みでしょうか?良い羊飼いがついているから何も心配いらない、いつも安心安全な進みでしょうか?詩篇23篇はこの進みの現実を的確に言い表わしています。4節「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を怖れじ。汝、我と共にませばなり」。ここで、主が共にいるから確かに心配はいらない、しかし、死の陰の谷を通らなければならない時もある、だから、いつも安全とは限らない、しかし、主が共にいるから安心なのだ、と言っています。キリスト信仰者にとって死の陰の谷に例えられる危険とはどんな危険でしょうか?
それは、キリスト信仰者がゴールに到達できなくなるようにする危険です。そのために神との結びつきを失わせようとする危険です。キリスト信仰者はそうした危険に囲まれて生きています。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたと言っても、神の意思に反しようとする性向、罪はまだ私たちの内に留まっています。もちろん、罪の赦しを頂いたので、罪は残っていても信仰者を神罰下しに陥れる力はなくなっています。それでキリスト信仰者は、この罪の赦しは神のひとり子の尊い犠牲と引き換えに頂いたものだからそれを台無しにするような生き方はやめよう、神の意思に沿うように生きようと志向します。ところが、実生活を生きていると自分には神の意思に反することが沢山あることと気づかされます。神に失格者と見なされてしまうのではと恐れたり、そういう至らない自分に失望します。しかし、その時は直ぐ心の目をゴルゴタの十字架に向けます。あの時打ち立てられた罪の赦しは今も微動だにせず打ち立てられていることがわかります。これがキリスト信仰者の希望です。信仰者はまた神の意思に沿うようにしなければと心を新たにし、そのような再出発を可能にして下さる神に感謝します。
キリスト信仰者は実にこのような罪の自覚、赦しの願い、罪の赦しの確認ということを繰り返してこの世を進んでいきます。これこそが罪の赦しに留まる生き方です。この世には、キリスト信仰者をこの繰り返しの人生から引き裂こうとする力が沢山働いています。それが、本日の福音書の個所でイエス様が盗人とか強盗と言っているものです。ある時は、お前は何をしても赦されないと言って絶望に陥れたり、別の時には、そんなのは罪でも何でもないから平気だよ、などと言って神を畏れる心を失くさせようとします。さらには、十字架や復活なんて本当のことじゃないよ、などと言って聖書の神を嘘つき扱いします。そういう声は特に苦難や困難に陥った時には耳に響いてきます。しかし、それらには耳を貸さず、ただひたすらに罪は罪として認めて心の目をゴルゴタの十字架に向ける、罪の赦しに留まります。そうすることが、自分は罪に逆らっている、罪を憎んでいることを証しします。人間は神がお恵みのように与えて下さった罪の赦しにひたすら留まることで神から義とされるのです。
このように罪の赦しに留まって生きるというのは、イエス様という門を通って救われた者が復活の日の神の国を目指して進んで行く時の生き方です。この時、罪の自覚と赦しの確認を繰り返すことが罪の赦しに留まって生きることになります。
罪の赦しに留まって生きることには、もう一つ大事なことがあります。それは、罪の赦しが神からの一方的なお恵みであるということが真理であるという生き方をすることです。人間が何か神の目にかけられるようなことをして、その見返りとして赦しが与えられるということではない。または、イエス様は十字架と復活をやった、自分はそれに何かを付け加えて赦しを確実なものにするということでもない。罪の赦しは徹頭徹尾、神が人間にして下さった純粋に神的な業で、人間はそれに対して何も付け加えたり加工したりできない、完全に純粋に神のお恵みである。そう観念して、罪の赦しがお恵みとして保たれるようにする。これこそ罪の赦しのお恵みに留まって生きることです。
この生き方を本日の使徒書の日課、第一ペトロの個所が明確に教えています。
20節「しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」この訳ではダメです。「神の御心に適うことです」と言っているのはギリシャ語原文を直訳すると「神から見れば恵みです」です。善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶのは、神から見れば恵みだと言うのです。確かにギリシャ語のカリスは「恵み」以外にもいろんな意味があります。しかし、「御心に適うこと」は少し離れてしまっていると思います。「恵み」という日本語は何かいいものを豊かに受けるという意味なので、訳した人は、善を行って苦しみを受けるのを「恵み」と言うのに違和感を覚えて、それで「神の御心に適うこと」にしたのではないかと思います。フィンランド語の聖書ははっきり「恵み」と訳しています。それでは、善を行って苦しみを受けることがどうして神からすれば恵みになるのか?実は、ここに「恵み」の本質があるのです。そのことを見る前にもう一節見てみます。
19節「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心にかなうことなのです。」ここも「御心にかなうことなのです」と言っていますが、ギリシャ語原文ではカリス「恵み」です。フィンランド語の聖書ではちゃんと「恵み」と訳しています。不当な苦しみを受けることになるのが「恵み」だと言うのです。これに関連してもうひとつ訳の問題点があります。「神がそうお望みだとわきまえて」とあります。ギリシャ語原文を直訳すると「神に関わる良心のゆえに」です。「神に関わる良心のゆえに不当な苦しみを受ける」です。「神に関わる良心のゆえに」とは一体何でしょうか?これはもう、かつてルターがドイツの帝国議会で自説を撤回せよと迫られた時、「私の良心が神のみ言葉に縛られているゆえに」と言って拒否した、「良心が神に縛られている」ことです。フィンランド語の聖書もずばり、「良心が神に縛られているゆえに苦痛を耐えるのは恵みなのである」と訳しています。
この19節と20節は、日本語、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳を比べると皆さんとても苦労していることがわかります。興味深いことに、ドイツ語とフィンランド語は堂々と「恵み」と訳しています。
さあ、大変なことになりました。善を行うことで苦しみを受け、それを耐えることは神からすれば恵みである、良心が神に縛られているゆえに不当な苦しみを耐えるのは恵みであるという。どういうことでしょうか?
ここで「善を行う」と言う時の善とは何かについて確認します。これは20節の「罪を犯す」の正反対のこととして言われています。それなので、「善を行う」とは神の意思に沿うように生きることです。罪を犯すことは神の意思に背くことだからです。神の意思に沿う生き方とは、言うまでもなく、神を全身全霊で愛し、その愛の上に立って隣人を自分を愛するがごとく愛することです。もっと具体的には十戒を見ればわかります。人を傷つけることはしてはいけない、不倫してはいけない、偽証してはいけない、妬んだりしてはいけない等々、いけない尽くめです。これをルターの小教理問答書風に言えば、これらの逆のこともしなければいけないということです。困っている人を助け、夫婦関係を大事にして守り、陰口をたたかない、悪く言われる人に良い面があることを見つけてあげる等々をしなければならないということです。
そう言うと、あれっ、キリスト教って、神から罪の赦しがお恵みのように与えられるのを福音と言っていたんじゃなかったっけ?律法を行うことで救われるという考えは取らないんだから、人間に善いことをしろと命じたら恵みは意味がなくなってしまうのでは?そんな疑問が出てくると思います。本当にその通りです。キリスト信仰では罪の赦しは神のお恵みなので、人間がいくら善い業を行っても赦しを得られることにも、確実にすることにもなりません。だから、ペトロが言うように、善を行えという神の命令に従う時、褒められもせずご褒美ももらえず、逆に不当な扱いを受けて苦しんだり耐えなければならない方が、恵みが恵みとして保たれるのに好都合なのです。もし褒められたり褒美をもらってしまったら、善い業をすると見返りがあることが当然になってしまいます。罪の赦しは見返りでも褒美でもない、神の一方的なお恵みです。善い業は神の命令だからしなければならない、しかし、それは神に目をかけてもらって罪の赦しを得られることや救われることと何の関係もない、何の役にも立たない、だけど、神の命令だからしなければならない、それだけです。善い業をすることは神から赦しや救いを受けることと何の関係もない、何の役にも立たないということは、善い業をすることで不当な扱いを受けて苦しむ時に一番はっきりします。この時、神の命令はもう普通考えらる律法とは異っています。善い業を行っても裏目に出たら嫌だな、褒められたり褒美をもらえるほうがいいなと思って行うと、命令は律法になります。ペトロの教えは、神の命令が律法でなくなるような教えなのです。神の恵みが恵みとして保たれるようにする教えです。極端な教えですが、それだけに真理をついているのです。
もちろん、現実には善い業を行ったらいつも必ず不当な扱いを受けるというわけではありません。しかし、そういう理にかなわないことはありうるのだ、その時が来たら神の命令を律法にしないで行える最上のチャンスなのだと心の中で準備する。そうすれば神の恵みを恵みとして保つ姿勢が出来ていることになります。それから、わざわざ不当な扱いを受けることを目的にして善い業をする必要はありません。善い業は神の命令であって、何かの目的の手段ではないからです。
これとは逆に褒められたり褒美を与えられたりしたらどうしたら良いでしょうか?その時は、ルカ17章でイエス様が教えたことを思い出します。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」ただし、これを人前で口にすると恐らく、何を気取ってやがるんだ、などと言われるのがおちでしょう。それは心の中で言って、人前ではニコニコ顔で感謝の言葉を述べるのがいいでしょう。しかし、心の中では、褒め言葉や褒美が自分の中に蓄積しないように、父なるみ神よ、これはあなたのものです、と言って、天に向かって一生懸命に押し上げます。こうすることも、自分の業は救いに関係ない、役に立たないという姿勢の表われになります。
以上、罪の赦しというお恵みに留まって生きるとはどういう生き方かお話ししました。一つは、日々罪の自覚と赦しの確認を繰り返して生きること。もう一つは、恵みが恵みとして保たれるように生きることでした。
(後注)ただし、「しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る」のところは未来形です。これは、他の者が近づくことが通常のことではなく例外的なことを表すためにその形にしたと考えられます。
ルカによる福音書24章13〜35節
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1、「はじめに」
イエス様の復活は、ご自身が既に約束されていた通りに、死んで葬られてから三日目の日の朝に起こりました。ところがその時、弟子たちは、イエスが言われた通りになるだろう、つまり復活するだろう、と堅く信じて待っていたわけでもなければ、復活の後もすぐにそれを信じたわけではありませんでした。それはこの前の12節までのところでもそうでした。最初は、婦人たちが、墓にイエス様の遺体がないのを見つけます。そんな彼女たちが途方に暮れているところに御使いが現れ言います。「イエスはよみがえったのです。イエスがかつてよみがえるといったことを思い出しなさい」と。彼女たちは、その言葉によって、イエス様の言葉を思い出して、イエス様は本当によみがえったのだと信じるのです。そして彼女たちは、その良い知らせを伝えるために、急いで弟子たちのところに走ります。しかしその知らせを聞いても、それでも使徒たちは、11節「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とあるように、その時はまだ、彼女たちの話を信じなかった、つまり、イエス様の復活を信じなかったのでした。
もちろんこの後、彼らはイエス様の復活を信じます。しかし、大事な点ですが、このキリスト教信仰の核心である、イエス様の復活の事実を信じるということ、それは、この女性たちも、5−8節で、御使いから、
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」5−8節
と言う言葉を受けて、それから「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」ともあるよう、彼ら彼女たちは、自分たちの力や、意思や、理性で信じることができたのではなく、まさに、御使いの告げるイエスのみ言葉と、み言葉に働く聖霊によって、そのイエスの言葉を思い出させられることによって信じるように導かれたのでした。そのように、「信仰」というのは、決して律法ではない、つまり、私たちの、行いや力や努力や決心で「信じなければいけない」、ではなくて、むしろ全くその逆、信仰はどこまでも福音である。つまり、神からの恵み、賜物、み言葉を通しての導きと働きとしての信仰であるのだということを、このところは私たちに伝えています。そのことは、単純で当たり前のようでありながら、しかし同時に私たちクリスチャンが一番誤解し、逸れていきやすいところであり、だからこそ何度も繰り返し教えられ、立ち返らされる福音の核心なのです。今日はそのことを見ていきますが、13節から見ていきましょう。
2、「エルサレムに背を向け」
「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
13節
とあります。女性たちが伝えに来たその同じ日、二人の弟子が、60スタディオンという距離、それは、エルサレムから11キロという距離ですが、エマオという村に向かっていました。この二人の弟子については一人は18節にある通り、クレオパという弟子です。彼らは、エルサレムに背を向け離れようとしていました。14節を見ますと、彼らは二人で「この一切の出来事について話し合っていた」とあります。どの出来事かというと、この後、書かれているのですが、イエス様が二人のもとに現れます。しかし、二人はそれがイエスであると気づかずに、その論じ合っている内容をイエスに話しています。それは19〜24節にある通り、この二人は、十字架の出来事だけでなく、その日の朝の出来事、つまり、女性たちが墓に行ったら、重い石の蓋が開いていて、中にはイエスの遺体がなかったこと、そして御使たちからの言葉を受けたことまでも、話しているのがわかるでしょう。
しかしこの二人は、「それでも」エルサレムに背を向け離れていこうとするのです。11節で、弟子たちは女性たちの言うことを信じなかったことが書かれていますが、正しく、この二人も信じなかった弟子達であったのです。事実、23節、新改訳聖書や英語のESVバイブルを見ると、彼らの説明で女性たちは「御使たちの幻を見た」と言っていることがわかります。二人にとっては彼女達が見たのは「幻」だったのです。女性たちは「幻」ではなく、事実「御使い」を見たと伝えたはずなのにです。つまり信じていないのです。それだけでなく、この二人の明るい平安な思い、ではなく、沈んだ思いもここには現れています。まず、17節に「二人は暗い顔をして」と彼らの心の内、感情を表している言葉です。決して喜ばしい状況で、エマオに向かっていたのではないことがわかります。暗い顔つきで二人は、イエスの十字架からその日の朝の出来事まで語っていたのでした。さらに、イエスについては19節で、あたかも、もはや過去のこととして「預言者でした」とあります。21節でも二人は「私たちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」という言い方をしているでしょう。このところは、新改訳聖書の方は「イスラエルを贖ってくださると望みをかけていた」とも訳されています。つまり、事実、イエス様による「イスラエルの贖い」は、十字架で完全に果たされたのですが、しかし、この二人にとっては、イエスの十字架は、躓きとなり、彼らにとっては、イエス様の十字架という結末は、彼らの期待していた解放や贖いの形ではなかったのでした。まさしく、彼らは、「政治的な解放」としか思っていなかったということを窺い知ることができます。何より「望みをかけていました」とやはり、もはや過去のことなのです。二人にとっては、その望みは過去のこと、そして、望みではなく失望に終わったということが暗い顔に現れているのです。ですから、女性たちの復活の知らせも「たわごと」のように思えて当然なのです。彼らは、まさに暗い顔つきで、望みを失って、イエスがよみがえったという女性達の知らせにもかかわらず、あえて、その復活の約束のエルサレムを離れエマオに向かっているのです。何より、後でそんな二人に発するイエス様の言葉が、彼らのその信じない頑なさを表しているのがわかります。25節にこうあります。
「すると、イエスは言われた。「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
25節
イエス様はそのようにいうのです。
3、「人間の現実:自ら信じることはできない」
復活の良い知らせ。その新しさ。新しいいのち。それはまさに福音の真髄であり、そこにキリスト教の信仰も教会も始まっていますし、使徒達たちも全ての弟子達、キリスト者達も、その十字架と復活を福音として世界に伝えていきました。しかし、今日のところではっきりと伝えられているように、その素晴らしい福音を、復活を、自ら、自分の力で「信じる」ことにおいて、弟子たちはみな無力であることがはっきりとわかります。自分たちの力や理性や意志の力では、誰も決して信じることができなかったのです。イエスが前もって伝えていたことであったとしても、そして、女性たちが見て喜びをもって伝えたことであっても、彼らは信じることができませんでした。これは人間の、つまり私たちの紛れもない、否定できない、神の前の現実を伝えている大事な事実の記録です。つまり「信仰、信仰」と、聖書も教会も最も大事だと言うけれども、その「信仰」というのは、決して、私たちの側から、私たちにある私たちの肉の性質から出る力のわざ、行い、努力でも、意思の力でもないと言うことです。むしろそれはできません。誰一人できませんでした。誰一人、信じられませんでした。女性たちとて、最初は、遺体に香油を塗るために墓に行っていました。復活を期待して墓に行ったのでもありません。墓が空っぽでも、彼女らは途方にくれるだけでしたし、御使いを見ても恐れるだけでした。そんな彼女たちは、主が遣わした御使いの方から、イエスが言ったことを、もう一度語ってくださり、その言葉を思い出しなさいと、導かれることによって、そのイエスのみ言葉を思い出して、イエスはよみがえったのだと、初めて悟ったでしょう。悟らされたのです。つまり、人間の側からでは決してない、どこまでも主からの、主のみことばの働きと導きがあってこその、「信じる」であったでしょう。主から与えられた信仰であったのでした。
この信じることができない、頑なな心の弟子たちの姿は、まさにそれこそ「人間のありのまま」を示しています。主イエスがいなければ、み言葉がなければ、主に導かれなければ、主の介入がなければ、誰も信じることができません。むしろ、どこまでも疑う。どこまでも背を向ける。そんな罪深い頑なな心の人間の現実こそ、真の人の「ありのまま」の現実なのです。
4、「主イエスの方から」
しかしそんな二人に対して、まさに「主イエス様の方から」働かれているではありませんか。まず15節です。
「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
15−16節
A,「近づいて、話しかけられる」
「イエスご自身が『近づいて来て』」とあるでしょう。「イエス様の方から」二人のところに来られ、そしてイエス様の方から二人と一緒に、ともに道を歩き始められているでしょう。「イエスの方から」なのです。むしろ、二人はそれがイエスだとわかりません。さらに、イエス様はただ来ただけではありません。「イエスの方から」話しかけられています。17節「イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。」とあります。そして先ほども引用した25節の言葉で、確かに、イエス様は二人の不信仰さと頑なな心を嘆いてはいます。しかし、どうでしょうか。イエス様はそのまま嘆いたまま、彼らを裁くためだけ、嘆いて終わるだけのために、来られたのではないということが、ここでもはっきりとわかります。そのように不信仰で、分からない二人に対して、イエス様はこう続けています。
B,「何度でも繰り返し教える」
「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
26−27節
どうでしょうか。イエス様は、その二人が分からないからこそ、何度でも、聖書を、み言葉を、説き明かし、教えているでしょう。もちろん、これまでもイエス様は弟子達に「モーセおよび全ての預言者から始めて、聖書全体の中から」「彼らに説き明かされ」てきたことでしょう。事実、復活のことも十字架の前に、予め約束し伝えていたことです。しかしそれでも信じなかった、女性たちから復活の良い知らせを受けてもそれでもエルサレムを離れようとした、そんな二人を、イエス様は叱るのでもない、裁くのでもない、罰するのでもない、見捨てるのでもありません。み言葉から何度でも優しく教えているではありませんか。そして彼らは後で気づいているでしょう。
5、「信仰は律法ではない」
「二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
32節
と。このようにイエス様は、あんなに教えたのに、伝えたのに、それでも分からない、信じない、背を向けるそんな二人のためにこそ、イエスの方から来られ、聖書から何度でも話し、教え、説教をし、心を燃やしてくださる方だと分かるのです。ですから、皆さん。誤解しないでください。「まず私たちの方で、聖書の全て、信仰の全てがわかるから、信仰がいつでも完全であるから、なんでも自分の強い意志と力で神の命令に完全に従えるから、あるいは、罪も犯さず立派に生き、証ができているから、だから、自分には信仰があるんだ、信仰は立派なんだ、そのように自分の何かや自分の完全さで信仰を立派だと誇れるから、礼拝に集う資格がある、だから、み言葉を聞く資格がある、聖餐に与る資格がある、クリスチャンになることができる、立派なクリスチャンなんだ」、と、クリスチャンは考えるかもしれませんし、ある教会ではそう教えるかもしれません。しかし、これは完全に間違いです。それは、せっかくイエス様が私たちに与えてくださった素晴らしい福音の賜物、平安のための喜びの信仰を、律法にし、重荷にしてしまっています。イエス様の恵みの働き、福音の力を、自分の手柄や功績にしてしまっています。それは何より私たちに平安がなくなるし、どこまでも重荷でもあるし、神の前に傲慢でもあります。みなさん、信仰は、そうではありません。
6、「信仰は福音」
A、「信仰は神がみ言葉を通して与える恵み」
皆さん。むしろ、私たちの日々は、第一の聖書日課にあるように、ペンテコステの日の朝に律法と福音の説教を聞いた人々のように、聖書の律法の言葉から自分の罪を責められ毎日刺し通される(新改訳)、悔い改めに導かれる日々ではないでしょうか。私自身がそうです。しかし、私たちの救い主イエス様は、律法で指し通して重荷を負わせるために来た方ではないでしょう。日々、悔い改めてもまた肉の弱さを覚え、何度でも罪を悔い、そのように、私たちがどこまでも弱さを覚えさせられるからこそ、罪深さを覚えるからこそ、信仰の弱さを覚えるからこそ、そして、何度教えられても、わかならないからこそ、まさにエマオへ向かう二人に現れたように、イエス様は毎週、この私たちのために語りかけられ、平安を与えてくださる、聖なる安息日、礼拝を備え、み言葉を語って、何度でも解き明かし、教えてくださっているのだということをこのところは教えているのではないでしょうか。
B、「礼拝も律法ではなく福音(「人が仕える」ではなく、神が仕えてくださる)」
だからこそ、礼拝も、聖書のみ言葉も、聖餐式もそのためのものです。礼拝は、神であるイエス様が、弱く不完全な私たちのためにこそ、備えてくださっており、私たちが神に仕えるのではない、神ご自身が私たちのために仕えてくださる、そして悔い改める私たちに、救いの恵みと平安を与える時なのです。それは、何を通してですか?それは、聖書、み言葉を通して、何度でも教えてくださり、何度も刺し通し、そして、何度でも、十字架と復活に立ち返らせ、力づけてくださり、何度でも心を燃やしてくださるのです。だからこそ、信仰も、礼拝も、洗礼も聖餐も、それは決して「まず私たちの方から何かをしなければならない」「律法」では決して、ない。それはどこまでも「イエス様から私たちへの」「福音」であるのです。
この後もそのことは一貫しています。2人は、イエス様から聖書の解き明かしを受けながらエマオに着きます。その時に、目を閉ざされていた二人の目を、イエス様が開くのですが、それはどのようにしてでしょう。
C、「み言葉と、イエスが裂いて与えてくださるものを通して」
「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
30節
パンを取り、それを割いて渡したその時、二人は目を開かれます。二人がイエスを招いて泊まらせたのですから、二人が食事のホストでした。しかしイエス様がパンを取って祝福し、裂いて渡された。それはまさにあの最後の晩餐の日の、主の聖餐と同じでした。二人は、いわば、み言葉とそしてこの裂き与えるパンによって目が開かれ、それがイエスだとわかるのです。それもまさに「目が開かれた」ともある通り、どこまでもイエス様の方から、イエス様によって、その言葉とイエスが仕え祝福し与えるものによって導かれている完全な恵みではあることがわかります。そのようにして二人は、32節の彼らの信仰告白に導かれているのです。
D、「福音が証しを生む」
二人は、まさにイエス様の方から現れてくださり、イエス様によって導かれ、イエス様のみ言葉、イエス様の与えるもので、心燃やされ、目が開かれ、復活のイエス様のその働きによって、自分達の信仰もよみがえらせれたことを告白しているのがわかるでしょう。そして最後、31節の「イエスが彼らには見えなくなった」とある言葉も非常に重要な言葉です。
7、「信仰は確信と平安」
A、「見える必要がない」
なぜ「見えなくなるのか」と皆さん、思うのではありませんか?「見えている方がいい」のに「なぜ消えるの?」と思うでしょうか?しかし実は、もはや見えなくなっていいのです。なぜなら、信仰を与えられた人は、もはや見えることに依り頼まなくてもいいからです。たとえイエス様が見えなくなっても、姿が見えなくても、彼らはまた「信じない」になりましたか?なっていないでしょう。もはや信仰が与えられたので、見えなくても、二人は信じています。心は燃えています。見えなくても、イエスはよみがった、生きていると、二人の信仰はイエスを見ているでしょう。信仰が与えられたなら、見えなくてもいいのです。なぜなら聖書の言葉も言っているでしょう。信仰は見える事柄ではなく、「目に見えないものを確信させる」(ヘブル11章1節)素晴らしい天の賜物だからです。
事実、どうでしょう。女性たちと同様に、イエス様から恵みとしてこの二人に与えられた「イエスはよみがえった、生きている」という信仰は、イエスが見えなくなっても、それまでは暗く沈んで望みを失っていた心から180度変わっているでしょう。
B、「証し、宣教も福音」
「そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
33−35節
失望のうちにエルサレムを去り、エマオに向かっていた二人ですが、着いてすぐにエルサレムに引き返すのです。そして弟子たちのところに戻ります。イエス様は、その間に、イエスの方から、シモン・ペテロにも現れてくださったようで、弟子たちの間でも、イエス様がよみがえって、自分たちのところに来てくださったことで話が持ちきりでした。この二人の弟子も、同じように、その日のイエス様の恵みの証しをしたのでした。
このように、信仰と同じように、礼拝と同じように、そして、キリストを証しすることも、つまり福音の伝道や宣教も、それは人の力でしなければいけないからする「律法」では決してないということがわかります。どこまでもまず、イエス様の方からの、福音のことば、解き明かし、聖餐の恵みによって、いつでも、繰り返し教えられ、目を開かれ、信仰を与えられ燃やされ、その福音と恵みによって与えらえた信仰こそが、このように「喜び」のうちに再びエルサレムへと向かわせ、つまり、派遣させられ、そのようにして、その口に、イエス様とその福音が、証しと福音の伝道や宣教を溢れさせていることがここにわかります。みなさん、証しすること、福音の伝道も宣教も、とても大事です。しかし、それは、決して律法ではありません。律法の動機による律法の行い、重荷では決してありません。その逆です。福音の証しも伝道も宣教も、それは福音であり、福音を受けるからこそ、福音から生まれ、その恵みと福音から湧き出る信仰と平安と喜びの行動が、このように、伝える、証する、という、証しの原点だということを聖書は私たちに伝えているのです。
8、「結び:派遣の言葉、最後の言葉は、律法ではなく、福音」
皆さん、信仰も証も宣教も、私たちがイエス様から与えられた新しい生き方は、どこまでも福音から生まれ、福音がなす主のわざです。もちろんそこにはまず律法によって教えられ罪を示され、日々、罪を刺し通され死ぬこと、悔い改めが必要です。しかしその律法が私たちを遣わす最後の言葉では決してありません。それでは重荷を負わされ疲れるだけであり、信仰は苦痛でしかなくなるでしょう。しかしそんなことがイエス様が私たちに与えた救いなのですか?イエス様はそんなことをなされないのです。まさにイエス様は、そのように罪を悔いる私たちこそを、十字架と復活の福音で、日々、その罪と死から助け出し、日々、私たちを新しく生まれさせてくださるというのが聖書が伝える真の約束であり恵みなのです。ですから、真のキリスト教会の最後の派遣のことばは、律法ではない。どこまでも福音です。イエス様は福音で私たちを日々、遣わすのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言うイエス様の言葉がイエス様の派遣の言葉なのです。今日もイエス様は、私たちに語ってくださっているのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ、今日も、イエス様から福音を受け、重荷ではなく、平安のうちに遣わされましょう。その時に、イエス様は恵みのうちに、私たちをキリストの証人として、豊かに用いてくださり、それこそ真の宣教として、イエス様の御心と計画のうちに、復活の良い知らせ、真の福音が、私たちを通して広がって行くのです。
「聖霊を受けよ」 2023年4月16日(日) スオミ教会説教
ヨハネ20章19~31節
キリスト教信仰の真髄は何であるか、教会の一番大事な中心は神の御子イエス・キリストが私たちの罪のため、十字架に死んで蘇られたことです。
パウロはコリントの教会への手紙第1:15章3節で「最も大切な事として、私があなた方に伝えたのは私も受けたものです。すなわちキリストが聖書に書いてある通り、私たちの罪のため、死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、ケファに現れその後12人に現れたことです。」と書いています。
イエス様は私たちの罪を全部負って身代わりとなって十字架につけられました。その時十字架のもとにいたのは、母マリヤ、そしてマグダラのマリア、他数名の女性たちでした。ほとんどの弟子たちはどこへ行ったのでしょう。3年間共に働いてきた、あの弟子たちは恐ろしくなって逃げたのです。主であるイエス様が捕らえられ十字架で殺された。次は弟子たちも捕らえられ同じように殺される。もう、その恐怖で十字架から逃げたのです。
その後、彼らはどうしたのでしょうか。今日の聖書であるヨハネ福音書は次のように記しています。20章19節から見ますと。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」彼らは恐ろしくて恐ろしくて家中の戸に鍵をかけ外から誰も入れないようにして、密かに震えていたことでしょう。週の初めの夕方、この時イエス様はもう復活されています。朝にマグダラのマリアが墓を訪れていた時、既にイエス様の姿はなかったのです。
マルコ福音書の方では14章4節で、「弟子たちは11人で食卓についている所に復活されたイエス様が現れた。」と正確に書いています。この夕食はもう遅い夕食でした。ルカ福音書によりますと24章に弟子の一人クレオパという人がゴルゴダの丘の十字架の死の出来事を聞いて、あんなに偉大な尊敬していたイエス様が死んでしまわれた。これから、自分はどう生きようか、と失望して自分の故郷のエマオに帰っていた、その道すがら復活されたイエス様が現れ、はじめはイエス様だと分からず夕食を共にしてパンを割く時、パッとわかった。もう、びっくりしてイエス様は蘇っておられる。そのことを他の弟子たちに知らせようとエルサレムに引き返し集まっていた弟子たちに知らせています。ですから、もう相当遅い夕食であったことがわかります。
その夕食の食卓に突然、復活のイエス様が現れて下さった。絶望と恐怖から一転して彼らは大喜びでありました。十字架に死なれた愛するイエス様が蘇って生きておられる。だれもが考えられない奇跡の出来事であります。そうして、20節から見ますと、蘇られたイエス様は弟子たちの中に立ち「安かれ」と言われた。新共同訳には「あなた方に平和があるように」とあります。弟子たちの喜び、騒ぐ心を先ず落ち着かせて「安かれ」と言われたのです。そう言って手と脇腹とをお見せになった。
そうして、弟子たちにこれから、ずうっと一生をかけて死ぬまで、大切な働きを命掛けでしてゆかねばならない。神からの使命を話してゆかれるのでした。この使命は11人の直弟子だけではなく、他の弟子たち全員に語られているのです。もっと言えば、これから後、世界の歴史の中で神の使命を負って福音を宣べ伝えてゆく、すべての教会のキリスト者に向けて語っておられる使命でありました。
イエス様は言われた。「安かれ。父が私をお遣わしになったように、私も又あなた方を遣わす」そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなた方が許す罪は誰をの罪も許され、あなた方が許さずにおく罪は、そのまま残るであろう。」
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この重大な使命を果たすのには並大抵のことではないでしょう。いくら強い弟子といっても所詮人は弱いものです。「いつも神の平安があるように」と言われたイエス様はご自分の十字架上で受けられた手と脇腹の傷をしかと見せて、死から蘇られたイエス様がいつも一緒にいる。蘇りの主をしかと受けとめて、これからの使命に生きねばならない。この使命は彼らの持てる力では到底やって行けない。だから、イエス様は「聖霊を受けよ」と言われる。「聖霊を受けて、神の力をいただいて行くのだよ」と、言うことです。福音書の中で、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」とお授けになったのは此処だけです。
ルカ福音書と使徒言行録によりますと、この聖霊は約束されていたもので、その聖霊が下るまで、弟子たちは待っていなければならなかった。そして、やがて50日後、あのペンテコステの日にどーんと一度に聖霊が降って、彼らは伝道を始めた、と言われています。ところが、ヨハネ福音書だけは、そうではない。イエス様が復活なさった夜、もう早々と弟子たちに「聖霊を受けよ」と言って息を吹きかけられている。そこで、昔から多くの学者の間でいろいろ言われてきました。一つには此処で「息を吹きかけられた」と言うのは一つの象徴的な真似事であって、本当に聖霊を授けられたわけではない。ペンテコステの日に起こった聖霊降臨を約束するシンボルであった、考える説です。ところが、AD553年の第二コンスタンティノポリス会議に於いて、この考えは退けられました。どうしても、ここで復活の主は息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言われたからには、確かに聖霊は下ったのである。
では、ペンテコステの日の聖霊降臨とイースターの夜の聖霊とは、どういう関係があるのか、という難しい問題となりました。いろいろな説が出ましたが多くの学者たちの考えている結論を申しますと、ここでヨハネが示していますのは、まさに、あのペンテコステの日に下った、同じ聖霊降臨である。復活された朝、マグダラのマリアが、嬉しさの余りか、イエス様にすがろうとした時、主は言われました。今、私は父の身許に上がって行く・・・上がっている最中である。イエス様の昇天がこの日の朝、既に起こっておりました。弟子たちに夜、現れたイエス様は既に昇天を終えて主となられた、キリストが聖霊を授けておられる。この点でペンテコステと同じであってペンテコステの聖霊降臨は多くの国々から集まっていた人々の上に降った。それまで、待っていなければならなかった。ヨハネはルカの描いた、ペンテコステの聖霊降臨は、もう、復活の日の夜に起こっていた、と教えているのです。つまり、ペンテコステから起こった教会の命は働いていたのです。教会の命と力とはペンテコステの前から主の復活の日から、既に息づいていた、という事をヨハネはここで教えたいのです。この日、弟子たちは主の「手と脇腹」とを見ました。あの、十字架上で流された血と水の脇の傷であります。主が十字架上で血と水を流し給う時、そこから聖霊の水が流れる、という事を象徴的に示しておりました.「手と脇」とを見て、そして十字架の死を終えた主から直ちに弟子たちが聖霊を受けている、という事をヨハネは教えたいわけであります。
旧約聖書、創世記2章7節には、創り主である神様が「土の塵で人を造り、命の息を、その鼻に吹き入れられた」そこで人は生きた者となった。とあります。イエス様が十字架で死なれた後の弟子たちはユダヤ人を恐れて死んだも同然の彼らに、創世記に示されている同じ聖霊の息を吹きかけて、再び新しく造られた者、生きる者とされたのです。死んでいた弟子たちを蘇らせ、弟子たちは新しい命の仕事へと遣わされて行くわけであります。
さて、この聖霊を受けたならば23節にあります、「あなた方が許す罪は、誰の罪でも許され、あなた方が許さずにおく罪はそのまま残るであろう」と言われた。これは大変な特権を弟子たちに与えておられる、光栄ある約束です。マタイ福音書では、16章19節でも同じような事が記されています。「私はあなた方に天の国の鍵を授ける、あなた方が地上で繋ぐ事は天上でも繋がれる。あなた方が地上で解く事は、天上でも解かれる」。これは、その後、教会が出来て、教会の規則を定めて行く事になります。地上のあなた方が教会規則を設けると、それが、そのまま天国でも通じます。そこまで、イエス様は権限を与えて言っておられるわけです。
マルコ福音書16章16節を見ますと、「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」とあります。ここでは弟子たちが信じた者に洗礼を執行することによって救われる人と、罪に定められる人とをふるい分けてゆく、という約束が語られています。
ルカ福音書の方では、24章47節に、こうあります。「メシアの名によって罪の許しを得させる悔い改めがエルサレムから始まって、諸々の国民に宣べ伝えられる」とあります。三つの福音書で、それぞれニュアンスの違う言い方をしていますが、ヨハネの場合は、もっと大変な言い方です。「あなた方が許す罪は誰の罪でも許され、あなた方が許さずにおく罪はそのまま残る」。これは単なる教会の規則を作る時、とか洗礼を授ける時の事以上の強い宣言です。そのため、これらの言葉をめぐって教会内で論争されてまいりました。カトリック教会内の司祭の権限をめぐってプロテスタントっとカトリックの解釈に激しい反対が起こったりもしました。
<注意すべき大切な事は>
ここで言われた「誰の罪でも許される」とか「そのまま残される」と、いう受け身の形で語られている、のはユダヤの一つの言い回しであった。ということです。「神様によって赦される」「神様によって留められる」と言うところを「神様」とむき出しに言うのは余りにも畏れ多いいことなので「神様」の部分を隠して遠回しの表現で言われた、ということであります。それで、「あなた方が許す罪」というのはあなた方の力で勝手に赦せる、と言っているのではなくて、あくまでも、それが赦される、とすれば神によって、赦されるのである。又、神によって、そのまま留められるのである。となります。マルコ福音書2章7節の言葉に「神一人の他に誰が罪を赦す事が出来るだろうか」と聖書が明らかに示していいます。
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このように、ヨハネが強い言葉で宣言しているのは、キリストの弟子たち、或いは現代の教会の福音宣教に遣わされている全ての者に、信仰にある力と希望を与えられているのであります。伝道の困難な中で忍耐と、この世の敵と立ち向かう勇気を与えられているのであります。何度も何度も祈り、何度も聖霊を受けなければならない。アメリカの牧師によって、次のような言葉があります。「キリストに祈り、祈り続けて祈り抜かれると、霊の世界では、たちまち、ふるい立ち色めき立って天使たちや天からの力が反動してキリストは応答されます。」復活されたキリストは天に昇って再び来て死人のように絶望していた弟子たちに直接「聖霊を受けよ」と息を吹きかけられて最大の使命を宣言されたのであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン
聖書日課 エレミア31章1節-6節、コロサイ3章1節-4節、マタイ28章1-10節
今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の神の力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。フィンランド語ではパーシアイネンと言って、意味は「過越し」です。つまり、旧約聖書の「過越し祭」とキリスト教の「復活祭」を同じ言葉で言うのです。興味深いです。英語や日本語では別々に分けて言います。
復活祭はキリスト教会にとってクリスマスに劣らず大事なお祝いです。それは何をお祝いするのでしょうか?クリスマスは、イエス様が天のみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから生身の人間として生まれたことを記念してお祝いします。それでは復活祭は、惨い殺され方をしたイエス様が復活して良かった良かったと喜ぶお祝いでしょうか?実はそうではありません。復活祭はイエス様の復活自体がおめでたいことの全てではありません。イエス様が復活したことで私たちにとって良いことがあるのでおめでたいのです。イエス様の復活は私たちのために起こったということ、それを今年もこの復活祭礼拝の説教で、ただ少し角度を変えて明らかにしようと思います。
まず、復活とは何か、それはどんな現象なのかを理解できなければなりません。それをわからないまま復活の話をしたら聖書から離れて必ず行き詰ります。
普通、死亡が確認された人が息を吹き返すと生き返ったとか蘇生したと言います。復活はそれとは全く異なる現象です。「復活」は、死んで遺体が火葬とか土葬に付されて肉体が腐敗して消滅した後に起こることです。「蘇生」の場合は、まだ肉体があります。例えば、イエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行いましたが、生き返った人たちは後で寿命が来て最終的に亡くなって肉体は腐敗して消滅しています。それなので生き返りの奇跡は「復活」ではありません。
「復活」について、旧約聖書の中にそれを示唆する預言がいろいろあります。はっきり出てくるのはダニエル書12章です。今のこの世が終わって新しい世が誕生する時に起こるとされ、復活する者は腐敗消滅した肉の体に代わって輝く体が与えられることが言われています。新約聖書では、もっと詳しく具体的に述べられていて、特に黙示録、第一コリント、第一テサロニケに詳しく述べられています。「復活」は聖書の世界観の重要な要素です。聖書の世界観は、今あるこの世は天地創造の神が造られたものだ、造られて始まったのだから終わりもあるという見方です。それで今ある天と地はいずれ終わって新しい天と地が創造される、その時、今私たちの見えないところ手の届かないところにある「神の国」が新しい天と地のもとに唯一の国として現れるという見方です。その時、誰が「神の国」に迎え入れられるかを決める「最後の審判」が起こる。これが聖書の世界観です。
その中で、今あるこの世が終わって新しい世に取って代わられる時、死の眠りについていた者たちが再臨の主イエス・キリストに起こされ、消滅した肉体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に永遠に迎え入れられる、これが「復活」です。
ここで、あれっ、復活は消滅した肉体に代わる復活の体を着せられることだったら、イエス様はまだ肉の体があったではないか、もちろん満身創痍の痛ましい状態ではあったが、それでも体は一応あるのだから復活ではなく蘇生ではないか、そういう疑問が起きるかもしれません。しかし、復活後のイエス様の体はもう普通の肉の体ではなかったことが聖書に記されています。信じられないような空間移動がありました。鍵をかけた家の中に急に入って来て、パニック状態になった弟子たちに、幽霊ではないぞ、と言って、手足を見せます。ちゃんと触れることが出来ました。しかし、むやみに触れてはいけないこともマグダラのマリアに言いました。復活の体は神聖なので、本当は直ぐにでも天の父なるみ神のもとに戻らなければならない体だからです。それでもイエス様は、弟子たちを初め大勢の人に復活が真実であることを示し、また旧約聖書の不明部分をわからせるために結局40日間この地上に留まることになりました。
「復活」は、キリスト教が他の宗教と大きく異なる点の一つです。他の宗教ですと、死後の世界を想定する時、それはこの世の世界と同時併行してあります。それで、亡くなった人は今どこか高いところにいて私たちを見守ってくれている、などと言います。ところがキリスト教では、今の世が終わって消滅して新しい世が出来る時に復活が起こるという流れになります。復活を遂げた者は下を見下ろしても旧い世はもう存在しないのです。もちろん神の国自体は、今この現在も私たちの手の届かないところ次元の異なるところにあります。ただ、そこに迎え入れられるのは復活の日になってからと言うのです。そうすると、亡くなった人はその日までどこでどうしているのかと聞かれるのですが、それはもう、神のみぞ知る場所にいて静かに眠っているとしか言えません。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡を業を行った時、この者は眠っている、と言って生き返らせました。それは、イエス様を救い主と信じる者にとって死は復活の日までの眠りにしかすぎず、彼こそが眠りから目覚めさせる力があることを示すために行ったのでした。
そうすると、じゃ、今、神の国は神以外は誰もいない空席状態なのかと聞かれてしまうのですが、そういう訳でもなく、聖書は復活の日を待たずして神のもとに迎え入れられた人がいることも認めています。いわゆる聖人です。カトリックでは聖人も崇拝の対象になりますが、ルター派は崇拝の対象はあくまで三位一体の神です。
以上、復活がどういう現象かについてお教えしました。次に、なぜ天地創造の神は復活を起こすのかについて見てみます。この「なぜ」に答えられるためには、なぜイエス様は十字架にかけられて死ななければならなかったのかがわからないといけません。
イエス様の十字架の死は、人間の罪の償いを人間に代わって神に対して果たしたという身代わりの死です。人間の罪などと言うと、キリスト教はすぐ罪、罪と言って犯罪者扱いするから嫌だ、という人もいます。しかしながら、聖書で言われる罪とは、神の意思に反しようとする人間の性向のことです。それは、創世記に記されているように、一番最初に造られた人間の時から人間全てに備わるようになってしまいました。人間が死ぬようになったのも罪のためでした。造り主の神との結びつきが切れてしまったらそうなるしかないのです。そこで神としては、人間をこの罪の支配から解放して結びつきを回復してあげよう、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、この世を去る時も結びつきの中で去ることができるようにしてあげよう、そして復活の日になったら眠りから目覚めさせて自分のもとに永遠に迎え入れてあげよう、そうすることを決めてひとり子をこの世に贈られたのでした。
この神のひとり子のイエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を彼が全部代わりに受けてくれたことになりました。そのようにして私たちの罪の償いが神に対して果たされたのです。それからは悪魔が罪を引き合いにだして人間を神の前で有罪者・失格者に仕立てようとしても、神のひとり子が果たした償いはあまりにも完璧すぎてうまくできません。はっきり言って悪魔の狙いは破綻してしまったのです。加えて、神が想像を絶する力でイエス様を死から復活させて、死を超えた復活の命、永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に切り開かれました。
そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受ける、そうするとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。自分が償ったのではなく他人が償ってくれたというのは虫がよすぎる話ですが、償う先が天地創造の神であれば人間には償いなど無理です。しかも償いをした方がその神のひとり子であれば、この償いはかけがえのないもの軽んじてはならないものだとわかります。なにしろ罪が償われたということは、神がお前の罪を我が子イエスの犠牲に免じて赦してやると言って下さっているのですから。こうなったら、もう軽々しい生き方はできません。新しい人生が始まります。
罪を赦されたから神との結びつきが回復します。この結びつきは人間の方から手放さない限り、神の方でしっかり掴まっていて下さいます。順境だろうが逆境だろうが神との結びつきはいつも変わらずあります。いつも神の守りと導きの内にこの世を進んでいきます。この世を去った後も復活の日に目覚めさせられて神のもとに永遠に迎え入れられます。この世と次に来る世の二つの世を生きられる人生です。罪と死の支配から解放された人生です。
罪と死の支配から人間を解放する神の救いの計画がイエス様の十字架と復活の業をもって実現しました。罪の償いと赦しを受け取った私たちは、自分たちも将来イエス様と同じように復活させられることがはっきりしました。それで復活祭は、イエス様が復活させられたことで実は私たち人間の将来の復活も可能になったことを喜び祝う日です。さらに自分自身が復活させられるという希望に加えて、復活の日にはやはり復活させられた懐かしい人たちと再会できるという希望も持てるようになりました。復活祭は、この二つを希望を与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた。それで復活祭は私たちにとっておめでたい日なのです。
以上、神はなぜイエス様の復活を起こしたのかを見てみました。これで復活の現象とその意味について知識が増えたことと思います。キリスト教はそういうふうに考えるのだなと理解が深まったでしょう。それでは、知識が身につき理解が深まったところで、復活を信じることが出来るでしょうか?イエス様の復活は歴史上、本当に起こった、それで彼を救い主と信じる者は将来本当に復活する、と信じることができるでしょうか?
近年では、聖書に記されている不思議な出来事はキリスト教徒の間でもあまり本気で信じられなくなってきたのではないかと思います。処女が赤ちゃんを産むだとか、一度死んだ人間が全く有り様の異なる体をもって人前に現れるだとか、そんな理性と常識ではあり得ないことは、みんな古代世界の人間のファンタジーのせいにしてしまうか、あるいは言葉や表現の技法のように考えて言葉通りに受け取る必要はないと考えるようになってきているのではないかと思います。ただ、そのように考える人も、全部うそだ、作り話だと言ってしまったら、キリスト教をひっくり返すことになり元も子もなくなってしまうとわかります。それで、そういう理性や常識であり得ないことは実体的な現象とは考えず、何か人間の心の中で思い描かれたもの、心理的な現象として捉えればよい、現代のキリスト教の使命は社会変革の先頭に立つことだから、その使命を果たしてさえいれば聖書の不思議な出来事を本気で信じなくても大丈夫、矛盾しない、そういう風潮ではないかと思います。どうでしょうか?少し言いすぎでしょうか?
そこで、イエス様の復活は本当に単なる作り話のファンタジーなのか、少し考えてみましょう。
イエス様の復活の出来事は4つの福音書に記されています。4つ全てに共通しているのは、週の最初の日の早朝に女性たちが墓に行ってみると墓の前の石はどけられて中に遺体がなかったことです。それと天使の出現があり、空の墓と天使の目撃の後に復活されたイエス様と出会うことがあります。4つともそういう共通点がありますが、他方で、詳しく見るといろいろ違いもあります。マタイでは墓を塞いでいた石を天使がどけたことが記されています。それが起きたのは女性たちが到着する前か後か微妙なところです。他の3つは石がどけられた後に到着しています。天使がどけたということはありません。墓に行った女性も、マタイではマグダラのマリアと別のマリアの二人の名が挙がっています。マルコでは、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメが遺体に塗る香油を購入したとあります。ルカでは、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとヨハンナと他にもいたとあります。ヨハネではマグダラのマリアの名前だけがあがっています。それから、現れた天使の数がマタイとルカは二人、マルコとヨハネは一人です。
さて、これらの違いをどう考えたら良いでしょうか?こんなにバラバラだったら、それぞれが勝手に作った話だということになるでしょうか?実は逆なのです。この問題についてスウェーデンの1960年代、70年代に活躍したボー・イェ―レツという神学者が次のように言っていました。イエス様の復活を犯罪事件の裁判と比較したらいい。事件の目撃者が4人いるとする。4人の証言が細部にわたってみんな一致していたら、裁判官は普通、これは不自然だ、4人は前もって打ち合わせて話をすり合わせたのではないかと疑うだろう。逆に細部は一致せずバラバラでも、肝心なところで一致していたら、証言の信ぴょう性は高まると裁判官は考えるだろうと。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は、ローマ帝国軍によるエルサレム破壊の年、西暦70年の後になって書かれたというのが学会の定説です。もしそうならば、イエス様の十字架と復活の出来事から40年以上も経ってまとめられたことになります。人間の人生の2世代か3世代後のことになります。その間、4つの福音書のもとにある証言や資料は最終的に福音書にまとめられるまでに証言や資料が伝播していく過程を辿ります。40年以上の過程にはいろんな場があって、それぞれ伝道の状況、信仰の状況があります。そういう過程を経る中でこの証言はここの部分をもっと強調してもいいとか、逆にここを省いてもいいということが起きてきます。
犯罪事件の4人の目撃者が、それぞれどんな性格の持ち主か、犯罪を許さないという強い気持ちを持つ人か、自分は巻き込まれたくないと恐れる人か、大人か子供か、男性か女性か、事件当時何をしていたか、そうしたいろんな要因があるために同じ事件に遭遇しても受け止め方や反応が違って、目撃したことの描写も異なってくるということが起こります。しかし、目撃した事件そのものは同じです。イエス様の復活も同じです。しかも復活の目撃の証言は、40年以上の間に変わる部分も出てくるが、40年以上経っても変わらない大元があることをはっきりと示しているのです。
事件の複数の目撃者の証言が細部で異なった方が信ぴょう性が高まるということを言うのは神学者だけではありません。ダニエル・カーネマンという2002年にノーベル経済学賞を受賞した行動経済学者がおりますが、彼の最近の著書「Noise – A flaw in human judgement(ノイズ-人間の判断の欠陥)」の中でも同じことが言われていました。もちろんカーネマンは復活のことについてではなく一般的なこととして言っているのですが、なぜか、例として目撃者の数を4人にしているのが興味深かったです。それを読んだ時すぐイェ―レツのことを思い出しました。
さて、イエス様の復活の出来事は信ぴょう性が高いということになりました。それでは、じゃ、イエスの復活を信じるぞということになるでしょうか?それでも足りない、100%確かでなければ信じないと言う人がほとんどでしょう。それはタイムマシンに乗って2000年前のエルサレムに行って墓の前で見張らない限り無理です。これからもおわかりのように、キリスト教の信仰には負荷が大きくあります。他の宗教だったら、昔、教祖がこう言った、こういうことをしたと書いてある、そう言えば、大方はそれが歴史的に事実かどうか気にせずに、ありがたや、と言って信じると思います。キリスト教では4つの証言があってもまだ足りないと言うのです。今では4つあってもダメになってしまいました。
そこで信仰についてひと言。信仰とは、出来事が100%真実だとわかったので信じると言うものではありません。その場合は、もう信じるも何も、目で見た通りですとしか言いようがありません。それは信じることではありません。信じるとは、理性や理解力で捉えられないことが目の前に横たわっていたら、それを踏み越えて向こう側に行くこと、これが信じることと言ってよいと思います。最初は踏み越えることなど無理だと感じるかもしれませんが、創造主の神がひとり子を用いてとてつもないことをして下さったことを思い起こすと、神を信頼して大丈夫という気持ちになり、踏み越えることが出来ます。そこで、向こう側に行くというのはどんなことか、それが本日の使徒書の日課コロサイ3章によく記されているので、最後にそれについて述べておきます。
「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれるて現れるでしょう。」
まだこの世で生きているのに「復活させられた」と言うのはパウロらしい言い方です。彼は「ローマの信徒への手紙」6章の中で洗礼を受けた者はイエス様の死と復活に結びつけられると言います。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪がその人に対して支配者でなくなってしまい無関係になってしまう、それでその人は罪に対して死んだことになり、それからは生きることは神に対して生きることになると言います。その時、復活の体と永遠の命と目には見えない繋がりが出来ていることになり、将来の復活の日に目に見える形で手にしていることになります。それで「あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されている」というのです。
この「命」は地上の命ではなく永遠の命です。目には見えないが繋がりができているものです。見えない状態なので「隠されている」のです。「隠す」と言うと何か困らせる意図があるみたいなので「秘められている」と言った方がいいと思います。復活の体も永遠の命も性質上、この世では秘められたものになってしまいます。キリストも天の父なるみ神の右に座しているから地上にいる私たちからすれば秘められています。それが、イエス様の再臨の日がくると、イエス様は秘められた状態から現れた状態になり、同時に私たちの永遠の命も秘められた状態から現れた状態になります(後注!)。その時は神の栄光を映し出す復活の体を着せられるので、それで「キリストと共に栄光に包まれて輝く」のです。
今この世の中を歩む者にとって、永遠の命もキリストも秘められた状態にあるが、それはいつか現れると確信して、今は見えない状態で別に構わない、なぜならかの日に現れるからという心でこの世を歩むこと。これが上にあるものを求めること、上にあるものを心に留めることです。このような心で歩んでいる時、理性や理解力で捉えられないものを踏み越えています。ところが、イエス様の復活を本当に起こったことではなく、心の中の描写だとか心理的現象と見なす人はこの踏み越えはできません。その人は、全てのことを理性や理解力で捉えようとするので、捉えられないものに出くわすと、心の中の描写だとか心理的現象と言って踏み越える必要がないようにしてしまうからです。そこには信仰はありません。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
(後注!)新共同訳の「あなたがたの命であるキリストが現れるとき」は正しい訳ではないと思います。正確には「キリストが現れるとき、あなたがたの命も現れます」と思います。なぜなら、前の文で、「あなたがたの命」と「キリスト」の二つが隠されている/秘められていると言っているので、ここではその二つが現れることを言っていると解する方が自然だからです。ギリシャ語原文に省略があると考えればよいわけです