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私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン 2024年3月17日(日)
説教題:「人の子が栄光を受ける時が来た」
聖書:ヨハネによる福音書12章20~33節
今日の聖書はヨハネ福音書12章20~33節です。20節を見ますと「さて、祭りの時、礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に何人かのギリシャ人がいた。」彼らはイエス様にお目にかかりたい、まずフイリポに頼んだ、と言うのです。何故フイリポに頼んだのか、フイリポという名は実はギリシャ風の名でありましたから、何となく仲間意識が働いてフイリポを呼んだのでしょう。このギリシャ人たちはどんな人たちだったのか。どうも彼らはギリシャからわざわざエルサレムまでやって来た、という事ではなさそうです。ギリシャからだとすれば、そうとう遠い道のりです。この当時パレスチナで彼方此方にギリシャ風の町があったようで、そこにギリシャ人も住んでいた。彼らは祭りのため、各地から礼拝するためにエレサレムに上っていたであろうと思われます。いわば巡礼して来たのかもしれません。ギリシャ人ではありますが、割礼まで受けた純粋なユダヤ教徒ではなく、しかし神を敬う心があって巡礼して来たのいでしょう。このような割礼を受けない異邦人の巡礼者たちはエレサレム神殿の一番外側の“異邦人の庭”と言われる所で礼拝するようになっていました。その異邦人の庭では両替をする者の台とか生贄をする鳩を売ったりする市場となっていました。マルコ福音書11章15節を見ますと、イエス様はこの庭で商売をしている台をひっくり返し、所謂宮清めをなさった、その時こう言われたのです。「私の家は全ての国の民の祈りの家と呼ばれるべきである。」と書いてあるではないか。ヨハネ福音書ではイエス様のエレサレム入城の直後の宮清めの事は書いていませんが、その代わり“異邦人の庭”で全ての異邦人のための宗教を主張されました。そのイエス様にギリシャ人たちが、是非お目にかかりたい、詳しく教えを聞きたい、という形で書かれているわけです。ですから、ここでは「ギリシャ人」のような異邦人が主イエス・キリストを信じて求めて行くという、象徴的な場面が描かれているのであります。ギリシャ人たちの願いをイエス様がどのように満たされたか、本当に彼らにお会いになったのか、と言うことまではヨハネは書いていません。むしろ、これを一つの象徴的な序文のように紹介して、「人の子が栄光を受ける時が来た」とイエス様が語りだされた事を記すのであります。そこでイエス様は「豊かに実を結ぶようになる時が来た」あるいは23節の表現では「全ての人を私のところへ引き寄せる」時が来た、と言うわけです。
こういうわけで、エレサレム神殿に礼拝に来たギリシャ人たちがイエス様に聞きたいということから始まって「全ての人」イエスのもとに来るようになるにはどういう道筋があるのだろう、また、どういう方法があるのだろうか、という問題が展開されて行きます。まず23節でイエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た」。と宣言されました。では、どういう方法で栄光をお受けになるのか、と言うと24節で明らかにされるように、「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」という形で「豊かに実を結ぶ」のだ。そこに栄光がある。この「一粒の麦が死ぬ」という意味をもう少し詳しく27節から33節までに言われています。次に「豊かに実を結ぶ」と言うのだけれども「豊かな実」ちはどういう「実」なのか、というと、それが25節から26節に教えられています。つまり、自分の命を憎む者、イエス様に仕える者なのだ、と言っておられるのです。更に「光を信じなさい」という招きが続いていくわけです。さて、23節にイエス様が言われました「人の子が栄光をうける時が来た」。これまでにイエス様は何度も「私の時はまだ来ていない」と繰り返し言われてきました。<例えば>2章の始めにカナの婚宴の席で葡萄酒がなくなってきた、それでマリやがイエス様に「もう葡萄酒がなくなりました」となんとかして、といわんばかりに言われた時「私の時はまだ来ていない」とおっしゃいました。それでは、いつその時が来るのか。・・・・
異邦人ギリシャ人たちに向って全ての人々のために、今、その栄光の時は来た。と宣言されています。これまで閉じられていた、その時は今開かれて「人の子が栄光を受ける時」が来たのです。ユダヤの人々が「人の子」と言われるのを聞いた時、「本当に待望の王が現れた。雲に乗って永遠の御国と、主権を確立される、栄光に満ちる王があらわれた」と、すぐ考えたのです。それは旧約聖書で予言されたダニエル書7章13節にあります。当時の人々が「人の子が栄光を受ける時が来た」と聞けば、ではどこから、と言って天を見上げるほど、すぐさま栄光を期待したわけです。ですから、ここでイエス様が宣言されている、「栄光が現れる」と言われたのは、ユダヤの人々が期待しているような栄光ではない。それは「一粒の麦が地に落ちて死んだ時、豊かに実を結ぶ」その実こそ人の子の栄光が現れたことなのだ、この事を聞いた人々は非常にショックを受けたでしょう。思いもかけない教えであったのです。人の子が死ぬのか!その、死によって栄光を受ける時が,今、来た、その今を更にイエス様は27節以下で告白しておられます。「今、私は心が騒いでいる、何と言おうか、父よ、私をこの時から救ってください」と言おうか。ここでの27節から29節までに記されている記事はある意味では、有名なイエス様のゲッセマネの園での祈りの場面を、もう一つの別の物語として描かれている、と言ってもよいほどであります。ヨハネ福音書では「ゲッセマネの園での祈り」を書いていません、ここにもう一つの違った形でヨハネは書いているのです。マルコ福音書によりますと、14:34にゲッセマネで激しい祈りをされています。「私は悲しみのあまり、死ぬほどである」とペテロたちに打ち明けなさったのです。そして更に「アバ、父よあなたには出来ない事はありません、どうか盃を取りのけてください」と祈られたのであります。そのように、ヨハネの書いている、ここでは「父よ、この時から私をお救いください」と祈っておられます。ゲッセマネでイエス様は血の汗滴るような葛藤の末に、ついに「しかし、私の思いではなく御心のままになさって下さい」と結論をご自分に下されたのです。それがヨハネの書いています、ここでは「しかし、私はこのために、この時に至ったのです、父よ御名が崇められますように」と言って結論へと導かれています。それから、またルカ福音書によれば22章43節で「すると、天使が天から現れて、イエスを近づけた。イエスは苦しみ悶え、いよいよ切に祈られた」。とあります。ヨハネ福音書のほうでは28節に「すると、天から声が聞こえた。」29節で、人々はそれを「御使いが彼に話しかけたのだ」と言っております。こうして見ると、いろいろな点から実にゲッセマネの園でイエス様の祈りの姿と、殆ど同じである、と見られます。ここで私たちに三つの事が教えられています
第一は、人の子が十字架の死を遂げる事は避けることの出来ない、神様の御定めである、という事です。
第二は、イエス様が神様の定めに十字架の死を遂げるのは、嫌々ではなく、むしろイエス様の自然的な率先した歩みであり給うた、という事であります。「私は、このために、この時に至ったのだ」とイエスご自身が確認しておられます。
第三は、大切な事は、この十字架の死を私が歩む事によって栄光が来るのだ、というイエスの確信――これを通して「御名が崇められますように」というイエスの祈り――これが独りよがりでなくて確かに天からの御声があった、それは「私は、すでにあなたの働きを通して栄光を表したが、更にあなたの十字架の死において栄光を表すであろう」この事で約束なさった事であります。これはイエス独りの思い込みではなく、確かな神様の御声の裏付けのある事であります。人々はこの天からの声を聞きましたけれども、しかし「雷」だろう、とか「御使い」だろうとか言っておりますとおり内容は理解出来なかったわけであります。それは、ちょうどパウロがダマスコへの途上、復活のイエスの幻に打たれ「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」と言う御声を聞き分けた時、傍らにいた者たちは声は聞いたけれど言葉は理解出来なかったのと同じであります。<使徒言行録9:7>つまり、普通の人間の声ではない、天来の御声である、ということがよくわかります。イエス様の祈りに即座に天からの答えが返ってきたのであります。“一粒の麦が地に落ちて死んだ時、豊かに実を結ぶのだ”と言われたイエス様が正しいことであった、と人々にこれでよくわかった筈であります。その意味でイエス様は30節で「この声があったのは私のためではなく、あなた方のためである」と言われたのです。一方では、このイエスの言葉を信じない人々、また頑なな人々、これほどの天からの声があっても、主イエス・キリストの御教えを信じないで疑っている,或いは殺そうとしている「この世」は裁かれるのであります。もし、イエス様の言うとおり、信じるならば「私がこの地上から上げられる時には、全ての人々を私のところに引き寄せるであろう」と32節で言われています。一粒の麦が死ぬ事によって豊かな実が結び全世界の人々が主イエス・キリストのもとに来る。主イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたか、をお示しになったのであります。私たちも主に従って自分流の一粒の実となって行ければ、イエス様はどんなにお喜びになさるでありましょうか。あなた方は光の子となるために光のあるうちに光を信じなさい。
人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
3月3日、教会の2023年度の年次総会が開かれました(教会員、オブザーバー、委任状提出含めて20名の参加)。宣教師がまとめた総会資料に基づいて昨年度の活動の総括と収支報告の承認を行い、新年度の活動や予算を話し合って採択しました。
以下、総会資料中の「牧師報告」の巻頭言「激動の時代にあって流されない生き方」と、採択された教会の新年度の主題と聖句、活動方針について紹介します。
♰ 牧師報告
【総会巻頭聖句】
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。心を新しくされた者として自分を変えていき、何が神の御心であるか、何が善いことで、御心に適うことか、また完全なことであるかを吟味するようになりなさい。」ローマ12章2節(ギリシャ語原文からの訳※)
(※ 総会の時に、なぜ日本語訳の聖書を用いず、ギリシャ語原文から直接訳したものを掲げたか説明しました。日本語訳では「心を新たにして」というふうに、人間が心を新たにしなければならなくなっていますが、ここは本当は、キリスト信仰者は神によって既に心が新たにされたという意味です。それなので「新しくされた心をもって」とか、「心を新しくされた者として」と訳したほうが良いと思います。「心」はギリシャ語でヌースνους、「意識」、「自覚」とも訳すことが出来ます。「理性」と訳す人もいますが、それはルター派的ではありません。キリスト信仰者は既にヌースが新しくされているということは、ローマ7章のパウロの教えからはっきりわかります。)
【激動の時代にあって流されない生き方】
世界を見回すと、ウクライナ戦争はまだ続く上に、10月にはイスラエルとパレスチナのガザ地区が戦争に突入してしまいました。内戦状態や市民への弾圧が続く国々が数多くあります。悲しむべきことはこれらを解決できない状態が続いていることです。自由と民主主義の国々が国の内外から挑戦状をたたきつけられているような状況に陥っています。温暖化の阻止も待ったなしです。
日本国内を見ても、人口や経済の縮小が続き、国の将来に悲観的な見方が広がっていると思います。国の政治も、統一教会問題や裏金問題のため、政治に対する不信と諦めが漂っていると思います。
そして私たちが繋がるキリスト教会も世界を見渡すと、いろいろな教派があるのは昔からですが、伝統的な教会が見解の相違のために分裂状態に陥っています。フィンランドでも国民の教会離れが進み、1980年代までは国民の90%以上がルター派の国教会に属していましたが、現在は60%程度、ヘルシンキ首都圏では50%まで落ちています。国民の教会離れ聖書離れは、キリスト教が伝統的な宗教であった国々で進んでいます。
ただ、そのような時代にあっても、フィンランドでは、教会を支えよう、聖書の御言葉を大事にする信仰者としてこの世を生きよう、という人たちは大勢残っています。彼らが国内と海外の伝道を支えています。私たちのスオミ教会もそのような兄弟姉妹の支援を受けていることを忘れないようにしましょう。
この世がどのような方向に流れていくにしても、私たちは、上記の聖句が教えるように、イエス様の十字架と復活の業と洗礼のおかげで心を新しくされた者として、何が神の御心か、何が善いことで、御心に適うことか、完全なことであるか、吟味しながら日々を生きる(吟味のためには聖書を開く必要があります)、そうすることで、流れを変えることは出来ないかもしれないが、ただ単に流されるだけで自分を見失ってしまうことはないと信じます。
♰♰ 2024年度の主題聖句、主題、主題の趣旨、伝道方針、年間行事予定
【2023年度の主題聖句と主題】
主題聖句 詩篇23篇4節
「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れじ。汝、共にませばなり。」(文語訳)
「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいて下さる。」(新共同訳)
主題 「いかなる状況にあっても御言葉と聖礼典がある限り主が共にいて下さることは揺るがない。」
【主題の趣旨】
吉村が牧師になったことで、聖礼典も執行できるようになりました。これでやっと、御言葉と聖礼典という「恵みの手段」(ルター派の言い方)を用いて、信徒一人一人の信仰の成長の手助けができます。
「信仰の成長」とは何か、少し具体的に述べます。昨年12月17日の週報コラムで「信仰の証し」についてお教えしました。「信仰の証し」とは、①自分はどのようにして十字架と復活の業を成し遂げたイエス様と出会ったか、②一時そのイエス様から遠ざかってしまったが、また身近になった、③現在、平穏な時/大変な時にあるが、それでも十字架と復活の主が身近におられることは揺るがない、この3つのいずれかについて話し分かち合うことです。その際、聖書の何々の個所がそういう出会い/再会/随伴を確信させてくれたということがあれば申し分なし。日々聖書を開いて、自分の日々の歩みや思いを御言葉に照らし合わせて見直すことをしていれば、主が身近におられることが当たり前になり、「証し」をして下さいとお願いされても慌てないですみます。これが「信仰の成長」であると考えます。礼拝の説教と聖餐はまさに主が身近におられることを揺るがないものにするものです。また、牧師・宣教師と話をしたり祈ることでも、聖書のあの個所が決め手になった!というようなものが見つかります。
主が身近な存在になるかどうかは結局は信徒一人ひとりにかかっていますが、牧師・宣教師はそのお手伝いをするというスタンスでいます。
【2024年度の伝道方針および年間行事予定等】
礼拝は会堂とオンラインのハイブリッド方式を続けますが、礼拝と聖餐と聖徒の交わりを実現する本来の場所は会堂です。様々な事情で会堂に来れない方が教会に繋がれるための手段としてオンラインはやむを得ないと思います。
諸集会はコロナ前と同じ水準で行っていきます。諸集会に教会員やキリスト信仰者の参加があると、ノンクリスチャンに対する伝道力が一気に高まることをお覚え下さい。今年もチャーチカフェを開催します。新宿区の保健所から菓子製造販売の許可証を得たので堂々と開催できます。
教会歴に沿った年間行事予定は、大きなものは3月24日受難週、同29日聖金曜日、同31日復活祭、5月19日聖霊降臨祭、12月1日待降節、同22日クリスマス礼拝、同月24日イブ礼拝となります。伝統のバザーもクリスマス期間に出来るでしょうか?
今年の宣教師の一時帰国は長めのものになります。6月中旬から9月初旬まで位になると思います。期間については正確にわかり次第お伝えします。
2月の手芸クラブは28日に開催しました。前日は冷たい北風が吹きましたが、この日は朝から太陽が輝いて穏やかな天候の日となりました。
前回に続いて今回もバンド織のキーホルダーを作りました。フィンランド語でNauhaと言います。前回参加された方たちは新しい模様のキーホルダーを作りました。毛糸は既に準備したものを用い、各自それぞれの場所で織始めました。初めて参加された方にはいろいろ細かい準備をして、それから織始めました。
新しい模様のバンド織の毛糸は細かったので、今回はどんな模様になるか皆さん楽しみにしながら織進めていきます。すると、可愛い!きれい!との声があちこちから聞こえてきました。
今回の毛糸は黒色が多かったので少し織りづらかったようでしたが、皆さん一生懸命頑張ったので今回も素敵なバンド織のキーホルダーが出来上がりました。
初めての方もテクニックを早く覚えてNauha はどんどん長くなって、かわいい春らしい色のNauhaが出来上がりました。Nauhaに星やハートなどの形の輪を入れて結ぶと可愛いキーホルダーの完成です!
肩をリラックスしてコーヒータイムに入りました。フィンランドのチョコレート・マフィンを味わいながら歓談の時を持ちました。その後で、毛糸のNauhaや天の神さまが私たちに与えて下さる人生のNauha についてお話がありました。
3月の手芸クラブはお休みになります。次回は4月24日に開催予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日もきれいなバンド織のキーホルダーが出来ました。皆さんは覚えが早いので、あっという間に出来上がりました。今日はバンド織について少しお話をしたいと思います。
バンド織は地中海の地域で古くから作られた手芸の一つです。イタリアでは1200年代に作られたものが発見されています。バンド織作りは中世期に北欧にも広がってフィンランドのトルゥクでは1400年代に作られたものが発見されています。
バンド織はフィンランド語でPirtanauhaと言います。Pirtanauhaは1800年代から1900年代にかけてとても人気がありました。バンド織で作ったものは貴族の間では使われませんでしたが、農民の人たちはそれを使ったので女性たちがよくバンド織をしました。母親たちは織り方を娘たちに教えたので、このスキルは世代から世代へ伝わっていったのでした。
バンド織はどのようなものに使われていたでしょうか。一番多かったのはベルトでしたが、靴のひも、バッグの持ち手、服の飾りなどに使われました。バンド織は何本も繋げていくと生地にもなりました。
フィンランドでは1900年代から1970年代まではバンド織を作る人はあまり多くいませんでしたが、1970年代からまた人気を集めるようになりました。現在は作る人はそれほど多くはいませんが、フィンランドの伝統的な手芸の一つですので、手芸センターなどでバンド織のコースが時々開催されます。
Nauhaは色んな長さや色んな色のものに作ることが出来ます。フィンランド語のNauhaは、「ひも」という意味です。Nauhaという言葉はいろいろな文脈で使われます。人生を象徴する時、Nauhaということもあります。人生が一本の長いひもにたとえらえるのです。フィンランドの子どもの讃美歌には次のような歌があります。「人生の日々は美しいNauha、一つ一つの思い出は真珠の粒、日々の連なりは真珠をひもに通した飾りのように高価なもの。そのどれもNauhaから外すことはできない。」
この歌は人生の日々の連なりをNauhaに、そこにある一つ一つの思い出を真珠にたとえています。沢山の真珠があるNauhaは素晴らしく見えます。Nauhaの中にある真珠の一つ一つは思い出の一つ一つですが、よく見ると明るい色や暗い色があります。それでもNauhaの全体は素敵なものになります。私たちの人生のNauhaは振り返って見ると、いろんな色の時期があったと分かります。一つ一つの色には意味があります。明るい色は幸せや喜びの時期を表しますが、暗い色は悲しい時、困難な時期です。私たちの人生には両方の時期があると思います。私たちはもちろん幸せを求めますが、ずっと続くとは限りません。自分で選ばないのに悲しい時がきます。
聖書には、人生の中にいろんなことががあっても心配したり恐れる必要はないと教えるところが沢山あります。その中でも旧約聖書の詩篇23篇は有名な箇所です。
この詩篇は、「主は羊飼い、私には何も欠けることがない」という文で始まります。「羊飼い」とは天と地と人間を造られた神様のこと、「羊」は私たち人間を意味します。羊は弱くて、野生動物に簡単に捕まって食べられてしまいます。そのため羊飼いは羊を守って導いていきます。羊飼いが羊を守り導くように、神様が私たちを守って導いて下さると詩篇の言葉は伝えています。もし人間を造られた神様が私たちの羊飼いならば、神様は信頼して大丈夫な方です。神様の導きのうちに生活する時に大きな安心があります。神様はどのように私たちを導いてくださるのでしょうか?
この詩篇には「主はみ名にふさわしく、正しい道に導かれる」と書いてあります。神様は私たち一人一人のことをよくご存じで、いつも歩むべき道を示して下さいます。神様は私たちを愛しているので、良い場所に導いて下さいます。良い場所とは、「きれいな青草の原」、「憩いの水のほとり」と詩篇の中で言われます。ただ、そこに至る道はいつも明るい安全な道とは限りません。詩篇では、「死の陰の谷」を通ることもあると言われます。私たちの人生の中には喜ばしいことだけでなく悲しいこともあります。もちろん、私たちは喜ばしいことを望んでいます。それで、悲しいことが起こると受け入れるのは簡単ではありません。しかし神様は実は悲しい時でも、喜ばしい時と同じくらいに共にいて下さると詩篇で言われているのです。この詩篇の箇所は、このように神様の人間に対する愛が示されているので、いつも安心と感謝の気持ちで一杯になります。
私たちの人生のNauhaにはいろんな色があります。しかし、神さまがいつも一緒にいて下さると信頼できればこれからも真珠をつけていくことができます。このことを忘れずに歩んで行きましょう。
スオミ教会が中野にあった時のこと。キリスト教会の礼拝に初めて参加したという青年がコーヒータイムの時に私に聞いた。 「先生、僕は聖書を原語で読みたいんです。教えて頂けますか?」 立派な志しだと感心し、「それじゃ、ギリシャ語から始めようか。それともヘブライ語?アラム語もあるけどヘブライ語を先にやった方がいいよ。」 すると青年は当惑した表情で「いえ…、英語でです。」 これには私も仰天。聖書は新約はギリシャ語が原語、旧約はヘブライ語(一部アラム語)ですと説明しなければならなかった。青年は二度と教会に姿を現さなかった。
キリスト教はアメリカの宗教…。そういえば、オペラの「蝶々夫人」。米海軍士官との結婚を機に蝶々さんはキリスト教に改宗して一族から勘当。一時帰国の筈の夫はなかなか戻らず。一人残った家政婦のスズキさんが主人の帰国を一生懸命に神仏に祈っていると、そんなものに祈っても意味はないと嘲笑する蝶々さん。「私にはアメリカの神がついている」と。そして悲劇的な結末…。
これも中野時代のこと。ある教団の牧師(アメリカ帰り)がスオミ教会の礼拝で説教をした時、「皆さん、イエス様は皆さんのことを愛して下さっているんですよ!アイ・ラブ・ユーっておっしゃっているんですよ!」と。私は思わずのけぞってしまった。イエス・キリストが「アイ・ラブ・ユー」だって?!彼は何度かスオミで説教したが、よく口から出てきたので、自分の教会の礼拝でも常套文句なのだろう。きっと信徒さんたちもうっとりして聴いているのだろう。そう言えば、日本では多くのキリスト教会の案内や出版物もカタカナ英語がよく目につくと思う。
そういうお前はどうなんだ、フィンランド帰りをちらつかせて、フィンランド語で何か言っているじゃないか、と言われるかもしれない。しかし、私の場合は、ジーザス・ラブズ・ユーとは違う。説教の準備の終わりの段階でいつも聖書の個所が日本語訳ではどう言われているかを確認する。原語はそう言っていないのでは?この日本語訳いいのかな?ということに時々出くわす。それで、フィンランド語ではスウェーデン語ではドイツ語では、そして英語ではどう言っているか、と自分の訳に応援を求めているだけである。私の経験では(正確に統計を取ったわけではないが)、日本語と英語の訳が一致して、その他3つが別の訳で一致するということがよくあると思う(ただし、英語訳はNIVについてのみ。ドイツ語訳も共同訳とルター訳があるのでさらなる違いもある)。
日本の政治家は日米同盟のことを共通の価値観で結ばれた世界最強の同盟と誇りにするが、聖書の訳や理解でも同じようなことがあるのだろうか。
平穏の時も動揺の時も聖書の御言葉を基として生きる
先日Facebookでフィンランドの知り合いの牧師が「ダニエル書3章16~17節を忘れるな」とだけ記していました。 捕囚の民の若者が、異国の王から金の像を拝め、さもないと炎の炉に投げ込むぞ、と脅された時の若者たちの答えです。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。私たちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手から私たちを救うことができますし、必ず救って下さいます。そうでなくとも、ご承知ください。私たちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
多くのキリスト信仰者は、信仰者として態度を示さなければならなくなった時、自分がこう振る舞うのはキリスト信仰の立場に立っているからだ、とはっきりさせてそう振る舞うべきか、それとも、周りとギクシャクするのは気が進まない、そう振る舞わないのが賢いやり方ではないか、どっちにしようかという場面に立たされます。私の場合、そのような場面に立たされた時はいつもこの聖句が身近にやって来たので賢くならなかったのでした。「そうでなくとも」というのは、神が助けてくれない場合もあると認めています。しかし、そんことは自分が神を信じることと何の関係も影響もないと言っているのです。
私たちの家族に特別支援の子供が生まれた時、最初は本当に情けない位に動揺しました。足元の地盤が砂のように崩れ落ちていく感じでした。しかし、ヨブ記2章10節の御言葉が身近にやって来ました。敬虔な信仰者ヨブにありとあらゆる不幸が襲い掛かり、最後は一人残った妻からも、いつまで無垢を装っているのか、さっさと神を呪って死んだ方がましではないか、とさえ言われてしまいました。ヨブは次のように答えました。「お前まで愚かなことを言うのか。私たちは神から幸福を頂いたのだから、不幸も頂こうではないか。」 以前素通りしていた御言葉でしたが、ヨブ記の終わりにある神とヨブの対話を知る者には全てを打ち砕いて全てを再建する言葉として響いてきたのです。足元に新しい地盤、以前よりも固い地盤が築かれたと思いました。それで、その時「不幸」だと思っていたものが、ただの「大変なもの」に変わっていったのでした。
激しく動揺するような事態に陥った時、聖書のどの御言葉が自分を支えてくれるか。それは、平穏な時に日ごろから聖書を開いて、自分の日々の歩みや思いを御言葉に照らし合わせて吟味することを積み重ねていれば、動揺の時に相応しい御言葉が目の前に飛び込んでくると思います。その時になって慌ててページをめくっても恐らく手遅れではないかと思います。なので、少し怠けていた方はそうならないために聖書を開きましょう。
料理クラブは定員に達しましたので、受付は終了しました。ご了承ください。
今年もイースターの季節がやってきました!3月の家庭料理クラブは「パイナップル・ココナツケーキ」を作ります。カルダモン風味のしっとりケーキの上にパイナップルをたっぷりのせてイエロー色豊かなイースター・カラーを演出します。フィンランドでは「ココナツのトッピングはケーキの風味を王冠のように高める」と言われるくらいです。本当にその通りであることを是非ご一緒に作って味わってみませんか?
参加費は一人1,500円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!
お問い合わせ、 moc.l1762385964iamg@1762385964arumi1762385964hsoy.1762385964iviap1762385964 まで。
電話03-6233-7109 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
今年最初の家庭料理クラブは2月10日に開催しました。週の初めは東京でも大雪でしたが、週末に向けて暖かくなり雪も融け、春の近づきを感じさせました。
今回作るものは、今の季節のフィンランドで全国どこのお店や喫茶店でも並ぶラスキアイス・プッラです。今回も申し込まれた方が多く、すぐキャンセル待ちの状態になってしまいした。ラスキアイス・プッラは日本でも最近知名度が高まっているフィンランドの代表的なプッラの一つです。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、「コーヒー・ブレッド」用のプッラの生地を作ります。材料を測って順番にボールに入れてから小麦粉を加え始めます。生地をよく捏ねてから柔らかいマーガリンを入れて、またよく捏ねて生地が出来上がりました。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。ここで一休み。あちこちから楽しそうな話し合いの声が聞こえていきました。もう少しすると美味しいラスキアイス・プッラが出来ることが皆さん、楽しみのようです。生地はあっという間に大きく膨らみました。
それからラスキアイス・プッラの形作り。生地を細い棒の形に丸めて切り分け、切った生地を一個一個丸めていきます。初めは少し難しかったですが、何個か丸めたら皆さん、上手になってきれいなプッラが次々と鉄板に並べられていきます。それから二回目の発酵です。今回は小学生のお子さんがお母さんと一緒に参加して、大人と一緒に一生懸命プッラの生地を捏ねて上手に生地を丸めていました。
ラスキアイス・プッラの中身を準備しているうちにプッラはあっという間に大きく膨らみました。それをオーブンに入れて焼きます。少し経ってオーブンの中を覗いてみると、皆さん嬉しそうな声で「わぁー、また大きく膨らんでいる!」「形がきれいね!」きれいな焼き色になったプッラをオーブンから取り出してよく冷まします。その間にコーヒーやテーブルのセッティングをします。
冷めてきたプッラを半分に切り下半分にラズベリーのジャムをのばしてその上にホイップ・クリームをのせます。その上にプッラの上半分をのせてラスキアイス・プッラの出来上がりです!
出来たてのラスキアイス・プッラをコーヒー・紅茶と一緒に味わう時間になりました。「美味しい!」の声があちらこちらから聞こえてきます。
皆さんと一緒に美味しい満ち足りた雰囲気で歓談の時を過ごしました。同じ時にフィンランドの「ラスキアイネンの日」や受難節の期間に開催される「日常の喧噪から離れる」というイベントについて、それからイエス様が教えられた休息の必要性についてのお話も聞きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さま感謝です。次回の料理クラブはは3月9日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日はフィンランド人が大好きなラスキアイス・プッラを作りました。フィンランドでは新年が終わってしばらくするとラスキアイス・プッラがどのお店や喫茶店でも販売されます。ラスキアイス・プッラの販売期間は大体2か月くらい、ラスキアイネンの日までだけです。ラスキアイネンの日が近づいてくると、もちろん多くの家庭でもラスキアイス・プッラを作ります。ラスキアイス・プッラの種類は中身によって二つあります。今日作ったのはジャムと生クリームが中身ですが、アーモンドペーストと生クリームの中身もあります。今年はどっちの方が美味しいかなぁといつも話題になります。
ラスキアイネンの日とはどんな日でしょうか?ラスキアイネンは「下る」という意味で、季節がイースターに向かって下って行く最初の日のことです。その日からイースターの準備期間になります。イースターの準備期間のことを「受難節」と言います。イエス様の十字架の受難の前の40日間の期間です。イースターの日はクリスマスと違って毎年変わります。それで今年のラスキアイネンの日は来週の火曜日となります。
フィンランド人はラスキアイネンの日をどのように過ごすでしょうか?フィンランドではラスキアイネンの頃から太陽が出る明るい時間が少しづつ長くなって晴れる日も多くなります。それで、雪の中をそりですべって「下る」ことをしたり、美味しいラスキアイス・プッラを味わうことが伝統的な過ごし方です。大人も子供も寒い外でそりで滑って、その後で暖かい部屋でラスキアイスプッラと暖かい飲み物を一緒に楽しみます。多くの町ではいろんなイベントもあり、子供たちを馬や馬のそりに乗せたり、スケートをしたり、スキーの競争もしたりします。もちろん、そこでもラスキアイスプッラと暖かい飲み物はつきものです。
ラスキアイネンの日が過ぎると受難節に入ります。この期間フィンランドの教会では「日常の喧騒から離れる」というイベントがあちこちで行われます。これは自然の中にある教会の宿泊施設で行い、だいたい金曜日の夜から日曜日の夕方まであります。参加者は自然の中で散歩したり、部屋で静かに時間を過ごしたり、一緒にお祈りしたり聖書を読んだり讃美歌を歌ったりします。もちろん一緒に食事をします。そこではスマートフォンやパソコンは使いません。参加者は日常の忙しい騒がしい生活から離れて、日常から距離を置いて自分を静かに見つめて、聖書をもとにいろいろ考えたりするので、体を休めるだけでなく魂にとっても良い休息の時になります。私は参加したことはありませんが、このような、何もあくせくする必要がない時間を持つことは心身ともに良いことだと思うので、いつか参加してみたいです。
聖書にも、イエス様が時々、人々から離れて静かな場所に行って祈る場面が沢山あります。マルコの福音書1章35節には次のように書いてあります。「朝早くまだ暗いうちに、イエス様は起きて、人里離れたところへ行き、そこで祈っておられた。」イエス様が静かな所に行かれたのは天の神さまにお祈りするためでした。そのために静かな場所が必要でした。その後で別の町や村に行って神さまのことを人々に教えに行かれたので、静かな場所でお祈りするのは心の準備にもなったのです。
イエス様はまた、静かな場所で休むことは自分だけでなく弟子たちにも必要と考えました。ある時弟子たちがイエス様の所に戻って来て、自分たちが町々で人々に教えたことを報告しました。多くの人たちが神さまについて興味を持って信じるようになったので、弟子たちはイエス様に詳しく報告したかったのです。しかし、イエス様は言われました。「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と。イエス様と弟子たちの周りにはいつも大勢の人たち、神様について教えを聞きたい人たちや癒しを求める病気の人たちが集まってきました。務めは沢山あっても、イエス様は弟子たちと一緒に休んだのです。イエス様は弟子たちに肉体的な休みが必要であることをよく知っておられたのです。私たちも同じように休みが重要です。イエス様がその例を示しています。
私たち人間は肉体的な休みのほかに魂の休みも必要です。魂の休みはどんな休みでしょうか?イエス様はこのことについても教えられました「疲れた者、重荷を負うものは、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」マタイによる福音書11章28節です。イエス様はだれでも自分のもとに来るように招いておられます。私たちはイエス様の姿を見ることが出来ませんが、聖書の御言葉を読んだり、お祈りすることでイエス様のもとに行くことが出来ます。イエス様は彼のもとに行く人に休みを与えて下さると言われます。
もし私たちがイエス様のことを、神さまが救い主として贈って下さった方だと信じることが出来れば、心の中に平安を得ることができます。このようにイエス様に繋がっていれば、彼を贈って下さった神さまを信頼することができ、全てのことを自分で抱えないで神様の御手に委ねることが出来ます。そこから心の中に平安が生まれるのです。これが、イエス様が与えて下さる魂の休みです。
イエス様は世界の人々だれにでも「私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われます。私たちにもいつもそう声をかけて下さいます。
魂の休みの場として、教会の日曜礼拝は一番重要な場所です。そこでも私たちは、日常の喧騒から離れて、聖書の御言葉を聞いたり、讃美歌を歌ったりお祈りしたりします。それも、天の神さまのみ前で心を静める時です。そこで神さまとの繋がりが強くなります。それで、礼拝は新しい週の心の準備の時にもなって、一週間を歩む力になります。礼拝も、「日常の喧噪から離れる」イベントなのです。
フィンランド語では、この期間は「断食の期間」と呼ばれます。これは、昔カトリック教会の時代の言い方が今でも続いているからです。もちろんフィンランド人はこの期間に断食をしませんが、それでも普段の食事にちょっと変化を与えることがあります。例えば、肉があまり入ってない料理を食べるとか、甘いお菓子を食べないということがあります。この受難節を通して私たちは自分の生活や時間の使い方を考えることにもなります。これは大事な準備の期間です。
聖書とチャットGPT
ある国のルター派の神学校の授業をオンラインで担当することになり、教える科目の一つが「外典論」。 それで、旧約聖書の古代ギリシャ語訳の書物リストが必要になった。旧約聖書は、ギリシャ語の方がヘブライ語よりも書物数が多い。従って、それを基にするカトリック教会の旧約聖書の書物数は、ヘブライ語を基にするプロテスタント系よりも多いのだ。書物リストを講義用のレジメに入れたいが、パソコンで一つ一つ打ち込むのは面倒。そこで、今世間を騒がしているチャットGPTとやらを使ってみようと思い立った。リストを出してもらって、それをコピー&ペーストしてレジメに貼り付ければ簡単だろうと。早速、「Septuagintの書物リストを出して」と入力。Septuagintは旧約聖書のギリシャ語訳の英語名(レジメは英語なのでチャットも英語)。
何だか、「鏡よ、鏡よ、鏡さん」みたいだなと思う間もなく、ツラツラツラとリストが出てきた。それをすぐコピペ。しかし、レジメを確認してビックリ。トビ記とかユディット記とか短い物はあるが、マカバイ記のような長編が欠けているのだ。念のために「カトリック教会の旧約聖書の書物リストも」と聞くと、それも同じ。そんな馬鹿な!どうしたものか途方に暮れ、ほんの試し心で「LXXの書物リストを出して」と入力してみた。LXXとはSeptuagintを意味するローマ数字だ。すると、ちゃんと全部出てきたのだ!
そこで聞かずにはいられなかった。「同じ質問をしたのに、名称を変えたら違う答えになるのはなぜ?」 すると、「混乱させてしまって申し訳ありません。」 なんと謝ってきた。なんでも、異なる伝統には異なる書物リストがあるので、などと言い訳も添えて。質問に正面から答えていない。まるで「犬の頭が西向けば尻尾は東」と言うのと同じくらいに空虚な文句である。「僕は異なる伝統のリストなんか興味はない。今出てきた一番大元にあるリストが欲しいのだ。」 「わかりました。」 「じゃ、カトリック教会のリストをもう一度だして」 「もちろんです!」 これで全部揃って一件落着。「ありがとう」と入力すると、「どういたしまして。また何かお聞きになりたいことがありましたら、是非聞いて下さい。」 少し至らなかったが、なかなか謙虚ではないかと感心した。
そこで教訓。チャットGPTに聞く時は無知識で聞くのは危険だろう。この答え、大丈夫かな、と思えるくらいの最低限の知識と、少しでもおかしいなと思ったら遠慮せずすぐ食いつく姿勢も重要。裏金問題を新聞記者に質問されて「答えないと言っているのに頭悪いね」と言った国会議員がいたが、そんなレベルの低い世界の話ではないのだ。
さらに一つ余計なことかもしれないが、付け加えると、何かを聞く時、出てきた答えを吟味する時、答えを何かに用いようとする時、倫理的態度を確立している必要があると思う。「殺すな(=人を傷つけるな)」、「盗むな」、「姦淫するな」、「偽証するな」、「妬んで欲するな」という態度が確立していないと大変な世の中になるだろう。それはSNSの弊害を見ても明らか。
何が面白い説教か?
超教派の福音伝道者として活躍中のS氏とお互いの伝道の課題について話し合う機会を持った。 彼はもともとは大学生伝道の第一人者で、現在はいろいろな教会を訪問して説教や聖書の学びの奉仕をされている。その伝道手腕は各地で高く評価され、ある神学校で教鞭も取られている。
S氏曰く、奉仕先の教会の中には沈滞気味のところもあり、そこでは説教を始めるや否や、あちこちで眠りこけてしまう人たちが出て、彼らの手や膝の上から聖書が次々と床に落ち、分厚い本だから床にあたる音の凄まじさといったらなく、まるで悪魔から、神の言葉なんかやめろと抗議されている感じになりますと。そこで、そういう教会ではどんな説教が受けるだろうかという話になった。
まず、牧師の武勇伝。自分がどれだけ社会や隣人に尽くしたかを話すとみんな目を輝かせて聞くだろう。自分に材料がない場合は、他人の武勇伝を紹介する(某教会の牧師はノーベル平和賞の受賞者の業績や生立ちをずっと話して聞かせたそうだ。きっと聖書の個所はマタイ5章9節だっただろう)。
次に、自分の知識博識を披露する。アリストテレスはこう言った、カントはこう言った、フロイトは、孔子は、親鸞は…等々、古今東西の哲学者、宗教者、心理学者の思想や理論、名言・格言を散りばめる牧師もいたと聞いたことがある。「神学大全」ならぬ「博学大全」(そう言えば、中野区の哲学堂公園にはこうした古今東西の思想家の銅像が並んでいる。イエス・キリストもその一人。神の子メシアから引き降ろされてしまった。まさに現代のグノーシス主義)。
以前、某教団の牧師・代議員会議に顔を出した時、そこでの礼拝の説教で牧師が最近読んで感銘を受けた本について紹介をした。説教の最初から終わりまで。皆さん興味津々で聞き入っていたことは言うまでもない。そして、締めくくりの言葉はこれ、「今日の聖書の個所でイエス様がおっしゃりたいことは、こういうことだったのではないでしょうか?」 日本では牧師は神に近い聖職者だから、これを言えば効果てきめん、みなその通りだと信じるだろう。
かく言う私も、ルターを時々引用するが、それは説教で述べてきたことの総括としてだけ。ごく稀に著名な神学者(J.Jeremias とか E.P.Sandersとか)に言及したこともあるが、それはこんな大学者でもこんな変なことを言う、困ったものだ、という悪例としてだ。私としては、会衆に受ける話を創るつもりはなく、むしろ御言葉に包まれて眠って頂いた方がいいくらいだ。ただし、聖書は落とさないようにしっかり持っていましょう。
手芸クラブの話2024年1月
今日は今年初めての手芸クラブの開催が出来て嬉しく思います。今日はバンド織のキーホルダーを皆さんと一緒に作って、とても可愛い色とりどりのキーホルダーが出来ました。 わたしが今使っているキーホルダーはひろ子さんからいただいたものですが、おかげで鍵を探す面倒がなくなりました。
今日は一月の最後の日ですが、フィンランドからもらったカレンダーの1月の写真についてお話ししたいと思います。このカレンダーには、毎月フィンランドの季節に典型的な景色の写真が載せてあります。一月の写真は寒そうですが、冬の澄んだ青空の景色です。冬フィンランドの木は霜で覆われています。写真の真ん中に岩の上に灯台が見えます。この灯台はそんなに高くはありませんが、その光は遠くまで輝いたと思います。私はこの写真の灯台を見て、これは一月にピッタリの写真だと思いました。長い冬の夜に光を与えるからです。
フィンランドに灯台は60個くらいあります。日本と比べたら全然多くありません。日本はとても多くて3千個以上もあります。日本は島国だからでしょう。フィンランドも、南と西は海に囲まれていて、島も多いので、灯台は昔から安全な海上運送のために重要でした。灯台の赤いランプは船やボートに安全な航路を示しました。ところが、現在は灯台の重要性は減ってしまったかもしれません。灯台の代わりにスマートフォンやパソコンのアプリを使って船の進路を決めるようになったからです。このため、フィンランドの多くの灯台は観光客に開かれて人気がある観光地になりました。夏多くの観光客が灯台を訪れます。
ところで、私たちの人生を考えると、私たちの歩みは海を進む船と似ています。それで、私たちの歩む道にも灯台の光のようなライトが輝いていると考えます。しかしそれはどんな光でしょうか?
旧約聖書の詩篇119篇105節には次のようなみ言葉があります。「あなたのみ言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」です。天の神様は私たちに聖書のみ言葉を与えて下さって、み言葉を通して私たちの歩みを守り導いてくださいます。み言葉は灯台と同じ役割があるのです。私たちは聖書を読んだり、み言葉に聞くことをして、行く方向をチェックして進みます。灯台の大事な部分は輝く光です。聖書のみ言葉も同じで、み言葉は心の中に光を灯します。それは、どんな光でしょうか?それは、天の神さまの独り子イエス様のことです。ヨハネの福音書には次のようなイエス様の言葉があります。「私は世の光である。わたしに従うものは暗闇の中歩かず、命の光を持つ」ヨハネによる福音書8章12節です。
イエス様は「私は世の光である」と言われました。この世の消えない本当の光はたった一つ、イエス様という光です。イエス様の光と同じような輝きを持つ光はこの宇宙には他にはありません。イエス様はこの世界の全ての人々のために光として来られました。その光に従って行けば、道に迷うことはありません。イエス様はいつも正しい方向に導いてくださいます。
しかし、私たちはイエス様から来る光を見て歩んでいるでしょうか?私たちは海で灯台の光を見てそれをチェックして自分の位置を知ってから前に進むでしょう。天気の良い時には灯台の光は良く見えるので船の進路を決めるのは簡単です。しかし天気の悪い時や霧の時、嵐の時は進むことが難しくなります。灯台の光も見えません。船が正しい進路から外れて岩礁にぶつかってしまう危険が高くなります。
私たちの人生の中にも同じようなことがあります。何も問題のない時は、私たちの歩みは軽く簡単です。しかし、私たちの人生の中でも天気と同じように、霧が発生したり、嵐になったりします。それは人生の試練の時です。自分や身近な人の病気、お金がなくて生活が大変になってしまったり、仕事を失ってしまったりなどなど、そのような時は嵐や霧の中を進むのと同じです。灯台の光がなくて、前に進まなければならないのと同じです。一生懸命努力しても、どこに向かっているかわかりません。
しかし、このような状況の中にいても、イエス様の光は輝いています。聖書を読み、み言葉に聞くと、イエス様の光が輝いていることがわかります。イエス様は、天気の良い時にも悪い時にも、私たちが正しい道を安心して進めるように私たちの歩みを守り導いて下さいます。しかも、イエス様の光は、現実の灯台よりもずっと遠くまで、奥深いところまで照らします。その光は私たちの心に入って、イエス様に従う信仰を起こします。イエス様の光は今年も私たちの心の中で輝いて、私たちに歩む力と勇気を与えて下さいます。