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説教「隣人愛の試練とこの世の挑戦」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書13章31-35節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の箇所でイエス様は、十字架にかけられる前日、弟子たちに新しい掟を与えると言って、「互いに愛し合いなさい」と命じました。キリスト教で「愛」とか「愛する」と言えば、すぐイエス様の教え「神を全身全霊で愛せよ。隣人を自分を愛するが如く愛せよ」が頭に思い浮かぶと思います。イエス様は十戒の掟を、神に対する愛と隣人に対する愛の二つの愛の掟に要約したのです。皆様もご存知のように、十戒の掟は一見すると「~するな、~するな」と、人を禁止条項で縛りつけるように見えます。ところがイエス様は、最初の三つの掟は神に対する愛、残りの七つは隣人に対する愛、そういう神と隣人に対する愛を実践するものであると教えるのです。本日の箇所でイエス様が「互いに愛し合いなさい」と言っているのは、神に対する愛ではなくて隣人愛に関わります。

隣人愛はキリスト教の専売特許のように言われますが、そもそも、どんな愛のことを言うのでしょうか?困難や苦難に陥った人を助けることを意味するのでしょうか?阪神淡路大震災や東日本大震災の時には、大勢の人が被災地に赴いて支援活動に参加しました。今次の熊本地震では地震活動が活発に続いたため当初はボランティア募集は見合わせていたようですが、先週から募集が始まったとニュースで聞きました。きっとまた大勢の人たちが被災地に向かうでしょう。こうしたボランティアの中には、キリスト教徒もいることは言うまでもないのですが、総数でみたら、きっとキリスト教徒でない方の方が圧倒的に多いでしょう。つまり、困難や苦難に陥っている人を助けるというのは、別にキリスト教徒でなくてもできるのであります。こんなことは、支援活動に参加した仏教徒や無宗教の人たちからみたら当たり前すぎて、言うこと自体がキリスト教徒の傲慢ととらえられてしまうかもしれません。

しかしながら、キリスト信仰者が困難や苦難に陥った人を助ける場合、外見はキリスト教以外の人たちの活動と変わりがないようでも、実は隣人愛の土台にあるものが決定的に違っています。それは、イエス様が「神を全身全霊で愛せよ」と教えたように、神に対する愛とセットになっているということです。マルコ12章で律法学者から「一番重要な」(πρωτη)掟は何か、と聞かれて、イエス様は「一番重要な」(πρωτη)ものは、と言って次のように答えました。「イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(30節)」。つまり、神に対する愛とは、この天地創造の神を唯一の主として、その御言葉に聞き従い、全身全霊で愛せよ、ということです。

「一番重要な」掟を聞かれたのに、イエス様は続けて、「二番目に重要な」(δευτερα)掟についても述べます。それが、「隣人を自分のように愛しなさい(31節)」という隣人愛でした。

イエス様は、この二つの愛の掟をもって、「この二つにまさる掟はほかにない(31節)」と言われますが、この二つの最も重要な掟の中でも一番目と二番目の序列があることは今見てきたように明らかです。先に神に対する愛があって、次に隣人愛がきます。隣人愛はしなければならない愛であるが、それは神に対する愛が先にあってすべきもの、神に対する愛を土台としてすべきものであり、もし神に対する愛と切り離して行ったり、それに反するように行ったりしたら、それはイエス様の教える隣人愛ではなくなるのです。そういうわけで、キリスト信仰の隣人愛は神に対する愛と不可分な関係にあります。それで、ひょっとしたら、キリスト教以外の隣人愛で行えることがキリスト信仰では神に対する愛のゆえに行えないことがあるかもしれません。また逆に、キリスト教以外の隣人愛で行えないことが行えるということもあるかもしれません。そうしたことを具体的に一つ一つ明らかにすることは本日の説教の目的ではありませんが、キリスト信仰にとって隣人愛は何かを考える材料の一つになるかと思います。

 

2.

 初めに見ましたように、本日の箇所の「互いに愛し合いなさい」という掟は、イエス様が十字架につけられる前日、弟子たちと一緒に過越祭の食事をしていた時に述べられました。最後の晩餐の時です。これから人間の救いのために自分の命を捧げようとする方が「しなさい」と命じる掟です。とても重みがある掟だと思います。

ところで、イエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダが食事の席から立ち去った後で、イエス様は「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と言われました。裏切る者がこれから目的を果たそうと出て行って、イエスが栄光を受けた、神も栄光を受けた、とは、どういうことでしょうか?

それは、イエス様が受難を受けて死ぬことになるということが、もう後戻りできない位に確定した、ということです。それでは、どうして死ぬことが栄光を受けることになるのか?しかも、それで、神も栄光を受けることになるのか?

イエス様が死ぬことには、普通の人間の死にはない非常に特別な意味がありました。どんな意味かというと、最初の人間アダムとエヴァの時以来、全ての人間が先祖代々受け継いできてしまった神への不従順と罪というものがあって、イエス様はこの罪の支配状態から人間を解放するために犠牲になったということです。ここで、人間は良い人もいれば悪い人もいるので全ての人間が罪を持っているというのは言い過ぎではないかと言われるかもしれません。特に生まればかり赤ちゃんなどは無垢そのもので、どうして罪を持っているなどと言えるのか納得いかないと言われてしまうかもしれません。しかし、アダムとエヴァの堕罪の事件の時に人間は死ぬ存在になったので、死ぬということが人間は罪の力の下に服しているということなのです。使徒パウロが、死とは罪が支払う報酬である、と教えている通りです(ローマ6章23節)。

この人間が受け継いでしまった罪をそのままにしておけば、人間はいつまでたっても自分の造り主である神との関係が断ちきれたままで、この世から死んだ後も造り主のもとに戻ることはできません。神としては、人間がこの世の人生を自分との結びつきの中で生きられ、この世から死んだ後は造り主である自分のもとに永遠に戻ることができよう望まれたのです。それで、ひとり子イエス様をこの世に送り、人間全ての罪を全部彼に請け負わせて人間に代わって罰を受けてもらうというやり方をとったのです。少し法律的な言葉を交えて言うと、本当は神に対して有罪なのは人間の方でしたが、その罰は人間が背負うにはあまりにも重すぎるので、神はそれを無実の方に負わせて、有罪の者が背負わないですむようにしたのです。有罪の者は、気がついたら無罪となっていたのです。

そのようにして、人間の罪の支配からの解放は、神のひとり子の犠牲に免じて罪が赦されるという形で実現しました。そこで人間は、イエス様の十字架の死とは自分のためになされた犠牲の業だったのだということがわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを頂いた者として生きることになります。こうして信仰者は、神との結びつきが再興されて永遠の命に至る道に置かれてそこを歩んでいきます。そのような人に対しては、罪はもはや人を死の永遠の滅びに追いやる力を失っています。そもそもイエス様が死から復活させられたことで、死を超える永遠の命に至る扉が開かれました。死は支配者の地位から引きずり降ろされたのです。

 

3.

 以上から、神のひとり子であるイエス様が死ぬことになるというのは、神の人間救済計画が実現することであり、それゆえイエス様が栄光を受けることになり、それはまた計画者であり実行者である神が栄光を受けることになるということが明らになりました。私たち人間は、こうしたこと全てを神の意思に従って成し遂げたイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、罪を赦された者として罪の支配から脱せられる。そして神との結びつきをもって永遠の命に至る道を歩めるようになる。その道ではいろんなことが起きるが、神との結びつきがあるから、順境の時も逆境の時もいつもかわらぬ導きと力添えを頂ける。もし万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手をもって御許に引き上げて下さり、永遠に自分の造り主の許に戻ることができる。

これだけの途轍もないことを父なるみ神とみ子イエス様が自分のために成し遂げて下さったのだとわかった人は、大きな感謝の気持ちで一杯になり、これからは神の御心に沿う生き方をしようと志向します。神に対する愛はここから生まれます。掟を守ることも自由な気持ちで行えます。反対に、神が自分にどれだけ大きなことをしてくれたかもわからず、感謝の気持ちもなくて掟を守ろうとすると単なる束縛になってしまいます。

このように、神が過去にどれだけ大きなことを成し遂げて下さったかをわかると感謝と自由な気持ちが生まれます。加えて、神は将来何をしてくれるのかということも知っておくと心に平安が得られます。本日の黙示録21章の箇所で、死者の復活が起きる日、今の天と地にとってかわって新しい天と地が創造される日、神が御許に集められた者をどうするかが預言されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しいみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである(3-4節)」。

目から「全ての涙」(παν δακρυον)をぬぐわれるというのは、この世の人生の段階で被った害悪が最終的かつ完全に償われるということです。もちろん、この世の段階でも正義の実現のために努力がなされて原状回復や補償や謝罪などを勝ち取ることはできましょう。それでも心の傷は簡単に癒えないことが多く、また正義は努力しても実現に至らないこともあります。いろんなことがこの世の段階で残ってしまい、それを背負い続けたり、未解決のままこの世を去らねばならないことが多いと思います。ところでキリスト信仰にあっては、復活の日が来ると、神の正義の尺度から見て不完全、不公平に残ってしまったもの全てが完全かつ最終的に清算されると信じられます。そのことを全部一括して「目から全ての涙をぬぐう」と言うのです。そういう時が来ると知っているので、キリスト信仰者はこの世で、およそ神の意思に沿うことであれば、たとえ志半ばで終わってしまっても、または信仰が原因で害悪を被ってしまっても、無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるのです。聖書の随所に「命の書」という最後の審判の時に開かれる、全ての人間に関する神の記録書が登場しますが、神は自分が造られた人間全員一人一人に何が起きたかについて全てご存知で、何も見落としてはいないのです。誰も自分のことをわかってくれない、と嘆き悲しむ人もいますが、神は誰よりもその人のことを知っています。髪の毛の数さえ知っておられる神ですから、その人本人以上よりもその人のことを知っています。

復活の日、天の御国で全てのことが清算されて報われることの他に、天の御国は結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます(黙示録19章5-9節、マタイ22章1-14節、黙示録21章2節も参照)。つまり、この世での労苦が労われるということです。

以上のように、キリスト信仰者というのは、過去に父なるみ神がイエス様を用いて「罪の赦しの救い」を実現してくれたということを知っているだけでなく、将来自分が死から復活する時にこの世の労苦や害悪に対する労いや償いを限りなくしてくれるとも知っているので、神に大きな感謝、心に深い平安を持つことが出来、それで神を全身全霊で愛そう、神の御心に沿うように生きようとするのが当然になるのです。

 

4.

 このような神に対する愛と一体にある隣人愛とはどんな愛でしょうか?ここで、イエス様が互いに愛し合いなさいと命じた時、「私があなたがたを愛したように」と言っていることが重要です。イエス様がわたしたちを愛したように、わたしたちも互いに愛し合う。確かにイエス様も、不治の病の人たちを完治したり、食べる物がなくて困った群衆の腹を満たしたりして困難や苦難に陥った人々を助けました。

しかしながら、イエス様のそもそもの愛の実践とは何であったかを振り返ると、それは、人間とその造り主である神との結びつきを回復させて、人間が神との結びつきのなかでこの世の人生を歩めるようにして、この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるようにする、このことを実現するものでした。そして、その障害となっていた罪の力を私たちから除去すべく罪から来る神罰を全部引き受けるというものでした。そういうわけで、キリスト信仰にあって隣人愛とは、神のひとり子が自分の命を投げ捨ててまで人間に救いを準備したということがその出発点であり、この救いを多くの人が持てるようにすることが目指すべきゴールなのであります。そういうわけで、苦難や困難に陥っている人を助ける場合でも、この出発点とゴールの間で動くことになります。これから外れたら、それはキリスト信仰の隣人愛ではなくなり、別にキリスト信仰でなくても出来る隣人愛になります。

 そうなると、キリスト信仰の隣人愛は、相手が既にイエス様を救い主と信じて「罪の赦しの救い」を受け取った人の場合と、まだ信じていなくて受け取っていない人の場合とでは現れ方が異なって来ると思います。既に受け取った人の場合だと、隣人愛はその人が受け取った救いにしっかり留まれるようにすることが大事になり、まだ受け取っていない人の場合は受け取れるようにすることが大事になるからです。

 本日の箇所ではイエス様は互いに愛し合いなさい、と弟子たちに言っているので、信仰者同士の隣人愛が問題になっています。キリスト信仰者といえども、罪に陥ったり、また罪と関係はないのに苦難や困難に陥ってしまうことがあります。そのような時、神との結びつきを疑うことが起きてきます。この世にはそうした疑いを引き起こす力が満ち溢れています。見回しただけで気が重くなることだらけです。神の目から見れば、信仰者はどんな状況にあっても結びつきはちゃんと保たれているのに、それを信じられなくなって自分から結びつきから離れてしまうことも起きます。そのような時、どうしたら、その人が疑いに打ち勝って、再び神との結びつきを信じて命の道を歩んで行けるようになれるために、キリスト信仰者の隣人はそのような兄弟姉妹たちのためによく祈り、考えて行動しなければなりません。

 ところでルターも言うように、キリスト信仰者とは、完全な聖なる者なんかではなく、この世にいる限りは常に霊的に成長していかなければならない永遠の初心者です。つまり、皆が皆、多かれ少なかれ霊的な支援を必要としています。そこをわきまえていないと、完全だと思っている人とそう思っていない人が現れて両者の間に亀裂が生まれてしまいます。本日の箇所でイエス様は、私たちが愛を持っていれば周りの人たちは私たちが彼の弟子であるとわかる、と言っています。しかし、もし亀裂や分裂や仲たがいをしてしまったら、イエス様の弟子ではないことを周りの人に知らしめてしまい、目もあてられなくなります。そのために使徒パウロが第一コリント12章で教えるように、キリスト信仰者の集まりはキリストの体であり、一人一人はその部分である、という観点はとても大事です(27節)。このことについてルターは次のように教えています。

「この御言葉は、我々が信仰の兄弟姉妹に対する愛を実践するように、また、言い争いや不和が教会内に生まれるのを阻止するように勧めるものである。もし、誰かが信仰の兄弟姉妹から不愉快な思いをさせられた時、それがその人にとって重荷とならないためにも、これは大切な教えである。まず、我々がわきまえていなければならないことは、信仰の兄弟姉妹とは言っても、実際には我々の間には、弱さや道を誤ることは頻繁にあり、避けられないということである。そのことに立腹しても仕方のないことである。誰だって、誤って舌を噛んでしまった時とか、目にひっかき傷を造ってしまった時とか、転んで足にけがをしてしまった時、痛んでいる舌や目や足にいちいち腹を立てることはないだろう。それと同じことである。

 次のように考えてみるとよい。一つの体全体を君自身とすると、兄弟姉妹であり隣人でもあるその人はその一部分である。体が部分から成っていることには何もなしえない。さて、その人が君に不愉快な思いをさせた時、次にように考えよう。彼は注意深さが欠けていたのだ。またそれを回避する力が不足していたのだ。悪意をもってそれをしたというのではなく、ただ弱さと理解力の不足が原因だったのだ。もちろん、君は傷ついて悲しんでいる。しかし、だからと言って、自分の体の一部分をはぎ取ってしまうわけにもいくまい。させられた不愉快な思いなど、ちっぽけな火花のようなものだ。唾を吐きかければ、そんなものはすぐ消えてしまう。さもないと、悪魔が来て、毒のある霊と邪悪な舌をもって言い争いと不和をたきつけて、小さな火花にすぎなかったものを消すことの出来ない大火事にしてしまうであろう。その時はもう手遅れで、どんな仲裁努力も無駄に終わる。そして、教会全体が苦しまなければならなくなってしまう。」

 もしキリスト信仰者が、神はイエス様を通して自分にどれだけ大きなことをして下さったかをちゃんとわかっていれば、隣人がもたらした不愉快なことなど、本当に唾を吐きかけていいような取るに足らないものになるのです。

 

5.

 最後に、隣人愛の対象がキリスト信仰者でない場合をみてみます。相手の方は、まだ神の整えた救いを受け取っていないので、その人が受け取ることができるようにしていくのが隣人愛となります。しかし、これはたやすいことではありません。もし相手の人がキリスト信仰に興味関心を持っているなら、信仰者としては、心から教えたり証ししたりすることができます。しかし、相手の人に興味関心がない場合、または誤解や反感を持っている場合、それはまず不可能です。それでも、信仰者はまず、お祈りで父なるみ神にお願いすることから始めます。祈りの内容としては「父なるみ神よ、あの人がイエス様を自分の救い主とわかり信じられるようにして下さい」という具合に一般的に祈るのもいいですが、もう少し身近なことにして「あの人にイエス様のことを伝える機会を私に与えて下さい」と祈るのもよいでしょう。その場合は、次のように付け加えます。「そのような機会が来たら、しっかり伝え証しできる力を私に与えて下さい」と。神がきっと相応しい機会を与えてくれて、聖霊が必ずそこで働いて下さると信じてまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 復活後第四主日
2016年4月24日 聖書日課 使徒言行録13章44-52節、黙示録21章1-5節、ヨハネ13章31-35節


説教「汚れた衣を小羊の血で白くされて」神学博士 吉村博明 宣教師、黙示録7章9節-17節

主日礼拝説教 2016年4月17日 復活後第三主日

  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

 本日の聖書の日課の一つは黙示録の7章です。黙示録は、今のこの世が新しい世にとってかわる終末の時、そして死者の復活が起こって今ある天と地が消え去り新しい天と地が創造される時に何が起きるかについて記された預言書です。本日の箇所は、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に」立つという場面です。玉座というのは、天地創造の神が座しているところ、小羊というのは神のひとり子、つまり復活の主イエス・キリストのことです。場所は明らかに天の御国です。そこに集う白い衣を身に着けた大群衆とは誰のことでしょうか?いろんな国民や民族の中から集まった、というのでとても国際的な集団です。彼らが誰であるか、天の長老がヨハネに教えます。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。

「小羊の血」とは、言うまでもなくイエス様がゴルゴタの丘の十字架の上で流された血のことです。イエス様が流された血で衣が洗われて白くされた、というのはどういうことでしょうか?衣服を血なんかで洗ったら白くなるどころか、赤くなってしまい、ちょっとまともなことを言っているようには聞こえません。

イエス様が流された血で衣が白くされる、というのはどういうことかと言うと、次のことです。イエス様は、人間が神から罪の罰を受けないで済むようにとご自分が身代わりの犠牲の生け贄となって血を流して死なれた。だから私たちは、彼こそ救い主なのだ、と信じて洗礼を受けると、私たちは神から罪の赦しを頂いて罪の汚れを洗い落とされる、ということです。

汚れた衣が人間の罪を表わすという比喩は旧約聖書の中にも出て来ます。ゼカリア3章に、天使が大祭司ヨシュアから汚れた衣を脱がせる場面があります。天使はそれでヨシュアから罪を取り去った、と言います(イザヤ1章18節も参照のこと)。生け贄の血が清めの役割を果たすことについては、モーセがイスラエルの民を率いてエジプトから脱出してシナイ半島の荒れ野にて神と契約を結ぶ時、神聖な神の面前に出ても大丈夫なように雄牛の血を民に振りかけたという出来事があります(出エジプト24章8節)。エルサレムに神殿が建設されてから後は、ユダヤ人が個人的な罪や国民的な罪の償いのために動物の生け贄の血を捧げるということは普通に行われていました(レビ記17章11節)。

しかしながら、動物の生け贄の血で本当に罪が償われるのか、本当に神の面前でやましいところがない、潔癖な者になれるのかどうかについて意外な事実が隠されていました。生け贄の血にせよ、その他の罪の償いや清めの掟にせよ、それらは神が命じたものであるにもかかわらず、実は本当の罪の償い、清めの予行演習のようなものにすぎなかったのです。まだ償いや清めの本番ではなかったのです。先週の聖書研究会のテーマは「ヘブライ人への手紙」9章でしたが、そこで、エルサレムの神殿やそこで行われている礼拝や儀式は「まことのものの写しにすぎない」(23節)と言われていました。「まことのもの」が来たら無用になるものだったのです。つまり神殿では、罪の償いのために生け贄を捧げることを繰り返し、繰り返し行わなければなりませんでした。ところが、一回限りの犠牲で全ての人間の罪を未来永劫にわたって償えるという、とてつもない生け贄が捧げられたのです。それが、神の神聖なひとり子、イエス様の十字架の死だったのです。私や皆さんの罪も含めて全ての人間の罪がイエス様の犠牲によって償われて帳消しにされた、それでイエス様は私にとって救い主なのだと信じて洗礼を受けると誰でも神から罪の赦しを受けられる。こうして神から罪の赦しを受けた人は、神の裁きや罰を受けなくて済むようになるので、本当に罪の支配から脱した新しい命を生きられるようになります。

こうしてイエス様の犠牲のゆえに神から罪の赦しをいただいた人は、いつか神聖な神の面前に立つことになっても、私はイエス様を救い主と信じています、神聖なあなたのみ前でこの至らない私が頼れるのはイエス様しかいません、イエス様をこんな私のためにお与え下さったことを感謝します、そう言えば、神はその人にやましいところはない、と認めて下さるのです。人間が神聖な神の面前に立っても大丈夫でいられるようになるのは、神の目に相応しい者として扱ってもらっているからです。ただし、それは私たちが自分の力で相応しい者になれたということではありません。イエス様が成し遂げた業のおかげで、そしてそれを本当のことと信じて受け入れる信仰のおかげで、相応しい者にしてもらったということです。第一ペトロ1章2節に、キリスト信仰者はイエス様の血をかけてもらうために選ばれた者、と言われています。ヘブライ9章では、動物の生け贄の血では人間の良心までは清められない、せいぜい外面的な部分での清めにすぎない、イエス様の血が人間の良心を死んだ業から清めた、と言われています(9-10、14節)。ガラテア3章27節では、洗礼を受けてキリストに結ばれた者はみな、キリストを着ている、と言われ、ローマ13章14節では、罪と戦うためにキリストをしっかり身に纏うことが大事だと言われています。

このようにキリスト信仰者とは、イエス様の血によって罪の汚れを洗い落とされて、イエス様という神聖な衣を頭から被せられて、それで神の目に相応しいとされている者です。 

そうすると、先ほどの黙示録7章の白い衣を着た群衆というのはキリスト信仰者ということになります。キリスト信仰者は、いろんな国民、民族、言語集団の中にいるのであります。彼らは、「大きな苦難を通って来た者」とも言われています(14節)。「大きな苦難」とは、黙示録全体と黙示録が書かれた頃の歴史的背景をあわせて考えると、一義的にはキリスト信仰者に対する迫害を指すと考えられます。しかし私は、迫害以外にも「大きな苦難」を考えてもよいのではないかと思います。いずれにしても、ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、殉教にしろ、何か他の苦難のために命を落としたにしろ、天の御国の神のみ前に行けるのは、自分が流した血のおかげではないということです。彼らの衣が白いのはイエス様の流した血のおかげです。そうなると、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は誰でも同じように白い衣を纏えるので、自分でそれを手放さない限りはみな同じように神のみ前に立つことができるのです。

 

2.

 さて、天の長老はヨハネに群衆の正体を教え、「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と言いました。私たちが用いる新共同訳では「彼らは大きな苦難を通って来た者」、「通って来た」と過去の形になっています。ギリシャ語の原文をみるとなぜか「苦難の中から来る者」、「来る」と現在形になっています。はて、群衆は苦難を通って来た後で今、天のみ神のみ前に立っているのだから、今は過去を振り返って「通って来た」と言った方が正確ではないのか?(13節の長老の質問では、これらの者は「どこから来たのか?」と過去の形になっていることに注意。ギリシャ語原文もそうです。)なぜ、神のみ前というゴールに到達した今でも、「苦難の中から来る者」と現在の形で言うのか?

これは、天の長老とヨハネの視点が天の御国から今のこの世に移動して、今この世で苦難を通っている者を指しているからです。最終的には天のみ神のみ前に到達するのだが、この世の今のところは苦難を通っている者を指しているのです。もちろん、ヨハネが目の前で見せられている終末の時は遠い将来のことで、その時から振り返って見れば「苦難を通って来た者」と言えます。ところが「苦難の中から来る者」と現在形で言うと、ヨハネの同時代の時に苦難を通っている人を指すことができます。さらに、ヨハネの後の時代に黙示録を手にする人みんなにとって自分の同時代の苦難を通っている人を指すことができます。このように、この箇所を読んだり聞いたりする人は、自分が今通っている苦難の現実のすぐ反対側には神のみ前に立つゴールが用意されていて、そっちの現実とこっちの現実が繋がっていることに気づくのです。

「衣を小羊の血で洗って白くした」というのは、過去の形です(ギリシャ語原文もそう)。つまり、ゴールに到着する前のこの世の人生の段階で一度、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神から罪の赦しを頂いて、衣を小羊の血で洗って白くしたということです。そういうわけで、天のみ神のみ前というゴールに到着するというのは、衣を最後まで肌身離さずしっかり纏い続けたということになります。この世というところは、この着せて頂いた白い衣を罪の汚れで汚そうとしたり、さらには衣自体を脱ぎ捨てさせようとする力がたくさん働くところです。そうした力に抗して衣を白く保ち、しっかり纏い続けることが苦難をもたらします。迫害の形をとることもあるし、それ以外にもいろいろあります。そこで、次に、この衣を白く保ち、しっかり纏い続けるにはどうしたらよいかということについて考えて見たく思います。

 

3.

 何が白い衣を汚そうとするのか、それを脱がそうとするのか、それには二つのことが考えられます。一つは、罪を犯してしまうということがあります。もう一つは、自分の罪が原因ではないのに苦難や困難に陥ってしまうということがあります。

まず、白い衣を汚そうとしたり脱がそうとさせる力として罪の問題を考えてみます。私たちは、イエス様の成し遂げた業と彼を救い主と信じる信仰によって、罪を洗い落され、罪の支配から救い出されたにもかかわらず、神の意思に反するような思いや考えを神や隣人に対して抱いてしまうことがあります。また言葉に出してしまうこともあります。最悪の場合は行いに出してしまうこともあります。

これは、イエス様の白い衣を頭から被せられても、内側にはまだ罪が残っていることによります。神は私たちが纏っている白い衣をみて、よしとされるのですが、私たちに残っている罪はその衣を汚したり捨てさせることに活路を見いだそうとします。本当は罪は、十字架の上でイエス様と一緒に神罰を下されて人間を支配する力を失っているのですが、それでもまだ力があるかのように思わせようと信仰者を惑わします。どうしたら惑わされないですむか、それはもう、罪を罪として認め、本気で忌み嫌い、それを遠ざけよう避けようとするしかありません。その時、心の目をゴルゴタの十字架に向けて、罪はあそこで力を失ったのだ、と思い出します。その時、私たちは白い衣をしっかりつかんで引き剥がされないようにしています。神は私たちが衣をしっかり離さないようにしているのを見て、よしとされます。その時、汚れがついてしまったと思っていた衣は前と変わらぬ白さを持って輝いていることに気がつくでしょう。

そもそも、イエス様の白い衣は汚れなど付着することは不可能なもので、罪が私たちの目を惑わして汚れが付着しているように見せかけて、纏っていても意味がない、と私たちをあきらめさせて脱がせようとさせているのです。

イエス様が成し遂げた贖いの業と被せて下さった白い衣は、私たちが罪に堕ちようがどうなろうが、全く無関係に同じ力強さ、同じ輝きを保っています。それゆえ、その力強さと輝きから一度離れてしまった私たちがまたそこに戻れるかどうかが、問題の核心となります。罪に陥った時、私たちに出来ること、またしなければならないことは、先ほども申しましたように、神に罪を罪として認めて、イエス様を救い主として信じますから赦して下さいと願い求めることです。そうすれば神は、我が子イエスの犠牲の死に免じて赦そう、もう罪を犯さないようにしなさい、と言って赦して下さるのです。その時、イエス様の十字架と復活に現れた神の恵みと愛は、私たちが洗礼を受けた時と全くかわらない力と輝きを持って、私たちを包み込みます。このように洗礼を受けた者は、いつも立ち返って、やり直しを始める原点があります。

もう一つ、白い衣を汚し脱ぎ捨てさせようとするものに、私たちが自分自身の罪が原因ではないのに苦難や逆境に陥ることがあります。この問題はどう解決を見いだしたらよいか、とても難しいのですが、一つ言えることは、そのような時でも、イエス様の成し遂げた贖いの業と被せてくれた衣に力がなくて、自分が苦難と困難に陥るのを阻止できなかったということではありません。

「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」ではじまる詩篇23篇の4節に「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あながた共にいてくださる」と謳われます。主がいつも共にいてくださるような人でも、死の陰の谷のような暗い時期を通り抜けねばならないことがある、災いが降りかかる時がある、と言うのです。主がともにいれば苦難も困難もないとは言っていません。そうではなくて、苦難や困難が来ても、主は見放さずに、しっかり共にいて共に苦難の時期を一緒に最後まで通り抜けて下さる、だから私は恐れない、と言うのです。実に、洗礼の時に築かれた神との結びつきは、私たちが自分で捨てない限り、いかなる状況にあってもしっかり保たれているのです。それから、聖餐式でパンとぶどう酒を通して受ける主の血と肉は、私たちと神との結びつきを一層強めるものです。イエス様の血は罪の汚れを洗い落とすもの、と先ほど申し上げました。イエス様を救い主と信じる信仰にしっかりとどまって聖餐式を受ければ受けるほど、内側に潜んでいる罪に重圧をかけて押し潰していくことになります。

パンとぶどう酒を受けて、天地創造の神との結びつきが強められるなどと言われても、そう見えないし感じることはできません。洗礼の水をかけられて神との結びつきが築かれたなどと言われても、そう見えないし感じられもしません。しかし、神の目から見れば、結びつきは築かれ強められているのです。人間は限られた存在ですから、神との結びつきを信じられるために、どうしても見えるものに頼ってしまいます。例えば、病気が治るとか、何か欲しいものが手に入るとか、自分だけは苦難や困難に陥らないとか、陥りそうになっても見事にかわせるとか。しかし、たとえ人間が五感と理性を使って見ることも感じることもできなくても、神が、これで築かれた、強められた、と言えば、そうとしか言えないのです。信仰とは、つまるところ、私たちの限りある目から見てどうなんだ、ということではなく、神の目から見てどうなんだ、ということです。その神の目で見ることができる事柄というのは、聖書を通してでなければ知ることができません。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、日々聖書を繙いて、自分自身でまたは信仰の兄弟姉妹たちと一緒に御言葉に触れる時を持つことは大事です。もちろん、礼拝の説教を通して触れることも大事であることは言うまでもありません。

最後に、ルターが罪の汚れを持つ人間が清くされるということはどういうことかについて教えているので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。ルターが解き明かそうとしている聖句は、詩篇51篇9節でダビデ王が神に「私を洗い清めて下さい。雪よりも白くなれるように」と嘆願しているところです。

「罪を持つ人間はどのようにして雪よりも白くなれるだろうか?答えは以下の通りである。人間には霊的な部分と肉的な部分がある。聖パウロが教えたように、人間には肉的な汚れと霊的な汚れがとどまり続ける。霊的な汚れとは何か?それは、罪の赦しを与えて下さる神の恵み深さを疑うこと、信仰の弱さ、神に対して不平不満を抱き、苦々しい思いに自分から留まってしまうこと、以上まとめて言えば、神が我々にどれだけ良くしようとしてくれているかという御心を知ろうともせず理解しようともしないということ、これが霊的な汚れである。肉的な汚れとは、悪い欲望、敵意殺意、盗もうとする心、憎む心、妬みや羨望の眼差し、その他同類のもの全てがそうである。

 キリスト信仰者とはどんな者かを正しく評価する際には、信仰者が自然の状態ではどんな者かを見てはならない。なぜなら、その場合、信仰者の中に何も清いものは見いだせないからだ。そうではなくて、キリスト信仰者というのは、聖霊の力で新しく誕生した者として観察しなければならない。この新しい誕生は、人間の力では成しえないものである。それを成し遂げて下さるのは、神をおいて他にはいない。

 この新しい誕生が起きる時、人間は雪よりも白くなるのであり、その時、罪を受け継いでしまった最初の誕生はもはやキリスト信仰者を損なうことはない。たとえ信仰者にはまだ汚れが残っているにしても、損なうことはない。主なる神はただ、洗礼の時に信仰者に着せられた白い衣にしか目を留められないのである。白い衣とは、新しく誕生した者の信仰であり、その者を清く飾りつけるために流された神の愛するひとり子の清く神聖な血である。このようにして洗礼の時に着せられる衣は雪よりも白いのである。

そういうわけで、キリスト信仰者とは、自然の状態ではまだ汚れを持つものであるが、洗礼と聖霊がもたらした新しい誕生を経て、イエス様を救い主と信じる信仰にあって、まさに主を衣のように着せられた、雪よりも白い者なのである。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン


主日礼拝説教 復活後第三主日
2016年4月17日 聖書日課 使徒言行録13章26節-39節、黙示録7章9節-17節、ヨハネ10章22-30節

説教「パウロの回心(かいしん)と私たち」神学博士 吉村博明 宣教師、使徒言行録9章1節-20節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 キリスト教会やキリスト教そのものにとって使徒パウロが重要な人物であることは誰もが認めるところでしょう。もちろん、神の神聖な犠牲の生け贄になって十字架の上で死なれて人間を罪と死の支配から解放してくれたのは、言うまでもなく神のひとり子のイエス様です。パウロではありません。十字架の死と死からの復活の主人公はイエス様です。パウロが重要だというのは、このイエス様の十字架の死と死からの復活は一体何だったのか、そしてそれがどれだけ全ての人間にとって大事なことであるのか、こうしたことをはっきり理解して、それを福音と呼んで教え広めたことにあります。

皆さんのお手元にある聖書の新約聖書の部分をみてみましょう。全部で480ページあります。そのうち、212ページが福音書と呼ばれる、イエス様の言行録が4つあります。その後に「使徒言行録」と呼ばれる、イエス様の後に福音伝道に携わった使徒たちの言行録が続きます。60ページあります。この福音書と使徒言行録は起きた出来事についての歴史を扱った書物です。新約聖書の終りには有名な「黙示録」があり、29ページあります。これは今のこの世が新しい世にとってかわる終末の時の出来事についての比喩に満ちた預言書です。そして、これらの歴史書と預言書に挟まれるようにして、179ページわたる使徒書簡と呼ばれる21通の手紙があります。これは使徒が自分自身ないしは、恐らく使徒の直近の弟子が先生の名を使って、各地のキリスト教徒に書き送った手紙で、実はこれらの手紙の中に福音の教えが沢山含まれているのです。パウロの名が冠された手紙は全部で14通、合計128ページあり、使徒書簡の大きな部分を占めていることがわかります。もしパウロがいなかったら、またいても、本日の聖書の箇所にあるような出来事が起きなかったら、イエス様の十字架と復活の意味も解明されず、福音の内容もはっきりしなかったでしょう。そうしたら本当のキリスト教もキリスト教会も生まれなかったでしょう。

 

2.

 そのように言いますと、じゃ、パウロと違ってイエス様の十字架と復活を直に目撃したペトロや他の使徒たちは何もわかっていなかったのか?それはちょっと言い過ぎではないか、という疑問が起きるかもしれません。イエス様の十字架と復活というのは、人間を罪と死の支配から救い出すために神がひとり子をメシア救世主としてこの世に送って成し遂げさせた業であり、これは旧約聖書に預言されたことの実現であるということ。そして人間はこのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、神から罪の赦しを得られて救われて永遠の命を持てるということ。こうしたことをペトロたちもしっかりわかっていたということは、聖霊降臨の時にペトロが群衆の前で行った大説教(使徒言行録2章)をはじめ、使徒言行録に記録されている多くの教えの言葉からも、またペトロの手紙からも明らかです。

パウロもペトロも同じ福音を宣べ伝えるのですが、ただパウロの場合は私たちのような非ユダヤ人、つまり異邦人にとって大きな意味を持っています。ユダヤ人以外の民族のことを言い表す時、ヘブライ語でゴーィגוי、ギリシャ語でエトゥノスεθνοςという言葉がよく使われますが、日本語で異邦人と訳されます。ところでペトロたちは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者はユダヤ人であるべきということにこだわりました。これは理解できます。というのも、イエス様も使徒たちも聖母マリアも皆、ユダヤ人として、旧約聖書の律法や預言を受け継ぐ民族の一員としてこの世に生まれました。男の人は皆、律法の戒律に従って割礼を受けています。そういうわけで、イエス様を旧約聖書に約束された救世主メシアだと信じる者は旧約を受け継ぐ者でなければならない、そう考えられても不思議ではありません。そこで、もし、ユダヤ人でない異邦人がキリスト信仰者になろうとするなら、まず割礼を受けてユダヤ人にならなければならない。もちろん天地創造の神は、そうではないということをペトロにかなり具体的に教えて、それがもとでローマ帝国軍の将校コルネリウスに洗礼を授けたこともありました(使徒言行録10章)。それにもかかわらず、エルサレムの使徒たちがユダヤ人のこだわりを長く持ち続けたことは、パウロの「ガラテアの信徒への手紙」からも伺えます。

 パウロの明確な立場は、人がイエス様を救い主と信じて福音を受け取る際には割礼を受けてユダヤ人になる必要はないということです。私どものような異邦人は異邦人として、つまり日本人は日本人として、欧米人は欧米人として、アフリカ人はアフリカ人として、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けられて天地創造の神の子とされる資格があるということです。イエス様もペトロもマリアもユダヤ人だったからと言って、わざわざ割礼を受けてユダヤ教に改宗してからキリスト信仰者になる必要は全くなくなったのです。実にありがたいことです。

 

3.

 では、自分自身ユダヤ人であるパウロはどうしてそんなことを言い出したのでしょうか?彼は、旧約聖書や律法や預言を放棄してしまったのでしょうか?実はそうではないのです。それどころが、ある意味でパウロの場合、十戒の掟が一層厳格になったとさえ言えるのです。どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?それを以下にみてみましょう。

パウロは、もともとはファリサイ派に属する律法に厳格なユダヤ教徒の一人でした。ファリサイ派というのは、イエス様の時代のユダヤ教社会内部にあった信徒運動で、旧約聖書に記述された律法だけではなく、口述で伝承された掟も同じくらい大事だと主張したグループです。特に、清めに関する掟は大事で、神が与えると約束した土地に住んでいる以上は、異邦人や罪びととへたに接触して汚れをうつされてはいけない。律法を全てしっかり守ることで神の目に相応しいものとなれるという考えでした。ファリサイ派とイエス様の考え方には類似点もあるのですが、決定的に違う点も多く、ファリサイ派はいつもイエス様に論争を吹っかけては撃退されていました。有名な論争の一つに、何が人間を不浄なものにして神聖な神から遠ざけられてしまったかというものがあります(マルコ7章)。イエス様は、人間を汚れたものにするのは外部から入ってくる汚れではなく、人間内部に宿っている様々な性向である、だからどんな清めの儀式や戒律を守っても人間は清くなれないと教えました。本当に神から罪を赦してもらうことから始めないと人間は清くなれないのであって、そのためにイエス様は十字架にかけられたのでした。

ファリサイ派のパウロ、当時はサウロという古代イスラエルの王サウルに因んだ名前を持っていましたが、彼はキリスト信仰者の迫害者として広く知られていました。(パウロの生涯と教えについて詳しくみることは興味深いのですが、ここは大学の講義ではなく教会の説教の場ですので御言葉の解き明かしに専念し、パウロのことは別の機会に譲りたいと思います。)あの、宗教指導者が異邦人の総督に引き渡して十字架にかけて殺してしまったナザレのイエスは実は、旧約聖書に約束されたメシア救世主だった、などというのは、指導者たちにとってとうてい受け入れられるものではありません。それでペトロたちに対して、イエスの名を言い広めたら命はないぞ、と何度も脅しをかけるのですが、相手側としてはイエス様の復活を目撃してしまった以上は引き下がることなど出来ません。対立はどんどんエスカレートして、ついに勇敢なステファノが殉教したのをきっかけにキリスト信仰者に対する大規模な迫害が起こりました。

そこでパウロも一生懸命迫害に加担し、本日の箇所にあるように、エルサレムの神殿の大祭司から委任状をとって、ダマスコ周辺のキリスト信仰者をエルサレムに連行する権限を得ることまでしました。そして手下を従えて出発したところ、その途上で先ほど朗読していただいたように、文字通り想定外の出来事が起きました。天に上げられてこの地上にはいないはずの復活の主がそれこそワープしてきたかのように間近に来たのです。これはアナニアが「幻の中」(10節)でイエス様の声を聞いたのとは性質が異なります。アナニアは個人的に声を聞きましたが、パウロの場合は個人的ではなく、従者も皆、異常な現象を目撃し声を聞いたのです。つまり大勢の人が出来事を共有したと言ってよいのです。

パウロはこの出来事をきっかけに、キリスト信仰の迫害者からその擁護者、伝道者へと変貌しました。私たちの新共同訳聖書の9章の見出しに「パウロの回心」と付されています。本日の説教題に「かいしん」と送り仮名を付したのは、この漢字は「えしん」とも読めるとのことで、その場合は仏教の言葉となって、辞書によれば「心を改めて仏道に入ること、とか、小乗の心を改めて大乗を信じること」などと出ていました。「かいしん」の方は、「神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返る個人的な信仰体験」とありました。パウロの回心ですが、注意すべきことは、それはただ単に、迫害者として悪いことをしてしまったなぁ、と後悔して、これからは心を改めて真人間になってキリスト信仰を擁護し伝道に努めよう、などという、そんな悪人が改心して善人になったという話では全くありません。律法を守ることに徹していたパウロは、それこそが神に相応しいと見なされる道である、と固く信じていたのです。それ自体が純粋な信仰だったのです。そのような信仰を持つ者からすれば、イエス・キリストを救い主と信じて神から罪の赦しを受けられて神の目に相応しい者とされるというのは、大切な律法をないがしろにする邪道にしかすぎませんでした。

ところが、それまでキリスト教徒たちの出まかせにすぎないと思っていた復活のイエスが突然、目を開けられない位の強い光を伴って間近に来た。もう、イエス様は単に権力者に楯突いて処刑された反乱者などではなくなりました。本当に信仰者たちが告白しているように神のひとり子であることが、一瞬のうちに明らかになったのです。パウロを覆い包む強い光は真に真理を照らし出す光でした。光の中から「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声がした時、地に倒れたままのパウロは「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねますが、「主」というのは、神の呼び名です。パウロは神の臨在がわかったのです。

イエス様は、声の主が自分であることを告げ、あわせてこれからパウロがすべきことを告げます。パウロがすべきことについて、イエス様はアナニアにも知らせました。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」(15節、16節)。これで、パウロの運命は決まりました。迫害者は使徒にかえられたのです。後にパウロは「ガラテアの信徒への手紙」の中で、神は既に自分を母の胎内にあるときから福音伝道者に選んでいて、自分が召し出されたのは神の恵みによると告白しています(1章15節)。つまり、神はパウロにまず律法を厳格に守るファリサイ派の経歴を歩ませてから、その次に福音伝道者に召し出したのです。兄弟姉妹の皆さん、神はこのように私たちに深く真理をわからせるために、最初それと反対の世界を歩ませることもされるのです!

復活の主イエス様の臨在がわかった以上、パウロはもうイエス様が神のひとり子であること、旧約聖書に約束されたメシア救世主であることを否定できなくなりました。神がイエス様を用いて十字架と復活の業を成し遂げさせたのは、まさに人間を罪と死の支配から解放するためであった。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、人間は神から罪の赦しを得られて神から相応しい者と見なされて永遠の命を持つことが出来る。そうなりますと律法を守ることで神に相応しいと見なされるということはなくなってしまいます。律法は不要になってしまったのでしょうか?

 

4.

 律法は不要にはなりませんでした。律法は新しい役割を持つようになったのです。どういうことかと言うと、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けても、自分の中にはまだ罪が残っていることは否定できない事実です。ということは、イエス様を救い主と信じる信仰のせいで律法が存在価値を失ってしまったということはなく、かえってそれは自分が罪深い者であることを思い知らせる鏡のようになったのです。律法は依然として効力を保っているのです。ただ、ゴルゴタの丘に立てられた十字架が否定できない歴史的事実である以上、いくら律法が罪を自覚させても神の赦しは厳然とあるのです。そうなると、キリスト信仰者というのは、内に罪を残したまま、イエス様の罪のない純白な衣を頭から被せられて神に相応しいとみなされているのであり、罪を残してはいるものの、この衣をしっかり纏っていよう、そういう生き方を志向する者なのです。

このようにパウロにとって、それまで神に相応しいと認めてもらおうと一生懸命に守ってきた律法の役割が変わってしまいました。神に相応しい者になれるのは、イエス様が自分に代わってそのようにしてくれたことを信じることでなれるのです。もし罪を犯して相応しさを失ってしまったら、すぐ十字架のもとに立ち返れば、イエス様の犠牲に免じてまた相応しい者と認めてもらえるのです。この時、律法は、私たちに罪を気づかせることで私たちを十字架のもとに追いやってくれる役割を持ちます。

そういうわけで、パウロからみれば、割礼を施してまずユダヤ人という神の目に相応しい者にしてから洗礼を授けるという手順は、それこそ律法を守って神の目に相応しくなろうとすることと同じになってしまうのでした。それで認められないのです。もちろん、パウロやペトロなどのように生まれた時から割礼を受けていて初めからユダヤ人であれば、そのままにするしかありません。新しくキリスト信仰者になる者に対しては、割礼は意味がないばかりか、施してしまうと、神の目に相応しくなることがイエス様を救い主と信じる信仰によらなくなってしまいます。 

ところで、もともとユダヤ人で割礼を受けた状態でキリスト信仰者になる者はユダヤ・キリスト教徒、異邦人から信仰者になる者は異邦人キリスト教徒と呼ばれます(注)。私たち日本人のキリスト信仰者も、欧米人やアフリカ人のキリスト信仰者も皆異邦人キリスト教徒です。パウロの異邦人を中心とする熱心な伝道の結果、キリスト信仰はすぐ当時のローマ帝国の東半分に広がって行きました。キリスト信仰は、地中海世界の人々の倫理観、死生観、性モラルに新しい風を吹き込みました。特に、以前からユダヤ教の教えに接して多神教を捨てて天地創造の唯一神を信じるようになった多くの女性たちが、パウロの教えを支持しました。いつしか異邦人キリスト教徒とユダヤ・キリスト教徒の比率は逆転し、西暦70年のローマ帝国軍によるエルサレム破壊の後は、ユダヤ・キリスト教はほとんど歴史の舞台から姿を消していったのであります。

 

5.

 以上、迫害者パウロが、復活の主の大接近を受けて、イエス様が神のひとり子、メシア救世主であることを受け入れざるを得なくなってしまったことをみました。そしてパウロは、神に相応しい者にされるのは律法の掟を守ることではなく、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに神から「罪の赦しの救い」を頂いて相応しい者にされることがわかったということもみました。特に、キリスト信仰者になるのに割礼を受けてユダヤ人になる必要はない、異邦人は異邦人のままイエス様を救い主として信じて「罪の赦しの救い」を受けられるというパウロの立場は、彼にとって律法の役割が大きく変わったことと結びついていたこともわかりました。

 最後に、パウロに大接近したイエス様が述べた言葉の中で、私たちにとって励みになるものがありますので、それについて述べてみたく思います。それは、パウロが声の主が誰であるかを尋ねた時、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(9章5節)と答えました。イエス様を救い主と信じる者が迫害される時、それはイエス様にとって自分が迫害される、迫害は自分に及んでいる、というのです。私たちキリスト信仰者が、何か害悪を被ったり、災難や困難に遭遇した時、イエス様はそれを自分のことのように受け取るのです。イエス様は私たちの境遇に無関心ではないのです。このことについてルターが次のように教えていますので、それを引用して本説教の締めにしたく思います。ルターが解き明かそうとしている聖句は、ヨハネ15章1節「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」です。

「見よ、主は苦しみと死に向かって進まれている時に、このように述べて悲しみを乗り越えられた。同時に主は、我々もこの御言葉をしっかり心に刻みつけるようにと教えられる。主が言わんとしていることは次のことである。『私はまことのぶどうの木、父なるみ神が御自分でお植えになった愛すべき木である。だから、お前たちは、私と父の両方にとって愛すべき枝なのである。これほど一生懸命に丁寧に肥料をまかれ、剪定され、きれいにされるぶどうの木は他にあるだろうか?このぶどうの木に害を加えようとするものがあるなら来るが良い。悪魔やこの世がお前たち枝に何か危害を与えようとするなら、させてみればよい。どうせ彼らは、愛する父が許可する以上のことは何も成しえないのだ。』

我々の天の父は、ぶどうの木であり枝である我々をしっかり守って下さるあまり、我々に降りかかる危害さえも自分自身に及ぶものと受け止めてくれる方なのである。これは、なんと我々を勇気づけてくれることであろうか!そもそも信頼できる農夫というのは、ブドウ園にとどまって一つ一つの枝を守り、簡単に他の者に渡したりしない。最後まで自分でぶどうの木を守り世話をする。

主のこのような御言葉を心に刻みつけるには、霊的な耳や目を必要とする。なぜならば、この世の目には、全てのことは全く正反対に見えてしまうからだ。主を信じながらも困難に陥ったり迫害を受けたりする我々のことを、この世は神のぶどうの木、枝などとは呼ばないだろう。彼らからすれば、悪魔の雑草か茨にしかみえないであろう。それは彼らが霊的な耳や目を持っていないからにすぎない。主の語られたこの美しいたとえを信じてこれを宝物のように携えている者は、どんな困難に遭遇しても勇気を失わないであろう。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

  注 スウェーデン語やフィンランド語では、ユダヤ・キリスト教徒(judisk kristen/juutalaiskristitty)、異邦人キリスト教徒(hedna kristen/pakanakristitty)との呼び名がありますが、英語では、ユダヤ・キリスト教(Jewish Christianity)と「ヘレニズム・キリスト教」(Hellenistic Christianity)という区別のようで、地理的・歴史的に限定された言い方です。


主日礼拝説教 復活後第一主日
2016年4月10日 聖書日課 使徒言行録9章1節-20節、黙示録5章11節-14節、ルカ24章36-43節


 

今日は木村長政牧師による聖餐式が執り行われました、夏の吉村先生の留守に備えて聖餐式助手の練習をしました、緊張の連続でした。

4/9 フィンランド家庭料理クラブの報告

ライ麦粉のケーキ桜の花びらが南風に舞う、春満開な土曜日の午後、家庭料理クラブは、ライ麦粉のケーキを作りました。

吉村先生のお祈りからスタートです。

今回は油脂を使わない、18cmの丸型のケーキを、二人で一台ずつ作りました。

焼き上がったスポンジは2枚にスライスして、間にオレンジをアクセントにちらし、グループ毎にデコレーションして、可愛い4台のケーキは完成しました。

コーヒーと一緒に、デコレーションされたケーキと、デモンストレーションで作ったスポンジは、オレンジのロールケーキになり、すべて完食しました。

参加の皆様のお疲れ様でした。

ライ麦粉のケーキ

 

説教「エマオでのよみがえりの主」木村長政 名誉牧師、ルカによる福音書24章13~35節

今日の聖書は、エマオで復活のイエス様が二人の弟子に現れた、有名な出来事です。

ルカはこの出来事を、かなり詳しく、多くの行数を用いて書いています。

マルコの方は、ほんの数行で書いています。

  まず、マルコの方の記事を見ますと、16章12~13節「その後、彼らのうちの二人が、田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿でご自身を現された。この二人も行って、残りの人たちに知らせたが、彼等は二人のいうことも信じなかった。」

マルコの方は、復活されたイエス様のことを信じなかった、信じなかったとそればかり書いているんですよ。

  安息日が終わって、マグダラのマリアたち婦人たちが墓に行ってみると、墓の中は、空っぽだった。そこへ、天使がきて告げたのです。16章6~8節を見ますと、「驚くことはない。あなた方は、十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って弟子たちと、ペトロに告げなさい。『あの方はあなた方より先に、ガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこで、お目にかかれる。』と。

 婦人たちは、墓を出て、逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった、恐ろしかったからである。

 ここでの婦人達は、白い衣を着た若者が恐ろしかったのではないんです。

イエス様なきがらがなくなってしまっている事に驚いた。震え上がって、正気を失っている人です。なぜでしょう。

婦人たちの本心をもっと言いますと、十字架で死なれたイエス様がよみがえらされている、もうここにはいない、ということ。

正確には、肉のイエス様は死んで、神によってよみがえらされた。

婦人たちは、自分のできる手でイエス様に精いっぱいつくそうとして来てみたが、もう、それどころではないことがわかった。

神の御手のうちに、人間の考えの領域を超えた大変な事が起こっていることを、感じとった婦人たちはもう正気を失って、逃げ去っています。

恐ろしかったからである。・・・こうマルコは書いているんです。

16章11節を見ても、イエスは生きておられる、と他の弟子たちはその知らせを聞いても信じなかった。とあります。

 

 さて、ルカの方では、エマオに向かっている二人の弟子も、イエス様が十字架に死んでしまわれた事に失望、落胆して、復活されたイエスの知らせを聞いても、信じられないで、もう自分たちの故郷のエマオに歩いて帰っているのでした。

そこへ、復活のイエス様ご自身の方から近づいて、一緒に歩いていかれたのであります。

 

 ルカ24章13~16節を見ますと、「ちょうどこの日、二人の弟子がエルサレムから60スタディオン離れた、エマオという村へ向かってあるきながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い、論じ合っていると、イエス様自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

 この中に私たちへのメッセージは何かといいますと、人生の歩みに失望した、名もなき平凡な人々の中へ、復活したイエス様は、いつでも生きて働いていて下さる、ということです。そのことは、私たちの目には見えません。気づいてもいないことです。

16節に「二人の弟子の目にはさえぎられていて、イエスだとは分からなかった。」

マルコの方では、「イエスが別の姿でご自身を現された」とあります。

 十字架の上で死をとげられたイエス様の体はもう、肉にあるのではありません。あえて言えば、霊の体、復活の体にあるイエス様で、二人の弟子は今、西に向かって夕陽に目がくらんでなお、いっそうイエス様であることに気づかなかったのであります。

 

 マルコにあるように、あえて、別の姿で二人の者に近づいておられる。不思議な出合いであります。

イエスは、知らぬ顔して、二人に問われた。

「あなた方が、道を行く途中で議論して、やりとりしていた話は何のことですか。」

 二人のうちのクレオパという人が答えていった。「エルサレムでの大変な出来事について、あなたは、御存知なかったのですか。」と、19節から24節にわたって、くわしく、ルカは書いています。

十字架にかかられたイエス様のことを、復活されたイエス様本人に向かって、話しているのです。

復活のイエス様は、それを、ずーっと聞いて、二人に語られるのです。「その方は、復活するはずではなかったのか。」と、そのことを旧約聖書の予言から説き明かし話されたのでした。

 熱心な話が続くうちに、目指す村に近づいて来て、イエス様はそのまま進んで行かれる様子であったのですが、二人の弟子は、エマオに一緒にお泊り下さいと、無理矢理引き止めた、とあります。

 

 さて、30節を見ますと、「一緒に食事の席にいたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えてパンを裂き、お渡しになった。すると、二人の目が開けてイエス様だと分かった。が次の瞬間にはその姿は見えなくなった。」

 夕食の食卓でパンを裂いて祈られ、ここには食卓の主人となって、二人の弟子にパンを渡される手もとを見てその瞬間、二人の目が開いてわかった。何と、イエス様だ!何という驚くべき、劇的な展開ではありませんか。

 

 なぜ、パンを裂いて渡される瞬間、目が開いたのであろうか。ある聖書学者は、恐らく5000人の多くの人に、パンと魚を与えられたあの奇跡の場に、この二人の弟子も参加していて、パンが裂かれ、ふえている奇跡のイエス様の手もとを、印象深く心にとめていたのではないか、と言います。

実に素朴な田舎の貧しき食卓で、うす暗い中に、復活された姿のイエス様の手もとと、1人の弟子に光が射しているこの光景を題材にして、カラバッジョという有名な画家が絵に描いています。その絵が、今、東京にきているのです。

 名もなき二人の弟子は、復活のイエス様と出会えた、この瞬間の、祝福に満ちた空間は素晴らしい光景であります。

 

 復活の体のイエス様がガリラヤに行き、そこで弟子たちに会いたもうた。と、マタイ28章に記されています。

ヨハネ20章にも、マルコ16章にもあります。

又、弟子たちと別れの昇天をされたのは、オリブ山のふもとのベタニヤでありました。(ルカ24:50)

このようにガリラヤは、イエス様の故郷であって、初期伝道が行われた地域でありました。

又、ベタニヤはイエス様の愛するマルタとマリヤ姉妹の家があったところで、ここを拠点として滞在され、エルサレムへ上られたのでした。

どちらも、イエス様にとって最もなつかしい土地でありますから、復活された後も、そこで弟子たちに再会されたことは極めて自然の事柄であります。

 

 ところが、ここにエマオというこれまでにイエス様の生涯に一度も出て来たことのない村です。

イエス様と、縁もゆかりもない土地であります。

エルサレムから見ると、ガリラヤは北の方です。ベタニヤは東の方です。ところでエマオは西の方であります。復活のイエス様がまず、わざわざ二人の弟子のために、エマオへの道を共に歩まれたのはなぜでありましょうか。

 

 さて、次にこの二人の弟子に現れたのは、なぜでしょうか。1人の名はクレオパという人で、もう1人については名もわからないのです。

 この二人は、あの12使徒たちと比較されるような重要な人物ではなかったことは明らかです。

彼らの地位が重要でなかっただけでなく、聖書を理解するのにも愚かであって、信ずるには心にぶいものであったでしょう。

 このような名もなき二人の愚かな弟子のために、復活されたイエス様がわざわざ現れて、聖書の真理を説き明かし、十字架のイエスは、復活するのではなかったかと、復活の御自身をまず示されたのです。

 エマオという場所といい、二人の弟子の人物といい、たいして重要でない小さいものの為に、イエス様が復活の当日、何よりすぐに現れておられる。

共に道を歩いて下さっており、共に宿をとり、聖書を解き明かし、食事ではまず先にパンをさいて与えて下さった。

この福音書を書いているルカは、私たちに誘っているのです。

イエス様が、神の子として復活し、生きて働いて下さる。

しかも誰もが考えるような12の使徒ではない、名もなき二人の弟子に、しかもエマオという場所も地域を越えて、やがて福音書は広く、広く、全世界と広げられていくことをルカは、強く、強く、このエマオの物語で印象深く、感動を覚えるメッセージとして私たちに与えてくれているのであります。

 ハレルヤ アーメン

復活祭の説教「イエス・キリストは我らの復活の初穂なり」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書20章1-18節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が神の大いなる力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的のようです。イエス様が天の父なるみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから人として生まれたことを記念してお祝いするのはクリスマス・降誕祭でした。復活祭はクリスマスに劣らずキリスト教会では大事なお祝いです。一度死んだ者が復活させられて、死の悲しみが生の喜びにかわるということで、ちょうど暗い寒い冬が明るい暖かい春にかわる時期にぴったりのお祝いにみえます。

 ところで、イエス様が復活されたことの何が私たちにとってそんなに喜ばしいことになるのでしょうか?復活祭の本当の意味がわかるために、このことを少し考えてみましょう。イエス様は沢山の苦しみを受けて十字架につけられて死なれたが、復活させられた、ということで、復活祭とはイエス様の不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と言ったらどうでしょうか?また、イエス様が死んだため悲しみにくれていた弟子たちが、復活させられたイエス様に出会って喜び勇気づけられた、ということで、弟子たちの不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と言ったら?復活祭とは、歴史ドラマでも観るように、昔の人物たちの運命の変転をハラハラしながら追って最後にめでたしめでたしの気分を味わえるお祝いでしょうか?いいえ、決してそうではありません。イエス様が死から復活させられたことは、当時の人物たちの時代という時間の壁を突き破って、今を生きている私たちの運命の変転そのものに関係することなのです。そのことがわかるために、イエス様の復活とはそもそも何かということを考える必要があります。

そこで、イエス様の復活とは何かをわかるためには、イエス様はなぜ死ななければならなかったのかを考えなければなりません。もちろん、それはイエス様が当時のユダヤ教社会の宗教エリートに楯突いて反感を買って、ローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された、ということなのですが、実はそれは見かけ上の出来事です。見かけの奥にある真実はこうです。旧約聖書に記された神の計画が、イエス様の十字架と復活という形を取って実現したということです。

それでは、旧約聖書に記された神の計画とは何でしょうか?それは、罪にまみれて神聖な神との結びつきを失い死ぬ存在になってしまった人間が、罪を洗い流されて神との結びつきを回復してこの世を生きられるようにするという計画です。この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるようにするという計画です。それでは、この神の計画とイエス様の十字架・復活はどう関係するでしょうか?それは次のように関係します。まず、イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を全部代わりに受けてくれて、神に対して罪の償いを全部してくれました。このように私たちの罪を請け負って神の罰を受けたので、罪はイエス様と一緒に神の罰を受けて破綻しました。こうしてイエス様が自分を犠牲にして罪の力を無力にしたので、私たちは罪の支配から解放されました。さらにイエス様が復活させられたことで、死を超える永遠の命への扉が私たち人間に開かれました。その扉は、罪に支配されたままの者は入れませんが、イエス様を救い主と信じて神から罪の赦しを得て罪の支配から解放された者は入れるようになりました。

このように罪と死の支配から人間を救おうとする神の計画が実現したことで、今度は私たち人間もイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしました。こうして人間は新しい希望をもってこの世を生きることができるようになりました。新しい希望とは、一つには、たとえこの世の人生が終わっても、命は復活の日を経て永遠の命という形をとって続いていく、だから死は終わりではないという希望です。もう一つには、死者の復活が一斉に起きる復活の日、神は御心に従って、懐かしい人同士が合いまみえるようにしてくれるという復活の日の再会の希望です。実に神は、私たちがこうした希望をもってこの世を生きられるようにしてくれたのです。

そういうわけで、復活祭とは、イエス様が復活させられたことで、実は私たちの将来の復活が可能になったことを喜び祝う日です。また、復活させられるという希望と復活の日に再会できるという希望を私たちに与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活させられた主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったのです。イエス様自身のためでもなく、弟子たちを喜ばせるためでもなく、イエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちにとって大きな喜びの日になるのです。

 

2.

 イエス様の復活は、まさに私たちの復活に先だって起きました。イエス様の復活が起きなければ、後に復活は続きません。イエス様の復活が将来の私たちの復活の先駆けになっていることは、先ほど読んでいただいた本日の使徒書である第一コリント15章からも明らかです。23-24節で復活には順序があると言われています。「最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち」、つまりイエス様の復活は今から約2000年前に起きましたが、その他全ての者の復活はイエス様の再臨の日に起きるということです。

第一コリント15章20節には「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言われています。「初穂」とは、ギリシャ語のアパルケーαπαρχηの日本語訳ですが、「最初の者」とか「第一子」というのがもともとの意味です。興味深いことに、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語訳の聖書では素直に「眠りについた人たちの中で第一子となられました」となっています。英語訳(NIV)では「最初の果実」firstfruitsで、植物になぞらえることで日本語訳に近いです。「初穂」の意味ですが、単純に「年の一番最初に実った穂」という意味の他に、宗教的な意味もあるので注意が必要です。日本の宗教的な伝統では、年一番最初に収穫して神仏に捧げる穀物を意味します。穀物ではないですが、似たようなことがユダヤ教の伝統にもあり、人間であれ家畜であれ第一子は神に捧げられるものとして聖別せよという律法の規定がそれです(出エジプト13章1-2節、12-13節、22章28節、34章19節、民数記3章13節)。ルカ2章に赤ちゃんのイエス様が両親に連れられてエルサレムの神殿に行く場面がありますが、その目的の一つが第一子の聖別でした(23節)。

日本語訳で「初穂」としたのは、何か神に捧げられるものという意味をもたせる意図があったのかどうかはわかりませんが、一つ注意しなければならないことがあります。それは、復活して復活の体を持つイエス様はもう捧げものではない、ということです。イエス様は既に十字架の上で全ての人間を罪の支配から贖い出すために御自身を神聖な生け贄として神に捧げたのです。十字架の出来事の後で、もう神に捧げる犠牲などありません。そうは言っても、十字架の出来事の後にも人間には罪がまとわりつきます。それでは、罪がまとわりつく時、人間が罪の支配から贖われた状態を保てるにはどうしたらいいのか?それはもう、イエス様が成し遂げた全てのことのゆえに、彼こそが自分の救い主だと信じて洗礼を受けてイエス様と結びつくこと、そして聖餐式でイエス様の血と肉を受けてその結びつきをしっかり保っていくこと、それしかありません。

そういうわけで、イエス様は復活の「初穂」と言う時、それは単純に眠りについた者たちの中で一番最初に復活させられた者ということです。私たちに先だって復活した、イエス様の復活が起きたので続いて私たちの復活も起きるということです。皆さん、ここで広々とした田んぼ、または麦畑を思い浮かべてみて下さい。秋の収穫の時が近づきました。どの穂か、最初に実った穂があったかと思うと次々と他の穂も実っていって、田んぼや麦畑は黄金色に輝きます。稲や麦のように私たちもイエス様という初穂に続いて行きます。イエス様の再臨の日、それは復活の日であり、また天地が新しく創造される日ですが、私たちは眠りから覚まされて、復活の体を着せられて天の御国に迎え入れられます。実をならせた穂として。

 先ほどみた第一コリント15章20節で「眠りについた人たちの初穂」と言われていますが、聖書ではこの世から死んだ後は、復活の日、イエス様の再臨の日までは「眠り」の期間です。ルターによれば、この「眠り」は、この世の痛みや苦しみから解放された心地よい眠りである反面、眠っている本人にすれば目を閉じてから復活の日までの長い眠りは、本人にはほんの一瞬にしか感じられないという眠りです。眠っているだけなので、飢えも渇きも感じないし、また、この世で生きている人を見守ったり、影響力を及ぼすこともありません。この間ずっと起きて目を覚ましていて、この世の人を見守ったり影響力を及ぼすのは、天地創造の神だけです。死んだ人の霊や魂などではありません。

 

3.
本日の福音書の箇所で、復活の主イエス様とマグダラのマリアの再会が記されていますが、これは想像を絶する出来事です。というのは、この地上の体を持つマリアが復活の体を持つイエス様にすがりついているからです。復活したイエス様が持っている復活の体とはどんな体なのか?それについては、使徒パウロが第一コリント15章の中で詳しく記しています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42-43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52-54節)。イエス様は、ずばり「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言われます(マルコ12章25節)。

復活というのは、ただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば、遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起きません。復活とは、肉体が消滅しても、復活の日に新しい復活の体を着せられて復活することです。その体は、もう朽ちない体であり、神の栄光を輝かせている体です。天の御国で神聖な神のもとにいられる体です。この地上は、そのような体を持つ者のいる場所ではありません。イエス様は本当なら復活の後、吸い取られるよう天に昇らなければならなかった。なのに、なぜ40日間も地上にとどまったのか?その期間があったおかげで、弟子たちをはじめ大勢の人に自分が復活したことを目撃させることが出来ました。きっと、それが目的だったのでしょう。

復活したイエス様が、私たちがこの地上で有する体と異なる体を持っていたことは、福音書のいろいろな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事が記されています。弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。

 復活したイエス様の体について、もう一つ不思議な現象は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったということです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事が記されています。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経った後のことでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初イエス様だとはわかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。

Waiting For The Word RALPH PALLEN COLEMAN

さて、天の御国の神聖な神のもとにいられる復活の体を持つイエス様と、それにすがりつく、地上の体を持つマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。「すがりつく」というのは、相手が崇拝や尊敬の対象である場合は、ひれ伏して相手の両足を抱き締めるということだったでしょう。イエス様に気づく前、マリアはずっと泣いていました。イエス様が死んでしまった上にその遺体までなくなってしまって、その喪失感と言ったらありません。では、イエス様に気づいてすがりついた時のマリアはまた泣いたでしょうか?次のように考えて見たらどうでしょうか?最愛の人が何か事故に巻き込まれたとします。もう死んでしまったとあきらめていたか、またはまだあきらめきらないというような時、その人が無事に戻ってきて目の前に現れるとする。その場合、たいていの人は感極まって泣き出して抱きしめたりするでしょう。イエス様にしがみつくマリアもおそらく同じだったでしょう。

イエス様が「すがりつくな」と言ったということですが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」μη μου απτουです。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」Do not hold on to meです。聖書の訳にも日米同盟があるみたいですが(もっとも、ドイツ語ルター訳でないEinheitsübersetzung訳をみると、「私にすがりつくな」Halte mich nicht festでした)、イエス様はマリアに対して、「触れるな」と言っているのか「すがりつくな」と言っているのか?

私は、イエス様が復活した体、まさに天の御国の神のもとにいることができる体を持っているということを考えると、ここは原文通りに「私に触れてはならない」の方がよいと思います。イエス様は、この言葉の後にすぐ理由を述べます。「私はまだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は、自分に触れるな、と言われる。その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが有している肉体の体とは異なる、神の栄光を体現する霊的な体を持つ者となった。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で天の父なるみ神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間はこの地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上のものなので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。

 このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じていることです。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(ψηλαφησατε、βαλε両方ともアオリスト命令形)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は、「今の自分は本来は神聖な神のもとにいるべき存在なのだ。だから触れてはいけないのだ」と言っているのです(απτου現在の命令形)。そういうわけで、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止なのです。確認のためとかイエス様が許可するのでなければ、むやみに触れてはならない、ということなのです。

 神聖な復活の体を持って立っているイエス様。それを地上の体のまますがりつくマリア。本当は相いれない二つのものが抱きしめ、抱きしめられている、とても奇妙な光景です。そこには、かつて旧約の時代にモーセやイザヤが神聖な神を目前にして感じた危険はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだ、と言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。感動的な場面です。イエス様は、今マリアは地上の体ではいるが、自分を救い主として信じている以上、復活の日に復活の体を持つ者になるとわかっていたのでしょう。イエス様の次の言葉から、そのことが窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。イエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられる道が開かれたのである。」

 

4.

 兄弟姉妹の皆さん、今日は復活祭です。イエス様の復活を通して、私たちにも復活の道が開かれました。イエス様が復活の初穂ならば、私たちはそれに続いて実を実らせる穂です。イエス様は有名な種まき人のたとえの中で、良い土地に蒔かれた種はしっかり成長して、30倍、60倍、100倍の実を実らせると教えました。

 十字架の贖いの業のゆえにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様と結びつく者は、

神の意思に照らせばまだ自分に罪が宿ることを思い知らされつつも、

その度に十字架の主に心の目を向けて、罪の赦しが揺るがないことを繰り返し覚え、

神に対する感謝の念を新たにし、本当に神の意思に沿うように生きようと志向する。

この時、私たちは良い土地に蒔かれた種であり、「罪の赦しの救い」から絶えず栄養を受けて成長していて、やがて30倍、60倍、100倍と実を結び、初穂のイエス様に続いて、復活の日に復活するのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン


主日礼拝説教 復活祭
2016年3月27日 聖書日課 出エジプト15章1節-11節、第一コリント15章21節-28節、ヨハネ20章1-18節

聖金曜日礼拝の説教「我らが立ち返るべき原点」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書 19章17-30節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は、当時最も残酷な処刑法でした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の面前に高々と晒すというものでした。イエス様は、十字架に打ち付けられる前に既に、ローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が打ち付けられることになる十字架の材木を処刑場まで自ら担いで歩かされました。これは途中で通りがかりの人が手伝わされることになりましたが、イエス様の体力は本当に限界だったでしょう。そして、やっとたどり着いたところで痛ましい釘打ちが始まりました。数多くの宗教画に描かれた十字架のイエス様は、釘を打ちつけられた手足から血を流し、血の気を失った体は全体的に色白な感じのものが多かったように思われます。しかし、兵隊たちから暴行を受けた後ですので、本当は全身血まみれだったのでしょう。2004年に公開されたアメリカの映画で「キリストの受難Passion of the Christ」というのがあって、残酷なシーンが多くて世界中で話題になりました。実際はあれくらいのことが起こったのでしょう。とにかく、一連の出来事は、一般に言う「受難」という短い言葉では言い尽くせない多くの苦痛や激痛で満ちています。

イエス様の両脇には二人の本当の犯罪人が十字架に打ち付けられていました。何も罪を犯していないイエス様は、極悪人の扱いを受けたのです。十字架の近くでは、人間の痛みや苦しみに全く無関心な兵隊たちが手持ちぶさたそうにして、処刑者たちが息を引き取るのを待っています。こともあろうに、彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始めました。十字架の周りを大勢の群衆が見守っています。近くの街道を通る人たちも立ち止って様子を窺います。そのほとんどの者は、イエス様に嘲笑を浴びせかけました。ユダヤ民族の解放者のように振る舞いながら、なんだ、あのざまは、なんと期待外れな男だったか、と。もちろん群衆の中には、イエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、苦痛と激痛とかすれていく意識の中でイエス様が目にした光景でした。

そのような苦痛と激痛の中にありながらイエス様は、自分にこのような仕打ちをする者たちにも赦しが与えられるようにと神に祈りました(ルカ23章34節)。また、隣の十字架にかけられた犯罪人がイエス様に罪を告白して自分の全てを委ねた時、イエス様はその人に永遠の命を与えました(ルカ23章43節)。そして最後に、愛する弟子の一人に母マリアを引き取って世話をするように命じました。このようにイエス様は力尽きる最後の最後まで愛を実践することを怠りませんでした。

さて、このイエス様の悲惨な十字架の死は、一体何だったのでしょうか?言うまでもなく、十字架はキリスト信仰のシンボルになっています。キリスト教会に掲げられた十字架、礼拝堂の正面に飾られた十字架、そういうシンボルとしての十字架はただ単に、イエス様が十字架にかけられて死んだという見かけの出来事を伝えるだけのものではありません。シンボルとしての十字架は、見かけの出来事の背後にそびえる大いなる真実を象徴しています。その大いなる真実とは何か?それは、イエス様が十字架の上で死なれたことで逆に人間が救われる道が開かれたということです。この人間の救いを十字架は象徴しているのです。「人間が救われる」と言う時の「人間」とは、欧米人だろうがアジア人だろうがアフリカ人だろうが、とにかく人間なら誰でも救われる道が開かれたということです。

それでは、どうしてイエス様が十字架で死なれたことが、人間が救われる道を開くことになったのでしょうか?そもそも、「救い」とは何から救われることを意味するのでしょうか?そうした疑問を明らかにする最初の手掛かりとして、本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書の箇所がちょうどよいでしょう。

イザヤ書52章13節から53章12節までの箇所は、明らかにイエス様の受難と死の出来事を指しているとわかります。そこでは、彼の受難と死の目的について詳しく述べられています。(ところで、この預言の言葉が紀元前700年代に由来すると見てよいのか、それとも紀元前500年代に由来するかについては、キリスト信仰者の間でも議論されるところではあります。しかし、いずれにしてもイエス様が歴史の舞台に登場する数百年前に由来することは否定できないのです。)それでは、イザヤ書53章から、イエス様の受難と死の目的がなんであったかを見てみましょう。

イエス様が「担ったのはわたしたちの病」であり、「彼が負ったのはわたしたちの痛み」でした(53章4節)。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」でした(同5節)。なぜこのようなことが起きたかと言うと、それは、イエス様の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」るためでした(同5節)。神は、私たち人間の罪をすべてイエス様に負わせたのであり(同6節)、神に対する人間の背きのゆえに、イエス様は神の手にかかり、命ある者の地から断たれたのです(同8節)。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもなかった。それなのに、その墓は神に逆らう者と共にされた(同9節)。苦しむイエス様を打ち砕こうと主である神は望まれ、彼は自らを償いの捧げ物とした(同10節)。神の僕であるイエス様は、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」(同11節)。イエス様は、自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたが、実は、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのであった(同12節)。

以上から、イエス様が罪ある私たち人間のかわりに神から罰を受けて、苦しみ死んだことが明らかになります。それではなぜイエス様はそのような身代わりの死を遂げなければならなかったのでしょうか?私たち人間の一体何が神に対して落ち度があったというのでしょうか?多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った、と言われるが、私たちのどこが正しくないというのか?余計なお世話ではないか?また、イエス様の受けた傷によって、私たちが癒されるというのは、私たちが何か特別な病気を持っているということなのか?それは一体どんな病気なのか?いろんな疑問が生じてきます。結論から申しますと、聖書は、私たち人間が天と地と人間を造られた神の前に正しい者ではありえないこと、落ち度だらけの者であることを明らかにしています。しかも、イエス様の犠牲がなければ癒されない病気があることも明らかにしています。どういうことか、さらに見ていきましょう。

人間は、もともとは神聖な神の意思に適う良いものとして、神の手で造られました。しかし、創世記3章にあるように、「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、禁じられていたことをしてしまう。このように、自分の造り主である神と張り合いたいという傲慢な心を持ったことが原因で、人間は神に対して不従順になり、人間の内に罪が入り込んでしまうことになったのです。この結果、人間と造り主である神との結びつきが壊れ、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、神との平和な関係が失われてしまいました。

しかしながら、神は、人間に対して、身から出た錆だ、勝手にしろ、と冷たく見捨てることはしませんでした。正反対に、なんとか人間との結びつきを回復しようと考えたのです。ところが、人間と神の結びつきを回復出来るためには、人間を縛りつけて死ぬ存在にしている罪の力を無力にしなければならない。まさに人間を罪の奴隷状態から解放しなければならない。しかし、罪を内在化させている人間は、自分の力でそれを除去することはできず、罪の支配力を無力にする力もない。そこで、神が編み出した解決方法は次の如くでした。誰かに人間の罪を全部請け負ってもらおう。つまり、その誰かを全ての悪の犯人のように仕立てあげて呪われた状態にして、人間の全ての罪の罰を全部その者に受けさせるのだ。それこそ、罪の償いは全部済んだと言える位の罰をその者に下し尽くすのだ。人間は、このなされた償いを自分のものとして受け取ることで罪を赦された者となって、神との結びつきを回復させることができる。このような解決方法を神は考案したのです。

それでは、一体誰がこの身代わりの犠牲を引き受けるのか?一人の人間に内在している罪はその人を死なせるのに十分な力がある。それゆえ、人間の誰かに人類の罪全部を請け負わせることは不可能である。自分の分さえ背負いきれずに滅んでしまうだけなのだから。そうなれば、罪の重荷も汚れも持たない、純白で神聖な神のひとり子しか背負いきれる者はいない。それで、この重い役目を引き受ける者として神のひとり子イエス様に白羽の矢が当たったのでした。

さて、神のひとり子は歴史を超えた天の御国という無限が支配するところにおられます。その方が有限な人間の歴史状況に入って行くというのは、彼が神の形を捨てて、人間の形を取るということになります。いくら、罪を持たない者とはいえ、人間の体と心を持てば、痛みも苦しみもそれこそ人並みに感じられるようになります。まことに先ほど読んでいただいたヘブライ書の聖句にあるように、イエス様は「罪を犯されなかったが、あらゆる点においてわたしたちと同様に試練に遭われた」。それで「わたしたちの弱さに同情できる方」なのです(ヘブライ4章15節)。しかも、自分のあずかりしらない、自分以外の全ての人間の罪を請け負い、その罰がもたらす痛みと苦しみを受けなければならないのです。それをしなければ、人間は神との結びつきを回復するきっかけを持てないのです。

そうして、神のひとり子であるイエス様は、おとめマリアから肉体を受けて人となって、天の父なるみ神のもとから人間の具体的な歴史状況のなかに飛び込んできました。時は約2千年前、場所は現在パレスチナと呼ばれる地域、そして同地域に住むユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でした。このようにイエス様の身代わりの犠牲の役目が、人間の具体的な歴史状況の中で実施されたということはとても大事です。なぜなら、そうしないと、目撃者も証言者も生まれず、彼らが残すことになる記録も生まれません。ちゃんと証言や記録がなければ、同時代の人たちも後世の人たちも神の人間救済計画が実現したことを信じる手がかりがなくなってしまいます。天地創造の神がひとり子の身代わりの犠牲を歴史上の出来事として起こしたのには、ちゃんと理由があるのです。

ところで、ユダヤ民族というのは、天地創造の神の意思を記した神聖な書物、旧約聖書を託されていた民族でした。この神聖な書物の本当の趣旨は全人類の救いということでした。ところが、ユダヤ民族は自分たちの長い歴史の経験から、書物の趣旨を自民族の解放という自分たちの利害関心に結びつけて考えていました。これは旧約聖書の一面的な解釈でした。まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場し、神の意思について正しく教え始めました。また、無数の奇跡の業を行って、今の世が終わりを告げた時に出現する神の国とはどんな世界であるか、その一端を人々に垣間見せました。こうしたイエス様の活動は、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの反発と憎悪を生み出し、それがやがて彼の十字架刑をもたらしてしまうこととなりました。しかし、皮肉にもまさにそれが起きたおかげで、神のひとり子が人類の罪を請け負ってその罰を全部身代わりに引き受けるという、人間の罪の償いが具体的な形を取ることができたのでした。

このようなわけで、イエス様の十字架上の死というのは、人間の救いが完成したことを現しています。本来ならば、私たちに向けられるべき神の怒りや罰は全てイエス様に投げつけられました。さらに、人間を死ぬ存在に陥れていた罪は、神がイエス様と一緒に十字架の上で刺し貫いてしまったので、その人間を牛耳っていた力は粉砕されてしまいました。このようにして、神は人間救済計画をひとり子イエス様を用いて実現したのです。神はこの実現済みの救いを全ての人間に向けて、さぁ、受け取りなさい、と提供してくれているのです。そこで人間が、ああ、そうだったのか、イエス様の十字架の死は実は2000年後の今を生きる自分のためにもなされたんだ、とわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この「罪の赦しの救い」を受け取れて自分のものにすることができるのです。こうして神から罪の赦しを得た人は、神との結びつきが回復して、永遠の命に至る道の上に置かれて、その道を歩み始めるようになります。順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死んでも、その時は救い主が御手をもって御許に引き上げて下さり、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのです。

「罪の赦しの救い」を受け取った人は、心に大きな安心と平安を持つことができ、神にこれだけ愛を頂いたからには、自分もイエス様が教えられたように、神を全身全霊で愛そう、隣人を自分を愛するが如く愛そう、と志向し始めます。ところが、生きていくうちにそれはそう簡単なことではないと気づかされることがいろいろ出て来ます。この世というものは、神の意思に沿う生き方をできなくしてやろうという力に満ちているからです。とにかく現実の世界で生きていると、そういう力に絶えず直面します。特にあらゆることが混とんとしてしまったような現代では、そうでしょう。ですから、神の意思に沿う生き方に反対する力に遭遇したら、兎にも角にも聖書の御言葉に聞き、神に助けと導きを祈り求めなければなりません。私たちが、イエス様のゆえに、つまりイエス様の身代わりの死に免じて、罪を赦して下さい、と祈ると、神の方で、お前はわが子イエスを救い主として信じているな、と確認できます。そしてすかさず、「この罪はもう取沙汰しないから、心配しないで前に向かって進みなさい」と言って、私たちをまた祝福してこの世に送り出して下さいます。これが、先ほど読んでいただいたヘブライ書4章16節で言うところの、大胆に恵みの座に近づいて、時宜に適った助けを頂くことです。

キリスト信仰者は、もし神の前にへりくだって罪を告白すれば、神はイエス様の身代わりの死に免じて必ず赦して下さる、と知っています。しかしながら、それでも、赦しが得られるかどうか、確信が持てない時も出て来ます。祈っても祈っても苦難や困難から脱せられない時とか、また死が間近に迫った時、信仰者といえでも、果たして神は自分を御許に引き上るのに相応しいと見てくれているのだろうか、自分はまだ罪の汚れが残っているから見捨てられるのではないだろうか、と心配することがあります。そのような時は、ルターにならって、ゴルゴタの丘の十字架に心の目を向けるとよいでしょう。あそこに、首を垂れたイエス様がかかっている。あの方の肩には全世界の人々の罪が重くのしかかっている。私の罪もああして全部、あのお方の肩に貼りつけられている。このことを心の目で目撃できれば、罪の赦しは間違いなくある、どんな境遇にあっても神との結びつきはしっかり保たれている、と確信できるはずです。

十字架上のイエス様というのは、イエス様を救い主と信じて救いを既に受け取った者にとっては、絶えず立ち返るべき原点です。その人にとっては、残存する罪は、もはや死と罰に追いやる力はありません。逆に罪は、その人を絶えず十字架のもとに立ち返らせる契機に変わったのです。まだ救いを受け取っていない人たちにとっては、十字架は言うまでもなく目指すべき目的地です。目的地に到達するや否や、今度はそれは立ち返るべき原点にかわる、それが十字架上のイエス様であります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 聖金曜日
2016年3月25日 聖書日課 イザヤ52章13節-53章12節、ヘブライ4章14節-5章10節、ヨハネ19章17-30節

ヴィア・ドロローサ(キリストの受難の道)

 受難週の初めの日である「枝の主日」の今日、イエス様が辿った受難の道を教会音楽と聖書朗読で再現する音楽伝道礼拝「ヴィア・ドロローサ」を行いました。

 昨年これを始めた理由は、日本では受難週の時、特に聖金曜日が休日でないため礼拝に来られない人が多く、イエス様が十字架にかけられたことを深く心に留めることなくして、復活祭を迎えてしまう場合が多いのではないか。もし、そうだとイエス様の復活が私たち人間とどう関わり合いがあるのか明らかにならないのではないか、ということを心配したことがきっかけでした。それで、復活祭の前の日曜日である「枝の主日」の礼拝後に行うこととなりました。今年で二回目です。

 プログラムの内容は、エルサレムを巡礼するキリスト教徒が行うように、「立ち止まり地点」を14か所設けて、それぞれに音楽と聖書朗読を織り交ぜて、ゴルゴタの丘までの道のりを辿るというものです。今年は昨年に比べて、演奏楽器も増え、ソプラノ独唱も加わり、音楽性がぐっと高まりました。参加者の中からは、昨年同様、「イエス様の受難をとても身近に感じられた」、「イエス様が背負っていった人間の罪の重さから自分の罪を深く思いなおす機会になった」という声を頂きました。

 

説教「自民族中心主義を超える神の愛」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書19章28-48節

天におられる私たちの父なるみ神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                    アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.
 今年の四旬節も、もう「枝の主日」となりました。復活祭の前のこの主日が「枝の主日」と呼ばれるのは、イエス様が受難を受けることになるエルサレムにろばに乗って入城した時に、群衆が自分の服と木の枝を道に敷きつめたことに由来します。本日用いておりますルカ福音書では、群衆が道に敷いたのは衣服だけですが、マタイ福音書では衣服と木の枝(21章8節)、マルコ福音書では衣服と葉の付いた枝(11章8節)と少し詳しく記されています。ヨハネ福音書では、道に敷かれたことは言われていませんが、群衆がなつめやしの枝を持ってきたと記されています(12章13節)。いずれにしても、私たちは、今日から始まって聖金曜日を経て復活祭に至るこの1週間、約2000年前のエルサレムで起きた人類の救い主の受難の出来事について、聖書の御言葉をもとに思い起こし、彼がゴルゴタの丘の十字架まで歩んだ受難の道を心の中で辿らなければなりません。その意味で、本日礼拝後に当教会で行われる音楽伝道集会「ヴィア・ドロローサ(受難の道)」は、良い機会になると思います。

さて、ルカ以外の三つの福音書を見ると、ろばに乗ったイエス様がエルサレムに入城する時、群衆は「ホサナ」という歓呼の言葉を叫びます。これは、もともとは旧約聖書が書かれたヘブライ語で「ホーシーアーンナー(הושיעה-נע)」という言葉が、イエス様の時代のパレスチナで話されていたアラム語に訳されたものです(ホーシャーナーהישע-נא)。どちらも神に、救って下さいとお願いする意味がありましたが、古代イスラエルの伝統では、群衆が王を迎える時の歓呼の言葉としても使われていました。従って群衆は、子ろばに乗ったイエス様を王として迎えたのであります。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、子ろばに乗ってやってくるのです。

ロバ、イエス様CC 2.0 Waiting For The Word Palm Sunday 16 Artist: Bernard Plockhorst

 
またイエス様は、子ろばを連れてくるようにと弟子たちに命じた時、まだ誰もまたがっていないのを持ってくるようにと言いました。まだ誰にも乗られていない、つまりイエス様が乗るという目的に捧げられるという意味であり、もし既に誰かに乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ろばに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なもの、神の意思を実現するものと見なしたのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、一人子ろばに乗ってやってくるイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

 加えて、もう一つわかりにくいことがあります。それは、イエス様がエルサレムの町を見て泣いたことです。43-44節をみると、イエス様はエルサレムが破壊される日が来ることを預言しています。これは、本当にこの時から40年位後にローマ帝国の大軍が押し寄せてきて、その通りになってしまいました。イエス様は、こうなってしまうのは、エルサレムの人たちが「平和への道をわきまえていなかった」、また「神の訪れて下さる時をわきまえなかった」からだと言います。「平和への道をわきまえていなかった」とは、ギリシャ語原文を忠実にみると「平和に関することを何も理解していなかった」です。ここで言う「平和」とは、38節で群衆が「天には平和」と叫んでいる「平和」、つまり天地創造の神のもとにある平和です。罪ある人間には到達できない平和です。イエス様は、人々がそういう天にある平和について何もわかっていない、と言うのです。「神の訪れる時をわきまえなかった」というのも、ギリシャ語では「神の訪れる時をわからなかった」です。これも、自分のエルサレム入城はまさしく神のひとり子の訪れなのに、人々は何か勘違いをしている、というのです。一体、人々は「天の平和」やイエス様の入城をどう誤解していたのか?そして、勘違いや誤解が原因でどうしてエルサレムが破壊されることになるのか?

以上のように、本日の箇所は一読すると、ふんふん、なるほどと出来事の流れだけはわかったような感じになりますが、本当は何が起きていたのかを理解しようとすると難しい箇所なのです。以下これらのことを明らかにしてまいりましょう。

2.
 このイエス様の子ろばに乗った神聖な行為は、本日の旧約の日課であるゼカリヤ書にある預言の成就を意味しました。ゼカリヤ書9章9-10節には、来るべきメシア、救世主の到来について次のように預言していました。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ロバの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」

 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原語のヘブライ語の文を忠実にみると「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現できる者です。(私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって、神から義を与えられて、義なる者とされます。)「勝利に満ちた者」というのは、今引用した箇所から明らかなように、神の力を受けて世界から軍事力を無力化し、天のみ神のもとにある平和を確立する者です。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことをする者が、大軍隊の元帥のように威風堂々とやってくるのではなく、子ろばに乗ってやってくることです。イエス様が弟子たちに子ろばを連れてくるように命じたのは、このゼカリア書の壮大な預言を実現する第一弾だったのです。

 「神の神聖な意志を体現した義なる者」が「へりくだった」態度をもって、全世界を神の意志に従わせて神の平和をもたらすという預言はイザヤ書11章1-10節にも記されています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」

「狼は小羊と宿り」というところから始まる部分は、危険や害悪が全くない、全てが神に守られている世界が到来することを預言しています。これはもう今私たちがいるこの世の世界ではありません。今の世の後に到来する新しい世の世界です。今の世が新しい世に取って代わる時に裁きを行う者が現れる。それが「エッサイの根」と呼ばれる者ですが、これは何者かというと、エッサイはダビデの父親の名前です。つまり、ダビデ王の家系に属する者ということで、イエス・キリストを指します。今の世が終わりを告げて、全てのものが神の神聖な意志に従う新しい世が到来する。その時、誰が新しい世の世界に受け入れられるか、それをイエス・キリストが判断を下すというのであります。

このように、子ろばに乗ってエルサレムに入城するというのは、まさに、今の世が新しい世に取って代わるという預言された大事業をイエス様が担って、それを預言にある手順を踏みながら進めているのです。それでは、この大事業は、イエス様によってどのように進められていったのでしょうか?

3.
 この大事業は実は、当時のユダヤ人にとって理解をはるかに超えるものでした。旧約聖書を読んでいたのに、なぜ彼らは理解できなかったのでしょうか?それは、彼らにとって、ダビデ王の末裔が新しい国を打ち立てるという旧約の預言は、なによりもローマ帝国の支配を打ち破ってイスラエルの王国を再興するということを意味していたのです。このような期待には、今の世が新しい世に取って代わるということは必ずしも視野に入っていません。再興される王国は、今の世の中にあるからです。
他方では、イザヤ書65章17-20節や66章22節とかダニエル書12章1-3節を見ると(他にゼカリア14章7節、ヨエル3章4節など)、今のこの世が終わりを告げて今ある天と地に替わって新しい天と地が創造され、死者の復活が起きるという預言があり、これに注目した人たちもいました。その場合は、ダビデ王の末裔が君臨する王国とは、今のこの世のものではなく、新しい世の王国と理解されました。

さて、今のこの世の中に樹立される王国であれ、新しい世に現れる超越的な国であれ、どっちをとっても、当時の人々は、ユダヤ民族の国が再興されるというイメージでいたことに変わりはありませんでした。先ほど見たゼカリア書9章の他に、ゼカリア書14章やイザヤ書2章にも、世界の国々の軍事力が無力化されて、神の力を思い知った諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言があります。それだけを見ると、再興したユダヤ民族の国家が勝利者として全世界に大号令をかけるという理解が生まれます。しかしながら、これは旧約聖書の一面的すぎる理解でした。旧約聖書の奥義は、こういう一民族中心主義を超えたところにあるのであり、イエス様が担った大事業はもっと普遍的なことに関わるものだったのです。そのイエス様がエルサレムに乗り込めば、そこでユダヤ民族の宗教指導者たちと真っ向から衝突するのは火を見るより明らかでした。この衝突がエスカレートして、イエス様は逮捕され、迫害され、十字架刑に処せられます。宗教指導層がイエス様を生かしてはおけないと考えるに至った理由は以下のようなものでした。

まず、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章に出てくる、この世が終りを告げる時に現れる救世主「人の子」であると公言していたことがありました。つまり自分を神に並ぶ者とし、さらにはもっと直接に自分を神の子と言っている。これは、宗教指導層にとっては神に対する冒涜以外の何ものでもありませんでした。しかし、イエス様は、本当に神のひとり子だったのです。

 もう一つの理由は、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王として立ち振る舞ったことも問題視されました。そんなことをすれば、ユダヤ地域を占領しているローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせることになってしまいます。宗教指導層としては、ユダヤは占領されてはいるが安逸を得られ、エルサレムの神殿を中心とする宗教システムも機能している。それなのに、イエスに好き勝手をさせたら、ローマ帝国の軍事介入を招いてしまう、と危惧したのです。

 さらに、宗教指導層の憎悪に油を注いだのが、本日の福音書の箇所にもある神殿からの商人の追い出しでした。宗教指導層は、現行の神殿が旧約に記された神の意思を実現していると考えていました。商人たちも、神殿での礼拝をスムーズにするために生け贄用の鳩を売ったり、各国から来る参拝者のために両替をしていました。しかし、神のひとり子イエス様からみれば、現行の神殿は神の意思の実現からはほど遠いものでした。イザヤ書56章7節の預言「私の家(神殿)は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」からかけ離れていました。イエス様が商人たちを叩き出した時、それは、ゼカリヤ書14章21節の預言「万軍の主の神殿に商人はいなくなる」を実現するものでした。しかし、商人の追い出しは、現行の宗教システムに対するあからさまな挑戦と受け取られたのです。

イエス様は、神のひとり子ですから、旧約聖書に記された神の意思を正確にわかる者としてこの世に送られました。それにもかかわらず、わかっていないのにわかっているつもりの宗教指導層が彼を迫害し殺すために占領者の官憲に引き渡してしまったのです。そればかりか、それまでイエス様のことを、ただ自分たちの民族のスーパー・ヒーローだと祀り上げていた人々も、いざ彼が逮捕されると、直近の弟子たちから逃げ去り、群衆も背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男が民族の王国を再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。しかしこれは、旧約聖書を一面的にしか見ていなかったことによる理解不足でした。ところが、イエス様が十字架にかけられた後に、旧約聖書の奥義が全て事後的に理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。

4.
 イエス様が死から復活させられたことで、死を超えた永遠の命が存在すること、そしてその扉が人間に開かれたことが明らかになりました。神に最初に造られた人間アダムとエヴァが造り主に対して不従順になって罪を犯したために、人間は死ぬ存在になってしまいました。しかし、この堕罪のために閉ざされてしまっていた永遠の命への扉が開かれたのです。さあ、これで人間は死を超えた永遠の命を持つことが出来るでしょうか?ここで起きる疑問は、人間が死を超えられなくなってしまったもともとの原因である神への不従順と罪の問題はどう解決できるのか、ということです。

それが、解決しているのです。正確に言えば、解決してもらっているのです。どうやって?それは、イエス様が十字架の上で、罪がもたらす神罰を全部人間に代わって引き受けて下さったことで解決しました。イエス様がこの私の罪の罰も全部代わりに引き受けて下さった、だからイエス様は私の救い主なのだ、そう信じて洗礼を受ければ、神はイエス様の犠牲に免じて罪を赦して下さいます。このように神から罪を赦された者は、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。もう罪と死がその人の運命を左右する力はありません。もちろん、罪と死が左右するように見えたり感じたりする時もあります。しかし、見えたり感じたりすること自体には本当の力はありません。私たちの運命を左右する本当の力は、ゴルゴタの丘の上に立てられた十字架にあります。その十字架に心の目を向ける時、私たちはその力に与れます。

イエス様の十字架の死と死からの復活が起きたことで、旧約聖書の奥義が次々と明らかになりました。例として、イザヤ53章に預言されている「神の僕」とはまさにイエス様のことを指していることが明らかになりました。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼がになったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(3-6節)

「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをなしたのはこの人であった。」(11-12節) 

 実に、イエス様の十字架の死と死からの復活は、ユダヤ民族であるかないかに関係なく、人類すべてに「罪の赦しの救い」をもたらしたのです。イエス様の神聖なエルサレム入城は、この救いの大事業の第一弾でした。今のこの世が終わって新しい世が到来する時に裁きを行うイエス様が現れるというのは、まだ先のことだったのです。それは、イエス様の再臨の時のことだったのです。天地創造の神を崇拝するようになった多くの民族の人たちがエルサレムに上ってくるという預言も、それはもはや地理上のエルサレムをささず、黙示録21章にある天上のエルサレムをさすのです。つまり、それは神の国です。こうしたことは、当時、歓呼の声をあげて付き従った人々も、エルサレムで衝突することになる人たちも誰もわかりませんでした。彼らはただ、自民族の宗教システムの温存が大事だったり、また自民族の解放と復興がもたらす平和が大事だったのです。それでイエス様に反対したり、逆に王に祀り上げたりしたのです。

このような自民族中心主義に縛られている限り破滅は避けられないということをイエス様はよくわかっていました。かと言って、十字架と復活が起きる前に「罪の赦しの救い」がもたらす平和など誰も理解できないこともわかっていました。また、十字架と復活が起きても、全ての者が理解するわけでなく、多くの者は自民族中心主義を続けてしまい、それがローマ帝国との衝突に至ってしまうことも。イエス様は、これらのことが全部わかって泣かれたのでした。

5.
以上、イエス様が子ろばにのってエルサレムに入城したというのは、人間救済という天地創造の神の一大事業の第一弾であったことが明らかになりました。この大事業は、旧約聖書を与えられて読んでいたはずのユダヤ人たちにとって理解を超えるものでした。でも、旧約聖書の奥義は、ユダヤ民族という一つの民族の思いを超えた、全人類にかかわるものでした。それが神の意思でした。イエス様は、神が送られたひとり子であるがゆえに、この神の意思を人間よりもご存知でした。そして、このひとり子は、神の意思を明らかにしただけではなく、それを身をもって実現したのです。
 私たちは、十字架と復活の出来事の後の時代を生きていますが、これはイエス様が再臨する時に終わりを告げ、新しい世にとってかわります。この二つの出来事の間の時代はまた、一方で、イエス様を救い主と信じて「罪の赦しの救い」を受け取って永遠の命に至る道を歩み始めた者と、他方で、そうでない者の二つに分かれる時代でもあります。神は、救いを全ての人間のために準備した以上、できるだけ多くの人がその受取人になってほしいというのが本心です。それゆえ、私たちキリスト信仰者は、隣人愛を実践する時にも、どうすれば隣人の心を人間の造り主であり贖い主である神に向けさせて、救いの受取人になれるようにしていけるか、ということに心を砕かなければなりません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 枝の主日
2016年3月20日の聖書日課 ゼカリア9章9-10節、フィリピ2章6-11節、ルカ19章28-48節

説教「何の権威によってか」木村長政 名誉牧師、ルカによる福音書20章1~19節

今日の聖書日課としては、20章9~19節までであります。ここには、イエス様が語られた「ぶどう園と農夫のたとえ」の話です。
このたとえの話を、イエス様が、どんな状況の中で語られているか、そのことを、まず十分知ることで、たとえの話の意味を知る重要なことであります。
それでは、そのたとえ話を語られた状況というのは、どういうところかといいますと、20章1~9節であります。1節を見ますと「イエスが神殿の境内で、民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが長老たちと一緒に近づいてきて、言った」とあります。今日の礼拝は、受難節であります。1~9節の出来事は、イエス様が十字架にかかられる3日前の出来事です。

 イエス様は、エルサレムの神殿で、過越の祭に集まってきている民衆に福音を教えておられた。マタイの記事の方では、この部分は書いていません。しかしルカは「世界に向けた福音宣教」のことが、イエス様の使命であったことが重要なこととして、しっかりと書いているのです。
 さて、そこへ、祭司長たち、律法学者、そして長老がイエス様の前に登場しました。
ここに登場してきましたのは、サンへドリンと言われる、いわゆるユダヤの最高議会を構成しているメンバーの、幹部の連中であります。この世で政治的な権力を持っている、プライドの高い連中であります。
 まず祭司長というのは、大祭司が選出される母体となる者たちです。普通、誰でもなれる者ではありません。先祖たちから受け継がれた、レビ族の伝統の中でつちかわれた、非常に宗教的プライドの高い人々です。この神殿のすべての管理と祭儀をとり行う任務を負っています。年に1度大切な祭りの最中であります。
 律法学者たちは、旧約聖書の律法の研究や解釈では、高い学識とプライドがあり、会堂で律法を教え、守るようにとりしまっている学者たちです。
 サンヘドリンの大部分の勢力を持っていたのは、サドカイ派といわれる党派でした。それに対抗して、パリサイ派といわれる派閥の長老たちです。
 普段は、いろいろな利害関係で対立しているグループの幹部が、今、一同に集まって、イエス様に対抗して、議論をしかけて来たわけです。
ですから、神殿において、ユダヤ今日の宗教の権威と議会と学者などの権威を総動員して、イエス様の宗教の権威と対立していると言ってもいいのであります。

 イエス様の側には、教えを熱心に聴こうと集まっている群衆がいます。
彼らは、エルサレム入城の時から、イエス様がろばに乗ってこられる、ホサナホサナと、民衆が、歓喜の叫びで迎えています。
ものすごい、人気が上がっているのです。
 サンヘドリンの議会や、ユダヤ教としては、この群衆が恐ろしいのであります。
暴動によって、何が起こるかわからない。この者を、排除してしまわなければならい、ち、ひそかな計画がすすめられているわけです。

 いつかは、正面と向き合って、対決することになるだろうということは、もうすでにあって、いよいよぶつかったのであります。
 長老たちは、イエス様に問いかけたのです。
「何の権威によって、これらの事をするのか」と。
「そうする権威を与えたのは、誰か」というのです。
 これらの事と彼らが言ったのは、前日に、イエス様が神殿で行われた宮清めのことを言っているのは、わかりきったことです。
 イエス様は前日、神殿で商売をしているものたちの台をひっくり返し、いけにえのやぎや、子羊や、はとを、追い払い、ものすごい怒りを爆発させて、宮清をされました。
「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と書いてあるのに、あなた方は、強盗の巣にした。
商売をしている者たち、そして、宮の管理をまかされていた祭司長たちが、このイエス様のいかりに対して、だまっていなかったのは当然でしょう。

 「誰の権威でやっているのか。」これに対して、イエス様は、すぐに直接に答え給わない。
まず、ではたずねるが、「バプテスマのヨハネは、天からのものだったか、それとも人からのものだったか。」彼らは、答えられなかった。
 そうして、イエス様は9節から19節にありますように「ブドウ園と農夫」のたとえ話を祭司長たち長老たち、そして群衆にも語られていったのであります。
 この譬話は、聞く人々にすぐわかるものでした。イエス様の時代、たびたび実際に起こっていた事件であったと思われます。
ぶどう園の主人は、農夫たちの反行に対して最後に、愛する息子を送ったのでありますが、その息子も、ぶどう園の外に、ほうり出して、殺してしまった。
15節には、「さて、ぶどう園の主人は、農夫たちを、どうするだろうか。戻ってきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を、ほかの人たちに与えるにちがいない。」
 つまり、ぶどう園の主人である神様は、農夫たちである祭司長たちを、皆、ほろぼし、異邦人の手に渡されて、神の御国の宣教は広げられていく、ということを予言しているわけであります。

 ルカは、この御言葉がどんなに深くたとえ話の聴衆の良心に食いこんだかを、描いたのです。
 彼らは自分たち自身に、神のさばきの判決が下されるのを知ったのです。
 このたとえ話は、イエス様が父なる神より遣わされた神の子であることを示すためであったのです。
イエス様が宮清めをされた、「これらの事をなす権威」は、だれによってだったか。
それは神御自身であることを明らかにされたのであります。

 17節以下~19節までをみますと「イエス様はさらに、旧約聖書詩篇118篇22節からの引用で建築家の話をされています。
17節「それでは、こう書いてあるのは何の意味か。家を建てる者の捨てた石。これが隅の親石となった。」その石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その意思がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。
言い換えますと、イスラエルの指導者たちに捨てられた石、つまり、イエス・キリストが隅のかしら石となるのだ。
神の民としての土台石となるのである。

 ダニエル書2章34~35節の言い直しで、この石であるキリストは滅びる者にとっては恐るべき破壊者であることを語っています。
 神様がキリストによって新しい神の民を起こすこと、そして古い民・イスラエルは、キリストにつまずき滅亡するのだ。とすでに予言で言われているということです。

 イエス様こそ、全人類の罪を負って隅の頭石となられた。
十字架の死を負って、復活し、今も生き給う、私たちの救い主であります。
アーメン。

人知では、とうていはかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守るように。