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フィンランドの有名なゴスペル・シンガーソングライター、ペッカ・シモヨキの「俺は二つの国の国民なのさ(Kahden maan kansalainen)」が聴けます!ここをクリック。
歌について、吉村宣教師の17日の説教の初めに触れられています。歌詞の訳は説教の後ろにあります。フィンランド国教会の堅信礼キャンプの定番の歌の一つなので、40代より若い世代のフィンランド人の多くには馴染みのある歌と言えます。
Tämä pieni maa jalkojen alla,Taivas suunnaton päällä päänOvat seuranneet koko matkani ajan. Tämä pieni maa kaikkiallaYstäväni on, tänne jään,Kunnes askeleet vievät yli viimeisen rajan. Jalat pidän mullassa maailman,Katseellani taivasta tavoitanTiedän minne matkaani tehdä saan,Olen kansalainen kahden maan Olen tuntenut tuulen tuoksun,Kuullut aaltojen pauhinanOlen nähnyt sen, kun sataa valkoista lunta Olen huomannut ajan juoksunNähnyt varjojen kasvavanMutta pelkää en; unelmani ei ole unta Jalat pidän mullassa maailman,Katseellani taivasta tavoitanTiedän minne matkaani tehdä saan,Olen kansalainen kahden maan Täällä työni teen, itken ja nauran,Raivaan peltoni, kynnän maanRauhan siemenen kylvän riitaan ja sotiin Kerran paikalleen lasken auran,Kerran viljani korjataanSilloin tiedän sen; olen tullut viimeinkin kotiin Jalat pidän mullassa maailman,Katseellani taivasta tavoitanTiedän minne matkaani tehdä saan,Olen kansalainen kahden maan
コリント第1、 7章 25-35 2019年3月10日(日)
今日の聖書は、コリント第1、 7章25~35節までです。パウロは、7章からずっと、結婚に関してのべてきました。そして、未婚の人たちについて、パウロは書いています。
ここで言っていることは、一言で「人は現状にとどまっているのがよい」というのです。
7章の結婚についての話が、25節から、又続いています。
25節からは、結婚前のおとめについて言っています。
ここでパウロは今までとは、少しちがった言い方をしています。
今までの言い方は、パウロは、自分がキリストの使徒であるとか、キリストの僕であるといって、福音の宣教者独特の「権威」を示そうとするのでした。
しかし、ここではそうではありません。
パウロは言います。「主のあわれみにより、信任を受けている者として、意見を述べよう。」
それは、これまでとは非常にちがっている。この問題については主のご命令は受けていない、と
いうのです。しかし、自分は主の信任を、そのあわれみのゆえに、いただいている。
これはちょっと注目すべきことでしょう。
主イエス・キリストは、おとめのことについて、なにもご命令を出しておられない、というのです。絶対にこうでなければならない、とは言っておられない、というのです。
しかし、自分は、主のあわれみによって、忠実な者とされている。だから、その立場から、こういうのである、というのです。
自分は忠実な者であるつもりだが、それも、自分がえらいのではなくて、主があわれみをもって、忠実な者にして下さった、というのであります。
だからここに書いてあることは、パウロの意見であるにちがいありません。ここのところを、もう少しくわしく、他の訳でいいますと、「主が、そのあわれみによって、必要な考えをお与え下さった」となっています。
いずれも主ご自身のお言葉ではない。しかし、主の賜ったお考え、主はこう思っておられるであろう、と言うことであります。
これは信仰の生活をしている者が、よく知っていることでしょう。
主は、あらゆることについて、ご命令をお出しになるわけではありません。
しかし私たちは、主のあわれみによって、主に忠実に従うことによって、主のご意見を承ることができるのではないでしょうか。恐らくこうかも知れないといった、あいまいなことでなく、ここにみ心がある、と思えるようになるのであります。
十戒のようないましめや、主ご自身の多くの言葉があります。しかし主は、どんな事についても、ご命令やご意見をお与えになっているわけではありません。それを記した聖書は、六法全書のようなものではありません。何かの時に、ここを見ればわかるというものではありません。しかし、聖書によって神のあわれみを知り、そのあわれみのみ心によって、主にある者として、なすべきことを知ることができるようになるのであります。
それでパウロは、ここに何を示しているのでしょうか。
まず基本的なこととして、「現在、迫っている危機のゆえに、人は現状にとどまっているがよい」ということです。
「現在迫っている危機のゆえに」ということはどういうことでしょう。
29章でも書いています。時は「縮まっている」と。
9
パウロがここで述べていることには、こういう考えがその底にあることを、見逃してはなりません。
現在迫っている危機というのが何か具体的なことは何も書いていません。
時が縮まっている、時が迫っている、というように、何か困難なことが目の前にある、ということではないでしょう。
これは信仰の話であります。
教会が出来はじめたころ、人々は、主イエスがもうまもなくやってこられる、終末待望の思いが熱くもえていました。
使徒行伝に書いてあるように、教会の人々は、財産を持ちよって、一種の、素朴な共産生活をした程であります。
パウロはそういうことに現れている信仰生活の意味を、語ろうとしていくのであります。
信仰生活というものは、人間の生き方の表面だけをなでるようなことをするのでなく、その根本にさかのぼって考え、それによって生きようというのです。 それは、例えば、人間の生活が死んで終わることを、ほんとうに知ることであります。
現在迫っている危機というのは、キリスト者であるがゆえに様々に受ける困難ということでもありましょう。信仰者がいつも見つめておらねばならない、人間としての危機ということでありましょう。
しかもそれは、死がある、というような、おどすようなことを言っているのではなく、私たちが、神のごらんになっているところで生きている、ということなのです。
この激しい人間の生活の中にあって、人の目を気にしながら生きるのでなくて、神の目をおそれて、生きるのであります。それであれば、人間の生活は、いつでも危機にさらされているようなものであることが、分かるのであります。
そういう中において生きるのは、現在にとどまっているということです。今、与えられているままを、神から与えられているものとして、生きるように、ということであります。
信仰生活というものは、誰よりも精進して生きる生活であります。それと同時に、今あるこの生活を、神から与えられたものとして、すべてを神に委ねた生活をすることである、ということです。
パウロの時代、もっとちがった問題もあったでしょう。
結婚について語る時も、彼はまずこの事を告げたかったのではないでしょうか。
パウロ自身は、すでに見てきましたように、どちらかと言えば独身でいることの方に関心があるようでありました。しかし、そのことを、しいて勧めようとはしないのでした。
基本的に大切なことは、キリスト者として守っていかねばならない、と思ったでありましょう。
だから、パウロの対する考えと言えば、結婚生活の中で、いかにして信仰を守りつづけるか、ということになるのではないかということです。
パウロはここで、結婚論を語っているわけではありません。教会内からの質問に答えつつ、いろいろな悩みがあるにもかかわらず、よい結婚が大きな祝福である、とまで説明しようとしません。
ただ27節、28節を見ますと、結婚することは罪になるでしょうか、ということが書かれています。恐らく質問者がきいていたからでしょう。それで28節に「おとめが結婚しても罪を犯すのではない。ただ、それらの人々はその身に苦難を受けるであろう。」と言っています。これが具体的な意見であります。
結婚ということは私たちの生涯をかけた大きな事であります。だれでもそれによって幸福を得たい
と願うのであります。それなのにパウロは、あっさりと率直に言っています。「結婚したらその身に苦難を受けるであろう。」だから独身がいいよ、と言いたげです。ある人は「結婚は人生の墓場である。」といったりもします。それらはみな、楽しい夢を見て結婚したのに、その楽しさは予想とちがってしまった、ということでしょう。
パウロはそういう意味で言っていません。又、同じようなことでありますが、家庭生活の苦労を考えて、結婚の苦しみを語ろうとします。
楽しい夢だけを追って、結婚しようとする若い人たちに、結婚が容易でないことを告げて、警告する人はいくらもあります。考えてもみて下さい。幼い頃から、全くちがった環境で育った二人が、結婚と同時に共同生活をすることには、困難があることは、誰でも分かるはずのことであります。パウロが特にどういうことを言おうとしたかは分かりません。
パウロは、ここでむしろ先に見ましたように「時が縮まっている」ことを強調しようとしています。
「今からは、妻のあるものは、ない者のように、泣く者は、泣かない者のように、喜ぶ者は、喜ばない者のように、買う者は、持たない者のように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜならこの世の有様は過ぎ去るからである。」と言っております。このことなら誰にも分かることのようでありながら、本当は、よく分からないのではないでしょうか。このことをだれも否定することはできない。そうしたことをしっかりと知っておかねばならない、と言いたいのではないでしょうか。
このように言う事は、悲観的なことを考えなさい、ということではありません。この世のことは、みな去り行く。しかし、去り行かないものがあるのであります。それをもととして、生きなければならないのであります。
それは神によって生きることであります。なぜなら、神によって生きる生活こそは、動くことのない、変ることのない生活だからであります。
パウロは決して、悲観的なことを言おうとするのではなくて、何としてでも、神によって生きて行ってほしい、神を喜び、神を楽しむ生活をしてほしい、と言いたいのであります。
結婚も又その1つの生活である、とパウロはいうのです。
それならば、そういう生活はどのようにして神を喜ばすのか、ということが大切になってきます。信仰生活というのは、神を喜び、神を喜ばせる生活であります。それは、結婚生活においても同様であります。むしろ、結婚生活においてこそ、これが問題になるのであります。
結婚生活において、自分だけの生活を何とか主張しようとすることは、もはや論外です。そういうことができるわけもありません。そうではなくて、いかにして、神をお喜ばせするか、ということこそ、もっとも大事なことであります。
それが又、結婚生活において、もっとも難しいことであることを、パウロはよく知っていました。
32節以下ー35節のところで大事なことは、思いわずらわない、ということです。
独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣う。結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣う。心が二つに分かれてしまいます。
今度は女性のことについても同じようなことを言っています。
独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣う。結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。
33節で「その心が分かれる」と言っています。心が分かれる、というのは、思いわずらうことです。
思いわずらうことは、最も不幸なことです。
パウロはこのように言ったあとで、35節に「このように私が言うのは、あなた方のためを思ってのことで、決して、あなた方を束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」と書いていますね。
とてもいい事を言っています。主なる神をお喜ばせする生活は、結婚生活をつまらなくするものではありません。神を喜ばせようとする者こそ、夫を喜ばせ、妻を喜ばせすることができるのであります。 アーメン・ハレルヤ
寒さも和らいだ穏やかな土曜日の午後、スオミ教会家庭料理クラブは「リンドストリョーム ピヒヴィ」「Lindströmin pihvi」を作りました。
Lindströmin pihviはひき肉とビーツで作るハンバーグで、フィンランドではポピュラーなお料理だそうです。
最初にお祈りをしてスタートです。
ハンバーグの材料に茹でたビーツのすりおろしを加え、スパイスや塩で味を整え、オーブンシートに小ぶりに形を整えてのばし、鉄板に乗せてオーブンで焼き上げます。
次は「フィンランド風ポテトサラダ」作りです皮ごと茹でたジャガイモの皮をむき、リンゴやピクルス、ネギを加え、マヨネーズで味付けして、大きなボウルが山盛りになりました。
最後にフルーツサラダも作り、試食会は始まりました。
パイヴィ先生からは、ビーツの栄養価やフィンランドでのビーツの思い出など聞かせて頂き、参加者からは、なじみの薄いビーツの扱い方など質問が続きました。
次に受難節のお話も分かりやすく聞かせて頂きました。
参加の皆様、お疲れさまでした。
次回の「スオミ教会家庭料理クラブ」はカルヤランピーラッカを予定しています。
フィンランドでは毎年、「今年のテーマの野菜」を選んで、多くの人がその野菜をもっと食べるようにとキャンペーンをします。それで、選ばれた野菜の料理のレシピや健康に役立つことなどが雑誌に書かれます。今年の「テーマの野菜」に選ばれたのは、根野菜でした。ピーツは根野菜の一つです。ピーツはフィンランドの食卓には昔からあった野菜でしたが、フィンランド人はビーツをあまり沢山食べないで、一人当り一年で800グラムしか食べません。ビーツは健康によいもので、ビタミンA,B,CとE,そしてミネラルも沢山含まれています。ビーツの料理をもっと作るようになれば、みんなの健康にもよいのです。
ビーツはフィンランドでは、もう1800年くらいから植えられるようになりました。最初それは教会の牧師館や学校の畑で育てられて、そこからフィンランド全国中に広がって、家庭の庭の畑でも育て始められました。それでビーツは、庭の畑で育てられる野菜の中で人気があるものの一つになりました。
私も子どもの頃、夏休みになる6月の初めにいつも母と一緒に野菜の畑を作って、ビーツの種も蒔きました。芽が出るまで3週間くらいかかりましたが、その間畑に出てくる雑草を抜き取らなければなりませんでした。雑草の中からビーツの芽を見分けるのは難しかったので、時々間違ってビーツの芽を抜き取ってしまいました。畑の掃除や水をやることは、子どもたちの仕事でした。8月になると、ビーツは十分大きくなって、採って茹でて、ビーツのサラダを作って食べました。
ピーツは寒さに強いですので、収穫は地面が凍ってからでも大丈夫です。冬に採ったビーツは家の地下室に置いておくと、春までよく保存します。
フィンランド人はどんなビーツの料理を作るでしょうか?最も一般的なものは、ビーツの甘酸っぱい酢漬けです。これはビーツを収穫した時に作るもので、一年中保存できます。酢漬けのビーツはそのまま食べてもいいし、料理の中に入れても大丈夫です。フィンランド人はビーツを今日のようにハンバーグの中に入れたり、スープやキャセロールやサラダなどにも入れて食べます。ビーツの料理には、注意しなければならないことがあります。まず、ビーツは茹でると中の赤い色が簡単に出てしまうので、皮のまま茹でることが大事です。生や茹でたビーツの赤い色は簡単にまな板などにつくので、料理を作る時に気をつけます。
今日作ったリンドストロョーム・ピヒヴィは、季節に関係なく一年中、学生食堂や家庭でも出される料理です。
ここで少し、キリスト教会の季節について少しお話したく思います。この前の水曜日から、受難節とか四旬節と呼ばれる期間に入りました。イースター・復活祭の準備の期間です。フィンランド語では、この期間は「断食の期間」と呼ばれます。これは、昔カトリック教会の時代の言い方が今でも続いているからです。もちろんフィンランド人はこの期間に断食をしませんが、それでも普段の食事にちょっと変化を与えることがあります。例えば、肉があまり入ってない料理を食べるとか、甘いお菓子を食べないということがあります。
この受難節とは、どんな意味でしょうか?。それは、イースター・復活祭の前の40日の間、イエス様が十字架につけられた苦しみを覚えて心の中で思いめぐらす期間のことです。イエス様は自分が受けることになる苦しみについて弟子たちや多くの人たちによく話されました。ご自分についてこのように言われました。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」ヨハネによる福音書10章11節です。「羊飼い」とはイエス様のこと、「羊」は私たち人間を意味します。良い羊飼いでいらっしゃるイエス様はどんな方でしょうか?イエス様は羊飼いのように私たち羊の番と世話をします。羊飼いが羊一匹一匹をよく知っているように、イエス様も私たち一人一人のことをよくご存じです。羊飼いが羊に名前を付けて呼ぶように、イエス様も私たちのことを名前で呼びます。私たちはイエス様の呼ぶ声を聞くでしょうか?イエス様は神様の御言葉を通して私たちに話しかけられるので、私たちのことを呼んでいるのです。
良い「羊飼い」でいらっしゃるイエス様は「羊」でいる私たちのためにご自分の命を捨てると言われました。それはどういうことでしょうか?イエス様は罪を持たない神様のひとり子でした。私たち人間は悪いことをしたり、しなくても考えたりします。イエス様は人間がこうした罪の罰を神様から受けないようにするために、自分を人間の身がわりとして十字架にかけられて死なれました。これが、イエス様が自分の命を捨てると言った意味です。このおかげで私たちの罪が全部赦されました。それで、この世の時にも、またこの世が終わった後でも、いつもずっと神様が私たちと一緒にいてくださることができるようになりました。神様が私たち人間のためにイエス様を送ってくださったということ。そこに現れている神様の人間に対する愛はどんなに大きな愛でしょうか?受難節は、イエス様が私たちのために命を捨てた「良い羊飼い」でおられることを心の中で思いめぐらすための期間です。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日はキリスト教会のカレンダーでは、1月に始まった顕現節が終わって、イースター・復活祭に向かう四旬節が始まる節目にあたります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという有名な出来事についてです。同じ出来事は、先ほど読んで頂いたルカ9章の他に、マルコ9章とマタイ17章にも記されています。マタイ17章2節とマルコ9章2節では、イエス様の姿が変わったことがギリシャ語で「変容させられた(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本日は「変容主日」とも呼ばれます。
少し教会史の話をしますと、かつてキリスト教会ではイースターの前の40日間は断食をするという伝統がありました。大体西暦300年代くらいに確立したと言われます。どれくらい厳密な断食だったのか、今でもそれを行っているところがあるかのかは調べていないのでわかりません。ことの始まりですが、イエス様のこの世の人生とは十字架の受難に備えるものだったということが重く受け止められた、それで特にイースターの前は彼の受難を身近なものとしようという趣旨だったようです。どうして40日かと言うと、イエス様が40日間荒野で悪魔から試練を受けた際、飲まず食わずだったことに由来します。40日の数え方ですが、間に来る6回の主日は断食日に含めなかったので、断食期間の開始日はさらに6日繰り上がり、イースターの前7週目の水曜日となりました。今度の水曜日です。それで本日は断食前の最後の主日、次主日は断食期間の最初の主日となります。私たちの礼拝でも、聖書の朗読ではいつもの「ハレルヤ唱」は唱えないで、重い感じの「詠歌」を唱えて、イエス様の受難を身近に感じるようにします。
話が少し脇道にそれますが、この断食の期間は普通、「四旬節」とか「受難節」とか呼ばれます。英語では「レント」です。面白いことにフィンランドやスウェーデンでは今でも文字通り「断食の期間」という言葉を使います。もちろん、両国ともルター派教会が主流の国なので、何か修行や業を積んで神に目をかけてもらうとか救いを頂くというような考えは全くありません。ルター派の基本は、人間の救いとはイエス様を救い主と信じる信仰にのみ基づくというものだからです。カトリック時代の呼び方が修正されずにそのまま今でも続いているということです。それでも、イエス様の受難を身近に感じることは大事なことと考えられています。例えば牧師の中には、この期間は嗜好物を遠ざけるとか、好きなテレビ番組を見ないようにするとか、何か当たり前の日常から少し自分を切り離すようなことを勧める牧師もいます。もちろん勧める時は、先ほど申したルター派の基本を確認しながらします。
話が脇道に逸れたついでに、フィンランドやスウェーデンでは、「断食の期間」に入る前1、2カ月位前からでしょうか、ラスキアイスプッラ/セムラと呼ばれる菓子パンが全国どこででも、パン屋でもスーパーでも喫茶店でも売られます。ちょっと鏡餅みたいな形をした焼きパンの間にジャムとこってりした生クリームをたっぷりサンドイッチした伝統的な菓子パンです。当スオミ教会の料理クラブでも作ったことがあるそうですが、これは「断食の期間」の前に少し贅沢に美味しいものを頂いて、あとは厳粛に過ごそうという趣旨のものだそうです。近年フィンランドやスウェーデンは教会離れ・聖書離れが急ピッチで進むご時世ですが、それでも「断食の期間」が始まると、この菓子パンは店頭からパタッと姿を消します。
四旬節の元にある断食の伝統の話から少し脱線してしまいました。早速、本日の御言葉の解き明かしに入りましょう。このイエス様の変容の出来事は幻想的であり劇的でもあります。出来事の場所となった山ですが、マタイやマルコの記述では「高い」山と言われます。マルコ8章27節をみると、イエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それから山の上の出来事までは大きな地理的な移動は述べられていません。それで、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と考えらえます。標高は2814メートルで、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ高さです。ただし、写真で見たヘルモン山ははなだらかで五竜岳のように急峻な感じはしませんでした。
さて、ヘルモン山の上で何が起こったでしょうか?イエス様がペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れてそこに登り、そこで祈っていると白く輝きだす。旧約聖書の偉大な預言者であるモーセとエリアが現れて、イエス様と話し合う。ペトロがイエス様とモーセとエリアのために「仮小屋」を三つ建てましょうと言った時、不思議な雲が現れて、その中から天地創造の神の声が轟きわたる。イエスは私が選んだ、私の愛する子である、彼の言うことを聞け、そう神は言います。その後すぐ雲は消えて、モーセとエリアの姿もなくなり、イエス様だけが立っておられました。周りの様子は、頂上に着いた時と同じに戻りました。
この個所を読まれて、皆さんはどう思われたでしょうか?そんなに難しいことは書いていない、書かれてあることは具体的ですぐ理解できると思われたのではないでしょうか?聖書にはこういう出来事が書かれているんだなとわかって、また一つ知識が増えました。でも、それで書かれていることが分かったことになるでしょうか?もちろん、いつ、どこで、だれが、なにを、どのようにという質問に答えられる位はわかります。しかし、この話は一体なんなのかということはまだわからないのではないでしょうか?モーセとエリアが出てきたのは何なのか?ペトロが言った仮小屋とは何のことか?なぜ三人に仮小屋が必要と考えたのか?さらに、雲が出てきたことや、神がイエスの言うことを聞けと言ったことは何なのか?こうしたことがわからないと、ただ書かれた字面を追うだけで終わってしまいます。
そういうわけで、これからこの謎めいた出来事を本日の聖句の解き明かしを通してわかるようにしていきたいと思います。
最初に、モーセとエリアが出現したことについてみてみましょう。二人とも旧約聖書の偉大な預言者です。遥か昔の時代の人物が突然現れたというのは、どういうことでしょうか?俗にいう幽霊でしょうか?モーセとエリアの出現をよりよく理解できるために、まず、人間は死んだらどうなるかということについて聖書が教えていることをおさらいします。聖書の観点では、人間はこの世を去ると、神の国に迎え入れられるかどうかの決定を受けます。ただし、その決定がなされるのは、イエス様が再臨してこの世が終わりを告げる時です。この世が終わりを告げるというのは、今ある天と地が新しい天と地にとって替わられるということです。神の国に迎え入れられるかどうかの決定は既に死んでいる者たちにも及ぶので、その時には死者の復活ということが起きます。そのようにして、迎え入れられるかどうかの決定がなされるのです。そうなると、先にこの世を去った人というのは、ルターが教えるように、復活の日が来るまで神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているということになります。イエス様も使徒パウロも、死んだ人のことを眠りについていると言っています(マルコ5章39節、ヨハネ11章11節、第一コリント15章18、20節)。
そうかと思えば聖書には、将来の復活の日を待たずして既に神の国に迎え入れられて、もう神の御許にいる者がいるという考えも見られます。ルターも、そのような者がいることを否定しませんでした。エリアとモーセは、その例と考えることができます。というのは、エリアは、列王記下2章にあるように、生きたまま神のもとに引き上げられたからです(11節)。モーセについては少し微妙です。本日の旧約の日課である申命記34章1ー12節に死んだとは記されていますが、彼を葬ったのは神自身で、葬られた場所は誰もわからないという、これまた謎めいた最後の遂げ方をしています(6節)。それでモーセの場合も、この世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしていないのではないか、ひょっとしたら復活の日を待たずして神の国に迎え入れられたのではないかと考えられます。まさに彼もエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られたからです。これはもう、幽霊などという代物ではありません。そもそも聖書の観点では、亡くなった人というのは原則として復活の日までは神のみぞ知る場所で安らかに眠るというのが筋です。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からのものではないので、私たちは一切関わりを持たないように注意しなければなりません。
次に、不思議な雲の出現についてみてみます。本日の箇所を注意して読むと、雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが、「仮小屋」を立てましょう、と言っている最中に出てきてしまうのですから。山登りする人はよくご存知ですが、高い山の頂上が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではありません。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲で、それを天地創造の神がこの出来事のために利用したと考えられます。
あるいは、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。その例は既に出エジプト記にあります。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を与えられた時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は、人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死ぬことになると言われます(18ー23節)。これが神聖な創造主の神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをよく覚えておかなければなりません。そういうわけで山の上の雲は、人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、同じようにペトロたちを守るものだっと言えます。
そこで本日の出来事の中心であるイエス様の変容について見てみます。29節で「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と記述されています。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語のプロソーポン(προσωπον)という言葉が下地にありますが、この言葉は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容は、イエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」ということです。マルコ9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。ルカ9章32節でイエス様が「栄光に輝く」と言われていますが、これは神の栄光です。この変容の場面で、イエス様は罪の汚れのない神聖な神の子としての本質をあらわしたのです。
「フィリピの信徒への手紙」2章の中に、最初のキリスト信仰者たちが唱えていた決まり文句を使徒パウロが引用して書いています。それによると、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6ー7節)。イエス様がもともとは神の身分を持つ方、神と同質の方であることが証しされています。「ヘブライ人への手紙」4章には、イエス様が「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)と言われ、この世に送られて人間と同じ者となったが、罪をもたないという神の性質を持ち続けたことが証されています。そういうわけで、ヘルモン山の上でイエス様に起きた変容は、まさに罪をもたない神の神聖さを持つというイエス様の本質を現わす出来事だったのです。
そうすると、イエス様はこの時、「雲」に乗ってモーセとエリアと一緒に天の父なるみ神のもとに帰ってもよかったのです。日本語訳では「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」(34節)とありますが、ギリシャ語原文を見ると、イエス様、モーセ、エリアの三人は雲の中に包まれていくというよりは、雲の中に入って行った、つまり雲の中に乗り込んで行ったというのが正確な意味です(後注)。その意味であの「雲」は、ひょっとしたらお迎えの「雲」だったかもしれないのです。それなのにイエス様は、私は行かなくてもいい、と言わんばかりに、せっかく乗りかけた「雲」から降りてしまって、何を好き好んでか、この地上に留まることを良しとすると決められました。なぜでしょうか?
それは、私たちも神の栄光を受けて輝くことができるようになって、いずれは神の御国に迎え入れられるようにするためでした。それをするためには、受難の道を歩んでゴルゴタの丘の十字架にかからなければならなかったのです。
人間は最初の人間の堕罪の出来事以来、罪を内に宿すことになって神の栄光を失ってしまいました。人間はこの罪の汚れを除去しない限り、自分の造り主である神から切り離された状態で生きることとなり、この世を去った後、自分の造り主のもとに戻ることができません。しかし、人間が罪を除去できるというのは、神の意志を100%体現した神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能です。そのことを使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」7章で明らかにしています。神の意志を現わす十戒の掟があるが、その掟は人間が救いを勝ち取るために満たすものというより、人間が神聖な神からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものです。イエス様も、「汝殺すなかれ」という掟について、ただ殺人を犯さなければ十分ということにはならない、兄弟を罵っても同罪だと教えました(マタイ5章21ー22節)。「姦淫するなかれ」という掟についても、行為に及ばなくても異性を淫らな目で見たら同罪と教えました(同27ー28節)。詩篇51篇のなかで、ダビデ王は神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。
そこで神は、それができない人間にかわって人間を罪から洗い清めてあげることにしました。神は、それを人間の罪を「赦す」ことで行いました。「赦す」というのは、罪をしてもいいとか許可するという意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪を忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまう方です。しかし人間も一緒に焼き尽くすことは望まれなかった。それでは、「赦す」ことが、いかにして人間の洗い清めになったのでしょうか?
神は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本当なら人間が背負うべき罪の罰を全部彼に背負わせて十字架の上で死なせました。つまり、神に対する罪の償いを全部イエス様にさせたのです。イエス様は、これ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲の生け贄になったのです。この犠牲のおかげで、人間が神罰や罪の束縛から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて、私たち人間の罪を赦す、不問にするとおっしゃるのです。それだけではありませんでした。神は、イエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命への扉を私たちに開いて下さいました。人間は、これらのことが自分のためになされたとわかり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、この神が準備した「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。
このように、イエス様が「雲」に乗って天の御国に帰らないで、地上に残られたのは、私たち人間が「罪の赦しの救い」という贈り物を受け取ることができるようにするためでした。この贈り物を受け取って、しっかり携えて生きることで、私たちも神の栄光を受けて輝くことができるようになれる。全身が輝くのは復活して御国に迎え入れられる時ですが、「救い」を受け取った段階で心の中が輝き出す、ということを使徒パウロは本日の使徒書の日課の中で言っています(第二コリント4章6節)。それで、この世を去る時が来ても、神に自分を委ねても大丈夫だ、神の方でもしっかり自分を受け取ってくれるのだ、とわかって委ねることができます。そのような確信に満ちた安心を私たちに与えて下さるためにイエス様は受難の道を歩んでゴルゴタの丘の十字架にかかられたのです。
ペトロが建てると言った「仮小屋」と雲の中から轟いた神の声についてもみてみましょう。「仮小屋」とは、原文のギリシャ語でスケーネーσκηνηと言い、それは旧約聖書に出てくる神に礼拝を捧げる「幕屋」と同じ言葉です。ペトロが建てると提案したスケーネーというのは、まさにイエス様とモーセとエリアに礼拝を捧げる場所のことでした。しかしながら、ペトロの提案には問題がありました。というのは、イエス様をモーセやエリアと同列に扱ってしまうからです。確かにモーセは、十戒をはじめ神の掟を神から人間に受け渡した預言者の筆頭格です。エリアも、迫害に屈せず生きざまを通して神の意志を公に表し続けた偉大な預言者です。しかし、イエス様は神の子そのものであり、神の意思である十戒そのものが完全に実現した状態の方です。また、預言者たちの預言したことが成就した方です。それなので人間と同等に扱ってはいけません。それに加えて、モーセやエリアにも幕屋を建てるというのは、彼らを神同様に礼拝を捧げる対象にしてしまいます。こうしたペトロの提案は、天地創造の神の一声で一蹴されてしまいました。「これは私が選んだ、私の子である。彼の言うことを聞け」と。
ペトロはどうしてイエス様をモーセとエリアと同格に扱ってしまったのでしょうか?一つ考えられるのは、三人がみな栄光に包まれていたことがあります。31節で、モーセとエリアが「栄光に包まれて現れ」と言われ、32節に「栄光に輝くイエス」と言われています。しかし、これもギリシャ語原文をよく注意してみると、モーセとエリアの場合は、栄光は自分たちから輝き出ているのではなく神からの栄光で輝かせてもらっていると理解できる表現です。イエス様の場合は、輝きが「彼自身の栄光」によるものとはっきり言う表現です。つまり神と同じように自ら輝く栄光を持っているということです(後注)。
弟子たちは、イエス様の変容の出来事を誰にも話しませんでした。マタイとマルコの記述によれば、イエス様が十字架と復活の出来事が起きるまで話してはならないと命じたと言われています。私が思うに、イエス様がかん口令を敷こうが敷くまいが、この出来事について弟子たちの驚きと混乱はかなりのものだったので整理がつくまでは話すことが難しかったのではないかと思われます。どうしてかと言うと、この出来事のおかげで、イエス様が何者であるか全くわからなくなってしまったからです。イエス様に付き従った人々は、直近の弟子たちも含めて、イエス様のことをユダヤ民族をローマ帝国の支配から解放して、全世界が天地創造の神に立ち返ってエルサレムの神殿にお参りに来るようにしてくれる、そういう民族解放の英雄と考えていました。どうしてそのように考えたかと言うと、旧約聖書の預言を自民族の夢や願望を通して解釈したからです。
ところが、ヘルモン山に登る前にイエス様は弟子たちに突然、自分の受難と復活について預言し、弟子たちはなんのことか理解できず混乱します(マタイ16章21ー23節)。山の上でもモーセとエリアはそのことについて話をしました(ルカ9章31節)。さらに、イエス様のことをモーセとエリアと同格な方と思った瞬間、それは違うと一蹴されてしまいました。これは一体何なのだ?一体これから何が起きるのか?イエス様が殺されてしまったら、民族解放と諸国民のへりくだりという世紀のプロジェクトはどうなってしまうのか?死から復活するなどと言われるが、それがプロジェクトと何の関係があるのか?ところが、天の父なるみ神が計画していた「解放」とは実は、人間の罪と死からの解放であり、それをひとり子を用いて実現したのでした。このことがわかるのは十字架と復活の出来事を待たなければなりませんでした。
さて、当時出来事の只中にあった弟子たちとは異なり、私たちはこれらのことを事後的に知っています。兄弟姉妹の皆さん、これから四旬節を迎える私たちは、イエス様の受難と復活をもう分り切ったことと教会の年中行事のように受け止めるのはやめましょう。今一度それを身近なものにしましょう。それを身近にすることで自分の命の立ち位置を確認できます。つまり、今の自分の命は、神のひとり子の犠牲の上に成り立っているとわかって、それは尊いもの、大事にしなければならないものとわかります。愚かなこと軽はずみなことは出来なくなります。では、どのようにしてイエス様の受難と復活を身近なものにするか?断食をするか?ここで注意しなければならないことは、私たちには神から与えられた立場やそれに伴う課題があるということです。それらをないがしろにするような「身近さ」の追い求めはいけません。断食をしても、日常の立場と課題をないがしろにしなければ良いのですが、それは実際には難しいのではないでしょうか?日常の立場や課題に取り組む時、今ある命は神のひとり子の犠牲の上に成り立っていることを普段以上に覚えて取り組めば、どこを目指して行けばよいかわかってきます。その時、立場や課題は神から与えられたものということもはっきりします。このような循環に入れる者はイエス様の受難と復活が身近になったと言うことが出来ます。
兄弟姉妹の皆さん、今の命がイエス様の犠牲の上に成り立っていることをよく覚えて今年の四旬節を迎えましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
後注(ギリシャ語が分かる人にです)
ルカ9章34節は、εντωεισελθειναυτουςειςτηννεφελενと言っているので、明らかに「雲が彼らを包む」ではなく、「彼らが雲の中に入る」です。
モーセとエリアの栄光については、οφθεντες εν δοξηと言い(31節)、イエス様の栄光については、την δοξαν αυτουと言っています(32節)。εν δοξηですが、イエス様に用いられるとεν τη δοξη αυτουなどとαυτουが付きます(マタイ25章31節)。
説教準備の終わりの段階になって、33節のδιαχωριζεσθαιがなぜ現在形でアオリストでないのかが気になりだしたのですが、時間切れでした。また次回に考えることにします。
主日礼拝説教 2019年2月24日顕現節第八主日
皆さんは、本日の福音書の個所を読まれて、どう思われたでしょうか?百人隊長の部下が重い病気で死にかかっていたのをイエス様が癒す奇跡を行ったことです。百人隊長というのは、当時ユダヤ民族を占領下に置いていたローマ帝国の軍隊の部隊の隊長です。名の通り百人の兵隊で構成される隊です。出来事の舞台はガリラヤ湖畔の町カファルナウムなので、そこに駐屯していた隊でしょう。日本語訳では「部下」ですが、兵隊ではなく、隊長の僕、召使いです。占領軍の将校である隊長はユダヤ人ではありません。しかし、興味深いことに、彼はユダヤ人に好意的です。礼拝堂を建ててあげるくらいユダヤ人を愛していたというのは、もう旧約聖書の神を信じていると言ってもいいかもしれません。使徒言行録に「神を畏れる人」とか「神をあがめる人」という、割礼を受けて改宗はしていないが天地創造の神を信じる人たちが多く登場します。百人隊長もその一人だったのでしょう。ユダヤ人と近い関係にあるので、ユダヤ人の長老たちをイエス様のもとに送りました。長老たちはイエス様に、百人隊長は助けてあげるのに相応しい人物だと推薦しました。
さらに興味深いことは、百人隊長がイエス様のことをとても畏れ多く感じていて、イエス様が家の近くまで来た時、友人たちを使いに出して自分に代わってイエス様に代弁させます。私の家はあなたをお迎えできるようなところではありません、だからと言って、私から外に出てあなたの面前に立つ資格もありません。どうしてそんなに畏れ多いのでしょうか?旧約聖書ではユダヤ民族が神に選ばれた民、その他の諸国民は「異邦人」という区別がみられます。占領されたとは言え、自分たちは神聖な民という自負があり、他の民族は汚れていると考えます。それで、旧約聖書の神を畏れるようになれば、ユダヤ民族に一目置くようになるだろうし、ましては、今や奇跡の業と権威ある教えで天下に名をとどろかせているイエス様には簡単には近づけないでしょう。
それでは、肝心の部下の癒しはどうなるでしょうか?百人隊長は使いの者たちに言わせます。あなたが今いる場所からひと言おっしゃって下さい。日本語訳では、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」つまり、あなたが今いる場所からひと言おっしゃてください、その場から奇跡の業を起こして下さい、ということになります。
やりとりの続きを見てみます。百人隊長の言葉は次のものでした。自分は上官の権威の下に置かれている者だが、同時に、自分の権威の下にも兵隊や部下がいる。彼らに「行け」と命じれば、言葉通りに行くし、「来い」と命じれば、その通りに来る、「これをしろ」と命じれば、その通りにする。これを聞いたイエス様は驚き感心して、これほどの信仰はイスラエルの中でさえ見たことがないと言われます。そして、使いの者たちが隊長の家に戻ると部下はすっかり元気になっていました。イエス様が特に癒しの言葉を発することなく、奇跡が起こったのです。
皆さんは、このイエス様の感心の言葉を聞いて、どう思われるでしょうか?命令したら有無を言わずに従う、そのように振る舞うことを信仰の見本と言っているのでしょうか?そうだとすると、なんだか教祖や教団指導者の言うことを何の疑いも躊躇もなく実行できることが大事で、出来たらご褒美として癒しや願いも叶えられると言っているみたいではないか?なんだかカルト集団のマインド・コントロールみたいではないか?そう気味悪がる人も出てくるのではないでしょうか?ところが、ここは目をよく見開いて読めば、信仰や宗教の名のもとに人間をロボット化することが言われているのでは全くないことがわかります。それでは、イエス様を感心させた百人隊長のこの言葉は一体何なのか?それを初めに見ていきたいと思います。
ルカ7章7節にある百人隊長の言葉は日本語訳では、「ひと言おっしゃてください。そして、わたしの僕をいやしてください」となっていました。前半の「ひと言おっしゃって下さい」はイエス様に対する命令文でギリシャ語原文もその通りですが、後半部分の「私の僕を癒して下さい」は注意が必要です。ギリシャ語原文では「僕を癒して下さい」などとイエス様に対する命令文ではありません。正確には、「私の僕が癒されんことを」とか「私の僕が癒されますように」という意味です(後注)。少し脇道に逸れますが、スウェーデン語訳の聖書はこれに沿った訳でした。英語とドイツ語とフィンランド語訳の聖書は、「ひと言おっしゃって下さい。そうすれば、私の僕は癒されるでしょう」でした。これはギリシャ語の文の訳としては正確ではないのですが、イエス様と百人隊長のやり取りにヘブライ語やアラム語の背景があることを考えると、この訳も可能性があります(後注)。ただし、ギリシャ語の文章をアラム語に逆翻訳するのはリスクを伴う解釈方法なので、ここはギリシャ語原文を素直に見ていきます。従って、「ひと言おっしゃってください。それで僕が癒されますように」です。
そうなると日本語訳のような、今いる場所から癒しの奇跡を行って下さい、その場所からなんとかして下さい、というイエス様に対するお願いはなくなります。イエス様に対するお願いは、「ひと言言葉をかけて下さい」に絞られます。言葉をかけた結果、癒しが起きますように、と天のみ神に委ねるのが後半部分の意味です。(マタイ8章8節にも百人隊長の言葉がありますが、ルカと少し違っています。しかし、本説教では違いがどうのこうのという話題に入らず、ルカに専念します。)
その次に百人隊長の命令と服従の話が来ます。これはマインドコントロールの模範例を述べているのではありません。命令に対して服従するのは、服従する者が命令する者の権威の下にあるからだという当たり前のことを言っています。それを言ったのは、イエス様が言葉を発すれば病気が治る、つまり、病気はイエス様の権威の下にあるということを明らかにするためです。このことは、イエス様が他の所でも行った奇跡も当てはまります。病気に治れと言えば治り、悪霊に出て行けと言えば出ていき、嵐に静まれと言えば静まる、こうしたことが起こるのは、あらゆることがイエス様の権威の下にあるということを百人隊長は証言しているのです。自分も軍隊組織の指揮系統の中で上位の権威の下にあるし、同じように自分の部下も自分の権威の下にある。だから、病気も悪も自然現象も含めて全てのものがイエス様の権威の下にあるというのはどういうことか、経験から身に染みてわかる。それで、イエス様が病気に対して何か言えば、その通りになる。イエス様の権威はそういうものだと信じていると述べたのです。
これは、まさに信仰告白です。百人隊長が告白した信仰は、イエス様を天地創造の神、全知全能の神と同一扱いする信仰と言ってよいでしょう。これに対して当時の人たちは、確かにイエス様が癒しの奇跡を行える方だと知っていて癒しを受けるために群がりましたが、彼らの理解はせいぜい、イエスは神から不思議な力を授けられた預言者というものでした。百人隊長は、軍隊での権威関係を比較対象にして、イエス様を天地創造の神、全知全能の神と同等に見なす信仰を言い表したのです。神から力を頂いて何かをするというのではなく、神そのものと見なしたのです。そこが他の人たちとの違いでした。イエス様が、イスラエルの民の間でもこんな信仰は見たことがないと言った意味はこれです。
以上のような次第で、百人隊長の命令と服従の話は、ロボット人間になることが優れた信仰の持ち主になることだとか、その褒美に癒しや奇跡をしてもらえるのだというようなことを述べているのではないことが明らかになったと思います。イエス様が全ての上に立つ権威を持つ方であることを信じて告白したのです。
ここで一つ疑問が起きます。百人隊長の場合は、信仰を告白して癒しの奇跡が起きました。イエス様を救い主と信じる私たちの場合はどうでしょうか?キリスト教の伝統的な信仰告白に従って、イエス様を神の子、メシア救世主であると信じて告白して重い病気が治るでしょうか?もちろん、治る場合もあるでしょう。治ったのが明らかに良い医療と治療が与えられた結果でも、キリスト信仰者は天地創造の神の導きがあったと考えます。信仰者でない人は、良い医療と治療が得られたことを神の導きなど出さないで、運が良かったとか医学の進歩のおかげとか言うでしょう。違う宗教の人ならば、その宗教の神とか教祖のおかげと言うかもしれないし、先祖の霊のおかげと言うかもしれません。キリスト信仰の場合、医学の進歩のおかげを認めても、神の導きのおかげで医学の進歩に与れたと考えます。さらに、良い医療と治療がなかったにもかかわらず、奇跡としかいいようがない仕方で治った例もあります。それらの中には、ひょっとしたら後になって医学的にメカニズムが解明できるものがあるかもしれません。その場合でも、神の導きのおかげと考えます。
そこで難しい問題になるのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きて祈っているにもかかわらず、願った結果が得られない場合です。そういう時、治った人には神の導きがあったのに、自分にはない、神は自分に背を向けているのか、という気持ちになります。さらには、じゃ、こっちを向いてくれるために何かしなければいけないのかという思いにとらわれることもあります。実はこの問題は本日の使徒書である「ガラテアの信徒の手紙」で扱われる問題に少し関係してきます。パウロが宣べ伝える福音と異なる「ほかの福音」というのは、神の目に義と見てもらえるためにはイエス様を救い主と信じる信仰だけでは不十分だ、律法の規定を守らなければそう見てもらえない、と教えるものでした。パウロはこの手紙の中で、神の目に義とされるのはやはり信仰によるのであると論証していきます。
パウロの教えに基づいて言うならば、キリスト信仰の真髄は次のようなものになります。イエス様の十字架の死によって人間の全ての罪の償いが神に対してなされたということ。それで人間はイエス様を救い主と信じる信仰によってこの罪の償いが生きたものとなり、罪が赦された者となって神の目に義とされるということ。こうして、神との結びつきを壊していた罪の問題が解決し、人間はその結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、神への感謝から愛する心を持って生きられるようになるということ。そして、この世を去った後は神のもとに永遠に戻ることができるようになるということ。これらに尽きます。罪の赦しの救いを受け取るためには、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して受け取りは完了。あとは、聖餐のパンと葡萄酒で受け取りを固めて信仰告白と祈りに生きていけばよいのです。救いは、このように受け取りに徹することで持てるものなので、何かをして褒美にもらえるというものではありません。
ところが、病気が治りますようにと、決して自分勝手なお祈りをしているわけではないのに願い通りにならないと、なぜ?という疑問が出てきます。イエス様を救い主と信じる信仰にいる限り、次の世まで神に守られて進んでいけるとわかっていても、なぜこんなに痛い思いをして苦しまなければいけないのか、なぜそれは延々と続くのだろう?そうことになると、「罪の赦しの救い」という救いは、現実の問題とどんな関連性があるのかと疑わざるを得なくなってきます。
私のある知り合いのキリスト信仰者が人生の大半をそのような苦しみの中で送られているのですが、ある時知り合いのクリスチャンに「あなたの苦しみは神の国に入れるために必要なことだ」と言われて疑問を抱いたとおっしゃっていました。確かにイエス様は各自は自分の十字架を背負いなさいと言ったので、その痛み苦しみがその方の十字架だと意味して言ったのでしょう。しかし、ここは注意が必要なところです。痛み苦しみは神の国に入れるための条件であるとか、そのためにしなければならない修行という意味だったら、それは違うでしょう。神の国に迎え入れられるためには、イエス様を救い主と信じる信仰以外に何の修行も業績もいらないというのがキリスト信仰だからです。そうすると、医療や治療や周りの人に支えられて出来る限り苦痛を取り除いて健康に近づけるように努めることは修行や十字架の否定にはなりません。まさに神の導きの中で行われるものです。苦しみそのものが背負うべき十字架ではなくて、苦しみを取り除くため健康に近づけるようになるための戦いが背負うべき十字架というのが正確でしょう。どんなに小さな助けや改善も神の導きの現れです。さらに、その人のために執り成しの祈りがなされれば、神に対してへりくだる心がこの世に一つ生まれることになります。この世で利己的な心と無関心が一つ減ることになります。これも神の導きです。
全てのことが神の導きの中で行われるということになるためには、イエス様を救い主と信じる信仰に留まって神との結びつきを保たなければなりません。それを保つことが出来るためには、自分はこの世を突き抜けて次の世まで至る神の導きの中にいるのだ、痛みや苦痛があっても神の導きや結びつきは微動だにせず、痛みや苦しみがあっても自分はそういうものに繋がっているのだ、と覚えることができないといけません。
そういうことを覚えられるためには、神の導きや結びつきは痛みや苦しみがあってもなくてもいつも身近にあるということを知らないといけません。痛みや苦しみが現実のものならば、神の導きと結びつきも同じくらい現実のもの、否、そっちの方が本当の現実と言えるくらいのものである、ということを知ることができないといけません。そういうことがわかるようになるのが信仰生活が目指すことではないかと思います。目には確かなものに見えるこの世の現実と確かなものに見えないが本当はもっと確かなものである神からの現実。この二つの現実の中で生きるのが、イエス様を救い主と信じて神の子とされた者たちの生きることではないかと思います。
そういうわけで私は、説教者の使命とは、神の導きと結びつきは本当の現実なんだということを聖書の御言葉の解き明かしを通して知らせることであると考えます。
神の導きと結びつきは本当の現実であると知らせるのが説教者の使命と申したのですが、本説教では肝心なこの知らせることをまだしていません。最初に百人隊長の信仰告白について述べて、次にこの使命を提起しただけです。それでこの知らせることをしなければいけません。本日の旧約の日課である列王記上8章の解き明かしを通してそれが出来るでしょうか?ちょっとやってみましょう。
列王記上8章はユダヤ民族の三代目の王ソロモンがエルサレムに神殿を建設して、そこで集まった国民の前で神に祈りを捧げる場面です。イエス様の時代からさらに1,000年程遡った昔のことです。22節から53節までが祈りの言葉です。いろいろな祈りがありますが、大まかに言うと、イスラエルの民が何か罪を犯して困難に陥ったら神殿で赦しを乞う祈りをしますので聞いてください、というものです。本日の日課の41ー43節は祈りの内容が他の祈りと違っていて、イスラエルの民でない別民族の者が神殿に来て祈ったら、それも聞き遂げて願いを叶えて下さいという祈りです。
このソロモンの長い祈りの中で興味深いことは、神に祈りを聞き遂げて下さいとお願いする時に、「あなたのお住まいである天にいまして耳を傾けて下さい」と繰り返し言っていることです。中には「あなたのお住まい」が省略されて「天にいまして」だけのものもありますが、全部で8回繰り返されます。本日の日課の中にもあります(43節)。8回のうち、30節にある最初のものが完全な文で、あとは「あなたのお住まい」がなかったり、前置詞が省略されていて完全な文ではありません(ヘブライ語の原文で見ています)。30節にある完全な文を見て、正確な意味をわかるようにしましょう。日本語訳の「あなたのお住まいである天にいまして」は正確な訳ではないと思います。というのは、祈りの初めのほうでソロモンは「天も天の天も神を納めることができない」と述べているからです(27節)。天に納まりきれない方がどうやって天を住まいに出来るのでしょうか?正確な意味は、「天の上にいまして、王座に座っていらして耳を傾けて下さい」です。「天の上」とは文字通り、天の上側です。天を下に見下ろすところです。つまり、神は天を超えたところにおられるのです(後注)。
天を超えたところとは、どこにあるのでしょうか?雲一つない青空を見て、神はあの青い広がりの向こうにおられると考えたとします。しかし、私たちは青い広がりの向こうには宇宙があると知っています。夜になって青い広がりが無数の星が散りばめられた透き通るような黒板に入れ替わります。あの中のどこに神はおられるのかと考えても意味がないでしょう。というのは、神のおられる天を超えたところとは、私たちの目で確認したり、数値・数式をもって計測・測定したりする宇宙空間とは全く別の世界だからです。ハヤブサ2号が3,4億キロ飛んで小惑星リュウグウに到達し、NASAのロケットは太陽系外の惑星を探し求めて飛び続けています。そのように目で確認でき計測や測定できる対象は常に拡大していきます。しかし、神のおられるところには実にあの透き通った黒板世界の上側と言っていいのか、外側と言っていいのか、反対側と言っていいのか、裏側と言っていいのかわかりませんが、超えているのです。
そんなところにおられる神のためになぜソロモンは神殿を建てたのでしょうか?ソロモン自身、神は地上には住めない、神殿など住む場所に値しない、と言ったではありませんか(8章27節)。それは、神に祈りを捧げるための場所であり、祈りを捧げる者が神の目に相応しくなるために罪の償いの儀式をする場所でした。それで神殿には神の像などないのです。像など作って置いたら、拝んでいるうちにその像が祈りを捧げる相手になってしまうでしょう。ところで、神殿の中には、「至聖所」と呼ばれる最も神聖な場所があり、そこは大祭司が年に一度、自分の罪と民全体の罪を償うために動物の生贄の血を携えて入ることが出来ました。「至聖所」はそれくらい神の神聖さに満ちて畏れ多すぎた場所でした。そこは、天を超えた世界と天の中にあるこの世界が遭遇する場所だったと言ってもいいでしょう。
しかしながら、神がこの世に贈られたひとり子イエス様の十字架上の犠牲の業がなされたために、神殿を通しての罪の償いは不用になりました。人間すべての罪の償いを、毎年捧げる動物の生贄の血なんかではなく、神聖な神のひとり子の流した血によって未来永劫に果たしてしまったのです。イエス様自身、御自分の十字架と復活の業の後に神殿ががれきの山になると預言していました。果たしてそれは西暦70年ローマ帝国の大軍がエルサレムを破壊した時にその通りになりました。それならば神はなぜ、不用になる神殿などを長い歴史の間認めていたのでしょうか?それは、「ヘブライ人への手紙」にも記されているように、将来イエス様を通して人間の罪からの贖いが完全に実現することを前もって模倣するものでした。現物に比べたらあまりにも小さな模倣でした。ユダヤ民族がそのようにすることで人間は大切なことを教わりました。それは、天地創造の神と結びつきを持てて見守ってもらうためには、自分の罪を覚えなければならないということと、それを何らかの形で償わなければならないことを教わったのです。人間と天地創造の神との関係はこういうものだということを。しかし、イエス様が完成品を出して下さったので、人間は神との結びつきと見守りを得るために小さな模倣品に頼る必要はなくなりました。
さらにイエス様は死から復活させられました。それで、死を超えた永遠の命に至る道が人間の目の前に切り開かれました。それは天地創造の神の御許に至る道です。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると早速この道に置かれて、神との結びつきと見守りのうちにこの道を進んでいきます。あの青い空を超えたところ、またはあの透き通る黒板を超えたところにおられる方が、本当なら神聖な御前に立つことなど許されなかった私たちなのに、まさにひとり子の十字架と復活の業おかげで、御前に立つに相応しいものにして下さった。そうなると私たちはもう既に、神のもとに迎え入れられたも同然です。このように私たちは言わば、御許への迎え入れを先取りしたような状態でこの世の道を進んでいます。それなので、神が私たちのことを見守って下さり、祈りを聞いて下さっているというのは本当としか言いようがなく、私たちにとって現実なのです。
後注)(ギリシャ語とヘブライ語とアラム語がわかる方にです) ルカ7章7節「私の僕が癒されんことを」とは、三人称単数の命令形のことです。ヘブライ語とアラム語の背景というのは、ヘブライ語のjussiv+imperfectの連結があると考えると、命令+目的・結果の意味になるということです。アラム語に同じものがあるのか確認したかったですが、手持ちの教科書はF. Rosenthalの薄いもので役に立たず、大学時代に使ったS. Stanislavの参考書は手元になく確認できません。列王記上8章30節は、H.S. Nybergの参考書(北欧で権威あるヘブライ語参考書)によれば、前置詞אלはעלと同じ意味で使われることがあるとのことでした。
手芸クラブは、月1回開かれています。
次回は、2月27日(水)10時から12時までです。作品はクローシェ網の「マイ帽子」です。クローシェ網の帽子は自分の好みで一色から何色でも作れます。冬用の帽子でしたら毛糸、夏用の帽子は綿糸で作ります。
素敵な帽子が出来ますので、お気軽にご参加ください。
持ち物: 毛糸か綿糸100g、色は好みです。糸に合うかぎ針
申し込み問い合わif.ye1758047463ls@ar1758047463umihs1758047463oy.iv1758047463iap1758047463 電話03-3362-1105 スオミ・キリスト教会
エレミア7章1-7節、第一コリント15章12-20節、ルカ6章37-49節
皆さんは、本日の福音書の個所を読んでどう思われたでしょうか?イエス様の教えはそんなに難しくない、歴史的背景の知識がなくても常識の範囲で理解できる、そう思われたのではないでしょうか?ちょっと見てみましょう。
「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうれば、あなたがなにも与えられる。あなたがたは自分の量る秤で量り返される。」
これらを聞いて、ああ、自分が何か悪いことをされても赦してあげれば、周りもそういう雰囲気になって自分が何か至らないことをしても赦してあげようという態度にみんななっていくんだな、そういう赦してあげようという雰囲気を生み出すためには自分から率先して行うべきなんだな、そう思われるのではないでしょうか?「与えなさい」というのも同じで、周りがケチケチせずに与える態度を持つようになるためにはまず自分から始めないといけないんだな、そんなふうに理解されるのではないでしょうか?
「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる」というのは、小麦粉を升にぎゅうぎゅうに押し込んで、さらにとんとんと叩いて隙間をなくしてたっぷりな量を与えるということです。私などこの個所を読むと、夏のフィンランドのマーケット広場での買い物を思い出します。イチゴやいろんなベリーをリットルかキログラム単位で買うのですが、リットルで買う時(もちろん、ぎゅうぎゅうに押し込むことはしません、潰れてしまいますので)、目の前で店員が升に山のように入れてくれて、上からボロボロ落ちてしまうと、またすくっては山にして落ちないうちにサッと袋に入れてくれます。ケチケチした感じがなくて、それこそ「持ってけ、どろぼー」みたいな気前良さで入れてくれます。日本ではイチゴはケースの中にお行儀よく並べられて一粒一粒ピカピカに輝いて貴重品のようで、フィンランドのように乱雑に扱えません。
さて、こちらが気前よく沢山与えたら、周りもそれに倣って同じようにしてくれるでしょうか?中にはケチな人もいて、こっちは気前良くしたのにそうしてくれず、こっちは損をするということはないでしょうか?同じように、裁かない、赦すということも、こちらが率先しても、みんながみんなそれに倣ってくれるかどうか。ひょっとしたら、心が狭くて同じようにしない人がいて、こちらが馬鹿をみるということが起きないでしょうか?
イエス様の教えを先に進んでみていきます。盲人が盲人の道案内をすることはできない、二人とも穴に落ちてしまう、これは当たり前すぎることではないでしょうか?弟子は師を超えるものではないが、師のように完全なものになれる、というのは、文章としては理解できますが、何か意味をのあることを言っているのでしょうか?新共同訳では「修行を積めば」と訳されていますが、ギリシャ語原文では単に「師のように完全になれる」とだけ言われているにすぎません。そのために何かプロセスを経ることが前提されていますが、それが「修行を積む」ことなのかどうかは決め手は何もありません。
続いて、兄弟の目の小さなゴミを気にするのなら、自分の目の丸太に気づけ、と教えます。もちろん、丸太が目に入るわけはありませんが、これを聞く人は皆、自分のことを棚に上げて他人の至らなさをとやかく言うのは丸太が目に入っているのに気がつかないくらい鈍感ということを思い知らされるでしょう。日本の道徳の教科書に取り入れていい教えかもしれません。
これに続いて、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶといういう教えが来ます。これは次に言われる人間の状態のたとえです。良い人間は心の良い倉から良いものを出し、悪い人間は心の悪い倉から悪いものを出す。「心の倉から出すもの」とは何か?その次に「人の口は心からあふれ出ることを語る」と言っているので、口から良い言葉や悪い言葉が出るのはそれぞれ心の状態を反映しているのだということになります。なんだか当たり前すぎて目新しい感じがしません。ノンクリスチャンが読んだら、なんだイエスなんて大したこと言わないな、世界にはもっと深いことを言う賢者が沢山いるのに、と思うかもしれません。
先に進みます。最後に来る教えが、二つの異なる家を建てる者のたとえです。イエス様の言葉を聞いてそれを行う者は嵐が来ても大丈夫な家を建てる人、言葉を聞いても行わない者は嵐が来て倒壊してしまう家を建てる人と言います。これはどういうことでしょうか?先ほどもみましたように、イエス様は、裁くな、赦せ、豊かに気前よく与えよ、他人の落ち度を取りざたする前に自分の落ち度を正しなさい、と教えました。もちろん、こちらが率先してこうしたことをしてみんなが見習ってくれたら言うことありません。しかし、こちらから謙虚に気前よくしても相手が同じようにしなかったらどうするのか?周りは赦すという態度を持っていないのに、こちらは赦す態度でいなければいけないというのは、どんなものか?そんなお人好しではつけあがられたり、弱みにつけこまれるだけではないだろうか?イエス様は何か倫理的な英雄になれ、とおっしゃっているのだろうか?そのように出来る者は嵐が来ても倒壊しない家を建てる者と同じと言われるが、周囲の無理解や悪意に晒されても気前良さとお人好し路線を続けられる強さを持てということなのか?そのような家はしっかりした土台の上に建てられていると言われるが、土台とはその人の強さのことなのか?一体だれがそんな強さを持てるのだろうか?イエス様は普通の人には無理なことをしろと教えているのでしょうか?
ここでイエス様の教えを詳しく見てみます。
新約聖書のギリシャ語の特徴の一つですが、受け身の文で「誰々によって」という言葉がない時は、大抵の場合それは「神」を意味しています。つまり、人を裁くな。そうすればあなたがたも神に裁かれることがない。人を罪人だと決めつけるな。そうすれば、あなたがたも神に罪人だと決めつけられることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも神から赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたも神から与えられる。あなたがたは自分の量る秤で神から量り返される。こういうことです。周りの人たちが同じようにしてくれるということではありません。
すると一つ疑問が起きてきます。神が私たちを裁かない、罪人に定めない、赦して下さる、与えて下さる、というのは、まず私たちが他人に対してそうできないといけません。でも、これはおかしくありませんか?キリスト信仰では、イエス様を救い主を信じる信仰によって神から罪の赦しを受けられると言っているではありませんか?特にルター派の場合、人間が神から罪の赦しを受けて神から裁かれないという意味での「救い」は何によると言ってましたか?人間の救いは人間の業績や達成に対する神のご褒美ではないと言っていたではありませんか?イエス様が十字架の上で人間の身代わりになって神罰を受けて死なれて、神に対して罪の償いを人間に代わってして下さった。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の犠牲のおかげの罪の赦しがその人にその通りになる、そういうことではなかったか?それなのに神から裁かれないためにしなければならないことがあるというのはどういうことか?このことについてルター派の張本人であるルターはどう教えているかを見てみましょう。彼の教えは「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」という聖句の解き明かしです(本説教の趣旨に沿うように解説的に訳すので付け加え等あります。)
「これは奇妙な教えだ。まるで神は、自分に仕えることよりも隣人に仕えることの方が肝要なことだと言っているように聞こえるからだ。お前の私に対する罪、私への反抗心、私の意志に反すること、それらはわが子イエスの犠牲に免じて赦してやる、もうお前を責め立てない、そう言って下さった。なのに、我々が隣人に対して悪く立ち振る舞うならば、神はもう、イエス様のおかげで我々が持てた神との和解を忘れて、罪の赦しを撤回すると言われるのだ。
ここで言う『自分の量る秤』とは何か?それは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになって持つことになった秤である。君はイエス様を救い主と信じるようになった時、どんなだったか思い出すがよい。神は、君の業績や達成をご覧になって君の罪を赦して君を受け入れたのではなかった。イエス様の犠牲のゆえに君に罪の赦しをお恵みとして与えて君を受け入れたのだ。神は君が罪を持ったまま御前にヘリ下って来るのを追い返したりせず、来るのをお許しになって罪の赦しをお恵みとして与えて下さったのだ。今神は君に次のように言われる。『お前も他の人々に同じようにせよ。そうしなければ、お前が他の人々にするのと同じことがお前にも起こることになる。もし他の人々に善意を示さなければ、私もお前に示さない。もし他の人々を見捨てたり裁いたりしたら、私もお前を見捨てて裁く。もし他の人々から取るばかりで与えなければ、私もお前から取り何も与えない。』
イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになると、我々の心に神の赦しの思いが芽生える。それは、我々自身が罪の赦しをお恵みとして頂いたからである。それだけではない。我々は信仰にあっても内に宿る罪が時として我々を驚かせ悲しませることがある。罪の赦しを頂くと今度は自分の罪に気づくようになる。罪の自覚が生まれるのである。しかし神は、自覚を持つ度に十字架のもとに立ち返る我々をあの時と変わらぬ恵み深さで迎えて受け入れて下さる。つまり我々はあの時と同じ罪の赦しを毎日携えて歩んでいるのだ。だから、神は我々がどう隣人に振る舞っているかをご覧になって、我々が罪の赦しをちゃんと携えているかどうか知ろうとされるのだ。神の赦しの思いを持てない者は、それをどこかに置き忘れてしまって、イエス様を救い主と信じる信仰がなくなってしまったことを暴露するのだ。」
ここからも明らかなように、キリスト信仰者が他人を赦すというのは、神から罪の赦しを頂いたことが出発点にあります。お前には神罰を下さないと神に言ってもらえる。この世の人生をまさに天地創造の神の見守りと導きのもとで生きられるようになり、この世の人生を終えた後はまさに自分の造り主である神の御許に迎え入れられる。このようなことが罪の赦しに付随してきた。こんな大きなことをして頂いたら、もう他人が自分に何か至らないことをしたとか言ったとかは大したことでなくなります。恨みや憎しみが自分から分離して色あせていきます。神がひとり子イエス様を用いてこんな大きなことをしてくれたというのは、私のことをそれくらい大事に見てくれたということです。それがわかると、神やイエス様がしなさいと言われることは、周りが見習ってくれるかどうかに関係なく行って当然のことになります。
事が日常生活の中のことであれば、赦すとか裁かないとか与えるというのは大変なことではないかもしれません。しかし、もし犯罪の被害者になってしまうとか日常の枠を超えるようなことが起きたらどうなるでしょうか?社会には法律があって刑罰や損害賠償について定められています。イエス様が赦せ与えよと言うから、下された判決に対して無罪にしていいとか、不当に取られたものはくれてやる、と言うべきでしょうか?もちろん、そうはならないでしょう。というのは、神の意志を表す十戒というものがあるからです。盗むな、殺すな、姦淫するな、偽証するな等々あります。裁くな、赦せ、与えよ、というのは、神の意志に反することが大手を振ってまかり通るようにしていいということではありません。じゃ、法律が関わるところでは、それらは無効なのか?難しいところですが、次のように考えたらどうでしょう。
それは、裁くな、赦せ、与えよ、というイエス様の教えがあるところとないところでは法律の見方が異なってくるのではないかということです。それがないところでは、目には目を歯には歯をという考えが支配的になるのではないでしょうか?あるいは気が納まらなくて目には目以上のものを求めるかもしれません。裁くな、赦せ、与えよがあると、社会において神の意志が破られないようにするのにはどんな規定や判決が妥当なのか、まさにそれらとつき合わせながら考えなければならなくなります。具体的にはどんなことがあるかここでは申し上げる余裕はありませんが、少なくとも目には目をということではなくなるのではないでしょうか?こうして見ると、法律や社会規範の形成に信仰も無視できない要因になってくると言うことができると思います。
キリスト信仰者というのは、現実にはいろいろな困難はあるが、「裁くな、赦せ、与えよ」ということを心掛けます。そうするのは、自分の造り主である神が本当にひとり子の犠牲も厭わないくらいに私を罪の支配下から救い上げて下さった、このことが大きなこととしてあるからです。先ほども申しましたように、罪の赦しを頂いてそれを携えていること、これが他の人々に対してもイエス様が教えたようにしようという心にします。イエス様を救い主と信じて生きる者が携えるのはこの「罪の赦し」の他に「復活の希望」もあります。復活の希望も、携えると「裁くな、赦せ、与えよ」を行う心に私たちをしていきます。このことを見ていきましょう。
復活の希望については、本日の使徒書の日課である第一コリント15章12-20節の中でも言われています。本説教ではそれに基づいてお話しします。
この個所で使徒パウロは、キリストは死者の中から復活した、とか、もしキリストが復活しなかったならば、とか、キリストの復活について6回繰り返します。そこで注意を引くのは、ギリシャ語の原文ではどれも動詞の現在完了形(εγηγερται)が用いられていることです。こんなことを言うと学校の英語の授業みたいで嫌だなと思われるかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了形の意味と英語のそれは違いがあるので、英語のことはすっかり忘れて大丈夫です。パウロはイエス様の「復活」を繰り返して言う時、なぜギリシャ語特有の過去形(ηγερθη、アオリストのことです)を使わないで現在完了形を使うのか?今日この個所について説教する人は原文を読んで気づくでしょう。原文を読まない人は参考書に指摘されて気づくでしょう。気づいたら、どういうことか考えなければなりません(参考書の人は答えがあるので、それを引用するだけですむのかもしれません。後注)
ギリシャ語の現在完了形の基本的な意味は、過去に何か出来事が起きて、その状態が現在も続いているということです。過去に起きた出来事が過去に埋もれてしまわないで現在も表面に出ているような感じです。それで考えると、パウロがイエス様の復活をそのように言ったのは、イエス様が復活されて今も生きておられるということを意味しているというのが一つ可能性として考えられます。使徒言行録に記されているように、イエス様は復活した後、40日間弟子たちと共にあり聖霊降臨の10日前に弟子たちの目の前で天の父なるみ神のもとに上げられました。そして今は、キリスト教会の伝統的な信仰告白に言われるように、父なるみ神の右に座して再臨する日まで信仰者を守り導き、その日が来たら眠りについている信仰者を目覚めさせて神の御国に迎え入れらます。再臨が起きる前の今は生きておられ、守り導かれているのです。
パウロがイエス様の復活を現在も続いている状態で言い表したのは、このようにイエス様が今生きて治められていることを意味しようとしたと考えられます。もちろん、それもあるのですが、私としてはそれだと今生きておられることが前面になって復活の出来事が背後になってしまうのが少し気がかりでした。私としては、復活ということも前面に出てくるのではないかと、この個所のことでずっと悩んできました。今回それがわかったと思います。どういうことかと言うと、イエス様の復活というのは彼個人の出来事にとどまらず、私たち自身の将来の復活を確実にする出来事であるということです。イエス様の復活は過去の出来事として過去に埋もれてしまうものではなく、私たちをも復活に向かって押し出していく、まさに今もある復活ということです。
そのことがわかるためにパウロが17節で、キリストの復活がなければ私たちは罪の中にとどまっていると言っていることに注意します。罪の赦しを頂いたにもかかわらず罪の中にとどまってしまうというのはどういうことか?それは、罪の赦しを頂いても復活に向かって進まなければ、ただ単に神聖な神の御前で罪の自覚を持つだけで行き場がなくなるということです。私たちが復活に向かって進めるのは、復活の見本が打ち立てられたからです。イエス様の復活が起きなかったら私たちはどこに向かって進んでいいのかわかりません。そういうわけで、キリストに希望を置くことがこの世と次の世の双方にまたがるような置き方でなく、この世でストップしてしまったら、とても重くつらくなります。「裁かない、赦す、与える」ことも、損することや不利になることが気になってできなくなります。パウロが言うように、最も惨めな人間になります。罪の自覚など持たずに生きた方が楽だと思うようになります。
さらに20節をみると、キリストは復活して眠りについている人たちの「初穂」となったと言われます。「初穂」とは面白い訳です。日本の宗教的な伝統では最初に実った稲の穂を神仏に捧げるものです。ギリシャ語の単語απαρχηはそういう神に捧げるものの意味もありますが、穀物だけに限りません。動物もあります。それで「初穂」は訳としては限定しすぎです。確かにイエス様は十字架の上で私たちのために犠牲になって神に捧げられたことがありますが、その捧げが眠りについた人たちとどう関係するのかがはっきりしません。
ところが、ギリシャ語の単語には「最初の者」という意味もあります。それでいくと、イエス様は死んで眠りについて復活させられた最初の者、復活の先駆者ということになり、罪の赦しを携えて眠りについた者たちは彼に続く者になります。まさに初穂に続く穂になります。その意味では「初穂」という訳は詩的な言葉です。皆さん、麦畑でも田んぼでもいいから思い浮かべて下さい。秋の澄み渡った空の下、最初に穂となったのがイエス様です。後に続いて一斉に黄金色になるのが私たちです。真にイエス様は私たちにとって「初穂」です。
以上のように、キリスト信仰者とは、罪の赦しと復活の希望の双方を携えて復活に向かって押し出されるようにこの世の人生を歩む者です。これがわかると、本日の福音書の当たり前すぎてよくわからなかった個所が次々とわかるようになります。盲人が盲人を道案内することは出来ないというのは、復活の主なくして、復活に至る道を歩むことはできないということです。ちゃんと道案内できる師が必要となる。それがイエス様です。十字架の上で私たちの罪を償って私たちに罪の赦しを整えて下さり、さらに死から復活されることで私たちを復活に向かって押し出して下さる方です。その師であるイエス様に弟子はまさらない、つまりキリスト信仰者はまさることはありません。これは当たり前です。誰もイエス様の十字架と復活の業に並ぶことは出来ないからです。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に生き、罪の赦しと復活の希望を携えていけば、復活の日に復活します。イエス様と同じになれる、つまり師と同じになれるのです。
自分の目の木材とは?罪の赦しを携えて生きる者が持つ罪の自覚のことです。自覚がないのはそれを携えていないからです。良い人が心に良い倉があって良いものを出すというのは、罪の赦しと復活の希望を携えていると、「裁くな、赦せ、与えよ」ということを行うのが当然という心になっていきます。それが良い人の心の中にある良い倉です。心から出てくるものは、行為に限られず、口にする言葉もそうであると言われます。
そしてイエス様の言われることを聞いて行う者は洪水にも耐えうる家を建てる者とは?洪水というのは、この世が終わりを告げ今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる終末の大変動を意味します。そのような大変動にあっても家が揺り動かされないで大丈夫というのは、復活させられて神の御国に迎え入れられることを意味します。「ヘブライ人の手紙」12章で、天と地が揺り動かされても唯一揺り動かされないものとして神の御国が現れるという預言があります。家がびくともしないですむその土台は何か?本説教の冒頭で考えたような、人間自身の強さではありません。罪の赦しと復活の希望がそれです。それが、家がしっかり立っていられる土台です。それを携えている者はみな、この世の人生を歩む時も、次の世に移行する際の大変動の時もしっかり守られていて何の心配もないのです。
兄弟姉妹の皆さん、本日の福音書の日課にはいろいろなことがありましたが、どれも捨てることなく解き明かしできました。父なるみ神に感謝です。
後注 ギリシャ語の現在完了はアオリストと同じように考えてもよいと言う人もいるかもしれません。私が勉強したJ. Blomqvist & P.O. Jastrup の教科書(スウェーデン語デンマーク語の二言語で書かれている)には、古典時代後には叙事文の中で現在完了がアオリストと同じ意味で使われる例も若干ある、などと書かれていました。第一コリントは16章21節から明らかなように、パウロが口述して書きとらせている手紙であることに注意しました。
顕現節第6主日 2019年2月10日(日)
「主によって、召された自由」
創世記 45:3~15
Ⅰコリント 7:17~24
ルカ 6:27~36
コリントの教会の信徒への手紙を、今回もいっしょに、みことばに聞いて参りましょう。今日は、7章17節ー24節までです。
パウロはこの手紙の中で、7章から、結婚に関する問題、男女の問題について書いています。そして、それは7章の終わりまで書いています。ところで、今日の17節から24節までは、少し話がちがうように思います。
普通に考えれば、話の中にちがうことを書き入れたのではないかと思う程です。
ここには、7章の結婚に関係することは書いてないからです。他の話を、取り込んだのであろう、という人もあります。
しかし、ここに書いてあることは何か、と言うと、パウロは、これまでの視点よりちがった方向から、大きく、広げて、そして、それらの基本的な点を述べていくのです。
人間、1人びとりの立場はどういうものであるか、ということにふれていきます。
ここでは、必ずしも、男と女の問題だけでなく、人間が生きていく、生活の仕方そのものにふれていく。今、自分がおかれている、この立場に立っていることは、何にもとづいているのか、ということであります。
私たちは、各々の生き方をしていますが、自分がこの位置に置かれているのは、何によるのでしょうか。それは、自分が希望したからそうなったのか、それとも、偶然のことであろうか。今の自分にあるのは、自分が望んでいたのか、と言うと、イヤちがう。或いは、又、どうして自分はこんな星のもとに生まれてきたのか、いろいろ考えたりもします。兄弟の中でのことや、自分の仕事について、もっと、あんな仕事をやりたかった、とか、境遇についても思いどおりにいかないことばかり、この世はそんなものです。
それなら、少しでも改善して、自分の希望するようにしたい、と願うでしょう。いろいろ努力してやってはみたが、結局はどうにもならない、何か大きな力で動かされているような気がして、自分がいかに小さい者であるか、無力な者でしかないと、思い知らされる。誰でも通る道ではないでしょうか。私たちの生き方は、これでいいのかと、深く考えます。何か、すっきりした道はないのか、と考えるのではないでしょうか。
教会に行ったことのある人なら、神のみ心はどこにあるのだろうか、と考えるにちがいない。神は自分をどうお考えになっているのだろうか。
特にパウロがここで語っています中に、もう1つ深刻な問題がありました。それは、割礼を受けることであります。この時代の教会の中で、どうしても考えなければならなかったでしょう。
信者になっても、割礼は受けなければならないものなのか。或は、むしろ、割礼のあとは、なくしてしまった方がいいのかどうか。
これらの事柄は、信仰に関係があることでした。したがって、自分の救いに、関係のあることでした。そのことは、結婚等とは比較にならない程、重要であったにちがいありません。
それなら、これらすべての事について、神の御心はどこにあるのでしょう。神はただ、人間のしたいようにさせておられるのか。それとも、はっきりした道があったのでしょうか。その答えが17節であります。
17節「おのおの、主から分け与えられた分に応じて、それぞれ、神の召された時の身分のままで歩みなさい。」そしてこれについては、すべての教会で、わたしが命じていることです。と言っています。
パウロは、ここに、すべての立場にいる者に与えられた道がある、と言っているのです。
このことは、信仰を抜きにして考えると、ただ、あるがままでいいのである。というように見えます。もしそうなら、最もだらしのないことになってしまいます。それなら、この中で、どこに神のみ心があらわれているのでありましょうか。
ここには二つの大事な事があります。
1つは、「各自は、主から賜った分に応じる」ということです。
もう1つは「召されたままの状態」ということです。召される、ということは、聖書の中で、最も重要なことの1つであります。それは、「召される」ということが、いつでも救いに関係があるからです。
「救われる」ということと、「召される」ということは、いつも深い関係があります。「召される」というのはお呼びになる、ということであります。
神が私たちをお呼びになる、というのは、召して、御自分のものとなさる、ということです。
それなら、召されるのは、神のものになる、ということになるのである、と思います。神のものになる、というのは、何でもないことのように思われるかも知れません。或は、ただ、信仰の話である、と考えられるかも知れません。
しかし、決してそんなに簡単なことではないのです。なぜなら、もし、神のもの、とされるのでなければ、私たちは、だれのものでありましょう。
「自分は、自分のものにきまってるよ」と、ふつうの人なら、言うでしょう。しかし、ほんとうに、そうでしょうか。自分は自分のものにちがいないが、そうすると、いかに頼りないことか。ということを痛感させられます。
ことに、大事な決心をしなければならないような時に、それがよくわかるのであります。自分が頼りないのであります。自分がどこにいるのかが、分からなくなります。
あちらを立てれば、こちらを立てることができないなんてことは、しばしばです。自分の立場がはっきり定まっていないのです。
そういう人間が、神に召されて、神のものとせられる、ということこそ、まことに救いではないでしょうか。今や、右を見たり、左のことを考えたりする必要はないのです。
神のものに、せられたのでありますから、それを自分の足場とすればいいのであります。そうでないと、結局、自分の欲望に引きずられてしまう、ということになるのではないでしょうか。
自分は、神から召されて、神のものとして、この新しい立場を与えられたのである、ということです。神から召されたことがはっきりした時、今の自分に与えられている仕事、家庭、友人、教会の人々、みんな、神から与えられたものであり、神のご用にある人間ということになります。
神が必要として、与えて下さっている人々、そして又、それがどんなに貧しい業であっても、或は人から見れば、何もないかのように思われても、神はお求めになっておられる、ということであります。そうであれば、割礼があっても、なくても、それは問題ではない、大事なのは、ただ神の戒めを守ることであります。とパウロはここで言っています。
イスラエルの民にとっては、割礼のことは大変大事なことがらなのです。割礼は、神が召してく、ださったしるしであって、それこそ、救いのしるしであると言わねばなりません。しかし、そこで大切なことは、神に召される、ということであります。割礼はただそのしるしでしかありません。
神のものとせられた、ということが大切なことになるのであります。
まことの割礼を受けること、私たちの場合は、洗礼を受けることにあたりましょう。今は、どこに属しているのでもなく、神に属しているのです。それならば、大事なことは、神に属する者らしくすることであります。
今や、信仰を持った私たちは、自分の奴隷でもない、全く自由にせられ、みな、神のものであります。
どの人間も、キリストによって救われたならば、神のもの、すなわち、神の奴隷、キリストの奴隷であります。しかし、このことを、ほんとうになかなかわかっていないのが私たちです。
そこで、パウロは、信仰の奥義を語ります。
「あなた方は、代価を払って買いとられたのだ。人の奴隷になってはいけない。」
おれはおれの好きなように生きるんだ。そうはいかない、代価をもって買いとられたのである。自然のままの人間ではないということであります。
代価を払って買いとられなければならないような状態にある、ということであります。
代価とはなんでしょう。それはキリストであります。キリストの死と復活であります。そういう代価を払わないでは、罪の奴隷をやめて、神の奴隷となり、神のものとなることは、とうていできることではありません。
こういうことが分かった時、はじめて、「兄弟たちよ、各自は、その召された状態で、神のみ前にいるべきである。」と言うことができるのであります。
人の前ではなく、神のみ前にいる自分、その時人は、はじめてほんとうの人になることができるからであります。
ある人が言いました。
<すべてのことは神の憐れみの中にいること。神の憐れみの中にいて、神様に「そうだよ、それでよろしい」と言ってくださることです。>
すばらしい生き方となるではありませんか。
アーメン・ハレルヤ
天気予報通りの雪の舞う寒い寒い土曜日の午後、家庭料理クラブは「ルーネベリのロールケーキ」を作りました。フィンランドの詩人ルーネベリが好物だったというルーネベリータルトをベースに、軽い味わいのロールケーキに仕上げました。
お祈りをしてスタートです。
最初に生地作り、焼いてる間に、こくのあるクリームを、そしてルーネベリタルトには欠かせないラズベリージャムも、ロールケーキ用に準備されました。
焼き上がった生地を冷ましてる間に、ヴォイレイパ作りと、テキパキ作業が進みます。
最後はとてもソフトな生地をロールケーキに仕上げます、ラズベリージャムとクリームを塗って巻き込み、アイシングで飾りつけをして、最後にカットして、ラズベリージャムとアイシングでアクセントを付けて完成しました。
試食会の楽しい会話も一段落した頃、パイヴィ先生から、ルーネベリタルトのお話や聖書のお話も聞かせていただきました。
寒い中のご参加お疲れさまでした。
フィンランドでは新年が終わったら、次にお祝いの日になるのは2月5日の「ルーネベリの日」です。この日は昔は休日でしたが、今はそうではなく、ただ国旗を掲げるだけの祝日です。それで新年が終わると、ルーネベリタルトがお店で売られるようになります。しかし、販売期間は短くて、せいぜい一ヶ月くらいです。
ルーネベリとはどんな人だったでしょうか?彼はフィンランドの有名な作家で、1804年に生まれました。詩や小説をたくさん書いて、彼の最も有名な詩「わが祖国」はフィンランドの国歌になりました。また、彼は教会のことも熱心で、60曲近い讃美歌の詩も書きました。
お祝いをするのが好きだったルーネベリは、50歳になってから毎年誕生日に大きなお祝いをしました。後に彼の誕生日である2月5日は、彼の記念日としてフィンランド全国で祝われるようになりました。彼の誕生日というよりは、フィンランドの文化の日として祝われます。オフィシャルなお祝いの会場でも家庭でも、ルーネベルイタルトが出されます。ルーネベリは小説や詩だけでなく、ルーネベルリタルトも残したと言うことができます。
ルーネベリは、この甘いお菓子を朝食で食べたくらい大好きだったそうです。このお菓子の始まりについては、いろいろな説があります。ある説によると、ルーネベリタルトはスイスで初めて作られて、そこからフィンランドのルーネベリが住んでいた町に伝わって、町の喫茶店で売られていたということです。ルーネベリはこのお菓子がとても気に入って、よく食べるようになったのが始まりだと言われています。ルーネベリは甘いお菓子が大好きだったので、奥さんのフレディリカもこのお菓子を作ったそうです。
現在、ルーネベリタルトのレシピはいろいろありますが、一番オーソドックスなものは、形が少し長めの円筒状で、上にのせるジャムはラズベリージャムです。レシピの面白いものの一つは、生地にピパルカックを入れるものです。クリスマスの期間に食べきれなかったピパルカックをつぶして生地の中に入れて、それで美味しいものが出来るのは素晴らしいことと思います。しかし最近の家庭はピパルカックを昔ほど沢山作らないので、つぶしたピパルカックの代わりにピパルカックのスパイスを入れるようになりました。もう一つルーネベリタルトの面白いことは同じ材料を使って、違う形のお菓子、ロールケーキが出来ることです。名前はルーネベリのロールケーキです。このように残ってしまったお菓子も上手に使って、新しくてもっと美味しいお菓子が出来て、国の記念日のお祝いに出されるようになったというのはとても不思議なことです。
旧約聖書のイザヤ書には次のような聖句があります。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか」(イザヤ書43章19節)。天の父なる神様は、人の目から見て価値がない、もう捨てるしかないと思われるものから新しい素晴らしいものを生み出される方です。ゼラニウムの花もそのことを思い出させてくれます。ゼラニウムは秋花が咲き終わってから、葉っぱも全部落ちて枯れてしまって、茎だけを残します。枯れてしまったゼラニウムの植木鉢はもう意味がない、捨ててしまおうと思われるかもしれません。ところがそうではないのです。枯れたゼラニウムの植木鉢を暗くて涼しい地下室に冬中置いておき、春になって地下室から出して暖かくて光があたるベランダに置きます。そうすると、最初は枯れた茎だけだったのが、しばらくすると新芽が出て育ち始め、やがては美しい花を咲かせます。このように一度捨てるしかないと思っていたものが、また育って花が咲くのはとても不思議に思えます。でもこれは、天の神様が成長を与えて下さるから起こるのです。
神様は、同じようなことを私たちにもしてくれます。私たちが自分のことを意味がない、価値がないと思ってしまう時は、私たちは暗い地下室に置かれているのと同じです。しかし、ゼラニウムを暗い地下室に置くのは、次の夏にきれいに咲かせるために必要なことなのです。暗い場所から明るい場所に置くと、ゼラニウムの新しい成長が始まり、素敵な花を咲かせます。天の父なる神様はこのように新しく造られる方です。神様は私たちをも素晴らしいものに成長させて下さいます。成長は私たちの思うように進まないかもしれません。ゼラニウムのように暗い場所に置かれてしまうかもしれません。でもそれは光の時が来た時に成長できるために必要なことでした。神様は光の時を来させて下さる方で、その時には私たちを暗闇から出して下さり新しい成長を与えて下さいます。このように神様は私たちを新しく造り変えて下さいます。
神様が私たちを新しく造り変えて下さるとどうしてわかるでしょうか?それは、神様が最初のクリスマスの日にイエス様をこの世に送って下さったことからわかります。イエス様はこの世の光です。光の時が来たのです。イエス様が私たちの罪を償うために十字架の上で死なれて、そのかわりに私たちの罪が赦されました。イエス様を救い主と信じる人は暗闇から光の中に出されて、心が新しくされます。
今週散歩した時に、一本だけでしたが梅の花が満開に咲いているのを見ました。神様が梅の花を新しく咲かせて下さったとわかって感謝しました。私たちは、こうした自然の移り変わりからも天の神様が私たちを新しくして下さる方だとわかります。これからもこの神様とひとり子イエス様のことを覚えて歩んでまいりましょう。
本日の旧約聖書の日課エレミア書17章5ー8節は呪われた者と祝福された者ついて述べています。「呪い」とは物騒な言葉です。不幸とか何か良からぬことが起こって、その原因を何か超自然的なことに求める時に出てきそうな言葉です。「祟り」と同じことと考えられるでしょう。「祝福」とは何か?私たちの周りでどんな使われ方をするか見てみると、例えば、結婚式で新郎新婦にお祝いを述べる時に、みんなで二人の門出を祝福したなどと言います。ところが、聖書で言われる祝福はそれとは異なります。いろんな説明の仕方があると思いますが、大まかに言って聖書の祝福は天地創造の神が関係してきます。人間同士がお祝いの気持ちを表明するということではありません。日本語で「祝福」という訳語を当てはめたため、お祝いのイメージが付きまとうかもしれません。
聖書の祝福を理解する手がかりとして、民数記6章にあるアロンの祝福を見てみましょう。神が祭司のアロンにイスラエルの民を祝福する時は次のように言いなさいと命じます。この文句はキリスト教にも受け継がれて、私たちの礼拝の終わりでも唱えられるので皆さんもよくご存知です。
「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔をあなたに向けてあなたを照らしあなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように。」
この文句から、祝福はお祝いではなく、神が人間に目を注いで良いものを与えてくれることだとわかります。どんな良いものを与えて下さるのか?神が人間を危険から守ってくれるということがありました。また、御顔を人間に向けてその栄光の輝きを暗闇の中にいる人間に当ててあげて、人間に恵み深く接して下さるということがありました。新共同訳では「恵みを与えられるように」ですが、ヘブライ語原文では何かを「与える」とは言っていません。神が人間に「恵み深くおられますように」です。神が恵み深くおられるというのは、どういうことか?それは、人間に神の意志に反する罪があってもそれを赦して不問にするから新しくやり直しなさいと言って下さることです。罪の赦しをお恵みとして与えて下さるという意味での恵み深さです。
さらに、神が人間に御顔を向けると、平安も与えられるということもありました。「平安」はヘブライ語のシャロームですが、これは意味が広い言葉です。まず、繁栄、成功、健康、安全と言った、人間にとって良いことを意味します。神に守られている状態と言って良いでしょう。神の守りがあるということでシャロームは「救い」の意味も持ちます。その時、「救い」の内容は繁栄、成功、健康、安全と言った、この世的なものに尽きてしまうのか、それとももっと違うものもあるのではないかということが出てきます。キリスト教ではその違うものがはっきりしてくるのではと思います。どういうことかと言うと、人間はイエス様の十字架での犠牲の死のおかげで神の意志に反する罪を償ってもらった。そのイエス様を救い主と信じる信仰によって、神から罪の赦しをお恵みとしていただける。そうして人間は神との結びつきを回復して神との間に平和な関係を持てるようになった。もう神の罰を恐れなくてもいいんだ、神は自分の味方なんだ、ということになって、もう何が来ても怖いものはないという、まさに心が平安に満たされた状態です。キリスト信仰では「平和」とか「平安」はエイレーネ―という言葉ですが、まさに神との平和とそれから起こる心の平安が大きなものとしてあります。
以上のように聖書の観点では、「祝福」とは神が人間に御顔を向けて目を向けてちゃんと見て下さっていることが土台にあります。そこから繁栄とか成功とか健康とか安全を頂けるということがあります。さらに進んで、罪の償いを人間に代わってして下さった恵み深い神が共にいて下さるから大丈夫という安心を頂けるということがあります。どっちの場合でも、聖書の祝福は神を抜きにしては語れないものです。
「呪い」はこれと全く正反対のものです。人間が神から顔をそむけられて、背中も向けられてしまい、もう好き勝手にしなさいと見放されてしまう状態です。神に見放された結果、繁栄も成功も健康も安全も失われてしまう。あるいは、見放されてもタイムラグがあって繁栄や成功がしばらく続くこともあります。そんな時は神なんか馬鹿馬鹿しいと思うでしょう。しかし、繁栄や成功を失う時が来たら、罰が当たったのだと慌てふためくか、または引き続き神なんか馬鹿馬鹿しい路線を続けて、神など引き合いに出さないで自分の知恵と力だけで繁栄を取り戻そうとするかでしょう。
以上から、聖書の観点では「祝福」と「呪い」は天地創造の神が人間にどうかかわっているか、人間は神に顔を向けてもらって見てもらっているか、あるいは顔を背けられて背を向けられて見てもらえなくなっているか、そうしたことが土台にあると言えます。
ここで一つ気になることがあります。それは、成功、繁栄、健康、安全が祝福の産物のように見られるということです。確かにそうした面はあります。しかし、そうなると、それらが失われたら、それは祝福を受けられなくなったからだ、呪われたからだということになるでしょうか?いいえ、そういうことではありません。キリスト信仰ではお祈りしたにもかかわらず成功、繁栄、健康、安全が得られないとか、失われるということも想定しています。先にも申しましたように、神に罪の償いをしてもらって罪を赦されて神との間に平和な関係ができて神との結びつきの中で生きているということが確固とした事実としてあります。成功、繁栄などこの世的な輝きは失われても、神との平和、結びつき、そこからくる心の平安、外的な不穏にかき乱されない平安というものがあって、今度はそれらが輝きを放ちます。その時、神に目を注がれていることが一層わかるようになります。詩篇23篇で言われている、「たとえ我死の影の谷を歩むとも禍をおそれじ、汝われと共にいませばなり」ということが今まさに自分に起こっているとわかります。
どうしてそんなことが可能なのでしょうか?それは、聖書というものは繙く者に二つの視点、つまりこの世を超えた永遠というものがあるという視点と森羅万象の上に創造主がおられるという視点を与えるからだと思います。本日の使徒書の日課第一コリント13章と福音書の日課ルカ6章もこの二つの視点を与えます。ただ、旧約聖書の日課エレミア17章は、祝福された人は水辺の木のように緑の葉を豊かに生い茂らせ、日照りが来ても大丈夫、実を絶えず実らせ続けられる、なんて言っています。一見、この世的な繁栄、成功、安全、健康を言っているように見えます。しかし、この個所は目をよく見開いて聖書全体で言われていることを思い出しながら読むと、やはり永遠の視点と創造主の視点が含まれていることがわかります。
どういう人が神に顔を向けてもらって目を注いでもらう祝福された者なのか?どういう人が神から顔を背けられて背を向けられた呪われた者なのか?5節で「人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去った人」が呪われた人になると言われます。祝福された人になるのは「主に信頼する人」(7節)です。ここで、人間はこの世で何に拠り頼み何を拠り所にするのかという問題を提起しています。天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えてくれた創造主の神に拠り頼むのか?それとも神に造られた被造物を拠り所とするのか?被造物である人間は肉の塊にしか過ぎません。それに対して創造主の神は霊的な存在です。肉の視点しか持たないで生きていくのか?霊的な視点を持って生きていくのか?被造物同士の関係の中に埋もれて生きるか?それとも、被造物同士の関係の中で生きながらも、片手は造り主である神の手をしっかり握って被造物同士の関係の中に埋もれ尽くされない、そういう突破口を持つのか?
さらに8節を見ると、霊的な神に拠り頼む人は水辺に植えられた木のようでいつも緑豊かで実を実らせると言われています。ここで、祝福された人が得られる良いものは繁栄とか成功といったこの世的な良いものにとどまらないということを見ていこうと思います。そのことはエレミア17章からは見えてこないかもしれません。でも、詩篇1篇を手掛かりにするとエレミア17章をよりよく理解できます。なぜ詩篇1篇が出てくるかというと、エレミア17章8節「彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り 暑さが襲うのを見ることなく その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく 実を結ぶことをやめない」を見ると、これを読んだ人は、あれ、詩篇1篇と似ている、と気づきます。詩篇1篇3節「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡りくれば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」この二つの聖句の前半部分は、ヘブライ語原文では双子のように同じです。細かいことを言えば、詩篇は木が植えられたのは「水路」のほとりと言い、エレミアは「路」を取って単に「水」のほとりと言っている違いはありますが、あとは同じです。ヘブライ語でこのエレミアの個所を読んだ人は、詩篇1篇をヘブライ語で覚えていたら、それが頭にスーッと入ってきてそれを下敷きにしてエレミアの個所を読むようになるでしょう。
そうすると、エレミア17章の荒れ地で今にも干からびてしまいそうな灌木に例えられる呪われた人は、詩篇1篇で言われている神の意志に反する者と重なります。また水辺で緑豊かに実を実らせる木に例えられる祝福された人は、詩篇1篇で言われている幸いな人と重なります。さらに言うと、17章9節からエレミアは詩篇1篇の神の意志に反する者たちを自分を迫害する者に、幸いな者を自分自身に適用させていることもわかります。そうすることで、預言者として悲惨な状況に置かれても自分は神に見捨てられてはいない、神は常に目を注いでいて下さると確信することが出来たのです。本当に聖書はすごい書物だと思います。読めば読むほどいろいろな繋がりが見えてきて、神が本当に見捨てない方、目を注いで下さる方であることがわかってきます。
詩篇1篇の「幸いな人」を少し見てみます。3節で、水路のほとりに植えられた木が枯れずに実を結ぶのと同じように幸いな人は繁栄するのだと言われます。、繁栄というのは、この世的な良いものだけを意味するのでしょうか?詩篇1篇を終わりまで見ると、それだけではないことに気づきます。幸いな人と正反対の神の意志に反する人たちのことについても述べられています。彼らは、最後の審判の時に神から義なる者、つまり神の目から見て大丈夫な者と認めてもらえず、義なる者たちが集う所に到達できないと言われます。幸いな人はこれとは反対に、神から義なる者、神の目から見て大丈夫な者と認めてもらえる人です。詩篇1篇6節を見ると、幸いな人がこの世の人生で歩む道を神は知っておられると言われています。その道が向かうのは、義なる者たちが集う所、つまり神の御国です。この世が終わって死者の復活が起きて現れる神の御国です。神の意志に反する者たちはそこに到達できないと言われています。義なる者たちはその道を進み、神はその者たちが御国に到達できるように一時も目を離さず導いて下さっている。これが義なる者たちの道を神が知っているということです。
このように詩篇1篇の水辺の木が豊かに実を実らせるというのは、この世的な良いものを得られるということに尽きるのではありません。それは、神から義とされた者が神に始終見守られて神の御国に到達した状態も指しています。神の御国に到達することに比べたらこの世で得られる良いものは重きをなさないでしょう。そういうわけで、詩篇1篇はこの世を超えた永遠という視点と創造主の神がおられるという視点で語られている御言葉なのです。
この詩篇1篇を下敷きにしてエレミア17章の個所を見ると同じことが起きます。肉の塊にすぎない被造物ではなく、霊的な創造主の神に拠り頼む者は、水辺に植えられた木のようである、熱波に晒されずに緑豊かに葉を生い茂らせ、干ばつが来ても何も心配せず実を実らせ続ける木のようである、と言っています。このような木は、神の御国に到達した者を意味します。霊的な神に拠り頼み到達したのです。このようにエレミア17章の個所は詩篇1篇を下敷きにすると、この世を超える永遠の神の御国という視点があります。そして、そこに至るまでの道のりを神が見守って下さっているという視点もあります。
本日の個所の20節から後は、マタイ5章のイエス様の山上の説教と同じ出来事を扱っていることがわかります。しかし、内容が少し異なっています。この違いをどう考えたらよいでしょうか?マタイとルカの記述のどっちかが史実を正確に反映し、どっちかがそうではないというのは不毛な議論です。マタイもルカも自分たちが入手した記録や資料を基にしています。イエス様が実際に喋ったことの再現は不可能です。それを聞いて他の人に伝えたり書き留めたりした人が、ひょっとしたら自分の観点で手短にしたりとか、逆に解説的に詳しくしたとかいうことはあり得ます。そんなことでは書かれたことは史実を正確に反映していないではないか、と言う人も出てくるかもしれません。
ここで忘れてはならないことは、伝えたり書き留めたりした人は自分の観点で手短にしたり詳しくしたりしたわけですが、それはどんな観点だったかということです。それは、イエス様というのは天地創造の神がこの世に贈られた神のひとり子であり、その彼が十字架にかけられることで人間の罪を神に対して償って下さった、そして死から復活されることで永遠の命の扉を開かれた、そういう方である、しかもそれらは旧約聖書の預言の実現として起こった、このような観点です。これは言うまでもなくキリスト信仰の観点です。それならば、手短にしようが解説を施そうが、みんなこの同じ観点の中で行ったわけだからキリスト信仰そのものには何の害も及びません。むしろ、いろいろな記述があるというのは、キリスト信仰の内容を明らかにするために役立つと思います。いろんなバージョンがあってそれぞれ違いがあってもそれらを全部神の御言葉として扱い、何かを軽んじることはせずに、全部をよく見てつき合わせて、それらを総合して全体像を掴むようにすべきでしょう。
ルカのこの個所には、永遠の視点が明確に出ています。このことを見る前に、「幸いな人」と言っている「幸い」とは何か、それは「幸せ」とどう違うのかということについて触れておきます。「幸せ」はこの世的な良いもの、良いことと結びつきますが、「幸い」はこの世を超えたことに関係してきます。聖書には終末の観点があります。この世はいつか終わりを告げて新しい天と地が創造される、その時神の御国が唯一揺るがないものとして現れるという観点です。神の御国へは、死から復活させられて神に迎え入れられる者がそこに入り、その者はそこで永遠の命を持つことになります。そのように神の御国に迎え入れられる人、そしてこの世ではそこに至る道の上に置かれてそこを歩む者が「幸い」な者になります。そういうわけで、この世で貧しかったり、飢えていたり、泣いている人というのは確かに「幸せ」ではないが、イエス様を救い主と信じる信仰に生きれていれば、復活の日に全てが逆転する、立場も正反対になって満たされて笑うようになる、それが「幸い」なのです。将来そのようになると約束されているのです。
先ほど詩篇1篇の「幸いな人」とエレミア17章の「祝福された人」のところで、水辺の木のように緑の葉を生い茂らせて実を結ぶというのは、この世が終わって死者の復活が起きた後に神の御国に到達した状態と申し上げました。そうなると、この世の段階はどうなってしまうのか?この世の人生で繁栄とか成功などこの世的な良いものを手に入れたら、それは祝福されたことではないのか?そうしたことも祝福になるのではないか?しかし、先にも申しましたように大事なことは、神の御国に到達した時に本当の意味で水辺に植えられた木のようになっているということです。もちろん、この世の段階で繁栄や成功があって立派な木だったかもしれないし、あるいはそれらがなくてみすぼらしい木だったかもしれない。しかし、大事なことは、この世での繁栄や成功に関係なく誰もが神の御国に到達して素晴らしい木になることです。そういうわけで、ルカ福音書中のイエス様の教えは、別にこの世で繁栄などしていなくとも、まさに神の御国に向かって進んでいれば祝福されたことに何も変わりはないと明確に教えています。
本日の使徒書の日課は第一コリント12章27節から13章の終わりまでですが、この個所は永遠の視点と創造主の神の視点がよく現れています。13章は有名な愛についての教えです。キリスト教式結婚式でよく朗読される聖書の個所です。ここで述べられている、愛は忍耐強い、情け深い、ねたまない、自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない、不義を喜ばず、真実を喜ぶ、全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える、以上は、夫婦間だけでなく一般的な人間関係の理想です。
どうしてここでパウロは愛について教えたのか、そこに至る流れを見てみます。12章でパウロは、キリストを一つの体に例えて、キリスト信仰者一人一人は体の手とか足とか目とか耳とかの部分である、それぞれが大事な働きをし、お互いにとってなくてはならないものだと教えます。どうしてこんな当たり前のことを言わなければならなかったのでしょうか?
コリントの教会の状況が背景としてありました。聖霊から賜物を与えられていろんな大きな業、不思議な業が行われていました。それが、自分がこれだけのことが出来るのは神に目をかけてもらったからだ、聖霊が自分に特別豊かに注がれたからだ、というような雰囲気がありました。そこでパウロは、与えられる賜物は違ってもそれは皆同じ聖霊に由来し、皆は洗礼を通して同じ聖霊と等しく結びついている、だから賜物については優劣はないのであって、キリスト信仰者全員はお互いがお互いにとって大事なのである、何の業が出来て何が出来ないかは関係なく、みんな、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の赦しの恵みを得た、そのおかげで最後の審判の時に神から大丈夫と見てもらえるようになった、この恵みは教会の全員が等しく与えられているのだ、とパウロは教えます。
このようにパウロは賜物を得意がっている人たちにちょっと控えなさいというようなことを言いながら、12章の終わりで、最も偉大な賜物を追い求めよ、などとたきつけるようなことを言います。しかし、偉大な賜物を追い求める際に、最高の道を通って行かないと追い求められない、そんな道があるのでそれを教えよう、と言います。それが愛ということです。それで、どんなに驚くべき業を行っても、例えば聞いたことのない言語で神を賛美するという異言を語る業がありますが、これが出来ても愛がなければ騒音にしかすぎない。また、預言の賜物があって山を動かすほどの信仰を持っていても、全財産を貧しい人に施しても、誇るために自分を死に引き渡しても、愛がなければ、どれも無意味なことである。
そこでパウロは愛とはどういうものかということを述べていきます。愛は忍耐する、柔和に振る舞う、嫉妬心を燃やさない、高ぶったり、傲慢にならない、礼節を知る、自分の利益を追い求めない、復讐心を持たない、悪い考えを抱かない、不正に喜びを見出さない、真実を喜ぶ。この最後の真実を喜ぶというのは今の世の中はとても難しくなっていないでしょうか?自分の利益や野望に邪魔な真実は消してしまおう歪曲してしまおうという人たちがいます。そこまでして追求しようとする利益や野望は正しくないということを証明しているようなものです。真実を喜ぶというのは、正しさというものに自分を服させることになるのではないかと思います。もちろん人によっては向き合うのが辛い真実もあると思います。その人が打ちのめされることなく真実を携えることができるように考えてあげなければなりません。
パウロは、愛は全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える、と言います。「全てを信じる」とはどういう意味でしょうか?まさか、全ての宗教を信じることでしょうか?もちろん、そうではありません。「全てを」と訳されているギリシャ語の単語πανταの意味は「全てにおいて」が正しいでしょう(後注)。「全てにおいて信じる」というのは、どんなことが起きようともイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる、ということです。同じように、「全てにおいて望む」というのも、どんなことが起きようとも、自分は神のみ前に立たされても大丈夫と見なされて神の御国に迎え入れられてもらえるという希望を失わない、ということです。「全てにおいて忍び、耐える」というのは前述した愛の現れ方です。どんなことが起きようとも、忍耐し、高ぶらない、嫉妬しない等々の愛を持つということです。
愛とはそのようなものだと述べた後で、8節から永遠の視点が出てきます。この世が終わり、死者の復活が起こり、今の天と地が新しい天と地に取って代わわれて神の御国が現れる。その時、預言や異言という聖霊の賜物はなくなってしまう。というのも、預言や異言がこの世でもたらしたものは何か大きな全体の一部にしかすぎないものだったからで、神の御国という完全で全体的なものが現れたら、そういう不完全で部分的なものは意味を失ってなくなってしまうのです。
ところが、愛はなくなりません。神の御国に引き継がれます。それは、愛が聖霊の賜物と違って最初から完全で全体的ななものだったからです。しかしながら、それは神の側でそうなのであって、人間の側では愛を完全で全体的に持つことは出来ませんでした。それが、復活の日に神の御国に迎え入れられた時、自分も神と同じように愛を兼ね備えていることを見るのです。忍耐する、柔和に振る舞う、嫉妬心を燃やさない、自分の利益を追求しない、悪い考えを抱かない、不正を喜ばない、真実を喜ぶ、どんなことがあっても信じ希望する。今自分はこれらを全て持っているのです。かつてはこれらのものはいつも部分的、一時的にしか現れて来ず、現れては消えての繰り返しでした。それが今、これらのものは自分に完全に備わっていて、自分はまさに愛を体現しているのです。神と同じようにです。自分が愛そのものになってしまっていると言ってもいいでしょう。
かつて鏡におぼろに映ったものを見ていたが、今は顔と顔とを合わせて見るというのはどういうことか?当時の鏡は今のようにガラスに銀を塗装するものではなく青銅のような金属板でしたので、映る顔は否が応でもおぼろげでした。それが神の御国ではそれこそガラスの鏡を見るように自分の顔がはっきり見えている。かつてイエス様を救い主と信じて神の意志に沿うように生きよう、神の意志とは愛なのだから愛を持とうとしてもいつも部分的、一時的の繰り返しだった。だから、愛が自分に現れるのはおぼろげにしかならなかった。それが、神の御国に迎えられた今、愛が自分に完全に根付いて、自分は愛を体現するようになった今、愛は自分に明瞭に現れるようになった。それでパウロは復活の日、自分は愛を体現し愛そのものになっていることを次のように言うのです。「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」「はっきり知る」というのは、自分が愛を体現し愛そのものになっていることが明瞭に見えるということです。
ここで一つわかりにくいことがあります。「はっきり知られているように」とはどういうことか?さりげなく文の中に入っていますが、とても難しいところです。ギリシャ語の原文を直訳すると「私がはっきり知られていたように」です。新約聖書のギリシャ語では受け身の文の隠された主語はたいてい神なので、「私が神にはっきり知られていたように」という意味です(後注)。それでこの文を少し解説的に訳すと次のようになります。「神がこの世で私のことをはっきり知っていたのと同じように、私も将来の神の御国にてはっきり知るようになる。」神がこの世で私のことをはっきり知っていたこととは何でしょうか?それは神の国で私がはっきり知るようになっていること、つまり、私が愛を体現していることです。しかし、これは変です。というのは、神は私がこの世でも将来の神の御国と同じように愛を体現していたと見て下さったことになるからです。そんなことはありえません。そこで、かの日に神に次にように尋ねます。
「父なるみ神よ。今、あなたの御国に迎え入れられて私は愛を体現する者になっていることを驚き、感謝します。しかし、もっと驚きなのは、あなたは前の世で私のことを愛を体現する者と見て下さっていたのですか?私は、愛においていつも力不足でした。忍耐が不足していました。柔和に振る舞いませんでした。嫉妬心を燃やしたこともありました。高ぶったり傲慢になったりしました。」
そこで神は答えられます。
「わが子よ。お前はイエスの白い衣を纏うようになってから、その衣を取り去らないように生きていたのを私は見て知っていた。お前は愛の足りなさに気づきながらいつもこの日を目指して歩んでいたのを私は見て知っていた。白い衣に覆われた罪は神聖な衣の中で日々圧迫され、力を失っていくのを見て知っていた。お前がイエスを主と信じる信仰と聖餐のパンと葡萄酒で衣を離さないように握りしめる力を保っていたのを見て知っていた。だから私はお前を見る時はいつも今日の完成された姿を見ていたのだ。それで、お前のことを愛を体現する者と前の世でも知っていた、と言ったのだ。」
パウロはフィリピ1章6節で次にように述べています。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げて下さると、わたしは確信しています。」
兄弟姉妹の皆さん、この確信は真理です。
後注(ギリシャ語がわかる人にです)
・πανταは、私はaccusativus limitationisと考えます。
・καθως (…) επεγνωσθηνは、私が神に知られていたのは、この世の段階のことか、それとも将来の神の御国でのことなのか、意見が分かれるかもしれません。私は、この世の段階と考えます。将来の神の御国でのことであれば、ここはκαθως (…) αν επιγνωσθωになると考えます。
・第一コリント13章3節は、日本語訳では「誇るために自分を死に引き渡しても」ですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳は「自分を焼かれるために引き渡しても」です。どうしてこんな違いが生じたのかというと、訳に用いた写本が異なっているからです。日本語訳は、よりオリジナルのルカに近いと研究者が認めた写本を使用。他は、オリジナルのルカからは遠いかもしれないが、ダニエル書を想起させ意味が通るということで「焼かれる」の方を用いたわけです。このように聖書は一筋縄ではいかないところがありますが、何語で読もうとも、聖書の視点とは何かを意識してみることが肝要です。