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説教「希望がある」マルッティ・ポウッカ牧師、ヨハネによる福音書20章1−18節

 私たち人間の生活にはいろいろな悲しみがあります。たとえば仕事を失うこと、病気になること、また思い描いていた計画がすっかり変わることもあるかもしれません。未来を予言するのは難しいです。その中で、一番深い悲しみは、親しい人を失うことではないでしょうか。人生の望みがなくなる場合もあると思います。希望と人生の喜びが消えてしまいます。

マリアは最愛の人を失った、そう考えていたでしょう。『最も愛するイエスがなくなった』のです。喜びと望みを失ったことでしょう。

 聖書を開きましょう。

今日の聖書の箇所には、マリアの悲しみ、そして、奇跡と希望について書かれています。

初めに、悲しみについて少しお話したいと思います。今日の箇所を読みましょう。

1.週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

2.そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」

 イエスは葬られました。信仰告白には「死んで葬られ」と表現されています。イエスと親しかった一人の女性の将来についての計画は「大きな質問」に変わったことでしょう。いったい何をするべきなのでしょうか。

次に聖書には奇跡について書いてあります。

弟子たちは走りました。

3.そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。

4.二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。

弟子たちは驚きました。墓が空っぽだったからです。

7. イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。

8. それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。

 弟子たちは奇跡を見て、信じました。神様は何でも出来るということを表す奇跡でした。  

 最後は、希望です。

私たち人間はイエスの教えを少しずつしか理解できません。マリアもその一人でした。  

 9.イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

10.それから、この弟子たちは家に帰って行った。  

 マリアは泣いていました。慰めの神様はこのこともご存知でした。

11.マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、

12.イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。

13.天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」

14.こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった

15.イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

 マリアには、何が起こったのか、まだ完全に理解できませんでしたので、更にもう一つの言葉が必要だったのです。

 16.イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

 イエスが現れて、マリアは何が起こったのかがやっと理解できて、喜びました。悲しみが消え去りました。主を見たからです。希望と喜びが与えられました。失った希望が戻ったと思います。  

 私たちも主にお会いする希望を持っています。

それが、キリスト者の希望です。

時代の混乱の最中にあって、キリストの教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(第一ペテロ1:3)。

「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(ルカ21:28)。

 解放というのは、何でしょうか。

罪無きキリストは十字架の上で、苦難を受けられることによって、私たち自身が罪のために受けなければならない罪責と刑罰とを、代わってその身に受け、神の怒りを宥めたのです。このようにしてキリストは、罪と死と悪魔の力に打ち勝ったのであり、キリストの苦難と死こそが、私たちの罪の宥めの犠牲なのです。

このイエスの御業によって、私達は死と悪魔の力から解放されました。ですから、この生活のなかに色々な苦しみや悲しみがあっても、永遠の命の希望があります。

***** 

 祈りましょう

天の父なる神様。マリアは悲しみましたが、イエスに出会って、喜びました。あなたの約束のとおりに、私たちもイエスにお会いする希望を持っています。感謝します。イエスが復活されたからです。これは私たちの一番大切な喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。私たちのよい行いは救いのために必要ではありません。イエスのみ業は完全だからです。

私たちの本国の天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。私たちの天国への道を見せてください。私たちを、主をお迎えする心の準備が出来るように、あなたの声を聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音や神様の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。また、隣人を愛せるように、互いに仕え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。御言葉によって、私達の希望を強めて下さい。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。  

 

洗礼式:颯良 君

 

イースターの料理クラブのご報告

桜の花に新緑の葉が映える、春たけなわな土曜日、イースターの料理クラブが開催されました。

最初に吉村先生のお祈りでスタートです。

今回は子供と大人それぞれ違うメニューになりました。

子供達は最初にヒヨコ作りに挑戦です、お母さんやお父さんと一緒に頑張り、
羽根飾りのついた可愛いヒヨコ達の行列ができました。

大人のグループは、たっぷりレモンを使ったマフィン作りです。
レモンの皮をおろしたり、絞ったり、牧師館は爽やかな香りに包まれました。

マフィン生地をオーブンに入れ、焼き上げている間イースターエッグの飾りつけをしました。
子供達に混じって、大人逹も参加、可愛いいイースターエッグは山盛りの出来上がりになりました。

今回のフランネル劇はイースター、イエス様の復活についてでした。
「イースターは、私たちにとって大喜びの日です。イエス様は、私たちや世界の全ての人々のために十字架で亡くなられて、3日目に死から蘇られました。本当に私たちは、イエス様のおかげで新しい命を持つことができます。それが、イースターの本当の喜びです。このイースターの喜びが持てるために、私たちは卵に飾りつけをしたり、他にも飾りものを作って、楽しくお祝いをするのです。」

礼拝奉仕のため来日中のポウッカ先生からは、すばらしいフルートと独唱のプレゼントを頂き、試食タイムは、にぎやかな楽しい時間になりました。
ご参加の皆様、お疲れ様でした。

聖金曜日礼拝説教 「不思議な愛」マルッティ・ポウッカ牧師、ヨハネによる福音書19章17−30節

 苦しみは三種類あると思います。

 初めに

自分のせいの苦しみです。例えば、歩行者が赤信号であっても賑やかな道をわたると、きっと交通事故になりますよ。そして苦しみにもなる。これは自分のせいの苦しみです。

 第二に

5歳の女の子が道を歩いていて、酔っている運転手の車に跳ねられるとします。誰の責任でしょうか。やっぱりその酔っぱらい 運転手の責任だと思います。警察もそう判断します。

 第三に

かわいい赤ちゃんが生まれるとします。お母さんもお父さんも喜んでいます。しかし、後一年で赤ちゃんががんで死ぬとわかる。父親と母親にとって大変な苦しみです。けれども、責任が誰にあるのか、分かりません。説明できない苦しみです。

 今日の聖書の箇所にも苦しみについて書いてあります。イエスの苦しみについてです。

 

17−19 大変なでき事でした

 • 7:ヨハネによる福音書/ 19章 17節

イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。

• 18:そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。

 • 19:ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。

 これは大変なできことだと思います。イエスはとても良い方ですから。

 どんな方なのでしょうか。イエスの人格というのは。

 イエスは父の偉大なる御業を喜び、人類の罪と悩みを見ては、大変苦しみました。

イエスは神が御自身にその使命をお与えになったことを知っていましたので、何も恐れることなく、権威ある者のように教えました。

イエスは御自分の民とその聖なる嗣業とを愛していましたが、同時に彼は人間のあらゆる制約から完全に自由でした。

 そして、イエスは良い業を背一杯なさいました。

 イエスの御業について

イエスは苦しむ者を助け、病める者を癒し、死者を甦らせました。また、神から与えられた権威をもって、人の罪を赦されました。これらの業は彼の愛を示すと同時に、神の国の力がすでに影響を及ぼしつつあることを示しているのです。イエスは良い方だと言われても宜しいでしょうね。

これらのことを読むと、私達の人間の考え方で、イエスの苦しみは説明できません。

 また、イエスは人々からいじめをうけました。

 • 20:ヨハネによる福音書/ 19章 20節

イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。

· 21:ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。

 · 22:しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。

 · 23:兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。

 · 24:そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。

 良い業ばかりなさっていたイエス様は、今いじめられました。悪口も言われました。着るものもなくしました。全部預言者が語られた通りです。

 大変な苦しみがあったのに

 · 25:ヨハネによる福音書/ 19章 25節

イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。

 · 26:イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。

 · 27:それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

 

 イエスはまだまだケアを考えていました。本当に本当に母親の世話をなさいました。これほどの愛は説明できませんね。

 次に

イエスの苦しみは人間の考え方では説明できません。しかし、神様は人間と全く違います。神様の考えは私達の考えを明らかに超えます。

イエスの苦しみと言うのは、あなたと私のための苦しみです。

 イエスは苦難と試練と死の危険を忍び、父の御旨に従順でした。父からの使命に忠実であったキリストは、その血を流し、その生命を、私たちの贖いのためにお与えになりました。すなわち、罪無きキリストは十字架の上で、苦難を受けられることによって、私たち自身が罪のために受けなければならない罪責と刑罰とを、代わってその身に受け、神の怒りを宥めたのです。このようにしてキリストは、罪と死と悪魔の力に打ち勝ったのであり、キリストの苦難と死こそが、私たちの罪の宥めの犠牲なのです。

イエスの苦しみの結果として、私達は希望を持っています。

 キリスト者の希望というのは

時代の混乱の最中にあって、キリスト教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。

 最後に今日の聖書の箇所の終わりを読みましょう。

 28:ヨハネによる福音書/ 19章 28節

 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。

 · 29:そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。

 · 30:イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 それは、私達の罪人のためでした。これは不思議な愛です。

 祈りましょう

 天の父なる神様、あなたは御自分の御子を死に渡して、人間を救う計画を作ってくださいました。イエスは私達のために大変な苦しみを受け入れました。今日私達は特にその苦しみを覚えています。イエスの苦しみも神様の計画の通りです。教会はその計画について教えます。そこに恵みがあります。救われるために、行いは必要ではありません。私たち弱い人間には、あなたの知恵と力のすべては理解できませんが、どうか、私たちを助けてください。あなたは人間ではなく、私たちの考えを超える神様でいらっしゃいます。ですから、約束の全てを守ってくださいます。聖書を読むと、贖い主のイエスがあと3日目に復活されたということが分かります。これは私たちの一番大きな喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。そして、私たちの本国である天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちに天国への道を見せてください。私たち一人一人にあなたからの使命を教えてください。今年もあなたの教えを聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして、また、教会として出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音と神の招き、また、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。教会も導いて下さい。また、あなたに与えられた力によって子どもと隣人を大切に出来るように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。  アーメン。

説教
「最大事」マルッテイ・ポウッカ牧師、マタイによる福音書21章1−11節



少し、例えの話しをしたいと思います。 
これは、なんでしょうか。お見せしましょう。道具ですね。Multimeterです(見せます)。 
色々な電気機械をはかる時、直す時とか作る時とても便利な道具だと思います。日本製で、もう「25歳」です 。 
 
この道具は食べ物や健康食品ではありませんね。食べてみるとすぐわかりますが、その前に道具として使った方がいいです。

今日の聖書の箇所を読みましょう。これはとても有名な聖書の箇所だと思います。



最初に
イエスは小子ロバに乗ってエルサレムに行かれました。


マタイによる福音書 21章 1~4節
「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」

 預言者たちも前から神様の計画を知っていました.そして、人々に語りました。

 マタイによる福音書 5~9節 
「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」



皆、イエス様を見ると大喜びしました。踊りました、歌いました。イエスがこの世に来て下さるのは、神様のご計画でした。 


  

時が満ちた、と言ってもいいでしょう。神様の計画が進展(しんてん)しました。

マタイによる福音書 10~11節
イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

イエスはいったい、どなたでしょうか。これはとても大切な質問です。

このような教えがあります。
神は長い時間をかけて、人類が救い主を迎えることができるように、準備されました。そして、ついに時が満ち、神はその独り子を 世の救い主としてお送りになりました。聖書にはイエスの人生について、また教えの奇跡についてたくさん書いてあります。

 
「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4)。

 そして、イエスはお生まれになりました。

 人間としてイエスは罪を別にして、全ての点において、私たち人間と同様でした。イエスは生まれ、成長し、疲れ、空腹を感じ、また喜びや悲しみを味わいました。

「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカによる福音書2:52)。

イエスは御業をどう行われましたか。

イエスは苦しむ者を助け、病める者を癒し、死者を甦らせました。また、神から与えられた権威をもって、人の罪を赦されました。これらの業は彼の愛を示すと同時に、神の国の力がすでに影響を及ぼしつつあることを示しているのです。

イエスの生涯の一日については、マルコ1:21-34を読んで下さい。

そして、イエスは恵みの主でいらっしゃいます。

イ エスは特に失われた者や罪人と交際しました。このことは彼らにとっては大きな慰めでしたが、他の人々には躓きとなりました。しかしイエスはこれによって罪 人を求めてこれを救う神の言い尽くし難い愛を示したのです。このように私たちに何らの価値も無いのに与えられる神の愛が「恵み」と呼ばれるのです。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)。

神様は、このようなイエス様をお送りになりました。

この神様の計画は、私たちの永遠の命の希望の元です。ですから、今日の聖書の箇所の人々と弟子たちがしたように感謝しましょう。

自分の栄光を求めていた ファリサイ派の人々はイエスのことが好きではありませんでした。イエスがいるとファリサイ派の人々の力は弱くなるという恐れがあったと思います。けれど も、私たちにとって、イエスは素晴らしい方です。

最後に

さっき話した「Multimeter」は色々な電気機械を直す時とか作る時に役に立ちます。
目的は、電気をはかる事です。では、教会はどうでしょうか。教会 の目的は何でしょうか。教会は、福音の素晴らしいメッセージのために建てられています。教会の目的は、福音を伝えることです。それも、希望をもって、喜ん で、です。 

教会は、戦う教会と勝利の教会、キリストの教会で、この地上においては、旅人、また散らされた者として、戦っています。しかしキリストの再臨の時に、教会は栄光の中に、彼と共に、勝利の教会として現れます。


「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」(ヘブライ11:13)。




私たちはイエスによる永遠の命の希望のプレゼントを頂きました。このプレゼントを教会として家族や友人たちに分けることは私たちの大きな喜びです。

そして、私達の一番の最大事です。

 

祈りましょう

 天 の父なる神様、あなたは、人間を救う計画を作ってくださいました。教会はその計画について教えます。そこに恵みがあります。救われるために、行いは必要で はありません。私たち弱い人間は、あなたの知恵と力のすべては理解できませんが、どうか、私たちを助けてください。あなたは人間ではなく、私たちの考えを 超える神様でいらっしゃいます。ですから、約束の全てを守ってくださいます。
聖書を読むと、贖い主のイエスが復活されたということが分かります。 これは私たちの一番大きな喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。そして、私たちの本国である 天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちに天国への道を見せてください。私たち一人一人にあなたからの使命を教えて ください。今年もあなたの教えを聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たち があなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めます ように。私たちがあなたの子どもとして、また、教会として出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音と神の招き、また、復活の喜 びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。教会も導いて下さい。また、あなたに与えられた力によって子どもと隣人を 大切に出来るように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができます ように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。  アーメン。



 

説教「完全な運転手」マルッティ・ポウッカ牧師、ヨハネによる福音書11章17−53節

若い時の思い出です

私はフィンランドの田舎で育ちました。学校に通い始める時、小学校は近くでしたが、中学校の時にはもうバスにのらなければなりませんでした。朝早く起きて、バスストップでしばらく待っていて、毎朝隣の町の大きい中学校に通っていました。ちょっと厄介でしたが、面白いところもありました。男の子の頭の中には、やっぱりバスと運転手に対する興味がありました。バスはたいていScania とかVolvoという二つのメーカーの車でした。その他に、運転手も比べました。ある人は運転がはやく、スピードを出しました。ある人は親切でした。またある運転手はタイムテーブルをとても正確にまもっていて、冬も夏もいつも決まった時間に学校につきました。もちろん、私は中学校の時、スピードを出した運転手が一番好き だったのです。男の子はやはり男の子です、と言われるとおりです。

大人になっても、まだ少しバスと運転にたいして興味が残っています。私が出会った一番よい運転手はタムペレと言う町の近くのPaunuというバス会社の運転手でした。お客さんにたいしてとても親切でしたし、タイムテーブルについてもとても正確でしたし、女性なのにスビードも少し出すことができました。ほとんど完全な運転手と言われてもいいと思います。

今日の聖書の箇所はイエスとラザロの話です。

1.イエスはたくさん良い事をして下さいました。イエスの御業についてはこう書いてあります。

イエスは苦しむ者を助け、病める者を癒し、死者を甦らせました。また、神から与えられた権威をもって、人の罪を赦されました。これらの業は彼の愛を示すと同時に、神の国の力がすでに影響を及ぼしつつあることを示しているのです。聖書にはこう書いてあります。

「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちところに来ているのだ」(ルカ11:20)。

イエスがカファルナウムで中風の人に罪の赦しを宣言したことについては、マルコ2:1-12を家で読んで下さい。

今日の聖書の箇所では、イエスはマルタとマリアの所にいらっしゃいました。

 20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。

 21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。

 22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

 23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、

 24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

 25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」

イエスはこうマルタとマリアを慰めて下さいました。イエスは復活と命でいらっしゃいます。

 

 2.35節です。「イエスも涙を流されました。」

イエスは神様であり、また人間であります。人間として、深く悲しまれました。ラザロは彼の良い友達だったからです。マルタとマリアと一緒に悲しまれました。しかし、イエスは人間であり、また神様でいらっしゃいます。そして、イエスはラザロを生き返らせました。

マタイ28: 「イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」

Giotto, Public domain, via Wikimedia Commons

この約束は実現されました。イエスはこう言われました。

43 「ラザロ、出て来なさい」

そして、ラザロは墓から出てきました。イエスは死にも打ち勝ちました。

マルタとマリアは喜んでくれたと思います。

 

3.皆はイエスが好きではありませんでした。

イエスを殺そうとする計画が、奇跡を見たファリサイ派の人々の中で生まれました。しかし、この計画のことも神様は御存じでした。

時は満てり

神は長い時間をかけて、人類が救い主を迎えるように、準備されました。そして、ついに時が満ち、神はその独り子を世の救い主としてお送りになりました。四福音書はその救い主の生涯と御業とについてのよい音信(知らせ、メッセージ)を伝えています。

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4)。

この計画を、神様はどうしてお立てになりましたか。

父 からの使命に忠実であったキリストは、その血を流し、その生命を、私たちの贖いのためにお与えになりました。すなわち、罪無きキリストは十字架の上で、苦 難を受けられることによって、私たち自身が罪のために受けなければならない罪責と刑罰とを、代わってその身に受け、神の怒りを宥めたのです。このようにし てキリストは、罪と死と悪魔の力に打ち勝ったのであり、キリストの苦難と死こそが、私たちの罪の宥めの犠牲なのです。

「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」(ヨハネ17:4)。

このようになさって、イエスは天国への道を開いて下さいました。あなたのためにも私のためにも。

初めに私は「ほとんど完全な運転手」について話しました。イエスを考えると、イエスはほとんどではなくて、「本当に完全な運転手」と言われてもよろしいでしょうと思います。それはどうしてでしょうか。イエスが運転するバスは確かに天国のバスストップに神様のタイムテーブルに従って正確につきます。信仰の聖霊によって頂いた切符を持っていて、そのバスに乗りましょう。これは、私達の慰めであり、希望であります。

 

祈りましょう。

天の父なる神様。天国への切符をありがとうございました。私達にマルタとマリアのように慰めと希望をあたえてくださいました。あなたは、人間を救う計画を 作ってくださいました。私たち弱い人間には、あなたの知恵と力は理解できませんが、どうか私たちを助けてください。あなたは人間ではないし、私たちの考えを超える神様でいらっしゃいます。ですから、約束もすべて守ってくださいます。

聖書を読んで、イエスが復活されたということが分かります。これは私たちの一番大きな喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しの ために送ってくださいました。そして、私たちの本国である天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちに天国への道を見せてください。

今日もあなたの教えを聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父 なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たち一人一人にあなたからの使命を教えてください。私たちがあなたの子どもとしてできる社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音や神の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。また、あなたに与えられた力によって子どもと隣人を大切に出来るように、 互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン  

説教「解放なら安息日に」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書9章13~25節、イザヤ42章14~21節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の箇所は、イエス様が生まれつき目の見えなかった人の目を見えるようにする奇跡の業を行った後で何が起きたか、ということについて述べています。当時のユダヤ教社会の宗教エリートであるファリサイ派の人たちが、この人を尋問しました。なぜかと言うと、この癒しがなされた日が安息日だったからでした。つまり、癒しを行ったイエスは、安息日に仕事をしてはならないという掟を破ったのではないか、つまり神の意思に反する人物ではないか、ということが問題になったのです。

 安息日を守るというのは、皆様もご存知のように、出エジプトの時に天地創造の父なるみ神がモーセに告げた十戒のうちの第三の掟です。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、なんであれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8~11節)。

なぜ、イエス様が安息日の掟を破ったと騒がれたかと言うと、彼がまず唾と土で何か粘土状のものを作って、それから、それを使って目を治してあげたことの二つが仕事をしたと見なされたからです。本日の箇所の前で、イエス様がどのようにして癒しを行ったかについて述べられています。イエス様は一言声をかけて癒すのではなく、わざわざ作業をするように何か粘土状のものを作って目に塗って、目を治してあげました。この作業が安息日に起きたために、群衆はこれが宗教的に許されるかどうか判断してもらおうと、この人をファリサイ派のもとに連れて行ったのでした。このような奇跡を行うイエスは、本当は神から来た者ではないだろうか?それとも十戒の掟を破る、神に反する者ではないだろうか?一体どちらだろうか?宗教エリートはなんと答えるだろうか?

ファリサイ派の間でも見解が割れました。ある者は、神が定めた安息日の掟を破ったのだからイエスが神由来とは到底言えないだろう、単なる罪びとだ、と主張します。別の者は、そうならば果たしてこのような奇跡の業を行うことができるだろうか、と疑問を呈します。実際、旧約聖書のイザヤ書を通して読むと、将来神の霊を注がれた神の僕が現れて目の見えない人たちの目を見えるようにする時が来ると預言されています(42章7節、加えてマタイ11章4~6節、ルカ7章22~23章も参照)。イエス様を罪びと考えない人たちは、きっとイザヤ書の預言が頭をよぎったのでしょう。Distant Shores Media Sweet Publishing CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0しかし、見解の一致は得られません。そこで、ファリサイ派の人たちは、目が見えるようになった人の見解を求めました。「お前は、お前の目を開けた者のことをどう思うのか?」 男の人は答えました。「預言者だと思います。」メシアとか救世主という答えではありませんでしたが、預言者というのは神から送られる人と考えられていたので、イエス様は神由来の者、神の意思に適う者であり、罪びとではありえない、と告白したことになります。

本日の福音書の箇所には、二つ考えなければならない大きなことがあります。一つは、目を見えるようにするイエス様の奇跡の業とイザヤ書の預言の関係です。もう一つは、イエス様はなぜ癒しの業を安息日に行ったのかということです。奇跡の業とイザヤ書の関係は、実はとても深くて大きい問題をはらんでいて、一回や二回の説教でお話しすることはできないと思います。そのため本説教では、安息日の問題を中心にお話ししようと思いますが、ほんの少しだけ、先にイザヤ書の預言について触れておきます。

 

2.目を見えるようにする奇跡の業とイザヤ書の預言の関係について

本日の旧約の日課であるイザヤ書42章の中で、目が見えない者、耳が聞こえない者について述べられていました。これは肉体的に目が見えない、耳が聞こえない、ということではなく、霊的に見えない、聞こえない、ということです。霊的に見えない、聞こえないというのは、天地創造の神のみ心がわからず、それに沿う生き方ができない状態を意味します。旧約新約聖書を通じて、そういう状態は「心が頑なになる」とも言われます。神はかつて、御自分の意思に反するだけになってしまったイスラエルの民に対して、その霊的な目と耳を塞いでしまうという罰を下しました。そのことはイザヤ書6章に記されています。時はユダ南王国のウジヤ王が死去した頃、イエス様の時代から700年くらい前の頃でした。そのためイスラエルの民は神のみ心が一層わからない状態となり、国内は混乱状態が一進一退で深まり、対外的には大国バビロン帝国の侵略を受けて滅亡してしまいます。紀元前600年近くの出来事です。イスラエルの民の主だった人たちは異国の地に連行されていきました。

それから50、60年経った後、今度はペルシャ帝国がバビロン帝国を滅ぼしてオリエント世界の覇者となると、イスラエルの民は祖国帰還が認められます。本日のイザヤ書42章の預言はその時期が近づいた頃に向けられています。神は、イスラエルの民がバビロン捕囚という苦難を背負ったことで、その罪を赦すと宣言します(43章25節、44章22節)。本日の日課のイザヤ書42章16節で神が霊的に見えない、聞こえない民を導いて知らない道を歩ませる、とあります。それは、民がもはや神の差し出す手をしっかり掴まらないと前に進めない、それくらいに神によりすがっている、信頼しきっている状態にあることを意味します。バビロン捕囚の苦難が驕り高ぶっていた民をこのようにへり下って神のみに信頼する民に変えたのです。つまり、霊的に見えなくなる、聞こえなくなるというのは、結局、天地創造の神しか信頼するものがなくなってその御手をしっかり掴まって前に進めるようになる、そういう状態をもたらす機能を果たすと言えます。そのような状態は、神のみ心を知って、それに沿う生き方をすることですので、霊的に見える、聞こえる状態になっているわけです。

ところで、イザヤ書42章19節に、「神の僕」が盲目であると言われていることに違和感を抱く方もいらっしゃると思います。というのは、イザヤ書53章をみると、「神の僕」とは将来到来する救世主メシアのイエス様を指しているので、そのイエス様が盲目というのはどういうことか理解できないからです。実はこれは、イザヤ書で言われる「神の僕」というのは二つの意味がだぶっていることによります。一方で「神の僕」は、バビロン捕囚の罰を受けたイスラエルの民全体を意味し、他方では将来到来する救世主メシアを意味し、イザヤ書ではこの二つの意味がたぶっているのです。42章では明らかにイスラエルの民を指しています。

19節の「わたしの僕ほど目の見えない者があろうか」という訳ですが、そういう質問ですと、「いいえ、他にはいません」という答えが返ってきてしまいます。ヘブライ語の原文はそういう修辞疑問文ではないと思います。素直に訳すと「わたしの僕以外には誰が目の見えない者か?」です。この神の問いを聞いた私たちは、「はい、私たちもそうです」と告白し、神に全面的な信頼を寄せて、その御手をしっかり掴まって暗闇の中を進みます。その時、神は、16節に言われるように、「行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐに」して下さいます。

19節ではまた、「わたしが信任を与えた者ほど目の見えない者があろうか」とありますが、「信任を与えた者」というのは辞書(HolladayのConcise Hebrew and Aramaic Lexicon of the OTですが)に出ている意味を素直に使えば「報いを受けた者」となり(שלמのpual分詞形)、罪のゆえにバビロン捕囚の苦難を受けることになったイスラエルの民を指します。そうするとここは、「罪の報いを受けたイスラエルの民と同じように目の見えない者は誰か?」という意味になります。この質問に対して、「はい、私です」と答える者は、神の御手をしっかり掴まって進むことになります。(19節は各国語訳も苦労しているようです。)

 

3.安息日の目的

  イエス様が目の見えない人の目を見えるようにした奇跡の業は、霊的というより肉体的な視力の回復でした。イザヤ書の預言は、字句通りに読めば、肉体的な視力回復としても霊的な視力回復としても理解できます。それで、イエス様が肉体的な視力回復の業を行えば、目撃した人たちは彼がイザヤ書の預言の実現と関係のある方だとわかったのです。イエス様が人間の霊的な目を見えるようにする奇跡の業は、十字架と復活の出来事を通して行いました。このことは後でまた述べます。

ところで、肉体的な視力回復の奇跡を目の当たりにしても、それがイザヤ書の預言の実現と関係があることを見えなくしてしまうことが起きてしまいました。それは、イエス様がこの奇跡の業を行ったのは安息日だったということでした。もし別の日に行っていれば、この方はイザヤ書の預言を実現する方だ!と拍手喝采になったかもしれないのに、わざわざ安息日に行ったがために、人々の注意は病気が治ったという奇跡には向けられなくなって、安息日を破ったということに向けられてしまいました。一体、イエス様はどういうつもりだったのでしょうか?

実は、安息日を選んで奇跡の業を行う時、イエス様にはちゃんと目的があったのです。どんな目的かと言うと、安息日の守り方について教えるということです。十戒の第三の掟は、先ほどみたように、「安息日を心に留め聖別せよ」です。「聖別する」というのは、神聖なものにするという意味です。安息日を神聖なものにするとはどういうことか?天地創造の神が天と地とそこにあるもの全てを造り上げた時、七日目は創造の業から離れて休まれ、その日を祝福して神聖なものとした。だから神に造られた人間も同じように七日目を神聖なものとせよ、ということです。これが、当時のユダヤ教社会の考え方では、仕事をしないことが安息日を神聖なものにすることの中心になりました。ところが、イエス様の場合は、仕事をしないのなら、じゃ何をするか、ということについて教えます。以下、安息日の守り方についてのイエス様の教えを見ていきます。イエス様の教えを理解することは取りも直さず、安息日の掟を与えた父なるみ神のみ心を知ることにもなります。

 ここで、安息日に絡んだイエス様の行動とそれに伴う教えについて見ていきましょう。

 マルコ2章に(マタイ12章、ルカ6章も)、安息日にイエス様と弟子の一行が麦畑を通りかかった時、空腹を覚えていた弟子たちは麦の穂を摘んで食べ始めた出来事があります。穂を生のまま食べるのですから、飢えに近い相当な空腹だったと思われます。そこで、麦の穂を摘んだことが仕事をしたと見なされて、イエス様がファリサイ派の人たちから批判を受けます。これに対してイエス様は、かつてダビデ王が空腹を満たすために神殿の供え物のパンを食べて家来に分け与えたことに言及して、次のように述べます。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(27~28節)。つまり、安息日は人間の益になるように神が定めたものである。従って、飢えや激しい空腹からの解放は禁止されている仕事にはあたらない、ということになり、それを安息日の主であるイエス様が確定したということであります。

 マルコ3章に(マタイ12章、ルカ6章も)、イエス様が安息日にユダヤ教の会堂で手の萎えた人を癒す奇跡の出来事があります。そこに集まっていた人たちは自分を訴える口実を得られる瞬間を待っているのだな、とわかったイエス様は次のように尋ねます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(4節)。誰も答えることができません。イエス様は癒しの奇跡を行います。恐らく同じ出来事について述べているマタイ12章では、イエス様が次のように述べたことも記録されています。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」(12節)。安息日には仕事をしてはならないが、善を行うこと、命を救うことは、してはならない仕事にはあたらない、ということです。

 ルカ14章に、イエス様が安息日に水腫の人を癒す奇跡の出来事があります。ここでも律法学者やファリサイ派の人たちが様子を窺っている。イエス様は言います。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」(3節)。誰も答えられないのを見て、イエス様は癒しの奇跡を行います。そして、最後のダメ押しとして付け加えます。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(5節)。牛が井戸に落ちるというのは誇張が過ぎて、読んでいて思わず吹き出しそうになりますが、イエス様にしてみれば、それくらい当たり前すぎて馬鹿馬鹿しいという様子がうかがえます。

 ルカ13章には、イエス様が安息日に会堂にて、18年間病の霊に取りつかれている女性に癒しの奇跡を行う出来事があります。安息日が破られたと解した会堂長は怒って言います。「働くべき日は六日あるのだから、病気のある人はその間に治してもらうべきだ。安息日はやめるべきだと。これに対してイエス様が反論します。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛れていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(15~17節)。「安息日であっても」という言い方ですと、本当はいけないのだが、そこは目をつぶって認めなさい、というニュアンスになります。ギリシャ語原文を素直に読むとニュアンスは異なり、単純に「安息日に束縛から解いてやるべきではなかったのか」となります。つまり、安息日こそが、サタンの束縛からの解放に相応しい日であるというのです。(英語NIV訳、ドイツ語ルター訳、スウェーデン語訳、フィンランド語訳も、素直な訳です。)

 まさにここで、安息日にしてもいい善い行い、つまり、病気の人を癒すこと、命が危険な状態にある人を救うことが、なぜ、禁止された仕事にあたらないかが明らかになります。いずれの場合も、束縛された状態や危険な状態からの解放という意味があります。安息日にそういう束縛の下にある人を解放することは、してはいけない仕事とはみなされない。むしろ、しなければならないことになる。それ以外の活動は七日目には休止して、心と体と魂を自分の造り主に向けなければならない。そこまではイエス様もユダヤ教社会の通念も同じでした。違いは、イエス様の場合、病気であれ、差し迫った命の危険であれ、人間の命を縛りつけるものからの解放ということを安息日に結びつけたことにあります。

イエス様は安息日であるかないかに関係なく、多くの人々に癒しの奇跡の業を行いました。病気だけではなく、悪霊、飢えなどからも人間を解放しました。しかしながら、イエス様が行った解放の業の中で最大かつ最重要のものは、人間の命を束縛している罪と死から人間を解放することでした。それはどのようにして行われたでしょうか?

人間は、もともとは天地創造の神に似せて造られた良いものでした。それが、堕罪の出来事のゆえに全てが変わり果ててしまいました。その経緯は創世記の3章に記されている通りです。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順となり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが、死とは罪の報酬である、と教えている通りです(ローマ6章23節)。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。キリスト教はいつも、人間は罪びとだと強調するので、訝しがられることがあります。人間には良い人もいれば悪い人もいる、悪い人もいつも悪いとは限らない、と。しかし、人間は死ぬということが、最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのです。

以前の説教でも教えたところですが、北欧のルター派教会では、罪というものを、「遺伝的に継承する罪」(arvsynd[スウェーデン語]、perisynti[フィンランド語])と「行為に現れる罪」(gärningssynd[ス語]、tekosynti[フィ語])の二つに考えます。人間には良い人もいれば悪い人もいる、悪い人もいつも悪いとは限らない、と言うのは、「行為に現れる罪」で人を見ていることになります。しかし、真理は、「遺伝的に継承する罪」が土台にあるから「行為に現れる罪」も出てくるということです。行為に現れる罪を犯さなくても、人は遺伝的に継承する罪を背負っている。一体、人間の誰が、自分の思いと言葉と行いの全てを神の神聖な意思に100%沿うものにすることができるでしょうか?逆説的ですが、何も非の打ちどころがないように見える信仰深い敬虔な人ほど、自分の罪深さを自覚するものです。「遺伝的に継承する罪」があるから、赤ちゃんにも洗礼が必要になります。健気に可愛らしく眠っている赤ちゃんを見ると、この子が罪びとだとは誰も考えられないと思うでしょう。しかし、この世に生まれた以上は、赤ちゃんと言えども罪を背負っているのです。

罪が入り込んでしまったために死すべき存在となってしまった人間は、神聖な神の御前に立てば焼き尽くされかねない位に汚れた存在です。こうして造り主である神と造られた人間の結びつきが失われてしまいました。しかし神は、人間を見捨てることはしませんでした。なんとか結びつきを回復して、人間が再び神の御許に戻れるようしようと考えました。どうすれば、それが出来るか?そのためには、人間から罪の汚れを取り除かなければならない。しかし、それは人間の力ではできない。そこで、神は、自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を負わせて、彼を人間の身代わりとして罪の罰を受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲に免じて人間を赦すことにしました。さらに、一度死んだイエス様を復活させることで、今度は人間に永遠の命に至る扉を開きました。人間の方ですることと言えば、これらのことが自分のために行われたとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えた罪の赦しの救いを受け取ることが出来るということです。この救いを受け取った者は、神との結びつきが回復した者となり、その結びつきの中でこの世の人生を歩むこととなり、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神の御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとにとどまることができるようになったのです。

以上から、イエス様が人間にとてつもなく大きな解放をもたらしたことが明らかになりました。イエス様は、人間に死をもたらす罪の力を無力にして、死と罪と悪魔に対して完全な勝利を人間にもたらしました。イエス様を自分の救い主と信じて神との結びつきに生きる者は、このイエス様の勝利に与っているので、何も恐れる必要はありません。天と地と人間を造られた神は今日も、この救いと勝利を人間にどうぞと提供しているのです。あとは人間がそれを受け取るかどうかにかかっているのです。

 

4.解放なら安息日に

キリスト信仰者が安息日を神聖なものにするというのは、自分が受け取った救いと解放を全身全霊で確認することです。教会の日曜礼拝はまさにその確認の場です。皆様もお馴染みのように、礼拝は、会衆が神の御前で罪の告白をして赦しの宣言を受けることから始まります。神の御言葉を解き明かす説教を聞いて、既に受け取った救いと解放を深く心に刻みつけていきます。また、讃美歌を歌うことで、この救いと解放を与えて下さった神を賛美し、さらに、救いと解放を与えて下さった神を何よりも信頼して祈りを捧げ、思いを打ち明けます。そして、聖餐式では神との結びつきを強化します。人間の目には単なるぶどう酒とパンのひとかけらにすぎないものが、神の御言葉をかけられることで神聖なものにかわり、これを、イエス様こそ自分の救い主と信じる信仰を持って受け取る時、その人と神の結びつきは、神の目から見て強化されたものになります。このように、礼拝とは一度受け取った救いと解放を確認、強化して、私たちをまた一週間の歩みに送り出すところです。そして、一週間後また帰って来るところです。キリスト信仰者は、安息日に仕事をしないで何をしているかというと、このように救いと解放を確認・強化しているのです。

以上は、既に救いと解放を受け取ったキリスト信仰者について述べたものですが、イエス様が自分の救い主とわかり出しつつも、まだ洗礼を受けておらず、神が用意した罪の赦しの救いをまだ受け取っていない人たちにとっても、礼拝は大事です。信仰者にとって礼拝は既に受け取った救いと解放を確認する場なら、教会に繋がり出した人たちにとってそれは救いと解放の受け取りへと導かれる場だからです。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、安息日の礼拝をこれからも大切にしていきましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(主日礼拝説教 四旬節第四主日)

3/22 手芸クラブのご報告


春らしい青空の中、スオミ教会手芸クラブは、二回目の刺繍を楽しみました。

前回と同じ、クロスステッチとカレリア刺繍です。

パイブィ先生のお祈りから、スタートです。
今回は、幼稚園児の参加もありましたが、黙々と作業が進み、可愛い作品が、誕生しました。

パターンは同じでも、色の使い方で、出来上がりの表情の違いに、楽しさも倍増でした。

パイブィ先生からは民族衣装の興味深いお話も聞かせて頂きました。「聖書にも相続者について書いてあります。「エフェソの信徒への手紙」1章11節でパウロが次のように述べています。

「キリストにおいて私たちは、御心のままにすべてのことを行われる方のご計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」

私たちはどんな価値あることの相続者でしょうか?それは、イエス様を通していただく永遠の命です。永遠の命をいただくということは、神様の天のみ国に入れることです。神様は、私たちが天のみ国を受け継ぐ者になれるように計画をたてて実行されました。
この世の中では、刺繡や民族衣装のような文化的なものは美しいことです。天のみ国を受け継ぐことは、この世のことを越えた永遠のことです。これはなかなか理解できることではありませんが、私たちは文化的な美しいことに触れることで、もっと素晴らしい、美しい天のみ国の始まりを感じることができます。これらの美しいことを与えて、受け継がせてくれる天の神様に感謝しましょう。」

次回の手芸クラブは、白樺のピンクッションを予定しています。

 

説教「こんこんと湧き出る泉の水のように」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書4章5-42節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課はヨハネ4章にある有名な「サマリアの女」の話です。イエス様とこの女性が交わす会話の中に、「生きた水」という言葉が出て来ます。イエス様がその水を与えると、それを飲んだ人は永遠に喉が渇くことがなくなる。そればかりか、その水は飲んだ人の中で泉となって、そこから湧き出る水が永遠の命に向かって流れていくということが言われています。永遠に喉が渇くことはない、とか、心の中に泉が出来てそこから溢れ出る水は永遠の命に向かって流れ出す、と言うのは、何かをたとえて言っているのですが、一体何がたとえられているのでしょうか?たとえの意味ははっきりわからなくとも、聞く人にとって何か心を奪うような美しい描写ではないかと思います。

本日の福音書の日課の後半にもたとえがあります。刈り入れ人と種まき人のたとえです。イエス様は弟子たちにこれを話す時、目を上げて、麦畑が黄金色なのを見なさい、と言われます。刈り入れ人である弟子たちは、別の者が労苦した結果を刈り入れするのであるが、別の者の労苦を分かち合うことにもなる、と言っています。もし、このたとえを家の中とかではなく、外の、まさに黄金色の麦畑の前で聞かされたら、別の者の労苦が具体的に何を意味するかわからなくても、なるほど、その通りだと言う気持ちになるのではないでしょうか?

これらのたとえは具体的に何かを指していています。それを「生きた水」とか「他の者の苦労」というものにたとえて言っているのですが、それではその具体的なものとは一体何なのでしょうか?美しい表現にうっとりして、それではそれは何を意味しているのですか、などと聞かれると、はた、と困ってしまいます。聞いた時は、わかったような気がするのですが、いざ自分の言葉で説明しようとすると、わかったようなことがどこかにいってしまう。真にもどかしいです。たとえというものにはそういうことがよくあります。たとえは、物事を直観的に分からせる効果的な手法だからです。本日の説教では、「生きた水」と「他の者の労苦」を具体的な言葉にしてみましょう。せっかく、うっとりしたのに何だか興ざめだと思われるかもしれませんが、具体的な言葉にして後で、もう一度この箇所を読むと味わいが一層深くなるのではないかと思います。

 

2.

 まず、本日の福音書の箇所の中で起きた出来事の流れをざっと追ってみましょう。イエス様と弟子たちの一行は、ユダヤ地方からガリラヤ地方に引き返します。マタイ、マルコ、ルカの三福音書では、イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後はガリラヤ地方に行き、そこを中心にして活動し、最後にエルサレムに向かう、という展開になっています。ヨハネ福音書ではイエス様は最後のエルサレム行きの前にも何度か往復されていて、三福音書には取り上げられないユダヤ地方訪問の記録が収録されています。

さて、イエス様一行は途中で、ユダヤ地方とガリラヤ地方の間にあるサマリア地方を通過します。サマリア地方とは、遥か昔、ダビデとソロモンの王国が南北に分裂した後に出来た北王国にあたる部分でした。それが、イエス様の時代から700年以上前の昔、東の大帝国アッシリアに攻められて滅ぼされてしまいます。その時、国の主だった人たちは東の国に連れて行かれ、逆にサマリア地方には東から異民族が強制移住させられて来ました。それで、同地方は民族的にも宗教的にも混じり合う事態となってしまいます。旧約聖書の一部は用いていましたが、本日の福音書の箇所の中でも言われているように、エルサレムの神殿とは違う場所で礼拝を守っていました。これに対してユダヤ民族が自分たちこそ旧約聖書の伝統とエルサレムの神殿の礼拝を守ってきたと自負して、サマリア人を見下して、交流を避けてきたことは良くわかります。本日の箇所のサマリア人の女性の発言からも、そのことがよく伺えます。

イエス様一行は、サマリア地方にあるシカルという町まで来て、その近くの井戸のところで休むことにしました。旧約聖書の伝統に基づき(創世記48章22節、ヨシュア記24章32節)、付近の土地はかつてヤコブが息子のヨセフに与えた土地と言い伝えられていました。そのため、サマリア人はそこにある井戸をヤコブから受け継がれた井戸と考えていました。

さて、イエス様の弟子たちは町に食べ物を買いに出かけ、「旅に疲れた」イエス様は井戸のそばで座っていました。「疲れた」などと、イエス様が神と同質な方に似つかわしくない状態にあったのは、これは神のひとり子がこの世に送られた時、乙女マリアという人間の母から人間として生まれたことによります。神と同質ですから、罪を持つことも犯すこともない神聖な方です。しかし、人間として生まれたことで、疲れた時は疲れ、空腹な時は食べ、悲しい時は泣き、喉が渇けば渇き、痛み苦しい時は痛み苦しんだのです。こうしたことは全て福音書の中で言われています。まさに人間として生まれたことで、神が人間の痛みや苦しみを自分のものとして受けられたのです。「ヘブライ人への手紙」4章の中にイエス様について、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」と述べられていますが、これは真理です。

さて、イエス様が一人で休んでいると、サマリア人の女性が井戸に水を汲みにやって来ました。時刻は正午ごろ。中近東の日中の暑さでは、誰もこの時間に水汲みなどにやって来ません。まるで誰にも会わないようにするかのように、女性がやってきました。何かいわくがありそうです。イエス様がこの女性に水を求めると、女性は、なぜサマリア人と交流を避けるユダヤ人が自分に水を求めるのか、と驚きます。そこから二人の対話が始まります。そのやりとりの中でイエス様は、自分は「生きた水」を与えることが出来る者であると自分について証し始めます。女性は、それが何をたとえて言っているのかわからず、本当の飲み水のように考えるので話がかみ合いません。最後にイエス様が女性に「夫を呼んで来なさい」と命じると、女性は「夫はいません」と答えます。それに対してイエス様は、その通り、かつて5人夫がいたお前が今連れ添っているのは正式な婚姻関係にない男だ、だから「夫はいない」と言ったのは正解である、などと言い当ててしまいます。これで、なぜ女性が人目を避けるようにして井戸に来たかがわかります。

そこで、女性はイエス様のことを預言者と見なしますが、イエス様は、自分はメシア救世主であると証します。全てのことに驚いた女性は、シカルの町の人々にイエス様のことを知らせに走り去っていきました。もう人目を避ける境遇にあることなど眼中にありませんでした。それほど驚き、人々に知らせないではいられなかったのです。ただし、女性がメシアという言葉を、本当にイエス様が自分で理解していた意味と同じ意味で理解していたかは定かでありません。というのは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起きる前は、ユダヤ人の間でさえメシアという言葉は使う人によっていろいろな意味を持っていたからでした。その辺の事情は本説教では深入りしません。ただ、本日の箇所の最後のところで、町の人々が二日間イエス様の教えを集中的に聞いた後、彼のことを「この世の救い主」(42節)と信じたと言うのは、注目に値します。

女性が町に走り去ったのと入れ代わり立ち代わりに、食べ物を買ってきた弟子たちが戻ってきます。イエス様はサマリア人の女性と何を話していたのだろうかと訝しがりますが、それでも、食べるように勧めると、イエス様は突然、自分には食べる物があるなどと言いだします。弟子たちは、自分たちが買い物に行っている間に誰かが持ってきてくれたのだろうか、などと考えます。ここでも、イエス様は何かを食べ物にたとえて言っているのですが、弟子たちは具体的な食べ物を考えて話がかみ合いません。イエス様は、天の父なるみ神の御心を行い、その業を成し遂げることが自分の食べ物であると言います。これは弟子たちにとってちんぷんかんぷんの話だったでしょう。イエス様は構わずに話を続けて、刈り入れ人、種まき人、他の者の労苦について話していきます。

ここで、イエス様が「刈り入れまでまだ4カ月ある」ということについて述べていることを注釈しておきます。イエス様は、「お前たちは『刈り入れまでまだ4カ月ある』と言っているが、畑を見よ、もう色づいているではないか」と言われます。これは少し変ですね。というのは、刈り入れまで4カ月あるのに、畑は既に刈り入れ状態にあると言っているからです。これは一体どういうことでしょうか?これは、ギリシャ語の原文をどう理解するかによります。一つの訳仕方としては、新共同訳と異なり、「麦は種を蒔いてから刈り入れまで4カ月かかるものである」という意味にとることが可能です(フィンランド語訳の聖書はそうです。ただし、英語NIV、スウェーデン語、ドイツ語ルター版は新共同訳と同じ)。地中海地域でしたら春小麦はそれ位でできますので、イエス様は当たり前のことを述べていることになります。種は蒔いた後、一定期間したら刈り入れの時が来るものだ、ということです。

ところが、新共同訳ですと、刈り入れまでまだ4カ月あると言っているのに、なんとシカルの麦畑はもう実っている、ということになります。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?実は、イエス様が目を上げて見よ、と言っているのは、まだ茎も伸びていない畑ではないのです。イエス様は何かを現実にはない黄金色の畑にたとえていることになります。それは何でしょうか?イエス様は、目を上げて見なさい、と言います。井戸があるところよりも高い所にあるシカルの町の方を見上げると、大勢の人たちがこちらに下ってやって来るのが目に入ります。サマリア人の女性が、預言者かメシアかわからないが、すごい人がやってきた、と言うのを聞いて、すぐに会おうと出かけてきた人たちです。つまり、女性の証言を聞いて、それを信じてイエス様のもとにやって来たということで、将来起こるべきことを先取りしていることがある。つまり使徒たちの証言を聞いてイエス様を救い主と信じる人たちが出る、ということの先取りがここにあるのです。目撃者から直接イエス様のことを聞いて信じるようになる、後には聖書の御言葉を通して信じるようになる、このようにしてイエス様を救い主と信じる人が刈り入れを待つ豊かな実にたとえられているのです。

イエス様を救い主と信じる人を豊かな実と考えれば、実は最初の訳仕方でも問題ありません。というのは、目を上げて見なさい、と言われる時、視野に入ってくるのは、目の前の色づいた麦畑と町の方からやってくる大勢の人たちの両方になるからです。この方が、たとえで言われる直接的な描写と隠された意味の両方が一緒に揃うので、一層効果的と言えます。

いずれにしても、町の人たちは請うてイエス様に滞在してもらい、2日間に渡って教えを聞いて、彼のことを「この世の救い主」と信じるようになります。長くなりましたが、以上が本日の福音書の箇所の出来事の流れです。

 

3.

さて、イエス様が言われる「生きた水」について見ていきましょう。「生きた」水などと言うと、水が動植物のように呼吸して生きているように聞こえます。原語のギリシャ語を見ると「生きる」という動詞の動名詞形なので「生きている」という意味になり、文字通り「生きている水」です。私が使う辞書はギリシャ語スウェーデン語のものですが、それによれば「生きている」の他に「命を与える」という意味もあります。ヨハネ福音書でイエス様が「生きる」とか「命」という言葉を使う時はたいてい特別な意味が込められています。何かと言うと、「生きる」とか「命」は今の世にあるものの他に、今の次に来る世のものもあって、それらを全部ひっくるめた「生きる」、「命」になります。それで、「生きている水」とは飲む人を永遠の命に至らせる水ということで、まさに「永遠の命を与える水」ということになります。

 この、イエス様が与える「永遠の命を与える水」を飲むと、それは飲んだ人の中で泉となって、そこから「永遠の命に至る」水が湧き出る。泉とは、地下水が地表に沁み出てくるところにできます。穴を掘って地下水が溜まって池のようになったりしますが、それは泉とは言えないでしょう。掘らないで自然のままで地下水が押し上げるように絶えず湧き出るのが泉で、水は溢れ出るしかなく小川となって外に向かって流れ出て行きます。イエス様が与える水を頂くと、そのような水が絶えず湧き出る泉が心の中に出来て、そこから溢れ出た水は永遠の命に向かって流れて行く。美しい描写です。命の根源にかかわるようなことを予感させます。でも、これは一体どういうことでしょうか? イエス様が与える水が死を超えた永遠の命に導いていく、つまり、私たちの命をこの世で生きるものだけに留めず、この世での命と次の世での命を合わせた両方にまたがるものにして、その間ずっと私たちの内にこんこんと湧き出て流れ続ける水。イエス様は何をそのような水にたとえているのでしょうか?

 ここで一つ注意したいことは、この水はイエス様が与えるもので、一度心に泉が出来たら、あとは水が勝手に溢れ出て行くということです。人間はただ、与えられたものを受け取るだけ、後は溢れ出て流れ出ていくにまかせるだけという受け身な存在です。永遠の命に与れるために人間はただ受け取るだけでいいというのは、キリスト信仰そのものを言い表しています。信仰というものが、与えられるものを受け取るだけでいいというのは、違和感が持たれるかもしれません。一般には宗教というのは、何か定められた掟や規定をしっかり守ることをしたり、何か奇跡を行ったりしたら強い信仰、出来なければ弱い信仰ということになると思いますが、その場合、信仰とは人間の方で頑張らないと理想の状態に到達できないということでしょう。それなのに、キリスト信仰では、まず受け取ることに専念せよ、というのはなんだか物足りない感じがするかも知れません。

キリスト信仰の場合は、人間が永遠の命に与れるために何かをしなければならないのは人間の方ではなく、イエス様が既にして下さったのです。そこが全ての出発点になります。イエス様が人間をこの出発点に立たせてくれたのは、それは人間には不可能だったからです。それでは、どのようにして出発点に立たせて下さったかと言うと、それは、人間が永遠の命に与れない障害となっていた罪の問題を解決してくれたことでした。人間は、自分の造り主である神に対して不従順になって罪を宿すようになってしまった堕罪の時に神との結びつきを失い、永遠の命から切り離されて、死ぬ存在となってしまいました。天地と人間の造り主である神は、この状態を直そうと、ひとり子のイエス様をこの世に送られ、人間の罪を全てイエス様に背負わせ、罪の罰を全て彼に請け負わせて十字架の上で死なせました。つまり、イエス様の犠牲の死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。人間は、これらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、神の目に適う者とされ、神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩めるようになりました。万が一この世から死んでも、その時は神が御手を差し出して御許に引き戻してくれて、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのです。

このように、神がひとり子イエス様を用いて成し遂げたことが自分に対して行われたとわかってそう信じ、イエス様こそ救い主とわかってそう信じれば、永遠の命に与れるのです。まさに、信じることが永遠の命に至らせることになるのです。それで、イエス様が与える「永遠の命を与える水」というのは、こうしたことを信じる信仰ということになります。キリスト信仰にとって信仰とは何かと問われたら、それは、父なるみ神がひとり子イエス様と一緒に人間の救いを成し遂げたということだ、というのが答えになります。父とみ子は、全てのことは整えたので、どうぞ受け取りなさい、と言って差し出してくれている。それを、はい、ありがとうございます、と言って受け取れば、それが私たちの信仰になって、私たちの内に永遠の命に向かって溢れ流れ出る水の源が生まれるのです。

イエス様は、自分にとって食べ物とは神の御心を行い、神の御業を成し遂げることだと言っていますが、これも「水」の場合と同じように、「食べ物」が何か永遠の命に導くものを意味しています。神の御心を行い、神の御業を成し遂げるというのは、神のひとり子が十字架の死をもって人間に代わって罪を償い、復活させられることで死と死をもたらす罪を滅ぼして、人間を罪の支配下から贖いだすことです。まさに、人間を永遠の命に与らせる御業です。

 刈り入れ人と種まき人のところで、「別の者たちの労苦」と言われます。「別の者たち」と複数形になっていますが、これは、み子イエス様と父なるみ神が人間の罪の償いと罪の支配からの贖いの業を成し遂げたことを指しています。弟子たちは、自分たちが見聞きしたことを命をかけて証言し、記録に残し伝えることをし、その結果、多くの人たちが、神がイエス様を用いて成し遂げた救いを受け取ることが出来るようになりました。受け取った人は豊かに実る実となりました。

 

4.

 兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しの救いを受け取った私たちの内にはこんこんと水が湧き出る泉があることを忘れないようにしましょう。日々聖書の御言葉を繙き、自問し、神に祈り全てを打ち明けることは大事です。そうしないと、泉は見失われ、小川のせせらぎは聞こえなくなります。この世には、泉のあることを忘れさせたり、そんなものはないと思わせるものに満ちています。特に試練や苦難や誘惑に遭う時などはそうです。しかし、そんなのは単なる思わせにしかすぎません。本当のことではありません。せせらぎの音は雑音にかき消されることはあっても、せせらぎの音自体は消えたことにはなりません。いつもゴルゴタの十字架の主に思いを馳せ、心の目をそこに向けましょう。そうすれば、泉は相変わらず水を湧き出させていることに気づくでしょう。心の耳にせせらぎの音が響いて来るでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

3月のフィンランド家庭料理クラブのご報告

真冬に戻ってしまったような、北風の強い土曜日の午後、家庭料理クラブは、「ルシッカレイパ」を作りました。

最初にパイブィ先生のお祈りからスタートです。

グループに別れて、計量、生地作りへと進みます。
ルシッカはフィンランド語でスプーンの事、生地をスプーンに乗せて形を作り、焼き上げます。
冷めた生地にラズベリージャムをサンドして完成です。

今回の家庭料理クラブは、ちょっとした「おもてなし」をテーマにしましたので、簡単なブォイレイパも楽しく作り、試食タイムになりました。

お腹も満ち足りてきたころ、パイブィ先生から、フィンランドのラズベリーのお話、「マタイによる福音書」6章28-30節やイースターに向かう受難節のお話も聞かせていただきました。
天の神様はご自分が造られた自然を通して、私たちにベリーや果物や野菜などを与えてくださいます。これは私たちを喜ばせ、神様に感謝の気持ちを抱かせます。しかし、神様が私たちに与えられるもっと大事なことは、イエス様の十字架と復活を通して永遠の命を与えて下さったことです。

ご参加された皆様、可愛いルシッカレイパ作り、お疲れ様でした!

4月の「家庭料理クラブ」は、
イースターが近いので、開催日等、変更がある場合も有ります、教会HPのチェックをお願いします。

 

 

説教「アブラハムの信仰と私たちの時代」神学博士 吉村博明 宣教師、創世記12章1-8節、ローマ4章1-12節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の旧約聖書と使徒書の日課はアブラハムについて述べています。アブラハムはいつの時代の人かと言うと、これはイエス様の時代と比べて歴史的な確定が困難です。イエス様の時代は、福音書の中に名前が出て来るローマ帝国の皇帝や総督、また当時のパレスチナの地の為政者などから、今から2000年くらい前のこととわかります。ところがアブラハムの場合は、エジプトの国王が登場しますが(12章後半)名前が記されておらず、歴史的に照らし合わせられる手がかりが少なく、正確な時代の確定は困難です。イエス様の時代からさらに約2000年位さかのぼった頃という説が一般的です。つまり、私たちの時代から4000年くらい昔の人ということになります。本日の旧約の日課は、アブラハムが神の召命を受けて、ハランという所からカナンの地に移住する出来事についてです。ハランは、地図でみると、現在のトルコとシリアの国境沿いのトルコ側にあります。カナンの地とは現在のイスラエルあたり、神がアブラハムの子孫に与えると約束した地です(12章7節)。

さて、アブラハムが神から召命を受けてハランを旅立ったのは75歳の時でした。彼は175歳で死ぬので(25章7~8節)、100年間天地創造の神との関わりの中で生きることになります。皆さんは、アブラハムの100年にわたる信仰の生涯について、どんなことを思い出しますか?創世記の11章から25章に彼の信仰の生涯について記されています。沢山の出来事があります。恐らく聖書の読者の多くがよく覚えている出来事として一番のものは、高齢にしてやっと授かった、愛する息子のイサクを生け贄として捧げよ、と天地創造の神から命じられてしまったことではないでしょうか?神が与えた賜物と賜物を与えた神のどちらを重んじているのか示してみよ、と試されてしまったのです。アブラハムが陥った窮地は、私たちの想像を超える仕方で解決が与えられます。これ以外にも、神との結びつきの中で生きるアブラハムにいろんな事が起こったことが記されています。ハランを出発して、まさに波乱に満ちた人生に歩み出したと言えます。しかし、それは神からの祝福に満ちた人生でした。

アブラハムに関することで、二つほど、その後の世界の歴史にとって重要な意味を持つことがあります。一つは、創世記17章にありますが、天地創造の神と同盟関係を結ぶ時、割礼という儀式を行うことが条件になりました。割礼を施されて、天地創造の神と同盟関係に入る、これでユダヤ民族という一つの民族が誕生することになりました。もう一つの重要な意味を持つことは、本日の使徒書の日課で言われるように、使徒パウロがアブラハムの信仰の中にまさに信仰の真髄を発見したことがあります。この発見がもとで、キリスト信仰がユダヤ教のみならず、他の宗教と比べても違いが際立つ宗教になったと言っても過言ではありません。本日の説教では、このことを見ていこうと思います。

その前に、今の時代を生きている私たちにとってアブラハムの信仰がどんな意味を持つのか、少しでもわかるために、今のこの時代がどんな時代であるかを少し考えてみたく思います。最近では、真実とか事実というものは、本当に真実か事実かが問題ではなく、多くの人に受け入れられたり、支持されれば真実、事実になる、という風潮があります。何かの目的の達成のために役立つことを真実、事実にするという風潮があります。アフター・トゥルースとかオールタナティヴ・ファクトなどと言う言葉はそうした風潮を反映しているのでしょう。本当に何を信じたらいいのか途方にくれてしまう、わけのわからない時代になってしまったと思います。時代がわけのわからないものであればあるほど、少なくとも自分自身に関してはわけのわかるようにしよう、それをしてから、わけのわからない時代に立ち向かっていこう、そう考える人にとっては、やはり聖書は繙くに値する書物ではないかと思います。こういう時代だからこそ、聖書やキリスト信仰には一層意味があるのではないかと思います。

 そういうと、世界には多くの宗教があるのに、なぜキリスト教だけなのか、キリスト教は唯一の真理を代表すると気取っていると言われてしまうかもしれません。でも、聖書という書物は、イエス様の十字架と復活の出来事の後に成立した新約聖書の部分が出来てから2000年近く経ちますが、その間ずっと、それぞれの時代の中で生きた人間に時代に向き合う手がかりを与えてきたことは否定できません。聖書ですので、もちろん唯一の創造主という、私たち一人一人を造って私たちに命と人生を与えた神が中心にあります。そしてその神と自分との関係はどうなっているのかということを考えさせます。つまり、この私を造られ、私について何かを期待し、何かを計画している、そういう方がおられる。同時に、今のこの時代を生きている私は、いろんな問いを持っている。そうした問いにキリスト信仰は、すっきりと答えを与えるかもしれません。しかし、どちらかというと、人間を現実と理想の狭間において、悩ませることの方が多いかもしれません。でも、狭間に置かれることで、かえってそれまで見えなかったいろんなものが見えてくるということになるのではないでしょうか?

 もちろん、創造主と自分との関係など持ち出さないで、純粋に哲学的に無神論的に、自分とは何か、自分が向き合っている世界や時代は何か、考えることも可能です。ただ、哲学の場合は、思考はこの世止まりで、この世の範囲内で考え、答えを見出そうとします。キリスト信仰の場合は、この世の次に来る世があって、その2つの世を合わせた全体から今の世を見下ろして答えを見出そうとします。さらに、キリスト信仰の立場で言わせてもらえれば、旧約聖書に新約聖書が加えられた時から数えて2000年位の蓄積があって、それをもとに時代に立ち向かっていけば、その蓄積は吟味されて、さらに深く、豊かにされていきます。キリスト信仰をもって時代に立ち向かうというのは、この、蓄積を吟味し、それをさらに深く豊かにするという、そういうプロセスに参加することだと言えるでしょう。このプロセスに参加することを通して、自分自身を深く豊かにすることになると思います。

以上、今の時代にあって、キリスト信仰を持って生きることにはどんな意味があるかについて序論的なことを述べてみました。本日は、そのキリスト信仰にとって大きな意味を持つ、アブラハムの信仰について見てみます。アブラハムの信仰は、キリスト信仰の蓄積の中の大きな部分を占めるものです。ただし、本日は創世記の11章から25章まで全部は見れないので、アブラハムの信仰の序説くらいに考えてお聞き下さればと思います。

 

2.神は信じない者を呼びだして信じるようにする

 本日の旧約の日課の創世記12章初めは、当時アブラムという名前のアブラハムが、神の命を受けて、ハランからカナンの地に移住するところです。名前がアブラムからアブラハムに変わったのは、17章のところで神が、お前を多くの国民の父にするので、これからはアブラハムと名乗りなさい、と言ったことによります(5節)。アブラハムとは、ヘブライ語の単語の合成で「国民の多いことの父」という意味を表わします。まさに「多くの国民の父」です。

さて、アブラハムはハランからカナンの地へ移住しましたが、実は、アブラハムはハランの出身ではありません。創世記11章をみると、もともとアブラハムは父のテラと兄弟たちとともにカルデアのウルに住んでいました。カルデアとはバビロンのことです。つまり、アブラハムとテラたちは、今のイラクであるバビロンからユーフラテス川沿いに遡って、今のトルコ・シリア国境付近のハランに移り、そこで「私が示す地に行きなさい」という神の命令に従って、妻サライ(後のサラ)、甥のロト、ハランで得た従者や財産を携えて、カナンの地に移住をしたのでした。

 ここで、ひとつ、あまり知られていないかもしれませんが、アブラハムの経歴の中で驚くべきことがあります。それは、ヨシュア記24章2―3節の中でヨシュアが民に神の言葉を伝えている場面がありますが、そこで次のような神の言葉があります。「あなたたちの先祖は、アブラハムとナホルの父テラを含めて、昔ユーフラテス川の向こうに住み、他の神々を拝んでいた。しかし、わたしはあなたたちの先祖アブラハムを川向うから連れ出してカナン全土を歩かせ、その子孫を増し加えた。」

つまり、アブラハムは神の命令を受けるまでは、バビロンの地、ハランの地で他の神々を拝んでいたのです。それが、神の命令を受けて、神に従う人生を始め、死ぬまで神に聞き従う者として生き抜いて、イスラエルの民の元祖になったのです。そんなアブラハムが神の命令を受ける前は異教の神々を拝んでいたというのは驚きです。

 「他の神々」というものがいつ頃から出て来るようになったのか、ということをちょっと考えてみました。ノアの時代の大洪水の後で、人間はまた増えだし、諸民族に分かれていき、世界中に広がって行きました。ただ、当時人間はまだ共通の言語を持っていました。そこで人々は、バビロンの地に集まって来て、そこに町と天にとどく塔を作り始めました。神は人間が自分と張り合おうとする性向を良しとせず、この建設をやめさせるために、人間が神に張り合おうと共謀できないようにしてしまおうと、神は人間の言葉を「混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないように」しました(11章7節)。つまり、人間の言葉を共通のものでなくする、言語をバラバラにするということです。ひょっとしたら、言語がバラバラになって、人間が各地に散らされて、それぞれの場所でそれぞれの言葉を使って生活するようになったことが、いろいろな神々の崇拝を生み出すことになったのではないかと考えることができます。ノアの子孫であるアブラハムの家系も、散らされた場所で、天地創造の神とは違う神々を崇拝するようになっていったのでしょう。

 しかし、聖書の立場に立てば、人間はみな天地創造の神に創造された者です。世界各地に散らされて、自分たちの言語を使って生活しているとは言っても、人間には創造主の神について何か遠い追憶のようなものがあることになります。「コヘレトの手紙」3章11節には次のような言葉があります。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」。つまり、人間は造り主の神から「永遠を思う心を与えられている」のです。(実は、昨年の新年礼拝で私はこの聖句をもとに説教をしたのですが、ヘブライ語の原語の正確な意味は、「神は永遠というものを人の心に与えられた。それなしでは、人は神のなさる業を発見すること不可能である。しかし、与えられたので可能なのだ

ではないかと申し上げました。まだ専門家に聞いて確認していません。)、

使徒パウロは、アテネの丘の上の大集会場にて居並ぶギリシャの知識人を前にしてキリスト信仰を証しした時、人間には神を捜し求めようとする心があって、それぞれの民族は「手探りするように

(ψηλαφαςω)神を捜していると述べています(使徒言行録17章27節のギリシャ語の関係する文の訳は「もし手探りして見いだすことができるのであればいいのだが」という意味になると思います)。さらにパウロはローマ2章の中で、ユダヤ民族と異なって十戒をはじめとする律法を持たない異邦人も、律法の命じることを自然に行えるということを述べています。例えば、十戒を持っていなくても、盗む、殺す、姦淫する、偽証する等のことは、悪い事だとわかり、それをしないようにしたり、また犯した者を罰したりする、それは異邦人の心の中に律法の要求することが心に記されているからだ、と述べています。人間を造られた神は十戒を与えた方ですので、どんなに離れたところにいる民族でも善悪の基準はお互いそうかけ離れたものではないのではないでしょうか?

しかしながら、同じ天地創造の神に造られた人間はみな、言葉や文化の違いから現実にはいろんな神々を崇拝しているにしても、心の奥底にはみんな同じ希望を持っている、などといくら言っても、そこには魂の救いはありません。パウロがローマ3章で述べるように、全ての人間は十戒や律法を手に渡されていようが、心にそれらしきものを記されていようが、全ての人間は十戒や律法に盛られた神の意思を完全に実現できないということで、みな神に背を向けてしまっている存在なのだ、神の御心に反抗し、神聖な神に対して罪の汚れを持つ存在、それで神の裁きの下に置かれている存在なのだ、これが人間の真実なのだ、と教えます。人間の真実について、きれいごと、まやかしはいわない。これが聖書の立場です。それでは、人間は神の目に適う者になれないのでしょうか?神の裁きの下に置かれたままなのでしょうか?

この問題を解決するために神はひとり子イエス様をこの世に送ったわけですが、そのことを見る前に、アブラハムはどのようにして異教の神々から天地創造の神に聞き従えたのか、ということについて私が考えたことを述べておこうと思います。もちろんアブラハムにも、天地創造の神への追憶はあったでしょう。しかし、その神を知る手がかりがありません。そこへ、神自らが声をかけて呼び出したのです。呼び出した神が異教の神々よりも信じるに値すると思った要因ですが、異教の神々が単なる偶像であれば、これはもう明白なことです。イザヤ書47章に、偶像というのは人間に背負ってもらって据えつけられて立つことはできるが、そこからは自分で動くことは出来ない、助けを求めて叫んでも答えてくれない、悩みから救ってもくれない、と言われています。それまで拝んできた神々が無口だったのに対して、突然、語りかける神が近づいてきたのです。その神は、天と地と人間を造られ、人間一人一人に人生と命を与え、さらに堕罪の時に失われた自分と人間との結びつきをいつか取り戻してあげようと決めておられた神だったのです。

 

3.人間は神の力で義とされると信じて義とされる

 

アブラハムの信仰で、キリスト信仰にとってとても大事なことが、本日の使徒書の日課ローマ4章3節に述べられています。パウロが創世記15章6節を引用して述べているところです。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」。いわゆる、信仰によって神から義と認められる、ということです。このことについて見ていきます。

この創世記15章6節は、その前後を合わせて見るともっとよくわかります。それは、「アブラハムは、高齢であるにもかかわらず自分と妻のサラの間に子供が授けられて、多くの子孫を得ることになるという神が約束したことを信じた。その信じたことが、彼の義として認められた」ということです。不可能と思える状況の中、理性で考えて起こりえないことを、神はすると約束した、神が約束したことだからと疑わずに信じた。それがもとで、アブラハムは義を有すると神に認められたということです。

 そこで義というのは、これは、神の意思が完全に実現された状態を意味します。まず、神は義そのものの方です。人間はと言うと、これは神聖な神と正反対な、罪を持つ、神の意思に反する存在です。義がない存在です。どうしてそうなってしまったかと言うと、堕罪の時に神に対して不従順になって罪が人間の内に入り込んでしまったからです。その結果、人間は死ぬ存在となってしまいました。死ぬということが、人間は罪を内に持っていることの証拠なのです。そこで、もし人間が義を持てるようになれば、人間は神の目に相応しい者となって、堕罪の時に失ってしまった神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この世を天地創造の神との結びつきを持って生きられるというのは、順境の時も逆境の時も絶えず神から見守られて、良い導きと助けを得られるということです。万が一この世から死ぬことになっても、神との結びつきがあれば、神が御手を差し出して、御許に導いて下さいます。そして、永遠に自分の造り主の御許に戻ることができるようになります。

そのように人間が義を持てるためには、自分の内にある罪を取り除かなければなりません。神は人間に十戒をはじめとする律法を与えましたが、人間はそこに示される神の意思に沿うようにしっかり生きなければなりません。ところが、それは思うようにうまくいきません。なぜなら、パウロが教えるように、律法というのは本質的に実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないものだからです。なぜなら律法によっては、罪の自覚しか生じないからです(ローマ3章20節)。このように、律法や十戒を守って神の目に相応しい者になろうという義の取得の仕方は、破たんしているのです。これが人間の現実である、というのが聖書の立場です。

 では、どうしたら良いのか?そこで神は人間に代わって解決を図って下さいました。ひとり子イエス様をこの世に送って、彼に人間の全ての罪の罰を請け負わせて、十字架の上で死なせて、この犠牲の死に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。本日の福音書の箇所でイエス様は、自分は多くの人たちの身代金としてきた、と述べていますが、それはまさに、自分は人間を罪の呪縛から解放するための身代金になる、自分の命を代価にする、ということでした。先ほども述べたように、人間は、死ぬということが罪の支配下にあることを示しています。詩篇49篇に「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」(8~9節)と言われます。この贖い、買い戻しをしてくれたのがイエス様でした。その代価は、神のひとり子が十字架で流した血だったのです。イエス様の犠牲とは、まさに人間に代わってなされた罪の償いでした。これで人間の罪が赦される道が開かれました。加えて、イエス様の犠牲によって、人間は罪の支配下から神のもとに買い戻されて、罪の支配から解放されたのです。

 罪が赦されるというのは、神が不問にする、なかったことにする、それで、もうお前を裁きのもとに置かない、だからお前は神のひとり子の犠牲のおかげで裁きを免れた者として、新しくやり直しなさい、ということです。不問にする、なかったことにする、というのは、罪が消え去らないで残ることですが、それでも裁きはないと言われているので、罪は消え去ったのと同じ状態にあります。そこで、人間の方が、ああ、あの2000年前の十字架の出来事は今を生きる自分のためにもなされたんだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、以上のような神からの罪の赦しがその人に効力を持ち、神は過去の罪を不問にするとおっしゃって下さり、その人は、神に対する感謝の気持ちから、これからは罪を犯さないようにしよう、罪の思いを持たないようにしよう、という心を持って生き始めます。

そうではなくて、もし、まず神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛そう、それをもって神から義と認めてもらおう、というのは、律法を守って義を得ようとすることになって、それは不可能です。キリスト信仰は逆です。イエス様を救い主と信じる信仰によって神に義と認められます。最初に義としてもらって、そのことに感謝して、神を全身全霊で愛そう、隣人を自分を愛するが如く愛そう、というふうになっていきます。

 

4.アブラハムの信仰と私たち

 以上みてきましたように、アブラハムが、理性では不可能と思える中で、神の約束の言葉を信じたことが、彼の義として認められました。信じたことで義として認められるということは、キリスト信仰にあてはまります。それでは、アブラハムが自分で聞いた神の言葉と同じ言葉を私たちも聞くことができるでしょうか?それを聞いて信じて、義とされるような言葉は私たちにあるでしょうか?それがあるのです。私たちにとって神の言葉は、聖書のみ言葉です。神は、罪に陥った人間をいつか、神聖な自分の前に立たせても大丈夫な清いものに治してあげようと、それを実現するためにひとり子をこの世に送られた。人間全ての罪を神のひとり子の一回限りの犠牲の死で帳消しにするという、それ位、神聖で重々しい犠牲を彼に強いて、彼はそれを受けて立った。さらに、一度死んだイエス様を復活させることで、神は死を超える永遠の命があることを示し、その扉を人間のために開かれました。これら全ての、理性では受け入れられない、収まりきれない、神の愛と恵みを信じること。これらのことは書いてある通りに起こったのだし、それは自分のために起こったのだ、神は自分のひとり子を犠牲にするくらいに自分のことを愛してくれている、そうわかって、神はまことにイエス様を人としてこの世に送られた、そのイエス様は私の救い主です、と信じれば、もう義と認められるのです。神の目に相応しいものとされるのです。神の目に相応しい者としてもらったからには、神の意思に沿うように生きることが当然のことになります。うまくいかない時があっても、その時は神の御前に出て、イエス様を救い主と信じます、と赦しを願いば、神は、わかった、わが子イエスの犠牲の死に免じてお前を赦す。もう罪を犯さないように、と言ってもらえるのです。キリスト信仰者とは、いつの時代にもどんな状況に置かれても、これを繰り返しながら人生を歩む者です。

 兄弟姉妹の皆さん、このように私たちは信じることで神から義と認めてもらえます。それで私たちもアブラハムと全く同じ祝福を受けられるのです。アブラハムは75歳からこの世を去るまで100年間、天地創造の神を信じて歩みました。その信仰の人生は波乱に富んでいましたが、いつも神からの祝福に満ちた人生でした。私たちの場合は100年はないかもしれませんが、それでも神に祝福された人生を歩めるということに変わりはありません。そのことを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン