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説教:木村長政 名誉牧師

 コリントの信徒への手紙  第18章1~6節            2019年3月31日

                

 

 私の説教では、コリントの信徒へあてられたパウロの手紙を見てまいりました。今回は8章1~6節まで読んでいただきました。偶像に供えられた肉というタイトルになっています。

 前回まで7章は結婚に関する質問でした。

  さて、今回は、偶像に供えられた肉を食べてもいいか、ということであります。食べ物のことですが、それが肉であるとか、さかなや野菜をもっと食べた方がいいといった事ではありません。

  パウロがここでとり上げた問題は、偶像に供えられた肉によって、影響を受けている教会の中での問題であります。

  このことは、当時の人々にとって、決して小さい事ではありませんでした。パウロは、こまごました規則のようなことを語っておりません。その事についての、基本的な事を、明らかにしようとしているのです。

  コリントの教会の人々も「わたしたちは皆、知識を持っている」と思っておりました。1節で言っています。「我々は皆、知識を持っている」

  大切な事は信仰的な考え方であります。

  そうすると、この問題によって、かえって、信仰がはっきりさせられるようになるわけであります。

  そこから、どういうことが生まれるでしょうか。偶像に対する言われなき恐れから、解放されることです。その恐れを克服することです。

  手で造られ、人々が拝んでいるものの外に、自分の偶像になりやすいものがあるにちがいありません。偶像に打ち勝つということは、そのように広い意味があるのです。

  それらの事を考えるのにあたって、まず考えねばならぬことがありました。それは、偶像への供え物について知っているという「その知識はどういうものか」「その知識で大丈夫か」ということであります。そのために、はじめの3節は、知識とはどういうものかという、大変な話になりました。知っているといっても、その知識とはどういうものか、ということであります。

  まるで、哲学のような話のようなことであります。

  そのことについて、信仰の立場からはっきりさせておかねば、偶像と戦うことができないと思ったのでありましょう。信仰の上で、知るということの意味をはっきりさせなければ、自分たちが接する色々なことについて、それを自由に用いることは難しいであろうと思われます。

 

  コリントの教会の人々が「わたしたちは、みな、知識を持っている。」と言いますと、パウロはすぐに「知識は人を誇らせる」と言いました。これは美しい言葉であります。それと同時に、誰もが、虚をつかれたような思いをするのではないでしょうか。

 

  この地方には、知識がなければ、救いを得ることができない、と言っていた人が多くおりました。パウロが言うことは、そうした人々に対する答えであるとも言えるのであります。そのような人々は別として、神を知るのにやはり知識が必要である、と思っている人も少なくないのではないでしょうか。特に偉い知識人というのではなくても、やはり神について知りたいと思う人は、決して少なくはありません。

  信仰と比べてみると、知るということが、どういうことかが、よくわかるのではないでしょうか。大事なことですが、信仰は自分の考えを捨てて、神の仰せになることを受け入れることであります。そのようにして、神に信頼するわけであります。それに対して、知識というものは、いつでも、最後には、自分が中心になります。自分が知るのですから、自分の考えで受けいれるのですから、それは、自分が中心になっても仕方のないことです。そのために、パウロが言いますように、知識

は、人を誇らせるのであります。

  ここに書いてある知識というのは、普通の知識ではなく、神を知る知識であります。

  それなら、信仰と同じように謙遜であるか、と言えば、そうじゃない、やはり人を誇らせるものである、というのであります。

  神を知る知識であっても、それが信仰にとって代わるようであれば、それは結局はやはり、その人を誇らせることになるのではないでしょうか。

  人間の小さな器の中に、神を入れなければ承知ができないのでありますから、それはやはり、傲慢になるのであります。

  だから、神を知る知識というのは、その傲慢さを捨てたものでなければならないはずであります。そうでなければ、神を知ったつもりでも、ほんとうは、神を知ったのではなく、自分の偉さを知った、ということになるのかも知れません。そういう意味で、知識は人を誇らせるのかもしれません。

 

  それなら、人間を、信仰によって生きさせるものは何でありましょうか。それは信仰である、と言ってしまえば、それまでであります。しかし、その信仰による生活のことを、ここでは愛と言っているのではないでしょうか。

  知識が、自分中心になるのに対して、愛は自分を捨てさせ、神によって生きるものにしてくれるのであります。そこで、知識に対して、愛こそは人の徳を高めると言います。

  人の徳を高める、という字は、ただ建てる、ということであります。人とは書いてないのでありますが、人であることは分かりきっていることです。

  しかし、実際は、愛は建てると書いてあるだけであります。それで、ある訳では、愛は教会を建てる、となっています。

  8章の1節には、愛は造り上げる、となっています。人間を傲慢にする知識に対して、人間を信仰によって生きるものにするのは愛であります。神を知ろうとするのと、神を愛しようとするでは、大変にちがうのではないでしょうか。

  しかも、神を愛し、神を信頼することがなければ、それは、神を知ったことになりません。もし、知るというのなら、ただ知識のことではなくて、あの人を知っている、というような、その人をほんとうに知ることになるのではないかと思います。

  従って、愛はただ、個人を建てるのでなくて教会を建てる、という方が適切かも知れません。

  そういうことからすると、人は、もし、愛がなければ「自分が知っていると思うなら、その人は知らなければならないほどの事すらまだ、知っていない」のであります。

  例えば何も知らない者ほど、自分の知っているわずかばかりの事を、自慢するでありましょう。しかし、えらい学者なら、自分は何でも知っている等とは言わないでしょう。むしろ、自分は、まだ何も十分には知っていない、と思っているにちがいありません。

  今、ここで言っているのは、神のことであります。神による救いのことであります。従って、神について、何もかも知っているというのは、神の救いについて、どんなことでも知っているということになるのではないでしょうか。それは、救いは神にはなくて、自分にある、人間にある、ということになるのであります。

 自分が何か知っている、と思うのは、相手が人間である場合と、神である場合は、非常にちがう。神の場合は、神の最も大きな力である救いについて知っている、ということ。更に言えば、自分の方が神より上である、ということになるのです。

  多くの人が、神について語ったり、考えたりしてきました。それはみな、結局は、神に依り頼むことはしないで、自分は、神について知っている、神のすくいも分っている、だから、自分は神の救いはいらないのである、ということになるのではないでしょうか。

  ここでは、ただ、何でも知っているように思うことは、傲慢である、というようなお説教をしているのではなくて、救いについての人間の愚かなおごりを語っているのです。

  神についての知識を誇っている者には、そのことが分っていない、というのであります。従って「その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ、知っていない」と言われるのであります。

「知らなければならない」という、それは神のどこの事でしょうか。

  罪人としての我々が、神を神とするのに、他に道はありません。ただ、神に救われて、神を信じるだけであります。

  そう考えてみますと、私たちは、いかにも神を知りません。どれくらい知っていると思っていますかネ。知ったと思った時は、神から離れて、やはり自分の力を信じた時だけである。

  従って、最後の3節の言葉が、今までのことを逆転する言葉となって、するどく言います。

  「しかし、人が神を愛するなら、その人は、神に知られているのである」というのです。

 

 ここでは、知るという言葉が、愛するに変っています。「知る」と言っている限りは、人間として、神を知る事にはならない。人間が神を知るのは、神を愛するということ以外にはありません。なぜなら、愛するという時にこそ、自分を捨てて、神に一切をゆだねる生活が生れてくるからです。

  しかし、そこにも、同じような問題があることに、気がつかねばなりません。

  それは、愛する、ということも、又、知る、と同じように、自分中心なことが多いからであります。人間の愛は、決して、いつも、完全に、犠牲ではありません。所詮は、自分のしたいことしか考えないものであります。

 

 愛がまことの愛になるためには、自分が愛するより先に、愛せられねばならないのであります。今まで、知る、といっていたのに、ここに至って、愛するになりました。それが、又、神に知られる、というように、知るに変っているのであります。

  パウロは、神を知ることは、ほんとうは、神を愛することであり、神を愛することは、神に愛せられることであることをよく知っていました。

 

 ガラテヤ書4章4節には「今では、神を知っているのに、否、むしろ、神に知られているのに・・・」という有名な言葉があります。ガラテヤ地方の人々は、今までは神々の奴隷であったのです。しかし、今は、神を知るようになりました。しかし、それは、実は、神に知られていることである、というのであります。言いかえれば、神を愛するようになった、それは神に愛せられていることが分った、ということなのです。

  そのように、私たちが神を知るより先に、神が私たちを知って下さる、ということこそ、神の恵みであります。もしも、その恵みがなかったならば、私たちは、永遠に、神を知ることができなかったでありましょう。

 

  神は、御子イエス・キリストの十字架と復活とによって、御自分が「私たちを知っていてくださる」ことをお示しになりました。私たちは、このキリストの救いのゆえに、神の恵みにより、神に知られ、神に救われることを知り、はじめて、神を知り、愛することができるようになるのであります。思いわずらいのない生活をしたい、と私たちは願います。平安を得たいのであります。しかし、それは、神が自分を知っていて下さる、ということが分かるまでは、得ることができないのであります。神が先に知っていて下さった、それが私たちの救いなのであります。           アーメン

 

 

説教「神が共にいれば不運があっても不幸にはならない」神学博士 吉村博明 宣教師、出エジプト3章1-15節、ルカによる福音書13章1-9節、第一コリント10章1-13節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1.聖書の神の名前

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 本日の旧約の日課は出エジプト記3章のモーセが天地創造の神と出会うところでした。当時イスラエルの民はエジプトで奴隷扱いを受けていました。神は民の助けを求める声を聞き、以前アブラハム、イサク、ヤコブに約束したことを果たす時が来たと見なしました。約束したこととは、民にカナンの地を定住地として与えるということです。神はモーセに、エジプトの国王ファラオのもとにかけあって民の出国を認めさせて、民を引き連れて約束の地に民族大移動せよと命じます。この出エジプトの出来事は世界の歴史の古代史の出来事の中で最も大きなものの一つです。その中で起こるいろいろな出来事は、人間と天地創造の神との関係はどういうものかをいろいろ考えさせるものです。中でも、神がモーセを通して十戒の掟を与えたことが重要です。確かにこれは、イスラエルの民が守るべきものとして与えられたという面がありますが、人間に対する神の神聖な意志、神が人間に求めていることが凝縮されているという意味で全人類に関わる掟と言えます。

 本日の出エジプト記の中で一つ注目すべきことは、神が自分の名前を明らかにしたことです。エジプトを脱出しろと神が命じるなら、その神の名前は何と言うのか、そう民が聞いてきたら何と答えたらいいのか?とモーセは神に聞きま。神はこう言いなさいと言って自分の名前を明かしたのです。ここで少し脇道に逸れますが、「神」という言葉は一般には、超自然的で人格(ないしは人格に近いもの)を持ち崇拝の対象となるものを意味します。世界中にはいろんな神がいて、それぞれに名前がついています。ギリシャやローマの神話の神々、日本の神話に出てくる神々の名前は、ここではいちいちあげませんが、皆さんも聞いたことがあるでしょう。このように世界中にいろんな名前を持つ神がいるのですが、ただ、聖書の立場ではそれらは皆つくられたもの、被造物ということになります。聖書の神が万物の造り主であり、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた、これが聖書の立場だからです。そう言うと、またキリスト教の独りよがりが始まった、と言われてしまうのですが、聖書の立場はそういうものなので、その立場に立ったらそうとしか言いようがないのです。

そこで、聖書の天地創造の神はどんな名前を持つでしょうか?モーセの問いに対する神の答えは「私は『私はある』である」でした(出エジプト3章14節)。「私はある」エフ イエאהיהというのは、まさに万物の造り主であることを言い表しています。というのは、聖書の神というのは万物の創造に着手された以上は、創造の時にポッと出てきたのではない、創造の前から存在していた永遠の方だからです。それなので、「わたしはある」以外に言い表しようがないと言えるでしょう。

さて、天地創造の神はモーセに、イスラエルの民にはこう言いなさいと命じます。「『私はある』という方が私をあなたたちのもとに遣わした」と(14節)。神はさらに、民にこう付け加えなさいと言います。「お前たちの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるヤハヴェが私をあなたたちのもとに遣わした」と。ここで「私はある」が突然、「ヤハヴェ」יהוהに替わりました。「私はある」אהיהは一人称ですが、ヤハヴェיהוהは三人称に近い形で「彼はある」という意味を連想させます。神は今後この名で自分を呼びなさいと言います(15節)。

ここで皆さんの聖書に関する知識を増やすために一つ申し上げます。ヘブライ語の旧約聖書には、神のことをヤハヴェと記すところが無数にあるのですが、それを読む時はヤハヴェと読まないことが慣例になっています。神聖な神の名を汚れた唇の人間が口にするのは畏れ多いからです。それで文字でヤハヴェと書いてあっても、それを「主」を意味する「アドナーイ」という言葉で読み替えることになっています。それで、日本語やその他の言語の訳もヤハヴェは「主」と訳します。日本語訳の旧約聖書で神のことを「主」と言い表しているところは、ヘブライ語ではほとんど全てがヤハヴェです。出エジプト記3章15節の「ヤコブの神である主が」と言うのも、正体は「ヤコブの神であるヤハヴェが」です。

話が脇道にそれましたが、神の名前に関してもっと大事なことがあります。先ほど、天地創造の神が自分のことを「私はある/彼はある」と名乗った時、それは永遠の存在者を意味していると申しました。これにはもう少し深い意味があります。何かというと、神が14節で自分のことを「私はある」אהיהと名乗る前の12節でも自分のことを「私はある」אהיהと言っているのです。それはモーセが、ファラオに駆けあって民をエジプトから脱出させるなんて自分には無理ですよ、と言った時の神の応答の言葉です。日本語訳では「わたしは必ずあなたと共にいる」となっていますが、ヘブライ語原文の逐語訳は「私はある、お前と共に」エフ イエ インマークאהיה עמךです。見ての通り、これは神の名前の「私はある」エフ イエאהיהに「お前と共に」インマークעמךがくっついた形です。これが意味するのは、神が「私はある」と言う時、それは人間を向いて言っているということです。つまり神は、自分が永遠にある者と言う時、人間と無関係にあるというのではなくて、人間と関係があるように永遠にある者と言っているのです。このことは、神の名前を考える時の大事なポイントになります。こうしたことはヘブライ語の原文を見ないと見えてこないことですが、見えた人は見えない人に伝える責務があります。

 それでは、天地創造の神が人間と関係があるように存在していると言う時、それはどんな関係なのか?そのことを本日の福音書の日課の解き明かしを通して見てみたく思います。

2.イエス様にとって「滅び」とは何を意味するのか?

  本日の福音書の個所のはじめは、ローマ帝国ユダヤ地域の総督ピラトが残虐行為を働いたという知らせをイエス様が聞いて、どんな反応を示したかということです。ピラトの残虐行為とは、ガリラヤ地方からエルサレムの神殿に何かの祭事に動物の生け贄を捧げに来た人たちがいて、それを総督ピラトが殺害させて、その血を彼らの生け贄の血に混ぜたということです。とても残虐な事件です。残虐な上に神殿でこのようなことがなされたのであれば、ユダヤ人が神聖と崇める神殿に対する大変な冒涜です。

 この知らせを受けたイエス様は、ある出来事について述べます。それは、エルサレムの町のなかにあったシロアムの塔が倒れて、18人が犠牲になったという事故です。シロアムというのは、ヨハネ9章でイエス様が盲人の目を見えるようにしたシロアムの池がありますが、その近辺にあった塔と考えられます。イエス様が「あの(あれらのεκεινοι)18人」と言うように、聞いた人はすぐ何の出来事を指すかわかるような、多くの人の記憶に残っている出来事であったと言えます。

 さて、イエス様に報告した人たちには、この事件を通して何か知りたいこと、イエス様に聞きたいことがありました。イエス様の言葉から、彼らの関心事がみてとれます。イエス様の言葉はこうでした。お前たちは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか?

つまり、報告者の関心事は、「罪深さの度合いが高いと、そのような災難に遭遇するのですか?」ということだったのです。裏を返して言えば、「罪を犯さなければ、災難に遭遇しない、ということなのですか?」です。つまり、報告者たちは「イエス様、こういう苦難災難というものはやはり、罪を犯したことの罰として起きるという因果応報の観点で説明がつくのではないでしょうか?」と確認を求めたのです。

 これに対してイエス様は次のように答えます。3節です。「決してそうではない」と強く否定します(ギリシャ語のウーキουχιは通常の否定辞ウーουよりも強い否定)。イエス様は何を強く否定したのか?それは、災難に遭遇したガリラヤ人が遭遇しなかったその他のガリラヤ人よりも罪深かったということはなく、両者ともに同じくらい罪びとである、ということです。両者ともに同じくらい罪びとなので、その他のガリラヤ人も潜在的には災難に遭遇する可能性は同じ位あり、この時はたまたま事件のガリラヤ人が犠牲になっただけだということになる。そうなると、それはもう因果応報とは関係のないことになります。そういうわけで、「決してそうではない」は因果応報の観点を否定するものでした。

イエス様は同じ言葉「決してそうではない(ουχι)」を、塔の倒壊事故を話した時にも使います。5節です。この意味も3節と同じように、塔の下敷きになった住民もそうならなかった住民も罪の深さには優劣はなく、両者ともに同じくらい罪びとである、ということです。これも3節と同様に、両者とも同じくらい罪びとであると言うからには、犠牲者でない住民も潜在的には事故に見舞われる可能性はあり、この時はたまたま事故の住民が犠牲になっただけで、それはもう因果応報とは関係のないことになる。そういうわけで、ここも3節同様、因果応報の観点を否定するものです。

ところが、どうしたことでしょう。イエス様は続けて、お前たちも悔い改めなければ皆同じように滅びる、などと言われます。これは、もし悔い改めず罪にとどまるならば、お前たちも同じような暴力の犠牲になったり、不慮の事故の犠牲になる、と言っているように聞こえます。裏を返して言えば、もし悔い改めれば、苦難災難には遭遇しない、と言っていることになります。それでは因果応報ではありませんか?「決してそうではない」と言って、因果応報の観点を否定しながら、結局は肯定しているのか?イエス様は矛盾していることを言っているのでしょうか?

実は、イエス様は何も矛盾していることは言っていません。イエス様が因果応報の観点に与していないこと、人間悔い改めれば苦難災難には遭遇しない、などと考えていないことは、例えばヨハネ16章33節を見ても明らかです。そこでイエス様は愛する弟子たちにさえ「お前たちには世で苦難がある」と言っています(ヨハネ9章3節も参照)。

それならば、イエス様は何を言っているのでしょうか?イエス様の言葉が因果応報の観点で言っているように見えてしまう大きな原因があります。何かと言うと、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と「滅びる(απολλυμι)」という動詞がありますが、これを残虐行為や不慮の事故に遭って命を落とすことだと理解してしまうとそうなってしまいます。実は、この「滅びる」は「苦難災難に遭遇して死んでしまう」という意味ではありません。それでは、どんな意味でしょうか?

それがわかる最適な箇所があります。ヨハネ3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここでも、「滅びる(απολλυμι)」という動詞が出てきます。同じギリシャ語の動詞です。この「滅びる」は、イエス様の言葉から明らかなように「永遠の命を得る」ことの反対を意味しています。それでは、「永遠の命を得る」とはどんなことでしょうか?それは、私たちがこの世を去る時、自分を自分の造り主である神に全部委ねて、神の方でしっかりキャッチしてくれる、そして復活の日に朽ちない体を着せてもらって創造主の神のもとに永遠にいられるようになるということです。そうすると、「滅び」は、これとは逆にこの世を去る時、神にキャッチしてもらえない、復活の日に神のもとに永遠に戻れないことを意味します。

このように「滅びる」は、「この世で苦難災難にあって死んでしまう」という意味ではありません。イエス様にピラトの事件を報告した者にとって、「滅び」はこのようなこの世にかかわるものでした。イエス様にとって、「滅び」はこの世の次に来る新しい世にかかわるものでした。そういうわけで、イエス様の答えの意味は次のようになります。「お前たちは悔い改めなければ、神から罪の赦しを受けていない者としてこの世を去った後、永遠の命を得られなくなってしまう。それがどんなに悲惨なことかは、この世にいてはわからないかもしれない。しかし、この世で残虐行為や不慮の事故に遭うことが悲惨なこととわかるのなら、次の世で永遠の命に与れないことが悲惨ということも同じようにわからなければならないのだ。

 このようにイエス様にとって「滅び」とは、この世の次に来る新しい世に関係する滅びでした。人間がこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、新しい世が来た時に永遠の命を得られないことが「滅び」でした。そうすると、もし人間が神にキャッチしてもらえて永遠の命を得れば、たとえこの世で苦難災難に遭って命を落とすことがあっても、それは「滅び」ではなくなります。先ほど引用したヨハネ16章33節でイエス様は、弟子たちに「お前たちにはこの世で苦難がある」とは言いましたが、それゆえにお前たちは滅ぶ、とは言っていません。それでは、人間がこの世で永遠の命に至る道に置かれてそれを歩むということ、そして、歩みの途上で苦難災難のゆえに万が一命を落とすことになっても、滅ばずに永遠の命を得るということは、どのようにして可能でしょうか?

 

3.神のもとへの立ち返り

 その鍵は、イエス様の答えの中にある「悔い改める(μετανοεω)」ということにあります。メタノエオ―μετανοεωのもともとの意味は、「考えを改める」とか「考え直す」です。日本語の聖書では「悔い改める」と訳されますが、ここで注意しなければならないことは、誰に対して悔い改めるかということです。もし私たちが自分の無思慮さや身勝手さのために隣人を傷つけるようなことを言ってしまったり行ってしまった場合、それを後悔してその人に謝罪をするでしょう。この時、「悔い改め」はその相手の人に向けられていると言えます。ところが、キリスト信仰では、隣人に対して謝罪したり償いをすることは当然ながら、それに加えて「悔い改め」は天地創造の神に対しても向けられることになります。なぜなら、隣人愛をせよという神の意志に背いたからです。このようにメタノエオ―は、神に背を向けてしまった生き方を改めて神に向きなおって生きるという意味で「神のもとに立ち返る」と訳してもよいでしょう。

そこで「神のもとへの立ち返り」ですが、果たして人間は神から「よし、お前はしっかり立ち返った」と言ってもらえるような「立ち返り」ができるでしょうか?神に「よし」と言ってもらえる「立ち返り」はどんなものでしょうか?そのことを少し考えてみましょう。

皆さんもご存知のように、十字架と復活の出来事の前のイエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第五の掟を破ったことになる、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第六の掟を破ったことになる、と教えます。そんなこと言ったら、十戒を外面上だけでなく心の中まで完璧に守れる人間は誰もいません。そこまでして神の意思を完全に実現できる人間は存在しないでしょう。マルコ7章の初めにイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものです。つまり、人間の有り様そのものが神の神聖さに反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになったものは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、掟を外面上は守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現には程遠く、永遠の命を得る保証にはなりえないのだとイエス様は教えたのです。

人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世を去った後、神にキャッチしてもらえず自分の造り主のもとに戻ることはできません。何を「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神自身がとった解決策はこうでした。自分のひとり子をこの世に送って、本来は人間が背負うべき罪の神罰を全部ひとり子に背負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦す、というものでした。そこで人間は誰でも、このひとり子イエス様を用いた神の解決策がまさに自分のためになされたのだとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。洗礼を受けることで人間は、罪が残った汚れた状態のままイエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられます。こうして人間は、イエス様を救い主と信じて、純白な衣をはぎ取られないようにしっかり掴んで纏っていれば、神の方で目に適う者と見なされて、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始め、この世を去る時にも、神にしっかりキャッチしてもらえて、永遠に神のもとに戻ることができるようになったのです。

このように人間は、イエス様の十字架と復活のおかげで真の「神への立ち返り」の手がかりを得ることができました。それは、掟を外面上守って安心したり、宗教的儀式を積んで満足することではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、神が整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取ることです。私たちの内に宿る罪が頭をもたげる都度に心の目を十字架の主に向け、そこから罪の赦しの再確認を頂き、再び永遠の命の道を歩み出すことです。

ところで、本日の福音書の個所のもう一つのエピソードはイエス様のたとえの教えでした。実を実らせないイチジクの木を役立たずと言って所有者が切り倒そうとする。そこを園丁がかばって、肥料をやって世話するからもう一年待ちましょうと言う。まるで神の罰を前にした私たちをかばって下さるイエス様のようです。ただ、ここの教えの主眼は、人間が罪の赦しの救いを受け取るのを神は永遠に待ってくれない、期限があるということです。それなので、どうか、出来るだけ多くの人が一日も早く、神がイエス様を用いてして下さったことに気づいて、神に立ち返るようになりますように。

4.神が共にいれば不運があっても不幸にはならない

 イエス様が意味する「滅び」とは、今の世に関係するものではなく、次に来る新しい世に関係していることが明らかになりました。それで、人間がこの世で遭遇する苦難災難は、たとえそのために命を落とすことになっても、「神のもとに立ち返る」生き方をするキリスト信仰者にとっては「滅び」でもなんでもない、その時神はちゃんとキャッチしてくれるのです。それくらい神は信仰者の命をその手の中にしっかり握っているのです。でも、そうは言っても、やはり苦難災難の只中にいる時は、さすがにキリスト信仰者と言えども、神にしっかり握ってもらっているという気がしなくなるのではないでしょうか?信仰者が苦難災難に遭遇した時、どう立ち振る舞ったらよいのでしょうか?この問いに対しては、本日の使徒書の第一コリント10章の個所がとても参考になります。
そこで使徒パウロは、出エジプト記のイスラエルの民がシナイ半島で民族大移動をしていた時に起きたいろんな出来事はキリスト信仰者の生き方を映し出す鏡になっていると教えます。長い困難な大移動の中でいろんな危険や不自由や不足がありました。そのような時、神はいつも民を世話し守ってくれました。しかしながら、少しでも心配や不満が出ると民はすぐ神に対して文句を言い出し、神が遠ざかったように感じられた時は自分たちで像を造ってそれを拝みだして宴会騒ぎを始め、神の怒りを招き罰として多くの者が荒れ野で命を落としました。
パウロはこれらの出来事は遠い過去の出来事として完結しているのではない、今を生きるキリスト信仰者に対して警告となるために起きたのだ、と言います。そこで、信仰者がこうした過去の出来事から発信される警告を重く受け止めねばならない特別な事情があります。それは、信仰者が「世の終わり」に生きているということです(10章11節)。世の終わりとは物騒な言葉ですが、それは聖書にしっかりある観点です。世の終わりとは、天地創造の神が今ある天と地にとってかわって新しい天地を創造され、再び来られるイエス様が死者を復活させて神の国に迎え入れる時のことです。そのような時がいつ来るかは神自身しかわかりません。パウロの時代はもうすぐ来るという切迫感がありました。そのような切迫感はパウロの手紙の随所にも見られます。しかし、それから2000年近く立ちましたがまだのようです。イエス様は福音が世界の隅々まで伝わるまでは世の終わりは来ないと言っていたので(マタイ24章14節等)、それが目安でしょう。いずれにしても、復活したイエス様が弟子たちの目の前で天に上げられた日から今度再臨される日までの期間はどんなに長引いても、聖書の観点では「終わりの時代」ということになります。
パウロは、世の終わりが近いからこそ、キリスト信仰者は出エジプト記のイスラエルの民に何が起こったかを教訓にしなさいと言います。困難な状況にあっても神は決して見捨てずに世話してくれたのに、ちょっと試練があると、すぐ神の守りを忘れて文句を言ったり偶像にすがりついてしまうようではいけないのだ、と。そして大事なポイントを教えます。10章13節です。君たちはこれまで試練を受けてきたと言っても、人間の耐久度を超えるような度外れたものはなかった。神は君たちを見捨てない忠実な方なのだから、君たちの持てる力を超えるような試練に君たちを遭わせたりはしない。君たちを試練に遭わせてるようなことをしても、試練の出口もセットで用意してくれているので、試練は耐えられるものになっている。「試練に耐える」とは具体的には何をすることでしょうか?シナイ半島のイスラエルの民を反面教師にすれば明らかです。それは、神への信頼を失わずに試練がもたらす課題を一つ一つ解決することです。
このパウロの教えは、神が出口を用意しているということで励まされる反面、なんだ神は結局は試練を与えるのか、なんで安逸な人生にしてくれないのか、キリスト教は御利益のない宗教だとガッカリされるかもしれません。でも、試練は即、不幸ということでしょうか?そうではないということを実感させるニュースが先週ありました。それは、殺人容疑で逮捕された女性が懲役12年の刑を受け、後になって取調べに誘導があったことが明らかになり最高裁が裁判のやり直しを認めたというニュースです。その女性が記者会見で、自分はえん罪に巻き込まれて不運だったけど不幸ではないと思っている、と述べていました。不幸でなかった理由として支援者に励まされてきたことをあげていました。人によっては、不運だったら即、不幸になる人もいるでしょう。女性の場合はそうならなかった。その理由として、支援者の存在があったからでした。
パウロの教えもこれに似たところがあると思います。イエス様を救い主と信じても試練はある。しかし、それで不幸になることはない。なぜなら、天の父なるみ神が支援者のように共にいて下さるから。

 神は自分のことを「私はある」と名乗った時、私たちと共にあることを前提して言いました(出エジプト3章)。
 天使はヨセフに、生まれてくるイエス様のことをインマヌエルと呼びました。それは「神は我々と共におられる」という意味でした(マタイ1章23節)。
 イエス様は聖霊のことを私たちのための「弁護者」であると言いました(ヨハネ14~16章)。

兄弟姉妹の皆さん、これだけ役者が揃っていたら何の不足があるでしょうか?
最後に、先ほど第一コリント10章13節には大事なポイントがあると申しましたが、そこには重い内容も含まれていることについて一言。パウロは、信仰者はまだ人間の耐久度を超えるような度外れた試練を受けてはいないと言うのですが、今後そういう試練が来ることに含みを持たせています(後注)。それが何かは明らかにされていませんが、そうではあっても、13節後半部分のポイント、つまり神は試練の出口も用意してくれて、試練を私たちの力を超えないものに留めて下さるということ、このポイントは度外れた試練の時も度外れでない試練の時と同様に有効である。これがパウロの言っていることです。そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、神を信頼し、神に立ち返る生き方をしていれば何も心配はいりません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

後注(ギリシャ語が分かる人にです)
第一コリント10章13節の後半「神は、あなたたちが自分の力を超えて試練を受けることを認めない」、「出口を用意して下さる」というのは、両方とも未来形です(εασει、ποιησει)。つまり、将来の試練について言っています。これまでの試練は人間の耐久度を超えるものではなかった、というのは現在完了で言っています(ειληφεν)。それで、将来の試練は耐久度を超えるものがあることに含みを持たせていると考えた次第です。

説教「俺は二つの国の国民なのさ」神学博士 吉村博明 宣教師、フィリピ3章17節ー4章1節、ルカによる福音書18章31ー43節

主日礼拝説教 2019年3月17日 四旬節第二主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 本日の使徒書の日課の中にあるフィリピ3章20節の聖句は、キリスト教徒のお墓の墓碑銘としてよく見かけるものです。新共同訳では「しかし、わたしたちの本国は天にあります」ですが、文語訳では「されど、我らの国籍は天に在り」です。これを見たことのある人は、ああ、この世を去ったら天国に行くことを言っているんだな、と思うでしょう。しかし、ここは少し注意が必要です。日本ではお寺や神社に行く人でも、誰かが亡くなると「あの人は今天国から私たちを見守ってくれている」などという言い方をよくします。キリスト教も天国、天国と言っているから、人間死んだらみんな同じところに行くというようなイメージがわいてくるかもしれません。ところが、キリスト教の場合は「復活」ということがあるため、少し事情が複雑です。復活と言うのは、かつて天地を創造した神が将来いつか今ある天地を新しく創造し直す時が来て、その時、死者を復活させるというものです。その時、今ある天と地がなくなって新しい天と地に取って代わられるという大変動が起き、そこで唯一なくならないものとして神の国が現れる。イエス・キリストが再臨して、誰が神の国に迎え入れられて誰が入れられないかの審判を下す。そういう最初の天地創造にも劣らない壮大な時です。

それなので、聖書の観点に立てば、人間は死んだらすぐ天国に行くというのはよほどの事情がない限りありえず、大方は「復活の日」までは天地創造の神のみぞ知る場所にて静かに眠っているということになります。それで、このキリスト信仰に特有な「復活」というものを踏まえてみると、「私たちの本国は天にあります」とか「我らの国籍は天に在り」というのは、「あなた先に天国で待っていて下さいね、私も後で行きますから」という意味ではなくなります。そうではなくて、「眠りから目覚めさせられるその日またお会いしましょう。それまでは安らかにお眠り下さい」という、そういう「復活の日の再会の希望」を言い表すものになります。

少し脇道に外れますが、「本国が天にある」と言うのと「国籍が天にある」と言うのは何か違いがあるでしょうか?「本国」と言えば帰属先です。「国籍」と言えば帰属先に伴う資格です。「本国」に属しているからそれに伴う「国籍」があるのだし、また「国籍」があるということは「本国」があるということなので、同じコインの表裏のようなものでしょう。他の国の聖書の訳も分かれています。スウェーデン語訳の聖書では「故国」hemlandと言って帰属先路線です。ドイツ語はルター訳ではBürgerrechteなんて言っていて辞書では「公民権」ですが、ルターの時代ならどこかの自治都市の「市民権」でしょうか。いずれにしても資格路線です。ただ、ドイツ語もEinheitsübersetsung訳を見るとHeimat「故郷」でしょうか、帰属先路線です。英語の訳はcitizenshipで、普通「国籍」、「市民権」と訳されて簡単そうな英単語ですが、「市民の身分」などという意味もあり、本当は日本人には厄介な単語です。しかし、いずれにしても資格路線です。フィンランド語訳を見ると「天の国民/市民」taivaan kansalaisiaとなどと言っていて、これは資格路線と言えるでしょう。

そこで、原文のギリシャ語はどうかと言うと、ポリテウマπολιτευμαという何か共同体を意味する言葉です。帰属先路線です。定冠詞τοがついているので、「帰属先の決定版」ということになります。まさに「本国」です。キリスト信仰者の本国は創造主の神がおられる天にあるというのです。そして、それは先ほども申しましたように、今は私たちの目の届かないところにあるが、復活の日に目の前に現れる国です。「天にある」と言う動詞の「ある」υπαρχειも現在形で、これは普遍的な真理を表しています。つまり、キリスト信仰者はその本国を将来の復活の日だけではなく、今この世を生きている段階でも、いつどこにいても持っているということです。これは一体どういうことでしょうか?

普通は日本とかフィンランドとか、国籍を有している国が「本国」ということになります(二重国籍の人は両方が本国と言うでしょうか?どっちかがより本国に感じられると言うでしょうか?)。そういう地上の本国を持って生きることに加えて天の本国を持ってこの世を生きるというのはどういう生き方でしょうか?フィンランドの有名なゴスペル・シンガーソングライターにP.シモヨキという人がいますが、彼の曲の中に「俺は二つの国の国民なのさ」Kahden maan kansalainenという歌があります。「二つの国」というのは、まさしく地上の本国と天の本国ということです。その歌の歌詞をみたら、今の問いの答えになるのではと思いました。それで、それを紹介して本日の説教を終わりにすることも可能なのですが、本日の福音書の個所がまた、解き明かしをするとシモヨキの歌が一層味わいのあるものになると思われたので、やっぱり解き明かしをします。歌は礼拝後のコーヒータイムでユーチューブで皆さんにお聞かせしますのでお楽しみに。

 

2.旧約聖書のシンボル的な預言の具体化とその意味

 本日の福音書の箇所ですが、二つの異なる出来事が記されています。最初は、イエス様が自分にこれから起きる受難と復活は旧約聖書の預言の実現であると言ったのですが、それを弟子たちが全く理解できなかったという出来事。その次は、イエス様が盲人の目を見えるようにしたという奇跡の出来事です。最初にイエス様が自分の受難と復活を預言の実現と言ったことを見てみます。天の本国を持ってこの世を生きるというのはどういう生き方かという問いを忘れないようにしましょう。

 ルカ18章31節でイエス様は、今行こうとしているエルサレムにて、預言書に記されたこと全てが「人の子」に実現すると言います(後注)。実現することとして何があるかと言うと、まず「人の子」が異教徒、つまり神の民でない人たち、非ユダヤ人に引き渡されて侮辱され辱めを受けて唾を吐きかけられて、むち打ちの刑の後に殺される、しかし三日目に死から復活する。弟子たちは、これらのことが何を意味するのか全く理解できませんでした。

翻って私たちは、イエス様が言われたこれらのことを理解できます。ああ、イエス様は御自分がエルサレムで受けることになる受難、十字架の死、そして死からの復活を前もって予告しているのだな、と。しかし、私たちが理解できるのは、これらの出来事が起きたことを知っているからでして、起きた出来事をもって予告されたことを事後的に確認できるからです。しかし、弟子はまだ十字架と復活が起きていない段階にいますから、確認する術がありません。

それならば、弟子たちには旧約聖書に記された預言者たちの預言があるではないか?イエス様は預言が実現すると言われるのだから、旧約聖書の内容を知っていれば、ああ、いよいよ預言が実現するんですね、というふうに理解できるのではないか、弟子たちは少し勉強不足ではないか、そう思われるかもしれません。しかし、事はそう単純ではありませんでした。旧約聖書に記されているとは言っても、どこに「人の子」が異教徒の手に引き渡されるなどと書いてあったか?どこに「人の子」が侮辱され鞭うちの刑を受けて殺されると書いてあったか?どこに「人の子」が三日目に復活すると書いてあったのか?旧約聖書にこれらのことがはっきり記されている箇所は見つからないのです。預言がこのような仕方で実現するなどと言われても、旧約聖書のどこにあるのか見当たらない。弟子たちが途方に暮れるのも無理はありません。

しかし、これらの出来事は実は全て旧約聖書の中に、あまり具体的には見えなくとも、しっかり記されていたのです。イエス様は、そういうシンボル的な言い方で預言されていることが、特定の時代のなかで具体的な形をとって実現することを言っているのです。イエス様自身は、シンボル的な言い方の預言がどう具体的に実現するか前もってわかっていたので何も問題ありません。しかし、弟子たちの方はまだ具体的な形をとって実現することを見聞きも体験もしていません。それでイエス様が予告されたこととシンボル的な預言とがどう結びつくのか、まだわかりません。

それでは、預言されていることと実現したこととの関係をみてみましょう。まず、「人の子」について。これは、ダニエル書7章13節に登場する謎めいた者です。今あるこの世が終わりを告げて新しい世にとって代わる時、ある強大な国家が神の力で滅ぼされて神の国が現れる。その時、神から王権を受けて、この神の国に君臨するのがこの「人の子」です。こうして「人の子」というのは、イエス様の時代には、この世の終わりに到来する神の国の統治者という理解がされていました。加えて「人の子」は、神から王権を受ける前の段階で、迫害を受けるという理解も持たれていました。(そのことは、マタイ16章13ー14節のイエス様と弟子たちのやり取りの背景にダニエル書7章25節があることを考えるとわかります。ここではこれ以上深入りしません。)

さらに「人の子」とは別に、イザヤ書53章に「神の僕」という者が登場します。人間が罪のゆえに神から受けるべき罰を身代わりとなって受けて苦しんで死ぬことが預言されています。イエス様が預言者の預言が全て実現すると言った時、それは、ダニエル7章の「人の子」が受ける迫害やイザヤ53章で言われる「神の僕」の犠牲の苦しみというものが、具体的な歴史の中で異教徒への引き渡し、侮辱、鞭うち刑、刑死という具体的な形をとって実現するのだ、そう明らかにしたのです。ただ、出来事が起きる前の弟子たちにとっては、そんなこと言われても、あれっ、聖書のどこに書かいてあったっけ?となってしまったのです。

次に、三日後に死から復活するということについて見てみましょう。これも旧約聖書のどこにはっきり記されているか、見つけるのが難しいことです。それでも、死からの復活が起きるということ自体は、イザヤ書26章19節、エゼキエル書37章1ー10節、ダニエル書12章2ー3節に預言されています。そこで、復活が死の三日後に起きるという、三日目の復活という出来事については、ホセア6章2節(「三日目に立ち上がらせてくださる。」)とヨナ2章が鍵になります。ただ、ヨナ書の場合は、預言者ヨナが大魚に飲み込まれて三日三晩その中に閉じ込められ、三日目に神の力で奇跡的に脱出できたという、過去の出来事についてです。それで、未来を言い表す預言には見えません。しかし、この個所は実はユダヤ人にとって、神の力で三日後に死の世界から復活するというシンボル的な出来事になるのです。マタイ12章でイエス様自身、ヨナの出来事を過去の出来事としてではなく、自分の復活についてのシンボル的な預言として捉えています(38ー41節、16章4節)。そして、それがイエス様の復活が起きたことによって、もはや単なるシンボルではなくなって実際の出来事になったのです。

しかしながら、預言はどれもシンボル的に記されていて、いろんな書物に散らばっています。そのため、それらはこういう具体的な仕方で繋がりを持ってこう実現するんだ、つまり、「人の子」が異教徒に引き渡されて、刑罰を受けて殺されて、三日目に復活するという形で実現するんだ、いくらそう言われても、実際に起きてみないと、なんのことか理解は不可能でした。それが、十字架と復活の出来事を一通り目撃し体験すると全てが見事に繋がって、シンボルはもはやシンボルでなくなって生身の現実、文字通り預言の実現になったのです。弟子たちは、文字通り事後的に全てのことを理解できたのです。

ところで、弟子たちが事後的に理解できたというのは、旧約聖書の預言の一つ一つが実際に起きた出来事の各部分にしっかり結びついていることを確認できただけにとどまりませんでした。弟子たちは、この結びつきが何を意味するのかもわかったのです。実はそちらの方が大事なことでした。このことは、天の本国を持ってこの世を生きるとはどういう生き方かを知る上でも大事です。それでは、この起きた出来事と預言の結びつきは何を意味したのでしょうか?

それは、天地創造の神の人間救済計画が実現したことを意味しました。どうして人間は神に救われなければならなかったのか?それは、最初の人間アダムとエヴァが悪魔の誘惑にかかって神に対して不従順になり罪を犯したことがもとで、人間が神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまったからでした。造り主である神と造られた人間の間に深い断絶が生じてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持てて造り主である自分のもとに戻れるようにしようと計画を立て、それに基づいてひとり子イエス様をこの世に送り、彼を用いて計画を実行に移しました。神は、イエス様を用いてどのように人間救済計画を実行したのでしょうか?

それは、人間が自分の持っている罪のゆえに受けなければならない神罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、彼の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命への扉を私たち人間のために開かれました。人間は、これらのこと全ては自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この神が整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は神との結びつきが回復し、この世の人生の段階で永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めます。神との結びつきがあるので、順境の時にも逆境の時にもいつも神の見守りと導きを受けて歩みます。これが天の本国を持ってこの世を生きるということです。逆境があっても天の本国を持っていることは微動だにしません。このように天の本国を持って生きた人は、この世を去ってひと眠りした後の復活の日に天の本国に迎え入れられます。イザヤ書35章風に言えば、天使たちの歓呼の声をもって迎え入れられます!(そして、そこは懐かしい人との復活の再会が待っているところです!)

そういうわけで、この私がこの世を去ると私の日本国籍は持ち主を失って消滅しますが、天の本国の国籍は持ち主を失わないのでそのままずっと残ることになるというわけです。

3.信仰があなたを救われた状態にしている

  以上、旧約聖書にシンボル的に預言されたことが全て、イエス様を通して具体的に実現したということ、そして預言の実現は天の父なるみ神が主導した人間救済計画の実行であったことを見ました。

本日の福音書の個所のもう一つの出来事は、イエス様が盲人の目が見えるようにしたという奇跡の出来事です。この個所を読む人は大抵、おやっと思わされることがあります。それは、イエス様が「お前の信仰がお前を救った」と言った時、それを男の人の目が見えるようになった時に言ったのではなく、見えるようになる前に言ったことです。これは少し変な感じがします。治ってからそう言った方が意味が通じるのではないかと思われるからです。実はイエス様は、同じ言葉をマタイ9章22節でも言っています。12年間出血状態が続いて治らない女性に対して、まず「あなたの信仰があなたを救った」と言って、その後で女性は治ります。どうして、病気が治った後に言わないで、治る前に言ったのでしょうか?

一つの考え方として、お前の信仰がお前に健康をもたらすことになるんだぞ、と本当は未来形の言い方をするところを、イエス様の方では癒しは必ず起きるとわかっているので、それが実現する前に実現したと先回りして言った、と考えることが出来ます。ちょっと複雑ですが、理屈は通っています。ところが、ルカ17章19節をみると、イエス様が10人のらい病の人たちを完治して1人だけが感謝のために戻ってきたとき、イエス様は同じ言葉「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、先回りしていません。健康回復の後に言いました。さらに、ルカ7章50節でイエス様に罪を赦された女性が彼に深い感謝の気持ちを表した時にも、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言います。この時は、何か病気が治ったということはありません。以上の4つのケースがありますが、2つは癒しの奇跡に関係して健康回復の前に言われたケース、1つは癒しの奇跡に関係しているが健康回復の後に言われたケース、最後の1つは癒しの奇跡と無関係に言われたケースということになります。結論から言いますと、どのケースをみても、ある共通したことがあって、それでこの言葉を健康回復の前に言っても全然おかしくない、ということがあります。どういうことか見ていきましょう。

「あなたの信仰があなたを救った」と言うのは、原語のギリシャ語では「救う」という動詞は過去を言い表す形ではなく現在完了形で表されています。これは本日の福音書の箇所だけでなく、今申し上げた4つのケース全てそうです。ギリシャ語で現在完了の形だとどんな意味になるかと言うと、以前にも申し上げましたが、過去の時点で起きたことが現在まで続いている、効力を持っている、存続しているという意味です。従って「あなたの信仰があなたを救った」と言うのは、正確には「ある過去の時点から現在まであなたの信仰があなたを救われた状態にしていたのだ」という意味です。過去の時点とは、明らかにイエス様を救い主と信じ始めた時点です。つまり、イエス様を救い主と信じた日から、イエス様がこの言葉を述べる時までの間ずっとこの盲目の男の人は救われていた、という意味になります。つまり、癒しを受ける以前に既に救われていたということになります。

さて、ここで疑問が生じます。まだ癒しを受ける前に救われていたというのはどういうことなのか?まだ盲目だったのに、どうして救われていたなどと言えるのか?

その答えはこうです。救われるということが、病気が治るとか、そういう人間にとって身近な問題の解決を意味していないということです。それでは、救われるとはどういうことか?それは、先ほども申しましたように、堕罪のために断ち切れてしまっていた人間と神との結びつきが回復して、神との結びつきをもってこの世の人生を歩むようになること。そして、この世を去った後は神のもとに永遠に戻れるようになること。これが救われるということです。これが出来るためにはどうすればよいかというと、これも先ほど申しました。神が2000年も前の昔に彼の地でなさったことは、実は今の時代を生きる自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることです。そうすることで人間は、神がひとり子を用いて整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取ることができ、それを自分のものとすることができるのです。盲目の人は、盲目の状態にありながら、イエス様を救い主と信じる信仰によって、既に神との結びつきをもって生きる者となっていた。つまり、既に救われていたのです。癒しを受けていなくても、救われていたのです。その後で癒しが起きますが、それは付け足しのようなものでした。

これと同じことがマタイ9章の12年間出血状態が続いた女の人にも起こります。イエス様は、この女性にも同じ言葉を述べます。「あなたの信仰があなたを救った」。つまり、「私を救い主と信じた日から、今の時までずっと、あなたは救われていたのだ。神との結びつきを回復して生きる者となっていたのだ。」その後で、女性は健康になります。癒しは付け足しのようなものでした。

以上から、癒される前の状態、つまり病気の状態にいても人間はイエス様を救い主と信じる信仰によって救われている、つまり天地創造の神との結びつきを回復した者になって、この世の人生を歩むこととなり、この世を去った後は永遠に神のもとに戻れるということが明らかになりました。このことがとても大事なのは、もし病気から癒されることそのものを救われることと言ってしまったら、不治の病の人はいくらイエス様を救い主と信じても救われないということになってしまいます。健康な人が健康だという理由で、神との結びつきが回復しているとか、病気の人は病気だという理由で神との結びつきがない、というのは全くのナンセンスです。そうではありません。不治の病の人も、一生治らない障害を背負っている人も、イエス様を救い主と信じ受け入れたからには、健康な人と同じくらいに救われているのです。同じくらいに罪を赦されて神との結びつきが回復して、同じくらいに神との結びつきをもってこの世の人生を歩み、この世を去る時は、同じくらいに神のもとに永遠に戻れるのです。

逆に健康だからといって、また癒しがあったからといって、それが神との結びつきの回復の証明にはなりません。ルカ17章で10人のらい病の人が癒しを受けた時、一人だけがイエス様のところに戻ってきて神に賛美を捧げました。イエス様は、この人に「あなたの信仰があなたを救った」と言いました。つまり、お前が私を救い主と信じた日から現時点までお前は救われた状態にいたのだ、ということです。その期間は病気の時と健康回復の時の双方を含みますが、イエス様を救い主と信じた時点から以後は病気の時も健康回復の時も含めてずっと救われた状態にいたのです。他の9人の健康を回復した人たちには、この言葉は述べられませんでした。健康な人でも、神から救いを受けて十字架の主のもとに戻る者が救われるということなのです。

ルカ7章のイエス様から罪を赦された女性の場合は、病気からの癒しの奇跡は関係ないので健康な人だったでしょう。女性はイエス様に心からの感謝を捧げ、イエス様は彼女に同じ言葉を述べます。つまり、女性はイエス様を救い主と信じた日から現時点まで、救われた状態にあり、そのために全身全霊が感謝で一杯になり、神の意志に沿うような生き方をしようという心になりました。

神の意志に沿うような生き方をしようとしても、至らないところはいろいろ出てきます。さすがに行為で神の意志に反することはしないで済んでも、心で思ったり、それが口に出てしまったりします。もちろん、そのためにイエス様の十字架が立てられたので、それが私たちの心の中で立てられている限り、神との結びつきは失われていません。このように、この世での生き方はいつも不完全さを免れません。しかし、パウロが本日のフィリピ3章20ー21節で述べているように、この世の人生の段階で天に本国を持つようになった者は、イエス様が再臨される日にこの不完全な有り様を栄光に満ちた神の有り様に倣う者へと変えられます。

そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、天に本国を持つ者のこの世での生き方は、不完全であることを悲しみもするが、復活の日に完全な者にしてあげるという神自らの約束に安心して、そこに向かって歩み続けるいうことになります。まさに「されど、我らの国籍は天に在り」です!

それでは、最後にシモヨキの「俺は二つの国の国民なのさ」の歌詞を紹介したく思います。訳は神学的な意味を明らかにしなければならないので少し解説的になることをご了承ください。

 

Kahden maan kansalainen

天高くある御国の壮大さに比べりゃ

足元の国のちっぽけさと言ったらない

この二つの国は俺の人生にいつも連れ添ってきた

 

俺の周りにあるのは、ちっぽけな国の方

この世にいる限り、それは俺の友だちさ

でも、それは、俺がこの世から永遠の世に向かって足を踏み出すまでのことさ

 

俺の足はこの世では土にまみれているが

俺の目は天の御国を見据えている

自分の旅がどこに向かっているかくらいはわかってるさ

俺は二つの国の国民なのさ

 

この世で俺は、風に薫りがあることを知った

海辺で打ち寄せる波に耳を傾けた

雪が降る日にはそれが白く舞うのを見ていた

 

この世で俺は、時が早く過ぎ去ることに気づいた

すると影が忍び寄り次第に覆うようになった

でも、俺は恐れない。待ち焦がれているものは夢で終わらないとわかっているから。

 

俺の足はこの世では土にまみれているが

俺の目は天の御国を見据えている

自分の旅がどこに向かっているかくらいはわかってるさ

俺は二つの国の国民なのさ

 

地上の国で俺は仕事に精を出す 時には笑い、時には泣きもしながら

荒れ地を切り拓いて土を耕し

福音が生み出す平和の種を撒く 不和や争いがあるところに、戦乱の時にも撒くのさ

 

一度土に鍬を入れて始めれば

植え育てたものが収穫される日は必ず来る

その日俺は自分に言うだろう。「ああ、やっと自分の家に帰り着いたんだ。」

 

俺の足はこの世では土にまみれているが

俺の目は天の御国を見据えている

自分の旅がどこに向かっているかくらいはわかってるさ

俺は二つの国の国民なのさ

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

後注(ギリシャ語が分かる人にです)

 ルカ18章31節の「人の子」τωυιωτουανθρωπου(単数与格)は、「実現する」τελεσθησεταιにかかると考えればdativus commodi/incommodi、「記された」γεγραμμεναにかかると考えればdativus limitationisということになると思います。

 

「俺は二つの国の国民なのさ」

フィンランドの有名なゴスペル・シンガーソングライター、ペッカ・シモヨキの「俺は二つの国の国民なのさ(Kahden maan kansalainen)」が聴けます!ここをクリック

歌について、吉村宣教師の17日の説教の初めに触れられています。歌詞の訳は説教の後ろにあります。フィンランド国教会の堅信礼キャンプの定番の歌の一つなので、40代より若い世代のフィンランド人の多くには馴染みのある歌と言えます。

Kahden maan kansalainen

Tämä pieni maa jalkojen alla,
Taivas suunnaton päällä pään
Ovat seuranneet koko matkani ajan.
 
Tämä pieni maa kaikkialla
Ystäväni on, tänne jään,
Kunnes askeleet vievät yli viimeisen rajan.
 
Jalat pidän mullassa maailman,
Katseellani taivasta tavoitan
Tiedän minne matkaani tehdä saan,
Olen kansalainen kahden maan
 
Olen tuntenut tuulen tuoksun,
Kuullut aaltojen pauhinan
Olen nähnyt sen, kun sataa valkoista lunta
 
Olen huomannut ajan juoksun
Nähnyt varjojen kasvavan
Mutta pelkää en; unelmani ei ole unta
 
Jalat pidän mullassa maailman,
Katseellani taivasta tavoitan
Tiedän minne matkaani tehdä saan,
Olen kansalainen kahden maan
 
Täällä työni teen, itken ja nauran,
Raivaan peltoni, kynnän maan
Rauhan siemenen kylvän riitaan ja sotiin
 
Kerran paikalleen lasken auran,
Kerran viljani korjataan
Silloin tiedän sen; olen tullut viimeinkin kotiin
 
Jalat pidän mullassa maailman,
Katseellani taivasta tavoitan
Tiedän minne matkaani tehdä saan,
Olen kansalainen kahden maan

説教:木村長政 名誉牧師

コリント第1、 7章 25-35          2019年3月10日(日)

 

 今日の聖書は、コリント第1、 7章25~35節までです。パウロは、7章からずっと、結婚に関してのべてきました。そして、未婚の人たちについて、パウロは書いています。

 ここで言っていることは、一言で「人は現状にとどまっているのがよい」というのです。

7章の結婚についての話が、25節から、又続いています。

 25節からは、結婚前のおとめについて言っています。

 ここでパウロは今までとは、少しちがった言い方をしています。

 今までの言い方は、パウロは、自分がキリストの使徒であるとか、キリストの僕であるといって、福音の宣教者独特の「権威」を示そうとするのでした。

 しかし、ここではそうではありません。

 パウロは言います。「主のあわれみにより、信任を受けている者として、意見を述べよう。」

 それは、これまでとは非常にちがっている。この問題については主のご命令は受けていない、と

いうのです。しかし、自分は主の信任を、そのあわれみのゆえに、いただいている。

 これはちょっと注目すべきことでしょう。

 主イエス・キリストは、おとめのことについて、なにもご命令を出しておられない、というのです。絶対にこうでなければならない、とは言っておられない、というのです。

 

 しかし、自分は、主のあわれみによって、忠実な者とされている。だから、その立場から、こういうのである、というのです。

 自分は忠実な者であるつもりだが、それも、自分がえらいのではなくて、主があわれみをもって、忠実な者にして下さった、というのであります。

 だからここに書いてあることは、パウロの意見であるにちがいありません。ここのところを、もう少しくわしく、他の訳でいいますと、「主が、そのあわれみによって、必要な考えをお与え下さった」となっています。

 いずれも主ご自身のお言葉ではない。しかし、主の賜ったお考え、主はこう思っておられるであろう、と言うことであります。

 これは信仰の生活をしている者が、よく知っていることでしょう。

 主は、あらゆることについて、ご命令をお出しになるわけではありません。

 しかし私たちは、主のあわれみによって、主に忠実に従うことによって、主のご意見を承ることができるのではないでしょうか。恐らくこうかも知れないといった、あいまいなことでなく、ここにみ心がある、と思えるようになるのであります。

 十戒のようないましめや、主ご自身の多くの言葉があります。しかし主は、どんな事についても、ご命令やご意見をお与えになっているわけではありません。それを記した聖書は、六法全書のようなものではありません。何かの時に、ここを見ればわかるというものではありません。しかし、聖書によって神のあわれみを知り、そのあわれみのみ心によって、主にある者として、なすべきことを知ることができるようになるのであります。

 

 それでパウロは、ここに何を示しているのでしょうか。

 まず基本的なこととして、「現在、迫っている危機のゆえに、人は現状にとどまっているがよい」ということです。

 「現在迫っている危機のゆえに」ということはどういうことでしょう。

 

 29章でも書いています。時は「縮まっている」と。

9

 パウロがここで述べていることには、こういう考えがその底にあることを、見逃してはなりません。

 現在迫っている危機というのが何か具体的なことは何も書いていません。

 時が縮まっている、時が迫っている、というように、何か困難なことが目の前にある、ということではないでしょう。

 これは信仰の話であります。

 教会が出来はじめたころ、人々は、主イエスがもうまもなくやってこられる、終末待望の思いが熱くもえていました。

 使徒行伝に書いてあるように、教会の人々は、財産を持ちよって、一種の、素朴な共産生活をした程であります。

 パウロはそういうことに現れている信仰生活の意味を、語ろうとしていくのであります。

 信仰生活というものは、人間の生き方の表面だけをなでるようなことをするのでなく、その根本にさかのぼって考え、それによって生きようというのです。 それは、例えば、人間の生活が死んで終わることを、ほんとうに知ることであります。

 現在迫っている危機というのは、キリスト者であるがゆえに様々に受ける困難ということでもありましょう。信仰者がいつも見つめておらねばならない、人間としての危機ということでありましょう。

 しかもそれは、死がある、というような、おどすようなことを言っているのではなく、私たちが、神のごらんになっているところで生きている、ということなのです。

 この激しい人間の生活の中にあって、人の目を気にしながら生きるのでなくて、神の目をおそれて、生きるのであります。それであれば、人間の生活は、いつでも危機にさらされているようなものであることが、分かるのであります。

 そういう中において生きるのは、現在にとどまっているということです。今、与えられているままを、神から与えられているものとして、生きるように、ということであります。

 信仰生活というものは、誰よりも精進して生きる生活であります。それと同時に、今あるこの生活を、神から与えられたものとして、すべてを神に委ねた生活をすることである、ということです。

 

 パウロの時代、もっとちがった問題もあったでしょう。

 結婚について語る時も、彼はまずこの事を告げたかったのではないでしょうか。

 パウロ自身は、すでに見てきましたように、どちらかと言えば独身でいることの方に関心があるようでありました。しかし、そのことを、しいて勧めようとはしないのでした。

 基本的に大切なことは、キリスト者として守っていかねばならない、と思ったでありましょう。

 だから、パウロの対する考えと言えば、結婚生活の中で、いかにして信仰を守りつづけるか、ということになるのではないかということです。

 パウロはここで、結婚論を語っているわけではありません。教会内からの質問に答えつつ、いろいろな悩みがあるにもかかわらず、よい結婚が大きな祝福である、とまで説明しようとしません。

 ただ27節、28節を見ますと、結婚することは罪になるでしょうか、ということが書かれています。恐らく質問者がきいていたからでしょう。それで28節に「おとめが結婚しても罪を犯すのではない。ただ、それらの人々はその身に苦難を受けるであろう。」と言っています。これが具体的な意見であります。

 結婚ということは私たちの生涯をかけた大きな事であります。だれでもそれによって幸福を得たい

と願うのであります。それなのにパウロは、あっさりと率直に言っています。「結婚したらその身に苦難を受けるであろう。」だから独身がいいよ、と言いたげです。ある人は「結婚は人生の墓場である。」といったりもします。それらはみな、楽しい夢を見て結婚したのに、その楽しさは予想とちがってしまった、ということでしょう。

 パウロはそういう意味で言っていません。又、同じようなことでありますが、家庭生活の苦労を考えて、結婚の苦しみを語ろうとします。

 楽しい夢だけを追って、結婚しようとする若い人たちに、結婚が容易でないことを告げて、警告する人はいくらもあります。考えてもみて下さい。幼い頃から、全くちがった環境で育った二人が、結婚と同時に共同生活をすることには、困難があることは、誰でも分かるはずのことであります。パウロが特にどういうことを言おうとしたかは分かりません。

 パウロは、ここでむしろ先に見ましたように「時が縮まっている」ことを強調しようとしています。

 「今からは、妻のあるものは、ない者のように、泣く者は、泣かない者のように、喜ぶ者は、喜ばない者のように、買う者は、持たない者のように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜならこの世の有様は過ぎ去るからである。」と言っております。このことなら誰にも分かることのようでありながら、本当は、よく分からないのではないでしょうか。このことをだれも否定することはできない。そうしたことをしっかりと知っておかねばならない、と言いたいのではないでしょうか。

 このように言う事は、悲観的なことを考えなさい、ということではありません。この世のことは、みな去り行く。しかし、去り行かないものがあるのであります。それをもととして、生きなければならないのであります。

 それは神によって生きることであります。なぜなら、神によって生きる生活こそは、動くことのない、変ることのない生活だからであります。

 パウロは決して、悲観的なことを言おうとするのではなくて、何としてでも、神によって生きて行ってほしい、神を喜び、神を楽しむ生活をしてほしい、と言いたいのであります。

 結婚も又その1つの生活である、とパウロはいうのです。

 それならば、そういう生活はどのようにして神を喜ばすのか、ということが大切になってきます。信仰生活というのは、神を喜び、神を喜ばせる生活であります。それは、結婚生活においても同様であります。むしろ、結婚生活においてこそ、これが問題になるのであります。

 結婚生活において、自分だけの生活を何とか主張しようとすることは、もはや論外です。そういうことができるわけもありません。そうではなくて、いかにして、神をお喜ばせするか、ということこそ、もっとも大事なことであります。

 それが又、結婚生活において、もっとも難しいことであることを、パウロはよく知っていました。

 

 32節以下ー35節のところで大事なことは、思いわずらわない、ということです。

 独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣う。結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣う。心が二つに分かれてしまいます。

 今度は女性のことについても同じようなことを言っています。

 独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣う。結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。

 

 33節で「その心が分かれる」と言っています。心が分かれる、というのは、思いわずらうことです。

思いわずらうことは、最も不幸なことです。

 パウロはこのように言ったあとで、35節に「このように私が言うのは、あなた方のためを思ってのことで、決して、あなた方を束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」と書いていますね。

 とてもいい事を言っています。主なる神をお喜ばせする生活は、結婚生活をつまらなくするものではありません。神を喜ばせようとする者こそ、夫を喜ばせ、妻を喜ばせすることができるのであります。                               アーメン・ハレルヤ

 

 

3/9 「スオミ教会家庭料理クラブ」のご報告


寒さも和らいだ穏やかな土曜日の午後、スオミ教会家庭料理クラブは
「リンドストリョーム ピヒヴィ」「Lindströmin pihvi」を作りました。

Lindströmin pihviはひき肉とビーツで作るハンバーグで、
フィンランドではポピュラーなお料理だそうです。

最初にお祈りをしてスタートです。

ハンバーグの材料に茹でたビーツのすりおろしを加え、
スパイスや塩で味を整え、オーブンシートに小ぶりに形を整えてのばし、
鉄板に乗せてオーブンで焼き上げます。

次は「フィンランド風ポテトサラダ」作りです
皮ごと茹でたジャガイモの皮をむき、リンゴやピクルス、ネギを加え、
マヨネーズで味付けして、大きなボウルが山盛りになりました。

最後にフルーツサラダも作り、試食会は始まりました。

パイヴィ先生からは、ビーツの栄養価やフィンランドでのビーツの思い出など聞かせて頂き、参加者からは、なじみの薄いビーツの扱い方など質問が続きました。

次に受難節のお話も分かりやすく聞かせて頂きました。

参加の皆様、お疲れさまでした。

次回の「スオミ教会家庭料理クラブ」はカルヤランピーラッカを予定しています。


料理クラブの話2019年3月10日ビーツの話

フィンランドでは毎年、「今年のテーマの野菜」を選んで、多くの人がその野菜をもっと食べるようにとキャンペーンをします。それで、選ばれた野菜の料理のレシピや健康に役立つことなどが雑誌に書かれます。今年の「テーマの野菜」に選ばれたのは、根野菜でした。ピーツは根野菜の一つです。ピーツはフィンランドの食卓には昔からあった野菜でしたが、フィンランド人はビーツをあまり沢山食べないで、一人当り一年で800グラムしか食べません。ビーツは健康によいもので、ビタミンA,B,CとE,そしてミネラルも沢山含まれています。ビーツの料理をもっと作るようになれば、みんなの健康にもよいのです。

ビーツはフィンランドでは、もう1800年くらいから植えられるようになりました。最初それは教会の牧師館や学校の畑で育てられて、そこからフィンランド全国中に広がって、家庭の庭の畑でも育て始められました。それでビーツは、庭の畑で育てられる野菜の中で人気があるものの一つになりました。

私も子どもの頃、夏休みになる6月の初めにいつも母と一緒に野菜の畑を作って、ビーツの種も蒔きました。芽が出るまで3週間くらいかかりましたが、その間畑に出てくる雑草を抜き取らなければなりませんでした。雑草の中からビーツの芽を見分けるのは難しかったので、時々間違ってビーツの芽を抜き取ってしまいました。畑の掃除や水をやることは、子どもたちの仕事でした。8月になると、ビーツは十分大きくなって、採って茹でて、ビーツのサラダを作って食べました。

ピーツは寒さに強いですので、収穫は地面が凍ってからでも大丈夫です。冬に採ったビーツは家の地下室に置いておくと、春までよく保存します。

フィンランド人はどんなビーツの料理を作るでしょうか?最も一般的なものは、ビーツの甘酸っぱい酢漬けです。これはビーツを収穫した時に作るもので、一年中保存できます。酢漬けのビーツはそのまま食べてもいいし、料理の中に入れても大丈夫です。フィンランド人はビーツを今日のようにハンバーグの中に入れたり、スープやキャセロールやサラダなどにも入れて食べます。ビーツの料理には、注意しなければならないことがあります。まず、ビーツは茹でると中の赤い色が簡単に出てしまうので、皮のまま茹でることが大事です。生や茹でたビーツの赤い色は簡単にまな板などにつくので、料理を作る時に気をつけます。

今日作ったリンドストロョーム・ピヒヴィは、季節に関係なく一年中、学生食堂や家庭でも出される料理です。

ここで少し、キリスト教会の季節について少しお話したく思います。この前の水曜日から、受難節とか四旬節と呼ばれる期間に入りました。イースター・復活祭の準備の期間です。フィンランド語では、この期間は「断食の期間」と呼ばれます。これは、昔カトリック教会の時代の言い方が今でも続いているからです。もちろんフィンランド人はこの期間に断食をしませんが、それでも普段の食事にちょっと変化を与えることがあります。例えば、肉があまり入ってない料理を食べるとか、甘いお菓子を食べないということがあります。

この受難節とは、どんな意味でしょうか?。それは、イースター・復活祭の前の40日の間、イエス様が十字架につけられた苦しみを覚えて心の中で思いめぐらす期間のことです。イエス様は自分が受けることになる苦しみについて弟子たちや多くの人たちによく話されました。ご自分についてこのように言われました。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」ヨハネによる福音書10章11節です。「羊飼い」とはイエス様のこと、「羊」は私たち人間を意味します。良い羊飼いでいらっしゃるイエス様はどんな方でしょうか?イエス様は羊飼いのように私たち羊の番と世話をします。羊飼いが羊一匹一匹をよく知っているように、イエス様も私たち一人一人のことをよくご存じです。羊飼いが羊に名前を付けて呼ぶように、イエス様も私たちのことを名前で呼びます。私たちはイエス様の呼ぶ声を聞くでしょうか?イエス様は神様の御言葉を通して私たちに話しかけられるので、私たちのことを呼んでいるのです。

良い「羊飼い」でいらっしゃるイエス様は「羊」でいる私たちのためにご自分の命を捨てると言われました。それはどういうことでしょうか?イエス様は罪を持たない神様のひとり子でした。私たち人間は悪いことをしたり、しなくても考えたりします。イエス様は人間がこうした罪の罰を神様から受けないようにするために、自分を人間の身がわりとして十字架にかけられて死なれました。これが、イエス様が自分の命を捨てると言った意味です。このおかげで私たちの罪が全部赦されました。それで、この世の時にも、またこの世が終わった後でも、いつもずっと神様が私たちと一緒にいてくださることができるようになりました。神様が私たち人間のためにイエス様を送ってくださったということ。そこに現れている神様の人間に対する愛はどんなに大きな愛でしょうか?受難節は、イエス様が私たちのために命を捨てた「良い羊飼い」でおられることを心の中で思いめぐらすための期間です。

説教「山の上での主の変容の謎に迫る」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書9章28ー36節

主日礼拝説教 2019年3月3日 変容主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日はキリスト教会のカレンダーでは、1月に始まった顕現節が終わって、イースター・復活祭に向かう四旬節が始まる節目にあたります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという有名な出来事についてです。同じ出来事は、先ほど読んで頂いたルカ9章の他に、マルコ9章とマタイ17章にも記されています。マタイ17章2節とマルコ9章2節では、イエス様の姿が変わったことがギリシャ語で「変容させられた(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本日は「変容主日」とも呼ばれます。

少し教会史の話をしますと、かつてキリスト教会ではイースターの前の40日間は断食をするという伝統がありました。大体西暦300年代くらいに確立したと言われます。どれくらい厳密な断食だったのか、今でもそれを行っているところがあるかのかは調べていないのでわかりません。ことの始まりですが、イエス様のこの世の人生とは十字架の受難に備えるものだったということが重く受け止められた、それで特にイースターの前は彼の受難を身近なものとしようという趣旨だったようです。どうして40日かと言うと、イエス様が40日間荒野で悪魔から試練を受けた際、飲まず食わずだったことに由来します。40日の数え方ですが、間に来る6回の主日は断食日に含めなかったので、断食期間の開始日はさらに6日繰り上がり、イースターの前7週目の水曜日となりました。今度の水曜日です。それで本日は断食前の最後の主日、次主日は断食期間の最初の主日となります。私たちの礼拝でも、聖書の朗読ではいつもの「ハレルヤ唱」は唱えないで、重い感じの「詠歌」を唱えて、イエス様の受難を身近に感じるようにします。

話が少し脇道にそれますが、この断食の期間は普通、「四旬節」とか「受難節」とか呼ばれます。英語では「レント」です。面白いことにフィンランドやスウェーデンでは今でも文字通り「断食の期間」という言葉を使います。もちろん、両国ともルター派教会が主流の国なので、何か修行や業を積んで神に目をかけてもらうとか救いを頂くというような考えは全くありません。ルター派の基本は、人間の救いとはイエス様を救い主と信じる信仰にのみ基づくというものだからです。カトリック時代の呼び方が修正されずにそのまま今でも続いているということです。それでも、イエス様の受難を身近に感じることは大事なことと考えられています。例えば牧師の中には、この期間は嗜好物を遠ざけるとか、好きなテレビ番組を見ないようにするとか、何か当たり前の日常から少し自分を切り離すようなことを勧める牧師もいます。もちろん勧める時は、先ほど申したルター派の基本を確認しながらします。

話が脇道に逸れたついでに、フィンランドやスウェーデンでは、「断食の期間」に入る前1、2カ月位前からでしょうか、ラスキアイスプッラ/セムラと呼ばれる菓子パンが全国どこででも、パン屋でもスーパーでも喫茶店でも売られます。ちょっと鏡餅みたいな形をした焼きパンの間にジャムとこってりした生クリームをたっぷりサンドイッチした伝統的な菓子パンです。当スオミ教会の料理クラブでも作ったことがあるそうですが、これは「断食の期間」の前に少し贅沢に美味しいものを頂いて、あとは厳粛に過ごそうという趣旨のものだそうです。近年フィンランドやスウェーデンは教会離れ・聖書離れが急ピッチで進むご時世ですが、それでも「断食の期間」が始まると、この菓子パンは店頭からパタッと姿を消します。

四旬節の元にある断食の伝統の話から少し脱線してしまいました。早速、本日の御言葉の解き明かしに入りましょう。このイエス様の変容の出来事は幻想的であり劇的でもあります。出来事の場所となった山ですが、マタイやマルコの記述では「高い」山と言われます。マルコ8章27節をみると、イエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それから山の上の出来事までは大きな地理的な移動は述べられていません。それで、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と考えらえます。標高は2814メートルで、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ高さです。ただし、写真で見たヘルモン山ははなだらかで五竜岳のように急峻な感じはしませんでした。

さて、ヘルモン山の上で何が起こったでしょうか?イエス様がペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れてそこに登り、そこで祈っていると白く輝きだす。旧約聖書の偉大な預言者であるモーセとエリアが現れて、イエス様と話し合う。ペトロがイエス様とモーセとエリアのために「仮小屋」を三つ建てましょうと言った時、不思議な雲が現れて、その中から天地創造の神の声が轟きわたる。イエスは私が選んだ、私の愛する子である、彼の言うことを聞け、そう神は言います。その後すぐ雲は消えて、モーセとエリアの姿もなくなり、イエス様だけが立っておられました。周りの様子は、頂上に着いた時と同じに戻りました。

この個所を読まれて、皆さんはどう思われたでしょうか?そんなに難しいことは書いていない、書かれてあることは具体的ですぐ理解できると思われたのではないでしょうか?聖書にはこういう出来事が書かれているんだなとわかって、また一つ知識が増えました。でも、それで書かれていることが分かったことになるでしょうか?もちろん、いつ、どこで、だれが、なにを、どのようにという質問に答えられる位はわかります。しかし、この話は一体なんなのかということはまだわからないのではないでしょうか?モーセとエリアが出てきたのは何なのか?ペトロが言った仮小屋とは何のことか?なぜ三人に仮小屋が必要と考えたのか?さらに、雲が出てきたことや、神がイエスの言うことを聞けと言ったことは何なのか?こうしたことがわからないと、ただ書かれた字面を追うだけで終わってしまいます。

そういうわけで、これからこの謎めいた出来事を本日の聖句の解き明かしを通してわかるようにしていきたいと思います。

 

2.モーセとエリアの出現

 最初に、モーセとエリアが出現したことについてみてみましょう。二人とも旧約聖書の偉大な預言者です。遥か昔の時代の人物が突然現れたというのは、どういうことでしょうか?俗にいう幽霊でしょうか?モーセとエリアの出現をよりよく理解できるために、まず、人間は死んだらどうなるかということについて聖書が教えていることをおさらいします。聖書の観点では、人間はこの世を去ると、神の国に迎え入れられるかどうかの決定を受けます。ただし、その決定がなされるのは、イエス様が再臨してこの世が終わりを告げる時です。この世が終わりを告げるというのは、今ある天と地が新しい天と地にとって替わられるということです。神の国に迎え入れられるかどうかの決定は既に死んでいる者たちにも及ぶので、その時には死者の復活ということが起きます。そのようにして、迎え入れられるかどうかの決定がなされるのです。そうなると、先にこの世を去った人というのは、ルターが教えるように、復活の日が来るまで神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているということになります。イエス様も使徒パウロも、死んだ人のことを眠りについていると言っています(マルコ5章39節、ヨハネ11章11節、第一コリント15章18、20節)。

そうかと思えば聖書には、将来の復活の日を待たずして既に神の国に迎え入れられて、もう神の御許にいる者がいるという考えも見られます。ルターも、そのような者がいることを否定しませんでした。エリアとモーセは、その例と考えることができます。というのは、エリアは、列王記下2章にあるように、生きたまま神のもとに引き上げられたからです(11節)。モーセについては少し微妙です。本日の旧約の日課である申命記34章1ー12節に死んだとは記されていますが、彼を葬ったのは神自身で、葬られた場所は誰もわからないという、これまた謎めいた最後の遂げ方をしています(6節)。それでモーセの場合も、この世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしていないのではないか、ひょっとしたら復活の日を待たずして神の国に迎え入れられたのではないかと考えられます。まさに彼もエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られたからです。これはもう、幽霊などという代物ではありません。そもそも聖書の観点では、亡くなった人というのは原則として復活の日までは神のみぞ知る場所で安らかに眠るというのが筋です。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からのものではないので、私たちは一切関わりを持たないように注意しなければなりません。

 

3.不思議な雲

 次に、不思議な雲の出現についてみてみます。本日の箇所を注意して読むと、雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが、「仮小屋」を立てましょう、と言っている最中に出てきてしまうのですから。山登りする人はよくご存知ですが、高い山の頂上が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではありません。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲で、それを天地創造の神がこの出来事のために利用したと考えられます。

あるいは、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。その例は既に出エジプト記にあります。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を与えられた時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は、人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死ぬことになると言われます(18ー23節)。これが神聖な創造主の神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをよく覚えておかなければなりません。そういうわけで山の上の雲は、人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、同じようにペトロたちを守るものだっと言えます。

 

4.イエス様の変容

 そこで本日の出来事の中心であるイエス様の変容について見てみます。29節で「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と記述されています。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語のプロソーポン(προσωπον)という言葉が下地にありますが、この言葉は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容は、イエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」ということです。マルコ9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。ルカ9章32節でイエス様が「栄光に輝く」と言われていますが、これは神の栄光です。この変容の場面で、イエス様は罪の汚れのない神聖な神の子としての本質をあらわしたのです。

「フィリピの信徒への手紙」2章の中に、最初のキリスト信仰者たちが唱えていた決まり文句を使徒パウロが引用して書いています。それによると、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6ー7節)。イエス様がもともとは神の身分を持つ方、神と同質の方であることが証しされています。「ヘブライ人への手紙」4章には、イエス様が「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)と言われ、この世に送られて人間と同じ者となったが、罪をもたないという神の性質を持ち続けたことが証されています。そういうわけで、ヘルモン山の上でイエス様に起きた変容は、まさに罪をもたない神の神聖さを持つというイエス様の本質を現わす出来事だったのです。

そうすると、イエス様はこの時、「雲」に乗ってモーセとエリアと一緒に天の父なるみ神のもとに帰ってもよかったのです。日本語訳では「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」(34節)とありますが、ギリシャ語原文を見ると、イエス様、モーセ、エリアの三人は雲の中に包まれていくというよりは、雲の中に入って行った、つまり雲の中に乗り込んで行ったというのが正確な意味です(後注)。その意味であの「雲」は、ひょっとしたらお迎えの「雲」だったかもしれないのです。それなのにイエス様は、私は行かなくてもいい、と言わんばかりに、せっかく乗りかけた「雲」から降りてしまって、何を好き好んでか、この地上に留まることを良しとすると決められました。なぜでしょうか?

それは、私たちも神の栄光を受けて輝くことができるようになって、いずれは神の御国に迎え入れられるようにするためでした。それをするためには、受難の道を歩んでゴルゴタの丘の十字架にかからなければならなかったのです。

人間は最初の人間の堕罪の出来事以来、罪を内に宿すことになって神の栄光を失ってしまいました。人間はこの罪の汚れを除去しない限り、自分の造り主である神から切り離された状態で生きることとなり、この世を去った後、自分の造り主のもとに戻ることができません。しかし、人間が罪を除去できるというのは、神の意志を100%体現した神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能です。そのことを使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」7章で明らかにしています。神の意志を現わす十戒の掟があるが、その掟は人間が救いを勝ち取るために満たすものというより、人間が神聖な神からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものです。イエス様も、「汝殺すなかれ」という掟について、ただ殺人を犯さなければ十分ということにはならない、兄弟を罵っても同罪だと教えました(マタイ5章21ー22節)。「姦淫するなかれ」という掟についても、行為に及ばなくても異性を淫らな目で見たら同罪と教えました(同27ー28節)。詩篇51篇のなかで、ダビデ王は神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

 そこで神は、それができない人間にかわって人間を罪から洗い清めてあげることにしました。神は、それを人間の罪を「赦す」ことで行いました。「赦す」というのは、罪をしてもいいとか許可するという意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪を忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまう方です。しかし人間も一緒に焼き尽くすことは望まれなかった。それでは、「赦す」ことが、いかにして人間の洗い清めになったのでしょうか?

 神は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本当なら人間が背負うべき罪の罰を全部彼に背負わせて十字架の上で死なせました。つまり、神に対する罪の償いを全部イエス様にさせたのです。イエス様は、これ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲の生け贄になったのです。この犠牲のおかげで、人間が神罰や罪の束縛から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて、私たち人間の罪を赦す、不問にするとおっしゃるのです。それだけではありませんでした。神は、イエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命への扉を私たちに開いて下さいました。人間は、これらのことが自分のためになされたとわかり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、この神が準備した「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。

このように、イエス様が「雲」に乗って天の御国に帰らないで、地上に残られたのは、私たち人間が「罪の赦しの救い」という贈り物を受け取ることができるようにするためでした。この贈り物を受け取って、しっかり携えて生きることで、私たちも神の栄光を受けて輝くことができるようになれる。全身が輝くのは復活して御国に迎え入れられる時ですが、「救い」を受け取った段階で心の中が輝き出す、ということを使徒パウロは本日の使徒書の日課の中で言っています(第二コリント4章6節)。それで、この世を去る時が来ても、神に自分を委ねても大丈夫だ、神の方でもしっかり自分を受け取ってくれるのだ、とわかって委ねることができます。そのような確信に満ちた安心を私たちに与えて下さるためにイエス様は受難の道を歩んでゴルゴタの丘の十字架にかかられたのです。

 

5.弟子たちの誤解と神の声

 ペトロが建てると言った「仮小屋」と雲の中から轟いた神の声についてもみてみましょう。「仮小屋」とは、原文のギリシャ語でスケーネーσκηνηと言い、それは旧約聖書に出てくる神に礼拝を捧げる「幕屋」と同じ言葉です。ペトロが建てると提案したスケーネーというのは、まさにイエス様とモーセとエリアに礼拝を捧げる場所のことでした。しかしながら、ペトロの提案には問題がありました。というのは、イエス様をモーセやエリアと同列に扱ってしまうからです。確かにモーセは、十戒をはじめ神の掟を神から人間に受け渡した預言者の筆頭格です。エリアも、迫害に屈せず生きざまを通して神の意志を公に表し続けた偉大な預言者です。しかし、イエス様は神の子そのものであり、神の意思である十戒そのものが完全に実現した状態の方です。また、預言者たちの預言したことが成就した方です。それなので人間と同等に扱ってはいけません。それに加えて、モーセやエリアにも幕屋を建てるというのは、彼らを神同様に礼拝を捧げる対象にしてしまいます。こうしたペトロの提案は、天地創造の神の一声で一蹴されてしまいました。「これは私が選んだ、私の子である。彼の言うことを聞け」と。

ペトロはどうしてイエス様をモーセとエリアと同格に扱ってしまったのでしょうか?一つ考えられるのは、三人がみな栄光に包まれていたことがあります。31節で、モーセとエリアが「栄光に包まれて現れ」と言われ、32節に「栄光に輝くイエス」と言われています。しかし、これもギリシャ語原文をよく注意してみると、モーセとエリアの場合は、栄光は自分たちから輝き出ているのではなく神からの栄光で輝かせてもらっていると理解できる表現です。イエス様の場合は、輝きが「彼自身の栄光」によるものとはっきり言う表現です。つまり神と同じように自ら輝く栄光を持っているということです(後注)。

6.おわりに

弟子たちは、イエス様の変容の出来事を誰にも話しませんでした。マタイとマルコの記述によれば、イエス様が十字架と復活の出来事が起きるまで話してはならないと命じたと言われています。私が思うに、イエス様がかん口令を敷こうが敷くまいが、この出来事について弟子たちの驚きと混乱はかなりのものだったので整理がつくまでは話すことが難しかったのではないかと思われます。どうしてかと言うと、この出来事のおかげで、イエス様が何者であるか全くわからなくなってしまったからです。イエス様に付き従った人々は、直近の弟子たちも含めて、イエス様のことをユダヤ民族をローマ帝国の支配から解放して、全世界が天地創造の神に立ち返ってエルサレムの神殿にお参りに来るようにしてくれる、そういう民族解放の英雄と考えていました。どうしてそのように考えたかと言うと、旧約聖書の預言を自民族の夢や願望を通して解釈したからです。

ところが、ヘルモン山に登る前にイエス様は弟子たちに突然、自分の受難と復活について預言し、弟子たちはなんのことか理解できず混乱します(マタイ16章21ー23節)。山の上でもモーセとエリアはそのことについて話をしました(ルカ9章31節)。さらに、イエス様のことをモーセとエリアと同格な方と思った瞬間、それは違うと一蹴されてしまいました。これは一体何なのだ?一体これから何が起きるのか?イエス様が殺されてしまったら、民族解放と諸国民のへりくだりという世紀のプロジェクトはどうなってしまうのか?死から復活するなどと言われるが、それがプロジェクトと何の関係があるのか?ところが、天の父なるみ神が計画していた「解放」とは実は、人間の罪と死からの解放であり、それをひとり子を用いて実現したのでした。このことがわかるのは十字架と復活の出来事を待たなければなりませんでした。

さて、当時出来事の只中にあった弟子たちとは異なり、私たちはこれらのことを事後的に知っています。兄弟姉妹の皆さん、これから四旬節を迎える私たちは、イエス様の受難と復活をもう分り切ったことと教会の年中行事のように受け止めるのはやめましょう。今一度それを身近なものにしましょう。それを身近にすることで自分の命の立ち位置を確認できます。つまり、今の自分の命は、神のひとり子の犠牲の上に成り立っているとわかって、それは尊いもの、大事にしなければならないものとわかります。愚かなこと軽はずみなことは出来なくなります。では、どのようにしてイエス様の受難と復活を身近なものにするか?断食をするか?ここで注意しなければならないことは、私たちには神から与えられた立場やそれに伴う課題があるということです。それらをないがしろにするような「身近さ」の追い求めはいけません。断食をしても、日常の立場と課題をないがしろにしなければ良いのですが、それは実際には難しいのではないでしょうか?日常の立場や課題に取り組む時、今ある命は神のひとり子の犠牲の上に成り立っていることを普段以上に覚えて取り組めば、どこを目指して行けばよいかわかってきます。その時、立場や課題は神から与えられたものということもはっきりします。このような循環に入れる者はイエス様の受難と復活が身近になったと言うことが出来ます。

兄弟姉妹の皆さん、今の命がイエス様の犠牲の上に成り立っていることをよく覚えて今年の四旬節を迎えましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


後注(ギリシャ語が分かる人にです)

ルカ9章34節は、εντωεισελθειναυτουςειςτηννεφελενと言っているので、明らかに「雲が彼らを包む」ではなく、「彼らが雲の中に入る」です。

モーセとエリアの栄光については、οφθεντες εν δοξηと言い(31節)、イエス様の栄光については、την δοξαν αυτουと言っています(32節)。εν δοξηですが、イエス様に用いられるとεν τη δοξη αυτουなどとαυτουが付きます(マタイ25章31節)。


説教準備の終わりの段階になって、33節のδιαχωριζεσθαιがなぜ現在形でアオリストでないのかが気になりだしたのですが、時間切れでした。また次回に考えることにします。

 

 

 

 

説教「神の子として生きよ」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書7章1ー10節、列王記上8章41ー43節

CC0

主日礼拝説教 2019年2月24日顕現節第八主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

  皆さんは、本日の福音書の個所を読まれて、どう思われたでしょうか?百人隊長の部下が重い病気で死にかかっていたのをイエス様が癒す奇跡を行ったことです。百人隊長というのは、当時ユダヤ民族を占領下に置いていたローマ帝国の軍隊の部隊の隊長です。名の通り百人の兵隊で構成される隊です。出来事の舞台はガリラヤ湖畔の町カファルナウムなので、そこに駐屯していた隊でしょう。日本語訳では「部下」ですが、兵隊ではなく、隊長の僕、召使いです。占領軍の将校である隊長はユダヤ人ではありません。しかし、興味深いことに、彼はユダヤ人に好意的です。礼拝堂を建ててあげるくらいユダヤ人を愛していたというのは、もう旧約聖書の神を信じていると言ってもいいかもしれません。使徒言行録に「神を畏れる人」とか「神をあがめる人」という、割礼を受けて改宗はしていないが天地創造の神を信じる人たちが多く登場します。百人隊長もその一人だったのでしょう。ユダヤ人と近い関係にあるので、ユダヤ人の長老たちをイエス様のもとに送りました。長老たちはイエス様に、百人隊長は助けてあげるのに相応しい人物だと推薦しました。

 さらに興味深いことは、百人隊長がイエス様のことをとても畏れ多く感じていて、イエス様が家の近くまで来た時、友人たちを使いに出して自分に代わってイエス様に代弁させます。私の家はあなたをお迎えできるようなところではありません、だからと言って、私から外に出てあなたの面前に立つ資格もありません。どうしてそんなに畏れ多いのでしょうか?旧約聖書ではユダヤ民族が神に選ばれた民、その他の諸国民は「異邦人」という区別がみられます。占領されたとは言え、自分たちは神聖な民という自負があり、他の民族は汚れていると考えます。それで、旧約聖書の神を畏れるようになれば、ユダヤ民族に一目置くようになるだろうし、ましては、今や奇跡の業と権威ある教えで天下に名をとどろかせているイエス様には簡単には近づけないでしょう。

 それでは、肝心の部下の癒しはどうなるでしょうか?百人隊長は使いの者たちに言わせます。あなたが今いる場所からひと言おっしゃって下さい。日本語訳では、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」つまり、あなたが今いる場所からひと言おっしゃてください、その場から奇跡の業を起こして下さい、ということになります。

 やりとりの続きを見てみます。百人隊長の言葉は次のものでした。自分は上官の権威の下に置かれている者だが、同時に、自分の権威の下にも兵隊や部下がいる。彼らに「行け」と命じれば、言葉通りに行くし、「来い」と命じれば、その通りに来る、「これをしろ」と命じれば、その通りにする。これを聞いたイエス様は驚き感心して、これほどの信仰はイスラエルの中でさえ見たことがないと言われます。そして、使いの者たちが隊長の家に戻ると部下はすっかり元気になっていました。イエス様が特に癒しの言葉を発することなく、奇跡が起こったのです。

 皆さんは、このイエス様の感心の言葉を聞いて、どう思われるでしょうか?命令したら有無を言わずに従う、そのように振る舞うことを信仰の見本と言っているのでしょうか?そうだとすると、なんだか教祖や教団指導者の言うことを何の疑いも躊躇もなく実行できることが大事で、出来たらご褒美として癒しや願いも叶えられると言っているみたいではないか?なんだかカルト集団のマインド・コントロールみたいではないか?そう気味悪がる人も出てくるのではないでしょうか?ところが、ここは目をよく見開いて読めば、信仰や宗教の名のもとに人間をロボット化することが言われているのでは全くないことがわかります。それでは、イエス様を感心させた百人隊長のこの言葉は一体何なのか?それを初めに見ていきたいと思います。

 

2.百人隊長の信仰告白

ルカ7章7節にある百人隊長の言葉は日本語訳では、「ひと言おっしゃてください。そして、わたしの僕をいやしてください」となっていました。前半の「ひと言おっしゃって下さい」はイエス様に対する命令文でギリシャ語原文もその通りですが、後半部分の「私の僕を癒して下さい」は注意が必要です。ギリシャ語原文では「僕を癒して下さい」などとイエス様に対する命令文ではありません。正確には、「私の僕が癒されんことを」とか「私の僕が癒されますように」という意味です(後注)。少し脇道に逸れますが、スウェーデン語訳の聖書はこれに沿った訳でした。英語とドイツ語とフィンランド語訳の聖書は、「ひと言おっしゃって下さい。そうすれば、私の僕は癒されるでしょう」でした。これはギリシャ語の文の訳としては正確ではないのですが、イエス様と百人隊長のやり取りにヘブライ語やアラム語の背景があることを考えると、この訳も可能性があります(後注)。ただし、ギリシャ語の文章をアラム語に逆翻訳するのはリスクを伴う解釈方法なので、ここはギリシャ語原文を素直に見ていきます。従って、「ひと言おっしゃってください。それで僕が癒されますように」です。

そうなると日本語訳のような、今いる場所から癒しの奇跡を行って下さい、その場所からなんとかして下さい、というイエス様に対するお願いはなくなります。イエス様に対するお願いは、「ひと言言葉をかけて下さい」に絞られます。言葉をかけた結果、癒しが起きますように、と天のみ神に委ねるのが後半部分の意味です。(マタイ8章8節にも百人隊長の言葉がありますが、ルカと少し違っています。しかし、本説教では違いがどうのこうのという話題に入らず、ルカに専念します。)

その次に百人隊長の命令と服従の話が来ます。これはマインドコントロールの模範例を述べているのではありません。命令に対して服従するのは、服従する者が命令する者の権威の下にあるからだという当たり前のことを言っています。それを言ったのは、イエス様が言葉を発すれば病気が治る、つまり、病気はイエス様の権威の下にあるということを明らかにするためです。このことは、イエス様が他の所でも行った奇跡も当てはまります。病気に治れと言えば治り、悪霊に出て行けと言えば出ていき、嵐に静まれと言えば静まる、こうしたことが起こるのは、あらゆることがイエス様の権威の下にあるということを百人隊長は証言しているのです。自分も軍隊組織の指揮系統の中で上位の権威の下にあるし、同じように自分の部下も自分の権威の下にある。だから、病気も悪も自然現象も含めて全てのものがイエス様の権威の下にあるというのはどういうことか、経験から身に染みてわかる。それで、イエス様が病気に対して何か言えば、その通りになる。イエス様の権威はそういうものだと信じていると述べたのです。

これは、まさに信仰告白です。百人隊長が告白した信仰は、イエス様を天地創造の神、全知全能の神と同一扱いする信仰と言ってよいでしょう。これに対して当時の人たちは、確かにイエス様が癒しの奇跡を行える方だと知っていて癒しを受けるために群がりましたが、彼らの理解はせいぜい、イエスは神から不思議な力を授けられた預言者というものでした。百人隊長は、軍隊での権威関係を比較対象にして、イエス様を天地創造の神、全知全能の神と同等に見なす信仰を言い表したのです。神から力を頂いて何かをするというのではなく、神そのものと見なしたのです。そこが他の人たちとの違いでした。イエス様が、イスラエルの民の間でもこんな信仰は見たことがないと言った意味はこれです。

以上のような次第で、百人隊長の命令と服従の話は、ロボット人間になることが優れた信仰の持ち主になることだとか、その褒美に癒しや奇跡をしてもらえるのだというようなことを述べているのではないことが明らかになったと思います。イエス様が全ての上に立つ権威を持つ方であることを信じて告白したのです。

 

3.神の子として生きること

  ここで一つ疑問が起きます。百人隊長の場合は、信仰を告白して癒しの奇跡が起きました。イエス様を救い主と信じる私たちの場合はどうでしょうか?キリスト教の伝統的な信仰告白に従って、イエス様を神の子、メシア救世主であると信じて告白して重い病気が治るでしょうか?もちろん、治る場合もあるでしょう。治ったのが明らかに良い医療と治療が与えられた結果でも、キリスト信仰者は天地創造の神の導きがあったと考えます。信仰者でない人は、良い医療と治療が得られたことを神の導きなど出さないで、運が良かったとか医学の進歩のおかげとか言うでしょう。違う宗教の人ならば、その宗教の神とか教祖のおかげと言うかもしれないし、先祖の霊のおかげと言うかもしれません。キリスト信仰の場合、医学の進歩のおかげを認めても、神の導きのおかげで医学の進歩に与れたと考えます。さらに、良い医療と治療がなかったにもかかわらず、奇跡としかいいようがない仕方で治った例もあります。それらの中には、ひょっとしたら後になって医学的にメカニズムが解明できるものがあるかもしれません。その場合でも、神の導きのおかげと考えます。

そこで難しい問題になるのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きて祈っているにもかかわらず、願った結果が得られない場合です。そういう時、治った人には神の導きがあったのに、自分にはない、神は自分に背を向けているのか、という気持ちになります。さらには、じゃ、こっちを向いてくれるために何かしなければいけないのかという思いにとらわれることもあります。実はこの問題は本日の使徒書である「ガラテアの信徒の手紙」で扱われる問題に少し関係してきます。パウロが宣べ伝える福音と異なる「ほかの福音」というのは、神の目に義と見てもらえるためにはイエス様を救い主と信じる信仰だけでは不十分だ、律法の規定を守らなければそう見てもらえない、と教えるものでした。パウロはこの手紙の中で、神の目に義とされるのはやはり信仰によるのであると論証していきます。

パウロの教えに基づいて言うならば、キリスト信仰の真髄は次のようなものになります。イエス様の十字架の死によって人間の全ての罪の償いが神に対してなされたということ。それで人間はイエス様を救い主と信じる信仰によってこの罪の償いが生きたものとなり、罪が赦された者となって神の目に義とされるということ。こうして、神との結びつきを壊していた罪の問題が解決し、人間はその結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、神への感謝から愛する心を持って生きられるようになるということ。そして、この世を去った後は神のもとに永遠に戻ることができるようになるということ。これらに尽きます。罪の赦しの救いを受け取るためには、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して受け取りは完了。あとは、聖餐のパンと葡萄酒で受け取りを固めて信仰告白と祈りに生きていけばよいのです。救いは、このように受け取りに徹することで持てるものなので、何かをして褒美にもらえるというものではありません。

ところが、病気が治りますようにと、決して自分勝手なお祈りをしているわけではないのに願い通りにならないと、なぜ?という疑問が出てきます。イエス様を救い主と信じる信仰にいる限り、次の世まで神に守られて進んでいけるとわかっていても、なぜこんなに痛い思いをして苦しまなければいけないのか、なぜそれは延々と続くのだろう?そうことになると、「罪の赦しの救い」という救いは、現実の問題とどんな関連性があるのかと疑わざるを得なくなってきます。

私のある知り合いのキリスト信仰者が人生の大半をそのような苦しみの中で送られているのですが、ある時知り合いのクリスチャンに「あなたの苦しみは神の国に入れるために必要なことだ」と言われて疑問を抱いたとおっしゃっていました。確かにイエス様は各自は自分の十字架を背負いなさいと言ったので、その痛み苦しみがその方の十字架だと意味して言ったのでしょう。しかし、ここは注意が必要なところです。痛み苦しみは神の国に入れるための条件であるとか、そのためにしなければならない修行という意味だったら、それは違うでしょう。神の国に迎え入れられるためには、イエス様を救い主と信じる信仰以外に何の修行も業績もいらないというのがキリスト信仰だからです。そうすると、医療や治療や周りの人に支えられて出来る限り苦痛を取り除いて健康に近づけるように努めることは修行や十字架の否定にはなりません。まさに神の導きの中で行われるものです。苦しみそのものが背負うべき十字架ではなくて、苦しみを取り除くため健康に近づけるようになるための戦いが背負うべき十字架というのが正確でしょう。どんなに小さな助けや改善も神の導きの現れです。さらに、その人のために執り成しの祈りがなされれば、神に対してへりくだる心がこの世に一つ生まれることになります。この世で利己的な心と無関心が一つ減ることになります。これも神の導きです。

全てのことが神の導きの中で行われるということになるためには、イエス様を救い主と信じる信仰に留まって神との結びつきを保たなければなりません。それを保つことが出来るためには、自分はこの世を突き抜けて次の世まで至る神の導きの中にいるのだ、痛みや苦痛があっても神の導きや結びつきは微動だにせず、痛みや苦しみがあっても自分はそういうものに繋がっているのだ、と覚えることができないといけません。

そういうことを覚えられるためには、神の導きや結びつきは痛みや苦しみがあってもなくてもいつも身近にあるということを知らないといけません。痛みや苦しみが現実のものならば、神の導きと結びつきも同じくらい現実のもの、否、そっちの方が本当の現実と言えるくらいのものである、ということを知ることができないといけません。そういうことがわかるようになるのが信仰生活が目指すことではないかと思います。目には確かなものに見えるこの世の現実と確かなものに見えないが本当はもっと確かなものである神からの現実。この二つの現実の中で生きるのが、イエス様を救い主と信じて神の子とされた者たちの生きることではないかと思います。

そういうわけで私は、説教者の使命とは、神の導きと結びつきは本当の現実なんだということを聖書の御言葉の解き明かしを通して知らせることであると考えます。

 

4.列王記上8章のソロモン王の祈りと神からの現実

 神の導きと結びつきは本当の現実であると知らせるのが説教者の使命と申したのですが、本説教では肝心なこの知らせることをまだしていません。最初に百人隊長の信仰告白について述べて、次にこの使命を提起しただけです。それでこの知らせることをしなければいけません。本日の旧約の日課である列王記上8章の解き明かしを通してそれが出来るでしょうか?ちょっとやってみましょう。

列王記上8章はユダヤ民族の三代目の王ソロモンがエルサレムに神殿を建設して、そこで集まった国民の前で神に祈りを捧げる場面です。イエス様の時代からさらに1,000年程遡った昔のことです。22節から53節までが祈りの言葉です。いろいろな祈りがありますが、大まかに言うと、イスラエルの民が何か罪を犯して困難に陥ったら神殿で赦しを乞う祈りをしますので聞いてください、というものです。本日の日課の41ー43節は祈りの内容が他の祈りと違っていて、イスラエルの民でない別民族の者が神殿に来て祈ったら、それも聞き遂げて願いを叶えて下さいという祈りです。

このソロモンの長い祈りの中で興味深いことは、神に祈りを聞き遂げて下さいとお願いする時に、「あなたのお住まいである天にいまして耳を傾けて下さい」と繰り返し言っていることです。中には「あなたのお住まい」が省略されて「天にいまして」だけのものもありますが、全部で8回繰り返されます。本日の日課の中にもあります(43節)。8回のうち、30節にある最初のものが完全な文で、あとは「あなたのお住まい」がなかったり、前置詞が省略されていて完全な文ではありません(ヘブライ語の原文で見ています)。30節にある完全な文を見て、正確な意味をわかるようにしましょう。日本語訳の「あなたのお住まいである天にいまして」は正確な訳ではないと思います。というのは、祈りの初めのほうでソロモンは「天も天の天も神を納めることができない」と述べているからです(27節)。天に納まりきれない方がどうやって天を住まいに出来るのでしょうか?正確な意味は、「天の上にいまして、王座に座っていらして耳を傾けて下さい」です。「天の上」とは文字通り、天の上側です。天を下に見下ろすところです。つまり、神は天を超えたところにおられるのです(後注)。

天を超えたところとは、どこにあるのでしょうか?雲一つない青空を見て、神はあの青い広がりの向こうにおられると考えたとします。しかし、私たちは青い広がりの向こうには宇宙があると知っています。夜になって青い広がりが無数の星が散りばめられた透き通るような黒板に入れ替わります。あの中のどこに神はおられるのかと考えても意味がないでしょう。というのは、神のおられる天を超えたところとは、私たちの目で確認したり、数値・数式をもって計測・測定したりする宇宙空間とは全く別の世界だからです。ハヤブサ2号が3,4億キロ飛んで小惑星リュウグウに到達し、NASAのロケットは太陽系外の惑星を探し求めて飛び続けています。そのように目で確認でき計測や測定できる対象は常に拡大していきます。しかし、神のおられるところには実にあの透き通った黒板世界の上側と言っていいのか、外側と言っていいのか、反対側と言っていいのか、裏側と言っていいのかわかりませんが、超えているのです。

そんなところにおられる神のためになぜソロモンは神殿を建てたのでしょうか?ソロモン自身、神は地上には住めない、神殿など住む場所に値しない、と言ったではありませんか(8章27節)。それは、神に祈りを捧げるための場所であり、祈りを捧げる者が神の目に相応しくなるために罪の償いの儀式をする場所でした。それで神殿には神の像などないのです。像など作って置いたら、拝んでいるうちにその像が祈りを捧げる相手になってしまうでしょう。ところで、神殿の中には、「至聖所」と呼ばれる最も神聖な場所があり、そこは大祭司が年に一度、自分の罪と民全体の罪を償うために動物の生贄の血を携えて入ることが出来ました。「至聖所」はそれくらい神の神聖さに満ちて畏れ多すぎた場所でした。そこは、天を超えた世界と天の中にあるこの世界が遭遇する場所だったと言ってもいいでしょう。

しかしながら、神がこの世に贈られたひとり子イエス様の十字架上の犠牲の業がなされたために、神殿を通しての罪の償いは不用になりました。人間すべての罪の償いを、毎年捧げる動物の生贄の血なんかではなく、神聖な神のひとり子の流した血によって未来永劫に果たしてしまったのです。イエス様自身、御自分の十字架と復活の業の後に神殿ががれきの山になると預言していました。果たしてそれは西暦70年ローマ帝国の大軍がエルサレムを破壊した時にその通りになりました。それならば神はなぜ、不用になる神殿などを長い歴史の間認めていたのでしょうか?それは、「ヘブライ人への手紙」にも記されているように、将来イエス様を通して人間の罪からの贖いが完全に実現することを前もって模倣するものでした。現物に比べたらあまりにも小さな模倣でした。ユダヤ民族がそのようにすることで人間は大切なことを教わりました。それは、天地創造の神と結びつきを持てて見守ってもらうためには、自分の罪を覚えなければならないということと、それを何らかの形で償わなければならないことを教わったのです。人間と天地創造の神との関係はこういうものだということを。しかし、イエス様が完成品を出して下さったので、人間は神との結びつきと見守りを得るために小さな模倣品に頼る必要はなくなりました。

さらにイエス様は死から復活させられました。それで、死を超えた永遠の命に至る道が人間の目の前に切り開かれました。それは天地創造の神の御許に至る道です。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると早速この道に置かれて、神との結びつきと見守りのうちにこの道を進んでいきます。あの青い空を超えたところ、またはあの透き通る黒板を超えたところにおられる方が、本当なら神聖な御前に立つことなど許されなかった私たちなのに、まさにひとり子の十字架と復活の業おかげで、御前に立つに相応しいものにして下さった。そうなると私たちはもう既に、神のもとに迎え入れられたも同然です。このように私たちは言わば、御許への迎え入れを先取りしたような状態でこの世の道を進んでいます。それなので、神が私たちのことを見守って下さり、祈りを聞いて下さっているというのは本当としか言いようがなく、私たちにとって現実なのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

後注)(ギリシャ語とヘブライ語とアラム語がわかる方にです) 
ルカ7章7節「私の僕が癒されんことを」とは、三人称単数の命令形のことです。ヘブライ語とアラム語の背景というのは、ヘブライ語のjussiv+imperfectの連結があると考えると、命令+目的・結果の意味になるということです。アラム語に同じものがあるのか確認したかったですが、手持ちの教科書はF. Rosenthalの薄いもので役に立たず、大学時代に使ったS. Stanislavの参考書は手元になく確認できません。
列王記上8章30節は、H.S. Nybergの参考書(北欧で権威あるヘブライ語参考書)によれば、前置詞אלはעלと同じ意味で使われることがあるとのことでした。

 

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手芸クラブのご案内、2019年2月27日(火)10時~12時 「マイ帽子」を作ってみませんか。

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電話03-3362-1105 
スオミ・キリスト教会

 

説教「罪の赦しと復活の希望を携えて」 神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書6章37-49節

主日礼拝説教 2019年2月17日顕現節第七主日

 エレミア7章1-7節、第一コリント15章12-20節、ルカ6章37-49節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 皆さんは、本日の福音書の個所を読んでどう思われたでしょうか?イエス様の教えはそんなに難しくない、歴史的背景の知識がなくても常識の範囲で理解できる、そう思われたのではないでしょうか?ちょっと見てみましょう。

「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうれば、あなたがなにも与えられる。あなたがたは自分の量る秤で量り返される。」

これらを聞いて、ああ、自分が何か悪いことをされても赦してあげれば、周りもそういう雰囲気になって自分が何か至らないことをしても赦してあげようという態度にみんななっていくんだな、そういう赦してあげようという雰囲気を生み出すためには自分から率先して行うべきなんだな、そう思われるのではないでしょうか?「与えなさい」というのも同じで、周りがケチケチせずに与える態度を持つようになるためにはまず自分から始めないといけないんだな、そんなふうに理解されるのではないでしょうか?

「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる」というのは、小麦粉を升にぎゅうぎゅうに押し込んで、さらにとんとんと叩いて隙間をなくしてたっぷりな量を与えるということです。私などこの個所を読むと、夏のフィンランドのマーケット広場での買い物を思い出します。イチゴやいろんなベリーをリットルかキログラム単位で買うのですが、リットルで買う時(もちろん、ぎゅうぎゅうに押し込むことはしません、潰れてしまいますので)、目の前で店員が升に山のように入れてくれて、上からボロボロ落ちてしまうと、またすくっては山にして落ちないうちにサッと袋に入れてくれます。ケチケチした感じがなくて、それこそ「持ってけ、どろぼー」みたいな気前良さで入れてくれます。日本ではイチゴはケースの中にお行儀よく並べられて一粒一粒ピカピカに輝いて貴重品のようで、フィンランドのように乱雑に扱えません。

さて、こちらが気前よく沢山与えたら、周りもそれに倣って同じようにしてくれるでしょうか?中にはケチな人もいて、こっちは気前良くしたのにそうしてくれず、こっちは損をするということはないでしょうか?同じように、裁かない、赦すということも、こちらが率先しても、みんながみんなそれに倣ってくれるかどうか。ひょっとしたら、心が狭くて同じようにしない人がいて、こちらが馬鹿をみるということが起きないでしょうか?

イエス様の教えを先に進んでみていきます。盲人が盲人の道案内をすることはできない、二人とも穴に落ちてしまう、これは当たり前すぎることではないでしょうか?弟子は師を超えるものではないが、師のように完全なものになれる、というのは、文章としては理解できますが、何か意味をのあることを言っているのでしょうか?新共同訳では「修行を積めば」と訳されていますが、ギリシャ語原文では単に「師のように完全になれる」とだけ言われているにすぎません。そのために何かプロセスを経ることが前提されていますが、それが「修行を積む」ことなのかどうかは決め手は何もありません。

続いて、兄弟の目の小さなゴミを気にするのなら、自分の目の丸太に気づけ、と教えます。もちろん、丸太が目に入るわけはありませんが、これを聞く人は皆、自分のことを棚に上げて他人の至らなさをとやかく言うのは丸太が目に入っているのに気がつかないくらい鈍感ということを思い知らされるでしょう。日本の道徳の教科書に取り入れていい教えかもしれません。

これに続いて、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶといういう教えが来ます。これは次に言われる人間の状態のたとえです。良い人間は心の良い倉から良いものを出し、悪い人間は心の悪い倉から悪いものを出す。「心の倉から出すもの」とは何か?その次に「人の口は心からあふれ出ることを語る」と言っているので、口から良い言葉や悪い言葉が出るのはそれぞれ心の状態を反映しているのだということになります。なんだか当たり前すぎて目新しい感じがしません。ノンクリスチャンが読んだら、なんだイエスなんて大したこと言わないな、世界にはもっと深いことを言う賢者が沢山いるのに、と思うかもしれません。

先に進みます。最後に来る教えが、二つの異なる家を建てる者のたとえです。イエス様の言葉を聞いてそれを行う者は嵐が来ても大丈夫な家を建てる人、言葉を聞いても行わない者は嵐が来て倒壊してしまう家を建てる人と言います。これはどういうことでしょうか?先ほどもみましたように、イエス様は、裁くな、赦せ、豊かに気前よく与えよ、他人の落ち度を取りざたする前に自分の落ち度を正しなさい、と教えました。もちろん、こちらが率先してこうしたことをしてみんなが見習ってくれたら言うことありません。しかし、こちらから謙虚に気前よくしても相手が同じようにしなかったらどうするのか?周りは赦すという態度を持っていないのに、こちらは赦す態度でいなければいけないというのは、どんなものか?そんなお人好しではつけあがられたり、弱みにつけこまれるだけではないだろうか?イエス様は何か倫理的な英雄になれ、とおっしゃっているのだろうか?そのように出来る者は嵐が来ても倒壊しない家を建てる者と同じと言われるが、周囲の無理解や悪意に晒されても気前良さとお人好し路線を続けられる強さを持てということなのか?そのような家はしっかりした土台の上に建てられていると言われるが、土台とはその人の強さのことなのか?一体だれがそんな強さを持てるのだろうか?イエス様は普通の人には無理なことをしろと教えているのでしょうか?

 

2.罪の赦しを携えて

 ここでイエス様の教えを詳しく見てみます。

「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうれば、あなたがなにも与えられる。あなたがたは自分の量る秤で量り返される。」

新約聖書のギリシャ語の特徴の一つですが、受け身の文で「誰々によって」という言葉がない時は、大抵の場合それは「神」を意味しています。つまり、人を裁くな。そうすればあなたがたも神に裁かれることがない。人を罪人だと決めつけるな。そうすれば、あなたがたも神に罪人だと決めつけられることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも神から赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたも神から与えられる。あなたがたは自分の量る秤で神から量り返される。こういうことです。周りの人たちが同じようにしてくれるということではありません。

すると一つ疑問が起きてきます。神が私たちを裁かない、罪人に定めない、赦して下さる、与えて下さる、というのは、まず私たちが他人に対してそうできないといけません。でも、これはおかしくありませんか?キリスト信仰では、イエス様を救い主を信じる信仰によって神から罪の赦しを受けられると言っているではありませんか?特にルター派の場合、人間が神から罪の赦しを受けて神から裁かれないという意味での「救い」は何によると言ってましたか?人間の救いは人間の業績や達成に対する神のご褒美ではないと言っていたではありませんか?イエス様が十字架の上で人間の身代わりになって神罰を受けて死なれて、神に対して罪の償いを人間に代わってして下さった。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の犠牲のおかげの罪の赦しがその人にその通りになる、そういうことではなかったか?それなのに神から裁かれないためにしなければならないことがあるというのはどういうことか?このことについてルター派の張本人であるルターはどう教えているかを見てみましょう。彼の教えは「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」という聖句の解き明かしです(本説教の趣旨に沿うように解説的に訳すので付け加え等あります。)

「これは奇妙な教えだ。まるで神は、自分に仕えることよりも隣人に仕えることの方が肝要なことだと言っているように聞こえるからだ。お前の私に対する罪、私への反抗心、私の意志に反すること、それらはわが子イエスの犠牲に免じて赦してやる、もうお前を責め立てない、そう言って下さった。なのに、我々が隣人に対して悪く立ち振る舞うならば、神はもう、イエス様のおかげで我々が持てた神との和解を忘れて、罪の赦しを撤回すると言われるのだ。

ここで言う『自分の量る秤』とは何か?それは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになって持つことになった秤である。君はイエス様を救い主と信じるようになった時、どんなだったか思い出すがよい。神は、君の業績や達成をご覧になって君の罪を赦して君を受け入れたのではなかった。イエス様の犠牲のゆえに君に罪の赦しをお恵みとして与えて君を受け入れたのだ。神は君が罪を持ったまま御前にヘリ下って来るのを追い返したりせず、来るのをお許しになって罪の赦しをお恵みとして与えて下さったのだ。今神は君に次のように言われる。『お前も他の人々に同じようにせよ。そうしなければ、お前が他の人々にするのと同じことがお前にも起こることになる。もし他の人々に善意を示さなければ、私もお前に示さない。もし他の人々を見捨てたり裁いたりしたら、私もお前を見捨てて裁く。もし他の人々から取るばかりで与えなければ、私もお前から取り何も与えない。』

イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになると、我々の心に神の赦しの思いが芽生える。それは、我々自身が罪の赦しをお恵みとして頂いたからである。それだけではない。我々は信仰にあっても内に宿る罪が時として我々を驚かせ悲しませることがある。罪の赦しを頂くと今度は自分の罪に気づくようになる。罪の自覚が生まれるのである。しかし神は、自覚を持つ度に十字架のもとに立ち返る我々をあの時と変わらぬ恵み深さで迎えて受け入れて下さる。つまり我々はあの時と同じ罪の赦しを毎日携えて歩んでいるのだ。だから、神は我々がどう隣人に振る舞っているかをご覧になって、我々が罪の赦しをちゃんと携えているかどうか知ろうとされるのだ。神の赦しの思いを持てない者は、それをどこかに置き忘れてしまって、イエス様を救い主と信じる信仰がなくなってしまったことを暴露するのだ。」

ここからも明らかなように、キリスト信仰者が他人を赦すというのは、神から罪の赦しを頂いたことが出発点にあります。お前には神罰を下さないと神に言ってもらえる。この世の人生をまさに天地創造の神の見守りと導きのもとで生きられるようになり、この世の人生を終えた後はまさに自分の造り主である神の御許に迎え入れられる。このようなことが罪の赦しに付随してきた。こんな大きなことをして頂いたら、もう他人が自分に何か至らないことをしたとか言ったとかは大したことでなくなります。恨みや憎しみが自分から分離して色あせていきます。神がひとり子イエス様を用いてこんな大きなことをしてくれたというのは、私のことをそれくらい大事に見てくれたということです。それがわかると、神やイエス様がしなさいと言われることは、周りが見習ってくれるかどうかに関係なく行って当然のことになります。

事が日常生活の中のことであれば、赦すとか裁かないとか与えるというのは大変なことではないかもしれません。しかし、もし犯罪の被害者になってしまうとか日常の枠を超えるようなことが起きたらどうなるでしょうか?社会には法律があって刑罰や損害賠償について定められています。イエス様が赦せ与えよと言うから、下された判決に対して無罪にしていいとか、不当に取られたものはくれてやる、と言うべきでしょうか?もちろん、そうはならないでしょう。というのは、神の意志を表す十戒というものがあるからです。盗むな、殺すな、姦淫するな、偽証するな等々あります。裁くな、赦せ、与えよ、というのは、神の意志に反することが大手を振ってまかり通るようにしていいということではありません。じゃ、法律が関わるところでは、それらは無効なのか?難しいところですが、次のように考えたらどうでしょう。

それは、裁くな、赦せ、与えよ、というイエス様の教えがあるところとないところでは法律の見方が異なってくるのではないかということです。それがないところでは、目には目を歯には歯をという考えが支配的になるのではないでしょうか?あるいは気が納まらなくて目には目以上のものを求めるかもしれません。裁くな、赦せ、与えよがあると、社会において神の意志が破られないようにするのにはどんな規定や判決が妥当なのか、まさにそれらとつき合わせながら考えなければならなくなります。具体的にはどんなことがあるかここでは申し上げる余裕はありませんが、少なくとも目には目をということではなくなるのではないでしょうか?こうして見ると、法律や社会規範の形成に信仰も無視できない要因になってくると言うことができると思います。

 

3.復活の希望を携えて

 キリスト信仰者というのは、現実にはいろいろな困難はあるが、「裁くな、赦せ、与えよ」ということを心掛けます。そうするのは、自分の造り主である神が本当にひとり子の犠牲も厭わないくらいに私を罪の支配下から救い上げて下さった、このことが大きなこととしてあるからです。先ほども申しましたように、罪の赦しを頂いてそれを携えていること、これが他の人々に対してもイエス様が教えたようにしようという心にします。イエス様を救い主と信じて生きる者が携えるのはこの「罪の赦し」の他に「復活の希望」もあります。復活の希望も、携えると「裁くな、赦せ、与えよ」を行う心に私たちをしていきます。このことを見ていきましょう。

復活の希望については、本日の使徒書の日課である第一コリント15章12-20節の中でも言われています。本説教ではそれに基づいてお話しします。

この個所で使徒パウロは、キリストは死者の中から復活した、とか、もしキリストが復活しなかったならば、とか、キリストの復活について6回繰り返します。そこで注意を引くのは、ギリシャ語の原文ではどれも動詞の現在完了形(εγηγερται)が用いられていることです。こんなことを言うと学校の英語の授業みたいで嫌だなと思われるかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了形の意味と英語のそれは違いがあるので、英語のことはすっかり忘れて大丈夫です。パウロはイエス様の「復活」を繰り返して言う時、なぜギリシャ語特有の過去形(ηγερθη、アオリストのことです)を使わないで現在完了形を使うのか?今日この個所について説教する人は原文を読んで気づくでしょう。原文を読まない人は参考書に指摘されて気づくでしょう。気づいたら、どういうことか考えなければなりません(参考書の人は答えがあるので、それを引用するだけですむのかもしれません。後注)

ギリシャ語の現在完了形の基本的な意味は、過去に何か出来事が起きて、その状態が現在も続いているということです。過去に起きた出来事が過去に埋もれてしまわないで現在も表面に出ているような感じです。それで考えると、パウロがイエス様の復活をそのように言ったのは、イエス様が復活されて今も生きておられるということを意味しているというのが一つ可能性として考えられます。使徒言行録に記されているように、イエス様は復活した後、40日間弟子たちと共にあり聖霊降臨の10日前に弟子たちの目の前で天の父なるみ神のもとに上げられました。そして今は、キリスト教会の伝統的な信仰告白に言われるように、父なるみ神の右に座して再臨する日まで信仰者を守り導き、その日が来たら眠りについている信仰者を目覚めさせて神の御国に迎え入れらます。再臨が起きる前の今は生きておられ、守り導かれているのです。

パウロがイエス様の復活を現在も続いている状態で言い表したのは、このようにイエス様が今生きて治められていることを意味しようとしたと考えられます。もちろん、それもあるのですが、私としてはそれだと今生きておられることが前面になって復活の出来事が背後になってしまうのが少し気がかりでした。私としては、復活ということも前面に出てくるのではないかと、この個所のことでずっと悩んできました。今回それがわかったと思います。どういうことかと言うと、イエス様の復活というのは彼個人の出来事にとどまらず、私たち自身の将来の復活を確実にする出来事であるということです。イエス様の復活は過去の出来事として過去に埋もれてしまうものではなく、私たちをも復活に向かって押し出していく、まさに今もある復活ということです。

そのことがわかるためにパウロが17節で、キリストの復活がなければ私たちは罪の中にとどまっていると言っていることに注意します。罪の赦しを頂いたにもかかわらず罪の中にとどまってしまうというのはどういうことか?それは、罪の赦しを頂いても復活に向かって進まなければ、ただ単に神聖な神の御前で罪の自覚を持つだけで行き場がなくなるということです。私たちが復活に向かって進めるのは、復活の見本が打ち立てられたからです。イエス様の復活が起きなかったら私たちはどこに向かって進んでいいのかわかりません。そういうわけで、キリストに希望を置くことがこの世と次の世の双方にまたがるような置き方でなく、この世でストップしてしまったら、とても重くつらくなります。「裁かない、赦す、与える」ことも、損することや不利になることが気になってできなくなります。パウロが言うように、最も惨めな人間になります。罪の自覚など持たずに生きた方が楽だと思うようになります。

さらに20節をみると、キリストは復活して眠りについている人たちの「初穂」となったと言われます。「初穂」とは面白い訳です。日本の宗教的な伝統では最初に実った稲の穂を神仏に捧げるものです。ギリシャ語の単語απαρχηはそういう神に捧げるものの意味もありますが、穀物だけに限りません。動物もあります。それで「初穂」は訳としては限定しすぎです。確かにイエス様は十字架の上で私たちのために犠牲になって神に捧げられたことがありますが、その捧げが眠りについた人たちとどう関係するのかがはっきりしません。

ところが、ギリシャ語の単語には「最初の者」という意味もあります。それでいくと、イエス様は死んで眠りについて復活させられた最初の者、復活の先駆者ということになり、罪の赦しを携えて眠りについた者たちは彼に続く者になります。まさに初穂に続く穂になります。その意味では「初穂」という訳は詩的な言葉です。皆さん、麦畑でも田んぼでもいいから思い浮かべて下さい。秋の澄み渡った空の下、最初に穂となったのがイエス様です。後に続いて一斉に黄金色になるのが私たちです。真にイエス様は私たちにとって「初穂」です。

 

4.洪水にあっても倒壊しない家の土台とは?

 以上のように、キリスト信仰者とは、罪の赦しと復活の希望の双方を携えて復活に向かって押し出されるようにこの世の人生を歩む者です。これがわかると、本日の福音書の当たり前すぎてよくわからなかった個所が次々とわかるようになります。盲人が盲人を道案内することは出来ないというのは、復活の主なくして、復活に至る道を歩むことはできないということです。ちゃんと道案内できる師が必要となる。それがイエス様です。十字架の上で私たちの罪を償って私たちに罪の赦しを整えて下さり、さらに死から復活されることで私たちを復活に向かって押し出して下さる方です。その師であるイエス様に弟子はまさらない、つまりキリスト信仰者はまさることはありません。これは当たり前です。誰もイエス様の十字架と復活の業に並ぶことは出来ないからです。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に生き、罪の赦しと復活の希望を携えていけば、復活の日に復活します。イエス様と同じになれる、つまり師と同じになれるのです。

自分の目の木材とは?罪の赦しを携えて生きる者が持つ罪の自覚のことです。自覚がないのはそれを携えていないからです。良い人が心に良い倉があって良いものを出すというのは、罪の赦しと復活の希望を携えていると、「裁くな、赦せ、与えよ」ということを行うのが当然という心になっていきます。それが良い人の心の中にある良い倉です。心から出てくるものは、行為に限られず、口にする言葉もそうであると言われます。

そしてイエス様の言われることを聞いて行う者は洪水にも耐えうる家を建てる者とは?洪水というのは、この世が終わりを告げ今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる終末の大変動を意味します。そのような大変動にあっても家が揺り動かされないで大丈夫というのは、復活させられて神の御国に迎え入れられることを意味します。「ヘブライ人の手紙」12章で、天と地が揺り動かされても唯一揺り動かされないものとして神の御国が現れるという預言があります。家がびくともしないですむその土台は何か?本説教の冒頭で考えたような、人間自身の強さではありません。罪の赦しと復活の希望がそれです。それが、家がしっかり立っていられる土台です。それを携えている者はみな、この世の人生を歩む時も、次の世に移行する際の大変動の時もしっかり守られていて何の心配もないのです。

兄弟姉妹の皆さん、本日の福音書の日課にはいろいろなことがありましたが、どれも捨てることなく解き明かしできました。父なるみ神に感謝です。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

後注 ギリシャ語の現在完了はアオリストと同じように考えてもよいと言う人もいるかもしれません。私が勉強したJ. Blomqvist & P.O. Jastrup の教科書(スウェーデン語デンマーク語の二言語で書かれている)には、古典時代後には叙事文の中で現在完了がアオリストと同じ意味で使われる例も若干ある、などと書かれていました。第一コリントは16章21節から明らかなように、パウロが口述して書きとらせている手紙であることに注意しました。