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聖霊降臨祭(赤)創世記11章1~9節、使徒言行録2章1~12節、ヨハネ16章4b~11節、使徒言行録2章1~12節
「聖霊が降って、全地の民に」
今日の礼拝は、世界中のキリスト教会が、特別な礼拝をしています。
聖霊が弟子たちの上に降った、という出来事が起こったのであります。
使徒言行録2章1~4節を見ますと、
「五旬祭の日が来て、一同が1つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、1人1人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した。」とあります。
イエス様の弟子たちが五旬節の日に、皆が集まっている所に突然聖霊が降ったのです。
ここで言っている五旬祭というのは、特別な日でした。過越の祭の日曜から数えて50日目の日曜のことです。
「七週の祭」とも呼ばれました。もともとは小麦の収穫を祝う日でありました。ですから「刈入れの祭」とも呼ばれていました。
余り重きをなさない祝日でしたけれども、モーセがシナイ山で十戒を授かったことを記念して祝日と見なして以来、大きな重要性を持つようになったと言われています。
ですから、ここで、五旬節の日に祭のため多くの人々が地方からエルサレム神殿に集まっていたのです。そうして、神からの驚くべき出来事が起こりました。新しい恵みが、弟子たちの上に臨んだということであります。
この日に「みんなの者が一緒に集まっていた。」とあります。原文では「一緒に」という言葉と「同じ所に」という二つの副詞が、たたみかけるように重ねて出てきています。それだけ、ひと所に一緒に集まっていたということが強調されているということです。
教会は、キリストを中心として、キリストの救いに預かった者たちが集まって祈りをいっしょにするのであります。
キリストからさずかった愛を、互いに交わすために、集まっているのであります。信仰の必然的な姿がここにありました。
復活の姿を弟子たちにあらわされたイエス様が昇天されて以来、弟子たちはひそかに1つ所に集まってひたすら祈りをしていたと思います。それは、聖霊が下るという天からのとてつもない大きな恵みに浴するための準備として、彼らはひたすら思いを1つにしていたことでしょう。
著者ルカは、このことをとても重視して書いているわけであります。神の恵みの舞台は整いました。そして、想像できないような出来事が起こったのであります。2節を見ますと、「激しい風が吹いてきたような音が、家いっぱいに響きわたった」とルカは書いています。
皆さん、想像して見て下さい。神様が起こされる御業というものは理屈や説明をこえて、想像の世界、霊の次元の世界が突然にあらわされたのです。
神の霊が目には見えない力で、全身の体にはっきり感じとれる激しい現象が、皆の者の上に降ったのであります。それだけではありません。
更に「舌のようなものが炎のように分かれて現れた。その炎の舌は1人1人の上にとどまった。」と
3節で言っています。どんな光景でしょうか、皆さん、想像してみて下さい。聖霊の力の中で満たされている者は1人1人ちがって、ふるえ上がっているのではないでしょうか。驚きと恐怖、また自分をはるかにこえた次元のちがう世界に動かされるまま、語らされるままに、聖霊に満たされている。
1人1人ちがった聖霊降臨という奇跡の只中に用いられているわけです。
ユダヤ人たちの伝承によりますと、あのシナイ山において、神の言が70の舌に分かれて、世界の70の国民はそれぞれ自分の国の言葉で、この十戒を聞いたという。ルカは、ユダヤ人たちがこの伝承をよーく知っている、そのことを含めて、舌のようなものが炎のように分かれてのぞんだという表現で書いています。
そして更に4節を見ますと、聖霊に満たされた人々は、他国の言葉で語りはじめた、とあります。これは他国の言葉でもあり、異言を語り始めた、とも読める、という解釈もあります。それ程異状な光景で、語る者と聞くものだけは心がはげしく通じ合っているとでも言える光景です。
ルカはすでに1章8節のところで、イエス様は召天される時、弟子たちに向かって言われた。
「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまでわたしの証人となる。」
聖霊が降る時、受ける力というのは、病をいやしたり、悪霊を追い出したりするような奇跡をなす力であるよりも、むしろ言葉による能力の力を言っているのであります。
イエス様が召天されて、彼らはこれからいったいどうしたらいいか途方にくれていた。そういう彼らの上に、霊的な力が与えられた。そして彼らは、新しい言葉を与えられて、しゃべり出した。
それは民族の境を越えて、全地の民にわかる言葉で喜びのおとずれを宣べ伝えたのです。
「これからイエスの証人となるのだ。」という具体的内容であります。そのことが起こった。
全身にものすごい風の音がひびきわたり、聖霊が降った。ものすごいことです。もう何といったらいいか、想像を絶することです。
4節からルカは次のように書いています。「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままにほかの国の言葉で話し出した。さて、エルサレムには、天下のあらゆる国から帰ってきた信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に、大勢の人が集まって来た。そして誰もかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話しているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」
弟子たちは、ふだん魚をとっていた人とは全くちがって、霊に満たされてしゃべり出した。語らせるままに福音をそれぞれの故郷の言葉でしゃべり出したのです。それを聞いた人々は、メソポタミアからエジプトに至るまでの人々であって、彼らは離散している「ディアスポラ」と呼ばれたユダヤ人でありました。
自分の生れ故郷の言葉で、イエスの弟子である使徒たちが話している。何ということだ!彼らは胸打たれ、感動したのです。
今まで聖地エルサレムから遠く離れて、霊的にはいつも孤独感の中に、見捨てられたように感じていた。離ればなれのユダヤ人たちの魂に今、神の言葉が、自分自身のふるさとの言葉として注ぎ込まれたのであります。
このようにして、彼らの魂がとらえられ、神の恵みの中に招かれていったのであります。
9節以下には、ルカが、その故郷の言葉を聞いた人々の地名を面々として記しています。
なぜこのように、こまかく地名を書いているのでしょうか。
ここに列挙されている地で、ユダヤ人がどんなにつらい迫害を受けて、耐えてきたか、ルカは
伝承の資料でよーく知っていました。
パルディア・メディア、エラムから始まって、これらの地はカスピ海の周辺にあった地名です。
メジアはカスピ海の西南にあり、メソポタミアは、バビロン捕囚にあったイスラエルの民が、うき目をつぶさになめた土地です。
エラムはその東にあって、カッパドキアは小アジアといわれ現在のトルコの東部にあります。私はその近くまで、パウロの伝道した地を訪ねました。カッパドキアは今でも、多くの人が訪れ、奇妙な岩石がにょきにょきとつき立って、その岩穴に、ユダヤの民は苦しい生活をせざるをえませんでした。
ポントは、その北にある黒海沿岸の地帯にあります。
次のアジアと言うのは、小アジア西部にあってローマ帝国時代アジジ州のことです。
フルギアとパンフリアも同じ小アジアの西南部にあって、ここに挙げられている1つ1つの地域にユダヤの民が離散の後、その土地で苦しんで苦しんだ歴史が含まれているからルカは、その1つ1つの地名に万感の思いをこめて記しているわけであります。
そうして、ルカは11節で「ユダヤ人と改宗者」という言葉で、これらの列挙した人々を宗教的な観点から総まとめしています。
ここにあるユダヤ人と、ユダヤ人の改宗者、クレテ人とアラビヤ人とを除くと、あとには12の名が残るという。12というのは、1つの完全数と見なされ、言いかえると、全地の民に向かって今や、福音が宣べ伝えられ始めた、ということです。ルカは何としてもこのことを強調したかったのであります。ルカは福音書も使徒言行録も異邦人向けに書いています。
しかもローマが12番目に挙がっており、この使徒言行録もパウロのローマ伝道で終わっているのであります。
「あなた方は、地の果てまで、イエスの証人となる。」というこの約束の言葉が、すでにここに実現の第一歩を踏み出している、ということを、パウロは万感の思いに満ちあふれて、私共に示しているのです。
1章6節に、弟子たちが「主よ、イスラエルのため国を復興なさるのは、この時なのですか」と、たずねる時、恐らく、まずエルサレムを中心とするイスラエルの復興を待ちのぞんで言ったでしょう。
ところがここでは、むしろ、死の陰に座する民のもとへ行け、という指示を受けたのです。
そして事実、10節から11節に列挙されている地方に、福音は伝道されていったのです。
ポントは、パウロの協力者アクラの出身地でした。
アジア、フルギヤ、パンフリヤはいずれもパウロの伝道の活躍した地域でした。
エジプトからは、伝道者アポロが起こされました。
クレテ島にはパウロの弟子、テトスが派遣されました。
このような福音前進の跡がここですでに先取りされて予告されているのであります。
これが、聖霊降臨によって神の恵みがもたらされたメッセージであります。
アーメン
雨のないどんよりとした梅雨入り後の土曜日、「スオミ教会家庭料理クラブ」はミューズリーの入ったパンと野菜たっぷりのスープを作りました。
最初にお祈りをしてスタートです。
ドライフルーツに種やオートミールがミックスされたミューズリーと、ライ麦粉や小麦粉を、ミルクで捏ねた生地は、低い丸い形に成型されてたっぷりの発酵時間を取りました。次は野菜スープ作りです、ジャガイモ、玉ねぎ、サツマイモにカリフラワー、カボチャに人参を大きな鍋でゆったり煮て、柔らかくなったら、ブレンダーで滑らかにして、塩やスパイス類で味を整え、クリームを加えて完成しました。器に盛るときカッテイジチーズを入れて、熱々のスープを注ぎます。
お待ちかねの試食タイムは、焼きたての湯気の上がるパンにマーガリンを塗り、口にいれると粉の美味しさとミューズリーの香ばしさに、ほんのりした甘さが美味しく、スープも頬張っていただきました。
一段落したころ、パイヴィ先生からは長い夏休みに入る前の終業式で歌われる賛美歌のお話と、夏の美しい景色と歌声を、タブレットで楽しませて頂き、聖書の一節を聞かせて貰いました。夏休みを待つフィンランドの方々の、喜びが伝わって来ました。
最後まで綺麗に後片付けをしてくださって、ありがとうございました!夏休みシーズン前の最後の家庭料理クラブは無事に終了しました、参加の皆様お疲れさまでした。
今の季節になると、フィンランドでは小学校や中学校の終業式で毎年歌われる賛美歌があります。この初夏の自然の美しさについて歌われる賛美歌は「初夏の賛美歌Suvivirsi」という歌です。博明はこの歌を日本語に訳して、一番の内容は次のようになります。「花咲き誇る季節来たり、どこもかしこも色とりどり、死に枯れし身にみ霊吹けば、愛と許しに目覚めさるる。」
二週間前の日曜日に日本に住んでいるフィンランド人の集まり、スオミ会がありました。夏の前の最後の集まりだったので、そこでも「Suvivirsi」を歌いました。久しぶりに歌ったので、とても懐かしく、印象に残りました。
この賛美歌はフィンランドの学校で夏休み前の終業式の時に歌われます。私が学校の生徒だった時にも、ヨハンナと悦才がフィンランドの小学校に通っていた時にも終業式で同じように歌われました。
学校の終業式でこの賛美歌を子供も先生も親も一緒に歌うと、多くの親は涙を流します。それはどうしてでしょうか?そのとき多くの親は自分の子供の頃を思い出すからです。自分が小学校中学校の生徒だった時、毎年この賛美歌を歌った。そして父兄席にいる親も一緒に歌っていたのを覚えている。それが今、自分は子供の親になって、目の前で自分の子供がこの懐かしい歌を歌っている。そのことで涙が出てしまうのです。このように親から子供へ伝わっていくものがあるというのはとても大事だと思います。
この初夏の賛美歌の最初の1番から3番は初夏の美しい自然や渡り鳥について歌われます。私はこの賛美歌を歌うと聖書のマタイによる福音書6章に書いてある御言葉を思い出します。この箇所でイエス様は、神様が私たちをどのように見守って養って下さるかということについて教えます。神様は、働きもしない花や鳥にも生きるための必要な食物を与えてくださることを教えます。神様はまた、人間にも必要なもの、ご飯、飲み物、衣服などを全部与えてくださいます。それで、私たちに与えられる生活の必要なものは全て神様からの贈り物です。ご飯や住まいや衣服などは私たちにとって当たりまえのようになっていて、神様に感謝することなど忘れてしまいます。でも、神様はどうして私たちをこのように守ってくださるのでしょうか?私たち人間は良いから、神様は返しに私たちに良いことを与えて下さるのでしょうか。そうではありません。それは、私たちが神様のことを知るようになって、信じるようになるためです。神様が私たち人間をどれほど愛して下さっているか、それを神様は全世界の人々に伝わってほしいと思っています。
生活に必要な良いものは、いつかは無くなるかもしれません。しかし、神様と人間の間に、死を超えて永遠に続く繋がりができる可能性があります。そのような神様と人間の繋がりはどのようにして得られるでしょうか?それは、神様の子イエス様の十字架や復活の出来事を通して得られます。イエス様は私たちの罪を全部十字架の上に背負って持って行って下さって、そこで死なれました。しかし、3日目に死から蘇られました。この出来事のおかけで、私たちの罪が全部許されて、この世の中でも、またこの世の次の世でも、いつも永遠に神様が一緒にいてくださるようになりました。このように神様は本当に人間を愛して下さっているのです。
賛美歌「花咲き誇る季節来たり」は多くのフィンランド人にとって懐かしい、安心感を与える歌です。しかし、イエス様を通して得られる神様との繋がりはもっと深くて長く、永遠まで続きます。この繋がりを神様は私たちに贈り物としてくださいました。これらのことを神様に感謝していきましょう。
6月2日、市ヶ谷ルーテルセンターにて中央線沿線の7つのルーテル教会による「一日教会祭」が開催されました。スオミ教会からは毎年、フィンランドの讃美歌や聖歌をコーラスで披露しています。今年はゴスペル・シンガーソングライターのペッカ・シモヨキによる「僕は二つの国の国民なのさ - 地上の国と天の国の」を歌いました。「フィリピの信徒への手紙」3章20節の聖句「されど、我らの国籍は天に在り」を題材にした歌です。
歌詞を皆で協力して歌える形に和訳してみました。クリスチャンの心意気がよく表れている歌です。是非お聴きください!(下の開始ボタン(黒三角)をクリック)。
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1.足元のこの国も 果てしない天国も いつだって 僕らと共さ この国も大切な友だちさ いつかは別れ告げ 主イエスのみ手つかむ 地に足つけて生きよう その目は天国見据え わかるさ どこに行くか 国籍 天に在るさ2.爽やかな風薫り 耳あらう潮騒 舞い落ちる白雪も見た 駆け足で時は過ぎ 暗闇が近づく 恐れるな 復活は夢じゃない 地に足つけて生きよう……(繰り返し)3.固い土掘り起こし 争いに撒くのさ 福音の平和の種を 鋤を置く時が来て 収穫の日まぢか おかえりと真の家に着く 地に足つけて生きよう……(繰り返し)
P.シモヨキ本人が歌っているフィンランド語版もどうぞ!( ここをクリック )。
一日教会祭では、フィンランドの民族楽器カンテレの演奏グループ「ピエニタウコ」の友情出演もありました。毎年、清楚な音色で観客を魅了してくれます。
スオミ教会婦人会が毎年焼き上げるフィンランドの菓子パン「プッラ」は今年も好評のうちに110個が見事に完売でした!
主日礼拝説教 2019年6月2日 昇天主日
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は天地創造の神の力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天の神のもとに上げられたという出来事です。復活から40日後というのはこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。その日に近い主日ということで、本日が「昇天主日」となっているわけです。イエス様の昇天日から10日後に、今度はイエス様が天の父なるみ神の許から送ると約束していた聖霊が弟子たちに降るという聖霊降臨の出来事が起こります。次主日が聖霊降臨日になります。カタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。
さて、イエス様の昇天ですが、それは一体いかなる出来事で、今を生きる私たちに何の関係があるのかということは昨年の説教でお教えしたところです。今回もその教えには変更はありませんが、本日の第二の日課であるエフェソ1章の中に、昨年お教えしたことを深めることを発見しました。何かと言うと、死んだ人間に新しい復活の体を着せて蘇らせることとその者を創造主である神の御許に引き上げるということ、これはイエス様に起きましたが、その実現には想像を絶するエネルギーが必要である。しかし、神はそのエネルギーを行使する力がある方である。だからイエス様の復活と昇天を起こせた。それだけではない。神はこれと同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者にも行使される。つまり、信仰者も将来イエス様と同じように復活して天の父なるみ神のもとに上げられる。しかも、同じ神の力は今私たちが生きているこの世でも信仰者の後ろ盾になって働いている。そういうわけで、信仰者は前方も後方もしっかり守られているので何も恐れたり心配する必要はない。エフェソ1章の本日の個所をよく読むと、そういうことがわかってきます。なんだかわくわくしてきますね。
そういうわけで、本日の説教では最初に、イエス様の昇天とは何だったのかということについて毎回お教えしていることのおさらいをして、神の想像を絶するエネルギーと力が私たちにも働いていることを見ていきたいと思います。
私たちの新共同訳の聖書では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみると空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書いてあります(1章9節)。なんだか、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわきます。しかし、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったという書き方です(υπολαμβανω)。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけで、その中か上にいる筈のイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します(後注)。
そういうわけで、新共同訳の「雲」はただの上空に浮かぶ普通の雲にしかすぎません。しかし、聖書には旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろあることを忘れてはなりません。出エジプト記では、モーセが神から掟を授かったシナイ山は雲で覆われました。イスラエルの民が民族大移動しながら運んだ臨在の幕屋にも雲が覆ったり離れたりしました。時代は下って、イエス様が高い山の上でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。さらに、イエス様が裁判を受けた時、自分が再臨する時は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)やって来ると預言しました。本日の使徒言行録の箇所でも、天使が弟子たちに言います。イエス様は今天に上げられたのと同じ仕方で再臨する、つまり、天に上げられた時と同じように天の雲と共に来られるということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」ということになります。イエス様の昇天は聖書的な出来事です。
それにしても、イエス様を運び去ったのが神の雲だとしても、昇天は奇想天外な出来事です。大方のキリスト信仰者だったら、ああ、そのような普通では考えられないことが起こったんだな、とすんなり受け入れるでしょうが、信仰者でない人はきっと、馬鹿馬鹿しい、こんなのを本当だと信じるのはハリーポッターか何かの映画のSFX特殊視覚効果技術による撮影を本当のことと信じるのと同じだ、と一笑に付すでしょう。もっとも、キリスト教徒の中にも最近は、そういうふうに考える人が増えているかもしれません。
ここで、忘れてはならない大事なことがあります。それは、天に上げられたイエス様の体というのは、既に普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが多く、例えば弟子たちの前に現れても、すぐにはイエス様と気がつかないことがありました。また、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て、弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが自分にはあるぞ、と言って、十字架で受けた傷を見せたり、何か食べ物はないかなどと聞いて、弟子たちの見ている前で焼き魚を食べたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主である神と同じ次元の方なので、被造物にすぎない天使と同じではありません。いずれにしても、イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。
天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通のキリスト教会の礼拝で信仰告白の時に唱えられます。果たしてそんな天空の国の存在するのか?このことも前回お教えししました、おさらいします。
地球を取り巻く大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くと、成層圏、中間圏、熱圏、外気圏となって、それから先は大気圏外、すなわち宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが1957年に打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測すれば、天の御国とか天国は見つかるでしょうか?恐らく見つからないのではと思います。
というのは、ロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは、信仰というものと全く別世界だからです。成層圏とか大気圏というようなものは人間の目や耳や鼻や口や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?
信仰とは、こうした目や耳や鼻や口や手足で確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものと言ってよいでしょう。さて、天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の立場は、天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたというものです。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。
もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などない、と考えることも可能です。ただ、その場合、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなりません。従って、自然界・人間界の物事に創造主の意図が働くなどということも考えられません。自然も人間も、無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場ですので、魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった方が思い出として心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す側の心の有り様ということになります。
キリスト信仰者にとって、自分自身も他の人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものです。そして、人間の命と人生というのは実は、この現実の世界だけでなく創造主である神がおられる天の御国にもまたがっていて、この二つを一緒にしたものが自分の命と人生の全体なのだ、という人生観を持っています。そういう人生観があると、神がひとり子のイエス様を私たちに贈って下さったのは人間の人生から天の御国が抜け落ちてしまわないためだったということが見えてきます。人間がこの現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。
それでは、イエス様を私たちに贈ることでどうやって人間が二つの人生を合わせた大きな人生を持てるようになるのかと言うと、以下のような次第です。
人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てません。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を持つようになってしまってから、人間は神との結びつきを失ってしまったからです。人間の内に宿る罪、行為に現れる罪も現れない罪も全部含めて、罪が天の御国の人生を持てないようにしている。そこで神は、失われてしまった人間との結びつきを回復するために、人間の罪の問題を人間に代わって解決して下さったのです。
そのために神は、人間に宿る罪を全部イエス様に負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせました。こうして罪の償いがイエス様によってなされました。さらに神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることを示し、それまで閉ざされていた天の御国への扉を開きました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると罪の償いがその人を覆います。神の目から見て償いが済んだと見てもらえるようになります。その人の心に自分の命と人生は神のひとり子の尊い犠牲の上にあるという自覚が生まれ、これからは神の意思に沿うような生き方をしようと志向し出します。その時、その人は神との結びつきを持ててこの世を生きるようになっています。順境の時も逆境の時も神から絶えず見守られ良い導きを得られ、この世を去ることになっても、その時は御手をもってその人を天の御国に引き上げて下さいます。このようにしてこの世の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を生きることになるのです。
イエス様は十字架と復活の業を通して人間がこの世の人生と天の御国の人生の両方を持てるようにして下さった。それはわかるとしても、なぜ天に上げられなければならなかったのか?この間の復活祭の礼拝説教で、復活の体というのは神の栄光を現わす神聖な体なので罪に満ちたこの世には相応しくない、天の御国こそが相応しい場所とお教えしました(4月21日)。それなら、なぜ復活後すぐ天に上げられず、しばらくの間地上に留まったのか?それは本日の使徒言行録やルカ福音書の日課にもあるように、弟子たちに復活の目撃者・証言者になってもらうためでした。また、人間の救いはメシア・救世主の受難と復活に基づいているというのが旧約聖書の奥義であると教えるためでした。
イエス様の昇天について、本説教では別の角度から考えてみます。聖書の立場では、神に造られた現実の世界は初めがあったように終わりもあります。終わりの時は最後の審判があり、死者の復活が起こる。そういう森羅万象の大変動を経て最終的に天の御国だけが残る、そういう気の遠くなることがあります。イエス様はその時に再臨され、新しい天と地の中で天の御国が実現するために大きな役割を果たされる。つまり、イエス様の昇天というのは、上げられてそれっきりということではなくて、いつかは戻って来られるというものなのです。
そうなると、このイエス様が天の御国に上げられてから再臨するまでの長い期間は一体何なのか?聖書の観点からすれば、それは、神のひとり子の身代わりの受難と死からの復活という出来事に対してあなたはいかなる態度を取るのか?人間がそれを問われる期間になりました。
人によってはこれは素晴らしいことだ、イエス様を救い主として受け入れ信じます、ということがすぐ起きるかもしれません。しかし、そう簡単ではないという人たちも多いでしょう。なにしろ、復活したイエス様を目にすることもなく、ただ聖書に書かれたこと、弟子たちの目撃録や彼らがイエス様から教えられたことだけが手掛かりだからです。実物を目にすることが出来たらすぐ納得できるのに、天になんか行ってしまったので「信じる」などというイチかバチかの賭けのようなものになってしまった。目で確認できない不確かなものに賭けることはできないと言って信じない人もいるでしょう。あるいは、自分には聖書に書かれたことよりももっと確かなものがあると言う人もいるでしょう。例えば宗教がそれだったりしますが、それも目で確認できるものではないのに、その人にとっては慣れ親しんだものなので目で確認できるに近い確実さを感じるということでしょう。他方でキリスト教徒の中にも、不確かなものを信じるなんて現代に相応しくないと言わんばかりに、復活や昇天は文字通りに取るべきではない、人間の思いや願いをそのような出来事に仕立て上げたにすぎないなどと心理分析みたいなことをする人もいます。分析ですから、言葉は明瞭で目で確認するのと同じくらい説得力があります。それを聞く人の多くは、信じる信じないの苦悶なしにすんなり受け入れるのではないかと思います。
私は、「信じる」というのはやはりイチかバチかの賭けのようなものであると思います。それで、イエス様というのは天地創造の神のひとり子で人間にとってメシア・救世主であると信じている人はそれに賭けたということになります。復活や昇天も心理的出来事でなく、文字通り起こった出来事と信じている人はそれに賭けているのです。心理的出来事にしている人は、もし文字通りの出来事でなかった場合に備えて安全策を取っていると言えます。賢いやり方です。しかし、賭けている人こそ信じているのです。
信じている人はどうして賭けられるのでしょうか?これは確かだ、賭けるに値すると思って賭けているわけですが、その確かなもの、値するものとは何でしょうか?それについて私は、二つのことをあげてみたいと思います。一つは、人がこの世を去る時、神は自分をしっかり受け取って下さるという、神の意図に対する信頼。もう一つは、神は意図するだけでなく実際に受け取る力も持っているという確信です。
まず、神の意図に対する信頼について。人がこの世を去る時、それは自分を何か果てしない大いなるものに委ねる瞬間となるので、果たしてそのものは自分をしっかり受け取ってくれるだろうか?自分に何か足りないもの欠けているものがあって受け取ってもらえないだろうか?と不安になります。聖書は、まさにこうした問題とその解決を言葉で明らかにしています。つまり、足りない欠けているというのは、神の意志に反する罪を持ってしまい、神の神聖さ、神の目に相応しくされるための義を持っていないことです。この問題は先ほども述べましたように、父なるみ神がイエス様を用いて解決して下さいました。イエス様を救い主と信じることによって罪の赦しを衣のように被せてもらっている、罪は残るが、この衣を手放さないようにしっかり掴んでいるというのは罪に反抗して生きることです。神はそれをよし、と言って受け取って下さるのです。
次に神は私を受け取る意図だけでなく、そうする力も持っているという確信についてです。復活や昇天というのは科学技術や物理学の常識ではありえないことです。それが起こるためには常識を超えた、想像を絶するエネルギーとそれを行使できる力がなければ出来ません。エフェソ1章の19節と29節をよく読むと、使徒パウロはまさにそうした想像を絶するエネルギーと力が必要とされることをよくわかっていたことが見て取れます。ギリシャ語原文を見ると「神の力」の「力」いう言葉が3つの違う単語で言われています(δυναμις, κρατος, ισχυς)。それぞれ日本語でどう訳し区別するか考えたのですが、それぞれの詳細な意味内容がわからないため出来ませんでした。ただ、はっきりしていることは、「神の力」は一つの単語だけでは把握しきれないスケールを持つということです。「神の力」のスケールについて「膨大な大きさ」(υπερβαλλον μεγεθος)と言われています。さらに同じ個所でエネルギーという言葉も2回(ενεργεια, 2回目は関係代名詞ηνとして)、エネルギーを行使するという動詞も1回使われています(ενεργεω)。
そのような想像を絶するエネルギーと力を持つ者を考えると、それは万物を造られた神以外にはありえなくなります。パウロは、神がそれらを用いてイエス様の復活と昇天を実現したと言います。パウロは、復活と昇天をまさに物理学的な現象の延長上に捉えていると言えます。ちちんぷいぷいのおまじないの世界の出来事なんかではないのです。
エフェソ1章19ー20節でもう一つポイントとなることがあります。それは、イエス様に起こったエネルギーと力の行使が、彼を救い主と信じる者たちにも起こるということです。つまり、信仰者にも、イエス様に起きた復活と昇天が起こるというのです。
この神の力は、将来の復活の日に行使されるだけではありません。今この世の人生の段階でも、信仰者の後ろ盾になって襲い掛かる悪い力に負けないように後方支援してくれています。エフェソ1章21節から23節を見ると、神の右に座したイエス様はあらゆる「支配、権威、勢力、主権」の上に立ち、それらを足蹴にしています。ここで言う「支配、権威、勢力、主権」とは現実にある国の権力だけでなく、霊的な力も含みます。その力は、人間が神との結びつきを回復するのを邪魔し、命と人生についても天の御国は持てないようにしようとします。
それらの力は今天の父なるみ神の右に座しているイエス様に対しては何もなしえませんが、天の下にいる私たちには攻撃を仕掛けてきます。しかし、キリスト信仰者は何も恐れることはありません。エフェソのこの個所で言われるように、信仰者はイエス様を頭に戴く体を構成しています。洗礼でこの体に結ばれ、御言葉と聖餐によって結びつきを保ち強めています。ただ、頭は天の父なるみ神のところにあり、体はその下のこの世にあります。だから体は攻撃を受けます。しかし、忘れてはならないのは、私たちの頭は既に復活と昇天を遂げた部分です。体の部分である私たちはその頭と結びついているので、将来の復活の日にやっと頭と同じ天上のレベルになります。パウロは体のことを「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」と言います。わかりやすく言えば、「私たちに欠けているものは何もないという位に私たちを満たして下さる方、つまりイエス様の力が隅々まで行き渡っている」体です。私たちはイエス様に結びついている限り、大きな人生を生きる上で何の心配もなく全く大丈夫なのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
後注
フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルターのドイツ語訳の聖書を見ても、雲がイエス様を運び去るという訳をしています。英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と言うので、イエス様はまず空高く舞い上がって、それから雲に覆い隠された、という訳です。しかし、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に到達した後に雲が出てくるような印象を与えてしまうと思います。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに「わたしの平和」を与えると約束しています。「平和」とは何か?普通は、国と国が戦争をしないでそれぞれの国民が安心して暮らせる状態というように理解されます。それならば、国と国が戦争しなければ、国民は必ず安心して暮らせるかというとそうでもありません。例えば、国が複数の民族から構成されていて、もし民族間で紛争が起きれば、それはもう国と国との間の戦争と同じになってしまいます。また、そういう集団同士の紛争がなくても、国の経済が破綻するとか、国家権力が国民の権利や自由を制限したり締め付けたりしたら、もう安心した暮らしなど出来ません。そんな時、権力者以外は誰も自分の国が平和だとは思わないでしょう。
イエス様が弟子たちに与えると約束した「平和」とは何か?イエス様の約束は実は弟子たちだけに限られません。ヨハネ福音書を手にしてこの御言葉を読む人、礼拝の説教を通して聞く人全員に向けられています。イエス様は弟子たちや私たちが国内外の紛争や社会の動揺を免れて安心した暮らしができると約束しているのでしょうか?人間の歴史を振り返ると、戦争や紛争、動乱や内乱、社会の不安定は無数ありました。キリスト信仰者といえどもそうしたものに常に巻き込まれてきました。イエス様は約束を守れなかったのでしょうか?
そうではありません。イエス様が約束された「平和」にはもっと深い意味があって、普通に考えられる「平和」とちょっと違うのです。このことを理解できるために、ルターがイエス様のこの御言葉を解き明かしているところが大いに参考になります。それを以下に引用します。
「ヨハネ14章27節の御言葉で主が与えると約束されている平和、これこそが真の平和である。それは、不幸がなくて心が落ち着いているという平和ではない。それとは逆に不幸の真っ只中にあっても心を落ち着かせる平和である。外面的にはあらゆることが激しく揺れ動いていても心を落ち着かせる平和である。
『この世が与える平和』と『主が与える平和』には大きな違いがある。この世が与える平和とはどんな平和か?それは、外面的な揺れ動きを引き起した原因となった害悪が消滅するという平和である。主が与える平和はこれと全く反対である。外面的には疫病や敵、貧困や罪や死それに悪魔といったものが絶えず我々を揺さぶってもあるという平和である。そもそも、我々がいつもこうしたものに取り囲まれているというのは逃れられない現実である。それにもかかわらず、我々の内面では心に慰めや励ましや平安がある。これこそが主が約束された平和なのである。この平和が与えられると、外面的には不幸でも心はもはや外面的なものに縛られない。そればかりか、不幸がない時に比べて、こっちの方が心の中で勇気と喜びが増すのである。それゆえ、この平和は使徒パウロが「フィリピの信徒への手紙」4章で述べたように、「あらゆる人知を超えた神の平和」(7節)と呼ばれるのである。
人間の理性が把握できるのは、この世が与える平和だけである。理性はその性質上、不幸や害悪があるところに平和があるなどということは到底理解できない。不幸や害悪がある限り平和はありえない、そう考える理性はそのような状態にあって心を落ち着かせる術を知らない。ところで主は、なんらかの理由で我々を不幸や害悪の中に置くということがある。しかし、決して忘れてならないことは、主は我々を必ず強めて下さるということだ。どのようにしてか?それは、我々の臆病な心を恐れない心に、良心の咎に苛まれた心を晴れ晴れした心に変えて下さることによってだ。主から平和を与えられてそのような心を持てるようになった人は、この世全体が怯えるような不幸や害悪があるところでも、喜びを失わず揺るがない安心を持っていられるのである。」
以上、外面的には平和がなく不幸や害悪がのさばって激しく揺り動かされた状態の中に置かれても、内面的には平和があるというルターの教えでした。この場合、内面の平和は「平安」と言い換えても良いでしょう。どうして聖書の日本語訳は「平安」と言わないで「平和」と言うのか?これは、ギリシャ語原文のエイレーネーειρηνηという言葉が、外面的な平和と内面的な平安の両方の意味を含むことが関係していると思われます。聖書の英語訳、フィンランド語訳、ドイツ語訳を見てみますと、エイレーネーが外面的な「平和」を意味する時も内面的な「平安」を意味する時も皆、同じ言葉(peace, rauha, Frieden)で訳されています。それらの言葉もギリシャ語同様に外面的なものと内面的なもの両方を意味することができるので、それで特に区別しないで同じ言葉を用いていると思います。でも、日本語で内面の平安を「平和」と訳して大丈夫でしょうか?せっかく「平安」という言葉があるのに「平和」と訳したら、これは内面の「平安」を意味するんだと言い聞かせて読まなければなりません。
興味深いのはスウェーデン語には、外面的な平和を意味する言葉(fred)と内面的な平安(frid)を意味する言葉が別々にあって、このヨハネ14章27節でイエス様が約束しているものは、まさに内面的な平安(frid)で訳されています。参考までに、使徒パウロの書簡の初めの決まり文句は日本語で「神の恵みと平和があなたがたにありますように」と訳されていますが、スウェーデン語の訳は「平和」(fred)でなく「平安」(frid)を用いています。
以上から、イエス様が与えると約束された内面の平安とは、外面的には揺り動かされ不幸や害悪の中に置かれても、内面的には心の中に勇気と喜びが失われないばかりか増し加わることさえして、揺るがない安心を持つことが出来ることであるとわかりました。それでは、どうしたらそのような平安を持てるようになるのでしょうか?そんな平安を持てたら怖いものは何もなくなりそうです。誰もがも持ちたいと思うでしょう。
どうしたらイエス様が与えると約束された平安を持てるようになれるのか?答えは全然難しくありません。イエス様が与えると言っているものを、ありがとうございます、と言って素直に受け取ればいいのです。なんだ、とあっけに取られてしまうかもしれませんが、実際そうなのです。そうすると、今度はイエス様が与えると言っている平和とは何か、どこにそれがあるのか、それがわからないと受け取ろうにも受け取ることが出来ないので、次にそれを見ていきましょう。
イエス様が弟子たちに平安の約束をしたのは十字架にかけられる前日の最後の晩餐の時でした。この後に受難の出来事があり、十字架の死があって死からの復活がありました。イエス様が神の力によって死から復活させられた時、弟子たちは、あの方は本当に神のひとり子で旧約聖書に約束されたメシア救世主だったと理解しました(使徒言行録2章36節、ローマ1章4節、ヘブライ1章5節、詩篇2篇7節)。そうすると、じゃ、なぜ神聖な神のひとり子が十字架にかけられて死ななければならなかったのかという疑問が生じます。これもすぐ旧約聖書に預言されていたことの実現だったとわかりました。つまり、人間の罪深さ対する神の罰を身代わりに受けて、人間が受けないで済むようにして下さったのだ、とわかったのです(イザヤ53章)。人間が神罰を受けないで済むようになるというのは、イエス様の犠牲に免じて罪が赦されるということです。
このようにして神から罪の赦しを頂けると今度は、かつて最初の人間アダムとエヴァの堕罪の時に壊れてしまった神と人間との結びつきが回復します。神との結びつきが回復すると今度は、復活のイエス様が扉を開いて下さった、死を超える永遠の命への道に置かれてその道を歩めるようになります。神との結びつきをもって永遠の命への道を歩めるというのは、この世でどんなことがあっても神は絶えず見守って下さり、いつも助けと良い導きを与えて下さるということです。そして、この世を去ることになっても、復活の日までのひと眠りの後で神の御許に引き上げてもらえて、そうして自分の造り主である神の御許に永遠に戻れるということです。
このようにイエス様の十字架の死と死からの復活というのは、神がひとり子を用いて人間に罪の赦しを与えて自分との結びつきを回復させようとする、人間の想像を超えた救いの業だったのです。もともと人間と神との結びつきは万物の創造の時にはありました。しかし、堕罪の時に人間に罪が入り込んだために失われてしまいました。その失われたものが罪の赦しで回復する可能性が開かれたのです。神は罪を焼き尽くさずにはおられない神聖な存在です。罪のために神との結びつきが途絶えてしまったというのは、神と人間は戦争状態に陥ったのも同然でした。それで神と結びつきを回復するというのは、神と人間の間に平和をもたらすことになります。実に神と人間の間の平和は、神自身がひとり子を犠牲に用いることで打ち立てられたものでした。
この壮大な事実を目の前にした人間が、ああ、イエス様は本当に神のひとり子、メシア救世主だったのだ、彼が十字架にかけられたのは、弟子たちが罪を赦されて神との結びつきを持てるようにするだけだったのではないんだ、時代を超えて今を生きる自分のためにもなされたんだ、とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを頂いて神との結びつきが回復するのです。そのような人は、まさに使徒パウロがローマ5章1節で言うように、「主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いるのです。
しかしながら、私たちが肉を纏って生きているこの世というところは、あらゆる手立てを尽くして私たちを疲れさせたり絶望させたりして、神との結びつきを弱めよう失わせようとする力に満ちています。私たちを罪の赦しから遠ざけて、再び罪が支配するところに引き戻そうとする力に満ちています。例えば、私たちが苦難や困難に遭遇すると、本当に神との結びつきはあるのか、神は自分を見捨てたのではないか、私のことを助けたいなどと思ってはいないのではないか、と疑うことが起きてきます。この時、一体自分には何の落ち度があったというのか、と神に対して非難がましくなることもあれば、逆に自分には落度があった、だから神は見捨てたんだと意気消沈の気持ちになることもあります。どちらにしても、神に対して背を向けて生きることが始まります。
そこで、自分には何も落度はないのにどうしてこんな目にあわなければならないのか、と非難がましくなることについて見てみましょう。このことは、有名な旧約聖書ヨブ記の主人公ヨブにみられます。神の御心に適う正しい良い人間でいたのにありとあらゆる悪い事が起きたら、正しい良い人間でいたことに何の意味があるというのか?そういう疑問を持つヨブに対して神は最後に、お前は天地創造の時にどこにいたのか?と問い始めます(38章)。一見、何の関係があるのかと問い返したくなるような問いですが、神の言わんとすることは次のようなことでした。自分は森羅万象のことを全て把握している。なぜなら全てのものは自分の手で造ったものだからだ。それゆえ全てのものには、私の意思がお前たち人間の知恵ではとても把握できない仕方で働いている。それで、神の御心に適う正しい良い人間でいたのに悪い事が起きたからと言っても、正しい良い人間でいたことが無意味だったということにはならない。人間の知恵では把握できない深い意味がある。だから、正しい良い人間でいたのに悪い事が起きても、神が見捨てたということにはならない。神の目はいついかなる境遇にあってもしっかり注がれている。
神の目がしっかり注がれているということを示すものとして、「命の書」というものがあります。本日の黙示録の個所(21章27節)にも出てきましたが、旧約聖書、新約聖書を通してよく出てきます(出エジプト32章32、33節、詩篇69篇29節、イザヤ4章3節、ダニエル12章1節、フィリピ4章3節、黙示録3章5節)。イエス様自身もそういう書物があることを言っています(ルカ10章20節)。黙示録20章12節で神は最後の審判の日にこの書物を開いて死んだ者たちの行先を言い渡すと言われます。それからわかるように、この書物には全ての人間がこの世でどんな生き方をしたかが全て記されています。神にそんなこと出来るのかと問われれば、神は一人ひとりの人間を造られた方で髪の毛の数までわかっておられるので(ルカ12章7節)出来るとしか言いようがありません。そうなると全て神に見透かされて何も隠し通せない、自分はだめだとなってしまうのですが、そうならないためにイエス様は十字架にかけられ、復活させられたことを思い出しましょう。イエス様を救い主と受け入れて神に立ち返る生き方をすれば、神はお前の罪は忘れてやる、過去のことは不問にすると言って下さるのです。
ここからわかってくることですが、神は全ての人間に目を注いでその境遇を知って満足するというような無責任な傍観者ではないということです。神は、人間が自分との結びつきを回復して永遠の命に至る道を歩めるようにしようと、それでひとり子をこの世に送って犠牲に供することを惜しまなかったのです。神は、私たちがどんな境遇に置かれても、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がこの道をしっかり歩めるようにとあらゆる支援を惜しまない方です。なぜなら、神がひとり子の犠牲を無駄にすることはありえないからです。人生の具体的な問題に満足のいく解決を早急に得られないのなら、それは神が支援していないことの現れだと言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点で言わせてもらえれば、聖書の御言葉も日曜の礼拝や聖餐式も神に祈ることも皆、私たちを力づける神の立派な支援です。
このようにイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、どんな境遇にあっても神との結びつきには何の変更もなく、見捨てられたなどということはありえません。境遇は、神との結びつきが強いか弱いかをはかる尺度ではありません。大事なことは、イエス様の成し遂げて下さった業のおかげで、かつそのイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、この二つのおかげで、私たちと神との結びつきがしっかり保たれているということです。周りでは全ての平和が失われるようなことが起きても、神との平和は失われずにしっかりあるということです。
次に、この世の力が私たちに落ち度があると思わせて意気消沈させ、自分は神に相応しくないんだと思わせて、神から離れさせる場合を見てみます。これについても、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、神は私たちを目に適う者に見て下さるというのが真理です。それにもかかわらず、私たちを非難し告発する者がいます。悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて、その自覚を失意と絶望に増幅しようとします。ヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前にしゃしゃり出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけばひどい罪びとなんですよ」などと言います。しかし、本日の福音書の箇所でイエス様は何とおっしゃっていましたか?弁護者である聖霊を送ると言われています(14章26節)。
私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて、必要以上に私たちを責めるようになっても、聖霊は私たちを神の御前で文字通り弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエス様の十字架の業が自分に対してなされたとわかっています。それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と。すかさず今度は私たちに向かってこう言われます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり打ち立てられているではありませんか!」と。私たちは、神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦して頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通してこの聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。聖霊の執り成しを聞いた神はすぐ次のように言って下さいます。「わかった。わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪は犯さないようにしなさい」と。その時、私たちは安心と感謝の気持ちに満たされて、もう罪は犯すまいと決心するでしょう。
以上みてきたように、イエス様の十字架と復活の業によって私たちと神との間に平和が打ち立てられました。この平和は、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、私たちの内で微動だにしない確固とした平和です。それに揺さぶりをかけるものが現れても、その度、聖霊が出動して、神はイエス様を用いて私に何をして下さったかということを思い出させて下さいます。その思い出させに自分を委ねてしまい、思い出せばそれでよいのです。その時、心は安心と喜びを取り戻して神の御心に沿うように生きようと勇気も湧いてくるでしょう。
まさにこの時キリスト信仰者は、自分の内に大きな平安があることに気づきます。これがイエス様の約束された平安です。この平安は、神から罪の赦しを頂いて神との平和を打ち立てられた時に与えられます。まさに神との平和、そして心の平安が来るのです。
神との平和に立ち心の平安に満たされたら、次は人との平和な関係の構築が待っています。マタイ5章9節でイエス様は「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われます。「平和を実現する」とはどんなことをするのか?ノーベル平和賞をもらえるくらいのことをしなければならないなら、自分には無理だ、ということになってしまうでしょう。しかし、人との平和な関係というのは、身の回りの人たちのことでも全く構わないのです。ローマ12章18節でパウロは次のように勧めます。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」ここのギリシャ語原文が少し厄介なのですが、訳文では見えてこない深い意味があります。「周りの人と平和な関係を持てるかどうかがあなたがたの肩にかかっていて、それを背負うことが可能ならば、それを背負って全ての人と平和に暮らしなさい(後注)。」つまり、背負うことが出来る場合は、平和な関係を築きなさい、出来ない場合は築けなくてやむを得ない、ということです。どういうことか、以下、詳しく見ていきます。
ローマ12章をみると、迫害する者のために祝福を祈れ、呪ってはならない、とか、誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がけよ、とか、自分で復讐せず、神の怒りに任せよ、とか、敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ、とかあって、なんだかキリスト教はお人好しで真面目にやったら損をして馬鹿を見る宗教に見えてきます。ここで一つ申し上げると、社会には秩序や法律があるので、犯罪や過失が起こったら、法律に基づいて処罰や補償をしなければならないのはキリスト教でも当然なことです。ただし、その場合でも、復讐とか仕返しの観点は持たないということです。社会や秩序に傷が出来たので、それを修復するとか再発を防ぐとかそういう観点で処罰や補償が考えられるのではないかと思います。そんなことでは被害者の気が収まらないではないかと言われてしまうかもしれません。しかし、キリスト信仰には神との平和という土台とそれに根差した心の平安があるため、「気が収まらない」という気持ちはぎりぎりのところで抑えられていると思います。
このように神との平和に立って心の平安を持てれば、ちょっとやそっとのことで損したとか馬鹿を見たという感じはしなくなります。それらを持っている限りは人との平和の関係を築くことは大丈夫です。パウロが「背負うのが可能ならば」と言う時、神との平和と心の平安があれば「背負うのは可能」です。それでは、「背負うのは不可能」という場合はどんな場合でしょうか?それは、襲い掛かる悪が信仰を捨てるように強要する場合です。つまり、神との平和とそれに基づく心の平安そのものを手放せということです。そうなると相手と平和な関係を築けなくなるのはやむを得ないことになります。果たして、信仰を捨てることを強要する相手とは平和な関係は築けないでしょうか?仮に、キリスト信仰者が信仰を捨てて、強要した側がよしよしよくやったと満足して対立がなくなったとします。そのようにして得られた平和は本当に平和でしょうか?良心の自由を踏みにじることで成り立つ平和は、魂のない静寂にしかすぎず、それは本当の平和ではありません。
信仰を捨てることを強要する相手と本当の平和な関係を築くのは全く不可能なのでしょうか?実は可能になる場合もあります。それは、相手がキリスト信仰者になって、神との平和とそれに基づく心の平安を持つようになる時です。そんなのは理想論で絵に描いた餅だと言われるかもしれません。でも、あれだけ執拗にキリスト教徒を迫害し続けたローマ帝国がいつしか皇帝自らキリスト信仰者になったのです。他にも歴史には同じような事例が一杯あったと思います。どうしてそんな逆転劇が可能だったのか?少なくとも一つ言えることがあります。それは、キリスト教徒が見かけの平和を選んでいたら、そのようなことは決して起こらなかったということです。ここからもわかるように、神との平和に立ち心の平安を持つということは、身の回りの人間関係にインパクトを与えるだけでなく、歴史をも動かす力を秘めているということです。
後注(ギリシャ語が分かる人に)
新共同訳は「できれば、せめてあなたがたは」と、他の人はどうでもあなたがたは頑張って平和に暮らしなさい、ですが、英語(NIV)は”If it is possible, as far as it depends on you”と平和に暮らすことが条件づけられます。ルター訳も同じで”Ist’s möglich, soviel an euch liegt”、フィンランド語訳とスウェーデン語訳もそうです(”Jos on mahdollista ja jos teistä riippuu”/”så långt det är möjligt och kommer an på er”)。
そのような訳になるのはτο εξ υμωνのεκをgenerisかexitusかoriginisのいずれかに考えているということだと思います。τοはaccusativus limitationisということでしょう。(δυνατονの主語というのはありえないでしょうか?)
下の開始ボタンを押すと説教を聞くことができます。 https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2019/05/Auvinen_sekkyou_19_5_2019.mp3
ヨハネによる福音書13章31~35節 「さて、ユダが出て行くと、 イエスは言われた。 「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
通訳中、「フィリピの信徒への手紙」のことを「フィリポ」とか「フィリプ」とか言い間違えていますが、正しくは「フィリピ」です。お詫び申し上げます。
本日はフインランドから来日されたSLEYの海外伝道部長アウヴィネン牧師をお迎えしての礼拝でした説教はこのリンクよりご覧下さい。
コリント信徒への手紙 8章4~6節
「唯一の神と私たち」
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方にありますように。アーメン。
今回も私の説教では、コリントの信徒への手紙を読んでいます。今日は8章4-6節を見てまいります。
前回、1節から読んでいただきましたが、主に1節から3節までのところで少々、深い部分にまで入り込んで、大切な真理の道を分け入った形になりました。
問題は、偶像に供えられた肉を食べてもいいものかどうかという質問からでした。
さて、4節以下13節までは、読んでいただければ、よく分かることです。
偶像に供えられた肉がどうしてそんなに気になることなのか、まあ私たち、今の時代の日本の人々には、よく分からない事柄であります。
パウロも7節で言っています。「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのである。」と言っています。
そのような弱い人のためにもキリストが死んで下さった。
弱い心を傷つけるとするなら、13節の結論は「兄弟を傷つかせないために、わたしは今後決して、肉を口にしません。」と書いています。
パウロにとっては、肉を食べても、食べなくてもどうでもいいことでしょう。
それで今日の聖書の4節ー6節ですが、偶像に供えられた肉であるところに、パウロとして、どうしても、大事なことを示さずにはおれないわけであります。
それで4節に、どんと、パウロは真実を持ち出しました。
「世の中に、偶像の神などはない。」と言います。
偶像に供えられた肉だから、色々とびくびくしたり、心が混乱していると言っている。しかし、まず、偶像があるのかどうかを考えてみる必要がある。それが、この問題の根本的なことである、と言うのです。
もし、偶像がないのなら、それにささげられたものは、何の意味もない。
ところが、あなた方の中には、偶像と言いながら、それに頼って崇拝している沢山の偶像と称するものに囲まれている。いたる所に偶像といわれるものがあった時代であります。
コリントの教会の人々も、そういう世の中にどっぷりとつかって、みんな知っているわけです。
そういう中でパウロは「世の中に偶像なる神などない」と言いましたから、これは大変なことであります。多くの人々が、偶像によって生きていたのであります。その時に、「偶像はない。」というのは、容易ならぬ言い方であります。
つづいて、5節と6節でパウロは、更に力強く確信に満ちた言葉で言っています。5節です。
「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ、天や地に、神々と呼ばれるものがいても、(6節です)わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちは、この神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」
とても大事なことを示していますね。
この事は、この時代の人だけの問題ではありませんでした。今も形こそちがえ、実状は少しも変っていない、と言っていいのではないでしょうか。
しかも、ただ1人の神を信じる、ということは、やはり偶像はないものである、ということになるのであります。
今日(こんにち)、私たちはあからさまに「それは偶像である」と言いふらして、キリスト教の唯一の父なる神以外のものを、意味のないものだと、表面だった戦いをしているわけではありません。
しかし、キリスト教が日本に伝えられたはじめの頃の信者たちは、この問題で苦しみ戦ったのであります。
問題は、日本においても少しも変ってはいないはずであると思います。
私たちは、他の人の信仰の悪口を言いたいのではありません。
自分たちの信仰を明らかにしたいのであります。
偶像とは何か。 旧約時代のイザヤ書にその性質をよくあらわしています。
イザヤは偶像がどのようにして造られるかを、あからさまに書きました。
それは、偶像といっても人が造ったものではないか、というのであります。造る彼も人間ですから、疲れるのであります。そういう人間が造るのであります。
木の細工人が、線を引いて、鉛筆でえがき、かんなで削り、コンパスでえがき、それを、人の美しい姿に従って人の形をつくり、家の中に安置する。
つまり、神と言っても、偶像は人間がつくったもの、しかもその内容から言えば、人間の願いから造り出したものではないか、と言いたいのであります。
こうすると、どんなものでも、神になってしまいます。
金や木で偶像をつくるだけでなく、あらゆるところに神をつくります。火の神もあれば、水の神もあります。瀬戸内海には海の神々があります。何でも、どんな人間でも、神にするのであります。偶像を拝むところでは、結局は神と人間との区別がつかなくなってしまいます。
あらゆるものが偶像になることができるのですから、偶像はないと同じことになってしまうのであります。その中で、人間が自分の願いを満たすために何かをとって神とし、それをどこかに置いて拝むだけであります。
以上が一般的に言う偶像の考えでしょう。
それに対して、この手紙でパウロが主張します。
もしも神を信じるというのであれば、それはただひとりの神であるはずであります。
人間が、欲しいと思って造り上げる神ではなく、人間を救おうとして、自分をあらわしてくださる神だけであります。
神はどんな意味でも、造られたものではない、造り主であるはずであります。
私たちの願いによって生きる神ではなく、私たちを生かしてくださる神でなければなりません。
ただ1人の神を信じるところでは、神と、神でないものは、はっきりと区別されるのであります。
物や人間が神になることは、絶対にありません。
神こそはまことの神であり、そのほかのものは、神ではないのであります。
従って、人間はどんなに偉くなっても、神になることはあり得ないのであります。
ただひとりの神のいますことを信じた時に、人間ははじめて人間になるのである、ということができるのであります。
もろもろの物も、それぞれ正しく、物としての位置がきまるのであります。鳥は鳥、花は花、ということを正しく知ることができるのであります。
聖書はそれを、造り主である神と言っています。
人間はもはや神になろうとはしません。神を拝み、神に従う時、はじめて人間らしくなることがわかるからであります。
つまり、ただひとりの神を信じた時に、人間はこの神のみが自分の守り手であることが分かります。
神は私たちを造って下さっただけでなく、父として私たちを守って下さる方であることも信じやすくなるのではないでしょうか。
ただ1人の神は、まことに神らしく、厳かで、神らしく、愛に満ち、造り主として、私たちが いこうことのできるお方であることが分かるのであります。
神はただ1人であるということは、このように真(まこと)に神を信じる生活を与えてくれるのであります。
偶像を拝む者の多い中に、パウロはこれを明らかにしようとしたのであります。
神が唯一でいます、ということを、どのようにして信じることができるか、ということがいつも大切なことであります。
ここでは、そのことについて、「唯一の主、イエス・キリストのみが います。」と書いてあります。
神が唯一であるだけでなく、主イエス・キリストも唯一であり、この二つをひとつのこととして信じることが必要である、ということであります。
神がただひとりであることを信じれば、私たちは本当に人間らしくなるということですが、しかし、不遜な人間は、いつでも神になろうという野心をもつものです。
自分は、神になろう等とは思ったこともない、と言うかも知れませんが、自分が、いつでも中心でなければならないように思うことは、やはり自分を神にしようという気持と同じではないかと思います。その時に、それを正しく導いて下さるのが主イエス・キリストであります。
それは、主イエス・キリストの教えがそうである、というのではなくて、キリストというお方がおられることがそれを示している、ということであります。
主イエス・キリストは、神が人となられたお方であります。
神が人となった、それゆえに、神であって人である。と、いうことになります。
なぜ唯一なのか、それは、ひとつには、神がキリストにおいて人となられたということは、ほかの人にはないことである、という意味もありましょう。しかし、ここには、万物はこの主により、私たちもこの主によっているのである、と書いてあります。
他の訳では、「彼によって、万物がつくられ、私たちも、新しい命を得たのである。」と書いてあります。
私たちが彼によって、新しい命を得た。キリストにおいてこそ、新しい命を得た。という、このことこそ、私たちの信仰の根本であります。
神は、なぜ、キリストにおいて、人となられたのでしょうか。
それは、意味のない無駄事ではありません。
それにははっきりした目的がありました。それは、神に造られながら、神に背いて罪を犯した人間を救うためであります。
神が人となられた、と言ってもいいし、神が、その独り子を世におつかわしになった、と言ってもいいのであります。
ヨハネ3章16節は、有名な御言葉です。
すべて、彼を信じる者を救うため、とはっきりあります。
人間を救うためであります。そのために唯一の救い主として、キリストがおいでになったのであります。
従って、私たちは、このお方によって新しい生命を得たのであります。私たちが彼によっている、というのは、このことであります。
私たちは、イエス・キリストによって、救われたのであります。
そのことによって、実は、神が唯一であるという信仰も、動かないものになったのです。
唯一の主イエス・キリストがいますことによって、唯一の神を信じることができたと言ってもいいのであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン・ハレルヤ
初夏を感じさせる強い日差しの土曜日、スオミ教会家庭料理クラブは「イチゴのトルットゥ」を作りました。
お祈りをしてスタートです。
最初は計量から、dl や大さじや小さじと書かれたレシピに、最初は戸惑いながらも、秤を使わない手軽さに、参加の方々に笑顔が広がりました。
用意された真っ赤な沢山のイチゴも、ヘタを取り綺麗に洗われ、ヨーグルトの水切りもしっかり出来ています。
生地を作りオーブンで焼いている間に、シロップ作りやイチゴのスライスをしたり、焼き上がった生地を冷ます間に、ヨーグルト入りのホイップクリームも出来上がり、グループごとに工夫をこらしたデコレーションされたトルットゥは、華やかに完成しました。
美味しくおしゃべりも弾んだ試食タイムも一段落した頃、パイヴィ先生からイチゴのお話と、イチゴの収穫シーズンに多い、フィンランドのお祝いや、神様のお祝いについてのお話を聞かせて頂きました。
参加の皆様のお疲れさまでした。次回の「スオミ教会家庭料理クラブ」は6月8日を予定しています。
イチゴはフィンランド人みんなが好きと言ってもいいくらい、人気のあるベリーです。フィンランドのイチゴは外国のものと比べて、とても甘くてみずみずしいのでそれで人気があると思います。フィンランドでは6月になるとイチゴの季節になり、マーケット広場には採ったばかりの新鮮なイチゴがいっせいに売られます。もちろんお店でもです。日本でイチゴは、同じ大きさにまとめてきれいに並べてパックに入れて売られます。フィンランドでは売り場の台の上に山のように積まれて、そこからお客さんが好きな量を買います。お店の人はスコップのようなものでイチゴをすくって、リットルで計ったり、重さで量ったりして袋に入れて売ります。まとめて多く買いたい人には、ダンボールに入った5キロ入りのものが売られます。また、イチゴを栽培している農家に行って自分で摘んで、量に応じたお金を払うことも出来ます。私たちの家族がトゥルクに住んでいた時、私たちは毎年ヨハンナと悦才を連れて近くの農家にイチゴ取りに行きました。取りながら食べてもよかったので、子供たちも行くのが楽しみでした。いつもバケツ二杯位とって、ジャムにしたり冷凍したりしました。
今日皆さんと一緒に作ったイチゴのトルットゥはフィンランドではイチゴの季節にどの家庭でも作られます。イチゴの季節は6月と7月ですが、その頃はフィンランドではお祝いの季節です。どんなお祝いがあるかと言うと、結婚式、婚約式、卒業式、堅信礼などがあります。なかでも高校の卒業式は大きなお祝いで、卒業生のいる家族は親せきや近所の人たちを家に招待して大きなパーティーを開きます。もう一つ夏の大きなお祝いは、教会の堅信礼のお祝いです。フィンランドでは子供たちは15歳になると教会の献信礼の教育を受けます。10日間から2週間くらい教会の研修所で合宿して、自然の中で聖書やキリスト教の教えについて学びます。合宿が終わると教会の礼拝で堅信礼の儀式があります。その後でそれぞれの家で大勢の親せきを招待する大きなパーティーが開かれます。このようにフィンランドでは、堅信礼と高校の卒業式は若者にとって人生の大きな節目になるので大きなお祝いをします。そのためにお母さんたちは一生懸命ごちそうを作ります。そこではイチゴのトルットゥやケーキがデザートの主役です。
お祝いというものは、私たちの普段の日常生活にとても良い変化を与えます。お祝いされる人にとって人生の節目の大きな記念になります。招待される人にとっても喜びを分かち合えて大きな記念になります。もしお祝いがなかったら私たちの生活はどうなるでしょうか?人生の節目が忘れられて、記念もない、喜びの分かち合いもない生活は豊かとはいえないでしょう。
ある時イエス様は群衆に「大祝会」のたとえを話しました。ある人が盛大なお祝いをすることにして、沢山の人を招待しました。パーティーの準備が出来たので、主人は招待した人たちに知らせるために僕を送りました。しかし何が起きたでしょうか?招かれた人たちは次々にいろんな理由で来れないと断わったのです!どんな理由だったでしょうか?最初の人は「畑を買ったので、見に行かなければならないので行けません」と言いました。二番目の人は「牛を二頭ずつ五組買ったのでそれを調べに行くところなので行けません」と答えました。三番目の人は「結婚したばかりなので行けません」。招かれた人たちにとって自分に起きた新しいことが招待より大事なことになったのです。僕は帰って、この
ことを主人に報告しました。すると主人はとても怒って僕に命じました。「それならば、急いで町の広場に出ていき、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を連れてきなさい。」僕は主人が言う通りにしました。それでも席はまだ一杯になりません。主人はさらに命じました。「大通りや地方に通じる道に出て行って、そこで出会う人を誰でもいいから連れてきて、家を客で一杯にしなさい。」
招かれた人たちはどうして断ったのでしょうか?その人たちは自分の生活の新しいことの方が招待よりも意味があると思って、それで断ったのでした。しかし主人はどうしても客が来てほしかったので、貧しい人や体の不自由な人、通りにいた人を連れてくるように命じました。その人たちは招かれてきっと驚いたでしょう。彼らはきれいな服も来ておらず、ただの普段着だったでしょう。そんな服で大きなお祝いに行っても大丈夫かと遠慮もあったと思います。しかし主人は体の不自由な人でも服は普段着でも関係なく皆を招いたのです。主人にとって大事なのは空いた席がないように、家が一杯になることでした。
イエス様が話されたこのたとえは一体何を意味しているのでしょうか?主人とは、天と地そして人間を造られた造り主の神様を意味します。大祝会を開く家は神様の天の御国のことです。主人が多くの人を招待するというのは、神様も同じように私たちを御自分のもとに招こうとされていることを意味します。神様は私たちが大祝会の席につけるように準備もしてくださいました。どのように準備されたでしょうか?それは、ひとり子のイエス様をこの世に送ったことでした。人間は神様の御心に従うことが出来ないので、私たちの受ける罰を代わりにイエス様に受けさせて十字架の上で死なせました。さらに、神様は一度死んだイエス様を復活させました。イエス様のおかげで人間は天の神様のもとに行くことが出来るようになりました。ところが、私たちはどうでしょうか?神様の招きの声を聞くでしょうか?生活のことで忙しかったり、悩みがあったり、もっと大事なことがあるからと言って、神様の呼ぶ声を聞こうとしません。でも神様は諦めないで、私たちを何度も何度も呼んで下さいます。神様の呼ぶ声は聖書の御言葉を通して聞こえてきます。それを聞いてイエス様が救い主とわかって受け入れると、目の前に天の御国に通じる道が開かれます。その道を歩いていけば、いつも神さまの守りと導きがあります。道の先には大祝会が待っています。そう考えただけで嬉しくなります。心配事も軽くなります。
本日の福音書の個所は、復活したイエス様が突然弟子たちの前に現れ、亡霊が出たと恐れおののく弟子たちに対してイエス様がそうではないと手足を見せ、弟子たちから食べ物を取って食べたと言う出来事です。これは復活の体ということですが、それをどう考えたらよいかということについては前回と前々回の説教でお教えしましたので、本日はこの福音書の個所についてではなく、使徒言行録のサウロの回心の出来事について解き明かしをしようと思います。サウロは後にパウロと呼ばれるようになります。使徒パウロのことです。
キリスト教にとって使徒パウロが重要な人物であることは誰もが認めるところです。もちろん、十字架の死と死からの復活を遂げたのはイエス様です。パウロが重要だと言うのは、イエス様の十字架と復活は一体何だったのかということ、そしてそれが人間すべてにとってどんなに大事なことなのかということをはっきりわかって、それを福音として教え広めたことにあります。それで、もしパウロがいなかったら、またいても、本日の聖書の箇所にあるような出来事が起きなかったら、イエス様の十字架と復活の意味も解明されず、福音の内容もはっきりしなかったでしょう。そうしたら本当のキリスト教もキリスト教会も生まれなかったとさえ言えるのです。もちろんルターの宗教改革も起きなかったでしょう。その意味で本日の聖書の個所の出来事、パウロがイエス様に出会い「回心」したという出来事は、イエス様の十字架と復活と並んでその後の人類の歴史を方向づける重要な出来事であったと言っても過言ではありません。今、日本は天皇と元号が変わって古い時代が終わった、新しい時代が始まったとみんな言っています。イエス様の十字架と復活とパウロの回心は振り返ってみると本当に古い時代から新しい時代への転換点だとわかります。2000年経った今もその新しい時代が続いているというのは感慨深いことだと思います。
ところでパウロの「回心」ですが、この言葉は本日の聖句の見出しにも書かれています。この漢字は「えしん」とも読めるとのことで、その場合は仏教用語になり、辞書によれば「心を改めて仏道に入ること、とか、小乗の心を改めて大乗を信じること」だそうです。「かいしん」の場合は「神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返る個人的な信仰体験」とありました。パウロの回心ですが、注意すべきことは、それはただ単に、かつてキリスト教を迫害して悪いことをしてしまったなぁ、これからは心を改めて真人間になってキリスト教を擁護して伝道に努めよう、というような悪人が「改心」して善人になったというレベルの話ではありません。それじゃ、どういうレベルの話かと申しますと、先ほど述べたように、イエス様の十字架と復活と並んでその後の人類の歴史を方向づけたというレベルの話です。「個人的な信仰体験」と言うにはスケールが大きすぎます。「回心」よりも「大回心」と呼びたいと思います。
そういうわけで本日の説教では、パウロの「回心」が「大回心」と呼ぶに値する大きな出来事であったことを見ていこうと思います。人類の歴史を方向づけたと言うからには、今を生きる私たちにどんなかかわりがあるのかということも見ていこうと思います。
先ほど、もしパウロがいなかったら、またはいても本日の個所のような出来事がなかったら、イエス様の十字架と復活の意味は解明されず、福音の内容もはっきりしなかっただろうと申し上げました。それじゃ、ペトロを初めとする十字架と復活の出来事を直に目撃した弟子たちは何もわかっていなかったのか?それは、ちょっと言い過ぎではないか?と言われてしまうかもしれません。そこで、イエス様の十字架と復活というのは何だったでしょうか?それは、人間を罪と死に支配された状態から救い出して創造主の神との結びつきを回復させよう、そして永遠の命に至る道を歩めるようにしてあげようと、それで神がひとり子をこの世に送って成し遂げさせた業でした。そしてこれは旧約聖書に預言されたことの実現でした。神がこのように整えてくれた「罪の赦しの救い」はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで受け取ることが出来るようになりました。これらのことは、実はぺトロたちもしっかりわかっていました。聖霊降臨の時にペトロが群衆の前で行った大説教(使徒言行録2章)を見ればわかります。また、使徒言行録に記録されているペトロたちの教えの言葉からも、またペトロの手紙からも明らかです。
確かにパウロもペトロも同じ福音を宣べ伝えるのですが、ただパウロの場合はペトロと違って、私たちのような非ユダヤ人、つまり異邦人にとって大きな意味を持ちました。ユダヤ人以外の民族のことを言い表す時、ヘブライ語でゴーィגוי、ギリシャ語でエトゥノスεθνοςという言葉がよく使われますが、日本語で「異邦人」と訳されます。ペトロを初めとする初期のキリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者はまずユダヤ人であるべきということにこだわりました。これは理解できます。というのも、イエス様も使徒たちも聖母マリアも皆、ユダヤ人でした。イエス様もユダヤ人の乙女マリアから人間の肉体を受けてこの世に生まれた、それは旧約聖書の律法や預言を受け継ぐ民族の一員として生まれたということです。ユダヤ人の男の人は皆、律法の戒律に従って割礼を受けています。そのため、イエス様を旧約聖書に約束された救世主メシアと信じるならば、その人は旧約を受け継ぐ者でなければならない。異邦人がキリスト信仰者になろうとするなら、まず割礼を受けてユダヤ人にならなければならない。そう考えられても不思議はありません。ところが天地創造の神は、そうではないということをペトロにかなり具体的に教えていたのです。その結果、ローマ帝国軍の将校コルネリウスに洗礼を授けたのでした(使徒言行録10章)。それにもかかわらず、エルサレムの使徒たちがユダヤ人のこだわりを持ち続けたことは、パウロの「ガラテアの信徒への手紙」からも伺えます。
パウロの立場は、人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける際には割礼を受けてユダヤ人になる必要はないということです。私どものような異邦人は異邦人として、つまり日本人は日本人として、欧米人は欧米人として、アフリカ人はアフリカ人として、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けられ、そのようにして「罪の赦しの救い」を等しく受けられて天地創造の神と結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後も神のもとに永遠に戻ることが出来るようになりました。イエス様もペトロもマリアもユダヤ人だったからと言って、わざわざ割礼を受けてユダヤ教に改宗してからキリスト信仰者になる必要はなくなりました。実にありがたいことです。
それでは、自分自身ユダヤ人であるパウロはどうしてそんなことを言い出したのでしょうか?彼は、旧約聖書や律法や預言を放棄してしまったのでしょうか?実はそうではないのです。それどころが、ある意味でパウロの場合、十戒の掟が一層厳格になったとさえ言えるのです。どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?次にそれをみてみましょう。
パウロは、もともとはファリサイ派に属する律法に厳格なユダヤ教徒の一人でした。ファリサイ派というのは、イエス様の時代のユダヤ教社会内部にあった信徒運動で、旧約聖書に記述された律法だけではなく、口述で伝承された掟も同じくらい大事だと主張したグループでした。特に清めに関する掟は大事で、神が与えると約束した神聖な土地に住んでいる以上は、異邦人や罪びととへたに接触して汚れをうつされてはいけない。律法を全てしっかり守ることで神の目に相応しいものとなれるという考えでした。ファリサイ派とイエス様の考え方には類似点もあるのですが、決定的に違う点も多く、ファリサイ派はいつもイエス様に論争を吹っかけては撃退されていました。有名な論争の一つに、何が人間を不浄なものにして神聖な神から遠ざけられてしまったかというものがあります(マルコ7章)。イエス様は、人間を汚れたものにするのは外部から入ってくる汚れではなく、人間内部に宿っている様々な性向である、だからどんな清めの儀式や戒律を守っても人間は清くなれないと教えました。本当に神から罪を赦してもらうことから始めないと人間は清くなれないのです。まさに、そのためにイエス様は人間が受けるべき神罰を代わりに受けて罪の償いをする犠牲の生贄となって十字架にかけられたのでした。
ファリサイ派のパウロはキリスト信仰者の迫害者として広く知られていました。あの、宗教指導者たちが異邦人の総督に引き渡して十字架にかけて殺してしまったナザレのイエスは実は、旧約聖書に約束されたメシア救世主だった、などというのは、指導者たちにとってとうてい受け入れられるものではありません。それでペトロたちに対して、イエスの名を言い広めたら命はないぞ、と何度も脅しをかけます。しかし、ペトロ側としてはイエス様の復活を目撃してしまった以上は引き下がることなど出来ません。対立はどんどんエスカレートして、ついに勇敢なステファノが殉教したのをきっかけにキリスト信仰者に対する大規模な迫害が起こりました。
その時パウロも熱心に迫害に加担しました。厳格なファリサイ派です。罪ある人間が神の目に相応しいとされるには律法を守り抜くことであると信じていました。それ自体は純粋な信仰でした。しかし、そのような信仰を持つ者からすれば、イエス・キリストを救い主と信じて神から罪の赦しを受けられて神の目に相応しい者とされるというのは律法をないがしろにする邪道にしかすぎません。パウロはエルサレムの神殿の大祭司から委任状をとって、ダマスコ周辺のキリスト信仰者をエルサレムに連行する権限を得ることまでしました。そして手下を従えて出発したところ、その途上で文字通り想定外の出来事が起きました。天に上げられてこの地上にはいないはずの復活の主がそれこそワープしてきたかのように間近に来たのです。これはアナニアが「幻の中」(10節)でイエス様の声を聞いたのとは性質が異なります。アナニアは個人的に声を聞きましたが、パウロの場合は個人的ではなく、従者も皆、異常な現象を目撃し声を聞いたのです。つまり大勢の人が共有する出来事だったのです。
パウロはこの出来事をきっかけに、キリスト信仰の迫害者から擁護者、伝道者へと大変貌を遂げました。その経緯は以下の通りです。パウロは強い光に覆い包まれました。まさしく神の栄光、神聖な者が現れたという光です。パウロは目が見えなくなりました。アナニアが手を置きに来るまで3日間見えないまま、飲食もとらず祈っていました。「手を置く」というのは、神のために聖別するとか神に委ねるという意味を持つ儀式的な行為です。「目が見えなくなる」ということについて、先週の説教でもお教えしましたが、聖書の神は何かの目的を持って人の目を一時期見えなくすることをします。エマオの道で復活したイエス様に出会った二人の弟子は神から目を遮られてイエス様と気づきませんでした。しかし、気づかなかったおかげで、彼らの旧約聖書の理解が正確でなかったことが明らかになり、それを正すためにイエス様は教え始めたのです。弟子たちは、メシアとは民族解放の英雄ではなくて人間を罪と死の支配状態から救い出す救世主ということが分かりだしました。最後にイエス様が聖餐のパンを渡した時に目が開かれてイエス様と分かりました。分かった瞬間に姿を消しました。これは絶妙なタイミングでした。というのは、聖書の正確な理解と聖餐があれば、イエス様はたとえ見えなくても臨在していると教えているからです。
パウロの目を見えなくしたことにはどんな目的があったでしょうか?それまではキリスト信仰者たちの出まかせにすぎないと思っていた復活のイエス様が自分を名乗って現れたのです。本当に信仰者たちが告白しているように神のひとり子であることが明らかになりました。そこから先です。イエス様が神のひとり子なら、彼の十字架と復活は何だったのか?イエス様は自分がやっている迫害を間違っているとしてやめさせた。律法を守って神の目に相応しい者にされることを大事にしたからこそ彼らを弾圧しなければならなかった。しかし、神は彼らを弾圧から守られる。じゃ、神の目に相応しくされるのは律法を守ることによってではないのか?何に拠るのか?その時イエス様の十字架と復活がこの空白を埋めたのです!
アナニアが来たのはこのタイミングだったでしょう。彼はイエス様の命によってパウロのもとに遣わされたと言いますが、それは、これからパウロに行うことはイエス様の名によって行うのだ、自分の考えで行うのではないということを明らかにします。これこそ神の力が働く仕方です。アナニアは手を置いて言います。自分が遣わされたのはお前の目が見えるようになり、聖霊に満たされるためである、と言うとパウロの目が見えるようになりました。これで、イエス様が人間を罪と死の支配状態から解放して神の目に相応しい者に変えて下さる救い主という信仰が目に焼き付いたようになりました。そしてすかさず洗礼を受けます。洗礼を受けるというのは聖霊を注がれるということです。
イエス様を救い主と信じるだけでは不十分なのか?なぜ洗礼も必要なのか?という質問を時々受けます。イエス様と一緒に十字架にかけられた犯罪者の一人がイエス様を救い主と告白して天に御国に迎え入れられた時、洗礼を受けていなかったではないか?と。こう考えたらどうでしょう?犯罪人の場合は息を引き取る寸前の告白で、それをしたらもう信仰から離れて生きる可能性もない位の最後の瞬間だった。しかし、イエス様を救い主と信じてまだ先が長い場合は聖霊に支えてもらわないとすぐ信仰から離れてしまう危険は高い。聖書を創造主の神の視点で読んだり聞いたりできるのも、聖餐を受ける時に主の臨在が最も身近になることも、全て聖霊の働きによるものです。人間の理性や感情だけではそこまで到達できません。人によっては聖霊を受けたにもかかわらず理性や感情を前面に立たせてしまった人もいます。でも、一度受けているので、何かのきっかけで信仰に戻れる可能性はいつでもあります。
さて、イエス様はパウロが今後すべきことについてアナニアに知らせました。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」(15節、16節)。これで、パウロの運命は決まりました。迫害者は使徒にかえられたのです。後にパウロは「ガラテアの信徒への手紙」の中で、神は既に自分を母の胎内にあるときから福音伝道者に選んでいて、自分が召し出されたのは神の恵みによると告白しています(1章15節)。神はパウロにまず律法を厳格に守るファリサイ派の経歴を歩ませました。神の前に相応しい者になる律法主義の道を徹底的に歩ませて、イエス様が現れることで壁にぶつけさせて、そこから福音伝道者に召し出したのです。兄弟姉妹の皆さん、神はこのように私たちに真理をわからせるために、最初それと反対の世界を歩ませるという導き方もされるのです!
復活の主イエス様が現れたことがきっかけとなってパウロは、イエス様の十字架の死と死からの復活の意味がわかりました。それは、人間を罪と死の支配状態から解放するためになされたのであり、そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで人間は神から罪の赦しを受けて神の目に相応しい者とされる、そして永遠の命に至る道を守りと導きのうちに歩むことが出来る、とわかりました。そうなりますと律法を守ることで神に相応しいと見なされるということはなくなってしまいます。律法は不要になってしまったのでしょうか?
律法は不要にはなりませんでした。律法は新しい役割を持つようになりました。どういうことかと言うと、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けても、自分の中にはまだ罪が残っていることは否定できない事実です。ということは、イエス様を救い主と信じる信仰のせいで律法が存在価値を失ってしまったということはなく、かえってそれは自分が罪深い者であることを思い知らせる鏡のようになったのです。律法は依然として効力を保っているのです。ただ、ゴルゴタの丘に立てられた十字架が否定できない歴史的事実である以上、いくら律法が罪の自覚を生んでも神の赦しは断固としてあるのです。もし罪に隙をつかれてしまって神の前の相応しさを失ってしまっても、神に赦しを祈りすぐ十字架のもとに立ち返れば、イエス様の犠牲に免じた罪の赦しには変更がないと示してもらえます。神の前の相応しさも大丈夫と言っていただけます。面白いことに、このサイクルの中にいると、律法は私たちに罪があることを気づかせて私たちを十字架のもとに追いやってくれる役割を持っています。また、このようにイエス様そして父なる神との結びつきが一層強くなっていけばいくほど、十戒に示された神の意志に沿うように生きようという心が育っていきます。その時、律法の掟は神の目に相応しい者になれるために守るものではなくなります。そうではなくなって、相応しい者にしてもらったので守るのが当然というものなります。
そういうわけで、パウロからみれば、割礼を施してまずユダヤ人になって洗礼を授けるという手順は、それこそ律法を守って神の目に相応しくなろうとすることと同じになってしまうのでした。もちろん、パウロ自身やペトロなどのように生まれた時から割礼を受けていて初めからユダヤ人であれば、そのままにするしかありません。新しくキリスト信仰者になる者に対しては、割礼は意味がないばかりか、施してしまうと、神の目に相応しくなることがイエス様を救い主と信じる信仰によらなくなってしまいます。
ところで、もともとユダヤ人で割礼を受けた状態でキリスト信仰者になる者は「ユダヤ・キリスト教徒」、異邦人から信仰者になる者は「異邦人キリスト教徒」と呼ばれます(後注)。私たち日本人のキリスト信仰者も、欧米人やアフリカ人のキリスト信仰者も皆「異邦人キリスト教徒」です。パウロの異邦人を中心とする熱心な伝道の結果、キリスト信仰はすぐ当時のローマ帝国の東半分に広がって行きました。キリスト信仰は、地中海世界の人々の倫理観、死生観、性モラルに新しい風を吹き込みました。特に、以前からユダヤ教に接して多神教を離れて天地創造の唯一神を信じるようになった女性が多くいましたが、彼女たちはこうしたパウロの教えを支持してキリスト信仰者になりました。いつしか異邦人キリスト教徒とユダヤ人キリスト教徒の比率は逆転し、西暦70年のローマ帝国軍によるエルサレム破壊の後は、ユダヤ人キリスト教はほとんど歴史の舞台から姿を消しました。
以上、パウロが復活の主が現れたことをきっかけに、人間を神の目に相応しくするものは律法の厳守ではなく、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることであるとわかったことを見ました。特にパウロの場合、キリスト信仰者になるのに割礼を受けてユダヤ人になる必要はない、異邦人は異邦人のままイエス様を救い主として信じて洗礼を受けて「罪の赦しの救い」を頂けるという立場でした。私たち異邦人にとって本当に「福音」です。
最後に、イエス様がパウロに述べた言葉の中で、私たちに励みになるものがあります。パウロが声の主が誰であるかを尋ねた時、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(9章5節)と答えました。イエス様を救い主と信じる者が苦難や困難に陥った時、イエス様はそれを自分のことのように受け止めるということです。聖書を神の視点で読んだり聞く時、聖餐を受ける時、目には見えなくともイエス様は臨在すると申しましたが、その臨在される方はただおられるというだけでなく、私たちの境遇や状況に重大な関心を寄せながらおられるのです。そのことが分かれば、私たちの祈りは必ず聞き遂げられて、必ず脱出口や解決に導いて下さると確信が持てます。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
後注 スウェーデン語やフィンランド語では、ユダヤ・キリスト教徒(judisk kristen/juutalaiskristitty)、異邦人キリスト教徒(hedna kristen/pakanakristitty)との呼び名がありますが、英語では、ユダヤ・キリスト教(Jewish Christianity)と「ヘレニズム・キリスト教」(Hellenistic Christianity)という区別のようで、地理的・歴史的に限定された言い方です。