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礼拝説教 2021年1月1日新年の礼拝
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた がたにあるように。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.2021年が始まりました。私たちはまだコロナ禍の只中にありますが、新しい年を迎えるというのは、今までと違う新しいことが始めるという感じが強くするものです。そういう感じ方を持つことも大事と思います。今世界中が大きな試練の中にあるので、それをこれからも同じだ何も変わらないと思って向かって行くのと、これからは今までと違うものになるのだと思って向かって行くのでは試練に対する向き合い方、ひいては試練の只中にあっての進み方も違ってくるでしょう。どうか今日の御言葉の解き明かしがそのような向き合い方、進み方に内容を与えるものになるようにと願っています。
新しい年のことを言っているのに、昨年のことを言うのは少し気が引けるのですが、こういうことがありました。一つの原稿を依頼されていて9月が締切りだったのですが、秋はずっと家族の者や自分自身の体調の問題があって教会の礼拝を守ることで精一杯になってしまい、原稿に取りかかることができなくなってしまいました。締め切りを何度も延ばしてもらったのですが、結局は手つかずになってしまい、担当の方にお詫びのメールを送りました。原稿というのはキリスト教関係の施設の記念誌で、担当者もキリスト信仰者なのですが、彼の返事はこういうものでした。「先生とご家族の皆様の試練の間中、神はその裏で新しいことを始められていたのでしょう。」神が私たちの知らない見えない裏で何か新しいことを始めて、それが何かは事後的にわかる、しかもわかった時点から過去を振り返ってみるとあの試練はもう試練ではなくなっていて、むしろそれがあったから、それに取り組んでいたから、今この新しい時点に立っている、そして神が本当に見捨てずにずっと導いて下さったということもよくわかる、こういう捉え方はとてもキリスト信仰的です。
なぜこの捉え方がキリスト信仰的かと言うと、これは聖書の神、万物の創造主の神が本当に信頼に値する方であると信頼している者にとっては真理だからです。神を本当に信頼するとは、困っている時苦しい時に助けを祈る相手はこの方以外にはない、自分が成し遂げようとしていることに祝福をお願いする相手はこの方以外にはいない、さらに神の意思に反する罪を持ってしまった時に赦しを乞う相手はこの方以外にはない、という位に全身全霊で神一筋になることが神を本当に信頼することです。まさに十戒の第一の戒め、「私以外に神はあってはならない」の通りになることです。
それでは全身全霊がそのような神一筋になるくらいに神を信頼しきるという心はどうしたら生まれるのでしょうか?それはもう、その神が私たちにかけがえのないひとり子を贈って下って、その方に十字架の死と死からの復活という業を果たさせたということ、それで彼を救い主と受け入れて洗礼を授かった者たちをご自分の子にして下さったこと、ここに私たちの神に対する信頼は拠って立ちます。私たちは神の子とされたのです。私たちにひとり子を贈って下さった父を私たちは子として信頼するのです。だから、試練があってもそこに踏み留まらない、埋没してしまわない、堂々巡りしないで、一直線に(多少ジグザグするかもしれませんが)次の段階に向かって進んでるという見方になれるのです。
そのことを使徒パウロは第一コリント10章13節で次のように述べています。「神は真実な方です(ギリシャ語のピストスは「裏切らない、誠実な、貞節を守る」という意味があります。つまり神は私たちを見捨てないという意味です)。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。」
イエス様を救い主として受け入れていない人たちから見たら、このような見方は根拠のない楽観論にしか聞こえないでしょう。しかし、キリスト信仰者はそれを真理として抱いているのです。キリスト信仰の楽観的真理はパウロの次の言葉にもよく出ています。ローマ8章28節です。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
私たちの用いる新共同訳では「万事が益になるように共に働く」と、万事が勝手に働いて益になっていくという訳ですが、ギリシャ語原文は、主語は「万事」ではなく「神」で、神が万事を益となるようにすると訳することもできます。フィンランド語の聖書もそう訳しています。私もその方がいいと思います。今は試練の中にあり、神の助けと導きを祈りながら自分の出来る最善を尽くして取り組むのみ。それと同時に、神は私たちの知らない気がつかないところで、まさに裏で私たちのいろんな難しい形のパズルを合わせて下さっている。そして後で全てが見事に埋め合わさった全体像を見せて下さる。それを心に留めながら試練に取り組むのがキリスト信仰者というものです。
2.このようにキリスト信仰者というのは、神は試練を脱する道を備えて、試練のいろんな要素を組み合わせて最後は大きな益にして下さるということをわかっている者です。しかしながら、何がどう組み合わさっていくのか、細かい具体的なことは試練の最中にあっては全然わかりません、全然見えません。全ては事後的にわかるだけです。だから、試練の最中にあっては、神の子たちに対する父の愛情と先見の明に信頼して進むしかないのです。このような、全体的には神の基本方針はわかるが、具体的な詳細は現時点ではわからないということは本日の旧約の日課「コヘレトの言葉」の個所でも言われています。3章11節で、天と地と人間を創造された神は人間に永遠を思う心を与えたと言われています。「永遠を思う心を与えた」はヘブライ語原文を直訳すると「永遠を人間の心に与えた」です。「永遠」、「永遠なるもの」を人間の心に与えたのです。
永遠とは何か?簡単に言えば時間を超えた世界です。それでは時間を超えた世界とは何かというと、それの説明は簡単なことではありません。聖書の一番初めの御言葉、創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。つまり、森羅万象が存在し始める前には、創造の神しか存在しなかったのです。神だけが存在していて、その神が万物を創造しました。神が創造を行って時間の流れも始まりました。その神がいつの日か今ある天と地を終わらせて新しい天と地にとってかえると言われます(イザヤ書65章17節、66章22節、黙示録21章1節、他に第二ペトロ3章7節、3章13節、ヘブライ12章26-29節、詩篇102篇26-28節、イザヤ51章6節、ルカ21章33節、マタイ24章35節等も参照のこと)。そこは神の国という永遠が支配する世界です。そういうわけで、今の天と地が造られて、それが終わりを告げる日までは、今の天と地は時間が進む世界です。神はこの天と地が出来る前からおられ、天と地がある今の時もおられ、この天と地が終わった後もおられます。まさに永遠の方です。
神のひとり子がこの世に贈られて人間として生まれたというのは、まさに永遠の世界におられる方が、限られたこの世界に生きる人間たちを、永遠の世界にいる神との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、そしてこの世の人生を終えたら復活の日に目覚めさせて神のもとに戻れるようにしてあげよう、そのために贈られたのです。人間が神との結びつきを持って生きられるように、またこの世の人生を終えたら神のもとに戻れるようにするためには、どうしたらよいか?そのためには、人間から神との結びつきを失わせてしまった、神の意思に反する罪をどうにかしなければならない。それでイエス様は、人間の罪を全部引き受けて十字架の上まで運び上げてそこで人間にかわって神罰を受けて、神に対して罪の償いを果たして下さいました。イエス様を救い主と受け入れて洗礼を受ける者はこの罪の償いを自分のもとにすることができ、罪が償われたから神から罪を赦された者として見なされるようになって、それで神との結びつきを持ってこの世を生きることになるのです。
神はそのような永遠に属する方を私たちの心に与えて住まわせて下さいました。まさに、神はコヘレト3章11節で言うように、永遠を私たちの心に与えて下さったのです。それならば、なぜ「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」と言うのか?この下りですが、ここは英語(NIV)、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳も大体同じで、「神のなさる業を見極められない」と言っています。「永遠」を心に与えられたのに見極められないというのは、かなり悲観的です。コヘレトは旧約聖書の知恵文学に数えられますが、全体的にペシミスティックな作品と言われています。ところが私は、何年か前の説教で指摘したのですが、ここのヘブライ語原文を見れば見るほど、どうも逆なような気がしてなりません。つまり、「神は、永遠を人の心に与えられた。それがないと(מבלי אשר、מבליを前置詞に解し、אשרは関係詞なので、英語で言えばwithout which)神のなさる業を始めから終わりまで発見することはできないというものを」という訳になるのではないだろうか。そうすると、「神は永遠というものを人の心に与えられたので、人は神のなさる業を発見することが可能なのだ」という意味です。イエス様という永遠の御子を救い主として心で受け入れることで、神の救いの業を発見することができるのだから、この訳でいいのではないかと考える者です。もちろん、日々の試練の中で、神の業を初めから終わりまで具体的に見極めることは不可能です。そのことは先ほども申しました。その意味では心に永遠を与えられても発見できないということになります。その意味でペシミズムがあると言ってもいいです。しかし、先ほど述べましたように、キリスト信仰者は、事後的に全てが繋がっていたとわかる、神はそのように取り仕切って導いて下さる、そう信頼して進んでいくので、ことの最中の時は具体的なことは何もわからないけれども、神の基本方針はわかっている。先ほどのパウロの聖句のように神の基本方針をわかっているということでは神のなさる業を発見できているのです。ここにコヘレトがペシミズムに留まらない、それを超えるものがあると考えます。
3.「コレヘトの言葉」3章の初めの部分で、「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」として、生まれる時も死ぬ時も定められたものだと言われています。定められた時の例がいっぱい挙げられていて、中には「殺す時」、「泣く時」、「憎む時」というものもあり、少し考えさせられます。不幸な出来事というのは、自分の愚かさが原因で招いてしまうものもありますが、全く自分が与り知らず、ある日青天の霹靂のように起こるものもあります。そんなものも、「定められたもの」と言われるとあきらめムードになります。
また、「神はすべてを時宜に適うように造り」という下りですが、ヘブライ語原文に即してみると、「神は起きた出来事の全てについて、それが起きた時にふさわしいものになるようにする」という意味です。これは、もし別の時に起こったのならばふさわしいものにはならなかったと言えるくらい、実際起きた時にふさわしいものだった、と理解できます。そうすると、起きたことは起きたこととして受け入れるしかない。そこから出発しなければならない。それでは、そこから出発してどこへ向かって行くのか?
ここで「永遠」を思い出します。もし「永遠」がなく、全てのことは今ある天と地の中だけのことと考えたら、そこで起きる出来事は全て天と地の中だけにとどまります。しかし「永遠」があると、この世の出来事には全て続きが確実にあり、神のみ心、神の正義、神の義が目指し向かうべきものとして見えてきます。イエス様はマタイ5章の有名な「山の上の説教」の初めで、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」というように、今この世の目で見て不幸な状態にいるような人たちの立場が逆転する可能性が満ちているということを繰り返して述べています。「慰められる」とか「満たされる」とか、ギリシャ語では全て未来形ですので、将来必ず逆転するということです。運よくこの世の段階で逆転することもあるだろう。しかし、たとえあってもそんなのは序の口と言うようなもっと完璧な逆転が待っている。また不運にもこの世で逆転しなくとも「復活の日」、「最後の審判の日」に逆転が起こるのです。 この世は神の意思に反する罪が入り込んだ世界です。自分では神の意思に沿うように生きようと思っても、自分の罪に足をすくわれたり、また他人の罪の犠牲になってしまうことがどうしても起きてしまいます。そういう時、今ある天と地を超えたところで、その天と地を造られていつかそれを新しいものに変えられる方がいらっしゃることを思い起こしましょう。そして、その方が贈られたひとり子を私たちが信じ受け入れた以上は、その方は私たちに起こることを全て見届けていて、試練の時にはどう立ち振る舞わなければならないかを聖書の御言葉を通して教えて下さっているということを思い起こしましょう。日々聖書を繙き、神の御言葉に耳を傾けましょう。そして、思い煩いや願い事を父なるみ神に打ち明けることを怠らないようにしましょう。とにかく私たちは心に「永遠」を頂いたのですから、神が万事を益にして下さることを今一度思い起こして、今日始まった新しい年を進んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るようにアーメン
主日礼拝説教 2020年12月27日降誕後主日
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
本日の福音書の箇所は、皆さんもよくご存知のシメオンのキリスト賛美があるところです。皆さんがよくご存知というのは、この賛美は礼拝の中のヌンク・ディミティスと呼ばれるところで一緒に唱えられるからです。「今私は主の救いを見ました。主よ、あなたは御言葉の通り僕を安らかに去らせて下さいます。この救いは諸々の民のためにお供えになられたもの。異邦人の心を照らす光、御民イスラエルの栄光です」といつも賛美しているところです。「ヌンク・ディミティス」というのは、この賛美の中にある言葉「今あなたは去らせて下さいます」のラテン語です。このキリスト賛美は、老人シメオンがエルサレムの神殿でマリアとヨセフに連れられた赤ちゃんイエスを見て唱えたものです。ここで、イエス様がベツレヘムの馬小屋で誕生した後の出来事の流れを少し振り返ってみましょう。
本日の福音書の個所の前にあるルカ2章21節をみると、イエス様が誕生8日後にユダヤ教の律法に従って割礼を受けたことが記されています。(レビ記12章3節、創世記17章10~14節)。その次に本日の個所が来て、場面が一変します。律法によれば子供の割礼後、母親は99日間清めの期間というのがあります。その間は神殿に入れず、それが過ぎた後で神殿に行って子羊ないし山鳩の生け贄を捧げて清めが完了したことになります(レビ記12章4-8節)。ヨセフとマリアとイエス様が神殿に行ったのはこの規定のためでした。そうすると、割礼の後三人はどこにいたのでしょうか?ここでマタイ福音書2章を見ると、生まれたばかりのイエス様は両親と共にヘロデ王の迫害から逃れるためにエジプトに避難したことになっています。親子三人は王が死ぬまでエジプトに滞在したことになっています。先ほどの清めの期間の約3か月間は神殿には行けないるので、それがエジプト避難の期間にうまく当てはまります。
ところが、それでも時間的にうまくつじつまがあわないことが出てきます。三人がエジプトからイスラエルに帰還するのはヘロデ王が死んだ後です。王の死は紀元前4年とされています。そうするとイエス様の誕生は紀元前4年ないし5年になる。ところが、ローマ帝国が行った租税のための住民登録の実施年としては紀元前7年が有望とされていて、紀元前4年ないし5年に住民登録があったという記録は見つかっていない。さらに、異常な星の輝きが見られたということに関して、紀元前6年に木星と土星の異常接近があったことが天文学的に計算されています。そこで、紀元前6、7年をイエス様の誕生年とすると、三人のエジプト滞在は2-3年に及んでしまいます。シメオンが腕に抱きあげたイエス様は赤ちゃんと言うよりは2、3歳くらいの幼児になってしまいます。マタイ2章によると、親子三人はヘロデ王の死後、エジプトから戻るけれどもユダヤ地方の領主アルケラオを恐れてナザレのあるガリラヤ地方に向かったとあります(21-23節)。そういうわけで、イエス様の誕生は紀元前7年から4年の間のいつか、エジプトから帰る途中でエルサレムの神殿で清めの儀式を済ませてナザレに戻ったとみるのが妥当なのではないかと思われます。
こういうふうに、イエス様誕生後の出来事の時間の流れにはジグソーパズルがもう少しで全部埋まりそうで埋まらないもどかしさがあります。しかし、これはやむを得ないことです。というのは、大人の時のイエス様の言行録は、使徒たちが目撃者になって証言し、それが記録されていきました。それに比べると、大人になる前の出来事は目撃者に限りがあります。ヨセフが生前に周囲の者たちに語ったことと、もっと長く生きたマリアが弟子たちに語ったことが中心にならざるを得なかったでしょう。それで、細部に不明な点が出てくるのは止むを得ないのです。しかし、大きく全体的に見れば、書かれた出来事が互いに矛盾してどれかが無効になるような、そんなひどい矛盾はないと思います。それなので、聖書に書かれたことは大事に保全する(conserve、conservative、conservatism)態度が肝要です。
イエス様とマリアとヨセフの三人がエルサレムの神殿に来て清めの儀式をした時、老人シメオンが近寄ってきて、イエス様を腕にとって神を賛美しました。この子が神の約束されたメシア救世主である、と。シメオンは、イエス様のことを「異邦人を照らす啓示の光」と呼びます。分かりそうで分かりにくい表現です。どんな光かと言うと、ギリシャ語原文をよく見ると、今まで現れていなかった光が現れてそれを異邦人が目にするという光です。簡単に言えば、「異邦人に現れる光」です。「異邦人」というのは、ユダヤ民族以外の全ての民族です。アメリカ人もヨーロッパ人も日本人もアフリカ人もユダヤ教に改宗していなければ、みんな異邦人です。その異邦人に現れる光とはどんな光なのでしょうか?それは、人間に対する神の意志を明らかにする光ということです。天地創造の神の意志は、それまでは旧約聖書を通して主にユダヤ民族に知らされていました。それが、神のひとり子イエス様がこの世に送られて以後はユダヤ民族以外にも知らされることになるというのです。そのような方が旧約聖書の預言通りにユダヤ民族の中から輩出した、それでシメオンはイエス様のことを「神の民イスラエルの栄光です」と賛美したのです。 そういうわけで、本日の説教ではこのシメオンのキリスト賛美の解き明かしをしていきます。
シメオンは「イスラエルの慰め」を待っていて、メシア救世主を見るまでは死ぬことはないと聖霊に告げられていました。そして、メシアはこの子だと聖霊によって示されて賛美を始めました。ところが、待望のメシア救世主の将来はいいことづくめではありません。シメオンはイエス様について預言を始めます。この子は将来、イスラエルの多くの人たちにとって「倒したり立ち上がらせる」ような者になる。つまり、イエス様は多くの人たちを躓かせることになるが、また多くの人たちを立ち上がらせることにもなる、と。果たして、本当にその通りになりました。律法学者やファリサイ派のような宗教エリートたちが、自分たちこそは旧約聖書を正しく理解して天地創造の神の意思を正確に理解していると思っていたのに、本当はそうではないとイエス様から突き付けられてしまいます。それで彼に躓いてしまったのです。イエス様は文字通り「反対を受けるしるし」になってしまい、それがもとで十字架刑に処せられてしまいます。十字架の上で苦しみながら死んでいくイエス様をマリアは自分の目で見なければならなくなります。文字通り「剣で心を刺し貫かれた」ようになります。
しかしながら、イエス様はただ単に反対され躓きになっただけではありませんでした。多くの人たちを立ち上がらせることにもなったのです。イエス様の十字架の死は、ただ単に反対者から迫害を受けてそうなってしまったということではありませんでした。神の計画がそういう形をとって実現したということだったのです。それでは、神の計画とは何かというと、それは、人間の罪に対する神罰を人間に受けさせるのではなく、代わりに自分のひとり子に全部受けさせるということです。つまり、イエス様の十字架の死というのは迫害されて殺されて終わってしまったということでは全くありませんでした。人間に罪の赦しのチャンスを与えるために神がひとり子を犠牲の生け贄にして罪の償いを人間に代わってさせたというのが真相だったのです。
神がイエス様を用いて行ったことは罪の償いだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る扉を人間に開いて下さいました。人間は、これらのこと全ては神が自分のためにしてくれたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪を償われたからその人は神から罪を赦された者と見なされ、神との結びつきを持ててこの世を生きるようになります。そこでは永遠の命に至る道に置かれて、その道を進んでいきます。たとえこの世から離れることになっても、復活の日に目覚めさせられて永遠の命が待つ神の国に迎え入れられます。このようにして、イエス様のおかげで「立ち上がる」者も多く出たのです。そこで、使徒たちがこの「罪の赦しの救い」という福音を宣べ伝え始めると、それを受け入れて「立ち上がる」者が次々と出ました。他方では、受け入れずに反対する者も出ました。まさにシメオンが預言した通りになったのです。さすがに聖霊を受けただけあって完璧な預言でした。
ところで、シメオンがイエス様を抱き上げて賛美と預言をしていた時に、ハンナというやもめの老婆がやってきました。自分の人生を神に捧げることに徹し、神殿にとどまって断食したり祈りを捧げて昼夜を問わず神に仕えてきました。聖書に「預言者」と言われるからには聖霊の力を受けていたわけですが、やはりイエス様のことがわかりました。それで、周りにいた「エルサレムの救い(贖いλυτρωσις Ιεροθσαλημ)を待ち望んでいる人たち」に、この幼子がその救いの実現であると語り始めたのです。
ここで、シメオンとハンナの賛美や預言をみて一つ気になることがあります。それは、二人ともイエス様が全人類の救世主であるとわかっていたのに、彼らの言葉づかいや、この出来事を記したルカの書き方を見ると、「イスラエルの慰め」とか「エルサレムの救い(贖い)」とか、どうもユダヤ民族という特定民族の救い主であるような言い方、書き方をしています。「イスラエルの慰め」というのは、イザヤ書40章1節や49章13節にある預言、「エルサレムの救い」というのは52章9節にある預言がもとにあります。イエス様の誕生はこれらの預言の実現と理解されたのです。
イザヤ書の40章から55章までのいわゆる「第二イザヤ」の部分は一見すると、ユダヤ民族が半世紀に渡るバビロン捕囚から解放されて祖国に帰還できることを預言しているように見える個所です。実際にこの帰還は歴史的にも起こりまして、エルサレムの町と神殿は再建されました。ところが、帰還と再建の後もユダヤ民族の状況はかつてのダビデ・ソロモン王の時のような勢いはなく、ほとんどの期間は異民族に支配され続けました。神殿を中心とする礼拝も本当に神の御心に適うものになっているかどうか疑う向きも多くありました。それで、イザヤ書40章から55章までの預言は実は祖国帰還後もまだ実現していない、未完の預言だと理解されるようになりました。そうした理解は、バビロンからの帰還が実現して500年以上たったイエス様の時代でも、シメオンのようにイザヤ書で預言された「イスラエルの慰め」を待ち望んでいたこと、また「エルサレムの救い」を待っている人たちがいたからもうかがえます。
このようにユダヤ民族中心のように見える預言の言葉ですが、シメオンの賛美をよく見ると、メシア救世主がユダヤ民族の解放者ではなく、全人類にかかわる救世主であることをちゃんと言っているのがわかります(2章31節と32節)。特に32節の言葉「異邦人を照らす啓示の光」ないし「異邦人に現れる光」は、イザヤ書49章6節の預言が実現したことを意味します。「わたしはあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」日本語訳の「それにもまして」ですが、原語のヘブライ語を見ると(נקל)、ユダヤ民族の祖国帰還と復興だけでは不十分だ、足りない、スケールが小さすぎるという意味です。救世主のなすべきことはユダヤ民族のことだけにとどまらず、全世界の諸国民の光となって神の救いを全世界にもたらすことだ、と言うのです。
そういうわけで、ルカや他の福音書の中にユダヤ民族の救いや解放を言うような言葉遣いや表現があっても、それは旧約聖書の預言の言葉遣いや表現法に基づくものであり、それらの預言の内容自体は全人類に及ぶ救いを意味していることに注意しなければなりません。ユダヤ人であるかその他の異邦人であるかに関係なく、救いを受け取る者が真のイスラエルなのであり、永遠の命に与る者が迎え入れられる神の御国が「天上のエルサレム」と呼ばれるのです。
イエス様が私たちに現れる光であるというのは、かつて現れていなかったが十字架と復活の出来事を通して全世界の人々に現れた光になったということです。それはどんな光なのか見てみましょう。イエス様は光であると聞くと、大方は暗闇のような世の中で私たちが道を誤らないように導いてくれる道しるべのようなイメージがわくでしょう。それはその通りなのですが、イエス様が道しるべの光であるということを正しく理解できなければなりません。それは、私たちがイエス様の光に照らされると、私たちの罪が明るみに出されたかのように自分で気づくことになってしまうということです。シメオンが預言したように、光になるイエス様が反対を受けるしるしになるのは、「多くの人の心にある思いがあらわにされるため」でした。ヨハネ3章でイエス様自身、こう述べています。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」と(19節)。
自分の心の中に神の意志に反する事柄が無数にある、例えば不倫、妬み、憎しみ、他人の見下しや嘲り、誰かを悪者に仕立てること、嘘や誇張、偽証や改ざん、そして分け隔てない思いやりが不足していること、さらにはそうした悪いものに束縛されていてもそこから脱せられるように神に助けを求めないこと等々、こうしたものが聖書の御言葉を読む時、聞く時に思い知らされます。それは御言葉を通して神の霊、聖霊が働くからです。また御言葉を読んだり聞いたりしていない時に思い知らされることもあります。それは神が直接働きかけたからです。それは、本当は名誉なことです。
しかしながら、誰も、そのような自分で見たくも気づきたくもないことを明るみに出されるのは嫌でしょう。余計な光だ、と思って、反感を抱くでしょう。また人によっては反感ではなくて、自分が嫌になってしまい深い悲しみに陥ってしまうでしょう。しかし、イエス様の光は本当は人間を絶望や無力感に追い込むためにあるのではありません。光は一旦真実を明らかにしたら、今度はすかさず暗闇から脱する道を示す道しるべになるのです。神への反感をかなぐり捨て、絶望や無力感の底から神の方を向いて神の意思に反することがあることを素直に認めて赦しを願うと、神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前の罪の赦しはあそこにある。それは一度打ち立てられたら決してなくならない。お前は罪を赦された者としてもう一度歩み出しなさい」と。歩み出す時、遠い向こうには永遠の命が待っている神の国があります。ただ、それは肉眼の目には映るものではありません。しかし、心の目をあの空っぽの墓に向ければ、大きな希望が湧いてくるはずです!まさにヨハネ8章12節でイエス様自身言われているとおりです。「私は世の光である。私に従う者は暗闇を歩くことはない。その者は永遠の命に導く光を持つことになる。」(少し解説的に訳しました。)
このようにイエス様という光は真実を明らかにするという機能と道しるべになるという機能の二つの機能を同時に兼ね備えた光です。私たちはその光を持っているのです。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、そのことを忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
今年コロナ禍のために開催できなくて残念だったものは何?と聞かれたら、大抵の人は東京オリンピックと答えるのではないでしょうか? 実は今年はSLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)が日本伝道を開始してから120年目の年でした。 5月後半の主日に午前中は自由参加の記念礼拝と祝会、午後は招待者を中心とする祝会を開催することを計画していました。計画を立て始めてまもない2月に断念を決めました。来年は開催できるでしょうか?
SLEYの最初の宣教師が日本の土を踏んだのは1900年のことでした。フィンランドが独立する17年前のことです。ヴェルロース牧師一家と17歳のクルヴィネン嬢の一行が長崎に上陸しました。
そこで伝道開始するも、牧師一家の末娘が病死してしまい失意の一家は帰国。一人取り残されたクルヴィネン嬢は米国の宣教団と行動を共にします。まもなくしてフィンランドから新たな宣教師の派遣があり、SLEYとしての伝道を再開。ところが日露戦争が始まり、当時フィンランドはロシア帝国の一部だったため敵国民扱いを受けてしまい、都市部での伝道はやめて長野県の飯田や諏訪の地域に移動。やがてそこで信徒が増え始めて教会が建てられます。日露戦後は再び東京で活動を開始、池袋や大岡山に教会が建てられます。その他に北海道の札幌にも建てられました。
第二次大戦中は8人の宣教師が帰国の機会を逸して日本に留まりました。フィンランドは日本にとって「敵の敵は味方」のような立場でしたが、天皇絶対主義の日本ではキリスト教はとても肩身の狭い思いをしました。戦争末期にはSLEY宣教師たちは軽井沢に強制疎開させられ、軟禁状態に置かれて孤立化と食糧難に苦しみました。
戦後すぐの1948年に伝道活動が再開されます。SLEYは当初、自分たちが設立した教会から成る独自のルター派教団を結成するつもりでした。ところが、新しく設立された「日本福音ルーテル教会」への対応をめぐり意見が真っ二つに分かれます。最終的にはこの日本のルター派教団に合流することが決められ、自分たちが設立した教会や付属幼稚園は全部、日本福音ルーテル教会に譲渡されて今日に至っています。今でこそ日本フィンランド間の交流は公的私的レベルにおいて広く深いものになりましたが、かつてフィンランドのルター派国教会の一ミッション団体が両国間交流の中心的存在であったことを今日誰が思い起こすでしょうか?
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
1. 本日は「降誕祭前夜」、日本では英語の言葉をカタカナにした「クリスマス・イブ」と呼ばれる日です。この日、北欧の国フィンランドのトゥルクという町で1300年代からずっと続いている「クリスマスの平和宣言」という行事があります。目抜き通りを挟んで大聖堂の反対側にある建物のバルコニーから、トゥルク市の儀典長が巻物を広げて群衆の前でその「宣言」を声高らかに読み上げます。「平和宣言」などと言うと、世界の平和を祈願する内容かと思いきや、そうではなく、これから救世主イエス・キリストの誕生をお祝いする期間に入るので市民は相応しい仕方でお祝いしなさい、もし、このクリスマスの平和を破る者がいれば関連法令に基づいて厳しく罰せられるから注意するように、という内容です。つまり、救世主の誕生日を敬虔な気持ちでお祝いし、お祝いの秩序を乱してはならない、という当局からの通達です。(トゥルク市の「クリスマス平和宣言」はテレビで全国中継されるほか、インターネットで世界中に同時配信されています。今年はコロナのために群衆なしで行うそうです。)
「平和」という言葉は、普通は戦争のない状態を意味すると理解されます。国と国、民族と民族の利害が衝突した時、武力を用いないで解決することを平和的解決と言います。そういう衝突や対立がない状態という意味での平和があります。他方で「クリスマスの平和宣言」に言われるような、イエス様の誕生を感謝の気持ちと喜びをもってお祝いできる状態という意味での平和もあります。もちろん、そういうお祝いが出来るためには国や社会が平和であることが大事です。フィンランドの「クリスマスの平和宣言」も、第二次大戦中の1939年は空襲警報が鳴ったため中止になりました。しかしながら、国や社会が平和ならばいつも感謝の気持ちと喜びをもってイエス様の誕生をお祝い出来るかと言うと、そうとも限りません。というのは、心がイエス様以外のものに向いていたら、それは本当のクリスマスのお祝いではなく、そこにはクリスマスの平和はないからです。裏返して言うと、国や社会が平和でない時も、心がしっかりイエス様に向いているならば、クリスマスの平和はあるということです。今コロナ禍の状況の中で世界中が混乱しています。そのような時こそ、このような平和を持てれば素晴らしいと思うのですが、そんな平和は果たしてあるのでしょうか?
先ほど朗読したルカ伝福音書2章の中で、イエス様が誕生した夜、天使の大軍が夜空に現れて「地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美の言葉を述べました。この、イエス様の誕生に結びつく平和、クリスマスの平和とはどんな平和なのか?これから、このことを見ていきたいと思います。
2. 初めに、イエス様誕生の歴史的背景について述べておきます。これは、出来事がおとぎ話とか空想物語と片づけられてしまわないために大事なことです。実を言うと、イエス様がこの世に誕生した年月日は歴史資料に限りがあるため100パーセント正確には確定できません。それでも、手掛かりはいろいろあります。例えば、先ほどのルカ伝福音書2章の初めに、ローマ皇帝アウグストゥスの勅令による住民登録があります。当時ユダヤ人にはヘロデという王様はいましたが、独立国としての地位は失っていてローマ帝国の支配下に置かれる属国でした。ローマ帝国は大体14年毎に徴税のための住民登録を行っていました。それで、ユダヤ人も帝国の住民登録の対象になったのです。
さて、ヘロデ王の国はローマ帝国シリア州の管轄下にあり、その総督であったキリニウスは西暦6年に住民登録を実施したという記録が残っています。しかし、それ以前のものは記録がありません。それでも、ヘロデ王が紀元前4年まで王位にあったことや、ローマ帝国は定期的に住民登録を行っていたことから逆算すると、イエス様のこの世の誕生は紀元前6ー7年という数字が有望になります。
イエス様が誕生した日にちはどうでしょうか?西暦100年代に1月6日が顕現日という聖日に定められました。当初は顕現日はイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記念することと、イエス様の誕生を記念することの両方が祝われていました。西暦100年代と言えば、まだイエス様の目撃者の次の世代が生きていた時代です。目撃者の生々しい証言はまだ昨日の出来事のように語られていたでしょう。誕生記念の方は1月6日から12月25日に移っていきますが、その詳しい経緯はわかりません。いずれにしても、イエス様の誕生が真冬の季節だったことは、初期のキリスト教会の中では当たり前のことだったと言えます。
3. クリスマスというのはイエス様の誕生をお祝いする日です。それで、イエス様が歴史上、実際に生まれた日が世界最初のクリスマスになります。聖書に従えば、イエス様は神のひとり子です。そして父なる神は、天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えて下さった創造主です。この創造主としての神、ひとり子としての神、それに神の霊、聖霊の三つが一つの神を成すというのがキリスト信仰の立場です。この三つを除く全ての万物は、神に造られたもの、被造物ということになります。私たちの目に見えるもの、また目に見えない霊的なものも全て被造物ということになります。天使たちもそうです。
これから考えると、世界最初のクリスマスの驚くべきことは、造り主に属する神のひとり子が人間として、つまり被造物の形を取って生まれたということです。加えて、天上の神の栄光に包まれていた方が家畜小屋で生まれたということです。皆さんは、家畜小屋がどういうところか想像つくでしょうか?パイヴィの実家が酪農業を営んでいるので、休暇の時はいつも子供たちと一緒に牛を見に行ったものでした。牛舎は、栄養や水分補給がコンピューター化された近代的なものですが、糞尿の臭いだけは現代技術をもってしてもどうにもならない。数分いるだけで臭いが服にしみつくほどです。
神のひとり子であり人間の救い主となる方が、なぜこのような仕方で地上に送られなければならなかったのか?人間に命と人生を与える造り主の立場にある方が、なぜ自ら被造物の形をとって、しかも家畜小屋で生まれなければならなかったのか?まず、神が人間として生まれたということについて見てみます。ここで大事なポイントは、もし、このことが起きなかったならば、神はずっと天上にふんぞり返っていただけだったろうということです。それでは神と人間の間にある問題を解決することは出来ません。神と人間の間にある問題とは何かと言うと、それは、旧約聖書の創世記にあるように、神に造られた最初の人間アダムとエヴァが神の意思に反するようになって、罪を持つようになってしまったということです。そのために神と人間の結びつきが失われ、両者はいわば敵対関係に陥ってしまいました。
そこで神は、人間が再び神と平和な関係を持てて、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにしようと、そしてこの世から去った後は復活の日に目覚めさせてご自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげようと、それでひとり子をこの世に送ったのでした。送って何をさせたかと言うと、敵対関係を終わらせるために人間の罪を償う犠牲の生け贄になってもらったのです。これがゴルゴタの丘の十字架の出来事でした。さらに神は、一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があるということも示されました。これらのことをやり遂げるには被造物はあまりにも無力でした。それを可能にする本物の犠牲が必要でした。それが出来たのは神のひとり子だったのです。神のひとり子の犠牲なのでこれ以上のものはないという犠牲でした。イエス様が犠牲の生け贄になったというのは、神と人間の間に和解をもたらすために神自らが人間に歩み寄って自分を犠牲に供したということだったのです。それ位、神は人間のことを大事に思って下さったということなのです。
4. それでは、神のひとり子が人間として生まれるのなら、なぜベツレヘムの家畜小屋での出産というような形をとらなければならなかったのでしょうか?聖書を読むと気づかされることですが、永遠の存在者である神は、有限な私たち人間を導く時、大抵は自然界と人間界にある諸条件を用いてその枠内でそうします。しかし時として、諸条件の枠を超えるような力を行使して、自然界の中で起こりえないことを起こすこともあります。それが奇跡と呼ばれるものです。例えばイエス様が医療の技術もなく不治の病を治したとか、湖の水の上を歩いたとか、5切れ程度のパンで5千人以上の人たちの空腹を満たしたとかいうものです。
人間界の諸条件の枠の内で導きをするとどういうことが起きるか?イエス様の誕生がその良い例になっています。紀元前6年頃、現在のイスラエルの国がある地域で、かつてのダビデ王の家系の末裔だったヨセフはナザレ町出身のマリアと婚約していた。そのマリアは神の奇跡の業のために処女のまま妊娠した。ちょうどその時、彼らを支配していた異国の皇帝が支配強化のために住民登録を命じた。そこで近々世帯主になるヨセフはマリアを連れて自分の本籍地であるベツレヘムに旅立った。そこでマリアは出産日を迎えた。さて、旧約聖書にはメシア救世主がダビデ王の家系から生まれ、その場所はベツレヘムである、という預言があります。ローマ皇帝はそんな他の民族の聖典の預言など全く知らずに勅令を出したわけですが、そのおかげで預言が実現することになりました。
出産場所が家畜小屋になったことについても、直接の原因は、その夜ベツレヘムの宿屋はどこも満員でヨセフたちが泊まれる場所がなかったためでした。ところが、町の郊外にいた羊飼いたちに天使が現れて、今ベツレヘムでメシア救世主が生まれた、飼い葉桶に寝かせられている赤子がそれである、と知らせました。これが重要なヒントになりました。なぜなら、家畜小屋を探せばよいからです。単に救世主が生まれたとだけ告げられたら、どこを探せばよいのか途方に暮れたでしょう。仮に誰かの赤ちゃんは見つけられたとしても、その子が天使の言った救世主であるとどうやって確かめられるのか、雲を掴むような話になったでしょう。
イエス様の家畜小屋での出産の出来事から次のことがわかってきます。神はヨセフとマリアを歴史的状況、社会的状況の荒波に揉まれさせてはいるが、決して彼らの運命の手綱を手離すことなく、ずっとしっかり握っていたということです。マリアの妊娠は、戒律厳しいユダヤ教社会の中では不倫か結婚前の関係かと疑われたでしょう。事は十戒の第六の掟「汝、姦淫するなかれ」に関わります。しかしヨセフは、神の計画ならば周囲の目など気にせず、この私が育てますと決意します。そう決心するや否や、今度は支配者の命令が下され、身重のマリアを連れて160キロ離れた町に旅をしなければならなくなります。やっと着いても泊まる所がなく、家畜小屋で子供を産むことになってしまいます。
ところが、まさにちょうどその時、神は天使を送ってイエス様の誕生を羊飼いたちに知らせ、彼らにイエス様を探し当てさせました。本日の福音書の箇所によると、家畜小屋には親子3人と羊飼いたちの他にも人々が集まっています。恐らく羊飼いたちは黙って探したのではなく、今夜この町でメシア救世主がお生まれになりました!今飼い葉桶に寝ておられます!家畜小屋はどこですか?と声に出しながら探し回ったのでしょう。羊飼いたちはヨセフとマリアと集まった人々に天使が告げたことを話しますが、人々は天使など見ていませんから、半信半疑です。しかし、天使が現れなければ羊飼いが飼い葉桶の赤ちゃんを探すこともないわけだから、嘘とも決めつけられない。聖書に書いてあるように、ただただ驚くしかありません。他方マリアは、天使ガブリエルから何が起きるかを前もって知らされていたので、羊飼いたちの言うことは心に留めたのです。これも書いてある通りです。
以上、ヨセフとマリアは、ベツレヘムまでの旅を余儀なくされて挙句の果ては家畜小屋においやられてしまいましたが、羊飼いたちがやってきたことで、これは不運でもなんでもない、神は何時いかなる時でも絶えず目を注いで下さっている、ということがはっきりしました。このように神は、神を信頼しより頼む者を状況の荒波に揉まれさせて、何もしてくれない、助けてくれないように見えても、実はその人の運命の手綱をしっかり握っていて離すことはないのです。必ず、その人に対する神の計画が明らかになり、それまでのことは無意味ではなかったとわかるのです。
5. このように外面的には嵐と荒波があっても、心は落ち着いていられる平和がある。そのような平和について宗教改革のルターは次のように教えています。この教えは、イエス様がヨハネ14章27節で弟子たちに平和を与えると約束したことについての説き明かしです。
「これこそが正しい平和である。それは心を静めてくれる。しかも、不幸がない時に静めるのではなく、不幸の真っ只中にいて、周囲のもの全てが動揺しているときに静めてくれるのである。 この世が与える平和とイエス様が与える平和の間には大きな違いがある。この世が与える平和とは、不穏さがもたらす害悪が取り除かれることがそれである。それとは反対にイエス様が与える平和とは、外面上は不幸が続いてもあるものである。例えば、敵、疫病、貧困、罪、死それに悪魔、こうしたものはいつも我々を包囲している。しかしながら、内面的には心の中に励ましと平和をしっかり持っている。これがイエス様の与える平和である。心は不幸を気にかけないばかりでなく、不幸がない時よりも大胆になり、喜びも大きくなる。それ故、この平和は、人間の理解を超える平和と呼ばれる。 人間の理性で理解できるのは、この世が与える平和だけである。平和は害悪があるところにもあるとのは、理性には理解不可能である。理性は、どのようにして心を静めることが出来るかを知らない。なぜならば理性は、害悪が残っているところには平和はあり得ないと考えるからだ。確かにイエス様は外面上の惨めさをそのままにすることがあるが、まさにそのような時に彼は人間を強くし、臆病な心を恐れ知らずにし、恐怖に慄く良心を安心感に満ちたものに替える。そのような人は、たとえ全世界が恐怖を抱く時にも喜びを失わず、安全な場所でしっかり守られているのである。」
「これこそが正しい平和である。それは心を静めてくれる。しかも、不幸がない時に静めるのではなく、不幸の真っ只中にいて、周囲のもの全てが動揺しているときに静めてくれるのである。
この世が与える平和とイエス様が与える平和の間には大きな違いがある。この世が与える平和とは、不穏さがもたらす害悪が取り除かれることがそれである。それとは反対にイエス様が与える平和とは、外面上は不幸が続いてもあるものである。例えば、敵、疫病、貧困、罪、死それに悪魔、こうしたものはいつも我々を包囲している。しかしながら、内面的には心の中に励ましと平和をしっかり持っている。これがイエス様の与える平和である。心は不幸を気にかけないばかりでなく、不幸がない時よりも大胆になり、喜びも大きくなる。それ故、この平和は、人間の理解を超える平和と呼ばれる。
人間の理性で理解できるのは、この世が与える平和だけである。平和は害悪があるところにもあるとのは、理性には理解不可能である。理性は、どのようにして心を静めることが出来るかを知らない。なぜならば理性は、害悪が残っているところには平和はあり得ないと考えるからだ。確かにイエス様は外面上の惨めさをそのままにすることがあるが、まさにそのような時に彼は人間を強くし、臆病な心を恐れ知らずにし、恐怖に慄く良心を安心感に満ちたものに替える。そのような人は、たとえ全世界が恐怖を抱く時にも喜びを失わず、安全な場所でしっかり守られているのである。」
一体誰がこのような平和を持てるでしょうか?先ほどのルカ伝福音書2章14節の天使たちの賛美を思い出しましょう。
「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」
これは、不思議な文句です。この文句は2つの部分からなります。最初は、神の栄光について言い、次は平和についてです。「いと高きところには栄光、神にあれ」の「いと高きところ」とは、神がおられる天上そのものを指します。「神にあれ」ですが、そもそも天上の栄光というものは、天使たちが「あれ」と願わなくても、もともと神にあるものなので、「あれ」と訳すより、「ある」とすべきです。従って、ここは「栄光はいと高き天上の神にある」というのが正確でしょう。
「地には平和、御心に適う人にあれ。」地上の平和は、天使たちが「あれ」と願ってもいいのかもしれません。「御心に適う人」と言うのは、「神の御心に適う人」です。「平和」は、先ほども申しましたように、神と人間の関係が和解した、神と人間の間の平和を指します。この平和は、イエス様が十字架で御自身を犠牲の生け贄として捧げた時に実現しました。そして、イエス様を救い主として受け入れた者たちがこの神との平和を持つことができます。この者たちが「神の御心に適う人たち」です。まさにこの平和は、外的な平和が失われた時であろうが、また人生の中で困難や苦難に遭遇しようが、イエス様を救い主と信じる限り、失われることのない平和です。そういうわけで、天使たちは、栄光が天上の神にあるのと同じくらい、平和もイエス様を受け入れる者にある、だから、出来るだけ多くの人がこの平和を持てますように、と願っているのです。皆さんも、この平和を持つことができますように。
1.2020年の待降節ももう第四主日です。今度の木曜日がクリスマス・イブ、金曜日がクリスマスです。この期間、私たちの心は2千年以上の昔に現在のイスラエルの地で実際に起きたメシア・救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を贈られた父なるみ神に感謝してクリスマスをお祝いします。今年の待降節の礼拝の説教で私は特に、キリスト信仰者にとってクリスマスというのは過去の出来事を記念するお祝いに留まってはいけないということを強調してきました。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。そういうわけで私たちは、2000年以上前に救世主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。その意味で待降節という期間は、イエス様の第一回目の降臨に心を向けつつも、未来の再臨にも心を向ける期間でもあります。毎年過ごすたびに、ああ、主の再臨がまた一年近づいたんだ、と身も心もそれに備えるようにしていかなければならないのです。イエス様が再臨する日というのは、聖書によれば今のこの世が終わる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。それは、また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつなのかは、父なるみ神以外は誰もわからないのだとイエス様は言われました。それで大切なことは、「目を覚ましている」ことであると教えられました。
とは言っても、イエス様の再臨というのは気が重いものです。最初の降臨は神のひとり子が人となってベツレヘムの馬小屋で赤ちゃんになって生まれたという、なんだか微笑ましい話に聞こえますが、再臨となるとこの世の終わりとか最後の審判とか死者の復活とか物騒なことがつきまといます。誰もそんな日を待ち望まないでしょう。
しかし、キリスト信仰者は、その日は特別な意味を持つ日だと考えます。先週の説教でもお教えしましたが、キリスト信仰者の人生はこの世を去るまでは罪の自覚と赦しの繰り返しの人生です。キリスト信仰者というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を通して聖霊を注がれたので自分には神の意思に反するもの、すなわち罪があると自覚しています。それで、それを神の前で認めて赦しと清めを願います。そうすると神は、イエス様の十字架の犠牲の死に免じて赦して下さいます。これを繰り返していくことで神との結びつきが強まっていき、内にある罪が圧し潰されていきます。そして、その繰り返しが終わる日が来ます。それがイエス様の再臨の日なのです。神から、お前は罪を圧し潰す側についていた、と認められると、神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられます。そこではもう罪の自覚を持つ必要はありません。それなので、キリスト信仰者は主の再臨が待ち望むに値するものであるとわかるのです。
以上から、主の再臨を目を覚まして待ち望む者は次のことを肝に銘じていなければならないとわかります。自分には神の意思に反する罪があるという事実から目を背けないで、たえず神のもとに立ち返る生き方をすることです。たえず神のもとに立ち返るとは、洗礼を受けた時の自分に何度も戻り、そこから何度も再出発することです。
2.主の再臨を待ち望む者が肝に銘じておきべきもう一つのことを本日の福音書の個所から学んでみようと思います。本日の箇所で天使ガブリエルがマリアに、お前は救い主の母となると告げていました。天使が言わんとしていることは、神がそうなると言われたことは必ずそうなる、だから、それを信じそうなることを受け入れなさいということです。たとえ、自分の思いや考えと合わなかったり、あまりにもかけ離れていて受け入れ難いものでも、神がそう言われる以上はそうなる、だから、それを受け入れて、それを全てに優先させなさいということです。人間の本心としては、たとえ神のためとは言え、自分の意思を脇に置くというのはあまりしたくないものです。ましてや、そうすることで余計な困難や試練を抱えてしまってはなおさらです。しかし、神はまさに人の都合よりも神の意志を優先させる人と共に一緒におられるのです。この真理が本日の福音書の箇所の説き明かしから明らかになります。
このガブリエルという天使ですが、ダニエル書にも登場します(8章と9章)。神に敵対する者が跋扈する時代が来るが、それは必ず終焉を迎える、とダニエルに告げ知らせます。ガブリエルはまたマリアのところに来る6カ月前にエルサレムの神殿の祭司であるザカリアにも現れ、高齢の妻エリザベトが男の子を産むと告げます。この子が将来の洗礼者ヨハネです。
ガブリエルがマリアに告げたことは、彼女がまだ婚約者のヨセフと正式に結婚する前に、神の霊すなわち聖霊の働きで神の力が及んで男の子を産むということでした。さらに、その子は神の子であり、神はその子にダビデの王座を与え、その国は永遠に続くということも告げました。その子につける名前として「イエス」が言われます。「イエス」と言うのは、ルカ福音書が書かれているギリシャ語ではイェースースΙησουςと言います。ところでマリアがガブリエルと会話した言葉は恐らくアラム語というヘブライ語に似た言語です。その言葉ではィエーシューアישועといいます。それは旧約聖書のヘブライ語ではユホーシェアיהושעといい、これはモーセの後を継いでイスラエルの民をカナンの地に導いた指導者の名前です。日本語ではヨシュアと言います。それは文字通り「主が救って下さる」という意味です。つまり、旧約聖書の「ヨシュア記」のユホーシェアがアラム語でィエーシューアになって、その後でルカが福音書をギリシャ語に書いた時にイェースースになって、それが日本語ではイエス、英語ではジーザスになったということです。以上、キリスト教雑学辞典でした。
さて、ダビデ家系の王が君臨する王国が永遠に続くということについてですが、世界史の教科書にも出てきますが、ダビデ家系の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時に潰えてしまいました。捕囚が終わってユダヤ民族が祖国に帰還した後はもうダビデ家系の王国は実現しませんでした。しかし、旧約聖書の中にダビデの王国は永遠に続くという神の約束があるため(サムエル下7章16節、詩篇45章7節、イザヤ9章6節、ダニエル7章14節)、ユダヤ民族の間では、いつかダビデの家系に属する者が王となって国を再興するという期待がいつもありました。
しかしながら、神がダビデの家系に属する者に与えると約束した永遠の王国とは実は、地上に建設される国家ではなく、天の御国のことだったのです。ヘブライ12章や黙示録21章で言われているように、今のこの世が終わりを告げて、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる時、唯一揺るがないものとして立ち現われる神の国がその永遠の王国だったのです。私たちが「主の祈り」を祈る時に、「御国を来たらせたまえ」と唱える、あの永遠の御国のことだったのです。そこで王として君臨するのは、まさしく死から復活した後に天に上げられて今のところは父なるみ神の右に座して、この世の終わりの日に再臨する主イエス・キリストなのです。
イエス様は、人間として見た場合どこの家系に属するかと言えば、ダビデの子孫のヨセフが育ての父親だったので、ダビデの家系に属することになります。しかし、イエス様の本当の父親は、被造物である人間ではありませんでした。イエス様はマリアから誕生する以前から既に父なるみ神のもとに神のひとり子として存在していました。そのことはヨハネ福音書1章に述べられています。「イエス」という名前はマリアのお腹を通って人間の体を持って付けられた名前です。父なるみ神のもとにいた時には人間的な名前は何もありません。それでヨハネはそのひとり子をギリシャ語でロゴスと呼んだのです。ロゴスは「言葉」を意味します。つまり、神のひとり子は神の言葉としての役割を果たすというのです。天地創造の時、神は「光よ、あれ」と言葉を発していって全てのものを創造しました。それで神の言葉の役割を果たすひとり子は天地創造の時に既に存在していて父と共に創造の業を行っていたのです。そのことがヨハネ1章で語られています。その神の言葉の役割を果たす方が人間の体を持ってマリアのお腹から生まれてきたというのがクリスマスです。マリアが処女のままイエス様を産むことになったのは、神の言葉の役割を果たす方が人間の体を持ってこの世に登場できるようにするためだったのです。
3.それではなぜ天の御国におられる方がわざわざ人間の体を持ってこの地上に来なければならなかったのでしょうか?それはひと言で言えば、人間の救いのためでした。「救い」というからには、何からの救いなのかをはっきりさせなければなりません。聖書によれば、人間と創造主の神との結びつきが失われてしまったので、それを取り戻すことが救いです。それではなぜ失われてしまったかと言うと、創世記3章にあるように最初の人間が造り主である神の意思に反して罪を持つようになってしまったからでした。その結果、使徒パウロが「罪の報酬は死である」と述べる通り(ローマ6章23節)、人間は罪がもたらす死に服従する存在になってしまいました。詩篇49篇に言われるように、人間はどんなに大金を積んでも死から自分を買い戻すことはできません。そこで創造主の神は人間が再び造り主である自分のもとに戻れるようにと計画を立ててそれを実行しました。これが神による人間の救いです。
それがどのような計画でどのように実行されたかと言うと、神はひとり子をこの世に贈り、彼に人間の罪から来る神罰を全て受けさせました。それがイエス様のゴルゴタの丘での十字架の死でした。父なるみ神はイエス様に人間の罪の償いをさせたのです。この、神のひとり子が十字架の上で血みどろになって流した血が私たちを罪と死のもとから神のもとに買い戻す代価となったのです(マルコ10章45節、エフェソ1章7節、1テモテ2章6節、1ペトロ1章18~19節)。さらに神は一度死んだイエス様を復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る扉を人間のために開かれました。それで今度は人間の方がイエス様こそ救い主であると信じて洗礼を受けると、この神のひとり子が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになって、神からは罪を赦された者として扱われるようになります。神から罪を赦されたので、もう神との結びつきを持ててこの世を生きるようになります。神との結びつきを持ってこの世を生きるというのは、永遠の命が待つ神の御国に至る道に置かれてその道を歩むことです。順境の時にも逆境の時にもいつも変わらぬ神との結びつきを持って歩みます。この世を去った後も、新しい天地創造の日に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を付与されて神の御国に迎え入れられることになります。
人間が罪の償いと赦しを得られて神との結びつきを持てるようなることが神の救いの計画だとわかったとしても、そのためになぜ神のひとり子が人間として生まれてこなければならなかったのでしょうか?それは、償いが果たされるために誰かが犠牲にならなければならなかったからです。その償いは人間には不可能です。人間が神罰を受けてしまったらもうそれでお終いです。他人の罪を償ってあげるどころか自分の罪さえも償って生き続けることは出来ません。それで神は人間の罪の償いを人間にさせるのではなく、自分のひとり子を神聖な生贄として捧げることにしたのです。
ひとり子が犠牲を引き受けるとき、天の御国にいたままでは行えません。人間の罪の神罰を全て受けるという以上は、罰を罰として受けられなければなりません。そのためには、律法が効力を有しているところにいる存在にならなければなりません。律法とは神の意思を表す掟です。それは神がいかに神聖で、人間はいかにその正反対であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は当然、律法の上に立つ方です。上に立ったままでは罰を罰として受けられません。罰を受けられなければ罪の償いもありません。罰を罰として受けられるためには、律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければなりません。それで神のひとり子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのです。まさに使徒パウロが言うように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったということが起こったのです(ガラテア3章13節)。フィリピ2章6~8節には、次のように謳われています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。このように、私たちの救いのためにひとり子を惜しまなかった父なるみ神と、その救いの実現のために御自身を捧げられた御子イエス様、そして私たちが神との結びつきを持って生きられるように日々、支えて下さる聖霊はとこしえにほめたたえられますように。
4.天使ガブリエルから神の計画を告知されたマリアは、最初それを信じられませんでした。しかし、ガブリエルは、天と地に存在する真理の中で最も真理なことを述べます。「神にできないことは何一つない」(37節)です。ギリシャ語原文をもう少し直訳すると、「神が言われることは(ρημα)神の方から全て不可能ではなくなる」です。どうしてそんなに自信満々でいられるかというと、神の力というものは34節で言われるように「いと高き方の力」だからです。これももう少し直訳すると「最も高いところの方の力」です。最も高いところの方ですので、他のものは全てこの方より低いものとなります。そうなると、あらゆるものの力はこの方の力に及びません。そのような私たちの想像をはるかに超える力を「最も高いところの方の力」と呼ぶのです。そのような力がマリアを「包んだので」(ギリシャ語では「覆った」)、神の言葉の役割を果たす方が人間として生み出されることが出来たのです。
この「最も高いところの方」の力はイエス様の死からの復活の時にも働きました。そのことがエフェソ1章19~21節で言われています。「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ」ました。ここで「力」という言葉が2回出てきますが、ギリシャ語原文では4回出てきます。そのうち3つは力を意味する3つの別々の言葉です。ドュナミス、クラトス、イスキュスです(もう一つは関係代名詞)。それらの力が働いてイエス様を死から復活させたという言い方です。日本語に訳すのは大変です。「神が力の力の作用をもって、私たち信仰者に向けられる力の強大さがどれだけ桁外れのものであるかを悟らせて下さるように。その力の力の作用をもって、神はキリストを死者の中から復活させたのです」。
いずれにしても、マリアの処女受胎もイエス様の死からの復活も、何か、ちちんぷいぷいのおまじないで起きたというようないい加減な話ではないのです。当時の人たちは、本当に想像を絶する力が働いて起きたということがよくわかっていたのです。それが記述の仕方に出ているのです。そして、私たちにとって重大なことは、エフェソ書の中で言われているように、この想像を絶する力が神との結びつきを持って生きるキリスト信仰者に向けられているということです。
そう言うと、神の想像を絶する力が自分に向けられているのなら、どうして自分や自分の周囲にそんな力が働いていると感じさせないことばかりなのか?そういう疑問が出てくると思います。神の力など本当は何も働いていないのではないかと疑う人も出てきます。この問題は、マリアに何が起こったかを見ていくと神の力に包まれる(覆われる)というのはどういうことか分かってくると思います。
マリアはガブリエルに対して「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と答え、神の意思に従うと言います。この従いは、天地創造の神のひとり子の母親になれるという意味では大変名誉なことではありますが、別の面ではマリアのその後の人生に深刻な影響をもたらすものでもありました。というのは、ユダヤ教社会では、婚約中の女性が婚約者以外の男性の子供を身ごもるという事態は、申命記22章にある掟に鑑みて、場合によっては死罪に処せられるほどの罪でした。そのため、マリアの妊娠に気づいたヨセフは婚約破棄を考えたのでした(マタイ1章19節)。しかし、ヨセフも天使から事の真相を伝えられて、神の計画の実現のために言われた通りにすることに決めました。
神の人間救済計画の実現のために特別な役割を与えられるというのは最高の名誉である反面、人間の目からすれば、最悪の恥になることもあるという一例になったのです。さらにイエス様の出産後、マリアとヨセフはヘロデ大王の迫害のため、赤ちゃんイエスを連れて大王が死ぬまでエジプトに逃れなければなりませんでした。その後で三人はナザレに戻りますが、そこで人々にどのような目で見られたかは知る由はありません。仮に「この子は神の子です、天使がそう告げたんです!」と弁明したところで人々は真に受けないでしょうから、一層立場を悪くしないためにも黙って言われるままにした方が賢明ということになったかもしれません。
いずれにしても、マリアとヨセフは社会的に辛い立場に置かれたのです。このように、天使から「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられる」(28節)と言われて、本当に神から目を注がれて一緒にいてくださることになっても、それが必ずしも人間的にはおめでたいことにはならないことがあるのです。しかし、そのようなおめでたくない場合にも、神の意思に従っていれば、神は共におられのです。神の意思に従う時、人間的には辛い状況になっても、実はその状況そのものが、神が共におられ神の力に包まれている(覆われている)ことの証しなのです。マリアは順境の時にも逆境の時にも常に神が共にいるという生き方に入っていったのです。「神様が一緒にいてくれても逆境になるんだったらイヤ!」とか、「神様が一緒にいなくても順境でいられるなら、そっちの方がいい」という生き方は選びませんでした。たとえ逆境を伴うことになっても神が常に共にいる生き方を選びました。ここに、私たちの信仰人生にとって学ぶべきことがあります。
キリスト信仰者といえども、この世にいる限り、神の力に包まれている(覆われている)とは感じられないことばかりです。しかし、神の意思に従う限りは、そう感じられない状態にあるということが逆に神の力に包まれている(覆われている)ことの証しになっている、このことがマリアの生き方から明らかになります。この逆説的な状況は、復活の日にきれいに解消されます。というのは、神の想像を絶せする力に包まれて(覆われて)生きた者は、その日その力によって復活させられるからです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン
パイヴィ・ヨシムラ宣教師と一緒にクリスマス・スパイスクッキー「ピパルカック」を作って、クッキーに飾りつけをしましょう。 出来上がった後でフランネル劇「世界の最初のクリスマス」という聖書のお話も聴きましょう。
マーガリン 125g 砂糖 100g シロップ ¾ dl シナモン 小さじ1 ジンジャー 小さじ1/2 クローブ 小さじ1/2 オレンジの皮から作ったパウダー 小さじ1 (ポメランシ) 卵 1個 塩 小さじ1/2 小麦粉 250 g 重曹 小さじ1
アイシング 粉砂糖 ½ dl 水で薄めたレモン汁 小さじ 3―4
1. 上記材料のうち、マーガリンから「オレンジの皮で作ったパウダー」までを鍋に入れて温める。煮立ったら火を消す。 2. 1.のものを冷ます。それに卵を加えて、ミキサーで混ぜる。 3. 小麦粉に重曹を混ぜて、混ぜた粉を皿にふり、2.に少しずつを加えて混ぜる。 4. 生地を一晩冷蔵庫に置いておき、次の日、生地を厚さ2-3mm位に伸ばして、型でクッキーを抜く。 5. クッキーを180―200℃のオーブンで6-7分位焼く。 6. アイシングを作る。ボールに粉砂糖を入れて、それに少しづつ水で薄めたレモン汁を入れて、良く混ぜる。アイシングをビニール袋に入れて、袋の一つの角に小さく切って、アイシングを絞りだす。
アドベントという「待降節」に入りました。アドベントはクリスマス 前の4週間を意味します。12月1日からは、このホームページで「エートゥ君、おじいさんとアドベントの天使たち」というクリスマスカレンダーを公開します。大人も子どももみんな、 カレンダーの物語を読みながらクリスマスを楽しんで迎えましょう。
文・写真:パイヴィ・ポウッカ
主日礼拝説教 2020年12月13日(待降節第三主日)
説教動画を見る
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課は先週に続いて洗礼者ヨハネに焦点が当てられています。ヨハネは来るべきメシア救世主を人々が迎え入れるように導いた人です。少し歴史的なことを述べておくと、彼はエルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、ルカ1章によればイエス様より半年位早くこの世に誕生しました。神の霊によって強められて成長し、ある時からユダヤの荒れ野に身を移して神が定めた日までそこにとどまっていました。らくだの毛の衣を着て腰には皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。神の定めた日がきて神の言葉がヨハネに降り、荒れ野からヨルダン川沿いの地方に出て行って「悔い改めよ、神の国は近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の群衆がユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネに罪を告白し洗礼を受けました。ルカ3章によれば、それはローマ帝国皇帝ティベリウスの治世15年、ポンティオ・ピラトが帝国のユダヤ地域の総督だった時でした。皇帝ティベリウスはイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の人で西暦14年の9月に即位しました。治世15年というのは即位年を含めて数えるのかどうか不明なので、洗礼者ヨハネの活動開始は西暦28年か29年ということになります。
ヨハネは活動開始してからまもなく、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスの不倫問題を諫めたことが原因で投獄され、無残な殺され方をします。
ヨハネのもとに大勢の群衆が集まって罪を告白して洗礼を受けました。先週も申し上げましたが、当時の人々は旧約聖書に預言されている「主の日」と呼ばれる日がついに到来したと考えたのでした。「主の日」とは旧約聖書の預言書によく出てくるテーマで、神がこの世に対して怒りを示す日、想像を絶する災いや天変地異が起こって神の意思に反する者たちが滅ぼされる日です。しかし、その後に全てが一新されて天と地も新しく創造されるので、「主の日」は今の世が新しい世に変わる過渡期とも言えます。洗礼者ヨハネの宣べ伝えを聞いた人々はいよいよその日が来たと思い、神の怒りや天変地異から助かろうと、罪を告白して罪から清められようと洗礼を受けたのでした。
当時の人たちがそういう終末論的な恐れを抱いていたことは、本日の福音書の個所の中でも窺えます。当時のユダヤ教社会の宗教指導者たちがヨハネに、あなたは預言者エリアかと尋ねます。これは、旧約聖書のマラキ書3章の預言に関係します。エリアはイエス様の時代からさらに800年位前に活動した預言者で、列王記下2章に記されているように、生きたまま天に上げられました。マラキ書の預言のためにユダヤ教社会では神は来るべき日にエリアを御自分のもとから地上に送られると信じていました。しかし、洗礼者ヨハネは、自分はエリアではない、ましてはメシア救世主でもない、自分はイザヤ書40章に預言されている、「主の道を整えよ」と叫ぶ荒れ野の声である、と自分について証します。つまり、神の裁きの日やこの世の終わりの日は実はまだ先のことで、その前に、メシア救世主が来なければならない。自分はその方のために道を整えるために来た。そうヨハネは自分の役割について証しました。
先週の説教でもお教えしたように、ヨハネはヨルダン川の水で洗礼を授けました。それは清めのジェスチャーのようなもので、罪の赦しそのものが起こる洗礼ではありませんでした。先週の日課のマルコ1章の中でヨハネも認めたように、それが起こるためには聖霊が伴わなければならなかったのです。聖霊を伴う洗礼を授けられるのは自分の後に来られるメシア救い主しかいないのだ、と。ヨハネは人々に罪の自覚を呼び覚ましてそれを告白させ、すぐ後に来るメシアの罪の赦しの洗礼に備えさせたのです。その意味でヨハネの洗礼は、人々を罪の自覚の状態にとどめて後に来る罪の赦しに委ねるためのものであったと言えます。罪を告白して水をかけられてこれで清められたぞ!というのではありません。罪を告白したお前は罪の自覚がある、それを聖霊の洗礼を受ける時までしっかり持ちなさい。その時本当に罪を赦されたお前は神の子となり、「主の日」に何も心配することはなくなるのだ。このようにヨハネの洗礼は罪を洗い清める洗礼ではなく、人々を罪の自覚に留めて聖霊を伴うメシアの洗礼を今か今かと待つ心にするものでした。それで、ヨハネは人間に主の道を整えさせる働きをしたのでした。それで、聖霊を伴う洗礼を授けるメシア救世主の前では自分は靴紐を解く値打ちもないとへりくだったのでした。
洗礼者ヨハネの活動は普通は、イザヤ書40章3節の預言が実現したものと見なされます。それは、「荒れ野で叫ぶ声がする」と書いてあるので、ヨハネがユダヤの荒れ野で叫ぶように宣べ伝えたことと重なるからです。ところが、先週の説教でも見ましたように、そのように書いてあるのは旧約聖書のギリシャ語版で、ヘブライ語版はそう書いてありません。叫ぶ声はただの叫ぶ声で、荒れ野で叫ぶとは言っていません。「荒れ野」は、主の道を整える場所になっています。ギリシャ語版では、荒れ野で叫ぶ声がして、その声が「主の道を整えよ」と叫んでいる。ヘブライ語版では、叫ぶ声が「荒れ野で主の道を整えよ」と叫んでいる。どうしてそんな違いがあるのかということについて、先週も少し申しましたが、旧約聖書がどのようにして出来たかという大問題にかかわるので時間の限られた説教では割愛します。大事なことは、大元にあるヘブライ語の旧約聖書はどちらにでも取られる書き方をしていたということです。
ギリシャ語版に基づいて見ていくと、洗礼者ヨハネは荒れ野で「主の道を整えよ」と叫んで、人々に罪の自覚を呼び覚ましました。そして、来るべきメシア救世主から聖霊を伴った洗礼を受けられるように導きました。罪の自覚とメシアの洗礼の待機の印としてヨハネの洗礼がありました。このようにしてイザヤ書40章3節の預言は実現しました。
それでは、人々はどのようにして聖霊を伴うメシアの洗礼を受けるようになったのでしょうか?イエス様がゴルゴタの丘で十字架にかけられて死なれ、その3日後に神の想像を絶する力で復活させられるという出来事が起きました。イエス様の復活を目撃した弟子たちは、これで彼の十字架の死がなぜ起こったかがわかりました。それは、神のひとり子が人間の罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったということでした。そのことは実は旧約聖書に既に預言されていて、それらの預言が何を意味するのかがイエス様の十字架と復活の出来事で明らかになったのでした。
神がひとり子を用いて十字架の死と死からの復活の出来事を起こしたのは、人間が堕罪の時以来失ってしまっていた神との結びつきを取り戻せるようにするためでした。人間が、これらの出来事は自分のために神がなさせたものだったのだとわかって、それでイエス様こそ救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。これがメシア救い主イエス様の洗礼です。それを受けた人は罪を償われたので、神から罪を赦されたと見てもらえるようになります。神から罪を赦されたので神との結びつきを持って世を生きていくことになります。目指すところはただ一つ、永遠の命と復活の体が待っている天の御国です。イエス様の死からの復活が起きたことで、そこに至る扉が開かれて、キリスト信仰者はそこに至る道に置かれてそこに向かって歩み出します。順境の時にも逆境の時にも変わらずにある神との結びつきを持ってただひたすら進んでいきます。
ところが、罪を赦された者と見なしてもらえるとは言っても、信仰者から罪の自覚がなくなったわけではありません。神がそれだけ身近な存在になれば、神の意思もそれだけ身近になって自分には神の意思の沿わないことが沢山ある、罪があるということに一層気づかされるようになります。行為では盗みも殺人も不倫も偽証や改ざんなどしていなくても、心の中でそのようなことを思い描いたりします。その時、神はがっかりして愛想を尽かして見捨てるかと言うと、そうはならないのです。どうしてかと言うと、洗礼の時に注がれた聖霊が信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、罪の赦しが微動だにせずあることを示してくれるからです。神のひとり子のとても重い犠牲の上に今の自分があるとわかると、もう軽々しいことはできないという気持ちになります。また今自分が生きている新しい命は微動だにしない十字架を基にしているので、自分の過去の嫌なことが来て台無しにしようとしても傷一つつけられません。傷は全部イエス様が代わりに負って下さったのです。それがわかると心は安心し平安が得られます。
罪の自覚の呼び覚ましとその後に続く罪の赦しが一つになっているというのは聖霊の働きです。聖霊が働かなければ罪の自覚は生まれません。自覚が生まれないと罪の赦しもありません。また罪の自覚が生まれても、赦しがなかったらそれは絶望にしかなりません。それは聖霊の働きではありません。罪の自覚と赦しが一つになっているのが聖霊の働きだからです。なぜ聖霊はそのような働きをするのかというと、これを繰り返すことによって信仰者と神の結びつきが一層強まっていくからです。人間が神と結びつきを持てて、それを強めるようにすることが聖霊の目的だからです。そのような聖霊は、まさにイエス様が贈られた洗礼を通して与えられるのです。
聖霊が働くままにさせて神との結びつきが強まっていけば、内に宿る罪は行き場を失い圧し潰されていきます。罪の本質は、人間と神の間の結びつきを失わせて、人間を永遠の滅びに陥れることにあります。そのような罪を悪魔は用います。それは、悪魔の目的が、人間と神の間の結びつきをなくして人間を永遠の滅びに陥れることにあるからです。しかし、キリスト信仰者は、罪には結びつきを失わせる力がなくなっているとわかっています。なぜなら神のひとり子が死なねばならないくらいに神罰を十字架で受けたのですから。十分過ぎるほどの償いはなされたのです。しかも、イエス様は死から復活させられたので、彼に罪を償ってもらった者には罪は本当は力を及ぼせないのです。それがわかったキリスト信仰者は罪に対して、こう言ってやればいいのです。「罪よ、お前は本当は死んでいるのだ。」
人間と神との結びつきを弱めるものとして、罪の他に私たちが遭遇する苦難や困難もあります。そのような時、人は、神に見捨すてられた、とか、神は怒っている、などと思いがちです。イエス様の犠牲を脇に置いて自分が何かをして神を宥めねばと何かをやってしまったり、または、見捨てられたからもう神と関りは持たないという考えになりします。しかし、神のひとり子が死なねばならないくらいに神罰を受けたという、それくらい神が私たちのことを思って下さったのなら、見捨てたとか怒っていると考えるのは間違いです。それならば、なぜ苦難や困難があるのか?どうして神は苦難や困難が起きないようにして下さらなかったのか?難しい問いです。しかし、苦難や困難がもとで私たちが神から離れてしまったら、それは悪魔や罪が手を叩いて喜びます。それなので、今こそ苦難や困難を、神との結びつきを失わせるものから、結びつきを強めるものに変えないといけません。でも、どうやって苦難や困難を神との結びつきを強めるものに変えることができるでしょうか?とても難しい問題です。一つはっきりしていることがあります。それは、神との結びつきがあれば人生は順風満帆になるという考えは捨てることです。そのかわりに、神との結びつきは順境の時も逆境の時も同じくらいにある、外的な状況や状態に全然左右されないである、ということはうよく言い聞かせることです。ゴルゴタの十字架と空っぽの墓に心の目を向けながら、言い聞かせをすることです。
キリスト信仰者の生き方は罪の自覚と赦しの繰り返しをして神との結びつきを強めていくことであると申し上げてきました。しかしながら、そう言うと今度は、この世にはいかに神との結びつきを弱めたり失わせることが沢山あることに気づかされます。それなので、神との結びつきを失わせようとする力が働くこの世は闇と言うのは間違いではありません。そうすると、神との結びつきを持たせよう強めようとする力は光となります。この闇と光についてヨハネ福音書の本日の日課のひとつ前の個所で述べられています。
それは1節から8節までの個所です。そこではイエス様が乙女マリアから生まれて人間の体を持って誕生する前のことが述べられています。この世に誕生する前の神のひとり子には人間の名前はありません。「イエス」という名は誕生した後でつけられた名前です。この世に誕生する前の神のひとり子のことを福音書の記者のヨハネはギリシャ語で「言葉」を意味するロゴスと呼びました。神のひとり子が神の言葉として天地創造の場に居合わせて創造の働きを担ったことが述べられます(2~3節)。その後で、この神の言葉なる者には命があると言います(4節)。ヨハネ福音書で「命」と言ったら、死で終わってしまう限りある命ではなく死を超える永遠の命を意味します。神の言葉なる者には永遠の命が宿っているということです。そして、永遠の命は「人間の光」であると言います(4節)。新共同訳では「人間を照らす光」と訳していますが、ギリシャ語原文を直訳すると「人間の光」です。その「人間の光」が闇の中で輝いていると言います(5節)。闇とは先ほども申しましたように、神と人間の結びつきを失わせようとする力が働くこの世です。その中で輝く光とは、その結びつきを人間に持たせて強めようとする力のことです。まさにイエス様のことです。それで「人間の光」とは、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにする光、この世を去った後は永遠の命が待っている神の国に迎え入れられるようにする光、まさに「人間のための光」でイエス様そのものです。
5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とあります。実はこれは解釈が分かれるところです。というのは、原文のギリシャ語の動詞カタランバノーがいろんな意味を持つからです。日本語(新共同訳)と英語(NIV)の訳は「暗闇は光を理解しなかった」ですが、フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語の訳では「暗闇は光を支配下に置けなかった」です。悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持っているか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解して、日本語や英語のように訳してもいいかもしれません。しかし、悪魔は罪を最大限活用して人間から神との結びつきを失わせようとしても、それはイエス様の十字架と復活によって完全に破綻してしまったのだから、やはり暗闇は光を支配下に置けなかったと理解するのがいいのではないかと思います。
さて、福音書の記者は洗礼者ヨハネのことを、この光を証しするために遣わされたと言います(6~8節)。人々はヨハネ自身がその光ではないかと思ったが、そうではなくヨハネは人々の前で、もうすぐその光が現れると表明したのでした。
この光がどれだけ素晴らしいものか、今まで申し上げたことではまだ抽象的すぎて遠い感じがすると言う人もいらっしゃるかもしれません。それならば、もう少し具体的に身近に感じられるようにお話ししてみましょう。
今はクリスマスシーズンということで、あちこちにイルミネーションが見られます。どれも冬の闇夜を照らし出して美しく華やかです。ネットを見ると、どこのイルミネーションがきれいかランキングなんかもあります。私たちの家族もそれを見て今年はどこのを見に行こうかなどと話し合って出かけます。今年は人が多いところは行けませんが。とにかくイルミネーションは闇と光のコントラストを浮き上がらせ、私たちは闇の方は忘れて光の方に目を奪われます。
闇というものを私たちは怖いもの危ないものと思います。光がない状態で暗闇の中を歩いたら何かにぶつかって転んでしまいます。また周囲に何か潜んでいるのではと思うと怖いです。しかし、この闇というものは、人を怖がらせたり危険に陥れようという目的も意図も持っていません。転ぶのは人間がライトを持たずに歩いたという不用意によるものです。闇はただ光がないという物理的な現象にしかすぎません。同じように光も人間を助けてあげようとか安心させてあげようという目的も意図も持っていません。人間がそれを利用して安全と安心を確保しようとするのです。イルミネーションも同じで、それを考案して飾り付ける人がこうしたらみんなが感動するだろう注目するだろうと考えて飾ります。イルミネーションの光自体はそのような目的も意図も持っていません。人間が自分の目的のために利用しただけです。
ところが、ヨハネ福音書の1章で言われる闇と光は違います。それ自体が目的と意図を持っているのです。闇の目的は、人間から神との結びつきを失わせようとすることです。そして、その闇が支配下に置けなかった力強い光は、まさに人間から失われていた神との結びつきを取り戻してあげることを目的としています。取り戻したらそれが失われないようにし一層強められるようにする目的を持っています。
その光は、イエス様の十字架と復活によって現れました。それは闇が支配下に置けない位、力強い光です。
なぜなら、闇が死に至らせる力に過ぎないのに対して、イエス様の光は死を超えた永遠の命に至らせる力だからです。
それなので、キリスト信仰者は、冬の闇夜を照らすイルミネーションを見た時、目的を持たない光がこれだけ素晴らしいのならば、私たちのために目的を持つ光の素晴らしさはいかほどのものだろうと予感し期待に胸を膨らませることができるのです!
穏やかな12月の土曜日、 家庭料理クラブは、大人気のクリスマスのお菓子、ピパルカックとヨウルトルッティを作りました。
最初にお祈りをして始まりです。
沢山のスパイスの入ったクッキー、ピパルカックの香りは、教会中に溢れ、可愛く焼き上がったヨウルタルトと、クリスマスの暖かな飲み物のグロッギがテーブルに並ぶと、クリスマスが近いことを感じ、嬉しい気持ちになりました。
パイヴィ先生からは、ピパルカックのお話や、聖書のお話を聞かせて頂きました。
皆様、素敵なクリスマスをお過ごし下さい。
フィンランドの伝統的なクリスマス料理は種類がとても豊富です。クリスマスの季節になると、どの家庭でもクリスマス料理やお菓子の準備をします。今日皆さんが作られたピパルカックとヨウルトルットゥは、フィンランドの伝統的なクリスマスのお菓子です。今日はピパルカックについてお話したく思います。
フィンランドでは、クリスマスが近づくと家中にクリスマスの香りがすると言われます。クリスマスの香りとは、どんな香りでしょうか?普通それはピパルカックの香りです。ピパルカックを焼いているとき、シナモンなどのスパイスの香りが家中に拡がるからです。
ピパルカックは伝統的なクリスマスクッキーですが、フィンランドでどのように始まったでしょうか?このことを調べたら、ピパルカックは実はフィンランドのものではなく、フィンランドに伝わってきたものということがわかりました。ピパルカックのもとは昔エジプトではちみつで作られたクッキーでした。それが水兵を通してエジプトからヨーロッパに伝わって、ドイツで今のものに近いものが作られるようになりました。ドイツではちみつの代わりにお砂糖を使い、バターと香辛料を生地に入れるようになりました。ドイツからフィンランドに伝わって、最初は修道院で作られました。修道院で作ったピパルカックは普通の人々に売られ、利益は修道院の収入になりました。レシピは牧師館にも伝わってそこでも作られるようになりました。レシピは非公開で普通の人たちには教えないようにしていましたが、メイドのエプロンのポケットを通して一般の家庭にも伝わっていきました。1800年頃から一般の家庭でも作られ始めて、クリスマスのクッキーの一つになりました。
現在ピパルカックのレシピはいろいろあります。材料は大体同じですが、材料の量やスパイスは変化します。それでピパルカックの名前も変わります。例えば「おお祖母さんのピパルカック」とか「昔のピパルカック」などがあります。今日のレシピは「パライステン・ピパルカック」です。1920年頃トゥルクの近くのパライネンという町から始まったレシピです。
クリスマスの前にピパルカックを作るとクリスマスの雰囲気が高まります。クリスマスにはほかにもいろんな準備をしてクリスマスの雰囲気を作っていきます。クリスマスの準備は料理やお菓子だけではなく、飾りつけやイルミネーションもあります。クリスマスの季節はフィンランドでは一年で最も暗い季節なので、クリスマスの準備をすることやイルミネーションを付けることで人々の気持ちも周りも明るくなります。「クリスマスは光のお祝い」という言い方もあります。しかしクリスマスの本当の光はクリスマスの準備やイルミネーションの中にはありません。それはどこにあるでしょうか?
旧約聖書のイザヤ書に光について次のように書いてあります。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝く。」イザヤ書9章1節です。これは、天と地と人間を造られた神様がイスラエルの民に語った言葉です。どんな意味でしょうか?イスラエルの民は神様の前で悪いことを沢山していたので、それは暗闇の中を歩むことと同じでした。しかし天の神様はイスラエルの民が光を見て歩めるようにしてあげようと、その気持ちを預言者イザヤに伝えました。それはどんな光でしょうか?神様は特別な人を私たちに送られて、その人が光輝く人になるとイザヤは言いました。この「光」は周りがよく見えるようになるための光ではなく、もっと深い意味ある光です。この光は2千年前の初めてのクリスマスの夜に現れました。その時、神様のひとり子イエス様がベツレヘムの馬小屋で生まれたのです。イエス様はこの世の光としてお生まれになりました。イザヤの預言が実現したのです。
現在の私たちはかつてのイスラエルの民と同じように神様の前で悪いこと罪を犯します。私たちも暗闇の中で歩んでいるのです。だからイザヤの預言は私たちにも向けられていて、神様のひとり子イエス様は私たちにも光としてお生まれになったのです。天と地と人間を造られた神様が私たち人間を救うためにひとり子のイエス様をこの世に送ってくださいました。イエス様は私たち人間の悪いこと罪を全部十字架の上まで背負って、そこで神様の罰を受けて死なれました。そして3日後に神様の力で死から復活されました。イエス様の十字架と復活のおかけで、世界中のみんなの罪が全部許される道が開けました。そしてこの世でも、またこの次の世でも、いつも永遠に神様が私たちとともにいて下さるようになりました。私たちはこのことを信じて受け入れると、私たちは心の中にイエス様の光をいただくのです。一番初めのクリスマスの時に天使が野原で羊の番をしていた羊飼いに現れて、イエス様がお生まれになったことを一番初めに彼らに知らせました。天使が羊飼いたちに現れた時、「主の栄光が回りを照らし」ました。イエス様を信じて受け入れると、私たちも神様の栄光の内に毎日歩むことができます。
ピパルカック、ヨウルトルットゥ、イルミネーションはクリスマスの雰囲気を暖かくします。しかし、イエス様がこの世に光としてお生まれになったという知らせは本当のクリスマスの喜びを与えて、私たちの心を温め、私たちが歩む道を毎日照らしてくれます。今年のクリスマスが皆さんにとって光のクリスマスになりますように。
主日礼拝説教2020年12月6日 待降節第二主日
1.
先週の主日にキリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。今日は教会の新年の二回目の主日です。新年開始からクリスマスまで、4つの主日を含む4週間程の期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救世主のこの世への降臨を待つ期間です。カタカナ語ではアドヴェントと言います。この期間、私たちの心は、2000年以上の昔に起こった救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救世主を送られた神に感謝し賛美しながら、降臨した救世主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。
待降節やクリスマスは、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、キリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。つまり、私たちは、2000年以上前に救世主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、イエス様の第一回目の降臨に心を向けつつも、未来の再臨にも心を向ける期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、今年も終わった、それじゃまた来年、と済ませるのではなく、毎年過ごすたびに、ああ、主の再臨がまた一年近づいたんだ、と身も心もそれに備えるようにしていかなければなりません。イエス様は再臨の日がいつかは誰にもわからないと言われました。彼が再臨する日というのは、今のこの世が終わる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつであるかは、父なるみ神以外には知らされていません。それで、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。
もちろん、私たちはこの世では、神から取り組みなさいと与えられた課題がいろいろあります。世話したり守るべきものがあればそうする、改善すべきことがあればそうする、解決が必要な問題があれば解決に努める。先週の説教でも触れましたが、宗教改革のルターも教えるように、キリスト信仰者というのは、片方ではそうしたこの世でしなければならないことをし、片方では主の再臨を待ち望む心を持っているのです。その心を持っていることが目を覚ますことです。
とは言え、イエス様の再臨というのは実は気が重いものです。最初の降臨は神のひとり子が人となってベツレヘムの馬小屋で赤ちゃんになって生まれたという、一見おとぎ話みたいで可愛らしい出来事です(本当はそうではないのですが)。ところが、再臨となると先ほど申しましたように、この世の終わりとか、最後の審判とか死者の復活とか想像を絶する出来事がつきまといます。先ほど朗読した第二ペトロの日課の個所でも、創造主の神が今ある天と地に代えて新しい天と地に造り直すことが預言されていて、「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去る」などと言っています。誰もそんな日が来ることを望まないでしょう。
しかし、キリスト信仰者は、そのような日に目を背けず、それは自分にとって大事なことと考えます。先週の説教でもお教えしましたが、イエス様を救い主と信じ洗礼を通して聖霊を注がれたキリスト信仰者は、自分には神の意思に反するもの、すなわち罪があると自覚しています。それで、それを神の前で認めて赦しと清めを願います。そうすると神は、イエス様の十字架の犠牲の死に免じて赦して下さいます。キリスト信仰者の人生は、この世を去るまではこうした罪の自覚と赦しの繰り返しです。しかし、そうすることで神との結びつきが強まっていき、内にある罪が圧し潰されていきます。そして、その繰り返しが終わる日が来ます。それがイエス様の再臨の日なのです。神から、お前は罪を圧し潰す側についていた、と認められると、神の栄光を映し出す復活の体を与えられて神の御国に迎え入れられます。もう罪の自覚を持つ必要はありません。
それから、この世で罪を圧し潰す側について生きると、いろいろ損することや不利益を被ることが出てきます。この世は、別に大勢に影響ないからいいのだとか、誰も見ていない、多くの人がやっているからいいのだとか、果ては、神はそんな厳しいことは言っていない、などと言います。せっかくイエス様の犠牲と復活のおかげで新しい命を得て、神と結びつきを持って生きられるようになったのに、この世はそれを失わせようとします。しかし、パウロがローマ12章で教えるように、キリスト信仰者は不利でも損でもいいからこの世の基準に倣わないで生きていきます。そして、イエス様の再臨の日に全てが逆転します。なにしろ、基準を出してくるこの世そのものがなくなってしまうのですから。今のこの世で神の意思に従って損していたことが、次に到来する世では得になります。逆もまたしかりです。
以上のことを思えば、キリスト信仰者にとって主の再臨とはやはり待ち望むに値するものであると言ってもよいでしょう。
2.
前置きが長くなりました。今日の福音書の日課を見ていきましょう。洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場したことが記されています。福音書の記者のマルコは、洗礼者ヨハネの登場はイザヤ書40章3節の預言の実現であると考えて、それを引用して書きました。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
聖書を注意深く読む人は、あれ、これはさっき読んだ引用元のイザヤ書40章3節とちょっと違う、と気づくでしょう。実はこれは少し大きな問題なので、後で改めてお話しします。いずれにしても、マルコは荒れ野で「主の道を整えよ」と叫ぶ声は洗礼者ヨハネのことだったと見なしたわけです。
洗礼者ヨハネが人々に命じた、主の道の整え、道筋を真っ直ぐにすることとはどんなことだったのでしょうか?ユダヤ地方やエルサレムの町から大勢の人が来てヨハネに罪を告白してヨルダン川の水で洗礼を受けました。これが主の道を整えることでした。マタイ福音書やルカ福音書を見ると洗礼を受けに来た人は皆、神の怒りを恐れていたことがわかります。旧約聖書の至る所に「主の日」と呼ばれる日の預言があります。それは神が人間に怒りを表す日で、神の意思に反する者を滅ぼし尽くし、大きな災いや天変地異が起こる時として言われています。イザヤ書の終わりではそれこそ創造主の神が今ある天と地を終わらせて新しい天と地を創造する日のことが預言されています。人々はヨハネの宣べ伝えを聞いて、いよいよその日が来たと思ったのです。それで神の怒りが及ばないようにと、そのような大変動から助かろうと、それでヨハネのもとに来て、罪を告白して「罪の赦しに導く」悔い改めの洗礼を受けたのです。水を浴びるので罪から清められることを象徴しました。
ところが、ヨハネは洗礼を授けたものの、自分の後に来る方つまりイエス様が本当に神の怒りが及ばないようにする力がある方だと言います。そのためには洗礼に聖霊が伴わないとだめなのだが、自分の洗礼にはそれがなくイエス様の洗礼にはあると認めるのです。どうしてイエス様の洗礼には神の怒りが及ばないようにする力や来るべき大変動を乗り越えさせる力があるのでしょうか?それは、イエス様の洗礼には、彼がゴルゴタの十字架で自分を犠牲にして人間の罪を神に対して償ったという、罪の償いをその人に注ぎ込むものだからです。洗礼を受けた人はイエス様に罪を償ってもらったことになるので、神からは罪を赦された者として見てもらえます。神から罪を赦されたので神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。
さらに、イエス様は死から3日後に神の途轍もない力によって復活させられました。これによって、死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る扉も開かれました。洗礼を受けた者は、永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてそれを歩むことになるのです。その道の歩みで、先ほども述べたように、罪の自覚と赦しを繰り返しながら進み、主の再臨の日が来ると、罪を圧し潰す側にいて生きていたことを認められて神の国に迎え入れられます。イエス様の洗礼にはそのような力があるのです。彼の洗礼に聖霊が伴うということについて。聖霊とはそもそも洗礼を受けた者が罪の自覚を持つようにと促し、自覚を持てば今度は心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて罪の赦しが微動だにせずにあることを知らせてくれる方です。それで聖霊が伴わなければ、罪の自覚は生まれず、罪を圧し潰す生き方も出来ません。逆に、罪の自覚は生まれても心の目をゴルゴタの十字架に向けさせることがなかったら、絶望に陥ってしまいます。そのように聖霊は信仰者が神との結びつきを失わずにそれを一層強める働きをして、信仰者を主の再臨の日に備えさせてくれるのです。
ヨハネの洗礼にそのような力も聖霊もなかったのならば、なぜ彼は洗礼を授けたのでしょうか?それは、神の怒りの日を覚えて自分の罪を自覚した人たちの悔恨を受け止めて、彼らが絶望に陥らないように、すぐ後に救い主が来るとことに心を向けさせる印でした。その意味で、ヨハネの洗礼はまさしく来たるべき救い主を迎える準備をさせるものでした。各自がイエス様を大手を拡げてお迎えできるように、心の中に道を整えて道筋を真っ直ぐにすることでした。
3.
そうすると、イザヤ書の預言は洗礼者ヨハネがユダヤ地方やエルサレムの人たちに、イエス様を迎える準備の洗礼を授けたことで完結したことになります。ところが、預言はそこで完結していないのです。
イザヤの預言をよく見てみましょう。マルコが引用した預言はこうでした。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
引用元のイザヤ書40章3節はこうです。
「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」
よく見比べると、マルコの引用では、叫ぶ声は荒れ野で叫ぶことになっています。引用元は、声の場所はどこと言っていません。「荒れ野」は声がする場所ではなくて、道を備える場所が荒れ野です。マルコの引用では、主の道を整える場所はどことは言っていません。「荒れ野」はあくまで声がする場所です。それなので、この声はユダヤの荒れ野で叫んでいた洗礼者ヨハネを指すことになったのです。ところが引用元の文では、声がする場所は何も言われていません。それでもし、これをそのまま引用してしまったら、叫ぶ声がヨハネの声だと自信をもって言えなくなります。さて、マルコは、叫ぶ声の主が洗礼者ヨハネだと言いたいがために、元の文を改ざんして「荒れ野」という言葉を「道の整え」から切り離して「声」の方にくっつけたのでしょうか?イエス様にまつわる出来事はみんな旧約聖書の預言の実現だと言いたいがためにそういう小細工をしたのでしょうか?
そういうことではないのです。イザヤ書のヘブライ語の原文を見ると、確かに、声がする場所は何も言われていません。「荒れ野」は主のために道を備える場所です。マルコの引用では「荒れ野」は声がする場所になっています。実を言うと、マルコはイザヤ書のこの個所をギリシャ語版の旧約聖書に拠っているのです。旧約聖書にはヘブライ語版だけでなくギリシャ語版もあるというのは、紀元前4世紀にギリシャ系のアレクサンダー帝国が地中海地域の東半分を征服して、地域のギリシャ語化が進んだことが背景にあります。ヘブライ語よりもギリシャ語がわかるユダヤ人のために旧約聖書がギリシャ語に翻訳されたのでした。イザヤ書40章3節で「荒れ野」が叫ぶ声の場所になっているというのはギリシャ語版なのです。
そうすると、翻訳者が間違ったのかと言うと、そうとも言えないのです。これはヘブライ語の旧約聖書がどのようにできたかという大問題になるのでここでは立ち入りません。簡単に言うと、翻訳者たち(伝説では70人いた)が目の前にした、動物のなめし皮に刻まれたヘブライ文字の羅列はどっちにも取れる書き方だったのです。「荒れ野に」(במדבר)という言葉は、叫び声がする場所と見ることも出来たし、道を整える場所とも見ることも出来たのです。(私個人の感想では、ヘブライ語のテキストを何度も見るとやはり、道を整える場所ではないかなと思われるのですが、でも声の場所も捨てがたく、とても悩ましいところです。)
そういうわけで、マルコはギリシャ語版に忠実に従っただけで、翻訳者たちも間違いを犯したわけではないことがわかります。そうすると、イザヤ40章3節は、叫び声が荒れ野でしたと言って、それが洗礼者ヨハネを指し、彼の活動をもって実現したということになります。そうなると、この預言は過去に完結したことになって後世には関係ないことになります。しかし、実はそうではないのです。もう一つの理解の可能性、「荒れ野」は主の道を整える場所と考えたら、現代を生きる私たちに関わる預言になるのです。
4.
イザヤ書40章から55章までの部分は額面通りに取ると、紀元前6世紀にバビロン捕囚の憂き目にあったユダヤ民族の祖国帰還を預言する内容になっています。荒れ野に道を整えるというのは、まさに中近東の荒野を通って、蜜と乳が溢れる祖国に帰還する道ということになります。40章2節で、民の苦役の時は満了になった、民は犯した罪に対して二倍の苦汁をなめたのでその償いは十分過ぎるほど果たした、ということが言われています。これは、イスラエルの民がかつて神に背き続けて罰として国滅ぼされ異国の地に連行されて辛酸をなめたことを指すと普通は解されます。このようにイザヤ書40章の預言は、バビロン捕囚期のユダヤ民族からすれば、もうすぐ祖国帰還が近いという希望の預言でした。それは実際に紀元前6世紀の終わりにその通りになりました。
ところが、祖国に帰還できてエルサレムに神殿を再建したものの、ユダヤ民族は立て続けに大帝国の支配下に置かれ続けました。ダビデの子孫が王となって諸国民が創造主の神を崇拝に集まって来るという預言には程遠い状況でした。しかも、エルサレムの神殿で行われる神崇拝は本当に神の意思に沿うものか疑問視する見方も強まりました。それで、イザヤ書の預言は祖国帰還なんかで実現したのではなかった、40章5節で荒れ野に主の道を整えると全ての人の目の前に主の栄光が現れるという預言はまだ実現していない、だから道を整えるというのは過去の祖国帰還のことではなく、もっと別の大きなことなのだという理解になっていきます。イザヤの預言で神が意図したのはそれだったのです。まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場したのです。
イエス様の十字架の死と死からの復活の後で、イザヤ書の預言は特定民族の歴史上の期待を超えた、もっと大きな普遍的なことを意味していたことが明らかになりました。全ての人間が万物の造り主の神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにと、この世を去った後は復活の日に目覚めさせられて永遠の命が待つ神の国に迎え入れられるようにと、そのために神のひとり子が私たちに贈られました。そのひとり子が私たち人間に代わって罪の償いを神に対して果たしてくれて、死を超えた永遠の命に至る扉を開いて下さったのでした。イザヤ書40章の冒頭で、罪の罰を倍以上受けて神にそれでもう十分と受け入れられたことが言われていました。これはまさしく、神のひとり子の神聖な犠牲の死のことだったのです。
洗礼者ヨハネが人々に道を整えよと命じたのは、心にイエス様を迎える準備をしなさいということでした。そのために罪の自覚を抱かせて、救い主を受け入れるしかないという心にして、もうすぐ聖霊を伴って洗礼を授ける方が来られるので心配しないで待ちなさい、というものでした。
私たちキリスト信仰者にとって、主の道を整えるというのは、本説教の最初でも申しましたような、罪の自覚と赦しを繰り返しながら神との結びつきを強め罪を圧し潰していく生き方をすることです。その時、この世がいろいろなことを言って、そのような生き方から離れさせようとします。それでこの世はまさしく主の道を整える場所なので、「荒れ野」になります。この世の中で神との結びつきを強める生き方をすることが、荒れ野の中で主の道を整えることになります。だから、イザヤ書40章3節の預言は私たちに向けられた預言なのです。そのようにしてこの世という荒れ野を進む私たちを父なるみ神は守って導いて下さることもイザヤ書40章で次のように約束されています。
10節「見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。」主のかち得られたもの、主の働きの実りとは、イエス様が果たしてくれた償いを洗礼を通して自分のものとしたキリスト信仰者のことです。それがこの世にあって御もとに従い、御前を進むのです。
11節「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって小羊を集め、懐に抱き、その母を導いて行かれる。」神との結びつきを持って生きる者は、このように守られて導いてもらえるということです。それでは、どこに導いてもらえるのか?罪を圧し潰す側についていれば、この世が仕掛ける障害物はみな、谷が埋められ山と丘が平らにさせられるように倒されて行きます。そして最後に、
5節「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に(יחדו同時に)見る。」罪を圧し潰す側にいた者も、それを邪魔した者もみな一緒に主の栄光を見る日が来ます。その日はまさにイエス様の再臨の日です。
ここで一つ忘れてはならない大切なことがあります。本日の使徒書の日課第二ペトロで言われていたように、神の意思は多くの人がイエス様の救いに与り、罪を圧し潰す生き方に入れるようにすることです。そのために再臨の日を延ばしてくれているのです。でも、それはいたずらに延ばすことでもないと言われています。まだイエス様を救い主と信じておらず洗礼を受けていない人たちが、洗礼者ヨハネの呼びかけに応じた人たちのように心の中で主を迎え入れる準備が出来るように、父なるみ神に祈らなければなりません。
6、7節「人間は全て草のよう。その華やかさ威光は野の花のよう。草は枯れ、花は散る。なぜなら神の一息が吹きかけられたからだ。」人間はそのままの状態では神の前に立たされる時、枯れて散ってしまうだけです。
8節「草は枯れ、花は散る。しかし、神の言葉は永遠に保たれる。」この永遠に保たれる神の言葉を自分のものとする者は枯れることもなく散ることもなく、同じように永遠に保たれます。「神の言葉」とは、イエス様を介して永遠の命に至るという福音であり、またヨハネ福音書の冒頭で言われるようにイエス様そのものなのです。