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説教 「聖書の神が私の神になる時、私は復活の日に復活させられる」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書20章27-40節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.「復活」はしつこいテーマか?

本日の福音書の箇所は、復活という、キリスト信仰の中で最も大切な事の一つについて教えるところです。復活というのは、人間はこの世から死んだ後どうなるかという問いに対する聖書の答えの核心です。本教会の礼拝説教でも何度も取り上げてきました。本日の個所では、復活をまた別の角度から見ていくことになります。同じ事柄ですが、いつもいろんな角度から見ていくことで全体像がはっきりしてきます。

復活は、人間は死んだらどうなるかという問題に関わります。それで、死ぬだの復活だの、どうしていつもそう暗い話ばかりするのか、もっと明るい話題を取り上げてみんなをハッピーにするのが宗教の役割ではないか、と煙たがられるかもしれません。特に最近は今月初めに全聖徒主日があったせいか、復活についてお話しすることが多かったのでそう思われてしまうかもしれません。でも、誤解して頂きたくないのですが、キリスト信仰者は年がら年中、死んだらどうなるかばかりを考えて生きているわけではありません。普段はそんなことを考えないで普通に生きています。ただ何かの拍子でふと、あれっ、人間は、またはこの自分は死んだらどうなるんだっけ、と頭によぎる時はあります。そんな時はすぐ、ああ、聖書はこう言っていたな、と思い出して、それを確認したらまた普通に戻って普通を続けます。だから、死んだらどうなるかという問いに埋没して抜け出られなくなることもないし、逆にそんな問いには近づいて欲しくないと懸命に避けることもしない。来たら来たで、確認してハイ終わり、です。確認するものがあるというのはいいことです。

今日の説教は福音書の個所の解き明かしが中心になりますが、解き明かしに入る前に、復活について一般的なことを述べておきます。ただし大きな事ですので、復活の全容については立ち入らず、本日の個所の理解に役立つことだけ見てみます。復活は、まず十字架にかけられて死んだイエス様の死からの復活があります。これは約2000年前に起きた過去の出来事です。それから、イエス様を救い主と信じる者たちが与る将来起きる復活があります。ここで注意すべきことは、将来の復活は将来のある時に人類全員一括して関係してくる出来事ということです。人間が一人亡くなるたびにその都度起きることではありません。その将来のある時とは、今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地が創造される時(イザヤ65章17節、66章22節、黙示録20章11節、22章1節)、また、今ある全ての被造物が揺るがされて除去され、かわりに唯一揺るがされずに残る神の国が現れる時(「ヘブライ人への手紙」12章27-28節)です。イエス様が再臨するのも同じ時期になります。

黙示録20章を見ると、そういう天地の大変動が起こる時に、まずイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした者たちが復活させられる。これは第一の復活と言われています。その次に残りの死んでいた者に対して神を裁判官とする裁判が行われます。全ての人が前世でどんな生き方をしたかを記した記録があって、それに基づいて判決が言い渡されます。ある者は神の国に迎え入れられますが、別の者は永遠に燃えさかる火の海に投げ込まれます。黙示録には「第二の復活」という言葉はありませんが、神の国に迎えられた者たちがそれに与るということになります。

ところが、第一テサロニケ4章を見ると、使徒パウロは復活について次のように述べています。イエス様再臨の時、まずイエス様としっかり繋がりがある死者たちが復活させられる。その時点でまだ生きている信仰者たちが彼らと合流させられて天のみ神のもとに迎え入れられる。ここでは特に裁判のことも、第一の復活、第二の復活ということもありません。黙示録では第一と第二の復活の時に死んだ者たちに判決が言い渡されます。つまり、みんな死んでいるわけです。パウロは生きている人のことも言っています。

そこで、黙示録と第一テサロニケで言われていることを頑張って合わせて理解しようとすると、大体次のことが浮かび上がってきます。天の御国に迎え入れられる者たちというのは、まず、その時点で既に死んでいた者たちは復活させられて迎え入れられる。これはいいでしょう。次に、その時点でまだ生きていた者たちに関しては、そのままの姿かたちで迎え入れられるということはないであろう。というのは、第一コリント15章でパウロは、復活させられる者は皆、この世の肉体のように朽ちてしまわない、神の栄光を現わす復活の体を着せられると言っているからです。なので、この世の姿かたちのまま天の御国に迎え入れられるということはありません。みな、死から復活させられた者たちと同じ復活の体を着せられるわけです。誰もこの世の姿かたちで天の御国に迎え入れられないという意味で、皆がこの世の肉体から離別するということになります。それから、もう一つ忘れてはならないことは、迎え入れられる者たちと入れられない者たちの二つに分かれるということは、やはりそれを決める最後の審判があるということです。

以上から、復活とは、将来に一括して起きることであり、人間一人一人死ぬ度に起こることではないことがお分かりいただけたかと思います。

 それでは、死んだ人たちは、将来起きる復活の日まではどこで何をしているのか?これも、本教会の説教の中でルターの教えに基づいて何回もお教えしました。亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っているということです。ところで日本では一般的に、人は死んだらすぐ天国か何かわからないがどこか高いところに舞い上がって、今そこから私たちを見守ってくれている、という考え方をする人が多いのではないかと思います。しかし、復活というものがあるキリスト信仰ではそんなことはありえません。死んだ人は今、神のみぞ知る場所で眠っている。高いところに行くのは将来のことで、その日その高いところから地上を見下ろしても、その時はもう天地大変動の後ですので、今ある地上はもう存在していません。

 それから、死んだ人が眠ってしまうだけなら、誰があの世から見守ってくれるのかと心配する向きもあるかもしれません。これもキリスト信仰では、見守って下さる方は亡くなった者ではなく、天と地と人間を造られた創造の神しかいません。この私たちを見守って下さるのは私たちの造り主である神であり、この方が、私たちの仕えるべき相手です。

 それでは、天の御国への迎え入れというのが起きるのは復活の日まで待たないといけないとすると、天国は今空っぽなのかという疑問が起きるかもしれません。もちろん、父なるみ神自身はおられます。天に上げられたイエス様も神の右に座しておられます。あと天使たちもいます。他にはいないのでしょうか?そこで気になるのが本日の福音書の個所です。イエス様が言います。かつて神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言った、と。そして神は生きている者の神である、死んだ者の神ではない、とも。そうなると、この三人は今生きているということになって、それはもうとっくに復活してしまったから、ということになるのか?これから行う解き明かしは、このことにも立ち入ります。

 

2.この世での有り様と復活の時の有り様

まず、本日の福音書の個所の出来事の次第を見てみましょう。サドカイ派というユダヤ教社会のグループの人たちがイエス様を陥れようと議論を吹っかけました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿の祭司を中心とする貴族階級のエリート・グループです。彼らは、旧約聖書の中の律法集であるモーセ五書を重要視していました。また彼らは、復活などないと主張していました。これは面白いことです。新約聖書に頻繁に登場するファリサイ派は復活はあると主張していました。復活という信仰にとって大事な事柄について意見の一致がないくらいに当時のユダヤ教は様々だったのです。(この他に聖書には登場しませんが、エッセネ派という派もあり、これは有名な死海文書を形成したグループです。復活はあるのかないのか、エルサレムの現実の神殿は正当なものかどうか、という争点で色分けすると三つのグループの立ち位置がわかり、当時のユダヤ教の多様性が明らかになります。この辺のことは礼拝の説教では取り上げることではありません。)

サドカイ派の人たちが、イエス様の教えが間違っていることを人前で示そうとして復活をテーマに持ち出しました。同じ女性と結婚した7人兄弟の話です。申命記25章5節に、夫が子供を残さずに死んだ場合は、その兄弟がその妻を娶って子供を残さなければならないという規定があります。7人兄弟はこの規定に従って順々に女性を娶ったが、7人とも子供を残さずに死に、最後に女性も死んでしまった。さて、復活の日にみんながよみがえった時、女性は一体誰の妻なのだろうか?ローマ7章でパウロが言うように、夫が死んだ後に別の男性と一緒になっても律法上問題ないが、夫が生きているのに別の男性と関係を持ったら十戒の第6の掟「汝、姦淫犯すべからず」を破ることになる。復活の日、7人の男と1人の女性が一堂に会した。さあ大変なことになった。復活してみんな生きている。この女性は全員と関係を持っていることになる。ここからわかるようにサドカイ派の意図は、イエス様、復活があるなんて言うと、こういう律法違反が起きるんですよ、律法を与えた神はこんなことをお認めになるんですかね。サドカイ派はどんな表情で聞いたでしょうか?群衆の前で、イエスよ、これでお前の権威もがた落ちだ、とニヤニヤ顔で勝ち誇った表情だったでしょうか?それとも、ニヤニヤは心の中に留め、表情はあたかも素朴な疑問です、と言わんばかりの無垢を装う演技派だったでしょうか?

 これに対するイエス様の答えは、サドカイ派にとって思いもよらないものでした。イエス様の論点は二つありました。第一の論点は、人間のこの世での有り様と復活した時の有り様は全く異なるということ。第二の論点は、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことです。まず、復活の有り様を見てみましょう。

人間は復活すると、この世での有り様と全く異なる有り様になる、嫁を迎えるとか夫に嫁ぐとかいうことをしない有り様になる。つまるところサドカイ派は、人間は復活した後も今の世の有り様と同じだと考えて質問したわけだが、それは誤った前提に基づく質問である。それでは、復活した者はどんな有り様になるのか?まず、復活した者がいることになる場所は、今の天と地が新しい天と地に取って代わられた次の世ということになります。そして、復活した者はもう死ぬことがなく、天使のような霊的な存在になり、第一コリント15章のパウロの言葉を借りると、復活の体、朽ちることのない体、神の栄光で輝いている体を着せられた者になります。そういう復活に与る者は「神の子」である(36節)と。それなので、復活した者は、誰を嫁に迎えようか、誰に嫁ごうか、誰に子供を残そうか、そういうこの世の肉体を持って生きていた時の人間的な事柄に心と神経をすり減らすことはなくなって「神に対して、神のために」生きる「神の子」になる。この、復活した者が「神に対して、神のために生きる」ということは、あとでアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神のところで大事なことになりますので、また後ほど見ていきます。

 以上が、イエス様の第一の論点でした。サドカイ派は復活を正しく理解していない。だから、女性は7人兄弟の誰の妻になるのか、などという質問が出来たのだ。復活を正しく理解していれば、そんな質問は生まれてこない。完璧に的外れな質問だったのです。

 

3.「神に対して/神のために生きる」とは?

イエス様の第二の論点は、サドカイ派の律法理解が表面的なものであることを暴露するものでした。出エジプト記3章6節で神がモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗り出るところがあります。モーセから見れば、アブラハムもイサクもヤコブもとっくの昔に死んで既にいなくなった人たちなのに、神は彼らがさも存在しているかのように自分は彼らの神であると言う。これを引用したイエス様はたたみ掛けて言いました。「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ」(38節)。イエス様は彼らが生きていると言っているように聞こえます。アブラハムたちはやはり復活の日を待たずに復活して今、天の父なるみ神の御許に永遠の命を持つ者としているということなのか?

ここで問題となっていることは、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことが、復活があることの論拠になっているということです。それで、アブラハム、イサク、ヤコブが既に一足早く復活させられて今神の御許におられる、そういうふうに考えることも可能です。だた、その場合、じゃ、どうしてヨセフは言われなかったのか?あんなに信心深く憐れみに満ちていたのに。ヨセフはアブラハムたちと一緒に復活させられず、私たちと同じように復活の日まで眠っているということなのか?アブラハムたち3人とヨセフを区別するものは何なのか?そういうことを考えると、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神というのは、彼らが今天の御国にいるということではなく、みんなと同じように復活の日まで眠っているが、それでもこの聖句が復活がある根拠になる、じゃ、この聖句はどう理解したらよいのか?私は、アブラハムたちが今復活して生きているという可能性を保留したまま、別の理解の仕方もあることが今回分かりました。それをこれから述べていきます。

カギはイエス様の最後の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」にあります。実は、この日本語訳はまずい訳です。「神によって」と言うと、「神に依拠して」とか「神のおかげで」という意味になりますが、実はこの個所ではそういう意味ではないのです。もちろん、「すべての人は、神によって生きている」という言うこと自体は間違っていません。全ての人間は神によって造られて神から食べ物や着る物や住む家を与えられているという真理からみれば、まさに「全ての人は神によって生きている」と言うのはその通りです。しかし、それは復活について教える本日の個所と全然かみ合いません。本日の文脈から乖離してしまいます。加えて、「全ての人」というのもここでは全人類のことを指していません。誰を指しているかと言うと、35節に言われている人たち、「復活に与るのに相応しいとされた人たち」を指しているのです。文章というのは、それ自体は正しく意味を成すことを言っていても、文脈と無関係だったら意味を成しません。このイエス様の言葉が復活の教えにかみ合う意味を見つけ出さなければなりません。そんな意味は見つかるでしょうか?ここはまさに説教者の腕の見せどころです。

まず、「神によって」と訳されているギリシャ語のもとの言葉は「~によって」と訳さず、ほとんど直訳的に素直に「~に対して」とか「~のために」と訳します(後注1)。これが私個人の勝手な訳でないことは、英語訳の聖書NIVを見てもto him「彼に対して」と言っていて、「によって」とは言っていません。ドイツ語のEinheitsübersetzung訳ではfür ihn「彼のために」、スウェーデン語訳でも「彼のために」(för honom)、フィンランド語訳でも「彼のために」でも「彼に対して」でもとれる訳(hänelle)です。このように少なくとも4つの言語で「神によって」と訳しているものはありません。

次に、「神に対して/神のために生きる」というのは、どういう生き方かを見ていきます。わかりそうでわかりにくいです。イメージとして、神の方を向いて、神にお仕えするように生きる、ということが思い描かれますが、もっと具体的にならないでしょうか?それがなるのです。「神に対して/神のために生きる」という同じ言い方がローマ6章にあります。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は罪に対して死んでおり、神に対して生きている、と言っているところです。日本語訳では違う言い方で訳されてしまいますが、ギリシャ語で読むと、あっ、同じ言い方だ、とわかるのです(後注2)。そこでローマ6章で「神に対して/神のために生きる」がどんな生き方か言われていることを見れば、本日のイエス様の言っていることもわかります。

ローマ6章のパウロの教えは2週間前の説教でもお話ししました。それを少し復習します。神の意思を表す律法は、人間が罪を持つ存在であることを暴露する。しかし、神のひとり子のイエス様が十字架の上で神罰を受けたことで、人間の罪を全て人間に代わって神に対して償って下さった。だからイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いを純白な衣のように頭から被せられて、神から罪を赦された者に見なされるようになる。まさに罪の赦しが神からの「お恵み」として与えられる。それなので、律法を通して罪がますます暴露されようとも、罪の赦しのお恵みは常にそれを上回ってある。以前は罪が人間を永遠の死に陥れていたが、イエス様の十字架と復活の出来事の後は罪の赦しのお恵みが人間を永遠の命に導くようになった。

そういうふうに言うと、罪の赦しがお恵みとしてあるのなら別に罪にとどまってもいいじゃないか、どうせ赦されるんだから、などと言う人も出てくる。パウロは、勘違いするな!と言って反論する。「我々キリスト信仰者は罪に対して死んでしまったので、罪にとどまって生きるなど不可能なのだ」。ここで「罪に対して死んでいる」ということが出てきます。さあ、どういうことか?パウロは、そのことは洗礼の時に起きたと言います。どういうふうに起きたか?人間は洗礼を受けるとイエス様の死に結びつけられると同時に彼の復活にも結びつけられる。イエス様の死に結びつけられると、我々の内にある罪に結びつく古い人間も十字架につけられたことになり無力化する。そうして我々は罪にお仕えする生き方から離脱する。加えてイエス様は死から復活されたので、もう死は彼に力を及ぼせない。死が力を及ぼせないというのは、人間を死に陥れようとする罪も力を失ったということだ。イエス様が十字架で死なれた時、それは罪と死が彼に勝ったのではなく、事実は全く逆で、イエス様の死は罪と死が壊滅的な打撃を受ける出来事であったのだ。日本語訳で「罪に対して死なれた」というのは、このように罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれたということだ。そのことが十字架という一度限りの出来事をもって未来永劫にわたって起きた。

さてイエス様は罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれた後、復活された。それからは生きることは、神の栄光を現わす器として生きることになる。この、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現わす器として生きることは、イエス様だけでなく、洗礼を受けたキリスト信仰者にもそのまま当てはまる。洗礼を受けた者は復活の日に神の栄光を現わす体を着せられる日に向かってこの世を歩むということです(後注3)。

 

4.神は復活に向かう者の神

このように「神に対して/神のために生きる」とは、復活の命と体に向かって、天の父なるみ神、もともとは自分の造り主である方のもとに向かって生きることです。そのように生きる者は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、イエス様の死と復活に結びつけられて、その道に置かれて歩む者です。イエス様が「神は生きている者たちの神である」と言うのは、このことです。ここで「生きている」というのは、ただ単にこの世で生存していることではなくて、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むことです。神はそういう者たちの神であると言うのです。それなので、「神は~の神である」と言う時、その~はその道を歩んでいるということです。こういうふうに「神は~の神である」という言い方は、その~は復活が約束されている者という意味が含まれています。その~に自分を当てはめてみて下さい。この私が聖書の神、つまり創造主でありイエス・キリストの父である神のことを「私の神です!」と言うのは、私はその神に向かって歩んでおり、復活の日に神は私を復活させてくれると信じていると告白することになります。同じように、「神はアブラハムの神である」と言うのも、アブラハムは復活の日に復活させてもらえるということを意味します。

「神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言い方にはこのような意味が含まれていることは、復活を信ぜず、復活の内容も知らないサドカイ派の人たちには全く意味不明だったでしょう。しかし、イエス様の答えを聞いて、かつて神が自分のことをアブラハムの神と言ったのは、単に過去の時代にアブラハムに対して神として立ち振る舞ったという過去の意味ではなく、何か今の自分たちにも関係がある深い意味があると思い知らされたでしょう。ただ、それがどんな意味か具体的なことがわかるのはイエス様の十字架と復活の出来事が起きるのを待たなければなりませんでした。それでも、イエス様の二つの論点を聞いた律法学者が聖書には何かただ事ではないことがあると感じ取りました。日本語訳では「先生、立派なお答えです」とお上品に訳していますが、私などは「先生、その答え、ちょっと凄いよ」と言い換えるでしょう。

最後に、なぜ神はアブラハム、イサク、ヤコブの3人だけの神であると名乗ったのか?ヨセフやベンヤミンは入れなかったのか、ということについて。神がモーセにこう名乗ったのはどんな時だったでしょうか?それは、これからモーセがイスラエルの民を率いて奴隷の国を脱して約束の地カナンに民族大移動する任務を与えられる場面でした。神はアブラハムとイサクとヤコブに対して、お前の子孫にカナンの地を与えると約束していました。その約束をこれから果たすという時に、神はその約束を述べた3人の名を引き合いに出したのです。ヨセフもベンヤミンも皆、アブラハム、イサク、ヤコブ同様に復活に与ることには変わりありません。ただ、モーセの前で神は約束した相手に限定して名乗って、自分はした約束を忘れない、必ず果たす者である、と明らかにしたのです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、聖書の神は約束したことを忘れず、必ず果たす方というのは、私たちの復活もそうです。聖書の神が私たちの神になるとき、私たちは復活の日に復活させられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように 
アーメン

(後注1)αυτω代名詞、男性、単数、与格

(後注2)ルカ20章38節αυτω ζωσιν、ローマ6章10節ζη τω θεω、11節ζωντας (…) τω θεω (…)。

(後注3)「罪に対して死ぬ」の「~に対して」の与格はdativus incommodiの意味であると、2週間前の説教の後注に記しました。「神に対して生きる」の「~に対して」の与格は対照的にdativus commodiの意味になるわけです。

11月のフィンランド料理クラブのご報告

穏やかな気候の土曜日、早稲田に移転しての一回目の「スオミ教会家庭料理クラブ」は、人気の高いプッラを作りました。

最初にお祈りをしてスタートです。
計量をして生地作り、お子さんの参加もあり、テーブルの回りは、笑い声の聞こえる楽しい雰囲気で、作業が進みます。
発酵を待つ間、ポテトサラダ作りもしました。
発酵のすんだ生地は、シナモンロール、ブルーベリープッラ、バタープッラと三種類のプッラです、フキンをかけて二回目の発酵を待ちました。

 

発酵もすみ、次々焼き上がるプッラはスパイスと甘いかおりで、試食会は美味しい時間になりました。

パイビ先生からは、プッラの歴史やフィンランド人のプッラへの思いや香り、
聖書の一節も聞かせていただき、香りについてのお話も聞かせて頂きました。

参加の皆様お疲れ様でした。

12月はクリスマスらしいメニューを用意しています。

 

2019年11月9日プッラの話

プッラは、フィンランドでは昔からコーヒーと一緒に食べる菓子パンです。今日、皆さんと一緒に作ったプッラは、フィンランドの家庭でもよく作られるものです。プッラ作りで楽しみなことは、同じ生地からいろんな種類のプッラが作れることです。

フィンランドでプッラを作り始めたのは本当はそんなに昔のことではありませんでした。1800年くらいまで小麦はフィンランドで育てられるものではなく、輸入されていました。そのため白いパンはあまり作られませんでした。1850年頃から、初めは白いパン、その後1870年頃からプッラも作られ始めました。私のお祖母さんの時代のプッラは、今日作ったものみたいに多くの材料を使わず、ただ生地に砂糖とバターを少なく入れただけで、シナモンも使わない簡単な菓子パンが普通でした。その時代には、菓子パンは毎日食べるおやつではなく、クリスマスとかイースターとか夏至祭のようなお祝いの時しか出しませんでした。形も大体決まっていて、このような細長い編んだものが普通でした。細長い編んだ菓子パンを薄く切ってコーヒーと一緒に食べたのです。

時代は変わって、今では菓子パンは毎日のおやつでコーヒーと一緒に食べられるようになって、ほとんどの家庭で毎週菓子パンを焼くようになりました。色んな形や味のものも作れるようになって、どんどん新しい名前のプッラも出てきました。フィンランドの菓子パンの中で最も人気があるのは、コルワプースティです。それは菓子パンの王とも言われます。

現在のフィンランドの家庭では、奥さんたちも仕事に通うので、お菓子パンは毎週作るものではなくなりました。それで家庭でプッラを作ると、お店で買うよりも美味しいことがよくわかるようになりました。フィンランド人にとって、焼きあがったばかりの温かいプッラを冷たい牛乳と一緒に味わうのは、とても大きな楽しみです。また、家庭でプッラを作る習慣があると、それは子供たちが大きくなっても忘れられない大切な思い出になります。ほとんどのフィンランド人は、自分のお母さんが作ったプッラが思い出の中にあります。フィンランド人に一番美味しいプッラを作るのはだれ?と聞くと、きっと自分のお母さんと言うでしょう。フィンランド人の子供たちは外から家に帰ると、プッラの香りが外まで拡がっているのに気づいて、お母さんがプッラを焼いているとわかります。それは大きくなっても良い思い出として残ります。プッラの香りは、フィンランド人にとって子供時代の香りとも言われるくらいです。フィンランドでプッラを作ることと、そこから漂う香りは世代から世代へ伝わっていくものと言えます。

このようにプッラの香りは、フィンランド人にとって子供時代に母親が作ったことを思い出させます。多くの人たちにとって、香りは良い思い出と結びついています。皆さんはそのような思い出の香りがありますか?聖書の御言葉には良い香りがあると言われます。パウロは「コリントの信徒への手紙」の中で次のように述べています。「神に感謝します。私たちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私たちを通じていたるところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」「コリントの信徒への手紙」2章14節です。
 この箇所でパウロはキリストの香りについて語っています。キリストの香りとは、どこから出る、どんな香りでしょうか?それは、聖書の御言葉から出る良い香りです。聖書を読むと、神様の愛がイエス・キリストを通して実現したことが分かります。天の神様は私たち人間を罪の汚れから救うためにご自分のひとり子イエス様をこの世に送られました。私たち人間は罪を持つため神様の御心に従うことが出来きません。それで、私たちが受けるべき罰を代わりにイエス様に受けさせて十字架の上で死なせました。さらに、神様は一度死んだイエス様を復活させました。神様は私たち人間が神様のもとに立ち返ることができるように、これらのことを成し遂げたのです。ここに神様の私たちに対する愛があります。私たちがイエス様を受け入れれば、神様は私たちに新しい命を与えて下さいます。それは、この世が終わっても次の世に続いていく永遠の命です。パウロが語ったキリストの香りは、この永遠の命から漂ってくるのです。

このようにキリストの香りとは、イエス様を通して与えられる新しい命のことです。聖書を読んだり、神様のことを聞くと、キリストの良い香りは私たちの心の中に入って、神様に対する信頼と信仰を強めます。私たちも同じ香りを持つようになります。

プッラの香りや他のいろんな良い香りは、私たちに良い思い出を与えてくれます。しかしイエス様の香りは思い出の香りではなく、これからの新しい命を与える香りです。この香りを持つことで前に進んでいくことができます。

説教「信仰に生きよ、そして遭遇し祈れ」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書19章11ー27節

 

主日礼拝説教 聖霊降臨後第22主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 本日の福音書の箇所はイエス様のたとえの教えです。これから王様になるという位の高い人が家来たちに1ムナという単位のお金を与えて、自分の留守中に何か商売か事業をさせて、どれだけ儲けを得るか試す話です。1ムナというのは当時の肉体労働者の日当100日分の金額ということです。どれくらいの金額か、今の感覚で言えば、週休2日で最低賃金で働いた4カ月分くらいの給与ということになるのではと思います。そこで、たくさん儲けを得た家来と少ししか得なかった家来、全然得なかった家来の3人が登場します。王の位を受けて戻ってきた人がそれぞれにどんな態度をとったかは、先ほど読んでいただいた通りです。この教えは少しわかりにくいです。登場する王様は、儲けを得なかった家来のお金を取り上げて、一番儲けた家来にあげてしまいます。儲けを得なかった家来は、王様が不在中、お金をずっと布に包んでしまっていたのですが、それはお金を大切に保管していたことになります。お金は減りもせず、なくなりもしませんでした。でも、王様は大いに不満でした。さらには、自分が王になることを反対する者たちを連れ出して「打ち殺せ」とも命じます。とても残酷な王様にみえます。イエス様は、このたとえで一体何を教えたいのでしょうか?

まず、イエス様がこのたとえを話された理由をみてみます。それは11節に記されています。イエス様が「エルサレムに近づいておられ、人々はすぐにでも神の国が現れると思っていたからである。」どういうことでしょうか?イエス様は大勢の人たちを伴って、ユダヤ民族の首都であるエルサレムに向かっています。人々はイエス様に大きな期待を賭けていました。この方は無数の奇跡の業を行い、民族の宗教指導者たちなんか太刀打ちできない権威をもって、天地創造の神の意思を教えられる。誠にかつての偉大な預言者級の方で、この方がエルサレムに入城すれば神の天使の軍勢が加勢して、イスラエルを占領しているローマ帝国軍を追い払い、占領者と結託している支配層も叩き出して、真の神の国が実現する。そして旧約の預言通りに諸国の民が天地創造の神を参拝しにエルサレムにやってくる。大体そういう期待です。しかし、天と地と人間を造られた神が全人類のために実現しようとしていた計画は、そんな一民族の解放をはるかに超えたもっとスケールの大きなものでした。この時はまだ誰もそのことはわかりませんでした。

そこで実際に起こったことをみてみましょう。イエス様は、エルサレム入城後、宗教指導者たちと激しく対立し、最後は一人の弟子に裏切られ他の弟子たちにも見捨てられて逮捕され、裁判にかけられて十字架刑に処せされました。それまで従っていた人たちも、期待外れだったとイエス様に背を向けました。ところが、死んで墓に葬られたイエス様は神の力で三日目に復活させられ、死を克服し永遠の命の扉を開いた者となって大勢の人たちの前に現れました。このようにして神の人間救済計画が実現したのです。つまり神は、自分と人間との結びつきを損なっていた人間の罪という重荷を全部イエス様に背負わせて十字架の上にまで運ばせて、そこで人間に代わって神罰を受けさせました。こうして神に対して罪の償いが果たされました。人間は、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いを純白な衣のように頭から着せられて、神の目から見て相応しい者と見なされるようになります。そして、イエス様が開いて下さった永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むようになります。罪を償ってもらったので罪は赦されました。それで神との結びつきも回復し、あとはその結びつきを持ちながら道を歩むことになります。やがて、この世を去って神の前に立たされる時が来ても、イエス様を救い主と信じる信仰をしっかり携えて生きたことを認めてもらえるので何の心配もありません。父なるみ神のみもとに迎え入れられます。そこは祝宴にもたとえられるところです。

以上が、歴史上の一民族の解放を超えて、文字通り全人類に及ぶ神の人間救済計画でした。神はそれをイエス様を用いて実現されたのでした。

復活されたイエス様はその40日後に天に上げられました。いつの日か天使の軍勢を従えて地上に再臨する日まで、天の父なるみ神の右に座すこととなったのです。そういうわけで、神の国が見える形をとって現われるのは、イスラエルの民が期待したようにイエス様のエルサレム入城の時ではありませんでした。それは、将来起こる主の再臨の日なのです。しかし、当時こうしたことは、民族解放の希望に燃えていた人たちにとっては想像もつかないことでした。イエス様が本日のたとえを話したのは、神の国の到来は彼らの期待した形をとらないということ、そしてその到来の日まで私たちは何をしなければならないか?どう生きなければならないか?ということを教えるためでした。

 

2.「王と家来」のたとえの意味

 少し脇道にそれますが、イエス様のこのたとえは、現実に起きた事件が下地にあります。イエス様が赤ちゃんだった時、これを殺害しようとしたヘロデという王がいたことは皆様もご存知の通りです。ヘロデ王が死んだ後、息子の一人アルケラオが父親の領土の一部を受け継いで王となるためにローマに出かけました。なぜそんなことをするのかと言うと、当時ユダヤ民族はローマ帝国に占領されていたので、王の地位につくためにはもっと上の支配者であるローマ皇帝の承認を得なければならなかったのです。実はアルケラオは、「王」ではなく一ランク下の「領主」になって、ユダヤの地に戻ってきました。しかし、話はそこで終わりませんでした。マタイ2章22節でも言われるようにアルケラオは残忍な性格だったため人々の反感を買います。そこでユダヤ人たちは実際に、本日のたとえに出てくる反対者のようにローマに使い送って皇帝に訴え出たのです。それが功を奏してアルケラオは領主の位を失いました。

イエス様が本日のたとえを話されている場所は、エリコというエルサレム近郊の町です。そこにはアルケラオの建てた宮殿も残っていました。出来事から20年以上たってはいましたが、たとえを聞いた人たちはアルケラオのことをすぐに思い出したでしょう。しかしながら、たとえに出てくる王様な失脚しません。王になって帰国すると反対者を全滅させます。これは何を意味するのでしょうか?それは、イエス様の再臨の日まで彼に敵対することをやめなかった者たち、またイエス様を信じる人たちを迫害した者たちが裁かれて永遠の滅びに落とされることを意味します。つまり、最後の審判のことです。このように、このたとえは、人々がよく知っている出来事を材料にすることで、イエス様の再臨と最後の審判に現実味を帯びさせる効果があるのです。それがイエス様の狙いでした。

最後の審判の日に、イエス様に敵対することをやめなかった者たちや彼を信じる人々を迫害する者たちが裁かれる。ということであれば、私たち信仰者は、そのような敵対者に遭遇しても恐れてはいけないし、逆にそのような人たちの心が変わるように祈りながら働きかけていかなければいけません。さらに、まだイエス様のことを知らない人たちに対しては福音を宣べ伝えて、一人でも多くの人がイエス様の純白な衣を受け取ることができるようにしていかなければなりません。

 さて、多く儲けた家来、少なく儲けた家来、全然儲けなかった家来と王様のやりとりが何を意味しているのかを見ていきましょう。

最初の家来は、王様にもらった1ムナが商売した結果、10ムナの儲けを得ました。次に同じ1ムナのお金で5ムナの儲けを得た人が出てきます。二人に対する王様の処遇ですが、日本語訳の聖書では「10の町の支配権を授けよう」と褒美が与えられたように書かれています。しかし、ギリシャ語の原文を見ると、「十の町の支配権を持ちなさい/支配権を持つ者になりなさい」と命令文になっていいます。褒美をあげるというより責任を与えたことになります。5ムナの儲けを得た人も同様です。日本語で「5つの町を治めよ」と命令文に訳されていますが、これは原文通りです。そういうわけで、10の町、5つの町の支配権とは儲けの大きさに比例した褒美を与えたというのではなく、10倍の儲けを得た者にはその実力相応の責任を与える、5倍の儲けを得た者にはそれ相応の責任を与える、ということです。5倍の儲けの人には10の町の支配権を任せるというような無理はさせない。そのかわりに、10倍の儲けの人には5つの町の支配権で済ませるということもしない。このようにイエス様は、私たち一人一人がどれだけの力を持っているかをよく吟味して、それに相応しい課題や任務をお与えになると言えます。私たちの尺度からみて不相応だとか不公平だということも出てくるかもしれませんが、基本はそういうことだと思います。

王様が1ムナを与えた家来は全部で10人いましたが、他の7人の成果は触れられていません。でも、みんな同じ原則に則って処遇を受けたでしょう。7ムナを儲けた人には7つの町、3ムナを儲けた人には3つの町という具合に。

 ここで大変なことが起こりました。家来の中に儲けが全然なかった人がいたのです。その人は、1ムナをずっと布に包んでしまっていました。なぜか?商売に失敗して1ムナを失ってしまった時の王様の処遇を恐れたのです。家来は王様に言います。あなたは、自分では預けなくとも、それがあるかのごとく取り立てをする、自分では種を蒔かなくとも、蒔かれたかのごとく刈り入れを要求する、そういうお方だ、と。つまり、何も取り立てするものがなくても、また刈り入れするものがなくても、取り立てたり刈り入れたりしようとする方である。こうなると商売に失敗して持ち金ゼロになった場合、取り立てを要求されたらかなわない。それなら、いらぬリスクは避けて1ムナは保管して、後でそのまま返してしまえば無難だ、という結論になったのです。

これに対する王様の処遇はとても厳しいものでした。この家来に対し、リスクを恐れて商売しなくても銀行に預ければ利息がつくではないか、と言います。「銀行」と言う訳語を見ると現代っぽく感じられ、なにかATMが付いた建物を連想しそうになりますが、要は金貸し業とか両替商のようなお金を扱う業者のことです。王様の言っていることを原文通りに訳すと「私が帰ってきた時に、そのお金を利息と一緒に(業者から)要求できたのに」ということです。当時の利息の算出方法は知る由もありませんが、利息を得るために何か交渉しなければならないということです。ここから、王様の真意は、利息のもうけが目当てではなくて、家来が何がしかの動きを示すことだったと言えます。

 王様としては、どんなに小さくても儲けに相当する責任を負わせるつもりでした。それが、儲けゼロではなんの責任も負わせられません。家来が王様のことを、取り立てたり刈り入れたりするものが何もなくてもそうする方だと言ったことに対して、王様は、そう思っているのなら、そうしてやろう、と言わんばかりに、家来の保管していた1ムナを取り上げて、10ムナ持っている家来にあげてしまいます。どうして、既に十分持っている者にさらにあげるのかというと、一番成功した者に対する偏愛ではなく、その者が一番大きな責任を担えると信頼しているからでしょう。

 

3.1ムナをキリスト信仰者の「賜物」とすると

 ここで、たとえに出てくる王様、家来そして1ムナというお金は何を意味しているのかを見てみましょう。これは一般には、神がキリスト信仰者に与える賜物として理解されると思います。もちろん、それもありますが、私は今回説教を準備していた時、それは「信仰」も意味するのではないかと思いました。まず、「賜物」としてみた場合、どういうことになるかを見て、その後で「信仰」としてみた場合を見てみます。

王様は、紛れもなく最後の審判の時に再臨するイエス様です。家来と言うのは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者です。神が与えられる賜物とは、例えば「ローマの信徒への手紙」12章で使徒パウロが、預言をする賜物、奉仕をする賜物、教える賜物、勧めを行う賜物、施しをする賜物、指導をする賜物、慈善を行う賜物などをあげています。どれも教会を作り上げ成長させるためのものです。この他にも教会の成長に役立つ賜物はいろいろあります。よく言われるものとして音楽の賜物があります。その他にも教会の成長に資する賜物はいろいろ考えられます。

そこで、教会の成長とは何かということですが、それは教会が聖書の御言葉という土台に立って御言葉を宣べ伝えること、洗礼を通してイエス様を救い主と信じる人を教会に招き入れること、聖餐を通して招き入れられた人の信仰を揺るがないものにしていくこと、これらを通して成長は果たされます。もちろん、教会に繋がる人たち同士の連携も成長にとって大事です。

たとえの中で王様は、10ムナの儲けを得た家来に対して、「お前はごく小さな事に忠実だった」と言います。小さな事とは1ムナのことですが、神が私たちに与える賜物も小さな事とはどういうことでしょうか?この同じ言葉は、ルカ16章の「不正な管理人」のたとえのところでも出てきました。そこでお教えしましたが、「小さな事」ギリシャ語のエラキストスελαχιστοςは別に大きさの大小のことだけでなく、価値のあるなしにも使われます。つまり、1ムナというお金が金額が少ないということではなく、お金自体が「ささいなこと、取るに足らない事」であると言っているのです。お金というものは、人の心を神から引き離す力を持っているので、それでささいなもの取るに足らないものということになります。ところが、そのようなお金に心を奪われてそれに支配されてしまうのではなく、逆にお金に対して主人になれる者はそれを神の意思に沿って使うことができる。まさに、「取るに足らないものを取り扱う際に神に対して忠実」ということでした。神の意思に沿ってお金を使うというのは、神を全身全霊で愛するということ、そしてその愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛するということ、これらの愛のために使うということでした。

同じことが賜物にもあてはまります。神から与えられたとは言え、それを自分の繁栄や名声のために消費してしまったら、お金に仕えてしまうのと同じです。賜物を神の意思に沿うように用いようとすると、お金の時と同様、賜物に対しても主人として立ち振る舞うことになります。それなので、神から与えられたとは言っても、「小さな事」と言った方が与えられた側は得意がらずに謙虚になるのではないかと思います。

 

4.1ムナを「信仰」とすると

 以上は、家来が王様から頂いた1ムナは、信仰者が神から与えられた賜物と考えられるということでした。次に、それを「信仰」とみた場合、どういうことになるかをみてみます。キリスト教では「信仰」というのは、神から与えられて人間は受け取るという性格を持っています。人間の救いは、神がイエス様を用いて全て整えて下さった、だから、あとは人間の方が、これらは本当にあの時起こったのだとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、その救いを所有することが出来ます。これらのことがわかるとか、イエス様を救い主と信じるというのは聖霊が影響力を行使しないと出来ません。このイエス様を救い主と信じる信仰を神から与えられたものとすると、次に問題となるのは儲けは何を意味するかです。

1ムナが10になったり5になったりすると言う時、それらは一体何か?人によっては、一生懸命伝道活動をして信者を増やすのに貢献したとか、献金を増やすのに貢献したとか、教会をこれだけ拡大したとか、あるいは慈善活動でこれだけの人を助けたとか、そういう具体的な形で表れる成果を考えるかもしれません。もちろん、それは間違いではないです。ただ、そういう具体的な形で表れるもの以外にもあることを忘れてはいけないと思います。例として、ローマ12章でキリスト信仰者の心得をパウロが教えています。悪を憎むが悪に悪を返さない、迫害する者のために祝福を祈る、相手を自分より優れた者として敬意を持って接する、高ぶらず身分の低い人々と交わる、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣く、自分で復讐しないで神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせる、乾いていたら水を飲ませる等々。これらはまさに信仰から育ってくる良い実です。信徒数や献金額の増加とは性格が異なりますが、これらのことが出来るようになることも1ムナから生じる儲けの中に数えていいと考えます。

こうした良い実に関連して、キリスト信仰を持って生きるためにこの世の流れに抗するということも考えることができます。信仰を持って生きることから生じる様々な苦労や苦難に遭遇することも「儲け」に入れてよいと考えます。信仰ゆえに苦労や苦難に遭遇する、それが多ければ多いほど大きな儲けになるということです。そう考えると、1ムナを布に包んでしまった人は、この世の中に入って行かず苦難や苦労に遭遇しないですむようにした人と言えます。ルター派的な言葉を使えば、神から与えられた召命や課題を回避するということでしょう。この世の中に入って行かなかったら、「喜ぶ人と共に喜ぶ」も「泣く人と共に泣く」もなくなってしまいます。さらに、この世の中に入ったとしても自分がキリスト信仰者であることを隠し通したら、信仰ゆえの苦労や苦難を回避できることになります。そういう状態でしたら迫害も受けないで済むし、迫害する者のために祈ることもなくなります。楽で簡単ですが、儲けもなくなります。

イエス様としては、信仰者にはこの世の中にどんどん入ってもらって、そこで世の流れに抗するように生きよ、ということなのでしょう。そうすることで大きな儲けが得られます。 逆もまたしかりです。

このように1ムナは「信仰も意味することができるとすると、それでは信仰も賜物同様「小さな事」と言っていいのでしょうか?ここで思い出しましょう、イエス様は弟子たちから「大きな信仰を与えて下さい」と懇願された時、お前たちは信仰をからし種のように捉えよ、と教えました。からし種とは1ミリにも満たない種が最後は数メートルの木に成長するという種です。信仰をそのように捉えると、初めは小さくても必ず成長し大きくなるということが確信出来ます。ただそれも、ちゃんとこの世の中に入って行って、流れに抗することをしないと、成長は起こりません。

そういうわけですから、兄弟姉妹の皆さん、せっかく頂いた信仰を隠してしまうことなく世の中に入って行って、いろんなこと、いろんな人に遭遇していきましょう。そこで、私たちを豊かにするものや人に出会ったら、まず神に祈り感謝しましょう。逆に出会うことや人が私たちにとって試練になれば、その時も神に祈り助けと導きをお願いしましょう。神は、祈る私たちを通して働かれます。

 イエス様を救い主と信じる信仰に生きよ、

そして遭遇し祈れ。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教 「聖書からみた『本当に生きること』と『本当に死ぬこと』」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書15章1ー17節、エゼキエル37章1ー14節

主日礼拝説教 2019年11月3日(全聖徒主日)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

 今日は全聖徒主日です。毎年お教えしていますが、キリスト教会では古くから11月1日を、キリスト信仰の故に命を落とした殉教者を聖徒とか聖人として覚える日としてきました。加えて11月2日を、キリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。ラテン語で、殉教者を覚える日はFestum omnium sanctorum、信仰者を覚える日はCommemoratio omnium fidelium defunctorumと呼ばれてきました。フィンランドでは、これら2つを合わせて11月最初の土曜日を「全聖徒の日」として両者を覚える日にしています。

日本のルター派教会のカレンダーでは11月1日が「全聖徒の日」と定められ、今年はこの間の金曜日でした。それに近い主日が「全聖徒主日」となり、今日11月3日がそれです。「全聖徒の日」に11月1日を選んでいるところを見ると、ラテン語の殉教者中心の伝統に立っているようにみえます。それでも多くの教会では私たちのもとを旅立った信仰の兄弟姉妹の遺影を飾ることが行われています。それで、フィンランドのように殉教者と信仰者両方を覚える日として定着しているのではないかと思います。

ここで、亡くなった方を「覚える」ということはどういうことかを注意しなければなりません。というのは、こうして遺影を飾っていると、さも亡くなった方が今見えない形で私たちと一緒に礼拝を守っているかのような感覚を持たれる方がいらっしゃるかもしれないからです。ルターが教えていますが、人は死ぬと、この世が終わりを告げて死者の復活が起きる日までは、神のみぞ知る場所にいて静かに眠ります。この世の終わりと死者の復活の日が来たら目覚めさせられて、神の目に相応しいとされた者は栄光に輝く復活の体を着せられて、天の御国の祝宴に迎え入れられます。それなので、復活の日まではただ眠るだけです。イエス様も、死んだ者を蘇らせる奇跡を行った時、「この者は死んではいない。眠っているだけだ」と言って蘇らせました(マルコ5章39節等共観箇所、ヨハネ11章11節)。

まことにキリスト信仰にとって、「生きる」とはこの世で肉の体を着て生きる日々だけではありません。復活の日に神の栄光に輝く体を着て生きる日々もあるのです。これら両方を合わせて生きることがキリスト信仰の「生きる」です。それから考えると、この世から去る「死」はまだ本当の死ではないことになります。本当の「死」は、この世で肉の体を着て生きたら、それで終わりということで、その後は輝く体を着せられることもなく祝宴に迎え入れられることもないことです。それでは、どうなるのか?本日の福音書の箇所のイエス様の言葉を借りれば、「枝のように外に投げ捨てられ枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハネ15章6節)ということです(後注1)。

 このように、亡くなった方は、復活の日まで安らかに眠っているとすれば、私たちを見守るとか導くとか助言するということはありません。私たちを見守り、導き、助言をするのは、私たちを造られて私たちに大事な命と人生を与えて下さった造り主の神以外にはいません。今見えない形で、礼拝を守るために集まった私たちと一緒にいるのは、他でもないこの神です。

そういうわけで、亡くなった方を「覚える」というのは、その方と共に過ごした日々を何ものにも換えがたい大切なものとして心に抱くことです。そして、そのような日々とそのような方を与えて下さった神に絶えず感謝し、御心でしたら復活の日に再会できますように、と神に祈ることです。このように過去の思い出を大切にして、それを神に感謝して将来の希望の日のことを神に委ねて今日を生きていく、これがこの世を生きるキリスト信仰者の亡くなった方との関わり方です。

昨年、日本福音ルーテル教会の東海教区の信徒大会で復活の信仰について講演した時、参加者から「全聖徒主日」を祝ってもいいのか、という質問がありました。私は、以上述べたことをわきまえて、亡くなった方ではなく父なるみ神を拝めば問題ないと答えた次第です(後注2)。

全聖徒主日の意味を考えると、復活や終末というキリスト教の死生観の核心に触れることになると言えます。死生観という言葉には「死」と「生」の両方が含まれています。生を考える時、死というものを切り離さないで考えるということです。先ほど、キリスト信仰においてはこの世を去る死は一時の眠りに入る段階であって、本当の死はその後に問題になってくると申しました。また、人間にはこの世の肉の体を持って生きる日々だけではなく、神の栄光に輝く復活の体を持って生きられる可能性があることも申しました。キリスト信仰においては「本当に生きる」というのは、この二つの生きることを総合したものだとも。「本当に生きること」と「本当に死ぬこと」の二つのことについて、本日の日課の個所は三つとも深めてくれます。ただ、時間の関係で解き明かしはエゼキエル書37章とローマ6章が中心になることをご了承ください。

 

2.

 本日のエゼキエル書の箇所にある出来事は、紀元前500年以上も前のことです。かつて神に選ばれた民として誇らしげなイスラエルの民でしたが、次第に指導者も国民もこぞって神の意思に背く生き方をし続け、その結果ついに神から罰として強大なバビロン帝国を遣わされてしまい、その攻撃を受けて滅びてしまいました。国の主だった者たちは捕虜として異国の地バビロンに連行されてしまいました。世界史の教科書の古代オリエント史のところに「バビロン捕囚」として登場する有名な歴史的な事件です。連れて行かれた人たちの中に預言者エゼキエルがいました。本日の箇所は、エゼキエルが神の霊に導かれてある谷に連れて行かれ、そこに無数の枯れた骨を見る。ところが、それに肉や皮膚がついて人間として生き返り出す光景を見せつけられたという出来事です。なんだかハロウィーン向けの話みたいです。渋谷の交差点に集まる人たちは興味を持つでしょうか?実はこのエゼキエルの出来事には、紀元前500年代当時を生きる人々にとって有する意味と、歴史を越えて現代を生きる私たちにとって有する意味の二つの意味があります。当時の人々にとって有する意味がわかると、私たちにとって有する意味もわかってきます。これから、そのことを見ていきましょう。

 37章11節を見ると、天地創造の神はなぜエゼキエルにこのような光景を見せたのか、その理由が言われています。この大量の枯れた骨はバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民を象徴している。国滅びて自分たちは荒野に放置された枯れた骨そのものだ、希望はなく消滅するしかない、などと嘆いている。それに対して神は、否、お前たちは必ず祖国に帰還できる、と約束する。神は、まさに約束を本当に実現する力があることを示すために、枯れた骨が生身の人間になって生き返る様子をエゼキエルに見せたのです。ここまで見せつけられたら、神の約束を信じないわけにはいかないでしょう。

 このように、この光景は国が滅びてしまった民が復興するのだと確信させるために見せつけられたのでした。同時にここには、人間というものは神に造られた被造物であるという、聖書の人間観がよく出ています。そこにも注意しなければなりません。8節に言われるように、骨に肉や皮膚がついてもまだ生きてはいませんでした。なぜなら、霊がなかったからです。神は霊を「与える」と言います。新共同訳では「吹き込む」ですが、ここではヘブライ語の原文に即して「与える」にします(後注3)。神は霊を次のように与えました。エゼキエルに「霊に預言せよ」と命じ、霊に言うべき言葉を指示します。その内容は霊が風のように四方から来てこれらの肉の塊に吹きつけるということです。(「霊に預言せよ」というのは(הנבא)、辞書によれば「預言者として霊に語れ、命じろ」です。つまり「預言者の権威を持って命じろ」ということです。)その通りに言うと、横たわっていた肉の塊は霊を受けて生き返ります。ここで霊が風のように言われますが、これはヘブライ語の言葉רוחが「霊」と「風」の両方を意味することによります。これは絶妙な言葉だと思います。風は空気の移動ですので目には見えません。木の枝や葉がざわざわなって風の力が働いたのを見て、吹いたことがわかります。霊も人間の目には見えません。その力が働いた結果を見ることしかできません。このことは、イエス様もヨハネ3章8節の有名な「風は思いのままに吹く」と述べているところで教えています。

以上から、人間が生きるためには神が与える霊を受けなければ生きられず、霊がなければ肉体はあってもただの塊にしかすぎないというのが聖書の立場であることが明らかになります。ここで一つ付け加えますと、霊がなければ動かないのは肉体だけではありません。人間には手足、目耳口、内臓や血管のような体の部分や器官の他に、感情や気持ちを生み出す「心」もあります。「心臓」と聞けば、それは血液を送り出すポンプのことを言うとわかります。血液循環に何か問題があって痛みを感じれば、「心臓」が痛いと言います。その時「心」が痛いとは言いません。「心」が痛いと言ったら、ジェスチャーとして心臓の部分に手をあてるかもしれませんが、それは気持ちや感情の問題で血液循環の問題ではありません。そういう心や精神の部分も、肉体と同じように、霊を受けないと作動しないのです。このように、人間が神に造られたというのは、肉体や心や精神の部分を造っていただいただけでなく、最後の仕上げとして霊を与えて下さったということです。

さて、霊とは人間を肉体や心や精神を持って生きるものにする決め手ということがわかりました。ところが、本日の箇所をよく見るともう一つ別の霊があることに注意しなければなりません。実は、これはヘブライ語の原文を見ないと気づくことができません。原文に即して言うと、14節で神は「また、わたしがお前たちに私の霊を与えると、お前たちは生きる」と言われます。新共同訳では「吹き込む」ですが、ここも原文は「与える」です。それよりも重要なことは、新共同訳では単に「霊を吹き込む」と言っていますが、原文では「私の」霊を与えると言っていて、与えるのが「神の霊」であることがはっきりしています。14節の前までは、枯れた骨の生き返りに与えられる「霊」は全部、「私の」はなく単に「霊」だけです。何が違うのか?14節で焦点になっていることを見るとわかります。それは枯れた骨の生き返りではなくて、イスラエルの民の祖国帰還です。骨肉は霊を与えられて生き返ったわけですが、民は「神の霊」を与えられて帰還するというのです。そうなると、二つの異なる霊があることになります。両方とも神から与えられるものですが、一つは人間を生きるものにする時に与えられる霊、もう一つはイスラエルの民が祖国帰還と復興を遂げる時に与えられる神の霊です。神が与えられる霊には二つあるということは、どう理解したらよいのでしょうか?

 

3.

 理解の鍵は、使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」8章14‐16節で次のように教えているところにあります。以前お教えしたことがありますが、少しおさらいしてみましょう。

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になってあかしして下さいます。」

いろんな霊が出て来るので、こんがらがってしまいますが、解きほぐしていきましょう。3つの霊があります。まず「神の霊」、それは人間を「神の子とする霊」とも言われます。それから、人間を「奴隷として再び恐れに陥れる霊」、そして、「わたしたちの霊」というのもあり、それは「神の霊」と一緒になって私たちが神の子であることを証しすると言われます。

まず、「神の霊」について。これは、父、御子、御霊の三位一体の神の御霊つまり聖霊を指します。人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、この神の霊、聖霊を受けます。聖霊を受ける受けないで何が違ってくるかと言うと、こういうことです。もし人がイエス様のことを現在のイスラエルがある地域で2000年前に活動した歴史的人物だと言ったら、その人には聖霊は働いていません。ところが、イエス様のことを歴史的人物のみならず、彼のゴルゴタの十字架の死や死からの復活というのは現代を生きる自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主だと信じるというようになれば、それは聖霊が働いたからということになります。

これに対して「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」とは、人間に罪を吹き込んで、人間を神聖な神から切り離して神罰を受ける存在にしてしまった悪魔のことです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、この霊から守られています。これが、本日の使徒書の日課「ローマの信徒への手紙」6章の中で使徒パウロが、洗礼を受けた者は「罪に対して死んでいる」と言っていることなのです(2節)。「罪に対して死んでいる」と言うのはどういうことか?当教会の聖書研究でローマ書を学んでいますが、既に終わったところですが、これもおさらいしておきましょう。

パウロは5章の終わりで次のように述べました。神の意思を表す律法がある。律法は、人間が罪を持つ存在であることを暴露する。しかし、神のひとり子のイエス様が十字架の上で神罰を受けることで、人間の罪を全て人間に代わって神に対して償って下さった。だからイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いを純白な衣のように頭から被せられて、神から罪を赦された者に見なされるようになった。つまり罪の赦しが神からの「お恵み」として与えられた。それなので、律法を通して罪がますます暴露されようとも、罪の赦しのお恵みは常にそれを上回ってある。以前は罪が人間を永遠の死に陥れていたが、イエス様の十字架と復活の出来事の後は罪の赦しのお恵みが人間を永遠の命に導くようになった。

そのように教えると今度は、罪の赦しがお恵みとしてあるのなら別に罪にとどまってもいいじゃないか、どうせ赦されるのだから、などと言う人も出てくる。パウロは、勘違いするな!と反論します。ここで、「我々キリスト信仰者は罪に対して死んでしまったので、罪にとどまって生きるなど不可能なのだ」と言って、ここで「罪に対して死んでいる」ということが出てきます。さあ、どういうことでしょうか?パウロは、そのことが洗礼の時に起きたと言います。どういうふうに起きたかと言うと、人間は洗礼を受けることで、イエス様の死に結びつけられると同時に彼の復活にも結びつけられる。つまり、洗礼にはイエス様の十字架の死と死からの復活が表裏一体としてあって、受けた人はこの二つに結びつけられる。イエス様の死に結びつけられると、我々の内にある罪に結びつく古い人間が十字架につけられて無力化する。そうなると、我々は罪にお仕えする生き方から離脱する。さらにイエス様は死から復活されたので、もう死は彼に力を及ぼせない。死が力を及ぼせないというのは、人間を死に陥れようとする罪も力を失ったということだ。イエス様が十字架で死なれた時、それは罪と死が彼に勝ったのではなく、事実は全く逆で、イエス様の死は罪と死が壊滅的な打撃を受ける出来事であったのだ。日本語訳で「罪に対して死なれた」というのは、このように罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれたということです(後注4)。そのことが十字架という一度限りの出来事をもって未来永劫にわたって起きたというのです。さてイエス様は罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれた後、復活されました。それからは生きることは、神の栄光を現わす器として生きることになります。このように、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現わす器として生きることは、イエス様だけでなく、洗礼を受けたキリスト信仰者にもそのまま当てはまる、とパウロは教えます。

 先ほどのローマ8章に戻ります。ここでのパウロの教えで興味深いのは、キリスト信仰者の内には二種類の霊があるということです。一つは先ほど申し上げた神の霊、聖霊ですが、もう一つは、信仰者が神の子であることを聖霊と一緒に証する「わたしたちの霊」です。これは、私たちが肉体や心や精神を持った生き物になるために神から与えられる霊です。キリスト信仰者もそうでない者も、生き物として持っていなければならない、神から与えられた霊です。それがキリスト信仰者になると、聖霊がその上に被せられるように与えられます。聖霊がなくてただの霊だけでも、もちろん生きられます。肉体や心や精神を用いた活動を行うことが出来ます。ただ、イエス様が歴史上の人物とは知ってはいても、自分の救い主にはなっていません。ひとり子を犠牲にすることをいとわないくらい人間のことを思って下さった神を慈愛に満ちた父であるということもわかりません。神がひとり子イエス様を犠牲にしてまでもたらしてくれた罪の赦しもまだ受け取っておらず、罪が償われたという解放の喜びや安堵もありません。さらに、人間を罪の支配下に留めたがる悪魔の霊に対して不注意で隙だらけになってしまいます。

 

4.

 以上、人間は生き者になるために天地創造の神から「霊」を与えられなければならないこと、さらに神のことを慈愛に満ちた父親と抱ける「神の子」となるためには「神の霊」、「聖霊」が与えられなければならないことが明らかになりました。この二つの異なる霊は、エゼキエル書の二つの霊に重なります。37章の1節から10節までは、枯れた骨が生身の人間に生き返ることを言っていました。そのために神から与えられる霊が必要とされました。この光景を見せられたエゼキエルは、枯れた骨みたいになったイスラエルの民ではあるが、神はこれを生き返らせて下さる、つまり祖国に帰還させて復興させて下さると確信できました。そして、それは実際に紀元前538年に歴史的出来事として実現しました。37章の14節で「私の霊」として出て来るのは、祖国に帰還するイスラエルの民が受ける特別な霊を示しています。ここで注意しなければならないことは、実際に祖国に帰還したのは、旧約聖書のネヘミア記やエズラ記を見てもわかるように生身の人たちです。枯れた骨に肉と皮膚がついて霊が与えられて生き返った者たちが帰還したのではありません。実際に帰還した人たちはもともと生き者でしたので、生きるための霊は既に持っていました。そういうわけで、帰還の時に与えられる「私の霊」、神の霊というのは、生き物にする霊ではなくて、「神の子」にする聖霊を指します。

さて、歴史的事実としてイスラエルの民は祖国帰還を果たしエルサレムの町と神殿を再建しました。しかし、それらを本当に聖霊を受けて神の子となって果たしたのかというと、そこには複雑な問題がありました。聖霊を受けて神の子となって祖国に帰還・復興するというのがエゼキエルの預言でした。ところが帰還と復興は遂げても、民は神の意思に沿う生き方が出来ていないということが次第に明らかになってきました。国民は復興したとは言っても、国は相変わらずペルシャ帝国、アレキサンダー帝国そしてローマ帝国に支配され続けていました。イザヤ書2章にあるように異邦人がこぞって天地創造の神を拝みにエルサレムに上ってくるという預言からほど遠い現実がありました。そうなると、民に聖霊が与えられて神の子とされるのはまだ実現していないのではないか?そういう疑問が生まれてもおかしくはありません。預言書に言われる祖国帰還と復興というものも実は別のものを指し、それはまだ実現していないのではないか?そう考えられるようになります。つまり、預言はまだ未完だという理解です。

どうしてこのようなことになったかと言うと、神は天地創造の後に起きてしまった人間の罪の問題の解決を図ることを第一に考えていたのでした。一民族の歴史的復興でそれが果たされるとは考えていませんでした。問題は全人類にかかわる問題です。一民族の復興で解決される類のものではありません。神としては全人類の問題の解決を視野に入れて預言者に言葉を話しますが、特定の歴史状況の中で話され、またそれを聞いた預言者も自分の置かれた状況を手掛かりにしてしか理解できません。その結果、イスラエルの民の祖国帰還や復興という一民族の歴史的出来事は、預言実現そのものではなく、なにかそのミニチュアないし模型のようなものになります。

全人類に関わる罪の問題が解決したのは、イエス様が十字架の死をもって人間を罪の支配から解放した時、そして死から復活されることで永遠の命への扉を開いた時でした。そういうわけでエゼキエルの預言は実は、罪の支配下にあって枯れた骨同然の人間一般が、イエス様の十字架と復活のおかげで罪の支配から解放されて聖霊を与えられて神の子とされて「新しい命に生きる」(ローマ6章4節)ようになることを見通した預言だったのです。さらに「墓が開かれ、墓から引き上げられる」(エゼキエル37章12ー13節)というのは、神の子となった者たちがまさに復活の体を着せられて、神の御国に「帰還」するという、まさに復活の日をも見通す預言だったのです。このように旧約聖書の預言を見る時はいつも、預言が一旦実現したかに見える歴史的事実だけに注目するのではなく、イエス様の十字架と復活の出来事そして将来起こる復活の出来事にこそ真の実現があるということを忘れてはいけません。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注1)礼拝後のコーヒータイムの交わりの時に信徒から次のような質問がありました。「地獄の火に投げ込まれたら、そのまま燃えて消滅するのか、それとも永遠に燃やされ続けるのか?」私は、永遠に燃やされる、と答えました。それは聖書の随所から明らかだからです(黙示録20章10節と14節、14章10~11節、ダニエル12章2節、マタイ25章46節)。すると信徒は、「永遠に燃やされるのなら、その者は死んでおらず生きているのでは?生きているから地獄の苦しみを永遠に味わうことになるのでは?だから、その者に関しては、生きることはこの世の生で終わるということにはならなないのでは?」

それに対して私は、イエス様の言葉の使い方を見ると「生きる」というのは「永遠の命」に結びつけて言われる、それで彼の用法に従えば地獄で永遠に焼かれる状態を「生きる」と呼ぶことはできない、とお答えしました。その時、参照したのはヨハネ11章25~26節のイエス様の言葉でした。「私は復活であり命である。私を信じる者は、たとえ死んでも生きることになる。また、生きて私を信じる者は永遠に死ぬことはない。」イエス様を信じる者は死んでも生きることになるというのは、信じない者は死んだら生きることにならない、ということです。たとえ、永遠に地獄の火で焼かれても生きることにならないのです。生きてイエス様を信じる者は永遠に死ぬことはないというのも、同じように考えることが出来ます。永遠の死とは、地獄の炎で焼かれても死んでいるから何も感じないというのではなく、永遠に苦痛を味わうということです。それじゃ、やっぱり生きているんだ、と言われるかもしれませんが、イエス様の言葉遣いはそうではないということです。「生きる」はあくまで「永遠の命」に結びつけて言われます。

- このようにスオミ教会は、信徒の方々が説教について鋭い質問をされるところですので、説教者は説教者の地位に甘んじることなく緊張感を持って説教を準備することができます。

 (後注2)「復活信仰と日本的霊性の挑戦」(2018年11月2日、於日本福音ルーテル名古屋希望教会)https://www.bibletoolbox.net/ja/seisho/fukkatsushinkou

(後注3)霊は吹き込まれるのか、与えられるのか、日本語の背後にあるヘブライ語を見てみます。

5節「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む(ヘブライ語は「もたらす、来させる」)。

 6節「わたしは、お前たちの上に筋をおき、(…..)霊を吹き込む(ヘブライ語は「与える」)。」

9節「霊よ、四方から吹き来たれ(ヘブライ語は「来たれ」)。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ(ここはヘブライ語も「吹きつけよ」)。」

10節「わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り(ヘブライ語も「入り」)。」

14節「また、わたしはお前たちの中に霊を吹き込むと(ヘブライ語は「与える」)。

 (後注4)大学のギリシャ語新約読解の授業で先生が、ここの与格はdativus incommodi(~にとって不利になるように)であるとよく強調されたものでした。

 

 

 

交わり

今日は初めて参加されたフインランドからのゲストを交えてパイヴィ先生のカレーを美味しくいただきながら歓談のひと時を過ごしました。

説教「創造主である神のもとに向かう道をひたすら歩め」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書18章9ー14節

主日礼拝説教 2019年10月27日(聖霊降臨後第20主日)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 福音書には、徴税人と呼ばれる人たちがよく登場します。どんな人たちかと言うと、名前が示すごとく、税金を取り立てる人たちです。福音書に出てくる徴税人とは、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人です。なぜ占領された国民の中に、占領国に仕えようとする人が出てくるかというと、徴税の仕事は金持ちになれる近道だったからです。福音書をよく読んでみると、徴税人たちが決められた徴収額以上に取り立てていたことがわかります。ルカ福音書3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱責する場面があります。そこでヨハネは彼らに次のように言いました。「規定以上のものは取り立てるな」(13節)。ルカ19章では、ザアカイという名の徴税人がイエス様に次のような改心の言葉を述べます。「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)。そういうわけで、占領国の権力をかさに不正を働いていた徴税人が自分の利益しか考えない裏切り者とみなされて、同胞から憎まれていたことは驚きに値しません。

ところが、こうした背景知識をもって福音書を読んでみると、驚くべきことに気づかされます。それは、福音書に登場する徴税人たちは、以上みてきたような実際に存在した徴税人とは様子が違うのです。福音書に登場する徴税人には、邪悪なところがみられないのです。もう一度ルカ福音書の3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが、神の裁きが来ることを人々に告げ知らせています。ヨハネの宣べ伝えを信じた大勢の人たちが、自分たちの悔い改めを確かなものにしてもらおうと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループがいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねました。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは神の裁きを恐れ、神に背を向けて生きていたことを認めて、それをやめて神のもとに立ち返らなければならないと思ったのです。それで、そのために何をすべきかと聞いたのです。本日の福音書の箇所の徴税人の場合は、何をすべきかと聞くどころか、ただ「赦して下さい」と神に憐れみを乞うだけです。どちらにしても、それまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。

もちろん本日の箇所の徴税人は、イエス様のたとえに登場する架空の人物です。しかし、それでもこのような改心した徴税人が実際にいたことは、洗礼を受けにヨハネのもとを訪れた人たちの中に徴税人のグループがいたという事実から明らかです。ルカ19章の徴税人ザアカイですが、イエス様が彼の家を訪問すると決めるや否や、これまで不正を働いて貯めた富を捨てるという大きな決心をしました。マルコ福音書2章にレビという名の徴税人が登場しますが、イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てたということです。

以上のように福音書の記述から当時、徴税人の間では、どれくらいの割合だったかはわかりませんが、神に背を向けていた生き方をやめなければ、神のもとに立ち返らなければ、そういう気運があったことが読み取れます。

 

2.二つの対照的な祈り方

 本日の福音書の箇所でイエス様は祈りについて教えています。二つの全く対照的な祈り方について述べられています。一方はファリサイ派という宗教エリートの人の祈りで、自分は神が定めた規定をちゃんと行っていると神に報告します。まるで神に対して念を押すような高慢さが見られます。自分が周りにいるような罪びとたちと同じでないことを感謝します、などと言うのは醜いエリート意識そのものです。他方は徴税人の祈りで、自分が罪びとであることを認めて神に憐れみを乞うだけです。それが祈りの全てです。胸を打つというのは、悲しみや悔恨を表わす行為です。悔恨や憐れみを乞うのが本当に心の底からの叫びだったことが窺われます。ファリサイ派の人の祈りは神に対して自分を高く見せる祈り、徴税人の祈りは低く見せる祈りと言って良いでしょう。

先週の福音書の箇所は本日の個所の直前でしたが、そこも祈りについての教えでした。それは、執拗に願い求める未亡人と神をも畏れない裁判官のたとえでした。そこでのイエス様の教えの趣旨は以下のものでした。もしキリスト信仰者が不正や害悪を被ってしまったら、それが解決されるように働くと同時に神に助けを祈り求めなければならない。仮にこの世で解決に至らなくても最後の審判の時に神が不正義を全部清算してくれて、正義を完全に実現して下さる。それなので、信仰者はこの世で解決にあたる時は手段を選ばないなどと悪と同じ土俵に立ってはならず、あくまで神の意思に留まって行うのみ。その時、祈りを絶やさないというのは、まさに自分は神の正義実現を信じており、そこに全てを賭けている、だから神の意思に従うのだ、そういう信念を絶えない祈りは表明するのだ。以上がイエス様の教えの趣旨であると述べました。  

そこで、先週と本日の教えには興味深い関連性があることに気づかされます。先週の「やもめと裁判官」のたとえが述べられたのは、弟子たちに対してでした。本日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえは誰に対して述べられたかと言うと、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(18章9節)です。ここで「正しい」という言葉ですが、ギリシャ語ではディカイオス(δικαιος)で「義」を意味する言葉です。「義」というのは「神の目に適う、神の目に相応しい」ということです。つまり、自分たちは神の前に立たされても全然問題ない、地獄の炎に焼き尽くされる心配はないと自信満々で、他の者は大丈夫ではないと見下している人たちです。誰のことを指すのでしょうか?ファリサイ派の人たちでしょうか?実はそうではないのです。

「やもめと裁判官」の最後のところでイエス様は尋ねました。自分が地上に再臨する日、果たして、やもめのような執拗さをもって祈りを絶やさない信仰はこの世に残っているだろうか?この質問は、たとえを聞いていた弟子たちにされました。イエス様はこの質問の後すぐ、「ファリサイ派と徴税人」のたとえを今度は、自分は神に目に相応しいと自信満々な者たちに向けて話されました。つまり、このたとえが向けられた相手というのは、弟子たちの中で、自分は大丈夫だ、死ぬまで神を信頼して祈りを絶やさずに生き抜くことが出来ると信じていた者たちだったのです。果たして自分が再臨する日に祈りを絶やさない信仰を見いだすことができるであろうか、というイエス様の問いに対して、「はい、わたしはそのような信仰を持っています」と自信を持って答えられる者を相手に述べられたのです。

そういうわけで、本日の福音書の箇所は、神を信頼して祈りを絶やしてはならないという先週の教えを、さらに一歩踏み込んだものと言えます。たとえ信仰ある人が最後まで気を落とさずに絶えず祈り続けたとしても、もしファリサイ派の人のように祈ってしまったら、せっかくの絶えざる祈りが何の意味もないものになってしまいます。

先ほど、洗礼者ヨハネのもとに集まった徴税人たちは神の罰を受けないためにヨハネの洗礼の他に何をしなければならないかと尋ねたことを述べました。そして、本日の箇所の徴税人の場合は「何をしなければならないか」という問いを通り越して、ただただ「神さま、罪びとの私を罰しないで下さい」と神に憐れみを乞うだけだったことも申しました。神から罰を受けるというのは、この世の人生を終えた後で自分の造り主である神のもとから永遠に引き裂かれてしまうことです。が、それは来世に限ったことではありません。この世で歩んでいる道が神のもとに向かう道でなければ、どんな道を歩んでも神から守りと導きは得られません。罰はたとえ将来のものであっても、既にこの世の段階で序章のように始まっているのです。

そこで、私は罪びとです、神に背を向けて生きてきました、と認めて、どうか神さま、罰しないで下さい、と憐れみを乞うた徴税人が神の目に相応しい者、神の前に立たされても大丈夫な者つまり義なる者とされた、というのがイエス様の教えです。これとは反対にファリサイ派の人は、宗教的な規定をしっかり守っているので自分では神に背を向けた生き方をしているとは思いもよりません。憐れみを乞う必要もありません。しかし、その百点満点のはずの彼が神の前に立たされても大丈夫な者にならなかったのです。これは一体どういうことでしょうか?本日の個所の終わりでイエス様は、自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされる、と言われます。これだけ見ると、人間は神の前で偉そうにしてはいけない、謙虚でなければならない、と言っているように見えます。しかし、ここはそういう道徳教育みたいなことが問題になっているのではありません。ここには人間のあり方、でき方を根本から問い直さなければならないような大きな問題があるのです。このことがわからなければ、この個所はわかったことにはならないのです。

 

3.原罪を直視することから始まる救い

 私たちは徴税人が「神様、罪びとの私を憐れんで下さい」と、神に憐れみを乞う祈りをするのを聞いて、彼がそう祈るのはもっともなことだと思うでしょう。ところが私たちの場合は、そういう同胞を裏切ってまで私腹を肥やすようなことは縁遠いことなので自分には関係のない祈りに聞こえるでしょう。さらに、神の意思を表した十戒の掟に照らし合わせても、自分は盗みも偽証もしないし、ましてや不倫や殺人など思いもよらないことだ、というのが大方の思いでしょう。つまり、自分は聖書の神の意思を結構守れているのではないか?ところが、イエス様はこのことについて何と教えていましたか?たとえ行為で犯していなくても、心の中で兄弟を罵ったら第五の掟を破ったのも同然、異性を淫らな目で見たら第六の掟を破ったのも同然と、十戒の掟は心の有り様にまで関わっていると教えました。

以前にもお教えしましたが、スウェーデンやフィンランドには「罪」を言い表す時に、「行為として現れる罪」と「受け継がれる罪」の二つを言い表す言葉があります([ス]gärningsynd、arvsynd、[フィ]tekosynti、perisynti)。前者は行い、思い、言葉の形を取る具体的な罪、後者は具体的な形を取らずとも人間が最初の人間から遺伝して受け継いできた罪です。この罪があるから行為に現れる罪も起こる、言わば罪の罪、まさに原罪です。人間なら誰でも「生まれながらにして」持っている罪です。具体的な形の罪を犯さない人でも、置かれた環境や境遇が違っていたら犯していたかもしれないのです。

マルコ福音書7章を見るとイエス様とファリサイ派の人たちの有名な論争があります。それは、何が人間を汚れたものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうかという問題でした。イエス様の論点は、人間を汚して神から切り離された状態にするのは、人間の内部に宿る無数の悪い思いである、従って、宗教的な儀式や規定を守っても内部の汚れは除去できないので意味がない、というものでした。だから、本日の個所のファリサイ派の人が自分は週に二回断食してる、購入物の10分の1を神殿に捧げている、などと祈っても、それをすることで汚れは除去できておらず、神の目に罪のない相応しい者にもなっていないのです。本人はその気でいるので気の毒なのですが。それでは、人間は一体どうしたら神から切り離された状態に終止符を打てて、神の目に相応しい者となれるのでしょうか?

これを人間の力ではできないとわかっていた神は、それを神の方でしてあげようと、ひとり子イエス様をこの世に送られました。イエス様は人間の全ての罪を十字架の上にまで背負って運びそこで神の罰を受けられて、人間に代わって罪の償いを果たされました。つまり、神はイエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させて永遠の命があることを人間に示し、その扉を人間のために開かれました。人間の目の前に神のもとに通じる道が開かれたのです。人間は、これらのことが全て自分のために整えられたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様がしてくれた罪の償いを頭から被されて、神の目から見て罪を赦された者と見なされます。こうして人間は、イエス様がして下さったこととその彼を救い主と信じる信仰のおかげで神の目に相応しい者とされ、神のもとに通じる道の上に置かれてその道を歩むことになります。神との結びつきを持って生きられるのですから、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られます。この世を去って神の前に立たされるまさにその時、洗礼の時に被せてもらった汚れなき衣を肌身離さず携えて歩んだことを覚えてもらい、永遠の労いの祝宴に迎え入れられるのです。

ここで一つ注意しなければならないことは、キリスト信仰者といえども、この世で肉を纏って生きている以上は罪や汚れた悪い思いを内に抱えているということです。この点は、信仰者も信仰者でない者も同じです。ところが、キリスト信仰者の場合は、神がイエス様を用いて成し遂げて下さった罪の赦しを、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して受け取ったので、神からそう見てもらえるということです。神との結びつきを回復してもらえ、神から守りと導きを得られて生きられることを感謝し、神の意思に沿うように生きようとします。その時、神の意思に沿うということが恐らく信仰に入る前よりも敏感になるのではないかと思います。そうなると、徴税人の「神様、罪びとの私を憐れんで下さい」という祈りはキリスト信仰者こそ祈らなければならないものになります。しかし、何も心配はありません。私たちはその度に心の目をゴルゴタの十字架に向け、あのお方の肩の上に私たちの罪が重くのしかかっていることを確認できれば、あそこに私たちの罪の赦しがあることがわかります。父なるみ神はひとり子を犠牲にするのを厭わないくらいに私たちを愛して下さることがわかります。神は、罰するかわりに本当に赦しを与えて下さることを私たちがわかるようにと、イエス様をこの世に送られて十字架の死に引き渡したのです。

そういうわけで、信仰者になった後も「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という祈りは終わることはないとは言っても、イエス様を救い主と信じてこの祈りを祈る人は、イエス様の身代わりの死に免じて神から罪を赦されます。イエス様を信じない人は、誰かの何かに免じて罪が赦されるということがありません。それで、全て自分の力で赦しを得なければならなくなります。しかし、それは不可能です。本日の個所のファリサイ派の人の祈りはまさにそのことを表わしています。自分を高くする者は低くされるというのは、罪の問題が果てしなく大きなものであることがわからず、人間の知見と努力で解決できたと思った瞬間、その果てしなく大きなものに蹴散らされてしまうことです。自分を低くする者は高くされるというのは、罪の問題が果てしなく大きなものであることを知って茫然として身がすくんでしまった瞬間、神の御手が自分を離さずしっかり支えていることに気がつくことです。

 

4.創造主である神のもとに向かう道を祈りながらひたすら歩もう

 先ほど、キリスト信仰者というのは、イエス様がして下さったこととその彼を救い主と信じる信仰のおかげで神の目に相応しい者とされた者であると申しました。そして、神のもとに通じる道の上に置かれてその道を歩むことになり、神との結びつきを持って生きられるので、絶えず神から助けと良い導きを得られる者であるとも。この世を去って神の前に立たされるまさにその時、洗礼の時に被せてもらった汚れなき衣を肌身離さず携えて歩んだことを覚えてもらい、永遠の労いの祝宴に迎え入れられる者であるとも申しました。本日の使徒書、第二テモテ4章6~8節のパウロの言葉は、この世を去る時が近づいたことを自覚した彼が、まさにそのような生き方を総括する言葉になっているので、それをもう一度お読みして本説教の結びとしたく思います。

「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。」

兄弟姉妹の皆さん、パウロの言葉の次の部分が私たちにとって重要です。

「しかし、わたしだけではなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます。」イエス様の再臨を待ち望む人、それは神の正義が完全に実現する日を待ち望み、それを絶やすことなく祈る人です。私たちも、その祈りを絶やさずにこの道をひたすら歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

交わり

 

高木 賢先生(sley)からのメッセージです。何時ぞやお招きした牧師が交わりの席で述べた「交わりも礼拝である」の一言がずうっと気になっていました。高木先生のメッセージの中にその答えがあったと思います。

 

「交わり」(その4)

 

しかし、

神様が光の中にいるように

私たちも光の中を歩くならば、

私たちは互に交わりをもち、

この方の御子イエス様の血がすべての罪から私たちをきよめます。 

(「ヨハネの第一の手紙」1章7節)

 

不信仰な者たちとの交わりは人を罪に堕とします。

間違った友人関係は人を神様の御言葉と救い主から引き離します。

御言葉を聴いても何も心に響かなくなります。

信仰と祈りに対して冷淡になります。

この世的なものへの愛着が湧き出てきます。

しかし、それは神様に敵対することです。

この世の子らのよい友人になるくらいだったら、

ひとりきりになるほうがよっぽどましです。

しかし、実の兄弟よりも忠実な友だちがいます。

そのような友だちは神様からの賜物です。

 

(祈り)主よ、交わりについて、また信仰の兄弟姉妹についてあなたに感謝します。

どうかこの交わりの中で私が生きていけるようにお助けください。

そして、よいキリスト信仰者の友だちを私にお与えください。アーメン。

読書会:木村長政 名誉牧師

H.ナウエン著「放蕩息子の帰郷」をテキストに木村先生が解説してくださる読書会です。今回は父の開いた祝宴についてでした、読み進んでいるうちに父=神のイメージに気づかされました。

 

 

説教「神の守りと導きは、たとえないように見えても、実はしっかりあるのだ」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書18章1-8節、第二テモテ3章14節ー4章5節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.イエス様を救い主と信じる信仰に立って旧約聖書を読むとどうなるか?

 本日の使徒書の日課、第二テモテの3章15節を見ると、パウロは弟子のテモテに次のように言っています。お前は子供の時から神聖な書物を知っていて、それらの書物はイエス様を救い主と信じる信仰に立って読むと救いに導く知恵を与えてくれる、と。新共同訳では「神聖な書物」のことをご覧のように「聖書」と訳していますが、これは誤解を与える訳です。「聖書」と言ったら、今私たちが手にしているこの分厚い本です。旧約聖書と新約聖書が一緒になっている本です。ところが、パウロがテモテをはじめあちこちに手紙を書き送っていた当時は、まだ新約聖書は出来ていません。イエス様の言行録を収めたマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書が出来るのはもう少し先のことです。書かれたもので出回っていたのは、パウロをはじめとする使徒たちの手紙くらいでした。イエス様の言行録はと言うと、直接の目撃者である使徒たちが自分たちの口で宣べ伝えていました。宣べ伝えの核心部分は、まさに自分たちが目撃したイエス様の十字架の死と死からの復活によって旧約聖書の預言が実現したということでした。使徒たちが晩年の頃ないしこの世を去る頃になって、イエス様の言行録が書き留められて福音書が出来上がりました。そういうわけで、それ以前は「神聖な書物」と言ったら、それは専ら旧約聖書を指したのでした(後注)。

その旧約聖書を、イエス様を救い主と信じる信仰に立って読むと救いに導く知恵が与えられる。これはどういうことか?まず、「救い」とは何か?それは、イエス様が人間の罪の償いを神に対して代行して下さった、それで、そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いを頭から被せられて、罪を赦された者として神に見てもらえるようになる。そうして、罪が人間に入り込んだ堕罪の時に断ち切れてしまった神との結びつきが回復する。そして、その結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、神から守られ導かれて生きられる。この世を去った後、最後の審判の日に神の前に立たされても大丈夫でいられる。なぜなら、イエス様を救い主と信じる信仰を肌身離さず携えて生きたので、それで罪を赦された者として認められて神の御国に迎え入れられる。以上が、キリスト信仰で言う「救い」です。

第二テモテ3章15節は、旧約聖書をイエス様を救い主と信じる信仰に立って読むと、この救いに導いてくれる知恵が与えられる、と言います。本日の旧約聖書の日課はヤコブが神と格闘した出来事でした。ヤコブは負傷しても神から祝福を受けるまでは神にしがみついて離しませんでした。天地創造の神が一人の人間と取っ組み合いをするなどとは想像を超える出来事です。実は3年前このことについてどう考えたらよいかお教えしました。今回はそれを繰り返しません。この旧約聖書の出来事も、パウロによれば、イエス様を救い主と信じる信仰に立って読めば、救いに導く知恵を与えてくれます。本日の説教では最初に、福音書の個所をもとにイエス様を救い主と信じる信仰を深めてみます。その後でヤコブの格闘の出来事から救いに導いてくれる知恵を頂きましょう。

 

2.やもめと裁判官のたとえ

 本日の福音書の個所は、イエス様の「やもめと裁判官」のたとえの教えです。この教えは弟子たちに語られますが、その目的は弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」でした。もちろん、これは弟子たちだけに向けられたのではなく、イエス様を救い主と信じる全てのキリスト信仰者に向けられています。つまり私たちにも向けられています。

なぜ、イエス様は、気を落とさずに絶えず祈ることの大切さを強調したのでしょうか?それは、弟子たちも私たちも、神に守られ導かれているとは言っても、この世ではそう思えなくなるような厳しい現実があり、そういうものに直面していくうちに神の守りや導きなんかないと思うようになってしまうからです。特に本日の箇所に即して言えば、不正や不正義に圧倒されてしまって、あきらめ心になって、神に解決を祈り求めることを止めてしまう、そういう危険があることをイエス様は知っていました。このことをイエス様が深く心配していることが、本日の箇所の最後の節で明らかになります(8節)。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」イエス様が天使の軍勢と共に再臨される日、果たしてこの地上には気を落とさず祈りを絶やさない信仰を持った人は残っているのだろうか、それともみんな祈りを絶やしてしまった後だろうか、というのです。それほどキリスト信仰者は、厳しい現実に絶えず遭遇しながら生きていかねばならないのです。ここで、イエス様の教えをじっくり見て、やはり祈りは何があっても絶やしてはいけないのだ、ということを体得していきましょう。

まず、登場人物について見ていきます。裁判官は、「不正な裁判官」(6節)と言われています。この日本語訳は正確とは言えません。ギリシャ語のアディキア(αδικια)という単語がもとにありますが、「不正な」と訳すと、何か不正を働いた、私腹を肥やすようなことをしたというようなイメージが沸きます。この裁判官は本当はどんな人物だったかは、本日の箇所にしっかり言い表されています。イエス様が彼のことを「神をも畏れず、人を人とも思わない」人物と描写します(2節)。裁判官自身も、自分のことを全く同じ言葉で言い表します(4節)。つまり、「不正な」と言うよりも、人を人とも思わないから無慈悲、無情な人物、神を畏れないから尊大な人物と言えます。その意味で「不正な」と言ってもいいのですが、正確には「無慈悲で尊大な」裁判官です。

 次に「やもめ」、つまり未亡人について。伝統的にユダヤ教社会の中で未亡人は社会的弱者の一つと認識され、彼女たちを虐げてはならないことが神の掟として言われてきました(出エジプト22章21節、申命記27章19節、詩篇68篇6節、イザヤ1章17節、ゼカリア7章10節)。夫に先立たれた女性は、もし十分な遺産がなかったり、成人した息子がいなければ、生きていくのは困難だったでしょう。遺産があっても、不正の的となって簡単に失う危険があったことが聖書の中から伺えます(例えばマルコ12章40節を参照)。

 さて、ある未亡人が何かの不正にあって、この裁判官にひっきりなしに駆け寄り、「相手を裁いて、わたしを守って下さい」としつこく嘆願します。ギリシャ語の原文に忠実に言うと、「相手を裁いて、わたしのために正義を実現して下さい(εκδικησον με)」です。裁判官は、最初は取り合わない態度でしたが、何度もしつこく駆け寄って来るので、しまいには「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判してやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わせるにちがいない」と考えるに至ります。「さんざんな目に遭わせる」は、ギリシャ語では「目に青あざを食らわす」(υπωπιαζω)という意味の単語です。相手が裁判官で、そんなパンチを浴びせるなどという暴力沙汰になったら大変な事態になります。しかしそれは、未亡人はもう他に何も失うものはないという位に切羽詰った状況にいたということです。「彼女のために裁判してやろう」というのも、これもギリシャ語に忠実に訳すると「彼女ために正義を実現してやろう」(εκδικησω αυτην)です。

 ここでイエス様は弟子たちに注意を喚起して言います。この裁判官の言いぐさを聞きなさい。無慈悲で尊大な裁判官ですら、やもめの執拗な嘆願に応じるに至ったのだ。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」イエス様がよく用いる論法に「~ですら~するならば、神はなおさらそうするであろう」というのがあります。神は明日にも枯れてしまう野の草花ですらこんなに美しく飾って下さるのであれば、お前たちのことはなおさら面倒を見て下さるのは当然ではないか、というマタイ6章28~30節の文句は皆さんもよくご存知でしょう。無慈悲で尊大な裁判官ですら、やもめの正義の実現のために動いたのだ。ましてや、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずにいつまでもほうっておくことなどはありえない、神は速やかに裁いてくださるのだ。ここで言う「裁きを行う」というのは、先ほどと全く同じように「正義を実現する」(ποιεω την εκδικησιν)です。「速やかに裁いてくださる」も同じ「正義を実現する」です。実にこの箇所では、日本語訳では見えてきませんが、「正義の実現」を意味する言葉が4回も使われ、正義の実現と祈りを絶やさないことが問題になっているのです。

 

3.神をおいて正義を完全に実現される方はいない

 不正を働く者が他者に害を及ぼすと、正義が損なわれます。その場合、国の法律や司法制度が作動して、不正を働いた者には処罰、害を被った者には補償を実現します。それがないと正義がない状態になります。不正を被るというのは、信仰を持っていようがいまいが関係なく被ってしまうものもあれば、信仰を持つがゆえに被ってしまうものもあります。キリスト信仰では、十戒という神の意思が確固としてあるので、周りでそれに反することがあれば、自分はそれに組しないとか、場合によってはそれに反対する姿勢をはっきり示すことが出てきます。もちろん、十戒の中には「殺すなかれ」、「盗むなかれ」、「偽証するな」などのようにキリスト信仰者でなくても共有できる正義もあります。だた、天地創造の神を唯一の神として全身全霊で愛せよ、とか、神の名を汚すな、とか、安息日を神聖な日にせよ、とか、共有しないものもあります。キリスト信仰者でない者同士の間でさえ意見や利害の対立が生まれたり、そこから相手を打ち負かしてやろうという野望が出てきたりします。これにキリスト信仰者が入り込んだら、摩擦や軋轢の原因がさらに増えることになります。パウロの時代のようにキリスト教徒が社会の圧倒的少数派であれば、これはもう痛い目に遭わせてやろうという格好の標的になります。

それに対してキリスト信仰者はどう立ち振る舞ったらよいのか?それをパウロはローマ12章で訴えるように教えています。悪に対して悪で報いるな、悪人善人に関係なく全ての人に対して善を行え(17節)、周りの人と平和な関係を保てるかどうかが我々信仰者の肩にかかっている場合は迷わずそうせよ、相手がどう出ようが、少なくとも自分からは平和な関係を崩すな(18節)、悪を被った時は自分で復讐するな、神の怒りに任せよ、なぜなら復讐は神のすることであり、報いを行うのは神だからだ(19、20節)。ここの日本語訳で「信仰者は復讐してはいけない、復讐は神がすることだ」と言っている「復讐」ですが、ギリシャ語原文では、やもめと裁判官のたとえで言っていた「正義を実現する」と同じ単語(εκδικησις)です。つまり、信仰者は悪を被った時、悪を行った者に完璧な償いをさせて完全な正義を実現するのは神であるとわきまえなければならない。信仰者は神に代わって自分で完璧な償い、完全な正義を実現しようとしてはならない。じゃ、キリスト信仰者は悪を被ったら何をするのか?それは、完璧な償い、完全な正義は最後の審判の時に神が実現するということに全てを託して、今は悪を行った者が飢えていたら食べさせ、喉がかわいていたら飲ませるだけだ、ざまあみろと言ってはいけない(20節)。以上のようなパウロの教えに対して、そんな馬鹿な!なぜ、そんなお人好しでなければならないのか?そういう声が上がるかもしれません。

これは、悪を行う者がなんだ悪をしてもこんなによくしてもらえるんだったらやっても構わないんだなどと、いい気にさせるために行うのではありません。そうではなくて、その者がいつかイエス様を救い主と信じる信仰に入る可能性があるから行うのです。イエス様が十字架にかかったのは、その人の罪も神から赦されるためでした。ただ、その人がイエス様を自分の救い主と信じていないから、神から赦しを頂いていないだけです。イエス様も言うように、神が善人にも悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるのは、悪人にしたい放題させるためではなく、その者が神に背を向けた生き方を方向転換する可能性を与えているのです。もし悪人に太陽を昇らせず雨を降らせず滅んでしまったら、元も子もありません。逆に方向転換のための猶予を与えているのに、それに気づかず同じことを繰り返していれば、最後の審判に向かって自分で自分を窮地に追い込んでいることになります。まさに「燃える炭火を頭に積むことになる」(20節)わけです。

このことは、イエス様が「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」と言っている「選ばれた人たち」ということが関係してきます。「選ばれた人」とはイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者を指します。イエス様の罪の償いを頭から被せられて、神から罪を赦された者となって神との結びつきに生きる者です。そうすると、イエス様を救い主と信じる信仰を持たない人たちは「選ばれない者」になってしまうのか?そういう問いも出ます。しかし、今の時点で信仰を持っていない人たちを「選ばれない人」と結論づけるのは早急です。なぜなら、今は信仰を持っていなくとも、将来のある日、その人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることになれば、「ああ、この人も実は『選ばれた人』だったんだな。あの頃は想像もつかなかったなぁ」ということになるからです。このように、私たち人間の目では全ては事後的にわかるだけです。それゆえ、現時点の観点で「あの人は『選ばれた人』ではない」と結論づけることはできません。大切なことは事後的に「選ばれた人」が一人でも多くでるように、私たちが福音伝道のために働くということです。神がイエス様を用いて実現された救いは、世界の全ての人々に提供されているので、それを受け取る人が一人でも増えるように信仰者は働きかけていかなければなりません。

 

4.キリスト信仰者は永遠の視野をもって正義のために祈る

  正義の実現ということについて、キリスト信仰者は、それを完全に実現するのは神であって人間ではないと観念していることがわかりました。正義の完全な実現は最後の審判の時に果たされます。このように神が実現される完全な正義というのは、最後の審判ということがあるので、この世を超えた永遠という視野をもってしないと見えてきません。実はこのことを2週間前の説教でお教えしました。その時の福音書の個所はイエス様が金持ちとラザロの話を使って教えたところでした(ルカ16章19~31節)。イエス様は、この世で起きた不正義で解決されないものがあっても、遅くとも最終的には最後の審判の時に必ず解決されると言います。復活の日、最後の審判の日には、歴史上の全ての人間のあらゆる行いと心の有り様全てについて、神の正義の尺度に基づいて総決算が行われ、清算すべきものがあれば完璧にされるのです。

 黙示録20章に人間の全ての行いが記されている書物が神のみもとに存在することが言われています。これは、神はどんな小さな不正も罪も見過ごさない決意でいることを示します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。

この世で数多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならなかったという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるなどと言うのは、この世での解決努力を軽視するものと言われるかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うようにと、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。たとえ解決が結果的には来世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる限りは神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならないのです。それで解決が得られれば神に感謝!ですが、時として力及ばず解決をもたらすことが出来ない場合もある。しかし、その解決努力をした事実は神から見て無意味でも無駄でもなんでもない。神は最後の総決算のために全てのことを全部記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さるからです。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神がかわりに全てを正確に完璧に把握してくれています。神の意思に忠実であろうとしたがゆえに失ってしまったものがあって、それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿おうとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に程遠くても、無意味だったとか無駄だったとかいうものは何ひとつないようにと、神の秩序は出来ているのです。

キリスト信仰者が神の正義が実現するようにとあきらめずに祈れるのは、それをこの世を超えた永遠という視野において見ることが出来るからです。この世では不完全だった正義が完全に実現する時がこの世が終わった後に必ず来る。あきらめずに祈るというのは、このことを信じていることを証しする行為です。祈りが、単に神に対するお願い事という殻を破って、神は約束を実現される方であるということを証しする行為になります。またはそれを自分に言い聞かせる行為になると言ってもいいでしょう。逆に、あきらめて祈らなくなるというのは、この世の不正義に圧倒されて神は約束を実現される方ということを見失うことです。もちろん永遠という視野も失ってしまいます。あきらめずに祈る者は、正義が実現するのは必ずそうなるという思いで祈るので、いつ起きてもおかしくないという一種の臨戦態勢にいます。イエス様が「神は速やかに正義を実現される」と言ったのは、神がイエス様の再臨をこの日と決めて行動を起こしたら、全てのことは一気に速やかに進むということです。

 

5.困難の時にも神は共にいて守り導いて下さる

 以上、イエス様を救い主と信じる信仰をもって生きる者は、この世を超えた永遠の視野を持っており、神が正義を完全に実現する時が必ず来ると確信して、この世の不正義がなくなるように昼も夜も祈り続けることが出来るということを見てきました。このような永遠の視野を持つキリスト信仰に立って、ヤコブの格闘の出来事を見たら、果たして救いに導く知恵が得られるでしょうか?

ヤコブの人生を振り返ってみますと、神の言うとおりにすればするほど一層困難を抱えてしまうような生き方でした。父親からもらえるはずの祝福をヤコブに奪われた兄エサウは、弟を生かしてはおけないという位の復讐心に燃え上がりました。ヤコブは故郷を捨てて逃げます。その時、神がヤコブに約束しました。「見よ、私はお前と共にいる。お前が行く先々でお前を守り、必ずお前をこの地に連れ帰る。なぜなら、私は、お前に約束したことを果たすまで決して見捨てないからだ」(創世記28章15節)。ヤコブは神が約束を果たす方と固く信じました。次から次へと困難が降りかかってもヤコブが神にしがみついて生きたことは、ぺヌエルでの格闘に見事に象徴されています。負傷してもヤコブは祝福を受けるまでは神にしがみついて離そうとせず、それで神も祝福を授けたのでした。やがて逃亡から長い年月の後、ヤコブは兄エサウと劇的な和解を遂げて故郷に帰ることができました。数々の困難があったのですが、全てが終わった後で全体を振り返ってみると、神は約束通りずっとヤコブと共にいて守り導いたことがわかります。困難はありましたが、それは神が離れたとか見捨てたということではありませんでした。人間の観点では理解しがたいのですが、困難の時にも神は共にいて守り導いていたのです。困難は神が見捨てたことを意味しなかったのです。神は自ら立てた約束を必ず守る方だからです。

さて、キリスト信仰者がヤコブの格闘の出来事を読んだ時、何を掴み取るでしょうか?間違いなく、神は困難の時にも平穏時となんら変わらず共にいて守り導いて下さる方であるということでしょう!そうなると、困難に陥っても、不正義を被っても、神が見捨てたなんて全く思いもつきません。逆にそれらは、祈りを一層強くするきっかけになるだけです。まさに、旧約聖書から救いに導く知恵をまた一つ得たことになります。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注)使徒たちが手紙を書き送っていた頃の旧約聖書というのも、果たして今私たちが手にしているものと同じかどうか定かでない部分があります。ヘブライ語の旧約聖書に含まれている書物とギリシャ語訳の旧約聖書に含まれている書物に違いがあることからそれが伺えるし、また、死海文書で有名なエッセネ派は啓示思想を表わす書物を幅広く権威あるものと見なしていました。

交わり

高木 賢先生(SLEY)の「交わり」-(その3)を掲載します。

しかし、神様が光の中にいるように
私たちも光の中を歩くならば、
私たちは互に交わりをもち、
この方の御子イエス様の血がすべての罪から私たちをきよめます。
(「ヨハネの第一の手紙」1章7節)

キリスト信仰者は御言葉と聖礼典の力によってイエス様を信じて生きています。

彼らは互いに支え合い、悲しんでいる人を慰めます。

また、共に励まし、理解し、喜び、嘆きます。

彼らはまた互いに助言し合い、注意し合います。