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ペンティ・マルッティラ牧師は、SLEY海外伝道局アジア地域コーディネーターとともにSLEYのハメーンリンナ教会の牧師も兼任しています。SLEYで仕事をする前は「フィンランド福音ルター派ミッション(フィンランド語で「種まき人)」というミッション団体の宣教師としてモンゴルでキリスト教伝道をされたこともあります。
司式 吉村博明 SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師 説教・聖餐式 ペッカ・フフティネン牧師・SLEY元海外伝道局長 本日の説教は動画配信でご覧ください。
主日礼拝説教 2023年1月15日顕現後第二主日 聖書日課 イザヤ49章1-7節、第一コリント1章1-9節、ヨハネ1章29-42節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」洗礼者ヨハネはイエス様のことをそう呼びました。小羊とは可愛らしいです。白い毛の衣に被われたフワフワした可愛らしい羊を皆さんもどこかで見たことがあるでしょう。ヨハネは、イエス様のことを世の罪を取り除く小羊だと言います。それは一体どういうことでしょうか?そもそも、世の罪を取り除くとはどういうことでしょうか?世の中には悪いことが沢山あります。人を傷つけたり騙したり、自分のことだけを優先して他の人のことを顧みないということが沢山ある。それらが犯罪行為になって法律で処罰されるということが沢山あります。「世の罪を取り除く」というのは、そういう悪や犯罪をなくするということか?イエス様が取り除きをする時、それを小羊のようにするというのはどういうことか?悪や犯罪をなくすのなら、ライオンとかもっと雄々しい動物に例えた方が迫力があるのではないか?小羊では少し頼りないのでは?
それに「世の罪を取り除く」と言っても、現実にはこの世にはたくさんの悪や犯罪があります。イエス様は取り除いていらっしゃるかもしれないが、それでも減らない、逆に増える一方です。イエス様の罪の取り除きはやはり小羊並みの頼りないものなのか?実はそうではないのです。イエス様の罪の取り除きは完璧なものです。どうしてそんなことが言えるのかをこれから見ていきます。
「神の小羊」と言っているので、まず「神」について考えてみます。聖書の話ですので、あくまで聖書の神です。聖書の神は何と言っても、天と地とその間にあるもの全て、見えるものと見えないもの全ての造り主、創造主です。私たち人間も神の手に造られたというのが聖書の立場です。人間一人ひとりに命と人生を与えられました。しかも、母親の胎内に宿った時から、私たちのことを知っていました。そのことが旧約聖書と新約聖書の至るところで言われています。本日の旧約の日課イザヤ49章1節でも「主は私が胎内にいる時から声をかけ、母のお腹の中にいる時から私を名前で呼んでいた」と言っています。胎内にいるときからこうですから、生まれ出てきた後も、私たちのことをよく見て全て知っています。私たちは気づきませんが、私たちが何をしているか何を考えているか、キリスト信仰者であるかないかにかかわらず神は全てお見通しです。人には隠し立て出来ても神に対しては出来ません。何しろ、私たちの造り主だからです。
聖書の神は造り主であると同時に、ご自分の意思を聖書を通してはっきり述べられる方でもあります。十戒という掟があります。それは、創造主である神こそが崇拝する対象であるとか、その名を汚してはならないとか、週一日は仕事の手を休めて神に心を傾ける日とせよとか、神との関係でこうしろああしろという掟があります。この他にも、父母に敬意を払えとか、人を傷つけたり殺したりするなとか、自分のであれ他人のであれ夫婦関係を損なうようことはするな不倫などもってもほかとか、盗むなとか、嘘をついたり他人を悪く言ってはいけないとか、他人を妬んだり他人のものを横取りしてはいけない、というふうに人間との関係でこうしろああしろ(というか、こうしてはいけない、ああしてはいけない)という掟があります。これらの掟に従っていれば、神の意思に沿う者、神の目に適う者になります。
ところが、私たち人間は完全ではなく弱さや隙があります。それで掟を破ってしまうことがあります。行いだけでなく言葉や思いでも破ってしまいます。そうなると神はどう出るか?神の意思に反したことになるので、神の失望と怒りを買って罰を受けることになります。それで何か償いをしなければならなくなります。神が償いを受け入れれば、罪を赦してもらったことになります。罪を償う仕方として、旧約聖書では動物の生贄を捧げることが定められました。レビ記4章をみると、掟を破ったのが祭司の場合だったり、共同体の場合だったり、その代表者の場合だったり、個人の場合だったりに応じて牛や山羊を犠牲の生贄に捧げることが定められています。生贄を捧げると神から罪が赦されるとあります。まさに罪の償いのための生贄です。レビ記16章をみると、第七の月の10日に贖罪日という国民的な儀式の日が定められ、この時も罪の赦しを得るために動物の生贄が捧げられました。
そうすると、神に背いたのは人間じゃないか、人間が罰せられるべきで動物を生贄に捧げるなんてちょっと身勝手で動物が可哀そうと思われるかもしれません。しかし、ここで理解しなければならないことは、人間が神から赦しを得てもう一度やり直せるチャンスを得るというのはとても大きな犠牲を要するということ、それくらいに罪というのは神にとって重いことだということです。もし人間が神罰を受けて死んでしまったら、やり直しなど出来ず元も子もありません。人間が死なないでやり直しできるためには誰かに代わりに死んでもらわないといけない、神の意思に背くというのはそれくらい命に係わる重大なことだということです。
このように創造主がいて人間はその意思に背くと創造主との関係が損なわれる、だから背いてしまったら償いをして関係を修復しなければならないということが聖書の神と人間の間にあります。ところで、聖書の外の世界を見渡すと、不幸が起こらないように霊的な何かを宥めるということがあります。日本的に言えば、バチが当たらないように、ということでしょう。しかし、聖書の場合は、創造主との関係修復というのは、不幸に陥らないバチがあたらないようにする宥めとは違います。聖書の場合は不幸に陥らないバチがあたらないということが中心的な関心事ではありません。聖書の場合は、神との結びつきを持ってこの世を生きられ、結びつきを持ってこの世を別れられ、結びつきを持って復活の日に復活させられるという、いつどんな時でも神との結びつきを持てることが中心的な関心事です。いわゆる御利益宗教から見たら理解できないことかもしれません。それなのでキリスト信仰者は苦難困難に陥っても呪われたとか祟られたとか言って慌てふためくことはないし、そういうことに付け込む誘いの声は耳に届かないのです。キリスト信仰者の苦難困難の遭遇の仕方は、よし、上等だ、一緒にいてくれる神と乗り越えてやろうという心意気になります。詩篇23篇4節で「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を恐れじ、汝、我と共にませばなり、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」と言われていることがその通りという生き方です。
動物の生贄の話に戻りましょう。イスラエルの民は罪の赦しを得るために律義に動物の生贄を捧げ続けました。ところが、神との関係を保つ方法として、それは持続可能でないことが明らかになりました。民が罪の赦しのためと言って生贄を捧げても、神の意思への背きは繰り返されていました。贖罪の儀式が形式的、表面的になって、儀式を行った人の心は何も変わっていないということが明らかになりました。儀式を盛大に格調高くやっていれば別に心の中のことはとやかく言わなくてもいいというのは聖書の世界に限ったことではないでしょう。儀式が華やかで大掛かりなこと自体が何か心がこもっていることの証しのように考えられるというのはよくあることと思います。神は心の変化を伴わない儀式を目の当たりにして、きっぱりと、生贄を捧げても何も意味はない、そんなもの持ってこられてももううんざりだ、と言うようになります(イザヤ書1章11~17節、エレミア書6章20節、7章21~23節、アモス書4章4~5節、21~27節などにあります)。
つまり神は、外見だけでは意味がない、内面が変わらなければ意味がない、と言われるのです。このことは、後にイエス様が、十戒の掟は外面上守れても、内面までも守れなければ守ったことにならないと教えたことに重なります。人を殺していなくても罵ったら同罪であるとか、不倫をしていなくてもふしだら目で異性を見たら同罪である、と。
神は、せっかく自分に似せて造った人間がなんとか自分の意思に沿うようになって、自分と一緒に永遠に生きることができるようにと、そのために心が変われるようにと何か別の方法を採らなければならなくなりました。そのことがイザヤ書53章で予告されています。そこでは、人間の罪を人間に代わって背負って自分自身を罪の償いの捧げ物にして命を捨てる「主の僕」なる人物について述べられています。彼は屠り場に引かれる小羊のようであったと言われています。このイザヤ書の予告はイエス様が全て実行に移しました。彼は罪を持たない神聖な神のひとり子でした。なのに、私たち人間の罪を全部引き取って十字架の上に運び上げて、そこで人間の罪の責任は全部自分にあるかのように私たちに代わって神罰を受けられたのです。実にイエス様は、かつての動物の生贄のように人間の罪を償う犠牲の生贄となったのでした。
ところで、犠牲に供されたのは動物ではなく神聖な神のひとり子でした。これ以上の犠牲はないという位の完璧な犠牲でした。それゆえ、神に罪を赦して頂くための犠牲はこれで完了しました。エルサレムの神殿で行われていた動物を生贄に捧げる儀式は根拠を失いました。神との結びつきを持ててそれを保てるために人間の側ですることは何もなくなりました。神がひとり子を用いて全部して下さったからです。
あとは人間が、イエス様がゴルゴタの丘の十字架で私たち人間の罪を償って下さったことは本当のことと受け止めて、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いはその人に効力を持つようになり、その人は罪を償ってもらった者に変わります。神のひとり子に罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者と見なしてもらえます。神から罪を赦されたから、神との結びつきを持ってこの世の人生を歩むようになります。動物の生贄は毎年のように捧げなければなりませんでした。罪の赦しには賞味期限というか有効期限があったのです。しかし、神のひとり子の犠牲はこれっきりでいいという位の完璧な永久保存のものでした。それなので信仰と洗礼を通して打ち立てられた神との結びつきは自分から捨てない限り、何があってもどんな状況にいても失われない堅固な結びつきなのです。
かつて動物の生贄を捧げていた時は、儀式が外面的、表面的なものになって心の変化が伴わなくなって神は受け入れを拒否してしまいました。それでは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神から罪を赦された者になったら、心は変化して完全に神の意思に沿うようになるのでしょうか?答えは、そうとは言えない面とそうと言える面の両方があるが、そうと言える面が勝っているということです。どういうことか見てみましょう。
人間はキリスト信仰者になっても、この世にいる限りは肉の体を纏っているので神の意志に反する罪を持っています。しかも、信仰者になる前に比べて神の意志に敏感になるので自分の内にある神の意志に反するものに気づきやすくなります。流石に行いや言葉に出すことに歯止めがかかるようになりますが、それでも弱さや未熟さがあったり隙をつかれたりして出てしまうこともあります。その時は、神の意志に反したので神に赦しをお願いしなければなりません。行いや言葉で反したのであれば誰か相手がいるので相手に対しても赦しをお願いしなければなりません。心の思いで反した場合は相手にはわからないことです。行いや言葉の罪とは勝手が違うかもしれませんが、それでも神に対して赦しをお願いしなければなりません。
神の意志に反することが自分にあると気づいたら、それに目を背けてはいけません。その時はすぐ神に赦しをお願いします。お願いの仕方は「イエス様は私の救い主です、イエス様の犠牲に免じて私の罪を赦して下さい」と祈ります。そうすると神はすかさず、私たちの心の目をしかとゴルゴタの十字架に釘付けにしてこう言われます。「お前の罪は全てあそこで償われた。お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは罪を犯さないように。」このようにキリスト信仰者は罪の自覚を持って神に罪の告白をして神から罪の赦しを宣言してもらって再出発します。キリスト信仰者はこれを何度も何度も繰り返していきます。一見無意味なことを繰り返しているように見えるかもしれません。実はこうすることこそが自分は罪に与していない、罪に反抗する生き方をしていることの現われなのです。
やがてこの繰り返しが終わる日が来ます。今の天と地が終わって新しい天と地に取って代わられる日です。その日、神のみ前に立たされ、お前は旧い世で罪に与しないで反抗する生き方をしたと認めてもらえます。それで、既に消滅した肉の体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せてもらって神の御許に永遠に迎え入れられます。ルターが、キリスト信仰者が完全な信仰者になるのは復活の時であると言ったのはその通りです。その時キリスト信仰者は、旧い世ではイエス様を救い主と信じて洗礼を受けたにもかかわらず自分には罪が残っていて辛かった、しかし、罪は自分と神の結びつきを引き裂く力を失っていたというのは本当だった、だからここに来れたのだ、とわかるでしょう。
兄弟姉妹の皆さん、イエス様は真に私たちの罪を償い、私たちを罪の呪いから贖い出して下さった犠牲の小羊です。神が贈られたので真に「神の小羊」です。この小羊の償いと贖いの業のおかげで、罪が持つ神と人間の間を引き裂く力は無にされ、永遠の命と復活の体が与えられる地点に向かう道が人間に開かれました。そこで、どうしてこれが世の罪を取り除くことになるのでしょうか?「世の罪を取り除く」と言ったら、この世から罪や悪を取り除くことではないのか?でも実際には罪や悪はこの世に一杯あるではないか?説教の冒頭で述べたように、そういう疑問が起きると思います。しかし、イエス様が世の罪を取り除くというのは真理です。どうしてそう言えるのか、次の2つのポイントをみればわかります。
第一のポイントは、「取り除く」と言っているギリシャ語の動詞アイローは「運ぶ、背負う」という意味と「死なせる、滅ぼす」という意味を持っているということです。マルコ2章4節で「4人の男が中風の人を運んできた」の「運ぶ」はアイローです。マタイ16章24節で「自分の十字架を背負って」の「背負う」もアイローです。イエス様は世の罪を十字架の上に背負って運び上げたのです。ヨハネ11章48節で祭祀長とファリサイ派が心配して「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と言った時の「滅ぼす」もアイローです。イエス様は、神と人間の結びつきを失わせる罪の力を無にしたのです。罪を滅ぼしたのです。そういうわけでイエス様が「世の罪を取り除く」というのは、イエス様が罪を十字架の上に背負って運び上げて滅ぼしたことと同じことです。これが第一のポイントです。
第二のポイントは、やはり「世の罪を取り除く」は実際にこの世から罪を除去することを意味するということです。なぜなら、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者が増えていけば、罪に与しない罪に反抗する生き方がこの世に増えていくことになるからです。この世は神の意志に反することが沢山溢れています。神との結びつきを持てないようにしようとする力が猛威を振るっています。そのような世に対してイエス様は罪を十字架に背負って運び上げて滅ぼしました。それは、罪が滅んだ状況を作ってそこに人間を導き入れて神との結びつきを持って生きられるようにするためでした。それは、神との結びつきを失っている全ての人間に向けられているのです。そのことが本日の旧約の日課イザヤ書49章ではっきり言われています。
イザヤ書40章から55章までは第二イザヤと呼ばれ、そこに登場する「神の僕」とは、バビロン捕囚から解放されて祖国に帰還するユダヤ民族を指すとよく言われます。しかし、49章は一民族の歴史上起こった祖国帰還ではなく、全世界の人たちの歴史を超えた神の国への帰還が視野に入っているのです。5節と6節が大事です。5節は新共同訳では「主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力」が節の初めに来ています。ヘブライ語原文では節の後ろです。なので、ここは、「今や、主は言われる、母の胎にあった私をご自分の僕として形作られた主は。主が私を僕に形作られたのはもともとはヤコブを御許に立ち帰らせるためであり、そうすることでイスラエルはもう取り去られることはなく、私も主の目に栄誉ある者となり、私の神が私の力になるはずだった。」それで6節に行くとその神が驚くべきことを言います。お前はイスラエルの民の祖国帰還なんかで満足するなと言わんばかりのことを言うのです。まさにここで「主の僕」は祖国帰還する民を意味せず、救い主メシアを意味することがはっきりします。新共同訳では「だがそれにもまして」とあって、祖国帰還の仕事もしてもらうがそれに加えて救いを地の果てにもたらすこともしてもらうと二つの仕事があることを言っています。しかし、原文はもっと迫力があります。こうなります。「主はこう言われる。『ヤコブの諸部族を立ち上がらせてイスラエルの残りの者を連れ帰らせる程度のスケールの小さなことでお前を僕なんかにはしない。わたしはお前を諸国民の光とし、私の救いを地の果てまで及ぼす者とする。』
人間と神との結びつきを失わせようとする力が働くこの世を闇とすると、闇の力を無にしたイエス様は本当に闇の中で輝く希望の光です。キリスト信仰者はその光を持っているので何も恐れることも心配することもないのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
毎年1月1日にフィンランドの大統領はテレビで国民向け年頭スピーチを行う。 フィンランド語とスウェーデン語それぞれ15分ずつの短いスピーチだが、前年の国内外の情勢を振り返り、新しい年の歩みを始める国民一人一人が心に留めておくのが大事と考える視点を簡潔に提示する内容である。
今回はもちろんロシアのウクライナ侵攻が話題の大半を占めた。それは無理もないことだ。フィンランドをめぐる安全保障の環境は激変し、国是だった中立政策を捨ててNATO加盟を決めたからだ。テレビ・ニュースでも、ニーニストがウクライナ戦争を1939~1940年の冬戦争に、プーチンをスターリンになぞらえたことを公言したことに注目が集まった。
そういう対外的な大問題と併行する形で、国民の日常にも目を向け、こういう時だからこそ心に留めておくのが大事と考える視点を提示していた。今回、キリスト信仰の観点から見ても興味深いと思われる点を3つほど発見した。
一つは、ウクライナ戦争の影響で世界的に経済が失速し物価高、電力不足が深刻になる中、フィンランドは比較的に経済や福祉を維持できていることに関して。フィンランドが国際的に平均値が高いことに満足してはいけない。格差が拡大すれば、平均値の下側の人たちはより困難な状態に陥ることを忘れてはいけない。彼らの状況に目を向け支援を忘れてはいけない。
二つ目は、暗い事件は国外だけでなく、国内でも身近に起きている(クリスマスに礼拝中の教会が放火される事件が起きた、あとニーニストは国内の組織犯罪の増加に警鐘を鳴らしている)。悪の力は、一般市民をストップさせて不安に絡めて前に進むことができなくなるようにする力である。しかし、不安を抱きながらでも日常を続けることに努めることが悪に打ち克つことになる。
三つ目は、あまり聞きなれない言葉、人間はepeli olemusという言葉を使った。文脈から「意外な可能性を持つ存在」という意味だと思う。もう可能性などなくなってしまったというピンチの状態は実は、それまで自分にあると気づかなかった可能性に気づけるチャンスなのだ。フィンランド国民のシス精神はまさにそれだ。
以上の視点は、もちろんお上のお達しなんかではなく、受け入れるか受け入れないか、どう批評するかは聞く人の勝手というものである。(識者のコメントの中には、SDGsや気候変動についてもっと言及すべきだったというものがあった。)それでも、危機迫る国民に危機から目を逸らさせず、それを乗り越える共通の手がかりになるものを示し、しかもフィンランド国民なら乗り越えられると自信を与える内容になっていると言える。
因みにニーニスト大統領は年頭スピーチの終わりにいつも「神の祝福が皆さんにあるように」と結び、自身のキリスト信仰を表明する。今まで大統領によっては言わない人もいたが、ニーニストは言うのだ。
「天からの御声」 2023,1,8(日) 木村長政 名誉牧師
マタイ福音書 3章13~17節
2023年新しい年を迎えました。
今日の福音書はマタイ3章13節から17節です。イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた話です。ユダヤの国の北から南へとヨルダン川が流れています。行く先は”死海”と言う湖です。さて、マタイ3章を見ますとバプテスマのヨハネはユダヤの民に「悔い改めよ」と叫んだ。そうするとエルサレムとユダヤ全土から、ヨルダン川沿いの地方一帯から人々がヨハネのもとに来て罪を告白し彼の質問にパスした者にはヨルダン川で洗礼を授けました。この洗礼を受けようと集まっていた民衆の中にイエスも混じって順番を待っておられた。ヨハネはイエスを発見してびっくりしたでしょう。どうして、びっくりしたかと言いますとイエスの方が自分より優れた人物であることに気づいたので言いました。「イエス様、わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに。」と思いとどまらせています。しかし、今は受けさせてもらいたいと、イエスの強い願いに負けて、ついに洗礼を授けました。イエスが岸辺に上がって祈っていると突然天が開け神の霊が下って神の御声が聞こえて来ました。「このイエスこそ、神の心にかなった救い主である。」と宣言しました。この時からイエスの救い主として活動が公に始まるわけです。この出来事について、他のマルコもルカもヨハネも福音書で記録しています。それほど、この出来事は大事な意味を持っていますので、しっかりとそれぞれの福音記者の独自の立場からイエス様の宣教の始めを計画的に書き記しているわけです。
考えてみてください。イエス様がこの洗礼を受けられた時30才でありました。ナザレの田舎で父ヨセフと大工の仕事を一緒にして家族の大きな助けをされていたのでした。ところが突如としてナザレを出てガリラヤで神の国を宣べ伝え始められました。そして、わずか3年後十字架の死をとげ、3日後に復活された。イエス様の地上に於ける生涯33年のうちの30年というほとんどの年月はナザレ村で神の福音を実行に移されるまでの大事な大事な準備の期間であったろうと思われます。その深い準備の期間、何をどう過ごされたか聖書には何も記していない。バプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、神の計画は準備を整えて、いよいよ天からの神の御声があったのです。この天からの声がどういう重要な内容を含んでイエス様の上に下ったのか、少しづつ見て行きましょう。
まず第1には、天の声はナザレ村で大工の長男として育って家族の中心であったイエスに対して「これからは、お前は大工の子ではない、神の子であって民衆を救うべき救い主だ。ナザレ村を出て公に神の子本来の働きをしなさい。」という神のご命令であった。神の霊が鳩のように、ご自分の上に下って来るのをご覧になった。「これは私の愛する子、私の心に適う者。」これはマルコが書いている、天の声です。ルカ福音書の方はマタイと同じような意味を込めて3章22節でイエスが洗礼を受けられ、祈っておられると、その祈りに答えて天からの声があった。「あなたは、私の愛する子。」と2人称で語りかけています。ヨハネ福音書によると、この出来事はイエスにバプテスマを授けた預言者ヨハネに対して<この、イエスこそお前の待ち望んだメシアだ>ということを教えている天の声であった、というのです。そこではヨハネ福音書で言っています。1章33節で「私はこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、私をお遣わしになった方が私に言われた。ある人の上に『み霊が下って、留まるのを見たら、その方こそみ霊によってバプテスマを授ける方である』私はその方を見たので、この方こそ神の子である、と証したのである。」この出来事に出会って見た多くの人々も又イエスは、ただの人ではない、神の子である、と教えられたと思います。
では、マタイはこの出来事を、どの点に力説しようと、したのでしょうか。マタイ3章17節の最後の部分で、天からのみ声があった、「これは、私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が天から聞こえた。この、天の声の仕方に秘密があるのかも知れません。マタイの言うのは、マルコやルカによる記録のように、「あなたは・・・・私の愛する子だ」と2人称で語りかける父親の声ではありません。マタイの言うのは、言ってみれば「これが、こういうのが、私の愛する子である」と言う客観的な宣言文です。日本語訳によると,マルコもルカも「あなたは、私の愛する子、私の心に適う者である」と一気に言われた文章を記してあるかのように見えますが、実はこれは二つの文章に切れていて「あなたは私の子、愛する者である。私は、あなたを喜ぶ」となっています。これは、父親が子に対する率直な気持ちを伝える親子の語らいなのです。ところが、マタイだけはこれを一つの文章で 書いています。つまり「こういうのが、私の喜ぶところの、私の子、愛する者なのである」と。ここではイエスが神と、どういう続柄にあるか、神はどういう気持ちを抱いておられるか、というような問題ではなくて、神が喜ぶ、愛する子、とはどういう者なのか、という定義が述べられているのです。神からの宣言です。この声によって、イエスが神の子だ、という事が言われているのです。同時に、だから神の子はどういう性質のものなのか、という事までわかるのだ、とマタイは言いたげであります。
では、「私が喜ぶところの、私の子、愛する者とは」何のことでしょうか。マタイは12章17~18節のところでこう記しています。「これは、預言者イザヤの言った言葉が成就するためである。見よ、私が選んだ僕、私の心に適う愛する者。私は彼に私の霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう」。ここに、今の3章13~17節を思い出させる重要な言葉が次々と出て来ることに気づくでしょう。「私の心に適う」とか「愛する者」という二つの言葉は天の声と同じ用語です。「私は彼に私の霊を授け」という言葉も、イエスが受洗された時の天から下ったみ霊を思い出させます。「正義」という言葉も3章15節の」「正しいこと」と同じ言葉です。すなわち、マタイが3章17節に記している天からのみ声は、マタイが12章18節で引用している旧約聖書イザヤ書42節1節に他ならないのです。正確に調べると、イザヤ書42章を開いて読むと、マタイが引用した天からの声と全く同じでは、と感じられるかもしれません。それは、旧約聖書のヘブル語をギリシャ語に訳したために多少変わってしまったからです。要するに、マタイによれば、この時天からの声は旧約聖書の預言したメシア、とりわけイザヤが預言していたメシアとはこういう方である、と説明したのです。
イエスが神の子だと言うが、彼と神との父子関係がどういうものであるか、そんなことは論じられていません。むしろ、マタイが今までイエスはメシアである、と論証してきた、そのメシアというのはどんな性格の方であるかをマタイは言おうろしているのです。私たちは誰が救世主であるかを知ればそれで充分なのではありません。彼が、どういう性格の救い主であるか、が分からなければ信じる事が出来ません。神信仰と言うのは、神がおられることを信じるだけでなく、どういう神がおられるか、という事まで含む信仰です。イエス・キリスト信仰もイエスという方を救い主と信ずるだけでなく、イエスという方がどういう者かという事まで含む信仰です。
では、真のメシアとはどういう性格の方でしょうか。それを、明らかにするためにマタイは他の福音書記者の切り捨てたものをちゃんと保存しています。すなわち、ヨルダン川でイエスがバプテスマを受けられる前にイエスとヨハネとの間で交わされた言葉のやり取りが、このメシアの特色をよく伝えてくれるのです。マタイ3章14~15節を見ますと「ところがヨハネは、それを思いとどまらせよう�として言った。私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが私の所においでになるのですか。しかし、イエスは答えられた、今は受けさせてもらいたい。このままにして論じないままにしておいて欲しい。このように、すべての正しいことを成就するのは、我々に相応しい事である。これまで、預言者としてのヨハネは人々に説教をしてきました。「私の後から来る方は、私より力のある方で、聖霊によってお前たちにバプテスマを、お授けなるであろう」と。それが、今、イエスの方から何故バプテスマを授けて欲しいと言われるのでしょうか。イエスの答えは明快でした。「このように、すべての正しいこと義を成就するのは我々に相応しい事であるから」と言っておられる。理由はただ一つ、「正しい事を果たす」のが我々に相応しい、適切だからだよ。もっと言えば、この事はメシアであるイエスにとって適切だ、とか言うのではない、又、預言者ヨハネに有利だ、と言うものでもない。
◎ ただ神を信じ、神に仕える「我々に」適切なことなのです、ということです。
◎ 神様が喜ばれるのは、そうした真理と正義への率直な服従と熱心であります。」イエス様は人の肉体をとり人の心を持って、この世に来られました。十字架にかかられる前日には血の汗を流して祈られました。出来ることな ら、十字架の死の盃を取り除いて下さい。正真正銘の人の子として生きられました。
◎ しかし、彼は真理のため、正義のためには、どんな事も果たされたのです。それが十字架の死
であっても、神の、み心であれば相手が誰であれ服従されたのです。
◎ 神の喜ぶメシアとは、こういう方なのであります。イエスがヨハネに「このことは我々に相応しい」
と言われた、この言葉使いの中にはイエスご自身を民衆の中に徹底的に身を置こうとされる
考えがにじみ出ています。
驚くべき事は、ヨルダン川に出て来て、神の子として活動して行こうとされるイエスが、このように人々の列の中に行列に加わることによって、悔い改めのバプテスマを受けようとする、罪びとの中にその身を置かれた、というこの事実です。告白すべき罪などない神の子がバプテスマを受けることは一体、何でありましょうか。彼はメシアでありながら、神に背く罪が自分にもある、と言いたげに、今、人生の出直しを新しく決意されているのです。彼は罪びとの最も身近な友、最も親しき罪の共犯者になろうとしておられる。バプテスマのヨハネは、どうかと言うと、もし、メシアが来られたら、きっと聖霊の火を持って罪びとを焼き滅ぼすに違いないと思っていました。しかし、そうではない。聖霊は恐ろしい、滅ぼす火のようではなく。鳩のように、ひっそりと下られました。ヨハネの後から来る方は力ある裁き主ではなかった。むしろ、力なき者の友、罪びとの友、悔い改めて泣き崩れる者の味方であった。彼こそ真の救い主なのであります。神の喜ぶメシアはイザヤの預言どおりの救い主なのだ、と天の声は断言しているのです。ナザレから出て、洗礼を受けられたイエスは、天の声で断言されたメシア、神の子の使命をこれからいよいよスタートして行かれる。天から神のみ声は大きな霊の力となってイエス様に下ったのでありました。 アーメン
2023年1月1日降誕節第二主日 主日礼拝 聖書日課 イザヤ書63章7~9節 (旧1164頁)、ヘブライ2章10~18節(新402頁)、 マタイ2章13~23節(新2頁)
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日のマタイ福音書の箇所は、旧約聖書の預言が3つ成就したことについて述べています。
初めに、2章15節にある言葉「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」。これはホセア書11章1節にある神の言葉です。イエス様親子はヘロデ王の追っ手を逃れてエジプトに避難しました。そして王が死んだのでイスラエルの地に帰還できました。マタイはこの出来事がホセア書の預言の実現とみました。あるいは初代のキリスト教徒たちがそう見て、マタイが福音書を書いた時にそれに倣ったということかもしれません。
二つ目は、2章18節にある言葉「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」。これはエレミア書31章15節の引用です。ヘロデ王が赤ちゃんのイエス様を殺そうとして、どこにいるかわからないのでベツレヘム周辺の2歳以下の子供を皆殺しにするという残虐な事件が起こりました。マタイないしは初代のキリスト教徒たちがエレミア書の預言はこの事件を指しているとみたのです。
三つ目は、2章23節にある言葉「彼はナザレの人と呼ばれる」。実は、旧約聖書の中にこれと同じ預言の言葉は見当たりません。ひとつ明らかなことは、ナザレという言葉は、「若枝」を意味するヘブライ語の言葉ネーツェル(נצר)と関係があります。「若枝」というのはイザヤ書11章1節にでてくる有名なメシア預言「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち」のそれです。同じイザヤ書の53章には人間が受けるべき神の罰を神の僕がかわりに受けて苦しむという預言があります。イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃した人たちは、エッサイの若枝ネーツェルとはイエス様のことだとわかりました。このようにイエス様が「ナザレの人」と呼ばれたのが預言の実現だったというのは、彼が住んでいた町がナザレだったということよりも、ネーツェル預言があったからでした(「ナザレ」については、この他に民数記6章1-21節や士師記13章5、7節にある「ナジル人」との関係を考えることも可能です。ただ、これらは預言の言葉ではないので本説教では立ち入りません。)
ところで、本日の福音書の中で一番難しいことは、ベツレヘムの幼児虐殺の事件です。一人の赤子の命を救うために大勢の子供たちが犠牲になったことに納得しがたいものを多くの人は感じるかもしれません。もし、その赤子は将来救世主になる人だから多少の犠牲はやむを得ない、などと言ったら、それは身勝手な論理でなはないか、救世主になる人だったら逆に自分が犠牲になって大勢の子供たちが助かるようにするのが本当ではないか、という反論がでるでしょう。ここでひとつはっきりさせておかなければならないことがあります。それは、幼児虐殺の責任はあくまでヘロデ王にあって神ではないということです。神はイエス様をヘロデ王の手から守るために天使を遣わして、まず東方の学者たちを導いてヘロデに報告しに行かないようにしました。それから、イエス様親子をエジプトに避難させました。学者たちが戻ってこないのに気づいたヘロデ王は、さては赤子を守るためだったなと悟って、ベツレヘム一帯の幼児虐殺の暴挙にでたのでした。天使がヨセフに警告したことは「ヘロデがイエスを殺すために捜索にくる」でした。それなのに、ヘロデは捜索どころか大量無差別殺人の暴挙にでたのでした。神の予想を超える暴挙でした。
そう言うと今度は、神の予想を超えるとは何事か!神は創造主で全知全能と言っているのにヘロデの暴挙も予想できないというのは情けないではないか?大勢の幼子を犠牲にしないで済むようなひとり子の救出方法は考えつかなかったのか?そういう反論がでるかもしれません。この種の反論はどんどんエスカレートしていきます。神はなぜヘロデ王のみならず歴史上の多くの暴君や独裁者の登場を許してきたのか?なぜ戦争や災害や疫病が起こるのを許してきたのか?そもそも、なぜ人間が不幸に陥ることを許してきたのか?もし神が本当に全知全能で力ある方であれば、人間には何も不幸も苦しみもなく、ウクライナの戦争もコロナも東日本大震災もなかったはずではないか?人間はただただ至福の状態にいることができるはずではないか等々の反論がでてくるでしょう。
そういうわけで、本説教では、神は本当に悪に対して力がないのか?もしあるのなら、どうして悪はなくならないのか?そうしたことを本日の日課をもとに考えていきたいと思います。
もし神が本当に悪に対して力ある方ならば、人間は悪から守られて不幸も苦しみもなく、至福の状態にいることができるではないか、そうではないのは神に力がないか、あるいは神など存在しないからではないか?この問題についてキリスト信仰者はどう考えるかということを以下に述べていきたいと思います。
聖書によれば、天地創造当初の最初の人間はまさに至福の中にいました。そして、それは創造主の神の御心に沿うものでした。ところが、神の意図に反して人間は自分の仕業でこの至福を失うことになってしまったことが、創世記の1章から3章まで詳しく記されています。何が起きたかというと、「これを食べたら神のようになれる」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間は禁じられていた知識の実を食べ、善いことと悪いことがわかるようになってしまいます。つまり善いことだけでなく悪いこともできるようになってしまいました。そして、その実を食べた結果、神が前もって警告したように人間は死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」のなかで明らかにしているように、最初の人間が神に不従順になったことがきっかけで神の意志に反する罪が人間に入り込み、人間は神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまったのです。人間は別に神のようになる必要はなく、神のもとで神の守りの中で生きていればよかったのに、神のようになりたい神と張り合いたいという考えを持ったことが間違いの元だったのです。
ところで、何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのかと煙たがれます。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた、全ての人に当てはまる根本的なものを指します。神の意志に反しようとする性向です。神の意志とは十戒に凝縮されています。殺すな、姦淫するな、盗むな、嘘をつくな、妬むな等々、実際にそうしてしまうだけでなく心で思い描くことも罪があることを示しています。もちろんこの世には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく罪を持っていることの証なのです。
このように人間は神の意図に反して自ら滅びの道に入ってしまいました。そこで人間から不従順をつきつけられた神はどう思ったでしょうか?自分で蒔いた種だ、自分で刈り取るがよいと冷たく突き放したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。失われてしまった結びつきを人間が取り戻せるために神は計画を、人間救済の計画を立てました。人間の歴史はこの計画に結びつけられて進むことになりました。神の人間救済の計画は旧約聖書の預言を通して少しずつ明らかにされていき、最後にそれはイエス様の十字架の死と死からの復活をもって実現しました。そのことを明らかにするのが新約聖書です。
それでは、神と人間の結びつきはどのようにして回復したでしょうか?人間は皆、罪の呪いのために死の滅びに定められています。その呪いをイエス様が全部自分で請け負って、私たちの身代わりに十字架にかけられて神罰を受けて死なれました。神のひとり子の犠牲の死が人間にとてつもなく大きな意味を持っていることが、本日の使徒書の日課ヘブライ2章でも言われています。神聖な神のひとり子が人間と同じように血と肉を備えた者になったのはなぜか?それは、人間を死の滅びに陥れる悪魔の力を無力にするためであった。そのためには、神のひとり子が犠牲になって人間が陥る死を代わりに死んでもらわなければならない。その神のひとり子が死ねるためには、神の姿形では無理なので人間の姿形を取らなければならない。こうして人間が陥る運命にあった死をイエス様が代わりに死んで下ったことで人間が陥らないですむ状況を作って下さったのです。
そういうわけでイエス様が人間と同じようになったのは、ヘブライ2章15節の言葉を借りれば、生きている間ずっと死に対する恐怖の中にいて罪の奴隷になっていた者たちを解放するためだったのです。それでは人間を解放した後はどうなるのか?罪の奴隷状態から解放されるのはわかった、じゃ、どこへ解放されるのか?それは、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになって、この世から別れる時も神との結びつきを持って別れられ、将来復活の日が来たら、神との結びつきを持つ者として目覚めさせられる、そういう神との永遠の結びつきへと解放させられるのです。
もしイエス様が人間の形をとらず神のままでいたら、神罰を受けたとしても、それは見かけ上のことで痛くも痒くもなかったでしょう。人間として受けたので本当の罰受けになって人間の罪を償うことが出来ました。ヘブライ 2章17節で言っている通りです。そして18節で言われるように、イエス様は神のひとり子でありながら人間として試練を受けて苦しみました。それがあるので試練を受けている人たちを助けることが出来るのです。痛くも痒くもなかったら試練を受けることがどんなことかわからず、何をどう助けてよいかわからないでしょう。イエス様は神のひとり子でありながら、それがわかるのです。
イエス様の十字架の死が起きたことで、人間が死の滅びに陥らない状況が生み出されました。もう一つ大事なことが起きました。父なるみ神は想像を絶する力でイエス様を死から3日後に復活させました。これにより死を超えた永遠の命が存在することがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。解放された人間が行く行き先が確立したのです。悪魔は人間を死に陥れる力を無力にされただけでなく、行き先も奪われてしまったので二重の打撃です。
神はこのようにして人間に救いを整備して下さいました。今度は人間のほうが、神が整備した死に至らない状況、復活と永遠の命に導かれる状況、そうした状況に人間が入り込まなければなりません。そうしないと、神がイエス様を用いて整備した救いは人間の外側によそよそしくあるだけです。では、どうしたら整備された状況の中に入れるのか?それは、「2000年前に神がイエス様を用いてなさったことは、実は今を生きる自分のためであった」とわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。洗礼を受けるとイエス様が果たした罪の償いを純白な衣のように被せられます。そうするとと、もう呪いは近寄れません。罪の償いを纏っているので、神からは罪を赦された者として見てもらえます。罪を赦されたのだから、神との結びつきが回復しています。もちろん自分の内には罪が残存しているが、被せてもらった償いがどれだけ高価で貴重なものであるかがわかれば、もう軽々しいことは出来なくなります。なにしろ、神のひとり子が十字架で流した血が神との結びつきを回復させる代償になっているからです。あとは、この高価な衣をしっかり纏って、その神聖な重みで内にある罪を圧し潰していきます。かの日に神の御前に立たされる時、しっかり纏っていたことを認めてもらって、今度は神の栄光に輝く復活の体を与えられます。
このようにキリスト信仰者は復活の日の永遠の命に向かう道に置かれてそれを歩んでいきます。神との結びつきがあるので順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと導きを得られます。順境と逆境の両方ということは、平穏と無事だけでなく苦難や困難もあります。しかし、それは詩篇23篇でも言われています。「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れじ、汝、我と共にませばなり、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」と。イエス様を救い主と信じていても「死の陰の谷」進まなくてはならない時があるのです。しかし、聖書の御言葉の繙きを通して聖餐を通して祈りを通してイエス様はいつも私たちと共におられるので災いを恐れる必要はないのです。イエス様の衣を纏って進む限り、復活と永遠の命に向かっていることには何の変更もないのです。
以上申し上げたことから見えてくるのは、世界に悪と不幸がはびこるのは神が力不足だからという見解は、キリスト信仰の観点ではズレた見解ということです。キリスト信仰の観点では、悪と不幸がはびこる世界に対して神が人間の救済計画を立ててそれを実現した、そして人間一人一人がこの救済に与れるようにと手を差し伸べている、という見解になります。もちろん、これはこの世の観点からはズレた見解です。しかし、それでいいと言うのがキリスト信仰です。キリスト信仰の観点で見れるようになれば、神が何々をしてくれなかったとか、何々ができなかったということで悩むことはなくなります。神がこの私にこんなに大きな救いを果たして下さったということの方に目が向いて、自分が復活の永遠の命に向かう道に置かれていることに気づきます。悩むよりその道を歩むようになります。
終わりに、キリスト信仰にあっては、不正義がなんの償いもなしにそのまま見過ごされることはありえない、正義は必ず実現される、ということを強調したく思います。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、今のこの世が終わって新しい世が到来する時に必ず償いがなされというのが聖書の立場です。黙示録20章4節を見ると「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした者たちが最初に復活することが述べられています。続いて12節には、その次に復活させられる者たちについて述べられています。彼らの場合は、神の書物に記された旧い世での行いに基づいて、神の御国に入れるか炎の海に落とされるかの審判を受けることになっています。特に「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海となっています(15節)。天地創造の神が御心に従って造り上げたものに対して、また神が御心に従って与えて下さるものに対して、それらを受け取った人たちに対して酷い仕打ちをする者たちの運命は火を見るよりも明らかでしょう。ヘロデ王の行いもこの観点から判断されます。
人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを示しています。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。この世で多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならないという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるなんて言ったら、来世まかせになってしまい、この世での解決努力がおざなりになってしまうと批判的になる人もいます。しかし、キリスト信仰はこの世での正義は諦めよとは言いません。神は、人間が神の意思に従うようにと十戒を与え、神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛せよと命じておられます。このことを忘れてはなりません。それなので、たとえ解決が結果的に新しい世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる間は神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければなりません。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決に至らない場合もある。しかし、解決努力をした事実を神はちゃんと把握していて下さる。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さいます。神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は何百倍にして埋め合わせて下さいます。それゆえ、およそ人がこの世で行うことで、神の意思に沿うようにしようとするものならば、どんな小さなことでも目標達成に遠くても、無意味だったというものは神の目から見て何ひとつないのです。神がそういう目で私たちのことを見ていて下さっていることを忘れないようにしましょう。
最後に、キリスト信仰は罪の赦しを専売特許のように言うくせに、炎の地獄とか最後の審判とか言うのはどういうことか?やっぱり赦しはないということなのか?それについてひと言。もちろん、キリスト信仰は先ほども申しましたように罪の赦しを土台とする信仰です。しかし、取り違えをしてはいけません。キリスト信仰の罪の赦しとはまず、この私にかわって命を捨ててまで神に対して罪の償いをしてくれたイエス様にひれ伏すことと表裏一体になっています。これと併せて、神に背を向けて生きていたことを認めて、これからは神のもとへ立ち返る生き方をするという方向転換とも表裏一体になっています。それなので、方向転換もなし、イエス様にひれ伏すこともなしというところには本当の赦しはありません。これを逆に言うと、どんな極悪非道の悪人でも、このような神への立ち返りをすれば、神は赦して受け入れて下さいます。たとえ世間が赦せないと言っても、神はそうして下さるということです。
12月24日のクリスマス・イブの日、フィンランドのトゥルク市には14世紀から続いている「クリスマスの平和宣言」という行事があります。その日、ブリンカラという名称で親しまれる市の会館前の「旧大広場」に大勢の群衆が集まります。トゥルク大聖堂の12時を知らせる鐘が鳴ると、軍楽隊の伴奏で群衆は一斉にルターの讃美歌「神はわがやぐら(日本のルター派教会の教会讃美歌450番「力なる神は」)」を歌います。歌い終わると会館のバルコニーから市の儀典担当者が巻物を広げて次の宣言文をフィンランド語とスウェーデン語で高らかに読み上げます。
「明日は、もし神がお許しになるのであれば、我々の主であり救い主でおられる方の恩寵溢れる降誕の日である。それゆえトゥルク市にクリスマスの平和を宣言する。市民はこのお祝いに相応しい敬虔さをもって祝い、静かに騒ぎ立てぬよう振る舞わなければならない。なぜなら、この平和を破り、違法あるいは相応しくない行為によってクリスマスの平和を乱す者は、重大事案が生じたことになるので法令がそのために別途定めている刑罰に処せられることになるからである。終わりに、トゥルク市に居住する全ての住民にとってクリスマスのお祝いが喜びに満ちたものになるように。」
読み上げた後、再び軍楽隊の伴奏で今度はフィンランド国歌を斉唱し、最後は「ポリ市民行進曲」の演奏で終わります。大体15分位の内容ですが、テレビ中継され国民のほとんどが注視するひと時と言っても過言ではありません。ヨーロッパでは中世から同じようなクリスマスの平和宣言はどこでも行われていたそうですが、現在も続けているのはフィンランドのトゥルク市だけだそうです。(2021年12月19日初掲載)
「クリスマスの平和宣言」をYoutubeで見る。
主日礼拝説教 2022年12月25日降誕祭 聖書日課 イザヤ52章7-10節、ヘブライ1章1-12節、ヨハネ1章1-14節
はじめにことばありき - 聖書の文句のなかで、これほど有名なものはないでしょう。キリスト信仰者でなくても、この聖句を知っている人なら誰でも、この「ことば」というのはイエス・キリストを指すと知っているのではないでしょうか。ヨハネ福音書の1章1節から18節までは、イエス様とは本質的にどんな方であるのかを述べているところです。皆様もご存知のようにマタイ福音書とルカ福音書では、イエス様が乙女マリアから生まれる出来事が最初にあります。父、御子、御霊の三位一体を構成する神の御霊、つまり聖霊が力を及ぼして乙女が身ごもってイエス様を産む。その意味ではイエス様誕生の記述も、イエス様が本質的にどんな方であるかを示しています。ヨハネ福音書では、イエス様が本質的にどんな方であるかということについて、著者ヨハネがイエス様と共にいた日々を振り返って自分の目で見、耳で聞いたことをもとに分析・総括して、その結論を冒頭に述べているわけです。
「初めに言があった」。この「はじめ」とはいつのことを指すのでしょうか?多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記1章1節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。それで、神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると思われるのではないでしょうか?実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしにある「はじめ」というのは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです(後注1)。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。時間をずっとずっと過去に遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いて、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに「ことば」と称される神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。
この永遠のところにいた神のひとり子が「イエス」という名前を付けられるのは、今から約2000年少し前に彼がこの世に贈られてからです。しかし、ひとり子そのものは、既に天地創造の前の永遠のところに父なるみ神と共にいたのです。そして、天地が創造されて時間が始まった後もまだしばらくは父のいる永遠の御国にいたのです。そして、父が定めた時、つまり今から約2000年少し前の時にひとり子はこの世に贈られたのでした。人間の姿かたちを持つ者として人間の母親から生まれて、「イエス」の名がつけられたのです。
それでは、天地創造の前の永遠のところにいた神のひとり子は人間の肉体を持ってこの世に生まれ出る前は一体どんな風だったのでしょうか?ヨハネ福音書の著者ヨハネは、ひとり子を「ことば」、ギリシャ語でロゴスと呼びました。ギリシャ語のロゴスという言葉はとても広い意味を持っています。紙に書き記して文字になる「言葉」や、口で話して音になる「言葉」を意味するのは言うまでもありません。これは私たちが普段日本語で「言葉」と言っているものと同じです。他にも、何か内容のある「話」や「スピーチ」を意味したり、また「教え」とか「噂」とか「申し開き」、「弁明」とか「問題点」とか「根拠」とか「理に適ったこと」などなど、日本語だったら別々の言葉で言い表す事柄が全部ロゴス一語に収まります。さらに、古代のギリシャ語の文化圏では、哲学のある一派の考え方として、世界の事象の全て、森羅万象を背後で司っている力というか頭脳というか、そういうものがあると想定して、それをロゴスと言っていた派もありました。日本語で「世界理性」と訳されたりします。
ただ、こういう森羅万象を背後で司るロゴスというのは古代ギリシャの哲学の話です。ユダヤ教キリスト教とは何の縁もゆかりもない、人間の頭で考えて生み出された概念です。翻って、聖書に依拠するユダヤ教とキリスト教は、天地創造の神が人間に物事を伝えたり明らかにする、それを人間はただ受け取るという立場です。生み出す大元はあくまで神という立場です。哲学では、生み出す大元は人間の頭です。
一見すると、ヨハネ福音書の著者ヨハネは、神のひとり子のイエス様のことを、森羅万象を背後で司るロゴスが人間の形をとったものと考えたように見えます。ここで注意しなければならないのは、ヨハネはギリシャ哲学の内容をイエス様に当てはめたのではないということです。そうではなくて、旧約聖書の伝統とイエス様自身が教え行ったことに基づいてイエス様を捉えたのです。そこで、このとてつもないお方を、ギリシャ語の世界の人々の頭にすっと入るコンセプトはないものか、と考えたところ、ああ、ロゴスがぴったりだ、ということになったのです。土台にあるのはあくまで、旧約聖書の伝統とイエス様の教えと業です。哲学のいろんな理論や議論ではありません。
では、旧約聖書のどんな伝統が、イエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたかというと、それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の8章22ー31節をみると、この「知恵」は実に人格を持つものとして登場します。まさに天地創造の前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の時にも父と同席していたと言われています。しかし、ひとり子の役割は同席だけではありません。ヨハネ1章3節をみると、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に創造の業を行ったのです。どうやってでしょうか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記1章3節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように、ひとり子は「神の言葉」という側面を持つとわかれば、彼も天地創造になくてはならないアクターだったことがわかります。先にも見たように、ロゴスは直接的に「言葉」という意味を持ちますから、ひとり子をロゴスと呼ぶことで彼が創造の役割を果たす「神の言葉」であることも示せるのです。
このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。興味深いことにイエス様は地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であるとおっしゃっていたのです。ルカ11章49節、マタイ11章19節にあります(後注2)。イエス様は本当に、天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられた方だったのです!ヨハネ福音書8章を見ると、イエス様が自分のことをそういう果てしないところから来た者であると言っているのに、ユダヤ教社会のエリートたちときたら全く理解できず、「お前は50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか」などととんちんかんな反論をします。50年どころか50億年位のスケールの話なのに。しかし、こうしたことはイエス様の十字架の死と死からの復活が起きる前は、とても人知では理解できることではなかったのです。
父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、父なるみ神のもとから人間のいるこの世に贈られてきました。人間の女性マリアから肉体を持つ人間として生まれました。ただ、聖霊の力が働いたため処女から生まれたという生まれ方をしました。なぜ神のひとり子はこのような仕方でこの世に贈られたのでしょうか?そもそも、なぜ神のひとり子はこの世に贈られなければならなかったのでしょうか?天の父なるみ神のもとで神の栄光に包まれてのんびりしていればよかったのに。
それは、天地創造の後に堕罪の出来事が起きて、人間が神の意志に反する性向、罪を持つようになってしまったためでした。そのために人間と神の結びつきが失われて、人間は神との結びつきがないままこの世を生きることになり、この世を去った後も結びつきがないまま、神のもとに戻って生きることができなくなってしまいました。そこで神は人間が自分との結びつきを持ってこの世を生きられるように、この世の人生を終えた後は復活の日に復活させて永遠に自分のもとに迎え入れることができるように、それでひとり子をこの世に贈ったのです。ひとり子を贈って何をさせたかというと、人間の罪を全部引き受けさせて人間に代わって神罰を受けさせて人間が受けないで済むように代わりに全ての罪を神に対して償って下さったのです。そのことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。今から2000年位前の世界の中で起こった出来事です。
なぜ神はこの大役を他の誰でもなくご自分のひとり子に担わせたのでしょうか?それは、人間の全ての罪を全部引き受けて未来永劫に神に対して償うことが出来るためには、神のひとり子が本当に神罰を神罰として純粋に本気で受けられないといけません。どうせ神なんだからと、受けた罰が痛くもかゆくもなかったら話になりません。本当に罰の名に値する苦しい痛いものであるためには、受ける者はそれを身に沁みて受ける生身の人間でなければなりません。しかし、普通の人間が全ての人間の罪を背負って神罰を受けて全ての人間の罪を神に対して償うことなどは不可能です。自分の分が精一杯で、しかも受けたらそれで滅んで終わってしまい新しい出発も何もありません。そこで、人間を救うのに他に手立てがないと見た神は、それを全部自分のひとり子に引き受けさせることにしたのです。通常の生殖作用を通してではなく聖霊の力で処女から生まれさせたので神聖さを持っています。神聖な神のひとり子の犠牲なので犠牲としてはこれ以上のものはありません。また、人間の肉体を持っているので人間として神罰を受けられます。これが、神聖な神のひとり子が人間の姿かたちを持って生まれたことの意味です。まさに、ヨハネ福音書1章14節に言われるように「言ロゴスは肉となった」のです。この何気ない一言に神の人間に対する大いなる愛と恵みが凝縮されています。聖書の神の本質について大いなる真理がここにあります。まさにキリスト信仰の核がここにあります。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)。
「わたしたちの間に宿られた」と言いますが、「私たちと共に生き生活した」と言った方がはっきりします。当時の人々はイエス様を通して天地創造の神の知恵と力を見ました。神の栄光を見たのです。正確には垣間見たのです。罪ある人間は神の栄光を直視することはできないからです。神の栄光は被造物の太陽の光よりも強い光です。イエス様がそのような栄光を現わした出来事もありました。現在のレバノンとシリアの国境にあるヘルモン山と推定される高い山の上でした。さらに弟子たちをはじめ大勢の人たちが死から復活したイエス様を目撃しました。復活の主を通して神の栄光を垣間見たのです。私たちが神の栄光を直視できる日がやがて来ます。それが復活の日です。その日、復活させられる者は神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を持って神の御許に永遠に迎え入れられるのです。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は罪を償ってもらい神との結びつきを持ってこの世を生きることになり、結びつきを持ってこの世から別れ、神と結びついた者として復活の日を迎えることになります。
ヨハネ1章4節と5節をみると、命と光と闇について言われています。「命」は、ヨハネ福音書ではたいてい、死で終わってしまう限りある命ではなく死を超える永遠の命を意味します。神のことばなるお方は乙女マリアから生まれる前に永遠の命がある方だったと。永遠の命は「人間の光」であったと(4節)。新共同訳では「人間を照らす光」と訳していますが、ギリシャ語原文では「照らす」とは言っていません。ただの「人間の光」です。「人間の光」とは、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにする光、この世を去った後は永遠の命が待っている神の国に迎え入れられるようにする光、まさに「人間のための光」、イエス様そのものです。
どうして「人間を照らす」と訳したかと言うと、9節に「全ての人を照らす」と言っているので、そうしたのではないかと思います。ここで「人を照らす」とはどういうことかに注意します。これは人間に光を照射するような照明器具のような意味ではありません。フォティゾーというギリシャ語の言葉は、見えない状態を光の力で見える状態にするという意味があります。神との結びつきを失い罪を持つ状態に甘んじて生き神の愛も恵みも見えない状態の人間が見えるようになるという意味です。キリスト信仰者はそのような光を持っているのです。ヨハネ8章12節でイエス様が言われる通りです。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」先ほど申しましたように、ヨハネ福音書では「命」は「永遠の命」を意味するので、「命の光」は「永遠の命に導く光」です。
さらに5節を見ると、「人間の光」つまり「永遠の命に導く光」が闇の中で輝いていると言います。闇とは、神と人間の結びつきを失わせ人間が永遠の命を持てないようにしようとする力が働いているこの世のことです。その中で輝く光とはその反対の力、神との結びつきを人間に持たせて強めてあげようとする力です。まさにイエス様のことです。
5節はさらに「暗闇は光を理解しなかった」と言います。これはいろんな意味を持つギリシャ語の動詞カタランバノーが元にあり、訳仕方がわかれるところです。前にもお話したことがありますが、この個所は他の国の言葉ではどう訳されているか見てみました。フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語訳の聖書では「暗闇は光を支配下に置けなかった」です。英語NIVとドイツ語の別の訳(Einheitsübersetzung)は、日本語と同じで「暗闇は光を理解しなかった」です。前にも言ったことがありますが、原文がどう訳されているかいろいろ比べてみると、日本語と英語の聖書が一致して、フィンランド語とスウェーデン語とルターのドイツ語が一致するということが多いです。それで、聖書の翻訳には日米同盟と欧州連合の対決があるようだなどと言ったことがありますが、よく考えるとそういうことではないことがわかりました。フィンランド語とスウェーデン語の訳というのはそれぞれの国のルター派教会が訳したものです。それに対して、日本語と英語の聖書はキリスト教のいろんな教派が合同で訳したものです。それなので、ルター派以外の考えも反映されてくるのではないかと思います。(とは言っても、スウェーデンの最新訳はルター派の伝統から離れてしまったところがあるので、ルター派の考えが反映されていると言えなくなってしまいました。)
話が横道にそれましたが、「暗闇は光を理解しなかった」がいいのか「支配下に置けなかった」がいいのか。どっちでしょうか?一つの考え方として、悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持つか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解することができます。それで日本語や英語のように訳していいかもしれません。しかし、悪魔は人間を罪の支配下に置こうとして人間から神との結びつきを失わせようとしても、その企みはイエス様の十字架と復活によって完全に破綻してしまったのだから、やはり暗闇は光を支配下に置けなかったと理解するのがいいのではないかと思います。
イエス様は人間のための光、これがあるおかげで暗闇の中でも消えない光を私たちは持つことが出来ます。肉眼の目では見えないけれども心の目でいつも見ることが出来る光です。それは私たちがいつも見続けることができるようにと消えることなく絶えず輝いています。しかし、光の方はこのように輝き続けているのに私たちの方でそれを見失うことがあります。自分の内に神の意志に反する罪があることに気づいて神との結びつきが大丈夫かどうか不安になる時がそうです。また、どうしようもない困難や苦難に陥って神との結びつきがあるなどと思えなくなってしまう時がそうです。
しかし、私たちキリスト信仰者は聖書を繙くたびに、み言葉に聞くたびに光は消えていないこと、光は輝き続けていることを確認できます。そして罪の赦しの祈りと赦しの宣言を受けることで神との結びつきには何の変更もないことを確信できます。ざらに聖餐式のパンとぶどう酒を通して主の血と肉を受けることで神の方で結びつきを維持して下さっていることを知ることが出来ます。何があっても神との結びつきは失われないのです。それがわかれば目はまた開き光が見えます。永遠の命に導く光です。
このように、人間のための光は私たちの方で見えなくなる時があっても、それは光の方が消えたのではなく、私たちの目が見えなくなっただけのことです。再び光が見えるように、そのために聖書の御言葉と聖餐が与えられているのです。御言葉と聖餐を唯一の確かな手掛かりにして神のもとに立ち返ることで光はまた見えるようになります。キリスト信仰者は光を目指して進むのです。
(後注1)「あった」ηνが過去形なのに注意。もし「はじめ」が天地創造の時を指して、その時点で「ことば」が出てきたということならば、過去形のηνではなくて、アオリストのεγενομην/εγενηθηνにすべきでしょう。
(後注2)。もちろんイエス様が実際に口にした言葉は、ギリシャ語のソフィアσοφιαでなくて、ヘブライ語のחכמהか、アラム語のそれに近い語だったでしょう。
クリスマスイブ礼拝、降誕祭前夜礼拝説教 2022年12月24日
1.今朗読されたルカ福音書の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音」(jouluevankeliumi)とも呼ばれ、国を問わず世界中の教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読されます。
ところでフィンランドでは、ちゃんと教会に通う家族なら、クリスマス・イブの晩は御馳走が並ぶテーブルに家族全員がついて、まず家族の誰かが「クリスマス福音」を朗読するのをみんなで聞いて、それから食べ始めたものです。我が家はそうしていますが、現在教会離れが急速に進むフィンランドで果たしてどのくらいの家庭がこの伝統を続けているでしょうか?
御馳走を頂く前に「クリスマス福音」を読み聞かるというのは、誰のおかげでこのようなお祝いが出来るのか、そもそもクリスマスとは誰の栄誉を称えるお祝いなのかをはっきりさせます。それは言うまでもなく、今から約2000年前に起きたイエス・キリストの誕生を記念するお祝いです。そのイエス様を私たち人間に贈って下さった天地創造の神の栄誉を称えるお祝いです。それでは、どうしてそんな昔の遥か遠い国で生まれた人物のことでお祝いをするのか?それは聖書に従えば、彼が天地創造の神のひとり子でありながら、全ての人間の救い主となるべく天上の神のもとからこの地上に送られて、マリアを通して人間として生まれたからです。話が昔の遠い国の人たちだけでなく、国と時代を超えて現代の日本に生きる私たちにとっても救い主となるために生まれたからです。そのような方のために祝われるお祝いなので、御馳走の前にお祝いするわけを思い返すためにクリスマス福音の読み聞かせをするのです。そして、イエス様を贈って下さった神に感謝して御馳走を頂きます。神がそんな贈り物をして下さったからには、私たちもそれにならって誰かに何かプレゼンする。また、神がひとり子を贈って下さったのは、国と時代を超えて全ての人間一人ひとりのことを気に留めて下さっているからです。それで私たちもカードに「良いクリスマスと新年を迎えて下さい」と書いて、あなたのこと忘れていませんよ、と伝える。そういうのが、本来の趣旨にそうクリスマスの祝い方です。もちろん、教会の礼拝に行って、神に賛美の歌を歌い、聖書の朗読と説教者のメッセージに耳を傾け、神に祈りを捧げることも忘れてはいけません。ちょうど今しているようにです。
近年はどこでも、クリスマスのお祝いの栄誉を称える面がどんどん脇に追いやられて、お楽しみの面が肥大化する傾向があります。そちらの方がお祝いの目的になっているのがほとんどかもしれません。しかし、いくらそういうふうになっていっても、イエス様の誕生がなかったらクリスマス自体も存在しなかったという事実は誰も否定することは出来ません。
2.「クリスマス福音」に記されている出来事は多くの人に何かロマンチックでおとぎ話のような印象を与えるのではないかと思います。真っ暗な夜に羊飼いたちが羊の群れと一緒に野原で野宿をしている。電気や照明などありません。空に輝く無数の星と地上の一つの小さなたき火が頼りの明かりです。そこに突然、神の栄光を受けて輝く天使が現われ、闇が一気に光に変わる。天使が救い主の誕生を告げ、それに続いて、さらに多くの天使たちが現れて一斉に神を賛美し、その声は天空に響き渡る。簡潔で詩のような賛美の言葉は次のことを言っていました。「神は天上で永遠の栄光に満ちておられる。神の御心に適う人たちは地上で神と平和な関係に入れる。」
賛美し終えた天使たちは姿を消し、あたりはまた闇に覆われる。しかし、羊飼いたちの心には何かともし火が灯されていました。もう外側の暗闇は目に入りません。彼らは何も躊躇せず何も疑わず、生まれたばかりの救い主を見つけようとベツレヘムに向かいました。そして、一つの馬小屋の中で布に包まれて飼い葉桶に寝かせられている赤ちゃんのイエス様を見つけます。
この話を聞いた人は、闇を光に変える神の栄光、天使の告げ知らせと賛美の合唱、飼い葉桶の中で静かに眠る赤ちゃん、それを幸せそうに見つめるマリアとヨセフと動物たち、ああ、なんとロマンチックな話だろう、本当に「聖夜」にふさわしい物語だなぁ、とみんなしみじみしてしまうでしょう。
3.ところが、この「クリスマス福音」はよく注意して読むと、そんな淡い甘い期待を踏みにじるような非情さがあることに気づかされます。それは、その当時の政治状況がこの出来事の上に重い暗い影を落としているということです。人の人生や運命は権力を持つ者が牛耳ってもてあそび、普通の人はそれに対して何もなしえないということです。民主主義の時代になっても権力に抑制を効かせることはなかなか難しいのに、ましては民主主義のない昔だったらなおさらです。権力の言われるままになり、もてあそばれてしまいます。そういうことを「クリスマス福音」は明らかにしているのです。
それがわかるために、ヨセフとマリアはなぜ自分たちが住むナザレの町でイエス様を出産させないで、わざわざ150キロ離れたベツレヘムまで旅しなければならなかったのかを考えてみるとよいでしょう。答えはクリスマス福音書から明らかです。ローマ帝国の初代皇帝(在位紀元前27年から紀元14年)アウグストゥスが支配下にある地域の住民に、出身地で登録せよと勅令を出したからです。これは納税者登録で、税金を漏れることなく取り立てるための施策でした。その当時、ヨセフとマリアが属するユダヤ民族はローマ帝国の占領下にあり、王様はいましたがローマに服従する属国でした。ヨセフはかつてのダビデ王の家系の末裔です。ダビデの家系はもともとはベツレヘム出身なので、それでそこに旅立ったのでした。出産間近のマリアを連れて行くのはリスクを伴うものでしたが、占領国の命令には従わなければなりません。当時の地中海世界は人の移動が盛んな、今で言うグローバル世界だったので故郷を離れて仕事や生活をしていた人たちは多かったと思われます。皇帝のお触れが出たということで大勢の人たちが慌てて旅立ったことは想像に難くありません。
やっとベツレヘムに到着したマリアとヨセフでしたが、そこで彼らを待っていたのはまた不運でした。宿屋が一杯で寝る場所がなかったのです。町には登録のために来た旅行者が大勢いたのでしょう。そうこうしているうちにマリアの陣痛が始まってしまいました。どこで赤ちゃんを出産させたらよいのか?ヨセフは宿屋の主人に必死にお願いしたことでしょう。馬小屋なら空いているよ、一応屋根があるから星の下よりはましだろ、と。生まれた赤ちゃんはすぐ布に包まれてました。飼い葉桶にそのまま寝かせると硬くて痛いから、馬の餌の干し草をクッション代わりに敷いたでしょう。以上がイエス様がベツレヘムの馬小屋で生まれた真相です。
子供向けの絵本聖書を見ると、この場面の挿絵は大抵、嬉しそうにすやすや眠る赤ちゃんを幸せそうに見つめるマリアとヨセフがいて、その周りをロバや馬や牛たちが可愛らしく微笑み顔で見つめているというものです。羊飼いたちも馬小屋の近くまで来ています。東の国の博士たちももうすぐ貢物を持ってやってきます。ああ、なんとロマンチックな場面なんだろう!でも、本当にそうでしょうか?皆さんは馬小屋か家畜小屋がどんな所かご存知ですか?私は、妻の実家が酪農をやっているので、よく牛舎を覗きに行きました。それはとても臭いところです。牛はトイレに行って用足しなどしないので、全て足元に垂れ流しです。馬やロバも同じでしょう。藁や飼い葉桶だって、馬の涎がついていたに違いありません。なにがロマンチックな「聖夜」なことか。天地創造の神のひとり子で神の栄光に包まれていた方、そして全ての人間の救い主になる方はこの地上に贈られた時、こういう不潔で不衛生きわまりない環境の中で、まさに辱められたような状態で人間としてお生まれになったのでした。
このようにイエス様の誕生の出来事は実はロマンチックなおとぎ話なんかではないのです。クリスマス福音書に書いてあることを注意して読めば、マリアとヨセフがベツレヘムに旅したことも、また誕生したばかりのイエス様が馬小屋の飼い葉桶に寝かせられたのも、全ては当時の政治状況のなせる業だったことがわかります。普通の人の上に影響力を行使する者たちがいて、人々の人生や運命を牛耳ってもてあそんだことに翻弄されたことだったのです。
4.しかしながら、聖書を本当に読み込める人はこれよりももっと深く広い視点を持って読むことが出来ます。どんな視点かと言うと、普通の人の上に影響力を行使する者たちがいても、実はそのまた上にそれらの者に影響力を行使する方がおられるという視点です。その上の上におられる方がその下にいる影響力の行使者の運命を牛耳っているという視点です。この究極の影響力の行使者こそ、天地創造の神、天の父なるみ神です。神は既に旧約聖書の中で、救い主がベツレヘムで誕生することも、それがダビデ家系に属する者であり、処女から生まれることも全て前もって宣言していました。それで神は、ローマ帝国がユダヤ民族を支配していた時代を見て、この約束を実現する条件が出そろったと見なしてひとり子を贈られたのでした。あるいはこうかもしれません。神はその当時存在していたいろんな要素を自分で組み合わせて、約束実現の条件を自分で整備したのかもしれません。いずれにしても、この世の影響力行使者たちが我こそはこの世の主人なり、お前たちの人生や運命を牛耳ってやると得意がっていた時に、実は彼らの上におられる神が彼らを目的達成の道具か小細工にしていたのです。
人間的な目で見たら、マリアとヨセフは上に立つ影響力行使者に引きずり回されもてあそばれたかのように見えます。しかしながら、彼らはただ単に神の計画の中で動いていただけなのです。引きずりまわされるとか、もてあそばれるとかいうことは全然なかったのです。なぜなら、神の計画の中で動けるというのは、神の守りと導きを受ける確実な方法だからです。そういうわけで、イエス様誕生にまつわる惨めさは、実は神の目から見たら惨めでもなんでもなく、神の祝福を豊かに受けたものだったのです。そのようにして二人には究極の影響力行使者である天地創造の神がついておられ、その神に一緒に歩んでもらえる者として、彼らはこの世の影響力行使者たちの上に立つ立場にあったのです。
実は私たちもまた、マリアとヨセフと同じように、究極の影響力行使者の神がついて神に一緒に歩んでもらえる者になることが出来ます。どういうふうにして出来るかと言うと、マリアから人間としてお生まれになったイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることによってです。どうしてイエス様が救い主なのかと言うと、彼が十字架の死を引き受けることで私たちの罪を全て神に対して償って下さったからです。それに加えて、死から復活されたことで死を滅ぼして永遠の命への道を切り開いて下さったからです。このイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、人間は神の愛する子となり神の守りと導きの中で生きることになります。究極の影響力行使者の神が共におられる者になるので、この世の影響力行使者たちの上に立つ立場になります。しかしながら、この世の影響力行使者はローマの皇帝のような目に見える具体的な行使者だけではありません。使徒パウロが教えるように、影響力行使者には目には見えない霊的なものもあります。それらは、人間が罪の償いがされない状態に留まることを望んで、人間と神との間を引き裂こうと躍起になるものです。しかし、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、彼がして下さった罪の償いを自分の内に取り込んでしまったので、見えない影響力行使者はもう何もなしえません。
そのように神の愛する子となり神が共におられる人は、目に見える影響力行使者と目に見えない行使者双方の上に立つ者となります。それなので、人間的な目では惨めな状態にあっても、心が騒いだり慌てふためくことはありません。なぜならそのような者の目は遮られないので、この世の影響力行使者の上に本物の影響力行使者をいつも見ることができます。この世の影響力行使者と戦争状態にあっても、究極の影響力行使者とは永遠の平和があります。それでキリスト信仰者の心は人間の理解を超えた平安を持てるのです。世界で一番最初のクリスマスの夜に神を賛美した天使たちの言葉は信仰者にとって真理です。
「神は天上で永遠の栄光に満ちておられる。神の御心に適う人たちは地上で神と平和な関係に入れる。」
12月のスオミ教会・家庭料理クラブは10日に開催しました。今回はフィンランドのクリスマス料理の定番の中から「ポテト・キャセロール」Perunalaatikko と「ビーツ・サラダ」 Rosolli を選びました。あわせてデサートにクリスマス・クッキーも作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にポテト・キャセロールを作ります。今回は伝統的なポテト・キャセロールと少し違って甘味を出すためにジャガイモだけでなくサツマイモも入れました。ジャガイモとサツマイモを茹でてからハンドミキサーでマッシュします。牛乳など他の材料を混ぜて焼き方型に入れ、あまり高くない温度で焼きます。
次はビーツ・サラダの番です。茹でた野菜をサイコロ状に切って種類ごとにお皿にきれいに並べます。参加者が大勢いたおかけで色とりどりの華やかなサラダがすぐに出来上がりました。サラダの酸っぱさを和らげるクリームも作ります。生クリームをホイップしてスパイスとビーツの汁を少し加えるとピンクの可愛らしいクリームの出来上がりです。
最後はクリスマス・クッキー「ピパルカック」を焼きます。生地を伸ばして花や星やハートなどいろんな形の型どりをして沢山のクッキー生地を鉄板に並べます。鉄板をオーブンに入れると教会中クリスマスの香りで一杯になりました。
参加者の皆さんにとってフィンランドのクリスマス料理を作るのは初めてだったので、試食が楽しみでした。出来上がったポテト・キャセロールとビーツ・サラダをそれぞれのお皿に盛りつけて、さあ、頂きます!ポテト・キャセロールが入った型はあっという間に空っぽになりました。クリスマス料理やクッキーをゆっくり味わいながら、モニターを通してフィンランドのクリスマスの歌を聴きました。終わりにフィンランドのクリスマス料理やクリスマスの過ごし方、そして聖書に出てくるクリスマスのお話も皆で一緒に聞きました。
今回の料理クラブも無事に楽しく終えることができ、天の神さまに感謝です。
料理クラブは年明けの1月はお休みになります。次回は2月第2の土曜日に予定しています。日にちが近づきましたら教会のホームページの案内をご覧ください。何を作るか、ぜひお楽しみに!
それでは皆さま、天の父なる神さまが豊かに祝福されるクリスマスをお迎え下さい!
今日皆さんと一緒に作ったポテト・キャセロール「Perunalaatikko」とビーツ・サラダ「Rosolli」は昔からあるクリスマス料理です。オーブン焼きの温かいキャセロールの種類は多くて、ジャガイモの他にニンジンやルタバガと呼ばれるスウェーデン・カブのキャセロールも作られます。一番人気のあるのはポテト・キャセロールですが、作り方が少し難しいので、自分で作らないで店で買う家庭が多いです。今日は簡単な作り方で作りました。甘味を出すためにサツマイモとシロップを入れましたが、伝統的な作り方はジャガイモだけから甘味を引き出します。ジャガイモだけでどうやって甘くなるのでしょうか?それは、茹でたジャガイモをマッシュしてその中に小麦粉を少し混ぜて、大体50℃位の温度に3時間から5時間くらい置いておくと、ジャガイモのでんぷんが分解されるので甘味が出るのです。そのマッシュポテトをあまり高くない温度で焼きします。これが伝統的なポテト・キャセロールの作り方です。
ビーツ・サラダは伝統的なクリスマスサラダの一つです。サラダの名前「Rosolli」はロシア語から来たものです。このサラダはクリスマスの時だけでなく、一年のお祝いの食卓にもよく出されます。このサラダにはいろいろな野菜が入っているので、私の母は秋の収穫が終わってからよく作りました。
フィンランド人はクリスマス料理の伝統をとても大事にして、母親が作ったクリスマス料理が子供に受け継がれて、どの家庭でも昔お母さんが作ったものと同じ種類の料理を作ります。料理の味と香りを通しても、それぞれの家庭のクリスマスの雰囲気が作られると言ってもよいです。
クリスマスの時に毎年同じ料理を作ったり、同じ過ごし方でクリスマスをお祝いすることで、フィンランド人は安心感を得ていると言えます。クリスマスが近づくと、たいていの子どもたちは「今年も豚肉のオーブン焼きやポテト・キャセロールを作るの?」と親に聞きます。作りますよ、と答えると、子どもはホッとした顔をします。これで今年も同じ雰囲気のクリスマスになると感じて安心するのです。しかし、今の世界の動きはこの2、3年の間にとても大きく変わってしまって、前は当たり前だったことが今はそうではなくなってしまいました。このため、クリスマスにいつも同じ料理を作ったり同じ過ごし方でお祝いできるかどうか、来年も出来るのだろうかと多くの人々が不安を感じるようになったかもしれません。
この間フィンランドのテレビのニュースを見ていたら、今フィンランド人は誰を一番信頼しているかについての世論調査がありました。調査の結果、フィンランド人が一番信頼しているのは、国境警備隊、救急隊、救急医療センターでした。これは、今のフィンランド人が大きく変わる世界の中で安全と安心を重要なものと考えていることを表わしています。それで、安全と安心を与える機関に対する信頼が高まったのです。さて、この変化する世界で私たちは誰を信頼するでしょうか?
聖書には信頼について沢山書いてあります。今教会のカレンダーはアドベントの期間に入ったので、クリスマスの前やクリスマスの時に起きた出来事について聖書に書かれてあることを見てみたいと思います。その中で、イエス様の母親になるマリアとマリアの夫になるヨセフが天の神さまに対して持っていた信頼は私たちの心を動かします。
昔ナザレという町にマリアという若い女性が住んでいました。彼女はダビデ家のヨセフと婚約していました。ある日天使のガブリエルがマリアに現れてこう言ったのです。「おめでとう、恵まれた方。神さまはあなたと共におられます。」とても驚いたマリアに対して天使は続けて言いました。「あなたは神さまから恵みを与えられました。これからあなたは神の力で身ごもって男の子を産むことになります。その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な者になり、いと高き神の子と呼ばれる。彼に神はダビデの王座を授ける。彼は永遠に神の民を治め、その支配は終わることがない。」天使の言葉はマリアには完全に理解できないことでしたが、それは旧約聖書の預言が関係しているとマリアにはわかりました。マリアも旧約聖書に預言された救い主はいつ来られるかと待っていたからです。マリアは神さまがメシアを送る約束を果たす日がついに来たのだと分かったのです。それで天使に次のように言ったのです。「私は主にお仕えする者です。お言葉の通りにこの身になりますように。」マリアは神さまを信頼していたので覚悟が出来ていました。しかし、婚約者のヨセフがこのことをどう思うか心配があったでしょう。
マリアの妊娠に気づいたヨセフは結婚をやめることを考えました。しかし、ヨセフには天使は夢の中に現れて次のように言ったのです。「マリアのお腹の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は将来、人間を罪から救い出す。だからマリアと別れてはならない。結婚しなさい。」ヨセフも旧約聖書に預言されていた救い主を待ち望んでいました。それで、その時がついに来たのだ、それは自分とマリアを通して本当のことになるのだとわかりました。ヨセフはマリアを妻として迎えることにしました。
マリアとヨセフの将来の見通しは最初に考えていたことと大きく変わってしまいました。この先何が起こるのか予想がつかず、二人とも不安を感じたかもしれません。それでは、なぜ二人は神さまが与える課題を受けいれたのでしょうか?それは、神さまが本当に信頼して大丈夫なお方であることを旧約聖書から学んでいただからです。神さまが救い主を送って下さるという約束を必ず守ると信じていたからでした。
旧約聖書の詩篇62篇9節には次のように書いてあります。「力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し御前に心を注ぎ出せ。神は私たちの避けどころ」。このみ言葉は私たちにも向けられています。今世界が大きく変わっていてどこに向かっているか誰もわからない時でも、私たちは神さまが示される道を進んで行くことができます。その道はいつも平らではなく坂道もあれば曲がり道もあります。しかし、神さまのみ言葉が生きる土台にあれば、神さまは信頼して大丈夫な方と分かり、神さまが示される道を歩むことが出来ます。たとえクリスマスの過ごし方が前と違うものになっても、イエス様が私たちの救いのためにこの世にお生まれになったというクリスマスの本当の意味は変わりません。変化が激しい世の中で、変わらない神さまの愛とみ言葉は本当に信頼できるものです。クリスマスの本当の喜びは、本当に信頼できる方を持つことがで見いだすことが出来るのです。