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スオミ教会・手芸クラブは4月27日、春の爽やかな陽気の中で再開しました。前回から4カ月くらい経ってしまいましたが、やっと再開することができました。
今回の作品はかぎ針編みのコースターです。初めにコースターのいろいろなモデルを見て自分の作りたい編み型を選びます。毛糸にかぎ針棒を合わせて編み始め、鎖網をして輪を作ります。その後はモデルに従って編み続け、コースターはどんどん大きくなっていきます。おしゃべりをしながら楽しく編み続けていくうちにコースターはあっという間に出来上がりになりました。皆さん、素敵な可愛いコースターを編み上げました。
その後はコーヒータイムですが、今回は手芸クラブと同じ時間帯に教会に自由に入れる「チャーチ・カフェ」も開きました。壁掛けモニターに映し出されるフィンランドの景色を眺め、響いてくる讃美歌に耳を傾けながら、コーヒーとフィンランド風菓子パン”プッラ”を味わうひと時です。そこで旧約聖書の詩篇121篇についてのお話も聞きました。
次回の手芸クラブは5月25日に予定しています。
詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしております。
私たちの家族は山が好きで休みの日に時々ハイキングに行きます。私たちが登る山はあまり高くありませんが、山があるところに行って山の景色を見ると、いつも旧約聖書の詩篇の121篇を思い出します。その1節と2節にはこう書いてあります。
「目を上げて、私は山々を仰ぐ。 私の助けはどこから来るのか。 私の助けは来る天地を作られた主のもとから。」
「目を上げて、私は山々を仰ぐ。
私の助けはどこから来るのか。
私の助けは来る天地を作られた主のもとから。」
これを書いた人は高い山を見上げて、それよりも高いところにおられる神様のことを尊敬の気持ちで思いました。私は具体的に高い山を見る時、この詩篇を書いた人のように神様の偉大さと人間の小ささを感じます。聖書は神様が天と地とその間にあるもの全てを無から創造されたことが言われています。それを思う時、神様は富士山のような高い大きな美しい山も創造された、本当に大きな力がある方、何でもできる方だと強く感じます。天地を創造された神様は詩篇に書いてあるように私たちのことを全てご存じで私たちを助けてくださる方でもあります。それで神様は私たちから離れないで、いつも私たちのそばにいて守って下さいます。
私たちは高い大きい美しい山を見ても、春の美しい自然を見ても、自然の中で神様の創造の力が働いていることを強く感じます。これも神様の人間に対する愛の業です。
「主が全ての災いを遠ざけてあなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。 あなたの出て立つのも帰るのも主が見守ってくださるように。 今も、そしてとこしえに。」7-8節
この箇所は、神様が守って下さることについて書いてあります。神様は私たちの全てのこと、旅のような人生で出発の時から帰りの時まで守って下さるのです。これはとても感謝すべきことです。でも私たちは、神様の守りや助けがあると分かるでしょうか?私たちは何も困難がない時は、天地を創造された神様がいるなんて忘れてしまいます。そのような時、別に神様なんかいなくても大丈夫と思う人は多いでしょう。でも人生の中に事故や病気、地震などが起こると、私たちは神様は眠っていて何もしないからこんなことが起こるのだと思うでしょう。どうして神様は助けてくれないのかと思うでしょう。天地を創造された神様は眠っていません。それもこの詩篇の 節で言われています。「 まどろむことなく、眠ることもない 」
私たちの人生の中に困難があっても神様はそれを全てご存知で、私たちのそばにいてくださいます。でも、それはどうやって分かるでしょうか?それは、神様が人間のために行った愛の業から分かります。神様は私たちを愛して、私たちを罪の悪い力から救うためにご自分の子、イエス様をこの世に送られて、十字架の上で身代わりに死なせたのです。そして、イエス様を三日目に死から復活させられました。このように神様は人間を罪の悪い力から救って下さって、人間と神様の関係をとり直してくださいました。このことから、神様は本当に神聖な方、私たちを救う力がある方と分かります。
私たちも詩篇121篇を書いた人と同じように天地を創造された神様に信頼していきましょう。
主日礼拝説教 2022年5月1日 復活節第三主日 聖書日課 使徒言行録9章1節-20節、黙示録5章11節-14節、ヨハネ21章1-19節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日の聖書の日課にはパウロとペトロのことが出てきます。パウロはもともとはサウロという名前でした。古代ユダヤ民族の初代の王サウルのことです。王様の名前だったのが「小さき者」を意味するパウロになりました。ペトロの方はもともとシモンという名でしたが、イエス様からお前の名はこれからは岩を意味するケーファーだと言われました。これはアラム語ですが、それがギリシャ語のぺトゥロスになりました。「岩」というのは教会の基を意味します。私が中学の時だったか高校の時だったか、世界史のテストで( )に人物名を書けという問題で「キリスト教が誕生した時、ユダヤ人に伝道したのは( )、ユダヤ人以外の異邦人に伝道したのは( )」というのがあって見事に逆に書いてしまいました。似たような名前なのでどっちでもいいじゃないかなどと思ったものですが、その頃、新約聖書くらい読んでいたら、そんなことにはならなかったでしょう。
ユダヤ人に伝道したのがペトロ、異邦人に伝道したのがパウロというのは少し乱暴な区分けです。キリスト教会の誕生史をみると最初はユダヤ人が中心でした。イエス様の弟子たちも皆ユダヤ人で、イエス様自身、ユダヤ人の乙女マリアから人間の肉体を受けてこの世に生まれたので、旧約聖書を受け継ぐ民族の一員として生まれました。そういう背景があるので初代のキリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者はまずユダヤ人であるべきということにこだわりました。イエス様を旧約聖書に約束された救世主メシアと信じるならば、その人は旧約の伝統を受け継ぐ者でなければならない。もし異邦人がキリスト信仰者になろうとするなら、まず割礼を受けてユダヤ人にならなければならない。そう考えられても不思議はありません。ところが天地創造の神は、そうではないということをペトロに教えていたのです。それでペトロはローマ帝国の将校コルネリウスに洗礼を授けたのです(使徒言行録10章)。それにもかかわらず、エルサレムの使徒たちがユダヤ人にこだわり続けたことは、パウロの「ガラテアの信徒への手紙」からも伺えます。
パウロは、人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける際には割礼を受けてユダヤ人になる必要はないという立場でした。私どものような異邦人は異邦人として、つまり日本人は日本人として、欧米人は欧米人として、アフリカ人はアフリカ人として、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けられ、そのようにして天地創造の神から罪の赦しを等しく受けられて神と結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後も復活を遂げて神の御許に迎え入れられるようになりました。わざわざ割礼を受けてユダヤ教に改宗してからキリスト信仰者になる必要はなくなりました。実にありがたいことです。
そのパウロの伝道の仕方をよく見ると、彼は伝道する先々でまずシナゴーグに行って教えました。ということはユダヤ人に伝道したのです。ただ、教えを聞いたユダヤ人たちは受け入れる人も出るが反対者の声が強くてパウロは追い出されてしまうことが度々でした。ところが、シナゴーグの外でなんと異邦人がパウロの教えを受け入れるということが起きたのです。パウロは両方を相手に伝道したのですが、結果的に異邦人が受け入れたということです。
イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるのに、ユダヤ教に改宗しないでいいというパウロの教えはどうして生まれたのか?本日の日課にある出来事、パウロがキリスト教徒迫害の旅をしていた時に復活の主の栄光を目のあたりにしたことが大きなきっかけになりました。そのことについて私は3年前の説教でお話したことがありますので、興味のある方そちらをご覧ください。本日はペトロの方をお話ししようと思います。
本日の福音書の日課は、復活されたイエス様が弟子たちの前に3度目に現れた出来事についてです。ガリラヤ湖で夜通し漁をしていた弟子たちが何も取れないで夜明けになった頃、イエス様が岸辺に現れて大声で魚が取れるところを教えます。言われたとおりに網を下ろすと網が張り裂けんばかりの大量の魚がかかりました。イエス様だと気づいたペトロは他の者より一足早くイエス様のもとに行こうと湖に飛び込みます。その時、自分が裸であることに気づいて、失礼に当たると思ったのか慌てて服を着てそれで飛び込んでしまいました。ずぶ濡れになってしまうのに。ペトロの性格がよく表れていると思います。弟子たち全員が岸に上がると、魚を焼く炭火とパンが用意されていました。イエス様は、さあ、朝ご飯を食べていきなさい、と労います。
食べ終わった後でイエス様がペトロに「他の誰よりも私を愛しているか?」と聞きます。ペトロは「愛しています」と答えますが、三度同じことを聞かれたので、信じてもらえないと思って悲しくなります。イエス様が三度聞いたのは、彼が裁判にかけられた時ペトロが群衆の前でイエス様のことなど知らないと三度言ってしまったことに対応すると言われます。「あなたを愛しています」と三回言わせることで、三度拒否したことを赦す意味があると言われます。もちろん、その意味もありますが、ここではもう少し深いところも見ておこうと思います。
イエス様が「私を愛しているか?」と聞く時のギリシャ語の動詞と、ペトロが「愛しています」と答える時の動詞が違っています。イエス様が聞く時の動詞はアガパオーαγαπαωですが、ペトロが答える時の動詞はフィレオ―φιλεωです。新共同訳では両方とも「愛する」と訳しているのでこの区別が見えません。二回目のイエス様の質問とペトロの答えも同じです。ところが三回目になると、イエス様は突然動詞を変えてペトロと同じフィレオ―で聞きます。そしてペトロはフィレオ―で答えます。このことを少し見ていきましょう(後注)。
「愛」とか「愛する」という言葉はいろんな意味が含まれるので厄介です。古代ギリシャ語は、異なる形の愛を異なる言葉で言い表していました。男女間の性愛はエロースερωςと言っていました。兄弟愛とか同志愛とでも言うべきものはフィラデルフィアφιλαδελφιαという言葉がありました。愛する対象が兄弟や同志より広がって人間愛を意味する時は、フィラントローピアφιλανθρωπιαという言葉がありました。ペトロの「愛しています」フィレオーという動詞は、このフィラデルフィア、フィラントローピア兄弟愛、同志愛、人間愛に関係する愛です。
それでは、イエス様が「愛しているか」と聞いた時のアガパオーはどんな愛でしょうか?ヨハネ福音書13章34節と15章12節をみると、イエス様は弟子たちに新しい掟を与えると言って、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じます。ここには、イエス様の弟子たちに対する愛とそれを模範にした弟子同士の愛の二つが言われています。両方ともアガパオーです。
イエス様の弟子たちに対する愛とはどんな愛でしょうか?ヨハネ15章13節でイエス様はこう言います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここでは、愛は動詞ではなく名詞のアガペーαγαπηですが、動詞のアガパオーも名詞のアガペーも同じ愛の形です。ここで、アガパオー、アガペーの愛は、自分の命を犠牲にすることも厭わないものであることが明らかになります。
そう言うと、兄弟愛、同志愛、人間愛にも大切な人のために自分を犠牲にすることがあるのではないか、と言われるかもしれません。ここは、日本語の言葉に囚われず、もう一度ギリシャ語の言葉を見てみます。兄弟愛、同志愛のフィラデルフィアと人間愛のフィラントローピアは、新約聖書の中での使われ方を見ると、親切とか思いやりとか友好的とか敬意を払うとか、そういう人間同士が平和な関係でいられる態度ないし行動様式の意味で使われています(ローマ12章10節、使徒言行録28章2節、形容詞として第一ペトロ3章8節、副詞として使徒言行録27章3節、ただしテトス3章4節は神のものとして)。それなので、それらには自己犠牲を厭わない強い愛はないと思います。
それで、親が子供の命を守るために自分を犠牲にするということが起これば、それはアガペーの愛になります。聖書は、天地創造の神の人間に対する愛はまさにそういうものだと教えます。神の愛が自己犠牲をも厭わない愛ならば、それでは神は人間を何の危険から守るためにどんな犠牲を払ったと言うのでしょうか?「ヨハネの第一の手紙」4章10節で次のように言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここで言われる「愛」、「愛する」はまさにアガペー、アガパオーです。その愛は、人間が神との結びつきを持てるのを妨げていたもの、人間がこの世を去った後で神の御許に迎え入れられるのを妨げていたもの、そうした妨げを神がひとり子を犠牲にして全て取っ払って下さったということです。そのことがゴルゴタの十字架で起こったのでした。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、私たちの内にある、神の意思に反しようとする罪が妨げの力を失くすのです。罪があることを認めて神に赦しを祈ると、神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせ、いつも赦しがあることを見せて下さいます。この時、罪に妨げの力はなく干からびています。罪よ、ざまあみろ、です。そのようにして、洗礼で新しく生まれ変わった自分にいつも戻れるのです。
イエス様とペトロの対話に戻ります。イエス様はペトロに「愛しているか」と聞いた時、そういう神が人間に示したような深い愛で愛しているかと聞いたのです。それに対してペトロは兄弟愛、同志愛、人間愛のレベルの愛で愛していますと答えたのです。ペトロは、たとえ他の弟子が見捨てても自分はあなたを見捨てません!などと威勢の良いことを言っておきながらいざとなると見捨ててしまいました。自己犠牲からほど遠い自分を露呈してしまった手前、あまり偉そうなことは言えません。そんなジレンマが神的な愛を避けて人間的な愛で答えたことに窺われます。イエス様はペトロに「お前は神的な愛で私を愛するか?」と聞き、ペトロは「はい、ただし、人間的な愛ですが」と答えたのです。イエス様はもう一度同じ質問をし、ペトロは同じ答えをします。そして三度目の質問。今度はイエス様は神的な愛アガパオーで言わず、ペトロと同じ人間的な愛フィレオーで聞きます。「じゃ、お前は人間的な愛だったら私を愛するんだな」とたたみかけたわけです。ペトロの反応は、イエス様!私がフィレオーで愛することも疑うのですか?そりゃ、あんまりです!という様子が窺われます。
ここでイエス様がなぜ三回聞いたのかを考えてみましょう。ペトロは三回知らないと言ったので、一回の答えでは信用できなかったというのは本当でしょうか?実はイエス様は既に一回目の答えでペトロがイエス様を信用していました。どうしてかというと、ペトロの答えの後でイエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言ったからです。イエス様の小羊、つまりイエス様を救い主と信じる者たちが神との結びつきに留まって復活の日を目指してこの世を進んでいけるように彼らを守り導きなさい、ということです。つまり牧会をしなさいということです。「わたしの小羊」と言うように、牧会者は信徒をイエス様から預かって牧会するのですから、その責任はとても大きいです。ペトロにそのような責任を委ねたのです。もし、イエス様が信用していなかったら、こんな大きな責任は委ねなかったでしょう。それほどペトロを信用していたのであれば、なぜ三回も確認させたのか?そうすることで、牧会とはイエス様を愛することが土台になっていなければならないことをはっきりさせたのです。
それでは、私たちがイエス様を愛する愛とはどんな愛でしょうか?イエス様は人間のために自己犠牲の重荷を背負われました。私たちがイエス様のために自己犠牲することがあるのでしょうか?ここでヨハネ14章21節と23節でイエス様が、彼を愛する人は彼の掟、彼の教えたことを守る人である、と言っていることに注目します。イエス様の掟、イエス様が守るようにと教えたことは何か?それも先ほども見ました、ヨハネ13章34節と15章12節のイエス様の言葉に凝縮されています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。イエス様には自分を犠牲にしてまで神と人間の結びつきを回復してあげようと駆り立てた愛がありました。その愛で互いに愛し合いなさいと言うのです。お互いをそういうふうに愛することができれば、それはイエス様を愛することになると言うのです。
それではイエス様を自己犠牲に駆り立てた愛で互いに愛するとはどういうことでしょうか?それは、イエス様のおかげで神との結びつきを持てて生きられるようになったのだから今度は、隣人も同じように神との結びつきを持ててこの世を生きられるように、そしてこの世を去る時は復活させられて神の御許に迎え入れられるように働くことです。
そこで、もし隣人がキリスト信仰者ならば、その人が既に受け取った神との結びつきを失わないように支え助けてあげることです。それをお互いにすることです。キリスト信仰者が苦難や困難に陥ることはしょっちゅうあります。そんな時は、どうしてこんなことが起こるのかと、神に失望や不信が生まれる危険があります。それで信仰者を苦難や困難から助けるというのは、神との結びつきや信頼がしっかり保たれるようにするということが視野に入ります。
イエス様が互いに愛し合いなさいと言ったのは弟子たちだったので、隣人がキリスト信仰者でない場合は関係ないような感じがしてしまいますが、よく考えるとそうではありません。天の父なるみ神は、イエス様の弟子たちだけではなくて、全ての人間が神との結びつきを回復できるようにとイエス様をこの世に贈られて十字架の死に引き渡したのです。それなので、信仰者でない隣人を苦難や困難から助ける場合でも、神との結びつきや信頼が持てるようにすることが視野に入っています。信仰者の場合は結びつきを「保てるようにする」ですが、信仰者でない場合は「持てるようにする」のです。いずれの場合も助ける時は自分の持てる力や時間や財産を使わなければならないことは肝に銘じておく必要があるでしょう。宗教改革のルターは、その時は財産や命を失う可能性すらあることを覚悟しなさいと言っているほどです。これが、イエス様のために自己犠牲することです。
ペトロの三回目の答えの後でイエス様は謎めいたことを言います。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」それについてこの福音書を書いたヨハネは少し不気味な解説を付け加えます。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」終わりに、このイエス様の言葉を見ておこうと思います。
キリスト教会の古い言い伝えによれば、ペトロは西暦63ないし64年頃にローマで殉教の死を遂げました。ちょうどキリスト教徒迫害で有名な皇帝ネロの時代です。ペトロは十字架にかけられる時、私は主と同じ死に方をする値打ちはないと兵隊たちに言ったところ、じゃ、これで満足だろう、と頭を下にして逆さまに十字架にかけられたということです。イエス様が「お前は年を取った時、両手を広げ、別の者がお前を縛って行きたくないところに連れて行く」と言ったのは、後世の人から見たらペトロが殉教の死を遂げたことを意味すると事後的にわかります。しかし、まだ出来事が起きる前の人たちにとっては、なんのことかわからなかったでしょう。ヨハネは福音書を書いていた時に既にペトロの処刑を目撃していたか、またはその知らせを耳にしていたのでしょう。それで、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活の主がペトロに言ったことはその通りになったのだと事後的にわかって、それで解説をしたのです。
ペトロの殉教は神の栄光を現すものであるとヨハネは解説しました。これは私たちを重苦しい気持ちにさせます。神の栄光を現すというのはこれくらいのことをすることなのか、と。日々平穏無事に過ごしていたら、それは神の栄光を現す生き方ではないのか、と。ここで注意しなければならないのは、天の父なるみ神の栄光や栄誉というものは、被造物である私たちの業績や達成に左右されないということです。私たちの業績が多かろうが少なかろうがそんなことに関係なく、神は超然として既に栄光と栄誉に満ちています。それならば、私たちが神の栄光を現すというのはどういうことでしょうか?
それは、私たちが自分の言葉や行いや生き方をもって、神の動かすことのできない真理を人前で証しすることです。つまり、あなたは何者かと聞かれたら、私は次の三つの者であると答えることです。三つの者とは、まず第一に、私は天と地とそこに収まる全てのものを造られた神に造られた者であると答えることです。第二に、私はその神のみ前に立たされることになっても、神のひとり子イエス・キリストの犠牲のおかげで罪を赦されて大丈夫でいられるようになった者であると答えることです。そして第三には、私はこの世の人生の向こうで復活の日に神の御許に永遠に迎え入れられるところに向かう道を今歩んでいる者であると答えることです。以上の三つを胸をはって答えることです。何も聞かれなければ、そのような者として胸をはって生きるだけです。
このような神の真理を胸張って証しするように生きていこうとすると、いろんなことに遭遇します。そんなのは取り下げないと命はないぞという迫害の時代だったらそれこそ殉教しかないでしょう。しかし、自分は造り主に造られた者であるということをどうして取り下げられましょうか?自分は造り主が送られたひとり子の犠牲によって罪が償われて新しい命を頂いたことをどうして取り下げられましょうか?自分は神に見守られてこの世を生き御許に迎え入れられる道を今歩んでいることをどうして取り下げられましょうか?ペトロは、「取り下げない」という生き方をしたら一巻の終わりという時代状況にあって、それを貫いてこの世の人生を終えたのです。そうすることで神の真理を証しし、神の栄光を現したのです。
私たちの生きている時代状況はどうでしょうか?神の真理に従って生きようとしたら、どんなことに遭遇するでしょうか?良心や信条の自由が保障されている現代社会ならば何も問題なく平穏無事でしょうか?人間はどこから来てどこに行くのかという根源的な問いについて、キリスト信仰と違う見解が社会の多数派を占めていれば、いろいろな軋轢が出て来るでしょう。多数派にいれば考えなくて済むようなことを信仰者は沢山考えなければならなくなるでしょう。でも、そういう余計なことを抱え込むことが現代社会では神の栄光を現わすことになると思います。信仰者が沈黙していたら多数派は何も気づかず、みんな同じ考えでいると勘違いしてしまいます。それなので口に出すことは良心・信条の自由が存続するためにも非常に大事です。
最後に、イエス様がダマスコの途上でパウロに述べた言葉の中に信仰者にとって励みになるものがあるのでそれを述べておきます。パウロが声の主が誰であるかを尋ねた時、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(9章5節)と答えました。イエス様を救い主と信じる者が苦難や困難に陥った時、イエス様はそれを自分のことのように受け止めるということです。聖書を神の視点で読んだり聞いたりする時や聖餐を受ける時、目には見えなくともイエス様は臨在します。しかも、臨在する方はただボーっとしておられるのではなく、私たちの境遇や状況を他人事としてではなく自分事として受け止めておられるということです。このことが分かれば、私たちの祈りは必ず聞き遂げられて、必ず脱出口や解決に導いて下さると確信できます。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注)イエス様とペトロのやりとりはアラム語でなされていたでしょう。もしそうなら、この箇所は、出来事を目撃した使徒ヨハネが後日ギリシャ語に訳して記したものです。イエス様とペトロがアラム語でどんな動詞を使い合っていたかはもう知りようがありませんが、ヨハネは二人のやりとりのニュアンスをしっかり捉えて福音書にあるように訳したのだと考えればよいでしょう。そもそも使徒とは、目撃者、証言者として働くべくイエス様ご自身が選んだ者たちです。それゆえ、そうした使徒たちを信頼し、彼らの証言やその伝承を信じ、彼らの教えを守ることはキリスト信仰の基本です。
聖書日課 使徒言行録5章27~32節、黙示録1章4~8節、ヨハネ20章19~23節
主日礼拝説教 2022年4月24日 復活節第一主日
本日の福音書の個所は、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活など信じないと言い張っていたのが、目の前に現れて信じるようになったという出来事です。その時イエス様が言います。「私を見たから信じたのか?見なくても信じる者は幸いである。」この言葉にはキリスト信仰にとって大事なことが含まれています。今日は「見なくても信じる者は幸い」とはどういうことかを見ていきたいと思います。それと、イエス様は弟子たちに「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」とも言われます。罪すなわち人間が神の意思に反することを行ったり言ったり思ったりすることですが、それを赦すのは神の権限なのに、その権限を弟子たちに与えるというのです。これはとても大きな権限です。説教の終わりにこのことについても触れておこうと思います。
「見なくても信じる者は幸い」ということについて。私たちは目で見たら、その時はもう、信じるもなにもその通りだと言うでしょう。ところが、「信じる」というのは、まさに見なくてもその通りだと言うことです。復活したイエス様を見なくてもイエス様は復活したのだ、それはその通りだ、と言う時、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を信じますとは言わず、復活をこの目で見ましたと言います。
イエス様の弟子たちは復活の目撃者です。信じるも何もそうとしか言いようがなく、後で迫害が始まった時にも見たものを見なかったことにする改ざんみたいなことは出来ませんでした。本日の使徒言行録の個所でも、弟子たちはユダヤ教社会の指導者たちからイエスの名を広めるなと脅しを受けます。しかし彼らは折れません。なぜ折れないかというと、目撃したことがとても大事なことだから譲れないのです。イエス様の復活に何かとても大事なことが付随しているのです。もしその大事なことがなくてただ死んだ人間が息を吹き返して出てきただけだったら、確かに情報を拡散したい気持ちにはなるでしょうが、拡散したら命はないと言われたら、そこまでしてやる人はいないでしょう。しかし、復活に何かとても大事なことが付随してあるから、命を危険に晒しても折れないということになったのです。それでは付随している大事なこととは何か?それがわかると、見なくても信じる者は幸いということもわかってきます。
ところで、イエス様は復活から40日後に天の父なるみ神のもとに上げられます。その後は復活したイエス様を目撃できません。それで、目撃者の証言を信じるかどうかということになります。彼らの証言を聞いて信じることが出来た人たちは、どうしてできたのでしょうか?もちろん、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭して伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあるでしょう。ところが、信じるようになった人たちも後に目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになったのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?それは、やはり、復活に付随している大事なことを目撃者同様に持てるようになったからです。本当にその大事なこととは何でしょうか?
そこで本日の福音書に戻ります。イエス様が復活した日の夜のこと、弟子たちはある家に集まっていました。ペトロとヨハネは、その日の朝早くマグダラのマリアからイエス様の墓が空であったという知らせを聞きました。すぐ自分たちも確認に行ったところ、確かに墓は空でした。この出来事が先週の福音書の箇所の内容でした。今、家の中でペトロとヨハネは、空の墓のことを他の弟子たちに話したところでした。そこへマリアが来て復活したイエス様に会ったと言ったのです。さあ、どうしたものか。主は本当に復活したのだろうか?みんなで出かけて行って会うことができるだろうか?しかし、外はイエス様を死刑に追いやった者たちで溢れかえっている。うかつに人前に出たら危険だ。それで成す術もなく家の中で過ごすうちに夜になりました。その時、なんとイエス様本人がそこに現れたのです。迫害を恐れて扉という扉にしっかり鍵を掛けたにもかかわらず。
ルカ24章を見ると弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。本日のヨハネ20章にもあるように、イエス様は、弟子たちに自分の手とわき腹の傷跡を見せて本人確認をさせます。先週の説教でもお話ししましたように、復活されたイエス様は人間がこの世で有する体とは全く異なる復活の体を有していました。それは、亡霊と違って実体のある体でした。ところが、空間を自由に移動することができました。それはあたかも天使のような体でした。復活したイエス様は、この世の我々の肉の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持っていたのです。そのような体を持つ者が本来いる場所は天の父なるみ神がおられる神聖な天の国です。罪の汚れに満ちたこの世ではありません。イエス様は本当は、復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったのです。しかし、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間、この地上にいることになったのです。
弟子たちの前に現れたイエス様は「あなたがたに平和があるように」と繰り返して言います。弟子たちは周りの人たちを恐れていました。イエス様がいなくなって将来どうなるか全くわからない不安がありました。そのような時に「平和があるように」というのは、恐れと不安を超えるものがあるのだ、恐れと不安ではなくそれを持ちなさい、とおっしゃっているのです。恐れと不安を超える平和とはどんな平和でしょうか?
ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で、「平和」はエイレーネーειρηνηという言葉です。イエス様は実際にはアラム語で話していたので、シェラームשלמという言葉だったでしょう。そのアラム語の言葉の元にある言葉は、言うまでもなく、ヘブライ語のシャーロームשלומです。このシャーロームという言葉は広い意味を持ちます。国と国が戦争しないで仲よくするという意味の平和もありますが、その他にも繁栄とか、成功とか、健康とか、国だけでなく人間個人にとって望ましい理想的な状態を意味します。ずばり、神の救いを意味することもあります(1列王記2章33節、イザヤ54章10節「平和の契約」と訳すことも可)。そうなると、日本語の「平和」と違ってきて、それなら「繁栄」とか「成功」とか「救い」と訳せばいいじゃないかと思われるかもしれませんが、もともとのヘブライ語の言葉シャーロームはこれら全部を含めてしまうのです。
イエス様は「平和」という言葉をもっと深い意味で言っています。十字架に掛けられる前日、イエス様は弟子たちに次のように言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14章27節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス特製の平和である。しかも、それを、この世が与えるように与えるのではない、と言われる。一体それは、どんな「平和」シャーロームなのでしょうか?まず、「この世が与える」平和シャーロームとは何かを考えてみます。先ほどシャーロームは広い意味があると申しました。国と国の平和、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生が含まれると。もしこれらのものが「この世が与える」ものなら、それは人間が自分の力で獲得したものです。
ところがイエス様が与える平和シャーロームは違います。それは彼特製の平和で、しかも、それを「この世が与えるように」与えるのでない。つまり、イエス様の平和シャーロームは人間の力で獲得するものではない。あくまでもイエス様が与えるものです。そうすると、イエス様が与えるシャロームは、国と国との平和とか、人間個人の望ましい理想的な状態とは違うのでしょうか?結論を先に申しますと、イエス様が与えるシャーロームは、こうした理想的な状態の土台にあるような根源的な平和です。それがあってはじめて、シャーロームが普通意味する理想的な状態が成り立つと言えるような根源的な平和です。それがなければ、どんなに理想的な状態を獲得しても危いというような、そんな根源的な平和です。一体それはどんな平和なのでしょうか?
イエス様が与える平和を理解する鍵が聖書の中にあります。「ローマの信徒への手紙」5章1節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており…」。つまり、「平和」とは人間と神との間の平和です。そうすると、イエス様のおかげで神との間に平和が得られているということは、イエス様が来られる以前は人間と神の間は平和がない、言わば敵対関係だったのか、という疑問が起きます。実はそうだったのです。そのことは「コロサイの信徒への手紙」1章21ー22節に明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対していた私たち人間がイエス様の十字架の死によって神と和解することができ、神聖な神の前に立たされることになっても神に認めてもらえるようになった、と言うのです。神との敵対、そしてイエス様の死による和解と平和、これらは一体どういうことでしょうか?
これらのことがわかるためには、まず、私たち人間には造り主がいるということ、その造り主が私たちに命と人生を与えられたということに立ち返ってみる必要があります。そして、立ち返ったら今度は、その造り主と私たち人間との関係はどうなっているのかということを考えてみなければなりません。
創世記を繙くと、人間はもともとは創造主の神に似せて造られたくらいに神に近い存在でした。それが最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になり神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまったため神との結びつきが失われてしまいました。神との結びつきが失われたのに伴って人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが、死とは罪の報酬であると教えている通りです(ローマ6章23節)。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いできました。キリスト教ではいつも人間の罪性が言われるので、よく嫌がれます。人間には良い人もいれば悪い人もいる、悪い人もいつも悪いとは限らないではないか、と言われます。しかし、人間は死ぬということが、最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのです。
罪が内部に入り込んでしまったため、人間は神聖な神の御前に立たされたら焼き尽くされかねない位に汚れた存在になってしまいました。こうして罪のゆえに神と人間の間に敵対関係が生じてしまったのです。しかし、神は、人間を神から切り離している罪の力を無にして、人間が再び神との結びつきを持って生きられるようにしようと決めました。そのために自分のひとり子をこの世に贈りました。人間の全ての罪をこのひとり子に背負わせてゴルゴタの十字架の上に運ばせて、そこで全ての罪の神罰を人間に代わって受けさせて死なせました。神のひとり子が人間に代わって人間の罪を全て神に対して償って下さったのです。神は、ひとり子の犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。
さらに神は一度死んだイエス様を想像を絶する力で復活させて、復活と永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に開かれました。こうしたことが起こった後で人間の側ですることと言えば、あとは、これらのことが本当に自分のために起こったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける。そうすると、この神がしてくれた罪の償いが自分に起こったことになります。本日の黙示録1章5節で言われるように、イエス様は自分が流した血によって私たちを罪から解放されたのです。難しい言葉で言うと、罪から「贖って」下さったのです。このように罪を償われ罪から贖われた人は神から罪を赦された者として見なされるようになり、神との和解ができたことになります。神との平和な関係に入ったのです。こうしてその人は神との平和な関係を持ってこの世の荒波の中を進んでいくことになります。進む先は、復活の日に復活の体を着せられ永遠の命を与えられるところです。今年のスオミ教会の年間主題でも言われるように、キリスト信仰者はイエス様と一緒に最終港を目指してこの世という海の航海を続けていくのです。
この航海を進む中で成功、繁栄、健康などこの世的な平和シャーロームを得られる時もあれば、それらを失う時もあります。しかし、いずれの時にあっても、イエス様を救い主と信じる信仰に留まっていれば、神との結びつきは失われておらず、神との平和な関係はしっかり保たれています。人間的な目から見れば、失敗、貧困、病気などの不運に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか平和な関係にあるなどとはなかなか思えません。しかし、キリスト信仰者というのは罪の告白を行って罪の赦しの宣言を受け、また聖餐式で主の血と肉に与っていれば神の目から見て結びつきも平和な関係も何ら変更なくしっかり保たれています。たとえ人間的な目にはどう見えようともです。そして、この世から別れることになっても、復活の日に目覚めさせられて主が御手をもって父なるみ神の御許に永遠に迎え入れて下さいます。このことを確信してこの世から別れるのがキリスト信仰者です。イエス様のおかげで神と平和な関係にある人は本当に見ないで信じられる幸いな人です。
本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに大事な任務を与えます。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)。ここで次のような疑問が起きます。キリスト教は、イエス様の十字架で全ての罪が赦されたと言っているではないか。それなのになぜ、まだ赦されるとか赦されないとか言い続けるのか?この疑問について考えてみましょう。
まず確認しておかなければならないことがあります。それは、父なるみ神はイエス様を用いて罪の赦しの救いを実現したわけですが、今度は人間の方がこの確立した救いを受け取らないと、この赦しはその人に効力を持たないということです。救いは確立された、しかし、それを受け取らないと、その外側にとどまることになってしまうのです。せっかく神が全ての人間に対して、どうぞ受け取って下さい、と言って差し出して下さっているのに。そこで、もし受け取れば、神がイエス様の犠牲に免じて赦すと言っていることが、その人にとってその通りになるのです。
そう言うと今度は、じゃ、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ罪が償われて罪から贖われると言ったのに、それでもなお赦されるだの赦されないだの言うのはどうしてか、という疑問が起きると思います。確かにキリスト教では、十字架の出来事で全ての罪は赦されたと言いますが、全ての罪が赦されたというのは、これで信仰者から罪がなくなるということではありません。なくなるのは罪が人間を神から引き離そうとする力、復活に向かわせない力です。
人間はイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者になっても、肉の体を纏っている限り、神の意思に反しようとする罪を持っています。その点は信仰者でない人と何の変わりはありません。ただ、何が違うかというと、キリスト信仰者の場合、罪の赦しの救いを自分のものとして所有していて、神もそのような者としてその人を見てくれている。それでその人がたとえ思いや言葉や行いによって罪を犯しても、すぐ神のみ前でそれを認めて、イエス様を救い主と信じていますから赦して下さいと祈れば、神も、お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている、イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す、これからは犯さないようにと言って下さいます。変わらぬ結びつき、平和な関係の中で引き続き復活に至る道を歩ませ下さるのです。
このように信仰者は罪を犯さなくなった者ではなく、犯してもイエス様を自分の救い主と信じる信仰のゆえに神との結びつき平和な関係は揺るがずに、復活に至る道を歩ませてもらっている者です。それなので、信仰に留まる限り、罪が本来持っている力、人間を神から引き離して復活に向かわせず永遠の滅びに向かわせようとする力は信仰者に対しては無力化しているのです。私たちの礼拝の最初に唱えられる罪の告白と赦しの祈り、それに続く赦しの宣言というのは、罪の無力化を確認するものです。そういうわけで、罪の告白を行い赦しの宣言を受けるということは、洗礼という原点に立ち返ることを意味します。
ここで一つ細かいことを言うと、礼拝の「罪の告白」の後に「赦しの宣言」が続くと申しましたが、日本福音ルーテル教会の式文では「赦しの宣言」ではなく「赦しの祈願祝福」となっています。内容は先ほど一緒に唱えたように、「ひとりのみ子イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された憐れみ深い神が、罪を悔いみ子を信じる者に、赦しと慰めを与えて下さるように」という文言です。司式者は、赦しがありますようにと祈り願う言い方です。これに対してフィンランドのルター派教会で用いられる式文では、もっと違う言い方がされます。こう言います。「神からその権限を委ねられた者として、次のように宣言します。あなたの罪は父と子と聖霊の御名によって赦されたと宣言します。」文字通り、会衆に罪は赦されたと宣言するのです。日本のように、赦しがありますようにと祈り願うこととは違います。そして宣言する場合、司式者が赦すと言うのではなく、あくまで神から権限を委ねられた代理者として宣言するというのです。誰がそんな権限を委ねられているのでしょうか?最初の使徒たちがイエス様からこの権限を委ねられました。本日のヨハネ福音書にある通りです。その後は、使徒の伝統に立って教会の牧会者に任命された者です。私は、いつの日かこのスオミ教会でフィンランドと同じような宣言がなされることを希望します。
最後に、イエス様が弟子たちに命じたことの中に「あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る」というのがありますが、それについてひと言。使徒や使徒の伝統に立って任命された牧会者が赦さない罪とはどんな罪でしょうか?これは、自分は罪を犯したことがないとか罪を持っていないという人の場合です。そういう人は罪の告白をする必要を感じない人で、罪の告白がないから赦しを宣言しようにもできません。先ほども申し上げたように、キリスト信仰者と言えども罪は内にあるので、罪の告白は必要です。
パイヴィ宣教師がイースター・マフィンを焼き上げた時ウサギのププちゃんがイースターエッグを持って教会に入ってきました。さて、これから何が起こるでしょうか?
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卵 2個 砂糖 1 dl 小麦粉 1 ¾ dl ベーキングパウダー 小さじ 1 オレンジマーマレード 大さじ1 溶かしたマーガリン 50g 生クリーム 1dl パインアップルジュース dl ¼ パイナップルスライス 1 ½ 枚 アーモンドダイス ½ dl
アイシング 粉砂糖 1dl 薄めたレモンジュース 大さじ2
1. 紙のマフィン・カップを鉄板の上に並べておく。 2. マーガリンを溶かしておく。 3. 小麦粉にベーキングパウダーを加えて、振るっておく。 4. パイナップルを細かく切る。 5. ボールに卵と砂糖を入れて混ぜる。 6. 5.のボールにオレンジマーマレードを加え、混ぜる。 7. ふるった小麦粉をパイナップルジュ-ス、2.のマーガリンと生クリームと交互に入れて軽く混ぜる。 8. 4のパインアップルとアーモンドダイスを加えて混ぜる。 9. 出来た生地をマフィン・カップに大さじで入れる。 10. マフィンを180℃のオーブンで15分くらい焼く。 11. 焼いたマフィンを冷ます。 12. アイシングを作る。粉砂糖に薄めたレモンジュースを少しづつ加えて混ぜる。 13. マフィンの上にアイシングで飾りをして、その上にトッピングをする。
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今日の礼拝出席者は26名でした。大勢の方をお迎えしてコロナに注意しながら主の復活の喜びを祝いました。
主日礼拝説教 2022年4月17日 復活祭/イースター イザヤ書65章17~25節、第一コリント15章19~26節ヨハネによる福音書20章1~18節
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今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の想像を絶する力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。イエス様が死んで葬られた次の週の初めの日の朝、かつて付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目撃します。まさにここから世界の歴史が大きく動き出すことになったと言っても過言ではない出来事が起きたのでした。
復活祭はキリスト教会にとってクリスマスに劣らず大事なお祝いです。クリスマスは誰でも知っています。イエス様が天のみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから生身の人間として生まれたことを記念してお祝いする日です。復活祭では何をお祝いするのでしょうか?十字架刑という惨い殺され方をしたイエス様が死から復活して本当に良かったという、イエス様のハッピーエンドのお祝いでしょうか?そうではありません。それでは復活祭は何をお祝いするのでしょうか?それがわかるために、まず「復活」とはそもそも何なんのかがわからないといけません。それと、なぜイエス様は復活を遂げる前に十字架の死を遂げなければならなかったかもわからないといけません。
そういうわけで今日の説教は、初めに復活とは何なのかについて考えます。その次にイエス様がなぜ復活に先立って十字架の死を遂げなければならなかったかをわかるようにします。そして最後に、イエス様が復活したことは私たちに何の関係があるのかをみていきます。
復活とは何か?復活とは、よく混同されますが、ただ単に死んだ人が少したって生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。聖書で復活というのは、肉体が消滅しても復活の日に全く新しい「復活の体」を着せられて復活することです。これは、超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることを手掛かりにするしかありません。
復活の体について、使徒パウロが「コリントの信徒への第一の手紙」15章で詳しく教えています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言っていました(マルコ12章25節)。
このように復活の体は朽ちない体であり、神の栄光を輝かせる体です。それは、天の御国で神聖な神のもとにいられる清い体です。この世で私たちが纏っている肉の体とは全くの別物です。復活されたイエス様はすぐ天に上げられず40日間地上に留まり人々の前で復活した自分を目撃させました。彼の体はまだ地上に留まっていましたが、それでも私たちのとは異なる体だったことは福音書のいろんな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは、亡霊だ!とパニックに陥りますが、イエス様は手足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。食事もしました。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。
復活したイエス様の体についてもう一つ不思議な現象があります。目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったことです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流した出来事があります。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経ってからでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初わかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。
復活したイエス様は本当は天のみ神のもとにいるのが相応しい体をしていたことは、今日のマリアとの再会の場面でもわかります。以前の説教でもお教えしましたが、この再会は尋常ではありません。というのは、天にいるのが相応しい神聖な体を持つイエス様に地上の肉の体を持つマリアがしがみついているからです。かつて預言者イザヤは神殿で神聖な神を目撃して、罪に汚れた自分は焼き尽くされてしまう!と叫んでしまいました。神に選ばれた預言者にしてそうなのです。預言者でない私たちはなおさらでしょう。
神聖な神の御前に相応しい「復活の体」を持つイエス様とすがりつく地上の体を持つマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。「すがりつく」とはどういうことでしょうか?マリアはイエス様だと気づく前ずっと泣いていました。イエス様が死んでしまった上に遺体までなくなってしまって喪失感と言ったらありません。そこでイエス様に気づいた時どんな反応だったでしょうか?私たちの経験でも例えば、最愛の人が何か事故に巻き込まれて、もう死んでしまったとあきらめたか、まだあきらめきれないという時、突然その人が無事に戻ってきて目の前に現れたらどうなるでしょうか?たいていの人は感極まって泣き出して抱きしめるでしょう。マリアもそうしたのでしょう。ただ相手が崇拝する人の場合は、「すがりつく」というのはひれ伏して両足を抱きしめることだったかもしれません。
イエス様が「すがりつくな」と言ったということについて少し注意します。以前にもお教えしたことですが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」(μη μου απτου)と言っています。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。さて、イエス様はマリアに「触れるな」と言っているのか、「すがりつくな」と言っているのか、どっちでしょうか?
以前もお教えしましたが、イエス様が復活した体、天のみ神のもとにいるのが相応しい体ということを考えると、ここは原文通りに「触れてはならない」の方がよいと思います。イエス様自身、この言葉の後で触れてはならない理由を言っています。「私はまだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は自分に触れてはいけない理由として、自分はまだ天のみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが纏っている肉体の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持つ者である。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所である、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間この地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上のものなので、地上の者はむやみに触るべきではない。そういうことになります(後注)。
さて、復活の神聖な体を持って立っているイエス様、それを地上の体のまますがりつくマリア、本当は相いれない二つのものが抱きしめ抱きしめられている。そこにはかつてイザヤが神聖な神を目の前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだと言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。これは、この世離れした感動を覚えさせる光景です。
本当なら危険極まりないことなのになぜイエス様は許しているのでしょうか?イエス様は愛に満ちた方だから、という常套句を使えばそれまでですが、私はそれだけではないと思います。イエス様がマリアのことを、今は地上の体ではいるが、自分を救い主と信じている以上は彼女も復活の日に復活の体を持つ者になる、とわかっていたからだと思います。イエス様のその思いは次の言葉から窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。ここでイエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられるのだ。」これと同じことはパウロも本日の使徒書の日課でも述べていました。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」
次に、なぜイエス様は復活に先立って十字架の死を遂げなければならなかったのでしょうか?
イエス様の十字架の死というのは、人間の罪の償いを人間に代わって神に果たしてくれたということでした。「罪」と聞くと普通は何か犯罪行為とか、そこまでいかなくとも何かとても悪い行いを思い浮かべる人が多いです。聖書ではそれは、人間に備わってしまっているもので神の意思に反しようとする性向と言っていいくらい広く深いものです。旧約聖書の創世記に記されているように罪は、神に一番最初に造られた人間の時から備わるようになってしまいました。人間が死ぬようになったのも罪のためでした。神の意思に反しようとするものを持ってしまったために神との結びつきが切れてしまったのです。しかし神は、罪の引き離す力から人間を解放して結びつきを回復してあげよう、人間が自分と結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげよう、そして、この世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、そういうことをしてあげようと決めたのです。
それでは、そのように人間を救おうという神の御心とイエス様の十字架と復活とはどう結びつくでしょうか?それは、イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を全部引き受けてくれたことになり、そのようにしてイエス様が私たちの罪の償いを神に対して果たして下さったのでした。それからは罪は以前のように人間を神の前で有罪者・失格者に仕立てようとしても出来なくなりました。神のひとり子が果たした償いが完璧なものだったからです。その意味で罪は本当は破綻してしまったのです。
さらに神は、想像を絶する力でイエス様を死から復活させました。これで死を超える永遠の命があることがこの世に示されました。そこに至る道が人間の前に開かれました。そこで人間は、これらのことは全て自分のために起こったのだ、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たした罪の償いがその人に入り込んで、その人の中にある罪を圧し潰していきます。自分で償ったのではなく他人が償ったというのは虫がよすぎる話ですが、償う相手が天地創造の神であればちっぽけな人間には償いなど無理な話です。しかも償いをした方が神のひとり子であれば、この償いはかけがえのないもので決して軽んじてはならないものとわかります。なにしろ罪が償われたというのは、神が、お前の罪を我が子イエスの犠牲に免じて赦してやると言って下さることなのですから。こうなったら、もう軽々しい生き方はできません。新しい人生が始まります。
罪の償いをしてもらったということは、神から罪を赦されたと見なしてもらえることになります。その時、神との結びつきは回復しています。そうなると人生は神の御心に従って進むことになります。どんな御心かと言うと、神との結びつきは人がどう感じようが順境の時でも逆境の時でも変わらずにあり、それで人生は神の守りと導きの中で復活の日を目指して進むものなるということです。そして、この世を去った後も復活の日に目覚めさせられて神のもとに永遠に迎え入れられるということです。まさに罪と死の支配から解放された人生を持つようになるということです。
このように罪と死の支配から人間を解放するという神の御心がイエス様の十字架と復活によって実現しました。罪の償いと赦しを受け取った者はイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしました。旧約聖書のダニエル書12章で、今のこの世が終わって新しい世が到来する時に死者の復活が起こることが預言されています。それがイエス様の十字架と復活の出来事で一挙に現実味を帯びたのです。そういうわけで復活祭は、イエス様が復活させられたことで実は私たち人間の将来の復活の可能性が開かれたことを覚える日でもあるのです。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったことを忘れてはいけません。イエス様の復活は彼自身のためだけでなく、また悲しんでいた弟子たちを喜ばせるためでもなく、実はイエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちにとって大きな喜びの日になるのです。
最後に、復活というのは自分自身が復活させられるというだけでなく、復活の日に同じように復活させられた人たちと懐かしい再会を遂げるという希望があることも見ておこうと思います。
キリスト信仰の復活というのは、聖書によれば、将来、天と地が新しく再創造されて今ある天と地に取って代わる日に起こることです。新しい世になる前に今ある世が終わるのでよく終末論と言われますが、新しい天と地、新しい世ということも言っているのでそれを忘れてはいけません。死者の復活というのも、その時に一斉に起こることです。それなので、一人ひとりがこの世を去って各々が何年したら復活するということではありません。ここのところがキリスト信仰の死生観が他の宗教と大きく違う点の一つではないかと思います。一人ひとりがこの世を去った後はパウロもイエス様も言うように、復活の日まではみんな静かに眠り、その日が来たらみんなに一斉に起こされるということです。ただし、その時に起こるべきこととしてイエス様の再臨とか最後の審判ということがあります。それらについては別の機会にお話しします。
本日の旧約聖書の日課イザヤ書65章は復活を遂げた者たちが迎え入れられるところはどんなところかについて述べています。初めに新しい天と地が創造されることが言われています。この箇所で使われている言葉はこの世に関係するものばかりなので、新しい世のことを言っているように聞こえないかもしれません。しかし、聖書をよく知っている人ならこれは黙示録の終わりの部分の先取りだとわかるでしょう。この個所を見てみましょう。
17節「見よ、わたしは新しい天と地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。」
「初めからのこと」はヘブライ語(הרשנות)を見ると「以前のこと」と訳したほうがいいです。その意味は、以前の天と地の時にあったこと、そこで神の意思に反したことがあったこと、それらは新しい天と地の下ではもう神にも神のもとに迎え入れられた者にも関係なくなるということです。
18~19節前半「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし わたしの民を楽しみとする。」
エルサレムとは今のイスラエル国のエルサレムではなく、新しい天と地の下で復活した者たちが迎え入れられるところを聖書ではそう呼んでいます。
19節後半~20節「泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。そこには、もはや若死にする者も年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ 百歳に達しない者は呪われた者とされる。」
これは黙示録21章で言われていることと同じです。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」「最初のもの」とは、旧い天と地の下にあったことです。それらはもう神にも復活を遂げた者にも関係なくなるということです。
21~23節前半「彼らは家を建てて住み ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく 彼らが植えたものを他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり わたしに選ばれた者らは 彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく 生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。」
新しい天と地の下で何が変わるかについて、復活した者の有り様が永遠のものに変わるだけではありません。そこは完全な正義が実現されているところであることをこの個所は言い表しています。「他国人」は、ヘブライ語(אחר)を素直に訳すと「他人」です。外国から侵略されるという意味でなく、隣人関係において奪ったり奪われたりということがなくなるということです。「私に選ばれた者らは彼らの手の業にまさって長らえる」も、正確な訳は「私の選ばれた者らは自分たちの手の業を享受する」です。このように新しい世は正当な権利が侵されない正義が蔓延する世であることを言っているのです。
23節後半「彼らは、その子孫と共に主に祝福された者の一族となる。」ここの正確な訳は「彼らは、主に祝福された者の子孫である。彼らの子孫は彼らと共にある」です。ずばり、復活の日に復活した者たちみんなが相まみえることを言っているのです。
24節「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え まだ語りかけている間に、聞き届ける。」神がそれくらい復活した者たちの近くにおられるということは黙示録21章3節でも言われています。「見よ、神が住まわるところは人々の間にある。神は彼らのもとに住まわれる。彼らは神の民となる」
25節「狼と小羊は共に草をはみ 獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。」イザヤ書11章にも同じような預言があります。狼やライオンのような獰猛な獣が草やわらを食べているというのは信じられない光景ですが、実はこれは天地が創造された時の状態でした。創世記1章30節に創造の業を終えた神がこう言われます。「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草をたべさせよう。」いつから動物たちのあるものが他の動物たちを食べるようになったのでしょうか?やはり堕罪の出来事が天地創造の安全で安心な秩序を壊してしまったのでしょうか?そうだとすると、新しい天と地の再創造というのは堕罪の前の全てが良い状態に戻すということになります。そのようなところに私たちは招かれ、その招きを受けたキリスト信仰者たちはそこを目指して今この世を進んでいるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
後注
このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じているではありませんか。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて私の手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。
しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です。ここで、ルカ20章39節の「触りなさい」とヨハネ20章27節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατε、βαλε)であることに注意します。ヨハネ20章17節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)です。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は「今の自分は本当は神聖な神のもとにいる存在なのだ。だから地上の者は本当は触れてはいけないのだ」と一般論で言っているのです。つまり、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止規定なのです。確認のためとかイエス様が特別に許可するのでなければ、むやみに触れてはならないということなのです。
新しい聖書の日本語訳「聖書協会訳」では、イエス様は「触れてはいけない」と訳していると聞きました。まだ確認していませんが、本当ならば喜ばしいことです。
スオミ教会・家庭料理クラブは4月9日に再開しました。今回はイースター/復活祭に向けてヨーグルト風味のピーチケーキを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にケーキの生地を作ります。ハンドミキサーで砂糖とマーガリンをよく泡立ててから他の材料を加えて生地はあっという間に出来上がります。その次は中身です。水切りしたヨーグルトに砂糖、レモン汁などを加えてクリーミーにし、缶詰めの桃を薄くスライスしておきます。ここで生地を型に伸ばしてその上に中身を注ぎ、トッピングとして桃のスライスをきれいに並べます。こうして出来た生地をオーブンに入れて焼き上げます。すると、美味しそうな香りが教会中に広がりました。ケーキは黄色に焼き上がりました。黄色はイースターの色とも言われます。ケーキを少し冷ましてから切って、参加者の皆さんと美味しく頂きました。
今回はピーチケーキの他にフィンランドのイースター・デザート、パシャ・クリームとクリシャ・パンも一緒に味わいました。
美味しく頂いた後で、パシャと最初のイースター/復活祭の出来事についてのお話を聞きました。
次回の料理クラブは5月に予定していますが、コロナ感染の状況を見て日程を決めます。教会のホームページにお知らせしますのでご覧ください。
良いイースターを過ごし下さい!
今イースター復活祭の日が近づいています。2週間の後はちょうどイースターの前の土曜日です。この季節になると、フィンランドの家庭ではイースターのお菓子、お菓子パン、ケーキなどを作ります。今日作ったピーチケーキはその一つです。黄色の桃は春の明るい雰囲気を表すので、春を迎える時に作るお菓子にピッタリ合います。フィンランドでは黄色はイースターの色とも言われるので、このケーキは特にイースターに向けてよく作られます。 イースターのお祝いは春なので前の年の夏に採って冷凍庫に保存していたイチゴやブルーベリーなどのベリーは残り少なくなります。そのため、ベリーの代わりに缶詰めの果物を使ってイースターのお菓子やケーキを作ります。
今日はもう一つのイースターのお菓子、パシャも味わってみました。パシャもピーチケーキと同じ材料、ヨーグルト、レモン、フルーツが入っています。これらはイースターのお菓子によく使われる材料です。 「パシャ」という名前は実は、フィンランド語ではなくヘブライ語から来た言葉で復活祭を意味します。パシャは元々はフィンランドのお菓子ではなく、ロシア正教会の人たちを通してフィンランドに伝わってきました。フィンランドの東にあるカレリア地方にはロシア正教会の人たちが多く、彼らを通してパシャはフィンランド全国に広がって1970年くらいから一般の家庭でもイースターのデザートとして作られるようになりました。今ではフィンランド人のイースターの食卓を飾るデザートの一つです。パシャはヨーグルトの他にバター、生クリーム、アーモンドなどが入っているのでカロリーが多いです。それで、イースターの前の40日間の受難節が終わった後で食べるデザートにピッタリかもしれません。
パシャを作る形も決まっていて、このような高いピラミッドの形です。形の意味は、昔イスラエルの民がエジプトで奴隷になっていたことを思い出させるという意味です。このようなピラミッドの形を作るための型もあります。その型には、アルファベットのXとBの文字が掘られています。この二つの文字の意味は「キリストは復活した」です。
パシャはこのまま食べるものではありません。イーストで発酵させた「クリツァ」Kulitsaという特別のパンを作ってその上にのせて食べるのです。
フィンランドのイースターの食卓の料理やお菓子を通しても、イースターが意味する「新しい命」ということがよく表わされます。イースター・エッグもその一つです。卵からヒヨコが生まれるので、卵は「新しい命」を表わします。フィンランドではチョコレートで作った卵型のお菓子も売っています。その中に入っている小さな飾り物やおもちゃは嬉しい驚きをもたらしてくれます。歴史初めてのイースターの時も嬉しい驚きがありました。
それでは、最初のイースターの日にどんなことが起きたでしょうか?聖書はこのことについて詳しく書いてあります。まずイースターの前にイエス様が苦しみを受けられたことが書いてあります。イースターの前の週の木曜日イエス様は、彼に反対する者たちに捕らえられて、沢山の苦しみを受けました。そして翌日の金曜日、イエス様は何も悪いことはしていなかったのに、十字架にかけられて殺されてしまいました。イエス様の遺体は十字架から下されて、布に巻かれて岩に掘った墓に葬られました。しかし、3日目の日曜日の朝イエス様は復活されたのです。
その日の朝、かつてイエス様の教えをよく聞いて従っていた女性たちがイエス様の墓に行きました。ところが、イエス様の体はもうそこにはありません。イエス様の弟子たちも墓に来て、遺体がないことを目撃して、誰かがどこかに持って行ってしまったと思って悲しく帰りました。しかし、マリアという女性は帰らずに墓の入口で泣いていました。その時、誰かが歩いてきました。マリアが後ろを振り向くと一人の男の人が立っていました。それはイエス様でした。しかし、マリアは最初なぜかイエス様だと分かりませんでした。イエス様はマリアに言われました。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは答えて言いました。「あなたがあの方の体を運び去ったのですか?どこに持って行ったのか教えてください。わたしが引き取ります。」そこでイエス様はマリアを見つめて、「マリア」と言われました。マリアはその時はじめてイエス様であることに気づき、「先生」と言いました。マリアは、イエス様が「マリア」と言われた時にイエス様のことを分かったのです。
イエス様が十字架で死なれてからマリアと弟子たちは悲しみに沈んでいました。イエス様が一緒にいた時、彼らは幸せでした。しかし、今はただ寂しくて、これからどうなるか全然わからず、将来の希望もありません。マリアや弟子たちの喪失感はとても大きく、ただ静かなところで悲しんでいるだけでした。マリアはイエス様の墓の前で泣いていました。しかし、まさに希望がなくなっていた時にイエス様はマリアの前に立っておられたのです。神様はイエス様を死から復活させられたのです。イースターの前とイースターに起こったことは全て神様の計画でした。イエス様が罪と死に打ち勝って、その勝利に人間も与れるようにするという計画でした。マリアの深い悲しみは大きな喜びに変わり、彼女はイエス様の復活は本当にあったと人々に伝えることになりました。
私たちの人生にもいろんな試練があり緊急事態も起きます。そのような時、私たちはイエス様の姿を見ることは出来ませんが、イエス様はマリアと同じように私たちにも 「なぜ泣いているのか」と尋ねられます。イエス様は私たちの目を見て全ての答えが分かります。私たちのことを本当にわかって下さるイエス様は私たちを本当に愛してくださっているのです。私たちはこの神のひとり子を受け入れることが出来るでしょうか?
イースターの時、私たちはいろいろな美味しいものを用意して楽しい時を過ごします。これらも大事なことですが、イエス様が復活したというメッセージを通して本当のイースターの喜びが得られます。今年のイースターはイエス様のことを覚えてお祝いをしましょう。
主日礼拝説教 2022年4月10日 聖金曜日
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
1.イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の前で晒すというものでした。イエス様は、十字架に掛けられる前に既にローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の材木を自ら運ばされ、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで残酷な釘打ちが始ったのでした。
イエス様の両側には二人の犯罪人が十字架に掛けられました。罪を持たない清い神聖な神のひとり子が犯罪者にされたのです。釘打ちをした兵隊たちは処刑者の背景や境遇に全く無関心で、彼らが息を引き取るのをただ待っています。こともあろうに彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始め、くじ引きまでしました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどの者はイエス様に嘲笑を浴びせかけました。民族の解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れだったか、と。群衆の中にはイエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、激痛と意識もうろうの中でイエス様が最後に目にした光景だったでしょう。この一連の出来事は、一般に言う「受難」という短い言葉では言い尽くせない多くの苦しみや激痛で満ちています。
私たちの周りにも苦しみや激痛が沢山あります。特に今はウクライナの戦争が連日ニュースに出ます。無残に破壊された町並み、殺されてしまった人たち、何百万の避難民、取り残されてしまった人たち、これらの映像や写真を毎日見ていると、イエス様の受難など背景に追いやられて色あせてしまうかもしれません。イエス様のことは2000年前の遠い過去の出来事であるのに対してウクライナの戦争はまさに現在進行中のことです。イエス様の受難はイエス様一人の苦しみでしたが、ウクライナの戦争では犠牲者は何万人単位です。そちらの受難の方が規模が大きく身近に感じられるとしても無理はありません。
ところで、侵略国との力の差は圧倒的なのにウクライナの人たちが受難を覚悟で侵略国の要求を跳ねのけてまで戦うのはなぜか?それは、自由と民主主義を守りたいからです。もし守りたいものが物質的な安定とか生命の保全とか美しい郷土だけならば、それらは独裁国が支配しても得られます。しかし、独裁国に支配されたら、間違っていることを間違っていると言えなくなります。そう言う人を毒殺することも厭わない相手です。しかし、支配者は国民が不満を抱かないように物質的・生命的安定も配慮するでしょう。自分たちに盾突かなければという条件でですが。もちろん物質的・生命的な安定は大事ですが、間違っていることは間違っていると言える自由とそれを運用できる民主主義はもっと大事だ、それは他のものと引き換えることはできない、たとえ物質的・生命的な安定を失うことになっても守らなければならない、これがウクライナの人たちの選択でありそのための戦いであると言ってよいと思います。ウクライナの人たちの選択について日本でもいろんな議論がされています。その議論は実は、もし私たちも同じ危機に襲われたらどんな選択を取るのかということを好むと好まざるにかかわらず考えさせるものになっていると思います。
2.ここで先ほど色あせてしまうと言ったイエス様の受難に目を向けてみます。実は、イエス様の受難もよく見ると、人間にとって他のものに引き換えることができない大事なものがあります。何かと言うと、イエス様の受難によって、人間は自分たちが失っていた神との結びつきを取り戻すことができたということ。それで、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになったということ。そして、この世から別れた後は神のもとに永遠に戻ることができるようになったということです。
それらのことがイエス様の受難を通してどのようにして起こったかということが先ほど読んだイザヤ書の箇所で述べられています(イザヤ52章13節~53章12節)。この箇所はイエス様の時代の数百年前に書かれた預言です。それが実際に起こったのです。
イエス様が「担ったのはわたしたちの病」であり、「彼が負ったのはわたしたちの痛み」でした。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」でした。なぜこのようなことが起こったのかと言うと、それは、イエス様の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」るためでした。神は、私たち人間の罪をすべて彼に負わせたのです。人間の神に対する背きのゆえに、イエス様がかわりに神の手にかかって命ある者の地から断たれたのです。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもありませんでした。それなのに、その墓は神に逆らう者と一緒にされました。苦しむイエス様を神は打ち砕き、こうしてイエス様は自らを償いの捧げ物としたのです。神の僕であるイエス様が「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」のです。イエス様は自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたけれども、実はそれは多くの人の過ちを担って、背いた者のために執り成しをしたことだったのです。
このイザヤ書の預言から明らかなように、イエス様は私たち人間のかわりに神から罰を受けて苦しみ死んだのでした。それは、私たちが神の意思に反しようとする性向、罪を持ってしまっているために、神との結びつきがない状態で行き先もわからずこの世を生きていたからでした。神との結びつきが回復できて行き先がわかるようになるために、神は人間の罪をひとり子のイエス様に全て負わせてその罰を受けさせたました。それがゴルゴタの十字架で起こったのでした。罰はイエス様が受けて下さったので人間は受けないで済む可能性が開かれました。あとは人間の側がこのことは本当に起こった、だからイエス様は私の救い主だと信じて洗礼を受ける。そうすると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人に入り込み、その人は神から罪を赦されたものと見てもらえるようになります。
神から罪を赦されたので神との結びつきを回復してこの世の人生を進むことになります。進む行き先は復活の日に復活させられて神の国に迎えいられるところです。罪は人間を復活のない方に追いやろうとします。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、追いやられることはありません。キリスト信仰者は罪と死の支配から解放されているのです。イエス様の十字架の受難が人間にもたらしたこと、罪の赦しと神との結びつきの回復そして復活と永遠の命、これこそがキリスト信仰者が他のものと引き換えにできないことです。これらのことを守らず他のものに引き換えてしまったら、自分をも守らないことになります。これらのことを守ることは、自分を守ることになるのです。
3.この2000年前のかの地で起きた出来事が時空を超えて現代の日本に生きる自分のためにもなされたというのは身近に感じられないかもしれません。しかし、実際にそうなのです。それを示すイエス様の言葉があります。それは彼が最後に述べた「成し遂げられた」です。ギリシャ語で書かれたヨハネ福音書ではこの言葉はテテレスタイτετελεσταιとあります。イエス様はこの言葉を口にした時はギリシャ語ではなくアラム語で言われたでしょう。それがどんな言葉だったかは記録がないのでわかりません。アラム語の言葉を十字架の近くにいて耳で聞いたヨハネが後に、イエス様の全記録をギリシャ語で書いた時に翻訳したのです。
このギリシャ語の言葉の正確な意味は、「かつて成し遂げられたことが現在も成し遂げられた状態にある」です(後注)。つまり、「成し遂げられた」とは、罪の赦しの救いがイエス様の十字架で実現したのであるが、それはそれでハイ終わりましたではないということです。ヨハネが何十年か後にこの記録を書いている時にも「成し遂げられた」状態が続いているということです。さらに彼の書物を手にして読む後世の者にとっても「成し遂げられた状態」が続いているということです。まさに時空を超えて私たちにとってもです。ヨハネの翻訳は真に的確でした。父なるみ神の御心に適うものです。なぜなら、神の御心は、彼が造った人間の誰もがひとり子を通して実現した救いを受け取ってほしいというものだからです。そしてこの御心は2000年前も今も変わらないのです。神の救いは現在も「成し遂げられた状態」にあるのです。今も新鮮なものです。それなので、ゴルゴタの十字架上のイエス様というのは、まだ救いを受け取っていない人たちにとっては新しい命を生きられるようにするものです。既に受け取った人たちには、かつて与えられた新しい命が今も変わらず新しいままでいることを忘れさせない原点です。
(後注)アオリストετελεσθηでなく現在完了τετελεσταιであることに注意。
主日礼拝説教 2022年4月10日(枝の主日)
私たちの父なるみ神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今年の受難節/四旬節も、もう「枝の主日」となりました。復活祭の前のこの主日が「枝の主日」と呼ばれるのは、イエス様が受難を受けることになるエルサレムにろばに乗って入城した時に、群衆が自分の服と木の枝を道に敷きつめたことに由来します。本日用いておりますルカ福音書では、群衆が道に敷いたのは衣服だけですが、マタイ福音書では衣服と木の枝(21章8節)、マルコ福音書では衣服と葉の付いた枝(11章8節)と少し詳しく記されています。ヨハネ福音書では、道に敷かれたことは言われていませんが、群衆がなつめやしの枝を持ってきたと記されています(12章13節)。いずれにしても、私たちは、今日から始まって聖金曜日を経て復活祭に至るこの1週間、約2000年前に起きた人類の救い主の受難の出来事について、聖書の御言葉をもとに思い起こし、彼がゴルゴタの丘の十字架まで歩んだ受難の道を心の中で辿らなければなりません。
さて、ルカ以外の三つの福音書を見ると、ろばに乗ったイエス様がエルサレムに入城する時、群衆は「ホサナ」という歓呼の言葉を叫びます。これは、もともとは旧約聖書が書かれたヘブライ語で「ホーシーアーンナー」という言葉が、イエス様の時代のイスラエルの地で話されていたアラム語「ホーシャーナー」に訳されたものです。どちらも神に、救って下さいとお願いする意味があります。それが古代イスラエルの伝統では、群衆が王様を迎える時の歓呼の言葉としても使われました。従って群衆は、子ろばに乗ったイエス様を王として迎えたことになります。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来や兵士を従えて堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、子ろばに乗ってやってくるのです。
またイエス様は、子ろばを連れてくるようにと弟子たちに命じた時、まだ誰も乗っていないのを持ってくるようにと言いました。まだ誰にも乗られていない、つまりイエス様が乗るという目的に捧げられるという意味であり、もし既に誰かに乗られていたら使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ろばに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なもの、神の計画を実現するものと言うのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、一人子ろばに乗ってやってくるイエス様。この出来事は一体何を意味するのでしょうか?
本日の説教では、イエス様が子ロバに乗ってしかも王様としてエルサレムに入城したことが一体なんだったのか?しかも、それがどうして神の計画を実現する神聖な行為だったのか、それらを明らかにしようと思います。それらが明らかになると、イエス様は私たちにとって何かとてつもない統治者であることが見えてきます。
「統治者」という言葉を使いましたが、昔の時代では統治者というのは王とか皇帝とかいわゆる君主が普通でした。現代では、王は存在しても統治権を持っていないのがほとんどです。大抵は、国民が選挙して国会に代表者を送り、その国会が政府の構成を決め、そして裁判所がこれらがちゃんと憲法や法律に従って働いているかをチェックします。現代では統治権は、こんなふうに機能別に分かれているのが普通です。昔の王の場合だと統治権は一極集中だったと言ってよいでしょう。それなので、現代の私たちがイエス様のことを王と呼ぶ時は、現代の王のイメージは捨てて、昔のように統治権の行使者として捉えなければなりません。イエス様は統治をする王であると。
しかしながら、統治する王ではあっても、イエス様の場合は特殊な事情があります。それについて、イエス様がヨハネ18章36節で自らお話しして下さいます。イエス様がローマの総督ピラトに向かって言った言葉です。「私の国はこの世には属していない。」ここのギリシャ語の原文をもう少し正確に見ると、「私の国はこの世に起源を持たない」です。
昔、王が統治していた国も、現代、国家機関が統治している国もみなこの世に起源を持ちます。当たり前です。しかし、イエス様が統治する国はこの世に起源を持たないのです。それはどんな国でしょうか?その国と私たちとの関係はあるでしょうか?そのようなことも以下に一緒に考えてみましょう。
イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入城したのは神聖な行為であったということについて。この出来事は、旧約聖書ゼカリヤ書にある預言が成就したことでした。ゼカリヤ書9章9ー10節には、来るべきメシア、救世主の到来について次のように預言していました。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ロバの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」
「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、ヘブライ語の原文を直訳すると「彼は義なる者、勝利者、へりくだった者」です。直訳の方がイエス様のことを指していることがよく見えてきます。
まず、「義なる者」について。「義」という難しい言葉がありますが、簡単に言うと、神の意思を体現できている、それで神の目に相応しい者です。先月の説教でもお教えしましたが、私たち人間はそのままの状態では神の意思に反する罪を持っているので「義なる者」になれません。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼があれば神から義を与えられて義なる者とされます。イエス様の場合は、彼は神のひとり子なのでそのままの状態で神の意思を体現している「義なる者」です。
「勝利者」というのは、ゼカリア書の預言から明らかなように、神の力によって世界から軍事力をなくして神主導の平和を打ち立てる者です。そのような勝利と平和はどうやって打ち立てられるでしょうか?人間の力で世界から軍事力をなくして人間主導の平和を打ち立てることが出来るでしょうか?今次のウクライナの戦争を見ても世界中の他の火種のある地域を見ても難しそうです。もちろんそうする努力はしなければなりません。
イエス様が勝利者というのは、彼が軍隊を率いて外国を打ち破るという戦争勝利ではありませんでした。彼の勝利は、ゴルゴタの十字架の死と死からの復活を遂げたことで罪と死を滅ぼしたという勝利でした。人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通してイエス様と結びつくことが出来、それで彼の勝利を自分のものにすることが出来ます。そうすると今度は、天と地が新しく再創造される時にイエス様のように死から復活させられて永遠の神の御国に迎え入れられます。今の次に到来する世の有り様は今の世と異なります。それは罪と死に対する勝利に与った者たちのある世です。そこは神主導の平和が打ち立てられています。当然のことながら人間の軍事力などは藻屑になっています。
そして、「へりくだった者」というのは、まさに本日の使徒書の日課フィリピ2章でイエス様について言われていることです。その個所ではイエス様のへりくだりが見事に描かれています。「キリストは、神と一体にありながら、神と等しいことを戦利品と見なさず、それを放棄して奴隷の形を取り、人間の姿形を取り、人間のように現れ、自分をヘリ下させ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順でした。」このように「高ぶらず」などと訳さないで「ヘリ下った」と直訳すればイエス様のことを言っていることがよくわかります。
以上から明らかなように、ゼカリア書の預言にある「義なる者、勝利者、ヘリ下った者」とは、義なる神のひとり子が罪と死に勝利するためにヘリ下って十字架の道を歩むことが預言されていたのです。イエス様が子ロバに乗ってエルサレムに入城したというのは、このゼカリア書の預言がこれから成就することを人々に知らせる出来事だったのです。
ところが、これを見た当時の人たちはイエス様のことを罪と死に勝利するために出陣する王とは考えていませんでした。それでは、この出来事をどう考えたのでしょうか?彼らにとって、旧約の預言に登場するダビデの家系の王とは、なによりもローマ帝国の支配を打ち破って民族の王国を再興する王でした。このような期待があるところには、今の世が新しい世に取って代わるということは視野に入っていません。再興される王国は今の世の中にあります。
他方で旧約聖書には、イザヤ書65章17ー20節とか66章22節、ダニエル書12章1ー3節などには(他にゼカリア14章7節、ヨエル3章4節など)、今の世は終わりを告げて今ある天と地が新しく再創造される日が来る、その時、死者の復活が起きるという預言があります。これに注目した人たちもいました。その場合は、ダビデ王の末裔が統治する王国とは、今のこの世のものではなく新しい世の王国と理解されます。
さて、今のこの世の中に樹立される王国か、新しい世に現れる超越的な国か?しかし、どっちをとっても、当時の人々は、ユダヤ民族の王国が再興されるというイメージを持っていたことに変わりはありません。先ほど見たゼカリア書9章の他に、ゼカリア書14章やイザヤ書2章にも、世界の国々の軍事力が無力化されて、神の力を思い知った諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言があります。それだけを見ると、ユダヤ民族の国家が勝利者になり全世界に大号令をかけるという理解が生まれます。しかしながら、これは旧約聖書の一面的すぎる理解でした。旧約聖書の奥義は、こういう一民族中心主義を超えたところにありました。イエス様が成し遂げたことがそれを明らかにしました。そのイエス様がエルサレムに乗り込めば、そこでユダヤ民族の宗教指導者たちと真っ向から衝突するのは火を見るより明らかでした。この衝突がエスカレートして、イエス様は逮捕され、迫害され、十字架刑に処せられてしまったのでした。宗教指導層がイエス様を生かしてはおけないと考えるに至った理由は以下の3がありました。
まず、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章に出てくる、この世の終わりの時に現れる救世主「人の子」であると公言していたことがありました。つまり自分を神に並ぶ者とし、さらにはもっと直接に自分を神の子と言っている。これは、宗教指導層にとっては神に対する冒涜以外の何ものでもありませんでした。しかし、イエス様は、本当に神のひとり子だったのです。
もう一つの理由は、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王として立ち振る舞ったことも問題視されました。そんなことをすれば、ユダヤ地域を占領しているローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせることになってしまいます。宗教指導層としては、ユダヤは占領されてはいるが安逸を得られ、エルサレムの神殿を中心とする宗教システムも機能している。それなのに、イエスに好き勝手をさせたら、ローマ帝国の軍事介入を招いてしまう、と危惧したのです。
さらに、宗教指導層の憎悪に油を注いだのが、本日の福音書の箇所の後にある出来事、神殿から商人を追い出したところです。宗教指導層は、現行の神殿が神の意思に適うものと考えていました。商人たちも、神殿での礼拝をスムーズにするために生け贄用の鳩を売ったり、各国から来る参拝者のために両替をしていました。しかし、神のひとり子イエス様からみれば、現行の神殿は神の意思からはほど遠いものでした。イザヤ書56章7節の預言「私の家(神殿)は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」からかけ離れていました。イエス様が商人たちを叩き出した時、それは、ゼカリヤ書14章21節の預言「万軍の主の神殿に商人はいなくなる」を実現するものでした。しかし、商人の追い出しは、現行の宗教システムに対するあからさまな挑戦と受け取られたのです。
イエス様は、神のひとり子ですから、旧約聖書に記された神の御心を正確にわかります。それなのに、わかっていない宗教指導層が彼を殺すために占領者の官憲に引き渡してしまったのです。そればかりか、それまでイエス様のことを、民族のスーパー・ヒーローと祀り上げていた人々も、いざ彼が逮捕されると、直近の弟子たちから逃げ去り、群衆も背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男が民族の王国を再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。これは、旧約聖書を一面的にしか見ていなかったことによる理解不足でした。ところが、イエス様が十字架にかけられた後に旧約聖書の奥義が全て事後的に理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。
イエス様が死から復活したことで、死を超えた永遠の命が存在することが世に示されました。同時にそこに至る扉が人間に開かれたことも明らかになりました。その扉は、最初の人間アダムとエヴァが創造主の神に対して不従順になって、神の意思に反しようとする性向すなわち罪を持つようになって閉ざされてしまいました。同時に人間は死する存在になってしまいました。しかし、閉ざされてしまっていた扉が今、開かれたのです。さあ、これで人間は死を超えた永遠の命に入ることが出来るでしょうか?ここで、人間が死を超えられなくなってしまったもともとの原因である罪の問題はどう解決できるのか?これを考えなければなりません。
実は罪の問題は既に解決しているのです。正確に言えば、解決してもらっているのです。どうやって?それは、イエス様が十字架の上で、罪が引き起こす神罰を全部私たち人間に代わって引き受けて下さったことで解決しました。イエス様がこの私の罪の罰も全部引き受けて下さった、だからイエス様は私の救い主なのだ、そう信じて洗礼を受ければ、神はイエス様の犠牲に免じて罪を赦して下さいます。「赦す」というのは許可するという意味ではありません。罪を持ってしまっているために、あるいは罪を犯してしまった時、神に赦しを祈れば、神は不問にして罰に定めない、これが赦すということです。その時、安心して復活と永遠の命に至る道を歩み続けることができます。このように罪の赦しを受けた人は自分の命と人生は神のひとり子の犠牲の上に成り立っていると自覚しています。それで襟を正してヘリ下ります。罪を許可する許しならば、このような自覚は生まれません。罪の問題を未解決に戻してしまい、復活と永遠の命に至る道から離れていってしまいます。
実にイエス様の十字架の死と死からの復活は、ユダヤ民族の境界を超えて人類すべてに「罪の赦しの救い」が提供されることになりました。イエス様の神聖なエルサレム入城は、この救いの大事業が始まったことだったのです。このことは、当時、歓呼の声をあげた人々も、エルサレムで衝突することになる人たちも誰ひとりわかりませんでした。
ここで、ルターが統治者イエス様とこの世の統治者の違いについて教えていますので、それを紹介したく思います。彼が説き明かす聖句は冒頭で申し上げたヨハネ18章36節「私の国はこの世に起源を持たない」です。
十字架を喜んで背負うことが出来るのは誰か?それは、この統治者/ 王がどんな方で彼の国がどんな国であるかをよく知っている者である。 その人は、主自身が十字架を背負われたことを知っているだけでは満 足しない。その人には、天の御国に到達した時に大いなる喜びと至福 に与れる、たとえ今のこの世では苦難や困難があっても、必ず与れる、 ということが大きな望みと励ましになっている。
ところが、そのような望みと励ましがあることを知らない者たちは、 苦難や困難に遭遇すると右往左往するだけで、最後には絶望に陥って しまう。彼らの考えはこうだ。もし、神が憐れみ深い方ならば、こん なに多くの不幸を起こるままにさせないのではないか?起こっても直 ぐに助け出して下さるのではないか?そういう考えでいるのは、キリ ストの御国がこの世に起源を持たないものであることを信じていない からだ。この世の統治者たちは、国民の生命や財産を守ろうとする。 しかし、神の栄光を映し出す統治者、キリストは、身体、生命、財産 その他この世的なもの全てを危険に晒すことも厭わない。
それゆえ、この世ではキリスト信仰を、ものが溢れるようにするた めに用いてはならない。見よ、我らの統治者はどのような道を歩まれ たのかを。苦しみを受け、侮辱されるがままにし、辱めを受けて死な れたということ以外に何があろうか?それゆえ、彼の国に繋がる者は、 彼が黄金や品物を与えてくれるとか、この世の統治者のように福利を もたらしてくれるなどとは期待しないことだ。そのかわり、彼が御声 を聞いて従う者に対して、罪を赦して永遠の死から救い出して聖霊と 永遠の命を与えてくれることに心を向けるべきだ。
皆さんはこれを聞いてどう思われたでしょうか?やはり黄金や品物を与えてくれる統治者がいいと思われたでしょうか?罪を赦して永遠の死から救い出してくれる統治者も悪くないが、ただ黄金や品物を意に介さない、場合によってはそれらを危険に晒してしまうというのは嫌だなと思われたでしょうか?そう思われたら、本日の旧約の日課イザヤ書50章の個所をみるとよいでしょう。そこは、神の僕つまりイエス様のことを預言していると普通見なされます。日本語訳の聖書もこの箇所に「主の僕の忍耐」という見出しをつけています。しかし、ここで言われていることはキリスト信仰者にも当てはまります。キリスト信仰者も、自分には自分の正しさを認めてくれる方がおられる、罪はないと言ってくれる方がおられると確信を持って言えるからです。
イエス様を救い主と信じて生きる者は十戒を自然に備わるように持っています。イヤイヤ守るものでもなく無理して頑張って守るものでもなく、心に沁み込んで自分の一部のようになっているので神の意思に沿うように生きることが当然のことになっています。ところがこの世の人間関係の中でいろんな人に出会うといろいろ誤解されたり悪く言われたりすることがあります。しかし、キリスト信仰者には、天から全てを正しく正確に把握して下さる方がいて、大丈夫、あなたは悪くないと言って下さる方がおられるのです。そしていつの日かその方の御前に立たされる時、あなたは義なる者だ、と言って下さるのです!そのような方がいればこの世の黄金や品物など何ほどのものか、です!
先週金曜日(8日)子供向けのヴィデオ作成が行われました。吉村宣教師夫妻、ミリアム宣教師、富田姉、星野姉の皆さんがご奉仕されました。いまミリアムさんが編集中です、火曜日(12日)にHPに載せる予定です。