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主日礼拝説教 2022年12月25日降誕祭 聖書日課 イザヤ52章7-10節、ヘブライ1章1-12節、ヨハネ1章1-14節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
はじめにことばありき - 聖書の文句のなかで、これほど有名なものはないでしょう。キリスト信仰者でなくても、この聖句を知っている人なら誰でも、この「ことば」というのはイエス・キリストを指すと知っているのではないでしょうか。ヨハネ福音書の1章1節から18節までは、イエス様とは本質的にどんな方であるのかを述べているところです。皆様もご存知のようにマタイ福音書とルカ福音書では、イエス様が乙女マリアから生まれる出来事が最初にあります。父、御子、御霊の三位一体を構成する神の御霊、つまり聖霊が力を及ぼして乙女が身ごもってイエス様を産む。その意味ではイエス様誕生の記述も、イエス様が本質的にどんな方であるかを示しています。ヨハネ福音書では、イエス様が本質的にどんな方であるかということについて、著者ヨハネがイエス様と共にいた日々を振り返って自分の目で見、耳で聞いたことをもとに分析・総括して、その結論を冒頭に述べているわけです。
「初めに言があった」。この「はじめ」とはいつのことを指すのでしょうか?多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記1章1節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。それで、神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると思われるのではないでしょうか?実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしにある「はじめ」というのは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです(後注1)。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。時間をずっとずっと過去に遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いて、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに「ことば」と称される神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。
この永遠のところにいた神のひとり子が「イエス」という名前を付けられるのは、今から約2000年少し前に彼がこの世に贈られてからです。しかし、ひとり子そのものは、既に天地創造の前の永遠のところに父なるみ神と共にいたのです。そして、天地が創造されて時間が始まった後もまだしばらくは父のいる永遠の御国にいたのです。そして、父が定めた時、つまり今から約2000年少し前の時にひとり子はこの世に贈られたのでした。人間の姿かたちを持つ者として人間の母親から生まれて、「イエス」の名がつけられたのです。
それでは、天地創造の前の永遠のところにいた神のひとり子は人間の肉体を持ってこの世に生まれ出る前は一体どんな風だったのでしょうか?ヨハネ福音書の著者ヨハネは、ひとり子を「ことば」、ギリシャ語でロゴスと呼びました。ギリシャ語のロゴスという言葉はとても広い意味を持っています。紙に書き記して文字になる「言葉」や、口で話して音になる「言葉」を意味するのは言うまでもありません。これは私たちが普段日本語で「言葉」と言っているものと同じです。他にも、何か内容のある「話」や「スピーチ」を意味したり、また「教え」とか「噂」とか「申し開き」、「弁明」とか「問題点」とか「根拠」とか「理に適ったこと」などなど、日本語だったら別々の言葉で言い表す事柄が全部ロゴス一語に収まります。さらに、古代のギリシャ語の文化圏では、哲学のある一派の考え方として、世界の事象の全て、森羅万象を背後で司っている力というか頭脳というか、そういうものがあると想定して、それをロゴスと言っていた派もありました。日本語で「世界理性」と訳されたりします。
ただ、こういう森羅万象を背後で司るロゴスというのは古代ギリシャの哲学の話です。ユダヤ教キリスト教とは何の縁もゆかりもない、人間の頭で考えて生み出された概念です。翻って、聖書に依拠するユダヤ教とキリスト教は、天地創造の神が人間に物事を伝えたり明らかにする、それを人間はただ受け取るという立場です。生み出す大元はあくまで神という立場です。哲学では、生み出す大元は人間の頭です。
一見すると、ヨハネ福音書の著者ヨハネは、神のひとり子のイエス様のことを、森羅万象を背後で司るロゴスが人間の形をとったものと考えたように見えます。ここで注意しなければならないのは、ヨハネはギリシャ哲学の内容をイエス様に当てはめたのではないということです。そうではなくて、旧約聖書の伝統とイエス様自身が教え行ったことに基づいてイエス様を捉えたのです。そこで、このとてつもないお方を、ギリシャ語の世界の人々の頭にすっと入るコンセプトはないものか、と考えたところ、ああ、ロゴスがぴったりだ、ということになったのです。土台にあるのはあくまで、旧約聖書の伝統とイエス様の教えと業です。哲学のいろんな理論や議論ではありません。
では、旧約聖書のどんな伝統が、イエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたかというと、それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の8章22ー31節をみると、この「知恵」は実に人格を持つものとして登場します。まさに天地創造の前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の時にも父と同席していたと言われています。しかし、ひとり子の役割は同席だけではありません。ヨハネ1章3節をみると、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に創造の業を行ったのです。どうやってでしょうか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記1章3節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように、ひとり子は「神の言葉」という側面を持つとわかれば、彼も天地創造になくてはならないアクターだったことがわかります。先にも見たように、ロゴスは直接的に「言葉」という意味を持ちますから、ひとり子をロゴスと呼ぶことで彼が創造の役割を果たす「神の言葉」であることも示せるのです。
このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。興味深いことにイエス様は地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であるとおっしゃっていたのです。ルカ11章49節、マタイ11章19節にあります(後注2)。イエス様は本当に、天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられた方だったのです!ヨハネ福音書8章を見ると、イエス様が自分のことをそういう果てしないところから来た者であると言っているのに、ユダヤ教社会のエリートたちときたら全く理解できず、「お前は50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか」などととんちんかんな反論をします。50年どころか50億年位のスケールの話なのに。しかし、こうしたことはイエス様の十字架の死と死からの復活が起きる前は、とても人知では理解できることではなかったのです。
父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、父なるみ神のもとから人間のいるこの世に贈られてきました。人間の女性マリアから肉体を持つ人間として生まれました。ただ、聖霊の力が働いたため処女から生まれたという生まれ方をしました。なぜ神のひとり子はこのような仕方でこの世に贈られたのでしょうか?そもそも、なぜ神のひとり子はこの世に贈られなければならなかったのでしょうか?天の父なるみ神のもとで神の栄光に包まれてのんびりしていればよかったのに。
それは、天地創造の後に堕罪の出来事が起きて、人間が神の意志に反する性向、罪を持つようになってしまったためでした。そのために人間と神の結びつきが失われて、人間は神との結びつきがないままこの世を生きることになり、この世を去った後も結びつきがないまま、神のもとに戻って生きることができなくなってしまいました。そこで神は人間が自分との結びつきを持ってこの世を生きられるように、この世の人生を終えた後は復活の日に復活させて永遠に自分のもとに迎え入れることができるように、それでひとり子をこの世に贈ったのです。ひとり子を贈って何をさせたかというと、人間の罪を全部引き受けさせて人間に代わって神罰を受けさせて人間が受けないで済むように代わりに全ての罪を神に対して償って下さったのです。そのことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。今から2000年位前の世界の中で起こった出来事です。
なぜ神はこの大役を他の誰でもなくご自分のひとり子に担わせたのでしょうか?それは、人間の全ての罪を全部引き受けて未来永劫に神に対して償うことが出来るためには、神のひとり子が本当に神罰を神罰として純粋に本気で受けられないといけません。どうせ神なんだからと、受けた罰が痛くもかゆくもなかったら話になりません。本当に罰の名に値する苦しい痛いものであるためには、受ける者はそれを身に沁みて受ける生身の人間でなければなりません。しかし、普通の人間が全ての人間の罪を背負って神罰を受けて全ての人間の罪を神に対して償うことなどは不可能です。自分の分が精一杯で、しかも受けたらそれで滅んで終わってしまい新しい出発も何もありません。そこで、人間を救うのに他に手立てがないと見た神は、それを全部自分のひとり子に引き受けさせることにしたのです。通常の生殖作用を通してではなく聖霊の力で処女から生まれさせたので神聖さを持っています。神聖な神のひとり子の犠牲なので犠牲としてはこれ以上のものはありません。また、人間の肉体を持っているので人間として神罰を受けられます。これが、神聖な神のひとり子が人間の姿かたちを持って生まれたことの意味です。まさに、ヨハネ福音書1章14節に言われるように「言ロゴスは肉となった」のです。この何気ない一言に神の人間に対する大いなる愛と恵みが凝縮されています。聖書の神の本質について大いなる真理がここにあります。まさにキリスト信仰の核がここにあります。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)。
「わたしたちの間に宿られた」と言いますが、「私たちと共に生き生活した」と言った方がはっきりします。当時の人々はイエス様を通して天地創造の神の知恵と力を見ました。神の栄光を見たのです。正確には垣間見たのです。罪ある人間は神の栄光を直視することはできないからです。神の栄光は被造物の太陽の光よりも強い光です。イエス様がそのような栄光を現わした出来事もありました。現在のレバノンとシリアの国境にあるヘルモン山と推定される高い山の上でした。さらに弟子たちをはじめ大勢の人たちが死から復活したイエス様を目撃しました。復活の主を通して神の栄光を垣間見たのです。私たちが神の栄光を直視できる日がやがて来ます。それが復活の日です。その日、復活させられる者は神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を持って神の御許に永遠に迎え入れられるのです。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は罪を償ってもらい神との結びつきを持ってこの世を生きることになり、結びつきを持ってこの世から別れ、神と結びついた者として復活の日を迎えることになります。
ヨハネ1章4節と5節をみると、命と光と闇について言われています。「命」は、ヨハネ福音書ではたいてい、死で終わってしまう限りある命ではなく死を超える永遠の命を意味します。神のことばなるお方は乙女マリアから生まれる前に永遠の命がある方だったと。永遠の命は「人間の光」であったと(4節)。新共同訳では「人間を照らす光」と訳していますが、ギリシャ語原文では「照らす」とは言っていません。ただの「人間の光」です。「人間の光」とは、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにする光、この世を去った後は永遠の命が待っている神の国に迎え入れられるようにする光、まさに「人間のための光」、イエス様そのものです。
どうして「人間を照らす」と訳したかと言うと、9節に「全ての人を照らす」と言っているので、そうしたのではないかと思います。ここで「人を照らす」とはどういうことかに注意します。これは人間に光を照射するような照明器具のような意味ではありません。フォティゾーというギリシャ語の言葉は、見えない状態を光の力で見える状態にするという意味があります。神との結びつきを失い罪を持つ状態に甘んじて生き神の愛も恵みも見えない状態の人間が見えるようになるという意味です。キリスト信仰者はそのような光を持っているのです。ヨハネ8章12節でイエス様が言われる通りです。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」先ほど申しましたように、ヨハネ福音書では「命」は「永遠の命」を意味するので、「命の光」は「永遠の命に導く光」です。
さらに5節を見ると、「人間の光」つまり「永遠の命に導く光」が闇の中で輝いていると言います。闇とは、神と人間の結びつきを失わせ人間が永遠の命を持てないようにしようとする力が働いているこの世のことです。その中で輝く光とはその反対の力、神との結びつきを人間に持たせて強めてあげようとする力です。まさにイエス様のことです。
5節はさらに「暗闇は光を理解しなかった」と言います。これはいろんな意味を持つギリシャ語の動詞カタランバノーが元にあり、訳仕方がわかれるところです。前にもお話したことがありますが、この個所は他の国の言葉ではどう訳されているか見てみました。フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語訳の聖書では「暗闇は光を支配下に置けなかった」です。英語NIVとドイツ語の別の訳(Einheitsübersetzung)は、日本語と同じで「暗闇は光を理解しなかった」です。前にも言ったことがありますが、原文がどう訳されているかいろいろ比べてみると、日本語と英語の聖書が一致して、フィンランド語とスウェーデン語とルターのドイツ語が一致するということが多いです。それで、聖書の翻訳には日米同盟と欧州連合の対決があるようだなどと言ったことがありますが、よく考えるとそういうことではないことがわかりました。フィンランド語とスウェーデン語の訳というのはそれぞれの国のルター派教会が訳したものです。それに対して、日本語と英語の聖書はキリスト教のいろんな教派が合同で訳したものです。それなので、ルター派以外の考えも反映されてくるのではないかと思います。(とは言っても、スウェーデンの最新訳はルター派の伝統から離れてしまったところがあるので、ルター派の考えが反映されていると言えなくなってしまいました。)
話が横道にそれましたが、「暗闇は光を理解しなかった」がいいのか「支配下に置けなかった」がいいのか。どっちでしょうか?一つの考え方として、悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持つか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解することができます。それで日本語や英語のように訳していいかもしれません。しかし、悪魔は人間を罪の支配下に置こうとして人間から神との結びつきを失わせようとしても、その企みはイエス様の十字架と復活によって完全に破綻してしまったのだから、やはり暗闇は光を支配下に置けなかったと理解するのがいいのではないかと思います。
イエス様は人間のための光、これがあるおかげで暗闇の中でも消えない光を私たちは持つことが出来ます。肉眼の目では見えないけれども心の目でいつも見ることが出来る光です。それは私たちがいつも見続けることができるようにと消えることなく絶えず輝いています。しかし、光の方はこのように輝き続けているのに私たちの方でそれを見失うことがあります。自分の内に神の意志に反する罪があることに気づいて神との結びつきが大丈夫かどうか不安になる時がそうです。また、どうしようもない困難や苦難に陥って神との結びつきがあるなどと思えなくなってしまう時がそうです。
しかし、私たちキリスト信仰者は聖書を繙くたびに、み言葉に聞くたびに光は消えていないこと、光は輝き続けていることを確認できます。そして罪の赦しの祈りと赦しの宣言を受けることで神との結びつきには何の変更もないことを確信できます。ざらに聖餐式のパンとぶどう酒を通して主の血と肉を受けることで神の方で結びつきを維持して下さっていることを知ることが出来ます。何があっても神との結びつきは失われないのです。それがわかれば目はまた開き光が見えます。永遠の命に導く光です。
このように、人間のための光は私たちの方で見えなくなる時があっても、それは光の方が消えたのではなく、私たちの目が見えなくなっただけのことです。再び光が見えるように、そのために聖書の御言葉と聖餐が与えられているのです。御言葉と聖餐を唯一の確かな手掛かりにして神のもとに立ち返ることで光はまた見えるようになります。キリスト信仰者は光を目指して進むのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注1)「あった」ηνが過去形なのに注意。もし「はじめ」が天地創造の時を指して、その時点で「ことば」が出てきたということならば、過去形のηνではなくて、アオリストのεγενομην/εγενηθηνにすべきでしょう。
(後注2)。もちろんイエス様が実際に口にした言葉は、ギリシャ語のソフィアσοφιαでなくて、ヘブライ語のחכמהか、アラム語のそれに近い語だったでしょう。
クリスマスイブ礼拝、降誕祭前夜礼拝説教 2022年12月24日
1.今朗読されたルカ福音書の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音」(jouluevankeliumi)とも呼ばれ、国を問わず世界中の教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読されます。
ところでフィンランドでは、ちゃんと教会に通う家族なら、クリスマス・イブの晩は御馳走が並ぶテーブルに家族全員がついて、まず家族の誰かが「クリスマス福音」を朗読するのをみんなで聞いて、それから食べ始めたものです。我が家はそうしていますが、現在教会離れが急速に進むフィンランドで果たしてどのくらいの家庭がこの伝統を続けているでしょうか?
御馳走を頂く前に「クリスマス福音」を読み聞かるというのは、誰のおかげでこのようなお祝いが出来るのか、そもそもクリスマスとは誰の栄誉を称えるお祝いなのかをはっきりさせます。それは言うまでもなく、今から約2000年前に起きたイエス・キリストの誕生を記念するお祝いです。そのイエス様を私たち人間に贈って下さった天地創造の神の栄誉を称えるお祝いです。それでは、どうしてそんな昔の遥か遠い国で生まれた人物のことでお祝いをするのか?それは聖書に従えば、彼が天地創造の神のひとり子でありながら、全ての人間の救い主となるべく天上の神のもとからこの地上に送られて、マリアを通して人間として生まれたからです。話が昔の遠い国の人たちだけでなく、国と時代を超えて現代の日本に生きる私たちにとっても救い主となるために生まれたからです。そのような方のために祝われるお祝いなので、御馳走の前にお祝いするわけを思い返すためにクリスマス福音の読み聞かせをするのです。そして、イエス様を贈って下さった神に感謝して御馳走を頂きます。神がそんな贈り物をして下さったからには、私たちもそれにならって誰かに何かプレゼンする。また、神がひとり子を贈って下さったのは、国と時代を超えて全ての人間一人ひとりのことを気に留めて下さっているからです。それで私たちもカードに「良いクリスマスと新年を迎えて下さい」と書いて、あなたのこと忘れていませんよ、と伝える。そういうのが、本来の趣旨にそうクリスマスの祝い方です。もちろん、教会の礼拝に行って、神に賛美の歌を歌い、聖書の朗読と説教者のメッセージに耳を傾け、神に祈りを捧げることも忘れてはいけません。ちょうど今しているようにです。
近年はどこでも、クリスマスのお祝いの栄誉を称える面がどんどん脇に追いやられて、お楽しみの面が肥大化する傾向があります。そちらの方がお祝いの目的になっているのがほとんどかもしれません。しかし、いくらそういうふうになっていっても、イエス様の誕生がなかったらクリスマス自体も存在しなかったという事実は誰も否定することは出来ません。
2.「クリスマス福音」に記されている出来事は多くの人に何かロマンチックでおとぎ話のような印象を与えるのではないかと思います。真っ暗な夜に羊飼いたちが羊の群れと一緒に野原で野宿をしている。電気や照明などありません。空に輝く無数の星と地上の一つの小さなたき火が頼りの明かりです。そこに突然、神の栄光を受けて輝く天使が現われ、闇が一気に光に変わる。天使が救い主の誕生を告げ、それに続いて、さらに多くの天使たちが現れて一斉に神を賛美し、その声は天空に響き渡る。簡潔で詩のような賛美の言葉は次のことを言っていました。「神は天上で永遠の栄光に満ちておられる。神の御心に適う人たちは地上で神と平和な関係に入れる。」
賛美し終えた天使たちは姿を消し、あたりはまた闇に覆われる。しかし、羊飼いたちの心には何かともし火が灯されていました。もう外側の暗闇は目に入りません。彼らは何も躊躇せず何も疑わず、生まれたばかりの救い主を見つけようとベツレヘムに向かいました。そして、一つの馬小屋の中で布に包まれて飼い葉桶に寝かせられている赤ちゃんのイエス様を見つけます。
この話を聞いた人は、闇を光に変える神の栄光、天使の告げ知らせと賛美の合唱、飼い葉桶の中で静かに眠る赤ちゃん、それを幸せそうに見つめるマリアとヨセフと動物たち、ああ、なんとロマンチックな話だろう、本当に「聖夜」にふさわしい物語だなぁ、とみんなしみじみしてしまうでしょう。
3.ところが、この「クリスマス福音」はよく注意して読むと、そんな淡い甘い期待を踏みにじるような非情さがあることに気づかされます。それは、その当時の政治状況がこの出来事の上に重い暗い影を落としているということです。人の人生や運命は権力を持つ者が牛耳ってもてあそび、普通の人はそれに対して何もなしえないということです。民主主義の時代になっても権力に抑制を効かせることはなかなか難しいのに、ましては民主主義のない昔だったらなおさらです。権力の言われるままになり、もてあそばれてしまいます。そういうことを「クリスマス福音」は明らかにしているのです。
それがわかるために、ヨセフとマリアはなぜ自分たちが住むナザレの町でイエス様を出産させないで、わざわざ150キロ離れたベツレヘムまで旅しなければならなかったのかを考えてみるとよいでしょう。答えはクリスマス福音書から明らかです。ローマ帝国の初代皇帝(在位紀元前27年から紀元14年)アウグストゥスが支配下にある地域の住民に、出身地で登録せよと勅令を出したからです。これは納税者登録で、税金を漏れることなく取り立てるための施策でした。その当時、ヨセフとマリアが属するユダヤ民族はローマ帝国の占領下にあり、王様はいましたがローマに服従する属国でした。ヨセフはかつてのダビデ王の家系の末裔です。ダビデの家系はもともとはベツレヘム出身なので、それでそこに旅立ったのでした。出産間近のマリアを連れて行くのはリスクを伴うものでしたが、占領国の命令には従わなければなりません。当時の地中海世界は人の移動が盛んな、今で言うグローバル世界だったので故郷を離れて仕事や生活をしていた人たちは多かったと思われます。皇帝のお触れが出たということで大勢の人たちが慌てて旅立ったことは想像に難くありません。
やっとベツレヘムに到着したマリアとヨセフでしたが、そこで彼らを待っていたのはまた不運でした。宿屋が一杯で寝る場所がなかったのです。町には登録のために来た旅行者が大勢いたのでしょう。そうこうしているうちにマリアの陣痛が始まってしまいました。どこで赤ちゃんを出産させたらよいのか?ヨセフは宿屋の主人に必死にお願いしたことでしょう。馬小屋なら空いているよ、一応屋根があるから星の下よりはましだろ、と。生まれた赤ちゃんはすぐ布に包まれてました。飼い葉桶にそのまま寝かせると硬くて痛いから、馬の餌の干し草をクッション代わりに敷いたでしょう。以上がイエス様がベツレヘムの馬小屋で生まれた真相です。
子供向けの絵本聖書を見ると、この場面の挿絵は大抵、嬉しそうにすやすや眠る赤ちゃんを幸せそうに見つめるマリアとヨセフがいて、その周りをロバや馬や牛たちが可愛らしく微笑み顔で見つめているというものです。羊飼いたちも馬小屋の近くまで来ています。東の国の博士たちももうすぐ貢物を持ってやってきます。ああ、なんとロマンチックな場面なんだろう!でも、本当にそうでしょうか?皆さんは馬小屋か家畜小屋がどんな所かご存知ですか?私は、妻の実家が酪農をやっているので、よく牛舎を覗きに行きました。それはとても臭いところです。牛はトイレに行って用足しなどしないので、全て足元に垂れ流しです。馬やロバも同じでしょう。藁や飼い葉桶だって、馬の涎がついていたに違いありません。なにがロマンチックな「聖夜」なことか。天地創造の神のひとり子で神の栄光に包まれていた方、そして全ての人間の救い主になる方はこの地上に贈られた時、こういう不潔で不衛生きわまりない環境の中で、まさに辱められたような状態で人間としてお生まれになったのでした。
このようにイエス様の誕生の出来事は実はロマンチックなおとぎ話なんかではないのです。クリスマス福音書に書いてあることを注意して読めば、マリアとヨセフがベツレヘムに旅したことも、また誕生したばかりのイエス様が馬小屋の飼い葉桶に寝かせられたのも、全ては当時の政治状況のなせる業だったことがわかります。普通の人の上に影響力を行使する者たちがいて、人々の人生や運命を牛耳ってもてあそんだことに翻弄されたことだったのです。
4.しかしながら、聖書を本当に読み込める人はこれよりももっと深く広い視点を持って読むことが出来ます。どんな視点かと言うと、普通の人の上に影響力を行使する者たちがいても、実はそのまた上にそれらの者に影響力を行使する方がおられるという視点です。その上の上におられる方がその下にいる影響力の行使者の運命を牛耳っているという視点です。この究極の影響力の行使者こそ、天地創造の神、天の父なるみ神です。神は既に旧約聖書の中で、救い主がベツレヘムで誕生することも、それがダビデ家系に属する者であり、処女から生まれることも全て前もって宣言していました。それで神は、ローマ帝国がユダヤ民族を支配していた時代を見て、この約束を実現する条件が出そろったと見なしてひとり子を贈られたのでした。あるいはこうかもしれません。神はその当時存在していたいろんな要素を自分で組み合わせて、約束実現の条件を自分で整備したのかもしれません。いずれにしても、この世の影響力行使者たちが我こそはこの世の主人なり、お前たちの人生や運命を牛耳ってやると得意がっていた時に、実は彼らの上におられる神が彼らを目的達成の道具か小細工にしていたのです。
人間的な目で見たら、マリアとヨセフは上に立つ影響力行使者に引きずり回されもてあそばれたかのように見えます。しかしながら、彼らはただ単に神の計画の中で動いていただけなのです。引きずりまわされるとか、もてあそばれるとかいうことは全然なかったのです。なぜなら、神の計画の中で動けるというのは、神の守りと導きを受ける確実な方法だからです。そういうわけで、イエス様誕生にまつわる惨めさは、実は神の目から見たら惨めでもなんでもなく、神の祝福を豊かに受けたものだったのです。そのようにして二人には究極の影響力行使者である天地創造の神がついておられ、その神に一緒に歩んでもらえる者として、彼らはこの世の影響力行使者たちの上に立つ立場にあったのです。
実は私たちもまた、マリアとヨセフと同じように、究極の影響力行使者の神がついて神に一緒に歩んでもらえる者になることが出来ます。どういうふうにして出来るかと言うと、マリアから人間としてお生まれになったイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることによってです。どうしてイエス様が救い主なのかと言うと、彼が十字架の死を引き受けることで私たちの罪を全て神に対して償って下さったからです。それに加えて、死から復活されたことで死を滅ぼして永遠の命への道を切り開いて下さったからです。このイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、人間は神の愛する子となり神の守りと導きの中で生きることになります。究極の影響力行使者の神が共におられる者になるので、この世の影響力行使者たちの上に立つ立場になります。しかしながら、この世の影響力行使者はローマの皇帝のような目に見える具体的な行使者だけではありません。使徒パウロが教えるように、影響力行使者には目には見えない霊的なものもあります。それらは、人間が罪の償いがされない状態に留まることを望んで、人間と神との間を引き裂こうと躍起になるものです。しかし、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、彼がして下さった罪の償いを自分の内に取り込んでしまったので、見えない影響力行使者はもう何もなしえません。
そのように神の愛する子となり神が共におられる人は、目に見える影響力行使者と目に見えない行使者双方の上に立つ者となります。それなので、人間的な目では惨めな状態にあっても、心が騒いだり慌てふためくことはありません。なぜならそのような者の目は遮られないので、この世の影響力行使者の上に本物の影響力行使者をいつも見ることができます。この世の影響力行使者と戦争状態にあっても、究極の影響力行使者とは永遠の平和があります。それでキリスト信仰者の心は人間の理解を超えた平安を持てるのです。世界で一番最初のクリスマスの夜に神を賛美した天使たちの言葉は信仰者にとって真理です。
「神は天上で永遠の栄光に満ちておられる。神の御心に適う人たちは地上で神と平和な関係に入れる。」
12月のスオミ教会・家庭料理クラブは10日に開催しました。今回はフィンランドのクリスマス料理の定番の中から「ポテト・キャセロール」Perunalaatikko と「ビーツ・サラダ」 Rosolli を選びました。あわせてデサートにクリスマス・クッキーも作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にポテト・キャセロールを作ります。今回は伝統的なポテト・キャセロールと少し違って甘味を出すためにジャガイモだけでなくサツマイモも入れました。ジャガイモとサツマイモを茹でてからハンドミキサーでマッシュします。牛乳など他の材料を混ぜて焼き方型に入れ、あまり高くない温度で焼きます。
次はビーツ・サラダの番です。茹でた野菜をサイコロ状に切って種類ごとにお皿にきれいに並べます。参加者が大勢いたおかけで色とりどりの華やかなサラダがすぐに出来上がりました。サラダの酸っぱさを和らげるクリームも作ります。生クリームをホイップしてスパイスとビーツの汁を少し加えるとピンクの可愛らしいクリームの出来上がりです。
最後はクリスマス・クッキー「ピパルカック」を焼きます。生地を伸ばして花や星やハートなどいろんな形の型どりをして沢山のクッキー生地を鉄板に並べます。鉄板をオーブンに入れると教会中クリスマスの香りで一杯になりました。
参加者の皆さんにとってフィンランドのクリスマス料理を作るのは初めてだったので、試食が楽しみでした。出来上がったポテト・キャセロールとビーツ・サラダをそれぞれのお皿に盛りつけて、さあ、頂きます!ポテト・キャセロールが入った型はあっという間に空っぽになりました。クリスマス料理やクッキーをゆっくり味わいながら、モニターを通してフィンランドのクリスマスの歌を聴きました。終わりにフィンランドのクリスマス料理やクリスマスの過ごし方、そして聖書に出てくるクリスマスのお話も皆で一緒に聞きました。
今回の料理クラブも無事に楽しく終えることができ、天の神さまに感謝です。
料理クラブは年明けの1月はお休みになります。次回は2月第2の土曜日に予定しています。日にちが近づきましたら教会のホームページの案内をご覧ください。何を作るか、ぜひお楽しみに!
それでは皆さま、天の父なる神さまが豊かに祝福されるクリスマスをお迎え下さい!
今日皆さんと一緒に作ったポテト・キャセロール「Perunalaatikko」とビーツ・サラダ「Rosolli」は昔からあるクリスマス料理です。オーブン焼きの温かいキャセロールの種類は多くて、ジャガイモの他にニンジンやルタバガと呼ばれるスウェーデン・カブのキャセロールも作られます。一番人気のあるのはポテト・キャセロールですが、作り方が少し難しいので、自分で作らないで店で買う家庭が多いです。今日は簡単な作り方で作りました。甘味を出すためにサツマイモとシロップを入れましたが、伝統的な作り方はジャガイモだけから甘味を引き出します。ジャガイモだけでどうやって甘くなるのでしょうか?それは、茹でたジャガイモをマッシュしてその中に小麦粉を少し混ぜて、大体50℃位の温度に3時間から5時間くらい置いておくと、ジャガイモのでんぷんが分解されるので甘味が出るのです。そのマッシュポテトをあまり高くない温度で焼きします。これが伝統的なポテト・キャセロールの作り方です。
ビーツ・サラダは伝統的なクリスマスサラダの一つです。サラダの名前「Rosolli」はロシア語から来たものです。このサラダはクリスマスの時だけでなく、一年のお祝いの食卓にもよく出されます。このサラダにはいろいろな野菜が入っているので、私の母は秋の収穫が終わってからよく作りました。
フィンランド人はクリスマス料理の伝統をとても大事にして、母親が作ったクリスマス料理が子供に受け継がれて、どの家庭でも昔お母さんが作ったものと同じ種類の料理を作ります。料理の味と香りを通しても、それぞれの家庭のクリスマスの雰囲気が作られると言ってもよいです。
クリスマスの時に毎年同じ料理を作ったり、同じ過ごし方でクリスマスをお祝いすることで、フィンランド人は安心感を得ていると言えます。クリスマスが近づくと、たいていの子どもたちは「今年も豚肉のオーブン焼きやポテト・キャセロールを作るの?」と親に聞きます。作りますよ、と答えると、子どもはホッとした顔をします。これで今年も同じ雰囲気のクリスマスになると感じて安心するのです。しかし、今の世界の動きはこの2、3年の間にとても大きく変わってしまって、前は当たり前だったことが今はそうではなくなってしまいました。このため、クリスマスにいつも同じ料理を作ったり同じ過ごし方でお祝いできるかどうか、来年も出来るのだろうかと多くの人々が不安を感じるようになったかもしれません。
この間フィンランドのテレビのニュースを見ていたら、今フィンランド人は誰を一番信頼しているかについての世論調査がありました。調査の結果、フィンランド人が一番信頼しているのは、国境警備隊、救急隊、救急医療センターでした。これは、今のフィンランド人が大きく変わる世界の中で安全と安心を重要なものと考えていることを表わしています。それで、安全と安心を与える機関に対する信頼が高まったのです。さて、この変化する世界で私たちは誰を信頼するでしょうか?
聖書には信頼について沢山書いてあります。今教会のカレンダーはアドベントの期間に入ったので、クリスマスの前やクリスマスの時に起きた出来事について聖書に書かれてあることを見てみたいと思います。その中で、イエス様の母親になるマリアとマリアの夫になるヨセフが天の神さまに対して持っていた信頼は私たちの心を動かします。
昔ナザレという町にマリアという若い女性が住んでいました。彼女はダビデ家のヨセフと婚約していました。ある日天使のガブリエルがマリアに現れてこう言ったのです。「おめでとう、恵まれた方。神さまはあなたと共におられます。」とても驚いたマリアに対して天使は続けて言いました。「あなたは神さまから恵みを与えられました。これからあなたは神の力で身ごもって男の子を産むことになります。その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な者になり、いと高き神の子と呼ばれる。彼に神はダビデの王座を授ける。彼は永遠に神の民を治め、その支配は終わることがない。」天使の言葉はマリアには完全に理解できないことでしたが、それは旧約聖書の預言が関係しているとマリアにはわかりました。マリアも旧約聖書に預言された救い主はいつ来られるかと待っていたからです。マリアは神さまがメシアを送る約束を果たす日がついに来たのだと分かったのです。それで天使に次のように言ったのです。「私は主にお仕えする者です。お言葉の通りにこの身になりますように。」マリアは神さまを信頼していたので覚悟が出来ていました。しかし、婚約者のヨセフがこのことをどう思うか心配があったでしょう。
マリアの妊娠に気づいたヨセフは結婚をやめることを考えました。しかし、ヨセフには天使は夢の中に現れて次のように言ったのです。「マリアのお腹の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は将来、人間を罪から救い出す。だからマリアと別れてはならない。結婚しなさい。」ヨセフも旧約聖書に預言されていた救い主を待ち望んでいました。それで、その時がついに来たのだ、それは自分とマリアを通して本当のことになるのだとわかりました。ヨセフはマリアを妻として迎えることにしました。
マリアとヨセフの将来の見通しは最初に考えていたことと大きく変わってしまいました。この先何が起こるのか予想がつかず、二人とも不安を感じたかもしれません。それでは、なぜ二人は神さまが与える課題を受けいれたのでしょうか?それは、神さまが本当に信頼して大丈夫なお方であることを旧約聖書から学んでいただからです。神さまが救い主を送って下さるという約束を必ず守ると信じていたからでした。
旧約聖書の詩篇62篇9節には次のように書いてあります。「力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し御前に心を注ぎ出せ。神は私たちの避けどころ」。このみ言葉は私たちにも向けられています。今世界が大きく変わっていてどこに向かっているか誰もわからない時でも、私たちは神さまが示される道を進んで行くことができます。その道はいつも平らではなく坂道もあれば曲がり道もあります。しかし、神さまのみ言葉が生きる土台にあれば、神さまは信頼して大丈夫な方と分かり、神さまが示される道を歩むことが出来ます。たとえクリスマスの過ごし方が前と違うものになっても、イエス様が私たちの救いのためにこの世にお生まれになったというクリスマスの本当の意味は変わりません。変化が激しい世の中で、変わらない神さまの愛とみ言葉は本当に信頼できるものです。クリスマスの本当の喜びは、本当に信頼できる方を持つことがで見いだすことが出来るのです。
田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)
マタイ1章18〜25節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、はじめに
アドベントの第4週を迎えました。この主の日の朝、主イエス様が私たちに与えてくださっているみ言葉は、使徒であるマタイを通して「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」とはじめているように、主イエス・キリストご自身の誕生についての証しです。ルカの福音書が、母マリヤに起こった出来事を証言しているのに並行して、マタイは、父方ヨセフに起こった出来事を証言しています。いずれの箇所も、このイエス様の誕生が、人の思いや知恵によるものでなければ、人の計画や努力によるものでもなく、どこまでもそれは、神が遥か昔から約束された人類の救いの約束を、まさしくその通りに、神が、人のために、恵みとして実現してくださったのだという素晴らしいメッセージが、今日、私たちに伝えられています。
2、神の計画:罪人を用いて
A, 罪人マリヤを通して
今日の箇所は「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」と始まり、その後、ヨセフが婚約者マリヤが結婚前に妊娠したことを知り、マリヤを密かに去らせようとしたところに、天の使いが夢で現れ「その子は聖霊によるものである」と告げられていきます。その通り、イエス様は聖霊によって世に来られる真の神様であることがルカ、そしてマタイ、双方からもはっきりとわかるのですが、それは聖霊によって「一人の罪人」であるマリヤに妊って、人間の肉体を持った赤子として生まれるという方法を神様は取られました。そのように救い主イエス様は、私たちの神であり、真に神である方ですが、神の姿で、あるいは、目に見えない聖霊の幽霊のような姿であるとか、あるいは、人間が思い浮かべるような神の力に溢れたような姿、形で来たのではないということです。一人の罪人の胎に宿り、もちろん聖書にある通り、罪はない方ですが(ヘブル4章15節)、私たちと同じ弱さを持った人間の肉体をとり、赤ちゃんでお生まれになられたのです。これは人の思いや理性では信じられない思い付かない計り知れないことですが、聖書は私たちにはっきりとその事実を指し示しているのです。
B, 約束の系図
ですからマタイは、この福音書を、1章1節から「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」と言う言葉で始めていないでしょう。人間の側から見て導入として入りやすい書き方をすれば、1章1節を「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」という書き始めた方がわかりやすかったかもしれません。しかし主はマタイを通じて、その言葉では始めないでしょう。むしろ今日の箇所の直前を見ていただくとわかるように、人間の側から見れば、単調で何の意味があるのかと思うかもしれない系図から主は語り出しているのです。そのことは何を伝えていますか?そう、まさしくそれは、イエス様、真の神であるお方が、人の家系の流れにおいて、つまり、人の間に生まれるのだという証です。ある人は言うかもしれません。これはヨセフの家系ではないか。イエスはマリヤに聖霊で宿ったとあるのだから、ヨセフの血筋ではないではないかと。しかし、イエス様はきちんとルカを通じて、マリヤの系譜も記してくれています。ルカの3章23節〜38節で、ぜひ確認していただきたいのですが、そのルカ3章23節に、ヨセフはエリの子と書かれています。マタイを見てわかる通り、ヨセフの父はヤコブという人物です。ではエリとは誰かというと、これはマリヤの父です。ですから義理の息子という意味でエリの子です。そのマリヤの父エリから遡って系図が書かれていて、しかも、ルカの場合は、最初の人アダムにまで遡って書かれているのです。ヨハネは福音書で証ししているでしょう。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ヨハネ1章14節
イエス・キリストの誕生。イエス・キリストは天地万物の創造者である真の神です。しかし同時に、その真の神である方が、罪深い人間の体を通して、肉体をとり、人となり、人と人との間に宿られた、来られた、お生まれになられたのです。これは実に不思議です。人の思いでは計り知れない、理解できない。信じられないことです。しかし神はこの聖書を通し、マタイ、ルカ、ヨハネを用いて、これが救い主イエス様の誕生なのだと、まず私たちにはっきりと伝えているのです。
C, それは罪人の系図でもある
さらにこの系図を見れば、実に、大いなる不思議と恵みがあります。その系図は、「神の系図」ではありません。「聖人の系図」でもありません。そう、それはまさしく「罪人の系図」であるということがわかるでしょう。確かに偉大な信仰者とも呼ばれるアブラハムやダビデの名前があり、マリヤもヨセフもアブラハム、ダビデの家系であることはわかります。しかし、旧約聖書は、ダビデが巨人ゴリアテを倒した武勇伝やいかにも敬虔な綺麗事だけを記録しているのではなく、ダビデが一度ならず何度も罪を犯したことも正直に記録しています。マタイの記した系図を見ると、1章6節「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。つまりまさしく、読む人であれば誰でもわかる、あのダビデの罪と悔い改めの出来事さえも隠さず記しています。アブラハムも100%完全で、罪も穢れもない、信仰も完璧な人間としては決して描かれていません。何度も弱さに葛藤し、失敗し、それでも彼が信仰の父であるのは、彼が完全であったからではなく、神の約束とわざが完全であり、神がその約束のゆえに、アブラハムを絶えず教え、戒め、日々悔い改めに導きながらの、信仰に歩んだ生涯であったからではありませんか。その孫のヤコブしかりです。それだけではない、この系図にあるダビデの子孫のソロモンに始まる王達の歴史を見るなら、まさに罪人の歴史であり系図ではありませんか。神はその罪人の系図を知らなかったのでしょうか?そうではありません。わかっていてあえてその系図を私たちに示しています。聖書が「人の間に」と言われるとき、それは、「神の間」でもない。「神のような完全な人々の間でも、聖人君子の間」でもない、「罪人の間」にこそイエス様は宿られる。お生まれになるのです。そして、その罪人を用いて救い主の誕生という素晴らしことをなされるということを私たちに示しておられるのです。Luthran Study Bibleのこの聖書箇所の奨励がとても感謝なので紹介します。
「イエス・キリストの系図で、マタイは、罪人や恥ずべきことを隠そうとしていません。実際にマタイはそれらを目立たせています。イエスが生まれる家計には、売春婦、姦淫の罪を犯すもの、暴力的な人、そしてその他、説明できる他の罪を犯した人々をも含んでいます。このことは私たちを驚かせるかもしれませんが、事実は、キリストの系図を構成しているのは、罪人に他ならなかったということです。イエスの先祖は、私たちが救い主を必要とするのと同じくらい、救い主を必要としていたのです。もし神が、主の恵みにおいて、そのような欠点のある罪深い人々を用いることができるなら、今、救い主の罪のない生贄を証し、その主を信じている罪人を、主はどれだけ沢山、用いることができるでしょうか!主イエス・キリストよ、あなたが救うためにこられた人の間に、一人の罪人である私を加えてくださったことを感謝します。」(p1578、 Lutheran Study Bible(ESV), Concordia Publishing House, 2009)
イエス・キリストの誕生。それは、救い主は、止むを得ずにではない、知らなかったからでもない、あるいは、人間の側の計画や思いでもない。まさにその罪人の間、罪人を用いて、その罪人のために、つまり私たちのために、救いと罪の赦しを実現することこそを神の意図、ご計画とされた、その通りに神が100%なさった、その成就なのです。
3、神がなさった約束の成就
A, 人の側には恐れと戸惑い
事実、この後、そのことこそ現れています。まず、罪人である人間の側には何があるでしょうか?何かそんな素晴らしいことをなせるものがあるでしょうか?いや、そこには、戸惑いと恐れしかありません。
「18:イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していおたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
「母マリヤとヨセフは婚約していたが」とあります。ユダヤ教の習慣では、婚約というのは、すでに法的に結び付けられている関係で、結婚の第一の段階でした。しかしそこには「二人が一緒になる前に」とあります。それは、マリヤは一緒に住んではおらず、性的な関係も持っていなかったことを証言しています。しかし、その状況で、妊娠しました。もちろんそれは書かれている通り聖霊によるものでした。しかしルカの1章には、マリヤに起こった出来事についても書かれていますが、マリヤはみつかいの「聖霊によって男の子を産む」という知らせを受けた時に、即座に信じて、もう驚き踊って感謝して、という状況ではありませんでした。その知らせに、恐れ、戸惑ったことが書かれています。そう、この出来事は人間の側、ヨセフにとってもマリヤにとっても、恐れであり戸惑いでした。ヨセフもこの知らせに戸惑っています。19節
「19:夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
ヨセフは神の律法に従って生きることを望んでいた人でした。ですから、まだ夫婦としての関係を持っていない状況で、マリヤが子を宿したと聞いて、ヨセフはマリヤがヨセフに不誠実を犯したのだと始めは思ったのでした。そこで、彼は彼女との婚約関係を解消しようとするのです。しかしそこに「ひそかに」とあるでしょう。英語の聖書(ESV)ですと”quietly”ともあり、黙って、そっと、静かに去らせようともわかります。なぜなら、律法(申命記22章23−24節)は、婚約した女性が、姦淫の罪を犯したなら、石打ちにされなければならないも教えていたからであり、それほどまでに社会においては恥ずべき重大なことであったからでした。ヨセフはマリヤのためにも、静かに人知れず、婚約を解消し、マリヤを静かにさらせることで解決しようとしたのでした。
B, 人の決心がなるのではない、神の約束を神がなさる
しかし、人間の心配や恐れと人間のそのような知恵を絞った解決が、神の計画を覆したり、邪魔したり、ならないようにしたりすることは決してできないのです。まさに19節では「決心した」ともある固い決意にあるヨセフ、そのままでは、ヨセフとマリヤは夫婦にならず、イエスはナザレの大工の家の子としても育たなかったかもしれない、そんなヨセフの決心に、主は介入されます。
「 20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
御使いがヨセフの夢の中で現れて言います。「夢」とありますが、旧約聖書では、一般的な啓示の方法であり、有名なのは、創世記のヤコブ(イスラエル)の子ヨセフの夢を通じての啓示があるでしょう。ここで神は御使いを通してヨセフに語りかけます。「恐れず」つまり「恐れてはいけない」と。ルカの福音書でも、御使いは、マリヤに「恐れなくても良い」と語りかけています。御使いというのは、神ではありませんが、神のメッセンジャーであり、神の言葉を伝える、被造物です。もちろん、旧約聖書を見ると、御使いが裁きのために遣わされる場面はありますが、神が御使いを通して私たちに働く基本的な様がここにはあります。それは、メッセンジャーは、みことばを携え、恐れを取り除くというその役割です。世の中は罪の世ですから、人には恐れや不安が満ちています。しかし、神と神の言葉、何よりそのイエス・キリストの約束は、その罪の世に不安と恐れで生き、罪に刺し通され悔いる私たちに、さらに重荷を負わせ恐れさせ心配させるのではなく、「恐れなくて良い」とどこまでも平安を与えてくださるお方であり、その言葉であることが、ここにも教えられます。
C, 御使いは律法で導かない
そんな恐れるヨセフ、密かに婚約を解消しようとするするヨセフに、神は御使いを通して告げます。「その子は聖霊によるのだ」と。さらには具体的なことも約束しています。それは男の子だと。名前はイエスとつけなさい。皆さん、この箇所も物凄く幸いな事実を教えられます。この「恐れず」という言葉。あるいは「恐れるな」と言う言葉。聖書には多いですが、それは「命令」のようですから一歩間違うと律法になります。つまり私たちが自分の力で頑張って、恐れないようにしなければいけない。頑張って恐れないようにしようとか、人間の意志の力でその神に応えなければいけないかのように、人は考えやすいです。それは例えば「いつも喜んでいなさい」(第一テサロニケ5章16節)とかも命令だからと、律法と理解する人がいます。自分の力や意志の力で神のために、いつでも喜んでいなければいけないのだと。つまり律法なんだと。それは救いや信仰は、神の恵みだけでなく、数パーセントの人間の意志の力の協力が必要なんだと教えるような教会の人々はそう考えたり教えたりします。しかしそうではありません。なぜ恐れるな、または、恐れなくて良いと神様は私たちに言われるのでしょうか?それは、神様の、神様がこれから実現するという計画と約束がそこにあるがゆえでしょう。ここでもそのことがわかります。恐れなくていいのは、それが人ではなく聖霊によるものであり、人ではなく「神が」聖霊によって、男の子をマリヤに産ませるのであり、名前も人が決めるのではなく、「神が」イエスと決めているからであり、そして何と幸いではありませんか。その子がなす救いの計画がはっきりと告げられています。「この子は自分の民を罪から救うからである。」と。そう「恐るな」、あるいは、「恐れなくていい」のは、神が確かにその通りに実現する神ご自身の約束があるからこそ「恐れなくていい」なのです。恐れからの解放、平安、喜び、何であっても、神がそのように励ますのは、人間の側が自分の力や意志の力でそうしなければいけないという律法ではなく、イエス様の約束が100%真実であり、その通りに実現するから、心配しなくていい。恐れなくていい。喜んでいなさい。なのであり、平安はそのようにしてイエス様が、その約束によってもたらす平安だということなのです。ですから恐れるなも、喜んでいなさいも、そして信じるという信仰も、決して「人がなさなければならない」「律法」ではない。紛れもなくそれは「神がなす」「福音」だということなのです。
D, 御使いは確信を得させるためにどうするか?
そしてこのところ、マタイは、まさしくイエス様に用いられている誠実な真の宣教師です。ここで、この福音書を読む人達に確信を得させるために、彼は、現代間違って流行りがちな、自分の理性や知識や人間の巧みな説得力で確信させるとか、文化的な手段や適用とか魅力的なアトラクションとか例話など、そんなものは用いいません。マタイははっきりと私たちに証しします。
「22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
と。まさしく今日の第一の聖書朗読の箇所、イザヤ書10章14節の預言です。マタイは、その聖書を引用して、その主が預言者を通して言われたことが実現するためであったと、聖書がこう言っている。聖書がこう約束してきた。指し示してきた。そのことが実現するのだと主の約束は真実であるということこそを指し示し、マタイはイエスの復活の後にもちろんこの福音書を書いていますから、それは、その約束の通りに実現したのだというメッセージも同時にあると言えるでしょう。マタイははっきりとしています。系図もそうですが、それは神が約束した通り、聖書の通り、みことばの通りにその通りになったのだ。聖書がそう言っているからその通りそれは事実、真実なのだ、というメッセージなのです。
残念なことに、聖書をそのまま信じることは理性に照らせば馬鹿馬鹿しいことであるという教えが流行って、イエス様の処女懐胎などを神話と言ったり、色々、人間的な理屈で説明をつけて、聖霊によって身籠るなどないんだ、処女が聖霊によって妊娠するなんてないんだ、それは、弟子達の作り話なんだという教えや説教があるかもしれません。しかしそのような教えは、神もなければ、神の言葉の力や真実さもありません。信仰もありません。信仰があったとしても、それは人間の理性や知識を根拠とした、神の前ではなんの力のないものであり、その辺の新興宗教となんら変わりありません。それは、福音と恵みに生かされる真の平安の信仰ではなく、キリストは結局は優れた模範者や偉人で、それにならって生きていくのが福音なんだという、結局、律法による信仰、道徳しか教えられず、それは何より平安はないのです。
4 結び:神はご自分の民、私たちを罪から救うために
イエス様がマタイを通して私たちに語りかけるメッセージは、真実な福音がその通りあなた方一人一人のために実現したのだ、そして今日も約束は実現する、だから安心して行きなさいと遣わすメッセージです。私たちは、どこまでも罪人です。生まれながらに神を信じない神に背を向けて生まれ、育ち、大人になるだけではない、自らでも聖書の言葉もイエス・キリストも見出すことも、信じることもできない。そして、神の創造の時の御心を一つも行えず、自らでは、神の戒めの第一の戒め、心をつくし、思いを尽くし、精神を尽くして神を愛することができない、そればかりではなく、隣人さえを愛することできない存在です。隣人を愛していると思っているようで実は、自分自身しか愛することができないことに気付かされる存在。それは私自身が、聖書の律法に照らされるときに、刺し通される自分自身の惨めな姿であり、救いようない罪人は私自身です。
しかし、皆さん。神の計画は、そんな罪人を滅ぼすことでも見捨てることでもありませんでした。事実、創世記3章、イエス様は、すでにアダムの堕落の時から女の子孫が悪魔を滅ぼすとも約束しておられましたが、その約束の通り、堕落した罪深い女の子孫の罪人の系図の先に、ヨセフとマリヤがいます。その二人の罪人の間に、約束の通りに、女の子孫を、神は与えてくださいました。預言者の約束の通り以上に、その神の最初の約束の通りに、その神の言葉は、実現しました。その通りに、罪人の間に生まれ、その救い主は、罪人の間に育ち、罪はありませんでしたが、罪人と一緒に食事を、友となり、そして、その罪とその結果である、苦しみ、悲しみ、絶望、そして何より死を背負って、つまり、それは私たちが負わなければならない全てのものをその身に負って、私たちのために十字架にかけられ死なれるでしょう。その十字架のために、つまり私たち一人一人のためにこの御子は生まれるのです。「この子は自分の民を罪から救うからである。」とある通りに。その身代わりの十字架のゆえに、私たちの罪が赦されるため、そして罪赦され、義と認められ、私たちの義ではなくイエス様の義を受けて、そして、復活の新しいいのちによって、今日も私たちが新しくされ平安のうちにここから出ていくことができるためです。
私はクリスチャンホームで生まれ育ちましたが、先日、年老いたクリスチャンの母から電話があり、母は色々な不安や恐れに生きる中で、それは人間ですから当然あるのですが、あるクリスチャンから、「信仰者なんだから、もっと一生懸命、心配しないで、熱心に信じないと天国に行けないよ」と言われので、自分は天国に行けないのかと不安になっていると話してくれました。私はそれを聞いて切なくなりました。皆さん。そういう考えや励ましは間違いであり福音を律法に混同し歪めています。皆さんは心配しないでください。皆さんは確実に天国に行けます。なぜなら、私たちの何かではなく、神の約束、神のみ言葉によって信仰が与えられ、人の名前ではなくキリストの名で洗礼を授けられ、その私らちを新しく生まれさせたイエス・キリストの福音によって、今日も明日もいつまでも、日々悔い改める私たちに、イエス様が、その十字架と復活のゆえに「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださるからです。救いの確信は、私たちが律法を一所懸命、自分の力や理性で実現するから確信があるのではありませんし、それでは一生確信はありません。救いの確信は、イエス様の揺るぎない、朽ちることのない、真実のみことば、約束、福音のゆえです。今日もイエス様は悔い改めを持って主の前にいる一人一人に、この十字架のゆえに言ってくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ救いの確信を持って、安心して、今日もここから遣わされて行きましょう。
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12月6日はフィンランドの独立記念日。毎年その日のニュースに必ず出てくるのは、 「あなたにとって独立は何を意味しますか?」と聞く街頭インタビュー。老若男女問わず必ず返って来る答えは「自由」である。この「自由」は、外国の支配からの自由だけではない。国内で自由と民主主義の体制が守られることも意味する。フィンランド人は第二次大戦で両方の自由を守ったという自負が強くあるのだ。(そう言うと、あれっ、フィンランドは枢軸国ではなかったの?と疑問に思う人が出てくるかもしれない。フィンランドは実は戦時中も国会は社会主義政党から保守党まで揃う議会制民主主義が機能していた国だったのだ。そんな国がなぜ後半はナチス・ドイツ側に立って戦うことになってしまったかについては、国際政治史の専門家に聞いて下さい。私も少しは説明できます。)
この自由を守ることは国民の義務で、場合によっては武力を用いてでも守らなければならないということを示すのが徴兵制である。パイヴィの兄弟姉妹たちの男の子たちも高校を卒業すると皆、大学入学前までに当たり前のように兵役を済ませていた。二重国籍の息子にも”召集令状”が来たが、障害があるため医師の診断書で免除となった。女性は志願制だが年々増加しているという。予備役の再訓練の参加率も高まっていて、2014年のロシアのクリミア半島併合以来の傾向だと聞いた。
ところで、キリスト信仰者が銃を取ることは許されるのだろうか?国教会の堅信礼教育で十戒を教える時に問題になるところだ。第5戒「汝殺すなかれ」。教師を務めた時、私はいつもその項目の担当を外してもらった。フィンランドの中学2年の子供たちに外国人の私が、銃を取って宜しいとか、逆に兵役は罪を犯すことになるとかとても言える立場ではない。
最初の堅信礼合宿の時、この問題で牧師と夜遅くまで話した。彼は次のように自分の立場を説明した。ローマ13章などにあるようにキリスト信仰者はこの世の権力に従うことを基本とする。ただし、使徒言行録4章19節などにあるように、神の言うことと権力の言うことが対立したら聞き従うのは神である。第2次大戦はフィンランド国民にとって、まず権力が銃を取るよう命じたので従ったという面がある。それと、敵国のソ連という国は、もし占領されてしまったら信仰の人生が不可能になってしまう相手であったという面がある。彼は授業でも、自分はこのように考えていると、押し付けるのではなく自分の考え方を紹介する仕方で子供たちに語っていた。僕はこう考える、あとは君たち自身で考えてみてくれ、という具合に。そうは言っても、牧師の説明はフィンランドのキリスト信仰者の間では広く共有されていると思う。
しかしながら、フィンランド国民の90%以上が国教会に属していた時代はもう過去になってしまった。私が牧師の話を聞いた頃はまだ80%台だった。昨年は66%まで落ちた。生まれてくる子供の洗礼率も今では半分位だそうだ。この傾向が続けば2040年には国教会の所属率は50%を切るということだ。兵役の是非を考える際にかつてのように信仰と関連づけて考えることは、もう一般的ではないのかもしれない。それでは彼らは今、何に関連づけて何に拠って考えるのだろうか?かつては神のみ言葉が価値でそれを自由と民主主義が保証していたのが、今は自由と民主主義自体が価値になったということか?
「あなたこそ来るべき方、メシア」 2022年12月11日
マタイ福音書11章2~11節
今日の福音書は、バプテスマのヨハネとイエスの活動についての話です。どういう場面かと言いますと。マタイ11章2節でわかりますが。「ヨハネは牢の中でキリストのなさったことを聞いた。」とあります。ヨハネは、今獄中に入れられています。なぜ獄中に捕らえられているか、ということを先ず簡単にふれたいと思います。マタイ14章3節を見ますと、領主ヘロデは自分の兄弟フイリポの妻であるヘロディアを自分のものにしようと夫のフイリポを戦場に出して戦死させた。そしてヘロディアを自分の女にしたわけです。こうした人道から外れた事をローマ帝国の領主たる者が衆知の中で、やっている事が許されることではない、と厳しくヘロデ王を咎めたために投獄されたわけです。ところで、2節~3節のところを日本語訳のまま読んでみますと、バプテスマのヨハネが獄中から、まるでイエスを疑って弟子たちをイエスのもとに行かせて「来るべき方はあなたでしょうか、それともほかの方を待たなければなりませんか。」と質問しているかのように読み取れます。このことが昔からここは福音書の中でも最も難解な箇所の一つであると言われました。2節を見ますとマタイはこう書いています。「さて、ヨハネは獄中でキリストの御業について伝え聞いた。」とあります。これまで、バプテスマのヨハネという人は人々に「来るべき方」を紹介するという特別な任務を神様から授かっている預言者でありました。彼は神の啓示に従って「イエスこそ待望のメシアである」と人々にも弟子たちにも紹介してきました。ところが、その後ガリラヤの領主ヘロデの怒りにふれ投獄されてしまいました。
この事については「ユダヤ古代史」を書いたヨセフォスという人の記録にもあります。それによるとバプテスマのヨハネが入れられた牢獄はヨルダン川の東にあるぺーレアという所にありました。そこは深い谷で囲まれた死海の海面から1200mもそびえる山の頂にある天然の砦であった、と言われます。まだ30才の預言者ヨハネは囚われの身となって死海の彼方に広がる山々を見ていたにちがいありません。その彼の耳にイエス様と弟子たちの活動の様子が伝えられていたのです。
マルコ福音書6章19節によると、ヨハネを捕らえて殺そうとした張本人は領主ヘロデの不義の妻であるヘロディアでありましてヘロデ王の方は「ヨハネは正しく聖なる人である事を知って彼を恐れ彼に保護を加えていた。」とあります。ですから「獄中」とは言え彼にはかなりの自由な弟子との連絡が許されていたようです。そうした事からイエスの活動ぶりが逐一報告されていたものと思われます。報告を聞いてヨハネはどう思ったでしょうか。自分は山の中の獄に捕らわれているのに対して、自分が「この方こそメシアだ」と世に紹介したイエスが眼下に広がる湖の彼方で活動している噂を聞いて預言者の胸中はどのようなものだったでしょうか。聖書はそれをドラマチックに描き出してはおりません。ただ一言「来るべき方はあなたなのですか、それとも他に誰かを待つべきでしょうか。」という彼の言葉が記録されているだけです。ここのこの言葉についていろいろ想像がめぐらされてきました。第一には、ここをそのまま読んで獄中のヨハネも余りの辛さに短気を起こし救い主の救いを待っていたが、もう我慢できないと、あなたなどメシアでも何でもないと、弟子たちを遣わして確かめたかった。という説です。預言者も現実の苦しみの前には信仰を捨て始めたのか・・・・というのです。しかし、これは聖書が預言者ヨハネのこの世に於ける働きの意義を重要な使命と教えている、ところから見るとそうは思えない。また、信仰を捨て始めたなどとはとても考え難いことです。例えば使徒言行録13章24節~25節を見ますと、彼の働きをこう要約しています。24節にヨハネはイエスがおいでになる前にイスラエルの全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。そして、自分の事をヨハネはこう言いました。「私を何者だ、と思っているのか。私はあなた方が期待しているような者ではない。その方は私の後から来られるが、私はその方の足の履物をお脱がせる値打ちもない。」ここに引用されているヨハネの言葉は福音書では、彼の預言者としての開口一番のメッセージとして記されているものです。それ以後ヨハネが殺されるまでの年月はほんのわずかしかありませんでした。そうして見るとヨハネのメッセージは預言者として登場してから死ぬまで首尾一貫して同じであった。それは、私の後にくる方「イエスこそメシアである。」と力強く叫んでいます。それがヨハネでありました。ですから今獄中にあって「来るべき方はあなたなのですか、それとも誰かを待つべきでしょうか。」とイエスを疑って本当かどうか聞いて来いと弟子たちに言うはずがない。ヨハネがそんな不信を抱くような事はないのです。
次にもう一つの見解があります。これは殆ど古代キリスト教の学者たちの説です宗教改革者のカルヴァンもこの見方です。これによると”ヨハネの信仰 ”はびくともしなかったがヨハネの弟子たちはいつまで経ってもメシアに従って行こうとしない。捕らわれの身にあるヨハネを慕っている。それで弟子たちに従わせるため彼らをイエスのもとへ遣わしたのだ、という説です。この説に対して反論がありました。ヨハネの弟子たちがこんな形でイエスのもとへ行ってしまったという例はほかにない。つまり、この説で言っているようにヨハネの意図したように弟子たちがイエスについて行ったでしょうか。さて、第三の見解があります。これが近代と現代の殆どの学者たちが辿り着いた説と言われます。神の啓示によってヨハネは「イエスをメシアである。」と紹介したのに今頃になって、その啓示を疑うはずがない。そこでヨハネがイエスを理解していたメシア観は木の根元に斧を振り下ろす審き主のメシア、蓑を以て、麦と殻とを分け殻を火で焼き滅ぼす審きのメシアという信仰であった。そこで、彼はそのメシアがあの領主ヘロデ夫妻を審いてくれるにちがいない。今は捕囚の身であるけれども正義を貫いている自分を救ってくれるにちがいないと期待していた。ところが、実際のイエスは憐みの業と福音伝道ばかりに熱中していて一向に審きを行おうとはしない。それで、ヨハネはイエスがメシアであることの事実は疑いはしなかったが、メシアの性質を考え違いをしたために、痺れを切らした。と言うのです。
しかし、ルカ福音書7章21節によれば「その時、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々を癒し、大勢の盲人を見えるようにしておられた。」とあるように、ちょうどヨハネの弟子たちが来た時イエスはその憐みの業の真っ最中だったが、それを見られても恵みと憐みのメシアとしての姿を示された。そして、憐みのメシアである私に躓かない者は幸いである、とも言われている。そこに、忍耐を求めておられるのでありました。
これらの第三の解釈が大方の見方であります。ところで、第三の見方についてもいくらかの疑問がある、という点を注意してみたいところであります。一つには2節で言われている弟子たちの情報からヨハネが獄中で聞いた「キリストの御業」と言っていますが、ここでヨハネはイエス様のなさっている事を、救い主メシアらしからぬ御業と誤解したのでしょうか。いや、そうではないヨハネ自身はイエスのなさっている働きを「キリストの御業」と理解して聞いていたであろうと思われます。次に、ヨハネの聞いた報告はヨハネの信じていたメシア観から見て期待外れのつまらぬ報告だったのでしょうか。その答えは、マタイの記す前後文からわかります。20節でイエスは数々の力ある業がなされたのに悔い改める事をしなかった町々を呪っておられます。イエスの御業はそれらの町の人々が見てはっきりとメシアの到来を認めねばならぬはずの「力ある業」だったのです。この事はルカ福音書の方でも記しています。ヨハネが弟子たちをイエスのもとへ派遣する前の事です。そこには、死人を生き返らせた大奇跡を記しています。その奇跡の結果、人々は皆恐れを抱き「大預言者が私たちの間に現れた」と言っているのです。また「「神はその民を顧みてくださった」と言って神をほめたたえた。イエスについてのこの話はユダヤ全土及び付近の至るところにも広まった。、これ程の業をイエスがなさって皆知っているわけですからヨハネの弟子たちもこれらの事を全部牢獄の中にいるヨハネにも報告しているわけです。だから、ヨハネは獄中で「なんだ、まだグズグズしてメシアらしい力を表さないのか」という思いで聞いてはいないのです。むしろ、メシアの力ある業を聞き「神がその民を顧みてくださる。」そういうメシアの時代が来た、と人々も認めている。こうした嬉しい報告を聞いているのです。
次に、ヨハネは果たしてメシアを審き主とだけ期待していたのであろうか。マタイ福音書3章7節以下を見ますと、バプテスマのヨハネの始めた頃はヨルダン川で洗礼を授けていた時「悔い改めよ」と叫んで「私の後に来る方は火で焼き払われるぞ」と審きのメシアを叫んでいましたが、後では変わっています。マタイ福音書3章13~17節を見ますとわかりますがイエスがヨルダン川にやって来られてヨハネから洗礼を受けられた。そのお姿は罪人の如く悔い改めてバプテスマを受けようとされるメシアです。へりくだった恵みのメシアです。そこで天から御声があった。「これは私の愛する子、私の心に適う者である」と。ヨハネはこういうメシアであるイエス様を充分知っているのです。だから、獄中からヨハネは審き主としてのメシアの力を発揮して「早く閉じ込めている領主ヘロデを審いて滅ぼしてください」といった考えは持っていないのです。こうして、イエスの返事は4節にあるように「行って見聞きしている事をヨハネに伝えなさい。」目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、思い皮膚病に患っている人々は清くなっている。耳の聞こえない人は聞こえるようになり、死者は生き返り、貧しい人々は福音を聞かされている。これら全部の事実こそメシアに相応しい印なのだ、ということです。そうして、イエスは言われる。「ヨハネこそ、あなたはこの私を『ナザレから出たメシア』だと紹介し続けてきた。この点で私に躓かない者であり、幸いなものである」と言っているのです。ですから、イエスの返事はヨハネに対する全面的な祝福と賛同の気持ちに満ちているのです。ヨハネのもとから遣わされた弟子たちはイエスの言葉に満足して帰ることができたでしょう。ヨハネの理解とイエス様の返事とは共にいまイエス様がしておられる恵みの業と力あるメシアの働きとを観る点で一致したのです。
さて、最後に11章3節にあるヨハネの言葉は今の日本語訳で、そのまま読めばどうしても疑問文です。そのことがどうしてもひっかります。実は、聖書学者の研究によれば、ここのところのギリシャ語原文は疑問文にはなっていない。そして、「たずねさせた」という文も原文にはない。というのです、むしろこの文章は力強い肯定文或いは断定文として訳したい構造になっている。これをありのまま訳すと「あなたこそ、かの来たるべき方です。それとも、我々は他の人を待っているべきでしょうか。いやいや、あなただけだ」と訳すのが一番自然と言われます。今日の聖書の箇所は難解でわかり難い面もあったかと思いますが、要するに結論的に申しますと、バプテスマのヨハネが預言者としての大切な働きをし、彼の人生の終わりが近づいている中でイエス様の活動をメシアの力ある御業として聞き、喜んで使者を遣わしイエス様に対する祝辞と力強い応援の声を送った、ということであります。ここには、メシアを民に紹介したヨハネとメシアであるイエス様との間に取り交わされた「祝福」と「賛美」にあふれたものであったのです。「イエスこそ神の子、救い主メシアである」とメシアの伝道を一筋に書いてきたマタイにとって、最高にうたいあげているメッセージであります。獄中にあってもヨハネにとって生涯の終わりまでメシアを指してきた、この働きは預言者ヨハネの最も輝かしいクライマックスでありました。
人知では、とうてい測り知る事のできない、神の平安がキリスト・イエスにあって守るように。> アーメン
聖句 ヨハネによる福音書1章4ー5節
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
フィンランドの信仰ある人たちの祈りは、他の人のために祈るということだけでなく、 もし自分に何かあれば祈りの課題を他の人に伝えるということを当たり前のようにします。牧師にだけでなく信徒同士でそうするのです。課題を伝えられた人は、信頼の表れとして感謝して受け取ります。伝える人も相手に負担にならないように細かな状況説明はせず簡潔に課題を伝えることが普通と思います。受け取る側も簡潔さの中に大きな真実があるとくみ取って全ては父なるみ神がご存じであることでよしとして立ち入らず、神のみ前にヘリ下って祈りにまい進します。
課題を伝える人が祈る前に詳細を知ってほしいという場合もあります。その時は「魂ケア」の出番となります(「魂ケア」については9月25日付け週報コラムをご覧ください)。
最近スオミ教会の中で、生活にいろいろ困難が生じて礼拝にも集えない状態になったにもかかわらず、祈りの課題をあえて託さないということが一度ならずありました。いろいろ考えさせられました。一つには、キリスト信仰者が「お祈りします」と言うのと日本語の挨拶言葉「~をお祈り申し上げます」の区別がまだ出来ていないことがあるのではと思いました。日本語の挨拶は言う人の願いの表明で、言う人と言われる人の間の事柄に留まります。キリスト信仰の祈りは、「父なるみ神には、私の方からもお伝えし解決をお願いしておきます」という、神へのへりくだった取り次ぎです。自分で解決するから構わないでという態度は、神へのへりくだりがまだ身についていないことの表れではないかと思います。
もう一つには、コロナ禍で礼拝をオンライン化したため、教会に来なくとも礼拝をフォロー視聴できるようになったことも影響していると思います。人と直接顔を会わせず声も聞かないでいると、自分がイエス様を頭とする体の中の部分(他より優れているところがあるかもしれないが実は劣っているところもある)であることの実感が薄れていくのではないかと危惧しています。
11月の手芸クラブは晩秋にしては暖かい風の吹く陽気の中での開催でした。
今回の作品は先月と同じ、マクラメのクリスマスの飾り物です。初めに飾り物のモデルを見て自分の作りたいものを選びます。今回初めて参加された方はクリスマス・リースに興味を持ってそれを選びました。他の方たちはクリスマス・るのではなく、馬小ツリーと星です。まず、全部の作品に必要な糸の長さを測り、それから結び始めます。今回はマクラメの三つの基本の結び方を用いました。
クリスマス・リースは、リングの上にマクラメを結んでいきます。すると、マクラメは自然にねじれていきリングをどんどんカバーします。結んでいくとだんだん速くなって、リングはあっという間に薄緑のマクラメに覆われました。その次はリースの飾りつけです。赤いリボンを付けて可愛らしいクリスマス・リースが出来上がりました。
クリスマス・ツリーは、初めは二本の糸でスタートしますが、糸をどんどん増やして行くとクリスマス・ツリーの形が見えてきました。途中で可愛いらしいパールで飾りつけをして素敵なツリーの出来上がりです。
星は、初めは小さいリングに糸を沢山結びます。それから新しい結び方で結び始めます。糸が多くて最初は結ぶのが少し大変でしたが、慣れると星の形が少しずつ見えてきました。星も可愛いらしく出来上がりました。
参加者の皆さんはマクラメのクリスマス・飾り物にとても興味を持って作られたので時間が経つのを忘れるほどでした。あっという間にコーヒータイムになった感じでした。モニターから映し出されるフィンランドのクリスマス音楽を聴きながらコーヒーとフィンランドの菓子パン・プッラを味わいました。少し歓談の時を持ってから聖書のお話がありました。
皆さんの今年のアドベントとクリスマスの期間が心に残る良い時となりますように!
今日マクラメのテクニックを使って作ったものの中に星もありました。私は二つの違った作り方で星を作りましたが、ネットを調べて見ると、マクラメの星の作り方はまだいろいろあります。来年は新しいテクニックを使って可愛いらしい星を作ることが出来たらと思います。
星は夜空に輝く天体です。多くの人たちは夜の星空を見るのが好きです。フィンランドでは冬寒い夜空に輝く星はたくさん見えるので、星座を見つけるのが面白くなります。特によく知られている七つ星の星座、北斗七星を見つけるのは楽しいです。皆さんはそれを見たことがあるでしょうか。
星はクリスマスの飾り物にもなります。教会のカレンダーではこの間の日曜日からアドベント、日本語で待降節という季節に入りました。その前の日曜日に教会ではクリスマスの飾り付けをして玄関のドアに木製の星を飾りました。星の中にあるランプの明かりが本当の星の光のように輝いて教会の前を通る人たちにクリスマスが近づいていることを知らせる光になるように願っています。キリスト教会で言われる「クリスマスの星」にはとても大きな意味があります。「クリスマスの星」というのは、世界で一番初めのクリスマスの時にベツレヘムというところに現れた星を意味します。それはどんな星だったのでしょうか。
救世主の誕生ということが旧約聖書に預言されていました。それで多くの人々はそのことが起こることを待ち望んでいました。一番初めのクリスマスの少し前に遠い東の国の占星術の博士たちは不思議な輝きをする星を発見しました。彼らはこれを新しい王様の誕生の印だと考え、はるばる今のイスラエルの地まで旅をして、首都のエルサレムまでやってきました。そこで、その時に王様だったヘロデに言いました。「新しく王になるためにお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」ヘロデ王はとても驚いて、自分に地位が危なくなると心配しました。ヘロデ王は旧約聖書の専門家たちを集めて預言について聞きました。すると彼らは、救世主はユダヤ地方のベツレヘムに誕生するという預言があることを教えました。ヘロデ王は東方の学者たちを呼んで、その子供を見つけたら知らせるようにと言いました。自分も子どもを拝みに行きたいなどと言いましたが、本当はその子を殺すことを考えました。学者たちは王の本当の考えを知らずに出発しました。すると、東方で見た星が再び彼らに現れ、彼らはその星を目指すようにして進んで行きました。それはあたかも星が彼らの先頭に立って進んでいるようでした。そうして彼らはベツレヘムの町に入りました。やがてこれ以上進まなくていいというところにつくと、そこには馬小屋がありました。学者たちがその中に入ると、赤ちゃんのイエス様が母マリアの膝の上で安らかに眠っていました。学者たちは目の前におられる幼子は一つの国を支配する者ではなく、旧約聖書に預言された世の救い主になる方だとわかりました。そのような方が王子様のようにお城で生まれるのではなく、馬小屋で生まれたというのは信じられないことでしたが、旧約聖書の預言や不思議な星の導ぎがあったので、これは天地を造られた神の御心だとわかったのです。
彼らはヘロデ王のところに戻って知らせなければと思いましたが、夢の中でヘロデ王のところに行かないようにという神様からのお告げがありました。それで彼らは戻らないで別の道を通って自分の国に帰りました。
クリスマスに飾られる星は、私たちにこの出来事を思い出させてくれます。この出来事は2000年前のことですが、2000年後の私たちにも大きな意味がある出来事です。東方の学者たちのように、私たちも世界で一番初めのクリスマスにお生まれになったイエス様の元に導かれることが起こるのです。それはどのようにして起こるのでしょうか?それは、聖書のみ言葉を読んだり聞いたりする時に起こります。聖書のみ言葉は私たちにベツレヘムの星と同じ役割を果たすのです。そのことについて聖書には沢山書いてあります。例えば詩篇の119篇105節には次のように書いてあります。「あなたのみ言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」。聖書のみ言葉は私たちが歩んでいる道をいつも照らし続けます。それに従って行けば、世界で一番初めてのクリスマスの意味、つまりイエス様はこの世の全ての人の救い主として生まれになったということが分かります。この意味を心で受け取ると心の中は平安で満たされます。
今年のアドベントとクリスマスが皆さんにとって神様が祝福される時となりますように。