ニュースブログ

牧師の週報コラム 

スオミ教会におけるSLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)の牧会と伝道について

今から10年近く前のこと、日本の教会関係者がフィンランドを訪問して牧師同士の交流の機会を持ちました。 まだ東日本大震災から間もない頃でした。日本の牧師がフィンランドの牧師に尋ねました。フィンランドの牧師たちは原発反対運動をしないのですか?していない、との答えに、日本側は、どうしてしないのですか?その聞き方が少し強い調子だったせいか、フィンランドの牧師は少しぶっきらぼうに「私の仕事は人間を天国に送ることだ。」日本側は、こりゃだめだ、という雰囲気になりました。

もちろんフィンランドの牧師も、牧師が原発反対運動をしてはいけないという意味ではなかったと思います。ただ、日本の牧師先生の言い方が、反対運動しないと牧師に値しないという雰囲気があったので、自分の本来の仕事はこれなのだという答えになったと思います。

「天国に送るのが仕事」などと聞くと、大抵の日本人は不気味な感じがすると思います。それは、日本人の死生観に復活の信仰がないからです。この世の人生は復活の日を目指して歩む旅路だと考えるキリスト信仰者にとっては別に変でも何でもなく当たり前のことです。

スオミ教会の牧師として、またSLEYの宣教師として、スオミ教会は聖書の御言葉を正しく教え聖礼典を正しく執行する教会であることを信徒の皆さんが信頼して繋がって下さることを願っています。確かにスオミは、ハレルヤ!ハレルヤ!と叫び合うような熱気はないし、また多くの教団のように社会改革の先頭に立とうとする教会でもありません(ここで、かつて政治学者の丸山真男が発表論文を本にまとめて「後衛の位置から」というタイトルを付けたことを思い出しました。自分は「前衛」とは違う立場であるということを表明したのでしょう。)

この激動の時代の中にあって、一人ひとり置かれた境遇は異なり向き合う課題は異なるが、将来の復活の日を目指してこの世を歩み、いろんなことに遭遇し悩み考えながらも、聖書の御言葉と聖餐から歩む力と勇気と愛を受け取る、信仰の兄弟姉妹と一緒に受け取る、そうやって一緒に復活の日を目指して歩む、それがスオミ教会なのだと考えています。この一緒の歩みを支えるのが牧会、この歩みに一人でも多くの方が加われるようにするのが伝道と考え、任にあたってまいりたいと思います。

  スオミ教会の新しいシンボル - 白樺の十字架

 

スオミ教会・子ども料理教室の報告

この秋最初の子ども料理教室は10月28日に開催しました。この日の朝も太陽が青空に輝き、清々しい気持ちで一日を迎えることができました。今回作るのはフィンランドのオートミール・パンです。

子ども料理教室は、お祈りをしてからスタートします。オートミール・パンはイーストで発酵させるので、今回は一つの生地は先に発酵させて準備したので、もう大きく膨らんでいました。それですぐパン作りを始めることができます。テーブルの上に置いた生地をお子さんが一生懸命こねて細長く丸め、それからパンの大きさに切っていきます。その後は楽しい形作りです。丸形、細長い形、お子さんの年齢から取った数字の6の形など、いろんな形のパンがあっという間に鉄板を一杯にしました。これから二回目の発酵をします。

お子さんはやる気一杯、自分でも生地を作ってみたくなったので、新しい生地を初めから作り始めました。材料をレシピの通りに測ってボールに入れて小麦粉を少しずつ加えていきます。お子さんは生地をこねるのがとても楽しそう。柔らかい生地の出来上がりです。新しい生地を作っている間に発酵させたパンは大きく膨らみました。それをオーブンに入れます。パンを焼いている間に上にのせるハム、チーズ、きゅうりのカッティングをします。

もう一つの生地も大きく膨らんだので、それもパンの形にして鉄板の上にどんどん並べていきます。ちょうどその時、オーブンがある台所からパンの香りが教会中に広がりました。パンにはきれいな焼き色がつきました。どんな味に焼き上がったのかな。

味わう前に聖書のお話「五つのパンと二匹の魚」のフランネル劇をみんなで一緒に観ました。イエス様はたった五つのパンと二匹の魚で5千人の人たちに十分な食べ物を与えました。イエス様はそのパンと魚を手にとって、天を見上げて神様に感謝の祈りをさざけました。すると、イエス様のお話を聞きに集まってきた人たちは皆お腹一杯に食べることができたのです。それだけではありませんでした。食べ残しを集めると12の籠が一杯になる位の量になったのです。神さまは私たちが思っている以上のことをして下さるというのがイエス様の奇跡の業であることがよくわかるお話でした。

フランネル劇の後、みんなで食前のお祈りをして自分で形を作った焼きたてパンを頂きます!パンを真ん中から二つに切って、間にマーガリンを塗ってハム、チーズ、トマトをのせてサンドイッチにしたり、二つに切ったパンのそれぞれの切り口にハム、チーズ、トマトをのせてオープンサンドにしたり、皆さんの好みに合わせて頂きました。美味しく食べながら、幼稚園の話や趣味の話など楽しい歓談の時を持ちました。こうして久しぶりの子ども料理教室で参加者の皆さんとおいしくて温かい一時を分かち合うことができました。

2023年10月29日(日)宗教改革主日 主日礼拝

説教をYouTubeで見る

ヨハネ8章31節〜36節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。今日のこの福音書は、イエス・キリストが、信仰とは何か、真理とは何か、そして自由とは何か、そしてそれがどのように私たちにあるのか、を私たちに伝えてくれています。それらの言葉はいずれも聖書では、救いに結びつく大事な言葉であり、また福音でもあるのですが、それが救いのための大事な福音であるがゆえに、悪魔が何より絶えず攻撃し惑わす言葉でもあり、人間の側で都合よく理解され、正しく理解されなかったり、歪められたりする言葉でもあります。

2、「問題提起」

A,「何を信じる信仰?」

 聖書の伝える「信仰」。それは何を信じる信仰でしょう。それはキリストは世界に政治的社会的な変革をもたらす救い主であるという「信仰」でしょうか?イエス様の時代にも、キリストはローマからの圧政から解放してくれる政治的なメシヤという期待がありました。あるいは、信仰とは、人間の側で律法や聖書の約束を精一杯行い実現し完全に果たせば救われ神に受け入れられるという律法としての「信仰」でしょうか?これもイエス様の時代には、ファリサイ派の人々やユダヤの宗教指導者たちはそう信じ、そう教えてもいました。8章の最初では、彼らはまさに姦淫の現場で一人の女性を捕まえて石打ちにすべきではないかと言っているように、守られないものは救われないし殺されなければならないし、そして守っている自分たちは救いに一番近いし、誰でも裁くことができると信じていたし、そうすることが彼らの「信仰」でもあり信じる救いでした。そのような理解は現代のキリスト教会にさえあり、福音や救いはまだ十分ではなく不完全であり、自分たちが約束やその未完成な福音を実現し果たすことによって福音も救いも完成させるのだ、それが信仰、救いであり、そのように信仰は律法であり、救いは人間の意志の力と努力による協力で人が完全に果たされなければならないのだという教会やクリスチャンも少なくなりありません。あるいは、もう単純に、人間中心の期待や願望の通りに実現するように信じる信仰、その通りになったら信じるというご利益信仰のような「信仰」という理解も多いことでしょう。しかし、そのような信仰がイエス様の伝える信仰なのでしょうか?

B,「聖書の伝える真理とは?」

 では、「真理」とは何でしょう。この相対主義的で個人主義的な傾向の強い現在は、真理という言葉は非常に立場の狭い言葉です。「真理は他者を排除するものだから、教会でもあまり言わない方が、あるいは強調しない方が良い」と教える教会やクリスチャンは沢山あります。そして言うのです。真理は人それぞれ、多種多様なんだと。今日のところで「真理は自由にする」とあり、真理は救いに関わるものであるのですが、その真理も、そのような現代の世の受け入れられやすい風潮に従ってそのような多種多様な「真理」を聖書は伝えているんだと、人間に都合の良い解釈に変えてしまい、どんな宗教のどんな真理でも自由にするんだ、結局は登山口やルートが違うだけで、どの真理から登っても、同じ頂上の救いに至るんだと平気で教え信じる教会やクリスチャンもいます。しかし聖書の伝える真理とは果たしてそうなのでしょうか?

C,「聖書の伝える自由とは?」

 では今度は、「真理はあなたたちを自由にする」、その「自由」とは何でしょうか?これもさまざま理解される言葉です。自分中心で、自分の欲望の通り、好き勝手にできること、それが自由である、世の人々はそのように考えることでしょう。同じように、キリスト教会やクリスチャンの間でも、そのように好き勝手に感情のままに行動できること、聖書を解釈できることが自由だという人もいますし、あるいは、それに少し高尚な理由づけを加え、宣教や伝道、愛や隣人愛などを掲げて、その名の下に、しかし人間中心に、人間に都合よく、自由に聖書を解釈することや、自由に感じるままに感じ取ることが聖霊の働きなんだ、と非常に巧妙に、最もらしく聞こえるように自由を主張する人々もいます。しかしそれが聖書の言う自由なのでしょうか?

 このように、信仰、真理、自由、それらは、救いに関わる大事な言葉であるのに、このように多種多様に理解され多種多様に用いられ、かつそれが「人の前」では支持されてもいますが、しかし、それは「神の前」では、イエス様が「ああそうか、良かった」と喜ばれる状況では決してありません。なぜなら、イエス様は、今日のこのところで、そのような罪深い人間の風潮やトレンドとは真逆の、何を信じることが信仰であり、真理とは何か、その真理が自由にするという「自由」とは何なのかを、私たちに教えてくれているからです。

3、「「信じた」人々のその「信じた」とは?」

 今日のところの一節前の30節には、「 30これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」とあります。しかし、8章11節までの姦淫の女性の話の後にイエス様が教えていることは、12節からにせよ、21節からにせよ、かなり難解です。21節以下などは、イエス様だけが知っている、ご自分が今まさに十字架にかかって死ぬことや、そしてイエス様は父と一つであるという三位一体を示すようなことを伝えており、27節では彼らは「悟らなかった」とも記されています。さらには、今日の箇所の後の37節ではその「信じた」と言っている人々を指して「あなた方は私を殺そうとしている」とさえあるのです。ですから、ここに「人々が信じた」とあるのは、おそらく、革命者であるメシアをイエスに見ていた人々と同じように、あるいは、試しにきたファリサイ派の人々ように、非常に表面的なものか偽りのものであったことでしょう。というより何よりも、人間は口でいくらでも「信じる」と口にできたとしてしも、イエスの示す真理には、罪深い肉の思いのままでは、自らでは決して理解することも到達することもできない人々の姿もまたここには表されているのです。

4、「イエスの言葉にとどまるならば:人の力ではない聖霊の力によって」

 そのような人々へです。31節、イエスは教えるのです。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

A, 「み言葉によって真理へ」

 まず教えられるのは、私たちは自ら、自らの力や意思では、決して真理を悟ることも到達することもできません。しかし、イエス様はここで、私たちがそのように自ら真理を悟り到達「しなければならない」ということも教えていないでしょう。つまり「私たちが自ら真理に至らなければいけない、そうでないと救われない、そのように自ら真理に至って自ら自由になりなさい」、というのが聖書の教え、イエス様の教えではないことがここにわかると言うことです。イエス様はそんな悟りの遅い、あるいは表面的な、打算的な信仰者であってもその彼らのためにこそ、そして、人は自らでは悟ることは決してできないからこそ、彼らに「わたしの言葉に留まるならば」と言う大事な言葉を言ってくださっているでしょう。「わたしの言葉をあなた方が自ら悟り理解したら、あなたたちは本当にわたしの弟子です」とは言っていません。「留まるなら」と言っています。英語のESVですと「abide in My word」とありますが、「abide」は我慢する、耐えるという意味の他に「住む」という意味もあります。そのように、イエスの教えることをそのまま聞き、そのまま受けとり、そしてそこに縋り、しっかりとしがみつき、イエスの言葉が心に住まい続ける時に、私たちの力ではない、そのイエス様の言葉とそこに働く聖霊によって「真理を知る」ようになるという恵み、イエス様のみわざをイエス様は教えていることがわかるのです。これはとても感謝な平安のメッセージです。この後見ていくように、真理は多種多様ではなく、イエスが与える唯一の救いの真理を伝えます。それが自由にする真理です。しかしそれは決して私たちが自ら得なければいけないということではないのです。人間の側で、頑張ってその真理を理解したらわかったら、救われるという律法をイエス様は決して伝えていません。どこまでも「わたしにとどまるなら」です。皆さん、真理を知ることは律法ではありません。真理は、イエス様のみ言葉にあり、イエス様の教えにあり、そこに留まり聞くことによって、イエス様が教え、悟らせてくださる恵みであり福音であるということなのです。

B,「何からの自由か?:誰でも罪の奴隷である」

 しかし次にその真理とそして自由です。それは、先ほども言いましたように、多くのそれぞれの真理があってどの異なる登山道を通っても結局は同じ頂上の救いに至るという多元主義者がいうような多種多様な真理のことをイエス様は言っているのではありません。32節「32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 と言った後、それを聞いていた人は、まだ目が開かれていません。むしろイエス様が言おうとしている「自由」の意味を、彼らは人間的な視点での自由でしか判断できません。33節

「33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」

 「誰の奴隷になったこともない」と、彼らは「自由」という言葉を、物理的な身体的な束縛以上のことでは理解できないのです。そして「なぜ自由になるというのか」と自分たちは何者にも束縛されていないかのように彼らは答えるのです。ちなみに彼らは物理的には実際はローマと皇帝と親密なヘロデに服従させられているのにも関わらず自由だと言っているのですから、その言葉が彼らの虚飾と自尊心で言っている「強がり」であることも窺い知ることもできます。しかしイエス様はここで、そのような物理的肉体的な束縛や奴隷状態のことではなく、むしろ「神の前」にあっては人は何の奴隷であり、そして真理は何から自由にするのかを、はっきりと教えます。

「34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」

 イエス様は、言います。罪を犯すものは誰でも罪の奴隷であると。ある人は言うかもしれません。「私は罪を犯していない」と。確かにここに聞いている人は、日本の刑法に触れることはしていないでしょうし、道徳に反することもしていない人であるかもしれません。しかしここでイエス様がいう「罪を犯すもの」はまさに神の前にある律法、十戒に照らしてあなたは罪を犯したことはないかを問うているのです。この8章の初め姦淫の女の出来事の7節ではイエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 と言った時に、律法学者たちやファリサイ派たちは「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい」ました。彼らは、表向きは立派で律法を守っていると自負する人々ですから、そのような犯罪とか犯したことはない人であったかもしれませんが、しかし、彼らも十戒に照らすときに、これまで全く背いたことがない、罪を犯したことがないとは誰も言えなかったのです。それはアブラハムの家の子孫だからと家柄や地上のいかなる権威でさえも抗うことのできない現実です。37節を見ると

「37あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。」

 そう、「信じる」といっているアブラハムの子孫である彼らのこれから成そうとする策略までも見通して、未来に至るまでも、あなた方は罪を犯さないものではないとイエス様は言っています。「信じると言っているあなた方が、わたしを殺そうとするのだ」と人間がいかに罪に縛られていて自由ではないかをイエス様は言っているのです。私たちも人の前では刑法や道徳に触れることはしていないかもしれません。「罪人だと言われても、私はそんなに悪くはない。そんなに罪罪、言わないでよ。気分が悪い」と言うかもしれません。しかし、誰でも、私自身も、十戒の前に照らし出されるときに、私たちも誰一人、姦淫の女に石を投げることができないものです。確かに行為として盗んでいません。殺していません。姦淫していません。しかし心の中の罪は計り知れません。そして何より、イエス様が十戒を要約して律法全体がこれにかかっているとして「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、神を愛しなさい、隣人を愛しさなさい」(マタイ22章36−40節)と命じていることを、私たちは誰も完全に果たせていると言える人はいません。神よりも隣人よりも自分が中心で、自分を何よりも愛するものです。創世記3章などの罪の根源である初めの人の誘惑に照らすなら、私たちは誰でも、神のようになれるという誘惑に負けて自分を神のようにする自己中心な存在ではありませんか。私自身がそのようなアダムの子孫である紛れもない罪人であり、まさに罪に縛られてどうすることもできない存在であることを認めざるを得ません。ヨハネはその最初の手紙1章でこのように私たちに教えています。

「8自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。〜10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」ヨハネ第一1章8節、10節

 私たちは罪人です。罪があるのです。罪の奴隷であるのです。ヨハネは罪がないと言うなら、真理も、神の言葉も、私たちのうちにはないと、今日のところに重なるように言っているでしょう。しかし、それは同時に、教えられます。私たちが神の言葉から、何に縛られ、何の奴隷であるかがわかるからこそ、その束縛から解かれなければならないことがわかり、だからこそ神の与えようとしている救いの真理がわかるようになる。その神の言葉が私たちのうちにあって真理に導いてくださるのです。そしてその時に、その自由は何であるのかも見えてくるでしょう。そう、イエス様が伝える自由は、人間が好き勝手に欲望のままに何でもできる自由では決してない。それは神とその言葉によって、罪の奴隷、罪の束縛から解かれ自由とされると言うことなのです。

C, 「イエスが伝える「真理」とは」

 さあ、その神がイエスを通して与える、罪の束縛から解放する「真理」は、皆さん、もう明らかでしょう。イエス様はそのために預言で約束され、約束の通りに世にこられ、そして初めからこのことを真っ直ぐと見て、教えてきたでしょう。そうです。真理とはこの私たちの罪のための贖いである十字架と復活に他なりません。イエス様はそのためにこの地上に人としてお生まれになります。イエスはただ、道徳的な模範なんだと教える教会もあるかもしれません。私たちが自分たちの努力や意志で律法に従い律法を果たし義となるための模範を示すために来たと。しかし、それでは誰も自由にしません。イエス様が人となられたのは、私たちの罪の奴隷からの解放であり、それはそのご自身の肉体に、私たちの底なしの罪と私たちが本来負わなければならなかったその罪の報いである死と罰を、代わりに受けることによって、神の前にイエス様が罪に定められる代わりに、私たちに罪の赦しを与えるためではありませんか。そのように神はこのイエス様の十字架にあって「あなたに罪はない。義である」と罪の赦しを宣言することによって、私たちを神の前にあって罪の束縛から解き放ってキリストにあって本当に自由にするためにこの真理を与えてくださっているのです。そして、その真理も自由もどのように私たちに来るのか?それは、どこまでも御言葉を通して与えられるのであり、み言葉を通して罪を認めさせられ悔い改めさせられ、そこで人は刺し通され痛みがあり絶望するのですが、それで終わりではない、まさにその時にこそこの真理、どこまでもイエス様がしてくださった一方的な罪の赦しをそのまま信じ受け取るだけで「あなたの罪は赦されている。安心していきなさい」とイエス様は宣言してくださるのです。先ほどの罪を示すヨハネの手紙の言葉にはこのような言葉もしっかりとあります。

「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(1章9節)

そして、第二の聖書日課の箇所ローマ3章24節でもパウロは教えています。

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」

さらには、パウロはその悔い改めも、信じる信仰さえも、そのまま受け取ることさえも、それは、私たち自らの努力とか行いとか意思の力とかによるものではないことまでも教えています。

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」フィリピ2章8−9節

5、「終わりに」

 みなさん、このみ言葉を通して、恵みによって真理を知る信仰が与えられ、その信仰によって誰でも自分の罪が赦され、罪の束縛から解放され、「あなたの罪は赦されています」「正しい」と宣言され、自由とされる。安心していくことができる。それはどこまでも一方的な神のわざ、神の恵みである。律法ではない、福音であるのです。

 昨今、この真理も自由も信仰も、人間中心に考えられることによって、律法か放縦か、いずれかに偏った聖書の教えがされます。しかし、それらは律法であっても放縦であってもいずれも人の行いに依存しているのですから、どこまでも福音ではなく律法による歩みです。個々の人間自らが一生懸命獲得する真理、自由、信仰であるか、あるいは人間が好き勝手に解釈していい真理、自由、信仰であるのか、いずれかです。それはどちらも間違いであり、イエス様が与えると言われた真理も自由も平安もありません。ルターの宗教改革運動も、当時の腐敗した、人中心の間違った教えから、真の神中心、キリスト中心の「恵みのみ」「聖書のみ」「信仰のみ」に立ち返り、真の真理、自由、信仰、そして平安を教会と人々に回復することでした。その改革の精神は、昔の単なるノスタルジーで今は関係ないことでしょうか?あるいは、現代風に新しく再解釈していくものなのでしょうか?そんなことはありません。今も決して失われてはいけないものではないでしょうか。私たちはいつでも永久に変わることも朽ちることのない十字架と復活の主イエス・キリストの言葉に立ち返り、すがり、留まることができ、聖書から「人が何を聞きたいか」ではなく「神が何を伝えているのか」を聞けることこそがクリスチャンの幸いでありいのちの歩みでしょう。その真理こそ今日も私たちを自由にするのです。そしてそのキリストが与える真理と自由に与るからこそ、私たちはルターが「キリスト者の自由」で「キリスト者は、あらゆるものの、最も自由な主であって、何者にも従属せず、キリスト者はあらゆるものの、最も義務を負っている僕であって、全てのもののに隷属している」と言っているように、真の自由と平安のうちに、今度はキリストの自由な奴隷として、本当に自己中心や自己愛などの罪な動機や思いに縛られないキリストの平安と喜びに満ちて、真に隣人に仕えていくよう用いられていくのです。

 だからこそ、今日も神の前に罪人であることを認めさせられ刺し通され悔い改めに導かれる私たちですが、だからこそ十字架と復活の福音の言葉を語り、「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と言ってくださるイエス様の声を聞き、自由にされ、平安のうちにここから遣わされて行こうではありませんか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

次回の家庭料理クラブは11月11日(土)13時の開催です。

pulla

今回はフィンランドの「クリスタル・コーヒー・ブレッド」を作ります。フィンランド語で「Kristallipulla」と言います。 バニラシュガーが沢山入っている「クリスタル・コーヒー・ブレッド」は多くのフィンランド人にとって最も人気のある美味しいコーヒー・ブレッドの一つです。フィンランドはこれから寒くなって気温が氷点下に下がると、木の枝の水滴が凍って水晶のように輝きます。トッピングのバニラシュガーが輝いて見えるのでこの名がつきました。

pulla是非ご一緒に作って味わいましょう!

参加費は一人1,500円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。

お子様連れでもどうぞ!

人数制限がありますのでご注意ください。

お問い合わせ、お申し込みは、
moc.l1771063119iamg@1771063119arumi1771063119hsoy.1771063119iviap1771063119 まで。
電話03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
www.suomikyoukai.org

 

手芸クラブの報告(2023年10月25日)

shugei

この秋の最初の手芸クラブは10月25に開催されました。10月の終わりなのに寒くなく秋の爽やかな朝にスオミ教会に集まりました。

今回の作品はかぎ針編みです。かぎ針編みのテクニックを使って作ったペットボトルや水筒用カバー、小物入れ、鍋敷きをモデル用に準備しました。最初にそれを見て参加者の作りたいものを選びます。今回は参加者の皆さんは小物入れに興味を持ってそれを編むことにしました。

shugeiまず、好みの色の糸を選びます。それからかぎ針編みの基本を思い出しながら作っていきます。初めは鎖編みでスタートして、それを丸くしてから1段から3段まで長編みと鎖編みの繰り返しをします。編んでいる内に四角の形になります。最後に四角の周りに小編みをして一枚目が出来上がりました。皆さんは可愛い色の四角を上手に2枚編みました。残りの2枚はお家で編んでもよいし、次回いらしたときに編んでも宜しいです。残りの2枚が出来てから小物入れになるように組み合わせをします。お家で仕上げられた方もいました。

今回は編み物に集中したためか、時間はあっという間に過ぎて、いつの間にかコーヒータイムになりました。そこでモニターから映し出されるフィンランドの秋の景色を眺めながらヴィヴァルディの「四季」の中から「秋」の演奏を聴き、コーヒーとフィンランドの菓子パン・プッラを味わいました。歓談の時を持ってから、フィンランドの「編み物会」やお祈りについてのお話がありました。

次回の手芸クラブは11月29日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

手芸クラブの話 10月28日「編み物会」

この間私たちのミッション団体の雑誌を読んだ時、フィンランドの教会の「編み物会」ついて面白い記事がありました。その記事について少し話したく思います。

shugeiフィンランドでは「編み物会」という教会の活動が1800年代後半にとても盛んになりました。会の名前は「編み物会」ですが、そこに集まった女性たちは編み物だけではなく色んな手芸もしました。女性たちは教会に集まって、手芸をしたり、いろいろ話し合ったり、コーヒーや紅茶を飲んだりして、聖書の教えも聞きました。この時代、多くの女性たちの生活は家に限られていたので、「編み物会」は女性たちにとって大事な社交の場になりました。「編み物会」は、ただ集まって楽しい時を過ごすことだけが目的ではありませんでした。この活動はもっと深い意味がありました。女性たちは「編み物会」で作った手芸品をバザーで販売して海外ミッションの為にお金を集めました。教会の海外伝道すなわちミッションを支えるという役割を果たしたのです。

フィンランドのルター派の国教会は、多くの宣教師をアフリカ、ヨーロッパ、ロシア、アジアに派遣してきました。この働きのためにはお金が必要です。フィンランドの教会ではクリスマスやイースターの前にバザーが行われます。女性たちはバザーで「編み物会」で作った手芸品を売って、得た収入をミッションのために寄付しました。このため「編み物会」の名前も「ミッション編み物会」とも言われます。

牧師のコラム

日本における牧師の権威

私とパイヴィが日本に派遣されたこの13年間、日本では牧師というのはキリスト教会の中では絶大な権威があることがよくわかりました。 以前、赴任していた教会で、牧師先生の聖書の教えがどうも良くなく、新奇をてらいたいのか、聖書で言われていることと明らかに関係ないことを関係あるように言われる。しかし、信徒さんたちは皆、「聖書のプロ」が言うことだから真理だと思って受け入れる。ある人は講義のごとく賢明にノートを取っている。本当に聖書はそんなこと言っているのかな?と疑問を抱く瞬間があっても、すぐああ、そういう理解の仕方もあるんだ、さすが牧師先生!と牧師の方を持ち上げてしまう。(また、人間味溢れることを示すためか、牧師同士や信徒と一緒に酒を飲むなど、権威のソフト面を怠らない人もいました。)

このような日本における牧師の権威を考えると、今回、牧師の按手を受けた者として聖書を教えるというのは大きな危険が伴うことをよく自覚しています。どうしたらいいのか?ルター派の牧師としてなすべきことははっきりしています。律法と福音の説教を続けるのみです。牧師の中には説教の中で罪に言及しなかったり、したとしても過去の遺物か、ただのお飾り言葉になってしまう人もいます。キリスト教徒になったとは言っても、私たちがどれだけ神の意思に反する存在であるか、それを心に思い起こさせることはせず、そのまま神の愛とか恵みとか言ってしまうのです。しかし、ルター派の律法と福音の説教は、自分がどれだけ神の意思に反する存在であるか思い起こさせた返す刀で信仰者の目をゴルゴタの十字架に向けさせます。その瞬間、信仰者はキリストの償いの業のゆえに罪の赦しは本物で、自分はそれを受けていると確信でき、これからは神に背を向けず神の意思に沿うように生きようという心になります。それが律法と福音の説教です。そういう心を生み出すことをせずに神の意思に従わせようとするのが律法主義です。

聖書の御言葉には耳障りのいい言葉だけでなく耳の痛い話も沢山あります。耳障りのいい話だけ集めて教えるのは確かに信徒さんたちの人気と信望を勝ち得る最短の道ですが、耳の痛い話があってこそ神の愛と恵みが本当に神的なものであること、人間的なものを越えているとわかる道です。まさにそれがルター派の説教が目指すところのものだと考えます。

———-

画像 brgfx on Freepik

説教「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に - あなたはどの死生観に立って生きるか?」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書 2章15-22節

主日礼拝説教 2023年10月22日 聖霊降臨後第21主日

聖書日課 イザヤ45章1-7節、第一テサロニケ1章1-10節、マタイ22章15-22節

説教をYoutubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに ― イエス様の言葉の歴史的背景

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」。この言葉は何かとても大きなことを言っていると感じさせます。一方はこの世の権力の頂点に立つ者、他方は万物の創造主である神。イエス様は私たちキリスト信仰者に、この世の権力と創造主の神という二つのものにどう向き合うべきかについて教えています。どう向き合うべきか?今日の説教は、そのことを明らかにしていこうと思います。

 まず、この言葉が出てくる原因となった質問を見てみます。イエス様に反対する者たちが聞きました。「皇帝に税金を納めることはいいことか、よくないことか。」私たちの新共同訳では「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているか、適っていないか」ですが、ギリシャ語の原文を見ると「律法に適って」はありません。そういう訳をしたのは、ひょっとしたらその言葉が入っている写本があるのかと思ってチェックしたのですが、どうも見当たりませんでした。それで「律法に適って」は翻訳者が勝手に付け加えたものと言えます。それを付け加えた気持ちはわからないではないですが、私はここは原文通りに付け加えない方が本来の意味のためによかったと思います。このことについては後でまたお話しします。

 それでは、どうしてイエス様の反対者はそんな質問をしたのでしょうか?ここには、とても大きな歴的背景が横たわっています。

 ユダヤ民族の居住地域は紀元前63年までにローマ帝国の支配下に入ります。ローマ帝国はこの地域を直接支配せず地域の実力者を通して間接支配します。民族の実力者にヘロデというユダヤ民族出身でない者がのし上がります。彼はローマ帝国に上手く取り入って王の地位を認められ、エルサレムの神殿を大増築してユダヤ民族の支持も獲得します。このヘロデ王はベツレヘムで生まれたばかりのイエス様の命を狙うことになる王です。ヘロデ王の没後、この主権を持たない王国は二人の息子に分割され、一人はガリラヤ地方の領主、もう一人はユダ地方の領主という具合に王から領主に格下げになりました。本日の日課の中にヘロデ派というのが出てきますが、ヘロデ王朝の支持者で、要はローマ帝国のお情けのもとで権力を保持できればいいという人たちだったと言えます。ユダ地方の領主が死んだ後、同地方は帝国から派遣された総督が直接支配するようになります。要所要所に異国の軍隊が駐屯して目を光らせています。帝国には税金も納めなければなりません。ユダヤ民族の完全な解放をもって「神の国」が実現すると考えた人たちにとって許しがたい状況でした。

 まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場しました。ダビデの子、ユダヤ民族の王がやって来た!と群衆の歓呼に迎え入れられてエルサレムに乗り込んできました。さぁ、大変なことになりました。ユダヤ教社会の指導層には盾をつく、群衆は民族の解放者として担ぎ上げている、あの男をこのままにしたら自分たちの権威が危うくなるだけでなく、ローマ帝国の軍事介入を招いてしまう、なんとかしなければと、そこで出てきたのが、皇帝に税金を納めてもいいのかどうかという質問だったのです。狙いは一目瞭然です。もし、納めてもよいと答えたら、群衆は、なんだこの男もヘロデ並みか、民族の真の解放者だと期待したのに皇帝に頭が上がらない臆病者だと失望を買って支持者は離反していくだろう。もし、納めてはならないと言ったら、その時は待ってましたとばかり、反逆者として当局に差し出してしまえばいい。まことに巧妙な質問でした。反対者も群衆も固唾を飲んでイエス様の答えを待つ緊迫した様子が目に浮かびます。

 先ほど反対者の質問はギリシャ語原文では「律法に鑑みて」という言葉はないと申しました。以上の背景説明からわかるように、質問は極めて政治的な内容のものです。律法に鑑みていいことかどうかという問題も含んではいますが、それを超えた意味を持っていることにも注意しなければなりません。それで、原文のように律法と無関係にいいか悪いかと聞いたというのが正解です。

 さて、イエス様の答えは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」でした。反対者も群衆もとても驚いた様子が目に浮かびます。税金を納めてもいいことになるのだが、しかし、皇帝に頭が上がらない臆病者には聞こえません。万物の創造主である神が出てきたからです。こちらの方が人間より格が上です。神を出されたことで皇帝も皇帝に納める税もちっぽけなものになってしまう、何か大いなるものの下に置かれたような感じがします。イエス様のこの答えは質問者を黙らせ群衆を驚嘆させましたが、彼らはちっぽけに「感じた」以上のことがわかったでしょうか?私は、イエス様の十字架と復活の出来事の前では「感じた」より先には進めなかったのではと思います。私たちは十字架と復活の出来事の後の時代にいますから、イエス様の答えの内容を詳しく知ることが出来ます。以下にそれを見ていきましょう。

 2.「神のもの」とは「神の国」に関わること

イエス様の答えに万物の創造主の神が出てきました。「神のものは神に返しなさい」というのはどういう意味でしょうか?「皇帝のものは皇帝に返す」というのは税金のことだから、「神のものは神に返す」は教会に献金を捧げることかなと考える人もいるかもしれません。しかし、そうではありません。まず、「神のもの」と言う言葉について見ると、ギリシャ語の用法では神の持ち物、所有物という意味だけでなく、「神に属するもの」というふうにもっと広い意味になります。そこで、このやり取りの流れを思い出すといろんなことがわかってきます。

 イエス様と反対者のやり取りは、その前にあったイエス様の3つのたとえの教えの続きとして出てきました。3つのたとえの教えとは、マタイ21章28~32節の二人の息子のたとえ、33~41節のブドウ園と農夫たちのたとえ、そして22章1~14節の王子の婚宴のたとえです。3つのたとえの教えで明らかになったのは、将来現れる「神の国」に宗教エリートたちは迎え入れられないということ、そのかわりに今罪びとと目されている人たちやユダヤ民族以外の民族がイエス様を救い主と信じて迎え入れられるということでした。

 少し脇道にそれますが、「神の国」について当時の人たちが思い描いていたものとイエス様が教えたものは必ずしも一致していませんでした。当時の人たちにとって「神の国」とは、将来ダビデの子孫が現れてユダヤ民族を異民族支配から解放し、神が直接支配する国を打ち立てる、そして諸国民は神を崇拝するためにエルサレムに集まって来る、そういう自民族中心史観の「神の国」でした。ところがイエス様の教えた「神の国」は、まず神の子が民族に関係なく全ての人間を罪と死の支配から解放する、そして、今の世が終わって新しい天と地が創造される時に神の子は再臨して、罪と死の支配から解放された者たちを「神の国」に迎え入れる、そういう神の人間救済計画のゴールが「神の国」でした。イエス様が教えた「神の国」が正しい理解だったわけですが、それがはっきりするのは彼の十字架と復活の出来事の後になってからです。

 当時の宗教エリートたちは「神の国」を正確に理解できていなかったとしても、それはユダヤ民族に約束されたものと考えていましたから、お前たちは排除されるというのは受け入れられません。3つのたとえを聞いた後、早くこの男を始末しなければと決めます。そこで、今度は言葉尻を捉えて当局に訴えてやろうと、やって来たのです。そこでこの皇帝への納税の質問をしたのです。

 さて、3つのたとえは皆、将来現れる「神の国」について述べていました。その延長上に今日のやり取りが来ます。このやり取りで、一方に皇帝というこの世の国の代表者、他方で神という「神の国」の代表者が対比されます。そういうわけで「神のもの」というのは「神の国」に関係するものであると気づかなければなりません。

 それと、「神のものは神に返す」と言う時の「返す」ですが、これもギリシャ語の動詞αποδιδωμιは「返す」だけでなく、「引き渡す」「譲り渡す」(例としてマタイ27章58節)という意味もあります。「返す」だけにとらわれると、お金の支払いに注意が行ってしまいますが、実は「引き渡す」、「譲り渡す」という意味も入ってるんだと意識して広く考えなければなりません。

以上を踏まえると「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」というのは、次のような意味になります。この地上の国のことは地上の国に服している。税金もそのようなものとして払ってよい。しかし、「神の国」にかかわることは地上の国には服さないので地上の国に引き渡してはならない、譲り渡してはいけない。「神の国」にかかわることを地上の国の思い通りにさせてはならない。イエス様の答えは、そういう地上の国の権威を超えるものがあることを予感させたのです。それでは、「神の国」にかかわることで地上の国に譲り渡さない、思い通りにさせてはならないこととはどんなことでしょうか?地上の国に譲り渡さないこととは、将来「神の国」に迎え入れられることであり、今この世で「神の国」に向かう道を歩んでいるということです。これらを地上の国に譲り渡さないということです。もし地上の国がその道を進ませないようにしようとしたら、それに屈しないということです。

「神の国」にかかわることとは、「神の国」に向かう道を歩むことである。このことは、イエス様の十字架と復活の出来事を踏まえてみるとわかってきます。これについてもう少し詳しく述べます。

 キリスト信仰者というのは、神のひとり子イエス様がゴルゴタの十字架で私の罪を全て私に代わって神に対して償って下さったのだ、だから彼は私の救い主です、と信じてそう告白する者です。信仰者はまた洗礼を受けたのでこの罪の償いが効力を発揮して神から罪を赦された者と見なされる者です。神から罪を赦されたということは、神との結びつきを持ててこの世を生きるようになったということです。神との結びつきの中で生きるキリスト信仰者は、私のようなもののために神はひとり子を犠牲にすることも厭わなかったと神を畏れかしこみ、これからは神に背を向けずにその意思に沿うように生きようと志向するようになります。

しかしながら、そういう志向が生まれても、それに反しようとする性向もまだ残っています。それでキリスト信仰者は二つのものの間に挟まれて生きることになります。しかし、信仰者が罪の自覚を持たされる度に、洗礼の時に信仰者の内に駐留するようになった聖霊がすぐ信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてくれます。そこで神は「わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪はあそこで赦されている。だからこれからは罪を犯さないように」と言って下さり、神と信仰者の結びつきは失われずにしっかりあると教えて下さいます。罪以外のことでも心が打ち砕かれて神との結びつきなどなくなってしまったと感じられる時もあります。その時も同じです。洗礼を通して与えられた神との結びつきは自分から脱ぎ捨てない限り消え去ることはありません。

このようにキリスト信仰者はゴルゴタの十字架に立ち返ることを何度も何度も繰り返しながら前へ進みます。目指しているのは復活の日に「神の国」に迎え入れられることです。そもそもイエス様の復活というのは、死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、その命に至る道を人間に開いたということです。キリスト信仰者はその道に置かれてそれを歩むようになった者です。

キリスト信仰者は十字架に立ち返りながら将来の「神の国」を目指し、その間はこの世でしなければならないことをします。仕事があればそれをし、なければ探し、世話をする人がいれば世話をし、戦う病気があれば戦う、それらを絶えず十字架に立ち返りながら「神の国」を目指します。その時、しなければならないことの仕方、姿勢も定まってきます。パウロが言うように、高ぶらない、自惚れない、悪を憎み、悪に悪に返さず、全ての人の前で善を行い、喜ぶ人と喜び泣く人と共に泣き、自分では復讐せず最後の審判の時の神の怒りに任せ、今は敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々、そういう仕方、姿勢でしなければならないことをするのが当然になるということです。

キリスト信仰者が十字架に立ち返りながら「神の国」を目指して進む生き方をする時、日曜日の礼拝はそうした生き方にとって心臓と同じ役割を果たします。礼拝で神の御言葉に聴き、神を賛美し祈りを捧げ、聖餐に与ると霊的な清い血液が全身に送り出されて、平日の日常の中で各自が置かれた場で十字架への立ち返りと「神の国」を目指す力になります。あたかも疲れて汚れた血が再びきれいにされて心臓から全身に送り出されるように、信仰者も礼拝を通して清められて新しい週に旅立っていくのです。

3.あなたはどの死生観に立って生きるか?

そういうわけで、キリスト信仰者にとって礼拝を中心にした信仰の生き方ができれば別に皇帝がいても構わないということになります。しかし、民主主義が人間にとってベストな政治体制と考えられるようになった現代、ローマ皇帝のような専制君主がいても構わないなんて言うのはなんだかはやりません。まるで、現在、世界各地で民主主義に挑みかける権威主義体制を擁護するように聞こえてしまうかもしれません。イエス様は専制君主や権威主義を容認したことになるのか?実はそういうことではありません。そのことがわかるために、少し逆説的に聞こえるかもしれませんが、ローマ13章の教えを見てみます。

 そこでパウロはこの世の権威や権力に従うべしと教えています。権力は社会秩序のために処罰を行う、だから権威を敬い、税金をしっかり納めるようになどと勧めています。権力者が聞いたらキリスト教徒はなんと物分かりがいい連中だと微笑むでしょう。しかもパウロは従う理由として、全ての権威は神によって立てられたなどと言います。これをローマの皇帝だけでなく後世のあらゆる支配者が読んだらみんな大喜びでしょう。パウロは、俺の権力が神のお墨付きと言ってくれたぞ、と。

 ところが、この「神によって立てられた」というのは大変な裏があります。支配者が神によって立てられたということは、支配者の上に神があることになり、神が望めば支配者はいつでもその座から滑り落ちることになります。このことは、本日の旧約の日課イザヤ書45章でもはっきり言い表されています。キュロスというのは、ペルシャの国王でバビロン帝国を滅ぼして古代オリエントの覇者になった人です。ユダヤ人ではない異民族の人なのに聖書の神が彼を覇者の地位につかせるというのです。なぜ神はそうするのかと言うと、バビロン帝国を滅ぼすことでイスラエルの民を解放して祖国に帰還させるという昔からの預言を実現するためでした。これは歴史上、実際その通りになり、バビロンを滅ぼした後キュロスは勅令を出してイスラエルの民の祖国帰還とエルサレムの神殿の再建を許可します。紀元前538年に祖国帰還が実現します。イザヤ書45章7節で神は「平和をもたらし、災いを創造する者」と言われます。ヘブライ語の原文を直訳するとそうですが、神は地上の権力者の上に立つという観点でみたら、ここは「神は国に繁栄をもたらし滅亡をもたらす方」と訳した方がいいと思います。

このように天地創造の神は、異民族の王を用いてイスラエルの民のために預言を実現させました。ただし、日課の個所にもはっきり記されているように、キュロス自身は自分を動かしている神を知らずに、これらのことを行いました。本人はあたかも自分の力で全てのことを成し遂げているつもりだったのでしょうが、実はそうではなかったのです。宗教改革のルターも、国や民族の興亡は全て神の手に握られていて、国が興隆して栄えるのは神が風船に息を吹き込んでふくらますようなものであり、神が手を離したら最後、空気は抜けていくだけで誰もそれをくい止めることはできないと言っています。それ位、権力者というのは最後のところでは神に手綱を握られているというのが聖書の観点で、パウロもイエス様もそれをお見通しなわけです。そうであればあらゆる権力者の上に立つ神がやはり本当の権力者となり従うべき方となります。

この世の権力に従うことと神の意思に従うことが衝突しなければ問題ないのですが、歴史はそうならない事例に満ちてしまいました。まず、ペトロとヨハネがユダヤ教社会の指導部の前に連れていかれ、イエスの名を広めたら罰を受けると脅されました。それに対して二人は「神に従わないであなたがたに従うことが神の前に正しいかどうか考えよ」と答えます(使徒言行録4章19節)。これがこの世の権力に従う時のキリスト教徒の基準になりました。やがて権力者が、信仰を捨てるか命を捨てるかの選択を迫って迫害が起こるようになります。この日本でも起こりました。

信仰の自由が基本的人権として保障される現代では、そのような選択を迫られることはないというのが大前提です。しかしながら、最近の民主主義国で起こっていること、特にインターネットやSNSを通してどんな意見や考えが多数派を形成するか危なっかしい時代では、信仰を守るということでも目を覚ましていなければならないと思います。その場合、信仰を守ると言う時に何を守ることが信仰を守ることになるのか今一度考えてみることは大事です。礼拝を妨害を受けずに守れること、これが大事なことは言うまでもありませんが、もっと深いところにも心を留める必要があります。何かと言うと、死生観です。

この説教でお教えしてきたことから明らかなように、信仰というのは死生観を持って生きることと言うことが出来ます。キリスト信仰の死生観とは、復活の日に眠りから目覚めさせられて、肉の体とは異なる朽ちない復活の体を着せられて「神の国」に迎え入れられる、そういうことがあるのでこの世の歩みはそれを目指す歩みになるということです。その歩みをする際、絶えず主の十字架に立ち返りながら復活の日を目指すという歩み方になります。これがキリスト信仰の死生観です。キリスト信仰者がこのような死生観を持って生きるのは、聖書を繙いて学んでそうなのだと確信したからです。信仰の自由の侵害とはつまるところ、その死生観をやめてこっちにしろ、ということです。

キリスト信仰の死生観を捨てさせようとしたり、別の死生観を持たせようとする動きがないか注意することはいつの時代でも信仰の自由を守る基本であると言えるでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

牧師の週報コラム

 ルターの聖句の説き明かしから

  フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」(1878年初版)から

「あなたは兄弟の目に埃があるのを見て、自分の目に材木があるのを気がつかないとは一体どういうことか?」
マタイ7章3節(フィンランド語の聖書からの訳)

もし君がしっかり目を覚ましているのなら、君くらいの沢山の罪を他の者に見出すことは決してない。他の者に沢山の罪、1年分ないし2年分の罪を見出すとする。ところが君は自分の内に一生分の罪を見出すのだ。特に他の人たちが知らない酷い行いに気づき、君は自分を恥じずべき存在だと思い知る。また、たとえ隣人の中に何か悪いものを見つけても、君は背を向けてはいけない。逆に、その人の良い面に目を向け、君が神から受けた賜物で助けてあげ、悪いものを覆ってあげて、その人に関することを良い方向に捉えてあげて、助言をしてあげなければならない。

たとえ君が最も敬虔な人間だとしても、他の者を裁くことで最も悪い者になることを知らねばならない。君は自分をおだてるために神から賜物を与えられたのではない。隣人が必要としている時に助けてあげるために与えられたのだ。君の力で隣人の弱さを支えてあげよ。君の敬虔さと栄誉をもって隣人の罪と恥を覆ってあげよ。神はキリストを通して君にそのようにして下さったのだ。今も毎日毎日そうして下さるのだ。もし君がそのようにせず、他の人たちを蔑むのなら、君は他の者の目に埃を見る時、実は神のみ前で大きな材木を目に入れた者であることを知るべきである。

zaimoku

家庭料理クラブの報告

夏の後のフィンランド家庭料理クラブは10月14日、秋の爽やかな気候の中で再開しました。今回はフィンランドの秋の季節に合わせてベーコン・キノコパイを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にパイ生地を作って冷蔵庫に入れておいて冷やします。次に中身の準備。参加者みんなでキノコ、ベーコン等を一生懸命刻みます。色とりどりの中身をすぐフライパンに入れて炒めると、だんだん美味しそうなキノコの香りが広がります。皆さん、どんなパイになるか興味が高まりました。中身を冷ましている間、トッピングの準備をします。材料を測ってボールに入れて混ぜて出来上がりです。そして、パイ皿に生地を伸ばしてその上に冷やした中身を載せます。その上にトッピングを流し込んで、最後にチーズをかけてオーブンに入れます。

パイが焼けている間、楽しそうにおしゃべりしながらグリーン・サラダの準備とテーブルのセッティングをします。オーブンから美味しそうな香りが広がると、皆さん興味を持って順番にオーブンの中を覗いてみていました。

ベーコン・キノコパイは焼き上がってからしばらく冷まします。皆さん席に着いて出来たてのパイを切ってお皿にのせてサラダと一緒に味わいました。たちまち「美味しい!」と言う声がテーブルのあちこちからあがりました。このパイをまさに秋の季節に皆さんと一緒に作って味合うことが出来て良かったと思いました。パイを頂きた後で、フィンランドの森のキノコと聖書の中にある種蒔き人のお話を聴きました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神様に感謝します。次回は11月の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

2023年10月14日料理クラブの話(キノコ)

フィンランドの森では、何百もの種類の食用キノコが育ちます。8月と9月はキノコ狩りの季節です。その頃、多くのフィンランド人が森にキノコ狩りに行きます。キノコを採るのを趣味にしている人も大勢います。秋の森は紅葉が美しく、涼しい季節なので蚊や蠅もいなくなり、森の中を歩くのはとても楽しいことです。キノコを採る際には、いくつか覚えておかなければならないことがあります。そのためにキノコ狩りの講習会も開かれます。

キノコを採るときは、雨の日ではなく天気のよい日を選びます。雨にぬれたキノコとカラッとした天気のキノコは見た目は違うし、雨に塗れたキノコは早く悪くなるからです。キノコを採りに行くとき、持って行く道具として、入れる物やキノコ狩り用のナイフも大事です。キノコをつぶさないためにカゴは大きめのものにします。キノコは、キノコ狩り用ナイフを使って地面から掘り出し、ナイフに付いているハケで土やほこりを落としてきれいにします。キノコは、バラバラにならないように、全体のままカゴに入れます。全体のままのキノコは、後で食べられるかどうか確認するために大事です。キノコを採るときにはいつも、食べられるかどうか見分けがつくものだけを採ります。

フィンランドは毒キノコの種類も沢山あるので、それを見分けるためにキノコのカイドブックがあります。キノコ狩りをする人たちは普通、ガイドブックを持って本を見ながらキノコを採ります。

アンズタケ

多くのキノコは調理をする前にお湯でゆでなければなりませんが、アンズタケはゆでないで直接フライパンでいためたり、ソースをかける料理の中に入れることができます。アンズタケは、フィンランドで一番おいしいキノコと言われます。もう一つとてもおいしいキノコはヤマドリタケです。これも、アンズタケと同じようにゆでないで直接調理に使えます。私の実家がある地域ではアンズタケとヤマドリタケはあまり育ちませんでしたが、アカチチタケは多くてそれをよく採りました。それは料理する前にゆでる必要があります。家ではアカチチタケのサラダをよく作りました。

キノコの収穫は年によって変わります。もし雨が多い温かい夏でしたら、キノコが沢山できます。フィンランドのことわざに、もし何かが沢山あることを言い表わす時、「きのこが雨の中で沢山できるくらいにある」と言います。

キノコが好きな人たちは、たくさん採って一年分くらい食べる量を保存します。キノコはどのようにして保存したらいいでしょうか?一番伝統的な方法は塩で保存することです。簡単なのは冷凍することです。他の保存方法は、ヴィネガー漬けにしたり、乾燥します。

私は、秋、森の中を歩いている時にキノコが見えると、いつも不思議な感じがします。それは、夏、同じ森を歩いている時、キノコはまだ何も見えません。しかし、夏の間キノコの胞子が土の中にあって、秋になるとキノコが土の中から出てきます。それは土にはキノコが育つ為に必要な栄養素や水分が蓄えてあるからです。森の中のキノコは人間が育てるものではなく自然に育つものです。しかし、本当はキノコや他の自然の植物も育てられるものです。誰によって育てられるのでしょうか?それは天と地と人間を作られた天の神さまが育てるものです。

私はキノコを見ると、イエス様が話された種の話を思い出します。それは、種まき人が一度種をまくと、あとはその人が知らないうちに種はぐんぐん成長していくという話です。

「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず、茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」。
マルコ4章27-28節

このたとえをよく見てみましょう。ある人が種を土に蒔きました。種は芽を出して成長し始め、茎、穂、そして穂に豊かな実を結びました。そうなったのは種を蒔いた人が肥料を与えたからでしょうか?いいえ、不思議なことに蒔いた人が知らないうちに種が成長していったのです。人が何もしなくてただ寝起きている間に土は実を結ばせたのでした。

イエス様はこのたとえで何を教えているのでしょうか?種とは、天の神さまのみ言葉です。神さまのみ言葉は聖書の中にあります。土は私たち人間の心を意味します。私たちが聖書のみ言葉を読んだり聞いたりすると、土に蒔かれた種と同じようにみ言葉が心に蒔かれます。神さまはみ言葉が蒔かれた心に成長を与えます。心の成長は、私たちの自分の力や努力で与えることは出来ません。天の神さまが、私たちの知らないうちに与えて下さるものです。このように私たちの心の成長は完全に神さまの働きです。神さまの働きがあると、私たちは神さまを信頼するようになって全てのことを神さまに委ねるようになります。この時、私たちは神さまのことをもっとよくわかろうとして聖書を読んだり、み言葉に聞いたりして神さまとの繋がりを強めます。神さまとの繋がりが強まると、心の中に喜びが生まれます。神さまも、私たちを導いてよい実を実らせるようにしてくださいます。

森の中を歩く時、キノコはどこで育つかは私たちには見えませんが、神さまはキノコの胞子があるところをご存じで成長を与えます。同じように神さまは私たちの心を知っておられ、聖書のみ言葉を通して私たちに心と信仰の成長を与えます。

 

2023年10月15日(日)聖霊降臨後第20主日 主日礼拝

 

<マタイ22:1~14>

「神の恵みを受けよ」   スオミ教会2023・10・15

「子供は国の宝」と言います。日本で、今その子供の数が減って、お年寄りばかり増えています。これでは将来、国を支える働き手が、もう大変な事になります。

――――――――――――――――――◇――――――――――――――――――

子供が減っている、という事は、若い男女が結婚することが少ない、結婚しても子供を育てる事が大変だから、という事でしょう。さて、今日の聖書では、イエス様が語られた「王の一人息子、王子の婚宴」の譬えです。「イエスは、また、譬えで彼らに語って言われた。天国は、一人の王がその王子のために婚宴を催すようなものである。」イエス様はマタイ福音書21章のところで、二つの譬えを話されています。そして、今度はそれに加えてまた、重要な天国について、別の角度から話されたのです。21章の二つの譬えでは、いわばユダヤ教の指導者たちパリサイ人、又サドカイ人たちに向けての、彼らの罪と罰を痛烈に批難されました。その一つが「悪い葡萄園の農夫たちが主人の僕たちを次々に殺し、最後には主人の一人息子まで殺してしまう、そこで主人は大変怒ってこの悪い農夫たちを全部、滅ぼしてしまうという話です。今度の王の婚宴の譬えは、王の招きを拒んでしまう者への罰です。前と違うのは特に新しい国民であるキリスト教会の在り方について詳しく示しています。今度の譬えで語られた「王」と言うのは神様のこと、「王子」はイエス・キリストの事です。「婚宴」とは、神の国の事、「招かれていた人たち」とは、ユダヤの民の事です。

そして、神はここでも、婚宴の用意をすべて一手に引き受けておられます。又、神はここでもまず「客を招き」実際の婚宴の時刻になると「僕たちを遣わし」断られても、ほかの僕たちを遣わす、と言うほどの忍耐と寛容を示しておられます。前の「悪い葡萄園の農夫」の譬えでもそうでした。遣わされた僕たちが殺されても主人は忍耐して、最も大事な1人息子を遣わすのです。神の忍耐と神の恵み、寛容の豊かさに関しては二つの譬えは全くおなじです。今度の譬えで二つの新たな真理を教えておられる。第一は、この譬えで神の国が「婚宴」という喜びの場に、たとえられている点で神の恵みは一層大きなものになっています。又、前の譬えでは、神の国は「葡萄園」であり、ユダヤ人は働き人でなければなりませんでした。今度の神の国は「婚宴」でありユダヤ人は飲み食い楽しめばよい。第二は、前の譬えの事件が起こったのは葡萄の収穫の季節でした。今度の譬えでは「王子のための婚宴」という時です。収穫の秋は毎年巡って来ますから、悪い農夫の代わりに別の新しい農夫に委託すれば来年からは、やり直しの余地があります。ところが王子の婚宴は毎年やり直しのきかない一度限りの目出度い時です。神の招きは充分準備も整えられて熱意に満ちています。神の並々ならぬ熱意です。従って、今度は派遣される僕たちも、すべてが整った終わりの時の僕たちです。さて、第三には、前の譬えの悪い葡萄園の農夫たちは、つまりユダヤ民族の指導者が中心でした。今度は神の招きを受けているのはユダヤ人全部です。そして、神の招きは楽しい、しかもやり直しのきかない婚宴の招きですから、これを拒むユダヤ人の罪は、前よりはるかに重く悪質になります。この譬えで、この招きを拒否した者どもの一つは、婚宴の招待を受けていながら、知らぬ顔をする者です。具体的には自分の畑に行かねばならないから、或いは自分の商売に出て行くので参りません、と言った態度です。つまり、王のことより自分の事を優先して考え、目出度い大切な婚宴を無視する態度です。もう一つは悪い農夫と同じく僕たちを侮辱し殺してしまう、という敵対的態度です。この両方の態度は同じで、どちらも王子の婚宴に来ないという点で王と王子への反逆を露骨に示す極悪人です。ですから、王は立腹し、軍隊を送って人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払ったのです。そうして王は更に僕たちに言った。「婚宴の用意は来ているが招かれていたのは相応しくない人々であった。だから、町の大通りに出て行って出会った人は誰でも婚宴に連れてきなさい」と命じました。そこで僕たちは道に出て行って出会う人は悪人でも善人でも、皆集めて来たので婚宴の席はいっぱいになった。これがこの譬えの第二幕です。言い換えますと神が用意した御国をユダヤ人が見向きもしないで、み心に応じなかった。それなら、異邦人に神の恵みを提供してやろうとされた。それは神ご自身の体面、神ご自身の栄光のためでありました。このように王の方針は大きく変わったのです。神の救いはユダヤの民に限らず異邦人の全世界へと広まるのであります。次に、この招きは悪人でも善人でも、みんな誰もが招かれているのです。イエス様は既に21章31節で「徴税人や遊女はあなた方より先に神の国に入る」と言われました。こうした悪人と言われる人たちさえ決して招きから除外されてはいない。どれほど罪と悪に沈んでいた人も、王の婚宴に来て王の喜びに加わる事によって、あの無礼な客たちよりも王を喜ばせ、王の誉れを上げる事が出来るのです。神様の招きはどんな民族であっても、或いはどんな肌の色の人種の区別なく、又、文化や習慣の区別なく、招かれている恵みの世界です。この招きと約束は誠実です。神の聖なる世界ですから。人生の旅路において通り過ぎないで、足をとめ、方向転換し、神の悦ばしい招きに応えて行く人生へと変えられるのです。

――――――――――――――――――◇――――――――――――――――――

さて、11節~13節を見ますと、婚宴の席はいっぱいになり、そこへ客として迎えた人々を見て、そこに礼服をつけていない一人の人を見て言った。「友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで此処へ入って来たのか」しかし彼は黙っていた。そこで王は、そばの者たちに言った。「この者の手足を縛って外の闇に放り出せ、そこで泣き叫んだり、歯噛みをしたりするであろう」。これが第三幕です。

13節で言われている「外の闇に放り出させ」とありますが、普通なら宴会場の外の闇と理解するでしょう。でもユダヤの宴会は必ずしも夜だけ開かれたわけではありません。平民でも婚宴は一週間ぶっ通しで行われましたから、まして王子の婚宴ならもっと長い間、昼も夜も徹して催されたでしょう。ですから「外の暗闇」というのが宴会場の外の庭や道を指すとは考えられない。むしろ、これは地獄の暗闇に落とされる、という怒りと審きの姿を表すところの慣用句でありました。この譬えの結果が教える厳粛な事実は審き日に列席者の中からはみ出される者がある、という事実です。確かに神はすべての人を招き、しかも誠実に熱心に招いておられる。しかし、では招かれればみな宴会の席に着けるか、というとそうではない、ということです。イエス様が特に選んだ使徒の中からさえ裏切り者のユダが出たではありませんか。この譬えで言われた「礼服」とは何を指すのでしょう。

7章21節には「主よ、主よ、と言う者がみな天国へ入るのではない、ただ、天にいます我が父のみ旨を行う者だけが入るのである」と言われました。18章3節には「心を入れ替えて幼子のようにならなければ天国に入る事は出来ないであろう」とあります。つまり「礼服」とは幼子のようにへりくだる謙遜さ、キリストを人前で言い表す信仰、律法学者やパリサイ人以上の義なる生活の全体ということです。言い換えると「礼服」とはガラテヤ書で言われている「キリストに合うバプテスマを受けたあなた方は皆キリストを着たのでる」そのキリストであります。又、エペソ書4章22節以下に「滅び行く古き人を脱ぎ捨てて心の深みまで新たにされ神にかたどって造られた新しい人を着るべきです。」この新しき人に変えられる事こそ王の前に礼服を着ることであります。婚宴の招きに応える人は王の客に相応しい「礼服」をつけ、新しき人を着ることであります。では「礼服」は何処で手に入れる事が出来るでしょうか。譬えの中ではその必要性が強調されるだけで、触れられてはいません。何故か当時の人々には分かりきっているからです。まず、この招きは婚宴が開かれる直前に僕たちが通行人を一刻の猶予もなく王宮へ直行させたと思われます。誰もが礼服など持っていません。礼服は王宮で王からちゃんと支給されたのです。この習慣は広く行われていました。ところが1人だけ礼服をつけていなかった。この人だけ王から与えられる「礼服」を拒否したのです。彼は招きに応えて神の家に来た、しかし神の威光の前に出るのに必要な与えられる恵みの賜物を拒んだのです。ともかく神の子の婚宴に出る必要な礼服をないがしろにしたのです。神の栄光を表すに要する賜物を無視する人は永遠の地獄の暗闇に放り出されるのであります。神は私たちに溢れるばかりの恵みの賜物を与えて下さっているのであります。その神の賜物と、この神の招きを受けるに相応しい人生を送ってこそ、神の喜び、祝福に預かる事が出来るのであります。

アーメン・ハレルヤ

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。