説教「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」木村長政 名誉牧師、マルコによる福音書15章33~41節

今日の礼拝は受難週の礼拝であります。主イエス様の十字架の上で叫ばれた言葉を中心に見ていきたいと思います。この福音書を書いていますマルコはイエス様の受難物語を、他のどんな記事よりも多くのページを割いて書いています。それは14章から始まって15章までマルコは約7ページに渡って書いています。この受難物語は、ちょうど十字架を背負われたイエス様の後を悲しみ、嘆きながらついて行った婦人たちのように、私たちも又み言葉を聞き、心を痛め叫び声を上げるほど心を暗くします。

ルカ福音書には23章27~28節にイエスは婦人たちに言われた。「エレサレムの娘たち、私のために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」イエス様が十字架を担いで行かれる、痛み、重み、苦しみのすべてに自分の罪を見なければならない。このイエス様の受難のすべてが、私たちのためであることを知らされるのです。この十字架の受難の苦しみ、そして暗さの中にこそ主イエス様の次のステージ復活の光と喜びを見出すことができるのです。

マルコは受難記事の中で最も重要な箇所であります33節~41節までにイエス様が十字架につけられ、息を引き取られる様子を記しています。マルコはまことに簡潔な描き方で十字架の死の重さをぐっと押さえて神様の側から見た十字架上のイエス様を書こうとしたのです。まず、十字架の下にいる人間が二つに分かれていると言うことです。一方はイエス様を軽蔑している人です、もう一方は信じている人です。主を軽蔑している人が圧倒的に多く、信じている人は婦人たちを含むごくわずかの人です。

十字架の上で、イエス様が息を引き取られる前に叫ばれた声を聞いて、36節を見ますとそばにいた人々のうちこれを聞いて「そら、エリヤを呼んでいるぞ」と言っている。十字架の極刑の苦しみ、極みでの声に何と愚かな人間が、こうした連中が大部分を占めていたのです。そういう二種類の人々の中でイエス様は息を引き取られたのです。マルコはここに不必要なことは何一つ記されていないのです。15章25節には「イエスを十字架につけたのは午前9時であった。罪状書きには『ユダヤ人王』と書いてあった。又イエスと一緒に二人の強盗を一人は右に、もう一人は左に十字架につけた」そうして、ローマの兵隊やユダヤ人たちは罵り侮辱したのです。

さて、33節から見ますと「昼の12時になると全地は暗くなり、それが3時まで続いた。」

明るかった昼のまっただ中に突然、雷雨と地響きと共に全地は真っ暗の暗黒の世界に変わったのです。何が起こったのかわかりません。キリストであるイエス様の十字架が全地に闇をもたらした、と言うことです。十字架の上でイエス様が殺された時、大部分の人は死んだと思ったに違いない。誰一人として十字架が救いだなどと思わなかった筈です。十字架が死だけであったとすれば、イエスは取り去られただけで全てが終わり、この世は闇として残ります。この世は、まさに暗黒の世界です。

僅かの者が主イエス様に望みをかけたとしても、そのイエスが死んだと、なれば世は闇しか残っていない。つまり神がなくなったら世界はどうなるか、神がおられなければ闇だと言う事を私共は知っています。神はいない等と私共はとても言えません。主イエス様の死は神がいなくなったと言うことです。そう言う世界、神のない世界が全地に襲い掛かってきた、と言っているのです。そこには死しかない、死がすべてを支配している。暗黒の支配が覆い被さっている。私たちが、キリストに望みを置くのはキリストが死に勝ちたもうたからであります。キリストが死なれた、ということの重みを十分に知っておかねばならないのです。

死の支配が確かに全部を覆ったのです。十字架のイエス様は本当の意味で人間として耐え難い痛み、苦しみ、敗北を味われた、と言うことです。そうして3時になると、主イエス様は十字架の苦しみの中で大声で叫ばれた。「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ」と、これは「わが神・わが神・なぜ・私を・お見捨てになったのですか」という意味であるとマルコがしっかりと記しています。この言葉は詩篇22編2節の言葉をと言うことです。ここに重要なことが隠されております。「神よ、なぜ、お見捨てになったのですか」という叫びは、もっとイエス様ご自身の言葉で訴えてもよかったはずです。しかし人の心に訴えるような言葉で記さずに、あくまでも詩篇にある聖書の言葉で表そうとする。それに驚くのです、何故でしょうか。

エロイ・エロイ・レマ・サバクタニと叫んだ、と言うと敗北の言葉と感じる。しかし、それを詩篇の言葉で言われたとするならば、つまり神の言葉で言おうとされた、とするならば、それは敗北ではない。詩篇22編の終わりの方まで読むとわかります。この詩は神への絶望ではなく、神こそ救いだ、と歌っているのであります。「わが神・わが神」と絶望の中で神を呼ぶことができた、絶望の言葉を神の言で語る、そこに神に対する信頼が示されているのであります。この言葉でイエス様の十字架の上での最後の叫びは聖書に基づいて言われている。そして、聖書の神への信仰によって貫かれている。そう信じてほしいと言っているのではないでしょうか。

 当時のユダヤ教では詩篇を聖書日課のようにして暗唱していたとも言われています。そして、イエス様は十字架の苦しみの中で、この聖書の日課の言葉を暗唱していたとも言われます。そして、イエス様は十字架の苦しみの中で、この聖書の日課の言葉を暗唱しておられたのだと言う。いずれにしてもイエスキリストの十字架上の悲惨な叫び声が聖書の言葉によって叫ばれている。そうだとすると、これは悲しい十字架の話ではない。いや、確かに悲しい苦しみの極みの十字架の話しではありますが、それはいつでも神の守りを信じている。そして、いつも神に導かれている話しではないでしょうか。そうして見るとこの叫びは絶望のように聞こえますけれども本当はそうではなくて義人の祈りであると言ってもよい。父なる神への祈りの叫びでもありましょう。

しかし又、ただそれだだったのか。やがて十字架の上で死ぬ、その直前の叫びであります。確かに救いの御業のために死なれたのであります。神の言で語られたのではありますが同時にこれは神の前に立たされた罪人の言葉だと言わなければなりません。私たちはイエス様が私たちの身代わりとして十字架に死なれたと信じていますが、ここでイエス様は罪人が神の御前で言うべき言葉を口にされたのであります。「わが神・わが神・なぜ・私をお見捨てになったのですか」。私共が自分の罪ゆえに苦しみ、悩み、その罪のドン底で叫ぶのは究極のところ「どうして自分は神から見放されているのか」と言うことなのです。悪事をしておいて,神に訴える、何と言う身勝手な言い方でありましょう。しかし、真にそう叫ぶのであれば私たちは決して見捨てられていない、と言うことをこの言葉に見出すのです。

だからこそ、わたしたちも神の御子イエス様の十字架の死と言う暗黒の中に真の光が輝くのです。死から復活への希望の中に生きることが出来るのであります。

アーメン・ハレルヤ!

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