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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1. 本日は待降節第一主日です。教会の暦では今日が新年です。これからまた、クリスマス、顕現主日、イースター、聖霊降臨主日等の大きな節目をひとつひとつ迎えていく一年が幕を開けました。スオミ教会と教会に繋がる皆様が父なるみ神の恵みと憐れみのうちにとどまり、皆様一人一人の日々の歩みの上に神からの豊かな祝福と良い導きがありますように。
本日の福音書の箇所は、イエス様が子ロバに乗って、エルサレムに「入城」する場面です。ここで少しノスタルジーになってしますが、フィンランドやスウェーデンのルター派教会での待降節第一主日の礼拝はどのようなものか少しお話しして、それから本題に入っていこうと思います。
両国の待降節第一主日の礼拝の流れは毎年同じで、福音書の日課は、本日と同じマルコ11章1~11節、またはマタイ21章1~11節ないしはルカ19章28~40節です。福音書の朗読が群衆の歓呼のところまでくると、そこでいったん止まってパイプオルガンが威勢よくなり始め、会衆みんな一斉に讃美歌第一番「ホーシアンナ、ダビデの子よ」を歌います。そのようにして、聖句の群衆の歓呼の部分をみんなで歌うことで置き換えます。普段は人気の少ない教会もこの日はなぜか人が多く集まり、国中の教会が新しい一年を元気よく始める雰囲気で満ち溢れます。礼拝のみんなが歌う場面は、テレビのニュースにも毎年必ずと言っていいほどでるくらいです。ただ、フィンランドもスウェーデンも、国民の教会離れ、聖書離れは近年強まる傾向にあり、こうした国民的なキリスト教の伝統は果たしていつまで続くでしょうか?
ところで、先ほど言及しましたフィンランドとスウェーデンの讃美歌第一番ですが、日本語訳の聖書にあるホサナという言葉ではなくて、ホーシアンナ/ホシアンナという言葉を使います。両国のルター派の聖書の本日の箇所も、ホサナではなく、ホーシアンナ/ホシアンナになっています。何が違うのでしょうか?このホサナとかホーシアンナ/ホシアンナというのは、もともとは詩編118篇25節の中にある言葉から来たものです。それは、「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」と神に助けを求める歌です。原語のヘブライ語に忠実に訳すと「主よ、どうか救って下さい。どうか、栄えさせてください」となりますが、この「どうか救って下さい」というのが、ヘブライ語でホーシィーアーンナーהושיעה נא と言います。本日の箇所の群衆の歓呼の内容は、まさにこの詩編118篇25~26節からの引用に基づいています。そのため、日本語訳聖書のようなホサナと言わずに、ホーシアンナ/ホシアンナと言った方が、引用元の詩編の聖句に忠実ということになります。では、どうして日本語の聖書ではホーシアンナ/ホシアンナと言わずに、ホサナと言うのでしょうか?
ホサナというのは、実はヘブライ語のホーシィーアーンナーהושיעה נא をアラム語に訳したホーシャーナーהישע־נא のことです。イエス様の時代、現在のパレスチナの地域では、ヘブライ語は旧約聖書を初めとするユダヤ教社会の書物の言葉としては使われていましたが、人々が日常に話す言葉はアラム語という言葉でした。ユダヤ教の会堂シナゴーグで礼拝が行われる時も、ヘブライ語の旧約聖書の朗読にはアラム語の訳がつけられていました。さて、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事の後、それらの出来事の目撃者となった弟子たちが生き証人になって、イエス様は真に天地創造の神のひとり子であり、人間の救い主であると宣べ伝え始めました。最初は口伝えの伝承と断片的に書きとめられた記録が宣べ伝えの媒体で、その言葉はアラム語でした。やがて宣べ伝えがローマ帝国の東側に広がりだすと、そこはギリシャ語が公用語の世界でしたので、アラム語の伝承と記録はどんどんギリシャ語に訳されていき、それで新約聖書は最終的にギリシャ語で出来上がったのでした。
しかしながら、伝承と記録全てがギリシャ語に直されたわけではありません。本日の箇所の群衆の歓呼は、ギリシャ語の文ではホーサンナωσανναになっていて、これはアラム語のホーシャーナーの言葉を訳さずに、そのまま音声をギリシャ文字で言い表したものです。ホーシアンナ/ホシアンナを使っているフィンランド語とスウェーデン語の聖書は、群衆が声に出したアラム語の言葉ホーシャーナーを引用元の詩篇のヘブライ語の言葉ホーシィーアーンナーに戻したことになります(ドイツ語の訳[ルター1912年版]も同様)。してみると、ホサナを使っている日本語訳の聖書は、意外にも当時の群衆の肉声がそのまま伝わるようになっていると言えます。(英語訳の聖書[NIV]やドイツ語のEinheits‐übersetsungはホサンナとなっていて、これはギリシャ語の発音にならうものです。)
以上述べましたたことは、私たちの信仰の成長という観点から見たら、瑣末なことではあります。しかし、知っていれば、いればで、聖書を読む時、当時その場面にいあわせた人々の生の声に接することができます。聖書に書いてある出来事が何か空想から生まれたおとぎ話という淡い夢を打ち破り、本当にあったのだという臨場感を与えます。新約聖書にはこのホサナの他にも、イエス様自身が述べた言葉や文がアラム語の音声のまま記されて、日本語訳ではカタカナで表記されている箇所がいくつかあります。さらにマグダラのマリアの叫び声やイエス様に目を開けてもらった盲目の人の嘆願、また使徒パウロが初期のキリスト教徒たちから聞いた唱え文句の中にもアラム語の音声のままになっているものがあります。それらのうち一つは日本語の単語に訳されてしまっていますが、あとはアラム語の音声がカタカナで表記されています。聖書をよく読まれている方は、あのことだなと、すぐ思いつくでしょう。それらについては、いつか機会があれば一つ一つ見ていきたいと思いますが、ここで大切なことは、最初の目撃者たちの伝承をギリシャ語に直した人たちは印象深い言葉をギリシャ語に置き換えず、もともとの言葉のままにしたということであります。私たちは、聖書を読む時、こうしたアラム語の音声に触れることで、イエス様をはじめ当時それらを口にした人々の肉声に触れることができるのです。
2.さて、前置きが長くなりました。本題に入りましょう。このホサナないしホーシアンナ/ホシアンナは、もともとは、天と地と人間の造り主である神に救いをお願いする意味でした。それが、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時に歓呼の言葉として使われるようになっていました。従って、本日の福音書の箇所で群衆は、子ロバに乗ったイエス様をイスラエルの王として迎えたのであります。しかし、これは奇妙な光景であります。普通王たる者がお城のある自分の首都に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがった堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、子ロバに乗ってやってくるのです。この光景、出来事は一体何なのでしょうか?
加えて、イエス様は弟子たちに子ロバを連れてくるように命じますが、まだ誰もまたがっていないものを持ってくるようにと言いました。まだ誰にも乗られていない、つまりイエス様が乗るという目的に捧げられるという意味であり、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのであります。つまり、この行為をもってこれから神の意志を実現するというのであります。さあ、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為、これから神の意思を実現するものであると、ひとり子ロバに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?
このイエス様の神聖な行為は、旧約聖書の預言書の一つであるゼカリヤ書にある預言の成就を意味しました。ゼカリヤ書9章9~10節には、来るべきメシア救世主の到来について次のような預言があります。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者高ぶることなく、ろばに乗って来る雌ロバの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ。」
ここで、「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原語のヘブライ語の文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」となります。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者です(私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってそのような義なる者とされます)。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した10節から明らかなように、神の力を受けて、世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者であります。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことを実現する者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と登場するのではなく、子ロバに乗ってやってくるというのであります。イエス様が弟子たちに子ロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。
「神の神聖な意志を体現した義なる者」が「へりくだった者」であるにもかかわらず、最終的には全世界を神の意志に従わせる、そういう世界をもたらずという預言はイザヤ書の11章1~10節にも記されています。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとまる。知恵と識別の霊思慮と勇気の霊主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行いこの地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみその子らは共に伏し獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」
このように危害とか害悪というものが全く存在せず、全てが神の守りの下に置かれている世界はもうこの世のものではありません。この世が終わった後に到来する新しい世です。その新しい世を導く「エッサイの根」とは何者かというと、エッサイはダビデの父親の名前なので、ダビデ王の家系に属する者であります。つまり、イエス様を指します。やがては今の世にかわって、このような神の神聖で善い意志に服する新しい世が到来する。その時に主導的な役割を果たすのがイエス・キリストということであります。今の世が新しい世にとってかわるという預言書に預言された大事業は、イエス様が担うことになりました。子ロバにのってエルサレムに入城するというのは、まさにその預言書にのっとった手順だったのです。それでは、今の世が新しい世にとってかわるという大事業は、イエス様によってどのように展開されていったのでしょうか?
3.この大事業は、当時の人たちの目から見て、まったく思いもよらない予想外の仕方で展開しました。というのは、彼らにとって、ダビデ王の末裔が来て新しい国を打ち立てるというのは、ローマ帝国の支配を打ち破ってユダヤ民族の王国を再興することを意味していたからです。人によっては、通常の地上の王国を考えていた者もいました。また、別の人たちは、今のこの世が終わりを告げて天と地が新しくされて死者の復活が起きる時(イザヤ66章22節、ゼカリヤ14章7節、ヨエル3章4節、ダニエル12章1~3節)、出現する超越的な世界を考えていた者もありました。この世的な王国であれ、超越的な世界であれ、いずれにしても当時の人々は、ユダヤ民族の王国が再興されるという形の新しいダビデの王国を考えていました。イザヤ書2章やゼカリヤ書14章に、諸国の軍事力が無力化されて、諸国民は神の力を思い知り、神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言があります。それだけを見れば、再興したユダヤ民族の王国が勝利者として全世界に号令をかけるという理解が生まれます。しかし、それはまだ預言の一面的すぎる理解でありました。イエス様の大事業には、預言の全ての面が含まれていたのであります。それを、以下にみてまいりましょう。
エルサレムに入城したイエス様は、ユダヤ教社会の宗教指導層と激しい論争を繰り広げます。宗教指導層がもうこの男を生かしてはおけないと激しく憎悪を燃やした理由は三つありました。一つには、神殿から商人を追い出して、当時の神殿崇拝のあり方に真っ向から挑戦したということがあります。実は、このイエス様の行動は、ゼカリヤ書14章21節「万軍の主の神殿に商人はいなくなる」という預言と、イザヤ書56章7節「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という預言の成就を意味していたのです。二つ目の理由は、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王としてエルサレムに入城したことです。これには、ユダヤ教社会の指導層も、占領者ローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせてしまう、せっかく一応の安逸を得ているところに帝国の軍事介入を招いてしまう危険がある、なんと余計なことをしてくれるのかと慌てふためいたのでした。三つ目の理由は、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章に出てくる終末の日に到来する「人の子」であると公言していたことでした。「人の子」とは、終末の日に到来するメシア救世主を意味します。つまり、イエス様は自分を神に並ぶ者としていたのです。さらには、もっと直接的に自分を神の子と見なしていました。
こうしたことが原因となって、イエス様は逮捕され、死刑の判決を受けました。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。しかしこれは、旧約聖書の預言の一部分にしか着目しなかったことによる理解不足でした。まさにイエス様が十字架にかけられた後で、旧約の預言の全体が理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。
イエス様が死から復活されたことで、死を超えた永遠の命への扉が開かれたことが明らかになりました。その扉は、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥って罪を犯して以来、人間は死する存在となって、ずっと閉ざされていました。それが、イエス様の復活によって再び開かれたのです。人間は、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、死を超えた永遠の命を持つことが出来るようになったのです。こうして、人間を死に打ち勝てない存在に貶めていた原因である神への不従順と罪が、人間に対する支配力を失ったことが明らかになりました。どこでどうやって、罪と不従順は支配力を失ったのでしょうか?それは、イエス様が十字架の上で人間の不従順と罪を全て請け負って人間のかわりに全ての罰を受けたことによります。人間は、イエス様のこの身代わりの犠牲に免じて、神から罪を赦されるのです。人間は、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、この「罪の赦しの救い」を自分のものとすることができるのです。こうして、イエス様の言葉「人の子は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」(マルコ10章45節)の意味が明らかになりました。人間は罪と不従順の支配下にある奴隷の身だったのが、イエス様が自分の命を身代金として支払って解放して下さったのです。こうして、旧約聖書の預言の意味も次々に明らかになりました。イザヤ53章に預言されている神の僕とはまさにイエス様のことだったとわかったのです。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(3~6節)
「彼は自らの苦しみの実りを見それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い背いた者のために執り成しをなしたのはこの人であった。」(11~12節)
実にイエス様の十字架の死と死からの復活は、ユダヤ人であるかないかにかかわらず、全ての人間に救いをもたらすものとなったのです。イエス様の神聖なエルサレム入城は、この「罪の赦しの救い」の成就が目的だったのです。今のこの世が終わって次に来る世の王国の出現はまだ先のことになりました。神がイエス様を用いて「罪の赦しの救い」を実現した後は、今度は出来るだけ多くの人がこの救いを持てるように、イエス・キリストの救いの福音を宣べ伝えていかなければならなくなりました。その宣べ伝えはいろいろな反対者、時には迫害者をも生み出していきました。この軋轢と対立の中で人間の歴史は進んできました。これからも同じように進んでいくでしょう。しかし、それでも最終的には、「ヘブライ人への手紙」12章26~29節に預言されているように、この世の終わりが来て、天と地が新しくされるような大変動が起こり、今見えるものは全て揺り動かされて取り除かれて、唯一揺り動かさない神の国だけが見える形で現れて、新しい世が始まります。
イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事は、この神の国の構成員になる者がもはやユダヤ民族という特定の民族ではなく、神がイエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け取った人たちであるということを明らかにしました。さらに、諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言も、もはや地理上のエルサレムを意味せず、黙示録21章で天上のエルサレムと呼ばれる神の国そのものを意味することが明らかになりました。このように、イエス様の十字架と復活の出来事が起きたことで、旧約聖書の預言は、ユダヤ民族の王国復興の願いをはるかに超えた、全人類の救いにかかわるものだったことが明らかになります。これこそが、天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えた神の意図だったのです。このことを明らかにしたのが、イエス様でした。最初は、人々に教えることを通して、そして最後は、自分の命をうち捨てて神の計画を実現することで、神の意図を明らかにしたのです。
4.以上から、神の意図と計画を実現する大事業の第一弾として、イエス様が子ロバにまたがってエルサレムに入城したことの意味が明らかになりました。この大事業は、当時のユダヤ人たちの一面的な旧約理解をはるかに超える形で展開していきました。まさに、イエス様の十字架と復活の出来事は、旧約聖書を全体的に理解できるきっかけになったのです。
十字架と復活の後に続く時代、つまり私たちが今生きている時代は、いずれはイエス様が再臨する時に終わりを告げ、新しい世にとってかわられます。先ほども申しましたように、この間の時代は、人間が「罪の赦しの救い」を自分のものとすることができるように、イエス・キリストの救いの福音を宣べ伝えていく時代であります。この救いは全ての人間のために実現されたものである以上、できるだけ多くの人がその所有者になってほしいというのが神の意志です。それゆえ、いち早く「罪の赦しの救い」を受け取った私たちキリスト信仰者は、今度は、まだ受け取っていない隣人の心を、人間の造り主であり、かつ人間を罪の支配から贖い出して下さった神に向けさせるように心がけなければなりません。隣人に神とイエス様について教え伝える機会があれば、相応しい言葉を語ることが出来るように、神に祈りましょう。もし、適当な機会がなかなか得られなければ、機会を与えてくれるように祈りましょう。そして、その機会が来る日まで、またその後も、神がその方に働きかけられるよう、お祈りしていきましょう。それから、既に「罪の赦しの救い」を受け取ったキリスト信仰者同士でも、救いを手放してしまわないよう、それをしっかり持ち続けられるよう、お互いが支え合い助け合っていかなければなりません。ここでも、お祈りすることが重要な意味を持ちます。このように、神の御心に適った隣人愛を実践する際には、お祈りは大切です。このことを忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
2014年11月30日の聖書日課 マルコ11章1-11節、イザヤ63章15節-64章7節、第一コリント1章3-9節