2026年8月30日(日)10時半 聖霊降臨後第十四主日 礼拝 説教 木村 長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

 

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

2026年8月30日(日)スオミ教会

聖書 マタイ福音書16章21~28節

説教題:「イエス、死と復活を予告」

今の時代”人生百年”と言われます。戦後の日本、敗戦直後の物のない時代でも人生五十年、或いは六十年とも言われていましたが今や百歳になる老人が彼方此方です。考えて見ると、自分の人生何年とか自分の未来に何時この世での終わりを迎えるのか誰にも決められないし又自分の運命など何もわからないのです。ところで、今日の聖書で主イエス様は驚くなかれ、これから自分がどういう苦しみの中で死んでゆくのかという事を弟子たちに予告されているのです。

マタイ福音書16章21節から見ますと。「この時からイエスはご自分が必ずエルサレムに行って長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され三日目に復活する事になっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」これを聞いた弟子たちはもう吃驚です。誰が考えても当然でしょう。弟子たちは自分たちのこれまでの人生を、つまり職業を捨て家族を捨て収入もないこれからどうなってゆくかも分からない自分全てをイエス様に預けて弟子となったのです。全てをかけて頼りにしている主人、師匠がもうすぐエレサムで苦しみを受け殺されると言うのですから決してそんな惨い事があってはならないと大変な驚きともう反発でしょう。イスラエルの民を苦しめている権力者たちと戦って/\死んでしまうんだと言うのとは全く違う。イエス様はどのようにして、誰によって殺されるのかと言う事まで具体的に弟子たちに自分の運命を示されたのです。これまでイエス様を中心に弟子たちがやっている事、民衆の病を癒し考えらえない奇跡の業を起こして神の力神の業を示してゆかれる感動的な神の国の教え。これを見て聞いた大勢の群衆がイエス様について行っている。この大衆の動きを一番恐れて見ているユダヤ教の指導者とローマ帝国の皇帝たちからイエスを殺そうと命を狙っている連中から間もなくエレサムで殺されるんだ!イエス様ご自身がその事を分かって弟子たちに告白し弟子たちに覚悟を決めさせておられるわけです。イエス様のなさっている教えや業が余りにも活動が大きくなりそのうちに民衆の暴動が起こりかねない、といったローマ帝国の権力者たちの恐れと言った事より、もっと/\大事な事が此処で展開されているのです。暴動の社会民衆の動きよりイスラエルの民が長年待ち望んでいた救い主メシアこそがイエス様ではないかという問題です。弟子たちでさえイエス様の姿と活動の全ての中に我らの真の救い主メシアであられると内心期待していた事でしょう。

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今日の聖書の箇所の前のところの16章13節以下のところで「イエスはフィポ・カイサリア地方に行った時、弟子たちに『人々は人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。」人々の言っている事を聞いて15節にイエスが言われた「それではあなた方は私を何者のだと言うのか」。シモン・ペテロが「あなたはメシア生ける神の子です」と答えたのです。それに対して20節を見ますと、「それからイエスはご自分がメシアである事を誰にも話さないようにと弟子たちに命じられた。」とあります。そうして今日の聖書でイエス様の運命の予告です。ですから弟子たちも皆んなイエス様こそメシアであられる、とこれからのイスラエルの救いを期待していたところへ、いきなり自分は苦しみを受け殺されるのだと言うのですからペテロをはじめ弟子たちはもう吃驚です。16章22節以下に「するとペテロはイエスを脇へお連れして諫め始めた。『主よとんでもないことです、そんな事があってはなりません。』ペテロはイエス様を「メシア、救い主」と告白したのです。イエス様に予告されてもイエス様の言葉を理解せずイエス様が受難の道に進まれる事を阻止しようとしました。それは主イエス様の道行きがペテロたちが期待したメシアの道とはあまりにもかけ離れたものであったからでありましょう。23節を見ますと、イエスは振り向いてペテロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神の事を思わず人間の事を思っている。」と。主イエス様はこのように厳しくペテロを叱りつけられています。何故、このような言葉で言われたのか、次の24節以下で言われている「私について来たい者は自分を捨て自分の十字架を背負って私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが私のために命を失う者はそれを得る。」と言って、ペテロに対して此処までの言葉を言って叱っておられるのです。「あなたはメシアです」と告白したペテロにそように告白する事も大切な事は確かですが自分の事を誰にも言うなと厳しく戒められた。その意味は主イエス様が更に言われている。「自分を捨て、自分の十字架を負って主に従うのでなければ軽々しくそのような事を口にするな」。このように仰せになっているのです。「サタンよ、引き下がれ」と厳しく叱られたペテロに更に言われる。口先だけの告白でなく人の子であるイエス様の苦難の道を死に至るまでペテロも共にする事をイエス様はペテロに求めておられるのであります。「自分を捨てて、自分の十字架を背負え」と言うのは自分を否定せよ、自分に死ねと言う事であります。パウロの言葉で言えばそれは霊の導きに従って生きる事であります。ガラテヤの信徒への手紙5章22節~25節で次のように言っています。「霊の結ぶ実は愛であり喜び平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。キリスト・イエスのものとなった人たちは肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。私たちは霊の導きに従って生きるなら霊の導きに従って前進しましょう。」弟子たちの実際の望みはメシアであられるイエス様に苦しみの中にあるユダヤの民を開放してくださる事であったのです。それをイエス様は私と共に苦しみの道に従って来いと説得しておられるのです。私のために命を失う者は永遠の命を得るのだ。26節「人はたとえ全世界を手に入れても自分の命を失ったら何の得があろうか」最も大事なことは27節で言われます。「人の子は父の栄光に輝いて天使たちと共に来るがその時、各々の行いに応じて報いるのである」だから、この世にあっては辛い言葉でも「自分を捨て自分の十字架を背負って私に従いなさい」このことは主イエス様のために、また福音のために命を失うこと、それはイエス様に従うことです。

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みんなが牧師になれと言うのではない。キリスト者は皆、主イエス様のため、福音のため、イエス様を証しする事であり人生の究極の目的とする事です。何故、この事をイエス様は私たちに命じられるのでしょうか。それは、この事こそが命を救う事に通じるからであります。この命はもはや単なる自然的生命ではありません。死によっても途絶える事のない新しい命であります。パウロはロマ書6章4節で次のように言っています。「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られその死に預かる者となりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように私たちも新しい命に生きるためなのです。」その新しい命を死に打ち勝って甦り給うた主イエス様が与えて下さるのです。受難の主イエス様に従う者の道は世の目には受難の道でしかありません。しかし、主イエス様のため、福音のために命を捨てる者はそこで新しい命を与えられる事を知らされ驚きと感謝であります。それはまた、主イエス様の十字架の死に根底から支えられている事を知っている人生でもあるのです。

人知ではとうてい測りに知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

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