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私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン
2026年6月21日(日)スオミ教会
聖書 マタイ福音書10章24~39節
説教題:「自分の十字架を担って神に従う」
今日の聖書はマタイ福音書10章24節から39節まで、であります。この箇所を見ますと読んだだけでは何の事を語ろうとされているもかよく分からない。24節から見ますと「弟子は師に勝るものではなく僕は主人に勝るものではない」ここまでは何となく分かります。次から分からなくなってゆきます。「弟子は師のように僕は主人のようになればそれで十分である。」・・・・
さて、今日のこの聖書の言葉はどういう場面でイエス様はどんな気持ちで語っておられるのでしょうか。34節だけ見てもイエス様はもの凄い事を言われています。「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく剣をもたらすために来たからである。」それで、11章1節を見ますと「イエスは12人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え宣教をされた。」とマタイは締めくくって書いています。マタイは7章28節のところでも同じように書いています。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく権威ある者としてお教えになったからである。」つまり、マタイは5章から7章までに神の国の事、そこでの生活に関する事を教え10章では神の国の伝道に関する教えを、特に12人の弟子への訓練として非常に厳しく語っています。イエス様は12人の弟子を選んで10章5節で「イエスは12人を派遣するにあたり次のように命じられた。」それで、5節から15節までは、伝道の仕方を教えられ、次には16節から23節で伝道者の忍耐が教えられ、今日の聖書の箇所で24節から33節に至って伝道者の勇気が教えらています。一言で言いますと、この世の権力からイエス様の神の国と救いの福音を語る時、必ず迫害を受ける。だから、「恐れるな、死を覚悟で福音の真実を語り、明らかに広めよ」という勇気です。以上が今日のみ言葉が分かる背景の全容であります。34節以下は厳しい言葉ですがこの福音の伝道によってこれを受け入れる人々への心構え、教えであります。さて、初めの24節~25節で言われている事は「弟子は師に勝るものではない」そして「僕は主人に勝るものではない」という二つの文章は共にユダヤの諺のような言葉でイエス様はこの諺をもってきて違った意味で用いられたと言う事です。ルカ福音書6章40節では「弟子は師に勝るものではない。しかし、誰でも十分に修業をつめばその師のようになれる。」こう言っています。ヨハネ福音書13章16節では「はっきり言っておく、僕は主人に勝らず遣わされた者は遣わした者には勝りはしない。それなのに主人でさえ僕の足を洗ったのだから僕は尚更互いに仕え合うべきである。」と言う事です。イエス様はその両方が一つに結び合わせた形で用いておられます。弟子たちは一方では私たちから献身したのであり他方では主イエスから召し寄せられた者です。当然、先生のようになりたいと願っていても又どれほど苦労をしても主人以上にはなれるわけがないのです。先生が「ベルゼブル」と呼ばれているのなら自分たちもそう呼ばれたはずです。ベルゼブルと言うのは悪魔の頭と言われてファリサイ派の人々がその名をイエス様のあだ名のように読んでいたわけです。それは悪霊を追い出されたからでした。ですから、キリスト者もキリストの如くなりたいと願ったとしてもその主人のようにはなれない。弟子たちが派遣されて伝道してゆく中で色々な苦難に合い謗られても主人であるイエス様の悪霊を追い出すほどの力、働きが出来るかどうか、矢張り主人の助けが必要でしょう、又イエス様は必ず助けてくださいます。ピリピ人の手紙1章29節にはこうあります。「あなた方にはキリストを信じる事だけではなくキリストのために苦しむ事も恵として与えられているのです。」ここに弟子たちに教えられているように、私たちキリスト者も信仰を持って生きる時、色々な苦しみがあります。これはキリスト者のこの世に於ける定めなのです。何故ならこの世が神に敵対しているからです。キリストに従う信仰者は色々な迫害を受ける、ですからマタイは10章でイエス様の励ましの言葉を書いています。「人々を恐れてはならない」。26節以下では「キリストの福音は迫害を恐れてどんなに隠そうとしても隠しきれるものではない。私が暗闇であなた方に話す事を明るみで言え。耳で囁かれた事を屋根の上で広めよ。」ここで言われている言葉も一種の諺として、言われている言葉をイエス様は用いて語られています。福音書には度々イエス様が群衆には譬え話しか話さずに、弟子だけにはあからさまに教えられた例があります。又、奇跡や教えを見聞きした人に「誰にも言うな」と口止めされた事もあります。そのようにイエス様はまず少数の選ばれた人の間で密かに教えられました。こうしたものが26節で言っておられる「覆われたもの」或いは隠されたもの、又は耳打ちされたものに当たるのです。
このようにイエス様が教えられたもの耳打ちされたものはそこに福音の真理があるから必ず明るみに現わされ神の力が露わに発揮されて行くのであります。ですから、あなた方は恐れずどんな権力の下であっても宣べ伝えて行きなさい。28節から雀と髪の毛の事を引き合いに出して言われています。28節を見ますと「体を殺しても魂を殺す事の出来ない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼす事の出来る方を恐れなさい。」これははスイスの宗教改革者ツブィングリが戦死した時にこの言葉を叫んで殉教の死を遂げたと言われています。この言葉は殉教者の最後の慰めと励ましとなったのです。イエス様は言われる、「まことに恐るべき方は神様である」と言う事です。29節以下で言おうとされている事は雀のような小さな小鳥さえ神のみ心なしには落ちないのである。次に頭の髪の毛を誰が数えられるか、しかし神の国に於いては数えあげられておられる。そうして更に主イエスは言っておられる。一羽の雀でさえ許しなしには落とされない神、そのあなたの父である神から愛されている神の子よ!あなた方は殺されることはないのだ。いとし子の髪の毛、一本/\ をも慈しんで美しくしてやりたい、という親心で天の父は見守ってくださっているのだ。私たちは神の子である以上、どんな苦しみの迫害にあっても殺されることはない。たとえ、死ぬにしてもその死は神様には尊い値打ちのある有意義な死であります。主のために死ぬにしても父らしい神の愛を確信して死ぬのであります。32節から33節のところで言われているのは、父の前で告白することを父は受け入れて下さるであろうと言う事です。ここに「天の父の前で」とあります。ルカ福音書の方では12章8節から9節のところで「神の天使たちの前で」となっています。ですから、誰でも人々の前で自分を「私の仲間である」と、つまりキリストの仲間、クリスチャンであると明らかに言い表す者は神と天使たちの居並ぶ前でキリストも「私の仲間である」と言おう。ですから、此処には神様と天使たちが居並ぶ天に於ける大法廷の光景が語られているのであります。キリスト者はこの世の地上で苦しめられ裁判にかけられ殺されような事があっても天上の神様の前での大審判の法廷に於いては「自分の仲間」としてキリストが認めて下さり救って下さるのであります。あなた方がこの世でキリストを仲間とはっきり堂々と告白するならキリストは天の法廷で命がけで「私の仲間である」と告白してくださいます。天に於いて私たちをキリストは迎え入れて下さるのであります
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キリスト者の死は神の前で尊いだけではなく主キリストにも喜ばれる死でもあります。使徒言行録6章、7章を見ますとステファノの殉死に至る出来事が延々と記してあります。ステファノはユダヤ教徒の激しい罵りと攻撃に会ってもイエス・キリストこそメシアであり救い主である事を証し説教します。そのため、遂に石で打たれてもステファノは聖霊に満たされ、7章55節を見ますと「天を見つめ神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て言った。天が開いて人の子が神の右に立っておられるのが見える。」と、こう叫びながら人々の投げつける石で殺され眠りについた。「主イエスよ、私の霊を受け入れて下さい」と言って息を引き取ったのでした。(59節)34節から39節に至ってイエス様は大変厳しい警告を述べられています。34節「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく剣をもたらすために来たのだ。」ここで言われる「私が来たのは~だと思ってはならない」というのは5章7節にもあります。これは来るべき者が来た時に人々が抱く誤解を防ぐための言葉です。旧約聖書の時代から来たるべきメシアが平和をもたらしてくれる事を度々預言していました。メシアのことを「平和の君」とも呼んでいました。9章5節「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」それで、イエス様の教えと数々の奇跡の業にイスラエルの民はこの方こそメシアとして来られた者と期待し始めた、当然の事でしょう。しかし、イエスは言われる「地上に平和をもたらすために私が来たと思うな、平和ではなく剣を投げ込むために来たのである。」平和の君が来られると、述べ伝えられているのに、どうして家族の者までが敵となって争い迫害し合うような事になるのか。私は剣を投げ込む、と言われる「剣」というのは何でしょうか。それは家族の如く最も親しい者の間に生ずる争いと敵意の事です。35節と36節で言われる言葉は旧約聖書ミカ書7章6節から引用された言葉であります。7章6節「息子は父を侮り娘は母に嫁は姑に立ち向かう。人の敵はその家の者だ。」(最後まで読むと恵み、慈しみであります)
預言者ミカはその中で紀元前8世紀のイスラエルが「彼らの最も良い者も茨の如く、最も正しい者も茨の生垣のように」荒れ果てて罪と罰に沈んでいる報いとして「彼らの見張り人の日、即ち刑罰の日が来る」と言っています。(4節)今や「彼らの混乱が近い」。その混乱は「隣り人」も「友人」も「あなたの懐に寝る者」もあてにならない混乱である。(5節)その挙句6節に見た家族同士の敵対で無秩序となる。イエス様はこうしたミカの預言の言葉を引用してこうした無秩序と混乱を来たらせると警告されているにすぎません。平和の君が来たのにその福音の言葉を受け入れない罪に対する神の刑罰、そして家庭秩序や社会秩序が裁かれ徹底的な混乱に突き落とされるという戒めのメッセージです。イエス・キリストは平和をもたらすために来られました。しかし、その平和の訪れる前に徹底的な混乱が起こる。そうして後にクリスマスの主はみ心に適う者の上に平和をもたらしてくださる方であります。最後に38節~39節のみ言葉を見ましょう。「自分の十字架を担って私に従わない者は私に相応しくない。自分の命を得ようとする者はそれを失い、私のために命を失う者はかえってそれを得るのである。」私たちはこの世で苦難に会う時は僅か束の間です。しかし天のみ国で永遠の命にある喜びと希望を持って生きる信仰こそまことの幸せであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン