牧師の週報コラム

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その7

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」48日の日課から)

『アダムによって全ての人が死ぬことになったように、キリストによって全ての人が生かされるようになるのです。』(第一コリント1522節)

『アダムによって全ての人が死ぬことになったように、キリストによって全ての人が生かされるようになるのです。』(第一コリント1522節)

『強い信仰は、この御言葉を大きな文字で心に書き記す。また、大地の上に聳え広がる大空いっぱいに描き切る。信仰は、この御言葉が伝えてくれること以外は何も見ない、何も聞かない、何も考えない。それはあたかも、この世界には他に書かれたものは何もないと宣言するようなものであり、我々が生きるのも活動するのも全てこの御言葉の中でそうするのだと観念するようなものだ。このように信じることができれば、我々は喜びのうちにこの世を生き、喜びのうちにこの世から別れることができよう。この信仰はまさに、キリストが死から復活したのは自分自身のためではなく、我々のためだったということを教えてくれるのだ。主を信じる者は彼の復活に完全に包み込まれてしまうということを。だから、我々も復活の日が来たら復活して主と共に永遠に生きることになるということを。

我々の復活は、まだ秘められていて公然のものになっていない。それでも既に起こったと言っていいくらい今、確実なこととしてある。このことをしっかり心に留めておきなさい。そうすれば、今目に見えるものは全て復活の日に消え去ってしまうことがわかるだろう。そして、天においても地においても復活の有り様以外に目にするものはないという心境になろう。それゆえ、キリスト信仰者が亡くなって墓に埋葬される時、そこで肉眼の目に映るのは腐敗する肉体でしかなくとも、信仰の目に映るのは墓地でも亡骸でもない。信仰の目は全く別の新しいものを見ているのだ。すなわち、新しい命と素晴らしい楽園を、そこで憩う新しい人たちと永遠の命に生きる幸いな人たちを。』(以上、ルターの説き明かし。昨年420日の週報コラムに掲載した訳をさらに進化させました。AIなんかに負けません※。)

強い信仰とは、このような目を持てることを言うのでしょう。そうすれば、喜びのうちにこの世を生き、喜びのうちにこの世から別れることができるという目を。

  • ルターのテキスト(フィンランド語訳)を訳した後で、Chatgtpに訳させました。私の訳といろいろ違いがあり、私はどうして自分のような訳をしたかを説明しました。そうしたら、あなたの訳は日本語読者の受け取り方を考えながら伝達するdynamic/functional equivalenceの訳で、「かなり高度な解釈的翻訳です」と言ってきました。そして、こうすればもっと良くなりますなどと提案もしてきました。私はそれは受け入れませんでしたが、やろうと思えば、それについて対話はもっと続いたと思います。Kiitos hyvästä palautteestasi ja antoisasta kommentistasi!と言って今回は終わりにしました。
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