2023年7月30日(日)聖霊降臨後第9主日 主日礼拝 田口 聖牧師(日本ルーテル同胞教団))

2023731日スオミ教会礼拝説教

マタイ133133節、4452

題:「からし種のごとき小さなものを宝として大事に用いて全てを行うキリスト」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。 

 このマタイ13章では、イエス様は、前々回の「種まきの例え」、そして前回の、「毒麦の例え」を通じて、世界の中にある天の国を伝えてきたのですが、群衆にはただ譬えだけを話され、そして、弟子達にその喩えを具体的に解き明かして、その意味を教えてきました。そのようにイエス様は、その譬えを、主に、その世界の中で福音の宣教に遣わされる弟子達、つまりクリスチャン達と教会へと教えていました。今日は、そのこれまでのところに挟まれるように、イエス様が語られている喩えなのですが、これまでの文脈の通り、この譬えも、その困難な世の中に遣わされるクリスチャン、教会へと語られたメッセージになります。しかし、これもまた、一貫して、そのように遣わされる宣教は、決して律法で遣わす宣教ではなく福音で遣わす宣教、つまり「宣教は福音である」ことを伝えており、そのような福音によって遣わされた宣教の働きは、世にあってどんなに困難があっても、必ずイエス様が結ぶ恵みであることを私たちに教えてくれている、幸いな箇所になります。毒麦の譬えを話された後、そして前回のその解き明かしの前になりますが、またこんな別の例えをイエス様は話されます。31節〜33節を改めてご覧ください。

2、「からし種とパン種の喩え」

イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

 ここでは、からし種とパン種の例えを話していますが、どちらも同じことをイエス様は伝えています。イエス様は「天の国はからし種に似ている」と言います。からし種、マスタードシードですが、これは種の中でもかなり小さな種の一つとされています。イエス様も「どんな種よりも小さいのに」とその小ささを理解した上で、天の国はその極小さなからし種に似ていると言うのです。私たち人間の想像や価値観から「天の国」というのなら、むしろ、果てしなく大きく、広く、完成されたものとして天の国を思い浮かべるでしょう。しかし、イエス様は、その天の国は、なんと、どんな種よりも小さい、からし種に似ていると言うのです。人間の想像や感覚から見れば、矛盾しているように見えるかもしれません。そんなにも小さい天の国なのかと失望するでしょうか。期待はずれだと言うでしょうか?しかし、イエス様が言いたいのは、そのような人間の目に見える大きさ、スケールのことを言っているのではないようです。

「人がこれを取って畑に蒔けば、 32どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。

 と言っているように、大きさ、スケールではなく、天の国の有様、本質、営みが、からし種のようだと言っているのです。そんな小さな種が、成長していき、大きくなり、豊かに実を結び、その鳥が巣を作るほどになる、それが天の国の有様、本質、営みであると、イエス様は弟子達に教えたのでした。

 同じように、イエス様は、天の国は、パン種に似ていると言います。パン種はほんの僅かだけ、粉に混ぜられるのですが、そのほんの僅かな量で、パンは膨れて大きくなるのだとイエス様は、からし種と同じような、天の国の営みを、パン種を用いて繰り返し表しているのです。パン種に関していえば、新約聖書では第一コリント5章7節で、「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」とかマタイでも1611節に「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」ともあるように、悪や悪い教えが膨らんでいくことの象徴として用いられることが多いものですが、この所では、天の国のために用いられる存在として例えられています。

 イエス様は、そんな天の国に似ている、からし種とパン種を何に喩えているでしょうか。それは、前回と前回の例えにならっても、種ということで一貫していえば、福音のことでもあるでしょうし、そして、同時に、そのために用いられる弟子達一人一人、つまり、クリスチャン一人一人とその教会を例えているといえるでしょう。

3、「二つの適用」

 そのことを踏まえ、二つのことを教えられるのです。

「福音を小さい不完全なものにする人間」

 第一に、種である福音を小さく不完全なものにする人間の罪深さです。もちろん、当然ですが、イエス・キリストによる罪の贖いのための十字架と復活、そこにある罪の赦しと新生の福音はどこまでも完全で、神の前にあっては、人を変え、人を救う力がある唯一のものであり、まさに、神の国の生けるパン、永遠のいのちのための、いのちの糧そのものです。福音は「神の前」にあっても、「人の前」にあっても、決して小さなものではありません。完全でその力は人間の思いを超えて遥かに大きなものです。それを信じ、より頼むようにとイエス様はどこまでも教えています。しかし、実は、それを小さなもの、不完全なもの、力のないものとしてしまうのは、人間の方です。クリスチャンでさえ、教会でさえそうしてしまったり、そういう教えや声を聞くのです。そう、クリスチャンも教会も、「福音!福音!」「自分たちこそ福音派だ」等々、福音を掲げて声だかに叫びます。しかし、実際は、その教会においてさえ、福音よりも、あるいは、イエス様の力や働きや計画やそれがなされることを待ち望むよりも、そんなの待てない、生ぬるい、活気がない、と、自分や誰か人間の何らかの行い、振る舞い、功績、知識や判断の方がより、信頼できる、判断できる、期待しやすい、より現実的、合理的なんだ、と簡単になりやすいものです。もちろん、それらのことや人のわざや功績や能力は、「人の前」の事柄としては時には役立ち、教会でも、神が用いてくださるるものとしては、とても大事な賜物であると理解はできますが、しかしそれは、決して、福音に勝るものとはなり得ませんし、むしろ天の国や神の国のためには何もなし得ないし、「神の前」には、何の功績にも誇りにもなり得ないものです。天の国にとっては、どこまでも福音がいのちの種であり、いのちのパンです。人間は牧師も含めて神に用いられる存在に過ぎません。しかし、そうではなく、むしろ福音やイエス様のなさることそっちのけで、自分の目に見えること、目先のこと、自分が感じること、そうなってほしいと願ったり期待したり予想すること、自分ならこんなにもできると誇れること、等々、それらにフィットし当てはまるような判断や決定がなされたり計画が立てられ進められ上手くいくことによって、自ずと、福音よりも、何か人間の知恵や力や判断、目に見える行いや功績や計画の方が、より頼りやすい、信じやすい、となり、それにより自ずと、人の側で、何か福音を小さくし、力のないものにしてしまいやすい、ということは実は教会でよく起こります。私は牧師ですから、やはりイエス様の御言葉に従って、律法で罪を示し、そこで心を刺し通され悔い改めに導かれた人々に、イエス・キリストの十字架と復活の福音によって罪の赦しを宣言し平安のうちに派遣する務めと使命があり、教会は福音の家として、キリストと福音を指し示していくが本当の教会だと信じて、そのように伝えたりするのです。しかしそのように伝えるとよく言われたものです。もちろんこのスオミ教会ではありませんが、「先生、そんなこと言っても、それは現実的ではないでしょう。現実はねえ。もっと現実を見てください」「そうはいっても、結局、人間の力、知恵と努力、人間の立てる方策が、教会、宣教、伝道を達成するでしょう。」「神の恵みや福音なんて言われても、教会もビジネスなんだから、企業努力が必要でしょう。聖書や神学書よりもビジネス書をもっと読んだ方がいいですよ、先生」などなど。福音を軽く見るか信じていない、そんな声をあげればキリがありません。世の中の価値観や合理性や目に見えることだけで判断すれば、そう言いたい気持ちはわかります。罪の世はそのように動いているのですから。しかし、イエス様が私たちに伝えているのは、天の国、神の国です。そこで何より力があり、いのちを与え、神の国へと導き入れてくださるのは、どこまでもイエス様の福音でしょう。いや福音だけです。それがクリスチャンの現実であるだけでなく、罪深い闇の世にあっての唯一の光の現実です。しかし、いとも簡単に、人間の側、いやむしろそのことを信じているはずのクリスチャンが、その神がなさった恵みである「福音」を、人がしなければならない「律法」と混同してしまい、小さくしてしまう。力のないものとしてしまう。そう、まさに、種が蒔かれても根付いていかないで枯れてしまったりする種と同じように、人間の罪深い心が福音の邪魔をする。目に見えるものや人間の合理性や感情や感動、そのようなものの誘惑に流されやすく信じない、人間の方が、福音をからし種ほどに小さくしてしまうのです。

 しかし、もちろんイエス様は福音を決して小さなものとは思っていないのですが、イエス様は、人間の側で、それほどまでに小さく見る、力のないように、信じられない、それほどまで小さく見える福音であっても、それは力がないのではない、その人間がからし種ほどに小さくする、そんな福音こそ、天の国、教会で、芽を出すのだ。人間のわざや知恵や意志や決心ではない、そのイエス様が与えてくださった福音こそ、福音だけが、天の国では成長し、どんな野菜よりも大きくなる。空の鳥が来て巣を作るほどに揺るぎなく頑丈な枝をつけ、成長するのだと、イエス様は教えてくれているのではないでしょうか。事実、人間の目に見えるものとしてですが、福音によらなくても、あるいは福音なしに、人間のわざや努力、知恵や方策、それこそ、ビジネス的手法で、目に見え数で判断できるものとして、教会、教団、組織を大きくできるのです。成長したように見せることはできます。何か世に貢献したような隣人愛を見せることもできるでしょう。評判も良くすることもできるでしょう。しかし、それはどこまでも、「人の前、人の目にあっては」にすぎません。しかし、そこに真の福音がないなら、福音から遣わされるのではないなら、「天の国のよう」ではないのです。どんなに大きくても成功しているように見えても、神の前では、何の意味もないのです。皆さん、私たちは、律法ではなく、福音によって罪赦され、新しくされたのではありませんか?律法ではなく福音によって平安のうちに遣わされ、今日もあるのではないでしょうか?イエス・キリストの十字架と復活の福音にこそ、いや、福音にだけ、天の国は開かれているし、真の天の国、真の教会の営みと成長があるのです。

 「小さな存在であるクリスチャン」

 そして、同時に、このからし種は、小さな存在である、クリスチャン一人一人でもあるでしょう。私たちは、そのように、誇れる功績があればいいのですが、実は、神の前にあっては、天の国では、その天の国のために、救いのために、何もできない、どこまでも罪人の一人一人です。事実、先ほども告白したように、私たちは誰一人として、自らの力で信仰を持った、神の国を掴んだ、救いを獲得したといえる人はいません。それは、どこまでも神の一方的な恵みであり、父子聖霊の主が、救ってくださり、罪を赦してくださり、新しいいのちを与えてくださって、平安のうちに遣わしてくださっているでしょう。それは、私たちの功績ではありません。私たちが大きから、つまり、何か能力があり、功績があり、立派で、何か条件や基準を満たしているからではないでしょう。私たちは神の前にあってどこまでも小さな存在ではありませんか。しかし、「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 32どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」のです。それは、イエス様の私たちへの約束です。どんなに小さなものであったとしても、人の子であり、真の神であり、真の人であるイエス様が、ご自身が生み蒔いた小さな種である私たちを通して、小さなものを用いて、イエス様が、成長させ、イエス様が実らせてくださる。それが天の国の営みなんだと、約束してくださっているのです。これは感謝なことではありませんか。それはパン種も同じですね。ほんの僅かな小さなパン種です。しかも目立たない。粉の間に混ぜられ、埋め込まれます。しかし、そのパン種は静かに、気づかれないように、パンを膨らませていくでしょう。イエス様は、天の国の営みはそのようなものなんだと言っているのです。

 教会によく見られる傾向として、とかく、何か大きな行いや存在、何か、立派な華やかな目立つ行為や奉仕や能力、何か、人を感動させるような劇的な証しがある、今、流行っているアトラクション、イベントがある、等々、世の中だけでなく、教会でさえもそのようなものを求め、そのようなものに何か教会を大きくする、成長させる価値や力があるとか、そのようにして見た目や数的に大きくなった教会が真の教会としての価値と意義があり、それが真の宣教や伝道であるかのように、考えたり求めたりしやすい傾向は、キリスト教世界で少なくなく見られるものです。しかし、天の国の営みである真の教会は、そんな薄っぺらいものではありません。世の中がすぐに食いついては流されていくようなものと同じレベルでは決してありません。イエス様は、小さなものを用いられるのです。本当に、人も少ないとか、高齢化しているとか、若い人がいないとか、何も自分には賜物がないとか、人間は色々、悲観的に言いたくなるものです。人間の心配で悲観的になると、今度は、心配と恐れゆえに、誰かを批判したり裁いたりしやすくなります。しかし皆さん、パン種が知らず知らず、気づかないうちに膨らんで行くように、イエス様は、人間が注目しない、目立たない、それぐらい小さな存在を、用いて、静かに、気づかないように、パンを膨らませてくださる、真の天の国を大きくし、実現していくお方であり、そのことを約束してくださっているのです。

 ですから、私たちは確かに、現実を見て、足りなさ、小ささを覚えることでしょう。「もっと、ああであったらいいのに、」と言いたくなることも沢山あるでしょう。私自身そうです。そう思うこともあってもいいのですが、しかし救われた私たちはそこで終わり、それが全てではありません。イエス様の約束があるのです。私たちの思いや理解や価値観を遥かに超えて、イエス様はこの小さなものを用いて働いてくださる。それは、それでもなおも罪深い、「聖徒であり同時に罪人である」日々罪深いクリスチャンを用いてくださるイエス様なのです。

 ルターは「錆びた斧」という話をしています。彼は言っています「もし人が錆びついたギザギザな斧で持って切るとき、たとえその働き手が有能な職人であっても、その斧で切断された面は粗悪で、でこぼこで不格好である。これと同じように神は私たちを通して働きたもう。」 と。私たちは「義となった」のではなく、なおも罪深い者が私たちにある何らかの義のゆえではなく、キリストの義のゆえにただ義と認められただけです。私たちは立派で錆びも傷もない光り輝く未使用の斧に「なった」のではなく「錆びついた斧」のままなのですが、しかしそれを用いて神は働かれるということです。その行いにはなも罪はあるし完全ではないのですが、しかしその人の目 には愚かで不完全と思えるところ、罪が溢れていると思われるところに神のわざと恵みが現されているという「逆説」があるのですイエス様は、そのように小さな種である私たちの思いを超えて、その小さな私たちに実を結び、イエス様が神の国を完成してくださるのです。ですから、私たちは目の前のことに悲観する必要は全くない。すべきではないのです。なぜなら、イエス様の福音が私たちを今日も平安のうちに遣わし、用いる、天の国の営みが今日も確実に始まっているからです。

4、「宝を見つけ全てを売り払って喜んで畑(世)を買い取られる主」

 最後に、44節以下の例えを少し触れて終わりますが、この例えは、まさにその恵みに満ちた天の国の素晴らしさをイエス様は伝えています。実は、ここは私たちが主体で語られている例えのように見えますが、キリスト中心に解釈をするならば、畑に隠されている宝も、高価な真珠も、それは私たちのことです。そして見つけて喜んでいるのはイエス様ご自身のことです。みなさん、私たちは、イエス様によって見つけられ、福音を語り掛けられ、福音によって、ただ恵みによって救われました。信仰もイエス様が福音と聖霊によって与えてくださった賜物です。父子聖霊なる神様は、そんな私たちを本当に探しておられ見つけて、喜んで、そして大事なところですが、持ち物をすっかりと売り払って、その宝のある畑、そして真珠を買い取るとあるではありませんか。これはこのイエス様が十字架でされたことですね。まさに、「畑がこの世界」と言っているイエス様は、神はこの畑には素晴らしい宝があるからと大事なものを売り払って買い取った。それは一人子を世に与え十字架の死に従わせるほどに世を愛された神様の姿です。、そしてルカ15章の、迷子の羊を見つけて喜んで帰ってきた羊飼い、大事な金貨を見つけて大喜びした婦人、そして、放蕩した息子が遠くから帰ってくるのを見つけるまで待っていたお父さんのように、神様は失われた私たちをどこまでも探していた、そして見つけた私たちのために、その一人子である、人となられたイエス様の全て、まさに十字架の上で、いのちの代価を払ってまで、私たちをサタンの虜から、罪から、滅びから、買い戻して、神のものとしてくださったことにつながるでしょう。それほどまでに私たちは、神にとっては一人子をこの十字架で死なせるほどに、大事な宝、大事な真珠であり、そして、私たちがイエス様のゆえに救われたのは、どこまでも神の喜びなのです。

 ですから、そんなイエス様の目にあって、教会も宣教も、決して律法ではありえません。つまり、教会は決して株式会社でも経営でもないし、教会の中のクリスチャンは株式会社で業績のための労働力や戦力としてノルマを課せられる駒のような存在ではないということです。イエス様はいかに私たちを大事な存在としているのか、それはどんなに小さな存在であっても、宝や真珠のごとくに価値ある存在であり、そのために命を献げて買い取るほどに大事にしてくださっていて、営業の駒としてではなく、どこまでも福音によって、平安のうちに世に遣わし、イエス様がそのご自身の計画のうちに用いて、イエス様が世にあって実を結ばせようとしている、恵みと祝福の存在なのです。そんなイエス様は今日も私たちに大事な大事な福音の宣言をしてくださいます。この十字架と復活にあって、イエス様は今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」そう言ってくださっています。イエス様が言ってくださっているそのままの言葉、その罪の赦しと新しいいのちを福音の言葉からそのまま受け取り、安心してここから遣わされていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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