説教:木村長政 名誉牧師

 

7回 コリント信徒への手紙 215

 今日からコリント信徒への手紙2章に入ります。前回の1章の終わり、31節の言葉でひとつの区切りでした。3031節を見てみますと〔神によって、あなた方はキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは私たちにとって神の知恵となり義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。〕これが1章のこれまでの結論でした。救われた人は自分は何の誇るところもない。一切はキリストの十字架によって成し遂げられているのです。主が全てのことをしてくださったのであります。パウロはこのことを良く知っていました。ですからパウロはそのことだけを告げようと思いました。こうしてパウロはコリントの教会へ行ったときのことを思い出すのであります。そして2章の言葉へと入ってゆきます。212節〔兄弟たち私たちもそちらに行った時、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら私たちはあなた方の間でイエス・キリストそれも十字架につけられたキリスト以外何も知るまいと心に決めていたからです。〕ここに1節の真ん中に新共同訳では「神の秘められた計画を宣べ伝えるのに」とあります。ここのところは口語訳の聖書では「神の証しを宣べ伝えるのに」となっていました。ここでの神の証しとはどういうものでしょうか。神が何を証しされたのでありましょうか。これはキリストの救いについて語っているに違いありません。キリストの救いは神が証ししておられることである。というのであります。(神が証ししておられるという視点は私にも新たな発見です。)ひとりの人が十字架にかかって死んだことがどうして全ての人の人間の救いになるか、ということは大きな謎であります。私自身もずうっと大きな謎でありました。これはもう教会の教えだからそのまま余り考えなしに、そういうものだ、信じれば良いのだとずうっと心の奥にしまったまま、いつも何か引っ掛かった課題でした。(皆さんの中にもそう思われたことがあるかも知れません)この問題は誰にも説明できないものであるかも知れません。それで新共同訳聖書では「神の秘められたご計画である」と訳しています。

 

パウロ自身は神様のなさるみ業の不思議な神秘に満ちた出来事のことを心の奥にいっぱい展開して心の内にこめてこの言葉を書いていると思います。まさに神の秘められた謎であって説明して納得するようなものではない。ではよくわからないことを何でもかんでも、あーそれは神様の秘められた謎であるといって片付けようとしているのではありません。神の子イエス・キリストの死と復活が私たち信じる者に関わってゆく最も重要な点にさしかかっている謎であるからこのように重視しているわけです。そこでです!・・・・・ただ神が証ししてくださる時にただそれがまことの私と繋がった救いであることが分かるというのであります。(私自身これで少しだけほっとしました。)私たちはキリストの十字架の話を聞かされます。ある時それによって心が動かされ自分の救いをいくらかでも確信するようになる。その聞いたことが事実まことであると神が私たちの心に示してくださった、証ししてくださった。神は聖霊によってそのことを証ししてくださるということであります。(これはすごい事です。)その時です私たちはここに与えられていることが「唯一の救いの道である。」ことを確信するようになるのであります。主イエス・キリストは永遠のいのちに至る道である、この道によらなければ救いに至ることはできない。これがメッセージであります。いまあなたに明らかに示された神からの啓示というものであります。特別の啓示というものです。聖霊なる主が働いてくださって証ししてくださる。この証しという字の中によく似た字で神秘という言葉が含まれていると言われています。それならばこの救いの道が神のみ知っておられる深いご計画であったということになります。まさに神の秘められた計画であります。それで・・・パウロは言います。これが神の救いの道であるから自分はそれを証しするにどんな優れた言葉も知恵も用いなかった!一切を主によって行われるためである。これがパウロの決心でありました。決心と言う字は判断して決めたと言うことです、私たちが知らねばならないことは多くあるでしょう、でもその中で自分の救いに役立つことはそんなに多くあるはずはありません。その救いが大きく確かであればあるほど多くあることはありません。そうすると大事なことをぐうっと絞って行くとその一つのことを知りさえすれば他には何もいらないと言うことになるはずであります。

 

そういう意味からいえば信仰というものは大切な事になります。自分の生き死にに関する問題でしょう、どうでも良いとことではありません。その救いはイエス・キリストから来たのであります。それならば大切な事はイエス・キリストを知ることであります、イエス・キリストだけを知るのであります。しかしイエス・キリストを知るというのはどういうことでしょうか。キリストの生涯はまことに短いものでした。しかもガリラヤに出ていよいよ大事な活動をされたのは僅か3年間です。イエス・キリストが語られた大事な教え又数々の奇跡の出来事などその一つ一つの中には深い真理が示されていました。しかしキリストがこの世に来られたのは唯一つの目的のためでありました。十字架にかかって人間の罪のために死ぬということだけのためであったのです。ですからパウロは言います、イエス・キリストだけを知る決心をした。そのことはつまり十字架につけられたイエス・キリストを知るということだ、と言いたいのであります。自分がこの世で生きるために、ただ十字架につけられたキリストだけが必要である、ということを知ることであります。それは祈りにおいて教会の礼拝において日常の生活のすべてにおいてそのことを知り、そこにだけ力があり望みがあることを確信することであります。

 

さて3節になりますとパウロは自分の弱点を吐いた言い方になってゆきます・パウロはコリントに行く前の自分の気持ちを語っています。「弱く、かつ恐れ、ひどく不安であった」と言っています。普通パウロというと熱狂的な強い伝道者のように想像しがちでありますが意外な面があったと言っています。それは事実であったでしょう、さらに度々パウロをおそって来るひどく苦しい病気がありました。そういう中にあってパウロの教える十字架の苦しみによる信仰が支えになりました。だからパウロはただただ十字架のキリストを語る以外にないのであります。十字架だけが頼みとすることであったでしょう。従ってパウロがこのように弱い状態であったことはかえって彼の十字架の信仰の強さをあらわしているものである、ということができるのであります。使徒言行録18章にコリントへ行った時のことが詳しく記されています。彼はアテネで軽蔑され何の成果もなしにコリントへ行ったのであります。コリントにはプリスカとアクラの夫婦がいてパウロを迎えてくれました。そして一緒に天幕を造りながら伝道していったのであります。しかしユダヤ人たちの反対が強くて伝導も容易なことではありませんでした。ある夜、幻の中に主のみ言葉を聞きました。「恐れるな、語り続けよ、黙っているな」という励ましの声でありました。パウロは押し寄せてくる反対と恐ろしさでだんだん語ることを止め黙っているようになったので神のをみ声を聞いたのでしょう。パウロは言います「わたしの言葉も宣教も巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである」と言っています。伝道は結局人間の力や知恵ではありません。キリストが救い主であることを誰が信じさせることができるかでありましょう。それは人間の説明や業でできることではないのです。ただ霊と力によるだけであります。聖霊と神の力によるということです。パウロは言いました211節を見ますと「神のことは神の霊によるほかはない、と堅く信じていました。」人間にできることは、ただ神の力に委ねるだけであります。十字架の力にすべてを託すだけのことであります。

 

それでパウロは25節で書いています。「それはあなた方の信仰が人の知恵によらないで神の力によるためであった。」これが目的であったということです。パウロはこの手紙の1章から2章に口を極めて人間の知恵は救いにならないことを語るのであります。人間の知恵と神の知恵とを比べようとしてゆきます。ギリシャ人は知恵を求める優れた哲学や神学の議論が盛んで大好きでありました。それはギリシャ人に限らずどの人間も知恵を求めます、ギリシャ人はその代表であります。知恵を求めるというのは知恵によって救われようよいうことです。知恵によって救われようとするのは要するに自分で納得したいということでしょう。自分が分かり理解し自分が承知するということ、結局は自分なのです。そこにギリシャ人だけでなく全ての人間の問題であります。私もずうっとこの課題がどうしてもあったのです。そうするとこの言葉は信仰が人の知恵によるのでなくというのですから信仰が人の知恵によるものではないんだ、ということがわかる。このことが目的の一つであったことになるでしょう。それなら信仰にとって最も確かなことは何かということになります。それは神の力であるということです。信仰は神の力によるということが明らかとなる。十字架のみを知る、というのもそれが示されるためであります。それなら神の力とは何でしょうか、ある人が言いました、それは神の恵みである。そうです神の恵みです。神の力というものは分かるようで分かり難いものです。多くの人は神の力といえば神の強さを考えます。しかし神の強さによっては人は救われません。神のまことの強さはその恵みなのであります。神の「恵み」であります。愛ということさえ恵みでなければ人に対して力となって働いてはこないのです。「恵み」は赦しであります。神は愛であります。しかし罪人である人間にとっては神は恵みでなければ愛はわかりません。同じように神が恵みをお与えなければ、それは力として働かないのであります。エペソの手紙でパウロはこう言います。117節〔どうか私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が知恵と啓示の霊をあなたに賜って神を認めさせ、さらにまた神の力強い活動によって働く力が私たち信じる者にとって、いかに絶大なものであるかをあなた方が知るように、と祈っている。〕神の力を知るとはこういうことであります。

 

旧約聖書 詩篇42篇にあります〔鹿が谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいて神を慕いいける神を慕う〕このような神を求める魂に対して神はどのようにお答えになるのでしょう。それは「恵み」であります。恵みが神の力となって与えられたのです。それならその恵みはどこに示されたでしょうか。それは十字架でありました。そこで神は「御子の死」という恵みを全力を注いでお与えになりました。それなら人も全力を持ってその十字架を知れば良いのであります。十字架以外なにも知る必要はないのであります。     アーメン

 

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