説教:田中良浩 牧師

 

1 7月16日(聖霊降臨後第6主日) 於 スオミ教会

聖書日課 エレミヤ20713、ローマ61~⒒、マタイ101633

田中 良浩

説教  「キリストと共に生きる」

父なる神さまと主イエス・キリストからの恵みと平安あれ!

 

序 マタイによる福音書10章は弟子たち<それは使徒と呼ばれる>を宣教へと派遣するに当たって、主イエス・キリストが弟子たちにその使命と心構えをお語りになった物語である。同時に、私たちも主に召され、この世に派遣されている者であるのでこの宣教への使命と心構えは、同時に私たちにも語られたものである。

主なる神さまは私たちを召して、十字架による罪の赦しと、復活による永遠の命を約束して、恵みと祝福を日々お与えくださるのであるから、私たちはこの恵みと祝福を、隣人と分かち合い、共有するのが必須である。

 

  1. 今日の福音書から学ぶべき第一のことは:

主イエス・キリストは弟子たちに「わたしはあなたがたを遣わす」と言われた。つまり主イエスは「遣わす者」であり宣教の主である。そして弟子たちは「遣わされた者」、つまり使徒である。

そして同時に私たちも主から「遣わされた者」「派遣された者」なのである。

私たちは、主イエス・キリストによって召されて弟子とされ、そして生かされている。つまり一人、一人の生活の場、また仕事の職場、そして地域社会

に遣わされている、つまり派遣されているのである。

 

ちなみに戦後間もなくのことですが、私が高校生の時に用いた聖書は文語訳の聖書でした。現在の新共同訳によるヨハネ3章16節の「永遠の命」は

「永遠の生命」と記されていました。私は人間の実態を表すこの「生命」と

いう表現に関心があります。有名な漢字の学者、故白川静立命館大学教授は、「漢字百話」で「生命」についてこのように記しています。「生は自然的な生である。生きることの意味は問われていない。(それは草や木が大地から芽生え、成長する姿を表している)。一方、命は始め“令”と書かれた。それはおそらく聖職者が礼冠(式服)を付けてひざまづいて、静かに神の啓示を受けている。つまり神意を求める姿である。また“口”が添えられるが

その祈りに対して与えられる神意が“命”である」と。つまり生命には、

人の自然的な生と、神から与えられる使命的な命が表現されている、と思う。

しかし、ここで主イエスは弟子たちに「迫害を予告」された。同時に私たちも派遣された者として生きいく時に、様々な困難や試練に直面する。

 

何時の時代も社会は、常識、知識的、科学的であろうとする。キリスト教も例外ではない。人の集団や組織の判断は、人間の判断に委ねられる。

つまり宗教や信仰は、この世界では本質的ではなく、第二義的である。

ホスピスのチャプレンとしても、時には「何しに来た?」と言われる。

終末的な患者さんに、医療職、看護職でもない者が「何の役に立つか?」

 

こうして主イエスから派遣された者として生きるには、争いや葛藤がある。

主が言われたように、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と、初めから

困難と試練が予告されているのである。

旧約の日課預言者エレミヤも迫害にあう苦痛の告白をした。(20:7以下)

「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて、あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります。・・・わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」と。

それゆえ、エレミヤは「悲しみの預言者」と呼ばれる。主は「悲しみの人!」

 

主イエスは興味深い教えの言葉を与えるのである。

「だから蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と。この意味は?

この賢くは創世記(3章)のエバを誘惑した最も賢い蛇と同じ言葉である。

賢いとは知恵があること、蛇は知恵を悪用した。狡猾であった。

しかし主イエスは使徒たちに「あなたに与えられた知恵をつくせ

「神の知恵者となれ

と教えたのであろう。

 

また鳩は、旧約聖書では、聖なる鳥とされ犠牲として用いられた。主イエスの洗礼に時にも、聖霊が鳩の姿をとって現われた。また素直で、霊的であると考えられていた。意味としては非常に幅広く用いられた鳩であるが、ここでは、「派遣の主の教えに素直であれ、あとは主に信頼せよ

との意味であろうか。その迫害の中においてさえ、主は「心配するな!

「言うべきことは教えられる」、そして「最後まで耐え忍ぶものは救われる」と約束される。

 

ご存じの通り、初代教会では各地で迫害が起こった。使徒言行録を読めば

ペンテコステ(聖霊降臨日)、教会誕生間もなくから、迫害は起こった。

異邦人への使徒とよばれた使徒パウロも、最初は迫害者であった。

我が日本の歴史も、キリスト教迫害の歴史を中世から、現代に至るまでもっていることは良く知られている。

迫害の歴史は同時に、キリスト教宣教の歴史でもある。

 

 

  1.  今日の第二のことは:「恐れるな」という、力と希望に満ちた言葉である。

 

ここで「恐れるな」=3回繰り返されている。

26節「人々を恐れてはならない」

28節「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな」

31節「だから恐れるな」

 

これは降誕の喜びの想起でもある!(ルカ2:10~11)

「天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(キリスト)である。

 

 

「人々を恐れるな!神を恐れよ!」という意味である。

主イエス・キリストは繰り返し言われる。

「二羽の雀が一アサリオンで売られれているではないか。だがその一羽さ

え、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」。

「恐れるな、あなたがたはたくさんの雀よりもはるかにまさっている!」。

 

これは、山上の説教の「思い悩むな」(マタイ6:25以下)を想起する。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

<この聖句は、終末的な患者さんに安らぎと希望を与える言葉である>

 

「主イエス・キリストは言われる。わたしが共に生きて、それぞれの生活の場で、あるいは働きの場で、共に生き、共に働くと約束してくださる!」

そして「最終的な責任はわたし(主イエス・キリスト)にある」と。

 

 

  1.  第三のことは:再度の確認の言葉、「わたしたちは主イエスの仲間である」

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

 

ここで用いられている「仲間」という言葉は、ギリシャ語聖書にはない。

単純に、「わたし(主イエス)を告白する」という言葉が用いられている。

翻訳された「言い表す」とは、「告白する」ことである。

 

第一に、弟子たちにとっても、また私たちにとっても生きる道は、神の愛

によって隣人に仕える生活であり、また告白し、証し、伝道の生活である。

この2000年来、初代教会から不変、また普遍のものである。

 

第二はこの第三の部分には「最後の日」のことが暗示されている。

私たちは、最後の日とは、自分の地上における最後の日を思う。

 

しかし聖書は裁きを伴う救いの完成する日を「最後の日、主の日」と呼ぶ。

それはどのような日であるか、だれにも人間的には理解し、判断できない。

理性的に解らないことを詮索しても、どうにもならない。けれども

聖書はそれを「輝ける神の都、永遠の命の国

として描いている。

 

 

ここで覚えたいことがある。

弟子たちは、他でもない、主イエス・キリストにより召されたのである。

ヨハネ福音書(告別の説教14章16節)(15章16節)

主イエスは言われた「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたし があなたがたを選んだ」と。「わたしがあなたがたを任命し、あなたがたを遣わした」と。

 

私は「弟子のペトロ」を想い起す。

主イエスの裁きの時、その最後の時になって、彼は「わたしは彼を知らない」と三度も「知らない」と繰り返した。(マタイ26章69節以下)

 

 

それ「にも拘わらず」、ペトロは繰り返して悔い改め、ペンテコステの日には大胆に、大勢のユダヤ人の前で説教をしたのである!

そして3000人もの人が悔い改めて洗礼を受けたのである。

 

 

「遣わされた者」の生活、(つまりそれは宣教である)には

数々の恵みと喜び、祝福が伴い、人知をはるかに超えた奇跡が起きる!

 

最後に:-

皆様と、主イエス・キリストが共に生き、また働いてくださいます

ように!

皆様の上に、主イエス・キリストのお恵みとお導きをお祈りいたします。

アーメ

 

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