説教「見よ、これぞ世の罪を取り除く神の小羊」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書1章29-42節 

主日礼拝説教 2020年1月19日顕現後第二主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」イエス様のことを洗礼者ヨハネはそう呼びました。小羊とは可愛らしいですね。皆さんも、動物園や農村で見たことがあれば、白い毛の衣に身を包み、まだ大人の羊になっていない段階で親羊に寄り添うようにしている姿を思い浮かべただけで純で無垢な感じがします。それが、小羊は小羊でも世の罪を取り除く小羊で、しかもイエス様がそれだと言う。それは一体どういうことか?世の罪を取り除くとは何なのか?世の中には悪いことが沢山ある。人を傷つけたり騙したり、自分のことだけを優先して他の人のことを顧みないということが沢山ある。それらが犯罪までになって法律に基づいて処罰されるということが沢山ある。「世の罪を取り除く」というのは、そういう悪や犯罪を取り除くということなのか?イエス様が取り除きをされるのか?される時、小羊のようにされるというのは、どういうことか?悪や犯罪を取り除くのならば、例える動物としてはライオンとかもっと雄々しいものを考えた方がピッタリなのでは?けな気で可愛らしいが弱々しい小羊に例えるのはどういうことなのか?洗礼者ヨハネの言葉は、字面だけ追えば、分かったような気になりますが、実は考えれば考えるほどわからなくなります。 

そういうわけで、本日の説教はこの「イエス様は世の罪を取り除く神の小羊」ということを徹底的に見ていきたいと思います。

 

2.

 「神の小羊」と言っているので、まず「神」について考えます。聖書の話ですので、あくまで聖書の神です。聖書の神は、何と言っても、天と地とその間にあるもの全て、見えるものと見えないもの全ての造り主、創造主です。私たち人間も神の手に造られたというのが聖書の立場です。人間一人ひとりに命と人生を与えた。しかも、母親の胎内に宿った時から、私たちのことを知っておられた。そのことが旧約聖書と新約聖書の至るところで言われています。本日の旧約の日課イザヤ49章1節でも、「主は私が胎内にいる時から声をかけ、母のお腹の中にいる時から私を名前で呼んでいた」(後注)と言っていますし、5節でも「母の胎内にいる時から私を御自分の僕として形作られた」と言っています。胎内にいるときからこうですから、生まれ出てきた後も、私たちのことをよく見て全て知っています。私たちは気づきませんが、私たちが何をしているか、何を考えているか、神は全てお見通しです。人には隠し立て出来ても、神に対しては出来ません。何しろ、私たちの造り主だからです。

聖書の神は造り主であるほかに、自分の意思をはっきり示される方でもあります。十戒という掟があります。それは、造り主である以上は、その方が拝む対象であるとか、その方の名を汚すようなことをしてはいけないとか、週一日は仕事の手を休めてその方に心を傾ける日とせよとか、神との関係でこうしろああしろという掟があります。まだこの他に、父母に敬意を払えとか、殺すなとか、自分のであれ他人のであれ夫婦関係を損なうことはするな不倫などもってもほかとか、盗むなとか、他人を陥れるようなことは言ってはならないとか、他人に属するものを妬んだり自分のものにしようとしてはいけない、というふうに人間との関係でこうしろああしろ(というか、こうしてはいけない、ああしてはいけない)という掟があります。これらの掟に従っていれば、神の意思に沿っていて、神の目に適うということになります。

ところが、人間ですから完全ではなく弱さや隙があります。それで、掟を破ってしまったらどうなるか?神の意思に反し、神の目に適わなくなってしまい、神の失望と怒りを買って罰を受けてしまう。それで、神の意思に反したことの償いをしなければならなくなります。償いを神が受け入れれば、罪を赦してもらったことになります。それで、神との関係が改善されます。私たちは悔いていますと言うのなら、その気持ちを動物を生贄に捧げることで表しなさいということになりました。旧約聖書のレビ記の4章をみると、掟を破ったのが祭司だったり、共同体全体だったり、その代表者だったり、個人だったりに応じて、牛や山羊を犠牲の生贄に捧げることが定められています。生贄を捧げると神から罪が赦されるとあります。まさに罪の償いのための生贄です。レビ記の16章をみると、第七の月の10日に贖罪日という国民的な儀式の日が定められ、この時も罪の赦しを得るために動物の生贄が捧げられます。

ここで、神に背いたのは人間だから人間が罰せられるべきで、動物を生贄に捧げるなんてちょっと身勝手で動物が可哀そうと思われるかもしれません。しかし、人間が神から赦しを得てもう一度やり直すことができることが目指されているのです。罰を受けて死んでしまったら、やり直しなど出来ず、元も子もありません。人間が死なないでやり直しできるためには誰かに代わりに死んでもらわないといけない、神の意思に背くというのはそれくらい命に係わる重大なことだというのです。

聖書の世界の外を見ても、人間が何か超自然的な相手に捧げものをするということはあります。例えば、何か不幸が起これば、そういう超自然的な相手の怒りを買ったとか祟られたなどと解釈して、その相手を宥めたりご愛顧を引き出すために、動物の生贄とまでは行かなくとも、何か捧げものをしたり、お祓いや清めの儀式をします。もちろん、不幸が起こる前に、起こらないようにと前もってそういうことをします。旧約聖書みたいに動物を犠牲の生贄に供することをしない宗教であれば残酷ではないと言えるかもしれません。しかし、その場合、神の意思が重大なものとしてある、ということはどうやってわかるでしょうか?それに背くことは命に係わる重大なことなのだ、というような重大さはどうやってわかるでしょうか?

こういう、創造主というものがあって人間はその意思に背くと創造主との関係がだめになる、それで背いてしまったら償いをして関係修復をしなければならないということが聖書の神と人間の間にあります。また、聖書の世界の外でも、不幸が起きないように超自然的な相手を宥めるということがあります。こうしたことは現代を生きる人たちにとっては、未開の人間のやることで馬鹿馬鹿しいものに見えるかもしれません。でも、そう思っている現代人でも、これをしないと、霊か何かの機嫌を損ねて良からぬことが起きる、などと言われたら、やはり不安になってやるのではないでしょうか?

 

3.

 聖書の中で犠牲の生贄を捧げるというのは、他の宗教と同じように不幸が起きないようにするという側面もあります。しかし、それよりも、もっと深い側面があります。神に造られた自分と造り主との関係はうまくいっているのか、関係がしっかり保たれているのか、ということを見つめ直す時、自分は果たして神の意思に沿うように生きているのか、と自分を神の意思に照らし合わせて見つめ直します。自分は神をしっかり拝んでいるか、その名を汚すようなことはしていないか、週一日を神のことに心を割く日としていているか、父母に敬意を表しているか、殺していないか、自分のにしろ他人のにしろ夫婦関係を守っているか、盗んでいないか、他人を陥れるようなことは言っていないか、他人に属するものを妬んだり自分のものにしようとしていないか、それらの型にしっかりはまっているかどうかということがとても大事になります。不幸が起きませんように、ということよりも、神の意思に沿う人間でいられますように、というのが大事なのです。造り主の意思に背くというのは、造り主と一緒にいられなくなることを意味します。造り主あっての自分です。造り主と離れ離れになることほど恐ろしいことはありません。それなので、痛みや不幸を伴うものであっても、神の意思に沿うように生きることが出来るのであれば、それでいいのだ、という心構えになります。

動物の生贄の話に戻りましょう。イスラエルの民は罪の赦しを得るために律義に動物の生贄を捧げ続けました。ところが、神との関係を保つ方法として、それは持続可能なものでないことが明らかになりました。イスラエルの民が罪の赦しのためと言って生贄を捧げても、神の意思への背きは繰り返されてしまいました。贖罪の儀式が形式的、表面的になって、儀式を行った人の心は何も変わっていないということが明らかになっていきます。心は変わっていなくても儀式をこなせば赦されるのだというようことは、聖書の世界に限りません。はじめは心をこめて儀式が華やかで大掛かりなものになったかもしれません。それが、心はこもっていないくせに、儀式が華やかで大掛かりなこと自体が心がこもっていることの証しのようになるということがあると思います。そういう心の変化を伴わない儀式を目の当たりにした神ははっきりと、生贄を捧げても何の意味があるのか、そんなものを持ってこられてもうんざりだ、と言うようになります(イザヤ書1章11~17節、エレミア書6章20節、7章21~23節、アモス書4章4~5節、21~27節などにあります)。つまり神は、外見上だけでは意味がない、内面が変わらなければ意味がない、と言われるのです。このことは、後にイエス様が、十戒の掟は外面上守れても、内面までも守れなければ守ったことにならないと教えたことに重なります。例えば、人を殺していなくても、罵ったら同罪であるとか、不倫をしていなくても、ふしだらな目で異性を見たら、同罪である、と。

神は、御自分が造られた人間がなんとかして自分の意思に沿うようになって、造り主である自分と一緒にいることができるようになるために、つまり心が変わるように、何か別の方法を採らなければならなくなりました。それは、イザヤ書53章で予告されました。そこでは、人間の罪を自ら負って自分を罪の償いの捧げ物にして命を捨てる「主の僕」なる人物について述べられています。彼は屠り場に引かれる小羊のようであったと言われています。そして、このイザヤ書の予告は全てイエス様が具体化させました。彼は罪となんのかかわりもない、神聖な神のひとり子だったのに、私たち人間の罪を全部引き取って、それを全部十字架の上にまで運び上げ、そこで人間の罪の責任は全部自分にあるかのように神の罰を私たちに代わって受けられたのでした。実にイエス様は、かつての動物の生贄のように、人間の罪を償う犠牲の生贄となったのでした。

しかも、犠牲に供されたのは動物ではなく、神聖な神のひとり子でした。これ以上の犠牲はないという位の完璧な犠牲でした。それゆえ、神に罪を赦して頂くための犠牲はこれで完了しました。エルサレムの神殿で行われていた動物を生贄に捧げる儀式は根拠を失いました。神聖な神のひとり子が人間の罪を償う犠牲の生贄になった、これは本当のことであり、そのひとり子イエス様は本当に救い主だった、そう分かって、彼をそのような者と信じると、神から彼の犠牲に免じて罪の赦しを頂けるようになりました。そこで聖書の世界の外に対しても、不幸の原因を取り除こうとして超自然的な相手のご機嫌を宥めようと捧げものや儀式をしている人たちに、天地創造の神のご機嫌を未来永劫に宥める捧げものがなされた、それがイエス様である、彼を救い主と信じれば、天地創造の神がいつもそばについていてくれるようになる、と言うことができるのです。

 

4.

 かつて動物の生贄を捧げていた時は、儀式が外面的、表面的なものになって心の変化が伴わなくなってしまい、神の批判の的になったと申しました。それでは、イエス様を救い主と信じて神から罪の赦しを頂いたら、心の変化はしっかりあって神の意思に沿うように生きることが本当にできるのでしょうか?

それは本当にできます。まず、イエス様が十字架の上で死なれた時、罪が力を失ったことを知りましょう。動物の生贄の場合は、毎年捧げなければならないものでしたので、それで得られる罪の赦しは有効期限というか、賞味期限があったことになります。動物の贖罪の効力は限定的でした。翻って、イエス様の犠牲は未来永劫に渡って罪が赦される桁違いの償いでした。罪は本当に人間を神から引き離す力を失ったのです。それだけではありません。一度死なれたイエス様を父なるみ神は死から復活させました。これで死を超えた永遠の命があることが示されました。しかもその時のイエス様の有り様は、永遠の命を包み込む復活の体でした。遠い将来、死者の復活が起こる時、復活させられる者はこういう有り様なのだということが示されたのです。なんと楽しみなことではありませんか!

こうした、罪が力を失ったこと、永遠の命と復活の体というものが、自分のものになるということは、これは頭で考えて理解しようとしても、受け取ることは難しいです。それらのものは、あまりにも大きすぎて、理解という小さな門を通り抜けることは出来ません。あたかも、駱駝が針の穴を通過できないようにです。それでは、これらのものを受け取って自分のものに出来るためにはどうしたらよいのか?そのために洗礼があります。ルター派の立場で言えば、正当に按手を受けて牧師として立てられた者が儀式の時に水に対して聖書の御言葉を語ると、水はただの水でなくなって洗礼を実現する手段になります。それを用いて洗礼をすると、罪が力を失ったこと、永遠の命と復活の体がすっと自分のものになります。まるで駱駝が針の穴を通ったようにです。正確を期して言うと、永遠の命と復活の体に変わるのは将来の復活の日ですので、洗礼ではそれが約束されるということです。洗礼を通して、永遠の命と復活の体をゴールにする道に置かれて、その道を歩み始めるということです。

このように洗礼は本当に奇跡的なことですが、聖餐式も同じです。正当に按手を受けて牧師として立てられた者が儀式の時にパンと葡萄酒に対して聖書の御言葉を語ると、パンと葡萄酒はただのパンと葡萄酒でなくなって聖餐を実現する手段になります。これを「私は洗礼を通して罪が力を失ったことと、永遠の命と復活の体を受け取りました」と洗礼の賜物をわかっている人が聖餐を受けると、それらの受け取ったものはしっかり根をおろします。罪は力を失ったままで、永遠の命と復活の体に向かう道を踏み外さずに歩み続ける力を得ます。

このように生きる者にとって、神の意思に沿うというのは体の一部になっています。それで、神の意思に背くというのは、体や心に傷がつくようなもので、健康が失われたのと同じです。そこで、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる者はもう神の意思から離れることが全くないのか、と問われると、やはりあると言わざるを得ません。それは、肉や心の弱さのためであり、また自分の中の罪は力を失ったとは言っても、この世には人間と神の間を引き離そうとする力が沢山働いているという現実があります。隙があれば、いつでも弱さにつけこまれます。そこで、神の意思に沿わないことがあると気がついたら、すぐ神に赦しを願います。すると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架にかけられた主に向けさせて下さいます。そしてこう言われます。「お前の罪はあそこで償われている。お前が犯した罪にはもうお前を私から引き離す力はない。わが子イエスを救い主と信じるお前の信仰とイエスの犠牲に免じてお前は罪を赦され、私としっかり結びついている。だから安心して行きなさい。もう罪を犯さないように。」神はそうおっしゃって下さるのです。

 

5.

 兄弟姉妹の皆さん、イエス様は真に世の罪を取り除く神の小羊です。私たちの罪を償い、私たちを罪の支配から贖い出して下さった犠牲の小羊です。旧約聖書の世界の犠牲の生贄は人間が準備するものでしたが、この小羊は神が準備したので真に「神の小羊」です。また、以前の犠牲では罪の力を消すことはできませんでしたが、この犠牲はそれを消すことができました。それが神聖で完璧な犠牲だったからでした。それで真に「神の小羊」です。この小羊の償いと贖いの業により、罪からは神と人間の間を引き裂く力が失われて、永遠の命と復活の体に向かう道が人間に開かれました。イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼により、罪が力を失った状況に置かれて、その道を歩む人たちが出てきました。罪は完全に面目を失い、世の罪が取り除かれた状況が打ち立てられました。しかし、まだ大勢の人が罪が無力の状況に置かれていません。永遠の命と復活の体に至る道も歩んでもいません。せっかく、その状況と道が打ち立てられたという現実があるにもかかわらず。問題は、人々がその状況の外側に留まることをやめて、その中に入って来れるかどうかです。それで、福音伝道の必要性は決してなくなりません。「世の罪を取り除く」と言う時、「取り除く」はギリシャ語原文では現在形なので常態として行っているということです。2000年経った今も「取り除く」ことは続いているのです。「取り除いて下さった」と言ったら、過去か完了の形にしなければなりませんが、それは気の早い話です(後注2)。それなので今も世の中には神の意思に反することが沢山あるわけで、その意思に沿うように世を変えていこうとする働きが続けられていきます。神の意思に反することをやめてそれに沿うようにしようと方向転換する人たちはいつも現れてきます。神の意思に沿う生き方をすることは、反する生き方からあざ笑われますが、「かの日にはこの自分も復活させられるんだ」という希望を持つ人にはこの世の嘲りなどどうでも良いことです。兄弟姉妹の皆さん、真にイエス様は「世の罪を取り除く神の小羊」です!

ιδε ο αμνος του θεου ο αιρων την αμαρτιαν του κοσμου.

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注 ヘブライ語分かる人に)細かいことかもしれませんが、1節でも5節でも前置詞はבではなく、מןが使われています。大学のヘブライ語の先生がこういう細かいことをうるさく言う人だったので。

(後注2 ギリシャ語分かる人に)これをアオリストの分詞を用いて、ο αρας την αμαρτιαν του κοσμουにすれば、「世の罪を取り除かれた」ですが、「取り除かれた」のは将来のことでもよいわけで、その場合は「(将来)取り除きを完了させる」という意味になります。でも、ここはαιρων現在の分詞ですので、常態として「取り除いている」です。

説教「イエス様の途方もなさに与って生きる」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書1章1-18節

主日礼拝説教 2020年1月5日降誕後第二主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 はじめにことばありき - 聖書の文句のなかで、これほど有名なものはないでしょう。キリスト信仰者でなくても、この聖句を知っている人なら誰でも、この「ことば」というのはイエス・キリストのことを指すと知っているのではないでしょうか。ヨハネ福音書の1章1節から18節までは、イエス様とは本質的にどんな方であるのかを述べているところですが、特に冒頭の5節まではそれを詩的な口調で表現しています。詩的というのは、新約聖書が書かれている元の言語であるギリシャ語で読むと、エン(εν)、エーン(ην)の音が繰り返されていることに気づきます。偶然そうなったのか、著者のヨハネが意図してそうしたのかわかりませんが、韻を踏んでいるように聞こえます。それを一つお聞かせします(エンεν、エーンηνを少し強調して言います)。

Εν αρχη ην ο λογος,

και ο λογος ην προς τον θεον,

και θεος ην ο λογος.

ουτος ην εν αρχη προς τον θεον.

παντα δι’ αυτου εγενετο,

και κωρις αυτου εγενετο

ουδε εν ο γεγονεν

εν αυτω ζωη ην,

και η ζωη ην το φως των ανθρωπων

και το φως εν τη σκοτια φαινει,

και η σκοτια αυτο ου κατελαβεν.

 

 皆様もご存知のようにマタイ福音書とルカ福音書では、イエス様が乙女マリアから生まれる出来事が最初にきます。父、御子、御霊の三位一体の神の御霊、つまり聖霊が力を及ぼして乙女が身ごもってイエス様を産む。その意味では、イエス様誕生の出来事の記述も、イエス様が本質的にどんな方であるかを示しています。ヨハネ福音書では、イエス様が本質的にどんな方であるかということについて、著者がイエス様と共にいた日々を振り返って自分の目で見、耳で聞いたことをもとに分析・総括した、その結果を冒頭に持ってきたわけです。それを、さらに詩的な口調で表現しているのです。

このようにしてヨハネ福音書1章1節から18節までは、イエス様についての真理が語られます。途中の6ー7節と15節で洗礼者ヨハネのことが出て来るので、少し脇道にそれるようになりますが、それはイエス様の本質を一層明らかにするために入れられたものであることはすぐわかります。1~18節のうち特に最初の5節は真理が詩的な口調で語られていると言えます。それは、真理であるがゆえに、人間を大いなるものを前にして謙虚にする力があります。また詩的であるがゆえに、人間の心を広くして大いなるものを受けとめられるようにする力があります。そういうわけで本日の説教では、この聖句を通して、私たちを謙虚にし、かつ私たちの心を広くする力に触れられるようにしていけたらと思います。

 

2.天地創造の前からいた神のひとり子

 「初めに言があった」。この「はじめ」とはいつのことを指すのでしょうか?多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記1章1節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。それで、神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると思われるのではないでしょうか?実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしにある「はじめ」というのは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです(後注)。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。時間をずっとずっと過去に遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いたら、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに「ことば」と称される神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。

この永遠のところにいた神のひとり子が「イエス」の名前で呼ばれるようになるのは、今から約2000年少し前に彼がこの世に送られてからのことでした。しかし、ひとり子そのものは、既に天地創造の前の永遠のところに父なるみ神と共にいたのです。そして、天地創造が成って時間が始まった後もまだしばらくは父のいる永遠の御国にいたのです。そして、父が定めた時、つまり今から約2000年少し前の時にひとり子はこの世に送られました。人間の姿かたちを持つ者として人間の母親から生まれて、「イエス」の名がつけられたのです。

それでは、天地創造の前の永遠のところにいた神のひとり子とは一体どんな方だったのでしょうか?ヨハネ福音書の著者ヨハネは、ひとり子を「ことば」、ギリシャ語でロゴスと呼びました。ギリシャ語のロゴスという言葉はとても幅広い意味を含みます。もちろん、紙に書き記して文字になる「言葉」や(昨今では紙に書かないでキーボードをたたくのが主流ですが)、口で話して音になる「言葉」を意味するのは言うまでもありません。これは私たちが普段日本語で「言葉」と言っているものと同じです。他にも、何か内容を持つ「話」や「スピーチ」を意味したり、また「教え」とか「噂」とか「申し開き」、「弁明」とか「問題点」とか「根拠」とか「理に適ったこと」などなど、日本語だったら別々の言葉で言い表す事柄が全部ロゴス一語に収まります。さらに、古代のギリシャ語の文化圏では、哲学のある一派の考え方として、世界の事象の全て、森羅万象を何か背後で司っている力というか、頭脳というか、そういうものがあると想定して、それをロゴスと言っていた派もありました。日本語では「世界理性」とでも訳されるのでしょうか。

このような森羅万象を背後で司るロゴスというのは、古代ギリシャの哲学の話でして、もともとはユダヤ教キリスト教とは何のゆかりも縁もない、人間の頭で考えて生み出された概念でした。ところが、聖書に依拠するユダヤ教とキリスト教は、天地創造の神が人間に物事を伝えたり明らかにしたりして、人間はそれを受け取るという立場です。生み出す大元にあるのはあくまで神とう立場です。哲学では、大元は人間の頭ということになります。

ヨハネ福音書の著者ヨハネは、神のひとり子のイエス様というのは、ある意味で森羅万象を背後で司るロゴスが人間の形をとったものと考えたのでした。ここで注意しなければならないのは、ヨハネはギリシャ哲学の内容をイエス様に当てはめたのではないということです。そうではなくて、旧約聖書の伝統とイエス様自身が教え行ったことに基づいて、イエス様を捉えた結果、このとてつもないお方を、自分が伝えようとしているギリシャ語世界の人々の頭にすっと入るコンセプトはないものか、と考えたところ、ああ、ロゴスがぴったりだ、ということになったのです。土台にあるのはあくまで、旧約聖書の伝統とイエス様の教えと業です。哲学のいろんな理論や議論ではありません。

では、旧約聖書のどんな伝統が、イエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたかというと、それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の8章22ー31節をみると、この「知恵」は実に人格を持ったものとして登場します。まさに天地創造の前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の時にも父と同席していたことが言われています。しかし、ひとり子の役割は同席だけではありませんでした。ヨハネ福音書の1章3節をみると、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に創造の業を行ったのです。どうやってか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記1章3節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように、ひとり子は「神の言葉」という側面を持つとわかれば、彼も天地創造になくてはならないアクターだったことがわかります。先にも見たように、ロゴスは直接的には「言葉」という意味を持ちますから、ひとり子をロゴスと呼ぶことで彼が創造の役割を果たす「神の言葉」であることも示せます。

このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。実はイエス様はこの地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であるとおっしゃっていたのです。ルカ福音書11章49節、マタイ11章19節にあります。(もちろんイエス様が実際に口にした言葉は、ギリシャ語のソフィアσοφιαでなくて、ヘブライ語のחכמהか、アラム語のそれに近い語だったでしょう。)イエス様は本当に、天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられた方だったのです!ヨハネ福音書8章を見ると、イエス様が自分のことをそういう果てしないところから来られた方であると言っているのに、ユダヤ教社会のエリートたちときたら全く理解できず、「お前は50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか」などととんちんかんな反論をします。50年どころか50億年位のスケールの話なのに。しかし、こうしたことはイエス様の十字架の死と死からの復活が起きる前は、とても人知では理解できることではなかったのです。

ところで、イエス様を箴言にある永遠の「神の知恵」とすると、一つやっかいなことが出て来ます。箴言8章をみると「神の知恵」は「生み出された」と言われています(24、25節、ヘブライ語חיל )。「生み出された」と言うと、ひとり子も私たちと同じように何か造られた感じがします。私たち人間も生まれるのだし、そもそも人間は神に造られたものですから。さらに箴言8章22節を見ると、「神の知恵」である「わたし」、つまりひとり子も父なるみ神に「造られた」と書いてあります。神のひとり子も被造物なのでしょうか?

これはよく注意してみなければなりません。まず、箴言8章22節の「造られた」のヘブライ語の元の動詞(קנה)は、創世記1章1節の「神は天地を創造された」の「創造された」(ברא)と異なる動詞を使っているので、造りは造りでも何か質的に違うものだということに気づかなければなりません。そこで、箴言8章をよく見ると、神の知恵が「造られた」のは、天地創造の前に起きたことが強調されています。つまり時間が始まる前の永遠のところでひとり子は「造られた」のです。人間をはじめとする被造物が時間が始まってから造られたのとは異なります。

さらに、「生み出される」についても同じです。確かに神に造られた被造物である私たち人間も「生まれる」のですが、「神の知恵」「神の言葉」であるひとり子が「生み出される」というのと全然事柄が違います。人間や動物の場合は、天地創造の時に造られて、被造物の生殖作用を通して被造物として「生まれ」ます。被造物としての地位はかわりません。この、天地創造の前のひとり子の「生み出され」は、これは、まだ天地創造がない、まだ時間がない、永遠のところのことです。天地創造の後の被造物の「生まれる」とは質的に異なります。それが具体的にどんな「生み出され」なのかはもう誰にもわかりません。聖書に、天地創造の前に私は生み出された、と言っているから、それはもうそうとしか言いようがないのです。全ては天地創造の前のことなので、私たち被造物が造られたように造られたのではないということをしっかりわきまえておくしかありません。それ以上のことはわかりません。時間の中に存在する私たちは、その外側の世界のことはわからないのです。ひとつだけ確実に言えることは、この「生み出される」ということがあるおかげで、生み出された方は生み出した方の「ひとり子」と言うことができ、また、生み出した方を「父」と呼ぶことができる、そういう関係ができたということです。

 このようにロゴスと呼ばれる神のひとり子は、天地創造の前から父なる神と共にいて、創造の時には父と共に働かれました。それで、ヨハネ福音書1章1節で「ことばは神であった」と言われるように、ロゴスはもう神としか言いようがないのです。このヨハネの分析は、キリスト教会の伝統に受け継がれていきます。私たちの礼拝でも唱えられる信仰告白の一つである二ケア信条にひとり子のことを「父と同質であって」と言われていることがそれです。

 

3.永遠の命に導く光

  4節と5節をみると、光と闇と命について述べられます。「命」というのは、ヨハネ福音書ではたいてい、私たちが今生きている限りある命を超えた「永遠の命」、まさに父なるみ神のもとにある「永遠の命」を指します。創世記の初めに明らかにされているように、人間は堕罪の時に神に対して不従順になって罪を持つようになってしまったがために、この「永遠の命」を失ってしまいました。しかし、父なるみ神は人間にそれを再び取り戻してあげて、人間がこの世を生きる命とその次の永遠の命の両方を合わせもった大きな命を生きられるようにしてあげようと、それでひとり子を御自分のもとからこの世に贈られたのです。

永遠の命が「人間を照らす光」であるというのは、一つには暗闇の中を照らす光として、人間に永遠の命への道を示す役割を果たすことがあります。しかし、それだけではなく、人間が闇の力に支配されないように、人間の内に灯して闇の力に対抗できる力として働くこともあります。闇の力とは、人間を神に対して不従順にして罪を植えつけて永遠の命を失わせてしまった悪魔の力です。罪はそのままにしておけば人間が永遠の命を持てなくしてしまうものなので、まさに呪いそのものです。

5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とありますが、これはいろんな意味を持つギリシャ語の動詞καταλαμβανωが元にあり、訳仕方がわかれるところです。フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語訳の聖書ですと、「暗闇は光を支配下に置けなかった」ですが、英語NIVとドイツ語の別の訳(Einheitsübersetzung)だと、日本語と同じ「暗闇は光を理解しなかった」です。どっちが良いのでしょうか?もちろん、悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持つか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解することができます。しかし、十字架にかけられて全ての人間の罪の罰を一身に請け負ったイエス様は、全ての人間の罪の償いを神に対して果たして下さいました。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、悪魔は私たちをもはや罪の罰に繋ぎとめることは出来なくなりました。十字架の出来事がなかったら人間はそれに繋ぎとめられるしかないのです。さらに、一度死なれたイエス様を父なるみ神が復活させたので、死を超える永遠の命の扉を開かれました。こうしてイエス様のおかげで罪の償いを受けて赦された者は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。

悪魔は罪を最大限活用して人間を永遠の命から切り離そうと企てるのですが、それはイエス様の十字架と復活の業で完全に破たんしてしまいました。そういうわけで、先ほどの訳の問題は、暗闇は光を支配下に置けなかったというのがピッタリな訳ではないかと思います。

 

4.ことばが肉となる

父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、人間を永遠の命から切り離す罪の呪いから人間を解放して再びその命を携えて生きられるようにするためにこの世に送られました。ただし、「あの方が本当に罪を全部請け負って償って下さったんですよ」と言えるためには、その方が本当に神罰を神罰として純粋に本気で受けられないといけません。受けた罰がみせかけのものではいけません。本当に罰の名に値する苦しい痛いものであるためには、受ける者はそれを身に沁みて受ける生身の人間でなければなりません。しかし、普通の人間が全ての人間の罪を背負って神罰を受けて全ての人間の罪を神に対して償うことなどは不可能です。そこで、人間を救うのに他に手立てがないと見た神は、それを全部自分のひとり子に請け負わせることにしたのです。これが、神のひとり子がこの世に送られるとき、人間の姿かたちを持って人間の母親を通して生まれてこなければならなかった理由です。まさに、ヨハネ福音書1章14節に言われるように「言ロゴスは肉となった」のです。この何気ない一言に神の人間に対する大いなる愛と恵みが凝縮されています。ここに神の大いなる真理があります。まさにキリスト信仰の核がここにあるのです。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)。

 

5.イエス様の途方もなさに与って生きる

 父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、私たち人間が失っていた永遠の命を再び持てるようにと、永遠の御許からこの限りある世に来ることが出来るために肉となられました。それでイエス様は見かけは私たち人間と同じ姿形をして人々と共にありました。しかし、その姿形にはこのような途方もないことが凝縮されていたのです。一体誰がそのことをわかったでしょうか?わかるようになったのは、十字架と復活の出来事が起きてからでした。出来事の直接の目撃者である使徒たち、さらにイエス様から直接啓示を受けたパウロが中心となって、「罪の赦しの救い」の福音を宣べ伝え始めました。これを聞いてイエス様を救い主と信じるようになった人たちは皆、この途方もないことに与るようになりました。なにしろ、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、肉体的な誕生に加えて、霊的に誕生することになったからです。ヨハネ3章でイエス様が教えている通りです。この世を去る時には肉体的に誕生した命は終わりますが、霊的に誕生した命はそのまま続きます。この世にいながら、命を二つもっているようなものです。

兄弟姉妹の皆さん、私たちは聖書を通してこのような途方もない方と出会ったのであり、その方を受け入れてその途方もなさに与って今を生きているのです。このことが皆さんにとって勇気と力と元気のもととなって、この新しい年も歩むことができますように。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

(後注)「あった」ηνが過去形なのに注意。もし「はじめ」が天地創造の時を指して、その時点で「ことば」が出てきたということならば、過去形のηνではなくて、アオリストのεγενομην/εγενηθηνにすべきでしょう。

 

説教「預言する女たち」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書1章46ー55節、サムエル上2章1-10節

主日礼拝説教 2019年12月22日待降節第4主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに福音

  本日の旧約の日課と福音書の日課は、二人の女性が神を賛美する祈りをしているところです。旧約のサムエル記上の女性はハンナ。彼女が賛美の祈りをしたのは紀元前1,000年代、今から3,000年以上も前のことです。新約の女性はマリア。彼女がこの賛美の祈りをしたのは今から2,000年前のことです。二人とも子供の誕生に関係して神を賛美しています。

ハンナが産んだのはサムエルです。後にユダヤ民族の指導者になりますが、「士師」という地位の指導者です。「士師」とは何かと言うと、ユダヤ民族がモーセやヨシュアに率いられてエジプトから民族大移動を果たしてカナンの地に定住を始めた頃でした。その時、宗教面と政治面の両方の指導者を兼ねる指導者が現れました。それが「士師」です。旧約聖書には創世記から始まるモーセ五書と呼ばれる書物があって、それに続いて「ヨシュア記」が来ます。モーセ五書の二番目の「出エジプト記」から「ヨシュア記」までがエジプトからカナンの地への民族大移動の記録です。その次に「士師記」が来ます。その後の短い「ルツ記」を挟んで「サムエル記」へと続きます。サムエルの時代にユダヤ民族は王制に移行します。そういうわけで、士師というのは、ユダヤ民族がカナンに到着してから王制に移行するまでの間の期間、宗教と政治の両面での指導者でした。

ところが、ユダヤ人たちは周りの民族のような王制を求め、サムエルもこれを受け入れます。サムエルは、神の指示に従ってサウルに王の印として頭に油をかけることをします。これでサウルは民族の王に就任しました。こうして宗教面の指導者と政治面の指導者が分かれることとなりました。ところで、ヘブライ語で「油を注がれた者」のことをマーシーァハמשיחと言いますが、これは日本語で言うメシアです。本日の日課のハンナの祈りの最後に「油注がれた者」が出てきますが、これはそのマーシーァハ/メシアです。「メシア」は新約聖書では「救世主」の意味を持ちますが、旧約聖書では、もともとはユダヤ民族の王の位につく人を指しました。サムエルはサウルの在任中の時に、神からの指示に基づきダビデに油を注ぎました。このため、サウルは王としての正統性を失いました。どうしてそんなことになったかと言うと、サウルが神の意思に沿わないことをするようになったからです。このように、王と言えども、全知全能の神の意思に従わなければならず、それから外れれば、もう王として認められなくなるということです。サムエルは神の代理人の機能を果たしたと言えます。

次にマリアを見てみましょう。マリアは誰を産んだか?これはもう、言うまでもなくイエス様です。イエス様は「メシア」と呼ばれますが、これはユダヤ民族の王という意味ではなく、人類全体の「救世主」の意味です。ただし、当時の人々は最初、イエス様が民族の王国を再興してくれる王様になると期待したので、その意味で彼のことをマーシーァハ/メシアと思っていました。他方で「メシア」という言葉には当時、民族自決を実現する王様という理解の他に、もっとこの世離れした理解の仕方も出てきていたのです。そして、そっちの理解が前面に現れて理解の仕方が逆転する事件が起きました。

何が起こったのでしょうか?まず、イエス様は支配者側にとって危険な分子として十字架刑に処せられてしまいました。人々は期待外れだったと失望しました。ところが、死んだはずのイエス様が天地創造の神の力で復活させられて、人々の前に現れたのです。体を持ってはいましたが、それは普通の肉体の体とは別のものでした。朽ちない復活の体でした。このようにしてイエス様は、死を超えた永遠の命に至る扉を私たち人間に開かれて、私たちをその命に導いて下さる救世主ということが明らかになったのです。そうなると、彼が十字架で死ななければならなかったのも、人間が持ってしまっている罪を神に対して償う犠牲だったことがわかりました。このことが旧約聖書のイザヤ書53章で預言されていたからです。神はイエス様がそのまま死の陰府の世界に留まることをお認めにならず、復活させました。それは彼が愛するひとり子だったからです。

それならば、なぜ神は愛するひとり子をこの世に贈って十字架の死に引き渡さなければならなかったのか?それは、人間の罪を罪として断罪して罪が償われて赦された状況を作り出し、そこに人間を導き入れるためでした。そこに入れることで人間は罪と死の従属状態から脱せられるのです。そして人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受け入れると、その状況に入れるのです。罪が罪として断罪されるためには神罰を100%受けて立つ者が必要でした。神の姿かたちでそれを受けても痛くもかゆくもなんともないので、100%受けたことになりません。人間の姿かたちを取ることが求めらたのです。人間の姿かたちは人間の母親から生まれてこないと持てません。マリアがその母親の役目を果たすべく選ばれました。そして、聖書に記されているように、マリアは神の霊、聖霊の力で妊娠しました。

以上、福音を宣べ伝えたので、説教はこれで終わりにしても良いのですが、ただ、本日の日課の個所の解き明かしはまだしていません。それで、まだ説教は続きます。

ハンナもマリアも、生まれてくる子供は、一方はメシア(王様)に正統性を与える立場になる者(サムエル)、他方はメシア(救世主)そのものになる者(イエス様)というようにメシアに関係しました。そうかと思うと、二人の境遇はとても異なっています。ハンナは不妊の女性でした。夫エルカナにはもう一人の妻ペニナがいて、ハンナは子供が得られないことでペニナから意地悪を受け続け、それがつらく、神に子供を嘆願します。神はハンナの祈りを聞き、それでサムエルを産むことになります。ここで一つ気になるのは、エルカナには妻が二人いたということです。ということは、ユダヤ教社会や聖書は一夫多妻制を認めているのかという疑問が当然起きます。このことは後で見ていきます。

マリアの方はと言えば、まだヨセフと婚約中の身なのに聖霊の力が働いて処女のまま妊娠しました。このように、二人の境遇は異っていますが、二人とも神の力が働いて、一方は不妊が治って子供を産み、もう一方は処女なのに妊娠して産むということが起こりました。神の力が働いた二人は神を賛美したわけです。彼女たちの賛美の祈りは、天地創造の神そしてイエス様の父である神がどんな方であるか、また人間に対して何を考え、何をされようとしているかを明らかにしています。まるで預言です。預言という言葉を聞くと、普通は未来の出来事を言い当てることを意味すると考えるでしょう。もちろん、それも含まれますが、聖書で言う「預言」はもっと意味が広く、神の考えや計画を預言者を通して人間に伝えることです。その意味でハンナとマリアの賛美の祈りは、神の考えや計画についても言っているので、預言と言ってもよいものです。

 

2.一夫一婦制が神の意思

 ハンナとマリアの賛美の祈りを見る前に、ユダヤ教社会や聖書は一夫多妻制を認めていたのかどうかについて見てみます。妻を複数持っていた例は、ヤコブがあります。アブラハムには側女がいました。ダビデとその子ソロモンも複数妻がいましたが、ソロモンに至っては複数なんて生易しいものではなく王妃が700人、側室が300人ですから、正気の沙汰ではありません。結論から言うと、創造主の神の意思は一夫一婦制です。それは、創世記の天地創造のところで最初の人間が神に造られた時、次のように言われていることによります。「こういうわけで、男は父母から離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2章24節)。はっきり一夫一婦制の観点を打ち出しています。最初の人間アダムとエヴァも一夫一婦でした。申命記17章17節にも「王は大勢の妻をめとって、心を惑わしてはならない」と言われています。アダムとエヴァの後の子孫を創世記4章の系図に従ってたどっていくと、7代目のレメクが妻を二人持っていたことが記されています。でも、その後は特に複数妻のことは何も記されていません。どうやら、一夫多妻は例外的な出来事のようです。

それでも、聖書に載るというのは容認されているようにみえます。一夫多妻制は「姦淫するな」という十戒の第6の掟から見て問題ないのでしょうか?ダビデがウリアの妻を自分のものにしたという出来事がありました。これは神の意思に反することとして、預言者ナタンの口を通して神の罰を宣せられました。ダビデは既に複数の妻を持っていました。ナタンが非難したのは、他人の妻を計略を用いて自分のものにしたことでした。そうすると、十戒の第6の掟は他人の妻に手を出してはいけないということであって、他人の妻でなかったら妻を複数持ってもOKという考え方だったのかもしれません。しかしながら、神の基本的な立場は先ほども申しましたように一夫一婦制です。

ところで聖書は、複数の妻を持つことでどんな問題が起こるかも隠さずに伝えています。子供に恵まれなかったサラは、先に夫アブラハムに子供を産んだ側女のハガルに我慢できなくなって、これを追放し悲惨な目に遭わせます。ラケルは夫ヤコブの寵愛を得ていたにもかかわらず、子供に恵まれなかったためにもう一人の妻レアを妬みます。ダビデは前述したように、複数妻を持っていたにもかかわらず、それでも物足りないと言わんばかりに人妻に手を出してしまいました。ソロモンに至っては、大勢の正室と側室の中に異なる神を崇拝する者がいたため、聖書の神から離れていくようになりました。アダムから7代目のレマクもどんな人間かというと、損害を受けたら賠償は常識を超える大きさを要求するような神経の持ち主でした。そんな人間なら妻を複数持ちたいと思っても不思議ではないかもしれません。本日の日課の個所のハンナの夫エルカナも子だくさんの妻ペニナがいて、彼女はハンナをいじめ抜きます。ユダヤ教社会では子だくさんは神の祝福の現れと見なされたので、子供に恵まれないハンナにとってペニナのいじめは屈辱的なものだったでしょう。

ユダヤ教社会の一夫多妻は、紀元前6世紀の終わりに民族がバビロン捕囚からエルサレムに帰還した頃には姿を消したと言われます。かつての王国はもう復興しなかったので、それでダビデやソロモンのような妻を何人も持てるような権力者が出なかったということでしょう。それから、バビロン捕囚の事件はユダヤ民族が神の意思に逆らうような生き方をしたことにそもそもの原因があるという考えが強まりました。それで、神の意思に忠実になろうとする姿勢が強まったと考えられます。イエス様も創世記の言葉をそのまま受け継いで次のように述べています。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体でる」(マルコ10章6~9節、マタイ19章1~4節)。

ここで、ひと言付け加えますと、聖書では神の民に属する者の不都合なことも結構書いてあります。妻を多く持った者にはよからぬことがあったということも包み隠さず述べています。ダビデのような神の目に留まった者についてもそうです。決して理想像だけで塗り固めることはありません。その意味で聖書はリアリスティックな書物と言えます。

 

3.ハンナの預言

  さて、ハンナの賛美の祈りから、神がどのような方で、私たちに何を計画しておられるのかを見てみましょう。

ハンナの祈りが神に聞き入れられて、待望の子供が生まれました。ところが、待望の子供だったのに、乳離れした段階でハンナは子供を祭司のエリに養子に出します。つまり、それだけ子供というのは神から授かったものなので親と言えども自分の所有物のようにしてはいけない、場合によっては与えて下さった方にお返ししなければならない、そういう考えが強く表れたケースと言えます。

3節から5節を見ると、神は高ぶるものを低くされ、低く抑えられている者を高く上げるという思想が現れています。イエス様の教えにもよく出てきます(マタイ23章12節、ルカ14章11節、18章14節)。

6節から8節を見ると、一見、神は低くされている者を高くされるという思想の続きかと思いきや、よく読んでみると、今の世が終わりを告げて新しい天と地に取って代わる日、復活の日、最後の審判のことを言っていることが見えてきます。「主は命を絶ち、また命を与え」というのは、ヘブライ語原文を少し詳しく訳すと「主は私たちを死のもとに連れて行くが、命に戻して下さる」です。そして「我々を陰府に下すが、また引き上げて下さる」。これはまさに死者の復活です。

7節と8節「主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる」は、これもヘブライ語原文を少し解説的に訳すと「主は取り上げられるが、豊かに富ませてくれる、高ぶった者をヘリ下させる」です。「弱い者を塵の芥の中から立ち上がらせ、貧しい者を芥の中から高く上げ、高貴な者と共に座に着かせ、栄光の座を嗣業としてお与えになる」というのも、弱い者と訳されるヘブライ語の単語דלは意味が広く、無力な者、取るに足らない者、虐げられた者、弾圧された者等も含みます。「塵の芥」と訳されている単語עפרも「滅びゆくものの領域、過ぎ去るものの領域」の意味を持つと辞書に出ています。それでここは、「虐げられた者をこの滅びる世から立ち上がらせて、貧しい者を灰溜めの中から引き上げて下さる。それは、我々が高貴な方々と共に暮らすようになるためである。神は受け継ぐものとして栄光の座を与えて下さる」。どうです、復活のことを言っているように聞こえてくるでしょう。無力な者、弾圧された者が奪われたり失ったものを補って余りあるくらいに報われるというのは、この世でないがしろにされたり中途半端になってしまった正義が完全に実現する「神の国」も見えてきます。8節の終わりに、「大地のもろもろの柱は主のもの、主は世界をそれらの上に据えられた」とあります。これは、まさに主なる神はこのように天地を創造する力を持つ方である。そうであれば、最後の審判も完全な正義も実現できるということです。

ハンナの賛美をこのように終末論的に捉えることに難色を示す向きもあるかもしれません。ハンナがここで低くされた者が高くされると言っているのは、不妊で虐げられた自分が子供を授かって逆転勝利したことを示唆しているにすぎないと言われるかもしれません。でも、辞書に出ている意味の範囲内で可能な捉え方です。もちろん、ハンナが終末論を意識して語ったかどうかはわかりません。しかし、逆転勝利して神に賛美するハンナの口を通して、神は終末論的な逆転勝利を語らせたということが見えてくると思います。

10節は「主は地の果てまで裁きを及ぼし」と訳されていますが、ヘブライ語の言葉דיןは「正義をもたらす」の意味があります。それで、「地の果てまで正義を実現する」と訳せます。これまで見てきた終末論とかみ合います。ここで「王」と「油注がれた者」-メシア―が登場しますが、それは誰のことでしょうか?サムエルが油を注いで王として就任させたサウルとダビデのことでしょうか?今まで見てきたこと、預言が最後の審判、復活、正義が完全実現する「神の国」のことを言っていることを考えると、これはイエス様のことを言っているとみるべきでしょう。イエス様が登場するよりも1,000年前にハンナの口を通してイエス様のことがこのように預言されていたのです!

 

4.マリアの預言

 次にマリアの賛美の祈りを見てみましょう。マリアは、天使から聖霊の力でイエスという男の子を産むことになると告げられていました。疑うマリアに対して天使は、年老いて不妊状態だった親類のエリザベトが神の力で妊娠した、神には不可能なことはない、と述べていました。マリアは、エリザベトに会いに出かけました。マリアの訪問を受けたエリザベトは、マリアが挨拶した時にお腹の赤ちゃんが反応したことに驚きます。マリアは、エリザベトの妊娠を見て、天使の言ったことは本当で、自分について言われたこともその通りになると確信しました。そして、この賛美の祈りをしたのです。

そこで、創造主の神がどんな方であるかが述べられます。48節で「身分の低い、この主のはしためにも目を留めて下さった」と言いますが、ここのギリシャ語の単語ταπεινωσιςの意味は社会的身分の高い低いというよりは、「ヘリ下り」とか「自分を高くしないこと、自分を低くすること」という特性ないし姿勢、態度のことです。「はしため」も「召し使い」のことですが、主人に仕える者です。ここは、「召し使いのように神の命じられること、言われることに聞き従ってお仕えする私は、自分を高くすることなど出来きない、ヘリ下った者です。あなたは、そのヘリ下った様に目を留めて下さった。」つまり、天地創造の神は、高ぶった人間には目を留めず、ヘリ下って自分を低くする者に目を留める方ということです。ハンナの賛美にも、またイエス様の教えにもあるように、真に神は、自分を高くする者を低くし、低くする者を高くする方なのです。52節で「身分の低い者を高く上げ」というのも同じです。ヘリ下った者、自分を低くする者を神は高く上げて下さる。

54節で「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」というのは、神が受け入れるのはユダヤ民族で他の民族は受け入れないような印象を受けてしまいます。もちろん、救い主がユダヤ民族の中に生まれてきたという意味で同民族が憐れみを受けたということはできます。しかし、その後何が起きたかというと、ユダヤ民族はイエス様を救い主と受け入れる人たちと拒否する人たちに分かれてしまいました。それでは、イスラエルは全体としては憐れみを受けられなかったのか、というと、そういうことではなかったのです。本日の使徒書のローマ2章でパウロが教えていることを思い出しましょう。割礼を受けて見かけ上のユダヤ人である者が本当のユダヤ人であるとは限らない。なぜなら、割礼を受けても律法の掟を守らなければ意味がない。逆に割礼を受けていなくても律法の掟を守ったら、そっちの方がユダヤ人である。その者は心に割礼が施されている者であり、そうなったのは洗礼を通して聖霊を与えられたからである。

イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、心に割礼があるユダヤ人なのです。マリアからイエス様が生まれ、そのイエス様が十字架と復活の業をもって、人間が割礼を経ないでも神の子となれる道を開きました。マリアが新しいユダヤ人が誕生することを可能にしたのです。マリアの言う「僕イスラエル」とは新しいユダヤ人から成るものです。マリアは本当に預言しているのです!

イエス様が成し遂げた罪の償いを純白な衣のように纏うキリスト信仰者は、自分をその被せられた衣に合わせようと、それにそぐわない罪に対して敏感になり、神の御心に沿うように生きようと心がけます。敏感であるがゆえに、まだまだ自分には罪があることを気づかされます。しかし、十字架は打ち立てられたので、そこに罪の償いと赦しがあることは打ち消すことはできません。キリスト信仰者は、その打ち消すことのできないものを重石のようにして罪を押しつぶしていきます。

兄弟姉妹の皆さん、このように私たちは律法の掟の文字を注視して神の御心に沿うように生きる者ではなく、ゴルゴタの十字架に目を向けることで神の御心に沿うように生きる者です。まさに、聖霊を受けて心に割礼があるユダヤ人なのです。マリアが賛歌で言っている僕イスラエルの一員なのです!

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「我々が目指す旗印」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書3章1-12節

主日礼拝説教 2019年12月8日待降節第2主日

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

  本日の福音書の箇所は、洗礼者ヨハネが活動を開始したことについて述べています。ヨハネはルカ福音書1章によれば、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました。らくだの毛の衣を着、腰に皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。そして、神の定めた日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の人が、ユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ3章には、この出来事がいつだか詳しく記されています。ローマ帝国皇帝ティベリウスの治世の第15年で、ポンティオ・ピラトが帝国のユダヤ地域の総督だった時でした。ティベリウスは、あのイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で西暦14年に即位します。その治世の第15年ということです。彼が即位したのは西暦14年の9月で、その年を数え入れて15年目なのかどうかは不明です。それで、西暦28年か29年の出来事いうことになります。いずれにしても、洗礼者ヨハネの登場もイエス様の登場も歴史的出来事です。おとぎ話ではありません。

 

2.洗礼者ヨハネのスローガン ‐「悔い改めなさい」と「神の国は近づいた」

  洗礼者ヨハネのスローガンは、「悔い改めなさい。天の国は近づいたのだから」でした。まず、「天の国が近づいた」ということは何のことか?「天の国」とは天国のことですが、普通、日本人が天国と聞いたら、人が死んだらふわふわと上がって上から私たちを見下ろしている居心地にいい場所というイメージがあるでしょう。それが、私たちのいるところに「近づいてきた」と言うのです。これは一体どういうことでしょうか?

「天の国」とは、他の福音書では「神の国」と言われています。マタイは「神」と言う言葉を畏れ多くて避ける傾向があり、「天」と言い換えます。それでは、「天の国」、「神の国」とはどんな国かと言うと、「ヘブライ人への手紙」12章には次のように言われています。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうという、この世の終わりが来る。その時、唯一揺り動かされてしまわないものとして現れる国です。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうというのは、イザヤ書65章や66章にあるように、天地創造の神が今ある天と地に替えて新しい天と地を創造するということです。黙示録21章にはもっと端的に、新しい天と地が創造される時に神の国が見える形で現れることが預言されています。

 キリスト信仰に特徴的なこととして、この世には終わりがあるという立場をとります。しかし、この世が終わってもそれで終わりっぱなしではなくて、その後に新しい世が来るから今のは終わるという立場です。新しい世では神の国が唯一存在する国となり、そこに迎え入れられるか入れられないかを決する最後の審判というものがある。迎え入れられる者は「復活の体」という創造主の神の栄光を現わす体を与えられて迎え入れられる。この壮大な大変動の時にイエス様が再臨して最後の審判を執り行う。黙示録21章4節を見ると、神の国では「涙が全て拭われ、死も心配も嘆きも苦しみもない」と言われます。涙には痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。それなので、この世でないがしろにされたり中途半端で済んでしまった正義が完全なものにされます。さらに、神の国は黙示録19章で言われるように結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。この世での労苦が全て労われるところです。

 さて、そんな夢のような国が2000年前に「近づいた」とヨハネが言ったのは、一体どういうことなのか?そもそも神の国というのは、今ある天と地がなくなってこの世が終わる時に出現するものではないか?今私たちのまわりにある天と地は当時と全く同じではないか?新しい天と地などまだ創造されてはいないではないか?いろんな疑問が沸き起こります。

 実は、2000年前に神の国が近づいたというのは、イエス様が行った無数の奇跡の業と関係があります。皆様もご存知のようにイエス様は不治の病の人々を完治したり、わずかな食物で大勢の群衆の空腹を満たしたり、大嵐を静めたり、悪霊を憑りつかれた人々から追い出したり、とにかく無数の奇跡の業を行いました。それで、2000年前のイエス様の存在と活動というのは、将来の神の国を、まだ今の天と地がある段階で人々に体験させる、味あわせるという意味がありました。それで、神の国が本格的に出現するのは、やはり今の天と地が新しい天と地にとって替わられる日だったのです。そういうわけで、洗礼者ヨハネが「神の国が近づいた」と宣べ伝えたのは、この世の終わりが今すぐ来て神の国が本格的に現れるということではなく、この神の国を人々に体験させられる方、イエス様が来られる、イエス様が神の国と一体としてある、彼のすぐ後ろに控えている、それくらい一緒にあるということを意味したのです。

 洗礼者ヨハネのスローガンのもう一つは「悔い改めなさい」でした。「悔い改め」と言うと、何か悪いことをして後で悔いる、もうしませんと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、この「悔い改め」と訳されるギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)には、もっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書によく出てくる言葉で「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになります。それで、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで自分の造り主である神に背を向けて生きていた生き方を改めて生きる、生き方を方向転換して、神のもとに立ち返る生き方をする、そういう意味を持つようになりました。

 そういうわけで、洗礼者ヨハネのスローガン「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というのは、「あなたがたはもともと自分の造り主である神に背を向けていた生き方をやめて、神のもとに立ち返りなさい。なぜなら、神の国と一体になった方が来られるからだ。その方のおかげで、あなたたちは神の国に迎え入れられることになるのだ」という意味になります。

 

3.洗礼と神の国への迎え入れについて

  ところで、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた大勢の人たちは、まだイエス様のことを知りません。それで、ヨハネのスローガンを聞いた時、ああ、この世の終わりがすぐ来るんだ、今ある天と地が預言者の言った通りに新しい天と地に取って替えられる日がすぐに来るんだ、と理解したようです。そうなると、預言書に言われているように(イザヤ書24章21ー22節、26章20ー21節)最後の審判も来てしまう。これは大変だ、ということになりました。ヨハネは、特にファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教社会の宗教エリートの人たちには特に手厳しく、蝮の子らよ、お前たちは神の怒りから免れると思っているのか、お前たちは斧が根元に置かれた木と同じで、良い実を結ばない木だから、切り倒されて火に投げ込まれてしまうんだぞ、などと言います。宗教エリートでさえダメなんだから、人々は神の怒りと裁きから免れるために神への不従順と罪を赦してもらわなければならないと考えたのは無理もありません。皆こぞって洗礼者ヨハネに洗礼を授けてもらおうと彼のもとに集まってきました。そして、洗礼に際して罪を告白したのです(6節)。

 人々は、どうしてヨハネから洗礼を受けると罪を赦してもらえると考えたのでしょうか?当時のユダヤ教社会には、水を用いた清めの儀式がありました。それでヨハネから洗礼を受けたら罪から清められると考たと思われます。しかし、ヨハネの洗礼の意図は別のところにありました。どういうことかと言うと、マルコ7章の初めにイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。ファリサイ派が特に重視した宗教的行為として、食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清め等がありました。それらの目的は、外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。しかし、イエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間は本質的に神の神聖さに相反する汚れに満ちている。律法を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらない、神の意思に沿ったりそれを実現することには程遠く、神の国への迎え入れを保証するものではない、とイエス様は教えるのです。

人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世を去った後、復活させられて神の御国に迎え入れられません。この大問題に対して神が編み出した解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が受けるべき罪の罰を全部彼に担わせて彼に罪の償いをさせる。その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すというものでした。このことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。そこで人間が、ひとり子を犠牲に用いた神の解決策はまさに自分のためになされたのだとわかって、そのひとり子イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、してもらった罪の償いがその人のものになる。それでその人は罪を赦された者と神に見てもらえるようになる。使徒パウロが教えるように、人間は、洗礼を受けることで、罪の汚れを残したままイエス様の神聖さを頭から被せられる、イエス様を純白な衣のように着せられるのです(ガラテア3章27節、ローマ13章14節、さらにエフェソ4章23ー24節とコロサイ3章9ー10節では、着せられるのは霊に結びつく新しい人となっています)。あとは、この白い衣を手放さないようにしっかり纏うことで内に残っている罪を押しつぶしていきます。パウロが言うように、洗礼を受けた者は聖霊を受けているので、その聖霊の支援を受けながら肉から生じる罪の思いや行いを日々死なせていく、そうすれば復活の日に復活させられて神の国に迎え入れられるのです(ローマ8章13節)。

ところで、ヨハネの洗礼は、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前のことでした。神が人間に贈り物として与える罪の赦しはまだありません。ですから、ヨハネから洗礼を受けても、それは人間を神への立ち返りに向かわせるきっかけか出発点にしかすぎません。これとは別に、神の国に迎え入れられるのを確実にする完璧な罪の赦しが必要です。それが、先ほど申しました、イエス様の身代わりの犠牲がもたらした罪の赦しです。ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと預言しました。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。「火を伴う」というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2ー3節)、罪からの浄化を意味します。もちろん、洗礼を受けても、人間は肉を纏う以上は罪を内在させています。しかし、洗礼を受けることで人間は罪の赦しの救いを受け取る者となり、たとえ罪を内在させてはいても、信仰にとどまって白い衣をしっかり纏う限り、罪は人間を神の国への迎え入れを邪魔する力を失っている。その意味で人間は罪から浄化されるのです。

 そういうわけで、ヨハネの洗礼は罪の赦しの救いをもたらす洗礼ではありませんでした。けれども、彼が人々に自分の洗礼を呼びかけたのは、宗教エリートが唱道する清めの儀式では神のもとに立ち返ることなどできない、それほど人間は汚れきっている、むしろその汚れきっていることを認めることから出発せよ、そうすれば、もうすぐ実現する罪の赦しの救いを受け取れる器になれる、ということでした。預言者イザヤが述べた、道を平らにする、まっすぐにする、というのはこのことでした。もし、人間の掟や儀式で汚れが無くなると言うのなら、神が実現した救いはいらなくなってしまいます。それでは、道は整えられず、でこぼこのままです。

 

4.神の国と完全な正義

  こうして人間は、イエス様が罪を償って下さったおかげと、その彼を救い主と信じる信仰と洗礼によって神の国に向かう道に置かれて、その道を歩むようになりました。死からの復活が起こる日に復活の体を与えられて神の国に迎え入れられるようになりました。

ところで、復活の体を与えられて神の国に迎え入れられると言われても、何かかけ離れすぎて縁遠い話に思われるかもしれません。クリスチャンが伝道する時によく口にする言い方に「イエス様を信じましょう、そうすれば天国に行けます!」というのがあります。もちろん正しいことを言っているのですが、天国つまり神の国がどうして素晴らしいのか、どのように素晴らしいところか、それを言わないと空しいスローガンになってしまわないでしょうか?「天国に行けます」というのは、聞きようによっては、イエスを信じたら死んでしまう、縁起でもない、と思われてしまうでしょう。

天国が素晴らしいところというのは、何か綺麗な花が一杯に咲いている楽園をイメージするというような感覚に訴えてわからせることがあると思います。最初の天地創造の時にエデンの園がありました。次に起こる天地創造の時はどうでしょうか?黙示録21章と22章をみると神の国は都市のように描かれています。光はもはや太陽の光ではなく神の栄光の輝きです。その国のなかを輝く川が流れ、岸には「命の木」なる木がありますが単数形なので1本です。神の国には今私たちが美しいと感じる自然に類する自然はあるのでしょうか?それとも、同じ自然ではないかもしれないが、今の自然から美しいと感じるその「美しい」がもっと完成された「美しい」になっている。それで、今感じる「美しい」はその完成された「美しい」の前触れのようなものということなのか?もし、そうならば、私たちは神が最初の天地創造の時に造って下さったものの中にある「美しい」をもっと見つけ出して大切にする、そうすることで天国が感覚的に身近になるのでと思います。

聖書の観点は、天国をこのように感覚的だけではなく認識的に捉えるということもあると思います。「認識的」というのは正確な言葉ではないかもしれません。どういうことかと言うと、本説教のはじめで、神の国というのは、この世の労苦が全て労われて無念の涙を含む全ての涙が拭われて死も心配も嘆きも苦しみもない国、この世でないがしろにされたり中途半端で済んでしまった正義が完全にされる国と申しました。正義の問題については前回と前々回の説教でお話ししました。少し振り返りますと、正義というのは、この世の段階で人間同士の間で実現するのはとても難しい、一筋縄ではいかない。もちろん、損なわれたら回復しなければならない。そのために国や社会には法律や司法制度があり、国と国の間には国際機関がある。しかし、出来事を全て隅々まで100%詳細に正確に客観的に把握できる人はいません。それで、大きな悪や害を被ったのに、どんなに頑張っても償いが小さすぎるとか、逆に本当はそこまで要求する必要はないのに法外な償いや謝罪を求められることが起こる。人間同士が行うことは不完全で不釣り合いなことばかりです。

聖書の立場は、全ての人間の全てのことを知っている全知全能の神とそのひとり子のイエス様が下す判決が釣り合いがとれた完全なものである。だから、私たちがこの世で正義の実現を努力するにしても、全ては最後の審判の時に決着がつけられるということに託さなければならない。このことがローマ12章のパウロの教えからわかります。最後の審判での正義の実現に全てを託すと、キリスト信仰者はこの世では次のような姿勢にならざるを得ない。悪を憎む、しかし悪に対して悪で返すことはしない、迫害する者のために祝福を祈る、高ぶらず身分の低い人たちと交わる、相手を自分より優れた者として敬意をもって接する、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣く、自分で復讐せずに神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々、神の正義実現に全てを託すとこういう生き方になるとパウロは教えます。正義の回復や実現のために努力はしても自分自身は神にならないということです。そうならないのは、最後の審判で完全な正義が実現することに全てを託しているからです。

 そこで、神の国で完全に実現している正義とはどんなものなのか?「釣り合いが取れた」だの「完全」だの、言葉で飾らないでもっと具体的に言えないのか?具体的なことは天国がやって来ないとわかりません。それでも、本日の旧約の日課イザヤ書11章の預言を見ると、完全な正義が実現する神の国が垣間見ることが出来ます。本説教の締めとして、それを垣間見てみましょう。

まず1節の「エッサイの株」。「株」とは木の切り株のことです。木が切り倒されて無残にも切り株だけが残されている。そこから芽が出てくる。若枝が伸びてくる。これは何か?エッサイとはダビデの父親なのでダビデの家系が暗示されています。木が切り倒されたというのは、歴史的に見ると、ユダヤ民族の王国がバビロン帝国の攻撃を受けて滅亡することを指します。イザヤ書6章終わりにそのことを暗示する預言があります。神の意思に反する生き方をしてしまった民に対して神が罰として強大な帝国を送り込む。その攻撃を受けて国は荒れ果てて民は異国の地に連行されてしまう。それはさながら、大木が切り倒されたような様である。しかし、残された切り株が神聖な種になる、という預言です。預言通り国は滅びました。その後でバビロン連行から解放されて祖国に帰還できましたが、かつてのような栄華を誇った王国は復興できないでいました。そのような切り株から若枝が萌え出る、ダビデ家系から出てくるイエス様が登場したのです(後注)。

そのイエス様が最後の審判で裁きを下す時、どのような資質を備えているかが2節から5節まで言われます。神の霊に満たされている。その霊は知恵の霊であり洞察力の霊、助言する霊、力の霊、知識の霊、神を畏れる霊である。知恵は神の知恵ですから人間の知恵を超えています。洞察力も、助言も、力も、知識も皆、神のもので人間のものではありません。こうした資質を備えた方が正義を実現する判決を下す。その際、目で見えることや耳にすることに基づいて行わない。つまり、目に見えない部分も見極められる。声にならない声も聞き分けられるということです。

「弱い人のために正当な裁きを行い」というのは、ヘブライ語原文を直訳すると「立場の弱い人たちのために『正義をもって』(בצדק)判決を下す」です。「この地の貧しい人を公平に弁護する」も、「この世のへりくだった人たちのために『ストレートに』(במישור)判決を下す」です。「その口の鞭をもって地を打ち」というのは、辞書によれば「口」(פיו)は「口から発せられる決定」の意味があるので「決定の杖で地を打つ」です。王様が自分の決定を告げる時、杖で床を打つと臣下の者たちは「ははー」と畏まります。最後の審判者は決定を告げる時、その杖で大地を打ちます。大地は震え恐れおののきます。「唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる」というのは、「口から吐かれる息(ברוח)が強風のようで有罪判決を受ける者たちを永遠の死に吹き飛ばす」という意味になります。「永遠の死」については、本日の福音書の洗礼者ヨハネが「永遠に消えない炎」と言っています(ヘブライ語の辞書はHolladyの”Concise”です)。

最後の審判者は、まさに正義と真実を腰の帯のように身にまとっている。「真実」と訳されている言葉(האמונה)は、辞書では「信頼性のある」という意味です。最後の審判者を見れば、そのいで立ちは文字通り正義を体現し、信頼しきって大丈夫な方だとわかるものということです。

6節から9節までは、野獣や猛獣が家畜や幼子と一緒にいて何も危険がないということが言われます。それくらい完璧な安心と安全がある夢のような国です。ヘブライ語原文を見ても、同じ言葉や似た表現が繰り返され、詩の美しさを感じさせる個所です。何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。神を知っているということが全地に行き渡っている。まさに神を知らないことが一掃されるので、正義に反することも一掃されています。正義が隅々まで行き渡っています。

10節「その日」というのは、旧約聖書では「その日」、「主の日」、「神の怒りの日」という言い方でよく出てきます。それはバビロン捕囚の前の時代なら、敵が攻めてきて国が亡びる日という理解がされましたが、バビロン帰還の後の時代は、私たちの今の時代も含めて、それは今の世が終わり新しい世が来る時、イエス様の再臨の時、最後の審判の時、復活の起きる時を指します。その日に、エッサイの根は全ての民の旗印と立てられる。日本語訳では「国々がそれを求めて集う」と言ってますが、原語(גוימ「諸民族」)は「諸民族が旗印を目指して行く」です。黙示録でも言われるように、神の国に迎え入れられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きた者であれば、イエス様の出身民族であろうがその他の民族であろうが関係ないということです。

最後の「そのとどまるところは栄光に輝く」。「とどまるところ」と訳されている言葉(מנחתו)は辞書によると「休息の場」です。神の国とは、この世で流さなければならなかった涙を全て拭われて完全な労いを受ける永遠の休息の場です。「栄光に輝く」と訳される言葉(כבוד)は訳が難しく、impressive appearanceという意味があり、まさに息をのむ、目を見張る、そういう光景が目の前に広がるということです。今まで見てきたことを踏まえたら、神の国、天国はまさにそういうところだと言うほかありません。兄弟姉妹の皆さん、私たちが目指して進む旗印はこれではっきりしたでしょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

(後注)ただし、イザヤ11章1節の「切り株」はגזעで、6章13節のמצבתהとは違っています。

説教「闇は深くても、夜明けは必ず来る。」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイ21章1~11節、イザヤ書2章1~5節、ローマ13章11~14節

主日礼拝説教2016年11月27日 待降節第1主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

  フィンランドやスウェーデンのルター派教会では待降節第一主日の礼拝で必ず「ダビデの子、ホサナ」が歌われます。キリスト教会の新年の幕開けを元気に迎えるに相応しい歌だと思います。スオミ教会でも今皆さんと一緒に歌いました。フィンランド語やスウェーデン語では「ホサナ」は「ホシアンナ」ですが、この言葉は詩篇118篇25節にある言葉「主よ、どうか救って下さい」ヘブライ語のホーシィーアーンナァהושיעהנאに由来します。それで、フィンランド語訳とスウェーデン語訳の聖書でも本日の福音書の個所の群衆の歓呼は「ホシアンナ」になっています。どうして日本語の聖書と讃美歌では「ホサナ」になっているかと言うと、恐らくヘブライ語のホーシィアーンナァをアラム語に訳したホーシャーナהישע־נא 用いているのではと思います。アラム語というのは、イエス様の時代の現在のイスラエルの地域の主要言語です。ヘブライ語は旧約聖書を初めとする書物の書き言葉として残っていましたが、人々が日常に話す言葉はアラム語でした。会堂シナゴーグで礼拝が行われる時も、ヘブライ語の旧約聖書の朗読の後にアラム語で解説的な通訳がつけられていました。それなので、群衆が叫んだ言葉も、ヘブライ語のものよりはアラム語だった可能性が高いです。どっちの言葉にしても、もともとは「主よ、どうか救って下さい」の意味だったのが、古代イスラエルの伝統では群衆が王様を迎える時の歓呼の言葉として用いられるようになりました。日本語的に言えば、「王様、万歳!」になるでしょう。

 とすると、本日の福音書の箇所で群衆は、ロバに乗ったイエス様をイスラエルの王として迎えたことになります。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがった堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、ロバに乗ってやってくるのです。これは一体何なのでしょうか?

 同じ出来事を記したマルコ福音書11章やルカ福音書19章を見ると、イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じた時、まだ誰もまたがっていないものを持ってくるようにと言います。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味で、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、ロバに乗ってトコトコ、エルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

 

2.群衆の目に映ったロバに乗ったイエス様の凱旋

  このイエス様の奇妙なエルサレム入城は何かのパロディーでもなんでもなく、まことに真面目で、人類の運命に関わる重大かつ神聖な出来事でした。このことについては以前の説教でもお教えしましたが、今回は旧約の日課イザヤ書2章とローマ13章も用いて解き明かしを深めていこうと思います。

 まず、イエス様のこの行為は旧約聖書のゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味しました。ゼカリヤ書9章9ー10節には、来るべきメシア・救世主の到来について次のような預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。/見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ロバの子であるろばに乗って。/わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。/彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、ヘブライ語原文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者ということです。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した箇所から明らかなように、神の力を受けて世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者です。本日の旧約の日課イザヤ書2章でもそのような平和な世界が到来することが言われていました。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣をあげず、もはや戦うことを学ばない。」これを読むと、本当に世界中の戦車や戦闘機や軍艦を一斉にスクラップにして、全世界の核兵器やミサイルも全部どこか、アリゾナの砂漠でもゴビ砂漠でもシベリアのツンドラ地帯でもどこでもいいから一ヵ所に集めて全世界の人たちが注視する実況中継の前で一斉に解体・分解したら、どんなにかせいせいすることか。そんなことされては困ると言う人もいるかもしれません。兵器の解体、スクラップ化を妨げる要因は何かを列挙して、それらを一つ一つを除去する手立てを考えるというのは、新兵器をどんどん開発することよりも難しいことなのでしょうか?

 話がそれました。旧約聖書の「世界の平和」についての預言に戻ります。そういう平和な世界を打ち立てる者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と凱旋するのではなく、ロバに乗ってやってくるという預言がありました。イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。民衆の期待が高まったのは無理もありません。彼らが考えていた預言の実現というのは、ダビデ家系の者が王となって神の偉大な力を得てユダヤ民族を占領者ローマ帝国から解放してイスラエルの王国を再興するということでした。それが成就すると今度は、神の力を思い知った諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムの神殿に上って来る。このような理解が預言に対して生まれたのは、先ほどのイザヤ2章の3節の預言「国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。」これがあることは言うまでもありません。

 後世の私たちから見たら、そんなことはイエス様のエルサレム入城の後に起きなかったと事後的にわかるので、預言は見事に外れたと言うでしょう。しかし、当時の人たちは預言をまさにユダヤ民族の解放と諸国民のエルサレム神殿参拝の日である理解していたので、ロバに乗って凱旋するイエス様を見て、ついにその日が来たと思ったのです。それでイエス様を熱狂的な大歓呼の中で迎えたのでした。ところが、その後で何が起こったでしょうか?華々しい凱旋は、全くの期待外れの結果で終わってしまいました。イエス様はエルサレムの市中でユダヤ教社会の指導者たちと激しく衝突します。まず、神殿から商人たちを追い出して、当時の神殿体制に真っ向から挑戦しました。また、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者であるローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせてしまう、せっかく一応の安逸を得ているのに占領者の軍事介入を招いてしまう、そういう懸念を生み出しました。さらに、イエス様が自分のことをダニエル書7章に預言されている終末の日のメシア「人の子」であると公言したり、自分を神に並ぶ者とし、果てはもっと直接的に自分を神の子と見なしている、これも指導層にとって赦せないことでした。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けます。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。

 

3.イエス様の凱旋の本当の意味

  イエス様が十字架刑で処刑されて、これで民族の悲願は潰えてしまったかと思われた時でした。とても信じられないことが起こって、旧約聖書の預言は実はユダヤ民族の解放を言っているのではなく、何か人類全体に関わることを言っていることがわかるようになる、そんな出来事が起こりました。それは、イエス様が神の力で死から復活させられたことです。これによって死を超えた永遠の命が打ち立てられたことが誰の目にも明らかになりました。ダニエル書12章に預言されていた復活ということが本当に起こるものであることが明確になりました。死の力を上回る命があるということがはっきりしたのです。死の力を上回るものが現れた時、人間を死に追いやる役目を果たしていた罪も存在する意味を失いました。

どのようにして、そうしたことが起きたかと言うと以下の次第です。創世記に記されているように、最初の人間が創造主の神に対して不従順になり罪を自分の内に入り込ませてしまった。その結果、人間は神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまった。それを神のひとり子のイエス様が人間の罪を全部自分で引き取ってゴルゴタの十字架の上で人間に代わって神罰を受けて死なれた。まさにイザヤ書53章にある、人間が神罰を受けないで済むようにするために神の僕が自分を犠牲にするという預言が実現したのです。そしてイエス様が死から復活させられたことで、死は永遠の命を突き付けられて自分がもう絶対的な者ではないことを思い知らされました。人間を死に追いやる役目を果たしていた罪も存在する意味を失いました。

そこで人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、死は絶対者でない、罪も存在する意味がない、という状況の中に置かれることになります。そこでは、イエス様が成し遂げて下さった罪の償いを純白の衣のように頭から被せられて、神からは罪を赦された者として認めてもらえます。罪を赦されたのですから、神との結びつきが回復しています。進むべき道として、死を超える永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩むことになります。罪がキリスト信仰者に神罰が下るようにとそそのかしても、既に罪を償われて赦されてしまったので、神罰の下しようがありません。このようにして人間は罪の支配から脱することが出来るようになりました。永遠の命に向かうので、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限りは、死もその人には何もなしえまえせん。

このようにロバに乗ってのイエス様のエルサレム凱旋は、ある特定の民族の解放の幕開けなんかではなかったのです。旧約聖書をそのように解したのは一面的な理解でした。でも、そのような理解が生まれたのは、ユダヤ民族が置かれた状況や悲願を思えばやむを得ないことでした。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事はこうした一面的な理解に終止符を打ちました。神の御心は全人類の課題を解決することにあるということが明らかになりました。罪と死からの解放、造り主との結びつきの回復、そして死を超えた永遠の命の獲得、そうした全人類に関わる課題の解決がいよいよ幕を切って落とされる、それがイエス様のロバに乗ってのエルサレム凱旋だったのです。

 

4.キリスト信仰者と平和の実現

  イエス様の十字架と復活の業によって全人類にとっての課題が解決されたと言うのなら、ゼカリア書9章やイザヤ書2章にある、世界の完全な平和についての預言はどうなるのでしょうか?十字架と復活の出来事が起きて、そのような世界が果たして実現したでしょうか?人類の歴史を見渡せば、戦争が起きて終わって、少し和平が続いて、また戦争が起きるという繰り返しでした。武器のスクラップ化ということも、弓矢や刀の時代なら簡単に考えることができますが、現代のように装備、技術、規模とも途方もないものになってしまっては、そう単純なことではないのではないか。そうなると、預言された完全な平和というのは、ますます実現困難に見えてしまいます。

 兄弟姉妹の皆さん、実は、聖書で言われる、武器が存在しない世界、誰も戦争の仕方を学ばない世界、それくらい完璧な平和というのは、これは今の世の次に来る新しい世での平和のことです。父なるみ神が今ある天と地に替えて、新しい天と地を創造し、そこに唯一揺るがない神の国が現れる。この神の国にある平和がゼカリア9章やイザヤ2章で言われている完全な平和です。聖書の立場に立つと、今の世が終わる終末というものがあります。その時、イエス様が再臨して、「生ける人と死んだ人を裁く」という最後の審判があります。審判の結果、神の国に迎え入れられる人たちは神の栄光に輝く復活の体を着せられて祝宴の席に着き、この世の全ての労苦の労いを受けます。イザヤ書2章を読むと、諸民族がエルサレムに向かって進むとか「ヤコブの家」とか、ユダヤ民族に結びつく言い方がされるので、どうしても同民族の解放について言っているという理解になりやすい。しかし、イザヤ書の預言を黙示録と重ね合わせて読むと、実は預言は終末と新しい世のことを先取りして言っているとわかります。黙示録の方でも神の国を「天のエルサレム」などと呼びますが、それは名称だけのことで、現在中東にある都市とは関係はありません。

このように聖書では武器が全く存在しない、戦争の知識もないという信じられない平和な世が預言されています。そこで、この平和は今の世の次に来る新しい世の状態であるというのが聖書の立場だとすると、今の世ではそういう完全な平和は無理ということなのか?そうしたら、この世で平和の実現を求め努力することは意味がないのか?どうせ次の世で実現するのなら、今は別に何もしなくてもいいという考えになってしまわないか?聖書はこの世の平和問題について消極的な態度なのか?等々、いろんな疑問や反論が出るでしょう。

 この問題については、先週の説教でお教えした、完全な正義の実現ということを重ね合わせて考えてみたらよいと思います。この世では完全な正義は実現しない。例えば、とても大きな悪や害を被ったのに、その解決を目指してどんなに頑張っても得られる償いは小さすぎるということがある。また、他人に与えてしまった害に対してあまりにも法外な補償や謝罪を要求されることもある。そうしたことは、日々のニュースからでも、また自分の身の回りからでも、よく起こるとわかるでしょう。このように、人間同士の間で実現しようとする正義はどうしても偏ったり、不釣り合いなものになってしまう。しかし、神は最後の審判の時、不完全で未解決だった正義の問題に決着をつけるので、神の国は完全な正義で覆いつくされる世界となる。黙示録21章4節で、神は「彼らの目の涙をことごとく拭い取って下さる」と言われる時、その涙とは痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。文字通り「全ての」涙です。ギリシャ語原文でも「全ての」πανとついています。

神は最後の審判の時に無念の涙を含む全ての涙を拭って完全な正義を実現すると言われる。それじゃ、この世ではそういう正義は実現しないということなのか?もしそうなら、正義の実現のために努力するのは意味のないことになってしまうのか?実はそうならないということを先主日の説教でお教えしました。その時、ローマ12章でのパウロの教えが鍵になると申しました。もう一度みてみますとパウロは、悪を憎め、ただし悪に対して悪で返してはならい、迫害する者のために祝福を祈れ、相手を自分より優れた者として敬意を持って接しろ、高ぶらず身分の低い人たちと交われ、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣け、自分で復讐しないで神の怒りに任せろ、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませろ等々、そういうふうに教えました。神が正義を完全に実現するということに全てを託すと、そういう生き方になるのです。次の世に実現するからと言って、この世で何もしないで手をこまねいているわけではありません。不正義や不正には当然対抗していく。しかし、その場合、正義を振りかざして逆に不幸をまき散らさないようにするための神の知恵がここにあります。

完全な平和の実現もこれと同じです。預言にあるような完全な平和は次の世に実現するものである。だから、今この世にいる間は、ローマ12章の神の知恵に従って、平和に反することに対抗していかなければならない。知恵に従えるのは、神が平和を完全に実現することに全てを託しているからです。さらにローマ12章の18節をみてみると、パウロは全ての人たちと平和な関係を持つことを勧めています。他の人たちとの平和な関係を持てるかどうか、それがあなたがた次第であるならば是非そうしなさい、と教えます。つまり、キリスト信仰者は少なくとも自分から平和を崩すようなことはしてはいけない。それじゃ、相手がどんな出方をしても、こっちは何もしないで言いなりか?と言うと、そうではない。最後の審判の時に全てが決せられるということに全てを託して、この世では神の知恵に従って不正や悪に対抗していくということです。

 

5.闇は深くても、夜明けは必ずやって来る

 次の世での完全な正義と平和の実現に全てを託して、この世ではその正義と平和を遠くに見据えるようにして生き、神の知恵に従って不正や悪に対抗していく、これを本日の旧約の日課イザヤ2章は「主の光の中を歩く」ことと言います。使徒書の日課ローマ13章では、この光についてもう少し具体的に述べられています。

12節の「夜は更け、日は近づいた」。「日」とはお日様が出ている「日中」ですが、ここでは新しい天と地が創造されて復活の体を着せられた者たちが神の国に迎え入れられる日のことです。神の栄光の輝きに満ちた光の日中です。従って「夜」は、復活の栄光の前の時代なので、今のこの世の時代です。「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう」。「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。」今はまだ新しい天と地の創造が起きていない「夜」の段階であるが、この「夜」はもうすぐ終わる。だから、キリスト信仰者は約束されているのだから疑わずに、今はもう復活させられて神の栄光を現わす者になっているかの如く、そのような者としてこの「夜」が終わりつつある最後の時代を生きようということです。

この「夜」が終わる時代にあって、「日中」の復活させられた者として生きるためには「光の武具」を身に着けることが必要である。この世というところは、神との結びつきを持つ者や将来復活させられる者を見つけたら、すぐ引き離そうとするからです。キリスト信仰者が身に着けるべき武具はエフェソ6章にリストがあります。帯として神の真理、胸当てして神の正義、履物として平和の福音を告げる準備、盾として信仰、兜として救い、剣としての霊がそれです。これらの武具は神がキリスト信仰者にちゃんと取り揃えて下さるものです。信仰者は自分が纏っているこれらの武具をいつも確認しなければなりません。そうすることで、「欲望を満足させようとして、肉に心を用いない」ようになります。この文は、私なら意訳して「肉の言うことに耳を傾けたり聞き従うと欲望が欲望を生む状態となる」とするでしょう。これが闇の行いです。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみが言われています。肉の言うことに耳を傾けて聞き従ってしまうと、こうした闇の行いに走って行ってしまいます。夜が終わって明るくなったらその人は存在する場所がありません。しかし、イエス様が成し遂げて下さった罪の償いを白い衣のように被せてもらうことは、今からでも間に合います。夜は必ず終わります。急がないといけません。

 夜の闇は深くても

夜明けは必ず来る。

だから今のこの闇の残りの時間は、

もう光の中にいるつもりで生きよう。

もう闇の行い、肉の思いへの従属はやめよう。

夜が明けた時に手遅れにならないために。

だから、今から光の中にいるつもりで生きよう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         

アーメン

 

 

聖餐式:木村長政 名誉牧師

 

 

 

 

 

説教「最後の審判と神の正義の実現について」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書21章5ー19節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.「裁きの主日」の趣旨

CC0本日は6月9日の聖霊降臨祭から数えて第24の主日で、今年のキリスト教会のカレンダーの1年の最後の主日です。それなのでキリスト教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。待降節に入れば、私たちの心は、神のひとり子が人間となってこの世に贈られたクリスマスの出来事に向けられます。私たちは、2000年近い昔の遠い国の家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられた、あの赤ちゃんの誕生をお祝いし、私たちの救世主になる方をこのようなみすぼらしい形で贈られた神の計画に驚きつつも、そこに人知では計り知れない深い愛を覚えて感謝します。

今日の教会のカレンダーの1年最後の主日は、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」というのは、今のこの世が終わる時にイエス様が再び到来する、ただし今度はみすぼらしい姿ではなく神の栄光に包まれて天使の軍勢を従えてやって来る、そして、伝統的なキリスト教会で唱えられる使徒信条や二ケア信条にあるように「生きている人と死んだ人を裁く」ということです。まさに最後の審判のことです。裁きの結果、天の御国に迎えられる者たちは神の栄光を現わす復活の体を着せられて迎え入れられる、そういう復活が起きる時でもあります。実に私たちは、イエス様の最初のみすぼらしい降臨と次に来る栄光に満ちた再臨の間の時代を生きていることになります。つまり、クリスマスを毎年お祝いするたびに、一番初めのクリスマスから遠ざかっていくと同時にその分、主の再臨の日に一年一年近づいていることになります。その日がいつなのかは、マルコ13章32節でイエス様が言われるように、天の父なるみ神以外に誰もわかりません。そのためイエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように常時、神から与えられた自分の務めをちゃんと果たしていなさいと教えられるのです(34-38節)。

このように、教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることで、北欧のルター派教会では、この日、最後の審判に今一度、心を向けて、いま自分は神の御国に迎え入れられる者だろうか、と各自、自分の生き方を振り返るという趣旨の日です。とは言っても、フィンランドを見ても、教会員の大半は「裁きの主日」の礼拝など行きません。礼拝が終わったことを告げる教会の鐘が鳴るや、待ってましたとばかり、町々のクリスマス・ストリートが華やかなイルミネーションを伴ってオープンします。(ヘルシンキのアレクサンテリン・カトゥ通りのクリスマス・ストリートも今日の14時オープンだそうなので、時差を入れたらあと10時間ちょっとです。)私としては、待降節まで待つのが筋ではないかなと思うのですが。そのように、趣旨が実際に活かされているとは言い難い現状があります。それでも、自分の生き方を振り返って今後の方向を考える時、聖書という権威ある書物に照らし合わせてみるのはいつの世でも意味があると思います。

2.イエス様の複雑な預言を解きほぐす

本日の福音書の箇所は、ルカ福音書21章5節から始まって章の終わりまで続くイエス様の預言の初めの部分です。本日の説教はこの預言の解き明かしを中心に進めていきますが、旧約の日課イザヤ書52章と使徒書の日課第一コリント15章も解き明かしに欠かせません。

このイエス様の預言は少々複雑です。というのも、彼の十字架と復活の出来事のすぐ後に現在のイスラエルの地域に起こる出来事を預言しているかと思えば、もっと遠い将来に全世界の人類全体に起こる出来事を預言することもしているという、二つの異なる預言が入り交ざっているからです。一方では、私たちから見て既に過去になった出来事が起こる前に預言されている。他方で、今の私たちから見てこれから起こる出来事の預言も入っているのです。

 まず、この複雑な預言を解きほぐしていきましょう。以前にもお教えしたことなので、復習の意味で見ていきます。イエス様と一緒にいた人たちが、エルサレムの神殿の壮大さに感嘆します。それに対してイエス様は、神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言します(6節)。これは、実際にこの時から約40年後の西暦70年にローマ帝国の大軍によるエルサレム攻撃の時にその通りになります。イエス様の預言が気になった人たちは、いつ神殿の破壊が起きるのか、その時には何か前兆があるのか、と尋ねます。それに対する答えとして、イエス様の詳しい預言が語られていきます。

まず、偽キリスト、偽救世主が大勢現れて人々を誤った道に導く、しかし、彼らに惑わされてつき従ってはならない、と注意を喚起します。どうしてそういう偽救世主が現れるかというと、9節にあるように人々は戦争やさまざまな混乱や天変地異を耳にするようになり、この先どうなるだろうか、自分は大丈夫だろうか、と心配になる。そうなると、偽救世主たちにとってはまたとない機会で、自分についてくれば何も心配はないと言う。それで人々はそういう混乱や天変地異の時代になると偽救世主について行きやすくなる。8節で言われていますが、偽救世主は「世の終わりの時が近づいた」などと言って不安を煽るのです。そこでイエス様は、こうした不安と混乱の時代にどう向き合ったらいいかを9節で教えます。これらの出来事は世の終わりの序曲として必ず起こるものではあるが、これらが起きたからと言って、すぐこの世の終わりになるのではない。だから、偽救世主に助けを求める位に恐れる必要はないのだ、と。それで、イエス様は、不安の時代になっても「おびえてはならない」と命じるのです。そう命じられているのは、その時イエス様と一緒にいた人たちだけではありません。イエス様を救い主と信じる者みんなです。私たちも「おびえるな」と命じられているのです。

その混乱と天変地異の時代に何が起こるかということについて、イエス様は10節と11節で具体的に述べていきます。民族と民族、国と国が互いに衝突し合う。つまり戦争が勃発する。それから、世界各地に大地震、飢饉、疫病が起こる。さらに、天体に恐ろしい現象や大きな徴候が現れる。イエス様は、これらのことはこの世の終わりに先行するものではあるが、すぐ終わりが来るのではない。だから、これらのことが起きても、イエス様を救い主と信じる者は怯える必要はない、と言われるのです。そんなこと言われても、そういうことが起こったら、恐れたり怯えたりしないでいられるでしょうか?そうならないでいられる何か勇気のもとがあるでしょうか?それががなかったら、怯えるなと言っても空振りです。しかし、イエス様の観点は、キリスト信仰者はそういう勇気のもとがある、だから怯えるな、というものです。何がそういう勇気のもとか?それが本説教を通して明らかになると思います。

さてイエス様は、神殿破壊の前兆に何が起きますかと聞かれて、以上のように答えました。それなので、偽預言者、戦争、地震、飢饉、疫病、天体の徴候等々の混乱や天変地異が神殿破壊の前兆のように聞こえます。他方で、12節を見ると「これらのことが起こる前に」迫害が起こると述べていきます。つまり、迫害が先に来て、次に混乱と天変地異が起きるという順番になります。キリスト信仰者に対して起こる迫害は、権力者によって信仰者が連行されて自分の信仰の申し開きをしなければならなくなる。その時、信仰者がなすべきことは、この事態を信仰の証しの絶好の機会だと捉えること、どう弁明しようかと前もってあれこれ考えず、イエス様が反論不可能な言葉と知恵を与えて下さるのに任せて、その通りに話せばいいということです。迫害の中で痛々しいのは、権力者による迫害ならまだしも、親兄弟、親族、友人からも見捨てられて命を落とすことがあるということです。「イエス様は私の救い主です」と名前を口にするだけで、それほどまでに憎まれてしまう。しかし、そのような時でも、信仰者が忘れてはならないことがある。それは、信仰者は頭のてっぺんから足のつま先まで神の手中にしっかりおさまっている、だから髪の毛一本たりとも神の御手から洩れることはないのだということ。

神はお前たちから一寸たりとも目を離さず、お前たちに起こることは全て記録し全てを把握している。たとえ全ての人から見捨てられても、お前たちは神には見捨てられていない。神はお前たちを復活の日、最後の審判の日に天の御国に迎え入れるおつもりだ。それがわかれば、試練があっても忍耐できるのだ。試練の中で忍耐することを通して、天の御国の命を勝ち取ることが出来る、そう19節で言われます。忍耐するというのは、イエス様を救い主と信じる信仰に留まるということです。信仰を捨てさせようとする試練の中で忍耐して信仰に留まって、天の御国に迎え入れられて永遠の命を勝ち取ることが出来る。もし、御国への迎え入れと永遠の命の勝ち取りということが本当に起こらなければ、迫害に耐える意味がなくなります。そうしたことは本当にあるのでしょうか?このことも本説教を通して明らかになります。

ここでイエス様の預言に戻りましょう。出来事の順番は、まず迫害が起こって、それから偽預言者、戦争、大地震とその他の混乱や天変地異の時代が来ます。本日の個所の後になりますが、20節からは質問者にとっての関心事、エルサレムの神殿破壊についての預言になります。24節まで続きます。迫害が起きて、混乱や天変地異が起きて、エルサレムとその神殿の破壊が起こる。先ほども申しましたように、この破壊は西暦70年に実際に起こりました。イエス様は、約40年後に起こることを言い当てたのです。ところが、ここでよく注意しなければならないのは、迫害が起きて混乱と天変地異があって神殿破壊が起こっても、預言はこれで完結したのではないということです。イエス様は9節で、偽預言者、戦争、大地震等々の混乱と天変地異の出来事はこの世の終わりの前兆として起こると言っています。つまり、イエス様の主眼は質問者の意図を超えて、この世の終わりに向けられているのです。これらの混乱と天変地異はエルサレムの破壊の前にも起こるが、その後にも起こるということです。

そこで、この世の終わりそのものについて、25節から28節で預言されます。太陽と月と星に徴候が現れる。つまり天体に異常が生じる。それから、地上でも海がどよめき荒れ狂う異常事態になり、人類はなすすべもなく苦しみ恐れおののく。文字通り天体が揺り動かされるようなことが起こり、まさにその時、イエス様が再臨する。
太陽や月を含めた天体に大変動が起きるというイエス様の預言は、イザヤ書13章10節や34章4節(他にヨエル書2章10節)にある預言と結びついています。天体の大変動が起きて今ある天と地が新しい天と地にとってかわります。同じイザヤ書の65章17節で神は、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と言い、66章22節で「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に長く続くようにあなたたちの子孫とあなたたちの名も長く続く」と約束されます。さらに「ヘブライ人への手紙」12章では、今ある天と地が新しいものにとってかわる時、そこに永遠に残る神の御国が現れるということが預言されています。

ルカ21章28節で、イエス様は、天体の大変動の時に再臨される時こそが、キリスト信仰者にとって「解放の時」であると言いいます。「解放」とは何からの解放なのでしょうか?迫害でしょうか?戦争や自然災害や疫病や天体の大変動がもたらす恐怖や苦しみ痛みからの解放でしょうか?このことも本説教を通して明らかになると思います。

3.聖書の立場に立って世の終わりに立ち向かう

さて、イエス様の預言は当たるでしょうか?本当にこの世の終わりが来て、新しい天と地が創造されたり、最後の審判が起きたり、復活が起こるのでしょうか?

エルサレムの神殿の破壊は歴史上、実際に起こりました。その前兆である戦争や迫害も起きました。しかし、天地創造以来とも言える天体の大変動はまだ起きていません。神殿破壊からもう1900年以上たちました。その間、戦争や大地震や偽救世主は無数にありました。大地震も飢饉も疫病も天体の徴候も沢山ありました。キリスト教徒迫害も、過去に大規模のものがいくつもありました。ご存知のように、この日本でもありました。現代世界でも国や地域によっては迫害はあります。歴史上、そういうことが多く起きたり重なって起きたりする時には、いよいよこの世の終わりか、イエス・キリストの再臨が近いのか、と期待されたり心配されるということもたびたびありました。しかし、その度に天体の大変動もなく、主の再臨もなく、世界はやり過ごしてきました。イエス様が預言したことが起きるのは、まだまだ先なのでしょうか?それとも、1900年の年月の経験からみて、もう起こりそうもないと結論を下してもいいのでしょうか?

よく考えてみると、少なくとも天体の大変動がいつかは起こるというのは否定できません。これも以前の説教で申し上げたことですが、太陽には寿命があります。太陽には出来た時と終わる時があるのです。水素を核融合させて光と熱を放っている太陽は、あと50億年くらいすると大膨張して燃え尽きると言われています。膨張などされたら、地球などすぐ焼けただれてしまうでしょう。50億年というのは気の遠くなる年月ですが、それでも旧約聖書やイエス様が預言するように「太陽が暗くなる」ということは起こるのです。もちろん、太陽が燃え尽きるまで地球が大丈夫ということはなく、少しでも膨張し始めたら、地球への影響は甚大です。他にもまだ解明されていない天体の変動も起きる可能性だってあります。そういうわけで、今ある天と地は永遠に続かないということは科学的にも真理なわけで、聖書はそれを科学的でない言葉で言い表しているにすぎません。

それでは、今ある天と地がなくなった後で果たして本当に新しい天と地ができるのかどうか、これは今の科学では何も言えないでしょう。ところが聖書の方は、今ある天と地は創造主が造ったものなので、この同じ創造主がいつかそれを新しいものに造りかえる、それで今あるものはなくなる、という立場をとっています。この立場を受け入れるかどうかは、科学で証明できない以上、信じるか信じないかの信仰の領域です。信じる人はどうして信じられるのか?それは、万物には造り主がいるということ、つまり聖書の神を信じているからです。

万物には造り主がいるという立場をとる聖書は、さらに一歩踏み込んで、造り主と造られた人間の関係がどうなっているかも問います。関係がうまく行っているのかいないのか、ということです。聖書は、うまく行っていないという立場です。なぜかと言うと、最初に造られた人間が造り主の神に対して不従順になって罪を自分の内に入り込ませてしまったからです。それで人間と神との結びつきが失われて、人間は死ぬ存在になってしまった。だから、人間が代々死んできたというのは、代々罪を受け継いできたからに他ならないという立場です。

本日の旧約の日課イザヤ書52章3節で「ただ同然で売られたあなたたちは銀によらずに買い戻される」とあります。ヘブライ語原文を直訳すると、「あなたたちはタダで自分を売り飛ばした。金銭をもってしても自分を買い戻すことはできないであろう」ともっとシビアです(後注)。「自分を売り飛ばす」というのは、お金に困った人が自分を奴隷として売るということです。この個所では、人間が罪と死に売られてそれらの奴隷になったことを意味します。しかもこの場合は代金の支払いなしですから、大損もいいところです。罪と死から自分を買い戻してそれらから自由になりたいと思っても、お金で買い戻すことは出来ない。詩篇49篇9節でも「魂を買い戻す値は高く、とこしえに払い終えることはない」と言われています。人間が罪と死から買い戻されてそれらから自由になるという時、買い戻す先は神しかいません。もともと神のもとにいた自分を売り飛ばしたわけですから。人間はどうやって自分の造り主である神のもとに買い戻されることができるでしょうか?

その買い戻しを神は、ひとり子イエス様をこの世に贈って行って下さったのです。イエス様は全ての人間の罪を自分で引き受けてそれをゴルゴタの丘の十字架の上にまで背負って行き、自分があたかも全ての罪の張本人であるかのようにして神罰を受けて死なれました。このようにして私たち人間に代わって神に対して罪を償って下さったのです。しかも、神は一度死なれたイエス様を復活させて死を超える永遠の命を打ち立てました。死は、太刀打ちできないものを突き付けられたのです。そもそも、死の目的は、人間が造り主である神と永遠に切り離された状態にすることでした。それが、人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、罪の償いを白い衣のように頭から被せられ、神から罪を赦されたものとして見てもらえるようになった。そうなると、その人は神との結びつきが回復してしまい、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩む者になります。死は、その人が永遠の命に向かうことを阻止する力がなくなったのです。そして、人間を死に追いやる役割を持っていた罪も、いっくら信仰者に道を歩まらせて死に追いやろうとしても、信仰者が信仰にとどまろうとする限り、追いやることができない空振り空回りの状態です。まさに、本日の使徒書の日課第一コリント15章54-55節に言われている通りです。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」パウロは、罪のことを「死のとげ」と呼んでいます。

ただし、罪は空振り状態とは言っても、律法というものがあり、それが私たちの内に罪があることを暴露し続けます。56節で「罪の力は律法です」と言っているのはこのことです。信仰者といえども、外面上は言葉や行為で罪を犯さないとは言っても、内にある罪、悪い思いは律法によって暴露されます。しかし、その度に心の目をゴルゴタの十字架に向け、自分の罪の赦しはあそこに打ち立てられていると再確認できれば、自分が罪と死から解放されるために捧げられた犠牲はなんと大きいものだったか思い知らされ、とても厳粛な気持ちになります。これからは罪を犯さないようにしなければと思いを新たにします。このようにすればするほど、罪は空振りを続けるしかなくなります。罪の償いの十字架と永遠の命が打ち立てられた以上は罪と死は本当に力を失ったのです。イエス様を救い主と信じる信仰者は罪と死が力を失った状況の中に置かれているのです。

4.最後の審判と神の正義の実現

そこで、このような聖書の立場に立たず、天地創造の神を信じることがなければどうなるか見てみましょう。万物には創造主がいるということを知らなければ、今ある天と地はある時に造られたという発想がなく、永遠の昔からずっとあって、終わりもなくただずっと続いていくように思われるでしょう。でも、それは太陽や天体のことで明らかなように、永遠には続かないのです。終わりがあるのです。それなら、終わるのならそれで仕方がない、終わりは終わりなので全ては消えてなくなると考えるでしょう。しかしその場合、天地創造の神がないので、終わった後で新しい天と地に造り直されるということもなく、全ては本当に終わりっぱなしになってしまいます。そうなると、死者の復活も起こりません。せっかく復活しても居場所がないわけですから。従って、それまで霊とか魂とかいう形で残っていたものも、全てそこで終わりになって全部なくなってしまいます。創造主の神などいない、と言うとそうなります。
ところが、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた創造主の神を信じると、この自分は終わらないということがわかります。たとえ天と地の有り様がかわっても、自分もそれに合わせて神の栄光を映し出す復活の体(第一コリント15章35-49節)を着せられる、本日の個所によれば、その体は朽ちることもなく死ぬものでもないので、消えてなくなることはない。「自分はある」とわかっている自分が、この世からの死を超えて、ずっと続いていくことがわかります。そうすると、本説教の初めで申しました、この世の終わりの前兆が起きても恐れないでいられる勇気のもとがあるかということも、有り様が変っても続いていく自分が約束されていることがそれだということになります。

他方で、有り様が変っても自分が続いていくということに関して、こういう考えをする人もいます。聖書で言うような最後の審判なんか持ち出さないで、死んだ人は全員そのまま天国に行けるという考えです。そういう人から見たら、最後の審判で誰が天国に迎え入れられ誰が入れられないかなどと言うのは、教会の言うことを聞かないと地獄に落ちるぞと脅して人を教会に縛り付けようとすることになります。確かに、全員がそのまま天国に行けれということであれば、この世でどんな生き方をしたか心配する必要もなく、自分が新しい有り様で続いていけることになります。

ここで少し考えてみましょう。そういう考えだと、正義の実現はどうなるでしょうか?聖書の立場に立つと、最後の審判で天の御国に迎え入れられるとされた人たちは、その御国で目から涙をことごとく拭われる、そう聖書では約束しています(黙示録21章4節、7章17節、イザヤ書25章8節)。この涙は、痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含まれます。この世で中途半端や不完全に終わってしまっていた正義が最後の審判の時に完結に至らされ完全なものにされる。こうしたことがないと、正義の実現はこの世の段階に全て任されてしまうことになります。でも、それはとても難しいことです。日々のニュースを見ても気づかされるし、私たちの身の回りにも起こることですが、大きな悪や害を被ったのに、どんなに頑張っても償いが小さすぎるということが往々にしてあります。逆に、本当はそこまで要求する必要はないのに法外な償いや謝罪を求めることもあります。人間同士が行うことは、不釣り合いなことばかりなのです。

そこで、全ての人間の全てのことを知っている創造主の神が下す判断こそ釣り合いがとれた完全なものである、最後はそこに託してそれを待たなければならない、そうパウロがローマ12章でまさにこのことを教えています。悪を憎む、しかし悪に対して悪で返さない、迫害する者のために祝福を祈る、相手を自分より優れた者として敬意を持って接する、高ぶらず身分の低い人たちと交わる、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣く、自分で復讐しないで神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる、という教えです。神の正義実現に託してそれを待つと、こういう生き方になるのです。人間が正義を掲げて逆に不幸をもたらさないための知恵がここにあります。それは、神の審判に委ねそれを待つということが土台にあります。

最後の審判とそれに続く天の御国への迎え入れということに関して、審判も新しい世もない、全ては滅んで消えるというのは、正義の実現を全て人間同士の間で解決するように任せることになります。そこでは、神の審判など土台に置くパウロの教えは馬鹿馬鹿しく思われるでしょう。なんてお人好しなんだ、と。また、全員が天国に入れるというのも、これと同じことになると思います。神の審判がないのですから、正義の実現はこの世のことだけになります。こうして見ると、天国も何もなく全ては消滅するという立場と、全員が天国に入れるという立場は深いところでは繋がっていると言えないでしょうか?

兄弟姉妹の皆さん、本日の使徒書の第一コリント15章のところでパウロは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は復活の朽ちない死なない体を着せられることについて述べた後、次のように結びます。そういうふうに新しい有り様に変えられるのだから、この世ではしっかりと信仰に立って揺らぐことがないようにしなさい。その場合、主の業に溢れるようになりなさい、と。日本語訳では「励みなさい」などとそつなく訳していますが、ギリシャ語原文では「主の業で溢れかえりなさい」です。主の業というのは、まさに先ほど申しました、悪に対して悪を返さず、敵が飢えていたら食べさせる等々の業です。それらは、神の審判に全てを委ねそれを待つということが土台にあってできるのです。そして、パウロの結びの言葉はこうです。それらの業は労苦を伴うが、主に結びついている者には無駄に終わることはない。どうしてそう言えるかと言うと、最後の審判で神の釣り合いの取れた完全な正義が実現するからです。キリスト信仰者だったら、ひとり子イエス様を贈って下さった神の正義ですから文句なしに受け入れます、と言います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

(後注)イザヤ書52章3節の神の言葉について、否定辞לאがבכסף(銀/金銭によって)にかかると考えると日本語訳のようになります。חגאלו(買い戻す)にかかると考えるとシビアな意味になります。
 イザヤ書の本日の個所52章1~6節はとても興味深いです。イスラエルの民のバビロン捕囚からの解放が人類の罪と死からの解放のプロトタイプのようになっているからです。神は将来、人間を罪と死から解放する意思を示すが、それが口先ではないとわからせるために手始めとしてイスラエルの民を捕囚から解放するというようなことです。それは、あたかも、イエス様が全身麻痺の人を前にして、最初、罪の赦しを宣言して、宗教エリートから神への冒涜だと批判された後すぐ、その人を歩けるようにしたことを想起させます。全身麻痺の人を癒せば結果が目に見えるので、イエス様には奇跡を起こす力があるとわかります。でも、あなたの罪は赦されたと言っても、目に見えた効果はないので、信じない人には口先だけにしか聞こえません。それで、罪の赦しの宣言をした後に癒しを行ったことで、イエス様の言うことは口先ではないと思い知らされます。この二つの事例の連関性を明らかにするためにイザヤ書52章4~5節の解き明かしが必要です。ここにもいろいろなことが含まれていると思います。ただ、解き明かしをそこまでやったら、説教が際限なくなってしまいます。それで今回はしないでおきました。

説教 「聖書の神が私の神になる時、私は復活の日に復活させられる」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書20章27-40節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.「復活」はしつこいテーマか?

本日の福音書の箇所は、復活という、キリスト信仰の中で最も大切な事の一つについて教えるところです。復活というのは、人間はこの世から死んだ後どうなるかという問いに対する聖書の答えの核心です。本教会の礼拝説教でも何度も取り上げてきました。本日の個所では、復活をまた別の角度から見ていくことになります。同じ事柄ですが、いつもいろんな角度から見ていくことで全体像がはっきりしてきます。

復活は、人間は死んだらどうなるかという問題に関わります。それで、死ぬだの復活だの、どうしていつもそう暗い話ばかりするのか、もっと明るい話題を取り上げてみんなをハッピーにするのが宗教の役割ではないか、と煙たがられるかもしれません。特に最近は今月初めに全聖徒主日があったせいか、復活についてお話しすることが多かったのでそう思われてしまうかもしれません。でも、誤解して頂きたくないのですが、キリスト信仰者は年がら年中、死んだらどうなるかばかりを考えて生きているわけではありません。普段はそんなことを考えないで普通に生きています。ただ何かの拍子でふと、あれっ、人間は、またはこの自分は死んだらどうなるんだっけ、と頭によぎる時はあります。そんな時はすぐ、ああ、聖書はこう言っていたな、と思い出して、それを確認したらまた普通に戻って普通を続けます。だから、死んだらどうなるかという問いに埋没して抜け出られなくなることもないし、逆にそんな問いには近づいて欲しくないと懸命に避けることもしない。来たら来たで、確認してハイ終わり、です。確認するものがあるというのはいいことです。

今日の説教は福音書の個所の解き明かしが中心になりますが、解き明かしに入る前に、復活について一般的なことを述べておきます。ただし大きな事ですので、復活の全容については立ち入らず、本日の個所の理解に役立つことだけ見てみます。復活は、まず十字架にかけられて死んだイエス様の死からの復活があります。これは約2000年前に起きた過去の出来事です。それから、イエス様を救い主と信じる者たちが与る将来起きる復活があります。ここで注意すべきことは、将来の復活は将来のある時に人類全員一括して関係してくる出来事ということです。人間が一人亡くなるたびにその都度起きることではありません。その将来のある時とは、今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地が創造される時(イザヤ65章17節、66章22節、黙示録20章11節、22章1節)、また、今ある全ての被造物が揺るがされて除去され、かわりに唯一揺るがされずに残る神の国が現れる時(「ヘブライ人への手紙」12章27-28節)です。イエス様が再臨するのも同じ時期になります。

黙示録20章を見ると、そういう天地の大変動が起こる時に、まずイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした者たちが復活させられる。これは第一の復活と言われています。その次に残りの死んでいた者に対して神を裁判官とする裁判が行われます。全ての人が前世でどんな生き方をしたかを記した記録があって、それに基づいて判決が言い渡されます。ある者は神の国に迎え入れられますが、別の者は永遠に燃えさかる火の海に投げ込まれます。黙示録には「第二の復活」という言葉はありませんが、神の国に迎えられた者たちがそれに与るということになります。

ところが、第一テサロニケ4章を見ると、使徒パウロは復活について次のように述べています。イエス様再臨の時、まずイエス様としっかり繋がりがある死者たちが復活させられる。その時点でまだ生きている信仰者たちが彼らと合流させられて天のみ神のもとに迎え入れられる。ここでは特に裁判のことも、第一の復活、第二の復活ということもありません。黙示録では第一と第二の復活の時に死んだ者たちに判決が言い渡されます。つまり、みんな死んでいるわけです。パウロは生きている人のことも言っています。

そこで、黙示録と第一テサロニケで言われていることを頑張って合わせて理解しようとすると、大体次のことが浮かび上がってきます。天の御国に迎え入れられる者たちというのは、まず、その時点で既に死んでいた者たちは復活させられて迎え入れられる。これはいいでしょう。次に、その時点でまだ生きていた者たちに関しては、そのままの姿かたちで迎え入れられるということはないであろう。というのは、第一コリント15章でパウロは、復活させられる者は皆、この世の肉体のように朽ちてしまわない、神の栄光を現わす復活の体を着せられると言っているからです。なので、この世の姿かたちのまま天の御国に迎え入れられるということはありません。みな、死から復活させられた者たちと同じ復活の体を着せられるわけです。誰もこの世の姿かたちで天の御国に迎え入れられないという意味で、皆がこの世の肉体から離別するということになります。それから、もう一つ忘れてはならないことは、迎え入れられる者たちと入れられない者たちの二つに分かれるということは、やはりそれを決める最後の審判があるということです。

以上から、復活とは、将来に一括して起きることであり、人間一人一人死ぬ度に起こることではないことがお分かりいただけたかと思います。

 それでは、死んだ人たちは、将来起きる復活の日まではどこで何をしているのか?これも、本教会の説教の中でルターの教えに基づいて何回もお教えしました。亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っているということです。ところで日本では一般的に、人は死んだらすぐ天国か何かわからないがどこか高いところに舞い上がって、今そこから私たちを見守ってくれている、という考え方をする人が多いのではないかと思います。しかし、復活というものがあるキリスト信仰ではそんなことはありえません。死んだ人は今、神のみぞ知る場所で眠っている。高いところに行くのは将来のことで、その日その高いところから地上を見下ろしても、その時はもう天地大変動の後ですので、今ある地上はもう存在していません。

 それから、死んだ人が眠ってしまうだけなら、誰があの世から見守ってくれるのかと心配する向きもあるかもしれません。これもキリスト信仰では、見守って下さる方は亡くなった者ではなく、天と地と人間を造られた創造の神しかいません。この私たちを見守って下さるのは私たちの造り主である神であり、この方が、私たちの仕えるべき相手です。

 それでは、天の御国への迎え入れというのが起きるのは復活の日まで待たないといけないとすると、天国は今空っぽなのかという疑問が起きるかもしれません。もちろん、父なるみ神自身はおられます。天に上げられたイエス様も神の右に座しておられます。あと天使たちもいます。他にはいないのでしょうか?そこで気になるのが本日の福音書の個所です。イエス様が言います。かつて神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言った、と。そして神は生きている者の神である、死んだ者の神ではない、とも。そうなると、この三人は今生きているということになって、それはもうとっくに復活してしまったから、ということになるのか?これから行う解き明かしは、このことにも立ち入ります。

 

2.この世での有り様と復活の時の有り様

まず、本日の福音書の個所の出来事の次第を見てみましょう。サドカイ派というユダヤ教社会のグループの人たちがイエス様を陥れようと議論を吹っかけました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿の祭司を中心とする貴族階級のエリート・グループです。彼らは、旧約聖書の中の律法集であるモーセ五書を重要視していました。また彼らは、復活などないと主張していました。これは面白いことです。新約聖書に頻繁に登場するファリサイ派は復活はあると主張していました。復活という信仰にとって大事な事柄について意見の一致がないくらいに当時のユダヤ教は様々だったのです。(この他に聖書には登場しませんが、エッセネ派という派もあり、これは有名な死海文書を形成したグループです。復活はあるのかないのか、エルサレムの現実の神殿は正当なものかどうか、という争点で色分けすると三つのグループの立ち位置がわかり、当時のユダヤ教の多様性が明らかになります。この辺のことは礼拝の説教では取り上げることではありません。)

サドカイ派の人たちが、イエス様の教えが間違っていることを人前で示そうとして復活をテーマに持ち出しました。同じ女性と結婚した7人兄弟の話です。申命記25章5節に、夫が子供を残さずに死んだ場合は、その兄弟がその妻を娶って子供を残さなければならないという規定があります。7人兄弟はこの規定に従って順々に女性を娶ったが、7人とも子供を残さずに死に、最後に女性も死んでしまった。さて、復活の日にみんながよみがえった時、女性は一体誰の妻なのだろうか?ローマ7章でパウロが言うように、夫が死んだ後に別の男性と一緒になっても律法上問題ないが、夫が生きているのに別の男性と関係を持ったら十戒の第6の掟「汝、姦淫犯すべからず」を破ることになる。復活の日、7人の男と1人の女性が一堂に会した。さあ大変なことになった。復活してみんな生きている。この女性は全員と関係を持っていることになる。ここからわかるようにサドカイ派の意図は、イエス様、復活があるなんて言うと、こういう律法違反が起きるんですよ、律法を与えた神はこんなことをお認めになるんですかね。サドカイ派はどんな表情で聞いたでしょうか?群衆の前で、イエスよ、これでお前の権威もがた落ちだ、とニヤニヤ顔で勝ち誇った表情だったでしょうか?それとも、ニヤニヤは心の中に留め、表情はあたかも素朴な疑問です、と言わんばかりの無垢を装う演技派だったでしょうか?

 これに対するイエス様の答えは、サドカイ派にとって思いもよらないものでした。イエス様の論点は二つありました。第一の論点は、人間のこの世での有り様と復活した時の有り様は全く異なるということ。第二の論点は、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことです。まず、復活の有り様を見てみましょう。

人間は復活すると、この世での有り様と全く異なる有り様になる、嫁を迎えるとか夫に嫁ぐとかいうことをしない有り様になる。つまるところサドカイ派は、人間は復活した後も今の世の有り様と同じだと考えて質問したわけだが、それは誤った前提に基づく質問である。それでは、復活した者はどんな有り様になるのか?まず、復活した者がいることになる場所は、今の天と地が新しい天と地に取って代わられた次の世ということになります。そして、復活した者はもう死ぬことがなく、天使のような霊的な存在になり、第一コリント15章のパウロの言葉を借りると、復活の体、朽ちることのない体、神の栄光で輝いている体を着せられた者になります。そういう復活に与る者は「神の子」である(36節)と。それなので、復活した者は、誰を嫁に迎えようか、誰に嫁ごうか、誰に子供を残そうか、そういうこの世の肉体を持って生きていた時の人間的な事柄に心と神経をすり減らすことはなくなって「神に対して、神のために」生きる「神の子」になる。この、復活した者が「神に対して、神のために生きる」ということは、あとでアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神のところで大事なことになりますので、また後ほど見ていきます。

 以上が、イエス様の第一の論点でした。サドカイ派は復活を正しく理解していない。だから、女性は7人兄弟の誰の妻になるのか、などという質問が出来たのだ。復活を正しく理解していれば、そんな質問は生まれてこない。完璧に的外れな質問だったのです。

 

3.「神に対して/神のために生きる」とは?

イエス様の第二の論点は、サドカイ派の律法理解が表面的なものであることを暴露するものでした。出エジプト記3章6節で神がモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗り出るところがあります。モーセから見れば、アブラハムもイサクもヤコブもとっくの昔に死んで既にいなくなった人たちなのに、神は彼らがさも存在しているかのように自分は彼らの神であると言う。これを引用したイエス様はたたみ掛けて言いました。「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ」(38節)。イエス様は彼らが生きていると言っているように聞こえます。アブラハムたちはやはり復活の日を待たずに復活して今、天の父なるみ神の御許に永遠の命を持つ者としているということなのか?

ここで問題となっていることは、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことが、復活があることの論拠になっているということです。それで、アブラハム、イサク、ヤコブが既に一足早く復活させられて今神の御許におられる、そういうふうに考えることも可能です。だた、その場合、じゃ、どうしてヨセフは言われなかったのか?あんなに信心深く憐れみに満ちていたのに。ヨセフはアブラハムたちと一緒に復活させられず、私たちと同じように復活の日まで眠っているということなのか?アブラハムたち3人とヨセフを区別するものは何なのか?そういうことを考えると、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神というのは、彼らが今天の御国にいるということではなく、みんなと同じように復活の日まで眠っているが、それでもこの聖句が復活がある根拠になる、じゃ、この聖句はどう理解したらよいのか?私は、アブラハムたちが今復活して生きているという可能性を保留したまま、別の理解の仕方もあることが今回分かりました。それをこれから述べていきます。

カギはイエス様の最後の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」にあります。実は、この日本語訳はまずい訳です。「神によって」と言うと、「神に依拠して」とか「神のおかげで」という意味になりますが、実はこの個所ではそういう意味ではないのです。もちろん、「すべての人は、神によって生きている」という言うこと自体は間違っていません。全ての人間は神によって造られて神から食べ物や着る物や住む家を与えられているという真理からみれば、まさに「全ての人は神によって生きている」と言うのはその通りです。しかし、それは復活について教える本日の個所と全然かみ合いません。本日の文脈から乖離してしまいます。加えて、「全ての人」というのもここでは全人類のことを指していません。誰を指しているかと言うと、35節に言われている人たち、「復活に与るのに相応しいとされた人たち」を指しているのです。文章というのは、それ自体は正しく意味を成すことを言っていても、文脈と無関係だったら意味を成しません。このイエス様の言葉が復活の教えにかみ合う意味を見つけ出さなければなりません。そんな意味は見つかるでしょうか?ここはまさに説教者の腕の見せどころです。

まず、「神によって」と訳されているギリシャ語のもとの言葉は「~によって」と訳さず、ほとんど直訳的に素直に「~に対して」とか「~のために」と訳します(後注1)。これが私個人の勝手な訳でないことは、英語訳の聖書NIVを見てもto him「彼に対して」と言っていて、「によって」とは言っていません。ドイツ語のEinheitsübersetzung訳ではfür ihn「彼のために」、スウェーデン語訳でも「彼のために」(för honom)、フィンランド語訳でも「彼のために」でも「彼に対して」でもとれる訳(hänelle)です。このように少なくとも4つの言語で「神によって」と訳しているものはありません。

次に、「神に対して/神のために生きる」というのは、どういう生き方かを見ていきます。わかりそうでわかりにくいです。イメージとして、神の方を向いて、神にお仕えするように生きる、ということが思い描かれますが、もっと具体的にならないでしょうか?それがなるのです。「神に対して/神のために生きる」という同じ言い方がローマ6章にあります。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は罪に対して死んでおり、神に対して生きている、と言っているところです。日本語訳では違う言い方で訳されてしまいますが、ギリシャ語で読むと、あっ、同じ言い方だ、とわかるのです(後注2)。そこでローマ6章で「神に対して/神のために生きる」がどんな生き方か言われていることを見れば、本日のイエス様の言っていることもわかります。

ローマ6章のパウロの教えは2週間前の説教でもお話ししました。それを少し復習します。神の意思を表す律法は、人間が罪を持つ存在であることを暴露する。しかし、神のひとり子のイエス様が十字架の上で神罰を受けたことで、人間の罪を全て人間に代わって神に対して償って下さった。だからイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いを純白な衣のように頭から被せられて、神から罪を赦された者に見なされるようになる。まさに罪の赦しが神からの「お恵み」として与えられる。それなので、律法を通して罪がますます暴露されようとも、罪の赦しのお恵みは常にそれを上回ってある。以前は罪が人間を永遠の死に陥れていたが、イエス様の十字架と復活の出来事の後は罪の赦しのお恵みが人間を永遠の命に導くようになった。

そういうふうに言うと、罪の赦しがお恵みとしてあるのなら別に罪にとどまってもいいじゃないか、どうせ赦されるんだから、などと言う人も出てくる。パウロは、勘違いするな!と言って反論する。「我々キリスト信仰者は罪に対して死んでしまったので、罪にとどまって生きるなど不可能なのだ」。ここで「罪に対して死んでいる」ということが出てきます。さあ、どういうことか?パウロは、そのことは洗礼の時に起きたと言います。どういうふうに起きたか?人間は洗礼を受けるとイエス様の死に結びつけられると同時に彼の復活にも結びつけられる。イエス様の死に結びつけられると、我々の内にある罪に結びつく古い人間も十字架につけられたことになり無力化する。そうして我々は罪にお仕えする生き方から離脱する。加えてイエス様は死から復活されたので、もう死は彼に力を及ぼせない。死が力を及ぼせないというのは、人間を死に陥れようとする罪も力を失ったということだ。イエス様が十字架で死なれた時、それは罪と死が彼に勝ったのではなく、事実は全く逆で、イエス様の死は罪と死が壊滅的な打撃を受ける出来事であったのだ。日本語訳で「罪に対して死なれた」というのは、このように罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれたということだ。そのことが十字架という一度限りの出来事をもって未来永劫にわたって起きた。

さてイエス様は罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれた後、復活された。それからは生きることは、神の栄光を現わす器として生きることになる。この、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現わす器として生きることは、イエス様だけでなく、洗礼を受けたキリスト信仰者にもそのまま当てはまる。洗礼を受けた者は復活の日に神の栄光を現わす体を着せられる日に向かってこの世を歩むということです(後注3)。

 

4.神は復活に向かう者の神

このように「神に対して/神のために生きる」とは、復活の命と体に向かって、天の父なるみ神、もともとは自分の造り主である方のもとに向かって生きることです。そのように生きる者は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、イエス様の死と復活に結びつけられて、その道に置かれて歩む者です。イエス様が「神は生きている者たちの神である」と言うのは、このことです。ここで「生きている」というのは、ただ単にこの世で生存していることではなくて、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むことです。神はそういう者たちの神であると言うのです。それなので、「神は~の神である」と言う時、その~はその道を歩んでいるということです。こういうふうに「神は~の神である」という言い方は、その~は復活が約束されている者という意味が含まれています。その~に自分を当てはめてみて下さい。この私が聖書の神、つまり創造主でありイエス・キリストの父である神のことを「私の神です!」と言うのは、私はその神に向かって歩んでおり、復活の日に神は私を復活させてくれると信じていると告白することになります。同じように、「神はアブラハムの神である」と言うのも、アブラハムは復活の日に復活させてもらえるということを意味します。

「神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言い方にはこのような意味が含まれていることは、復活を信ぜず、復活の内容も知らないサドカイ派の人たちには全く意味不明だったでしょう。しかし、イエス様の答えを聞いて、かつて神が自分のことをアブラハムの神と言ったのは、単に過去の時代にアブラハムに対して神として立ち振る舞ったという過去の意味ではなく、何か今の自分たちにも関係がある深い意味があると思い知らされたでしょう。ただ、それがどんな意味か具体的なことがわかるのはイエス様の十字架と復活の出来事が起きるのを待たなければなりませんでした。それでも、イエス様の二つの論点を聞いた律法学者が聖書には何かただ事ではないことがあると感じ取りました。日本語訳では「先生、立派なお答えです」とお上品に訳していますが、私などは「先生、その答え、ちょっと凄いよ」と言い換えるでしょう。

最後に、なぜ神はアブラハム、イサク、ヤコブの3人だけの神であると名乗ったのか?ヨセフやベンヤミンは入れなかったのか、ということについて。神がモーセにこう名乗ったのはどんな時だったでしょうか?それは、これからモーセがイスラエルの民を率いて奴隷の国を脱して約束の地カナンに民族大移動する任務を与えられる場面でした。神はアブラハムとイサクとヤコブに対して、お前の子孫にカナンの地を与えると約束していました。その約束をこれから果たすという時に、神はその約束を述べた3人の名を引き合いに出したのです。ヨセフもベンヤミンも皆、アブラハム、イサク、ヤコブ同様に復活に与ることには変わりありません。ただ、モーセの前で神は約束した相手に限定して名乗って、自分はした約束を忘れない、必ず果たす者である、と明らかにしたのです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、聖書の神は約束したことを忘れず、必ず果たす方というのは、私たちの復活もそうです。聖書の神が私たちの神になるとき、私たちは復活の日に復活させられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように 
アーメン

(後注1)αυτω代名詞、男性、単数、与格

(後注2)ルカ20章38節αυτω ζωσιν、ローマ6章10節ζη τω θεω、11節ζωντας (…) τω θεω (…)。

(後注3)「罪に対して死ぬ」の「~に対して」の与格はdativus incommodiの意味であると、2週間前の説教の後注に記しました。「神に対して生きる」の「~に対して」の与格は対照的にdativus commodiの意味になるわけです。

説教「信仰に生きよ、そして遭遇し祈れ」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書19章11ー27節

 

主日礼拝説教 聖霊降臨後第22主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 本日の福音書の箇所はイエス様のたとえの教えです。これから王様になるという位の高い人が家来たちに1ムナという単位のお金を与えて、自分の留守中に何か商売か事業をさせて、どれだけ儲けを得るか試す話です。1ムナというのは当時の肉体労働者の日当100日分の金額ということです。どれくらいの金額か、今の感覚で言えば、週休2日で最低賃金で働いた4カ月分くらいの給与ということになるのではと思います。そこで、たくさん儲けを得た家来と少ししか得なかった家来、全然得なかった家来の3人が登場します。王の位を受けて戻ってきた人がそれぞれにどんな態度をとったかは、先ほど読んでいただいた通りです。この教えは少しわかりにくいです。登場する王様は、儲けを得なかった家来のお金を取り上げて、一番儲けた家来にあげてしまいます。儲けを得なかった家来は、王様が不在中、お金をずっと布に包んでしまっていたのですが、それはお金を大切に保管していたことになります。お金は減りもせず、なくなりもしませんでした。でも、王様は大いに不満でした。さらには、自分が王になることを反対する者たちを連れ出して「打ち殺せ」とも命じます。とても残酷な王様にみえます。イエス様は、このたとえで一体何を教えたいのでしょうか?

まず、イエス様がこのたとえを話された理由をみてみます。それは11節に記されています。イエス様が「エルサレムに近づいておられ、人々はすぐにでも神の国が現れると思っていたからである。」どういうことでしょうか?イエス様は大勢の人たちを伴って、ユダヤ民族の首都であるエルサレムに向かっています。人々はイエス様に大きな期待を賭けていました。この方は無数の奇跡の業を行い、民族の宗教指導者たちなんか太刀打ちできない権威をもって、天地創造の神の意思を教えられる。誠にかつての偉大な預言者級の方で、この方がエルサレムに入城すれば神の天使の軍勢が加勢して、イスラエルを占領しているローマ帝国軍を追い払い、占領者と結託している支配層も叩き出して、真の神の国が実現する。そして旧約の預言通りに諸国の民が天地創造の神を参拝しにエルサレムにやってくる。大体そういう期待です。しかし、天と地と人間を造られた神が全人類のために実現しようとしていた計画は、そんな一民族の解放をはるかに超えたもっとスケールの大きなものでした。この時はまだ誰もそのことはわかりませんでした。

そこで実際に起こったことをみてみましょう。イエス様は、エルサレム入城後、宗教指導者たちと激しく対立し、最後は一人の弟子に裏切られ他の弟子たちにも見捨てられて逮捕され、裁判にかけられて十字架刑に処せされました。それまで従っていた人たちも、期待外れだったとイエス様に背を向けました。ところが、死んで墓に葬られたイエス様は神の力で三日目に復活させられ、死を克服し永遠の命の扉を開いた者となって大勢の人たちの前に現れました。このようにして神の人間救済計画が実現したのです。つまり神は、自分と人間との結びつきを損なっていた人間の罪という重荷を全部イエス様に背負わせて十字架の上にまで運ばせて、そこで人間に代わって神罰を受けさせました。こうして神に対して罪の償いが果たされました。人間は、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いを純白な衣のように頭から着せられて、神の目から見て相応しい者と見なされるようになります。そして、イエス様が開いて下さった永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むようになります。罪を償ってもらったので罪は赦されました。それで神との結びつきも回復し、あとはその結びつきを持ちながら道を歩むことになります。やがて、この世を去って神の前に立たされる時が来ても、イエス様を救い主と信じる信仰をしっかり携えて生きたことを認めてもらえるので何の心配もありません。父なるみ神のみもとに迎え入れられます。そこは祝宴にもたとえられるところです。

以上が、歴史上の一民族の解放を超えて、文字通り全人類に及ぶ神の人間救済計画でした。神はそれをイエス様を用いて実現されたのでした。

復活されたイエス様はその40日後に天に上げられました。いつの日か天使の軍勢を従えて地上に再臨する日まで、天の父なるみ神の右に座すこととなったのです。そういうわけで、神の国が見える形をとって現われるのは、イスラエルの民が期待したようにイエス様のエルサレム入城の時ではありませんでした。それは、将来起こる主の再臨の日なのです。しかし、当時こうしたことは、民族解放の希望に燃えていた人たちにとっては想像もつかないことでした。イエス様が本日のたとえを話したのは、神の国の到来は彼らの期待した形をとらないということ、そしてその到来の日まで私たちは何をしなければならないか?どう生きなければならないか?ということを教えるためでした。

 

2.「王と家来」のたとえの意味

 少し脇道にそれますが、イエス様のこのたとえは、現実に起きた事件が下地にあります。イエス様が赤ちゃんだった時、これを殺害しようとしたヘロデという王がいたことは皆様もご存知の通りです。ヘロデ王が死んだ後、息子の一人アルケラオが父親の領土の一部を受け継いで王となるためにローマに出かけました。なぜそんなことをするのかと言うと、当時ユダヤ民族はローマ帝国に占領されていたので、王の地位につくためにはもっと上の支配者であるローマ皇帝の承認を得なければならなかったのです。実はアルケラオは、「王」ではなく一ランク下の「領主」になって、ユダヤの地に戻ってきました。しかし、話はそこで終わりませんでした。マタイ2章22節でも言われるようにアルケラオは残忍な性格だったため人々の反感を買います。そこでユダヤ人たちは実際に、本日のたとえに出てくる反対者のようにローマに使い送って皇帝に訴え出たのです。それが功を奏してアルケラオは領主の位を失いました。

イエス様が本日のたとえを話されている場所は、エリコというエルサレム近郊の町です。そこにはアルケラオの建てた宮殿も残っていました。出来事から20年以上たってはいましたが、たとえを聞いた人たちはアルケラオのことをすぐに思い出したでしょう。しかしながら、たとえに出てくる王様な失脚しません。王になって帰国すると反対者を全滅させます。これは何を意味するのでしょうか?それは、イエス様の再臨の日まで彼に敵対することをやめなかった者たち、またイエス様を信じる人たちを迫害した者たちが裁かれて永遠の滅びに落とされることを意味します。つまり、最後の審判のことです。このように、このたとえは、人々がよく知っている出来事を材料にすることで、イエス様の再臨と最後の審判に現実味を帯びさせる効果があるのです。それがイエス様の狙いでした。

最後の審判の日に、イエス様に敵対することをやめなかった者たちや彼を信じる人々を迫害する者たちが裁かれる。ということであれば、私たち信仰者は、そのような敵対者に遭遇しても恐れてはいけないし、逆にそのような人たちの心が変わるように祈りながら働きかけていかなければいけません。さらに、まだイエス様のことを知らない人たちに対しては福音を宣べ伝えて、一人でも多くの人がイエス様の純白な衣を受け取ることができるようにしていかなければなりません。

 さて、多く儲けた家来、少なく儲けた家来、全然儲けなかった家来と王様のやりとりが何を意味しているのかを見ていきましょう。

最初の家来は、王様にもらった1ムナが商売した結果、10ムナの儲けを得ました。次に同じ1ムナのお金で5ムナの儲けを得た人が出てきます。二人に対する王様の処遇ですが、日本語訳の聖書では「10の町の支配権を授けよう」と褒美が与えられたように書かれています。しかし、ギリシャ語の原文を見ると、「十の町の支配権を持ちなさい/支配権を持つ者になりなさい」と命令文になっていいます。褒美をあげるというより責任を与えたことになります。5ムナの儲けを得た人も同様です。日本語で「5つの町を治めよ」と命令文に訳されていますが、これは原文通りです。そういうわけで、10の町、5つの町の支配権とは儲けの大きさに比例した褒美を与えたというのではなく、10倍の儲けを得た者にはその実力相応の責任を与える、5倍の儲けを得た者にはそれ相応の責任を与える、ということです。5倍の儲けの人には10の町の支配権を任せるというような無理はさせない。そのかわりに、10倍の儲けの人には5つの町の支配権で済ませるということもしない。このようにイエス様は、私たち一人一人がどれだけの力を持っているかをよく吟味して、それに相応しい課題や任務をお与えになると言えます。私たちの尺度からみて不相応だとか不公平だということも出てくるかもしれませんが、基本はそういうことだと思います。

王様が1ムナを与えた家来は全部で10人いましたが、他の7人の成果は触れられていません。でも、みんな同じ原則に則って処遇を受けたでしょう。7ムナを儲けた人には7つの町、3ムナを儲けた人には3つの町という具合に。

 ここで大変なことが起こりました。家来の中に儲けが全然なかった人がいたのです。その人は、1ムナをずっと布に包んでしまっていました。なぜか?商売に失敗して1ムナを失ってしまった時の王様の処遇を恐れたのです。家来は王様に言います。あなたは、自分では預けなくとも、それがあるかのごとく取り立てをする、自分では種を蒔かなくとも、蒔かれたかのごとく刈り入れを要求する、そういうお方だ、と。つまり、何も取り立てするものがなくても、また刈り入れするものがなくても、取り立てたり刈り入れたりしようとする方である。こうなると商売に失敗して持ち金ゼロになった場合、取り立てを要求されたらかなわない。それなら、いらぬリスクは避けて1ムナは保管して、後でそのまま返してしまえば無難だ、という結論になったのです。

これに対する王様の処遇はとても厳しいものでした。この家来に対し、リスクを恐れて商売しなくても銀行に預ければ利息がつくではないか、と言います。「銀行」と言う訳語を見ると現代っぽく感じられ、なにかATMが付いた建物を連想しそうになりますが、要は金貸し業とか両替商のようなお金を扱う業者のことです。王様の言っていることを原文通りに訳すと「私が帰ってきた時に、そのお金を利息と一緒に(業者から)要求できたのに」ということです。当時の利息の算出方法は知る由もありませんが、利息を得るために何か交渉しなければならないということです。ここから、王様の真意は、利息のもうけが目当てではなくて、家来が何がしかの動きを示すことだったと言えます。

 王様としては、どんなに小さくても儲けに相当する責任を負わせるつもりでした。それが、儲けゼロではなんの責任も負わせられません。家来が王様のことを、取り立てたり刈り入れたりするものが何もなくてもそうする方だと言ったことに対して、王様は、そう思っているのなら、そうしてやろう、と言わんばかりに、家来の保管していた1ムナを取り上げて、10ムナ持っている家来にあげてしまいます。どうして、既に十分持っている者にさらにあげるのかというと、一番成功した者に対する偏愛ではなく、その者が一番大きな責任を担えると信頼しているからでしょう。

 

3.1ムナをキリスト信仰者の「賜物」とすると

 ここで、たとえに出てくる王様、家来そして1ムナというお金は何を意味しているのかを見てみましょう。これは一般には、神がキリスト信仰者に与える賜物として理解されると思います。もちろん、それもありますが、私は今回説教を準備していた時、それは「信仰」も意味するのではないかと思いました。まず、「賜物」としてみた場合、どういうことになるかを見て、その後で「信仰」としてみた場合を見てみます。

王様は、紛れもなく最後の審判の時に再臨するイエス様です。家来と言うのは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者です。神が与えられる賜物とは、例えば「ローマの信徒への手紙」12章で使徒パウロが、預言をする賜物、奉仕をする賜物、教える賜物、勧めを行う賜物、施しをする賜物、指導をする賜物、慈善を行う賜物などをあげています。どれも教会を作り上げ成長させるためのものです。この他にも教会の成長に役立つ賜物はいろいろあります。よく言われるものとして音楽の賜物があります。その他にも教会の成長に資する賜物はいろいろ考えられます。

そこで、教会の成長とは何かということですが、それは教会が聖書の御言葉という土台に立って御言葉を宣べ伝えること、洗礼を通してイエス様を救い主と信じる人を教会に招き入れること、聖餐を通して招き入れられた人の信仰を揺るがないものにしていくこと、これらを通して成長は果たされます。もちろん、教会に繋がる人たち同士の連携も成長にとって大事です。

たとえの中で王様は、10ムナの儲けを得た家来に対して、「お前はごく小さな事に忠実だった」と言います。小さな事とは1ムナのことですが、神が私たちに与える賜物も小さな事とはどういうことでしょうか?この同じ言葉は、ルカ16章の「不正な管理人」のたとえのところでも出てきました。そこでお教えしましたが、「小さな事」ギリシャ語のエラキストスελαχιστοςは別に大きさの大小のことだけでなく、価値のあるなしにも使われます。つまり、1ムナというお金が金額が少ないということではなく、お金自体が「ささいなこと、取るに足らない事」であると言っているのです。お金というものは、人の心を神から引き離す力を持っているので、それでささいなもの取るに足らないものということになります。ところが、そのようなお金に心を奪われてそれに支配されてしまうのではなく、逆にお金に対して主人になれる者はそれを神の意思に沿って使うことができる。まさに、「取るに足らないものを取り扱う際に神に対して忠実」ということでした。神の意思に沿ってお金を使うというのは、神を全身全霊で愛するということ、そしてその愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛するということ、これらの愛のために使うということでした。

同じことが賜物にもあてはまります。神から与えられたとは言え、それを自分の繁栄や名声のために消費してしまったら、お金に仕えてしまうのと同じです。賜物を神の意思に沿うように用いようとすると、お金の時と同様、賜物に対しても主人として立ち振る舞うことになります。それなので、神から与えられたとは言っても、「小さな事」と言った方が与えられた側は得意がらずに謙虚になるのではないかと思います。

 

4.1ムナを「信仰」とすると

 以上は、家来が王様から頂いた1ムナは、信仰者が神から与えられた賜物と考えられるということでした。次に、それを「信仰」とみた場合、どういうことになるかをみてみます。キリスト教では「信仰」というのは、神から与えられて人間は受け取るという性格を持っています。人間の救いは、神がイエス様を用いて全て整えて下さった、だから、あとは人間の方が、これらは本当にあの時起こったのだとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、その救いを所有することが出来ます。これらのことがわかるとか、イエス様を救い主と信じるというのは聖霊が影響力を行使しないと出来ません。このイエス様を救い主と信じる信仰を神から与えられたものとすると、次に問題となるのは儲けは何を意味するかです。

1ムナが10になったり5になったりすると言う時、それらは一体何か?人によっては、一生懸命伝道活動をして信者を増やすのに貢献したとか、献金を増やすのに貢献したとか、教会をこれだけ拡大したとか、あるいは慈善活動でこれだけの人を助けたとか、そういう具体的な形で表れる成果を考えるかもしれません。もちろん、それは間違いではないです。ただ、そういう具体的な形で表れるもの以外にもあることを忘れてはいけないと思います。例として、ローマ12章でキリスト信仰者の心得をパウロが教えています。悪を憎むが悪に悪を返さない、迫害する者のために祝福を祈る、相手を自分より優れた者として敬意を持って接する、高ぶらず身分の低い人々と交わる、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣く、自分で復讐しないで神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせる、乾いていたら水を飲ませる等々。これらはまさに信仰から育ってくる良い実です。信徒数や献金額の増加とは性格が異なりますが、これらのことが出来るようになることも1ムナから生じる儲けの中に数えていいと考えます。

こうした良い実に関連して、キリスト信仰を持って生きるためにこの世の流れに抗するということも考えることができます。信仰を持って生きることから生じる様々な苦労や苦難に遭遇することも「儲け」に入れてよいと考えます。信仰ゆえに苦労や苦難に遭遇する、それが多ければ多いほど大きな儲けになるということです。そう考えると、1ムナを布に包んでしまった人は、この世の中に入って行かず苦難や苦労に遭遇しないですむようにした人と言えます。ルター派的な言葉を使えば、神から与えられた召命や課題を回避するということでしょう。この世の中に入って行かなかったら、「喜ぶ人と共に喜ぶ」も「泣く人と共に泣く」もなくなってしまいます。さらに、この世の中に入ったとしても自分がキリスト信仰者であることを隠し通したら、信仰ゆえの苦労や苦難を回避できることになります。そういう状態でしたら迫害も受けないで済むし、迫害する者のために祈ることもなくなります。楽で簡単ですが、儲けもなくなります。

イエス様としては、信仰者にはこの世の中にどんどん入ってもらって、そこで世の流れに抗するように生きよ、ということなのでしょう。そうすることで大きな儲けが得られます。 逆もまたしかりです。

このように1ムナは「信仰も意味することができるとすると、それでは信仰も賜物同様「小さな事」と言っていいのでしょうか?ここで思い出しましょう、イエス様は弟子たちから「大きな信仰を与えて下さい」と懇願された時、お前たちは信仰をからし種のように捉えよ、と教えました。からし種とは1ミリにも満たない種が最後は数メートルの木に成長するという種です。信仰をそのように捉えると、初めは小さくても必ず成長し大きくなるということが確信出来ます。ただそれも、ちゃんとこの世の中に入って行って、流れに抗することをしないと、成長は起こりません。

そういうわけですから、兄弟姉妹の皆さん、せっかく頂いた信仰を隠してしまうことなく世の中に入って行って、いろんなこと、いろんな人に遭遇していきましょう。そこで、私たちを豊かにするものや人に出会ったら、まず神に祈り感謝しましょう。逆に出会うことや人が私たちにとって試練になれば、その時も神に祈り助けと導きをお願いしましょう。神は、祈る私たちを通して働かれます。

 イエス様を救い主と信じる信仰に生きよ、

そして遭遇し祈れ。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「創造主である神のもとに向かう道をひたすら歩め」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書18章9ー14節

主日礼拝説教 2019年10月27日(聖霊降臨後第20主日)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 福音書には、徴税人と呼ばれる人たちがよく登場します。どんな人たちかと言うと、名前が示すごとく、税金を取り立てる人たちです。福音書に出てくる徴税人とは、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人です。なぜ占領された国民の中に、占領国に仕えようとする人が出てくるかというと、徴税の仕事は金持ちになれる近道だったからです。福音書をよく読んでみると、徴税人たちが決められた徴収額以上に取り立てていたことがわかります。ルカ福音書3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱責する場面があります。そこでヨハネは彼らに次のように言いました。「規定以上のものは取り立てるな」(13節)。ルカ19章では、ザアカイという名の徴税人がイエス様に次のような改心の言葉を述べます。「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)。そういうわけで、占領国の権力をかさに不正を働いていた徴税人が自分の利益しか考えない裏切り者とみなされて、同胞から憎まれていたことは驚きに値しません。

ところが、こうした背景知識をもって福音書を読んでみると、驚くべきことに気づかされます。それは、福音書に登場する徴税人たちは、以上みてきたような実際に存在した徴税人とは様子が違うのです。福音書に登場する徴税人には、邪悪なところがみられないのです。もう一度ルカ福音書の3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが、神の裁きが来ることを人々に告げ知らせています。ヨハネの宣べ伝えを信じた大勢の人たちが、自分たちの悔い改めを確かなものにしてもらおうと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループがいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねました。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは神の裁きを恐れ、神に背を向けて生きていたことを認めて、それをやめて神のもとに立ち返らなければならないと思ったのです。それで、そのために何をすべきかと聞いたのです。本日の福音書の箇所の徴税人の場合は、何をすべきかと聞くどころか、ただ「赦して下さい」と神に憐れみを乞うだけです。どちらにしても、それまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。

もちろん本日の箇所の徴税人は、イエス様のたとえに登場する架空の人物です。しかし、それでもこのような改心した徴税人が実際にいたことは、洗礼を受けにヨハネのもとを訪れた人たちの中に徴税人のグループがいたという事実から明らかです。ルカ19章の徴税人ザアカイですが、イエス様が彼の家を訪問すると決めるや否や、これまで不正を働いて貯めた富を捨てるという大きな決心をしました。マルコ福音書2章にレビという名の徴税人が登場しますが、イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てたということです。

以上のように福音書の記述から当時、徴税人の間では、どれくらいの割合だったかはわかりませんが、神に背を向けていた生き方をやめなければ、神のもとに立ち返らなければ、そういう気運があったことが読み取れます。

 

2.二つの対照的な祈り方

 本日の福音書の箇所でイエス様は祈りについて教えています。二つの全く対照的な祈り方について述べられています。一方はファリサイ派という宗教エリートの人の祈りで、自分は神が定めた規定をちゃんと行っていると神に報告します。まるで神に対して念を押すような高慢さが見られます。自分が周りにいるような罪びとたちと同じでないことを感謝します、などと言うのは醜いエリート意識そのものです。他方は徴税人の祈りで、自分が罪びとであることを認めて神に憐れみを乞うだけです。それが祈りの全てです。胸を打つというのは、悲しみや悔恨を表わす行為です。悔恨や憐れみを乞うのが本当に心の底からの叫びだったことが窺われます。ファリサイ派の人の祈りは神に対して自分を高く見せる祈り、徴税人の祈りは低く見せる祈りと言って良いでしょう。

先週の福音書の箇所は本日の個所の直前でしたが、そこも祈りについての教えでした。それは、執拗に願い求める未亡人と神をも畏れない裁判官のたとえでした。そこでのイエス様の教えの趣旨は以下のものでした。もしキリスト信仰者が不正や害悪を被ってしまったら、それが解決されるように働くと同時に神に助けを祈り求めなければならない。仮にこの世で解決に至らなくても最後の審判の時に神が不正義を全部清算してくれて、正義を完全に実現して下さる。それなので、信仰者はこの世で解決にあたる時は手段を選ばないなどと悪と同じ土俵に立ってはならず、あくまで神の意思に留まって行うのみ。その時、祈りを絶やさないというのは、まさに自分は神の正義実現を信じており、そこに全てを賭けている、だから神の意思に従うのだ、そういう信念を絶えない祈りは表明するのだ。以上がイエス様の教えの趣旨であると述べました。  

そこで、先週と本日の教えには興味深い関連性があることに気づかされます。先週の「やもめと裁判官」のたとえが述べられたのは、弟子たちに対してでした。本日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえは誰に対して述べられたかと言うと、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(18章9節)です。ここで「正しい」という言葉ですが、ギリシャ語ではディカイオス(δικαιος)で「義」を意味する言葉です。「義」というのは「神の目に適う、神の目に相応しい」ということです。つまり、自分たちは神の前に立たされても全然問題ない、地獄の炎に焼き尽くされる心配はないと自信満々で、他の者は大丈夫ではないと見下している人たちです。誰のことを指すのでしょうか?ファリサイ派の人たちでしょうか?実はそうではないのです。

「やもめと裁判官」の最後のところでイエス様は尋ねました。自分が地上に再臨する日、果たして、やもめのような執拗さをもって祈りを絶やさない信仰はこの世に残っているだろうか?この質問は、たとえを聞いていた弟子たちにされました。イエス様はこの質問の後すぐ、「ファリサイ派と徴税人」のたとえを今度は、自分は神に目に相応しいと自信満々な者たちに向けて話されました。つまり、このたとえが向けられた相手というのは、弟子たちの中で、自分は大丈夫だ、死ぬまで神を信頼して祈りを絶やさずに生き抜くことが出来ると信じていた者たちだったのです。果たして自分が再臨する日に祈りを絶やさない信仰を見いだすことができるであろうか、というイエス様の問いに対して、「はい、わたしはそのような信仰を持っています」と自信を持って答えられる者を相手に述べられたのです。

そういうわけで、本日の福音書の箇所は、神を信頼して祈りを絶やしてはならないという先週の教えを、さらに一歩踏み込んだものと言えます。たとえ信仰ある人が最後まで気を落とさずに絶えず祈り続けたとしても、もしファリサイ派の人のように祈ってしまったら、せっかくの絶えざる祈りが何の意味もないものになってしまいます。

先ほど、洗礼者ヨハネのもとに集まった徴税人たちは神の罰を受けないためにヨハネの洗礼の他に何をしなければならないかと尋ねたことを述べました。そして、本日の箇所の徴税人の場合は「何をしなければならないか」という問いを通り越して、ただただ「神さま、罪びとの私を罰しないで下さい」と神に憐れみを乞うだけだったことも申しました。神から罰を受けるというのは、この世の人生を終えた後で自分の造り主である神のもとから永遠に引き裂かれてしまうことです。が、それは来世に限ったことではありません。この世で歩んでいる道が神のもとに向かう道でなければ、どんな道を歩んでも神から守りと導きは得られません。罰はたとえ将来のものであっても、既にこの世の段階で序章のように始まっているのです。

そこで、私は罪びとです、神に背を向けて生きてきました、と認めて、どうか神さま、罰しないで下さい、と憐れみを乞うた徴税人が神の目に相応しい者、神の前に立たされても大丈夫な者つまり義なる者とされた、というのがイエス様の教えです。これとは反対にファリサイ派の人は、宗教的な規定をしっかり守っているので自分では神に背を向けた生き方をしているとは思いもよりません。憐れみを乞う必要もありません。しかし、その百点満点のはずの彼が神の前に立たされても大丈夫な者にならなかったのです。これは一体どういうことでしょうか?本日の個所の終わりでイエス様は、自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされる、と言われます。これだけ見ると、人間は神の前で偉そうにしてはいけない、謙虚でなければならない、と言っているように見えます。しかし、ここはそういう道徳教育みたいなことが問題になっているのではありません。ここには人間のあり方、でき方を根本から問い直さなければならないような大きな問題があるのです。このことがわからなければ、この個所はわかったことにはならないのです。

 

3.原罪を直視することから始まる救い

 私たちは徴税人が「神様、罪びとの私を憐れんで下さい」と、神に憐れみを乞う祈りをするのを聞いて、彼がそう祈るのはもっともなことだと思うでしょう。ところが私たちの場合は、そういう同胞を裏切ってまで私腹を肥やすようなことは縁遠いことなので自分には関係のない祈りに聞こえるでしょう。さらに、神の意思を表した十戒の掟に照らし合わせても、自分は盗みも偽証もしないし、ましてや不倫や殺人など思いもよらないことだ、というのが大方の思いでしょう。つまり、自分は聖書の神の意思を結構守れているのではないか?ところが、イエス様はこのことについて何と教えていましたか?たとえ行為で犯していなくても、心の中で兄弟を罵ったら第五の掟を破ったのも同然、異性を淫らな目で見たら第六の掟を破ったのも同然と、十戒の掟は心の有り様にまで関わっていると教えました。

以前にもお教えしましたが、スウェーデンやフィンランドには「罪」を言い表す時に、「行為として現れる罪」と「受け継がれる罪」の二つを言い表す言葉があります([ス]gärningsynd、arvsynd、[フィ]tekosynti、perisynti)。前者は行い、思い、言葉の形を取る具体的な罪、後者は具体的な形を取らずとも人間が最初の人間から遺伝して受け継いできた罪です。この罪があるから行為に現れる罪も起こる、言わば罪の罪、まさに原罪です。人間なら誰でも「生まれながらにして」持っている罪です。具体的な形の罪を犯さない人でも、置かれた環境や境遇が違っていたら犯していたかもしれないのです。

マルコ福音書7章を見るとイエス様とファリサイ派の人たちの有名な論争があります。それは、何が人間を汚れたものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうかという問題でした。イエス様の論点は、人間を汚して神から切り離された状態にするのは、人間の内部に宿る無数の悪い思いである、従って、宗教的な儀式や規定を守っても内部の汚れは除去できないので意味がない、というものでした。だから、本日の個所のファリサイ派の人が自分は週に二回断食してる、購入物の10分の1を神殿に捧げている、などと祈っても、それをすることで汚れは除去できておらず、神の目に罪のない相応しい者にもなっていないのです。本人はその気でいるので気の毒なのですが。それでは、人間は一体どうしたら神から切り離された状態に終止符を打てて、神の目に相応しい者となれるのでしょうか?

これを人間の力ではできないとわかっていた神は、それを神の方でしてあげようと、ひとり子イエス様をこの世に送られました。イエス様は人間の全ての罪を十字架の上にまで背負って運びそこで神の罰を受けられて、人間に代わって罪の償いを果たされました。つまり、神はイエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させて永遠の命があることを人間に示し、その扉を人間のために開かれました。人間の目の前に神のもとに通じる道が開かれたのです。人間は、これらのことが全て自分のために整えられたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様がしてくれた罪の償いを頭から被されて、神の目から見て罪を赦された者と見なされます。こうして人間は、イエス様がして下さったこととその彼を救い主と信じる信仰のおかげで神の目に相応しい者とされ、神のもとに通じる道の上に置かれてその道を歩むことになります。神との結びつきを持って生きられるのですから、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られます。この世を去って神の前に立たされるまさにその時、洗礼の時に被せてもらった汚れなき衣を肌身離さず携えて歩んだことを覚えてもらい、永遠の労いの祝宴に迎え入れられるのです。

ここで一つ注意しなければならないことは、キリスト信仰者といえども、この世で肉を纏って生きている以上は罪や汚れた悪い思いを内に抱えているということです。この点は、信仰者も信仰者でない者も同じです。ところが、キリスト信仰者の場合は、神がイエス様を用いて成し遂げて下さった罪の赦しを、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して受け取ったので、神からそう見てもらえるということです。神との結びつきを回復してもらえ、神から守りと導きを得られて生きられることを感謝し、神の意思に沿うように生きようとします。その時、神の意思に沿うということが恐らく信仰に入る前よりも敏感になるのではないかと思います。そうなると、徴税人の「神様、罪びとの私を憐れんで下さい」という祈りはキリスト信仰者こそ祈らなければならないものになります。しかし、何も心配はありません。私たちはその度に心の目をゴルゴタの十字架に向け、あのお方の肩の上に私たちの罪が重くのしかかっていることを確認できれば、あそこに私たちの罪の赦しがあることがわかります。父なるみ神はひとり子を犠牲にするのを厭わないくらいに私たちを愛して下さることがわかります。神は、罰するかわりに本当に赦しを与えて下さることを私たちがわかるようにと、イエス様をこの世に送られて十字架の死に引き渡したのです。

そういうわけで、信仰者になった後も「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という祈りは終わることはないとは言っても、イエス様を救い主と信じてこの祈りを祈る人は、イエス様の身代わりの死に免じて神から罪を赦されます。イエス様を信じない人は、誰かの何かに免じて罪が赦されるということがありません。それで、全て自分の力で赦しを得なければならなくなります。しかし、それは不可能です。本日の個所のファリサイ派の人の祈りはまさにそのことを表わしています。自分を高くする者は低くされるというのは、罪の問題が果てしなく大きなものであることがわからず、人間の知見と努力で解決できたと思った瞬間、その果てしなく大きなものに蹴散らされてしまうことです。自分を低くする者は高くされるというのは、罪の問題が果てしなく大きなものであることを知って茫然として身がすくんでしまった瞬間、神の御手が自分を離さずしっかり支えていることに気がつくことです。

 

4.創造主である神のもとに向かう道を祈りながらひたすら歩もう

 先ほど、キリスト信仰者というのは、イエス様がして下さったこととその彼を救い主と信じる信仰のおかげで神の目に相応しい者とされた者であると申しました。そして、神のもとに通じる道の上に置かれてその道を歩むことになり、神との結びつきを持って生きられるので、絶えず神から助けと良い導きを得られる者であるとも。この世を去って神の前に立たされるまさにその時、洗礼の時に被せてもらった汚れなき衣を肌身離さず携えて歩んだことを覚えてもらい、永遠の労いの祝宴に迎え入れられる者であるとも申しました。本日の使徒書、第二テモテ4章6~8節のパウロの言葉は、この世を去る時が近づいたことを自覚した彼が、まさにそのような生き方を総括する言葉になっているので、それをもう一度お読みして本説教の結びとしたく思います。

「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。」

兄弟姉妹の皆さん、パウロの言葉の次の部分が私たちにとって重要です。

「しかし、わたしだけではなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます。」イエス様の再臨を待ち望む人、それは神の正義が完全に実現する日を待ち望み、それを絶やすことなく祈る人です。私たちも、その祈りを絶やさずにこの道をひたすら歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「神の守りと導きは、たとえないように見えても、実はしっかりあるのだ」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書18章1-8節、第二テモテ3章14節ー4章5節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.イエス様を救い主と信じる信仰に立って旧約聖書を読むとどうなるか?

 本日の使徒書の日課、第二テモテの3章15節を見ると、パウロは弟子のテモテに次のように言っています。お前は子供の時から神聖な書物を知っていて、それらの書物はイエス様を救い主と信じる信仰に立って読むと救いに導く知恵を与えてくれる、と。新共同訳では「神聖な書物」のことをご覧のように「聖書」と訳していますが、これは誤解を与える訳です。「聖書」と言ったら、今私たちが手にしているこの分厚い本です。旧約聖書と新約聖書が一緒になっている本です。ところが、パウロがテモテをはじめあちこちに手紙を書き送っていた当時は、まだ新約聖書は出来ていません。イエス様の言行録を収めたマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書が出来るのはもう少し先のことです。書かれたもので出回っていたのは、パウロをはじめとする使徒たちの手紙くらいでした。イエス様の言行録はと言うと、直接の目撃者である使徒たちが自分たちの口で宣べ伝えていました。宣べ伝えの核心部分は、まさに自分たちが目撃したイエス様の十字架の死と死からの復活によって旧約聖書の預言が実現したということでした。使徒たちが晩年の頃ないしこの世を去る頃になって、イエス様の言行録が書き留められて福音書が出来上がりました。そういうわけで、それ以前は「神聖な書物」と言ったら、それは専ら旧約聖書を指したのでした(後注)。

その旧約聖書を、イエス様を救い主と信じる信仰に立って読むと救いに導く知恵が与えられる。これはどういうことか?まず、「救い」とは何か?それは、イエス様が人間の罪の償いを神に対して代行して下さった、それで、そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いを頭から被せられて、罪を赦された者として神に見てもらえるようになる。そうして、罪が人間に入り込んだ堕罪の時に断ち切れてしまった神との結びつきが回復する。そして、その結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、神から守られ導かれて生きられる。この世を去った後、最後の審判の日に神の前に立たされても大丈夫でいられる。なぜなら、イエス様を救い主と信じる信仰を肌身離さず携えて生きたので、それで罪を赦された者として認められて神の御国に迎え入れられる。以上が、キリスト信仰で言う「救い」です。

第二テモテ3章15節は、旧約聖書をイエス様を救い主と信じる信仰に立って読むと、この救いに導いてくれる知恵が与えられる、と言います。本日の旧約聖書の日課はヤコブが神と格闘した出来事でした。ヤコブは負傷しても神から祝福を受けるまでは神にしがみついて離しませんでした。天地創造の神が一人の人間と取っ組み合いをするなどとは想像を超える出来事です。実は3年前このことについてどう考えたらよいかお教えしました。今回はそれを繰り返しません。この旧約聖書の出来事も、パウロによれば、イエス様を救い主と信じる信仰に立って読めば、救いに導く知恵を与えてくれます。本日の説教では最初に、福音書の個所をもとにイエス様を救い主と信じる信仰を深めてみます。その後でヤコブの格闘の出来事から救いに導いてくれる知恵を頂きましょう。

 

2.やもめと裁判官のたとえ

 本日の福音書の個所は、イエス様の「やもめと裁判官」のたとえの教えです。この教えは弟子たちに語られますが、その目的は弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」でした。もちろん、これは弟子たちだけに向けられたのではなく、イエス様を救い主と信じる全てのキリスト信仰者に向けられています。つまり私たちにも向けられています。

なぜ、イエス様は、気を落とさずに絶えず祈ることの大切さを強調したのでしょうか?それは、弟子たちも私たちも、神に守られ導かれているとは言っても、この世ではそう思えなくなるような厳しい現実があり、そういうものに直面していくうちに神の守りや導きなんかないと思うようになってしまうからです。特に本日の箇所に即して言えば、不正や不正義に圧倒されてしまって、あきらめ心になって、神に解決を祈り求めることを止めてしまう、そういう危険があることをイエス様は知っていました。このことをイエス様が深く心配していることが、本日の箇所の最後の節で明らかになります(8節)。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」イエス様が天使の軍勢と共に再臨される日、果たしてこの地上には気を落とさず祈りを絶やさない信仰を持った人は残っているのだろうか、それともみんな祈りを絶やしてしまった後だろうか、というのです。それほどキリスト信仰者は、厳しい現実に絶えず遭遇しながら生きていかねばならないのです。ここで、イエス様の教えをじっくり見て、やはり祈りは何があっても絶やしてはいけないのだ、ということを体得していきましょう。

まず、登場人物について見ていきます。裁判官は、「不正な裁判官」(6節)と言われています。この日本語訳は正確とは言えません。ギリシャ語のアディキア(αδικια)という単語がもとにありますが、「不正な」と訳すと、何か不正を働いた、私腹を肥やすようなことをしたというようなイメージが沸きます。この裁判官は本当はどんな人物だったかは、本日の箇所にしっかり言い表されています。イエス様が彼のことを「神をも畏れず、人を人とも思わない」人物と描写します(2節)。裁判官自身も、自分のことを全く同じ言葉で言い表します(4節)。つまり、「不正な」と言うよりも、人を人とも思わないから無慈悲、無情な人物、神を畏れないから尊大な人物と言えます。その意味で「不正な」と言ってもいいのですが、正確には「無慈悲で尊大な」裁判官です。

 次に「やもめ」、つまり未亡人について。伝統的にユダヤ教社会の中で未亡人は社会的弱者の一つと認識され、彼女たちを虐げてはならないことが神の掟として言われてきました(出エジプト22章21節、申命記27章19節、詩篇68篇6節、イザヤ1章17節、ゼカリア7章10節)。夫に先立たれた女性は、もし十分な遺産がなかったり、成人した息子がいなければ、生きていくのは困難だったでしょう。遺産があっても、不正の的となって簡単に失う危険があったことが聖書の中から伺えます(例えばマルコ12章40節を参照)。

 さて、ある未亡人が何かの不正にあって、この裁判官にひっきりなしに駆け寄り、「相手を裁いて、わたしを守って下さい」としつこく嘆願します。ギリシャ語の原文に忠実に言うと、「相手を裁いて、わたしのために正義を実現して下さい(εκδικησον με)」です。裁判官は、最初は取り合わない態度でしたが、何度もしつこく駆け寄って来るので、しまいには「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判してやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わせるにちがいない」と考えるに至ります。「さんざんな目に遭わせる」は、ギリシャ語では「目に青あざを食らわす」(υπωπιαζω)という意味の単語です。相手が裁判官で、そんなパンチを浴びせるなどという暴力沙汰になったら大変な事態になります。しかしそれは、未亡人はもう他に何も失うものはないという位に切羽詰った状況にいたということです。「彼女のために裁判してやろう」というのも、これもギリシャ語に忠実に訳すると「彼女ために正義を実現してやろう」(εκδικησω αυτην)です。

 ここでイエス様は弟子たちに注意を喚起して言います。この裁判官の言いぐさを聞きなさい。無慈悲で尊大な裁判官ですら、やもめの執拗な嘆願に応じるに至ったのだ。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」イエス様がよく用いる論法に「~ですら~するならば、神はなおさらそうするであろう」というのがあります。神は明日にも枯れてしまう野の草花ですらこんなに美しく飾って下さるのであれば、お前たちのことはなおさら面倒を見て下さるのは当然ではないか、というマタイ6章28~30節の文句は皆さんもよくご存知でしょう。無慈悲で尊大な裁判官ですら、やもめの正義の実現のために動いたのだ。ましてや、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずにいつまでもほうっておくことなどはありえない、神は速やかに裁いてくださるのだ。ここで言う「裁きを行う」というのは、先ほどと全く同じように「正義を実現する」(ποιεω την εκδικησιν)です。「速やかに裁いてくださる」も同じ「正義を実現する」です。実にこの箇所では、日本語訳では見えてきませんが、「正義の実現」を意味する言葉が4回も使われ、正義の実現と祈りを絶やさないことが問題になっているのです。

 

3.神をおいて正義を完全に実現される方はいない

 不正を働く者が他者に害を及ぼすと、正義が損なわれます。その場合、国の法律や司法制度が作動して、不正を働いた者には処罰、害を被った者には補償を実現します。それがないと正義がない状態になります。不正を被るというのは、信仰を持っていようがいまいが関係なく被ってしまうものもあれば、信仰を持つがゆえに被ってしまうものもあります。キリスト信仰では、十戒という神の意思が確固としてあるので、周りでそれに反することがあれば、自分はそれに組しないとか、場合によってはそれに反対する姿勢をはっきり示すことが出てきます。もちろん、十戒の中には「殺すなかれ」、「盗むなかれ」、「偽証するな」などのようにキリスト信仰者でなくても共有できる正義もあります。だた、天地創造の神を唯一の神として全身全霊で愛せよ、とか、神の名を汚すな、とか、安息日を神聖な日にせよ、とか、共有しないものもあります。キリスト信仰者でない者同士の間でさえ意見や利害の対立が生まれたり、そこから相手を打ち負かしてやろうという野望が出てきたりします。これにキリスト信仰者が入り込んだら、摩擦や軋轢の原因がさらに増えることになります。パウロの時代のようにキリスト教徒が社会の圧倒的少数派であれば、これはもう痛い目に遭わせてやろうという格好の標的になります。

それに対してキリスト信仰者はどう立ち振る舞ったらよいのか?それをパウロはローマ12章で訴えるように教えています。悪に対して悪で報いるな、悪人善人に関係なく全ての人に対して善を行え(17節)、周りの人と平和な関係を保てるかどうかが我々信仰者の肩にかかっている場合は迷わずそうせよ、相手がどう出ようが、少なくとも自分からは平和な関係を崩すな(18節)、悪を被った時は自分で復讐するな、神の怒りに任せよ、なぜなら復讐は神のすることであり、報いを行うのは神だからだ(19、20節)。ここの日本語訳で「信仰者は復讐してはいけない、復讐は神がすることだ」と言っている「復讐」ですが、ギリシャ語原文では、やもめと裁判官のたとえで言っていた「正義を実現する」と同じ単語(εκδικησις)です。つまり、信仰者は悪を被った時、悪を行った者に完璧な償いをさせて完全な正義を実現するのは神であるとわきまえなければならない。信仰者は神に代わって自分で完璧な償い、完全な正義を実現しようとしてはならない。じゃ、キリスト信仰者は悪を被ったら何をするのか?それは、完璧な償い、完全な正義は最後の審判の時に神が実現するということに全てを託して、今は悪を行った者が飢えていたら食べさせ、喉がかわいていたら飲ませるだけだ、ざまあみろと言ってはいけない(20節)。以上のようなパウロの教えに対して、そんな馬鹿な!なぜ、そんなお人好しでなければならないのか?そういう声が上がるかもしれません。

これは、悪を行う者がなんだ悪をしてもこんなによくしてもらえるんだったらやっても構わないんだなどと、いい気にさせるために行うのではありません。そうではなくて、その者がいつかイエス様を救い主と信じる信仰に入る可能性があるから行うのです。イエス様が十字架にかかったのは、その人の罪も神から赦されるためでした。ただ、その人がイエス様を自分の救い主と信じていないから、神から赦しを頂いていないだけです。イエス様も言うように、神が善人にも悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるのは、悪人にしたい放題させるためではなく、その者が神に背を向けた生き方を方向転換する可能性を与えているのです。もし悪人に太陽を昇らせず雨を降らせず滅んでしまったら、元も子もありません。逆に方向転換のための猶予を与えているのに、それに気づかず同じことを繰り返していれば、最後の審判に向かって自分で自分を窮地に追い込んでいることになります。まさに「燃える炭火を頭に積むことになる」(20節)わけです。

このことは、イエス様が「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」と言っている「選ばれた人たち」ということが関係してきます。「選ばれた人」とはイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者を指します。イエス様の罪の償いを頭から被せられて、神から罪を赦された者となって神との結びつきに生きる者です。そうすると、イエス様を救い主と信じる信仰を持たない人たちは「選ばれない者」になってしまうのか?そういう問いも出ます。しかし、今の時点で信仰を持っていない人たちを「選ばれない人」と結論づけるのは早急です。なぜなら、今は信仰を持っていなくとも、将来のある日、その人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることになれば、「ああ、この人も実は『選ばれた人』だったんだな。あの頃は想像もつかなかったなぁ」ということになるからです。このように、私たち人間の目では全ては事後的にわかるだけです。それゆえ、現時点の観点で「あの人は『選ばれた人』ではない」と結論づけることはできません。大切なことは事後的に「選ばれた人」が一人でも多くでるように、私たちが福音伝道のために働くということです。神がイエス様を用いて実現された救いは、世界の全ての人々に提供されているので、それを受け取る人が一人でも増えるように信仰者は働きかけていかなければなりません。

 

4.キリスト信仰者は永遠の視野をもって正義のために祈る

  正義の実現ということについて、キリスト信仰者は、それを完全に実現するのは神であって人間ではないと観念していることがわかりました。正義の完全な実現は最後の審判の時に果たされます。このように神が実現される完全な正義というのは、最後の審判ということがあるので、この世を超えた永遠という視野をもってしないと見えてきません。実はこのことを2週間前の説教でお教えしました。その時の福音書の個所はイエス様が金持ちとラザロの話を使って教えたところでした(ルカ16章19~31節)。イエス様は、この世で起きた不正義で解決されないものがあっても、遅くとも最終的には最後の審判の時に必ず解決されると言います。復活の日、最後の審判の日には、歴史上の全ての人間のあらゆる行いと心の有り様全てについて、神の正義の尺度に基づいて総決算が行われ、清算すべきものがあれば完璧にされるのです。

 黙示録20章に人間の全ての行いが記されている書物が神のみもとに存在することが言われています。これは、神はどんな小さな不正も罪も見過ごさない決意でいることを示します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。

この世で数多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならなかったという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるなどと言うのは、この世での解決努力を軽視するものと言われるかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うようにと、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。たとえ解決が結果的には来世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる限りは神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならないのです。それで解決が得られれば神に感謝!ですが、時として力及ばず解決をもたらすことが出来ない場合もある。しかし、その解決努力をした事実は神から見て無意味でも無駄でもなんでもない。神は最後の総決算のために全てのことを全部記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さるからです。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神がかわりに全てを正確に完璧に把握してくれています。神の意思に忠実であろうとしたがゆえに失ってしまったものがあって、それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿おうとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に程遠くても、無意味だったとか無駄だったとかいうものは何ひとつないようにと、神の秩序は出来ているのです。

キリスト信仰者が神の正義が実現するようにとあきらめずに祈れるのは、それをこの世を超えた永遠という視野において見ることが出来るからです。この世では不完全だった正義が完全に実現する時がこの世が終わった後に必ず来る。あきらめずに祈るというのは、このことを信じていることを証しする行為です。祈りが、単に神に対するお願い事という殻を破って、神は約束を実現される方であるということを証しする行為になります。またはそれを自分に言い聞かせる行為になると言ってもいいでしょう。逆に、あきらめて祈らなくなるというのは、この世の不正義に圧倒されて神は約束を実現される方ということを見失うことです。もちろん永遠という視野も失ってしまいます。あきらめずに祈る者は、正義が実現するのは必ずそうなるという思いで祈るので、いつ起きてもおかしくないという一種の臨戦態勢にいます。イエス様が「神は速やかに正義を実現される」と言ったのは、神がイエス様の再臨をこの日と決めて行動を起こしたら、全てのことは一気に速やかに進むということです。

 

5.困難の時にも神は共にいて守り導いて下さる

 以上、イエス様を救い主と信じる信仰をもって生きる者は、この世を超えた永遠の視野を持っており、神が正義を完全に実現する時が必ず来ると確信して、この世の不正義がなくなるように昼も夜も祈り続けることが出来るということを見てきました。このような永遠の視野を持つキリスト信仰に立って、ヤコブの格闘の出来事を見たら、果たして救いに導く知恵が得られるでしょうか?

ヤコブの人生を振り返ってみますと、神の言うとおりにすればするほど一層困難を抱えてしまうような生き方でした。父親からもらえるはずの祝福をヤコブに奪われた兄エサウは、弟を生かしてはおけないという位の復讐心に燃え上がりました。ヤコブは故郷を捨てて逃げます。その時、神がヤコブに約束しました。「見よ、私はお前と共にいる。お前が行く先々でお前を守り、必ずお前をこの地に連れ帰る。なぜなら、私は、お前に約束したことを果たすまで決して見捨てないからだ」(創世記28章15節)。ヤコブは神が約束を果たす方と固く信じました。次から次へと困難が降りかかってもヤコブが神にしがみついて生きたことは、ぺヌエルでの格闘に見事に象徴されています。負傷してもヤコブは祝福を受けるまでは神にしがみついて離そうとせず、それで神も祝福を授けたのでした。やがて逃亡から長い年月の後、ヤコブは兄エサウと劇的な和解を遂げて故郷に帰ることができました。数々の困難があったのですが、全てが終わった後で全体を振り返ってみると、神は約束通りずっとヤコブと共にいて守り導いたことがわかります。困難はありましたが、それは神が離れたとか見捨てたということではありませんでした。人間の観点では理解しがたいのですが、困難の時にも神は共にいて守り導いていたのです。困難は神が見捨てたことを意味しなかったのです。神は自ら立てた約束を必ず守る方だからです。

さて、キリスト信仰者がヤコブの格闘の出来事を読んだ時、何を掴み取るでしょうか?間違いなく、神は困難の時にも平穏時となんら変わらず共にいて守り導いて下さる方であるということでしょう!そうなると、困難に陥っても、不正義を被っても、神が見捨てたなんて全く思いもつきません。逆にそれらは、祈りを一層強くするきっかけになるだけです。まさに、旧約聖書から救いに導く知恵をまた一つ得たことになります。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注)使徒たちが手紙を書き送っていた頃の旧約聖書というのも、果たして今私たちが手にしているものと同じかどうか定かでない部分があります。ヘブライ語の旧約聖書に含まれている書物とギリシャ語訳の旧約聖書に含まれている書物に違いがあることからそれが伺えるし、また、死海文書で有名なエッセネ派は啓示思想を表わす書物を幅広く権威あるものと見なしていました。