お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
2025年10月26日
福音ルーテル・スオミ・キリスト教会礼拝説教
ルカによる福音書18章9〜14節
「神様、罪人のわたしを憐れんでください
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
1、「はじめに」
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日の箇所の前のところでイエス様は、父なる神様は私たちの祈りを必ず聞いて下さるお方であるのだから、私達はいつでも祈るべきであり、失望してはらないと教えています。そこでイエス様は不正な裁判官の例えを用いて、そのような不正な裁判官であっても、その裁判官にどこまでもしつこく頼むならば、裁判官はその重い腰を上げて裁判をするだろう。不正な裁判官であってもそうであるなら、まして、私達を愛して下さり、子として扱って下さる神様は私達の声を、願いを、祈りを聞いて下さらないわけがあろうかと教えたのでした。その神様への「祈り
についてのメッセージが今日のところでも続いていきます。イエス様は二人の人のことを例に取り上げて、祈りについて、そしてそこにある信仰について教え始めるのです。
2、「自分を正しいと自惚れる人々」
まず、このお話は、9節にある通り、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」とあります。「自分は正しい、自分は間違いがない、悪い所は何もない」と言う人がイエス様のまわりにいた。そしてその人々は、他の人、つまり、彼らから見て、周りの正しくない人、間違っている人を見下しているのを、イエス様は見たり、その人の声を聞いたりしていたのでした。確かに15章の有名な放蕩息子の譬えを話した時にも、イエス様は罪人と呼ばれる人達と食事をしている時でした。その時、周りのユダヤ人たちは、それを見てそのようなイエス様を蔑んだたとありました。さらに16章でも、イエス様がそのような罪深い小さな人々こそを愛するように教える中で、周りの金持ちなどは、それを嘲笑ったともありました。そのように自分たちこそ正しいと自認して、そうでない人を見下す人々が、絶えずイエスのまわりにいた、あるいは社会の中には当たり前のようにいたのでしょう。そんな彼らにイエス様はある二人の人の話をするのです。10節からですが、
2、「祈るために神殿に上る二人」
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
二人の人は祈るために神殿に上って来ました。二人とも祈るためにやって来たのです。一人はファリサイ派の人。つまりそれは旧約聖書を幼い時から非常に良く勉強していて、聖書の律法を厳しく守っている人でした。そしてユダヤ社会では地位が高く、世間からは立派な人達と見られている人達でもありました。他方、もう一人は、徴税人です。徴税人たちは、不正を働いて富を得るものとして、罪人として嫌われていました。彼らはユダヤ人でしたが、外国からの支配者であるローマの皇帝のために税金を集めている人達でした。ユダヤ人たちはローマに支配されていることを良く思っていませんでしたから、「嫌なローマのために税金を集めている人
とまず見られるのです。しかし、それだけで罪人と呼ばれていた訳ではありません。それだけでなく、さらに彼らは、本来集める額よりも多く集めて、その多く集めた分を自分の懐にいれていることをみんな知っていたのでした。ですから、罪人と呼ばれて、蔑まれ、嫌われていたのです。 ユダヤ人たちはそのような罪人である徴税人と交わることを忌み嫌いました。
このファリサイ派の人と徴税人の二人が祈りにやってきました。
A、「ファリサイ派の人の祈り」
ファリサイ派の人はこう祈ります。11節ですが
「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」
彼は、まさに「自分は正しい」と思っています。そして「自分はこんなに、これだけのことをしている」「神の律法をこんなに守っている」と、自らと自分の行いを誇っているでしょう。しかし彼は他の人々や、なによりその隣の徴税人と「比べて」祈ってます。そして「この彼のような罪を自分は犯していない」「だから正しい」というアピールです。そのように彼の正しさの基準はその徴税人、人との比較にあることがわかります。もちろん神様の律法もよく知っていたでしょう。しかし律法云々よりも、彼は「この徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈るのです。これは新改訳聖書ですと、「ことのほか、この取税人のようではないことを感謝します」と強調の言葉で述べられています。
彼は神に祈っていながら、大事なことを見落としているのです。それは何でしょうか?それは彼は「人の前」のことは見ていても、「神の前」にあっての自分は見えていないということです。彼はどこまでも「人との比較」のことを言っています。「人と比べてどうであるか。人とくらべて正しい、悪くない」と。ですから、断食しているとか、献金しているとかも、それは人とくらべてこれだけしているということを言っているのです。それは神の前ではなく、どこまでも人の前でのことに過ぎないでしょう。ですから、彼は、神に祈っているようで、実は神様に祈っていません。神様に向いているようで、神様に向いていません。人と比べて自分を誇ることだけしか向いていないといえます。むしろ自分を誇るために、徴税人を利用し、神さえも利用しているとも言えます。そして「神の前」ということはまったく、彼の心にはありません。むしろ、もし私たちが「神の前
にあるなら、あるいは神の前の自分を知るなら、私達は誰一人何も誇れるものはないのです。だれと何を比べようとも、どんなに人の前で立派な振る舞いし社会の貢献ができ一人当たりも良く世間に評価されていたとしてもです、全ての人は、誰一人漏れることなく、皆神の前には罪深い一人一人だからです。本来、祈りのための神殿は、その罪のための全焼のいけにえをささげに来る礼拝の場所であり、「神の前にあって
、罪を告白する場所でもあったはずでした。ですから、彼はそのような神殿とか礼拝とか、祈りさえも、まさに自分を誇るために利用しているに過ぎないのでした。なにより「神の前」ということがすっぽり抜けてしまっているのです。
この「神の前」ということが抜けてしまう時に、信仰も、祈りも、どこまでも「人の前」になってしまいます。神に聞いてらうのではなく、人に見せるため、聞いてもらうため、人に評価されるためになってしまいます。そしてやはり「人と比べて」の信仰や祈りにもなってしまうでしょう。人はこの「人と比べる」ということで安心を求めます。そしてそれは一瞬は安心するのかもしれません。けれども、神の前」を忘れて、人と比べることによって得られる安心は、不安定な安心であり、長続きしません。そしてやっぱり不安にしかなりません。それ不安定さと不安の結果として、このパリサイ人のように、隣人を、裁いたり、批判したり、蔑んだりになってしまっているのがわかるのではないでしょうか。
B、「徴税人の祈り」
しかし他方、徴税人はどうでしょうか?13節
「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」
目を天にも向けない。そして自分の胸をたたきます。胸の痛みです。それは肉体や内臓の痛みではありません。それは「神様。こんな罪人の私をあわれんで下さい」と。罪ゆえの心の痛みでした。聖書には、罪ゆえの痛みを「心を刺し通される」とか、「心が砕かれる」というような表現がありますが、罪は、心に、何かが刺さるような強い痛みを起こすものです。徴税人は悪いことをしてしまいました。しかし彼は神の前にあって神の前に立つ事ができないのです。見上げることができません。しかし彼は「神の前」にあることを何よりも意識して、知っています。そしてその時、何より、彼はその神の前にあって、自分の罪深さしか見えて来なかったのでした。その痛みと恐れと告白なのです。憐れまれるに値しないような自分しか見えません。絶望的な自分です。しかし彼は、その罪の告白に、この罪人をどうか憐れんで下さいとだけ祈るのでした。いやそう祈ることしかできなかったのでした。
こんな二人、こんな二人の祈りでした。
3、「義とされて家に帰ったのは」
そんな二人について話しイエス様はこう続けます。14節ですが。
「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」」
イエス様はいいます。この徴税人こそ義とされた。ファリサイ派ではないと。ファリサイ派の祈りではなく、この徴税人の祈り、告白こそ、神に受け入れられた。いや、義と認められた。そういいます。正しいとされたというのです。私達人間や、社会の目から見るなら、ファリサイ派の人の方が、社会的にも評価されるのではないでしょうか。人は誰でも、これだけのことをしましたとアピールして、自分を良く見えるように装います。そして世もそれを求めます。それを評価します。人は心の中が見えません。だから人は心を隠し、外面的に自分は正しいとアピールするのです。時にはこのファリサイ派の人のように自画自賛さえします。残念ながら多くの場合、現代でもどの国でも偉い人や地位のある人の方がそのようなことが見られます。政治家は特にそうです。それは宗教家でさえも、牧師にさえも見られることです。当時にユダヤ社会中でもそのようないい人、立派な人、正しい人、信頼できる人は、このファリサイ派の人の方だと、見ていたのです。大体の社会の人の評価はそうかもしれません。しかし、イエス様は、神の視点は全く逆です。義と認められて家に帰ったのは、「ファリサイ派の人ではありません」と、わざわざ言っています。徴税人が義と認められて家に帰ったとイエス様はいいます。なぜでしょう。 「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くするものは高くされるからです」といいます。しかしそれは何より、「神の前にあって」ということです。人の前に何をしたか、何ができるかは、神の前にあって、あるいは何より、ここでは「義と認められるために」、つまり「救いのために」は、全く重要なことではないというのです。行いを見るなら、パリサイ人のほうが言うまでもなく立派であり、取税人のしてきたことは、罪です。しかしどんなに人の前で立派に振る舞うことができ、社会に貢献でき周りに評価され尊敬されても、神の前にあっては、その自分の行いを誇って、自分の罪が見えないことは、救いのために何の役にも立たないのです。それどころか高ぶりの罪とさえ聖書は見ます。神の前では、ファリサイ派の人のようであってはならない、むしろ神の前に、自分の罪を認めることこそが、神様はなによりも求めておられる。そして外側を飾り、装うのではない、人と比べるのでもない。むしろその罪を認め、苦しむ心、神にのみ憐んでくださいと、ただすがる心を神様は決して責めるのでも、裁くのでも、更に苦しめ、大きな罰を加えられると言うのでも決してない。むしろ、神様は、それこそを義と認めて下さる。むしろその罪を赦し、正しい者として、再び立たせ、家へ、社会へと送り出してくださる。遣わしてくださる。そのような神様の心を、イエス様は私達に伝えているのです。
4、「砕かれた悔いた心を神は侮らない」
聖書は一貫してその神様の心を私達に伝えています。詩篇51篇18〜19節にはこうあります。
「もしいけにえがあなたに喜ばれ焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのならわたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。
これは新改訳聖書ではこうあります。
「たとい私がささげても、まことにあなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません。」
と。神の前に、砕かれた悔いた心こそ、神へのささげものとして喜ばれるとダビデは歌っています。イエス様は、マタイ6章のところで、祈りにおいても、人に見られるような祈りではなく、やはり「隠れたところにおられるあなたの父に」と、人の前ではなく、「神の前」ということをイエス様は教えて下さっています。さらにマタイ7章では、隣人に対しても、兄弟の目の中のちりに目を付けるが、自分の目の中の梁に気がつかないものを、イエス様は偽善者と言っています。そして、なにより「自分の目の梁を取り除くように」と教えました。やはりパリサイ人のような「人の前」で人と比べ自分を誇り隣人を裁くのではなく、この取税人のように「神の前」に自分の罪を認める悔いた心をイエス様は教えているのです。そのような自分の目の梁は自分では取り除くことはできません。しかしその梁はこのキリストの十字架のゆえにこそ完全に取り除かれます。罪はキリストの十字架のゆえにこそ赦され、罪人が義と認められるのです。事実イエス様自身は、そのような人の前だけの立派な人を招くためではなくて、神の前に罪に痛み苦しみ、悔いる者を招くためと言っています。ルカ5章31−32節
「「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」」(ルカ5:31〜32)
5、「神の前にあって真に平安に立てるように」
私達はみな「神の前
にあるものです。アダムとエバは堕落した時に、神の前から隠れ、神の声を避けようとしましたが、彼らがそうであったように私たちは誰も神の前を避けることも隠れることもできません。その「神の前
にあって、私達はみな、この取税人のような罪人です。このファリサイ派の人も同じ罪人です。しかし神様はその罪人を裁くためにイエス様を送ったのではありません。救い主として送りました。罪人を招いて、一緒に食事をし、愛を表し、悔い改めさせるためにです。その神の前にあって、私達は自分を誇ることは空しいことです。人と比べて安心することも、結局は意味のないことです。私達は、神の前にあって、何より、そのままの罪深い自分を告白して、「神様、この私を、憐れんで下さい」と、神様に頼り、求める声を、神様はなにより喜んで下さり、受け入れて下さいます。そのような私たちをも罪を赦し義と認めて下さいます。ですから、今日もイエス様は宣言してください。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。今日も神様は私たちをこの福音の約束と十字架と復活における実現で再び新しく立たせて、平安のうちに私達を家族へ、社会へと、新たにつかわしてくださるのです。ぜひ平安のうちにここから遣わされて行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。
アーメン 2025年10月19日(日)
聖書:ルカ福音書18章1~8節
説教題:「気を落とさず、絶えず祈れ」
今日の聖書は「寡婦と裁判官」の譬えです。読んだだけで分かり易い譬え話です。イエス様はこの譬え話で何を弟子たちに語っておられるのでしょうか。ルカは18章1節に、この譬え話の教えを次のようにはっきり書いています。「『イエスは気を落とさずに、絶えず祈らなければならない』この事を教えるために弟子たちに譬えの話をされた。」イエス様は弟子たちに、気を落とさず絶えず祈りなさい、と言っておられるのです。弟子たちはこれから先イエス様がおられなくても福音を宣べ伝えて行かねばならない。この大切な使命を生涯をかけて果たして行くのに多くの困難がある。その苦難と迫害と戦い耐えて行かねばならない。そうした中で「神様に向かって、絶えず祈れ」と教えておられるのです。「絶えず祈る」というこの繰り返し、繰り返し、へこたれず忍耐して続けて訴えて行け、祈れという意味が込められているわけです。そこでイエス様は具体的にもっと詳しくわかるために、此処に「寡婦と裁判官」の話を譬えて語られたのであります。
――――――――――――――――♢――――――――――――――――
2節から見ますと「ある町に神を畏れず、人を人とも思わない裁判官げいた。ところが、その街に一人の寡婦がいて裁判官のところに来ては『相手を裁いて私を守ってください。』と言っていた。」裁判官というのは裁判をする権利を持っています。政治をする為政者もまた権力を持っていて、権力を持つとその力をひけびらかして自分の力でどうにでもなる、という誇りや高慢になります。そして差別や偏見の目を持って不正な事も平気でやってしまいます。この譬えの裁判官もそうとう悪(わる)のようです。神を畏れず人を人とも思わない裁判官だったとありますから想像できます。この裁判官は神を畏れないのです。そこでは信仰の話は通じません。また、この裁判官は「人を人とも思わない」のです。そこには人間らしい情けや優しい気持ちなど全くない。それどころか人権とか人間尊重といった感覚は全くゼロに等しいのです。しかも、そういう人が権力を持ちこの街を治めているのです。本来、裁判官というのは正義と不正義とを律法に照らして判定を下す役なのです。旧約聖書、申命記16章18~20節には次のようにあります。「あなたは裁きを曲げてはなりません、人を偏り見てはなりません。賄賂を取ってはなりません。賄賂は賢い者の目をくらまし正しい者の事件を曲げるからです。ただ、広義のみを求めなけなればなりません。」以上ですがこれが正しい裁判官、また政治をする人の在り方です。更にパウロはローマ人への手紙13章でこう書いています。「彼は善を行うために立てられた神の僕です。・・・彼は神の僕であって悪を行う者に神の怒りを表すために罰を持って報いるのです。」これが理想的な裁判官、また政治家のあり方です。しかし、理想であって現実のこの世では権力をわが物にして自分の力を過信して行く、遂に恐ろしい程の人を人とも思わない権力者となってしまうのです。神を神とも思わない高慢な我儘で正義感のない者となってしまう。民衆のためにあるのではない、自分のために固着するしかない。権力は民衆を忘れ、神を忘れ自己達成を目指す、そしてやがて腐敗を始めます。権力の上には神がおられ、神の支配の下でないと崩壊します。何時の時代でも戦争で多くの命が踏みにじられて悲惨な世の中はあるのです。現在でも世界で独裁者が権力を奮っています。これが現実の私たちの生きてゆる世界です。毎日、建物が破壊され人が傷つき死んでいます。
さて、譬え話ではその町に寡婦がいて裁判官のもとへ行って「私の訴訟相手を裁いて私を守ってください。」と言っています。この寡婦の姿は無力な私たちの姿のようです。この寡婦は賄賂を使う金もない、全くの無力です。誰かを頼む伝手もない、誰も助けてくれそうもない全くの無力です。それに、いま彼女は訴えられています、被告になっています。寡婦の彼女は繰り返し、繰り返し訴えて裁判をしてくれるように頼んでいますが裁判官は取り合ってくれない。彼女は無力です。ただひとつ正義の神様がいます。このお方が必ず正しい事をして下さる。彼女にこの信念があります。パウロはコリントの第二の手紙12章9節でこう書いています。「私は力の弱いところに完全に現れる」。神様は全てをご存じです。神様は決して見捨てられない。しかし、いま彼女の状態は決してあるべき姿ではない。主の祈りで私たちは祈ります。「御心の天になる如く、地にもなさせ給え」と。彼女は、ただこの祈りをもって悪い裁判官に立ち向かいます。彼女をそうさせたのは正義感ではありません。彼女は取られようとしている彼女の財産が無くては生きてはゆけないのです。正義の意志というものだけでは弱いものです。如何なる権力にもひるまず訴えてゆく根底には実にその事が自分の生命の問題だからです。抽象的な正義感だけででは生命の問題とならないのです。裁判官は長い事彼女の叫びを聴き入れようとしませんでした。この純真な要求は聴き入れられない。いく度も、いく度も熱心に訴えても要求は聴き入れられませんでした。もしこの要求が生命の問題にまでなっていなかったら途中で諦めるか自分で又新たな理屈をつけて叫び直すしかない。この悪い裁判官は何故聴き入れられようとしないのか。それは「神を畏れず。また人を人とも思わない」からです。正義の感覚など微塵も持ち合わせていないからです。この裁判官がついに聴き入れるのは単なる理論や正義の感覚ではない。理論だけで悪魔に対抗する事は出来ません。悪魔は何時ももっと巧みな理論を用意しています。そこに暫く聴き入れない期間があります。大切な期間というものがあるのです。そこで諦めたら終わりです。裁判官が勝手に思って作っている期間ではありません。私たちの祈りも神様に直ぐに聴き入れられない期間というものがあります、そういう時があるのです。この裁判官は依然として神を畏れないし人を人とも思わない。その事態は変わらない。しかし今その裁判官がその後、自分自身で言いました。「私は神を畏れないし人を人とも思わないがこの寡婦は私を煩らわすので彼女の裁判をしてやろう。そうすればとことんまでやって来て私を苦しめる事が無くなるだろう。」イエス様の譬え話は5節までです。そして、6節で即、言われました。「この不正な裁判官の言い草を聞きなさい」。イエス様は問われます。「彼の言う事を聞きましたか。他でもない。この不正な裁判官がついに神の正しい裁きをすると言うのです。不正な裁判官のへ理屈などどうでも言いのです。その不思議な事実を聞くのです。此処では極悪の地上の裁判官が正義の神に名添えられているのです。では何に耳を傾けなくてはならないのでしょうか。それは不正な裁判官がついに正義の裁判を行うという不思議な事実です。裁判官は依然として彼の本質は変わらないのです。「この悪い裁判官が急に寡婦の祈りを聞いてその熱心さに涙を流して悔い改めた」とは書いてありません。しかし、彼は「この寡婦は私を煩わすので彼女の裁判をしてやろう」と言い始めるのです。煩くて、煩くて俺を煩すから、と言っているのです。不正な裁判官を正義の裁判官に変える事は出来ません。人間の仕事ではありません。しかし驚く事にこの権力の利己主義を通しても神の正義が実現してゆくのです。権力は正義の理論では動きません。しかし、絶えずぶつかって行く信仰の愚かな行為の繰り返し・・ただそれのみによって動かされるのです。小さな奇跡が起きているのです。
旧約聖書、出エジプト記2章23節以下にこうあります。「多くの日を経てエジプトの王は死にました。イスラエルの人々はその苦役の故に彼らの叫びは神に届きました。神は彼らの呻を聞き、アダム、イサク、ヤコブとの契約を覚え神はイスラエルの民を顧みてくださいました。」神が働いて下さったのです。悪い裁判官が世界を動かしているかに見えます。しかし、そうではありません。人間にはその時、その時で事がおこるのです。即ち人間の徳、権力の不正、私たちの弱さ、不安、動揺・・・信仰、不信仰、等々あらゆる物を貫いてただ一つの神の御旨のみが勝利するのです。旧約聖書、箴言19章21節にはこうあります。「人の心には多くの計画がある。しかし、神の御旨のみが立つ」。神は夜、昼神に呼ばわる選びの民に裁きをしないで忍耐ばかりさせ給うだろうか。いや!神は速やかに審きをして下さる。しかし、人の子の来る時、果たして地上に信仰を見い出すであろうか。8節で問うておられる。これは信仰の課題です。終末の時、どうなっているか私たちにはわからない。神の遅き、と言うものは遅いのではない。神は速やかに審きをして下さる、と約束しておられるのです。それは又人の速さは速いのではない。神の時というものがあります。我々の持っている時と神の時は違います。20世紀最大の神学者、カール・バルトが言っている事です。神の時は全く次元の違う霊の世界の時です。神の時を持ち給う方が我々の持つ時の只中に来て下さった。救い主イエス・キリストとして神の御子が神の時そのものを持って人の世の時に宿って下さった。神の御子は人の世にあって、ついに十字架の死を遂げ、三日目に蘇って今も私たちと共に生きて下さる。これを信じることが信仰です。信仰はただこの神に基づくのです。たとえ天地が崩れ去るとも崩れる事のない土台の上に立っているのです。ある時は神は私たちから全てを奪われるかに見えます。神は私を見捨てられたのだろうか、と思えます。ヨブもそう思ったでしょう。しかし、全てを与えられます。気づかないうちに、ある時、突如としてです。神は必ず働いて下さる。神はいないかに見えます。正義は聞かれないかに見えます。神は時として沈黙し給うのです。そうです、沈黙しておられる。そういう時というものが必要だからでしょう。しかし、信仰はこの不正な裁判官の背後に生ける神を見ます。神は選びの民の義を守り給うです。それは、その民が神に選らばれた民に相応しく神の真理にしっかりと結び合っている時であります。私たちの祈りも、願いも全てを貫いて神が御旨をなさるのです。神様の側でなさる事であります。私たちに出来る事は絶え間ない祈りであります。
人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
主日礼拝説教 2025年10月12日(聖霊降臨後第18主日)スオミ教会
列王記下5章1~3、7~15b節
第二テモテ2章1~15節
ルカ17章11~19節
説教題 「いつどこででも主なる神に感謝するのは当然であり相応しい」
1. はじめに
イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して進んでいきます。本日の箇所はガリラヤ地方とサマリア地方の間を通過している時の出来事です。サマリア地方というのは、もともとはユダヤ民族が住んでいたところですが、紀元前8世紀以後の歴史の変転の中で異民族と混じりあうようになって、ユダヤ民族の伝統的な信仰とは異なる信仰を持つようになっていました。旧約聖書の一部は用いていましたが、エルサレムの神殿の礼拝には参加せず、独自に神殿をもってそこで礼拝を守っていました。
さて、一行がある村に近づいた時、10人のらい病患者がイエス様を待っていました。まだお互いの距離が離れている時に彼らは「イエス様、先生、どうか私たちを憐れんでください!」と大声で癒しをお願いしました。これに対してイエス様はその場で癒すことはせず、エルサレムの神殿の祭司たちのところに行って体を見せなさいとだけ言います。これは、レビ記13章にある「重い皮膚病」にかかった時にどうするかという規定の通りです。つまり、かかった時は祭司が診て診断しなければならない。イエス様はモーセの律法にある既定に沿って指示を下したのでした。10人の男たちは、イエス様が命じられたのだからと言う通りにただちにエルサレムに向かいました。
ところがどうでしょう、出発後ほどなくして10人はみな治ってしまいました。みんな歓喜の極みだったでしょう。10人のうち9人はそのままエルサレムの祭司たちの所へ向かいました。レビ記14章をみると、祭司は「重い皮膚病」にかかったかどうかを診断するだけでなく、治ったかどうかも診断しなければなりませんでした。このように男たちのエルサレム行きの目的は、発病の診断から治癒の診断に変わってしまいました。それでも、祭司のところに行くのは律法の規定です。ところが1人だけ治癒の診断に行かずにイエス様のところに戻ってきた人がいました。先ほども触れたサマリア地方の出身者でした。彼は癒しを与えてくれた神を大声で褒め称えながら戻ってきました。そして、イエス様の足元にひれ伏し神の癒しを及ぼして下さったイエス様に感謝しました。この時のイエス様の言葉「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人の他に神を賛美するために戻って来た者はいないのか」、これを聞くと、律法に規定された祭司の診断よりも、彼のところに戻ってきて神を賛美することの方が大事だと言っているのが明らかです。
本日の個所はキリスト信仰にとって本質的なことを2つ明らかにしています。一つは、神から義なる者と認められて救われるのは律法の規定を守ることによってではない、イエス様を救い主と信じる信仰によってであるということ。もう一つは、キリスト信仰者は神から義とされ救われたことで感謝に満たされて神の意志に沿うように生きようとすること。この2つの萌芽がサマリア人の行動から見て取れます。この時はまだイエス様の十字架と復活の出来事は起きていません。なので、キリスト信仰にとって本質的なことがあるというのは少し気が早いかもしれません。しかし、先取りしているのです。イエス様はこの出来事を通して、将来の信仰はこういうものになると前もって教えているのです。
2.「あなたの信仰があなたを救ったのだ」の本当の意味
この先取りがわかるために、まず、イエス様の謎めいた言葉「あなたの信仰があなたを救った」を見てみます。この言葉は一見すると、信仰があるから病気が治ったというふうに聞こえます。しかしそれでは、病気が治る人は信仰がある人で、治らないのは信仰がないからということになってしまいます。本当にそうでしょうか?それだったら、戻ってこなかった9人も治ったのだから、イエス様は、お前たちの信仰がお前たち全員を救ったのだと言うべきでした。しかし、そう言わないで、このサマリア人だけに当てはまることとして言ったのです。このことに気づくと、この言葉は信じたら治るというような短絡的なものではないとわかってきます。この言葉の本当の意味がわかるために、イエス様が別の箇所でも同じ言葉を述べていますので、それを見てみましょう。
マタイ9章22節、マルコ10章52節、ルカ18章42節に同じ言葉「お前の信仰がお前を救ったのだ」があります。そこでイエス様はこの言葉を人の病気が治る前に、つまり人がまだ病気の状態にいる時に述べています。本日の個所は治った後で言うので逆です。そこに注意します。マタイ9章では、12年間出血が止まらない女性がイエス様の服に触れば治ると思って触る、それに気づいたイエス様が「娘よ、気をしっかりもちなさい(後注)。あなたの信仰があなたを救った」と言います。この言葉をかけられた後で女性は健康になります。マルコ10章とルカ18章では、盲人がイエス様に見えるようにしてほしいと懸命に嘆願しました。イエス様は彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。その直後に男の人は目が見えるようになりました。
本日の個所のように病気が治った後で「あなたの信仰があなたを救った」と言えば、ああ、信仰のおかげで治ったのだな、と普通は理解します。しかし、病気が治る前、まだ病気の状態でいる時にそう言うのはどういうことでしょうか?そこで、この「あなたの信仰があなたを救った」の「救った」はギリシャ語原文では現在完了形(σεσωκεν)です。「過去の時点で始まった状態が現在までずっとある」という継続の意味です。それなので「あなたの信仰があなたを救った」というのは、本当は「イエス様を救い主と信じる信仰に入ってから、今この時までずっと救われた状態にあった」という意味です。
これは驚くべきことです。12年間出血が治らなかった女性も目の見えなかった男の人も、この言葉をかけられる時まで救われた状態にあったと言うのです。まだ病気を背負っている時に既に救われた状態にあったと言うのです。どうして、そんなことがありうるのでしょうか?普通は、治った時に救われたと言います。ところが、そうではないのです。イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、この人たちは確かに見た目では病気を背負っている状態にはあったが、神の目から見れば、罪と死の支配から解放されて神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになったということです。これが救いの本当の意味です。キリスト信仰では救いというのは、人間の目から見て良い境遇にあるということと同義ではないのです。境遇が良いか悪いかにかかわらず、罪と死の支配から解放されて神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになる、それが「救い」なのです。誤解を恐れずに言えば、出血の女性や目の見えない男の人が癒されたのは、そのような本当の救いに対する付け足しのようなものだったのです。
そういうわけで、キリスト信仰者が不治の病にかかったとしても、それはその人の救いが無効になったということでは全くありません。そうではなく、その人がイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限り、その人は病気になる前と同じくらいに救われた状態にいるのです。この不動の救いは、イエス様が十字架と復活の業を成し遂げることで全ての人に提供されました。この本当の救いは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。
さて、今日のサマリア人の場合はどうなるでしょうか?同じ癒しを受けたにもかかわらず、この言葉は9人には向けられませんでした。感謝に満たされて神を賛美しながら戻ってきたサマリア人に言われました。ここでも、癒しと救いが別々になっていることは明らかです。サマリア人が「救われた」というのは、癒されたことではなくて戻ってきたことに関係するのです。「救われる」と言うのは、先ほども申しましたように、癒しではなく、罪と死の支配から解放されて神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになることです。それでは、サマリア人が戻ってきたことが、どうして彼の救いになるのか?それを次に見ていきます。
3.キリスト信仰を先取りするサマリア人の行動
先ほども申しましたように、レビ記14章には重い皮膚病が治ったかどうかの診断は祭司が行うという規定があります。その3節をみると、祭司が治ったと診断した場合は次に「清め」の儀式を行わなければなりませんでした。いろいろな動物や鳥を生け贄として捧げることが、神との和解を回復する手立てとして定められています。これを行った後で治った人は「清い状態になる」(14章20節)、つまり「清い状態」とは皮膚が健康になったことではなく、神との和解が成ったということなのです。
ここで注意しなければならないことは、生け贄を捧げる「清め」の儀式は、病気を治すために行う祈願の儀式ではなく、病気が治った後でする儀式ということです。治ったんだったら、もう何も儀式はいらないんじゃないかと思われるでしょう。しかし、「重い皮膚病」というのは、単なる肉体的な病気にとどまらないと考えられたのです。それは、人間が神の意志に反する性向、罪を持っているために神との結びつきが失われてしまった状態にあること、それが病気という目に見える形で現われたものと考えられたのです。それで、肉体的な病気は治っても、神との和解を回復するための儀式が必要だったのです。
もう一つ注意しなければならないことがあります。それは、全ての人間はたとえ「重い皮膚病」にはかからなくても、神の意志に反しようとする罪をみんなが持っているということです。病気のような目に見える状態はなくても、みんなが罪の状態にあるのです。それが「重い皮膚病」という目に見える形で出てくるのは、かかった人が何か罪を犯したから、かからなかった人は犯さなかったからというのではありません。全ての人間は罪の状態にあるので、病気が目に見える形で現れる可能性は本当は誰にでもあるのです。ただ、私たちが知りえない理由で、ある人たちがそれを背負うことになってしまったということです。全ての人間が罪の状態にあるということは、最初の人間が罪を持つようになって以来、人間は死ぬ存在であり続けたことに示されているのです。使徒パウロが罪の報酬として死がある(ローマ6章23節)と言ったのはこのことです。死ぬということが人間が罪を持っていることの表れなのです。
さて、イエス様は、癒されたサマリア人がエルサレムの神殿で「清め」の儀式をしないでに戻ってきてイエス様と神を賛美したことを良しとします。つまり、神との和解の儀式はもう必要ない、その人はもう神と和解ができている、ということになります。イエス様は自分がこの世に贈られたのはそのような儀式不要な神との和解を打ち立てるためだということを前もって教えているのです。どういうことかと言うと、イエス様の十字架と復活の出来事の後は、もう人間は神との和解のためには何の犠牲も生け贄も捧げる必要はなくなったということです。人間はただ、イエス様を自分の救い主と信じる信仰と洗礼によって神との和解を得ることができるようになったのです。モーセの律法には「重い皮膚病」が治った後の「清めの儀式」の他にも罪を償い神との和解を得るための儀式が数多くありました。特に「贖罪日」と呼ばれる日は年に一度、大量の生け贄を捧げて、罪の償いの儀式を大々的に行っていました(レビ記16章、23章27
32節)。
しかしながら、こうした儀式や生け贄は何度も何度も繰り返して行わなければならないものでした。そこで明らかになったことは、それらは人間を罪の支配から完全に解放できない、それでもたらされる神との和解は一過性のものにしかすぎないということでした。このことを「ヘブライ人への手紙」10章は次のように述べています。「律法は年ごとに絶えず捧げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを捧げることは中止されたはずではありませんか。」(10章1
2節)。
そこで天地創造の神は、人間がこのような中途半端な状態から抜け出せて、罪と死の支配から解放されて、神との結びつきを持ってこの世を生きていけるようにしてあげようと、それでひとり子イエス様をこの世に贈られたのです。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運ばせてそこで人間に代わって神罰を受けさせました。このようにイエス様に人間の罪の償いをさせて、人間を罪と死の支配から贖い出して下さったのです。それだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を想像を絶する力で復活させて、永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に開いて下さいました。そこで人間が、これらのことは本当に起こった事だと、それでイエス様は本当に救い主だと信じて洗礼を受けると、神がイエス様を用いて実現した償いと贖いを受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。その人は罪を償ってもらったので神との結びつきが回復しています。永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。神との結びつきがあるので、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと守りを受けられて歩むことが出来ます。この世を去らねばならない時が来ても、神との結びつきを持ったまま去り、復活の日が来たら目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて創造主である神のもとに永遠に迎え入れられるのです。
4.勧めと励まし
主にある兄弟姉妹の皆さん、神のひとり子が自分自身を唯一神聖な捧げものとして捧げて、未来永劫にわたって人間の罪を償い、人間を罪と死の支配から贖い出して、神との和解をもたらして下さいました。私たちキリスト信仰者はそのイエス様を救い主と信じ洗礼を通して、この償い、贖い、和解が自分にはあるという者になりました。私たちが律法の規定を守ることでこれらがあるというのではなく、イエス様を救い主と信じることでこれらがあるという者です。自分では何もしていないのに、なんで?と一瞬あっけに取られます。しかし、自分にあるものをわかるや否や、心と体は強烈な感謝に包まれ、そこから神とイエス様を賛美する心が起こります。ちょうど律法のもとにではなくイエス様のもとに戻ったサマリア人のようにです。神を賛美する心も、神の意思に沿うように生きようと志向する自由な心もこの感謝から出てくるのです。その意味でサマリア人の行動には来るべきキリスト信仰の本質が見事に先取りされているのです。イエス様は十字架と復活の後の信仰者はどう立ち振る舞うかをこのサマリア人を例にして前もって教えているのです。
先日、ある教会員の方とお話しする機会があって、いろいろ大変なことがあった人生だったが、今は大分落ち着いて毎晩一日を振り返って一つ一つのことに神さまの良い御心が働いていたことがわかり、感謝に満たされて床につくことができるようになったとおっしゃっていました。素晴らしいことだと思いました。多くの人にとって平穏無事は当たり前になってしまって、特に神に感謝することではなくなっていることが多いからです。後で本説教を準備して、あの時、言っておけば良かったということが出てきました。それは、たとえ平穏無事が離れてしまう時があっても、償い、贖い、和解がある限り、離れない平穏無事を私たちは持っているということです。人間の目では平穏無事はなくても、神の目で見える平穏無事を持っているのです。だから、いつどこででも神に感謝するのは当然であり相応しいことなのです。
後注 θαρσειは「元気を出しなさい/気をしっかり持ちなさい」がいいでしょう。新共同訳のように「元気になりなさい」だと、健康になりなさい、というふうになって、これから癒してあげるという意味になってしまいます。それは正しくありません。
主日礼拝説教 2025年10月5日(聖霊降臨後第十七主日)スオミ教会
ハバクク1章1~4節、2章1~4節
第二テモテ1章1-14節
ルカ17章5-10節
説教題 「キリスト信仰者にとって信仰の成長とは?」
1.はじめに
本日の福音書の日課の最初は、イエス様の有名な「からし種」のたとえの教えです。弟子たちがイエス様に「信仰を増して下さい」とお願いしました。「信仰を増す」というのは、ギリシャ語(προσθες πιστιν)の直訳でわかりそうでわかりにくいです。各国の聖書訳を見ると、英語NIVは「信仰を増やして下さい」と日本語訳と同じです。他は「信仰を強めて下さい(ドイツ語)」、「もっと大きな信仰を下さい(スウェーデン語)」、「もっと強い信仰を下さい(フィンランド語)」です。次に来るイエス様の答えから推測すると、弟子たちの質問の意図は何か奇跡の業が出来るようになるのが大きな信仰だと考えていたことが伺えます。奇跡の業を行えるような信仰を与えて下さいということだったでしょう。それに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?お前たちにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に命じると木は自分から根こそぎ出て行って海に移動するなどと言う。これと似たような話はマタイ17章とマルコ11章にもあります。ただ、それらでは移動するのは桑の木ではなく山です。マルコ11章ではからし種は出てきません。本日の説教は日課に定められているルカ福音書に集中して話を進めます。
からし種というのは、1ミリ程の極小の種でそれが3~4メートル位の木に育つと言われています。それなのでイエス様の答えを聞くと、お前たちにはからし種一粒ほどの信仰もないから桑の木に命じてもそんなことは起きない、お前たちの信仰は極小のからし種にも至らない超極小だ、と言っているように聞こえます。せっかく弟子たちが自分たちの信仰は大きくないと認めて、だから大きくして下さいとお願いしたのに、お前たちの信仰はからし種よりも小さくて救いようがないと言ってることになってしまいます。しかも、どうしたらからし種位の信仰が得られるかということについては何も言いません。イエス様は教育的配慮が欠けているのでしょうか?
もう一つの教えは、召使いを労わない主人のたとえです。職務を果たして当たり前、労いも誉め言葉もありません。召使いもそれが当たり前と思わなければならない。一般に子育てや教育の場では、ほめることは子供に達成感を味わさせて自己肯定感を育てることになると言われます。ほめられたり労らわれるというのは、自分のしたことが認められたということで、そこから自分が存在することには意味があるんだ、自分はいて良かったんだという思いを抱かせます。イエス様の言っていることは自己肯定感の育成にとってマイナスではないか、教育者として失格ではないか?からし種の教えを見ても、イエス様は思いやりに欠けるのではと思わせます。実は、そういうことではないのです。では、どういうことか?以下に見ていきましょう。
2.からし種のたとえ
最初にからし種のたとえを見てみましょう。イエス様は本当に、お前たちにせめてからし種程度の信仰があれば奇跡を起こせるのに、しかし、お前たちにはそれがない、などと言っているのでしょうか?もしそうだとすると、どうして、こうすればからし種程度の信仰が得られると教えてくれないのでしょうか?
イエス様の言葉に肉迫してみましょう。日本語訳は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」と言っています。実際にはないが、もしあれば、という意味になります。これは、高校の英文法で習った事実に反することを言う仮定法過去です。ところがギリシャ語原文は仮定法過去ではなく素直な仮定法現在です(後注1)。なので、ここは事実に反することではなく、ただ単に「もし信仰をからし種のように持っていれば、次のようなことになるだろうし、もし持っていなければならないだろう」と中立的に言っているだけです。お前たちは今持っているともいないとも言っていないのです。
ところが不思議なことに、続く文が仮定法過去に変わっていて事実に反することを言っているのです。つまり、「お前たちが桑の木に命じたら言うことを聞くだろう。しかし、実際にはそんなことを命じないだろうから、桑の木が海に引越すことはないだろう」という意味です。少し複雑になってきたので整理します。
からし種というのは先にも申しましたように、1ミリにも満たない極小の種から数メートルの立派な木が出てくるという位の驚異的な成長を遂げる種です。弟子たちは「信仰を増やして下さい」とイエス様に願いました。それに対してイエス様は、からし種を思い浮かべなさい、極小なものから大きな木が育つではないか、お前たちも同じだ、極小のものが大きなものに育つのだ、信仰を大きくして下さいと言って、一挙に、ハイ大きくしてもらいました、というものではない。プロセスを経て大きくなるものだ。しかし、必ず大きくなる、からし種が木に育つように(後注2)。
このようにイエス様は、お前たちの信仰は極小のからし種にも及ばないと言っているのではなく、信仰とは極小から大きな木に育つからし種のように成長するということなのです。弟子たちをがっかりさせているのではなく、からし種が成長するのと同じように成長を遂げると勇気づけているのです。それで、ここのイエス様の趣旨は次のようになります。「信仰を小さなものから大きなものに成長するからし種のように持てば、例えばの話であるが、ここにある桑の木に海に引越せと命じたら、その通りになるだろう。ただし、これは例えばの話で実際には誰も桑の木にそんなことを命じたりはしないだろう。しかし、他のことで予想を超えたこと普通では考えられないことを起こせるのだ。」
そこで問題になるのが、じゃ、成長したら奇跡の業を行えるようになるのか?行えなければ成長したことにならないのか?ということです。ここで、奇跡の業というのは神の「恵みの賜物」(χαρισμαカリスマ)の領域であることを思い出しましょう。みんながみんな行えるものではないのです。誰が奇跡の業を行えて、誰が行えないか、これは神と聖霊が一緒に自由に決めることです。人間は立ち入ることは出来ません。奇跡の業を行う人にはない「恵みの賜物」もあるのです。だから、人目を引く業ができるからと言って、あの人の信仰は成長しているなどと言ってはいけないのです。人目を引かない業もあるのです。しかしながら、人は往々にして人目を引くものに基づいて判断しがちです。
奇跡の業や「恵みの賜物」は神が決められることで、キリスト信仰者の「信仰の成長」の度合いを測る物差しではありません。そうなると、「信仰の成長」とは何か考えてみないといけません。私は、それは「信仰の中で私たちが成長する」というふうに考えます。信仰とはイエス様を救い主と信じる信仰です。それが成長するのではなく、その信仰の中で私たちが成長するということです。信仰の中で成長するとはどういうことか?それは次に来る、召使いは労われないで当たり前という教えが明らかにしています。次にそれを見てみましょう。
3.労われない召使い
このたとえの教えで注意しなければならないことは、ここでイエス様が言われる「命じられたこと」とは、神が人間に命じることです。人間が人間に命じることではありません。というのは、イエス様のたとえの教えで「主人」とか「王様」が出てきたら、たいていは天の父なるみ神を指すからです。それで「命じられたことをする」というのは、神が人間に命じたことをするということ、つまり、人間が神の意思に従って生きることです。人間が神の意思に従って生きるというのは、イエス様が教えたように、神を全身全霊で愛することと、その愛に立って隣人を自分を愛するが如く愛するということに集約されます。キリスト信仰者は神から何も労いも誉め言葉もないと観念して、神から何も見返りを期待しないでそれらのことを当たり前のこととして行わなければならない。たとえ自分としては、神さま、こんなに頑張ったんですよ、と言いたくなるくらいに頑張っても、神の方からはそんなの当たり前だ、と言われてしまう。そうなると、何か成し遂げても顧みられず、次第にやっていることに意味があるのかどうかわからなくなってしまうではないかと言われるかもしれません。
ところが、神は、労いや誉め言葉などなくても私たちは全然平気、と思わせるような、そんな大きなことを実は私たちにして下さったのです。何をして下さったのかと言うと、御自分のひとり子イエス様をこの世に贈られたことです。それは、私たちが持ってしまっている神の意志に反しようとする性向、罪のために神と私たちの結びつきが断ち切れていた、それを神はひとり子を犠牲にしてまで回復して下さったのです。どのようにして回復して下さったかというと、イエス様が私たちの罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げて、そこで私たちの身代わりに神罰を受けて、私たちに代わって罪の償いを神に対して果たして下さったのです。
さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させることで、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を私たち人間に開かれました。私たちは、このイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たした罪の償いを自分のものにすることができて、神から罪を赦された者と見なされるようになり、神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩き始めます。私たちは、この神から与えられた罪の赦しという恵みに留まり、それを手放さないようにしっかり携えて道を歩み続けていくと、かの日、全知全能の神のみ前に立たされる時、大丈夫だ、お前にはやましいところはないと宣せられるのです。本当は、神の御心に沿うことに関しては、失敗だらけ至らないことだらけだったのですが、いつも心の目をゴルゴタの十字架に向けて、かつて打ち立てられた罪の赦しは揺るがずにあることを確認してきました。その度に心は畏れ多い気持ちと感謝の気持ちに覆われて道の歩みを続けることができました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、このように道を歩む人生になるのです。このように歩む者を神は義なる者と見て下さり、それでかの日には何も心配せずに神のみ前に立つことが出来るのです。
冒頭で自己肯定感について述べましたが、キリスト信仰者の自己肯定感はここにあります。本当は自分には神の目から見て至らないことが沢山ある、神の意思に反する罪がある、しかし、イエス様のおかげで、そしてそのイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、神のみ前に立たされても大丈夫でいられる、何もやましいことはないと宣せられる。まさにそういう者になれるように神は私にイエス様を贈って下さったのだ。まだ私が神の目にかけてもらえるようなことをするずっと以前に贈って下さった。それどころか、私は神に背を向けて生きていたにもかかわらず、神はその私にイエス様を贈って下さったのだ。
こうしたことがわかると、やるべきことをした後で労われたり誉められるというのはどうでもよくなります。というのは、やるべきことをする前に先回りされて労われて誉められたような感じになるからです。だからキリスト信仰者は、後はただ神に命じられたことをするだけ。別に労われたり誉められたりしなくても全然平気なのです。ご褒美は一足先に十分すぎるほど頂いてしまったからです。この私が神の前に立たされても大丈夫でいられる、やましいところはないと宣せられるようになることを神自らがして下さった。全知全能の神がこれだけ私に目をかけて下さったのだ!これがキリスト信仰者の自己肯定感です。何かしたことに対して神から見返りを得られてできる自己肯定感ではありません。別に見返りなんかなくても平気という自己肯定感です。
もちろん、人間同士の間でほめたり労ったりすることは、やる気や自己肯定感を生み出すために大切です。ただキリスト信仰者の場合は、人間同士の関係から生まれてくる自己肯定感よりももっと深いところで全知全能の神との関係から生まれてくる自己肯定感があります。そういうわけで、これをすればあの人にほめられる、目をかけてもらえる、便宜を図ってもらえるというようなことが出てきて、もしそれが神の意思に沿わないことならば、別に人間なんかにほめられなくてもいいや、と言って神の御心に踏みとどまります。それは、神にほめられるためにそうするのではなく、何度も言うように、既に神に十分すぎるほど目をかけてもらったからです。神が自分のひとり子を犠牲にしてもいいと言う位に目をかけてもらったのです。それで人間同士の関係の自己肯定感に振り回されずにせいせいした気持ちでいられます。
そうすると、自己肯定感が神との関係からでなくて、人間同士の関係から生まれるものだけに頼ると、少し心もとない感じがしてきます。何をすれば何を言えば周囲から評価されるか注目されるか便宜を図ってもらえるか、ということに心を砕いてしまって、それに自分を一生懸命あわせていかなければならなくなります。いつの間にか肝心の自己が周囲の者に造られていってしまうのです。
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちが信仰の中で成長するというのは、毎日自分が神の目から見て至らないことがある、罪を持っているということに気づかされ、その度に心の目をゴルゴタの十字架に向け、罪の赦しは揺るがずにあることを確認してまた歩み出すという繰り返しです。それはまた、神の意思に沿うように生きようという思いを新たにすることの繰り返しでもあります。繰り返せば繰り返すほど思いは強くなっていきます。これこそ罪に敵対する生き方です。こうすることで、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。最初は極小の種みたいだったのが最後は大きな木になるというのは、復活の日の私たちの有り様を意味しています。
イエス様は、このように信仰の中で成長する私たちには何か予想を超えること普通では考えられないことを起こせる可能性があることを述べました。桑の木の海への引越しはあまり現実性のない一例として述べられました。きっとイエス様は教えていた時に、たまたまその辺に生えていた桑の木が目に入って、勢いであんなことを言ったのではないかと思われす。イエス様の教えには聞く人の度肝を抜くような誇張がしばしば見られるからです。桑の木の件は現実性のない一つの例でしたが、イエス様の教えではっきりしていることは、信仰の中で成長していく人には何か予想を超えること普通では考えられないことを起こせる可能性があるということです。それが何であるかは人それぞれです。大勢の人の目を引くようなものもあるでしょう。他方では、他の人から見たらあまり大したことじゃないと思われることでも、本人にしてみれば普通だったらありえないことが起こったということもあります。それなので、兄弟姉妹の皆さん、共に礼拝を守り、共に聖餐式に与かって一緒に信仰の中で成長を遂げて行くスオミ教会の皆さんにおかれては、もし、そういうことがあれば、「私の場合は桑の木の海への引越しとは違いますが、こんなことがありました」とお教え下さい。みんなで分かち合って、そのような可能性を与えて下さった神を一緒に賛美しましょう。
(後注1)ギリシャ語原文は、ει εχετεです。仮定法過去にしようとしたら、ει ειχετεかει εσχετεにすべきでしょう。
(後注2)εχετε
ως ~は、「~のように-を持つ」ですが、私の辞書(I. Heikel & A. Fridrichsenの”Grekisk–Svensk Ordbok till Nya Testamentet och de apostoliska fäderna”)には、「~として-を考える、~として-を見なす」というのもあります。
主日礼拝説教 2025年9月28日(聖霊降臨後第16主日)
アモス6章1、4-7節、第一テモテ6章6-19節、ルカ16章19-31節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。 アーメン
本日の福音書の箇所でイエス様は実際に起きた出来事ではなくて架空の話を用いて教えています。何を教えているのでしょうか?
金持ちが贅沢に着飾って毎日優雅に遊び暮らしていました。その大邸宅の門の前に全身傷だらけの貧しい男が横たわっていました。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書のラザロは実際に起きた出来事に登場する現実の人物ですが、本日の箇所はつくり話の中に出てくる架空の人物です。
ラザロという名前は、旧約聖書によく登場するヘブライ語のエルアザルという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。この話を聞いた人たちはきっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったでしょう。金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと願っていたが、それすら与れない。野良犬だけが彼のもとにやってきて傷を舐めてくれます。「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロが金持ちの家の門の前に横たわり出してから、ずいぶん時間が経過したことがわかります。従って金持ちはこんな近くに助けを待っている人がいたことを知っていたことになります。しかし、それを全く無視して贅沢三昧な生活を続けていました。
さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので、葬式が挙行されました。さぞかし、盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も触れられていません。きっと、遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。
ところが、話はここで終わりませんでした。これまでのことはほんの序章にしかすぎないと言えるくらい、本章がここから始まるのです。金持ちは盛大な葬儀をしてもらった後は永遠の火に毎日焼かれなければならなくなりました。ラザロの方は、天使たちによって天の御国のアブラハムのもとに連れて行かれました。まさに名前の意味「神は助ける」が実現したのです。
以上が本日の福音書の箇所の要旨です。これを読む人は誰でも、ああ、イエス・キリストは利己的な生き方はいけない、困っている人を助けてあげなければいけないんだと教えていると思うでしょう。なんだか当たり前の道徳に聞こえます。そんな教えは別にキリスト教でなくたって他の宗教にもあるぞと言う人もいるかもしれません。
しかしながら、ここのイエス様の教えは「利己的な生き方はするな、困っている人を助けよ」が中心的なことではありません。中心的なことは「神に背を向けた生き方を方向転換して神を向いて生きよ」です。利己的な生き方をしない、困っている人を助けるという道徳は方向転換をした後で派生して出てくるものです。そして、方向転換のカギになっているのが旧約聖書とイエス様の復活であると教えているのです。ここのところが、道徳の問題でキリスト教が他の宗教・信条と違ってくる点です。似たような道徳を説いているようでも、組み立てられ方が全然違うのです。
少し余談になりますが、私が大学の神学部で勉強していた時、何かのセミナーである学生が今日の個所をテーマに発表をしました。彼によると、この金持ちとラザロの話にはネタがあって、それはエジプト由来の話であった、その内容は同じように金持ちが貧しい人を助けてあげず死後に立場が逆転するという話で、金持ち一般に対する戒めであった。この話はユダヤ教社会にも伝わってよく知られていて、イエス様はそれを自分の意図に沿うように改作したというのが発表の主旨だったと思います。ただ、どんな意図で改作したかはペーパーが手元にないのでもうわかりません。しかし、今回説教の準備にあたって、セミナーのことを思い出しながら日課の個所を何度も読み返してみたら、なるほどと私なりにイエス様の意図が見えてきました。それは、説教題にあるように、旧約聖書の精神と復活の信仰の両方があると神の方を向いて生きる方向転換が起こるということです。今日はそのことを見ていきましょう。
まず、今日の教えの中で天国や地獄が出てくることについてひと言。人間がすべきこと、してはならないことをそういうものを引き合いに出して教えるなんて時代遅れのやり方だ、と言う人がいるかもしれません。しかし、人間はこの世に生まれてきて、いつかこの世を去らねばならない存在である以上、死んだらどこに行くのか、そのどこに行くという時、この世での生き方が何か影響があるのかという問題は、いつの時代でも気になる問題ではないかと思います。もちろん人によっては、どこにも行かないよ、死んだらそれで終わり、消えてなくなると考える人もいるでしょう。その場合は、この世での生き方が次の世での有り様に関係するというのはナンセンスです。なぜなら、次の世がないのですから。人によっては、死んだら魂か何かが残ってみんなどこか安逸な場所に行くと考える人もいます。その場合、この世での生き方と次の世での有り様にはあまり関連性はありません。なぜなら、みんな安逸の場所に行けるのですから。人によっては、新しく別の人間ないし動物に生まれ変わると言う人もいます。この場合は関連性があります。もし、今の生き方に何か問題があれば次はなりたくない動物や虫になってしまうからです。
キリスト信仰の場合はどうでしょうか?十戒という神の意思を凝縮した掟集があります。それを守らないと地獄に堕ちると言うことでしょうか?そうとも言えるし、そうとは言えないという両面がキリスト信仰にあります。キリスト信仰はこの世での生き方と次の世の有り様の関連をどう見るかについては終わりで明らかにしようと思います。
本日の個所で一つ、おやっと思わせることがあります。普通に読むと、金持ちは地獄で永遠の火に焼かれ、ラザロは天国でアブラハムと一緒にいると理解できます。しかし、よーく見ると、金持ちが陥ったところは地獄ではなく「陰府」と言われています。ギリシャ語ではハーデースという言葉で、人間が死んだ後に安置される場所です。しかし、永遠の火の海ではありません。火の海はギリシャ語でゲエンナと言い、文字通り「地獄」です。
新約聖書の観点では、天国とか地獄というものは将来イエス様が再臨する時、死者の復活とか最後の審判とか天地の再創造が起こる時、その時点で生きている人と前に死んで眠りについていた人が起こされて到達する地点ということになります。なので、「陰府」というのは、それらが起きる時まで死んだ者が安置される場所です。それがどこにあるかは、神のみぞ知るとしか言いようがありません。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにつく、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの一瞬のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な出来事が始まっていると教えています。壮大な出来事が起きる前には、このような安らかな眠りの場所があるのです。
そういうわけで、本日の箇所で金持ちが落ちた火の海は地獄と言った方が正しいのではないか。しかし、金持ちの兄弟たちはまだ生きていていい加減な生活を続けているわけですから、まだ最後の審判も天地の再創造も起きていません。そうするとやはり「地獄
でなく「陰府」かなと思うのですが、金持ちは眠ってはおらず地獄の火で焼かれています。これは一体どういうことか?この点については、各国の聖書の翻訳者たちも困ったようです。一例として、英語NIVはハーデースをhell「地獄」と訳しています。ただ、脚注を見ると、原文では「陰府」を意味する言葉ハーデースが使われているが、事の性質上、地獄と訳しました、などと断っているくらいです。
どうしてイエス様は、地獄と考えられる場所なのに「陰府」と言ったのでしょうか?一つ考えられることは、イエス様は何か大事なことを教えるために、時間の正確な流れにこだわらなかったということです。もう一つ考えられることは、もしこの話の元にエジプト由来の教えがあったのであれば、イエス様はその骨格をそのまま用いて、元の話にはない新しいことを教えたことになります。聞き慣れた話だと思って聞いていた人たちは突然、別世界に連れて行かれた感じになったでしょう。ここがイエス様の凄いところだと思います。それでは、その大事な新しいこととは何か?そのことを次に見ていきましょう。
金持ちはアブラハムにラザロを送って指先の水で焼き付く舌を冷やさせてくれるよう頼みます。
アブラハムは、お前は前の世で良いものを十分味わった、ラザロは悪いものを十分味わった、だから今ラザロは大いなる慰めを受け、お前は大いなる苦しみを受けるのだと言います。ここからも、聖書の神にとって正義は重大な関心事であることがわかります。今の天と地の下で正義が損なわれて放置されることがあっても、神はそれをそのままで終わらせない、必ず決着をつけられる。最終的に決着がつけられるのは最後の審判です。そこでは「命の書」と呼ばれる、全ての人間の全ての事柄が正確に記録されている書物が開かれて判決が下されます。どんな有能な裁判官も太刀打ちできない完璧な判決です。
さて金持ちは、自分のことはもう決着済みと観念して、今度はラザロを兄弟たちのところへ送って下さいとお願いします。そうすることで兄弟たちが自分と同じ運命に陥らないようにするための警告になると思ったからでした。
ところがアブラハムは、彼らには律法と預言書、すなわち旧約聖書があるではないかと返します。そこにある神のみ言葉に聞けば、わざわざ死者など送らなくとも警告は伝わると。
しかし、金持ちはそれは上手くいかないと認めて言います。「父アブラハムよ、もし死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」つまり、兄弟たちは旧約聖書に聞いていないのです。「悔い改める」とはギリシャ語のメタノエオーという動詞で、神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生きるようになる方向転換を意味します。方向転換のために神のみ言葉に聞くことが必要なのだが、実際は聞いていないから、死んだ者を送ってやれば兄弟たちは恐れて考え直すと考えたのです。
ところが、アブラハムはそんなことは起きないと言います。なぜなら、「もし、モーセと預言者(つまり旧約聖書)に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」
この言葉は重大です。よく耳を開いて聞きましょう。これはアブラハムの言葉ですが、イエス様が作った話の中のアブラハムなので、イエス様がアブラハムの口を通して言わせたイエス様の教えです。「死者の中から生き返る者があっても」とありますが、正確な訳は「たとえ死者の中から誰かが復活しても」です。以前の説教でもお教えしましたが、「生き返り」と「復活」は違います。「生き返り」は蘇生ですが、「復活」は神の栄光に輝く復活の体を着せられることです。ここでイエス様はご自分の復活のことを意味しているのです。ここのイエス様の真意はこうです。「もし、旧約聖書に耳を傾けならないのなら、たとえ死者の復活が起こっても、方向転換の悔い改めは起こらないだろう。」この教えが重大なのは、この教えが向けられているのは金持ちとその兄弟だけではなく、これを聞き読む全ての人に、私たちに向けられているからです。もし、私たちも旧約聖書に耳を傾けないならば、イエス様の復活が起こったところで、私たちに方向転換の悔い改めは起こらないのです。逆に言えば、もし旧約聖書に耳を傾けるならば、イエス様の復活が起こったことで方向転換が起こるのです。旧約聖書に耳を傾けるとどうしてそのような効果が生まれるのでしょうか?
旧約聖書に耳を傾けるというのは、イエス様が教えるように、十戒の掟を心の奥底まで守れているかどうか問うことになることです。神の意思に反することを行為に出さなければ十分というのではなく、心の状態まで問うのです。そうすると、自分には神の意思に反する罪があることがはっきりし、神の御前に立たされて「命の書」を開かれる日は恐ろしい日になります。ところが、旧約聖書は返す刀で全く正反対のことを私たちに約束するのです。どんな約束か?人間が神の御前に立たされても大丈夫でいられるように、人間の罪を人間に代わって償って下さる方が来られるという約束です(イザヤ53章)。このように旧約聖書に耳を傾けるというのは、まず、自分には神の意思に反する罪があることを十戒によって暴露されて絶体絶命の状態に置かれることです。しかし同時に、神の計らいで人間は罪から贖われるという約束を与えられて希望の状態に置かれることです。つまり、旧約聖書に耳を傾けるというのは、罪の自覚に基づいて希望を持つことです。
この神の約束はイエス様の十字架の死と死からの復活によって果たされました。イエス様が死から復活された時、あの方は旧約聖書に預言されていた、死が最終的な力を持ちえなかった神のひとり子であることがわかりました。それではなぜ神のひとり子とあろう方が残酷にも十字架にかけられて死ななければならなかったのか?それも旧約聖書に預言されていたこと、神の送られた方が人間の罪を償うために人間に代わって神罰を受けられたことが十字架の形で実現したとわかったのです。
これらのことが明らかになると、今度は人間の方が、これらは神が私のためになされたと受け止め、イエス様こそ真の救い主であると信じて洗礼を受けると、果たしてもらった罪の償いは自分にとっての償いになります。罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者とみなされ、それからは神との結びつきを持ってこの世を歩むことになります。神の方を向いて生きる方向転換が起きたのです。旧約聖書の精神と復活の信仰が結びついて起きたのです。それからは、この神がイエス様を通して与えて下さった罪の赦しの恵みに留まる限り、神との結びつきはずっとあり、順境の時も逆境の時も変わらずあります。この世を去る時も神との結びつきを持ったまま去り、復活の日に目覚めさせられて約束通りに復活の体を着せられて創造主の御許に永遠に迎え入れられます。
主にあって兄弟姉妹でおられる皆様、私たちキリスト信仰者はこんな途轍もないことをして下さった神に対して、ただひれ伏して感謝する他ありません。その時、神の意思に沿うように生きるのが当たり前になります。神を全身全霊で愛する、隣人を自分を愛するが如く愛するのが当たり前になるのです。そこでは、神の掟は永遠の命を獲得するために守るものではなくなっています。先に永遠の命を保証されてしまったので、それに相応しい生き方をすることが後からついてくるのです。これが方向転換の正体です。
このようにキリスト信仰者は、神への感謝から神の意思に沿う生き方を志向する者ですが、現実に生きていくとどうしても自分の内に神の意思に反する罪があることに気づかざるを得ません。気づいた時はがっかりします。しかし、まさにその時、心の目をゴルゴタの十字架に向けられれば、神のひとり子の犠牲による償いは揺るがずにあることがわかります。その時、自分が復活に至る道に踏みとどまっていることがわかり、永遠の命の保証も大丈夫であることがわかります。再び神の意思に沿うように生きようと志向します。このように方向転換したキリスト信仰者は何度も何度も軌道修正をしながら復活の日に向かって歩んで行くのです。これが、本日の使徒書の日課、第一テモテ6章でパウロが言う「信仰の立派な戦い」です。同じ個所でパウロはまた、キリスト信仰者は永遠の命に到達するように神に召されたと言っています。説教の冒頭でキリスト信仰は今の世の生き方が次の世の有り様に影響すると考えるのかどうか問いました。実にキリスト信仰では、次の世の有り様が既に定められているので、それに合わせるように今の世を生きるのです。影響の向きが逆なのです。これが、パウロがガラテア6章で言う、キリスト信仰者は「新しく創造されたもの」カイネ―・クティシシスの意味です。
アーメン 2025年9月21日(日)スオミ教会
聖書:ルカ福音書16章1~13節
説教題:「不正な管理人の譬え」
本日の福音書はルカによる福音書の16章1~13節まであります。ルカは15章でイエス様が三つの譬え話をされた事をかいています。失われた子羊を見つけ出すまで探す羊飼いの譬え話と無くした銀貨を探し出す女の譬え話、そして有名な放蕩息子の譬え話です。どれも分かり易い譬えであります。ところが、今日の16章では一転して「不正な管理人」の譬え話は理解するのに容易ではない話です。ある学者はイエス様が語られた譬え話の中で一番難解な譬え話ではないかと表現しています。
何故かと言いますと不正を働いた管理人を信仰の模範とするようにとイエス様が褒めておられるからであります。どうして褒めておられるのか理解に苦しむから難しい。イエス様が16章のこの譬え話を話されている相手は弟子たちです。弟子たちがこれからこの世に出て行って神様の働きをして行く使命を持って伝道して行く場合にこの世の激しく困難に満ちた中でどのような心構えが必要かを教訓として話されているのです。現代の私たちの教会がこの世にあってどのような心構えで伝道して行くのか、またキリストの証人として、どう生きていったら良いのかを、これらの課題への教訓でもある、と思います。さて、この譬え話の主人公は「不正な管理人」と言われています。別の言葉で簡単に言いますと、彼はなかなかずる賢い管理人であった。ある神学者の研究では彼は奴隷であったという。しかし、大変に賢い奴隷であった。主人は奴隷であった彼に全財産を管理する大切な責任を委ねたわけです。それだけ彼を信用したのでしょう。随分、思い切った事をしたと言って良いでしょう、彼はこの主人の信頼に一生懸命応えて働いたことでしょう。イエス様の時代、パレスチナでは大地主と言われる人が多くいたのです。この譬えで語られる主人もそういう大地主の一人でありました。主人としてやるべき仕事もすべて管理人の手に任せていたのでしょう。ところが、この管理人は長年やって行く中に、まぁ上手くご、まかしていたわけです。横領の罪を重ねて行ったということであります。しかし、それが長く続くわけがありません。他の誰かの色々な告げ口でこの事が主人の耳に入りました、上手くごまかしていたつもりでも横領していた事がばれてしまったわけです。そして、彼はついに解雇されるはめになったのです。さあ・・そこで困った!彼はこのばれた悪事に対して反省はしたでしょう、がすぐさま自分の身に起こったこの事に対して素晴らしい一つの考えを巡らして行くのです。彼が主人のもとから追い出されるまでの短い期間にどうにかしなければならない。彼は帳簿を偽造する、という事を考えついたわけです。そして負債を背負っている者一人々を呼びまして実際に負っている負債の額よりもはるかに少ない額に書き直すという事をさせたのです。パレスチナでは地代を地主に払う場合はお金で支払うのではなく、その借地から採れた穀物とか油とか、そうした借地から収穫される物の一部をもって地代として支払うということをしていたのです。本来なら主人はあれだけ信頼して任せていたのに不正をして横領していたのが知れたのですから、この裏切者に対してそれ相当の罰を加えるのが当然でしょう。ところが主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方を褒めたのです。此処がこの譬えを理解するのが難解なところです。主人は何故このような不正を褒めたのでしょうか。ここでの管理人のやった事には二つの彼にとって有利な面があったのです。一つ目は、負債をしていた者は油100バトスを借りていたわけですが、それを半分の50バトスで良いとなったわけです。そうするとこの管理人に対して大変有り難いと思うでしょう、助かったのです。二つ目は負債者をそういう風にうまい具合に書き換える事によっていわば管理人も横領の罪を犯すわけですがそれに応じて書き換えてもらった負債者もまた言わば共犯者になってしまう、共犯者として巻き込んでしまうわけであります。そして、最悪の事態には体の良い強請りができる。こういう二つのまことにずる賢い事を考えたのです。しかし。その結果はどうなったか、と言いますとこれがみんなばれてしまったのです。
ところで、この主人はいくらか悪戯好きの太っ腹の人だったようでありまして余り厳しく裁くという事よりも主人は管理人に対してその『賢さ』、また『抜け目のなさ』に彼を誉めたのです。この譬え話を語られたイエス様は弟子たちに何を教えておられるのでしょうか。8節の後半を見ますとイエス様は「この子らは自分の仲間に対して光の子らよりも賢く振る舞っている。」と言われています。この譬え話をもってイエス様はどんな意味を含めて譬え話の中に語り示して行おうとされているのか、と言う事であります。主人というのはこの譬え話で神様のことです、或いはイエス・キリストの救い主の事をであります。この世の子らは此処にあります正しく賢く振る舞ったあの管理人の姿でしょう。そして光の子らというのは神様を信じているキリスト者であり、また私たち一人一人信仰を持った信徒であります。不正な管理人が象徴的している現代のこの世はどうですか、科学はこの凄く発達しても戦争の飽くなき殺し合い、詐欺が横行し、インターネットの発達は考えられない程、世の中便利にはなっても政治に悪用されて国や経済までも狂ったり歪んだりしてしまっている。
私たちの生きているこの世の泥沼のような中で光の子であるキリスト信徒は清く正しく貧しくとも耐えて神の御国への希望をもって生きよ。その場合に神様は賢く振る舞い一生懸命に生きよ。正直に生きようとすれば、騙されたり損をしたり思い通りにならない、報われない現実があります。キリスト者としてこの世の現実に生きてやがて最後に人生の総決算を神の前で迫られる。現実の自分の思い、教会で教えられる神様の言われる通りに生きようとする時、帳尻が合わない、ここに心の葛藤が起こります。そういう私たちの姿はまさに信仰と言うものとこの世の現実の中でずる賢しく生きねばならない。そこで不正な管理人のように抜け目のないずる賢しさに精一杯生きようとする。光の子らもそれを模範としなさい。そこで私たちの主人である神様が褒めておられるその意味は何であろうか。誤解しないで注意深く聞く必要があります。ここで信仰者はこの世の曲がりくねった不正に満ちた中で少しでも良いことをして帳尻を合わせようととするならそれは道徳の問題になり修養して行く律法主義者になってしまうでしょう。イエス様はこの譬えの中ではそういう事を決して言っておられない。イエス様は9節で「不正の富を用いてでも友達を作りなさい。」と言っておられるのです。友達を作りなさい。そうしたら富が無くなった時、その友人があなた方を永遠の住まいに迎え入れてくれるでしょう。キリスト者である私たちが生きてゆく場面々で出会った人々、その行い、それは神様があなたに与えられている材料であるわけです。その材料を用いて友人を作ることによって、それは神様の愛の結晶として現れてくる。信仰の作品として実を結ぶことになるのです。あなたは気づいていないかも知れないが、神様の愛の結晶は実を結んで思いもよらない所で花を咲かせて発展していますよ。そうして、あなたの人生の総決算で天の父なる神様の前で「よくやったね」と言ってくださる。自分でも気づかなかった信仰の証しの全ての全てを神様はちゃんと知っておられて総決算をされます。神の御国の終末での救いを、私たちはその一点に限りない希望をもって、心の葛藤をしつつ精いっぱい生きれば良いのであります。 アーメン
主日礼拝説教 2025年9月14日(聖霊降臨後第14主日)スオミ教会
出エジプト32章7-14節
第一テモテ1章12-17節
ルカ15章1-10節
本日の福音書の日課には、イエス様のたとえの教えが二つありました。最初のたとえでは、ある100匹の羊を所有する人が、1匹はぐれてしまったので、探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びで帰り、友達や近所の人を呼んで喜びを分かち合うという話です。肩に担いだとありますから、羊は怪我でもして衰弱していたのでしょう。見つかって本当に良かったと思わせる情景です。もう一つのたとえは、ある女性が銀貨10枚のうち1枚を無くして、探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びし、これも友達や近所の人を呼んで喜びを分かち合うという話です。二つの話は状況は異なりますが、主題は同じです。見失ったもの無くなったものを、一方は広い野原を果てしなく、他方は狭い家の中を隅々まで必死に探して見つけ、その喜びは自分一人には留めておけない、多くの人と分かち合いたい、それくらい大きな喜びであったということです。
それでは、この二つのたとえは何についてのたとえなのでしょうか?二つのたとえの終わりが同じ結論であることに注目します。一人でも罪びとが悔い改めたら、天の御国では大きな喜びが沸き起こると言われています。「罪びと」というのは、天地創造の神の意思に反する性向、すなわち罪を持つ者のことです。聖書の立場は、全ての人がそういうものを持っている、なので全ての人が「罪びと」であるという立場です。「悔い改める」と聞くと、過ちを深く反省して真人間になるんだと決意する感じがします。ギリシャ語のメタノエオーという動詞のことですが、そのもともとの意味は「考え直す」です。その土台にはヘブライ語のシューブという動詞があり、その意味は「戻る」とか「帰る」です。旧約聖書では、神のもとに立ち返ると言う時に使われます。なので、聖書の「悔い改める」の正確な意味は、それまで神に対して背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになるという意味です。「悔い改め」という言葉を目にしたら、この「神に向う方向転換」という意味を忘れないようにしましょう。
そうすると、一つおかしなことが出てきます。羊の所有者や女性が見失ったものを見つけ出して、それが嬉しくて周囲の人たちと一緒に喜びを分かち合いたいというのはわかります。また、罪びとが神に向かって方向転換の悔い改めをすると、天の御国で父なる神が天使たちと一緒に喜ぶというのもわかります。でも、この二つの喜びはかみ合っているでしょうか?というのは、失われた羊と銀貨と罪びとは結びつかないのではないかと思われるからです。罪びとが方向転換の悔い改めするのはわかるが、羊と銀貨は悔い改めなどしないのでは?それらは、ただ持ち主に捜されて見つけ出されただけで、自分からは何もしていない極めて受動的な立場です。悔い改めるという能動的なことが出来るのは人間です。それなのにイエス様は羊と銀貨も悔い改めをしたかのように教えるのです。そんなことは可能なのでしょうか?これは、方向転換の悔い改めを人間の能動的な行為とみることをやめて、神の側からの働きかけを中心にして考えるとわかってきます。今日はそのことを見ていきましょう。
ファリサイ派と律法学者という、当時のユダヤ教社会の宗教エリートがイエス様の行動を見てびっくり仰天します。あの、預言者の再来のように言われ、群衆から支持されている男が何をしているか見ろ、神の意思に反する生き方をする罪びとどもを受け入れて一緒に食事までしているではないか!当時は、一緒の食事というのは親密な関係にあることを示すものでした。エリートたちの批判を聞いたイエス様は、それに対する反論として失われた羊と銀貨のたとえを話したのです。反論はさらに続き、有名な「放蕩息子」のたとえも話します。本当はこの3つを一つの日課にすると良かったのですが、日本のルター派教会の今日の日課になっているのは2つだけなので、それに基づいて説教せざるを得ません。しかし、必要に応じて「放蕩息子」のたとえにも言及します。
イエス様が罪びとたちを受け入れたことについて、E.P.サンダースという著名な歴史聖書学者は次のように言っていました。ナザレのイエスは悔い改めも何もしない罪びとをそのまんま受け入れて一緒にパーティーまがいのことをしていた。それは、エルサレムの神殿を中心とする宗教システムへの挑戦であった。悔い改めも何もしない罪びとと一緒に食事をしたのは、新しい神殿が到来する新しい世での祝宴を先取りする行動であったと。
新しい世の祝宴を先取りしたというのは当たっていると思いますが、ただ、悔い改めも方向転換もしない、罪びとのままの者をそのまま受け入れたというのは本当でしょうか?イエス様が神の意思に反する罪を認めないということは福音書の各箇所で明らかです。一例として、ヨハネ8章でイエス様は姦淫の罪で石打ちの刑に晒された女性を助け出しました。その時、イエス様は何と言いましたか?これからは罪を犯してはならない、と言いました。罪は犯してはいけないのです。神の意思に反することはいけないのです。これが、神のひとり子であるイエス様の大前提です。イエス様が女性に対して行ったことは、犯した罪は不問にするから、ここで方向転換して生きなさいと新しい可能性を与えたのです。そう言うと、本当にその後は神の方を向いて生きるようになったとどうしてわかるのかと厳しい質問が出るかもしれません。確かにその女性がその後どういう生き方をしたかは聖書に記述がないのでわかりません。ルカ福音書7章に登場する、罪を赦された感謝からイエス様の足に香油を塗った女性との関連性を指摘する人もいますが、確かなことは言えません。ただ、問題の女性は、コンクリ―トの破片のような大きな石を大勢の人から力いっぱい投げつけられるという残酷な刑罰から九死に一生を得たのです。イエス様に対する感謝の気持ちが強ければ強い程、もう神の意思に反する生き方はやめようという気持ちで一杯になると思います。
イエス様が罪びとを受け入れると、罪びとに方向転換が見える形で起こった例もあります。ルカ19章のザアカイの場合です。イエス様が受け入れるや否や、彼は不正で蓄えた富を捨てる決心をしたのです。イエス様が罪びとを受け入れて一緒に食事をしたというのは、神の意思に反する生き方を認めたのではありません。それは、罪びとに方向転換をもたらす行動であり、一緒の食事は方向転換が生まれたことを喜び合うお祝いだったのです。宗教エリートたちにとって、イエス様に受け入れられた罪びとたち、彼に罪を赦された人たちの内に方向転換が起こったなど思いもよらないことでした。彼らにとって、神に受け入れられるとか罪を赦さるというのは、律法の掟を守ること、エルサレムの神殿で様々な生贄を捧げることによって可能でした。簡単に言うと、人間の側で何かをして、それで神に受け入れられ認められるという考えです。
ところが、イエス様の場合は逆で先に神の方が罪びとを受け入れて、受け入れられた罪びとの中に方向転換の悔い改めが生まれるという流れなのです。どうしてそんな違いが生まれたかと言うと、宗教エリートの場合は、律法の掟を外面的に守ればOK、殺人を犯さなければ十戒の第五の掟を守れている、不倫を犯さなければ第六の掟を守れている、ということでした。ところがイエス様は、掟は外面的な行為行動で守っても意味なし、心の中でも守れていなければならないと教えたのです。他人を心の中で罵ったら第五の掟を破ったことになる、女性をみだらな目で見たら心の中で第六の掟を破ったことになるというのです。全ての掟を心の有り様にまで適用したら、神の意思に沿える人など誰もいなくなります。宗教エリートも罪びとです。だから、聖書は真に全ての人間は罪びとであるという立場なのです。そして、心の中も含めて十戒の掟を完全に守れる人は誰もいないのです。
そのため、人間が神に背を向けた生き方を方向転換させて神を向いて生きられるようになるために、神やイエス様が先に私たちを受け入れなければならなかったのです。見失われた羊や銀貨はまさに神に背を向けて生きる罪びとを意味します。それらが必死に探されて見つけられることは、罪びとが神やイエス様に受け入れられたことを意味します。それで、見つけ出された羊や銀貨は悔い改めた罪びととイコールなのです。イエス様は一緒に食事をする者たちはこうなのだと言うのです。もし、神やイエス様の先回りの受け入れを考えないで人間の努力や達成で悔い改めを考えたら、このたとえは成り立ちません。
そう言うと、じゃ、次に来る放蕩息子のたとえはどうなんだ?放蕩息子は自分の行いを反省して父親の元に戻って受け入れられたではないか、羊や銀貨の場合と違って父親は捜しに行かなかった、息子が自分で帰って来たではないか、彼は方向転換の悔い改めをしたから父親に受け入れられたのではないか等々の批判が起きるかもしれません。しかし、放蕩息子のたとえも実は、父親に受け入れたから方向転換の悔い改めが起こったことを暗示しているのです。確かに父親は捜しに出かけませんでしたが、はっきり言います、息子は見失われていたのに見つかったのだ、と二回も繰り返して言います(15章24節、32節)。だから、お祝いをするのは当然なのだと。まさに、羊と銀貨のたとえと同じ主題です。もう少し詳しく見てみましょう。
放蕩息子は異国の地で飢え死にしそうになり故国の父親のもとに帰る決心をします。それは、父親のもとには食べ物が豊富にあるというのが動機になっています。しかし、帰っても父親は呆れかえって怒るだろう、お前など息子ではないと言われてしまうのがオチだろう。だから、ちゃんと自分の愚行は神に対する罪でしたと告白して、もう息子と呼ばれる資格はないです、雇い人でいいですからおいて下さい、そうお願いしよう。そんなふうに父親の前で言うべき言葉を考えて帰国の途につきます。ところが帰ってみると、父親は怒りもせず呆れ返りもせず、ただただ息子の帰郷を心から喜び彼を両手で抱きしめて受け入れたのです。息子は考えていた言葉を罪の告白まで言いますが、その後は遮られました。父親は、その後はもう言わなくてもいいと言わんばかりに召使いたちに祝宴の準備を命じたのです。その言葉とは、雇い人にしておいて下さいというお願いでした。それを言わないで済んだということは、父親は息子として受け入れることを示したのです。
息子が最初に帰国を決心したのは、もちろん自分の行いは愚かだったと後悔したことがあります。ただ、後悔するようになったのは、飢え死にしそうになって父親のもとなら食べ物に困らないとわかったからでした。それで父親に受け入れてもらえるために雇い人という条件を考えたのでした。そういうふうに最初の後悔と帰国の決心にはいろんな動機や打算が混じっていたのです。ところが、父親は無条件で受け入れたのです。その瞬間、最初の後悔と方向転換から余計な混ざり物が削ぎ落されて純粋な後悔と方向転換が生まれたのです。息子に「父親に無条件で受け入れられた息子」というアイデンティティーが確立したのです。神やイエス様の受け入れには同じ力が働くという教えです。
それなので、放蕩息子の帰郷を祝う祝宴は、まさに受け入れられたことで純粋な方向転換の悔い改めが起こったことをお祝いするものでした。このお祝いに対して異議を唱えたのが兄でした。つまり、彼は無条件の受け入れには純粋な方向転換など生み出す力はないという立場です。これはまさに、宗教エリートたちがイエス様の無条件の受け入れを意味なしと見なしたことに対応します。彼らは、イエス様と一緒に食事していた者たちの内面にそのような方向転換が生まれたことを信じられなかったのです。実に、このたとえを聞いたエリートたちは自分たちを映しだす鏡を示されたのでした。
イエス様に受け入れられた当時の罪びとたちは神を向いて生きるように方向転換の悔い改めが起こった人たちでした。それでは今の時代を生きる私たちはどうしたら自分の内にも同じような方向転換が生まれて新しいアイデンティティー、「神に無条件で受け入れられた神の子」のアイデンティティーが確立するでしょうか?当時のように受け入れをしてくれる肝心のイエス様は身近にいません。
実は、全ての人間はあと少しでイエス様に受け入れられるところに来ているのです。ただ、受け入れが完結していないので方向転換が起きていないのです。どういうことかと言うと、イエス様は神の意思に従いゴルゴタの丘で十字架にかけられて死なれました。これによって人間の罪が神に対して償われました。本当は人間が受けなければいけなかった神罰を、イエス様が全部引き受けて下さったのです。罪を償うために私たち人間は何もしていないのに、まるで先を越されたように償いが歴史の中で起こったのです。神とイエス様に先手を打たれたのです。
あとは私たち人間が、ゴルゴタの十字架の出来事は聖書に記されている通り起こった、そこでは私の神の意思に反する罪の償いが果たされたとわかって、それでイエス様は本当に救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人に効力を発します。実に信仰とは、神がイエス様を用いて編み出した罪の赦しという恵みを受け取って自分のものにすることです。あとは、受け取った恵みを手放さないようにしっかり携えて生きていくことができるように、聖書の神の御言葉に聞きイエス様が設定された聖餐式に与かります。信仰が人間の業でなく、神の業であるというのはこのためです。
このように罪の赦しの恵みを受け取って自分のものにして生きる者は、所有者に見出だされて担いで連れ帰ってもらう羊と同じです。また、女性に見出だされた銀貨と同じです。そして、石打の刑を免れた女性のように、また父親に抱きしめられた放蕩息子のように純粋な方向転換の悔い改めが起こった者です。それは、「神に無条件で受け入れられた神の子」のアイデンティティーを持って人生を歩む者です。このように悔い改めも人間の業ではなく、神の業なのです。
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、この世にはまだ神に先手を打たれて神が両手をひろげて待っていてくれていることに気づかないでいる人たちが大勢います。神がイエス様を用いて準備してくれた罪の赦しの恵みも、せっかく神がどうぞと言って提供してくれているのに、受け取らないでいると、恵みは人の外側によそよそしくあるだけです。多くの人たちには、信仰とか悔い改めというものは人間の方で何かしなければいけないものという思いがあると思います。しかし、キリスト信仰では、それらは人間の業ではなく神の業で、人間は神が成し遂げたものを畏れ多く受け取るだけなのです。受け取ることで神の意思に沿う生き方を志向する心が生まれ強まっていくのです。神に認めてもらうために何かをするんだ、ではなく、一足先に認めてもらったから、あとはそれに相応しい者に変えてもらおう、相応しくないものを取り除いてもらおうということなのです。なので、既に受け取った私たちは、まだ受け取っていない人たちがすぐそばにある恵みに気づいて受け取ることができるように働きかけることが求められています。神は一人でも多くの人を、所有者に見つけてもらった羊のように、女性に見つけてもらった銀貨のように、本来いるべき場所に連れ帰ってそこで天使と一緒に盛大にお祝いしたいからです。
主日礼拝説教 2025年9月7日(聖霊降臨後第13主日)
聖書日課 申命記35章15~20節、フィレモン1~21節、ルカ14章25~33節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
本日の福音書の箇所は難しいです。私たちの理解を難しくしているものとして二つの問題があります。一つは、父親、母親、娘、息子、兄弟姉妹を「憎む」ことをしないと、私の弟子でいることはできない、とイエス様が教えていることです。十戒の第四の掟は「父母を敬え」でした。イエス様は、自分をこの世に送った父なる神の命じたことをに反することを教えようとしているのでしょうか?イエス様自身、「隣人を自分を愛するが如く愛せよ
と教えているのに、親兄弟娘息子を憎まないと弟子に相応しくないとはどういうことか?愛せよと言ったかと思いきや、憎めなどとはイエス様は矛盾が過ぎるのでは?
もう一つの問題は、塔を建てる者と戦争に臨む王のたえです。塔というのは、マルコ12章やイザヤ5章に出てきますが、ブドウ園を造る者が見張りの塔を建てるという位にブドウ園にはつきものでした。せっかくブドウ園を造っても、見張りの塔が建てられなかったら、実ったブドウは容易く盗まれてしまいます。マルコ12章とイザヤ5章をみると、ブドウ園を造る時、見張りの塔の建設は順番として最後にくるものだったようです。さて、ブドウ園経営者は塔を造る段になって、お金が足りるかどうか計算する、足りないまま造り始めてしまったら途中で断念することになって笑いものになってしまう。では、足りないことが明らかになったら、どうするのか?造らないで済ませてしまうのか?中途半端な無様な建物をさらけ出さずに済み、笑いものにはならないかもしれませんが、ブドウ園は無防備になってしまいます。
もう一つのたとえは、戦争に臨む王です。隣の国の王が2万の兵を率いて進軍してくる。それを迎え撃つために王は兵を率いて出陣する。しかし、彼の兵力は半分の1万。それで王は勝算を計算し始め、勝ち目はないと判断して、まだお互いの軍勢が遠く離れている段階で相手方に使いを送って講和を求める。不利な戦いは回避できるかもしれませんが、講和の条件は先に和平を乞うた王にとって不利なものになるでしょう。
このように二つのたとえは、向う見ずなことはするな、無謀なことはするな、と教えているようにみえます。何か事をする場合には、まず、達成しようとしたり獲得しようとするものと、それにかかる費用や犠牲を冷静によく比較して、自分の持っているもので達成可能かどうかよく検討すべきだ、もし自分の持っているものでは達成不可能だとわかれば、即やめなさい、と。たとえブドウ園が見張り塔がないものになってしまっても、また、不利な条件で講和を結ぶことになっても、そっちの方がいいのだ、と。これは、理に適った教えであります。
ところが、33節を見ると、イエス様は、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」と言われる。イエス様は、突然、捨てる覚悟がないと自分の弟子に相応しくないと言うのです。それこそ、一度、基を築いたら、資金のことはかまわず建設を続行せよ、と。一度、出陣したら、兵力の差は気にせず、そのまま進軍を続けよ、それが弟子としての本道である、と教えているのです。そうなると、前の二つのたとえは何だったのかと言いたくなります。
以上、親兄弟娘息子を憎まないと弟子に相応しくない、とか、一見、向う見ずなこと無謀なことはするな、と教えているようで、実はそうしないと弟子に相応しくない、とか、イエス様は一体何を言いたいのでしょうか?本日の箇所は、こうした難しさがありますが、キリスト信仰者が自分の受けた洗礼にはどんな意味があるのかを思い返してみると次第にわかってくるところです。マタイ福音書28章でイエス様は、洗礼を受けることで彼の弟子になると言われました。本日の個所は、イエス様の弟子であるとはどういうことか、洗礼を受けた後の人間の生き方はいかなるものかについて教えているのです。だから本日の個所の理解には、自分が受けた洗礼の意味を思い返す必要があるのです。
まず、親兄弟娘息子を憎まないと弟子に相応しくないという教えについて。「憎む」という言葉はギリシャ語のμισεωミセオーという動詞が元にあり、その意味は「憎む」なので、それをそのまま当てはめて訳したものです。旧約聖書のヘブライ語にはשנאサーネーアという動詞があり、これも辞書に出ている意味は「憎む」です。ただ、創世記29章をみると、私たちが普通思い浮かべる「憎む」とは異なるニュアンスがあります。ラバンがヤコブに初め長女のレアを妻として与え、後で次女のラケルを妻に与えた出来事です。ヤコブはレアを「疎んじた」(31節)とあります。この「疎んじた」は、ヘブライ語のサーネーア「憎む」です。しかし、ヤコブは実際にはレアを憎んだのではなく、レアよりもラケルを愛した、それで、レアにそっぽを向いた、ということです。
このことを念頭において、本日の箇所でイエス様が口にする「憎む」を考えてみると良いと思います。つまり、親兄弟娘息子を「憎む」、憎悪の対象にするのではなく、親兄弟娘息子よりも神を愛するということです。親兄弟娘息子を愛するのは当然だが、それよりも神に対する愛が大きくなければ、弟子に相応しくないということです。「憎む」というのは、神への愛が優位に立つことをはっきりさせるためにイエス様がよく用いる度肝を抜く誇張法をここでも用いているのではないかと思います。
ああ、これで肉親を憎まなくてよかった、と安心するやいなや、すぐ次の壁にぶつかります。親兄弟娘息子よりも神を愛するとはどういうことか?憎まなくても、肉親を軽んじることになるのではないだろうか?イエス様自身は、「隣人を自分を愛するが如く愛する」ことは神の最重要な掟である(マルコ12章31節等)、と教えているではないか?
イエス様は十戒を二つの掟の形に集約して、この二つが最重要な掟であると教えました(マルコ12章28
34節)。この二つの最重要な掟の筆頭にくるのは、こうでした。「私たちの神である主は、唯一の主である。あなたは、あなたの神を全身全霊全力をもって愛せよ。」そして、その次に来るのが、「あなたは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ」です。つまり、隣人愛は最も重要な掟ではありますが、実はそれに先立つものとして、唯一の神を全身全霊全力をもって愛せよという掟が来るのです。つまり、隣人愛は、神への愛から分離独立してあるのではなく、実は、神への愛を土台にしてあるのです。
宗教改革のルターは、神への愛と肉親に対する愛の関係について大体次のように教えています。曰く、肉親を愛し仕えるのは神の意思として当然である、しかし、肉親が、私たちに対して神の意思に反することを要求して、私たちの説得や懇願にもかかわらず、態度を変えない場合、さらには神を唯一の主と信じる信仰や御子イエス様を唯一の救い主と信じる信仰を止めさせようとする場合には、肉親に何を言われようが、何をされようが、信仰に踏みとどまって、第一の掟を守らなければならない、と。
肉親が、そんな邪教を捨てないともう私の子供ではないと強硬な態度に出ることもあるかもしれません。あるいは、親を愛しているんだったら、そんな信仰は捨てておくれ、などと、キリスト信仰に生きることが親を愛していない証拠のように持っていくケースもあるかもしれません。しかし、それは筋違いです。なぜなら、たとえ肉親が私たちの信仰を認めなかったり、信仰のゆえに私たちを悪く言ったとしても、私たちとしては、もしその人たちが困難に陥れば、すぐ助けの手を差し出す用意があるからです。私たちの側では、隣人愛の掟は神への愛の掟としっかり結びついているのです。こうしてみると、イエス様の弟子とは、とやかく言われて悪く言われて、なおかつ、まさにそのような人たちのために祈ったり、必要とあれば助けてあげなければならない、なんだかずいぶんお人好しで馬鹿をみるような人生です。しかし、それが本日の箇所でも言われている、各自が背負う十字架(27節)なのであり、イエス様の弟子であることの証しなのです。
親兄弟娘息子よりも神を愛すると言う時、キリスト信仰者の神に対する愛とはどんな愛なのでしょうか?
聖書が大前提にしていることは、人間は創造主である神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまったために神聖な神との結びつきが失われてしまったということです。それで人間はこの世の人生を生きる時は全知全能の神との結びつきがない状態で生き、この世から去る時も結びつきがない状態で去らねばならなくなってしまいました。それを、神は人間が結びつきを回復してこの世を生きられるようにしよう、この世を去る時も結びつきを持ったまま去って復活の日に目覚めさせてあげようということで、それでひとり子のイエス様を人間のために贈られました。
この神のひとり子は人間の全ての罪を背負ってゴルゴタの十字架の上で人間に代わって神罰を受け、人間が受けないで済むようにして下さいました。そこで今度は人間の方が十字架の出来事というのは聖書に書いてあるように本当に起こったことだと信じて洗礼を受けると人間はこの罪の赦しの救いを自分のものにすることができるのです。
さらに神は一度死なれたイエス様を復活させて、死を超える永遠の命が本当にあることをこの世に示されました。それで、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、順境の時も逆境の時も何ら変わらない神との結びつきを持って生きられ、復活の日を目指してこの世を進んで行くのです。
キリスト信仰者の神への愛は、神がひとり子と一緒に罪の赦しの救いを与えて下さったから起こって来るのです。親兄弟娘息子はいかに愛すべき存在であっても、罪の赦しの救いを与えることはできません。それが出来るのは造り主の神だけです。親兄弟娘息子は気づいていないですが、この罪の赦しの救いは神が、どうぞ受け取って下さい、と彼らにも向けられているのです。彼らも創造主の神に造られたのです。イエス様は彼らのためにも死なれ、彼らのためにも復活されたのです。ここに、神を愛するキリスト信仰者が信仰者でない親兄弟娘息子たちにどう振る舞うか、明らかなヒントがあります。
次に、塔を建てる前に予算を計算する人と、負けが明らかな戦をする前に講和を求める王のたとえについて見てみましょう。たとえの次に来る、自分の持ちものを捨てなければ弟子に相応しくない、という教えと矛盾しているように見えます。ところが、矛盾はないのです。イエス様は、まさに、弟子になるということは、見積もりを立てないで塔を建てるようなものだ、また圧倒的多勢の軍勢に立ち向かっていくようなものだ、と教えているのです。どうしてそんなことが言えるのか?二つのたとえの意味はこうです。塔の建設者は普通、後で笑い者にならないようにと前もって綿密に計算だろう。また、王は普通、負け戦が明らかな場合は不利な条件でも講和を結ぶだろう。しかし、こういうのは、自分の持っているものを捨てる覚悟がない者と同じだ、私の弟子に相応しくないと言うのです。
少し細かい所を見ますと、28節と31節で、塔建設者や王が計算する時に、日本語訳で「まず腰をすえて」と書いてあります。「腰をすえて」なんて言うと、なんだか落ち着いた立派な行為のような印象を受けます。しかし、ギリシャ語の原文は、両方ともただ単に「まず座って」πρωτον καθισαςです。つまり、何か実行しようと思ったが、ちょっと待てよ、うまくいくかな、と心配して、要は立ち止まって計算を始めた、ということです。一度決めたら後ろを振り返らずに前に進まないと弟子には相応しくないのです。ルカ9章62節で、イエス様は、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と教えています。
そうすると、キリスト信仰者とは、なんと無謀で向う見ずな者なのか、こんなやり方ではどんな事業も経営も失敗・破綻するするだろう、という疑問を抱かれるでしょう。ここで注意しなければならないのは、イエス様の教えていることは、あくまで、イエス様の弟子として生きるということについてです。イエス様の弟子として生きるとは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して築かれた神との結びつきをしっかり携えて生きることです。私たちのためにとても大きなことをしてくれた神をひれ伏すように愛して、その愛に立って隣人を自分を愛するが如く愛することです。何か事業を起こす時は見通しを立てないでやれ、ということを言っているのではありません。イエス様が教えているのは、そういう世俗的な事柄ではなく、私たちの魂に関わる霊的な事柄です。
キリスト信仰者は、ヨハネ福音書15章で言われるように、イエス様というぶどうの木に繋がる枝です。このぶどうの園を見張りの塔がない無防備にしてはいけないのです。この世には、イエス様を救い主と信じる信仰を失わせ、神との結びつきを引き裂こうとする力が沢山働いています。外からの圧力や誘惑、自分の内側には神の意思に反しようとする罪があります。そのような力に遭遇したら、すかさず心の目をゴルゴタの丘の十字架に向けます。また復活を証しする空の墓にも向けます。その時、洗礼の時に打ち立てられた新しい命は今もしっかり打ち立てられたままであることがわかります。このように神の力で見張りの塔が出来ているのです。
信仰を失わせる力、神との結びつきを引き裂く力は、自分の力の2倍以上に感じられるかもしれません。しかしそのような力に対してはいかなる妥協もしてはならないのです。そのような時も、心の目を十字架と空の墓に向けます。洗礼の時に打ち立てられた新しい命は今もしっかり打ち立てられたままです。このように神の力で2倍の相手を撃退しているのです。
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちには、洗礼という原点があります。ゴルゴタの十字架で打ち立てられたこと、神のひとり子を犠牲にした罪の償いと罪の呪いからの解放が私たち自身のものになった原点です。キリスト信仰者にはこのような立ち返ることが出来る原点があるのです。罪の償いと罪の呪いからの解放が自分のものになっているというは、私たちにとって現実なことですが、聖餐式のパンとぶどう酒が霊的な栄養となってその現実を強めてくれます。洗礼と聖餐を持つキリスト信仰者は本当に幸いな者です。
ルカによる福音書14章1、7〜14節
「神の前で自分を低くするもの」
1、「上席を選んで座る人を見て」
今日の箇所は、14章は1節を見てわかる通り、イエス様がパリサイ派のリーダーの家に招かれたとことから始まっています。7節以降が今日の箇所になりますが、イエス様は、その食事につく招かれた客達のある姿を見て例えを語るのです。7節からですが
「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。」
その食事には、イエスだけでなく、多くの他の人々が招かれていました。その招かれた人々は「上席を選んで」座ったのでした。そこにはそのようにユダヤ人社会で、ある程度、地位が高い人々が招かれていたのでしょう。そのような食事の席でした。ユダヤ人社会は非常に厳格な階級社会ですから、そのような食事の席についての決まり事には厳しいものがありました。偉い人、階級の高い人が上席に座るのです。しかしここで招かれていた人々は、その上席を「自ら
「選んで」座っているとありますから、彼らは周りの人からだけでなく、自分自身でもそうだと認めていて、自分は当然、その上座に座るものだと思って座っていることを、このことは意味しています。そのような情景を見て、イエス様はある例えを話すのです。それは婚礼の披露宴に招かれた話です。
2、「婚礼の披露宴のたとえ」
「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。」8-10節
イエス様は婚礼の披露宴に招かれた場合を想定し述べます。その時にもしそのように最初から上席に座ってしまったら、後で、自分より身分の高い人が来た場合には、その席を動いて譲るように言われ、動かなければいけない。その時は、恥をかいてしまうというのです。これはこのパリサイ派の食事の席で上席を選んで、自分たちは当然そこに座ると思っている人に対して話しているので、そのような例えにあるような場面が起こった場合には、まさにその高いプライドが損なわれるのです。イエス様は、そのような上席を選んで座る人のプライドの高さと、そのプライドは壊れやすく脆く恥をかきやすいものであることも暗に示唆しているのです。ですから、最初から上席に座ってはいけないというのです。むしろ10節ですが、招かれた席では、末席に座りなさいと言います。そうすれば、今度は逆のことが起こるというわけです。招いたホストは、「もっと上席にどうぞと言うでしょう」と。そして面子をつぶすことはないのだと。
この例えには、イエス様独特の皮肉が込められています。ここにある「恥」とか「面目」とかという言葉は、まず、そのような上席を好んで座る人々の心を大部分、占めているものがプライドであることをイエス様は分かっていることを意味しています。それが上席を好んで、選んで座ることに現れているのですが、それは、絶えず恥や面目を気にし、プライドを大事にし生きて行動している彼らの姿であることをイエス様は例えているのです。
3、「単なる道徳の教え?」
けれども、イエス様がこの例えを話すのは、ただ「末席に座りなさい」「謙遜でありなさい」「プライドにこだわるな」等々、ただの教訓、ただのあるべき態度や行動、あるいは望ましい道徳や倫理を伝えたいのでしょうか?あるいはただ、彼らを皮肉って批判することがその言葉にある本当の目的なのでしょうか?そうではないでしょう。実はここには、それ以上のことが伝えられていることを、教えられるのです。この例えの最後に、イエス様は、実に意味深い言葉で結んでいます。
A, 「高い、低い」
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」11節
この言葉だけだと確かに人生の教訓めいたもののにも聞こえます。しかし果たしてそうなのでしょうか?ここには「低くされる。高められる」、「高い、低い」とあります。しかしそれは単に人間社会の上下関係のことを言っているのでしょうか?イエス様の神の国にあって、階級があるのかどうか、身分によって上座や末席などがあるかどうか、それはわかりません。そのようなことは一切、書かれてはいません。有名な記録として、弟子のヨハネとヤコブの兄弟は、お母さんに頼んで、神の国が来たら、自分たちをイエス様の右と左において欲しいとお願いした場面があります。しかし、その時も、イエス様は彼らに、それは父なる神がお決めになる、つまり全ては神の御手にあることだと、イエス様は答えただけでした。それは人の側では、全く心配する必要がないという意味でした。
では、このところでイエス様は何を伝えたいのでしょうか?イエス様はここでどのような神の国を示唆しているのでしょうか?まずイエス様は、この11節の言葉で、そのような世の人々や、特にパリサイ人や上席を好んで座る人々が気にすこととは、むしろ「逆」のところにこそ神の国はあることを伝えようとしていると思われます。それは、神の国にあっては、階級とか身分とかではない、上座かどうかでもない。そして、プライドや恥や面目、面子によって一喜一憂するようなものでも、もちろんない。そのようなことはあろうがなかろうが、神の国にあって重要なことではない、他に最も大事なことがある、として、イエス様は神の国の真理をこう言うのです。
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
みなさん、どうでしょう。この「高くするとき、低くされ、低くするとき、高くされる。」ということです。確かに、巷でも、高ぶって自分で上座に座るとき、低くされることがあるわけです。しかしこれが神の国のことであるときどうでしょうか?しかも何より「イエス様が真っ直ぐとエルサレムに目を向けて進んでいる」時です。そのことを踏まえるならば、このイエス様の言葉は、実はただ「人と人との間の階級や位」「人と比べての高いか低いか」あるいは、ただの道徳や「あるべき論」以上のことをイエス様はここで示唆しているでしょう。
B, 「神の前」
どういうことでしょうか?まずイエス様はこの言葉で、神の国は、そのようなこと「人の前」以上に、「神の前」つまり「神と私たち一人一人との関係」を何より指し示しているのです。先ほども触れました。このところで「上座を選んで座る人」のその席は、自他共に認めて当然のように座る席だった、のかもしれません。そのようにいつも上座に座っていて、日常的に決まっていた席だったからこそ考えもせずにそこに座ったのでしょう。おそらく、それまで例にあるような、自分より地位の高い人がやってきたので席を譲ってあげてくださいというようなこともあまりなかったからこそ、そこを当然のように選んで座ったとも言えます。しかし、実は、そのように彼らの日常ではあまりあり得ないこと、つまり、自分では気づかないことを、イエス様があえて「もし〜」と言うのは、その彼らのプライド、高ぶりが、「人の前」以上に「神の前で」はどうであるのかということこそ、彼らはこの例えで問われているということなのです。
皆さん、イエス様はここであえて「婚礼」と言っています。「婚礼」はイエス様の場合、約束の救い主の到来と神の国の実現を示しています。ですから、この例えは実は、最高の上座は花婿であるご自身を示唆していると言えるでしょう。そう、これは単なる食事の例えではない、それを超えた、救いの到来の例えとして、まずイエス様は語っているのです。しかし彼らはこの救い主がこられた救いの時でありながら、そもそもイエスを救い主であるとは信ぜず常に監視の目で見ています。そしてイエスを招いておきながら、まさに神の御子が、救い主が、花婿が来られたのに、そもそもそうだと信じていないのですから、神も見えていなければ、人の間の、人の前の自分のことしか見えていないのです。だからいつものように上座に座りました。まさに真の上席に座るお方が来ているのにです。彼らは救い主としてのイエスが全く見えていないのです。もちろん、イエス様自身は自分が上座に座りたい、上座を譲れと言いたいのではありません。しかし、彼らの神の前も神の約束や言葉も忘れ、どこまでも「人の前」と自分しか気にしていない、人と比べての、自分の地位を誇る高ぶりやプライド、自分を高くしようというその在り方によって、目の前の救い主は愚か、神の前にある自分自身の現実さえ気づかないで、自らを盲目にしてしまっている現実が浮かび上がってきます。結果として、「人の前」では自分を高くしようとしていながら、まさに神の前で小さなものとなっているという哀れな事実が、明らかになってくるのです。しかし、それは、決してただパリサイ派だけを示しているのではありません。実はこれは「人の前」ばかりに囚われる時に、「神の前」の自分を見失う、誰でも陥る現実を、イエス様は私たちにも示しているのです。
しかし、繰り返しますが、すでにエルサレムへと真っ直ぐと目を向けて進み、語っているイエス様です。そのイエス様は、この言葉で、単なる「こうあるべき」という道徳や律法のメッセージだけを伝えようとしているのではないのです。
4、「誰でも高ぶる者は低くされる」
A, 「神の前の現実:罪人」
みなさん、実に、このようにイエス様のみことばから「人の前」と「神の前」を示される時、今日も変わらず、何より、聖書が伝え私たちに気づかせようとしている大事な事実にやはりイエスは立ち返らせ導いていると言えるでしょう。そのまず一つは、「神の前」では、パリサイ人も、世界の王や偉人や聖人も、私たち、そして私自身も、皆等しく、一人一人、どこまでも罪人であるという現実です。そして何より神の前に高ぶる罪人であるという事実です。神の前に「義人はいない一人もいない。」とある通りの現実です。私たちの神の前の現実は、救われても、それでも尚も、どこまでもその神の前を忘れてしまい、神の前に高ぶってしまうものではないでしょうか。そしてただ「人の前」ばかりを気にして、人と比べて、いつでも自分を王座に座らせたい、あるいは王座に置いて考えてしまう自己中心な存在であることを私自身気付かされます。その自己中心さが、私たちの罪深い歩みの糧となっています。だからと律法として「低くなれ」と言われても、自分自身の力で、本当に、完全に、誰よりも、低くなるなんてことも、私たちは誰もできない現実もあるでしょう。むしろ自分は神の前でも人の前でも、低くなれる、低くできている、自分へ謙虚で謙遜であると思っているなら、実はそこに既に高ぶりと愚かさがあるでしょう。神の前の高ぶりは、何より私自身にもあることであり、ここで示される上席を好む人々の姿は私自身であることを教えられるのです。
しかしそのように、今まさにそうであるように、聖書から、神の言葉を通して、自分の神の前の高ぶりを気付かされる、その時にこそ、私たちは初めて、神の前の罪の現実を気づかされ、神の前に膝まずかされるのではないでしょうか。そのような神の前の現実を示され、罪を刺し通され、神の前に立つことができない自分であることを知らされ、ただ「憐れんでください
と言うことしかできなくなるのではないでしょうか。そうなのです。その時、まさにこの言葉がそこ実現しているでしょう。「高ぶる時こそ、低くされる」。
B,「低くされる」
繰り返しますが、これは単なる道徳のメッセージではありません。単なる道徳であれば、説教壇から「自分を低くしなさい。高ぶってはダメですよ、自分で低くすれば、神に受けいられますよ。祝福されますよ」で説教は終わり、律法による派遣で終わりです。つまりそのような自分で果たさなければいけない律法の重荷を背負わされ遣わされて礼拝は終わりです。しかし真のキリスト教会の説教はそうではありません。確かにそこには私たちの高ぶり、罪を示す律法ははっきりとあります。しかし「低くされる」とあるように、それは「自ら低くなる」という意味ではありません。神が、私たちにまず最初に聖書の律法の言葉を持って、神が、教え、神が高ぶりの現実を示し、罪を示すという意味に他なりません。つまり、そのようにこの言葉は、「私たちが低くならなければいけない」と言う道徳や律法ではなく、「神が」まず律法の言葉で、いつでも高ぶる私たちを「低くする」ということを教えているのです。
C,「真に低くなられたお方」
しかし、イエス様のメッセージは決して律法で終わりではありません。律法が最後の言葉、派遣の言葉でもありません。まさにここでも「へりくだる者は高められる。」と続くでしょう。そのように、神によって低くされ、「神の前」の圧倒的な罪人の現実を私たちが示され知らされ、謙らされるからこそ、そこに、それで終わりではない、もう一つの素晴らしい神の前の事実に私たちは導かれるでしょう。それがイエス様の何よりの目的でありメッセージの核心です。それは、まさにその罪人のため、私たち一人一人のために、まさにそんな私たちを、この十字架によって、その罪から救い出すため、私たちの代わりに死んで、罪の赦しを与えるためにこそ、イエス様は来られた。私たちのために十字架にかかって死んでよみがえられた。その十字架のイエス様の義のゆえに私たちは今日もその罪を赦される。その福音の事実、現実です。
実に、その福音に、イエス様の真の目的とメッセージは常にはっきりしています。先ほど紹介した、マルコの福音書の10章では、子供のようになるのでなければと、低くされることを教えていますが、そこで、イエス様は、ご自身こそ仕える者となるために来たと言って、それは十字架によってであると示しているのです。そう、まさに「低くされる」、あるいは、最も小さい者となりなさい、と言う言葉は、単なる道徳のメッセージではない、さらには、私たちを低くするだけでもない、何よりその言葉の実現者が、イエス様ご自身であることこそイエス様が伝えているということが示されています。つまり「低くなる」「仕える」は、「私たちが」ではない、何より、イエス様が、私たちのためのこの十字架において全て成就しているということが何よりも気付かされるのです。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」マルコ10章45節
5、「低くされ、高くされる」
イエス様こそがまさにこの十字架において、私たちのためにどこまでも低くなられて死にまで従われました。けれども神は、その死にまで従われ、究極まで低くなれたイエス様を、復活させ、そこに神の栄光があらわされました。そこにこそ神の国、真の勝利と救いがあることをイエス様は証しているのです。実にその十字架と復活の福音の力こそ、イエス様が私たちに与えてくださった最高の天の宝ではありませんか。そして、その福音こそが、高ぶっていた私たちが低くされたときに「へりくだる者は高められる。」と言うそのことを信じる私たちに実現する力なのだと気付かされるでしょう。十字架の横に一緒に処刑された重罪人が、自分は罪深いと認めさせられ、神の前にへりくだらされ、ただ憐れんでほしいと願った時、そこに罪の赦しがイエス様から与えられて、天国の約束があったでしょう。低くされたもの、謙らされたものを神はいつでも高めてくださいました。それは私たちにおいても同じ約束なのです。私たちは皆神の前にあります。しかし神の前に高ぶってしまう罪深い存在です。そのことを日々教えられ、刺し通され、苦しむものです。それは痛みの伴なうことなのですが、しかし、それは神が私たち一人一人を低くするために働いているのです。それはクリスチャンであれば、誰でも経験することであり、日々経験することです。聖霊が与えられている私たちはますますそのことに敏感になります。ですから悔い改めは日々当然あるのです。ないわけがない。しかし、それは聖霊とみ言葉が私たちに日々生きて働いている証拠なのです。なぜなら、そのように低くされ、謙るようにされるからこそ、イエス様によって罪赦され救われる。罪を刺し通されるからこそ、十字架が私たちの罪の赦しであり、それは闇ではなく輝きでありいのちであるとわかる。そのように、その十字架のゆえに、日々罪赦されるからこそ、日々、イエス様が与えると言われた平安が私たちを支配するのです。そのように、私たちを、最終的には、何より高めるためにこそ、イエス様は私たちを日々、まず最初に低くされるのです。キリスト者の生活は、日々、その連続であり、そのことを通して、イエス様は私たちの信仰を日々、新しく、強めることによって、高くしてくださるです。
そのイエス様はその約束の通り、今日も悔い改めイエス様の前にある私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。ぜひ、罪の赦しを受け、安心して今週も遣わされて行きましょう。
スオミ教会礼拝説教
ルカによる福音書13章10〜17節
「アブラハムの子と呼んでくださる主」
1、「会堂にいた彼女」
今日の箇所の直前では、イエス様は、いちじくの木の例えから「実を結ぶ」ということを教えました。それに続く、今日の癒しの出来事もまた、神の御子イエスが信仰者に結んでくださる一つの実を表すものとしてルカは記録しています。
まず10節、イエス様はユダヤ人の会堂にいます。イエス様は毎週、安息日にはこの会堂に来て、巻き物である旧約のモーセの書や預言書を開いて、神のみ言葉を解き明かしていました。この安息日にも同じように教えておられたのでした。しかしその礼拝の席には、11節です。
「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。 」11節
とあります。彼女は腰を伸ばすことができない病気にありました。しかしそれは18年間病の霊につかれていたとあります。病の霊というのは、私たちにとっては理解し難いことが書かれてあるのですが、しかし、その病気は聖書が言う通り霊によるものだったのでした。しかもその病気にかかっていた時間はあまりにも長いものでした。18年もの間、その霊による苦しみ、痛みが彼女を襲っていたのでした。
しかしそんな彼女は、この安息日に会堂の礼拝の席にいたのでした。そしてイエスが語る神の国のみことばを聞いていたのでした。つまり、彼女は、神にみことばを求めていました。つまり一人の信仰者であったのでした。ここでは、イエス様はそのことをきちんとわかっていることも書かれています。16節ですが、
2、「この女はアブラハムの娘なのです」16節
「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。」
と言っています。「アブラハムの娘」つまり「アブラハムの子孫」であることを意味するとき、新約聖書のイエス様の場合、それはただ、血のつながりの子孫のことを意味しているのではありません。イエス様がアブラハムの娘、子孫というときは、パウロの書簡からもわかる通り、アブラハムから連なる「信仰による義」を受け継ぐ者を指しています。創世記15章6節ではアブラハムについて「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。つまり、アブラハムの時からすでに、神の前の義は主と主の言葉を信じ信頼しより頼む信仰にあったのであり、主は、アブラハムにある何らかの行いや性質にではなく、その賜物としての信仰こそを見て、神の前に義と認めてくださったのでした。それは昔も今も変わりません。パウロがローマ4章3節、ガラテヤ3章6節でこの創世記の記録を指して言っている通りです。ガラテヤの方ではパウロははっきりとこう言っています。ガラテヤ3章7節
「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」
と。このように、この病の霊に苦しむ彼女は、紛れもなく信仰の人であり、神の言葉を求めてこのところに座っていることを、イエス様はしっかりと見て知って受け止めておられることがわかるのです。「この女はアブラハムの娘である」と。
3、「病の霊、サタンが縛っている彼女」
しかし彼女の肉体は病気でした。しかも病の霊に憑かれていました。16節ではそれは「サタンに縛られていた」とも書いています。
ここで皆さんは、不思議に思わないでしょうか。それは、この人は信仰者なのに、サタンやそんな霊に憑かれているのかと。当時のユダヤ教の考えでは、「そのような病気の人、あるいはサタンに縛られているのは、何か罪を犯したから、律法に背いているからそうなんだ、それは神の怒りと裁きの結果なんだ」、そのように決めつけられ、偏見と差別が起こるのが普通でした。それは現代でもよく聞くことでもあります。キリスト教会の中でもある教会などは、「そのような霊や病気は、信仰が足りないからだ。だからサタンに負けているんだ。だから自分で、自分の意思で、力を振り絞って、全てを捧げて、信仰をもっと強くしなさい。自分で信仰を奮い立たせて勝利しなさい。そうでなければクリスチャンではありません」と教会や牧師から教えられたりすること、そのような教えを聞くこと、そしてそのような教えに苦しんでいるクリスチャンの相談を聞くことは実は少なくありません。そのように昔も今も、いつの時代でも、災いや苦しみ、試練、うまく行かなこと、成功しないこと、失敗などなどは、神に祝福されていない証拠として、「何かが足りないから、信仰が不完全だから、信仰が足りないから、こうなんだ。祝福されていないのだと。災いがあるのだ。」そういう間違った考えは、教会やクリスチャンへの大きな誘惑であり続けているのです。
しかし、この彼女、この状態は、そうなのでしょうか?みなさん、イエス様はこの彼女をそう見ていません。その病を彼女の何かが足りないからだとは見ません。むしろそのような試練と悲しみにある彼女の、そのような中でも必死に神とその言葉にすがり求めるその信仰のみをイエス様は見て、この非常に幸いな称賛の言葉を言うでしょう。
「この女はアブラハムの娘なのです。」と。
4、「神の御子による天の御国の最高の賛辞」
みなさん、この言葉は、神の御子による天の御国から人類への最高の賛辞であり賞賛の言葉なのです。もちろん私たち人間の目から見るなら、彼女も不完全で足りないところのある信仰でもあり生き方でもあるでしょう。しかし彼女は、周りの様々な冷たい目線や差別にも関わらず、安息日にこの会堂に、神の言葉にすがり求めて、神の言葉を受けるために、礼拝にやってきました。まさにそれだけ、そのままの信仰のみを、イエス様は見て、何も足りないとは決して言いません。むしろ逆に、最高の賞賛を持って、イエス様は、彼女の信仰を言うでしょう。「この女はアブラハムの娘なのです」と。そして、彼女がどうだから、何をしたらから、何が足りないから、こうなった、とは決して言わず、その原因は、ただ「サタンに縛られていたのです。」と、サタンの一方的な働きの中でそうなり、むしろ彼女はその病い苦しみと戦ってきたことを、イエス様はただ哀れんでくださっているのがわかります。みなさん、この方こそ、私たちの救い主であるイエス様なのです。そして、このことから、イエス様が私たちをいつもどう見てくださっているのかが教えられるのです。そう、そのように、私たちのキリスト者として信じる日々、信仰の歩みというのは決して、私たちが何かをしなければいけないということで駆り立て縛るような律法の歩みではない。信仰は、どこまでも、イエス様の憐れみ、イエスからの賜物、イエス様の恵みであり、どこまでも福音によるのだと、わかるのです。
5、「祝福のはかりは律法ではない」
つまり「災いがあり、病気があり、うまくいかないのは、それは自分の罪のせい、信仰が足りないせい、行いが足りないせいなのだ、だから祝福されないのだ」では決してないということです。そのような「祝福や救いを秤る見方」は、まさに福音書に見られる通り、ユダヤ人の律法による生き方、考え方その物です。しかし、現実はどうでしょう?キリスト者の信仰の歩みでも、当然、日々、サタンとの戦い、罪との戦いがあります。イエス様も、使徒達弟子達に、あなた方は患難があります、あるいは、あなた方を狼の群れの中に送り出すようなものだ、と言いました。その中で、私たちは自分自身の力では、負けるとき、勝てないとき、どうすることもできない時が必ずあります。まさに彼女のようにです。しかもそれらの試練や重荷がすぐに解決がされず、18年、いやそれ以上、その苦しみをかかえなければいけない時もあるでしょう。災いや試練の連続、うまくいかないことばかり、失敗ばかり、それらはクリスチャン誰でも経験する現実です。そして、それが神の国や信仰に関することであれば、なおさらです。私たちが自分の力で、信じたり、敬虔になるとか、自分の力や意思で誘惑に勝利をしたり、神の国のことを何か勝ち取ったり達成することなどは実は全く不可能で無力なのです。信仰生活はそのようなものです。弱さと無力さがある。当然なのです。私たちは皆、堕落してから、肉にあってはなおも罪の世を生きているし、自分自身がなおも罪人であるのですから当然なのです。それは私たちは救われて義と認められても尚も、ルターが言うように私たちは「義人・聖徒にして同時になおも罪人」なのです。聖書にある通り、私たちには古い人と新しい人の両方があるのですから。
しかし、それは信仰がないからそうなっているのではありません。信仰が足りないからそのようなことが起こっているのでもありません。信仰の道はそのようなことが当然ある日々であり連続なのです。ですから、「問題がないから、罪がないから、いい信仰、いい教会、いいクリスチャン」ということでもないのです。むしろ自分は、あるいはあの人は、問題もなく失敗もせず完全だからいい信仰、いいクリスチャンだ、いい教会だということが良い教会、敬虔な教会の基準だと言うなら、ヨハネの手紙第一の1章8〜10節に照らして言うと、私たちは神を偽っており、私たちにはみことばがないことになります。信仰とはそのようなものではありません。むしろその逆で、そのような足りなさ、不完全さ、罪深さ、その他、多くの苦しみや戦いがある中、サタンの誘惑や攻撃がある中で、日々、戦って生きる歩みであり、それでも日々、無力さ、罪深さを感じるのが誰もが通る信仰の現実であるのです。
6、「福音の実」
しかし、そのような現実の中で、それでも主を信じて、神の言葉こそを求めて、赦してくださる主の罪の赦しと憐れみを求めて、どこまでも主なる神とその言葉にすがる歩みの幸いこそ、まさに今日のところに証されているでしょう。神の御子イエス様が、このような名もなき、しかもサタンに苦しめられている彼女、それでも礼拝に来て、神の言葉にすがる彼女の、その不完全さ、罪深さ、しかしそこに同時にある信仰を見て、「この女はアブラハムの娘なのです」と言ってくださる。そのように救い主イエス様が、認めてくださり、受け入れてくださる。そして、彼女自身が何かをしたではなく、イエス様が憐れんでくださり、イエス様がまさにその言葉と力で働いて、人の想いをはるかに超えた癒しと救いを与えてくださり、その口に賛美と証しを与えてくださっているでしょう。それが私たちに与えられている信仰であり、神の生きた働きであり、新しいいのち、真の信仰生活であり、それは律法ではなくどこまでも恵み、福音であるのです。そして、そのように全くの恵みによって、イエス様の方からまず彼女に、その信仰を賞賛するという一つの実を与え、さらには、癒しという実を与え、イエス様が彼女にそのように実を実らせることによって、イエスが彼女になさった「彼女のそのまま」が、今も、時代を超えて、福音書を通して証しされ、多くの人の福音の実のために、彼女のそのままが用いられていることがわかるのではないでしょうか。
皆さん、その証しは派手でも劇的でもありません。しかし、まさにこれがイエス様が、福音が、私たちに実を結ぶということです。実を結ぶとは、律法的に私たちの力と行いで華やかな結果を、私達が神のために一生懸命、実現すると言うことが実を結ぶということではありません。彼女は本当に不完全さと苦しみの中、神とその言葉にすがっている、ただそれだけです。しかしその信仰が「そのまま」用いられて実は結んでいくのです。これが聖書が私たちに伝える。福音による実に他なりません。
7、「律法を基準とする会堂管理者」
けれども、これと対照的な反応が、この後、描かれています。なんと会堂を管理する、会堂長はイエスに憤ります。しかもイエスに直接言わないで、群衆を巻き込んで扇動して、群衆みんながそう言っているとでも言わせたいかのように言うのです。14節
「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」」
この会堂長も、福音書に見られるパリサイ人、律法の専門家たちの反応と同じです。律法、あるいは、律法に従う人の行いしか見えていません。彼らにとってはそれが基準です。いかに従っているか、どれだけ忠実に行っているか。その自ら、あるいは他人の行いが、全ての秤の標準であり、拠り所になっているでしょう。イエス様と見ているところが全く逆であり正反対なのがわかります。自分たちが、あるいは人が、どれだけ行うかに祝福と救いと義はかかっているのです。自分たちは行っている。行っていない人はダメなんだ。そのような論理で一貫しています。
8、「イエスの目は福音の目」
しかし、イエス様の目と思いは全く彼らと逆なのです。それは、全ては天の神からくる。天から恵みが与えられるためにこそ、ご自身はそれを与えるものとして世に来られた。父子聖霊なる神の私たちへの思いは、その天の恵みを与えること、そして、人々はそのイエスご自身からそのまま受けること、そして受けることによって主の働きは全て始まり実を結ぶ、それがすべてである。そのような一貫した福音の目線であり思いなのです。ですから、イエス様は言います。15-16節
「しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」」
安息日の本当の意味について述べるイエス様の言葉を思い出します。マルコの福音書では
「そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。」」マルコ2:27〜28
と。ヨハネの福音書でも、イエス様は
「イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」 」ヨハネ5:17
と言いました。会堂長も、パリサイ人たちも、「律法に自ら生きること、何をするか、してきたか、何をしていないか、してはいけないことをしているか、していないか。」が義や祝福の基準です。しかしイエス様は、その逆で、神が何をしてくださるのか。まさにどこまでも福音が基準なのです。神が与えてくださる。み言葉のうちに神は働いてくださる。その時が神の国であり、安息日の恵みであり、みことばの恵み、福音のすべてであると、イエス様はどこまでも一貫しているのです。
9、「福音にこそ招かれ、福音にこそ生きるために」
私たちは、今日もこのみことばから、イエス様によってどちらに招かれているかは、すでに明らかです。もちろん、日々律法によって罪示されて悔い改めつつここに集められていることでしょう。しかしクリスチャン生活は律法で終わりではないのです。律法が最後の言葉ではありません。そのように罪を示され悔い改める私たちは、どこまでもその罪を赦され、福音を受けるために招かれているのです。罪に打ち拉がれ、刺し通され、悔い改める私たちに対しても、イエス様は今日も、「アブラハムの子よ、子孫よ」と、言ってくださり、罪を赦し、そのように私たちを見て喜んくださっているのです。それは私たちが何かをしたからではない。苦しみと試練の中、サタンとの戦いの中で弱さを覚える現実の中で、彼女のようにそれでも神のみにすがってここに集まってきたその、そのままの信仰こそを主イエス様は何よりも喜んで、賛美して、「アブラハムの子よ、子孫よ。よく来たね。今日もあなたに与えよう。救いを。罪の赦しを。新しいいのちを。平安を。」と、そう言ってくださっているのです。
事実、会堂長の目線や律法の言葉と、イエス様の福音と、どちらが本当に平安と光と喜びを与えるのか、どちらが本当の福音の実を結んでいくのか。皆さんにはもうお分かりだと思います。律法は人の前や理性では合理的で即効性があり理解しやすい手段にはなるかもしれませんが、律法は、人を、ただ恐れさせ強制で従わせ行わせることしかできません。何よりそこにはイエスが与えると言われた特別な平安はありません。しかし、まさに今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と福音を宣言してくださっているイエス様から、福音こそを受け、福音によってこそ新しくされ、福音によって安心し遣わされていくときにこそ、どんな困難があってもそこに平安が私たちにあるでしょう。私たちは福音によってこそ、平安と喜びをもって、真に神を愛し、隣人を愛していくことができるのです。それは律法は決して与えることはできないものです。福音が与えるのです。その福音による歩みこそ、私たちに与えられたキリストによる新しい生き方なのです。
今日もイエス様は宣言しています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。そのイエス様の恵みを受けて、イエス様が日々、「アブラハムの子よ、アブラハムの娘よ」と認めてくださっていることを賛美して、そしてそこにイエス様の福音が確かに働いてくださることを信じて、ぜひ今週も歩んでいこうではありませんか。