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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
今私たちはイエス・キリスト誕生に至る流れを聖書に基づいて駆け足で見ました。最後に朗読されたルカ福音書2章1~20節はイエス様が誕生した時の出来事を伝える個所です。世界中のキリスト教会のクリスマス・イブの礼拝で朗読されます。このイブの日、日本やオーストラリアで世界に先駆けて朗読されます。そこからユーラシア大陸にあるキリスト教会、アフリカやヨーロッパにある教会、そして大西洋を渡ってアメリカ大陸にある教会で朗読されて世界を一周します。天にいます父なるみ神よ、どうか、戦乱や自然災害、権威主義体制のもとで平和な礼拝を持つことが難しいところでも、今日大勢の人がこの聖句に耳を傾けて、外面的な混乱に左右されない内面的な平安を持つことができるようにして下さい。アーメン
さて、毎年同じ聖句を読んで聞かされてキリスト教徒は飽きないのかと言われるかもしれません。これは飽きる飽きないの問題ではありません。この日はイエス様の誕生を覚える日です。主の誕生を覚えるのに何が相応しいかと言えば、この聖句に耳を傾けて思いを巡らすことをおいて他にはありません。キリスト信仰者は、創造主の神と自分自身との関係について、また信仰者として自分のこの世での立ち位置について、毎週日曜の礼拝や日々の生活の中で確認しながら人生を歩みます。同じ聖句を何度も読んだり聞いたりするのは、神の御言葉は何があっても揺るがない確固としたものだからです。そのようなものに照らし合わせてこそ神との関係や自分の立ち位置を確認することが出来るのです。揺るいでしまうものや確固としていないものに照らし合わせたら、神との関係も自分の立ち位置もわからなくなってしまいます。
さて、ヨセフとマリアがナザレという町から150キロ離れたベツレヘムという町に旅をしていました。時はローマ帝国がユダヤ民族を占領下に置いていた時代です。当時ユダヤ民族にはヘロデという血筋的には異民族に属する王様がいましたが、これはローマに服従するもので独立国ではありませんでした。ローマの皇帝が税金の取り立てを強化するため領民に対して本籍地で住民登録せよと勅令を発しました。ヨセフの遠い先祖はかつての民族の英雄ダビデ王だったので本籍地はダビデ家系発祥の地のベツレヘムでした。それで二人はベツレヘムに旅立ったのです。
その時、マリアは身重で出産間近でした。実は二人はまだ婚約中で同居もしていませんでした。マタイ福音書1章にあるように、マリアの妊娠を知ったヨセフは、もうこれで婚約は破棄かと悩みましたが、天使から、マリアの妊娠は神の霊つまり聖霊の力が働いたことによる、生まれてくる子をイエスと名付けよ、と告げられていました。つまり、引き取って育てよ、ということです。マリアもルカ1章にあるように妊娠前に天使から同じように告げられていました。戒律厳しいユダヤ教社会の中で婚約段階の妊娠は良からぬ憶測や疑いを生んだでしょう。しかし、二人は神の計画ならばと忍んだのでした。まさにその時、ローマ皇帝の勅令が下ったのです。
さて、ベツレヘムに着いてみると、同じ目的で旅する人が多かったのか、宿屋は満杯でした。マリアの陣痛が始まってしまいました。二人は馬小屋を案内されて、そこでマリアは赤ちゃんを産みました。二人は赤ちゃんを布に包んで飼い葉おけの中に寝かせました。夜も大分更けた頃でした。
その同じ時に町の郊外で羊飼いたちが野宿して羊の群れの番をしていました。暗い夜空の下、獣が襲ってこないか盗人がこないか起きた羊がどこかに行ってしまわないか、神経を張り詰めていなければなりません。不安と疲れがあったでしょう。そこに突然、目も眩むような輝く天使が現れたのです。羊飼いたちが恐れおののいたのは言うまでもありません。天使は「恐れるな」と言って続けました。旧約聖書に預言されていたメシア救世主が今夜いにしえのダビデの町ベツレヘムでお生まれになったと。メシアが本当に誕生した印として、布に包まれて飼い葉おけに寝かしつけてある赤ちゃんを見つけたら、それがその子だと天使は教えました。羊飼いたちは呆気にとられて天使のお告げを聞いていたでしょう。
その時でした、天使の大軍が夜空に現れて一斉に神を賛美したのです。一人の天使の輝きでも眩しい位なのに大勢いたら夜空の闇などどこかに消え去ってしまったでしょう。天使たちの賛美の声が天空に響き渡りました。
「天には栄光、神に。 地には平和、御心に適う人に。」
賛美し終わると天使たちは最初の天使も一緒に皆、天空に消え去りました。夜空と闇と静けさが戻ってきました。この時の羊飼いたちの心はどうだったでしょうか?ベツレヘムへ行こう!恐れも不安も疲れも皆消え去っていました。ただ、羊の群れは置き去りにはできないので、皆一緒に出発したでしょう。夜の街に突然羊飼いと羊の群れが入って来たので町はちょっとした騒ぎになったでしょう。メシアのいる馬小屋が見つかりました。何の騒ぎかと集まってきた人たちに羊飼いは見聞きしたことを話します。天使はこの子がメシアだと言っていたと。人々は驚きながらも半信半疑だったでしょう。それでも羊飼たちは喜びに溢れ神を賛美しながら野営地に帰って行きました。マリアは飼い葉おけの中で静かに眠る赤ちゃんを見つめながら、心の中で羊飼いたちの話したことやかつて天使が告げたことを思い巡らしていました。
以上が世界で一番最初のクリスマスの出来事でした。ここで羊飼いたちの心の動きに注目してみましょう。羊飼いたちは暗闇の中で心配と疲労を抱えて過ごしていました。そこに暗闇を打ち消す天使の輝きを見て恐れおののきました。天使のお告げと賛美を聞いた後、暗闇は戻ってきましたが、もう心配も疲労もありません。告げられたことが本当だと信じてそれを確認しようと出かけます。そしてメシアに出会うや、心は神への感謝と賛美に満たされてまた暗闇の中に戻って行ったのです。しかし、暗闇はもう以前のような心配や疲労の暗闇ではありませんでした。メシアを確認できたことで希望と神への感謝で心が一杯になったのです。周りは暗闇でも心は光に満たされたのです。
実は同じような心の動きは、イエス・キリストの福音を聞いて心で受け取った人にも起こります。まず、イエス・キリストの福音とは何か、少し申し上げます。それは、神との結びつきを失ってしまった人間がイエス様のおかげで持てるようになって、その結びつきを持ってこの世を生きられるようになったということです。人間が神との結びつきを失った経緯は旧約聖書の創世記3章に記されています。天地創造の神に造られたばかりの人間が蛇の姿をした悪魔の言う通りにして神の意思に反しようとする性向を持つようになってしまいました。これを聖書は罪と呼びます。罪が人間に入り込んだ結果、人間は死ぬ存在になってしまったということも聖書は説き明かします。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いでしまうものになってしまったのです。たとえ犯罪を犯さなくても人間には奥深いところに受け継いでいる罪があるため、何かのきっかけで悪いことを心に描いたり言葉に出してしまったり、最悪の場合は行為に出してしまうのです。これらは全て人間が神との結びつきを失ってしまったことの現れです。
神はこの状態を変えて人間がまた自分と結びつきをもてるようにしてあげようと考え、それでひとり子を自分のもとから贈られたのでした。ひとり子は神でありながら、人間の母親の胎内を通して人間として生まれてきました。子はイエスと名付けられ、成人に達すると大々的に人々に天地創造の神や来るべき神の御国についてに教え、神の子のしるしとして無数の奇跡の業も行いました。しかし、彼に脅威を感じたユダヤ教社会の指導者たちによって捕らえられ、ローマ帝国に対する反逆者として十字架刑に処せられてしまいました。
ところが実はこれは全く表向きの出来事でした。十字架の出来事の真相は表向きのもっと奥深いところにあったのです。それは、神がひとり子に人間の罪の償いをさせたという贖罪の出来事だったのです。イエス様は人間の罪を全部自分で引き受けて本来なら人間が受けるべき神罰を代わりに受けられたのでした。イエス様は死から三日後に復活され、その40日後に弟子たちの見ている前で天にあげられました。これで十字架の出来事の真相が明らかになったのでした。 全て旧約聖書に預言されていたことが事後的にわかったのです。
それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は、彼が果たした罪の償いを自分のものにすることができ、罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見なされるようになり、罪を赦されたから神と結びつきを持ててこの世を生きられるようになったのです。この結びつきは、人生順風満帆の時でも大風逆風の時でも全く変わらずにあります。この世から別れる時も神と結びついたまま別れられ、復活の日が来たら再臨するイエス様の力で眠りから起こされて、イエス様と同じように復活を遂げて永遠の神の御国に迎え入れられるようになるのです。これがイエス・キリストの福音です。
私たちがこの福音を受け入れてそれを携えて生きるようになると、羊飼いたちに起きたのと同じ変化が起こります。最初は暗闇の中で心配と疲労を抱えて生きています。聖書の御言葉は最初、神聖な輝きを持つ神は罪を断罪する恐ろしい方であることを伝えます。それで私たちは羊飼いたちのように神の神聖な光に恐れを抱くのです。しかし、聖書は同時に次のことも伝えます。人間が罪と一緒に断罪されて滅びてしまわないために神がひとり子を贈って十字架と復活の業を果たさせたとうことです。神の神聖な光は罪の汚れを断罪する裁きの光だけではないのです。罪を赦す恵みの光でもあるのです。恵みの光に自分の全てを委ねるのが私たちのキリスト信仰です。そうすれば恐れは消えて安心が取って代わります。一時の気休めの安心ではなく本当の安心です。ベツレヘムの馬小屋に出かけた羊飼いたちのように、私たちも教会の礼拝に出かけて、そこで御言葉の説教に耳を傾け聖餐式に与ることで本当の安心を確認します。そして、新しい一週間に歩み出します。それはちょうど、羊飼いたちが感謝と賛美に心を満たされて暗闇をものともせずに戻って行ったのと同じです。
このようにイエス・キリストの福音を心で受け取った人はこの世の暗闇をものともしないようになる光を受け取ったのです。どうして福音の光を受け取ったら暗闇のようなこの世をものともしないでいられるのか?それは、先ほども申したようにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けた人は神と揺るがない結びつきを持てるようになったからですが、聖書ではその結びつきを神との平和と言います。使徒パウロもローマ5章で、信仰によって神との結びつきを回復したキリスト信仰者は神と平和な関係があると説いています。天使の軍勢が賛美をした時、「神の御心に適う人に平和」と言いました。「神の御心に適う人」というのは、イエス・キリストの福音の光を受け取って神との結びつきを回復した人のことです。そのような人が「平和
を持つというのです。罪を償ってもらって罪の赦しの中で生きられるようになると、もう神との間に敵対関係はないのです。神と平和な関係があれば、たとえ周りは平和が失われた状況があっても、自分と神との平和な関係に影響はない、周りが平和か動乱かに関係なく自分には失われない動じない平和がある、そういう確固とした内なる平和です。この世が暗闇のようになっても失われない平和です。
このような確固とした内なる平和を持つようになったキリスト信仰者は今度は自分の外に対しても平和な関係を築こうとするようになるとパウロはローマ12章で説きます。周囲の人たちと平和な関係を築けるかどうかがキリスト信仰者のあなたの肩にかかっているのであれば、迷わずにそうしなさいと。相手が応じればそれでよし。応じない場合でも相手のまねをして非友好的な態度はとらない。悪に対して悪をもって返さない、善をもって悪に勝て。自分で復讐はせず、最後の審判の時の神の怒りに任せよ、だから敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよと。なんだか高尚な道徳を説かれているような気がしてしまうかもしれませんが、そうではないのです。キリスト信仰者は自分のことや、この世での自分の立ち位置を考える時は、神との関係において見、神との平和な関係は大丈夫か自省しながら考えます。だから、自分中心にならないのです。神との関係がなくて、そういうことをしろと言われたら、全て自分の力で行わなければならなくなり、それこそ一般人には縁遠い高尚な道徳になります。
いくら神から消えない光、揺るがない平和を頂いて、周囲の人と平和な関係を築くのが大事と思っても、この世でいろいろなことに遭遇すると思いも萎えてしまうというのが現実です。だから、消えない光と揺るがない平和を確認する場として日曜日の礼拝があるのです。どうか、このクリスマスの時も、イエス・キリストの福音の光が多くの人の心に届いて、神と平和な関係を築けた人が暗闇の恐れを捨てて周囲との平和を築く力が与えられますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなた方にあるように。 アーメン
2024年12月15日(日)
聖書:ルカ福音書3章7~18節
説教題:「悔い改めに相応しい実を結べ」
今日の聖書はルカ福音書3章であります。神から遣わされたヨハネという人が荒野に現れて「悔い改めよ」と叫びました。その声はユダヤの全土に鳴り響きました。このヨハネの叫びは人々の心を鋭く刺激する権威を持ったものでしたからヨハネの叫びを聞いた民はみな自分の生活を顧みて道徳的にも良心に訴えられる反省すべき点を見つめたのでしょう。また神の審判の近いことを感じ恐れおののいたかも知れません。彼らはユダヤの全土からヨルダン川へやって来てヨハネから「罪の許しを得る悔い改めのバプテスマ」を受けたのでした。バプテスマのヨハネはこれらの群衆向かって言ったのです。それが今日の聖書に書いてあります。3章7節からの言葉でありました。「蝮の子らよ!差し迫った神の怒りを免れると誰が教えたのか。悔い改めに相応しい実を結べ『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが神はこんな石ころからでもアブラハムの子たちを造り出すことがお出来になる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる」・・・・。
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これはもう刺激的な言葉であります。ユダヤ人の群衆に向かって「お前たちは蝮の子らだ」と言うのです。神の怒りの下にあると言うのです。蝮と言うのは荒野の岩穴に潜んでいる毒蛇であります。人々もよく知っている恐ろしい蛇であります。神様から特別に選ばれている民族である誇りに思っているユダヤの民に向かって「蝮の裔(すえ)だ」と呼んでいるのです。来らんとする神の怒りを逃れられる、とでも思っているのか。各人は自己の生活を悔い改めて良い実を結べと迫って叫ぶのであります。罪を悔い改めなければ民族の伝統をいくら誇ってもユダヤ人であれば誰であれ切り倒されて滅亡の火に投げ込まれるのだ!と叫んでいるのです。悔い改めるならユダヤ人たちが軽蔑する異邦人であっても信仰的には「アブラハムの裔(すえ)」として神の救いを受けられるであろう。このようにしてヨハネの言葉を聞いた群衆は自己の良心に心打たれ感動の言葉に心開かれ人々は言いました。「では私たちはどうすればよいのですか」・・・・。そこでヨハネは答えて言います。11節以下を見ますと「下着を二枚持っている者は一枚も持たない者に分けてやれ」。私たちはヨハネのこの言葉をどのように思うでしょうか。現代の日本に生活している私たちからすると下着一枚も持っていない人にやりなさいと言われるのはピンとこないでしょう。ところがイエス様の時代です。2000年以上も昔です、しかもバプテスマのヨハネは荒野で生きて来たのです。一口で言いますととにかく暑いです。日本人の感覚からは想像を絶する程の暑い中にいるのです。私は実際イスラエルに旅して荒野をバスで通りました。ごつごつした岩、石ころだらけ、気温35度以上どころではありません。バスの中はクーラーをがんがんかけていますがバスから出た途端に物凄い暑さです。もう大変な暑さでカラカラで、とにかく水が無いのです。聖書の中でイエス様が言われる一滴一滴の水の有難さ、まさに命の水です。実際に行ってみないと分からない、実感が湧かない。ここでヨハネが言っている言葉も私たちの日本での感覚からかけ離れた風土の中で語られている言葉です。一枚の下着がどんなに貴重なものであり下着を持っていない人々が沢山いると言う事でしょう。更に食べ物を持っている者も同じようにせよ。充分に食べ物もない、いつも腹ペコペコでやっと水や野菜や草で食いつないでいる人々の状況の中で言われているのです。他のところでイエス様も言われています。そこには人と人との心からの信頼し合って生きねば生きられない。その土台があって[互いに助け合いなさい。][愛し合いなさい。]という事であります。今日生きられるか明日死ぬかもわからない、何も持っていない過酷な状況の中で響く重い生きた言葉です、イエス様の命令です!ヨハネの荒野での禁欲生活の体験から出している実践的真理を訴えて言っているのです。そして更に徴税人に対しては規定以上のものは取り立てるな。兵隊に対しては誰からも金を強請り取ったり騙し取ったりするな、と言っています。自分の給料で満足せよ。きわめて具体的な不正や権力を持っている者が弱い者をないがしろにした社会に対する鋭い警告と悔い改めであります。人間誰もが持っている欲を鋭く突いていると言えるでしょう。時代を超えて昔からユダヤ人の間で横行していたであろう騙し取りや強請り取りの悪がはびこっていたと思われます。これらの一貫して言えることは「あなた方は貪るなかれ」とヨハネは訴えたのです、欲を捨てよ!です。
ヨハネのこれらの鋭い指摘を受けた群衆はヨルダン川において一度全身を水中に沈めて再び浮かび上がるという水による洗礼をうけました。この洗礼によって全身を川の水に一たび全てを沈めることでこれまでの諸々の悪い思いや罪の一切を一瞬にして捨ててしまって再び新たな信仰生活の出発を全身で水を浴びて体験する、これは悔い改めの象徴であります。そこには罪の許しを受け新生の感覚を持って主と共にある信仰の希望を生きるのであります。この体験は一生忘れない印象深い恵みでありましょう。今日でもバプティスト教会は特別の意味を持って聖壇の下にあるプールの中で全身水に浸って新たな信仰の覚醒をする洗礼式が行われています。なぜヨルダン川でのバプテスマのヨハネ悔い改めの叫びにユダヤ全土、彼方此方から人づてに群衆がやって来て洗礼を受けたのでしょうか。このヨハネが現れる前の時代BC16年?~BC37年頃マカベヤ時代といわれた時代、ユダヤ国が倒れた後、歴史的にメシア待望の時代のうねりが高まり民族の間に救い主メシアの出現を期待する思いが強くありました。そこへヨハネが荒野から現れ悔い改めを迫ってヨルダン川で洗礼を授けましたのでこれこそ待望のキリストではあるまいかと群衆が考え始めたのです。16節から見ますと、そこでヨハネは彼らの心を知って皆々に向かって言ったのです。
「私はあなた達に水で洗礼を授けるが私よりも優れた方が来られる。私はその方の履物の紐を解く値打ちもない。その方は聖霊と火であなた達に洗礼をお授けになる。・・・」ヨハネははっきりと自分はキリストではない。即ちあなた方の期待しているメシアはナザレのイエスであることを明らかにしたのであります。そして二人の違いは次の二つの点にあると言います。
第1に ヨハネは水でバプテスマ施すがイエスは聖霊と火でバプテスマを施す。聖霊のバプテスマはその人に全く新しく、魂に至るまでの生まれ変わり、生き方が変えられるのである。そうした神からの力を持つ。一方水のバプテスマは象徴的意味をもつにすぎない。
第2に ヨハネは斧が木の根元に置かれていると言ったけれどもヨハネ自身が斧を振るうのではない。彼はただのの事実を指摘したに過ぎないのです。しかしイエス様はその手に箕を持って自らこれをふるい給うのであります。従って斧を振るう者も又当然イエス様であります。こうしてイエス様とヨハネの間には審判を行う者とそれを指し示す者との差があったのです。これはもう天と地ほどの次元の違う差があったのです。ルカ福音書3章ではヨハネの出現した事について旧約聖書イザヤ書40章を引用しています。ヨハネは救い主イエス様の登場前に道を整え準備する者である事を書いています。その事はヨハネが生まれた時既にその父ザカリヤが聖霊に満たされて預言したところであった。バプテスマのヨハネは罪の許しに至る「悔い改め」の道を宣べ伝えたのでした。[罪の赦しを得させる者は]ヨハネではなくイエス様の救いでありました。ヨハネは水による洗礼で形式的象徴であってイエス様の救いは聖霊によってする永遠的効果のある実力であったのです。こうした違いがある事をヨハネ自ら「私はあなたのために水で洗礼を授けるが私よりも優れた方が来られる。私はその方の履物の紐を解く値打ちもない」という表現で言ったのです。
今日のメッセージで私たちはバプテスマの叫びを心に受けて自分の人生をこれから何をしたら良いのでしょうか。イエス様は33年の生涯で最後の僅か3年間を激しく神の国の心理を語り神の力を爆発させて数々の奇跡の業を起こし数知れない病人を救い、そして遂には十字架の死をもって信ずる全ての人の罪を贖ってこの世を終えられました。バプテスマのヨハネは神の子イエスの前を歩き僅か30年の生涯を殆ど荒野で過ごした後ユダヤの民に「悔い改め」を叫びヨルダン川で水による洗礼を授けを最後は牢獄で死を遂げたのであります。我らはこのヨハネの叫びを聞き何をなすべきか?彼は今日も叫んでいるのであります。
来週の礼拝はクリスマスです。私たちはバプテスマのヨハネの叫びを受けとめ罪赦された神の愛を受けて神を褒めたたえたい!詩編103篇の作者のように「我が魂よ主を褒めたたえよ」と喜びの賛美を挙げてクリスマスを迎えましょう。
人知では測り知ることの出来ない神の平安があなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
先週キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。クリスマスまで4つの日曜日を含む期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救い主の降臨を待つ期間です。クリスマスの日になると私たちは救い主を贈られた天地創造の神に感謝と賛美を捧げ、人間の姿かたちを取って降臨した救い主の誕生をお祝いします。この救い主の降誕を待つ期間、私たちの心は2千年以上の昔に今のイスラエルの地で実際に起こった救世主の誕生に向けられるのです。
このように待降節は一見すると過去の出来事に結びついた行事に見えます。しかし、先週も申しましたように、私たちキリスト信仰者はそこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。実に私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。そのため待降節の期間は主の第一回目の降臨に心を向けつつも、第二回目の再臨にも思いを馳せる期間です。クリスマスをお祝いして、ああ今年も終わった、また来年、と言って飾りつけと一緒に片づけてしまうのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を思い起こしてそれを保っていかなければなりません。そういうわけで今日も、本日定められた聖書の個所を通して再臨を待ち望む心を思い起こしましょう。
本日の福音書の日課は洗礼者ヨハネが活動を開始する場面です。神の言葉がユダヤの荒野にいたヨハネに降り、ヨハネはそこから出てヨルダン川流域の地方に出て行って、罪の悔い改めの洗礼を受けなさいと宣べ伝え始めました。そして、大勢の人々がヨハネの洗礼を受けようと集まってきました。この福音書を書いたルカは、これこそ旧約聖書イザヤ書40章に預言されていたことの実現だとわかって、それを引用して書き出します。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
荒れ野で叫ぶ声とは洗礼者ヨハネの宣べ伝えの声です。ヨハネが整えよ、まっすぐにせよ、と命じた「主の道」の「主」とはイエス様のことです。イエス様の道を整えよ、その道筋を真っ直ぐにせよとは具体的に何を意味するのでしょうか?ヨハネは続けて、「山と丘はみな低くされる、曲がった道は真っ直ぐに、でこぼこの道は平らになる」と言います。聞いていると、なんだかイエス様が歩きやすい道を整備しなさいと言っているように聞こえます。イエス様はでこぼこ道や曲がった道を歩くのが苦手だったということでしょうか?
いいえ、そういうことではありません。ここのイザヤ書の引用はイエス様の足について言っているのではなく、イエス様を迎える立場にある私たちの心のことを言っているのです。それがわかるために、まず、「道を整えよ、道筋を真っ直ぐにせよ」と命じた後に来ることを見てみましょう。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と言います。全部未来形で将来起こることを言っています。
「山と丘は低くされる」と言う時、「低くされる」のギリシャ語原文の動詞(ταπεινοω)は「ヘリ下させる」という意味があります。つまり、山や丘というのは高ぶった人やその心を意味し、それをヘリ下させるということです。暗に人の心を言っているのです。「谷は全て埋められる」というのは、人の心のことを言っていないようにみえます。ところが、引用元のイザヤ書40章4節のヘブライ語の原文を見ると、「埋める」という動詞は使われていません。「高くする」という動詞(נשא)です。「谷底を高くする」という言い方です。ちょっと変ですが、要は、低くされた人を高く上げてあげること、谷底に落ちたような状態にある人を引き上げてあげること、ヘリ下った心の持ち主を高く上げることを意味します。まさに人の心について言っているのです。イエス様が、自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされると言っている旧約聖書の背景がここにあります。
「曲がった道はまっすぐに」ですが、ルカ福音書のギリシャ語の原文、引用元のイザヤ書のヘブライ語原文を見ても「道」という言葉はありません。一般的に「曲がった」ことを言っています。それで「道」と理解する必要はないのです。「曲がった」というのはギリシャ語の単語をみてもヘブライ語の単語を見ても(σκολιος、עקב)、ずるい、悪賢い、陰険という意味があり、まさに心が曲がった状態を意味するのです。それが「まっすぐになる」と言うのは、これも単語の意味を調べると(מישור)、公正な、正しい、義に満ちたという意味があります。なので、ここは正しい心、真っ直ぐな心のことを言っているのです。このように、主の道を整えよ、その道筋をまっすぐにせよ、と命じて、そうすれば高ぶった心は低くされ、低められた心は引き上げてもらえ、曲がった心は真っ直ぐになって、神の救いを見ることになるのだ、という流れです。一見、平らで歩きやすい道のことを言っているようですが、実は心のことを言っていて、神の救いを見るのに相応しくなかった心が相応しいものに変わることを言っているのです。このように聖書は原文に遡ってみるといろんな発見があり、日本語の理解をさらに進めてくれます。
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」とは、神と神が贈る救い主が私たちのところにやってくる、だから、私たちのところに来やすいように道が曲がりくねっていればそれを真っ直ぐにして、道の上の障害物を取り除きなさいということです。私たちの側でバリアフリーにしなさいということです。
私たちの内にある、神と救い主の近づきを妨げる障害物とは何でしょうか?それを私たちはどうやって取り除くことができるでしょうか?「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。実は神は、もともとは人間から離れた存在ではありませんでした。創世記の最初に明らかにされているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいる存在でした。それが、最初の人間が悪魔の言うことに耳を貸したことがきっかけで、神の言葉を疑い、神がしてはならないと命じたことをしてしまいました。それが原因で人間の内に神の意思に背こうとする罪が入り込み、神聖な神との結びつきが失われてしまいました。その結果、人間は死する存在になってしまいました。使徒パウロがローマ6章23節で、罪の報酬は死であると言っている通りです。人間は代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできたのです。
これに対して神はどうしたでしょうか?身から出た錆だ、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、この世から離れた後は自分のもとに戻れるようにしてあげよう、そう決めて人間を救う計画を立てました。そして、それを実行に移すためにひとり子をこの世に贈られたのでした。
神は人間の救いのためにイエス様を用いて次のことを行いました。人間は自分の内に居座るようになってしまった罪を自分の力で追い出すことができません。それで人間は罪にまみれ罪の力に服したまま、神との結びつきがない状態でこの世を生きることになります。この世から離れる時も神との結びつきがないまま離れることになってしまいます。そこで神は、人間の罪を全部イエス様に負わせて、彼があたかも全ての罪の責任者であるかのようにして、十字架の上で神罰を人間に代わって受けさせました。イエス様に人間の罪の償いをさせたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、そこに至る道を人間に切り開かれました。
このようにして、遠いところにおられる神はひとり子のイエス様をこの世に贈り、その彼を通してご自身の愛と恵みをもって私たちに近づかれたのです。それは、私たち人間が神との結びつきを持てて今のこの世だけではなく次に到来する世も合わせた大いなる人生を生きられるようにするためでした。
それでは、神がこのように私たちに近づかれたのならば、私たちはどうやって自分のうちにある障害物を取り除いて、道を整えて、神の近づきを受け入れることができるでしょうか?
それは私たちが、この神の近づきは人種、民族に関係なく全ての人間に向けられたもので、この自分に対しても向けられていると気づいて、それでこの大役を果たしたイエス様を自分の真の救い主と信じて洗礼を受ける、そうすることでバリアフリーになって神の近づきを受け入れることができます。まさに洗礼の時、心の中にある主の道が真っ直ぐにされて聖霊が入ったのです。聖霊が入ったことは、次のような聖霊の働きから明らかです。洗礼を受けたことでイエス様が果たしてくれた罪の償いが自分の償いになったのだ、自分は罪を償ってもらったのだ、罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見てもらえるようになったのだ、神から罪を赦された者と見てもらえる以上、自分はもう罪の側にいて生きるのではなく、神の側にいて生きるようになったのだ。こういうふうに新しい命が自分にあるのだとわかるのは聖霊が働いている証拠です。聖霊なしではわかりません。
聖霊の働きは、新しい命の自覚をもたらすことで終わりません。キリスト信仰者はイエス様のおかげで罪を赦してもらったけれども、それは罪が消滅したことではありません。神の意思に反しようとする罪はまだ内に残っています。たとえ行為に出さないで済んでも、心の中に現れてきます。そのような自分を神聖な神は本当に罪を赦された者として見てくれるのか、心配になります。その時、キリスト信仰者は自分の内にある罪を見て見ぬふりをせず、すぐそれを神に認めて赦しを祈ります。神への立ち返りをするのです。罪を見て見ぬふりをして赦しを祈り求めないのは神に背を向けることです。このようにキリスト信仰者が自分の内に罪があることに気づいて神への立ち返りをするというのも聖霊が働いている証拠です。
神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった。イエスの十字架の犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからは罪を犯さないように」と。この時キリスト信仰者は自分にはイエス様の償いがある、神との結びつきは失われていないとわかり、神の側にいて生きる者の自覚、洗礼の時に始まった新しい命の自覚が戻ります。このように自覚に戻れるのも聖霊が働いている証拠です。
実にキリスト信仰者は聖霊の働きにより、罪の自覚と神から赦しを受けることを何度も何度も繰り返しながら復活と永遠の命が待っている神の国に向って進んでいくのです。先週の説教でも申しましたように、これを繰り返していくと、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指すのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。そこで、私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、逆に神と私たちの結びつきは一層強められるので罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。また罪の自覚と赦しを繰り返していくと、高ぶった心は低くされ、谷底に落とされた状態からは引き上げられて、曲がった心は真っ直ぐにしてもらえます。福音書の日課の最後のところで言われるように、最終的に神の救いを見ることになります。つまり、主の再臨の日、「お前は真に神の側にいて生きてきた」と裁きの主から認められるのです。本日の使徒書の日課フィリピ1章6節で、キリスト信仰者に良い業を始めた神はイエス様の再臨の日にその業を完成させる、と言われていますが、真にその通りです。
主の再臨の日に神が完成させる善き業について、以上は神と人間の関係に関わる善き業でした。説教の終わりに、人間と人間の関係に関わる善き業について見てみます。つまり、私たちのこの世での営みや活動の善き業についても神は完成させられることを述べたく思います。宗教改革のルターが言ったのではないかと考えられている言葉に次のようなものがあります。ある人がルターに聞きました、先生、明日世界が滅亡するとわかったら、今日何をしますか?と。ルターはこう答えたそうです。「そうであっても、私は今日リンゴの木を植えて育て始める。」
明日世界が滅亡するのに今日リンゴの木を植えて育て始めるなんてどうかしていると思われるでしょう。今日植えたリンゴが明日までに実を結べる筈はなく、普通に考えたら全くナンセンスです。ルターはどうしてそんなことを言ったのでしょうか?
それはキリスト信仰の終末論のためです。ただし、終末論と言っても、この世が終わって本当に何もなくなってしまう消滅論ではありません。この世が終わっても次に新しい天と地が創造されて、死から復活させられた者が新しい世の構成員になるという新創造論なのです。終末もありますが、その後も続きがあるのです。まさに再創造あっての終末論、永遠の続きがあることを見据えた終末論です。それなので、およそ神の意思に沿うことであれば、たとえこの世で果たせず未完で終わってしまっても、次に到来する世で創造主の神が完成したものを見せてくれるので、この世で途中で終わっても無意味とか無駄だったということは何もないのです。それで、この世で悪や不正に与せず、それに反対するのが大事なのは、新しい世で正義が完成された状態を満喫できるからです。また、この世で障がい者が出来るだけ普通の社会生活を送れるように支援することが大事なのは、新しい世で天使のようになったその人と出会えるからです。イエス様は復活した者はみな天使のようになるのだと言っていました。明日この世が終わるという時に今日リンゴの木を植えるのが大事なのは、新しい世で実を豊かに実らせているその木に出会えるからです。今日リンゴの木を植えるというのは、今日悪と不正に与せず反対すること、今日障がい者を支援することと同じです。新しい世で実を豊かに実らせる木に出会えるというのは、新しい世で正義が完成された状態を満喫すること、新しい世で天使のようなその人と出会うことと同じです。この世で始められた善い業を神は必ず完成させられるのです。
このように、イエス様の再臨を待ち望むキリスト信仰者は、この世に終わりがあることを意識しているにもかかわらず、この世で果たすべきことをちゃんと果たすことが出来るのです。意識しているにもかかわらず、と言うよりは、まさに意識しているから果たすことが出来るのです。
聖書日課 エレミヤ33章14節-16節、第一テサロニケ3章9-13節、ルカ21章25-36節
待降節第一主日の福音書の日課は以前はイエス様がロバに乗ってエルサレムに入城する箇所が定番でした。その場面ではイエス様を迎えた群衆がホサナと叫びます。ホサナとは旧約聖書の言葉ヘブライ語のホーシィーアンナ―、またはイエス様の時代のユダヤ民族の言葉アラム語のホーシャーナーから来ています。もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統では王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王様、万歳!」というところでしょう。それで、フィンランドやスウェーデンのルター派教会の待降節第一主日の礼拝では讃美歌「ダビデの子、ホサナ」を歌うことが伝統になっています。このスオミ教会でも歌ってきました。
ところが、4年ほど前に日本のルター派教会の聖書日課が改訂されて、待降節第一主日の福音書の個所はイエス様のエルサレム入城ではなくなってしまいました。先ほど読んだように、イエス様がエルサレムに入城した後でこの世の終わりについて預言する箇所になってしまいました。以前は、そういう終末論だとか最後の審判に関する箇所は聖霊降臨後の終わりの頃に集中して、待降節に入ってガラッと雰囲気が変わって心躍るクリスマスに向かうという流れでした。それが今は、待降節になってもまだ終末テーマを続けなければならない。説教者として気が重いです。
でも、よく考えてみると、待降節に終末テーマがあるのはあながち場違いではありません。待降節というのはクリスマスのお祝いを準備する期間です。では、クリスマスは何をお祝いする日なのか?人によってはサンタクロースが来る日をお祝いすると言う人もいますが、サンタクロースはクリスマスのお祝いの付属品です。付属品なので、別に来なくてもクリスマスのお祝い自体に影響はありません。クリスマスとは、神のひとり子が天の父のもとからこの世に贈られて人間として生まれてきたという、信じられないことが2000年少し前の今のイスラエルの地で起こったことをお祝いする日です。その当時、メシアと呼ばれる救世主の到来を待ち望んでいた人たちがいました。マリアに抱かれた幼子のイエス様を見て喜びと感謝に満たされた老人のシメオンややもめのハンナはそうした人たちでした。それで待降節とは、そうしたメシアの到来を待ち望んだ人たちの思いを自分の思いにする期間でもあります。
ところが、この「待ち望む」思いはクリスマスが終わったら終わるものではありません。本当はイエス様を待ち望むことはまだ続くのです。待降節ではそのことも覚えないといけないのです。どういうことかと言うと、イエス様は十字架の死から復活された後、天に上げられましたが、それ以前に自分は再び降臨する、つまり再臨すると言っていたのです。最初の降臨は家畜小屋で起こるというみすぼらしい姿でした。もし天使が羊飼いに知らせなかったら、あるいは不思議な星の動きがなかったなら、誰も気づかなかったでしょう。しかし、次の降臨、すなわち再臨は本日の福音書の個所で言われるように、目がくらむ程の眩しい神の栄光の輝きを伴って天使の軍勢を従えて全世界が目にするものです。その時、聖書の至る所で預言されているように、今ある天と地が崩れ落ち、神が新しい天と地に再創造してそこに神の国が現れ、死者の復活が起こり、誰が神の国に迎え入れられ誰が入れられないか最後の審判が行われる、そういう想像を絶する大変動が起きます。しかも、その審判を行うのが再臨の主イエス様だというのです。
そういうわけで今私たちが生きている時代と空間というのは、実にイエス様の最初の降臨と再臨の間の期間であり空間です。さあ、大変なことになりました。今私たちがいる時代と空間はイエス様の再臨を待つ時代と空間だという。しかも、再臨は最初の降臨みたいに遠い昔の遠い国の家畜小屋で赤ちゃんが生まれたというおとぎ話のような話ではない。そういう可愛らしい降臨だったら待ち望んでもいいという気持ちになりますが、再臨となると、待ち望む気持ちなどわかないというのが大方の気持ちではないでしょうか?だって、イエス様は今度は赤ちゃんとしてではなく、裁きの主として、つまりその時点で生きている人と既に死んでいる人全部を相手に神の国へ入れるかどうかを判定する裁きの主として来られるからです。
天地創造の神の手元には「命の書」なる書物があってそれが最後の審判の時に判定の根拠になることが旧約聖書と新約聖書の双方を通して言われています。全知全能の神は私たちの髪の毛の数も数え上げているくらいの方です。命の書には、地上に存在した全ての人間一人一人について全てのことが記されています。詩篇139篇を繙けばわかるように、神は人間の造り主なので人間のことを徹底的に知り尽くしています。つまり、神は私たちのことを私たち自身よりも良く知っているのです。だから、私たちが自分のことをよりよく知ろうとするなら、心の声に聞くだとかアイデンティティーを追求するだとかはあっちに置いて、私たちの造り主である神の御言葉が詰まっている聖書を繙くのが手っ取り早いということになります。
このように考えていくと最後の審判は恐ろしいです。神聖な神の目から見て自分には至らないところが沢山あったことを神は全て把握している。神とイエス様の御前で私は潔白ですなんてとても言えないのではないか。聖書は、私たち人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持っていることを明らかにします。そんな人間が神から潔白だと認められることがあり得るでしょうか?
それを「あり得る」にするために神はひとり子のイエス様をこの世に贈られたのでした。これも聖書が明らかにしていることです。なぜ神のひとり子が贈られなければならなかったか?それがわかるように、聖書は人間の罪性を明らかにするのです。つまり、イエス様は人間の罪を全て引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げて下さったということです。そこで本当は人間が受けるべき神罰を代わりに受けて死なれたのです。つまり、イエス様は人間の罪の償いを神に対して果たして下さったのです。さらにイエス様は神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、その命に向かう道を人間に切り開いて下さったのです。
このあとは人間の方が、イエス様の十字架と復活は本当に私の罪を償って私を永遠の命に向かわせるためになされたのだとわかって、それでその大役を果たしたイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けるという段取りになります。そうすると、その人はイエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることができます。罪を償ってもらったのだから、その人は神から罪を赦された者として見てもらえます。神から罪を赦されたのだから、これからは神との結びつきを持ててこの世を生きていくことになります。
この世を去る時も神との結びつきは途切れません。保たれたままです。復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠り、復活の日が来たら目覚めさせられて、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちとの再会の場所です。このように洗礼と信仰によって築かれた神との結びつきは、実にこの世と次に到来する世の双方にまたがる結びつきです。
ここで、復活の体について一言申し上げておきます。ルカ21章28章でイエス様は言われます。天地の大変動と自分の再臨が起きる時、怖気づかず勇気をもって顔をあげよと。なぜなら、お前たちの解放の時が近づいたからだと。「解放」とは何からの解放でしょうか?苦難からの解放、罪からの解放、いろいろ考えられます。それらは間違いではないですが、もっと焦点を絞ることが出来ます。アポリュトローシスというギリシャ語の言葉ですが、同じ言葉がローマ8章23節で使われています。新共同訳では「体の贖われること」と訳されていますが、誤解を与える訳です。正しくは「肉の体からの解放」です。肉の体に替わって復活の体を着せられることを意味します。ルカ21章28節の解放も同じことを意味します。お前たちの解放の時が近づいたというのは、復活の体を着せられて神の国に迎え入れられる日が近づいたということです。
そうすると、キリスト信仰者にとって神の国への迎え入れは確実と言っていることになります。最後の審判をクリアーできるというのです。でも、本当に大丈夫なのでしょうか?罪を赦してもらったけれども、それは自分から罪が消滅したのではないことは経験から明らかです。確かに、神から罪を赦された者と見なされて神との結びつきを持てて生きられるようにはなりました。しかし、そのように神の目に適う者とされていながら、また「適う者」に相応しい生き方をしようと希求しながら、現実には神の目に相応しくないことがどうしても自分に出てきてしまう。そういうジレンマがキリスト信仰者にいつもついて回ります。神の意思に反する罪がまだ内に残っている以上は、たとえ行為に出さないで済んでも心の中に現れてきます。神との結びつきを持って生きるようになれば、神の意思に反することに敏感になるのでなおさらです。それなのにどうして最後の審判をクリアーできるのでしょうか?
それは、キリスト信仰者というのは罪を圧し潰す生き方をするからです。信仰者は自分の内にある罪に気づいたとき、それをどうでもいいと思ったり気づかないふりをしたりしません。すぐそれを神に認めて赦しを祈ります。神への立ち返りをするのです。赦しを祈り求めないのは神に背を向けることです。神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き遂げ、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった。わが子イエスの十字架の犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからは罪を犯さないように」と。こうしてキリスト信仰者はまた復活の体と永遠の命が待つ神の国に向かって歩みを続けていきます。
このように罪を自覚して神から赦しを受けることを繰り返していくと、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指すのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。それで私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、神と私たちの結びつきは弱まるどころが逆に一層強められていくので罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。このように生きてきた者が裁きの主の前でする申し開きは次のようになります。「主よ、あなたは私の罪を全部償って下さったので真に私の救い主です。それで私は罪の赦しのお恵みを頂いた者としてそれに相応しく生きようと心がけて生きてきました。ぶれてしまった時もありましたが、その度にいつもこの心がけに戻りました。教会の礼拝を通して、聖餐式を受けることを通して。」これはもう神も悪魔も否定できない真実です。裁きの主は「お前は間違いなく罪を圧し潰す生き方をしてきた」と認めるでしょう。実にイエス様が私たちの救い主である限り、私たちの良心は神の前で何もやましいところがなく潔白でいられるのです。それで主のみ前で何も恐れる必要はないのです。説教の初めに「ホサナ」という言葉はもともと「神よ、救って下さい」と言う意味だったのが、「王様、万歳!」に変ったと申しました。私たちにとっても「ホサナ」は「神よ、救って下さい」だったのが、まさに王の王、イエス様に万歳を叫ぶ言葉になったのです。それで、主の再臨の日に私たちが主に向かって叫ぶに相応しい言葉なのです。
本日のルカ21章33節でイエス様は「天地は滅びるが私の言葉は滅びない」と言われます。「私の言葉」と聞くと、大抵の人はイエス様が語った言葉を考えるでしょう。そうすると聖書の中でイエス様が語っていない言葉はどうなってしまうのか?イエス様が語った言葉より弱くて滅びてしまうのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。「イエス様の言葉」というのは、イエス様が有する言葉、イエス様に帰属する言葉という意味もあります。イエス様が管轄している言葉です。そうするとパウロやペトロの教えもイエス様の管轄下にあるので「イエス様の言葉」で天地が滅びても滅ばない言葉です。イエス様が人間の罪を償って人間を罪と死の支配から贖いだして永遠の命に至る道を歩めるようにして下さった、そのことを証しするのが聖書です。その聖書のみ言葉を信じて生きる者は天地が滅びても滅びず新しい天地の下の神の国に迎え入れられるのです。聖書の言葉は滅ばないから、そうなるのです。
終わりに、罪の赦しという恵みに留まって罪を圧し潰す生き方をするキリスト信仰者は、人間関係において自分を不利にするようなことがいろいろ出てくることについて述べておきます。どうしてそうなるかと言うと、罪の赦しの恵みに留まって生きると、パウロがローマ12章で命じることが当然のことになるからです。命じる必要がないくらいキリスト信仰者の属性になるからです。悪を嫌悪する、善に留まる、お互いに対して心から兄弟愛を示す、互いに敬意を表し合う、迫害する者を祝福する、呪わない、喜ぶ者と共に喜ぶ、泣く者と共に泣く、意見の一致を目指す、尊大な考えは持たない、地位の低い人たちと共にいるように努める、自分で自分を知恵あるものとしない、悪に悪をもって報いない、全ての人にとって良いことのために骨を折る、全ての人と平和な関係を持てるかどうかがキリスト信仰者次第ならば迷わずそうする、自分で復讐しない、正義が損なわれたら最後の審判の時の神の怒りに委ねる、神が報復する、だから、敵が飢えていたら食べさせる、渇いていたら飲ませる、そうすることで敵の頭に燃える炭火を置くことになる。善をもって悪に打ち勝つ。
このような生き方は普通の人から見たらお人好しすぎて損をする生き方です。キリスト信仰者自身、罪の自覚と赦しの繰り返しをしていけばこんなふうになるとわかってはいるが、時々なんでここまでお人好しでなければいけないの?という気持ちになります。しかし、主の再臨の日、信仰者はあの時迷いもあったけれどあれでよかったんだ、世の中の声は違うことを言っていたがそれに倣わなくて良かった、とわかってうれし泣きしてしまうでしょう。それなので主の再臨の日はキリスト信仰者にとってはやはり待ち遠しい日なのです。
イエス様は再臨の日がいつ来ても大丈夫なようにいつも目を覚ましていなさいと命じます。目を覚ますというのはどういうことでしょうか?主の再臨はいつかだろうか、この世の終わりはいつかだろうか、最後の審判はいつかだろうか、といつも気を張り詰めていることでしょうか?そんなことしていたらこの世で普通の生活が送れなくなってしまいます。先ほど申しましたように、最後の審判をクリアーするというのは、この世で罪の自覚と赦しの繰り返しの人生を送り、人間関係の中でお人好し路線を取ったことの終着点です。なので、罪の自覚と赦しの繰り返しとお人好し路線を取ること自体が主の再臨に向けて目を覚ましていることになります。つまるところ、主の再臨を待ち望む生き方というのは、裏を返せば、この世で自分を律して倫理的な生き方をするということです。
主が再臨される時、私たちも「ホサナ!」と歓呼の声をあげましょう。
勉強会:「信仰告白」を学ぶ
飾り付けの楽しいひと時。
ヨハネ18:33―37
「真理は何か」
私の趣味はアマチュア無線で、真空管アンプや古いラジオを作ることです。私は約 50 年間収集しており、少なくとも 300 個はコレクションにあります。大きいものと小さいもの、黒と白、真空管とトランジスタがあります…私は一度、安価でささやかなスクラップを購入したことがあります。ほぼ無料だったので、実際には機能しませんでした。少し修正してみましたが、すぐに飽きてしまいました。安価で小さなメーカーの製品でした。しかし、後になって、そのラジオは確かに価値があり、尊敬されているデンマークの B&O という良いブランドであることに気づきました。このブランドは日本でも販売されています。
– また修理を始めました。外側はきれいでしたが、激しい揺れで内側はかなり傷んでいました。数時間かけて修正しました。約50本のワイヤーが切れており、再接続する必要がありました。ついにラジオが動き始めました。嬉しかったです。努力した分だけ報酬が得られ、価値が上がりました。ということで、このラジオは壊れてしまいました。私たちも、傷ついたり、落ち込んだり、絶望したり、失敗したりすることがあります。私はラジオを直した、誰が直してくれるだろうか?あなたは正しい場所にいます。神はあなたを直すことができます。神は私たちに目的、未来、希望を与えてくれます。
1.今日の聖書の個所を読みましょう。
18章 33節
そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前はユダヤ人の王なのか」と言った。これは難しいです質問です。ピラトはふつうのタイプの王様を考えたでしょう。戦いする、金持ち、良い服を着ている王様だ思います。ピラトはユダいや人の習慣と考え方は理解できませんでした。ピラトは「「私はユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前を私に引き渡したのだ。一体、何をしたのか。」 イエスの考え方はピラトとちがいます。イエスは答えました。
18章 36節
イエスはお答えになった。「私の国は、この世のものではない。もし、この世のものであれば、私をユダヤ人に引き渡さないように、部下が戦ったことだろう。しかし実際、私の国はこの世のものではない。」 王様として、イエスは普通の王様と違います。イエスはこう説明された。
18章 37節
ピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「私が王だとは、あなたが言っていることだ。私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。」 王の王、イエス様は特に人間を救うためにこの世にお生まれになりました。最初の話に戻りましょう。私たちは内面的に傷つき、落ち込んで絶望するだけでなく、神との関係も壊れてしまいます。私たちは神に対して罪を犯しました。誰が私たちと神との関係を修復してくれるでしょうか?答えはイエスです。王の王です。聖書は次のように教えています。
2.イエス様だけ出来ることです。
1:ヨハネによる福音書/ 03章 16節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
贖罪(贖い)と宥め
父からの使命に忠実であったキリストは、その血を流し、その生命を、私たちの贖いのためにお与えになりました。すなわち、罪無きキリストは十字架の上で、苦難を受けられることによって、私たち自身が罪のために受けなければならない罪責と刑罰とを、代わってその身に受け、神の怒りを宥めたのです。このようにしてキリストは、罪と死と悪魔の力に打ち勝ったのであり、キリストの苦難と死こそが、私たちの罪の宥めの犠牲なのです。私たちのために、苦しみを受けました.
神の御恵みについては話しましょう。
イエスは特に失われた者や罪人と交際しました。このことは彼らにとっては大きな慰めでしたが、他の人々には躓きとなりました。しかしイエスはこれによって罪人を求めてこれを救う神の言い尽くし難い愛を示したのです。このように私たちに何らかの価値が無いのに与えられる神の愛が恵みと呼ばれるのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)。「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタイ11:19)。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)。イエスは救い主でいらっしゃいます。わたくしたちはなにをしたらいいでしょうか。答えは。
3.奉仕への贖い
神がその恩恵によって、私たちの罪を赦してくださったために、私たちの内に感謝と愛と信仰による服従心が生まれ、神と隣人とに奉仕するようになります。キリスト者の全生涯は奉仕の生涯であり、このような奉仕の生涯を私たちはキリスト教倫理と呼びます。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(第一ヨハネ4:19)。神様の愛は不思議なことなことですよ。
終わりに。
ピラトは「真理は何か」と言いました。38節です。イエスは答えです。イエスは道であり、真理であり、命であり。イエスに従って、真理がわかる。
祈りましょう
天の父なる神様。あなたの約束のとおりに、私たちもイエスにお会いする希望を持っています。感謝します。イエスが復活されたからです。これは私たちの一番重大切な喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。私たちのよい行いは救いのために必要ではありません。イエスのみ業は完全だからです。私たちの本国の天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。私たちの天国への道を見せてください。私たちを、主をお迎えする心の準備が出来るように、あなたの声を聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音や神様の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。また、隣人を愛せるように、互いに仕え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。御言葉によって、私達の希望を強めて下さい。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
説教題「終末の徴」 2024年11月17日(日)
マルコ福音者13章1~8節
今日、世界の彼方此方で悲惨な戦争が続いています。イスラエルという国はもう長年中東戦争に明け暮れています。神様が旧約聖書の時代からイスラエルの民を神は選ばれて人間の救いの舞台とされて来られた、その民族が戦争をしているのです。世界中の政治と経済に大きな影響を与えるアメリカ大統領にトランプ氏が選ばれました。世界はどうなるでしょうか。
さて今日の聖書でマルコは章のはじめにイエス様がエルサレムの神殿で弟子たちにあまりにも壮大な素晴らしい神殿を見て驚きため息をついて見ているのをご覧になって「これらの大きな建物もやがて全て崩れて壊れてしまう」と予告されたのです。弟子たちは吃驚したでしょう。どうしてそんな事が起こり得ようかと思ったでしょう。この神殿は紀元前20年から建築が始まってイエス様の時代にはまだ完全には出来上がっていなかった、と言われています。この神殿は巨大な石によって基礎作りがなされ、大理石の柱も遠くから運ばれ人々の目を驚かせるほどの素晴らしいものでした。建物全体が相当の量の金の板で覆われていて、日の出の時は眩しくて目を覆うほどであったと言われています。ガリラヤ地方から都エルサレムに出て来た弟子たちは強烈な印象を受けたことでしょう。弟子たちだけでなくごく自然に多くの人々も又まばゆく輝くばかりの壮大な神殿に見とれたことでしょう。過ぎ越しの祭りには彼方此方の外国にいたユダヤの民もこの神殿に来て礼拝したことでしょう。イエス様は弟子たちの神殿を見て驚いている、その様子を見て言われたのです。「これらの大きな建物を見て驚いているのか、しかし一つの石もここで崩されず他の石の上に残ることはない」と言われました。イエス様はエルサレム神殿が悉く崩壊されてしまう、と予告されたのであります。イエス様の予告通り紀元70年にローマ軍によってエレサムは滅ぼされ神殿も崩壊しました。そこでこの歴史的な事実をイエス様は40年も前に予告されたことになるのです。弟子たちの目は神殿建築の大きさ、そこに見る材料に目を奪われていました。しかし、イエス様はあなた方はこの大きな建物だけを見ているのかと問うておられるのです。この神殿にも勝るお方がここにおられる。という事実になぜ目が開かないのかと問うておられるのです。神が私たちの救いのために御子を遣わしになりその十字架の死によって、私たちのすべての罪を完全に贖って下さり、終りの日に私たちをも御子イエス・キリストの復活に与からせてくださる、という永遠に変わることのない神のご計画に目を開かなければならないのです。そうでないとイエス様の言われる言葉がわからない。
3節から場所が変わりまして今度はイエス様と弟子たちはオリブ山から神殿を見ております。そこで4人の弟子が密かにイエス様に尋ねました。「そのことは何時起こるのですか、又その事が実現する時にはどんな徴があるのですか」。はじめの「その事は」いつ起こるのですか、と言う時のその事という意味は勿論神殿崩壊の事です。後の質問の「その事がすべて実現する時、どんな徴があるのか」その事がすべてと言うのは結論的に言えば世の終わりのこと、或いは主の日が近づく時の事でありましょう。ユダヤ人は「主の日」を待望していました。そういう思想が民族に浸透していたと言って良いでしょう。その事は旧約聖書の中でもイザヤ書13章6~13節に表されていると言われています。イザヤ書に「泣き叫べ、主の日が近づく。全能者が破壊する者を送られる。・・・見よ主の日が来る、残忍な怒りと憤りの日が。大地を荒廃させそこから罪人を絶つために。天の諸々の星とその星座は光を放たず太陽は登っても闇に閉ざされ月も光を輝かさない。・・・イザヤ書13:6~13」ユダヤ人は自分たちが神に選ばれた民であると確信していました。終わりの日に神が直接ユダヤ人に栄光を与えて下さる。しかし、その前に恐怖と苦難の時がある、という事をユダヤ人は考えていました。大国の支配を受け苦しい時代に「主の日」の待望はますます強烈なものとなりました。ですからユダヤの人々には大変身近なものであったのでこの思想を多くの比喩的表現を用いて述べてきました。イエス様もお用いになったのであります。
そうしてイエス様は話始められた。5節から8節にマルコは書いています。終わりの日が来る時の徴は何かという弟子たちの質問に対して、イエス様はまず第一に多くの苦難があることを予期せよ、と言われました。その苦難は何かというと偽のキリストの出現である。6節「私の名を名乗る者が大勢現れる、そして多くの人を惑わすだろう。」だから偽りの救い主に惑わされないように警戒せよ。次には戦争や地震、飢餓が起こる。と言うのであります。これらに対して決して慌てるなと言われております。こう言う事は起こるに決まっている。必ず起こると言う。これらの苦しみはどうしても避けられないのだ。と主は言われるのです。しかもこれらの事が起こっても「まだ世の終わり」ではない。と言うのです。弟子たちは何か徴を見ることが出来ればと安易に考えたのでありましょうがイエス様はそういう願いは捨てなさい!信仰を持って耐えなさい、と言われるのであります。まだ終わりは来ないのです。苦しみは悪い方に増すかもしれないがそれはほんの始まりにすぎない。8節で「これらの産みの苦しみの始まりである」という。ユダヤの女性にとって子供を産むということは神の大きな祝福でありました。これまで子供は与えられないと諦めていたのに子供が与えられたという事は大きな喜びであります。その大きな喜びのための苦しみが産みの苦しみであります。この表現は苦しみに耐えるという真に暗示的な表現であります。主の日を迎える前にこれらの苦しみはどうしても耐えなければならないものなのです。
ではその「主の日」を迎える前に起こる様々な出来事、困難な苦しみに耐えるのに具体的にどうしたら良いかをマルコは9節以下23節に渡ってイエス様が警告された言葉を書いています。「あなた方は自分の事に気を付けなさい。あなた方があうであろう様々な迫害に耐えて福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。必ず聖霊が助けてくださる。どんなに苦しい迫害が迫っても福音が宣べ伝えられることを止める事は出来ない。神のご計画は進められるのであります。神がこれをなさる! 終わりの日まで神はこれをなさるのです。キリスト者が迫害にあって捕らえられ証を迫られる時も取り越し苦労をする必要はない、との約束を与えておられます。語るべきことを聖霊が共にいて主イエス・キリストが教えてくださるのであります。それ故最後まで耐え忍ぶであります。14節から具体的場面に遭遇したらどのように行動したら良いのかが力強く語られています。まず偽預言者、偽救い主が立ってはならない、聖所で立って語り始めたら「ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」と主は言われます。一刻を競って危険から逃げなさい。という具体的な勧告です。物を取りに家の中へ入るなとか、屋上にいたら下へ降りるな、兎も角自分の命を粗末にしてはならない。許される限り生き延びよ、と主は言われます。主はご自分の者とするためキリスト者を一人残らず救うため苦難と危機の時を縮めてくださる。ルカ福音書21章28節には「このような事が起こり始めたら身を起こして頭をあげなさい。あなた方の解放の時が近いからだ」。とあります。私たちはこの世で過ごす一週間,一週間を主イエス様が厳しく警告された、言葉の一つ一つを受けとめ信仰によって聖霊の導き助けを持ってあらゆる備えをしてゆかねばならない、という事であります。 アーメン
主日礼拝説教2024年11月10日 聖霊降臨後第25主日
聖書日課 列王記上17章8-16節、ヘブライ9章24-28節、マルコ12章38-44節
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エルサレムの神殿で大勢の人が「賽銭箱」にせわしくお金を入れていました。賽銭箱というと、日本の正月の神社やお寺で大きな箱に向かって人々が硬貨や丸めた紙幣を投げ込むイメージがわきます。エルサレムの神殿の場合は、大きな箱が一つあったのではなく、いろいろな目的のために設けられた箱がいくつかあって、それぞれに動物の角のような形をした硬貨の投げ入れ口があったということです。大勢の人が一度に投げ入れることは出来ないので、一人ひとり次から次へとやって来ては投げ入れて行ったことになります。それで、本日のイエス様のように、箱の近くに座って見ていれば、誰がどれくらい入れたかは容易に識別できたでしょう。
金持ちはもちろん大目にお金を入れますが、一人の貧しいやもめが投げ入れたのは銅貨二枚だけでした。それは1クァドランスというローマ帝国の貨幣に相当すると注釈がされています。これは、この福音書の記者マルコがローマ帝国の市民である読者のために金額がわかるように配慮してつけたのです。それは64分の1デナリ、1デナリは当時の労働者の1日の賃金でした。今、日本で一日8時間働いた最低賃金が9千円位とすれば、その64分の1は140円。それがやめもの投げた金額となります。イエス様は、それは彼女の全財産だと見抜きました。絶対数でみれば、取るに足らない額ですが、相対的にみれば、やもめの生活費全部なので取るに足らないなどととても言えません。そういうわけで、本日の箇所は、供え物の価値を絶対数でみるよりも相対数でみることの大切さを教えているようにみえます。それで、やもめの方が多く捧げた、多くの犠牲を払ったとことになり、一種の美談のように理解されて、あなたも同じように多くの犠牲を払えなどと教えるところも出てくるかもしれません。
しかし、事実はそう単純ではありません。少し考えてみて下さい。この女性はなけなしの金を捧げてしまったのです。その後でどうなるのだろうか、皆さんは気になりませんか?そういうふうに考えると、この箇所は美談というより、本当は悲劇なのではないか。この出来事の悲劇性は、箇所の前後を一緒にあわせて見ると明らかになります。まず、出来事のすぐ前でイエス様は、律法学者たちが偽善者であると批判します。律法学者たちが「やもめの家を食い物にしている」と指摘します(12章40節)。イザヤ書10章をみると、権力の座につく者が社会的弱者を顧みるどころか、一層困窮するような政策を取っていると神が非難しています。そこで「やもめを餌食にしている」として、やもめが略奪の対象になっていることがあげられています。
イエス様の時代に律法学者たちがやもめの家を食い物にしていた、というのはどういうことか?夫を失った女性の地位は不安定で、夫から受け継いだ財産を簡単に失う危険があった、それに対して法律の専門家である律法学者は彼女たちを守るどころか財産を失うようなことに手を貸していたことがあったのか、少なくともそういう事態を放置していたと考えられます。イエス様はそれを批判し、その後で本日の出来事がくるのです。まさに、困窮したやもめがなけなしの金を捧げるのです。そして、本日の個所の続きを見ると、イエス様は舞台となっているエルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言します(マルコ13章1
2節)。貧しい人が大きな痛みを伴う献金をしているのに、余裕のある人たちは痛みを伴わない程度の献金で良かれと思っている。そんな不公平を放置している神殿はもう存在に値しないというのです。そして実際に、イエス様の預言通りに、エルサレムの神殿は40年後の西暦70年にエルサレムの町共々、ローマ帝国の大軍の攻撃を受けて破壊されてしまいました。
このようにイエス様はこれを美談としてではなく悲劇と捉えていると思われるのですが、それでも、やもめの捧げ物は金持ちの捧げ物よりも価値があると認めているとも言えます。やもめは金持ちよりも多く払ったと言います。裏を返せば、金持ちは少ししか払わなかった、不十分だということです。やもめは多く払った、十分払ったということです。その場合、何に対して十分なのか、不十分なのか?神に目をかけてもらって恩恵を得られるために十分、不十分ということなのでしょうか?
いいえ、そういうことではありません。よく見て下さい。イエス様は全額捧げたやもめが天国に近いとか言っていません。イエス様にしてみれば、神に捧げることは大事なことであるが、ただし、捧げものをして神から恩恵を受けようとするような、そんな見返りを求める捧げ方に反対なのです。そんな仕方で捧げたら神殿の礼拝の論理とかわらなくなります。神に捧げることは大事なことであるが、見返りを得るために捧げるのではない、しかも、捧げるからには持てるもの全てを捧げることが当然になるような捧げ方、それでも見返りは求めないという、そんな前代未聞の神への捧げ、それをイエス様は考えていたのであり、それが実際に行われるようになるためにイエス様はこの世に送られてきたのです。やもめの100%の捧げは、そのような新しい捧げ方を先取りするものでした。イエス様はやもめの捧げにそれを見て取ったのです。そして、イエス様は人間の神への捧げを全く新しい方向に導くことをこの後でやったのです。一体、何をされたのでしょうか?
その答えは、本日の使徒書「ヘブライ人への手紙」9章24ー28節の中にあります。そこには、神殿の礼拝にかわる新しい礼拝のかたちが記されています。まず、エルサレムの神殿の大祭司たちは、生け贄となる動物の血を携えて神殿中の最も神聖な場所、至聖所に入って神のみ前で自分自身の罪と民全体の罪の双方を償う儀式を毎年行っていました。それに対して、神のひとり子イエス・キリストは、自分自身は償う罪など何もない神聖な神のひとり子でありながら、全ての人間の全ての罪を一度に全部償うために自分自身を犠牲の生け贄にして捧げ、十字架の上で血を流されました。神のひとり子の神聖な犠牲ですので、1回限りで十分です。数えきれない動物の生贄の血などとは比べることができない尊い血を流されたのです。それなので、もし神と執り成しをするために何かまた犠牲を捧げなければいけないと考える人は、神のひとり子の犠牲では物足りないと言うことになってしまい、神を冒涜することになるのです。それくらいイエス様の犠牲は神聖なものなのです。
そういうわけで、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。さらに、一度死んだイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る道を人間のために切り開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の果たした罪の償いがその人のその通りになります。罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者として見なされるようになります。神から罪を赦されたので、かつて堕罪の時に崩れてしまった神との結びつきを回復します。神との結びつきを回復したら、ただちに永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。そうして人生、順境の時も逆境の時もいつも変わらない守りと導きを神から頂きながら道を進みます。この世から別れる時も神との結びつきを持ったまま別れ、復活の日が来たら目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられます。これがキリスト信仰の「罪の赦しの救い」の全容です。
このような計り知れない救いを受けることになった私たちはどうなるのでしょうか?もう神から見返りを受けるために何かを捧げる必要はなくなりました。なぜなら、私たちの方で何も捧げていないのに、神の方でさっさと捧げることをしてしまって、こうして出来き上がった恩恵を受け取りなさいと差し出してくれて、私たちはただあっけにとられてそれを受け取ったにすぎないからです。本当に私たちはこの恩恵を受け取れるために何も捧げていないのです。神が捧げ物を準備して捧げを実行してしまったのです!こんなことがあっていいのでしょうか?天地創造の神が恵み深いというのはまさにこのためです!
恩恵をあっさりと受け取ってしまった私たちは、どうなるのでしょうか?私たちが神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになるために神はイエス様の償いと贖いを私たちに与えて下さいました。そのもとで、私たちが御国への道を歩めるように日々の糧や様々な賜物を備えて下さいます。なので、財産や賜物など自分に備わっているものは全て恵み深い神からの贈り物に他なりません。贈り物ではありますが、自分の好き勝手に使ったり浪費してよいのではなく、自分が御国への道を歩むのに必要なものに用いる、隣人がその道を歩めるために何か足りなければその人のために用いる。全ては道を歩む自分と隣人の必要のために正しく用いなさいと神から委ねられているのです。
このように財産や賜物が全て神から委ねられたものであるということは十字架と復活の後、理論的に明らかになりますが、それが実践的に行われるようになったことが使徒言行録の3章に記されています。聖霊降臨の後で最初のキリスト信仰者たちが各自、全財産を持ち寄って、人々の必要に応じて分け与えることを始めました。十字架と復活の前にイエス様がエルサレムの神殿で目に留めたやもめが行ったことを、今度は罪を償われ罪から贖われた者たちが実践し始めたのです。彼らは神から見返りの恩恵を得るためにそうしたのではありませんでした。ちょうどやもめがそうしなかったように。彼らにとって財産や賜物は全て神からの贈り物になったのです。やもめにとってもそうであったように。聖霊降臨後に誕生した最初の教会は何も財産を持たない使徒たちを中心に洗礼を受けた人の集まりから始まりました。組織も整っておらず財政的基盤もありません。群れに加わった人たちには余裕のある人だけでなく、貧しい人も大勢いたのでした。それで御国への道の歩みをお互いに支え合うことができるように急きょ私有財産の共有を始めたのでした。何か政治的、唯物論的なイデオロギーの実践ではありません。復活の体や永遠の命という、老若男女、貧しい人金持ちの人みんなが共通して持った目的地に一人も落ちこぼれずにみんなが到達できるためにそうしたのでした。
ここで、持ち金全部を捧げたやもめはどうなったか、思いを馳せてみましょう。彼女の存在はイエス様の目に留まりました。なので、彼女は神の守りと導きの手に委ねられ、きっと神が送った助け人の支えを受けたに違いない、と私は信じます。イエス様がやもめを目撃したのは十字架と復活の出来事の少し前でした。そして、最初のキリスト信仰者たちが私有財産を共有したのは聖霊降臨後間もない頃です。イエス様の復活から聖霊降臨まで50日あります。なので、イエス様がやもめを目撃してからキリスト信仰者の財産共有まで2ヶ月位あります。その間、やもめは神が送った人の助けを受けたに違いないと私は信じます。本日の旧約聖書の日課では、飢饉の最中にやもめがなけなしの小麦粉を使って預言者エリアにパンを焼いた出来事がありました。やもめの小麦粉はその後も壺からなくならず、家族は食べ物に困らなかったという奇跡が起きました。エルサレムの神殿のやもめも神殿に参拝に来ていた人たちも皆この出来事を知っていたはずです。エリアの出来事が起こって聖書に記録されたのは、まさに神には不可能なことはないという信仰の証しでした。この証しを心で受け止めて、神の手足となってやもめの世話をした人はいたと信じます。
終わりに、勧めと励ましの言葉として3つのことを申し上げます。一つは、私たちには私たちのことを全てご存じな神がついていらっしゃるので大丈夫ということです。金持ちは誰一人、やもめが捧げたものは彼女の持ち金全部だったとは知りません。人間というのは、いかに多くか、どう見えるかということで物事を判断し評価してしまいます。物事がその人にどんな意味があったか、とか、その人はどんなプロセスを経なければならなかったかは見過ごしてしまいがちです。注意して見ても見極めることは出来ません。しかし、私たちの神は人間が見過ごすことも見極められないことも全て一つ残らず見届けています。まさに神のひとり子イエス様がやもめの捧げ物が彼女にとってどんな意味があったかをご存じだったように。私たちに関する全てのことは「命の書」に良く正しく完全に記録されます。人の目に見過ごされてしまったこと見極められなかったことに神は目を注がれ、過小評価されてしまったものを賞賛し、歪曲されてしまったものを訂正されます。このように私たちの恵み深い神は憐れみと正義の神でもあります。そのような神がついていて下さるのです。
二つ目は、私たちキリスト信仰者は御国の道の歩みを続けられるようにお互いに支え合わなければならないということです。今、私有財産を手にしてはいても、心の中ではこれは神から委ねられた贈り物である、もし神が時を示したら、隣人が御国への歩みを続けるのを、または道に入れるのを支えるために持てるものを捧げなければならない、と心の中で準備しておかねばなりません。
そう言うと、財産を自分の好きなことに使ってはいけないのかと言われてしまうかもしれません。そこはこう考えたらどうでしょう?例えば、時々、旅行に出かけて素晴らしい景色を見たり、美味しい料理を味わったりするのは、それが御国の道の歩みの励ましになったり慰めになって歩む力になると。そのような機会が与えられたことを神に感謝して使うのだと。とにかく自分の歩む力を強めることは、隣人の歩みを支えてあげられるために大事なことです。
三つ目は、御国の道の歩みでお互いに支え合うということは、毎週日曜日の礼拝でも実践しています。神の御言葉と説教を聞いて罪の赦しの恵みに留まる力をみんなで得ます。恵みに留まる限り、財産や賜物は全て神からの贈り物であることもその通りであり続けます。聖餐式ではパンとぶどう酒の形を通してみんなでイエス様を頂きます。神の恵みと愛を口で味わいます。神からの霊的な糧です。そして、そのような礼拝を行う教会を支えるためにみんなで献金をします。それもお互いに道の歩みを支え合うということです。
聖書日課 イザヤ25章6-9節、黙示録21章1-6節、ヨハネ11章32-44節
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課はイエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行った出来事です。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。その中で会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とある未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の出来事は詳しく記されています。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも亡くなった方を想う時に「安らかに眠って下さい」と言うことがあります。しかし、大方は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」と言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。キリスト信仰では本気で眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?と心配する人が出てくるかもしれません。しかし、キリスト信仰では心配無用です。天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神が見守ってくれるからです。
キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、死からの「復活」があると信じるからです。復活とは、本日の日課の前でマリアの姉妹マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです(21節)。この世の終わりとは何か?聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まった、それが今日の黙示録21章の1節で言われるように、神が全てを新しく造り直す時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。ただし天と地は新しく造り直されるので、この世が終わっても新しい世が始まります。なんだか途方もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点とはそういう途方もないものなのです。死者の復活は、まさに今の世が終わって新しい世が始まる境目に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言ったのは、復活とは眠りから目覚めることと同じだという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになるのです。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、イエス様が生き返らせた人たちは「復活」ではないということです。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられることが復活です。ところが、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんなまだ肉体がそのままなので「復活」ではありません。時々、イエス様はラザロを復活させたと言う人もいるのですが正確ではありません。「蘇生」が正解でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。いずれにしても、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんな後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今は神のみぞ知る場所にて「眠って」いて復活の日を待っているのです。
本日の説教では、このキリスト信仰に特異な復活信仰について、本日の他の日課イザヤ25章と黙示録21章をもとに深めてみようと思います。深めた後で、なぜイエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行ったのか、それが復活とどう関係するのかということを考えてみようと思います。
復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられた者は神の御許に迎え入れられる、その迎え入れられるところが「神の国」ないしは「天の国」、天国です。黙示録21章で言われるように、それは天から下ってきます。しかも下ってくる先は今私たちを取り巻いている天地ではなく、それらを廃棄して新たに創造された天と地です。その迎え入れられるところはどんなところか?聖書にはいろいろなことが言われています。黙示録21章では、神が全ての涙を拭われるところ、死も苦しみも嘆きも悲しみもないところと言われています。「全ての涙」とは痛みや苦しみの涙、無念の涙を含む全ての涙です。
特に無念の涙が拭われるというのはこの世で被ってしまった不正や不正義が完全に清算されるということです。この世でキリスト教徒を真面目にやっていたら、世の反発や不正義を被るリスクが一気に高まります。どうしてかと言うと、創造主の神を唯一の神として拝んだり、神を大切に考えて礼拝を守っていたら、そうさせないようにする力が働くからです。また、イエス様やパウロが命じるように、危害をもたらす者に復讐してはならない、祝福を祈れ、悪に悪をもって報いてはならない、善をもって報いよ、そんなことをしていたら、たちまち逆手に取られたり、つけ入れられたりして不利益を被ります。しかし、この世で被った反発や不正義が大きければ大きいほど、復活の日に清算される値も大きくなります。それで、この世で神の意思に沿うように生きようとして苦しんだことは無駄でも無意味でもなかったということがはっきりします。
まさにそのために復活の日は神が主催する盛大なお祝いの日でもあります。黙示録19章やマタイ22章で神の国が結婚式の祝宴に例えられています。神の御許に迎え入れられた者はこのように神からお祝いされるのです。天地創造の神がこの世での労苦を全て労って下さるのです。真に究極の労いです。
本日の旧約の日課イザヤ書25章でも復活の日の祝宴のことが言われています。一見すると何の祝宴かわかりにくいです。しかし、8節で「主は死を永遠に滅ぼされた、全ての顔から涙を拭われた」と言うので、復活の日の神の国での祝宴を意味するのは間違いありません。そうわかれば難しい7節もわかります。「主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼした。」布を滅ぼすとは一体何のことか?この節のヘブライ語原文を直訳すると、「主はこの山で諸国民を覆っている表面のものと諸民族を覆っている織られたものを消滅させる」です。「覆っているもの」というのは人間が纏っている肉の体を意味します。どうしてそんなことが言えるかというと、詩篇139篇13節に「私は母の胎内の中で織られるようにして造られた」とあるからです。ヘブライ語原文ではちゃんと「織物を織る」という動詞(נסך)が使われています。なのに、新共同訳では「組み立てられる」と訳されておもちゃのレゴみたいになって織物のイメージが失われてしまいました。今見ているイザヤ書25章7節でも同じ「織物を織る」動詞(נסך)が使われていて人間が纏っているものを「織られたもの」と表現しています。それが消滅するというのは、復活の日に肉の体が復活の体に取って代わられることを意味します。
人間が纏っている肉の体は神が織物を織るように造ったという考え方は、パウロも受け継いでいます。第二コリント5章でパウロはこの世で人間が纏っている肉の体を幕屋と言います。幕屋はテントのことですが、当時は化学繊維などないので織った織物で作りました。まさにテント作りをしていたパウロならではの比喩です。幕屋/テントが打ち破られるように肉の体が朽ち果てても、人の手によらない天の衣服が神から与えられるので裸にはならないと言います。まさに復活の体のことです。
次になぜイエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行ったのか、それが復活とどう関係するのか見ていきましょう。
そのため少し本日の日課の前の部分に立ち戻らなければなりません。イエス様とマルタの対話の部分です。兄弟ラザロを失って悲しみに暮れているマルタにイエス様は聞きました。お前は私が復活の日に私を信じる者を復活させて永遠の命に与らせることが出来ると信じるか?マルタの答えは、「はい、主よ、私はあなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております」。(27節)
マルタの答えで一つ注意すべきことがあります。それは、イエス様のことを神の子、メシア救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語原文の正確な意味は(ギリシャ語の現在完了です)「過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。つまり、今イエス様と対話しているうちにわかって信じるようになったということではありません。ずっと前から信じていたということです。このことに気づくとイエス様の話の導き方が見えてきます。つまり、マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れている。将来復活というものが起きて、そこで兄と再会できることはわかってはいた。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと認めたくない、出来ることなら今すぐ生き返ってほしいと願うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても遠い世界の話か気休めにしか聞こえないでしょう。
しかし、復活信仰には死の引き裂く力を上回る力があります。復活そのものが死を上回るものだからです。どうしたら復活信仰を持つことが出来るでしょうか?それは、神がひとり子を用いて私たち人間に何をして下さったかを知れば持つことができます。私たちは聖書を読むと、自分の内には神の意思に反しようとする罪があって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっていることが見えてきます。そうした罪は人間なら誰しもが生まれながらに持ってしまっているというのが聖書の立場です。人間が創造主の神と結びつきを持ててこの世を生きられるようにしたい、この世から別れた後も神のもとに永遠に戻れるようにしたい、そのためには結びつきを持てなくさせている罪をどうにかしなければならない、まさにその解決のために神はひとり子をこの世に贈り、彼に人間の罪を全て負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせ、そこで人間に代わって神罰を受けさせて罪の償いを果たしてくれたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、その命に至る道を人間に切り開かれました。まさにイエス様は「復活であり、永遠の命」なのです。
神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける番になります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪を償ってもらったということは、これからは神の罪の赦しのお恵みの中で生きるということです。たとえ罪の自覚が生じても、自分には罪を圧し潰す偉大な力がついていてくれているとわかるので安心して人生を歩むことができます。目指す目的地は、死を超えた永遠の命と神の栄光を現わす体が与えられる復活です。そこでは死はもはや紙屑か塵同様です。神から頂いた罪の赦しのお恵みから外れずそこに留まっていれば神との結びつきはそのままです。この結びつきを持って歩むならば死は私たちの復活到達を妨害できません。
マルタは復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活に与らせて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまう程でした。今すぐ生き返ることを望むくらいでした。これはキリスト信仰者でもそうなります。しかし、マルタはイエス様との対話を通して、一時弱まった復活と永遠の命の希望が戻ったのです。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認できて見失っていたものを取り戻したのです。兄を失った悲しみは消えないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげも鋭さを失って鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰に留まるだけです。
ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからそのご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかです。ここが大事な点です。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。
それにもかかわらずイエス様が生き返りを行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼には復活の目覚めさせをする力があること、これを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。
このようにラザロの生き返らせの奇跡は、イエス様が死んだ者を蘇生する力があることを示すこと自体が目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の両方をもって、自分が復活であり永遠の命であることを示したのでした。イエス様はラザロを生き返らせる前に神に祈りました。その時、周りにいる人たちがイエス様のことを神が遣わした方だと信じるようになるため、と言われました。これを聞くと大抵の人は、イエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行えば、みんなは、イエス様はすごい!本当に神さまから遣わされた方だ、と信じるようになる、そのことを言っていると思うでしょう。ところが、それは浅い理解です。今まで見てきたことを振り返れば、そうではないことがわかります。イエス様がラザロをはじめ多くの死んだ人たちを生き返らせたのは、イエス様にとって死とは復活の日までの眠りにすぎず、彼には復活の日に目覚めさせる力があることを知らせるために行ったのでした。それを知ることでイエス様は本当に神から遣わされた方だと信じるようになる、そのことを言っているのです。キリスト信仰とは、つまるところ復活信仰であることを知らせるために神はひとり子をこの世に遣わし、死者を生き返らせたのです。
最後にイエス様が涙を流したことについてしてひと言述べておきます。イエス様はマリアや一緒にいた人々が泣いているのを見て、「心に憤りを覚え、興奮した」とあります。イエス様は何を怒って興奮したのか?ギリシャ語の原文はそうも訳せますが、感情を抑えきれない状態になって動揺したとか、深く心が揺り動かされて動揺したとか、感極まって動揺したとも訳せます。フィンランド語の聖書はそう訳しています。私もその方がいいかなと思います。イエス様はラザロと二姉妹がいるべタニアに行く前、自分はラザロを生き返らせると自信たっぷりでした(11節)。それなら、泣いているマリアや人々に対しても同じ調子で落ち着き払って「泣かなくてもよい、今ラザロを生き返らせてあげよう」と言えばよかったのです。しかし、そうならなかった。イエス様はみんなが悲しんで泣いているのを見て、悲しみを共感してしまったのです。まさにヘブライ4章15節で言われるように、イエス様は「私たちの弱さに同情できない方ではない」ことが本当のこととして示されたのです。
イエス様は、一方で神のひとり子として死者を生き返らせる力がある、自分が父に願えば父は叶えて下さるとわかっていながら、他方ではそのわかっていることをもってさえしても、共感した悲しみを抑えることはできなかったのです。それなので、ラザロを生き返らせる前に神に祈った時は、一方で自分を覆いつくした大きな悲しみ、他方で神は大きな悲しみよりも大きなことを行ってくれるという信頼、この相反する二つのものが競り合う中での祈りだったと思います。しかし、信頼が勝ちました。それを表すかのような大声で「ラザロ、出てきなさい!」と叫んだのです。私たちも困難の時、神に助けを祈る時は心配と信頼が競り合います。しかし、祈ることで信頼が勝っていることを神に対しても自分に対しても示すことが出来ます。ヘブライ4章16節はまさに信頼が勝つように励ましてくれる聖句です。「だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜になかった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
マルコによる福音書 10:46~52 2024・10月27日(日)スオミ教会
説経題「盲人の癒し」
今日の聖書はマルコ福音書10章46~52節です。ここでは目の見えないバルティマイという男をイエス様が見えるように癒された奇跡の出来事です。46節を見ますと〔一行はエリコの町に着いた、イエスが弟子たちや大勢の群集と一緒にエリコを出て行こうとされた時、ティマイの子でバルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。〕目の見えないバルティマイという男は恐らく生まれつき目が見えない中で20年か~30年間、全く何も見えない手探りの暗闇の世界で何も出来ないから道端に座って物乞いをして生きてきたのでしょう。私たちは、ただ読むだけで想像しますが、彼の真っ暗な世界をとても、とても想像を絶する危難の一日、一日を過ごしてきたことでしょう。私たちは、それぞれの人生の歩みの中で、やはり色々な病気をします。ある日突然苦しい目に会います、或いは予想だにしなかった痛い目に会って時としてこの突然の自分ではどうにもならない難しい問題に直面します。まだ、何とかなるのではないだろうかと思いめぐらすくらいなら距離をおいて病院へ行かねばと思ったり、薬で暫く様子を見ようとしたり、まだ「神様助けてください」と叫ぶまでに大分距離があります。しかしどうでしょう、エリコの町で物乞いをしなければ生きて行けないバルティマイという男はこの世に生まれた時から真っ暗な世界です。信仰深い人たちは病気も神様からの賜物、神様から与えられた試練である、と思うかもしれません。その病気がある程度したら入院をしたり薬で治まったとしてもある程度の距離をおいて、そのうち平常の人間らしい生き方へ戻るでしょう。しかしバルティマイは全く違う、どうにもならない暗闇です。何のために生まれて来たのか、どんなに親を恨んだでしょう。これからどうなって行くのか全くわからない。そういう彼に今イエス様の一行が近づいて通り過ぎようとしている!バルティマイはそこに居合わせました。彼は来る日も、来る日も道端に座って物乞いをしている。その傍らを病気をたちどころに癒す奇跡の業を起こされる、というナザレのイエスが通りかかろうとされている。彼は叫びだしました、「ダビデの子、イエスよ私を憐れんでください。」この瞬間の以前に以後、エリコの道端には他にも盲人の人が座っていたかもしれません。しかし、バルティマイが偶々座っていた、その時主イエス様が傍らを通り過ぎようとされている。この時しかない。一生をかけてイエス様に出会う時はこの時とばかりに叫びだすのです。彼は千載一遇のチャンスを逃しませんでした。彼の癒しの奇跡の最初のポイントは主イエス様との出会いであります。彼はこの出会いを逃さなかったのです。多くの人が何故私には小さな奇跡でも起こらないのだろう。「祈っても、祈っても願いどおりにイエス様はみ業を起こしてくださらない」と嘆きます。案外イエス様はその人の傍らを通り過ぎておられるにもかかわらず自分自身の事に拘りすぎて主の方に向こうとしないまま主イエス様との千載一遇のチャンスをむざむざ失っているのかも知れません。私たちは生まれながらの目が見えないバルティマイより、あまりにも恵まれていないでしょうか、目に見えているのに一番関心のイエス様、そのものがどれだけ見えているでしょうか。バルティマイは全く見えないにもかかわらず今イエス様と出会って一番大事なものを見ようとしている。彼は死にもの狂いで叫び続けるのです。「ダビデの子、イエスよ私を憐れんでください!」それは率直な叫びでした。何の損得もない、ただ一心に憐れみを乞う叫びだけです。「ダビデの子」と呼んだからにはイエス様こそ私の救い主という思いがあったことでしょう。そして神様は憐れみに富み給うお方であると信じ、暗黒の中にいるにもかかわらず、その憐れみを信じ乞うたのです。旧約聖書 イザヤ書50章10節には「お前たちのうちには、主を畏れ主の僕に聞き従う者がいるであろうか。闇の中を歩く時も、光のない時も主のみ名を信頼し、その神を支えとする者がいるであろうか」とあります。彼は自分の悲惨な現実から神様の愛を推し量ることはせず、この暗闇から自分を解放してくださる神様の憐れみの深さを信頼したのです。神様の愛を信じ願った彼の信仰は的を得たものでした。けれども多くの周りの者たちは彼の叫びを不快に思い彼を叱り黙らせようとしました。バルティマイは怯まず叫び続けます。この時をおいてチャンスはない、誰が何と言おうと今この方にこそ救いを求める他はない。なりふり構わず叫び続けました。私たちは顧みて彼ほどの必死になって本当に主を求めているでしょうか。生命の危機にあれば求めることでしょう。バルティマイはついに主イエスを立ち止まらせる事に成功しました。主イエス様は「あの男を呼んできなさい」とお命じになったのです。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」「安心しなさい」という言葉は「勇気を出して」とも訳せます。今まで道端に座り込んで物乞いしなければ生きて行かれなかった者が勇気を出して立ち上がったのです。主の呼びかけに従って答えたのです。もはやためらう事はありません。ほかならぬ主イエス様が呼んでおられるのです。バルティマイは上着を脱ぎ捨て踊りあがって主のもとに行きました。今、私の声は主に届いた。もう暗闇は私を支配することはない!その彼に向かってイエス様は「何をして欲しいのか」と尋ねられます。何をして欲しいのかですって?イエス様が彼の願いを知らないはずがありません。しかし,あえて主イエス様は問われるのです。それは彼自らがその願いを言葉に出して言う必要があるからです。そしてその願いが的を得たものであるか、外れたものであるか、吟味される必要があるからです。そうしてイエス様は言われました。「行きなさい、あなたの信仰があなたを救われた」。すると彼はすぐさま見えるようになった。そしてイエスに従ったのであります。彼が癒されたのは病院の医者でもない学者でもない占い師でもない、ダビデの子メシア救い主が癒して下さる。そのお方に止められようとも黙らされようとも、どんなことをしても必死で近づこうとするバルティマイの信仰にこそ主は目をとめられたのです。彼にとって神様はどんな方として信じられていたのでしょう。「愛」のお方なのです。必ずこの私を憐れんで下さるにちがいない。生まれながらの暗闇に苦しむこの難問は主のみ心ではない、むしろ主なる神は光を給い、人を生かされる愛のお方なのです。この信仰が彼を勇気づけ叫び続けさせ彼を救いへと導いたのです。「神は愛なり」との信仰がどんな暗闇にも希望の光を差し込む癒しの方なのです。どうにもしょうがないんだよ、と言う人間が作り出す勝手な常識を打ち破ったところに奇跡の業が起きているのです。神様は御子を十字架にかけてまで私たち一人一人を愛してくださったのです。私たち人間の常識を超えて神様は私たちに愛を注いで下さり病にも悩みにも癒しの愛を注いで下さって、私たちを苦しみから救いたいと願っておられるのであります。バルティマイは溢れる光の中を喜びと感謝に溢れて生きたことでしょう。この奇跡の出来事はエリコの町で起こされました。エリコの町は荒野の中のオアシスとして緑あふれる恵みの町であります。バルティマイに起こった全てを象徴するエリコであります。 <人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン>
主日礼拝説教 2024年10月20日 聖霊降臨後第22主日
聖書日課 イザヤ53章4-12節、ヘブライ5章1-10節、マルコ10章35-45節
イエス様の弟子のヤコブとヨハネがイエス様に聞きました。「栄光をお受けになる時、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」つまり、あなたが栄光の王座についたら私たちを右大臣、左大臣にして下さいとお願いしたのです。この抜け駆けに他の弟子たちが憤慨し、それをイエス様が諫めて言います。偉くなりたい者は皆に仕える者になれ、いちばん上になりたい者は全ての人の僕になれ(ギリシャ語のδουλοςは「奴隷」の意味もあります)になれ、と。これを読んだ人の多くは、ああ、イエスは人のために尽くす人こそ偉い人なんだと教えているんだな、地位の高い人は謙虚になれと教えているんだな、と思うでしょう。(日本は今衆院選の真っ最中です。候補者に聞かせてやりたいと思う人もいるでしょう。実はこの個所はちょうど3年前の10月にもありました。その時も衆院選がありました。天のみ神はよほどこの聖句を国権の最高機関を目指す人たちに知らしめたいのでしょう。)
しかしながら、人のために尽くすことが偉いとか、地位の高い人は謙虚たれという教え自体は別にキリスト教でなくても、他の宗教でもまたは無宗教の人にも見られる道徳です。イエス様はそういう一般的な道徳を教えるためにわざわざこの世に来られたのではありませんでした。それでは、なんのために来られたのか?答えは本日の個所の最後にあります。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」イエス様が自分の命を身代金として捧げるというのはどういうことか?確かにイエス様はゴルゴタの十字架で死なれましたが、それが身代金を払う行為であり人に仕えることだというのは、どういうことなのでしょうか?今日はこのことを明らかにしていこうと思います。
まず、ヤコブとヨハネがイエス様に大臣にして下さいとお願いする直前に何があったか見てみます。イエス様はエルサレムで起こる自分の受難と死そして死からの復活について予告しました。予告は本日の日課にはありませんが、この直ぐ後で二人は閣僚ポストを要求したのです。二人はイエス様の予告を聞いて、いよいよイエス様を王に戴く神の国が実現すると直感したのでした。それでは、イエス様の死と復活が神の国の到来とどう関係するのでしょうか?3年前の説教でお教えしたことですが、駆け足で復習します。
イエス様が地上で活動された時代のユダヤ教社会では、民族の将来について次のような期待が抱かれていました。かつてのダビデのような王が現れて、ダビデ家系の王がみなそうだったように油を注がれて聖別された王になる。メシアとはもともとは聖別の油を注がれた者を意味しました。その新しい王メシアがユダヤ民族を支配しているローマ帝国を打ち破って王国を再興してくれる、そして諸国に大号令をかけて従わせる、こうして世界に神の国イスラエルを中心とする平和を実現させる、そういう壮大な期待です。そのような期待が抱かれたのは、旧約聖書にそのことを預言しているとみられる箇所がいろいろあるからです。例えばミカ書5章には、ベツレヘムからユダ族出身の支配者が現れて外国勢力を打ち破るという預言があります。イザヤ書11章には、ダビデ家系の子孫が現れて天地創造の神の意思に基づく秩序を世界に打ち立てるという預言、同じイザヤ書2章には、世界の諸国民が神を崇拝しにこぞってエルサレムにやってくるという預言があります。
これらの預言をみれば、将来ダビデ家系から偉大な王が現れて外国勢力を追い払って王国を復興し、世界に大号令をかけるという期待が生まれたとしても不思議ではありません。ところで、このようなダビデ家系の王が王国を復興するという考えは、現世に実現するものです。王も現世的な王です。ところが、当時のユダヤ教社会には、メシアや王国についてもっと違った考えもありました。それは、今あるこの世はいつか終わりを告げる、その時、今ある天と地は創造主の神が新しい天と地に再創造する、その時、今存在するものは崩れ去り、ただ一つ崩れ去らない神の国が現れる。まさにこの天地大変動の時に死者の復活が起こり、創造主の神に義とされた者は神の国に迎え入れられる、というこれまた壮大な考えです。この一連の大変動の時に神の手足となって指導的な役割を果たすのがメシアでした。現世的なメシアと王国復興の考えとは異なる、終末論的なメシアと神の国の考えです。このような考えを示す書物が、紀元前2,3世紀からイエス様の時代にかけてのユダヤ教社会に多数現れました(例として、エノク書、モーセの遺言、ソロモンの詩編があげられます。さらに死海文書の中にも同じような考え方が見られます)。
どうしてそういう終末論的な考えがあったかというと、実はこれも旧約聖書にそういうことを預言している箇所があるからです。今ある天と地が新しい天と地にとってかわられるというのは、イザヤ書65章、66章にあります。死者の復活と神の国への迎え入れについてはダニエル書12章、今の世の終わりの時に指導的な役割を果たす者が現れるということはダニエル書7章にあります。この考えに立つと、それまで現世的な王が現世的な王国を復興すると言っているように見えた旧約聖書の預言は、実は次に到来する世の出来事を意味するというふうに理解が組み替えられていきます。終末論的なメシアや神の国の考えからすれば、現世的なメシアや王国復興の考えはまだ旧約聖書の預言をしっかり読み込めていないことになります。
こうしてみるとヤコブとヨハネはイエス様の死と復活の預言を聞いて神の国の到来を直感したので、終末論的な神の国の考えを持っていたと言えます。しかし、彼らのメシアと神の国の理解はまだ正確ではありませんでした。彼らは神の国は死者の復活に関係があるとわかってはいても、その国は現世の国のように位の高い者と低い者の序列があると思ったようです。それで自分たちを大臣にして下さいとお願いしたのでした。イエス様は、神の国はそういうものではないと教えます。お前たちの間で偉大な者になりたい者は互いに仕える者になれ、お前たちの間でいちばん上になりたい者は全ての人の僕(奴隷)になれ、と。そして、大事な言葉が続きます。「人の子は仕えられるために来たのではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」イエス様が多くの人の身代金として自分の命を捧げるというのはどういうことか、次に見てみましょう。
身代金とは、誘拐事件や人質事件のような忌まわしい事件が起こった時に、捕らわれた人を解放するために犯人に渡すお金を意味します。イエス様が多くの人のために自分の命を身代金として捧げたというのは、人が捕らわれた状態にあったので、そこから解放するために捧げたということです。では人は何に捕らわれた状態にあっだのでしょうか?そこから解放されたらどんな状態になるのでしょうか?
まさのこのことについて明らかにするのが聖書です。人間は罪に捕らわれた状態にあると聖書は教えます。罪と言うと、普通は何か犯罪を犯すことを考えます。何も犯罪を犯していないのに、キリスト教は人間のことを罪びと罪びとと言うので嫌がられます。しかし、聖書でいう罪とは、神の意思に反しようとする、人間誰もが持ってしまっている性向を意味します。十戒の中に「汝殺すなかれ」という掟があります。イエス様が教えたように、実際に人を殺さなくても、心の中で相手を憎んだら同罪なのです。人を傷つけることを行いや言葉に出してしまうことだけでなく、心の中でそのような思いを持つことも神の意思に反するのです。このように十戒の掟は、外見上守れたら神に認められるというものではなく、人間が内面的にも神の意思に反する存在であることを暴露する鏡なのです。
人間はこのような神の意思に反するものを堕罪の時に持つようになってしまいました。そのため、神との結びつきを失ってこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世から別れる時も神との結びつきがないまま別れなければなりません。神はこの不幸な状態から人間を救い出そうとして、御許からひとり子をこの世に送られたのです。このひとり子イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで罪の罰を受けさせたのです。それは人間が神罰を受けないで済むようにする犠牲の死でした。イエス様は人間に代わって神に対して罪を償って下さったのです。それだけではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示されたました。
そこで人間はこれらのことは自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものにすることができます。神のひとり子の犠牲を本当のものとして受け入れたので、神は、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦そう、と仰るのです。こうして神から罪を赦された者は神との結びつきを持てるようになります。そして、永遠の命と復活の体を与えられる復活の日に至る道に置かれ、その道を進むようになります。この道の歩みはいつもバラ色とは限りません。波風猛る時もあります。しかし、神からの罪の赦しで築かれた神との結びつきはどんな時にも波風の時も全く変わらずにあります。この世から別れる時も結びつきを持ったままった別れられ、復活の日が来ると目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。
ところで、神との結びつきを持てるようになる前の人間は、罪と結びついていたので罪の支配下にありました。それをそのままにしておくと、人間はこの世から別れる時、神との結びつきはなく、復活も神の国への迎え入れもなくなってしまいます。イエス様の犠牲の死は、文字通り人間を罪の支配から解放して神との結びつきに入れるようにする救いの業でした。だから、イエス様が捧げた命は人間を罪の支配から解放する身代金だったのです。神と結びつきを持って生きられるようになったというのは、神のひとり子の命を代価として罪の支配から神のもとに買い戻されたということです。この犠牲を伴う「買い戻し」のことを、宗教的な言葉で「贖う」と言います。イエス様はこの私を罪の支配から神のもとへと贖って下さった。「贖う」の代わりに、イエス様は自分の命を代償として私を神のもとへ買い戻して下さった、と言っても同じです。ただし、「罪を贖う」と言わないように注意しましょう。贖うのは人間です。神が人間を罪から贖う、買い戻すのです。反対に、罪は償うものです。人間を贖うのに、罪を贖うと言ったら、神は罪を買い戻すことになってしまいます。神は罪なんか買い戻したくありません。買い戻したいのは人間です。
人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神に贖われた者、罪の支配から解放された者になります。そうするとキリスト信仰者は罪のない無つみの者になったのかというとそうではありません。信仰者になっても、神の意思に反するものが自分に残っていることに何度も気づかされます。それじゃ、キリスト信仰者になっても何の意味もないじゃないかと言われるかもしれません。しかし、そうではないのです。神聖な神のひとり子の尊い犠牲をもって罪を償ってもらったので、今度は罪に背を向けて生きるようになります。罪は忌まわしいもので間違っているとわかり、それに迎合しないように生きようとします。自分の内に神の意思に反するものが出てきてしまったら、慌てずに心の目をゴルゴタの十字架に向け、そこに罪の赦しが打ち立てられていることを確認します。神聖なひとり子の犠牲の上に今の自分があるとわかれば、もう軽率なこと愚かなことはすまいと心の襟を正します。これがパウロがローマ8章で言う、聖霊の力で肉の業を日々死なせるということです。まさに霊的な戦いです。そして、かの日に神の御前に立たされる時、神は私たちが罪の赦しという神のお恵みに留まって生きていたことを認めて義とされ、御国に迎え入れて下さるのです。私たちが完全に無つみになれたから義とされるのではありません。無つみに向かう道を恵みに留まって踏み外さずに歩んだことを義とされるのです。
終わりに、仕える者になれというイエス様の命令についてひと言。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた段階で人は復活と神の国に至る道に置かれて今それを歩んでいます。その道を歩む者はお互いに仕え合うようにして歩まなければならないということです。ルターは、神の国への迎え入れに至る道を旅路に例えて、信仰者はみな旅路の途上にあると言います。ある者は先にいて別の者は後ろにいる。歩みが早かろうが遅かろうが問題はない、ただ私たちが歩む意思を捨てずに進んでいれば神は満足される、そして復活の日に主が私たちの信仰と愛に欠けていたところを一気に満たして瞬く間に私たちを永遠の命を持って生きるものに変えて下さると教えます。
この旅路において、ルターは、いつもお互いの重荷を背負いあわなければならないと教えます。それは、イエス様が私たちの罪の重荷を背負って下さったことから明らかなように、信仰者は誰一人として完全な者はいないのであり、それだからこそ背負い合わなければならないのだと。
信仰者がお互いの重荷を背負い合うというのは、神の国に向かう道をしっかり歩めるように助け合い支えあうということです。物心両面でそうすることです。物質的な問題のために歩みが難しくなるのなら、それを支援する、心の面で難しくなるのなら、それも支援します。それともう一つ、お互いの弱点や欠点という重荷を背負い合うこともあります。あの人はなぜあんなことを言ったのか、人の気も知らないで!とならない。きっと不注意とか言葉足らずだったのだろう、人間的な弱さだろう、それはこの自分にもある、だから本気で私の全てをそう決めつけたのではないのだ、そういうふうに考えてそれ以上には進まないことです。ルターは、不和や仲たがいの火花にペッと唾を吐きかけて消しなさいと教えます。さもないと大量の水をもってしても消せない大火になってしまうと。水ではなく唾を吐いて消せというのが決まっています。それ位、イエス様に背負ってもらっておきながら他人の欠点や弱点に目を奪われることは軽蔑すべきことだということです。
以上申し上げたことは、キリスト信仰者が神の国への道を歩めるようにお互いに仕え合い、重荷を背負い合うということでした。そのように言うと、じゃ、相手が信仰者でなかったら仕え合い背負い合いは関係ないのか、同じ道を歩いていないのだから、という疑問が起こるかもしれません。それについては、神の望まれることはなんであったかを思い起こせば答えは明らかです。神は全ての人が神との結びつきを持てて神の国への迎え入れの道を歩めるようにとひとり子を贈られたのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン