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主日礼拝説教 2022年4月10日 聖金曜日
イザヤ52章13節~53章12節
ヘブライ10章16~25節
ヨハネ18章1節~19章42節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の前で晒すというものでした。イエス様は、十字架に掛けられる前に既にローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の材木を自ら運ばされ、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで残酷な釘打ちが始ったのでした。
イエス様の両側には二人の犯罪人が十字架に掛けられました。罪を持たない清い神聖な神のひとり子が犯罪者にされたのです。釘打ちをした兵隊たちは処刑者の背景や境遇に全く無関心で、彼らが息を引き取るのをただ待っています。こともあろうに彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始め、くじ引きまでしました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどの者はイエス様に嘲笑を浴びせかけました。民族の解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れだったか、と。群衆の中にはイエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、激痛と意識もうろうの中でイエス様が最後に目にした光景だったでしょう。この一連の出来事は、一般に言う「受難」という短い言葉では言い尽くせない多くの苦しみや激痛で満ちています。
私たちの周りにも苦しみや激痛が沢山あります。特に今はウクライナの戦争が連日ニュースに出ます。無残に破壊された町並み、殺されてしまった人たち、何百万の避難民、取り残されてしまった人たち、これらの映像や写真を毎日見ていると、イエス様の受難など背景に追いやられて色あせてしまうかもしれません。イエス様のことは2000年前の遠い過去の出来事であるのに対してウクライナの戦争はまさに現在進行中のことです。イエス様の受難はイエス様一人の苦しみでしたが、ウクライナの戦争では犠牲者は何万人単位です。そちらの受難の方が規模が大きく身近に感じられるとしても無理はありません。
ところで、侵略国との力の差は圧倒的なのにウクライナの人たちが受難を覚悟で侵略国の要求を跳ねのけてまで戦うのはなぜか?それは、自由と民主主義を守りたいからです。もし守りたいものが物質的な安定とか生命の保全とか美しい郷土だけならば、それらは独裁国が支配しても得られます。しかし、独裁国に支配されたら、間違っていることを間違っていると言えなくなります。そう言う人を毒殺することも厭わない相手です。しかし、支配者は国民が不満を抱かないように物質的・生命的安定も配慮するでしょう。自分たちに盾突かなければという条件でですが。もちろん物質的・生命的な安定は大事ですが、間違っていることは間違っていると言える自由とそれを運用できる民主主義はもっと大事だ、それは他のものと引き換えることはできない、たとえ物質的・生命的な安定を失うことになっても守らなければならない、これがウクライナの人たちの選択でありそのための戦いであると言ってよいと思います。ウクライナの人たちの選択について日本でもいろんな議論がされています。その議論は実は、もし私たちも同じ危機に襲われたらどんな選択を取るのかということを好むと好まざるにかかわらず考えさせるものになっていると思います。
2.ここで先ほど色あせてしまうと言ったイエス様の受難に目を向けてみます。実は、イエス様の受難もよく見ると、人間にとって他のものに引き換えることができない大事なものがあります。何かと言うと、イエス様の受難によって、人間は自分たちが失っていた神との結びつきを取り戻すことができたということ。それで、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになったということ。そして、この世から別れた後は神のもとに永遠に戻ることができるようになったということです。
それらのことがイエス様の受難を通してどのようにして起こったかということが先ほど読んだイザヤ書の箇所で述べられています。この箇所はイエス様の時代の数百年前に書かれた預言です。それが実際に起こったのです。
イエス様が「担ったのはわたしたちの病」であり、「彼が負ったのはわたしたちの痛み」でした。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」でした。なぜこのようなことが起こったのかと言うと、それは、イエス様の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」るためでした。神は、私たち人間の罪をすべて彼に負わせたのです。人間の神に対する背きのゆえに、イエス様がかわりに神の手にかかって命ある者の地から断たれたのです。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもありませんでした。それなのに、その墓は神に逆らう者と一緒にされました。苦しむイエス様を神は打ち砕き、こうしてイエス様は自らを償いの捧げ物としたのです。神の僕であるイエス様が「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」のです。イエス様は自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたけれども、実はそれは多くの人の過ちを担って、背いた者のために執り成しをしたことだったのです。
このイザヤ書の預言から明らかなように、イエス様は私たち人間のかわりに神から罰を受けて苦しみ死んだのでした。それは、私たちが神の意思に反しようとする性向、罪を持ってしまっているために、神との結びつきがない状態で行き先もわからずこの世を生きていたからでした。神との結びつきが回復できて行き先がわかるようになるために、神は人間の罪をひとり子のイエス様に全て負わせてその罰を受けさせたました。それがゴルゴタの十字架で起こったのでした。罰はイエス様が受けて下さったので人間は受けないで済む可能性が開かれました。あとは人間の側がこのことは本当に起こった、だからイエス様は私の救い主だと信じて洗礼を受ける。そうすると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人に入り込み、その人は神から罪を赦されたものと見てもらえるようになります。
神から罪を赦されたので神との結びつきを回復してこの世の人生を進むことになります。進む行き先は復活の日に復活させられて神の国に迎えいられるところです。罪は人間を復活のない方に追いやろうとします。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、追いやられることはありません。キリスト信仰者は罪と死の支配から解放されているのです。イエス様の十字架の受難が人間にもたらしたこと、罪の赦しと神との結びつきの回復そして復活と永遠の命、これこそがキリスト信仰者が他のものと引き換えにできないことです。これらのことを守らず他のものに引き換えてしまったら、自分をも守らないことになります。これらのことを守ることは、自分を守ることになるのです。
3.この2000年前のかの地で起きた出来事が時空を超えて現代の日本に生きる自分のためにもなされたというのは身近に感じられないかもしれません。しかし、実際にそうなのです。それを示すイエス様の言葉があります。それは彼が最後に述べた「成し遂げられた」です。ギリシャ語で書かれたヨハネ福音書ではこの言葉はテテレスタイτετελεσταιとあります。イエス様はこの言葉を口にした時はギリシャ語ではなくアラム語で言われたでしょう。それがどんな言葉だったかは記録がないのでわかりません。アラム語の言葉を十字架の近くにいて耳で聞いたヨハネが後に、イエス様の全記録をギリシャ語で書いた時に翻訳したのです。
このギリシャ語の言葉の正確な意味は、「かつて成し遂げられたことが現在も成し遂げられた状態にある」です(後注)。つまり、「成し遂げられた」とは、罪の赦しの救いがイエス様の十字架で実現したのであるが、それはそれでハイ終わりましたではないということです。ヨハネが何十年か後にこの記録を書いている時にも「成し遂げられた」状態が続いているということです。さらに彼の書物を手にして読む後世の者にとっても「成し遂げられた状態」が続いているということです。まさに時空を超えて私たちにとってもです。ヨハネの翻訳は真に的確でした。父なるみ神の御心に適うものです。なぜなら、神の御心は、彼が造った人間の誰もがひとり子を通して実現した救いを受け取ってほしいというものだからです。そしてこの御心は2000年前も今も変わらないのです。神の救いは現在も「成し遂げられた状態」にあるのです。今も新鮮なものです。それなので、ゴルゴタの十字架上のイエス様というのは、まだ救いを受け取っていない人たちにとっては新しい命を生きられるようにするものです。既に受け取った人たちには、かつて与えられた新しい命が今も変わらず新しいままでいることを忘れさせない原点です。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注)アオリストετελεσθηでなく現在完了τετελεσταιであることに注意。
4月10日の礼拝のストリーミングは技術的な問題のため出来ませんでした。お詫び申し上げます。
主日礼拝説教 2022年4月10日(枝の主日)
イザヤ50章4-9a節 フィリピ2章5-11節 ルカ19章28-40節
私たちの父なるみ神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今年の受難節/四旬節も、もう「枝の主日」となりました。復活祭の前のこの主日が「枝の主日」と呼ばれるのは、イエス様が受難を受けることになるエルサレムにろばに乗って入城した時に、群衆が自分の服と木の枝を道に敷きつめたことに由来します。本日用いておりますルカ福音書では、群衆が道に敷いたのは衣服だけですが、マタイ福音書では衣服と木の枝(21章8節)、マルコ福音書では衣服と葉の付いた枝(11章8節)と少し詳しく記されています。ヨハネ福音書では、道に敷かれたことは言われていませんが、群衆がなつめやしの枝を持ってきたと記されています(12章13節)。いずれにしても、私たちは、今日から始まって聖金曜日を経て復活祭に至るこの1週間、約2000年前に起きた人類の救い主の受難の出来事について、聖書の御言葉をもとに思い起こし、彼がゴルゴタの丘の十字架まで歩んだ受難の道を心の中で辿らなければなりません。
さて、ルカ以外の三つの福音書を見ると、ろばに乗ったイエス様がエルサレムに入城する時、群衆は「ホサナ」という歓呼の言葉を叫びます。これは、もともとは旧約聖書が書かれたヘブライ語で「ホーシーアーンナー」という言葉が、イエス様の時代のイスラエルの地で話されていたアラム語「ホーシャーナー」に訳されたものです。どちらも神に、救って下さいとお願いする意味があります。それが古代イスラエルの伝統では、群衆が王様を迎える時の歓呼の言葉としても使われました。従って群衆は、子ろばに乗ったイエス様を王として迎えたことになります。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来や兵士を従えて堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、子ろばに乗ってやってくるのです。
またイエス様は、子ろばを連れてくるようにと弟子たちに命じた時、まだ誰も乗っていないのを持ってくるようにと言いました。まだ誰にも乗られていない、つまりイエス様が乗るという目的に捧げられるという意味であり、もし既に誰かに乗られていたら使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ろばに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なもの、神の計画を実現するものと言うのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、一人子ろばに乗ってやってくるイエス様。この出来事は一体何を意味するのでしょうか?
本日の説教では、イエス様が子ロバに乗ってしかも王様としてエルサレムに入城したことが一体なんだったのか?しかも、それがどうして神の計画を実現する神聖な行為だったのか、それらを明らかにしようと思います。それらが明らかになると、イエス様は私たちにとって何かとてつもない統治者であることが見えてきます。
「統治者」という言葉を使いましたが、昔の時代では統治者というのは王とか皇帝とかいわゆる君主が普通でした。現代では、王は存在しても統治権を持っていないのがほとんどです。大抵は、国民が選挙して国会に代表者を送り、その国会が政府の構成を決め、そして裁判所がこれらがちゃんと憲法や法律に従って働いているかをチェックします。現代では統治権は、こんなふうに機能別に分かれているのが普通です。昔の王の場合だと統治権は一極集中だったと言ってよいでしょう。それなので、現代の私たちがイエス様のことを王と呼ぶ時は、現代の王のイメージは捨てて、昔のように統治権の行使者として捉えなければなりません。イエス様は統治をする王であると。
しかしながら、統治する王ではあっても、イエス様の場合は特殊な事情があります。それについて、イエス様がヨハネ18章36節で自らお話しして下さいます。イエス様がローマの総督ピラトに向かって言った言葉です。「私の国はこの世には属していない。」ここのギリシャ語の原文をもう少し正確に見ると、「私の国はこの世に起源を持たない」です。
昔、王が統治していた国も、現代、国家機関が統治している国もみなこの世に起源を持ちます。当たり前です。しかし、イエス様が統治する国はこの世に起源を持たないのです。それはどんな国でしょうか?その国と私たちとの関係はあるでしょうか?そのようなことも以下に一緒に考えてみましょう。
イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入城したのは神聖な行為であったということについて。この出来事は、旧約聖書ゼカリヤ書にある預言が成就したことでした。ゼカリヤ書9章9ー10節には、来るべきメシア、救世主の到来について次のように預言していました。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ロバの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」
「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、ヘブライ語の原文を直訳すると「彼は義なる者、勝利者、へりくだった者」です。直訳の方がイエス様のことを指していることがよく見えてきます。
まず、「義なる者」について。「義」という難しい言葉がありますが、簡単に言うと、神の意思を体現できている、それで神の目に相応しい者です。先月の説教でもお教えしましたが、私たち人間はそのままの状態では神の意思に反する罪を持っているので「義なる者」になれません。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼があれば神から義を与えられて義なる者とされます。イエス様の場合は、彼は神のひとり子なのでそのままの状態で神の意思を体現している「義なる者」です。
「勝利者」というのは、ゼカリア書の預言から明らかなように、神の力によって世界から軍事力をなくして神主導の平和を打ち立てる者です。そのような勝利と平和はどうやって打ち立てられるでしょうか?人間の力で世界から軍事力をなくして人間主導の平和を打ち立てることが出来るでしょうか?今次のウクライナの戦争を見ても世界中の他の火種のある地域を見ても難しそうです。もちろんそうする努力はしなければなりません。
イエス様が勝利者というのは、彼が軍隊を率いて外国を打ち破るという戦争勝利ではありませんでした。彼の勝利は、ゴルゴタの十字架の死と死からの復活を遂げたことで罪と死を滅ぼしたという勝利でした。人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通してイエス様と結びつくことが出来、それで彼の勝利を自分のものにすることが出来ます。そうすると今度は、天と地が新しく再創造される時にイエス様のように死から復活させられて永遠の神の御国に迎え入れられます。今の次に到来する世の有り様は今の世と異なります。それは罪と死に対する勝利に与った者たちのある世です。そこは神主導の平和が打ち立てられています。当然のことながら人間の軍事力などは藻屑になっています。
そして、「へりくだった者」というのは、まさに本日の使徒書の日課フィリピ2章でイエス様について言われていることです。その個所ではイエス様のへりくだりが見事に描かれています。「キリストは、神と一体にありながら、神と等しいことを戦利品と見なさず、それを放棄して奴隷の形を取り、人間の姿形を取り、人間のように現れ、自分をヘリ下させ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順でした。」このように「高ぶらず」などと訳さないで「ヘリ下った」と直訳すればイエス様のことを言っていることがよくわかります。
以上から明らかなように、ゼカリア書の預言にある「義なる者、勝利者、ヘリ下った者」とは、義なる神のひとり子が罪と死に勝利するためにヘリ下って十字架の道を歩むことが預言されていたのです。イエス様が子ロバに乗ってエルサレムに入城したというのは、このゼカリア書の預言がこれから成就することを人々に知らせる出来事だったのです。
ところが、これを見た当時の人たちはイエス様のことを罪と死に勝利するために出陣する王とは考えていませんでした。それでは、この出来事をどう考えたのでしょうか?彼らにとって、旧約の預言に登場するダビデの家系の王とは、なによりもローマ帝国の支配を打ち破って民族の王国を再興する王でした。このような期待があるところには、今の世が新しい世に取って代わるということは視野に入っていません。再興される王国は今の世の中にあります。
他方で旧約聖書には、イザヤ書65章17ー20節とか66章22節、ダニエル書12章1ー3節などには(他にゼカリア14章7節、ヨエル3章4節など)、今の世は終わりを告げて今ある天と地が新しく再創造される日が来る、その時、死者の復活が起きるという預言があります。これに注目した人たちもいました。その場合は、ダビデ王の末裔が統治する王国とは、今のこの世のものではなく新しい世の王国と理解されます。
さて、今のこの世の中に樹立される王国か、新しい世に現れる超越的な国か?しかし、どっちをとっても、当時の人々は、ユダヤ民族の王国が再興されるというイメージを持っていたことに変わりはありません。先ほど見たゼカリア書9章の他に、ゼカリア書14章やイザヤ書2章にも、世界の国々の軍事力が無力化されて、神の力を思い知った諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムに上ってくるという預言があります。それだけを見ると、ユダヤ民族の国家が勝利者になり全世界に大号令をかけるという理解が生まれます。しかしながら、これは旧約聖書の一面的すぎる理解でした。旧約聖書の奥義は、こういう一民族中心主義を超えたところにありました。イエス様が成し遂げたことがそれを明らかにしました。そのイエス様がエルサレムに乗り込めば、そこでユダヤ民族の宗教指導者たちと真っ向から衝突するのは火を見るより明らかでした。この衝突がエスカレートして、イエス様は逮捕され、迫害され、十字架刑に処せられてしまったのでした。宗教指導層がイエス様を生かしてはおけないと考えるに至った理由は以下の3がありました。
まず、イエス様が自分のことを、ダニエル書7章に出てくる、この世の終わりの時に現れる救世主「人の子」であると公言していたことがありました。つまり自分を神に並ぶ者とし、さらにはもっと直接に自分を神の子と言っている。これは、宗教指導層にとっては神に対する冒涜以外の何ものでもありませんでした。しかし、イエス様は、本当に神のひとり子だったのです。
もう一つの理由は、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王として立ち振る舞ったことも問題視されました。そんなことをすれば、ユダヤ地域を占領しているローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせることになってしまいます。宗教指導層としては、ユダヤは占領されてはいるが安逸を得られ、エルサレムの神殿を中心とする宗教システムも機能している。それなのに、イエスに好き勝手をさせたら、ローマ帝国の軍事介入を招いてしまう、と危惧したのです。
さらに、宗教指導層の憎悪に油を注いだのが、本日の福音書の箇所の後にある出来事、神殿から商人を追い出したところです。宗教指導層は、現行の神殿が神の意思に適うものと考えていました。商人たちも、神殿での礼拝をスムーズにするために生け贄用の鳩を売ったり、各国から来る参拝者のために両替をしていました。しかし、神のひとり子イエス様からみれば、現行の神殿は神の意思からはほど遠いものでした。イザヤ書56章7節の預言「私の家(神殿)は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」からかけ離れていました。イエス様が商人たちを叩き出した時、それは、ゼカリヤ書14章21節の預言「万軍の主の神殿に商人はいなくなる」を実現するものでした。しかし、商人の追い出しは、現行の宗教システムに対するあからさまな挑戦と受け取られたのです。
イエス様は、神のひとり子ですから、旧約聖書に記された神の御心を正確にわかります。それなのに、わかっていない宗教指導層が彼を殺すために占領者の官憲に引き渡してしまったのです。そればかりか、それまでイエス様のことを、民族のスーパー・ヒーローと祀り上げていた人々も、いざ彼が逮捕されると、直近の弟子たちから逃げ去り、群衆も背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男が民族の王国を再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。これは、旧約聖書を一面的にしか見ていなかったことによる理解不足でした。ところが、イエス様が十字架にかけられた後に旧約聖書の奥義が全て事後的に理解できるという、そんな出来事が起きました。イエス様の死からの復活がそれです。
イエス様が死から復活したことで、死を超えた永遠の命が存在することが世に示されました。同時にそこに至る扉が人間に開かれたことも明らかになりました。その扉は、最初の人間アダムとエヴァが創造主の神に対して不従順になって、神の意思に反しようとする性向すなわち罪を持つようになって閉ざされてしまいました。同時に人間は死する存在になってしまいました。しかし、閉ざされてしまっていた扉が今、開かれたのです。さあ、これで人間は死を超えた永遠の命に入ることが出来るでしょうか?ここで、人間が死を超えられなくなってしまったもともとの原因である罪の問題はどう解決できるのか?これを考えなければなりません。
実は罪の問題は既に解決しているのです。正確に言えば、解決してもらっているのです。どうやって?それは、イエス様が十字架の上で、罪が引き起こす神罰を全部私たち人間に代わって引き受けて下さったことで解決しました。イエス様がこの私の罪の罰も全部引き受けて下さった、だからイエス様は私の救い主なのだ、そう信じて洗礼を受ければ、神はイエス様の犠牲に免じて罪を赦して下さいます。「赦す」というのは許可するという意味ではありません。罪を持ってしまっているために、あるいは罪を犯してしまった時、神に赦しを祈れば、神は不問にして罰に定めない、これが赦すということです。その時、安心して復活と永遠の命に至る道を歩み続けることができます。このように罪の赦しを受けた人は自分の命と人生は神のひとり子の犠牲の上に成り立っていると自覚しています。それで襟を正してヘリ下ります。罪を許可する許しならば、このような自覚は生まれません。罪の問題を未解決に戻してしまい、復活と永遠の命に至る道から離れていってしまいます。
実にイエス様の十字架の死と死からの復活は、ユダヤ民族の境界を超えて人類すべてに「罪の赦しの救い」が提供されることになりました。イエス様の神聖なエルサレム入城は、この救いの大事業が始まったことだったのです。このことは、当時、歓呼の声をあげた人々も、エルサレムで衝突することになる人たちも誰ひとりわかりませんでした。
ここで、ルターが統治者イエス様とこの世の統治者の違いについて教えていますので、それを紹介したく思います。彼が説き明かす聖句は冒頭で申し上げたヨハネ18章36節「私の国はこの世に起源を持たない」です。
十字架を喜んで背負うことが出来るのは誰か?それは、この統治者/ 王がどんな方で彼の国がどんな国であるかをよく知っている者である。 その人は、主自身が十字架を背負われたことを知っているだけでは満 足しない。その人には、天の御国に到達した時に大いなる喜びと至福 に与れる、たとえ今のこの世では苦難や困難があっても、必ず与れる、 ということが大きな望みと励ましになっている。
ところが、そのような望みと励ましがあることを知らない者たちは、 苦難や困難に遭遇すると右往左往するだけで、最後には絶望に陥って しまう。彼らの考えはこうだ。もし、神が憐れみ深い方ならば、こん なに多くの不幸を起こるままにさせないのではないか?起こっても直 ぐに助け出して下さるのではないか?そういう考えでいるのは、キリ ストの御国がこの世に起源を持たないものであることを信じていない からだ。この世の統治者たちは、国民の生命や財産を守ろうとする。 しかし、神の栄光を映し出す統治者、キリストは、身体、生命、財産 その他この世的なもの全てを危険に晒すことも厭わない。
それゆえ、この世ではキリスト信仰を、ものが溢れるようにするた めに用いてはならない。見よ、我らの統治者はどのような道を歩まれ たのかを。苦しみを受け、侮辱されるがままにし、辱めを受けて死な れたということ以外に何があろうか?それゆえ、彼の国に繋がる者は、 彼が黄金や品物を与えてくれるとか、この世の統治者のように福利を もたらしてくれるなどとは期待しないことだ。そのかわり、彼が御声 を聞いて従う者に対して、罪を赦して永遠の死から救い出して聖霊と 永遠の命を与えてくれることに心を向けるべきだ。
皆さんはこれを聞いてどう思われたでしょうか?やはり黄金や品物を与えてくれる統治者がいいと思われたでしょうか?罪を赦して永遠の死から救い出してくれる統治者も悪くないが、ただ黄金や品物を意に介さない、場合によってはそれらを危険に晒してしまうというのは嫌だなと思われたでしょうか?そう思われたら、本日の旧約の日課イザヤ書50章の個所をみるとよいでしょう。そこは、神の僕つまりイエス様のことを預言していると普通見なされます。日本語訳の聖書もこの箇所に「主の僕の忍耐」という見出しをつけています。しかし、ここで言われていることはキリスト信仰者にも当てはまります。キリスト信仰者も、自分には自分の正しさを認めてくれる方がおられる、罪はないと言ってくれる方がおられると確信を持って言えるからです。
イエス様を救い主と信じて生きる者は十戒を自然に備わるように持っています。イヤイヤ守るものでもなく無理して頑張って守るものでもなく、心に沁み込んで自分の一部のようになっているので神の意思に沿うように生きることが当然のことになっています。ところがこの世の人間関係の中でいろんな人に出会うといろいろ誤解されたり悪く言われたりすることがあります。しかし、キリスト信仰者には、天から全てを正しく正確に把握して下さる方がいて、大丈夫、あなたは悪くないと言って下さる方がおられるのです。そしていつの日かその方の御前に立たされる時、あなたは義なる者だ、と言って下さるのです!そのような方がいればこの世の黄金や品物など何ほどのものか、です!
ビデオ礼拝をYoutubeで見る 4月3日(日)午前10時30分から
司式・説教: マルッティ・ポウッカ 牧師 説教題: 「良い香り」 祈り・聖書日課: パイヴィ・ポウッカ 宣教師 聖書日課: イザヤ 43:16-21、フィリピ 3:4b -14、ヨハネ 12:1-8 賛美歌: 190:1 371:1 181:1 198:1 音楽: マルッティ・ポウッカ ビデオ編集: パイヴィ・ポウッカ
特別の祈り
天の父なる神さま、イエス様は死と罪の力に打ち勝ったのです。それは私たちの喜びと希望です。感謝します。どうか私たちに、隣人に奉仕する力と福音を伝える力を与えて下さい。私たちをイエス様の香りにして下さい。アーメン
主日礼拝説教 2022年3月27日 四旬節第四主日
ヨシュア5章9-12節
第二コリント5章16-218節
ルカ15章1-3、11b-32節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
本日の福音書の日課にある放蕩息子の話はキリスト教会の内と外とを問わず聖書を読む人なら恐らく誰もが知っている有名な話です。知られすぎている話ゆえに、これを読む時に注意しなければならないことがあります。それは、この話はイエス様のたとえの教えであるということです。架空の話で実際に起きた出来事ではありません。何か大切なことを教えようとしてイエス様が自分で創作して人々に聞かせた話です。後で見ていきますが、大切なことがよく表れるようにとても精巧に出来ています。だから、読む人はイエス様が伝えようとしている大切なことをわからないといけません。
それでは、彼が教えようとした大切なこととは何か?3つあります。一つは、神は自分のもとに立ち返る者を、たとえどんな悪事を働いたとしても立ち返るのであれば、過去のことを不問にして大喜びで両手を広げて迎えて下さるということ。二つ目は、神に迎え入れられた者は、自分より遅れて迎え入れられる者を見たら、神と一緒に喜ぶのが当然であるということ。遅れて迎え入れられる者を見て、その人の過去をとやかく言うようでは、まだまだ神に迎え入れられた恵みをわかっていないということです。そして三つめは、多分あまり注目されていないことかもしれませんが、一番大事なことです。それは、神に迎え入れられた者は、神に立ち返ろうとした最初の気持ちが、実際に迎え入れられた瞬間、もうどんなことがあっても神から離れまいという心になる、つまり最初の立ち返りの気持ちが純化して強められるということです。以下、これらの3つの大切なことを見ていきましょう。
あるところに多くの使用人を雇えるくらいの金持ちがいて、彼には息子が二人あった。そのうちの次男が、こともあろうにまだ健在の父親に向かって遺産相続の前払いをしろと言わんばかりに財産分割を要求する。いくら将来自分の取り分になるとは言え、父親が死んだも同然と言わんばかりの要求です。十戒で言えば、第4掟「父母を敬え」と第10掟「隣人のものを貪るべからず」を破るのは明らかです。しかし、なぜか父親は言う通りにしてしまう。父親のこの気前の良さは一体なんなんだ、という疑問が起きるかも知れません。しかし、先ほども言いましたように、これはたとえ話で、何か大切なことを教えるための作り話です。父親の気前の良さも大切なことを教えるための仕掛けです。この父親が父親として適格かどうかとかというような議論は不要です。
さて、息子は得た金を持って遠い国に旅立つ。そこで贅沢三昧、欲望全開の生活を送る。この話を聞いていた人たちは、ギリシャの繁栄した港町やローマの都を思い浮かべたことでしょう。イエス様の話は、たとえであることを忘れさせるくらいに現実味を帯びて聞こえたことでしょう。後で息子の兄が、弟は娼婦どもと一緒に親の財産を食いつぶした(30節)と言うくらいなので、十戒の第6掟「姦淫するなかれ」を破っていたことも明らかです。
さて、息子は金を使い果たします。さらに運悪いことにその国を飢饉が襲います。困った息子はその地でなんとか豚の群れの世話の仕事にありつける。しかし飢饉はひどく、豚のえさまでが喉から手が出るくらいにほしくなる始末。まさにその時、息子は「我に返って」言う。故国の父さんの家には召使いが沢山いて彼らにはパンが有り余るほどあったなあ、それに比べて自分はなんと惨めなことか。このままでは飢え死にだ。故国に帰って、父さんに謝って召使の一人にしてもらおう。そう言って帰国の途につくことにしました。
やがて、懐かしい家が向こうに見えてくる。その時、父親の方が先に息子に気がつく。息子は飢えと過酷な労働でやつれてみすぼらしい恰好です。すぐ後で父親は召使いに命じて息子に上等な服を着せて靴も履かせるので、息子はぼろを着て裸足だったことが窺えます。父親はそんな息子を見て、なんとかわいそうなことかと心から憐れに思って自ら走り寄って抱きしめます。これは息子にとって全く想定外のことでした。きっと白い目で見られ相手にもされないと思っていたのに、こんなに愛情深く受け入れてくれるとは。父親は召使いたちに肥えた子牛を屠ってすぐ祝宴の支度をしなさいと命令します。祝宴が始まりました。父親は息子の帰郷を本心で喜び、彼がしでかしたことを不問にしました。イエス様は、天の父なるみ神も同じだと教えるのです。つまり神は自分のもとに立ち返る者を、たとえその者がどんな悪事を働いたとしても立ち返るのであれば、過去のことを不問にして大喜びで両手を広げて迎えて下さるのです。
そこで長男が畑仕事から帰ってきます。どうも家の中が大変なお祭り騒ぎになっている。なんだあれは、と召使いに聞くと、行方不明だった弟さんが無事帰ってきたのでお祝いをしています、と言う。長男はもう怒りが全身にこみあげて家に入れない。それに気づいた父親が出てきて、中に入って一緒にお祝いしようと促す。しかし長男は、自分は何年も父親に仕えてその言いつけを守ってきたのに子山羊一匹すらくれなかった、それなのに神と父親の双方に背いた弟には肥えた子牛を屠ることまでする。不公平極まりないではないか。
ここでイエス様は、神のもとからいなくなってしまった者が神のもとに立ち返って神に見つけられるようになると、神は祝宴を催したいくらい大きな喜びを感じるのだ、ということをこの話を聞く人たちにわからせようとしたのです。そのために父親の喜びようを詳しく話したのでした。
それでは、どうしてイエス様は神のもとに立ち返った者を神が大喜びすることを教えるのか?これは、ルカ15章全部をしっかり読むとわかります。放蕩息子の話のすぐ前にイエス様の別のたとえの教えが2つあります。合計3つのたとえは連続しているのです。
イエス様がたとえを話すきっかけになったのは、彼が当時ユダヤ教社会で罪びとと目される人たちと一緒に食事をしたことがスキャンダルになったからでした。食事を共にするということは家族同様の親密な関係を持つことを意味しました。それで、今世間の注目の的となっているこのナザレのイエスは何と不埒な輩か、とファリサイ派や律法学者という宗教エリートたちは目くじらを立てたのです。これに対してイエス様は自分の行っていることは正しいと言うために三つのたとえを話します。最初のたとえは、群れからはぐれた1匹の羊を見つけるために99匹を置き去りにしてまで探しに出かける羊飼いの話です。二つ目は、10枚の銀貨のうち1枚を紛失して家中をくまなく探しまわる女性の話です。二つとも締めくくりの言葉は同じです。こういうなくなったものを見つけた時の喜びは、まさに罪びとが神のもとに立ち返った時に天国で抱かれる喜びと同じである、と言います。つまり、イエス様と食事を共にする罪びとたちは、イエス様の教えを聞き、彼の行った奇跡の業をみて、この方こそ約束された救い主だと信じ、神のもとに立ち返るようになった人たちなのです。
それならば、なぜ宗教エリートたちは文句をつけるのか?神のもとに立ち返ったのならば問題ないではないか?そういう疑問が起きます。宗教エリートたちは、イエス様と一緒に食事をする元罪びとたちが本当に神のもとに立ち返ったかどうか信じられないのです。彼らからすれば、罪の赦しを間違いなく神から得られるためには、宗教上の規定に基づいていろいろな償いの儀式をしなければならない。それなのに、ナザレのイエスを救い主と信じるだけで赦しが得られるとは何事か、そんなのは赦しでもなんでもない、と思ったのです。放蕩息子の話の終わりに出てくる兄は父親の言うことをよく聞く良い子でしたが、弟を受け入れることが出来ません。イエス様は宗教エリートたちに対して、これが君たちのレベルなのさ、とわかりやすく教えているのです。
イエス様からすれば、彼と一緒に食事をした元罪びとたちは本当に神のもとに立ち返る生き方を始めた人たちなのです。最初のたとえに出てくる1匹の羊のように、また二番目のたとえの1枚の銀貨のように、一度なくなってしまったがまた見つかったのです。それで神は、いなくなってしまった1匹の羊を見つけた羊飼いが大喜びするように、またなくなってしまった1枚の銀貨を見つけた婦人のように、そしていなくなってしまった息子を見た父親のように、神は自分のもとに立ち返る者を心から喜んで迎え入れるのだと教えるのです。それなので、神に迎え入れられた者は自分より遅れて迎え入れられる者を見たら、神と一緒に喜ぶのが当然である、遅れて迎え入れられる者を見て、その人の過去をとやかく言うようでは、まだまだ神に迎え入れられた恵みをわかっていないということをイエス様は宗教エリートたちに教えるのです。
ここで、最初の二つのたとえに関して注意しなければならないことがあります。それは、迷った羊、なくなった銀貨は動物であり物であるということです。それなので、悔い改め、つまり神のもとに立ち返ることを教える題材としては適当ではありません。銀貨や羊が悔い改めをすることはないでしょう。そこで放蕩息子の話がでてくるのです。そこでも最初の二つのたとえと同じように、なくなったものが見つかった時の天上の喜びはとても大きいということが言われます。しかし、それに加えて、神のもとに立ち返るとはどういうことか、それに関連して人間の内面の変化についても教えているのです。
そこで、このたとえの3つのポイントの中で一番大事なポイントに入ります。それは、神に迎え入れられた者は、神に立ち返ろうとした最初の時の気持ちが、実際に迎え入れられた瞬間、もうどんなことがあっても神から離れまいという心になって、立ち返りの気持ちが純化して強められるということです。息子の場合はいつそのような気持ちの強められが起こったでしょうか?
まず17節を見ます。「我に返って言った」とあります。息子が飢えて惨めな状態にあった時のことです。これはまだ最初の立ち返りの気持ちです。強められる前のものです。18節を見ると、その時の息子の気持ちが詳しく記されています。父さんのところでは、あんなに大勢の雇い人に有り余るほどのパンがあるのに僕は飢え死にしそうだ。ここを発って父のところに帰って言おう。「父さん、僕は天に対しても、また父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。
果たしてこの立ち返りの気持ちは純粋なものでしょうか?空腹に耐えきれずパンを腹一杯食べたいので家に帰ることに決めた、ただし父親はもう自分を受け入れてくれないだろうから、それならば息子として扱われなくていいので、せめて雇い人にしてもらおう。なにしろ、あそこは雇い人にもパンが沢山与えられるのだから。まあ、そういう論法でしょう。
結局、パン欲しさのための立ち返りと言われても仕方がなく、息子の反省はこの時点ではまだそれほど深くはなかったと言えます。もちろん、雇い人としてでも受け入れてもらえるためには自分の非を認めて謝らなければなりません。その意味で息子の謝罪は必ずしも形式だけのものでも嘘でもない。しかしそれでも、パン欲しさのための謝罪ということも否定できない。親を死んだ者同然に扱って遺産を前払いさせて、それを自分の欲望を満たすために使った者が、金がなくなったので親のところに戻って食いつなごうとする。ちょっと虫が良すぎるのではないか。どうも謝罪は食いつなぐための手段のように見えます。
ところが、どうでしょう。息子は父親から心からの出迎えを受けて何を言ったでしょうか?父さん、僕は天に対しても、父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません(21節)。お気づきになったでしょうか?ここには「雇い人の一人にしてください」はありません。「雇い人の一人にして下さい」というのは、パンを食べれるようになるために言わなければならない言葉でした。それが言えるためには、先に謝罪の言葉「自分は神に対しても父親に対しても罪を犯した、自分はもう息子と呼ばれる資格はない」を言う必要がありました。そのために謝罪の言葉は「雇い人の一人にしてもらってパンを腹一杯食べる」という目的のための手段に聞こえてきます。ところが、息子が実際述べた言葉の中には「雇い人の一人にして下さい」はありません。よく見て下さい。本来の目的が消えてなくなったのです。これに伴って謝罪は手段ではなくなりました。謝罪が目的になったのです。イエス様はそのようにセリフを考えて作ったのです。本当に天才的としか言いようがありません。
どうして息子にそのような変化が起こったのでしょうか?息子が帰国を決めてから故国に到着してこの言葉を発するまでの間に何があったかをみてみましょう。遠くに息子を見た父親は「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。これは、息子にとって想定外のことでした。なぜなら父親は絶対自分を受け入れてくれないだろう、もう息子として扱ってもらえないのは火を見るより明らかだ、だから、食べ物を得られるためになんとかして雇い人の一人にしてもらえるよう頑張らなくては。息子はそのようなつもりでいたのでした。それゆえ、父親の示した愛情は本当に想定外でした。こんなに自分のことを思ってくれていた、帰って来るのをずっと待ってくれていた、忘れないでいてくれていた。それなのに自分は父さんを単なる財産提供者くらいにしか見なさず、まだ生きている間に遺産分割の先払いをさせて、しかもそれを自分の欲望を満足させるために使い果たしてしまった。そんな、父さんに受け入れてもらうに値しない者なのに、父さんは両手をひろげて迎えてくれた…。
「あなたの息子と呼ばれる資格はありません」という言葉は、最初は「息子と呼ばれる資格がないので、雇い人に雇って下さい」という流れで言う言葉でした。それが「雇い人にして下さい」が削除された今、「息子と呼ばれる資格はありません」だけになって、それは本当に自分を恥じる言葉になりました。それに対して父親は最上の服、履物、指輪を息子につけてあげて大きな祝宴を開きました。このように父親は「息子と呼ばれる資格はない」という息子の言葉を行為で否定したのです。息子は息子と呼ばれる資格があることを認めてもらったことがわかりました。これからの息子の生き方は、この純粋な謝罪と息子として認めてもらったことに基づかなければなりません。「息子と呼ばれる資格はない」ではなく、「息子と呼ばれる資格を持つ者」に相応しい生き方をする以外に道はなくなったのです。このように父親の愛によって息子は今までと全く違う新しい人間に作り変えられたのでした。
僕は父さんの息子と呼ばれる資格はないんです、と思っていたのに、父親からお前は紛れもなく私の息子だ、と態度と行いをもって示されました。これで息子はもう、息子の資格に相応しい生き方をする以外に道はなくなりました。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、これと同じことが私たちと天の父なるみ神の間にも起きているのです。そのことに気づきましょう。何が起きたのか、次に見ていきましょう。
私たち人間は、神の意思に反しようとする性向すなわち罪のために自分の造り主である神との結びつきを失ってしまいました。罪を持っているために神との結びつきを回復できず、他人に対しても自分自身に対しても良からぬことを考えたり行ったりして悲劇を繰り返す私たちでした。神は私たちをこの惨めな状態から助け出そうとして、それでひとり子のイエス様をこの世に贈られました。そして、罪のゆえに本当なら人間に課せられる全ての神罰を全部イエス様に負わせてゴルゴタの丘の十字架の上で死なせました。このように神は、ひとり子の犠牲に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を三日後に復活させて、永遠の命に至る道を私たち人間のために切り開かれました。
人間は、これらのこと全ては自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神はイエス様の犠牲に免じて私たちの罪を赦して下さり、私たちを自分の子として扱ってくれるのです。本日の使徒書の日課、第二コリント5章でパウロが言うように、イエス様の犠牲のおかげで神と私たちが和解できたのです。このようにして神の子とされた私たちは、神との結びつきを回復してこの世を生きるようになり、順境の時だろうが逆境の時だろうがいつも神から変わらぬ導きと助けを得られます。この世から別れた後も復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の御国に迎え入れらます。このように神は、神の子と呼ばれる資格を私たちに与えようとしてイエス様をこの世に贈って十字架と復活の業を成し遂げさせたのです。イエス様を救い主と信じる者はもう「自分は息子と呼ばれる資格はない」などと言ってはいられないのです。
それでは、神の子と呼ばれる資格を持つ者として相応しく生きるとはどんな生き方になるでしょうか?それはもう、神がイエス様を用いて実現して下さった罪の赦しの中に留まってひたすら復活に至る道を進んでいくことです。罪の赦しの中に留まるとは次のようにすることです。イエス様を救い主と信じる信仰を持ち洗礼を受けても罪は残ります。それが私たちの弱さや隙をついて神の意思に反するようなことを考えさせたり言葉に出させたり、時として行いに出させたりします。その時は必ず、それは神の意思に反することなのだと自分で認め、神にイエス様の犠牲に免じて赦しを祈り願います。その時、神はこう言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。赦しはゴルゴタの十字架で打ち立てられて今も揺るがずにある。これからは罪を犯さないようにしなさい。」このように神の意思に反することを反することと認め、揺るがずにある罪の赦しに自分を委ねていくとき自分の内にある罪を圧し潰していくことになります。自分が生きているのは神のひとり子の犠牲があるからとわかり、軽々しいことは出来なくなります。これが罪の赦しの中に留まることです。罪の赦しの中に留まり続けていくと、復活に至る道をひたすら進むことになります。これが神の子と呼ばれる資格を持つ者として相応しい生き方です。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
主日礼拝説教 2022年3月20日 四旬節第3主日
イザヤ55章1-9節
第一コリント10章1-13節
ルカ13章1-9節
礼拝をYouTubeで見る。後でもそこで見ることが出来ます。
1.イエス様と因果応報
本日の福音書の日課のはじめの部分は、ローマ帝国の総督ピラトが残虐行為を働いたという知らせをイエス様が聞いてどんな反応を示したかということです。ピラトの残虐行為とは、ガリラヤ地方からエルサレムの神殿に何かの祭事に動物の生け贄を捧げに来た人たちがいて、それを殺害させて、その血を生け贄の血に混ぜたということです。とても残虐な事件です。残虐な上に神殿でこのようなことがなされたのであれば、ユダヤ人が神聖と崇める神殿に対する大変な冒涜です。
これを聞いたイエス様はある出来事について述べます。それは、エルサレムの町のなかにあったシロアムの塔が倒れて、18人が犠牲になったという事故です。シロアムというのは、ヨハネ9章でイエス様が盲人の目を見えるようにしたシロアムの池がありますが、その近辺にあった塔と考えられます。イエス様が「あの(あれらのεκεινοι)18人」と言うように、聞いた人はすぐあの出来事かとわかるような、記憶に新しい出来事であったことが伺えます。
さて、報告した人たちは、この事件を通してイエス様に聞きたいことがありました。イエス様の言葉から彼らの関心事がみてとれます。イエス様の言葉はこうでした。お前たちは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、他のガリラヤ人よりも罪深かったからと思うのか?」つまり、報告者の関心事は、「罪深さの度合いが高いと、そのような災難に遭遇するのか?」ということだったのです。裏を返して言えば、「罪を犯さなければ、災難に遭遇しないのか?」です。つまり、報告者たちは「イエス様、こういう苦難災難というものはやはり、罪を犯したことの罰として起きるという因果応報の観点で説明がつくのでしょうか?」と聞きたかったのです。
これに対してイエス様は次のように答えます。3節です。「決してそうではない。」ギリシャ語のウーキουχιは通常の否定辞ウーουよりも強い否定です。イエス様は何を強く否定したのか?それは、災難に遭遇したガリラヤ人が遭遇しなかった他のガリラヤ人より罪深かったということではない、両者ともに同じくらい罪びとである、ということです。両者ともに同じくらい罪びとなので、その他のガリラヤ人も潜在的には災難に遭遇する可能性は同じ位あり、この時はたまたま事件のガリラヤ人が犠牲になっただけだということになります。そういう事件に遭わないのは罪がないからということではないのです。そうなると話はもう因果応報とは無関係になります。そういうわけで、「決してそうではない」は因果応報の観点を否定するものでした。
イエス様はこの「決してそうではない」を、塔の倒壊事故を話す時にも使います。5節です。ここでもイエス様は、塔の下敷きになった住民もそうならなかった住民も罪の深さには優劣はなく、両者ともに同じくらい罪びとである、と言うのです。両者とも同じくらい罪びとである、だから、犠牲者でない住民も潜在的には事故に見舞われる可能性はあり、この時はたまたま事故の住民が犠牲になっただけである。それなので、そういう事故に遭わないのは罪がないからということではないのだ、と。ここでも話は因果応報と無関係になります。そういうわけで、ここも3節同様、因果応報の観点を否定するものです。
ところが、どうしたことでしょう、イエス様は続けて、お前たちも悔い改めなければ皆同じように滅びる、などと言われます。そうなると、もし悔い改めず罪にとどまるならば、お前たちも同じような目に遭う、と言っているように聞こえます。裏を返して言えば、もし悔い改めれば、苦難災難には遭遇しない、と言っていることになります。それでは因果応報ではありませんか?「決してそうではない」と言って因果応報を否定しおきながら、結局は肯定しているのか?イエス様は矛盾していることを言っているのでしょうか?
2.イエス様にとって「滅び」とは何か?
実は、イエス様は何も矛盾していることは言っていません。イエス様が因果応報の観点に与していないこと、人間悔い改めれば苦難災難には遭遇しないなどと考えていないことは、例えばヨハネ16章33節を見ても明らかです。そこでイエス様は愛する弟子たちにさえ「お前たちには世で苦難がある」と言っています(ヨハネ9章3節も参照)。
イエス様は一体何を考えているのでしょうか?イエス様が因果応報の観点で言っているように聞こえてしまう大きな原因があります。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言う時、「滅びる」という動詞アポッリュミαπολλυμι があります。これを苦難困難に遭って命を落とすことと理解してしまうと因果応報に聞こえてしまいます。実は、この「滅びる」は「苦難災難に遭遇して死んでしまう」という意味ではありません。どんな意味でしょうか?
その意味がわかる最適な箇所があります。ヨハネ3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここでも「滅びる」は先ほどと同じアポッリュミです。この「滅びる」は、イエス様の言葉から明らかなように「永遠の命を得る」ことと反対のことです。そこで、まず「永遠の命を得る」とはどんなことか見てみます。それは、私たちがこの世を去る時、自分自身の全てを天の父なるみ神に委ねて、神の方でしっかり自分をキャッチしてくれる、そして復活の日に目覚めさせてもらって神の栄光に輝く朽ちない体を着せてもらって神の御国に迎え入れられる、これが「永遠の命」を得ることです。それで見ると、「滅び」はこれとは逆にこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、復活の日に御国に迎え入れられないことを意味します。
このように「滅びる」は、「この世で苦難災難にあって死んでしまう」という意味ではありません。イエス様にピラトの事件を報告した者にとって「滅び」は、このようなこの世で遭遇する苦難災難でした。イエス様にとって「滅び」は、この世の次に到来する新しい世で御国に迎え入れられないことでした。そういうわけで、イエス様の答えの意味は次のようになります。「お前たちは悔い改めなければ、この世を去った後、永遠の命を得られなくなってしまう。それがどんなに悲惨なことかは、この世にいてはわからないかもしれない。しかし、この世で残虐行為や不慮の事故に遭うことが悲惨なこととわかるのなら、将来の世で永遠の命に与れないことが悲惨ということもわからなければならないのだ。」
このようにイエス様にとって「滅び」とは、この世の次に到来する新しい世に関わる滅びでした。人間がこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、新しい世が来た時に永遠の命を得られないことが「滅び」でした。そうすると、もし人間が神にキャッチしてもらえて永遠の命を得れば、たとえこの世で苦難災難に遭って命を落とすことがあっても、それは「滅び」ではなくなります。先ほど引用したヨハネ16章33節でイエス様は弟子たちに「お前たちにはこの世で苦難がある」とは言いましたが、それゆえにお前たちは滅ぶ、とは言っていません。それでは、人間がこの世で永遠の命に至る道に置かれてそれを歩むこと、そして、歩みの途上で苦難災難に遭遇して、場合によっては命を落とすことになっても、滅ばずに永遠の命を得るということは本当に可能なのでしょうか?
3.神のもとへの立ち返り
それが可能だとわかる鍵は、イエス様の答えの「悔い改める」にあります。これはギリシャ語のメタノエオ―μετανοεωという動詞ですが、もともとの意味は「考えを改める」とか「考え直す」です。日本語の聖書では「悔い改める」と訳されます。ここで注意しなければならないことは、誰に対して悔い改めるかということです。もし私たちが思慮不足や身勝手さやのために他人を傷つけるようなことを言ってしまったり行ってしまった場合、それを後悔してその人に謝罪をするでしょう。この時、「悔い改め」は相手の人に向けられています。ところが、キリスト信仰では、他人に謝罪したり償いをすることは当然ながら、それに加えて「悔い改め」は創造主の神に対しても向けられることになります。なぜなら、隣人愛をせよという神の意志に反したからです。このようにメタノエオ―は、神に背を向けてしまったことを悔い改めて神に向きなおるという意味で「神のもとに立ち返る」と訳すことが可能です。
そこで「神のもとへの立ち返り」ですが、果たして人間は神から「よし、お前はしっかり立ち返った」と認めてもらえるような「立ち返り」ができるでしょうか?その「立ち返り」はどんなものか?そのことを少し考えてみます。
皆さんもご存知のように、十字架と復活の出来事の前のイエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第五の掟を破ったことになる、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第六の掟を破ったことになる、と教えます。そんなこと言ったら、十戒を外面上だけでなく心の中まで完璧に守れる人間は誰もいません。神の意思を完全に実現できる人間は存在しないのです。マルコ7章の初めにイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、ということでした。イエス様は、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、と教えます。つまり、人間の有り様そのものが神の神聖さに反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が神のもとへの立ち返りをしようとして手がかりになったのは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、掟を外面上は守っても宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現には程遠く、永遠の命を得る保証にはならないとイエス様は教えたのです。
人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世を去った後、神聖な神にキャッチしてもらえません。神が手を取ってくれて一緒に新しい世が誕生する大変動を乗り越えることが出来ません。復活の日にちゃんと目覚めさせてもらって神の国に迎え入れてもらえません。それではどうすればよいのか?人間のこの大問題に対して神自らが解決策を取って下さいました。それは、自分のひとり子をこの世に贈って、本当は人間が受けるべき罪の罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すという解決策でした。その後は人間の方が、この神のひとり子が果たした罪の償いはまさにこの自分のためになされたのだと受け止めて、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける。そうすると、イエス様が果たして下さった罪の償いはその人に効力を持ち始めます。その後ですが、日々、自分の内に残る罪を罪として認め、イエス様の犠牲に免じて赦して下さい、と神に祈り求めていきます。そうすれば神は、お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった、彼の犠牲に免じてお前の罪を赦す、だからこれからは罪を犯さないように、と言って下さるのです。
このようにして人間は、イエス様の十字架と復活のおかげで真の「神への立ち返り」の手がかりを得ることができました。それは、掟を外面上守って安心したり、宗教的儀式を積んで満足することではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、神が整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取り、その中に留まって生きることです。私たちの内に宿る罪が頭をもたげる都度に心の目を十字架の主に向け、そこから罪の赦しの再確認をして頂き、再び永遠の命への道を歩み出すことです。この時私たちは、罪に反対し、それを圧し潰す生き方をしています。神のみ前に立たされる日、神は私たちの生き方がそのようなものであったことを認めて下さいます。
4.神にキャッチしてもらおう
このようにイエス様が言われる「滅び」は、今の世に関係するものではなく、この次に到来する新しい世に関係しているのです。それなので、人間がこの世で遭遇する苦難災難は「神のもとに立ち返る」生き方をするキリスト信仰者にとっては「滅び」でもなんでもないのです。たとえ苦難災難のために命を落とすことになっても、その時神はちゃんとキャッチしてくれるのです。それくらい神は信仰者を守ろうとされるのです。でも、そうは言っても、やはり苦難災難の只中にいる時は、さすがにキリスト信仰者と言えども、神に守ってもらっているという気がしなくなるのではないかと思います。苦難災難に遭遇した時、信仰者はどう立ち振る舞ったらよいのでしょうか?この問いに対しては、本日の使徒書の第一コリント10章の個所がとても参考になります。
そこで使徒パウロは、イスラエルの民がシナイ半島で民族大移動をしていた時に起きたいろんな出来事はキリスト信仰者にとって反面教師になると教えます。長い大移動の中でいろんな危険や不自由や不足がありました。そのような時、神はいつも民を世話して守ってくれました。しかしながら、少しでも心配や不満が出ると民はすぐ神に対して文句を言い出し、神が遠ざかったように感じられた時は自分たちで像を造ってそれを拝みだして宴会騒ぎを始め神の怒りを招き罰として多くの者が荒れ野で命を落としました。
パウロはこれらの出来事は遠い過去の出来事として完結しているのではない、今を生きるキリスト信仰者に対して警告となるために記されているのだ、と言います。キリスト信仰者がこうした過去の出来事から発信される警告を重く受け止めねばならない特別な事情がありました。それは、信仰者が「世の終わり」に生きているということです(10章11節)。世の終わりとは物騒な言葉ですが、聖書では当たり前の観点です。世の終わりとは、天地創造の神が今ある天と地にとってかわって新しい天地を再創造し、再臨されるイエス様が死者を復活させて神の国に迎え入れる時のことです。その時がいつ来るかは神にしかわかりません。パウロが活動した時代は、それがもうすぐ来るという切迫感がありました。それはパウロの手紙の随所に見られます。特に第一テサロニケで強く表れ、第一コリントでも若い女性や未亡人に結婚や再婚を勧めないほどです。しかし、パウロの時代から2000年近く立ちました。まだこの世の終わりは来ていません。パウロは早とちりだったのでしょうか?イエス様は福音が世界の隅々まで伝わるまでは世の終わりは来ないと言っていました(マタイ24章14節等)。パウロはその言葉を知らなかったのでしょうか?パウロが活動していた頃はまだ福音書が完成していませんでした。それで、イエス様の言葉でまだ彼に伝えられていないものがあったとしても不思議ではありません。それと、パウロの頃はまだイエス様の復活の出来事から間もない頃でした。それで、イエス様に続いて死者の復活が起きるのはもうすぐと考えられたかもしれません。いずれにしても、復活したイエス様が弟子たちの目の前で天に上げられた日から今度再臨される日までの期間はどんなに長引いても、聖書の観点では私たちは「終わりの時代」を生きていることになります。
パウロは、世の終わりが近いからこそ、キリスト信仰者は出エジプト記のイスラエルの民に何が起こったかを教訓にしなさいと言います。困難な状況にあっても神は決して見捨てずに世話してくれたのに、ちょっと試練があると、すぐそれを忘れて文句を言ったり偶像にすがりついてしまうようではいけないのだ、と。そこで大事なポイントを教えます。10章13節です。君たちはこれまで試練を受けてきたと言っても、普通人間が受ける試練を超えるような度外れた試練はなかった。神は君たちを見捨てない忠実な方だから、君たちの持てる力を超えるような試練に遭わせたりはしない。試練に遭わせるようなことをしても、出口もセットで用意してくれているので、試練は耐えられるものになっている。それでは、ここで言う試練とはどんな試練でしょうか?
13節でパウロは「神は、あなたたちが自分の力を超えて試練を受けることを認めない」とか「出口を用意して下さる」と言っていますが、「認めない」も「用意して下さる」も未来形で言っています。パウロは将来の試練について言っているのです。それとは対照的に、これまで受けてきた試練は普通人間が受ける試練であったと現在完了形で言っています。ということは、将来の試練は普通人間が受ける試練を超えた、度外れな試練になります。それはどんな試練でしょうか?それは先ほども申し上げた、今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地が再創造される大変動の時の試練を意味します。なるほど、これなら普通人間が受ける試練を超えています。しかし、イエス様を救い主と信じる者は大丈夫、試練は自分の力を超えるものにはならないし、試練と共に出口が用意されると言います。出口とは神にキャッチしてもらえるということです。
私たちは恐らくそのような大変動を迎えないで、それが来る前にこの世から別れるのではないかと思います。その場合は復活の日まで眠りにつきます。しかし、その場合でも神にキャッチしてもらえることは同じです。天地の大変動のような度外れた試練の時に神にキャッチしてもらえるならば、度外れでない試練の時はなおさら神に守られているのではないでしょうか?
5.神はあなたの立ち返りを待っている
最後に本日の福音書の日課のもう一つのエピソードに関連してひと言申し上げて結びにしようと思います。イチジクの木についてのイエス様のたとえの教えでした。実を実らせないイチジクの木を役立たずと言って所有者が切り倒そうとする。それを園丁がかばって、肥料をやって世話するからもう一年待ちましょうと言う。まるで神の罰を受けないようにと私たちをかばって下さったイエス様のようです。ただ、ここの教えの主眼は、人間が罪の赦しの救いを受け取るのを神は永遠には待ってくれないということです。それなので、どうか、出来るだけ多くの人が一日も早く、神がイエス様を用いてして下さったことに気づいて神のもとに立ち返りますように。神が人々の一日も早い立ち返りを待っていることは、本日の旧約の日課イザヤ書55章でもはっきり言い表されています。
主を探し求めよ、主が見つかる時に
主を呼び求めよ、主が近くにおられる時に
神に逆らう者よ、その道を捨てよ
不正を働く者よ、その考えを捨てよ
主に立ち返れ、そうすれば主は憐れんで下さる
我らの神に立ち返れ、なぜなら神は何度でも何度でも赦して下さるからだ
דרשו יהוה בהמצאו
קראהו בהיותו קרוב
יעזב רשע דרכו
ואיש און מחשבתיו
וישב אל יהוה וירחמהו
ואל אלהינו כי ירבה לסלוח
主日礼拝説教 2022年3月13日(四旬節第2主日)
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創世記15章1-12、17-18節
フィリピ3章17節-4章1節
ルカ13章31-35節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
1.イエス様の再臨の日、あなたはどうするか?
本日の福音書の日課の個所は、あなたの命が狙われているから逃げなさいと促されたことに対してのイエス様の答えでした。命を狙うヘロデというのは、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスのことです。イエス様と弟子たちの一行は北のフィリポ・カイサリア地方からエルサレムに向かって南下する旅を続けているところでした。それで、この促しはガリラヤ地方を通過している時に言われたものでしょう。イエス様に促した人たちがファリサイ派というのは興味深いです。なぜなら宗教エリートのファリサイ派はイエス様と敵対していたからです。しかし、ファリサイ派というのは根は天地創造の神の目に適う者になりたい人たちで、それで律法を余すところなく厳格に守ることを是としていました。それなので中にはイエス様の教えを聞いて、この方は何も間違ったことを言っていない、本当に神から遣わされた者なのではと考えるようになった人もいました。その代表例はヨハネ福音書に登場するニコデモです。そう言えば、後にキリスト信仰を地中海世界に広めることになったパウロも元々は筋金入りのファリサイ派でした。
促しを聞いたイエス様の答えは先ほど朗読した通りです。わかりそうでわかりにくいと思います。二つのことがありました。まず、あの狐のような狡賢いヘロデにこう伝えよ、と言って、ヘロデに対する申し立てがあります。私は今日も明日も人々から悪霊を追い出し病気を癒して三日目に全てを終える、と言います。三日目に全てを終えると言うのは、言うまでもなくエルサレムで十字架の死を遂げた後三日目に神の力で復活させられることを意味しています。もちろん、聞いた人たちはこの時は何のことかわかりません。
33節で「だが、私は今日も明日もその次の日も自分の道を進まなければならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからだ」と言います。先ほど申しましたように、イエス様一行はエルサレムに向かって南下中です。それなのでガリラヤ地方を通過します。だからこの言葉は、自分はガリラヤ地方から出ていくが、それはヘロデが恐くて逃げるのではない、エルサレムで死を遂げなければならないという神の計画を実現するためにガリラヤ地方を離れるのだという意味でしょう。
イエス様の答えでもう一つ大事なことは、今向かっているエルサレムを嘆く言葉です。エルサレムは天地創造の神を崇拝し礼拝を盛大に執り行う神殿がある町です。当時は地中海世界きっての大都市でした。その神のおひざ元のような町が歴史を振り返ってみると、神の遣わした預言者たちを受け入れず殺してしまうという、神の御心を顧みない町になってしまったことが何度もありました。イエス様は今も変わらないことを嘆きます。神はエルサレムの人々を親鳥がひな鳥を翼の下に集めるように呼び集めようとしたのだが、ひな鳥は来ることを拒否してしまった。かつてもそうだったし今もそうだ、と。イエス様は神のひとり子なので、この神の呼びかけを自分がしている言い方をしています。
神の呼びかけに応じないとどうなるのか?かつては神罰として敵の大軍に攻められてバビロン捕囚が起きてしまいました。イエス様の時はどうなるのでしょうか?35節を見ると、「見よ、お前たちの家は見捨てられる」と言われます。「家」と訳されているギリシャ語のオイコスは神殿の意味もあります。フィンランド語訳の聖書は神殿と訳しています。ドイツ語は「神の家」と訳され、それは神殿を意味します。英語は日本語と同じ「家」でした。私は神殿の方がいいと思います。それで35節を原文を直訳すると、「あなたたちの神殿はあなたたちに渡される」です。「あなたたちに渡される」とは分かりにくいですが、要は、神は神殿から手を引く、後はお前たちで勝手にやれ、私はもうかかわらない、と神崇拝の大事な拠点なのに神の後ろ盾を失ってしまうということです。世界史上の出来事としてエルサレムの町は西暦70年に神殿ともどもローマ帝国の大軍に破壊されてしまうので、イエス様の預言は当たってしまったことになります。
35節のイエス様の言葉で一番わかりにくいのは、「お前たちは『主の名によって来られる方に祝福があるように』と言う時が来るまで、決して私を見ることがない」と言っているところです。これは何か?もう少し後でイエス様は旧約聖書の預言通りに子ロバに乗ってエルサレムに入城します。その時、群衆はユダヤ民族の解放者が来たと思って歓呼の声で出迎えます。その時、この言葉「主の名によって来られる方に祝福があるように」を叫びました。それなのでイエス様はエルサレムに入城するまでは誰も自分を見ないと言っているのでしょうか?この言葉はエルサレムの住民に言っているように見えますが、実際は神の呼びかけに応じない人たち全てのことを言っています。エルサレムへの道中、イエス様は賛同者だけでなく多くの反対者にも遭遇します。中にはエルサレムから来て観察して宗教指導者に報告する者もいます。それなので、みんなイエス様をずっと見ているわけです。なのに「決して見ることがない」とはどういうことでしょうか?
イエス様を決して見ないというのは、彼がこの地上にいる時のことではなくて、復活したイエス様が天に上げられて今は天の父なるみ神の右の座している期間のことです。それで、私たちが「主の名によって来られる方に祝福があるように」と言うようになって彼を見る時とは、イエス様が再臨する日のことです。イエス様の再臨の日とは、今の天と地が終わりを告げて天と地が新しく再創造される時、死者の復活が起こって最後の審判が行われる日です。その時、神に相応しいと見なされた者は新しい天地のもとに現れる神の国に迎え入れられます。相応しいと見なされない者は迎え入れられないので、私たちとしては自分はどちらになるだろうかと今から心配の種になる日です。
それなのでイエス様が再び来られる日に「主の名によって来られる方に祝福があるように」と言う時には、二つの異なる言い方が生じます。一つは、親鳥の翼のもとに身を寄せるひな鳥のように神の呼びかけに応じた者が言う場合です。これは神に相応しいとされた者です。この人たちは眠りから目覚めさせられた時、この言葉を、ああ、主よやっと来て下さったのですね、長い間お待ちしていました、と安堵の心で言うことになります。もう一つの言い方は、神の呼びかけに応ぜず神の意思など気にかけない生き方をした者がこの時になって事の重大さに気づいて言う場合です。その時その人たちは、生きている人と死んだ人双方をこれから裁こうとされる再臨の主を目の前にして、その権力には逆らえないと観念してこの言葉を言うことになります。
それなので、今日の日課のイエス様の言葉は、イエス様の再臨の時、私たちはどっちの意味でこの言葉を言うことになるのかを突きつけているのです。この世の人生で神の呼びかけに応じて親鳥の翼の下で守られるひな鳥のように生きてきて再臨の日に大いなる安堵の気持ちで言うことになるのか。それとも、神の呼びかけに応ぜず神の守りなどいらないと言って生きてきて、再臨の日になって主の威光をもう否定できないと観念して恐れおののいて言うのか。
2.信仰義認に生きる
イエス様の再臨の日に私たちがこの言葉を大いなる安堵の気持ちで言えるようになるためには、この世の人生で神の呼びかけに応じてひな鳥のように守られて生きることが大事です。神の呼びかけに応じて守られて生きるということについて、今日の旧約聖書の日課に出てくるアブラハムの信仰が大いに参考になります。それを見てみましょう。この時点ではまだアブラハムはまだアブラムという名前です。17章で神からアブラハムという名前にしなさいと言われます。アブラハムはヘブライ語の父、多い、民族の三つの意味が組み合わさった単語です。それで、多くの諸民族の父という意味を持ちます。
今日の日課の中に、キリスト信仰にとって決定的に大事なことがあります。それは6節です。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」なぜこの箇所がキリスト信仰にとって大事かと言うと、ここに信仰義認の考えがはっきり出ているからです。信仰義認とは、高校の世界史の教科書にルターの宗教改革のところで出てくる言葉ですが、簡単に言うと読んで字のごとく、人は信仰によって神から義と認められるということです。この意味の裏側に、人は善い業を行うことで神から義とは認められないという意味があります。それで信仰義認とは、人は善い業を行うことでは神に義と認められるのではなくイエス様を救い主と信じる信仰によって義と認められるということです。
そこで、イエス様を救い主と信じる信仰とは何かがわからなければなりません。それは、イエス様が本当に私たちの内にある罪、神の意思に反しようとする性向を全部引き取って神の罰を私たちの代わりに受けて下さった、まさに私たちが受けないですむように身代わりになって受けて下さった、それでイエス様を救い主と信じることです。このイエス様の身代わりの罰受けはエルサレム郊外のゴルゴタの丘の十字架で起きました。加えてイエス様は、神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超える永遠の命に至る道を私たちに切り開いて下さいました。その道の行く先に復活があります。
イエス様がそのような凄いことを私たちにされた、だから彼は救い主なのだと信じて洗礼を受けると神から義と認められるというのキリスト信仰です。その時善い業というのは神に認められるためにするものではなくなります。先に神から義と認められてしまった、しかも神が自分のひとり子を犠牲にすることで認められてしまった、これは一体何なんだと驚きます。イエス様の十字架を思えば思うほど、そのおかげで何の取り柄もなかった自分が神から義と認められてなんと畏れ多いことか、神から義と認められたので今自分は神の守りと導きの中を復活の日を目指して歩ませてもらっている、そのことを思い知れば思い知るほど、神の意思に反することには手を染めないようにしよう、関わらないようにしようというふうになります。時として神の意思に反することを心に思ったり、ひょっとしたらも弱さや隙をつかれて言葉に出したり行為に出してしまう時もあるかもしれない。しかし、神からの罪の赦しはゴルゴタの丘の十字架で打ち立てられて揺るがなくあることはわかるので、また新しくやり直せます。このようなサイクルの中に入ると、善い業は自分でしようしようと意識してするものではなくなって、植物が育って実を結ぶように出てくるものになります。
イエス様を救い主と信じる信仰に生き、罪の赦しの中に留まって生きるとどういう風になるかについては、一つの例としてパウロがローマ12章で述べていることを見ればわかります。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思い、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈り、迫害する者のために祝福を祈り、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き、自分を賢い者とうぬぼれず、だれに対しても悪に悪を返さず、他の人と平和な関係が築けるかが自分次第という時は迷わずそうする、復讐はしない、全ては最後の審判の神の判断に委ねる、だから敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々です。
ここで「神から義と認められる」ということを少しはっきりさせてみましょう。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」この文を少し詳しく見てみます。「アブラムは主を信じた」と言うのは前にある出来事の流れでみなければなりません。何があったかと言うと、アブラムはもう90歳近くになって子供はもう無理、相続のための家系は潰えると諦めていました。その彼に神は諦める必要はない、お前には後継ぎが生まれる、と言ったのです。アブラムに星一杯の夜空を見せて、お前の子孫はこれ位になるとさえ言います。その時にアブラムは信じたのです。それで彼が主を信じたというのは、神が言われたこと約束されたことは人間の目から見ても常識で考えてもありえないことであっても、神が言われたのであればそうなると信じたことです。自分の目で見たこと感情で感じたこと理性で考えたことよりも、目や感情や理性はそんなのあり得ないと言っていることでも神がそうだと言われたらそうなのだと信じたことです。目や感情や理性に黙ってもらい、神の声の方を聞いて神の言葉を先に立て、他のことはその後にしたということです。
アブラムがそのように信じたことを「神が彼の義と認めた」と言います。それはどういうことでしょうか?ヘブライ語の原文を少し解説的に言い換えると、アブラハムがそのように目や感情や理性に黙ってもらい神の言うことを信じた、そのことを神は彼にとっての義と認めてあげた、です。もう少しわかりやすく言うと、アブラムがそのように信じたので神は彼を義と認めた、です。目や感情や理性を脇に置いて神の言うことをその通りだと言う、それくらい神に信頼を置くと神に義と認められるのです。
そこで、神に義と認められるとはどういうことかをわかるようにしましょう。そもそも「義」とは何なのか?ヘブライ語でツェダーカーצדקה、ギリシャ語でディカイオシュネーδικαιοσύνηです。それらが日本語で「義」と訳されるのですが、漢字の「義」という言葉をみて意味が分かるでしょうか?もちろん意味を辞書みたいに説明することは出来ます。しかしそのように説明されても、わかったようでわからないというのが大方の反応なのではないかと思います。そこで、「義」の意味を説明するのではなく、神に義と認められるとどうなるかを見て「義」をわかるようにしていこうと思います。
神に義と認められるとどうなるか?神はいつも共におられ、どんなことがあっても共におられ、この世の人生でもこの世の後に来る世においても共におられるというふうになります。罪を持っているにもかかわらず私たちは神聖な神と結びつきを持てて、この世と次に来る世の双方をその結びつきの中で生きるようになります。神に義と認められるとこのようになります。イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がまさにそうです。イエス様のおかげで神との結びつきを回復できて、この世の人生では神の守りと導きを絶えず受けながら復活に至る道を進み、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられる、これが神に義と認められた者の全人生です。
アブラムの出来事はイエス様がこの世に贈られる何千年前のことでした。しかし、アブラムの信仰はキリスト信仰と同じです。目や感情や理性よりも神に信頼を置き神の御言葉を先に立てる信仰です。イエス様が十字架にかかったことや死から復活されたことを目で見ていません。神の意思に反する罪を持っていることも時として感じることはあるが時として感じません。この世の人生の後に、この世はいつか終わりが来て新しい天と地が再創造されるなど考えられません。ましてやそこに自分が復活して迎え入れられるなどと考えられません。しかし、目や感情や理性が信じられないと言っていることを私たちキリスト信仰者は信じています。だから、私たちとアブラムは同じ立場にあります。宗教改革のルターも、アブラハムのことをキリスト到来以前のキリスト教徒と言った位です。
目や感情や理性が信じられないと言っているのに信じることが出来るというのは、イエス様を救い主と信じることの他にもいろいろあります。イエス様を信じることから始まって沢山のことが出てきます。例えば苦難や困難に遭遇した時、私たちは神の守りや導きが失われたと感じがちです。しかし、それは私たちの目や感情や理性がそう見て感じて言っているだけで、神の守りと導きはなくなっていません。イエス様を救い主と信じる信仰に生き、神の罪の赦しの中に留まる限り、神との結びつきは非常時にあっても平時と全く変わらず、復活の道を踏み外すことなく進んでいます。それなのでキリスト信仰者は、希望のない状態にあっても希望があると言えるのです。まさに詩篇23篇4節の心意気でいるからです。
たとえ我、死の影の谷を往く時も禍害を怖れじ、
汝、我と共に在せばなり、
汝の鞭、汝の杖、我を慰む。
גם כי אלך בגיא צלמות לא אירא רע
כי אתה עמדי
שבטך ומשענתך המה ינחמני
そして、主の再臨の日と復活の日を目指して進む私たちは、苦難と困難の中にあってもパウロと一緒に堂々として次のように言います。
されど我らの国籍は天に在り、
我らは主イエス・キリストの救い主として
その処より来たり給うを待つ。
ημων γαρ το πολιτευμα εν ουρανοις υπαρχει
εξ ου και σωτηρα απεκδεχομεθα κυριον Ιησουν Χριστον,
主日礼拝説教 2022年2月20日顕現節第7主日 スオミ教会
創世記45章3-11,15節
第一コリント15章35-38、42-50節
ルカ6章27-38節
礼拝をYouTubeでみる。
1.はじめに
今日のイエス様の教えはとても難しいです。言っていることは簡単に理解できます。しかし、言っている内容は私たちには実行不可能なことばかりです。それで難しいのです。まず、汝らの敵を愛せよ、汝らを憎む者に良くしてあげよ、これは崇高な理想に聞こえます。実行は難しくとも理想としてなら受け入れられると多くの人は考えるでしょう。ところが、その後から大変になってきます。汝らを呪う者らを祝福せよとか、汝らを侮辱する者らのために祈れとか。お前なんか地獄に落ちてしまえと罵る奴になんでまた、神様あの人を祝福してあげて下さい、などと祈らなければならないのか?言葉や暴力で傷つける奴のためになんでまた祈ってあげなければならないのか?極めつきは29節です。汝の頬を打つ者にもう一方の頬も向けよ。つまり、頬を打たれても仕返しをしないどころか、こっちの頬もどうぞ、と差し出せとは、イエス様は一体何を考えているのか?そうすることで相手が自分のしたことの愚かさに気づいて恥じ入ることを狙っているのか?もちろん、そうなるに越したことはないですが、果たしてそんなにうまくいくのだろうか?むしろ相手はつけあがって、お望みならそっちの頬も殴ってやろう、となってしまわないだろうか?イエス様は少し考えが甘いのではないか?
これに続く教えも、そんな無茶なと言いたくなります。汝の上着を取る者に下着もくれてやれ、欲しがる者に与えよ、汝のものを奪う者から取り返そうとするな、などと。そんなことでは泥棒や強盗にさせたい放題ではないか?十戒には盗むなかれという掟があるのに、それを守らない者をのさばらせてしまうではないか?汝殺すなかれという掟もあるのに暴力を振るう者に対してもっと殴ってもいいなどとは。キリスト信仰者はこういうふうにしなければいけないのかと聞かれて、そうです、なんて答えたら、もう誰も信仰者になりたいと思わないでしょう。実は、イエス様はこれらの難しい教えを通してキリスト信仰者がキリスト信仰者である所以について大事なことを教えているのです。自分には出来ないと言って遠ざけてしまうのではなく、これらの教えを目の前においてイエス様が本当に教えようとしていることを考えてみなければなりません。それをしないで、出来る出来ないと議論するのは意味がありません。
2.神が与えた賜物にではなく与えて下さる神に固執せよ
この他にもイエス様の実行困難な教えは聞く人読む人の心を揺さぶる試練を与えます。その一つの例として、金持ちの青年がイエス様に永遠の命を得て天の御国に入れるために何をすべきかと聞いた出来事があります(マタイ19章、マルコ10章、ルカ18章)。本日の日課ではありませんが、その出来事でイエス様が教えていることがわかると今日のところで教えようとしていることがわかってきます。これは、聖書を理解する際には聖書の他の個所を基にして理解するというやり方です。聖書の解釈は聖書にさせると言ってもよいでしょう。
さて、イエス様は青年に十戒を守れと言います。青年はそんなものは子供の時から守ってきた、まだ何が足りないのかと聞き返します。イエス様はその以前に山上の説教で十戒について教えた時、殺さなければOK、不倫をしなければOKではない、兄弟を言葉で傷つけたり心の中で傷つけを考えただけでも同罪、異性をふしだらな目で見ただけでも同罪と、神は心の有り様まで問うていると教えていました。金持ちの青年の時は、そういうふうには教えませんでしたが、それでも心の有り様を突いてくることを言います。「お前には足りないことが一つある。全財産を売り払って貧しい人に分け与えよ。そうすればお前は天に富を積むことになる。それから私に従ってきなさい。」青年は悲嘆にくれて立ち去って行きました。
このイエス様の教えは2つのことを明らかにしています。その2つのことが本日の箇所を理解する鍵になります。一つは、人間は救いを自分の力で獲得することはできないということ。もう一つは、人間は賜物を与えて下さる神よりも与えてもらった賜物に固執してしまうということです。
まず、人間は救いを自分の力で獲得できないということについて。それならば救いはどうやって得られるのでしょうか?それに答える前に、そもそも「救い」とは何かわからないと話になりません。重い病気が治ったり、貧困から脱することができると、大抵の人は「救われた」と言います。もちろん、そういう切実な願いが叶うのは大事なことです。ただ、キリスト信仰で「救い」と言ったら、もっとスケールの大きな話です。要約して言うと救いとは、この世の人生を終えた後でいつか将来この世の天と地がなくなって新しい天と地が創造されて復活の日という日が来る、その時に復活させられて、本日の使徒書の日課(第一コリント15章)で言われるように、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられること、これが救いです。
そう言うと、救いとは遠い将来のことで今ある天と地がなくなって新しい天と地が出来た時のことか、それじゃ今のこの世の人生には救いはないのかと言われてしまうかもしれません。そうではありません。キリスト信仰者にとってこの世の人生の日々は復活の日に向かう日々になります。復活させられて神の御国に迎え入れらえる日を目指して、今はこの世で父なるみ神の守りと導きの中で日々を進んでいきます。神が守って下さる導いて下さるというのは、苦難や困難があるとそんなものないと疑ってしまいます。しかし、神の意図はイエス様を救い主と信じる者が間違いなく復活の日を迎えられるようにすることです。それなので、神の守りと導きは時として人間の理解を超えた仕方で現れます。そのことについて本日の旧約の日課、創世記45章でヨセフが最高の信仰の証しをしています。それについては後で見てみましょう。
キリスト信仰では救いとは、将来の復活の日に復活の体を着せられて永遠に神の御国に迎え入れらえる、それで今のこの世では神の守りと導きの中でそこに至る道を進むことができる、これが救いです。
そこで、救いは人間の力では獲得できないことを肝に銘じておかないと金持ちの青年のようになってしまいます。それでは自分の力でできなければどうやって獲得できるのか?それは、人間が神の意思に反しようとする罪を持っているために神との結びつきを絶たれて復活に与れない状態になっている、その状態を神のひとり子であるイエス様が解消してくれたことによってです。イエス様はどうやってそれを解消したのか?それは、本当だったら人間が受けるはずの罪の神罰をゴルゴタの十字架で私たちの代わりに受けて下さったことによってです。そこで、今度は人間の方がイエス様の死は本当に自分のための犠牲の死だったと受け入れて、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける、そうするとイエス様の果たしてくれた罪の償いがそのままその人に入ります。それでその人は罪を償われた者になって、罪を償われたから神との結びつきを回復できて復活の日に向かって神の守りと導きの中で進んでいくことになります。そのようにイエス様が果たして下さった罪の償いと罪からの贖いを信仰と洗礼でもって受け取って自分のものにする。このようにキリスト信仰では救いは神主導です。人間はヘリ下って受け取る立場です。
人間は救いを自分の力で獲得できないことに加えて、金持ちの青年の話が教えているもう一つの大事なことは、人間は賜物を与える神よりも与えられた賜物に固執してしまうということです。神は固執する相手を是正するために時として手荒いことをします。賜物に対する執着が強ければ強いほど、神の是正は痛いものになります。金持ちの青年の場合がそうでした。賜物を持っていてもそれに固執しないで神に固執することは可能でしょうか?宗教改革のルターはキリスト信仰者の賜物に対する心は次のようであるべきと教えています。
「私には神が与えて下さった良い賜物が沢山ある。しかし、それらは私が喜びをそこからだけ得られると考えてしまう位に愛しいものになってはならない。私はそれらを、神がお許しになる期間大事に用いよう、神の栄光が増し加わるように用いよう、自分の必要を満たす以上には用いず、隣人の役に立つように用いよう。もし神が賜物をお与えにならないと言うのなら、私はそのために起こる危険や不名誉を甘んじて受けよう。というのは、賜物を与えて下さった神を持たないというのは恐るべきことで、それに比べたら賜物を持たない方がましなのだから。」
本日の福音書のイエス様の教え、奪う者から取り返すな等の教えについては、十戒を思い出せば神が盗みや強奪を放置せよなどと言うつもりはないことは明らかです。それでここは、人間が神を脇に押しやって賜物に執着しないようにということをショッキングな言い方で教えていると理解すべきでしょう。
3.この世で正義は不完全だが最善を尽くし復活の日に清算してもらおう
敵を愛せよ、頬を差し出せも文面だけで考えず、聖書のキリスト信仰の観点で見なければなりません。イエス様は山上の説教で同じことを教えていました。そこでは、神は善人にも悪人にも雨を降らせ太陽を輝かせると言っていました。これを聞いたり読んだりした人は、神の寛大さ、心の広さに驚くかもしれません。しかし、よく考えるとこれはどうだろうか、こんなに悪人に気前がいいというのは悪人をいい気にさせてしまわないか、神は罰を下さず見逃してくれているとつけあがってしまわないか?これでは正義がなさすぎるのではないか?
しかし、そうではありません。神は見境のない気前の良さを言っているのではありません。もし悪人に雨を降らさず太陽を輝かせなかったら悪人は干からびて滅んでしまいます。神がそうならないようにしているのは悪人が神に背を向けている生き方を方向転換して神の許に立ち返る生き方に入れるチャンスを与えているのです。神がそのような考えを持っていることはエゼキエル書18章23節と33章11節を見れば明らかです。もし悪人がそういう神の思いに気づかずにいい気になっていたら、神のお恵みを裏切ることになります。最後の審判の時に神の御前に立たされた時に何も申し開きできなくなります。
敵を愛せよ、迫害する者のために祈れというのはこうした神の視点で考えます。自分を傷つける者に対して、あなたを愛していますなどと言って傷つけられるのを甘受するということではありません。目を覚まさなければなりません。神が主眼とするのは悪人が方向転換して神のもとに立ち返ることです。だから、危害を及ぼす者のために祈るというのは、まさに、神さま、その人があなたに背を向ける生き方をやめてあなたのもとに立ち返ることが出来るように導いて下さい、という祈りです。これが敵を愛することです。この祈りは、神さま、あの人を滅ぼして下さい、という祈りよりも神の意思に沿うものです。もしそれでその人が神のもとに立ち返れば迫害はなくなります。その祈りこそが迫害がなくなるようにするのに相応しい祈りです。
ここで一つ気になることが出てきます。それは、こうした神の視点を持って危害を及ぼす者に向き合うのはいいが、危害を及ぼすこと自体に対しては何もしなくてもいいのかということです。そうではありません。法律で罰することやその他の救済機関の助けを使わなければなりません。十戒で他人を傷つけてはいけないというのが神の意思である以上は、傷つけることを放置してはいけません。ただ、法律で下される罰や定められる補償が十分か不十分か妥当かどうかという議論が起きてきます。そんな程度では納得できないということも出てきます。逆に、それは行き過ぎではないかということも出てきます。また、肝心の救済機関がちゃんと機能していないという問題もあります。こうした正義の問題についてのキリスト信仰の見解の基本には復讐はしないということがあります。ローマ12章でパウロが教えるように、復讐は神が行うことだからです。神が行う復讐とは最後の審判のことです。神の目から見て不十分だった補償は完全なものにされ永遠に続きます。逆に不十分だった罰も完全なものにされ永遠に続きます。これで完全な正義が永遠に実現します。黙示録21章で復活の日に神の御国に迎え入れられた者たちの目から全ての涙が拭われると言われていることがそれです。
キリスト信仰者は、社会に十戒を破るようなことを放置しないが、法律や救済機関を用いる時は復讐心で行わない。それは復活とそれに先立つ最後の審判で神が実現する完全な正義を信じているからです。復讐心で行わないことは、パウロが教えるように、危害を及ぼした者が飢えていたら食べさせる、乾いていたら飲ませる用意があることに示されます。危害を及ぼす者にそういうことをするのは、悪人とは言え可哀そうだからということもあるかもしれません。しかし、危害が大きければそんな気持ちは起きないでしょう。ここでパウロの言わんとしていることは、危害が大きかろうが小さかろうが、どんな感情を持とうが関係ない、食べさせ飲ませるのは神の意思だからそうしなさいということです。法的手段に訴えたり救済機関を用いたりすると同時に心は神の意思に直結しているのです。
復讐心で行わないということには、神の命令があるからということの他にもう一つ大事なことがあります。それは、キリスト信仰者自身が神から罪の赦しを受けたという立場にあるということです。神から罪の赦しを受けたということがどれほど大きなことかがわかると復讐心のエネルギーは削がれていきます。神が贈られたひとり子の十字架と復活の業のおかげで自分は神の意思に反する罪を持っているにも関わらず、神は自分を子と扱ってくれて、復活に向って進む自分を毎日道を踏み外さないように迷わないように守り導いて下さっている。そこはこの世の不完全な正義が完全にされて全ての涙が拭われるところだ。神の意思に反する罪を持ち汚れや至らないところが沢山ある自分だが、私はただただイエス様が成し遂げて下さった罪の償いを肌身離さず生きている。その自分を父なるみ神は子と扱ってくれて、復活に向って進む自分を毎日守り導いて下さっている。
本日の福音書の日課の後半で、「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうれば、あなたがなにも与えられる。あなたがたは自分の量る秤で量り返される。」イエス様のこの教えはまさにキリスト信仰者に向けられています。これを述べた時点ではまだ十字架と復活の出来事は起きていないので聞いた人たちは何ことが意味が全然分からなかったでしょう。しかし、十字架と復活の後は、この地上に神からの罪の赦しが打ち立てられ、復活に至る道が切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は神から復活に至ることができる大いなる赦しを頂いたのです。この信仰に留まり復活の希望を携えて神の守りと導きの中で進む者は、もう裁かれず罪びとに定められず赦されているのです。そのような人が、私は裁く、罪びとに定めてやる、赦さないと言ったら、神はがっかりでしょう。私がお前に与えたものをよく見なさい、私がお前にしたようにお前も周りの人たちにすべきではないか、と言われてしまうでしょう。イエス様の教えは私はできない、できない、絶対できないと言い張る人への警告です。もちろん、受けた危害の大きさが甚大ならば赦すなんて遠い世界のことに思えます。しかし、罪を赦すとは罪を許可するという意味ではありません。罪は罪としてこの世では不完全かもしれないが罰せられなければなりません。これはキリスト信仰者も否定しません。ただそれを復讐心と無関係に行えるようにする、心と目を復活に向けて復讐心から解放されて行えるようにするということです。そのために神がイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせて下さったのです。この世では正義は不完全なものだが、キリスト信仰に立って最善を尽くし、足りない部分は後で神に清算してもらうということです。
4.ヨセフの信仰の証し
本説教で、キリスト信仰者とは復活の希望を携えて神の守りと導きの中でこの世を生きる者であるということを繰り返し申しましたが、この世では神の守りと導きがあると言っても、苦難や困難があると本当にあるのか疑わしくなります。しかし、それでもあるということを本日の旧約の日課でヨセフが証ししていますので、それを終わりに見ておきましょう。
ヨセフの人生は、皆さんご存じのように波乱万丈でした。父ヤコブの寵愛を受けて兄たちの嫉妬を買い、エジプトに奴隷として売られてしまいます。エジプトの王ファラオの宮廷役人に仕えている時も神の意思に従い不正なことには手を染めなかったにもかかわらず、不倫の濡れ衣を着せられて牢獄に入れられてしまう。その後もいろいろありますが、ファラオの見た夢の意味を解き明かしたことがきっかけで王室に仕える身分となり、最後は王国の行政の長にまでのぼるつめるところまで行きます。その時オリエント世界を大飢饉が襲いました。エジプトはヨセフの食料備蓄対策が功を奏して難を免れます。カナンの地にいたヨセフの父や兄弟たちは食料に困りエジプトに支援を求めにやって来る。宮殿で兄たちは目の前にいる高官がヨセフだとわかりません。そこでヨセフは自分の正体を明かすという場面です。そこでヨセフは、自分をエジプトに送ったのは兄たちではない、肉親たちが助かるようにと前もって神が送ったのだと言います。自分をエジプトに送ったのは神だと何度も繰り返して言います。このヨセフの半生についてルターが次のように説き明かししていますので、それを引用して本説教の結びとします。
「神のこの世での統治の仕方がいかに人間の理解を超えるものであるか、そのことについてヨセフの事例も聖書の数多くの登場人物と同じように我々によく教えてくれる。実に神は、悪魔や死が目前にあると思われるようなところで実は直ぐそばにおられるのだ。ヨセフも、エジプトに売られた時はさすがに神に見捨てられたと思ったであろう。しかし、神は一時たりともヨセフから目を離さず絶えず彼の後をついて行ったのだ。ヨセフが異国に売り飛ばされて、そこで何年も何年も試練に次ぐ試練を受けなければならないようにしたのは確かに神自身であった。あたかも神などもう近くにはおられないと思わされる位にそうされたのだ。しかし、神が定めた時が来たとき、神はエジプトの国をその手に委ねるほどにヨセフを高い位につけたのだ。そこに至るまでヨセフは神を信じて忍耐強く待たなければならなかった。
父なるみ神は我々にも同じようになさるはずだ。もし、我々もヨセフと同じように神を信じて立ち続けることを学んでいさえすれば。我々にも、ヨセフの時代にこの世を統治していた同じ神がおられるではないか。我々にも同じ全知全能の神と神の約束の言葉があるではないか。神は我々を見捨てることはしないという約束だ。しかし、次のことは覚えておいてほしい。神は、栄誉を与えようとする者を最初不名誉に陥れ、大いなる喜びで満たしたい者を最初悲しみと心の苦しみで満たすということだ。こうしたことを神は特に選ばれた者たちに対して行う。神が彼らを底深い所に沈めれば沈めるほど、彼らを無価値にすればするほど、それ以上に彼らを高い所に引き上げて栄光の座につけるのである。」
主日礼拝説教 2022年2月13日顕現節第六主日
エレミア17章5-10節、第一コリント15章12-20節、ルカ6章17-26節
本日の聖書日課は、福音書がルカ6章のイエス様が群衆に教えを宣べるところです。内容的にマタイ5章の山上の説教と同じです。誰が「幸いな」かについて教えます。マタイでは「幸いな人」についてだけですが、ルカでは「不幸な人」についても教えます。使徒書の日課は第一コリント15章のパウロの教えです。キリスト信仰者の中に復活なんかないと主張する人がいて、それに対してパウロが、いや復活はある、と反論するところです。旧約の日課エレミヤ17章は誰が呪われた者で誰が祝福された者かについて述べています。
これら3つは語られたり書かれたりした時代を見てもエレミヤからパウロまで500年以上の開きがあるものですが、何度も繰り返し読むと共通項が見えてきます。3つとも、キリスト信仰者にとって復活の視点を持ってこの世を生きることはとても大事であることを教えています。今日はそのことを見ていこうと思います。それで説教題は「キリスト信仰者よ、復活の視点を見失うな」になりました。
まず、ルカの日課を見てみますが、今申しましたように、マタイ5章のイエス様の山上の説教と同じ出来事を扱っています。しかし、内容が少し異なっています。4つの福音書の記述を見比べると同じ出来事なのに書き方が違っていることがよくあります。これはどう考えたら良いのでしょうか?以前にもお教えしましたが、簡単に復習します。次のようなことです。本日のマタイとルカの場合ですと、二人とも自分たちが入手した記録や資料を基にしています(それらは重複しているものもあれば、個別のものもあったでしょう)。特にマタイの場合はこれらの資料の他に直接自分の目で見、耳で聞いたこともあったでしょう。それに加えて自分が知らなかったこと見落としていたことについても資料が出てきたのです。さあ、それらをどうまとめるか?
福音書の書き手が手にした資料というのは、手にするまでに何があったかと言うと、まず最初に直に見聞きした目撃者たちがいます。それから、彼らから口頭で伝えられた人たちがいます。さらに口頭で聞いたことを書き留めた人たちがいます。そうした伝承の流れの中で、ひょっとしたら自分の観点で手短にしたりとか逆に解説を施して長くしたということが起こります。そうすると書かれたことは史実を正確に反映していないのではという疑いが起きるかもしれません。
しかし、ここで忘れてならない大事なことは、伝えたり書き留めたりした人は自分の観点で手短にしたり詳しくしたりしたわけですが、どんな観点に立ってそうしたかということです。伝えたり書き留めた人たちの観点はみんな共通しています。まず、イエス様というのは創造主の神がこの世に贈られた神のひとり子であり、その神のひとり子が十字架にかけられて人間の罪を神に対して償ってくれたということ。そしてそのイエス様は死から復活されて永遠の命に至る道を人間に切り開かれたということ。さらに、それら全てのことは旧約聖書の預言の実現として起こったということです。これは言うまでもなくキリスト信仰の観点です。みんなこの観点を持って見聞きしたことを記憶して伝えて書き留めていったのです。それならば手短にしようが解説を施そうが、みんな同じ観点に立ってやったわけだからキリスト信仰の真実性には何の影響もありません。むしろ、いろんな記述があることで同じ出来事をいろんな角度から見ることが出来、信仰に広さと深みを与えます。それなので、いろんなバージョンがあっても同じ信仰の観点で書かれていることを忘れず、それらを全部神の御言葉として扱い、総合して全体像を掴むことが大事です。
今日のルカの個所には、復活の視点がはっきり出ています。このことを見る前に「幸いな人」と言っている「幸い」とは何か、それは「幸せ」とどう違うのかについて触れておきます。「幸せ」はこの世的な良いもの、良いことと結びつきますが、「幸い」はこの世を超えたことに関係します。聖書には終末の観点があります。この世はいつか終わりを告げて新しい天と地が再創造される、その時「神の国」が唯一揺るがないものとして現れるという観点です。終末論とよく言われますが、終末の後にも続きがあるので新創造論と言うのが正確でしょう。新創造の時に現れる神の国は、死から復活させられてそこに迎え入れられる人たちを構成員とします。そこは、黙示録で言われるように、神があらゆる涙を拭って下さり、死も苦しみも労苦もなく永遠の命を持てて生きられるところです。そのような神の国に迎え入れられる人、そしてこの世ではそこに至る道に置かれて歩む人が「幸い」な人になります。23節で「その日には、喜び踊りなさい」という「その日」とは復活の日、神の国に迎え入れられる日のことです。
この世で貧しかったり飢えていたり泣いている人というのは確かに「幸せ」ではありません。しかし、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたキリスト信仰者の場合は、復活に至る道に置かれてそこを歩むので最終的には全てが逆転する復活の日を迎えることになるのです。この世での立場と境遇が逆転して欠乏していたことは満たされ、涙は全て拭われて快活な笑いを持てるようになるのです。こうしたことがその通りになるというのは創造主の神の約束だ、だから今の境遇は「幸せ」でなくてもそれは陽炎のようなもので、それを透かして見ると、神の栄光に輝く復活の体を纏って涙を拭われた快活な笑いを持つ自分が見えるのです。
もちろん、復活の日を待たなくともこの世の段階で自分の努力や他人の手助けまたは社会がうまく機能して貧しさや空腹や涙から脱することも出来ます。しかし、それも復活の日の「幸い」から見れば、貧しさ空腹、涙と同じ陽炎です。この世的な幸せや不運はみな復活の日に消えて復活の有り様に取って代わられるのです。
「幸い」と正反対の「不幸な」人たちについても言われます。今裕福な人たち、満腹している人たち、笑っている人たちです。これらの人たちは今すでに満足を享受している、それなので将来飢えるようになり泣くようになると未来形で言われます。将来のいつそうなってしまうかのと言うと、復活の日に神の国へ迎え入れられない時です。
このように言うと、この世の段階で裕福になったりお腹一杯になったり笑ってはいけないみたいで、誰もイエス様の言うことなど聞きたくないでしょう。先ほど、この世で不運な境遇にあっても、またそこから運よく脱せられても、復活の「幸い」から見たら双方とも陽炎のようなものであると申しました。不運な境遇それ自体が「幸い」ではないのです。幸いとは、22節でも言われるように、イエス様を救い主と信じる信仰に生きて復活を自分のものにしていることが幸いなのです。それがあれば不運な境遇にあっても、またそこから脱せられた境遇でも幸いなのです。不幸な人たちにも同じことが当てはまります。裕福さ、お腹一杯、笑いそれ自体が人を「不幸」にして復活と神の国への迎え入れを不可能にしているのではないのです。裕福さ、お腹一杯、笑いの底に人を不幸にする何かがあって、それで裕福な人、お腹一杯の人、笑う人を不幸にするのです。底にあるものとは何でしょうか?
26節を見ると、「全ての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も偽預言者たちに同じことをしたのである」と言います。かつてエレミヤのような真の預言者の言うことに耳を貸さず、偽預言者を賞賛してその言うことに耳を傾けた時代がありました。人間にちやほやされて裕福だったり満腹だったり笑ったりするのが不幸なのです。人間にちやほやされる人と言うのは、神を無視して神以上に人間に信頼を置いて頼る人です。しかし、復活の日が来たら、お前たちは神なんか頼りにならないと言って無視していたんだから今さら私のもとに来る必要はない、と言われて復活に与れなくなってしまいます。ここで、神に信頼することと人間に信頼することという問題が出てきました。まさに本日の旧約の日課のテーマです。
エレミヤ17章5~10節は呪われる者と祝福される者の対比です。以前お教えしたことがありますが、聖書の中で「祝福」という言葉に出くわしたら、それは神が人間に御顔を向けて目を注いでくれて見守ってくれている状態だと思わないといけません。というのは、日本語の「祝福」とは、結婚式で新郎新婦をみんなで祝福しました、などと言うので、祝福はお祝いすることに関係すると考えられ、人間同士の事柄のように思われるからです。聖書の祝福は神から授かるもの、神を抜きにしては語れないものです。人間から授かるものではありません。これと正反対のものが「呪い」です。人間が神から顔をそむけられて背中も向けられてしまい、もう好き勝手にしなさいと見放されてしまう状態です。
エレミヤ17章では誰が祝福される者で誰が呪われる者かがはっきり言われます。呪われる者とは、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主から離れ去っている人です。逆に、主に信頼し、主がその人の拠りどころになっている人が祝福される者です。こう言うと、人間を頼ってはいけないのか、友人も頼ってはいけないのか、天涯孤独でいなければならないのかと困惑する人が出てくるでしょう。しかし、これも先ほど申したことと同じです。貧しさ空腹さ涙それ自体が復活の日の幸いを保証しない、するのはイエス様を救い主と信じる信仰でした。また、裕福お腹一杯笑いそれ自体が復活に与れない原因ではない。神を無視して神以上に人間に信頼するような裕福満腹笑いが原因でした。つまり、人間を頼ること自体が問題なのではなく、神を無視して神以上に人間を信頼することが問題なのです。それなので、人間にも頼るが神への信頼が土台にあってそうすると言う場合は、人間への頼りは陽炎のようなものです。それを透かして見れば神への信頼が本当の信頼としてあります。神への信頼が土台にあれば、人間に頼る時も、こういう頼り方はいけないとわかって見境のない頼り方はしなくなります。
神への信頼を土台にすると、どうして人間に頼ることが陽炎のように薄れるのかというと、9節と10節で明らかにされます。「人の心は狡猾で災難をもたらす。誰がそれを知り得ようか。」新共同訳では「とらえ難く病んでいる」ですが、ヘブライ語の辞書では「狡猾で災難をもたらす」もOKです。同じ節で誰も人間の心を知りえないと言っているのでこっちの訳がいいと思います。人間の心は狡猾で災難をもたらす、誰もそれをわからない、つかみどころがない、確かに日常生活の中で他人の力を借りることはあるが、完璧な他人など存在しない、それなのに完璧な神を無視して人間を完璧なように見て人間に信頼することは祝福の正反対になってしまうというのです。
そこで神は言われます。人間は人間の心を知ることは出来ないが、私は知ることが出来る、と。10節の原文を直訳すると「私は人間の心の中を探知する主である、人間の奥深い部分もテストする主である」です。神は私たち人間の造り主で髪の毛の数まで知っておられる方なので、探知やテストなど当然出来ます。だからこそ「それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる」ことができ、神の下す判断はどんな優秀な裁判官もまねできない絶対正しい判断になるのです。「それぞれの道」の「道」というのは直訳でして、「生き方」という意味があります。神はそれぞれの生き方、業がどんな実を結んだかをことごとく見極めて復活の日に各々の行く先を決められるのです。いろんな生き方、いろんな実がありますが、イエス様を救い主と信じる信仰に生きたかどうかが決定打になることは言うまでもありません。
祝福される者が水辺の木に例えられていることについてひと言。この木は、熱波が来ようが来まいが葉は青々とし、干ばつがあろうがなかろうが関係なく実を実らせ続ける木です。そこで、自分は洗礼を受けてイエス様を救い主と信じているのに現実の姿はそんな状態からはほど遠い、私は葉が枯れて実も結ばない木のようで、自分はとても祝福されたなどと思えないと言う人がいるかもしれません。しかし、先ほど申しましたように、今の不運な境遇はこの世の段階で改善される可能性はあります。しかし、改善されたにしろ、されないにしろ不運な境遇、幸運な境遇それ自体が「幸い」ではありません。神が復活させて下さるので、それを信じてその日に向かって進んでいることが幸いなのです。その時、不運な境遇も改善された境遇も陽炎のようになって、それらを透かして見ると、復活の日の栄光の体を纏う自分が見えるのです。それと同じことです。この世では実を結ばない木であろうが結ぶようになった木であろうが、それらを透かして見ると、復活の日に永遠に青葉が茂り実をたわわに結ぶ木のようになった自分が見えるのです。これが復活の視点です。
第一コリント15章は、聖書の中で復活の視点が最も集中的に現れる箇所です。ここで使徒パウロは、キリストは死者の中から復活した、とか、もしキリストが復活しなかったならば、とか、キリストの復活について6回繰り返して言います。そこで注意を引くのは、ギリシャ語原文ではどれも動詞の現在完了形(εγηγερται)を用いていることです。こんなことを言うと学校の英語の授業みたいで嫌がれるかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了形は英語と結構違うので英語のことは忘れて大丈夫です。パウロはイエス様の復活を繰り返して言う時、過去形(もちろんηγερθη、アオリストのことです)を使わないで現在完了形を使うのです。ここが理解の鍵になります。今日この個所について説教する人は原文を読んで気づくでしょう。原文を読まない人は参考書を見て気づくでしょう。気づいたら、どういうことか考えなければなりません(参考書の人は答えがあるので、それを引用するだけですみます)。
ギリシャ語の現在完了形は、過去に何か出来事が起きて、その状態が現在も続いているという意味です。過去に起きた出来事が過去に埋もれてしまわないで現在も効力を持って表面に現れているような感じです。パウロがイエス様の復活をこのように現在も続いているように言ったのには二つのことが考えられます。一つは、イエス様が復活されて今も生きておられることを意識したことです。使徒言行録にあるように、復活されたイエス様は40日間弟子たちと共に歩んだ後で天の父なるみ神のもとに上げられました。そして今は、キリスト教会の伝統的な信仰告白で唱えられるように、父なるみ神の右に座して再臨の日まで信仰者を天から守り導き、その日が来たら再臨して眠りについている信仰者を目覚めさせて神の国に迎え入れます。パウロがイエス様の復活を現在も続いているように言い表したのは、このようにイエス様が今生きて治められていることを意識したことが考えられます。
もう一つのことが考えられます。これは私たちが復活の視点を持てるかどうかに関わる大事なことです。それは、イエス様の復活というのは彼個人の出来事にとどまらず、キリスト信仰に生きる私たちみんなの将来の復活を確実にした出来事であるということをパウロは言い表しているのです。イエス様の復活は過去の出来事として過去に埋もれてしまうものではなく、今を生きる私たちをも復活に向かって押し出していく、まさに今も表にあって私たちを引っ張る力であるということです。
そのことがわかるためにパウロが17節で、キリストの復活がなければ私たちは罪の中にとどまってしまうと言っていることに注目します。キリスト信仰者はイエス様のおかげで罪の赦しを頂いた者です。赦しを頂いた後は自分の内に残る罪を自覚して、自覚と告白の度にゴルゴタの十字架のもとに立ち返って神から赦しがあることを確認して頂き、また前に進む、これを繰り返しながら残る罪を圧し潰していきます。もうそれをしなくても済むようになるのが復活です。その日もう自分には圧し潰す罪はありません。神の栄光に輝く復活の体を纏う者に罪などないからです。だから、復活を信じる者の内には罪が残っても罪にはその人が復活に向かう足取りを妨げる力はありません。それで復活を信じる人は内に罪が残っていても罪の中には留っていないのです。
ところが復活を信じない人は様子が違います。その人は罪のない復活の体を目指すことはありません。復活を信じないのですから。そうすると、罪の自覚があっても罪を圧し潰すプロセスが起きません。復活の体を目指さないのですから。それでパウロは復活を信じない人は罪の中に留まると言うのです。罪を圧し潰すプロセスが起きないというのは、罪の赦しの確認が得られず前に進めないということです。そうなると、イエス様の十字架から罪の赦しを得られないことになってしまいます。これは恐るべきことです。十字架を持つキリスト信仰者が復活を信じないばかりに十字架から罪の赦しを得られなくなってしまうのです。この状態は、十字架を持たない非キリスト信仰者よりも悪いと言わざるを得ません。パウロが19節で言うこと、復活を信じない人はキリストに希望を置くと言ってもそれはこの世に関係することに限られてしまい、その人は全ての人間の中で最も惨めだと言うのは誠にその通りです。
最後に20節をみます。キリストは復活して眠りについている人たちの「初穂」になったと言われます。「初穂」とは面白い訳です。日本の宗教的な伝統では最初に実った稲の穂を神仏に捧げます。それが初穂と呼ばれます。ギリシャ語の単語απαρχηはそういう神への捧げものの意味もありますが、穀物だけではありません。動物もあります。それで「初穂」という訳は狭すぎます。ところで、イエス様は十字架の上で私たちのために私たちの罪を償って私たちを罪から贖い出すための犠牲となって神に捧げらました。まさに神への捧げものです。しかし、捧げものを意味する「初穂」という言葉を用いると、それと眠りについた人たちがどう関係するのかがはっきりしません。
そこで、ギリシャ語の単語には「最初の者」という意味もあることに注目します。それでいくと、イエス様は死んで眠りについて復活させられた最初の者、復活の先駆者ということになります。罪の赦しを携えて眠りについた者たちは彼に続く者になります。まさに初穂に続く穂になります。それで「初穂」を捧げものでなく先駆者の意味で捉えると復活を詩のように描写することが出来ます。皆さん、麦畑でも田んぼでもいいから思い浮かべて下さい。(今は冬ですが)秋の澄み渡った空の下、一番最初に穂になったのがイエス様です。後に続いて一斉に黄金色になるのが私たちです。真にイエス様は私たちにとって「初穂」です。兄弟姉妹の皆さん、復活の視点と言われてピンと来なくなったら、この秋の田園風景を思い描いて下さい。
新役員就任式(リモート併用)
主日礼拝説教 2022年2月6日顕現節第五主日
イザヤ6章1-8節
第一コリント15章1-11節
ルカ5章1-11節
本日の福音書の個所は、イエス様が漁師のペトロに「これからお前は人間を捕る漁師になるのだ」と言って、ペトロだけでなく他の漁師もイエス様に付き従っていくところです。これと同じ出来事がマルコ福音書とマタイ福音書では違う書き方をされています。マルコとマタイでは、大量の魚がかかったことやペトロが罪を告白することは書かれていません。ペトロと兄弟のアンデレが魚を捕っていた時にイエス様が声をかけて従って行った、その後すぐヤコブとヨハネも続いて行った、と簡潔です。4人の漁師がイエス様につき従っていくきっかけに大量の魚がかかったことがあるのはルカだけです。どうしてそういう違いがでたのでしょうか?マルコとマタイが福音書を書いた時、把握していたのは4人がイエス様につき従ったという結果だけだった、ルカは結果に至るまでに何があったかも把握していたのでそれを書いたということでしょう。いずれにしても3つの福音書はみな、人間を捕る漁師にするというイエス様の言葉と4人が生業を捨てて付き従ったということは一緒です。
「人間を捕る漁師」とは何でしょうか?なんだか熱心な宗教団体の勧誘員みたいに聞こえてきます。人を獲物扱いする宗教なんか誰も近づきたいと思わないでしょう。しかし、ペトロや他の弟子たちは実際そういう勧誘員だったでしょうか?イエス様が言う「人間を捕る漁師」とは何か考えてみましょう。
3つの福音書では、ペトロたちが「人間を捕る漁師になる」と言われてイエス様につき従っていきますが、ルカ福音書ではまず大量の魚の奇跡があって、ペトロの罪の告白とイエス様のこの言葉が続いて、それからつき従うという流れです。それでこの奇跡について少し考えてみます。
舟も沈まんばかりの大量の魚が網にかかりました。それを見たペトロは、イエス様に「私から離れて下さい!私は罪びとなのですから!」と叫んでしまいます。ペトロはなぜ罪の告白をしたのでしょうか?9節をみると、夥しい大量の魚をみて恐れおののいたことが告白の原因になっています。ペトロは大量の魚を見て何を恐れたのでしょうか?恐れることがどうして罪の告白になったのでしょうか?
イエス様は湖の岸辺で群衆に教えていました。教えの内容は記されていませんが、4つの福音書の記述から次のような内容だったと推察できます。神の国がイエス様と一体となって到来したこと、人間は神の国に迎え入れられるために罪の問題を解決しなければならないこと、人間は神の意志を正確にわかって悔い改めて神のもとに立ち返る生き方をしなければならないこと、こうしたことが考えられます。
岸辺では大勢の群衆がイエス様の教えを間近で聞こうと、どんどん迫ってきます。イエス様のすぐ後ろは湖です。ちょうどその時、岸辺に漁師の舟が二そう止まっていました。漁師たちが網を洗っているところでした。イエス様はペトロの舟に乗って岸から少し離れたところまで漕がせて、今度は舟から岸辺の群衆に向かって教えました。ひと通り教えた後でペトロに、もう少し沖合まで漕いで網を投げるよう命じました。
ところがペトロは、夜通し頑張ったが何も捕れなかったと言います。ペテロの応答にはイエス様の指示に対する懐疑が窺われます。何しろペトロはプロの漁師です。ナザレなんて山の上の町から来た者に漁のことがわかるか、そういう思いがあったかもしれません。しかし、この方は今や律法学者を超える旧約聖書の教師として名をとどろかせている方なのだ。それでペトロは、あなたのお言葉ですからやってみましょう、と言う通りにしました。。
半信半疑で網を投げたところ大変なことが起きました。網が破れんばかりの夥しい量の魚がかかったのです。もう一そうの舟が応援にかけつけるも、二そうとも沈んでしまいかねない位の魚の量で舟は溢れかえりました。まさに想定外の事が起きてペトロは恐れを抱いて叫びました。「私から離れて下さい!なぜなら私は罪びとだからです!」ペトロは何を恐れたのでしょうか?ここでペトロがイエス様を呼ぶ時の呼称が変わったことに注意しましょう。網を入れる前はイエス様のことを指導者、リーダー、代表者を意味する言葉エピスタテースεπιστατηςで呼んでいました。新共同訳では「先生」と訳されています。それが恐れを抱いた時には一気に神を意味する言葉キュリオスκυριος「主」で呼んだのです。ペテロの罪の告白は、神に対する告白になったのです。
それでは、どうしてペトロは神に罪の告白をしたのでしょうか?ここでペトロが恐れたのは、いま目の前に起きている信じられない光景の中に神の力が働いたことを見たからです。神の力が働いたのを見たということは、神が自分の間近にいたということです。
本日の旧約の日課イザヤ書6章では、神聖な神を間近にすると自分の内に神の意思に反する罪があるという自覚が呼び覚まされること、神聖さというのは本質上、罪の汚れに対して容赦しないものであること、それで神を間近にしたら自分は焼き尽くされるか消滅するという恐怖を抱いてしまうこと、そうしたことがよく描かれています。ペトロが抱いた恐れも同じでした。それでイエス様に、お願いだから私から離れて下さい、と叫んでしまったのです。
ここで預言者イザヤに起こったことを見てみましょう。イエス様の時代から700年以上も昔のことでした。ユダヤ民族の南北の王国が王様から国民までこぞって神の意思に反する道を進んでいました。その時、預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃してしまいます。イザヤは次のように叫びました。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は破滅してしまったからだ。なぜなら私は汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ国民の中に住む者だからだ。それなのに、私の目は万軍の主であり王である神を見てしまったのだから(4節)。」(ヘブライ語原文に忠実な訳)。まさに神聖な神を目の前にして起こる罪の自覚の悲痛な叫びです。神聖な神と罪の汚れを持つ人間の絶望的な隔たりが一気に浮かび上がる瞬間です。神の神聖さには、あらゆる汚れを焼き尽くしてしまう炎の力があります。それでイザヤは、神殿の祭壇にあった燃え盛る炭火を唇に押し当てられます。そして、「お前の悪と罪は取り除かれた」と宣言されます。この時イザヤは火傷一つ負いませんでした。これは、イザヤが霊的に清められたことを意味します。
このように、人間が真の神を間近に見た場合、神聖さと全く逆の汚れある自分を思い知ることになり、罪の自覚が生まれます。神は罪と悪を断じて許さず、焼き尽くすことも辞さない方です。それで、神を間近に見てしまった時、自分を神の意思に照らし合わせて見る人が恐れを抱くのは自然な反応です。他方で、神の意思を知らない人や知っていても自分には関係ないと言って照らし合わせなんかしない人は恐れなど抱きません。こういうことを言うと、私は恐れなんか抱いて生きるのは嫌だから、そんな神はいりません、と言う人も出てくるかもしれません。
しかしながら、キリスト信仰は神への恐れで終わりません。神への恐れがあっても、それがすかさず神への愛と生きる希望に転化していくのがキリスト信仰なのです。罪の自覚と神への恐れがあるからこそ神への愛と生きる希望が出てくるのです。罪の自覚と神への恐れがなかったら生きる希望も神への愛も出てこないというのがキリスト信仰なのです。まだピンとこないでしょうか?それなら、こう言ったらどうでしょう。罪の自覚と神への恐れが重くて下に沈めば沈むほどバネの反発力が強まってより高く生きる希望と神への愛に飛び立っていけるのだと。そのバネがキリスト信仰だと言うことができます。そのような信仰がなければ、恐れと絶望の重みに沈み込んでしまうだけか、または、そんな馬鹿々々しいゲームに付き合ってられないと言って離脱するか、どちらかです。しかし、キリスト信仰者は、それは馬鹿々々しいどころか、本当の生きる希望はここにあるんだ、とわかってそれを見つけるのです。また、神への愛を強く意識できるから、自分をヘリ下させることができて、高ぶったり苛立つ必要はなくなり、神にお任せして隣人に接することができるのです。
罪の自覚と神への恐れが神への愛と生きる希望に転化していくのがキリスト信仰です。そうすると、人間を捕る漁師というのは、まさに罪と恐れの底に落ちてしまった人を愛と希望の岸辺に引き上げてくれる者ということになります。それでは、ペトロや弟子たちがどのようにしてそうしたかを見てみましょう。
イエス様につき従ったペトロや弟子たちは熱心な宗教団体の勧誘員みたいに人々をイエス様のもとに引き連れていったでしょうか?人々を集めたのはむしろイエス様自身ではなかったでしょうか?弟子たちが伝道のために町々に派遣されたことがあります。ただ、その時の派遣先はユダヤ民族に限られて、活動内容も神の国が近づいたと告げることと、その近づきが本当であるとわからせるために病気の癒しや悪霊の追い出しをすることでした。弟子たちに伝道された町々の人々がぞろぞろイエス様のもとにやってきたという感じはしません。どちらかと言えば、もうすぐしたら起こる十字架と復活の出来事に備えて心の準備をさせる活動だったのではないかと思われます。
ところが、イエス様の十字架の死と死からの復活が起きると様子が変わります。ペトロと弟子たちは、自分たちの目で見て耳で聞いたことに基づけばあの方は本当に旧約聖書に約束されたメシア救世主だったのだ、と公けに証言し始めたのです。このような弟子たちが見聞きしたことと旧約聖書に基づく証言を受け入れてイエス様をメシア、神の子と信じる人たちがどんどん出てきました。彼らは一緒に神を賛美して祈り、お互い持ち物を分け合う位に支え合う共同体を形成します。この使徒たちの教えや共同体の生活態度を見てそれに加わる人たちがどんどん増えていきました。それが瞬く間のうちにユダヤ民族の境界線を超えて地中海世界へと広がっていったのです。
こうして見ると、イエス様がまだ地上におられた時のペトロたちの任務は、イエス様が教えたこと行ったこと、また彼に起こったことをつぶさに目撃して記憶することにあったということが言えます。そしてイエス様が天の父なるみ神のもとに帰られた後は今度は、自分たちが見聞きしたことと旧約聖書をつき合わせたら見事に整合性がとれて、あの方こそ約束のメシア救世主であるとわかって証言し始めたのです。それをユダヤ教社会の指導層やローマ帝国の官憲からやめろと脅しをかけられ妨害されても怯まないで証言していったのです。そういう、人々に伝えないではいられないという駆り立てられるような思いを持つのが「人間を捕る漁師」なのでしょう。
権力者に脅されても使徒たちが怯まずに証言することが出来たのはどうしてでしょうか?一つには直接の目撃者としての責任があります。あれだけ明白な事実だったのになかったなどとても言えない、真実は曲げられないという心です。しかしながら、責任感だけでは、命はないぞと脅されたり、または、出世に響くぞ、家族が路頭に迷うぞ、もっと大人になれ、などと言われたら心は揺れ動いてしまうでしょう。しかし、使徒たちの場合は責任感を強固なものにすることがありました。それは、彼らの証言する真実が天地創造の神、私たち人間を造られた神に関係する真実だったということです。それなので、自分は神に造られた者という自覚があると、神に関係する真実は取り下げられないのです。それで、出世なんかどうでもいい、お仕着せの大人なんかに自分はならない、命だって復活の日の永遠の命がある、それを手放すようなことはしたくない、そういう心になるのです。家族を路頭に、というのは痛いところを突かれることですが、でもルターの讃美歌に「わが命も、わが妻子も取らばとりね、神の国はなおわれのものぞ」と歌われているように、そこに行きついてしまうのです。
神に関係する真実を曲げない引き下げないという生き方になると、今度は神に関係しない日常的な真実に関しても責任感が強くなります。というのは、神に関係する真実を守ろうという生き方になると、神の意思である十戒が心に刻み付けられるからです。その中に「汝、偽証するなかれ」があります。これも神の意思として心に刻み付けられます。それで日常的な真実に関しても責任感が強くなるのです。私たちの日本も創造主の神の意思に照らして襟を正すようにならないと、情けない忖度と改ざんはいつまでも繰り返されるでしょう。
使徒たちが曲げられない引き下げられないとした神に関係する真実とは何だったでしょうか?それは以下のことです。あの十字架にかけられて死なれた方は三日目に神の想像を絶する力で死から復活させられた、それを自分たちはこの目で見たのだ。それで死からの復活というのは旧約聖書の単なる文章上の事ではなく本当に起こることなのだ。復活は起こるということをあの方自らも教えていたではないか。あの方が復活されたことで死を超える永遠の命が本当にあることがわかった。自分たちもこの世からの死で全てが終了してしまうのではない。将来、復活の日に一緒に復活させられて一緒に神の御許に迎え入れられるのだ。ここに我々キリスト信仰者の希望がある。それでは、どうしたら自分たちは復活させてもらえるのか?それは、人間を永遠の命から締め出している原因である罪、神の意思に反しようとする罪の問題をあの方が私たちに代わって解決して下さったことによる。あの方の痛ましい十字架の死は私たち人間の罪の神罰を代わりに受けて下さった贖罪の生贄の死であったのだ。神はそのようにして私たち人間の罪の問題を解決して下さった。そしてそのことは旧約聖書に預言されていて、それがゴルゴタの丘の十字架で歴史の中で成就したのだ。
創造主の神は私たち人間が罪のために神のもとに戻れなくなってしまった状態を解消するために、ひとり子を贈って私たちの力では出来ないことを代わりに成し遂げて下さった。あとは、これらのことは全て本当に現実に起こったと受け入れる。そしてそれらは旧約聖書で預言されていたことの実現として起こったとわかって、それで神を慈愛に満ちた造り主であると信じ、神罰を受けて下さったひとり子イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受ける。そうすれば、神がひとり子を用いて成就した罪の償いと罪からの贖いがそのまま自分に効力を発する。その時、自分は復活に至る道に置かれてその道を歩み始める。これからも明らかなように、神は復活の日に私たちを御国に迎え入れることを信仰と洗礼の目的に定めている。それなので、私たちがその道を進むのをいつも何があっても守り導いて下さる。
時として、私たちの目は私たちの内にある罪に向く。罪から贖われた私たちに対して罪はもはや私たちを支配したり死に繋ぎとめる力を失っている。それにもかかわらず罪自体は消えず、隙を狙っては神との結びつきのない状態に引き戻そうとする。しかし、信仰の目を持つ信仰者はすぐ目をゴルゴタの十字架に向け、自分の罪はあそこで償われたので今、内にある罪は自分を死に繋ぎとめる力はないとわかり、感謝と畏れ多い気持ちを持って再び復活に至る道を進む。その時、私たちをこのように愛してくれる神を自分も愛そうという心を新たにする。神がそのように愛してくれる以上は私たちも隣人に対して同じようにしようという心を新たにする。この繰り返しがこの世から別れる時までずっと続く。
新しい世が到来して私たちが神の御前に立たされる時、神は私たちが前の世で罪の赦しに留まってひとり子の死を無駄にしないように生きていたことを義と見て下さいます。そして、神の栄光に輝く朽ちない復活の体を着せて御国に永遠に迎え入れて下さいます。それなので私たちもこの世から別れる時は、このようになるのだという使徒たちの教えと証言を思い出して安心して神を信頼して自分の全てを神に委ねて旅立つことができます。このように死を超える安心と信頼があるので、罪の自覚と神への恐れはいつも神への愛と生きる希望に転化します。そして、死から復活されたイエス様は旧約に約束されたメシア救世主であるという真実はもう曲げられないのです。
主日礼拝説教 2022年1月30日顕現節第四主日
エレミア1章4-10節
1コリント13章1-13節
ルカ4章21-30節
本日の説教は先週の続きです。福音書の個所は、イエス様が育ち故郷のナザレに戻ってユダヤ教の会堂シナゴーグの礼拝で聖書朗読と説き明かしを担当した時の出来事でした。イエス様はイザヤ書61章の最初の部分を朗読した時、「目の見えない人がみえるようになる」という42章7節の文を挿入しました。自分が人間の信仰の目を開く者であることを知らせるためにそうしたのです。信仰の目とは、天地創造の神の意思が見える目です。神が万物と私たち人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えた方であること。その神が罪のゆえに自分との結びつきを失ってしまった人間がまた結びつきを持てるようにとひとり子イエス様を贈って下さったこと。そのイエス様が十字架の上で自分を犠牲にして神と人間の結びつきを取り戻して下さったこと。これらのことが見えて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると神との結びつきを持ててこの世と次に到来する世の二つの世を生きられるようになるのです。
とは言っても、十字架と復活の出来事が起きる前ではこのような信仰の目を人々に開くことはなかなか出来ません。そのかわりイエス様は、盲目の人たちの肉眼の目を開ける奇跡の業を行いました。旧約聖書に見えない人の目が見えるようになると言われているのは信仰の目のことですが、イエス様は肉眼の目を開けることで、人々に自分は信仰の目を開ける力があることを比喩的に知らしめたのです。人々も、旧約聖書に言われる目の開きは肉眼のことではなく信仰の目であることを十字架と復活の出来事で初めてわかるようになります。
このようにイエス様はナザレの会堂で自分の使命を明らかにするように聖書を朗読したのです。そこまでが先週の内容でした。これから続きを見ていきましょう。何が起きたでしょうか?
朗読の後、イエス様は巻物を係の者に返して席につきます。席というのは説教者の座る所です。会堂の人たちの視線が一気にイエス様に注がれます。とても緊迫感のある場面です。イエス様が口を開きました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(21節)。」この言葉の後にイエス様の説き明かしが続くのですが、それについてはルカ福音書では記されていません。ただ22節をみると、会衆みんながイエス様の「口からでる数々の恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあるので、彼が「聖書の言葉が実現した」と言った後で説き明かしを続けたのは間違いないでしょう。どんな内容だったでしょうか?それは間違いなく、神の国が近づいたこと、人間の救いがまもなく実現することを伝えるものだったでしょう。あわせて、各自に悔い改めと、神のもとに立ち返る生き方をしなさいと促すこともあったでしょう。いずれにしても、イザヤ書の御言葉が実現したと宣言した時、この油注がれたメシア、神の霊を受けて捕らわれ人に解放や目の見えない人に開眼を告げ知らせるのはこの自分である、と証したのです。
ところが、ここで状況が一変します。新共同訳の22節をみると、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」とあります。この訳では、どうしてこの後でイエス様が厳しいことを言って会衆が怒り狂うという転回になってしまったのか、少しわかりにくいと思います。ギリシャ語原文を忠実にみていくと次のような状況が浮かび上がります。イエス様の説き明かしを聞いた会衆は、あの男は何者だと彼の正体を論じ合う状況になった。会衆はイエス様の口から出た恵み深い言葉に驚いてはいるが、あれはヨセフの子ではないか、大工ではないか、などと言い始めたのです。この方は神の人間救済を実現する方だということがわかる一歩手前まで来ていたのに、これは誰々の息子だ、この町のみんなは知っている、大工じゃないか、ということが真実を遮ってしまったのです。神の御言葉を語るイエス様が肉眼に映る像を超えてメシアに映りそうになったのに、やはり肉眼に映る像しか見れなくなってしまったのです。もう少しで肉眼の目ではない信仰の目が持てるところまでいっていたのに、肉眼の目に戻ってしまった。そして、その目に映る像が真実だと思うようになってしまったのです。
イエス様は、会衆が信仰の目を持てずに肉眼の目に留まってしまったことに気づきました。こうなってしまったら、ナザレの人たちは奇跡の業でも行わない限り信じないということもわかりました。イエス様は、彼らが自分に向かって「医者よ、自分を治してみろ」と言いたくて仕方がないと見破ります。「医者よ、自分を治してみろ」というのは、そうしたらお前が良い医者であると信じてやろう、ということです。さらに、カファルナウムで行ったのと同じ奇跡を故郷の町でもやってみろ、そうしたら信じてやろう、会衆はそう言いたくて仕方がないとイエス様は見破ります。
しかしながら、イエス様は、ナザレの人たちに奇跡を行うことを控えます。(マルコ6章5節、マタイ13章58節も参照)。そのかわりに、旧約聖書の御言葉を引き合いに出して、それを鏡のように用いて、彼らがどういう人間であるかを示しました。旧約聖書の御言葉とは、一つは列王記上17章にある預言者エリアが大飢饉の時にシドンのやもめを餓死から救ったという出来事です。もう一つは列王記下5章にある預言者エリシャがアラムの王の軍司令官ナアマンの重い皮膚病を完治した出来事です。やもめもナアマンもイスラエルの民に属さない異邦人でした。預言者エリアとエリシャの時代、ユダヤ民族の北王国は神の意志に背く生き方をしていました。神は預言者を自分の民のもとには送らず、異邦人に送って彼らを助けたのでした。イエス様は、ナザレに奇跡を行う預言者が送られないのはこれと全く同じと言うのです。つまり、ナザレの人たちは、かつて不信仰に陥った北王国と同じ立場にある、というのです。
これを聞いた会衆は激怒します。怒り狂ったと言ってもいいでしょう。イエス様をシナゴーグから追い出し、そのまま山の上まで追いやってそこの崖から突き落とそうとします。しかし、不思議なことにイエス様は群衆をすり抜けて行き難を逃れます。普通なら群衆の押し出す力で人ひとり崖から突き落とすのはたやすいことだったでしょう。どうやって群衆の力をかわせたのか、詳細は何も記されていません。これも奇跡の業だったと考えられます。イエス様は、十字架と復活の出来事のためにこの世に送られた以上、それが実現するまではどんなに絶体絶命の危険に陥っても、ゴルゴタの十字架の日までは神はイエス様が傷つくようなことは一切お許しにならなかったのです。
イエス様はなぜナザレの人たちを激怒させるようなことを言ったのでしょうか?肉眼の目に留まってしまった人たちを信仰の目が持てるように導いてあげてもよかったのではないでしょうか?先ほど申しましたように、ナザレの人たちがイエス様をメシア救い主と信じるようになるためには、もはや奇跡を見せないと効き目がない、とイエス様はわかっていました。もちろん、奇跡を目撃したり体験することを出発点にして信仰に入ることも可能です(ヨハネ14章11節)。しかし、その場合、ただ超自然的な力を目で見たから信じるようになった、というだけで終わってしまう危険があります(同6章26節)。
信仰とは、神が人間救済の意思と計画を持って、それをひとり子イエス様を用いて実現したことを真理であると信じられることです。もちろん、奇跡を目撃したり体験したりして信仰に入るということもあります。しかし、注意しなければいけないのは、信仰が肉眼に頼るものにならないことです。肉眼に頼るものになってしまうと、奇跡の目撃や体験がなくなったら信仰もなくなってしまいます。イエス様がナザレの人たちに対して肉眼に頼る信仰を許さなかったというのは、信仰の目をもってする信仰に導こうとしているのです。
それでは、なぜナザレの人たちは、肉眼に頼る信仰の道を絶たれた時、信仰の目をもってする信仰の道を目指さなかったのでしょうか?大きな原因は、彼らが自分たちには神の意志に反する罪があるなどと認められなかった、ないしは認めたくなかったからです。イエス様は、彼らも罪という点ではエリヤとエリシャの時代の北王国と何ら変わりないと指摘したのです。しかし、ナザレの人たちは立ち止まって自分たちの生き方を謙虚に神の意思に照らし合わせて自省することをしませんでした。そうせずに、自分たちをかつて神の罰として滅亡した王国と同一視するとは何事か、といきり立ってしまったのです。
以上から明らかなように、信仰の目を持てて、その目でイエス様を見ることができるかどうかは、自分に神の意思に反する罪があることを認めることができるかどうかにかかっています。人によっては、具体的にどんな罪を犯したか心当たりがないという人もいるでしょう。しかし、自分を神の意志に照らし合わせて見るというのは、行為や言葉に現れる悪のみならず、心の中に宿る悪までを問うものです。人間は最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を持つようになったために死ぬ存在となってしまいました。人間が死ぬということ自体が人間は罪を内に宿していることの表われなのです。
しかしながら、父なるみ神は、人間がこの世の人生を終えることになっても、復活の日に目覚めさせて造り主である自分の許に戻れるようにしてあげよう、そしてその前のこの世の人生の段階では復活に至る道を守りのうちに歩むことが出来るようにしてあげよう、ということでひとり子をこの世に贈ったのです。それで、罪の神罰を全て彼に身代わりに受けさせたのです。人間が受けないで済むようにと。これがゴルゴタの十字架で起きたのです。人間は、イエス様のこの身代わりの罰受けが自分のためになされたとわかって、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、その瞬間、イエス様の身代わりの罰受けは本当にその人に起きたことになるのです。この時、その人は信仰の目を持っています。
ところで、人間は信仰の目を持つと今度は、かえって自分の内に神の意思の反しようとする罪があるのがよく見えてきます。その時内なる信仰の戦いが始まります。キリスト信仰者が内にある罪に気づいて自分に失望したり神を恐れたりすると悪魔がどす黒い勝どき声をどよめかせます。しかし、信仰の目はそれを全く意に介せず、内なる罪を透かすようにして目を一直線にゴルゴタの丘の十字架に向かって注ぎます。そこにかけられた主の痛々しい肩に自分の罪が重々しく張り付いているのを見て取ります。その時、私たちは息をのみ十字架の前に首を垂れます。同時に悪魔は失神して倒れどす黒い声は止み、周囲は深い静寂に包まれます。一切のものから清められた空気は真冬の青空のように果てしなく澄んでいて冷ややかでもあります。そこに天上から次の言葉が穏やかにとどろきます。「安心して行きなさい。あなたの罪は赦されたのだ。」清められた静寂に温もりが生じます。冷ややかだった冬空に春の陽光が優しく差し始めるように。その温もりが神の意思に沿うように生きよういう心、神を全身全霊で愛そうとする心と隣人を自分を愛するが如く愛そうとする心に躍動を与えるのです。兄弟姉妹の皆さん、これが福音です。これがキリスト信仰です。
以上、信仰の目を持つと自分の罪を見ることができるようになるが、それが出来るから逆に神の意思に沿うように生きようという心が強まっていくことを見ました。これと同じことが本日の使徒書の日課、第一コリント13章でも言われているので、終わりにそのことを見ておこうと思います。
第一コリント13章は有名な愛についての教えです。キリスト教式結婚式でよく朗読される聖句の一つです。ここで言われる、愛は忍耐強い、情け深い、ねたまない、自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない、不義を喜ばず、真実を喜ぶ、全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える、以上は、夫婦間だけでなく一般的な人間関係の理想です。これら一つ一つに照らし合わせてみたら、今の世はなんと愛から遠ざかってしまっているかと思わされるのではないでしょうか?
ここで、愛は全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える、というのはどういうことか見てみましょう。「全てを信じる」とは、まさか、全ての宗教を信じることでしょうか?もちろん、そんなことではありません。「全てを」と訳されているギリシャ語の単語(παντα)は「全てにおいて」という意味も持ち、ここはそれで訳すできでしょう(後注)。「全てにおいて信じる」とは、どんなことが起きようともイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる、ということです。同じように、「全てにおいて望む」も、どんなことが起きようとも、自分は神のみ前に立たされても大丈夫と見なされて神の御国に迎え入れられてもらえるという希望を失わない、ということです。「全てにおいて忍び、耐える」というのは、どんなことが起きようとも、忍耐し高ぶらない嫉妬しない等々の愛を持つということです。こうして見ると、愛を持てるかどうかは、全てにおいて信じられるか希望を失わないかどうかに関わってくることが見えてきます。
愛とはそのようなものだと述べた後でパウロは、8節から永遠の視点で語ります。今の世が終わって死者の復活が起こり、今の天と地に替わる新しい天と地が創造されて神の御国が現れる。その時、預言や異言という今の世に現れる聖霊の賜物はなくなってしまう。神の御国という完全で全体的なものが現れたら、そういう不完全で部分的なものは意味を失ってなくなってしまうと言うのです。
ところが、愛はなくなりません。神の御国に引き継がれます。それは、愛が聖霊の賜物と違い、最初から完全で全体的なものだったからです。しかしながら、それは神の側で完全かつ全体的なもので、人間の側では愛を完全で全体的に持つことは出来ませんでした。それが、復活の日に神の御国に迎え入れられる時、自分も神と同じように愛を完全かつ全体的に持てていることを目にするのです。忍耐する、柔和に振る舞う、嫉妬心を燃やさない、自分の利益を追求しない、悪い考えを抱かない、不正を喜ばない、真実を喜ぶ。これら全てをかの日には持てているのです。かつてはこれらはいつも部分的、一時的にしか現れて来ず、現れては消えての繰り返しでした。それが今、これらのものは自分に完全に備わっていて、自分はまさに愛を体現しているのです。神と同じようにです。自分が愛そのものになってしまっていると言ってもいいでしょう。
かつて鏡におぼろに映ったものを見ていたが、今は顔と顔とを合わせて見るというのはどういうことでしょうか?当時の鏡は今のようにガラスに銀を塗装するものではなく青銅のような金属板でしたので、映る顔は否が応でもおぼろげでした。それが神の御国ではそれこそガラスの鏡を見るように自分の顔がはっきり見えている。かつてイエス様を救い主と信じて神の意志に沿うように生きよう、神の意志とは愛なのだから愛を持とうとしてもいつも部分的、一時的の繰り返しだった。だから、愛が自分に現れるのはおぼろげにしかならなかった。それが、神の御国に迎えられた今、愛が自分に完全に根付いて、自分は愛を体現するようになった、愛は自分にはっきりと明瞭に現れるようになった。それでパウロは復活の日、自分は愛を体現し愛そのものになっていることを次のように言うのです。「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」「はっきり知る」というのは、自分が愛を体現し愛そのものになっていることが明瞭に見えるということです。
ここで一つわかりにくいことがあります。「はっきり知られているように」とはどういうことか?さりげなく文の中に入っていますが、とても難しいところです。ギリシャ語の原文を直訳すると「私がはっきり知られていたように」です。新約聖書のギリシャ語では受け身の文の隠された主語はたいてい神なので、「私が神にはっきり知られていたように」という意味です(後注)。それでこの文を少し解説的に訳すと次のようになります。
「神がこの世で私のことをはっきり知っていたのと同じように、この私も将来復活の日の神の御国で自分が愛を体現していることをはっきり知るようになる。」
これは変です。私は前の世では愛を体現していませんでした。体現しているのは今、神の御国でです。なのに神は、私が前の世でも神の御国と同じように愛を体現していたと見て下さったと言うのです。そんなことはありえません。そこで、かの日に神に次にように尋ねます。
「父なるみ神よ。今、あなたの御国に迎え入れられて私は愛を体現する者になっていることを驚き、感謝します。しかし、もっと驚きなのは、あなたは本当に前の世で私のことを愛を体現する者と見て下さっていたのですか?私は、愛においていつも力不足でした。忍耐が不足していました。柔和に振る舞いませんでした。嫉妬心を燃やしました。高ぶったり傲慢になったりしました。」
そこで神は答えられます。
「わが子よ。お前は洗礼を受けてイエスの神聖な白い衣を纏った。それからはそれを取り去らないように生きていたのを私は見て知っていた。お前は愛の足りなさに気づきながらいつもこの日を目指して歩んでいたのを私は見て知っていた。お前の内なる罪は純白の衣を被せられて日々圧搾され力を失っていくのを見て知っていた。お前がイエスを救い主と信じる信仰に生き、聖餐のパンと葡萄酒で衣を離さないように握りしめる力を保っていたのを見て知っていた。だから私はお前を見る時はいつも今日の完成された姿を見ていたのだ。それで、お前のことを愛を体現する者であると前の世で知っていた、と言ったのだ。」
パウロはフィリピ1章6節で次にように述べています。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げて下さると、わたしは確信しています。」
兄弟姉妹の皆さん、この確信は真理です。パウロの言う通りだと思う人は信仰の目を持っています!
後注(ギリシャ語がわかる人にです)
・πανταは、私はaccusativus limitationisと考えます。
・καθως (…) επεγνωσθηνは、私が神に知られていたのは、この世の段階のことか、それとも将来の神の御国でのことなのか、意見が分かれるかもしれません。私は、この世の段階と考えます。将来の神の御国でのことであれば、ここはκαθως (…) αν επιγνωσθωになると考えます。