2025年9月28日(日)聖霊降臨後第16主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師 

主日礼拝説教 2025年9月28日(聖霊降臨後第16主日)

アモス6章1、4-7節、第一テモテ6章6-19節、ルカ16章19-31節

説教題 「旧約聖書の精神と復活の信仰が結合すれば悔い改めが生じる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の箇所でイエス様は実際に起きた出来事ではなくて架空の話を用いて教えています。何を教えているのでしょうか?

 金持ちが贅沢に着飾って毎日優雅に遊び暮らしていました。その大邸宅の門の前に全身傷だらけの貧しい男が横たわっていました。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書のラザロは実際に起きた出来事に登場する現実の人物ですが、本日の箇所はつくり話の中に出てくる架空の人物です。

 ラザロという名前は、旧約聖書によく登場するヘブライ語のエルアザルという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。この話を聞いた人たちはきっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったでしょう。金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと願っていたが、それすら与れない。野良犬だけが彼のもとにやってきて傷を舐めてくれます。「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロが金持ちの家の門の前に横たわり出してから、ずいぶん時間が経過したことがわかります。従って金持ちはこんな近くに助けを待っている人がいたことを知っていたことになります。しかし、それを全く無視して贅沢三昧な生活を続けていました。

 さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので、葬式が挙行されました。さぞかし、盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も触れられていません。きっと、遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。

 ところが、話はここで終わりませんでした。これまでのことはほんの序章にしかすぎないと言えるくらい、本章がここから始まるのです。金持ちは盛大な葬儀をしてもらった後は永遠の火に毎日焼かれなければならなくなりました。ラザロの方は、天使たちによって天の御国のアブラハムのもとに連れて行かれました。まさに名前の意味「神は助ける」が実現したのです。

 以上が本日の福音書の箇所の要旨です。これを読む人は誰でも、ああ、イエス・キリストは利己的な生き方はいけない、困っている人を助けてあげなければいけないんだと教えていると思うでしょう。なんだか当たり前の道徳に聞こえます。そんな教えは別にキリスト教でなくたって他の宗教にもあるぞと言う人もいるかもしれません。

 しかしながら、ここのイエス様の教えは「利己的な生き方はするな、困っている人を助けよ」が中心的なことではありません。中心的なことは「神に背を向けた生き方を方向転換して神を向いて生きよ」です。利己的な生き方をしない、困っている人を助けるという道徳は方向転換をした後で派生して出てくるものです。そして、方向転換のカギになっているのが旧約聖書とイエス様の復活であると教えているのです。ここのところが、道徳の問題でキリスト教が他の宗教・信条と違ってくる点です。似たような道徳を説いているようでも、組み立てられ方が全然違うのです。

 少し余談になりますが、私が大学の神学部で勉強していた時、何かのセミナーである学生が今日の個所をテーマに発表をしました。彼によると、この金持ちとラザロの話にはネタがあって、それはエジプト由来の話であった、その内容は同じように金持ちが貧しい人を助けてあげず死後に立場が逆転するという話で、金持ち一般に対する戒めであった。この話はユダヤ教社会にも伝わってよく知られていて、イエス様はそれを自分の意図に沿うように改作したというのが発表の主旨だったと思います。ただ、どんな意図で改作したかはペーパーが手元にないのでもうわかりません。しかし、今回説教の準備にあたって、セミナーのことを思い出しながら日課の個所を何度も読み返してみたら、なるほどと私なりにイエス様の意図が見えてきました。それは、説教題にあるように、旧約聖書の精神と復活の信仰の両方があると神の方を向いて生きる方向転換が起こるということです。今日はそのことを見ていきましょう。

2.天国、地獄、陰府

 まず、今日の教えの中で天国や地獄が出てくることについてひと言。人間がすべきこと、してはならないことをそういうものを引き合いに出して教えるなんて時代遅れのやり方だ、と言う人がいるかもしれません。しかし、人間はこの世に生まれてきて、いつかこの世を去らねばならない存在である以上、死んだらどこに行くのか、そのどこに行くという時、この世での生き方が何か影響があるのかという問題は、いつの時代でも気になる問題ではないかと思います。もちろん人によっては、どこにも行かないよ、死んだらそれで終わり、消えてなくなると考える人もいるでしょう。その場合は、この世での生き方が次の世での有り様に関係するというのはナンセンスです。なぜなら、次の世がないのですから。人によっては、死んだら魂か何かが残ってみんなどこか安逸な場所に行くと考える人もいます。その場合、この世での生き方と次の世での有り様にはあまり関連性はありません。なぜなら、みんな安逸の場所に行けるのですから。人によっては、新しく別の人間ないし動物に生まれ変わると言う人もいます。この場合は関連性があります。もし、今の生き方に何か問題があれば次はなりたくない動物や虫になってしまうからです。

 キリスト信仰の場合はどうでしょうか?十戒という神の意思を凝縮した掟集があります。それを守らないと地獄に堕ちると言うことでしょうか?そうとも言えるし、そうとは言えないという両面がキリスト信仰にあります。キリスト信仰はこの世での生き方と次の世の有り様の関連をどう見るかについては終わりで明らかにしようと思います。

 本日の個所で一つ、おやっと思わせることがあります。普通に読むと、金持ちは地獄で永遠の火に焼かれ、ラザロは天国でアブラハムと一緒にいると理解できます。しかし、よーく見ると、金持ちが陥ったところは地獄ではなく「陰府」と言われています。ギリシャ語ではハーデースという言葉で、人間が死んだ後に安置される場所です。しかし、永遠の火の海ではありません。火の海はギリシャ語でゲエンナと言い、文字通り「地獄」です。

 新約聖書の観点では、天国とか地獄というものは将来イエス様が再臨する時、死者の復活とか最後の審判とか天地の再創造が起こる時、その時点で生きている人と前に死んで眠りについていた人が起こされて到達する地点ということになります。なので、「陰府」というのは、それらが起きる時まで死んだ者が安置される場所です。それがどこにあるかは、神のみぞ知るとしか言いようがありません。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにつく、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの一瞬のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な出来事が始まっていると教えています。壮大な出来事が起きる前には、このような安らかな眠りの場所があるのです。

 そういうわけで、本日の箇所で金持ちが落ちた火の海は地獄と言った方が正しいのではないか。しかし、金持ちの兄弟たちはまだ生きていていい加減な生活を続けているわけですから、まだ最後の審判も天地の再創造も起きていません。そうするとやはり「地獄

でなく「陰府」かなと思うのですが、金持ちは眠ってはおらず地獄の火で焼かれています。これは一体どういうことか?この点については、各国の聖書の翻訳者たちも困ったようです。一例として、英語NIVはハーデースをhell「地獄」と訳しています。ただ、脚注を見ると、原文では「陰府」を意味する言葉ハーデースが使われているが、事の性質上、地獄と訳しました、などと断っているくらいです。

 どうしてイエス様は、地獄と考えられる場所なのに「陰府」と言ったのでしょうか?一つ考えられることは、イエス様は何か大事なことを教えるために、時間の正確な流れにこだわらなかったということです。もう一つ考えられることは、もしこの話の元にエジプト由来の教えがあったのであれば、イエス様はその骨格をそのまま用いて、元の話にはない新しいことを教えたことになります。聞き慣れた話だと思って聞いていた人たちは突然、別世界に連れて行かれた感じになったでしょう。ここがイエス様の凄いところだと思います。それでは、その大事な新しいこととは何か?そのことを次に見ていきましょう。

3.旧約聖書の精神と復活の信仰

 金持ちはアブラハムにラザロを送って指先の水で焼き付く舌を冷やさせてくれるよう頼みます。

 アブラハムは、お前は前の世で良いものを十分味わった、ラザロは悪いものを十分味わった、だから今ラザロは大いなる慰めを受け、お前は大いなる苦しみを受けるのだと言います。ここからも、聖書の神にとって正義は重大な関心事であることがわかります。今の天と地の下で正義が損なわれて放置されることがあっても、神はそれをそのままで終わらせない、必ず決着をつけられる。最終的に決着がつけられるのは最後の審判です。そこでは「命の書」と呼ばれる、全ての人間の全ての事柄が正確に記録されている書物が開かれて判決が下されます。どんな有能な裁判官も太刀打ちできない完璧な判決です。

 さて金持ちは、自分のことはもう決着済みと観念して、今度はラザロを兄弟たちのところへ送って下さいとお願いします。そうすることで兄弟たちが自分と同じ運命に陥らないようにするための警告になると思ったからでした。

 ところがアブラハムは、彼らには律法と預言書、すなわち旧約聖書があるではないかと返します。そこにある神のみ言葉に聞けば、わざわざ死者など送らなくとも警告は伝わると。

 しかし、金持ちはそれは上手くいかないと認めて言います。「父アブラハムよ、もし死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」つまり、兄弟たちは旧約聖書に聞いていないのです。「悔い改める」とはギリシャ語のメタノエオーという動詞で、神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生きるようになる方向転換を意味します。方向転換のために神のみ言葉に聞くことが必要なのだが、実際は聞いていないから、死んだ者を送ってやれば兄弟たちは恐れて考え直すと考えたのです。

 ところが、アブラハムはそんなことは起きないと言います。なぜなら、「もし、モーセと預言者(つまり旧約聖書)に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」

 この言葉は重大です。よく耳を開いて聞きましょう。これはアブラハムの言葉ですが、イエス様が作った話の中のアブラハムなので、イエス様がアブラハムの口を通して言わせたイエス様の教えです。「死者の中から生き返る者があっても」とありますが、正確な訳は「たとえ死者の中から誰かが復活しても」です。以前の説教でもお教えしましたが、「生き返り」と「復活」は違います。「生き返り」は蘇生ですが、「復活」は神の栄光に輝く復活の体を着せられることです。ここでイエス様はご自分の復活のことを意味しているのです。ここのイエス様の真意はこうです。「もし、旧約聖書に耳を傾けならないのなら、たとえ死者の復活が起こっても、方向転換の悔い改めは起こらないだろう。」この教えが重大なのは、この教えが向けられているのは金持ちとその兄弟だけではなく、これを聞き読む全ての人に、私たちに向けられているからです。もし、私たちも旧約聖書に耳を傾けないならば、イエス様の復活が起こったところで、私たちに方向転換の悔い改めは起こらないのです。逆に言えば、もし旧約聖書に耳を傾けるならば、イエス様の復活が起こったことで方向転換が起こるのです。旧約聖書に耳を傾けるとどうしてそのような効果が生まれるのでしょうか?

 旧約聖書に耳を傾けるというのは、イエス様が教えるように、十戒の掟を心の奥底まで守れているかどうか問うことになることです。神の意思に反することを行為に出さなければ十分というのではなく、心の状態まで問うのです。そうすると、自分には神の意思に反する罪があることがはっきりし、神の御前に立たされて「命の書」を開かれる日は恐ろしい日になります。ところが、旧約聖書は返す刀で全く正反対のことを私たちに約束するのです。どんな約束か?人間が神の御前に立たされても大丈夫でいられるように、人間の罪を人間に代わって償って下さる方が来られるという約束です(イザヤ53章)。このように旧約聖書に耳を傾けるというのは、まず、自分には神の意思に反する罪があることを十戒によって暴露されて絶体絶命の状態に置かれることです。しかし同時に、神の計らいで人間は罪から贖われるという約束を与えられて希望の状態に置かれることです。つまり、旧約聖書に耳を傾けるというのは、罪の自覚に基づいて希望を持つことです。

 この神の約束はイエス様の十字架の死と死からの復活によって果たされました。イエス様が死から復活された時、あの方は旧約聖書に預言されていた、死が最終的な力を持ちえなかった神のひとり子であることがわかりました。それではなぜ神のひとり子とあろう方が残酷にも十字架にかけられて死ななければならなかったのか?それも旧約聖書に預言されていたこと、神の送られた方が人間の罪を償うために人間に代わって神罰を受けられたことが十字架の形で実現したとわかったのです。

 これらのことが明らかになると、今度は人間の方が、これらは神が私のためになされたと受け止め、イエス様こそ真の救い主であると信じて洗礼を受けると、果たしてもらった罪の償いは自分にとっての償いになります。罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者とみなされ、それからは神との結びつきを持ってこの世を歩むことになります。神の方を向いて生きる方向転換が起きたのです。旧約聖書の精神と復活の信仰が結びついて起きたのです。それからは、この神がイエス様を通して与えて下さった罪の赦しの恵みに留まる限り、神との結びつきはずっとあり、順境の時も逆境の時も変わらずあります。この世を去る時も神との結びつきを持ったまま去り、復活の日に目覚めさせられて約束通りに復活の体を着せられて創造主の御許に永遠に迎え入れられます。

4.勧めと励まし

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆様、私たちキリスト信仰者はこんな途轍もないことをして下さった神に対して、ただひれ伏して感謝する他ありません。その時、神の意思に沿うように生きるのが当たり前になります。神を全身全霊で愛する、隣人を自分を愛するが如く愛するのが当たり前になるのです。そこでは、神の掟は永遠の命を獲得するために守るものではなくなっています。先に永遠の命を保証されてしまったので、それに相応しい生き方をすることが後からついてくるのです。これが方向転換の正体です。

 このようにキリスト信仰者は、神への感謝から神の意思に沿う生き方を志向する者ですが、現実に生きていくとどうしても自分の内に神の意思に反する罪があることに気づかざるを得ません。気づいた時はがっかりします。しかし、まさにその時、心の目をゴルゴタの十字架に向けられれば、神のひとり子の犠牲による償いは揺るがずにあることがわかります。その時、自分が復活に至る道に踏みとどまっていることがわかり、永遠の命の保証も大丈夫であることがわかります。再び神の意思に沿うように生きようと志向します。このように方向転換したキリスト信仰者は何度も何度も軌道修正をしながら復活の日に向かって歩んで行くのです。これが、本日の使徒書の日課、第一テモテ6章でパウロが言う「信仰の立派な戦い」です。同じ個所でパウロはまた、キリスト信仰者は永遠の命に到達するように神に召されたと言っています。説教の冒頭でキリスト信仰は今の世の生き方が次の世の有り様に影響すると考えるのかどうか問いました。実にキリスト信仰では、次の世の有り様が既に定められているので、それに合わせるように今の世を生きるのです。影響の向きが逆なのです。これが、パウロがガラテア6章で言う、キリスト信仰者は「新しく創造されたもの」カイネ―・クティシシスの意味です。

 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年9月21日(日)聖霊降臨後第15主日 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

 

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。

アーメン              2025年9月21日(日)スオミ教会 

聖書:ルカ福音書16章1~13節

説教題:「不正な管理人の譬え」

本日の福音書はルカによる福音書の16章1~13節まであります。ルカは15章でイエス様が三つの譬え話をされた事をかいています。失われた子羊を見つけ出すまで探す羊飼いの譬え話と無くした銀貨を探し出す女の譬え話、そして有名な放蕩息子の譬え話です。どれも分かり易い譬えであります。ところが、今日の16章では一転して「不正な管理人」の譬え話は理解するのに容易ではない話です。ある学者はイエス様が語られた譬え話の中で一番難解な譬え話ではないかと表現しています。

何故かと言いますと不正を働いた管理人を信仰の模範とするようにとイエス様が褒めておられるからであります。どうして褒めておられるのか理解に苦しむから難しい。イエス様が16章のこの譬え話を話されている相手は弟子たちです。弟子たちがこれからこの世に出て行って神様の働きをして行く使命を持って伝道して行く場合にこの世の激しく困難に満ちた中でどのような心構えが必要かを教訓として話されているのです。現代の私たちの教会がこの世にあってどのような心構えで伝道して行くのか、またキリストの証人として、どう生きていったら良いのかを、これらの課題への教訓でもある、と思います。さて、この譬え話の主人公は「不正な管理人」と言われています。別の言葉で簡単に言いますと、彼はなかなかずる賢い管理人であった。ある神学者の研究では彼は奴隷であったという。しかし、大変に賢い奴隷であった。主人は奴隷であった彼に全財産を管理する大切な責任を委ねたわけです。それだけ彼を信用したのでしょう。随分、思い切った事をしたと言って良いでしょう、彼はこの主人の信頼に一生懸命応えて働いたことでしょう。イエス様の時代、パレスチナでは大地主と言われる人が多くいたのです。この譬えで語られる主人もそういう大地主の一人でありました。主人としてやるべき仕事もすべて管理人の手に任せていたのでしょう。ところが、この管理人は長年やって行く中に、まぁ上手くご、まかしていたわけです。横領の罪を重ねて行ったということであります。しかし、それが長く続くわけがありません。他の誰かの色々な告げ口でこの事が主人の耳に入りました、上手くごまかしていたつもりでも横領していた事がばれてしまったわけです。そして、彼はついに解雇されるはめになったのです。さあ・・そこで困った!彼はこのばれた悪事に対して反省はしたでしょう、がすぐさま自分の身に起こったこの事に対して素晴らしい一つの考えを巡らして行くのです。彼が主人のもとから追い出されるまでの短い期間にどうにかしなければならない。彼は帳簿を偽造する、という事を考えついたわけです。そして負債を背負っている者一人々を呼びまして実際に負っている負債の額よりもはるかに少ない額に書き直すという事をさせたのです。パレスチナでは地代を地主に払う場合はお金で支払うのではなく、その借地から採れた穀物とか油とか、そうした借地から収穫される物の一部をもって地代として支払うということをしていたのです。本来なら主人はあれだけ信頼して任せていたのに不正をして横領していたのが知れたのですから、この裏切者に対してそれ相当の罰を加えるのが当然でしょう。ところが主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方を褒めたのです。此処がこの譬えを理解するのが難解なところです。主人は何故このような不正を褒めたのでしょうか。ここでの管理人のやった事には二つの彼にとって有利な面があったのです。一つ目は、負債をしていた者は油100バトスを借りていたわけですが、それを半分の50バトスで良いとなったわけです。そうするとこの管理人に対して大変有り難いと思うでしょう、助かったのです。二つ目は負債者をそういう風にうまい具合に書き換える事によっていわば管理人も横領の罪を犯すわけですがそれに応じて書き換えてもらった負債者もまた言わば共犯者になってしまう、共犯者として巻き込んでしまうわけであります。そして、最悪の事態には体の良い強請りができる。こういう二つのまことにずる賢い事を考えたのです。しかし。その結果はどうなったか、と言いますとこれがみんなばれてしまったのです。

ところで、この主人はいくらか悪戯好きの太っ腹の人だったようでありまして余り厳しく裁くという事よりも主人は管理人に対してその『賢さ』、また『抜け目のなさ』に彼を誉めたのです。この譬え話を語られたイエス様は弟子たちに何を教えておられるのでしょうか。8節の後半を見ますとイエス様は「この子らは自分の仲間に対して光の子らよりも賢く振る舞っている。」と言われています。この譬え話をもってイエス様はどんな意味を含めて譬え話の中に語り示して行おうとされているのか、と言う事であります。主人というのはこの譬え話で神様のことです、或いはイエス・キリストの救い主の事をであります。この世の子らは此処にあります正しく賢く振る舞ったあの管理人の姿でしょう。そして光の子らというのは神様を信じているキリスト者であり、また私たち一人一人信仰を持った信徒であります。不正な管理人が象徴的している現代のこの世はどうですか、科学はこの凄く発達しても戦争の飽くなき殺し合い、詐欺が横行し、インターネットの発達は考えられない程、世の中便利にはなっても政治に悪用されて国や経済までも狂ったり歪んだりしてしまっている。

私たちの生きているこの世の泥沼のような中で光の子であるキリスト信徒は清く正しく貧しくとも耐えて神の御国への希望をもって生きよ。その場合に神様は賢く振る舞い一生懸命に生きよ。正直に生きようとすれば、騙されたり損をしたり思い通りにならない、報われない現実があります。キリスト者としてこの世の現実に生きてやがて最後に人生の総決算を神の前で迫られる。現実の自分の思い、教会で教えられる神様の言われる通りに生きようとする時、帳尻が合わない、ここに心の葛藤が起こります。そういう私たちの姿はまさに信仰と言うものとこの世の現実の中でずる賢しく生きねばならない。そこで不正な管理人のように抜け目のないずる賢しさに精一杯生きようとする。光の子らもそれを模範としなさい。そこで私たちの主人である神様が褒めておられるその意味は何であろうか。誤解しないで注意深く聞く必要があります。ここで信仰者はこの世の曲がりくねった不正に満ちた中で少しでも良いことをして帳尻を合わせようととするならそれは道徳の問題になり修養して行く律法主義者になってしまうでしょう。イエス様はこの譬えの中ではそういう事を決して言っておられない。イエス様は9節で「不正の富を用いてでも友達を作りなさい。」と言っておられるのです。友達を作りなさい。そうしたら富が無くなった時、その友人があなた方を永遠の住まいに迎え入れてくれるでしょう。キリスト者である私たちが生きてゆく場面々で出会った人々、その行い、それは神様があなたに与えられている材料であるわけです。その材料を用いて友人を作ることによって、それは神様の愛の結晶として現れてくる。信仰の作品として実を結ぶことになるのです。あなたは気づいていないかも知れないが、神様の愛の結晶は実を結んで思いもよらない所で花を咲かせて発展していますよ。そうして、あなたの人生の総決算で天の父なる神様の前で「よくやったね」と言ってくださる。自分でも気づかなかった信仰の証しの全ての全てを神様はちゃんと知っておられて総決算をされます。神の御国の終末での救いを、私たちはその一点に限りない希望をもって、心の葛藤をしつつ精いっぱい生きれば良いのであります。  アーメン

人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

2025年9月14日(日)聖霊降臨後第14主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年9月14日(聖霊降臨後第14主日)スオミ教会

出エジプト32章7-14節

第一テモテ1章12-17節

ルカ15章1-10節

説教題 「信仰も悔い改めも神の業なり、人間の業にあらず」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課には、イエス様のたとえの教えが二つありました。最初のたとえでは、ある100匹の羊を所有する人が、1匹はぐれてしまったので、探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びで帰り、友達や近所の人を呼んで喜びを分かち合うという話です。肩に担いだとありますから、羊は怪我でもして衰弱していたのでしょう。見つかって本当に良かったと思わせる情景です。もう一つのたとえは、ある女性が銀貨10枚のうち1枚を無くして、探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びし、これも友達や近所の人を呼んで喜びを分かち合うという話です。二つの話は状況は異なりますが、主題は同じです。見失ったもの無くなったものを、一方は広い野原を果てしなく、他方は狭い家の中を隅々まで必死に探して見つけ、その喜びは自分一人には留めておけない、多くの人と分かち合いたい、それくらい大きな喜びであったということです。

それでは、この二つのたとえは何についてのたとえなのでしょうか?二つのたとえの終わりが同じ結論であることに注目します。一人でも罪びとが悔い改めたら、天の御国では大きな喜びが沸き起こると言われています。「罪びと」というのは、天地創造の神の意思に反する性向、すなわち罪を持つ者のことです。聖書の立場は、全ての人がそういうものを持っている、なので全ての人が「罪びと」であるという立場です。「悔い改める」と聞くと、過ちを深く反省して真人間になるんだと決意する感じがします。ギリシャ語のメタノエオーという動詞のことですが、そのもともとの意味は「考え直す」です。その土台にはヘブライ語のシューブという動詞があり、その意味は「戻る」とか「帰る」です。旧約聖書では、神のもとに立ち返ると言う時に使われます。なので、聖書の「悔い改める」の正確な意味は、それまで神に対して背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになるという意味です。「悔い改め」という言葉を目にしたら、この「神に向う方向転換」という意味を忘れないようにしましょう。

そうすると、一つおかしなことが出てきます。羊の所有者や女性が見失ったものを見つけ出して、それが嬉しくて周囲の人たちと一緒に喜びを分かち合いたいというのはわかります。また、罪びとが神に向かって方向転換の悔い改めをすると、天の御国で父なる神が天使たちと一緒に喜ぶというのもわかります。でも、この二つの喜びはかみ合っているでしょうか?というのは、失われた羊と銀貨と罪びとは結びつかないのではないかと思われるからです。罪びとが方向転換の悔い改めするのはわかるが、羊と銀貨は悔い改めなどしないのでは?それらは、ただ持ち主に捜されて見つけ出されただけで、自分からは何もしていない極めて受動的な立場です。悔い改めるという能動的なことが出来るのは人間です。それなのにイエス様は羊と銀貨も悔い改めをしたかのように教えるのです。そんなことは可能なのでしょうか?これは、方向転換の悔い改めを人間の能動的な行為とみることをやめて、神の側からの働きかけを中心にして考えるとわかってきます。今日はそのことを見ていきましょう。

2.罪びとは神に受け入れられて方向転換が起こる

ファリサイ派と律法学者という、当時のユダヤ教社会の宗教エリートがイエス様の行動を見てびっくり仰天します。あの、預言者の再来のように言われ、群衆から支持されている男が何をしているか見ろ、神の意思に反する生き方をする罪びとどもを受け入れて一緒に食事までしているではないか!当時は、一緒の食事というのは親密な関係にあることを示すものでした。エリートたちの批判を聞いたイエス様は、それに対する反論として失われた羊と銀貨のたとえを話したのです。反論はさらに続き、有名な「放蕩息子」のたとえも話します。本当はこの3つを一つの日課にすると良かったのですが、日本のルター派教会の今日の日課になっているのは2つだけなので、それに基づいて説教せざるを得ません。しかし、必要に応じて「放蕩息子」のたとえにも言及します。

イエス様が罪びとたちを受け入れたことについて、E.P.サンダースという著名な歴史聖書学者は次のように言っていました。ナザレのイエスは悔い改めも何もしない罪びとをそのまんま受け入れて一緒にパーティーまがいのことをしていた。それは、エルサレムの神殿を中心とする宗教システムへの挑戦であった。悔い改めも何もしない罪びとと一緒に食事をしたのは、新しい神殿が到来する新しい世での祝宴を先取りする行動であったと。

新しい世の祝宴を先取りしたというのは当たっていると思いますが、ただ、悔い改めも方向転換もしない、罪びとのままの者をそのまま受け入れたというのは本当でしょうか?イエス様が神の意思に反する罪を認めないということは福音書の各箇所で明らかです。一例として、ヨハネ8章でイエス様は姦淫の罪で石打ちの刑に晒された女性を助け出しました。その時、イエス様は何と言いましたか?これからは罪を犯してはならない、と言いました。罪は犯してはいけないのです。神の意思に反することはいけないのです。これが、神のひとり子であるイエス様の大前提です。イエス様が女性に対して行ったことは、犯した罪は不問にするから、ここで方向転換して生きなさいと新しい可能性を与えたのです。そう言うと、本当にその後は神の方を向いて生きるようになったとどうしてわかるのかと厳しい質問が出るかもしれません。確かにその女性がその後どういう生き方をしたかは聖書に記述がないのでわかりません。ルカ福音書7章に登場する、罪を赦された感謝からイエス様の足に香油を塗った女性との関連性を指摘する人もいますが、確かなことは言えません。ただ、問題の女性は、コンクリ―トの破片のような大きな石を大勢の人から力いっぱい投げつけられるという残酷な刑罰から九死に一生を得たのです。イエス様に対する感謝の気持ちが強ければ強い程、もう神の意思に反する生き方はやめようという気持ちで一杯になると思います。

イエス様が罪びとを受け入れると、罪びとに方向転換が見える形で起こった例もあります。ルカ19章のザアカイの場合です。イエス様が受け入れるや否や、彼は不正で蓄えた富を捨てる決心をしたのです。イエス様が罪びとを受け入れて一緒に食事をしたというのは、神の意思に反する生き方を認めたのではありません。それは、罪びとに方向転換をもたらす行動であり、一緒の食事は方向転換が生まれたことを喜び合うお祝いだったのです。宗教エリートたちにとって、イエス様に受け入れられた罪びとたち、彼に罪を赦された人たちの内に方向転換が起こったなど思いもよらないことでした。彼らにとって、神に受け入れられるとか罪を赦さるというのは、律法の掟を守ること、エルサレムの神殿で様々な生贄を捧げることによって可能でした。簡単に言うと、人間の側で何かをして、それで神に受け入れられ認められるという考えです。

ところが、イエス様の場合は逆で先に神の方が罪びとを受け入れて、受け入れられた罪びとの中に方向転換の悔い改めが生まれるという流れなのです。どうしてそんな違いが生まれたかと言うと、宗教エリートの場合は、律法の掟を外面的に守ればOK、殺人を犯さなければ十戒の第五の掟を守れている、不倫を犯さなければ第六の掟を守れている、ということでした。ところがイエス様は、掟は外面的な行為行動で守っても意味なし、心の中でも守れていなければならないと教えたのです。他人を心の中で罵ったら第五の掟を破ったことになる、女性をみだらな目で見たら心の中で第六の掟を破ったことになるというのです。全ての掟を心の有り様にまで適用したら、神の意思に沿える人など誰もいなくなります。宗教エリートも罪びとです。だから、聖書は真に全ての人間は罪びとであるという立場なのです。そして、心の中も含めて十戒の掟を完全に守れる人は誰もいないのです。

そのため、人間が神に背を向けた生き方を方向転換させて神を向いて生きられるようになるために、神やイエス様が先に私たちを受け入れなければならなかったのです。見失われた羊や銀貨はまさに神に背を向けて生きる罪びとを意味します。それらが必死に探されて見つけられることは、罪びとが神やイエス様に受け入れられたことを意味します。それで、見つけ出された羊や銀貨は悔い改めた罪びととイコールなのです。イエス様は一緒に食事をする者たちはこうなのだと言うのです。もし、神やイエス様の先回りの受け入れを考えないで人間の努力や達成で悔い改めを考えたら、このたとえは成り立ちません。

そう言うと、じゃ、次に来る放蕩息子のたとえはどうなんだ?放蕩息子は自分の行いを反省して父親の元に戻って受け入れられたではないか、羊や銀貨の場合と違って父親は捜しに行かなかった、息子が自分で帰って来たではないか、彼は方向転換の悔い改めをしたから父親に受け入れられたのではないか等々の批判が起きるかもしれません。しかし、放蕩息子のたとえも実は、父親に受け入れたから方向転換の悔い改めが起こったことを暗示しているのです。確かに父親は捜しに出かけませんでしたが、はっきり言います、息子は見失われていたのに見つかったのだ、と二回も繰り返して言います(15章24節、32節)。だから、お祝いをするのは当然なのだと。まさに、羊と銀貨のたとえと同じ主題です。もう少し詳しく見てみましょう。

放蕩息子は異国の地で飢え死にしそうになり故国の父親のもとに帰る決心をします。それは、父親のもとには食べ物が豊富にあるというのが動機になっています。しかし、帰っても父親は呆れかえって怒るだろう、お前など息子ではないと言われてしまうのがオチだろう。だから、ちゃんと自分の愚行は神に対する罪でしたと告白して、もう息子と呼ばれる資格はないです、雇い人でいいですからおいて下さい、そうお願いしよう。そんなふうに父親の前で言うべき言葉を考えて帰国の途につきます。ところが帰ってみると、父親は怒りもせず呆れ返りもせず、ただただ息子の帰郷を心から喜び彼を両手で抱きしめて受け入れたのです。息子は考えていた言葉を罪の告白まで言いますが、その後は遮られました。父親は、その後はもう言わなくてもいいと言わんばかりに召使いたちに祝宴の準備を命じたのです。その言葉とは、雇い人にしておいて下さいというお願いでした。それを言わないで済んだということは、父親は息子として受け入れることを示したのです。

息子が最初に帰国を決心したのは、もちろん自分の行いは愚かだったと後悔したことがあります。ただ、後悔するようになったのは、飢え死にしそうになって父親のもとなら食べ物に困らないとわかったからでした。それで父親に受け入れてもらえるために雇い人という条件を考えたのでした。そういうふうに最初の後悔と帰国の決心にはいろんな動機や打算が混じっていたのです。ところが、父親は無条件で受け入れたのです。その瞬間、最初の後悔と方向転換から余計な混ざり物が削ぎ落されて純粋な後悔と方向転換が生まれたのです。息子に「父親に無条件で受け入れられた息子」というアイデンティティーが確立したのです。神やイエス様の受け入れには同じ力が働くという教えです。

それなので、放蕩息子の帰郷を祝う祝宴は、まさに受け入れられたことで純粋な方向転換の悔い改めが起こったことをお祝いするものでした。このお祝いに対して異議を唱えたのが兄でした。つまり、彼は無条件の受け入れには純粋な方向転換など生み出す力はないという立場です。これはまさに、宗教エリートたちがイエス様の無条件の受け入れを意味なしと見なしたことに対応します。彼らは、イエス様と一緒に食事していた者たちの内面にそのような方向転換が生まれたことを信じられなかったのです。実に、このたとえを聞いたエリートたちは自分たちを映しだす鏡を示されたのでした。

3.神による受け入れはすぐそこまで来ている

イエス様に受け入れられた当時の罪びとたちは神を向いて生きるように方向転換の悔い改めが起こった人たちでした。それでは今の時代を生きる私たちはどうしたら自分の内にも同じような方向転換が生まれて新しいアイデンティティー、「神に無条件で受け入れられた神の子」のアイデンティティーが確立するでしょうか?当時のように受け入れをしてくれる肝心のイエス様は身近にいません。

実は、全ての人間はあと少しでイエス様に受け入れられるところに来ているのです。ただ、受け入れが完結していないので方向転換が起きていないのです。どういうことかと言うと、イエス様は神の意思に従いゴルゴタの丘で十字架にかけられて死なれました。これによって人間の罪が神に対して償われました。本当は人間が受けなければいけなかった神罰を、イエス様が全部引き受けて下さったのです。罪を償うために私たち人間は何もしていないのに、まるで先を越されたように償いが歴史の中で起こったのです。神とイエス様に先手を打たれたのです。

あとは私たち人間が、ゴルゴタの十字架の出来事は聖書に記されている通り起こった、そこでは私の神の意思に反する罪の償いが果たされたとわかって、それでイエス様は本当に救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人に効力を発します。実に信仰とは、神がイエス様を用いて編み出した罪の赦しという恵みを受け取って自分のものにすることです。あとは、受け取った恵みを手放さないようにしっかり携えて生きていくことができるように、聖書の神の御言葉に聞きイエス様が設定された聖餐式に与かります。信仰が人間の業でなく、神の業であるというのはこのためです。

このように罪の赦しの恵みを受け取って自分のものにして生きる者は、所有者に見出だされて担いで連れ帰ってもらう羊と同じです。また、女性に見出だされた銀貨と同じです。そして、石打の刑を免れた女性のように、また父親に抱きしめられた放蕩息子のように純粋な方向転換の悔い改めが起こった者です。それは、「神に無条件で受け入れられた神の子」のアイデンティティーを持って人生を歩む者です。このように悔い改めも人間の業ではなく、神の業なのです。

4.勧めと励まし

主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、この世にはまだ神に先手を打たれて神が両手をひろげて待っていてくれていることに気づかないでいる人たちが大勢います。神がイエス様を用いて準備してくれた罪の赦しの恵みも、せっかく神がどうぞと言って提供してくれているのに、受け取らないでいると、恵みは人の外側によそよそしくあるだけです。多くの人たちには、信仰とか悔い改めというものは人間の方で何かしなければいけないものという思いがあると思います。しかし、キリスト信仰では、それらは人間の業ではなく神の業で、人間は神が成し遂げたものを畏れ多く受け取るだけなのです。受け取ることで神の意思に沿う生き方を志向する心が生まれ強まっていくのです。神に認めてもらうために何かをするんだ、ではなく、一足先に認めてもらったから、あとはそれに相応しい者に変えてもらおう、相応しくないものを取り除いてもらおうということなのです。なので、既に受け取った私たちは、まだ受け取っていない人たちがすぐそばにある恵みに気づいて受け取ることができるように働きかけることが求められています。神は一人でも多くの人を、所有者に見つけてもらった羊のように、女性に見つけてもらった銀貨のように、本来いるべき場所に連れ帰ってそこで天使と一緒に盛大にお祝いしたいからです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年9月7日(日)聖霊降臨後第十三主日 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年9月7日(聖霊降臨後第13主日)

聖書日課 申命記35章15~20節、フィレモン1~21節、ルカ14章25~33節

説教題 「イエス様の弟子であるということ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の箇所は難しいです。私たちの理解を難しくしているものとして二つの問題があります。一つは、父親、母親、娘、息子、兄弟姉妹を「憎む」ことをしないと、私の弟子でいることはできない、とイエス様が教えていることです。十戒の第四の掟は「父母を敬え」でした。イエス様は、自分をこの世に送った父なる神の命じたことをに反することを教えようとしているのでしょうか?イエス様自身、「隣人を自分を愛するが如く愛せよ

と教えているのに、親兄弟娘息子を憎まないと弟子に相応しくないとはどういうことか?愛せよと言ったかと思いきや、憎めなどとはイエス様は矛盾が過ぎるのでは?

もう一つの問題は、塔を建てる者と戦争に臨む王のたえです。塔というのは、マルコ12章やイザヤ5章に出てきますが、ブドウ園を造る者が見張りの塔を建てるという位にブドウ園にはつきものでした。せっかくブドウ園を造っても、見張りの塔が建てられなかったら、実ったブドウは容易く盗まれてしまいます。マルコ12章とイザヤ5章をみると、ブドウ園を造る時、見張りの塔の建設は順番として最後にくるものだったようです。さて、ブドウ園経営者は塔を造る段になって、お金が足りるかどうか計算する、足りないまま造り始めてしまったら途中で断念することになって笑いものになってしまう。では、足りないことが明らかになったら、どうするのか?造らないで済ませてしまうのか?中途半端な無様な建物をさらけ出さずに済み、笑いものにはならないかもしれませんが、ブドウ園は無防備になってしまいます。

もう一つのたとえは、戦争に臨む王です。隣の国の王が2万の兵を率いて進軍してくる。それを迎え撃つために王は兵を率いて出陣する。しかし、彼の兵力は半分の1万。それで王は勝算を計算し始め、勝ち目はないと判断して、まだお互いの軍勢が遠く離れている段階で相手方に使いを送って講和を求める。不利な戦いは回避できるかもしれませんが、講和の条件は先に和平を乞うた王にとって不利なものになるでしょう。

このように二つのたとえは、向う見ずなことはするな、無謀なことはするな、と教えているようにみえます。何か事をする場合には、まず、達成しようとしたり獲得しようとするものと、それにかかる費用や犠牲を冷静によく比較して、自分の持っているもので達成可能かどうかよく検討すべきだ、もし自分の持っているものでは達成不可能だとわかれば、即やめなさい、と。たとえブドウ園が見張り塔がないものになってしまっても、また、不利な条件で講和を結ぶことになっても、そっちの方がいいのだ、と。これは、理に適った教えであります。

ところが、33節を見ると、イエス様は、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」と言われる。イエス様は、突然、捨てる覚悟がないと自分の弟子に相応しくないと言うのです。それこそ、一度、基を築いたら、資金のことはかまわず建設を続行せよ、と。一度、出陣したら、兵力の差は気にせず、そのまま進軍を続けよ、それが弟子としての本道である、と教えているのです。そうなると、前の二つのたとえは何だったのかと言いたくなります。

以上、親兄弟娘息子を憎まないと弟子に相応しくない、とか、一見、向う見ずなこと無謀なことはするな、と教えているようで、実はそうしないと弟子に相応しくない、とか、イエス様は一体何を言いたいのでしょうか?本日の箇所は、こうした難しさがありますが、キリスト信仰者が自分の受けた洗礼にはどんな意味があるのかを思い返してみると次第にわかってくるところです。マタイ福音書28章でイエス様は、洗礼を受けることで彼の弟子になると言われました。本日の個所は、イエス様の弟子であるとはどういうことか、洗礼を受けた後の人間の生き方はいかなるものかについて教えているのです。だから本日の個所の理解には、自分が受けた洗礼の意味を思い返す必要があるのです。

2.「憎む」ということについて

まず、親兄弟娘息子を憎まないと弟子に相応しくないという教えについて。「憎む」という言葉はギリシャ語のμισεωミセオーという動詞が元にあり、その意味は「憎む」なので、それをそのまま当てはめて訳したものです。旧約聖書のヘブライ語にはשנאサーネーアという動詞があり、これも辞書に出ている意味は「憎む」です。ただ、創世記29章をみると、私たちが普通思い浮かべる「憎む」とは異なるニュアンスがあります。ラバンがヤコブに初め長女のレアを妻として与え、後で次女のラケルを妻に与えた出来事です。ヤコブはレアを「疎んじた」(31節)とあります。この「疎んじた」は、ヘブライ語のサーネーア「憎む」です。しかし、ヤコブは実際にはレアを憎んだのではなく、レアよりもラケルを愛した、それで、レアにそっぽを向いた、ということです。

このことを念頭において、本日の箇所でイエス様が口にする「憎む」を考えてみると良いと思います。つまり、親兄弟娘息子を「憎む」、憎悪の対象にするのではなく、親兄弟娘息子よりも神を愛するということです。親兄弟娘息子を愛するのは当然だが、それよりも神に対する愛が大きくなければ、弟子に相応しくないということです。「憎む」というのは、神への愛が優位に立つことをはっきりさせるためにイエス様がよく用いる度肝を抜く誇張法をここでも用いているのではないかと思います。

ああ、これで肉親を憎まなくてよかった、と安心するやいなや、すぐ次の壁にぶつかります。親兄弟娘息子よりも神を愛するとはどういうことか?憎まなくても、肉親を軽んじることになるのではないだろうか?イエス様自身は、「隣人を自分を愛するが如く愛する」ことは神の最重要な掟である(マルコ12章31節等)、と教えているではないか?

イエス様は十戒を二つの掟の形に集約して、この二つが最重要な掟であると教えました(マルコ12章28

34節)。この二つの最重要な掟の筆頭にくるのは、こうでした。「私たちの神である主は、唯一の主である。あなたは、あなたの神を全身全霊全力をもって愛せよ。」そして、その次に来るのが、「あなたは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ」です。つまり、隣人愛は最も重要な掟ではありますが、実はそれに先立つものとして、唯一の神を全身全霊全力をもって愛せよという掟が来るのです。つまり、隣人愛は、神への愛から分離独立してあるのではなく、実は、神への愛を土台にしてあるのです。

宗教改革のルターは、神への愛と肉親に対する愛の関係について大体次のように教えています。曰く、肉親を愛し仕えるのは神の意思として当然である、しかし、肉親が、私たちに対して神の意思に反することを要求して、私たちの説得や懇願にもかかわらず、態度を変えない場合、さらには神を唯一の主と信じる信仰や御子イエス様を唯一の救い主と信じる信仰を止めさせようとする場合には、肉親に何を言われようが、何をされようが、信仰に踏みとどまって、第一の掟を守らなければならない、と。

肉親が、そんな邪教を捨てないともう私の子供ではないと強硬な態度に出ることもあるかもしれません。あるいは、親を愛しているんだったら、そんな信仰は捨てておくれ、などと、キリスト信仰に生きることが親を愛していない証拠のように持っていくケースもあるかもしれません。しかし、それは筋違いです。なぜなら、たとえ肉親が私たちの信仰を認めなかったり、信仰のゆえに私たちを悪く言ったとしても、私たちとしては、もしその人たちが困難に陥れば、すぐ助けの手を差し出す用意があるからです。私たちの側では、隣人愛の掟は神への愛の掟としっかり結びついているのです。こうしてみると、イエス様の弟子とは、とやかく言われて悪く言われて、なおかつ、まさにそのような人たちのために祈ったり、必要とあれば助けてあげなければならない、なんだかずいぶんお人好しで馬鹿をみるような人生です。しかし、それが本日の箇所でも言われている、各自が背負う十字架(27節)なのであり、イエス様の弟子であることの証しなのです。

3.神に対する愛

親兄弟娘息子よりも神を愛すると言う時、キリスト信仰者の神に対する愛とはどんな愛なのでしょうか?

聖書が大前提にしていることは、人間は創造主である神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまったために神聖な神との結びつきが失われてしまったということです。それで人間はこの世の人生を生きる時は全知全能の神との結びつきがない状態で生き、この世から去る時も結びつきがない状態で去らねばならなくなってしまいました。それを、神は人間が結びつきを回復してこの世を生きられるようにしよう、この世を去る時も結びつきを持ったまま去って復活の日に目覚めさせてあげようということで、それでひとり子のイエス様を人間のために贈られました。

この神のひとり子は人間の全ての罪を背負ってゴルゴタの十字架の上で人間に代わって神罰を受け、人間が受けないで済むようにして下さいました。そこで今度は人間の方が十字架の出来事というのは聖書に書いてあるように本当に起こったことだと信じて洗礼を受けると人間はこの罪の赦しの救いを自分のものにすることができるのです。

さらに神は一度死なれたイエス様を復活させて、死を超える永遠の命が本当にあることをこの世に示されました。それで、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、順境の時も逆境の時も何ら変わらない神との結びつきを持って生きられ、復活の日を目指してこの世を進んで行くのです。

キリスト信仰者の神への愛は、神がひとり子と一緒に罪の赦しの救いを与えて下さったから起こって来るのです。親兄弟娘息子はいかに愛すべき存在であっても、罪の赦しの救いを与えることはできません。それが出来るのは造り主の神だけです。親兄弟娘息子は気づいていないですが、この罪の赦しの救いは神が、どうぞ受け取って下さい、と彼らにも向けられているのです。彼らも創造主の神に造られたのです。イエス様は彼らのためにも死なれ、彼らのためにも復活されたのです。ここに、神を愛するキリスト信仰者が信仰者でない親兄弟娘息子たちにどう振る舞うか、明らかなヒントがあります。

4.塔と王のたとえの意味

次に、塔を建てる前に予算を計算する人と、負けが明らかな戦をする前に講和を求める王のたとえについて見てみましょう。たとえの次に来る、自分の持ちものを捨てなければ弟子に相応しくない、という教えと矛盾しているように見えます。ところが、矛盾はないのです。イエス様は、まさに、弟子になるということは、見積もりを立てないで塔を建てるようなものだ、また圧倒的多勢の軍勢に立ち向かっていくようなものだ、と教えているのです。どうしてそんなことが言えるのか?二つのたとえの意味はこうです。塔の建設者は普通、後で笑い者にならないようにと前もって綿密に計算だろう。また、王は普通、負け戦が明らかな場合は不利な条件でも講和を結ぶだろう。しかし、こういうのは、自分の持っているものを捨てる覚悟がない者と同じだ、私の弟子に相応しくないと言うのです。

少し細かい所を見ますと、28節と31節で、塔建設者や王が計算する時に、日本語訳で「まず腰をすえて」と書いてあります。「腰をすえて」なんて言うと、なんだか落ち着いた立派な行為のような印象を受けます。しかし、ギリシャ語の原文は、両方ともただ単に「まず座って」πρωτον καθισαςです。つまり、何か実行しようと思ったが、ちょっと待てよ、うまくいくかな、と心配して、要は立ち止まって計算を始めた、ということです。一度決めたら後ろを振り返らずに前に進まないと弟子には相応しくないのです。ルカ9章62節で、イエス様は、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と教えています。

そうすると、キリスト信仰者とは、なんと無謀で向う見ずな者なのか、こんなやり方ではどんな事業も経営も失敗・破綻するするだろう、という疑問を抱かれるでしょう。ここで注意しなければならないのは、イエス様の教えていることは、あくまで、イエス様の弟子として生きるということについてです。イエス様の弟子として生きるとは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して築かれた神との結びつきをしっかり携えて生きることです。私たちのためにとても大きなことをしてくれた神をひれ伏すように愛して、その愛に立って隣人を自分を愛するが如く愛することです。何か事業を起こす時は見通しを立てないでやれ、ということを言っているのではありません。イエス様が教えているのは、そういう世俗的な事柄ではなく、私たちの魂に関わる霊的な事柄です。

キリスト信仰者は、ヨハネ福音書15章で言われるように、イエス様というぶどうの木に繋がる枝です。このぶどうの園を見張りの塔がない無防備にしてはいけないのです。この世には、イエス様を救い主と信じる信仰を失わせ、神との結びつきを引き裂こうとする力が沢山働いています。外からの圧力や誘惑、自分の内側には神の意思に反しようとする罪があります。そのような力に遭遇したら、すかさず心の目をゴルゴタの丘の十字架に向けます。また復活を証しする空の墓にも向けます。その時、洗礼の時に打ち立てられた新しい命は今もしっかり打ち立てられたままであることがわかります。このように神の力で見張りの塔が出来ているのです。

信仰を失わせる力、神との結びつきを引き裂く力は、自分の力の2倍以上に感じられるかもしれません。しかしそのような力に対してはいかなる妥協もしてはならないのです。そのような時も、心の目を十字架と空の墓に向けます。洗礼の時に打ち立てられた新しい命は今もしっかり打ち立てられたままです。このように神の力で2倍の相手を撃退しているのです。

5.勧めと励まし

主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちには、洗礼という原点があります。ゴルゴタの十字架で打ち立てられたこと、神のひとり子を犠牲にした罪の償いと罪の呪いからの解放が私たち自身のものになった原点です。キリスト信仰者にはこのような立ち返ることが出来る原点があるのです。罪の償いと罪の呪いからの解放が自分のものになっているというは、私たちにとって現実なことですが、聖餐式のパンとぶどう酒が霊的な栄養となってその現実を強めてくれます。洗礼と聖餐を持つキリスト信仰者は本当に幸いな者です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年7月6日(日)聖霊降臨後第四主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年7月6日(聖霊降臨後第三主日)スオミ教会

イザヤ66章10~14節

ガラテア6章1~16節

ルカ10章1~11、16~20節

説教題「『神の国』と『命の書』

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 今日の福音書の個所は、イエス様が72人の弟子たちを町々に送ったという出来事です。イエス様は以前に12人の弟子たちを各地に派遣したことがあります。いずれの場合も弟子たちの役目は大体同じでした。神の国が近づいたことを宣べ伝えること、イエス様から委ねられた力で病気の癒しや悪霊の追い出しを行うことです。派遣に際していろいろな指示が与えられました。財布も着替えも持っていくなとか。一見無茶な指示ですが、これは、行く先々で弟子たちを受け入れて世話をしてくれるところが必ずある、だから心配はいらないということです。もっと掘り下げて言えば、神がそのような人たちを用意される、それを信頼しなさいという、神への信頼が弟子たちにあるかどうかが試されているのです。

 もう一つわかりにくいことがあります。それは、道中誰にも挨拶をするなという指示です。イエス様はどうしてそんな冷たい指示を与えたのでしょうか?難しいところですが、私は次のように考えてみました。当時、ユダヤ人の間で挨拶する時の決まり文句は「平和があなたにあるように」でした。平和はヘブライ語でシャーローム、当時イスラエルの地域でユダヤ人たちが話していた言葉であるアラム語ではシェラームです。これがあなたにあるように、という挨拶の仕方でした。シャーロームは普通「平和」と訳されますが、言葉の意味はもっと広くて、繁栄とか健康とか成功の意味も含みました。つまり、あなたに繁栄/健康/成功がありますように、という挨拶の仕方でした。それをイエス様は道端でしてはいけないと。ただし、弟子たちが誰かの家に入った時は「この家に平和がありますように」と言いなさいと指示しました。つまり、道端で禁じた挨拶をしなさいということです。その家に「平和の子」がいれば、弟子たちの願った平和はその人に留まり、いなければ平和は弟子たちに戻ってきてしまうと。弟子たちの願った平和が留まる人と留まらない人がいると。平和が留まる人は「平和の子」であると。

 ここで、イエス様が大事に考えていた「平和」とは、神と人間の間の平和だったことを思い出しましょう。人間には神の意思に反する性向、罪がある、そのために神と平和な関係を持てなくなってしまっている。それを正すためにイエス様はこの世に贈られたのでした。それで「平和の子」とは、自分には神の意思に反する罪があると自覚して神との平和な関係を希求する人だったと言えるでしょう。しかしながら、みんながみんなそうではありませんでした。自分と神との関係は大丈夫、だって、ちゃんと律法の掟を守って神殿にきちんと捧げものをしている、と言う人はイエス様の平和の挨拶が心に届かなかったのです。弟子たちを拒否する人は彼らを送ったイエス様を拒否し、イエス様を拒否する人は彼を送った神を拒否してしまったのです。イエス様は、弟子たちを送ることは狼の群れの中に羊を送り込むようなことだと言っているので、受け入れないところでは命の危険があったのかもしれません。イエス様やその弟子たちを受け入れるところと入れないところがあるというのは、イエス様の時代に限らず時代や国を問わずいつもあるのです。自分には自分を造った創造主の神がいるとわかり、その神との関係はどうなっているか自問し、今のままではいけないと考えるようになった人は「平和の子」なのです。

 72人の弟子の派遣は、イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して南下の旅を続けていた時に行われました。エルサレムはイエス様の受難と十字架の死、そして死からの復活の出来事が待っているところです。イエス様が72人を派遣したのは、彼がこれから通ることになる町や村への先遣隊のようなものでした。この72人と12人を合わせてイエス様には少なくとも84人弟子がいたことになります。72人を選んだということは選ばれなかった人もいたことになるので、弟子はもっと多かったでしょう。なので、イエス様一行を受け入れて世話をする人たちをあちこちで準備しなければなりません。72人は2人一組で派遣されたので36カ所に派遣されたことになります。それぞれの場所で何が起きたか詳しいことはわかりませんが、戻って来た弟子たちが皆、悪霊は出て行きましたと喜んで報告しているので派遣は概ね成功だったようです。ルカ19章にエリコの町で徴税人のザアカイの家に泊まった出来事があります。イエス様の一行が町に入った時、大勢の人たちが待ってましたとばかり街道に押しかけました。エリコは先遣隊を受け入れた町の一つだったのでしょう。

 前置きが長くなりましたが、本日の説教では次の2つのことに焦点をあてて福音を宣べ伝えたく思います。一つは、弟子たちの役目の一つに、神の国が近づいたと人々に告げ知らせることがありました。弟子たちを受け入れる人たちにも受け入れない人たちにも知らせるのです。神の国の近づきとは一体何か?これが第一点目。二点目は、たとえイエス様から悪霊を追い出す力や、あらゆる危険を足蹴にできる力を頂いたとしても、そんなことで喜んではいけない、あなたたちの名前が天に書き記されていることを喜びなさいと言ったこと。名前が天に書き記されていることが何にも優る喜びであるということは一体どういうことか?この二つに焦点をあてて見ていきます。

2.「神の国は近づいた」

 イエス様は、活動を開始した時から「神の国は近づいた」と人々に告げ知らせて「神の国」について沢山教えました。そんな国が近づいたとはどういうことでしょうか?そもそも「神の国」とはどういう国なのでしょうか?

 神の国とは、まず、天地創造の神、私たちの周りの森羅万象を造られた創造主がおられるところです。神はこの世を造られた後、引きこもってしまって、あとは勝手にどうぞ、とは言いませんでした。そうではなく、この世に対していろいろ働きかけをしてきました。どんな働きかけがあったかは、聖書を見ればわかります。全ての人間に対してご自分の意思を示す律法を、ご自分が選んだ民に委ねたこと、そのイスラエルの民の歴史を通してご自分の考えやご自分がどのような方であるかを知らしめたことがあります。神はご自分の意思に反することを罪と言い、それを焼き尽くさないではいられない神聖な方であるが、同時に罪を持つ人間が悔い改めて神のもとに立ち返れば罪を不問にして新しく生きられるようにして下さる憐れみ深い方でもある、そういうお方であることを知らしめました。そして、神の働きかけの中で最大のものは何と言っても、ひとり子を私たち人間の救いのために贈ったということです。

 聖書は、「神の国」は将来、私たちの目の前に現れて、私たちはそれを自分の国として受け継ぐことが出来ると知らせます。「神の国」が現れる日とは、今のこの世が終わり、今ある天と地が新しい天と地に造り変えられる時です。このように聖書は終末論と創造論がセットになっています。ヘブライ12章では、今のこの世のものは全て揺り動かされて除去されてしまうが、揺り動かされない唯一の国が現われる、それが「神の国」であると。黙示録21章では、新しく創造された天と地のもとで神の国が現われ、そこは苦しみも嘆きも死もない、全ての涙が拭われる国であると言われます。全ての涙というのは、痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。つまり、この世でないがしろにされてしまった正義が最終的に完全に実現し、全ての不正に対して借りを全部返す大清算が行われるのです。

 ところで、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、本当に近づいたのでしょうか?まだ、この世が終わるような天と地の大変動は起きなかったではありませんか?実はこれは、イエス様が行った無数の奇跡の業を通して神の国の近づきが明らかになったということです。難病の癒し、自然の猛威を静めたこと、何千人の人たちの空腹を超自然的な仕方で満たしてあげたこと、一度息を引き取った人たちを蘇らせたこと、これらはどれを取っても嘆きも苦しみも死もない「神の国」の有り様でした。つまり、「神の国」はイエス様と一緒に抱きあわせの形で来ていたのでした。

 しかしながら、人々は難病が癒されても、自然の猛威から助けられても、空腹を満たされても、生き返らせてもらっても、それでまだ「神の国」に入れたわけではありませんでした。人間はそのままの状態では「神の国」に入れない障害がありました。それは、神の意思に背く性向、罪を人間は持っているということでした。人を傷つけてはいけない、他人のものを妬んだり横取りしてはいけない、真実を曲げてはいけない、不倫をしてはいけない等々の神の意思に反することを行いや言葉で出してしまったり、考えで持ってしまいます。反対に、しなければならない正しいこと良いことをしなかったり、言葉に出さなかったり、考えなかったりするのも神のみ前では立派な罪になります。罪のために人間は神との結びつきがない状態に置かれ、この世を生きる時もこの世を去る時も結びつきがない状態になってしまいます。神はこの状態を直して、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられ、この世を去った後も復活の日に眠りから目覚めさせて「神の国」に迎え入れられるようにしてあげようと、それでひとり子をこの世に贈られたのでした。

 神は、本当なら私たちが受けなければならない罪の罰をひとり子に全部受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせました。もし私たちが神罰を受けてしまったら、私たちは永遠の滅びに陥り「神の国」に迎え入れられなくなるのです。イエス様は私たち人間の罪を命をもって償って下さったのです。それだけではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に開かれました。それで、私たち人間は、これらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だとわかって洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものにすることができます。罪が償われたから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦されたから神との結びつきが回復します。そして、復活の日に現れる「神の国」に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って歩む人生が始まります。

 キリスト信仰者はこの世ではまだ「神の国」に迎え入れられてはいませんが、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってそれを受け継ぐ者になっているのです。さらに、聖書の御言葉と聖餐式があるので「神の国」に至る道を踏み外さずに歩むことができるのです。聖書の御言葉は生ける神のみ言葉です。なので、信仰の目を持って読み、信仰の耳を持って聞けば、聖霊が働いて父なるみ神とみ子イエス様を身近な存在にして下さいます。聖餐式では私たちの口を通してイエス様を体の内に取り込みます。だから、人生の状況がいかなるものであっても、御言葉と聖餐に繋がっている限りは、道は確か道で、歩みも確かな歩みです。何も心配はありません。

3.命の書

 天のみ神のもとに何か書物があって、そこに名前が記されていることが大きな祝福である、しかし、名前が記されていなかったり削除されるのは悲劇であるという、そういう書物が存在することは旧約聖書の出エジプト記32章32節、詩篇69篇29節、イザヤ書4章3節、ダニエル書12章1節で言われてます。新約聖書もその伝統を受け継いでいて、本日の福音書の日課でも明らかなようにイエス様自身がそのような書物があると言っているのです。新約聖書の中では他にフィリピ4章3節、ヘブライ12章23節、黙示録3章5節で言われています。これらの中で、ダニエル12章1節とヘブライ12章23節と黙示録3章5節を見ると、この「命の書」と呼ばれる書物に名前がある者は復活の日に「神の国」に迎え入れられる者を意味していることがわかります。

 さらに黙示録20章を見ると、「命の書」の他に全ての人間の全ての行いが記された書物があることも言われています。最後の審判の時に神の国に迎え入れられるか、それとも滅びに陥るかの判決はその書物に記されたことに基づいて下されるとあります。今ある天と地のもとに存在した人間全て一人一人の全ての事柄について記録など膨大過ぎてあり得ないと思われるかもしれません。しかし、神は人間を一人一人造られ、母親の胎内にいる時からみんな知っていたという位の創造主です。イエス様も言われたように、髪の毛の数も一本残らず数え上げるくらい私たちのことを知り尽くしてい方です。そうなると私たちは神に対して何も隠し事はできなくなります。審判の日に神の意思に反してしまったことを一つ一つ指摘されてしまったら、取り繕うことも申し開きも一切できません。絶体絶命です。それにしても神に対して申し開きしなくて済むような完璧で潔癖な人間なんて存在するのでしょうか?

 実に神は、私たちが申し開きしなくてすむようにひとり子のイエス様を贈って下さったのです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで罪を赦された者として生きることが始まりました。ところが、神の意思に反することが自分の内にあることにいつも気づかされてしまいます。その時は、聖霊がいつも私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、大丈夫、あの方のおかげであなたは罰を免れている、あなたの生きることはあの方の尊い犠牲の上に成り立っているのだと思い出させて下さいます。その時、私たちは畏れ多い気持ちと感謝に満たされて、これからは軽々しく立ち振る舞わないようにしようと襟を正します。審判の日に神は、このように罪の赦しの恵みに留まって生きたことがキリスト信仰者の真実であると認めて下さるのです。確かに神の意思に反するものを持ってしまったことがある、しかし、その度に罪を罪として認めて赦しを願い祈り、赦しがあることを確認してもらった。これこそ罪に与しない、罪に敵対する生き方であった。こっちの方が罪を持ってしまったことよりもキリスト信仰者の真実なのです。神はこれを認めて下さるので、キリスト信仰者は申し開きする必要はないのです。ここからもわかるように罪の赦しの恵みというのは人間にとって生命線なのです。

  1. 勧めと励まし

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、神のもとには「神の国」に迎え入れられる者の名前が記された「命の書」と、全ての人間の全てについて記された書物があります。罪の赦しの恵みに留まって生きる者は審判の日に神に申し開きする必要がありません。罪の赦しの恵みには、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって入れます。罪の赦しの恵みに留まって生きられるために、聖書の御言葉と聖餐式が与えられているのです。これらをよく用いない手はありません。

 神の国が現われる日、それは今の天と地が新しい天と地に取って代わられる、想像を絶する天変地異の時であり、神の審判が行われる時です。神の恵みに留まって生きたキリスト信仰者は想像を絶する苦難や困難を全てクリアーできるのです。それなのでキリスト信仰者が持っている安心感と言ったら相当なものです。そんな安心感を持てれば、この世で苦難や困難に遭遇しても、本当は平気なはずです。なぜならこの世の終わりの苦難や困難に比べたらこの世の苦難や困難は小さいものだからです。それでキリスト信仰者というのは、本当は大胆不敵で肝が据わっている種族なのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年6月15日(日)三位一体主日 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

 

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安があなた方とあるように。 アーメン                  2025、6月15日(日)

聖書:ヨハネ福音書16章12~15節

題:「御霊の導き」

ヨハネ福音書16章ではイエス様は弟子たちに5節以下のところでこう告げておられます。「今、私は私をお遣わしになった方のもとへ行こうとしている。」この事を告げるとあなた方の心は悲しみで満たされているだろう。しかし、私が去って行くのはあなた方のためになる。私が去って行かなければ弁護者はあなた方のところに来ないからである。弁護者と訳してありますが、真理の御霊とも言えます。わかり易く言えば助け主です。もし、私が行けばそれをあなた方に遣わそう。とこう話されて、イエス様はやがて父なる神の身許に去って行かれる時にイエス様の代わりに助け主として御霊が来てくださる。その御霊の働きについて8節から語られてゆきます。そうして、いよいよ今日の聖書16章12節になります。

12節「言っておきたい事はまだ沢山あるが、いまあなた方には理解できない。しかし、その方、即ち真理の御霊が来るとあなた方を導いて真理を悉く悟らせる。」

―――――――――――――――――――◇――――――――――――――――

此処からはイエス様が弟子たちに心に沿って丁寧に言っておられます。私はいつまでも復活の姿でお前達といるわけにはいかない。間もなく天の父のもとへと帰って行かなければならない。そうすると弟子たちだけでこれから全世界へとこれまでイエス様が教えられた事を広めて行かねばならない。そこで私の代わりに真理の御霊をあなた方のところへ来させよう。まだまだお前たちに言っておきたい事は沢山あるが、今はあなた方には理解できない。私の代わりに来る真理の御霊が助け手となって真理にの事如くを悟らせてくれる。口語訳の方では此処のところを「あらゆる真理に導いてくれるであろう」となっています。「あらゆる真理に導く」とはどう意味であろう、という問題で議論されたのであります。ある人々の考えでは文字通りどんな文化や学問、あらゆる科学やあらゆる人間の領域の分野に渡って真理に導いてくれるのだ。そうすると御霊によって導かれたたクリスチャンはあらゆる分野に渡ってその真理へと導かれ世の中で偉い者になれるはずだ・・となる。いや、そうではない。此処で「あらゆる」と言うのは前後の文脈から見て、ここで御霊が遣わされて来るのは、あくまでイエス・キリストの罪の購いをなして下さった業に基づいて来るところの救いの助けの事を語っているのだから「あらゆる真理」とは言うまでもなく救いに関わる真理へと導いてくれる、キリスト的なあらゆる真理の事である。こちらの方が大方の考えの用であります。

―――――――――――――――――――◇――――――――――――――――

次に16章13節の終わりの言葉で、イエス様は「来るべき事をあなた方に知らせるであろう」と言われました。御霊が知らせてくれる「来るべき事」「これから起こる」というのはどういう事でしょう。いろいろ意見の違いもありますが、ある人々の考えは教会に聖霊が降ってこの御霊が預言者たちを霊感して未来の出来事を預言させる。例えば使徒言行録11章28節にはアンティオキア教会の預言者アガボという者が世界中に大飢饉が起こるだろう、と御霊によって預言したところ果たしてそれがクラウディウス帝の時に起こった、とあります。そのように旧約聖書の預言者のように新約時代の教会にも預言者が御霊によって立てられ、いろいろ預言した、この事を言っているのではないかと考える人々もあった。或いはまた、此処で言われた「来るべき事」と言うのはユダヤの言葉で「来るべき者」と言えばメシヤのことを言っていた。そのように「来るべき事」とは起こり来る全ての事を言うのではなくメシヤの現れる終末の事を指すのである、と考える人々もあった。いや、そうではないと第三は「来るべき事」とは今イエス様が語っていらっしゃる最後の晩餐という時点から考えてこれから起ころうとしている事、即ちご自分の十字架の死と蘇えりと父のもとに昇天される…そういうごく目の前に迫った事を言うのであると考える。この考えが一番良いのではないかと言われています。共同訳で書かれている「これから起こる事を聖霊があなた方に告げるからである。」という言葉と合います。だから、此処で約束されています御霊の導きは結局あのイエス様の十字架の死と蘇えり、という歴史的な出来事の啓示の意味を深く理解させて行く導きのことであります。14節に「御霊は私に栄光を与える。私のものを受けてあなた方に告げるからである。」このようにイエス様が仰るように、あくまでも此処の聖霊の導きはイエス・キリストに栄光あらしめる働きに他なりません。イエス様の身にこれから起こる事、十字架の死と蘇えり、そして父のもとに昇天されるという、この一連の起こり来る全ての事を弟子たちは想像だに出来ないし、とても理解出来ない事であったでしょう。その全てを聖霊だけが目に見えない形で弟子たちの中に導いて行ける、啓示の働きであります。この聖霊によって働く啓示の事をある聖書学者は次のように表現しています。聖霊である御霊の偉大な働きは神の真理を人々にもたらすことである。「神の真理をもたらす」ことを現すのに一つの特別な名前がつけられている、それは「啓示」と呼ばれている。新約聖書の中でこの箇所ほど啓示の原則と呼ばれるものを良く示している箇所は無いのである。それで啓示の特徴としては。

第一に啓示は漸進的な過程であらねばならない。つまり、一つ一つの順序を追って進まねばらない、ということです。イエス様は何時も父なる神と相談し、祈って行かれた、だから父なる神のものはイエス様のもの、多くのことを知っておられたが、それを弟子たちに一度に教えるわけには行かなかった。彼らはそれを一度に把握する事が出来なかったのです。ですから相手が理解できるだけしか教える事は出来ない。どんな啓示もそれを受け入れる人間の能力に合ったものでなければ教えられない。子どもに数学を教えるのにいきなり多項式とか因数分解など教えない、その子どもの能力に合わせ一つ一つ順序を踏んで進むことです。

  • 人間に対する神の啓示も同様であります。神が人間に教える事が出来るものは人間が学び得るもの、学ぶにふさわしいものです。
  • 聖霊が神に代わって順序を踏んで導いてくれる、と言うものであります。

第二に神の啓示には終わりが無い、と言うことです。神の真理を人々にもたらす啓示には何時の時代でも何処の場所であっても聖霊として働いてゆく終わりの無い働きであります。神の啓示は歴史のある時点で止められたのではない。神の御霊は常に活動している。神は常にご自分を啓示しておられる。明らかに示しておられる神の最高の啓示はイエス・キリストにおいてもたらされたものです。イエス・キリストは聖書の中の一人物ではない、今も生きて働いて下さるお方です。今ひとつの啓示の原則についてです。啓示されるものは神から来る、と言うことです。神は真理の所有者であると共に真理を与える方、真理は人間の発見物ではない。それは神の賜物であります。啓示は書物や信条や印刷された文字を通して私たちに顕されるものではない。

  • 啓示は生ける人間を通して私たちに顕されるものです。そして私たちは主なるイエス様を信じ、全てを主に委ねてイエス様をより深く知れば知るほど益々イエス様は私たちにより近く語ってくださるようになるのです。

イエス様によって顕された啓示を受けるためには、私たちはイエス様が主であることを受け入れなければならない。私たちはどうしても自分が主であるのではないでしょうか。主キリストへの明け渡しとキリストを知ることが同心歩調で進むこと、そこに神がその啓示を顕すことが出来るのです。

人知ではとうてい測り知ることが出来ない神の平安が、あなた方の心と思いを

キリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

2025年5月11日(日)復活節第四主日 礼拝  説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年5月11日 復活後第四主日

使徒言行録9章36節ー43節、黙示録7章9節ー17節、ヨハネ10章22ー30節

説教をYouTubeで見る

説教題 「小羊の血で衣を白くされた者として」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の箇所でイエス様は自分の羊について述べます。「わたしの羊は私の声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(10章27ー28節、後注1)。イエス様の羊は、彼の声を聞き分けて従い、永遠の命を与えられて、この世においても次に到来する世においても滅ぼそうとする者から完全に守られている。そのような羊とは誰のことか?それは言うまでもなく、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けて神との結びつきを持って生きるキリスト信仰者のことです。

 イエス様の「声を聞き分ける」とはどういうことか?死から復活して天に上げられたイエス様の肉声を私たちは直に聞くことはできません。しかし、イエス様が肉声で語った言葉は、弟子たちの目撃録・証言録となって福音書の中に収められています。もしイエス様を自分の救い主と信じないで、ただ単に歴史上の人物に留めて福音書を読むと、それはただの古代中近東の空想的歴史的な物語、または一種の道徳説話集にしかすぎなくなります。しかし、イエス様を自分の救い主と信じて読むと、それはこの自分を形作って命と人生を与えてくれた創造主の神が語りかける言葉になり、その神と自分との結びつきを取り戻してくれた救い主メシアの言葉になります。まさに彼が私たちに語りかける言葉になるのです。聖書の福音書以外の書物についても、使徒たちの手紙は復活の主が彼らに託したご自分の意思の集大成です。旧約聖書も、神のひとり子の受難と復活を通して人間に救いをもたらした神がどのような方であるかを前もって明らかにした書物群です。総じて聖書はイエス・キリストが至るところにいる書物です。聖書を繙くと、私たちはイエス様から直接言葉を聞くのと同じくらいに彼のことを知ることができるのです。

 イエス様はまた、彼の羊つまりキリスト信仰者をみな知っていると言われます。10章3節で、羊飼いのイエス様は「自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言っています。このようにイエス様は、私たち一人ひとりを名前で呼ぶくらいに私たちのことを個人的に知っているのです。ということは、私たちが日々何を考え、何をし、どんな状況に置かれて何を必要としているか全てご存知です。そして、何ものも彼の手から羊を奪い取ることはできないと言われる通り、信仰者を守る決意でいます。人生歩んでいろんな苦難や困難に遭遇するとキリスト信仰者と言えども、自分は本当に守られているのだろうかと疑いを持つことがあります。しかし、永遠の命を与えてくれた以上、その命が本当のことになるまで守り導くと言うのです。羊の方は彼の声を聞き分ける、つまり聖書の御言葉を心に留めてイエス様に従っていけば、永遠の命が本当のことになる地点までちゃんと送り届けてあげると約束しているのです。

 本日のもう一つの聖書の日課、黙示録の7章では小羊の血で衣を白くされた大勢の群衆が登場します。天使はヨハネにこの光景を見せることで、イエス様がキリスト信仰者を日々守り導き目的地まで送り届けてくれることは間違いないと示しているのです。今日は、黙示録のこの個所を通してヨハネ福音書にあるイエス様の約束が本当であることを見ていこうと思います。

2.小羊の血で衣を白くされて

 黙示録は、今ある天と地が消え去って新しい天と地が創造される時、その前後を通して何が起きるかについて記した預言書です。本日の箇所は、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に」立つという場面です。玉座というのは、天地創造の神が座しているところ、小羊というのは神のひとり子、復活の主イエス・キリストのことです。場所は明らかに天の御国です。時は、今ある天と地がまだある時でしょうか?それとも新しい天と地が創造された時でしょうか?黙示録という書物は時間の流れが複雑です。出来事の順序が前後しているようなことが沢山あります。異なる時間に起こることが同時に起こっているようなこともあります。なので、この群衆が出てくる場面は新しい天と地が創造される前のことか後のことかについてはここでは考えないことにします。

 神の座する玉座と小羊の前に白い衣を身に着けた大群衆が集います。いろんな国民や民族の中から集まった、今風に言えばグローバルな集団です。彼らは何者か?天の長老がヨハネに教えます。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。

 「小羊の血」とは、言うまでもなくイエス様がゴルゴタの丘の十字架の上で流された血のことです。イエス様が流された血で衣が洗われて白くされた、というのはどういうことか?衣服を血なんかで洗ったら白くなるどころか赤くなってしまうではないか?

 イエス様が流された血で衣が白くされるとは次のことです。イエス様は、人間が神から罪の罰を受けないで済むようにと身代わりの犠牲の生け贄になって血を流して死なれました。つまり、イエス様は私たちの罪をご自分の血を代償にして償って下さったのです。だから私たちは、彼こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、彼の果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることができます。そうすると罪を償ってもらったことになるので、神からは罪を赦された者とみなされてそれで神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。イエス様が復活を遂げて切り開いてくれた永遠の命への道を私たちは神との結びつきを持って歩むことができるようになったのです。

 私たちに償ってもらわないといけない罪があるなんて、身に覚えはないと言う人もいるかもしれません。しかし、私たちは神に造られた最初の人間の堕罪の出来事以来、神の意思に反しようとする性向を受け継ぐようになってしまったというのが聖書の観点です。神の意思を凝縮したものに十戒があります。人を傷つけるな、妬むな憎むな、真実を曲げるな、夫婦関係を守れ等々いろいろあります。私たちは、行為で反することはしなくても、心の中で反したり言葉やその他の表現の仕方でこれらに反することをしてしまいます。それで私たちは皆、神のみ前に立たされたら罪を持つ者なのです。

 聖書はそのような罪は洗い落とさねばならない汚れであると言います。例えばゼカリヤ3章に汚れた衣が人間の罪を表わすという比喩があります。天使が大祭司ヨシュアから汚れた衣を脱がせ、天使はそれでヨシュアから罪を取り去ったと言います(イザヤ1章18節も参照のこと)。生け贄の血が清めの役割を果たすことについては、モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出してシナイ半島の荒れ野にて神と契約を結ぶ時、神聖な神の面前に出ても大丈夫なように雄牛の血を民に振りかけたという出来事があります(出エジプト24章8節)。エルサレムに神殿が建設されてから後は、民が個人的な罪や国民的な罪の償いのために動物の生け贄の血を捧げるということが普通に行われるようになりました(レビ記17章11節)。

 しかしながら、動物の生け贄の血で本当に罪が償われるのか、本当に神の御前に立たされてやましいところがない、潔癖だと言える者になれるのかどうかについて意外な事実が隠されていました。生け贄の血にせよ、その他の罪の償いや清めの定めにせよ、それらは実は真の罪の償い、清めの予行演習のようなものにすぎなかったのです。まだ本番ではなかったのです。「ヘブライ人への手紙」9章で、エルサレムの神殿やそこでの礼拝儀式は「まことのものの写しにすぎない」(23節)と言われています。「まことのもの」が来たら無用になると言うのです。神殿では罪の償いのために生け贄の捧げを繰り返し繰り返し行っていました。ところが、一回限りの犠牲で全ての人間の罪を未来永劫にわたって償うという、とてつもない生け贄が捧げられたのです。それが、神の神聖なひとり子、イエス様の十字架の死だったのです。

 こうしてイエス様の犠牲のおかげで神から罪を赦されたと見てもらえるようになった人は、かの日に神のみ前に立つことになっても、私はイエス様を救い主と信じて生きてきました、神聖なあなたの前で私がすがれるのはイエス様しかいません、と言えば、神は、わかっている、心配はいらない、とおっしゃって下さるのです。このように人間が神聖な神のみ前に立たされても大丈夫でいられるのは、神の目に相応しい者になれているからです。ただし、それは私たちが自分の力で相応しい者になれたということではありません。イエス様が果たしてくれた償いと、それをその通りですと受け入れる信仰のおかげでなれたのです。ヘブライ9章で、動物の生け贄の血では人間の良心までは清められない、せいぜいみかけの清めにすぎない、イエス様の血こそ人間の良心を死んだ業から清めると言われます(9~10、14節)。ガラテア3章27節では、洗礼を受けてキリストに結ばれた者は皆、キリストを着ていると言われます。ローマ13章14節では、洗礼の後でも残存する罪と戦うためにキリストをしっかり身に纏うことが大事だと言われます。

 このようにキリスト信仰者とは、イエス様の血によって罪の汚れを洗い落とされて、イエス様という神聖な衣を頭から被せられて、それで神の目に相応しいとされている者です。

 白い衣を着た群衆というのは、イエス様の血で衣を白くされることを自分の事にしたキリスト信仰者のことです。彼らは「大きな苦難を通って来た者」です(14節)。「大きな苦難」とは、黙示録が書かれた背景を考えると迫害を指すと考えられます。しかし、迫害以外にも「大きな苦難」はあります。ここで注意しなければならないことは、迫害による殉教にしろ、何か別の苦難のために命を落としたにしろ、神の御許に迎え入れられるのは、信仰者自身が流した血のご褒美・見返りではないということです。彼らの衣が白いのはイエス様の流した血のおかげです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は誰でも同じように白い衣を纏えるので、自分からそれを手放さない限りみな同じように神の御許に迎え入れられるのです。

3.衣を手放さないように神が支えてくれる

 この衣を白く保ち、手放さずにしっかり纏い続けるにはどうしたらよいかということについて考えてみたく思います。

 何が白い衣を汚し、それを手放させようとするのか、二つのことが考えられます。一つは、罪が頭をもたげてしまうということがあります。もう一つは、自分の罪が原因ではないのに苦難や困難に陥ってしまうということがあります。

 まず、白い衣を汚そうとしたり手放させようと力はまさに罪の力です。私たちは、イエス様の果たされた私たちの罪の償いと彼を救い主と信じる信仰によって、罪を洗い落され罪の支配から解放されました。にもかかわらず、神の意思に反するような思いや考えを持ってしまうことがあります。言葉に出してしまうこともあります。最悪の場合は行いに出してしまうこともあります。これは、イエス様の白い衣を頭から被せられても、内側にはまだ罪が残っていることによります。罪は十字架の上でイエス様と一緒に断罪されたのだから、本当は人間と神との結びつきを失わせる力がなくなっています。それでもまだ力があるかのように思わせようと信仰者を惑わします。どうしたら惑わされないですむか、それはもう、罪が頭をもたげたら、それを罪として認め、本気で跳ねのけるしかありません。心の目をゴルゴタの十字架に向けて、罪はあそこで断罪されたことを思い出します。それを思い出されてしまった罪は地面にたたきつけられます。その瞬間、衣を手放させようとした強風はやみます。神は私たちがこのように衣をしっかり纏っていることを見て、よしとされるのです。その時、私たちは汚れがついてしまったのではと心配した衣は以前と変わらぬ白さを持って輝いていることに気づきます。

 そもそも、イエス様の白い衣は汚れなど付着することは不可能で、罪が私たちの目を惑わして汚れが付着しているように見せかけて、纏っていても意味がないと私たちをあきらめムードにして手放させようとしているのです。イエス様が果たした償いの業と彼が纏わさせてくれた白い衣は、私たちに罪が頭をもたげようがもたげまいが全く無関係に同じ力強さ同じ輝きを誇っているのです。

 もう一つ、白い衣を手放させようとするものに、私たちが自分自身の罪が原因ではないのに苦難や逆境に陥ることがあります。難しいことですが、一つ忘れてならないことは、イエス様が果たした償いの業と彼が私たちに纏ってくれた衣に力がなくて、私たちが苦難と困難に陥るのを阻止できないということではありません。

 「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」ではじまる詩篇23篇の4節に「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あながた共にいてくださる」と謳われます。主がいつも共にいてくださるような人でも、死の陰の谷のような暗い時期を通り抜けねばならないことがある、災いが降りかかる時があると言うのです。主がともにいれば苦難も困難もないとは言っていません。そうではなくて、苦難や困難が来ても、主は見放さずに、しっかり共にいて共に苦難の時期を一緒に最後まで通り抜けて下さる、だから私は恐れない、と言うのです。実に、洗礼の時に築かれた神との結びつきは、私たちが罪の赦しの恵みに留まり、聖書の御言葉から絶えずイエス様の声を聞き、聖餐に与ることをしていれば、何があっても失われず保たれているのです。

4.勧めと励まし

 天の長老は「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と言いました。新共同訳では「彼らは大きな苦難を通って来た者」、「通って来た」と過去の形になっています。ギリシャ語の原文をみるとなぜか「苦難の中から来る者」、「来る」と現在形になっています(後注2)。はて、群衆は一通り苦難を通って来た後で天の神のみ前にいるのだから「通って来た者」と言った方が正確ではないか?(後注2)なぜ「苦難を通って来た者」ではなくて、「現在、苦難の中から来る者」なのか?

 これは、天の長老とヨハネの視点が将来のところから今のこの世に戻って、今この世で苦難を通っている人たちを念頭に置いているからです。ヨハネが目の前で見せられている終末の出来事は遠い将来のことで、そこから過去を振り返って見れば「苦難を通って来た者」になります。ところが現在形で「今、苦難の中から来ている者」と言うと、ヨハネの同時代のこの世で苦難を通っている人を指すことになります。加えて、ヨハネの後の時代に黙示録を手にする人みんなにとって自分の同時代の苦難を通っている人を指すことになります。このように、この箇所を読んだり聞いたりする人は、自分が今通過している苦難の現実のすぐ反対側には神のみ前に群衆が集まっている現実があって、二つの現実が紙一重のようになっていることに気づくのです。衣を白くしてくれた小羊は私たちを命の水の源に連れて行ってくれる、そこは太陽の灼熱のような苦難や困難はなく、神が全ての涙を拭って下さるところである、そのような場所が今の現実のすぐ反対側にもうあるのです。復活の主が必ずそこへ連れて行って下さるのです。まさに、ヨハネ福音書の日課の個所のイエス様の言葉、私たちに永遠の命を与え、私たちは彼の手のうちに守られ何ものも私たちを彼の手から奪い取ることはできないというのは真にその通りなのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。
アーメン

 

(後注1)ヨハネ10章29章はとても厄介な個所なので今回は扱いませんでした。

新共同訳では「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり」となっていて、偉大なものは父なる神がイエス様に与えたものです。

フィンランド語訳では「羊たちを私に与えてくれた父は他の何よりも偉大であり」となっていて、偉大なものは父なる神です。

さあ、偉大なものは神なのか?神が与えたものなのか?英語訳(NIV)とドイツ語訳(ルター訳)はフィンランド語訳と同じです。スウェーデン語訳は新共同訳と同じです。この違いの原因は、ギリシャ語の原文がどっちにも取られるものだからです。私としては、「全てのものより偉大なもの」と言ったらやはり神が来るのが自然ではないかと思います。少し時代が下ったギリシャ語の写本もそのように修正(?)を施しています。

(後注2)13節の長老の質問では、これらの者は「どこから来たのか?」と過去の形になっていることに注意。ギリシャ語原文もそうです。それなので、答え方も分詞の現在形ερχομενοιでなく、アオリストのελθοντες(現在完了形ελελυθοτες?)の方が普通だったら筋が通るのではないかと思いました。だからここは普通ではないことがあるのです。

2025年5月4日(日) 復活節第三主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年5月4日 復活節第三主日

使徒言行録9章1節-20節

黙示録5章11節-14節

ヨハネ21章1-19節

説教題 「現代日本における神の愛と栄光の表し方に関する一考察」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

(なんだか説教題は文系の学生の卒論のテーマみたいになってしまいましたが、内容的にはまさしくそれなのでこの説教題でいきます。)

 本日の福音書の日課は復活されたイエス様がガリラヤ湖にて弟子たちの前に現れた出来事です。ペトロと他の6人の弟子たちがガリラヤ湖で夜通し漁をしましたが、何も獲れませんでした。体も疲れ、お腹も空いて、がっかりぐったりの状態だったでしょう。 そうしているうちに夜が明け始めました。その時、イエス様が湖岸に現れました。弟子たちのいる舟と湖岸の間は200ペキス、今の距離にして86メートル程です。弟子たちは現れた男に気づきますが、初めはイエス様だとはわかりません。それが、イエス様とのやり取りを通してわかるようになります。

 まず、イエス様は弟子たちに「子たちよ、何か食べ物があるか」と聞きます。「子たちよ」というのはギリシャ語原文で大人の男たちに呼びかける言い方です。それで、新共同訳のように直訳せずに「君たち!」とか「お前たち!」というのが正確でしょう。「何か食べ物があるか」というのも、実はギリシャ語原文では、「ありません」という否定の答えを期待する疑問文です(μηで始まる)。なので、「君たちには何も食べる物がないんだろ?」と訳さなければなりません。「ないんだろ?」と聞かれて弟子たちは「そうだよ。ないんだよ」と答えたのでした。答えを受けてイエス様は「それじゃ、舟の右側に網を打ってみなさい。そうすれば見つかるから」とアドバイスします。

 このやりとりから推測するに、弟子たちは、かつて主が群衆を従えていた時と違って、今は処刑された男の仲間だと知られたくない状況になってしまった。以前のように気前よく食事の提供も受けられなくなってしまい、自分たちで食べ物を探すしかない状況になってしまった。彼らは空腹だったでしょう。イエス様は、舟の右側に網を打てば食べる物が見つかると助言しました。そして、見つかるどころか、溢れかえるくらいでてきたのです。

 まさにこの時、弟子たちは、かつてガリラヤ湖岸の町ゲネサレトで起きた出来事が脳裏に蘇ったでしょう。ルカ5章1ー11節に記述されている出来事です。夜通し漁をしたにもかかわらず何も獲れなかったと言うペトロにイエス様は沖に漕いで網を下ろしてみなさいと命じました。そうしたら舟が沈まんばかりの魚がかかったという出来事です。福音書の記者ヨハネが、あれは主だと叫びました。それを聞くや否やペトロは一足先に復活の主に会おうと湖に飛び込もうとします。が、自分が裸同然であることに気づきます。これでは失礼にあたると思ったのか、慌てて服を着てそれで飛び込んでしまいました。ずぶ濡れになってしまうのに。ペトロらしい行動様式ではないでしょうか?

 こうして弟子たち全員が岸にあがると、イエス様は炭火をおこしてすでに魚を焼き始めていました。パンもありました。イエス様は、「さあ、来て、朝食をとりなさい」とねぎらいます。復活の主に再び会えただけでなく、その主から今まさに必要としているものを準備してもらって、弟子たちの喜びはいかほどのものであったでしょう。このように、肉体的、精神的または霊的に疲労困窮した者をねぎらい励まし力づけることはイエス様の御心です。マタイ11章28節で、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われる通りです。

2.神の人間に対する愛 アガペーの愛

 食べ終わった後でイエス様がペトロに「他の誰よりも私を愛しているか?」と聞きます。ペトロは「愛しています」と答えますが、三度同じことを聞かれたので、信じてもらえないと思って悲しくなります。イエス様が三度聞いたのは、彼が裁判にかけられた時ペトロが群衆の前でイエス様のことなど知らないと三度言ってしまったことに対応すると言われます。「あなたを愛しています」と三回言わせることで、三度拒否したことを赦す意味があると言われます。それは表面的な意味です。本当はもっと深い意味があります。

 イエス様が「私を愛しているか?」と聞く時のギリシャ語の動詞と、ペトロが「愛しています」と答える時の動詞が違っています。イエス様が聞く時の動詞はアガパオーαγαπαωですが、ペトロが答える時の動詞はフィレオ―φιλεωです。新共同訳では両方とも「愛する」と訳しているのでこの区別が見えません。二回目のイエス様の質問とペトロの答えも同じです。ところが三回目になると、イエス様は突然動詞を変えてペトロと同じフィレオ―で聞きます。そしてペトロはフィレオ―で答えます。このことを少し見ていきましょう(後注)。

 「愛」とか「愛する」という言葉はいろんな意味が含まれるので厄介です。古代ギリシャ語は、異なる愛の形を異なる言葉で言い表していました。男女間の性愛はエロースερωςと言っていました。兄弟愛とか同志愛とでも言うべきものはフィラデルフィアφιλαδελφια、愛する対象が兄弟や同志より広がって人間愛を意味する時はフィラントローピアφιλανθρωπιαという言葉がありました。ペトロの「愛しています」フィレオーという動詞は、このフィラデルフィア、フィラントローピア兄弟愛、同志愛、人間愛に関係する愛です。

 それでは、イエス様が「愛しているか」と聞いた時のアガパオーはどんな愛でしょうか?ヨハネ15章13節でイエス様はこう言います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここでは、愛は名詞のアガペーαγαπηですが、動詞のアガパオーと同じ愛の形です。アガパオー、アガペーの愛は、自分の命を犠牲にすることも厭わない愛ということになります。

 そう言うと、兄弟愛、同志愛、人間愛にも大切な人のために自分を犠牲にすることがあるのではないか、と言われるかもしれません。ここは、日本語の言葉に囚われず、もう一度ギリシャ語の言葉を見てみます。兄弟愛、同志愛のフィラデルフィアと人間愛のフィラントローピアは、新約聖書の中での使われ方を見ると、親切とか思いやりとか友好的とか敬意を払うとか、そういう人間同士が平和な関係でいられる態度ないし行動様式の意味で使われています(ローマ12章10節、使徒言行録28章2節、形容詞として第一ペトロ3章8節、副詞として使徒言行録27章3節、ただしテトス3章4節は神のものとして)。それなので、それらには自己犠牲を厭わない位の強い愛はないと思います。

 それで、親が子供の命を守るために自分を犠牲にするということが起これば、それはアガペーの愛になります。聖書は、天地創造の神の人間に対する愛はまさにそういう愛だと教えます。神の愛が自己犠牲をも厭わない愛ならば、神は人間を何の危険から守るためにどんな自己犠牲を払ったのでしょうか?「ヨハネの第一の手紙」4章10節で次のように言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここで言われる「愛」、「愛する」はまさにアガペー、アガパオーです。その愛は、人間が神との結びつきを持てないようにしていたもの、人間がこの世を去った後で神の御許に迎え入れられないようにしていたもの、そうした妨げを神がひとり子を犠牲にして全て取っ払って下さったということです。その犠牲がゴルゴタの十字架で起こったのでした。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いが私たちの償いになり、私たちは神から罪を赦された者と見なされ、こうして神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この世を去る時も神との結びつきを持ったまま去り、復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられるようになるのです。

 イエス様とペトロの対話に戻ります。イエス様はペトロに「愛しているか」と聞いた時、神が人間に示したような深い愛で愛しているかと聞いたのです。それに対してペトロは兄弟愛、同志愛、人間愛のレベルの愛で愛していますと答えたのです。ペトロは、他の弟子が見捨てても私はあなたを見捨てません!などと威勢の良いことを言っておきながらいざとなると見捨ててしまいました。自己犠牲からほど遠い自分を露呈してしまった手前、あまり偉そうなことは言えません。そんなジレンマが神的な愛を避けて人間的な愛で答えたことに窺われます。イエス様はペトロに「お前は神的な愛で私を愛するか?」と聞き、ペトロは「人間的な愛で愛しています」と答えたのです。イエス様はもう一度同じ質問をし、ペトロは同じ答えをします。そして三度目の質問。今度はイエス様は神的な愛アガパオーで聞かず、ペトロと同じ人間的な愛フィレオーで聞きます。「じゃ、お前は人間的な愛だったら私を愛するんだな」とたたみかけたわけです。ペトロの反応は、イエス様!私がフィレオーで愛することも疑うのですか?あんまりです!という様子が窺われます。

 ここでイエス様がなぜ三回聞いたのかを考えてみましょう。ペトロは三回知らないと言ったので、一回の答えでは信用できなかったというのは本当でしょうか?実はイエス様は既に一回目の答えでペトロを信用していたのです。どうしてかというと、ペトロの答えの後で「わたしの小羊を飼いなさい」と言ったからです。イエス様の小羊、つまりイエス様を救い主と信じる者たちが神との結びつきに留まって復活の日を目指してこの世を進んでいけるように彼らを守り導きなさい、ということです。つまり牧会をしなさいということです。「わたしの小羊」と言うように、牧会者は信徒をイエス様から預かって牧会するのですから、その責任はとても大きいです。ペトロにそのような責任を委ねたのです。もし、信用していなかったら、こんな大きな責任は委ねなかったでしょう。三回繰り返すことで、イエス様を愛することは牧会の基礎であるということを心に刻みつけたのです。

3.私たちのイエス様に対する自己犠牲の愛

 それでは、私たちがイエス様を愛する愛とはどんな愛でしょうか?イエス様は人間のために自己犠牲の重荷を背負われました。私たちがイエス様のために自己犠牲することがあるのでしょうか?ここでヨハネ14章21節と23節でイエス様が、彼を愛する人は彼の掟、彼の教えたことを守る人であると言っていることに注目します。イエス様の掟、イエス様が守るようにと教えたことは何か?ヨハネ13章34節と15章12節のイエス様の言葉に凝縮されています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。イエス様には自分を犠牲にしてまで神と人間の結びつきを回復してあげようと駆り立てた愛がありました。その愛で互いに愛し合いなさいと言うのです。お互いをそういうふうに愛することができれば、イエス様を愛することになると言うのです。

 それではイエス様を自己犠牲に駆り立てた愛で互いに愛するとはどういうことでしょうか?それは、イエス様のおかげで神との結びつきを持てて生きられるようになったのだから今度は、隣人も同じように神との結びつきを持ててこの世を生きられるように、そしてこの世を去ったら今度は復活させられて神の御許に迎え入れられるようにすることです。

 そこで、もし隣人がキリスト信仰者ならば、その人が既に持つ神との結びつきを失わないように支え助けてあげることです。キリスト信仰者が苦難や困難に陥ることはしょっちゅうです。それで信仰者を苦難や困難から助ける時は、神との結びつきがしっかり保たれるようにするということが視野に入ります。

 イエス様が互いに愛し合いなさいと言ったのは弟子たちだったので、隣人がキリスト信仰者でない場合は関係ないような感じがしてしまいますが、よく考えるとそうではありません。天の父なるみ神は、イエス様の弟子たちだけではなくて、全ての人間が神との結びつきを回復できるようにとイエス様をこの世に贈られて十字架の死に引き渡したのです。それなので、隣人が信仰者でない場合でも苦難や困難から助ける時は、神との結びつきを持てるようにすることが視野に入ります。信仰者の場合は結びつきを「保てるようにする」ですが、信仰者でない場合は「持てるようにする」のです。いずれの場合も助ける時は自分の持てる力や時間や財産を使わなければならないことは覚悟に入れる必要があるでしょう。宗教改革のルターは、財産や命を失う可能性すらあると言っているほどです。これが、イエス様に対する自己犠牲の愛ということです。

4.神の栄光を現わすということ

 ペトロの三回目の答えの後でイエス様は謎めいたことを言います。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」それについてこの福音書を書いたヨハネは少し不気味な解説を付け加えます。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」このイエス様の言葉を見てみましょう。

 キリスト教会の古い言い伝えによれば、ペトロは西暦63ないし64年頃にローマで殉教の死を遂げました。ちょうどキリスト教徒迫害で有名な皇帝ネロの時代です。ペトロは十字架にかけられる時、私は主と同じ死に方をする値打ちはないと兵隊たちに言ったところ、じゃ、これで満足だろう、と頭を下にして逆さまに十字架にかけられたということです。イエス様が「お前は年を取った時、両手を広げ、別の者がお前を縛って行きたくないところに連れて行く」と言ったのは、後世の人から見たらペトロが殉教の死を遂げたことを意味すると事後的にわかります。まだ出来事が起きる前の人たちにとっては、なんのことかわからなかったでしょう。ヨハネは福音書を書いていた時に既にペトロの処刑を目撃していたか、またはその知らせを耳にしたのでしょう。それで、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活の主がペトロに言ったことはその通りになったのだと事後的にわかって、それで解説をしたのです。

 ペトロの殉教は神の栄光を現すものであるとヨハネは解説しました。これは私たちを重苦しい気持ちにさせます。神の栄光を現すというのはこれくらいのことをすることなのかと。日々平穏無事に過ごしていたら、それは神の栄光を現す生き方ではないのかと。ここで注意しなければならないのは、天の父なるみ神の栄光や栄誉というものは、被造物である私たちの業績や達成に左右されないということです。私たちの業績が多かろうが少なかろうがそんなことに関係なく、神は超然として既に栄光と栄誉に満ちています。それならば、私たちが神の栄光を現すというのはどういうことでしょうか?

 それは、私たちが自分の言葉や行いや生き方をもって、神の動かすことのできない真理を人前で証しすることです。つまり、あなたは何者かと聞かれたら、私は次の三つの者であると答えることです。まず第一に、私は天と地とそこに収まる全てのものを造られた神に造られた者であると答えることです。第二に、私はその神のみ前に立たされることになっても、神のひとり子イエス・キリストの犠牲のおかげで罪を赦されて大丈夫でいられるようになった者であると答えることです。そして第三には、私はこの世の人生の向こうで復活の日に神の御許に永遠に迎え入れられるところに向かう道を今歩んでいる者であると答えることです。以上の三つを胸をはって答えることです。何も聞かれなければ、そのような者として胸をはって生きるだけです。

このような神の真理を胸張って証しするように生きようとすると、いろんな反対に遭遇します。というのは、この世というのは本質的に造り主を忘れさせる自分中心主義と、この世を超えた永遠を忘れさせるこの世中心主義に染まっているからです。翻って、福音というものは、まさにこの世を超える永遠と万物の造り主に目を向けさせるものです。従って、この世が福音と福音に生きる者に敵対するのは避けられません。それで、もし神の真理など取り下げないと命はないぞという迫害の時代だったらそれこそ殉教しかないでしょう。しかし、自分は造り主に造られた者であるということをどうして取り下げられましょうか?自分は造り主が送られたひとり子の犠牲によって罪が償われて新しくされたということをどうして取り下げられましょうか?自分は神に見守られてこの世を生き御許に迎え入れられる道を今歩んでいるということをどうして取り下げられましょうか?ペトロは、「取り下げない」という生き方をしたら一巻の終わりという時代状況にあって、それを貫いてこの世の人生を終えたのです。そうすることで神の真理を証しし、神の栄光を現したのです。

 私たちの生きている時代状況はどうでしょうか?神の真理に従って生きようとしたら、どんなことに遭遇するでしょうか?良心や信条の自由が保障されている現代社会ならば何も問題なく平穏無事でしょうか?人間はどこから来てどこに行くのかという根源的な問いについて、キリスト信仰と違う見解が社会の多数派を占めていれば、いろいろな軋轢が出て来るでしょう。多数派にいれば考えなくて済むようなことを信仰者は沢山考えなければならなくなるでしょう。でも、そういう余計なことを抱え込むことが現代社会では神の栄光を現わすことになると思います。信仰者が沈黙していたら多数派は何も気づかず、みんな同じ考えだと勘違いしてしまいます。それなので言葉や行いや生き方を持って証しをすることは良心・信条の自由が存続するためにも大事です。

5.勧めと励まし

 最後に、本日の使徒言行録の日課の個所で復活の主がパウロに述べた言葉の中に信仰者にとって励みになるものがあるのでそれを述べておきます。パウロが声の主が誰であるかを尋ねた時、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(9章5節)と答えました。イエス様を救い主と信じる者が苦難や困難に陥った時、イエス様はそれを自分のことのように受け止めるということです。聖書を信仰をもって読んだり聞いたりする時、また聖餐を受ける時、目には見えなくともイエス様は臨在します。臨在するというのは、ただボーっと突っ立っていることではありません。私たちの境遇や状況を自分事として受け止めて事を動かそうと影響力を及ぼすことです。このことが分かれば、私たちの祈りは必ず聞き遂げられて、必ず脱出口や解決に導いて下さると確信できます。

 今日の福音書の個所でも、イエス様は弟子たちに食べる物がないことを知っていました(「君たちには何も食べる物がないんだろ?」)。まさにその時に現れました。そしてアドバイスし、労って力づけて下さいました。このように主は、必ず助けに来て下さり、私たちが力を取り戻して新しいスタートを切れるよう力づけて下さるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。
アーメン

(後注)イエス様とペトロのやりとりはアラム語でなされていたでしょう。もしそうなら、この箇所は、出来事を目撃した使徒ヨハネが後日ギリシャ語に訳して記したものです。イエス様とペトロがアラム語でどんな動詞を使い合っていたかはもう知りようがありませんが、ヨハネは二人のやりとりのニュアンスをしっかり捉えて福音書にあるように訳したのだと考えればよいでしょう。そもそも使徒とは、目撃者、証言者として働くべくイエス様ご自身が選んだ者たちです。それゆえ、そうした使徒たちを信頼し、彼らの証言やその伝承を信じ、彼らの教えを守ることはキリスト信仰の基本です。

2025年4月27日(日)復活節第二主日 礼拝 説教 木村 長政 名誉牧師 (日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安があなた方にあるように。 アーメン

2025・4月27日(日)

聖書:ヨハネ福音書20章19~23節

説教題:「聖霊を受けよ」

先週の礼拝はイースターでした。イエス様が十字架の死を遂げ三日目に蘇えられた。今日の聖書ではイエス様が蘇られて弟子たちはどうなったでしょうか!と言う弟子たちが聖霊を受けて変身して行く出来事です。あの漁師であった弟子たちは三年の間いつもイエス様と寝食を共にして、ローマ帝国の支配やユダヤ教祭司連との戦いの連続でした。イエス様は神の力を持って数々の奇跡の業を起こして多くの群衆を助けて行かれた。そうして群集も弟子たちもこのイエス様をメシアとして仰いでいった。そのイエス様は十字架の処刑によって死んでしまわれた。これからどうしていったらいいんだ、途方にくれ絶望し、どん底に落とされ、今度は自分も殺されるかも知れない、という恐怖の中で、あのイエス様と最後の晩餐を過ごした二階家の秘密の場所に集まって全部の戸を閉め密かに隠れて過ごしたのです。そんな彼らの真ん中に復活されたイエス様が突然現れたのです。弟子たちはもう吃驚仰天でしょう。あの十字架で死んでしまったイエス様が生きたままの姿で蘇って現れたのです。幽霊ではないのです、生きた姿です。それをはっきりさせるため、わざわざ弟子たちの前で掌と脇腹をお見せになって「安かれ」と言われた、彼らは主を見て喜んだ。イエス様の十字架処刑でおわれた傷跡である掌と脇腹を彼らは見た。十字架によって死んでしまわれた主イエス様が蘇って現れる。人間が死んで三日経って生き返って目の前に見ている。どうしてそんな事があり得ようかなどの理屈ではないのです。いま見ているイエス様、「あー、確かに生きておられるイエス様だ!」と喜んだだけではない。彼らが主を見て喜んだ、とヨハネが表現している中にはこの私の罪を十字架の死によって全てを購って下さって復活して生きておられるイエス様を「私たちの救い主である主として」喜んだのです。イエス様は16章21節以下のところで既にこの「喜び」を予告しておられたのです。こういう表現です。「女が子を産む場合にはその時が来た、というので不安を感じる。しかし、子を産んでしまえばもはやその苦しみを覚えてはいない。一人の人がこの世に生まれたという喜びがあるためである。このようにあなた方も今は不安がある、しかし、私は再びあなた方と会うであろう。その喜びをあなた方から取り去る者はいない。」ここで大事な事は、今弟子たちの目の前におられるイエス様はあの三年間イエス様と一緒に過ごした肉体の身体の、この世にあった時のイエス様とは全く違う、死を超えたところの復活の主としておられる。外から見たお姿は同じように見えたでしょう。弟子たちは今や復活された主にお会いして、もう喜びいっぱいに満ちているのです。そこでイエス様はこの弟子たちに、21節~23節に記されている、非常に大事な使命を授けていかれます。「安かれ」「父が私をお遣わしになったように私もあなた方を遣わす」ここに「安かれ」と言われたヘブル語で「シャローム」と言う言葉はイスラエルの人々が挨拶の言葉として使いますが、ここでのイエス様が言われる「シャーロム」は全く違う意味があります。それは「大事な事を啓示なさる」と言う深い意味を持っています。メシアであるイエス様だけが与える平安と言う事です。イエス様はヨハネ14章27節で、この「平安」を約束しておられました。「私は平安をあなた方に残して行く。私の平安をあなた方に与える。私が与えるのは世が与えるようなものとは異なる。あなた方は心を騒がせるな。また怖じけるな。」

このメシア的平安と喜びは決してこの世の喜びや平安のように休憩して安らぐ、という安らぎではない。むしろ「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす。」と言う一つの使命を与える平安であります。ユダヤ人を恐れていた弟子たちに、死に打ち勝ち給うた「メシアの平安と喜び」とを授けるから、さあ!出て行きなさい!と、メシアは呼びかけておられるのです。私たちは、死に打ち勝ち給うた復活の主が共におられる、そして安らぎと喜びに満ちた使命に生きているだろうか。ここで私たちはヨハネ16章33節で言っておられるイエス様の言葉を覚えたいのです。「あなた方は、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」私たちが教会の礼拝で復活されたイエス様と出会っているなら、それは弟子たちと同じように私たちにもこの世にあって遣わされている、ということです。イエス様は言われた。「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」と弟子たちに言われました。この弟子たちにはイエス様と共に暮らした一人の弟子だけでなく、エマオで復活のイエス様に会ってエレサレムに戻ってきた二人を含め、他にも多くの弟子たちがいた。そして更に現代において教会で復活の主に出会っているあなた方全ての者にイエス様は使命を授けておられるのです。

神から遣わされた神のみ子、イエス・キリストはあなた方の罪を十字架の死を持って購って下さった。この主イエス様は復活してあなたの救い主となって下さったのです。この福音を宣べ伝えて行く使命を負って行くのに神様からのお力を与えられねばならない。だから、「聖霊を受けなさい。」そう言って彼らに息を吹きかけられたのです。「聖霊を受けよ!」この時、復活のイエス様が弟子たちに息を吹きかけて授けられた聖霊はどういうものであったでしょうか。復活されたイエス様が弟子たちの真ん中に、スーッと姿を現された、この時の弟子たちはユダヤ人やローマ帝国の軍隊を恐れ暗闇の中で息を潜め、精神的にも絶望の内に最早死んでいた状態です。恐怖の暗闇の中に霊的には最早死んでいたのであります。その彼らの上に蘇り給うた主イエス様から命の息を吹き込まれて聖霊を授けられ新しく造られた者とされ生きる者とされたのです。死んでいたも同然の弟子たちは、ここに新たに命を与えられ生きた者とされたのです。

ルカが使徒言行録で記していますように、その後五十日の間彼らはひたすら祈り 合い、助け合い、愛し合って一団となって生活した、後、当時の世界からエレサレム神殿に多くの人々が礼拝のため集まってきた、その大勢の中であのペンテコステの聖霊が本格的に爆発して弟子たちの上に下ったのであります。こうして弟子たちはペンテコステに下った更に大きな聖霊の力を受けて新たに福音伝道の働きへと押出されて行ったのあります。これら全ての前準備としてあの復活された日にイエス様は前もって聖霊を与え生きる者とされ、23節には更に弟子たちに新たな権限を授ける言葉を言われたのです。「あなた方が許す罪は誰の罪でも許され、あなた方が許さずにおく罪はそのまま残るであろう」。これは大変な特権を約束された言葉であります。彼らがやがて全世界へと教会形成をなして行く中で教会の規定を設ける時に厳粛な、また大変光栄ある約束を与えられているのであります。

マルコ福音書16章16節には、こうあります。「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし不信仰の者には罪に定められる」。23節で弟子たちに言われた言葉は神様からの重大な神の権限です。人間のどうにもならない罪を許すか、許さないかの権限であります。罪の許しの特権を神に代わって宣言する力であります。ですから神の特権は教会の手に委ねられていくわけです。教会は至るところでイエス・キリストのなさった業と教えを宣べ伝えて行かねばならない。また教会はイエス・キリストを必要としてるのです。遣わされた人にはその遣わした人が必要なのです。教会はイエス・キリスト様こそが救い主である、と言う使信、つまり福音の裏打ちをしてくれる神の力、権限が仏要で必要であります。

疑いや困難に出会う時に助けが必要であるように、教会は主イエス様の助けを必要としているのであります。大事な事は教会は自分自身の福音を伝えようとしてはならない。教会は自分勝手な人間の作り上げた方策に従おうとしてはならない。教会に委ねられている権限を誤った方向に利用とした時、その責任は重いということです。

英国の聖書学者ウイリアム・バークレイはヨハネ20章の23節のイエス様が言われた言葉は極めて重い、深い意味を持っていると言われています。この言葉の意味を理解するには十分な注意を要する、と言っています。そして更に言っています。一つの事だけは確かである、それは誰も他人の罪を許す権限は無い、と言う事である。だが同様に確かな事がもう一つある。それは、人間に対する神の許しの事実とその宣言及び使信を伝えると言う事は教会の大いなる特権だ、と言う事であります。ある学者はこうも言っています。聖霊によってキリストに連なる教会はこの世の人々との間にあってその教会の媒介者、また仲介者としての役割を果たす、ということである。しかし、それは教会が神から独立して罪の許しの権限を行使すると言う事ではない。この権限はあくまで神のみ属する。しかし、この神のもとに世の人々を導いてゆく媒介者としての役割を果たす限りにおいて教会の存在は実に決定的な重要性を持つものとなる。マタイ福音書10章40節にはこうイエス様の言葉があります。「あなた方を受け入れる者は私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。」

ヨハネが書いている、この20章23節のイエス様の言葉はヨハネ独特の表現で記されているのです。弟子たちは今後、イエス様のみ業と教えを全世界へと宣べ伝えて行かねばならない。この重大な使命を受け継いで行く弟子たちに与えられた権威と課題が「罪の許し」という一点に集中して語られているのであります。この事は極めて意味が深い。何故なら神から賜る「永遠の生命(いのち)」の恵みとはまさに「罪の許し」に他ならないからであります。

人知では、とうてい測り知ることの出来ない、神の平安があなた方の心と思いを

キリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

2025年4月20日(日)復活祭/イースター 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年4月20日 復活祭

イザヤ書65章17~25節

第一コリント15章19~26節

ルカ24章1~12節

説教題 「過越祭から復活祭へ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の想像を絶する力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。フィンランド語ではパーシアイネンと言って、その意味は「過越し」です。あのモーセ率いるイスラエルの民がエジプトを脱出した時の出来事であり、それを記念する祝祭です。つまり、フィンランド語では旧約聖書の「過越祭」とキリスト教の「復活祭」を同じ言葉で言い表すのです。英語や日本語では別々の言い方をしているのに、どうして一緒なのかと言うと、イエス様の十字架と復活の出来事が過越祭の期間に起こったからでした。なので、フィンランド人はキリスト教会がパーシアイネンをお祝いしているのを見たら、これは「復活祭」、ユダヤ教の人たちがパーシアイネンをお祝いしているのを見たら、それは「過越祭」という具合に頭の中で切り替えしているのです。(因みに、スウェーデンでも「過越祭」と「復活祭」は同じ言葉で言い表します。ポスクと言います。)

 さて、イエス様が十字架に架けられて死んで葬られた次の週の最初の日の朝、付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目撃しました。まさにここから世界の歴史が大きく動き出すことになる出来事が起きたのでした。遺体がなくて途方にくれていた女性たちに天使が言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにおられない。復活されたのだ。」「死者の中に」と言うのは、ギリシャ語原文では複数形なので、正確には「なぜ、死んだ者たちの中から生きておられる方を捜すのか」になります。古今東西この世から亡くなった人は無数にいたわけですが、十字架刑に処せられて死んでしまったイエス様もその中に加えられてしまった、ところが、突然そこから飛び出すように出て行ってしまったということです。つまり、復活というのは、イエス様が死と縁を切った、無関係になったということです。

 それと、大勢の死んだ者たちの中から真っ先に飛び出したということは、今日の使徒書の日課、第一コリント15章20節で言われていること、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられたことです。つまり、イエス様が死を踏み越える復活を遂げたのは初穂で、私たちも後に続く、言わば、先陣を切ったということです。そういうわけで、今日の説教では、復活とは死と無関係になるということと、私たちもイエス様に続いて復活を遂げられるようになったことについて見ていこうと思います。

2.復活とは何か

 その前に、そもそも復活とは何かということについて述べておきます。これは毎年復活祭の礼拝説教で述べていることですが、大事なことなのでおさらいしておきます。

 よく混同されますが、復活はただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。聖書で復活というのは、肉体が消滅しても将来の「復活の日

に全く新しい「復活の体」を着せられて復活することです。これは、超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることを手掛かりにするしかありません。

 「復活の体」については、使徒パウロが第一コリント15章の今日の日課の後で詳しく教えています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言っていました(マルコ12章25節)。

 このように復活の体は朽ちない体であり、神の栄光を輝かせる体です。この世で私たちが纏っている肉の体とは全くの別物です。復活されたイエス様はすぐ天に上げられず40日間地上に留まり人々の前で復活した自分を目撃させました。彼の体は地上に留まっていましたが、それでも私たちのとは異なる体だったことは福音書のいろんな箇所からうかがい知ることができます。ルカ24章やヨハネ20章で、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは、亡霊だ!とパニックに陥りますが、イエス様は手足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。食事もしました。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。他にもいろいろあります。エマオに向かう道で二人の弟子に起きた出来事、墓の前でのマグダラのマリアとのやり取りなど。それらについては、当該箇所が日課になった時に改めてお話しします。

3.イエス様の十字架の死で罪は打撃を被り、彼の復活で死は足蹴にされた

 復活によりイエス様が死と無関係になったことは、ローマ6章の中でパウロが教えています。「キリストが死から復活したということは、もう死なないということであり、死は彼を支配下に置けなくなったということである。それなので、キリストが死んだというのは、一度にして罪に打撃を与える死だったのである。そして、キリストが生きるというのは、神に結びついて生きるということである。」新共同訳では「ただ一度罪に対して死なれた」となっていますが、これはギリシャ語の用法で「罪が不利益を被るように死んだ」という意味なので、キリストの「罪に対する死」は「罪に打撃を与える死」と理解します(後注)。イエス様が十字架で死なれたことで罪は打撃を被り、復活することで死を足蹴にしたということです。ここで、罪と死が結びつけられて言われています。キリスト信仰の人間観がここに凝縮されています。

 キリスト信仰で罪というのは、単なる犯罪行為ではなく、もちろん、それも含みますが、もっと広く、神聖な神の意思に反しようとする性向のようなものです。人間誰しもが持ってしまっているというのが聖書の観点です。神の意思は十戒の中に凝縮されています。他人を傷つけるな、夫婦間の貞潔を守れ、真実を曲げるな、他人に対して妬みや憎しみを抱くな等々、私たちの行動様式や思考様式の現実を映し出す鏡のようなものです。たとえ行いや言葉に出さなくても、私たちの造り主の神は心の中はどうかと見ておられます。今でこそ言葉や行いに出さなくても、境遇や環境が変われば出してしまうかもしれないので、人間は誰でも潜在的に持ってしまっているというのです。今の世界で起きていること、世の中の周りで起きていることを見れば誰もが持っていると認めざるを得ないでしょう。このような罪は、神が最初の人間アダムを造った後で人間の中に入り込んでしまったことが創世記の中に記されています。それがもとで人間は死ぬ存在になってしまったことも。パウロがローマ6章23節で罪の報酬は死であると言っているのはこのためです。人間は代々死んできたことから明らかなように、罪も代々受け継いでしまったのです。それで、今日の使徒書の日課、第一コリント15章22節で、アダムを通して全ての人間が死ぬと言うのです。

 ところが、同じ個所には続きがあります。「アダムを通して全ての人間が死ぬように、キリストを通して全ての人間が生きられるようになる。」つまり、最初の人間アダムが罪を人間の中に内在化してしまったためにその後の人間の運命を死に定めてしまった。しかし、キリストがそれを逆転して人間の運命を死から死を超えた命に移し替える可能性を開いたということです。イエス様はどのようにして人間の運命を逆転させたのでしょうか?

 それは彼の十字架の死をもってなされたのでした。イエス様は人間皆が持っている罪を全部引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げて、そこで罪が必ず受けなければならない神の罰、神罰を人間に代わって受けられたのでした。人間が受けて神のみ前から滅び去ってしまうことがないようにと神のひとり子が身代わりになって受けられたのでした。さて、神罰は下されたので罪が償われた状況が生まれました。あとは人間がこの状況に入りさえすれば、人間は罪を償ってもらった者として生きることができます。その時、罪はもう神罰を人間に誘導する力を失っています。干からびた虫けらのようになったのです。このことがイエス様が神罰を受けて死なれたことで起こったのです。罪はイエス様と抱き合わせの形で断罪されたのです。

 このことからも、なぜ神のひとり子が人間として生まれて来なければならなかったかがわかります。もし神のひとり子が天の父なるみ神のもとで永遠に悠々自適の生活をしていたら、身代わりの断罪など永遠に起きません。乙女マリアから生まれ人間の肉体を持つことで、神のひとり子は死ぬことができるようになったのです。。神罰を受けるのにピッタリな存在になったのです。それだけではありません。ヘブライ4章で言われるように、神のひとり子として罪を持たない側面はそのままだったが、人間として生まれてきたことで、人間の苦しみや悲しみもその心と体でわかるようになったのです。天でふんぞり返っていたらわかりません。このようにひとり子をご自分のもとから私たち人間のもとに贈って下さった神の御名は永遠に讃えられますように。そして、私たちのもとに贈られて神の御心通りに務めを果たされた御子は永遠にほめたたえられますように。

4.罪が償われた者として、復活の日を目指す者として

 さて、イエス様の十字架の業のおかげで、罪が償われた状況が生まれました。あとは人間がこの中に入ることができさえすれば、罪を償われた者として神との結びつきを持てて生きることができるようになります。どうすれば入ることができるでしょうか?それは、神の計らいによって罪の償いは本当に起こった、それを実行したイエス様は本当に救い主です、と信じて洗礼を受けることで入れます。その時、罪はもう神罰を人間に誘導する力を失っています。しかし、それでも人間はこの世から死にます。しかも、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになっても自分の内にはまだ神の意思に反するものがあることに気づきます。イエス様がもらした逆転はどこに行ってしまったのか?まだ自分はアダムの末裔のままなのか?

 いいえ、そういうことではありません。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたものはイエス様のもたらした逆転の中にちゃんといます。そのことは、パウロがローマ6章で明らかにしています。洗礼を通して人間はイエス様の十字架の死に結びつけられる、そうするとイエス様が罪に大打撃をくらわしたことがその人にもその通りになります。信仰者が罪に対して、お前は打撃を受けているのだ、わからないのか、と言えば、罪はおずおずと引き下がります。洗礼を通して人間が結びつけられているのはイエス様の死だけではありません。イエス様の復活にも結びつけられます。ここが微妙なところです。復活されたイエス様は確かに肉の体ではない復活の体を持っていて、いつでも天の父なるみ神のもとに戻れる状態にありました。しかし、私たちは洗礼を受けても肉の体はそのままです。復活の体ではありません。

 それは、洗礼を通してイエス様の復活に結びつけられたというのは、将来の復活の日に向かう道に置かれて今そこを歩んでいるということなのです。将来の復活の日とは、今日の日課の第一コリント15章23節にあるように、イエス様が再臨する日のことです。その日に向かって延びる道を私たちは神との結びつきを持って進んで行きます。なので、神がイエス様を通して与えて下さった罪の赦しの恵みの中に留まっている限り、私たちは道を踏み外すことはないのです。それで私たちにとって復活は、ルターが言うように、もう半分は起こったことなのです。残り半分は約束されたものとして今はまだ秘められているのです。

5.勧めと励まし

 説教の初めに、フィンランドやスウェーデンでは過越祭と復活祭は同じ言葉で言い表すと申しました。二つの全く異なる祝祭には驚くほど共通点があります。モーゼの過越しの時は小羊の血を家の入口に塗ることで、神はそれを見てその家に罰を下すことはしませんでした。イエス様が十字架に架けられて犠牲になって下さったおかげで、私たちは神から罰を受けないで済むようになりました。イエス様が贖罪の小羊にたとえられるゆえんです。マルコ10章でイエス様は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たと言われます。キリスト教会ではイエス様が十字架で流された血が人間を罪と死の支配下から救い出す代価になったと言います。

 モーゼ率いるイスラエルの民は奴隷の国エジプトを脱出して約束の地カナンを目指して40年間シナイの荒野を進みました。キリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって罪と死が支配する状況から脱出しました。そして復活の体を纏ってもらえる神のみ国を目指して今はこの世という荒野の中を進みます。ところで、イスラエルの民は移動中、神に何度も窮地を救ってもらいながら反抗して罰を受けました。私たちもこの世の荒野の中で試練を受け、神を疑うこともあります。しかし、私たちがどう思おうが、罪の赦しの恵みはそんなのおかまいなしに微動だにしません。なので、私たちがあらゆる疑いをかなぐり捨ててその恵みに留まりさえすれば、私たちと神との結びつきは同じように微動だにしないのです。イスラエルの民はなんとかカナンの地に到達しますが、それはまだハッピーエンドの最終目的地ではありませんでした。復活の日に現れる神のみ国こそが最終目的地です。このように復活祭は、過越祭を花のつぼみにたとえると見事に咲き開いた花と言えます。それはまた旧約聖書に対する新約聖書の姿形でもあります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

(後注)「罪に対して」の与格はdativus incommodiに解しました。そうすると「神に対して」の与格はdativus commodiになり、「神にとって益となるように」の意味になります。それをもっと具体的に言い表せないか、ということでローマ14章に「主のために」の与格が何度も出てくるところに注目しました。「主のために」とはどういうことか、それは8節で「主のもの」(属格)となると言っていることと同じです。なので、6章の「神に対して」/「神にとって益となるように」も同じように「神のものとなる、神と結びつく」というふうに理解しました。

礼拝の中でAさんの受洗式が執り行われました。

礼拝後、恒例のイースター祝会が催されました。