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スオミ教会礼拝説教
ルカによる福音書13章10〜17節
2022年8月21日
説教者:田 口 聖
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1、「会堂にいた彼女」
今日の箇所の直前では、イエス様は、いちじくの木の例えから「実を結ぶ」ということを教えました。それに続く、今日の癒しの出来事もまた、神の御子イエスが信仰者に結んでくださる一つの実を表すものとしてルカは記録しています。
まず10節、会堂にいるイエス様ですが、イエス様は、安息日にはこのユダヤ人の会堂に来て、巻き物である旧約のモーセの書や預言書を開いて、神のみ言葉を解き明かしていましたが、この安息日にも同じように教えておられたのでした。しかしその礼拝の席には、11節です。
「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。」11節
とあります。もちろん全ての病気がそうだというのではありませんし、私たちにとっては馴染みのない、また理解し難い言葉ではあるのですが、その病気は霊によるものであったことがわかります。「病の霊」の働きで、腰が曲がってしまって、伸ばすことができない、そんな状態を、彼女は患っていたのでした。しかもその時間があまりにも長いです。18年もの間、その霊による苦しみ、痛みが彼女を襲っていたのでした。
しかし彼女は、この安息日に会堂の礼拝の席にいたのでした。そしてイエスが語る神の国のみことばを聞いていたのでした。つまり、彼女は、神にみことばを求めていた、つまり一人の信仰者であったのでした。ここでは、イエス様はそのことをきちんとわかっていることも書かれています。16節ですが、
2、「この女はアブラハムの娘なのです」16節
「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。」
と言っています。「アブラハムの娘」つまり「アブラハムの子孫」であることを意味するとき、新約聖書のイエス様の場合、それはただ、血のつながりの子孫のことを意味していません。もしそうであるなら、全てのイスラエル人もアブラハムの子孫です。イエス様がアブラハムの娘、子孫というときは、アブラハムから連なる「信仰による義」の相続者を指しています。創世記15章6節ではアブラハムについて「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。つまり、アブラハムの時からすでに、義は主を信じる信仰にあったのであり、主はその信仰こそを見て、義と認めてくださったのでした。それは昔も今も変わりません。それはパウロもローマ4章3節、ガラテヤ3章6節でこの創世記の記録を指して言っている通りです。ガラテヤの方ではパウロははっきりとこう言っています。ガラテヤ3章7節
「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」
と。このように、この病の霊に苦しむ彼女は、紛れもなく信仰の人であり、神の言葉を求めてこのところに座っていることを、イエス様はしっかりと知って受け止めておられることがわかるのです。「この女はアブラハムの娘である」と。
3、「病の霊、サタンが縛っている彼女」
けれども、病気でした。しかも病の霊に憑かれていました。16節ではそれは「サタンに縛られていた」とも書いています。
ここで不思議に思う方もいるのかもしれません。それは、信仰者なのに、サタンやそんな霊に憑かれているのかと。当時のユダヤ教の考えでは、「そのような人は、何か罪を犯したからだ、律法に背いているからだ、神の怒りと裁きの結果なんだ」、そのように決めつけられるのが一般的でした。それは現代でもよく聞くことでもあります。カリスマ系の教会や、熱狂主義的な教会、律法的に導く教会などでは、「そのような霊や病気は、信仰が足りないからだ。だから信仰をもっと強くしなさい。自分で信仰を奮い立たせて勝利しなさい」と教えられたりすることがあるのです。
そうではなくても、いつの時代でも、災いや苦しみ、試練は、祝福されていない証拠として、「何かが足りないから、信仰が不完全だから、信仰が足りないから、こうなんだ。祝福されていないのだと。災いがあるのだ。」そう考える人は少なくないとも言われます。
しかし、この彼女、この状態は、そうなのでしょうか?みなさん、イエス様はこの彼女をそう見ていません。その病と彼女の業や信仰とをつなげません。むしろ彼女のその信仰のみをイエス様は見て言うでしょう。
「この女はアブラハムの娘なのです。」
4、「神の御子による天の御国の最高の賛辞
みなさん、この言葉は、神の御子による天の御国から人類への最高の賛辞であり賞賛の言葉でしょう。「アブラハムの娘なのです」と。素晴らしい言葉です。もちろん私たちの目から見るなら、人間ですから、誰でも不完全で足りないところのある信仰でもあり生き方でもあるのは当然です。しかし彼女は、周りの様々な冷たい目線や差別にも関わらず、安息日にこの会堂に、神の言葉にすがり求めて、神の言葉を受けるために、礼拝にやってきました。まさにそれだけ、そのままの信仰のみを、イエス様は見て、何も足りないとは決して言いません。むしろ逆に、最高の賞賛を持って、イエス様は、彼女の信仰を言うでしょう。「この女はアブラハムの娘なのです」と。そして、彼女がどうだから、何をしたらから、何が足りないから、こうなった、とは決して言わず、その原因は、ただ「サタンに縛られていたのです。」と、サタンの一方的な働きの中でそうなり、むしろ彼女はその病い苦しみと戦ってきたことを、イエス様はただ哀れんでくださっているのがわかります。みなさん、それが私たちの救い主であるイエス様なのです。そして、そこから、イエス様が私たちをいつもどう見てくださっているのかがわかるのです。そう、そのように、私たちのキリスト者として信じる日々、信仰生活というのは決して、私たちが何かをしなければいけないという律法ではない。信仰は、どこまでも、イエス様の憐れみ、イエス様の恵みであり、どこまでも福音によるのだと、わかるのです。
5、「祝福のはかりは律法ではない」
つまり「災いがあり、病気があり、うまくいかないのは、それは自分の罪のせい、信仰が足りないせい、行いが足りないせいなのだ、だから祝福されないのだ」では決してないということです。そのような「祝福や救いを秤る見方」は、まさに福音書に見られる通り、ユダヤ人の律法による生き方、考え方その物です。しかし、現実はどうでしょう?キリスト者の信仰の歩みでも、当然、日々、サタンとの戦い、罪との戦いがあります。イエス様も、患難がありますと言いました。その中で、私自身の力では、負けるとき、勝てないとき、どうすることもできないときも必ずあります。まさに彼女のようにです。それらの事柄がすぐに解決ができず、18年、いやそれ以上、かかるときもあるでしょう。災いや試練の連続、うまくいかないことばかり、失敗ばかり、そのようなときも現実的にあるでしょう。そして、それが神の国や信仰に関することであれば、なおさらです。私たちが自分の力で、信じたり、敬虔になるとか、誘惑に勝利をしたり、神の国のことを何か勝ち取ったり達成することなどは全く不可能で無力なのです。信仰生活はそのようなものです。弱さと無力さがある。当然なのです。私たちは皆、堕落してから、肉にあってはなおも、罪の世を生きているし、なおも罪人であるのですから。救われて義と認められても、義人にして同時になおも罪人でもあります。聖書にある通り、古い人と新しい人の両方があるのですから。
しかし、それは信仰がないからそうなっているのではありません。信仰が足りないからそのようなことが起こっているのでもありません。信仰の道はそのようなことが当然ある日々であり連続なのです。ですから、「問題がないから、罪がないから、いい信仰、いい教会、いいクリスチャン」ということでもありません。むしろそうだというなら、ヨハネの手紙第一の1章8〜10節からいうなら、私たちは神を偽っており、私たちにはみことばがないことになります。信仰とはそのようなものではありません。むしろその逆で、そのような足りなさ、不完全さ、罪深さ、その他、多くの苦しみや戦いの中、サタンの誘惑や攻撃の中で、日々、戦って生きていき、それでも日々、無力さ、罪深さを感じるのが誰もが通る信仰の現実であるのです。
6、「福音の実」
しかし、そのような現実の中で、それでも主を信じて、神の言葉こそを求めて、赦してくださる主の罪の赦しと憐れみを求めて、どこまでも神の前にすがる歩みの幸いこそ、まさに今日のところにある通りであると証ししているでしょう。神の御子イエス様が、このような名もなき、しかもサタンに苦しめられている彼女、それでも礼拝に来て、神の言葉にすがる彼女の、その不完全さ、罪深さ、しかしそこに同時にある信仰を見て、「この女はアブラハムの娘なのです」と言ってくださる。そのように救い主イエス様が、認めてくださり、受け入れてくださる。そして、彼女自身が何かをしたではなく、イエス様が憐れんでくださり、まさにその言葉と力で働いて、人の想いをはるかに超えた癒しと救いを与えてくださり、その口に賛美と証しを与えてくださっているでしょう。それが私たちに与えられている信仰であり、神の生きた働きであり、新しいいのち、真の信仰生活であり、それは律法ではなくどこまでも恵みであるのです。そして、そのように全くの恵みによって、イエス様の方からまず彼女に、その信仰を賞賛するという一つの実を与え、さらには、癒しという実を与え、彼女にそのようなイエス様の実らせる実が実ることによって、イエスが彼女になさった「彼女のそのまま」が、今も、時代を超えて、福音書を通して証しされ、多くの人の福音の実のために、彼女のそのままが用いられていることがわかるのではないでしょうか。
皆さん、それは派手でも劇的でもありませんが、まさにこれがイエス様が、福音が、私たちに実を結ぶということです。実を結ぶとは、律法的に私たちの力と行いで華やかな結果を、私が神のために一生懸命、実現すると言うことが実を結ぶということではありません。彼女は本当に不完全で苦しみの中、神にすがっているだけです。しかしそれが「そのまま」用いられて実は結んでいくのです。これが聖書が私たちに伝える。福音による実に他なりません。
7、「律法を基準とする会堂管理者」
けれども、これと対照的な反応が、この後、描かれています。なんと会堂を管理する、会堂長はイエスに憤ります。しかもイエスに直接言わないで、群衆を巻き込んで扇動して、群衆みんながそう言っているとでも言わせたいかのように言うのです。14節
「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」
この会堂長も、福音書に見られるパリサイ人、律法の専門家たちの反応と同じです。律法、あるいは、律法に従う人の行いしか見えていません。彼らにとってはそれが基準です。いかに従っているか、どれだけ忠実に行っているかのその自ら、あるいは他人の行いが、全ての秤の標準であり、拠り所になっているでしょう。イエス様と見ているところが全く逆であり正反対なのがわかります。自分たちが、あるいは人が、どれだけ行うかに祝福と救いと義はかかっているのです。自分たちは行っている。行っていない人はダメなんだ。そのような論理で一貫しています。
8、「イエスの目は福音の目」
けれども、イエス様の目と思いは全く彼らと逆なのです。それは、全ては天の神からくる。天から恵みが与えられるためにこそ、ご自身はそれを与えるものとして世に来られた。父子聖霊なる神の私たちへの思いは、その天の恵みを与えること、そして、人々はそのイエスご自身からそのまま受けること、受けることによって主の働きは全て始まり実を結ぶ、それがすべてである。そのような一貫した福音の目線であり思いなのです。ですから、イエス様は言います。15-16節
「しかし、主は彼に答えて言われた。『偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。』」
安息日の本当の意味について述べるイエス様の言葉を思い出します。マルコの福音書では
「そして更に言われた。『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。』」マルコ2:27〜28
と。ヨハネの福音書でも、イエス様は
「イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ』 」ヨハネ5:17
と言いました。会堂長も、パリサイ人たちも、「律法に自ら生きること、何をするか、してきたか、何をしていないか、してはいけないことをしているか、していないか。」が義や祝福の基準です。しかしイエス様は、その逆で、神が何をしてくださるのか。まさにどこまでも福音が基準なのです。神が与えてくださる。働いてくださる。その時が神の国であり、安息日の恵みであり、みことばの恵み、福音のすべてであると、イエス様はどこまでも一貫しているのです。
9、「福音にこそ招かれ、福音にこそ生きるために」
私たちは、今日もこのみことばから、イエス様によってどちらに招かれているかは、すでに明らかです。もちろん、日々律法によって罪示されてここに集められていることでしょう。しかしそれはそのように罪を示され悔い改める私たちは、どこまでもその罪を赦され、福音を受けるために招かれているのです。イエス様は罪に打ち拉がれ、刺し通され、悔い改める私たちに対しても、今日も、「アブラハムの子よ、子孫よ」と、言ってくださり、罪を赦し、そのように私たちを見て喜んくださっているのです。それは私たちが何かをしたからではない。苦しみと試練の中、サタンとの戦いの中で弱さを覚える現実の中で、それでも神のみにすがってここに集まってきたその、そのままの信仰こそを何よりも喜んで、賛美して、「アブラハムの子よ、子孫よ。よく来たね。今日もあなたに与えよう。救いを。罪の赦しを。新しいいのちを。平安を。」と、そう言ってくださっているのです。
事実、会堂長の目線や律法の言葉と、イエス様の福音と、どちらが本当に平安と光と喜びを与えるのか、どちらが本当の福音の実を結んでいくのか。皆さんにはもうお分かりだと思います。律法は人の前や理性では合理的で即効性がある理解しやすい手段にはなるかもしれませんが、律法は、人を、ただ恐れさせ強制で従わせ行わせることしかできません。何よりそこにはイエスが与えると言われた特別な平安はありません。しかし、まさに今日も「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と福音を宣言してくださっているイエス様から、福音こそを受け、福音によってこそ新しくされ、福音によって安心し遣わされていくときにこそ、どんな困難があってもそこに平安が私たちにあり、私たちは福音によってこそ、平安と喜びをもって、真に神を愛し、隣人を愛していくことができるのです。それは律法は決して与えることはできないものです。福音が与えるのです。その福音による歩みこそ、私たちに与えられたキリストによる新しい生き方なのです。
今日もイエス様は宣言しています。「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と。そのイエス様の恵みを受けて、イエス様が日々、「アブラハムの子よ」と認めてくださっていることを賛美して、そしてそこにイエス様の福音が確かに働いてくださることを信じて、ぜひ今週も歩んでいこうではありませんか。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
今日の聖書のおはなし
ルカによる福音書12章13〜21節
「神の前に豊かになるように」
2022年7月31日:スオミ教会礼拝説教
1、「はじめに」
この12章でもイエス様は、エルサレムへと真っ直ぐと目を向けて向かっています。今日の箇所の前には三つの話があり、イエス様は、ファリサイ派のパン種の話など、これから、彼らの偽善や敵対に直面し、これから御自身のみならず、弟子達にも起こる艱難を伝えています。しかしイエス様は、その苦難を通してこそ神の御心が表され、神の国と福音に与る者たちへの本当の幸いがあるという恵みを伝え励ましています。それらのイエス様の教えの土台となっているのは「地上の事柄」ではなく「天の御国」であり、イエス様は、キリスト者は地上では艱難があり、人はキリストの名のゆえに弟子たちに害を加え殺すであろう。しかし、天の神が、その全てを知っていて神の国の約束を与え、イエスが神の前で認めてくださると励まし、その天からの賜物、贈り物である信仰と聖霊によって道は確かにさるのだと、何よりも天の「神の国」を指し示しているメッセージでもあったのでした。今日のところでは、その群衆のなかにいた一人の人がきっかけになっていますが、そこでもイエス様のメッセージは、世の事柄や「人の前」の議論ではなく、やはり「神の前」「神の国」を土台にし、神の国の視点で、人々に、弟子たちに、そして私たちに福音を、指し示しているのです。
2、「仲介者」
「群衆の一人が言った。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。』」13節
その人の問題は、家庭、兄弟の問題です。遺産を巡っての兄弟同士の争いがあったことがわかるのです。彼はイエス様にその仲裁に入って欲しいとお願いするのです。当時の人々が、このような問題をラビと呼ばれる律法の教師達に持って行って仲裁してもらうということは良くあったようです。しかしそれに対してイエス様はこう答えます。
「イエスはその人に言われた。『だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。』」14節
これを聞いて、おや?と思う方がいるかもしれません。「イエス様は仲介者、仲裁者としてきたのではないのか」と。あるいは、「神であるのだから裁判官でもあるのではないか、むしろ正しい裁判官であるのでは?」と、思うかもしれません。
けれども聖書はこう言っていることを思い出したいのです。第一テモテ2章5節の言葉ですが、4節から6節まで読むとこうあります。
「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。」第一テモテ2章4〜6節
確かに仲介者とあります。けれどもそれは「人と人との間の」仲介者とはありません。「神と人との間の仲介者」であるとパウロは教えています。それは、人と人の間のこと以上に人間にとって重大なこと、それは、すべての人が救われて、真理を知ることのための「仲介者」であることを伝えているでしょう。そしてその仲介の方法までパウロは述べてくれています。それは「すべての人の贖いの代価として」と。十字架の死と復活です。このように、パウロは、そのような方法で「神と人との間の仲介者」となるために、人となられたキリスト・イエスを指し示し、その人となられた神であるイエス・キリストによってのみ、神からの救いが私たちにあるのだと、教えているのです。
イエス様はここで彼と群衆に、まさにパウロが伝えた、「人と人との間の問題」以上に、もっと大事な「神と人との間のこと」、そして、そのことを通して、何よりご自身がそれを与えるために来られた、と言う、「天の御国」「神の国」「救いのこと」を伝えようとしているのがこのところなのです。イエス様はこう続けます。
3、「貪欲に注意しなさい」
「そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』 」
貪欲に注意して警戒せよ。イエス様はそういいます。貪欲とは、満足しない欲、あるいは満足を知らない欲とも言われます。それは人の心にあるものですが、それは得ても得ても、与えられても与えられても満足できない。十分ということをしらない。「足りない、もっともっと」となる欲です。それが過度になりコントロールが効かなくなることとして、現代ですと「中毒」とか「依存症」いう言葉も連想されます。この「もっと欲しい、満足できない。」ーそのように貪欲が人間の心を支配する、まさに、満足を知らない欲、貪欲というのは、人間の深い問題です。イエス様は、その遺産の分け前についての兄弟同士の争いに、おそらく、すでに富んでいる家族にあってもなおも争ってでも財が欲しいという、そのような貪欲を見ていたのかもしれません。そして、その貪欲は結局、神が与えてくださった家族という恵みの中で、争いという良くない結果をも生み出してしまっています。だからこそ、イエス様は、そのように神の前に何ら良いものを生まない貪欲に、注意し、よく警戒しなさいというのは、当然のことだと言えるのです。
4、「いのちは財産にあるのではない」
けれども、このところのメッセージは、イエス様はそれをただ道徳や倫理、あるいは律法や戒めを理由や目的としてだけ言っているのではありません。その理由をこう言っています。
「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
別の聖書の訳ですと、
「なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
ともあります。つまり、それは、単なる道徳や倫理ではない、むしろ、いのちの問題であるといいます。確かにお金は必要な大事なものです。そしてお金や財産が沢山あれば、いつでも食に困らず食べることができ、良い医療も受けられる、などなど、人々はいのちが、財産、お金、富にあるように思うかもしれません。事実、お金中心で世の中は動き、お金が人の人生の良し悪しを支え保証しているような価値観で、世の中は溢れてはいるのです。
けれどもイエス様は、「いくら有り余るほど持っていても」「豊かでも」、「人の命は財産によってどうすることもできない」「人のいのちは財産にあるのではない」とはっきりと言います。どういうことなのでしょうか。それを説明するためにイエス様は例え話を話すのです。16節以下ですが、ある金持ちの話です。彼はお金持ちです。持てるものを持っています。そしてそればかりではありません。彼の畑は豊作です。さらなる富と豊かさ、発展、繁栄が豊作には現れています。けれども彼は「心の中で」、さらなる心配とそれに対する計画を立て、そして実行をします。まず豊作の作物、財産を蓄えておく場所がないと。心配、恐れです。そして、計画です。これまでの倉を取り壊して、もっと大きいの立てよう、そこに豊作の作物と財産を保管しよう。そのような計画を考え付きます。非常にできる優秀な人です。まさに金持ちになるべく富むべく知恵がある人です。そして彼が心の中で心配し彼が心の中で考え思い描いた計画に、今度は彼は「自分に言ってやるのだ」別訳では「自分のたましいに言おう」と、言わば自己陶酔し、そこに明るい希望を見ています。19節ですが、
「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。 」
ここは肝となるたとえでイエス様は皮肉を込めて言っています。彼の言葉は誰かに言っているように見える、つまり、一見、複数人の会話のように見えるこのやり取りですが、しかし彼は「心の中で」、「自分に言ってやる」あるいは「自分のたましいにこう言おう」とあるように、すべて一人、彼自身の心の中のことです。そして彼は、自分のたましいに「これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と言っているのです。このように、貪欲の構造をイエス様は表しています。すべて自分自身の心の中の心配と、自分自身の予想、計画と期待と満足であると。けれども貪欲のさらなる事実は、満足を知らない欲です。結局、待っているのは、 「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」と、自分に言い聞かせても、それでも安心できない、満足できないわけです。しかし、イエス様は、ここでただ、そのような貪欲の構造、人間の心の欲の底なしの様だけを言いたいのではありません。それだけが「注意しなさい」の理由ではありません。20節に、イエス様の「いのちは財産にあるのではない」ということの理由があります。
5、「いのちはどこに?」
「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」
イエス様の言っていることはハッとさせられるのです。財産はもちろん一時の満足と安定は与えてくれて、一時の健康の維持にも力ともなるでしょう。しかし、究極的には、つまり死という圧倒的な現実を前にして、いのちを支えることはできないということです。いのちということは死ということと隣り合わせです。死があっていのちの意味、生きているということを考えることができるでしょう。生きることをもちろんお金はある程度補償はできるのです。しかし死を前にして、財産は全く意味がありません。いい葬儀やお墓は準備できるかかもしれませんが、どんなに財産があっても死を避けることはできないのです。しかしイエス様が言いたいのはそれだけではありません。そこでは「いのちは取り上げられる」と言っています。つまり、いのちを握っているのは、つまり聖書が「生きるのに時があり、死に時がある」と言っているように、生も死もすべて神の御手のなかにあって、神が定めている、神が与え神がいのちを取りあげる、取り去られるという、圧倒的な事実をイエス様は突きつけているでしょう。そう、それこそがいのちの支配者です。いのちは財産にあるように人は思うのですが、しかしイエス様にあって真理はそうではない、いのちの真理、それはいのちは財産ではなく、神の御手にあるということです。そして、そのいのちも死も、私たちはお金でも力でもコントロールできないのです。しかも、その豊かな財産を死後どこかに持っていくこともできないのです。その時、その取り去られることが本当に起こった時に、イエス様が、「一体誰のものになるのか」と言っているように、そのような彼の心の中で心配し計画し用意していたもの、その財産も倉も、満足も、それらはその人の物にはならないのです。その人は神にいのちを取り去られて、その先にその財産を持っていくことができません。地上の財も富も死の先に持っていくことはできないのです。むしろ財産は他の人の手に渡ってしまうようなものですし、その人の手からまた他の人の手に、時にそれは敵の手に渡ったり、悪用されたりします。まさに、この場面です。お父さんが残した遺産を子供達が争って奪い合うという現実があるではありませんか。そしてその財産も形あるものは、やがては朽ちて消えていきます。地上の財産、そして貪欲は、そのような現実にあるものです。イエス様はいいます。人のいのちは財産には決してありませんと。人のいのちは、神の手に握られていると。だからとここで誤解してはいけない補足ですが、昔からそして今も世を騒がしているキリスト教の異端やカルトが良く彼らの常套手段で、律法的に脅迫するように、だからその財産は神に教会に全て捧げなさい、ということが、正当なキリスト教の教えではありませんし、イエス様のここでの教えもそのようなことを言いたいのでは決してありません。むしろ献金は、律法ではなく、恵みへの応答ですから、自由な心で喜んでささげるものであることは忘れてはいけません。ここでは決して律法のメッセージをイエス様は言いたいのではなく、ここで何より私たちに言いたいことがあるのです。こう結んでいます。
6、「神の前に富むこと」
「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
ここでも「人の前」ではなく「神の前」とありますが、イエス様がいいたこと、それは「神の前に富むこと」の大切さです。では「神の前に富む」とはどういうことでしょうか?イエス様の山上の説教はこのことの意味がよくわかるところです。マタイ6章19節以下に同様のイエス様の教えがあります。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」マタイ6章19〜21
自分のために蓄える目に見える形ある地上の宝。それはいずれ虫と錆で、傷物になる。盗人が穴を開け忍び込んで盗んでいく。それは事実でしょう。しかしむしろイエス様は「神の前で富むこと」を言います。「富は天に積みなさい」と。別の聖書の訳ですと「宝は天に蓄えなさい」ともあります。それは虫もつかない、錆びることもない、盗人があけて盗むこともないと。やはり初めに言いました。イエス様はここでも「天」を人々に指し示しています。一貫しています。ルカ12章8節でも、「人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言う
と、イエスに「知っている」と認められることに、救いのすべてはあることを伝えています。そして、その知ってもらう道は何より信仰のことを意味しています。どんな艱難や苦しみ、それが死であっても、一羽のスズメを忘れないほどに、決して見捨てることも忘れることもなく、憐れみ、愛し、友と呼び、そして十字架で私たちのすべてを担われる神の御子キリストを、私たちが信じること、信頼することこそ、何より必要なことであると言うのが、イエス様が福音書を通して伝えるメッセージの核心なのです。ですから、まさに神の前で富むことは、何かというと、それは、信仰のことだと言うことです。宝を天に蓄えること、それも信仰です。信仰に生きることです。信仰にあって、神を信じ、その神からの救いを喜び安心するがゆえに、喜んで応えていく、つまり、神を愛し隣人を愛することです。引用したマタイの福音書でも、そうです。この19節の前には、主の祈りが教えられています。先週お話ししました、イエス様がこう祈りなさいと与えてくださった福音の祈りです。そして、その後は、断食や祈りをするのにも、人に見られるようにではなく、隠れたところの見ている天の父に見られ父に報われるようにと教えています。それも人に見られるためではない、人にどう見られるかどう思われるかでもない、ただ神への信仰による行いを教えています。そして21節の続きの結びは、神の国とその義とをまず第一に求めなさい、と、信仰を示しています。
天に宝を積むこと、蓄えること、神の前で富むこと、つまり信仰、それがいのちの道、真理の道、救いの道であることこそ、イエス様が今日も、このところから、私たちに伝えるメッセージなのです。
イエス様は一見、この人を、批判しているように見えるかもしれません。しかし最も大事なことをイエス様はこの人に伝えているのです。もちろん「人の前」では、この人の期待している通りの答えではありませんでした。けれどもまさにここにいのちがあるというイエス様の福音のメッセージが彼に語られたのです。それがイエス様の彼への愛であるともいえるでしょう。
7、「おわりに」
幸いではありませんか。天に宝を積むことができる幸いに私たちがあることは。イエス様は、決して地上の必要はどうでもいいとは結んでいません。マタイの福音書の山上の説教の有名な言葉、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」も、信じなさい。そうすれば、それに加えて、「これらのもの
、つまり何を着ようか何を食べようかということを言っているのですが、それらのものはすべて与えられるとも、イエス様は言っています。大事なことは、信じることです。イエス様こそ私たちのいのちのすべてであり、救いであると。イエス様とイエス様の言葉こそ真実であり、恵みによって取り囲まれた人生であり、そのイエスの福音とその恵みこそ、新しい命の日々の歩みを本当の豊かにする宝であると、信じ、救いを確信することです。その信仰さえ、恵みとして与えられる賜物であると、聖書は教えています。その信仰こそ、喜び、平安、感謝が溢れさせ、何より神の前で富むこと、天に宝を積むことなのです。今日もイエス様は私たちにその罪の赦しと新生の福音と恵みを、そのまま受けるようにと、宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ、福音をうけ、今日も信仰を新たにされ、平安のうちに、私たちの救いの道、いのちの道に遣わされていきましょう。
6月の手芸クラブは25日に開催しました。梅雨の季節ですが、ちょうどその日は雨が降らず傘を使わないで教会に来ることが出来ました。
今回もコースターの編み物を続けました。前回のように初めにコースターのいろいろなモデルを見て自分の作りたい編み型や色を選びます。前回いらして既に編んだ方たちは今回は違うモデルを選びました。出来上がりの楽しみが増えます。もちろん今回初めて参加された方たちにも出来上がりは楽しみです。皆さん、モデルをよく見ながら一生懸命編み続けていきます。皆さんが選んだモデルや色はみんな異なっていたので、お互いのものを見るのも楽しかったです。おしゃべりしながら楽しく編み続けていくと時間が経つのも忘れてしまいます。手芸クラブと同じ時間帯にチャーチカフェも開きました。
手芸クラブもコーヒータイムに入ることにしました。その週はフィンランドでは夏至祭のお祝いが近づいていたので、フィンランドで夏至祭の時によく歌われる「夏の日、カンガスアッラにて」という曲のピアノ演奏をモニターを通して聴きました。モニターから映し出されるフィンランドの景色を眺めながら演奏を聴き、コーヒーとお菓子パン・プッラを味わいました。チャーチカフェに来られた方もいて、教会の集会スペースは賑やかな雰囲気になりました。コーヒータイムの時に「毎日、神様の御手に守られて」というフィンランドの聖書日課からみ言葉を聞きました。この日の日課の箇所は「フィリピの信徒への手紙」4章6節でした。
手芸クラブはしばらくお休みになります。夏が終わってからまた再開する予定です。案内をホームページにのせますので、どうぞご覧ください。
日本は暑い夏になると思います。皆さま、どうぞ気をつけてお過ごしください。
ユハ・ヴァハサルヤ(Juha Vähäsarjaフィンランド聖書学院講師) 「毎日、神の御手に守られて」(Joka päivä Jumalan kämmenellä)2010年
フィリピの信徒への手紙4章6節(フィンランド語の聖書からの和訳) 「何事についても心配に身を任せるのではなく、必要なものはいつも神に打ち明けなさい。祈りながら、願い求めながら、そして感謝しながら、そうしなさい。」
私たちは誰も、心配したり案じたりすることがあまりにも多く、心配する能力に長けていると言ってもいいくらいです。もちろん、心配するのは、現実にちゃんとそのための理由があるからなのですが。しかし、心配の重荷に絶えず身を委ねていたら、それが生きる喜びを押し潰し、奪ってしまうことになります。
聖書の神の御言葉は、「何事についても心配に身を任せてはいけない」と言っています。それは、「心配しない人間になれ」という命令と受け取るよりは、「心配するのはわかるが、その必要はないのだ」という励ましに受け取るべきです。どんなことがあっても、神は状況を打開して私たちが前に進めるように助けて下さる、心配するのはわかるが、それに身を任せるのは無駄なことなのだ、と約束してくれているのです。聖書の他の箇所にも記されているように、神は私たちの世話を焼いて下さると約束しておられます。天と地と人間を造り、人間に命と人生を与え、また独り子イエス様をこの世に送られた神がこうだと約束されている以上、この地球上で、これより確実なことは存在しないのです。
だから、私たちは、遠慮しないで心配事の重荷を神に引き渡したり、投げつけたりして構わないのです。願い求め、感謝すること以外にするべき必要なことはありません。私の心配事を神は今回、どのような仕方で解決に導いて下さるのだろうか、しかと見届けてやろうという信頼の気持ちで待っていればよいのです。
「かぎ針のコースター」を編みます。
かぎ針のコースターは早く簡単に作れる手芸の一つです。色は何色でもよいので、残り毛糸の良い使い方にもなります。可愛い、きれいな色のコースターはテーブルの飾り物にもなります。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
材料費 500円
人数制限がありますので、ご注意ください。
お子さん連れの参加も歓迎です!
お問い合わせ、お申込み moc.l1751423051iamg@1751423051arumi1751423051hsoy.1751423051iviap1751423051 Tel 03⁻6233‐7109
コーヒーやプッラ(フィンランド風菓子パン)を味わいながら、モニターでフィンランドの讃美歌や風景に触れて、心休まるひと時をお過ごしください。
手芸クラブに参加されない方でもご自由にお好きな時間帯にお立ち寄り下さい。
ご希望あれば礼拝スペースにて一人静かにお祈りすることもできます。 (コーヒー・プッラ準備費として300円ご協力お願いします。)
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4―106
6月のスオミ教会・家庭料理クラブは11日、どんよりした梅雨空の下での開催でした。今回は「ドリーム・ロールケーキ」Unelmakääretorttu を作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。
「ドリーム・ロールケーキ」はケーキと中身が大事なので、まず参加者の方々をケーキを作るグルーブと中身を作るグルーブに分けます。
ケーキ・グルーブは、材料を計って卵と砂糖をハンドミキサーで泡立てることから始めました。白い泡になってから粉類を中に加えると生地になります。それを鉄板に広げてオーブンに入れて焼き始めます。あっという間ケーキの焼き香りが広がり、ケーキは焼き上がりました。
中身・グループも、材料を計ったりバターなどをハンドミキサーで泡立てます。ふわふわの中身ができました。
それからケーキ作りに入ります。まず、冷ましたケーキの上に中身をのせて広げます。その上にホイップした生クリームをのせて広げます。その次は、いよいよケーキをロールします。ケーキが割れないように少しづつ注意しながらロールします。ロールし終わると、やった!の嬉しい声が上がりました。
最後はロールケーキの上にホイップした生クリームで飾り付けをして、その上にフルーツ、みかんとスライスしたキウィをのせてきれいな夢のような「ドリーム・ロールケーキ」が出来上がりました!
今回の料理クラブは台所からハンドミキサーの音が多く聞こえてやかましかったでしたが、礼拝堂からはお子さんの遊ぶ声が聞こえてきて和やかな雰囲気になりました。
テーブルのセッティングをして皆さん席に着き、出来たての「ドリーム・ロールケーキ」をコーヒーと紅茶と味わって歓談の時を持ちました。この時、「ドリーム」夢や、聖書に出てくる将来の望みについてお話を聞きました。
スオミ教会のフィンランド家庭料理クラブはこれからしばらくお休みになります。秋また10月から再開の予定です。詳しい日時は、コロナ感染の状況を見ながら決めます。教会のホームページにお知らせしますので是非ご覧ください。暑い夏の季節はもうすぐです。皆さん、健康に注意してお過ごし下さい。
今日皆さんと一緒に作った「ドリーム・ロールケーキ」はフィンランドのコーヒー・テーブルの人気者の一つです。このロールケーキはフィンランドで伝統的なもので多くの家庭で作られます。私の母も大好きでよく作りました。このロールケーキは材料はそれほど多くなくて作り方も難しくありません。それでも、普段のコーヒータイムだけでなく、お祝いのテーブルでも豪華なものとして出されます。今日つくったものは小麦粉を入れていませんので、グルテンフリーでアレルギーの人たちにも合います。
この「ドリーム・ロールケーキ」の味のポイントは中身です。伝統的な中身のクリームはバターで作られましたが、現在は少し軽くしてバターの他にヨーグルト、クリームチーズ、クリームなどを入れるようになりました。中身を変えることで普段の日のお菓子になったり、お祝いの時の出しものになったりします。ロールケーキの名前ですが、「ドリーム・ロールケーキ」はケーキと中身の組み合わせの美味しさから始まったかもしれません。また、ドリームはフィンランド語でウネルマと言いますが、ウネルマはフィンランドの女性の名前でもありますので、ウネルマという女性がこのロールケーキを作り初めた可能性もあります。名前の始まりについてははっきり分かりませんが、とにかく面白くて可愛い名前だと思います。このロールケーキを食べると、「ドリーム」、いろいろな夢を描けるかもしれません。
「ドリーム」夢は私たちが将来望んでいることや希望することです。夢は生活にインスピレーションを与えて生活の意味を深めます。逆にもし夢がなかったら生活はつまらなくなるかもしれません。若者は夢が沢山あって夢見ることは上手です。しかし、夢見るのは若者だけでしょうか?いいえ、夢見るのは本当は年令とは関係ないと思います。年配の方々にも夢があります。皆さん夢がありますか。どんなことについて夢見るでしょうか。
普通は夢と言ったら、進学する学校とか、どんな仕事に就きたいとか、どこに旅行したいとか、家庭を持ちたいとか将来に関することです。フィンランドの女性誌の記事によくある話ですが、私たち人間にとって自分の心によく聞いて持っている夢を実現することは大事なことだとよく言われます。しかし、私たちが持っている夢はいつも実現出来るとはかぎりません。実現するためにとても努力しても夢が叶わなくてがっかりすることもあります。
聖書にはそういう将来の夢について直接は書いてありませんが、将来の望みについてはたくさん書いてあります。旧約聖書の箴言には次の言葉があります。 「人の心には多くの計らいがある。主のみ旨のみが実現する」箴言19章21節です。 私たちがいろいろな夢を持つのは大事なことですが、それらが実現するかしないのかは私たちが決めることではありません。それは天と地と人間を造られた神様が私たちをどのように導いてくださるかによることです。もし私たちの持っている夢が神様の目から見て私たちに相応しくないとお考えになったら、夢は実現出来ないかもしれません。その場合は神様は何か違うことを考えて与えてくださいます。もし私たちの夢が実現したら、それは私たちの努力だけで実現したのではなく、神様の良い導きがあったからだと理解して感謝するのは大事です。
聖書には、神様はどのように一人の人間や一つの民全体を導いて下さるかについてたくさん書いてあります。一つの例は、イスラエルの民です。イスラエルの民は外国に攻められて捕虜になって遠い国に連れて行かれました。彼らの夢はまたいつか自分の故郷に帰りたいというものでした。神様は、イスラエルの民は必ず帰ることになると約束の言葉をたくさん述べられました。神様はイスラエルの民をどのように故郷に導いてくださるかということが、旧約聖書のイザヤ章とエレミヤ書にたくさん書いてあります。また、神様がかつてイスラエルの民をどのように導いてくださったかということも忘れないようにとたくさん書いてあります。 「我が主はあなたたちに災いのパンと苦しみの水を与えられた。あなたを導かれる方はもはや隠れておられることはなく、あなたの目は常にあなたを導かれる方を見る。あなたの耳は、背後から『これが行くべき道だ、ここを歩け右に行け、左に行け』と」 これは、イザヤ書30章20-21節のみ言葉です。イスラエルの民はいろんな試練を受けなければなりませんでしたが、神様の導きで最後は故郷に戻ることができました。
このイザヤのみ言葉は私たちにも向けられています。神様は私たちが持っている夢をよくご存じです。それがその通りに実現するかしないかは私たちには分かりません。私たちの生活の中にもイスラエルの民みたいにいろいろ災いや苦しみがあるかもしれません。しかし、それは神様が私たちを見捨てたということではありません。そのような時があっても天の神様は隠れておられることはなく、その時も導いてくださいます。だから私たちも夢を持つ時は、私たちを導かれる神様の声を聖書から聞いて従っていきましょう。
5月の手芸クラブは25日に開催しました。梅雨の近づきを感じさせる雨多い週でしたが、ちょうどその日は太陽が輝くすがすがしい日になりました。
今回は先月に続いてコースターを編みました。前回同様に初めにコースターのいろいろなモデルを見て自分の作りたい編み型を選びます。少しチャレンジを増やして先月と違ったモデルを選ばれた方もいらっしゃれば、その日初めて来られて少し簡単なモデルを選ばれた方もいらっしゃいました。各自、モデルに従って編み続けていきます。皆さん異なるモデルだったので、それを見るのも楽しかったです。おしゃべりをしながら楽しく編み続けていくと時間が経つのも忘れてしまいます。
大体の方は出来上がったので、コーヒータイムの時を持ちました。今回も手芸クラブと同じ時間帯に「チャーチ・カフェ」を開きました。壁掛けのモニターに映し出されるフィンランドの景色を眺め、讃美歌に耳を傾けながら、ムーミンマグカップのコーヒーとフィンランド風菓子パン”プッラ”が味わえるひと時です。コーヒータイムの時に旧約聖書の詩篇121篇の天の神様の守りについてお話を聞きました。
次回の手芸クラブは6月22日に予定しています。
今回の手芸クラブでは先月に続いてコースターを編みました。かぎ針で編むコースターは簡単に早く作れて、可愛いものが出来上がりますので、テーブルの飾り物にもなります。レストランや喫茶店などのコースターはカートンかプラスチックの安いものが多いです。それにはよく会社の広告がのって客さんが持って帰っても大丈夫なものです。それである人たちはコースターを趣味として集めます。コースターはカートン、プラスチック、木、コルク、布などいろんな材料で作られます。コースターはただの飾り物ではありません。コップの下に置くことにはちゃんとした意味があります。テーブルに冷たいか暑い飲み物のコップをそのまま置くと、しばらくするとコップの染みがテーブルに残ります。コースターはテーブルに染みが残らないようにしてテーブルを守るのです。
同じように私たちの身近にあって、普段はあまり気がつきませんが私たちを守る物がいろいろあります。傘はその一つでしょう。もうすぐ雨の日が多い梅雨の季節に入ります。私たちは塗れないように傘を持って出かけます。傘は大事な守りものです。傘がなかったら体は塗れてしまって簡単に風邪をひいてしまします。
私たちの身近にあって私たちを守る物はいろいろありますが、物だけではありません。子供を守る一番身近な存在は親です。しかし、私たち人間には知恵と力に限りがあります。親も人間です。私たちは全てのことは出来ません。
ところが聖書は、私たちを守ってくださる、私たち人間よりもっと知恵や力がある方について教えます。それは天と地と人間を造られた神さまです。旧約聖書の詩篇には神様の守りについてたくさん書いてあります。「主があなたを助けて足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。主はあなたを守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。」詩篇121篇の3節と5節です。
私たちは生活の中で問題がなく全てがうまく行く時、私たちは神さまのことなど簡単に忘れてしまいます。私たちは「神様はいなくてもうまく生活出来る」という態度です。しかしこれは私たちが命と人生のことを深く知らないからそう考えてしまうのです。全てがうまく行っているようでも、それは一時的なことでいつかは試練が起こります。その時のためにいつも心がしっかりしていることが必要です。どうしたらしっかりした心を持てるでしょうか?それは今言った詩篇のみ言葉、天の神さまは私たちが試練にあっても私たちから離れることはなく、眠ることなく働かれ私たちを守ってくださる方だと、神さまを信頼することです。「主はあなたを覆う陰」と言うので、神さまが私たちと一緒にいることは見ることが出来ないし感じることも出来ません。しかし、聖書に書いてあるから本当のことなのです。聖書には神さまがひとり子のイエス様を私たちに送って、イエス様は私たちのために十字架にかかり死から復活したことも書いてあります。これは本当に起こったことなので、私たちは神さまを信頼することができるのです。
皆さんも、このように神さまの守りを信頼することが出来るでしょうか?
主日礼拝説教 2022年5月22日復活後第六主日 スオミ教会
使徒言行録16章9-15節
黙示録21章10、22節-22章5節
ヨハネ14章23-29節
1.イエス様が約束されたのは平和か、平安か?
本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに「わたしの平和」を与えると約束します。「平和」とは何か?普通は、国と国が戦争をしないでそれぞれの国民が安心して暮らせる状態というように理解されます。今私たちはウクライナに平和が戻るように願い毎日祈っています。ところで、国と国が戦争しなければ国民は平和に安心して暮らせるかというとそうでもありません。例えば国が複数の民族から構成されていて、民族間で紛争が起きれば、それはもう国同士の戦争と同じになってしまいます。また、そういう集団同士の紛争がなくても、国の経済が破綻するとか、国家権力が国民の権利や自由を制限したり締め付けたりしたら、もう平和に安心して暮らすことは出来ません。
イエス様が弟子たちに与えると約束した「平和」とは何か?イエス様の約束は実は弟子たちだけに限られません。ヨハネ福音書を手にしてこの御言葉を読む人、礼拝の説教を通して聞く人全員に向けられています。イエス様は私たちが国内外の紛争や社会の動揺を免れて安心して暮らせると約束しているのでしょうか?残念ながら人間の歴史を振り返ると、戦争や紛争、動乱や内乱、社会の不安定は無数にありました。キリスト信仰者といえどもいつもそうしたものに巻き込まれてきました。イエス様は約束を守れなかったのでしょうか?
そうではありません。イエス様が約束された「平和」にはもっと深い意味があり、普通に考えられる「平和」とちょっと違うのです。このことがわかるために、この御言葉のルターの説き明かしを見てましょう。以下の通りです。
「ヨハネ14章27節で主が与えると約束した平和、これこそが真の平和である。それは、不幸がないので心が落ち着いているという平和ではない。それは、不幸の真っ只中にあっても心を落ち着かせる平和である。外面的にはあらゆることが激しく揺れ動いていても心を落ち着かせる平和である。
それなので、『この世が与える平和』と『主が与える平和』には大きな違いがある。この世が与える平和とは、外面的な揺れ動きを引き起した害悪がなくなるという平和である。主が与える平和はこれと全く反対である。外面的には疫病や敵、貧困や罪や死それに悪魔といったものが絶えず我々を揺さぶってもあるという平和である。そもそも、我々がいつもこうした害悪に取り囲まれているというのは逃れられない現実である。それにもかかわらず、我々の内面では心に慰めや励ましや平安がある。これこそが主が約束した平和である。この平和が与えられると、外面的には不幸でも心は外面的なものに縛られない。そればかりか、不幸の時の方が不幸でない時よりも心の中で勇気と喜びが強まるのである。それゆえ、この平和は使徒パウロが「フィリピの信徒への手紙」4章で述べたように「あらゆる人知を超えた神の平和」(7節)なのである。
人間の理性が把握できるのは「この世が与える平和」である。理性はその性質上、不幸や害悪があるところに平和があるということは到底理解できない。理性は不幸や害悪がある限り平和はありえないと考える。そのためそのような状態に陥った時、理性は心を落ち着かせる術を知らない。ところで主は、なんらかの理由で我々を不幸や害悪の中に置くということがある。しかし、決して忘れてならないことは、主は我々を必ず強めて下さるということだ。主は、良心の咎に苛まれた我々の心を晴れ晴れした心に変えて下さる。それで、我々の臆病な心は恐れない心に変えられるのだ。主から平和を与えられてそのような心を持てるようになった人は、この世が怯える不幸や害悪があるところでも、喜びを失わず揺るがない安心を持っていられるのである。」
以上がルターの教えでした。外面的には平和がなく不幸や害悪がのさばって激しく揺り動かされた状態の中に置かれても内面的には平和があるというのです。この場合、内面の平和は「平安」と言い換えても良いでしょう。どうして聖書の日本語訳は「平安」と言わないで「平和」と言うのか?これは、ギリシャ語のエイレーネーειρηνηという言葉が外面的な平和と内面的な平安の両方の意味を含んでいることによると思います。参考までに聖書の英語訳、フィンランド語訳、ドイツ語訳を見てみますと、エイレーネーを同じ言葉(peace, rauha, Frieden)と訳しています。それらの言葉もギリシャ語のように外面的なものと内面的なもの両方を含んでいるので、それらを用いても大丈夫なのです。興味深いのはスウェーデン語には、外面的な平和を意味する言葉(fred)と内面的な平安(frid)を意味する言葉が別々にあって、このヨハネ14章27節でイエス様が約束しているものはまさに内面的な平安(frid)です。参考までに、使徒パウロの書簡の初めの決まり文句は日本語で「神の恵みと平和があなたがたにありますように」と訳されていますが、スウェーデン語の訳はみんな「平和」(fred)でなく内面的な「平安」(frid)を用いています。
日本語もスウェーデン語と同じように「平和」と「平安」と分けてあるのに全部「平和」で訳しています。ヨハネ14章27節を「平和」と訳したら内面的な「平安」が見えなくなってしまわないか?この問題の解決は説教の終わりでお教えします。
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2.神との平和
ルターの教えから、イエス様が与えると約束した内面の平安とは、外面的には揺り動かされ不幸や害悪の中に置かれても、内面的には勇気と喜びが失われず、むしろ増し加わり、それで揺るがない安心を持つことが出来ることだとわかりました。それでは、どうしたらそのような平安を持てるようになるのでしょうか?そんな平安を持てたら怖いものは何もなくなりそうです。誰もがも持ちたいと思うでしょう。
どうしたらそんな平安を持てるようになれるのか?答えは難しくありません。イエス様が与えるよと言っているものを、ありがとうございますと言って素直に受け取ればいいのです。なんだ、とあっけに取られてしまうかもしれませんが、実際そうなのです。そうすると今度は、イエス様が与えると言っている平安とは何か、それはどこにあるのか、それがわからないと受け取ろうにも受け取ることが出来ません。それで次に見ていきましょう。
イエス様が弟子たちに平安の約束をしたのは十字架にかけられる前日、最後の晩餐の時でした。この後に受難の出来事が起こり、十字架の死があって死からの復活がありました。イエス様が神の力によって死から復活させられた時、弟子たちは、あの方は本当に神のひとり子で旧約聖書に約束されたメシア救世主だったと理解しました(使徒言行録2章36節、ローマ1章4節、ヘブライ1章5節、詩篇2篇7節)。そうすると、じゃ、なぜ神聖な神のひとり子が十字架にかけられて死ななければならなかったのかという疑問が生じます。これもすぐ旧約聖書に預言されていたことの実現だったとわかりました。つまり、人間の罪に対する神の罰を一身に受けて、人間が受けないで済むようにして下さったのだとわかったのです(イザヤ53章)。人間が神罰を受けないで済むようになるというのは、イエス様の犠牲に免じて罪が赦されるということです。
このようにして神から罪の赦しを頂けると今度は、かつて最初の人間アダムとエヴァの堕罪の時に壊れてしまった神と人間との結びつきが回復します。神との結びつきが回復すると今度は、復活の主が切り開いて下さった道、死を超える永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むようになります。神との結びつきをもって永遠の命に至る道を進むとどうなるか?それは、この世でどんなことがあっても神は絶えず見守って下さり、いつも助けと良い導きを与えて下さるということです。そして、この世から去った後も、復活の日に目覚めさせられて永遠に神の御許に迎え入れてくれるということです。
このようにイエス様の十字架の死と死からの復活というのは、神がひとり子を用いて人間に罪の赦しを与えて自分との結びつきを回復させようとする、神の救いの業だったのです。もともと人間と神との結びつきは万物の創造の時にはありました。しかし、堕罪の時に人間の内に神の意思に反しようとする罪が入り込んだために結びつきは失われてしまいました。その失われたものが罪が赦されることで回復する可能性が開かれたのです。神は罪を焼き尽くさずにはおられない神聖な方です。罪のために神との結びつきが途絶えてしまったというのは、神と人間は戦争状態に陥ったのも同然でした。それで神と結びつきを回復するというのは、神と人間の間に平和をもたらすことになります。実に神と人間の間の平和は、神自身がひとり子を犠牲に供することで打ち立てられたのでした。
人間は神のこの救いの業がわかった時、ああ、イエス様は本当に神のひとり子、メシア救世主だったんだ、彼が十字架にかけられたのは同時代の人たちのためだけでなく後世を生きる人間全てを救おうとして行ったことだったんだ、時代を超えて今を生きる自分のためにもなされたんだ、とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを頂けて神との結びつきが回復するのです。そのような人は、まさに使徒パウロがローマ5章1節で言うように、「主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いるのです。
3.心の平安
しかしながら、私たちが肉を纏って生きているこの世というところは、あらゆる手立てを尽くして私たちを疲れさせたり絶望させたりして、神との結びつきを弱めよう失わせようとする力に満ちています。私たちを罪の赦しから遠ざけて、再び罪が支配するところに引き戻そうとする力に満ちています。例えば、私たちが苦難や困難に遭遇すると、本当に神との結びつきはあるのか?神は自分を見捨てたのではないか?私のことを助けたいなどと思ってはいないのではないか?と疑うことが起きてきます。この時、一体自分には何の落ち度があったというのか、と神に対して非難がましくなります。また逆に、自分には落度があった、だから神は見捨てたんだと意気消沈することもあります。どちらにしても、神に対して背を向けて生きることになってしまいます。
そこで、自分には何も落度はないのにどうしてこんな目にあわなければならないのかと非難がましくなることについて見てみましょう。このことは、有名な旧約聖書ヨブ記の主人公ヨブにみられます。神の御心に適う正しい良い人間でいたのにありとあらゆる悪い事が起きたら、正しい良い人間でいたことに何の意味があるのか?そういう疑問を持ったヨブに対して神は最後のところで問い始めます。お前は天地創造の時にどこにいたのか?(38章)一見、何の関係があるのかと言い返したくなるような問いですが、神の言わんとすることは次のことでした。自分は森羅万象のことを全て把握している。なぜなら全てのものは自分の手で造ったものだからだ。それゆえ全てのものには、私の意思がお前たち人間の知恵ではとても把握できない仕方で働いている。それなので、神の御心に適う正しい良い人間でいたのに悪い事が起きたからと言っても、正しい良い人間でいたことが無意味だったということにはならない。人間の知恵では把握できない深い意味がある。だから、正しい良い人間でいたのに悪い事が起きても、神が見捨てたということにはならない。神の目はいついかなる境遇にあってもしっかり注がれている。
神の目がしっかり注がれていることを示すものとして、「命の書」というものがあります。本日の黙示録の個所(21章27節)にも出てきましたが、旧約聖書、新約聖書を通してよく出てきます(出エジプト32章32、33節、詩篇69篇29節、イザヤ4章3節、ダニエル12章1節、フィリピ4章3節、黙示録3章5節)。イエス様自身もそういう書物があることを言っています(ルカ10章20節)。黙示録20章12節で神は最後の審判の日にこの書物を開いて死んだ者たちの行先を言い渡すと言われます。それからわかるように、この書物には全ての人間がこの世でどんな生き方をしたかが全て記されています。神にそんなこと出来るのかと問われれば、神は一人ひとりの人間を造られた方で髪の毛の数までわかっておられるので(ルカ12章7節)出来るとしか言いようがありません。そうなると全て神に見透かされて何も隠し通せない、自分はもうだめだとなってしまうのですが、そうならないためにイエス様は十字架にかけられ、復活させられたことを思い出しましょう。イエス様を救い主と受け入れて神に立ち返る生き方をすれば、神はお前の罪は忘れてやる、過去のことは不問にすると言って下さるのです。
ここで忘れてはならないのは、神は全ての人間に目を注いでその境遇をわかってはいるがそれで終わりというようなただの傍観者ではないということです。神は、人間が自分との結びつきを回復してかの日には復活を遂げて永遠に神の御許に迎え入れられるようにと、それでひとり子をこの世に贈って犠牲に供することをしたのです。それで神は、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がどんな境遇に置かれてもこの道をしっかり歩めるようにとあらゆる支援を惜しまない方です。なぜなら、神がひとり子の犠牲を無駄にすることはありえないからです。人生の具体的な問題に満足のいく解決を早急に得られないのは、神が支援していないことの現れだと言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点で言わせてもらえれば、聖書の御言葉も日曜の礼拝や聖餐式も神に祈ることも全部、私たちを力づけてくれる神の立派な支援です。
このようにイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、どんな境遇にあっても神との結びつきには何の変更もなく、見捨てられたなどということはありえません。境遇は、神との結びつきが強いか弱いかをはかる尺度ではありません。大事なことは、イエス様の成し遂げて下さった業のおかげで、かつそのイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、この二つのおかげで、私たちと神との結びつきがしっかり保たれているということです。周りでは全ての平和が失われるようなことが起きても、神との平和は失われずにしっかりあるということです。
次に、この世の力が私たちに落ち度があると思わせて意気消沈させ、自分は神に相応しくないんだと思わせて、神から離れさせる場合を見てみます。これについても私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限りは、神は私たちのことを目に適う者と見て下さるというのが真理です。それにもかかわらず、私たちを非難し告発する者がいます。悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて、自覚を失意と絶望に転化しようとします。ヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前にしゃしゃり出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけばひどい罪びとなんですよ」などと言います。しかし、本日の福音書の箇所でイエス様は何とおっしゃっていましたか?弁護者である聖霊を送ると言われています(14章26節)。
私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて、必要以上に私たちを責めるようになっても、聖霊は私たちを神の御前で文字通り弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエス様の十字架の業が自分に対してなされたとわかっています。それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と。すかさず今度は私たちに向かってこう言われます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり打ち立てられているではありませんか!」と。私たちは罪の赦しを神に祈り求める時、果たして赦して頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通してこの聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。聖霊の執り成しを聞いた神はすぐ次のように言って下さいます。「わかった。わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪は犯さないようにしなさい」と。その時、私たちは安心と感謝の気持ちに満たされて、もう罪は犯すまいと決心するでしょう。
以上みてきたように、イエス様の十字架と復活の業によって私たちと神との間に平和が打ち立てられました。この平和は、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、私たちの内で微動だにしない確固とした平和です。それに揺さぶりをかけるものが現れても、その度、聖霊が出動して、神はイエス様を用いて私に何をして下さったかということを思い起こさせて下さいます。その思い起こさせに自分を委ねてしまい、思い起こせばそれでよいのです。その時、心は安心と喜びを取り戻して神の御心に沿うように生きようと勇気も湧いてくるでしょう。
まさにこの時キリスト信仰者は、自分の内に大きな平安があることに気づきます。この平安は、神から罪の赦しを頂いて神との平和を打ち立てられた時に与えられます。これでヨハネ14章27節のイエス様が約束されたのは「平和」なのか「平安」なのかという問いの答えが得られます。両方です!イエス様が私たちの救いのために十字架と復活の業を成し遂げて下さったおかげで私たちと神との間に平和がもたらされました。この平和を持てると今度は、外面的な揺れ動きにも動じない本当の心の平安がついてきます。イエス様は両方を与えると約束し、それは果たされているのです!
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
水曜聖句と祈りのひと時 「白樺の十字架の下で」
Youtubeで見る 5月18日19時45分~
聖句 詩篇118篇1節 「恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。」
ピアノと歌 ミルヤム・ハルユ宣教師 ビデオ編集 ティーナ・ラトヴァラスク宣教師
5月のスオミ教会・家庭料理クラブは9日に開催しました。今回はパスティヤPasteija を作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にパスティヤの生地を作ります。材料を計って小麦粉をマーガリンの中に混ぜていくと生地はあっという間に出来上がります。ヨーグルト風味にした生地をラップに包んで冷凍庫にしばらく入れて固くします。
生地の次は中身の番です。今回パスティヤの中身はサーモンとひき肉の二種類にしました。参加者の皆さん、一生懸命焼いたサーモンとひき肉を細かく切ったりほぐしていきます。中身も早く出来上がりました。
今度は生地を伸ばして丸い型で型を抜きます。丸い生地の上に二つの中身を別々にのせて形を作り、鉄板にどんどん並べていくと整ったパスティヤの列ができました。オーブンをつける前にパスティヤの上に卵を塗り、それから焼き上げを開始します。しばらくすると、台所から美味しそうな香りが広がってパスティヤが焼き上がったことを告げます。テーブルのセッティングも終わって皆さん席に着きました。出来たてホヤホヤのパスティヤをサラダと一緒に召し上がります。コロナのため今回歓談は静かな声で行いました。
パスティヤを味わった後で、フィンランドのカレンダーにある「名前の日」と名前に関係するる聖書のお話を聞きました。
次回の料理クラブは6月に予定していますが、コロナ感染の状況を見て日程を決めます。教会のホームページにお知らせしますので是非ご覧ください。
フィンランドは春と夏になると、お祝いが多い季節になります。フィンランドではお祝いのパーティーは普通は自宅で開きます。春と夏はお祝いの季節で、高校生の卒業式、若者の教会での堅信礼、結婚式などがあります。その時お母さんたちは一生懸命パーティーの食事の準備をします。パーティーに出すものはお菓子、クッキー、ケーキはもちろん、食事は軽食で行う時はサンドイッチ、パイ、それに今日作ったパスティヤが出されます。
パスティヤの歴史を少し調べましたが、あまり詳しく出ていませんでした。カレリア地方ではパスティヤの形の小さいパイが作られましたが、生地と中身はパスティヤと違って名前も別でした。
残念ながら、パスティヤの名前はどこから来たのかははっきり分かりませんでした。ただ、フィンランドのベーカリーのものの名前はおもにスウェーデン語とロシア語からきたものです。現在新しい名前のベーカリーのものがどんどん出てきて、名前も英語や他の国の言葉からです。それで、名前だけを聞くと、どんなベーカリーのものか想像出来ないくらいです。
フィンランドでも最近は人の名前に外国のものが使われるようになってきました。例えばアリオス、オカヴィリという名前は聞いてもどこの国のものかわかりません。日本では皆さんの名前はほとんど漢字で書くので、名前の意味が豊かになると思います。アルファベットで書く名前は漢字のような豊かな意味にするのは難しいと思います。それでも、フィンランドには名前を豊かにする伝統があります。それは何でしょうか?フィンランドのカレンダーには、毎日の日にちに数字の下に何人かの名前が書いてあります。これを「名前の日」と言います。自分の名前がある日に来ると、みんなからお祝いされるのです。毎朝のラジオのニュースと天気予報の次にその日の名前が読み上げられます。私のパイヴィの名前の日は6月16日です。その日は他にパイヴィッキとパイヴァの名前もあります。
「名前の日」はカードを送ったり花をプレゼントしたりします。職場でも簡単にコーヒーとお菓子を出してお祝いします。「名前の日」があることで、友達や同僚や親戚のことを覚えてお祝いする機会が増えるのです。
聖書の中にも名前に関係する神さまのみ言葉があります。例えば、イザヤ書43章1節には次のように書いてあります。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名前を呼ぶ。」 フィンランド人も、友達や同僚や親戚の「名前の日」をうっかり忘れてしまうことがあります。しかし天と地と人間一人一人を造られた神様は私たちのことを忘れません。神様は私たちの造り主ですので、私たち一人ひとりのことを私たちの親よりも良くご存じです。それで私たちは子どもが自分の親を信頼するのと同じように神様を信頼して安心を得ることができるのです。
ところで、私たちは時々、他人のことで良くないことを考えたり、口で言ってしまったりすることがあります。それが神さまの目から見て良くないこととわかると、自分は神様の目に届かないところにいると考えて、何も問題ないと思うかもしれません。しかし、私たちは神様の目に届かないところにいることができるでしょうか?私たちは自分でいろいろ隠れ場所を作るかもしれませんが、それは小さい子供のかくれんぼと同じです。小さい子供がかくれんぼをすると、子どもは頭を隠して、体は見えているのに、自分はうまく隠れて誰にも見つからないと思っています。捜す人が、みーつけた!と言って名前を呼ぶと、見つかった子供はどうして見つかったのかと驚きます。私たちも同じで、神様から隠れたい、目の届かないところにいたいと思いますが、神様は私たちがどこで何をしているかをご存じで、私たちを名前で呼ばれます。私たちは神様から名前で呼ばれたら、隠れている場所からすぐ出るでしょうか?
私たちは神様から隠れたり遠ざかる必要はありません。神様は私たち人間のために素晴らしい計画を実現されました。そのご計画の中で一人の名前、神様のひとり子イエス様の名前が偉大になりました。フィリピの信徒への手紙2章9~10節で次のように言われています。 「神はキリストを高くあげ、あらゆるな名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものが全て、イエスの名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公けに宣べて、父である神をたたえるのです。」
天の神様はどうしてイエス様にあらゆる名にまさる名前を与えられたのでしょうか?それは、神様が私たち人間を救う計画を持っていたからです。それはどんな計画でしょうか。天の神様は私たち人間を愛して、私たちが神さまから罰を受けないで済むようにするという計画です。そのために神様はご自分のひとり子イエス様をこの世に送られて、十字架の上で私たちの罪の罰を身代わりに受けて死なせたのです。しかし、神さまはイエス様を死から3日目に復活させられました。このように神様は私たちを罪から救うためにイエス様を身代わりにしたのです。そのため神様はイエス様を高く天のみもとに上げたのです。それでイエス様の名前はあらゆる名前の上にある名前になったのです。
私たちは神さまの目から見て何か良くないことをしたら、神さまから逃げたり隠れたりする必要はありません。このような時、イエス様を救い主と信じて神さまに赦しをお願いすれば、神さまは必ず赦して下さいます。このように私たち一人一人のことや名前をよくご存じの神様は私たちを本当に愛しておられ、私たちも信頼して大丈夫な方です。
歌 全ての名前にまさる唯一の名前がある。(フィンランド語)