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2025年9月14日(日)聖霊降臨後第14主日 礼拝 説教
聖書日課 出エジプト32章7-14節、第一テモテ1章12-17節、ルカ15章1-10節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課には、イエス様のたとえの教えが二つありました。最初のたとえでは、ある100匹の羊を所有する人が、1匹はぐれてしまったので、探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びで帰り、友達や近所の人を呼んで喜びを分かち合うという話です。肩に担いだとありますから、羊は怪我でもして衰弱していたのでしょう。見つかって本当に良かったと思わせる情景です。もう一つのたとえは、ある女性が銀貨10枚のうち1枚を無くして、探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びし、これも友達や近所の人を呼んで喜びを分かち合うという話です。二つの話は状況は異なりますが、主題は同じです。見失ったもの無くなったものを、一方は広い野原を果てしなく、他方は狭い家の中を隅々まで必死に探して見つけ、その喜びは自分一人には留めておけない、多くの人と分かち合いたい、それくらい大きな喜びであったということです。
それでは、この二つのたとえは何についてのたとえなのでしょうか?二つのたとえの終わりが同じ結論であることに注目します。一人でも罪びとが悔い改めたら、天の御国では大きな喜びが沸き起こると言われています。「罪びと」というのは、天地創造の神の意思に反する性向、すなわち罪を持つ者のことです。聖書の立場は、全ての人がそういうものを持っている、なので全ての人が「罪びと」であるという立場です。「悔い改める」と聞くと、過ちを深く反省して真人間になるんだと決意する感じがします。ギリシャ語のメタノエオーという動詞のことですが、そのもともとの意味は「考え直す」です。その土台にはヘブライ語のシューブという動詞があり、その意味は「戻る」とか「帰る」です。旧約聖書では、神のもとに立ち返ると言う時に使われます。なので、聖書の「悔い改める」の正確な意味は、それまで神に対して背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになるという意味です。「悔い改め」という言葉を目にしたら、この「神に向う方向転換」という意味を忘れないようにしましょう。
そうすると、一つおかしなことが出てきます。羊の所有者や女性が見失ったものを見つけ出して、それが嬉しくて周囲の人たちと一緒に喜びを分かち合いたいというのはわかります。また、罪びとが神に向かって方向転換の悔い改めをすると、天の御国で父なる神が天使たちと一緒に喜ぶというのもわかります。でも、この二つの喜びはかみ合っているでしょうか?というのは、失われた羊と銀貨と罪びとは結びつかないのではないかと思われるからです。罪びとが方向転換の悔い改めするのはわかるが、羊と銀貨は悔い改めなどしないのでは?それらは、ただ持ち主に捜されて見つけ出されただけで、自分からは何もしていない極めて受動的な立場です。悔い改めるという能動的なことが出来るのは人間です。それなのにイエス様は羊と銀貨も悔い改めをしたかのように教えるのです。そんなことは可能なのでしょうか?これは、方向転換の悔い改めを人間の能動的な行為とみることをやめて、神の側からの働きかけを中心にして考えるとわかってきます。今日はそのことを見ていきましょう。
ファリサイ派と律法学者という、当時のユダヤ教社会の宗教エリートがイエス様の行動を見てびっくり仰天します。あの、預言者の再来のように言われ、群衆から支持されている男が何をしているか見ろ、神の意思に反する生き方をする罪びとどもを受け入れて一緒に食事までしているではないか!当時は、一緒の食事というのは親密な関係にあることを示すものでした。エリートたちの批判を聞いたイエス様は、それに対する反論として失われた羊と銀貨のたとえを話したのです。反論はさらに続き、有名な「放蕩息子」のたとえも話します。本当はこの3つを一つの日課にすると良かったのですが、日本のルター派教会の今日の日課になっているのは2つだけなので、それに基づいて説教せざるを得ません。しかし、必要に応じて「放蕩息子」のたとえにも言及します。
イエス様が罪びとたちを受け入れたことについて、E.P.サンダースという著名な歴史聖書学者は次のように言っていました。ナザレのイエスは悔い改めも何もしない罪びとをそのまんま受け入れて一緒にパーティーまがいのことをしていた。それは、エルサレムの神殿を中心とする宗教システムへの挑戦であった。悔い改めも何もしない罪びとと一緒に食事をしたのは、新しい神殿が到来する新しい世での祝宴を先取りする行動であったと。
新しい世の祝宴を先取りしたというのは当たっていると思いますが、ただ、悔い改めも方向転換もしない、罪びとのままの者をそのまま受け入れたというのは本当でしょうか?イエス様が神の意思に反する罪を認めないということは福音書の各箇所で明らかです。一例として、ヨハネ8章でイエス様は姦淫の罪で石打ちの刑に晒された女性を助け出しました。その時、イエス様は何と言いましたか?これからは罪を犯してはならない、と言いました。罪は犯してはいけないのです。神の意思に反することはいけないのです。これが、神のひとり子であるイエス様の大前提です。イエス様が女性に対して行ったことは、犯した罪は不問にするから、ここで方向転換して生きなさいと新しい可能性を与えたのです。そう言うと、本当にその後は神の方を向いて生きるようになったとどうしてわかるのかと厳しい質問が出るかもしれません。確かにその女性がその後どういう生き方をしたかは聖書に記述がないのでわかりません。ルカ福音書7章に登場する、罪を赦された感謝からイエス様の足に香油を塗った女性との関連性を指摘する人もいますが、確かなことは言えません。ただ、問題の女性は、コンクリ―トの破片のような大きな石を大勢の人から力いっぱい投げつけられるという残酷な刑罰から九死に一生を得たのです。イエス様に対する感謝の気持ちが強ければ強い程、もう神の意思に反する生き方はやめようという気持ちで一杯になると思います。
イエス様が罪びとを受け入れると、罪びとに方向転換が見える形で起こった例もあります。ルカ19章のザアカイの場合です。イエス様が受け入れるや否や、彼は不正で蓄えた富を捨てる決心をしたのです。イエス様が罪びとを受け入れて一緒に食事をしたというのは、神の意思に反する生き方を認めたのではありません。それは、罪びとに方向転換をもたらす行動であり、一緒の食事は方向転換が生まれたことを喜び合うお祝いだったのです。宗教エリートたちにとって、イエス様に受け入れられた罪びとたち、彼に罪を赦された人たちの内に方向転換が起こったなど思いもよらないことでした。彼らにとって、神に受け入れられるとか罪を赦さるというのは、律法の掟を守ること、エルサレムの神殿で様々な生贄を捧げることによって可能でした。簡単に言うと、人間の側で何かをして、それで神に受け入れられ認められるという考えです。
ところが、イエス様の場合は逆で先に神の方が罪びとを受け入れて、受け入れられた罪びとの中に方向転換の悔い改めが生まれるという流れなのです。どうしてそんな違いが生まれたかと言うと、宗教エリートの場合は、律法の掟を外面的に守ればOK、殺人を犯さなければ十戒の第五の掟を守れている、不倫を犯さなければ第六の掟を守れている、ということでした。ところがイエス様は、掟は外面的な行為行動で守っても意味なし、心の中でも守れていなければならないと教えたのです。他人を心の中で罵ったら第五の掟を破ったことになる、女性をみだらな目で見たら心の中で第六の掟を破ったことになるというのです。全ての掟を心の有り様にまで適用したら、神の意思に沿える人など誰もいなくなります。宗教エリートも罪びとです。だから、聖書は真に全ての人間は罪びとであるという立場なのです。そして、心の中も含めて十戒の掟を完全に守れる人は誰もいないのです。
そのため、人間が神に背を向けた生き方を方向転換させて神を向いて生きられるようになるために、神やイエス様が先に私たちを受け入れなければならなかったのです。見失われた羊や銀貨はまさに神に背を向けて生きる罪びとを意味します。それらが必死に探されて見つけられることは、罪びとが神やイエス様に受け入れられたことを意味します。それで、見つけ出された羊や銀貨は悔い改めた罪びととイコールなのです。イエス様は一緒に食事をする者たちはこうなのだと言うのです。もし、神やイエス様の先回りの受け入れを考えないで人間の努力や達成で悔い改めを考えたら、このたとえは成り立ちません。
そう言うと、じゃ、次に来る放蕩息子のたとえはどうなんだ?放蕩息子は自分の行いを反省して父親の元に戻って受け入れられたではないか、羊や銀貨の場合と違って父親は捜しに行かなかった、息子が自分で帰って来たではないか、彼は方向転換の悔い改めをしたから父親に受け入れられたのではないか等々の批判が起きるかもしれません。しかし、放蕩息子のたとえも実は、父親に受け入れたから方向転換の悔い改めが起こったことを暗示しているのです。確かに父親は捜しに出かけませんでしたが、はっきり言います、息子は見失われていたのに見つかったのだ、と二回も繰り返して言います(15章24節、32節)。だから、お祝いをするのは当然なのだと。まさに、羊と銀貨のたとえと同じ主題です。もう少し詳しく見てみましょう。
放蕩息子は異国の地で飢え死にしそうになり故国の父親のもとに帰る決心をします。それは、父親のもとには食べ物が豊富にあるというのが動機になっています。しかし、帰っても父親は呆れかえって怒るだろう、お前など息子ではないと言われてしまうのがオチだろう。だから、ちゃんと自分の愚行は神に対する罪でしたと告白して、もう息子と呼ばれる資格はないです、雇い人でいいですからおいて下さい、そうお願いしよう。そんなふうに父親の前で言うべき言葉を考えて帰国の途につきます。ところが帰ってみると、父親は怒りもせず呆れ返りもせず、ただただ息子の帰郷を心から喜び彼を両手で抱きしめて受け入れたのです。息子は考えていた言葉を罪の告白まで言いますが、その後は遮られました。父親は、その後はもう言わなくてもいいと言わんばかりに召使いたちに祝宴の準備を命じたのです。その言葉とは、雇い人にしておいて下さいというお願いでした。それを言わないで済んだということは、父親は息子として受け入れることを示したのです。
息子が最初に帰国を決心したのは、もちろん自分の行いは愚かだったと後悔したことがあります。ただ、後悔するようになったのは、飢え死にしそうになって父親のもとなら食べ物に困らないとわかったからでした。それで父親に受け入れてもらえるために雇い人という条件を考えたのでした。そういうふうに最初の後悔と帰国の決心にはいろんな動機や打算が混じっていたのです。ところが、父親は無条件で受け入れたのです。その瞬間、最初の後悔と方向転換から余計な混ざり物が削ぎ落されて純粋な後悔と方向転換が生まれたのです。息子に「父親に無条件で受け入れられた息子」というアイデンティティーが確立したのです。神やイエス様の受け入れには同じ力が働くという教えです。
それなので、放蕩息子の帰郷を祝う祝宴は、まさに受け入れられたことで純粋な方向転換の悔い改めが起こったことをお祝いするものでした。このお祝いに対して異議を唱えたのが兄でした。つまり、彼は無条件の受け入れには純粋な方向転換など生み出す力はないという立場です。これはまさに、宗教エリートたちがイエス様の無条件の受け入れを意味なしと見なしたことに対応します。彼らは、イエス様と一緒に食事していた者たちの内面にそのような方向転換が生まれたことを信じられなかったのです。実に、このたとえを聞いたエリートたちは自分たちを映しだす鏡を示されたのでした。
イエス様に受け入れられた当時の罪びとたちは神を向いて生きるように方向転換の悔い改めが起こった人たちでした。それでは今の時代を生きる私たちはどうしたら自分の内にも同じような方向転換が生まれて新しいアイデンティティー、「神に無条件で受け入れられた神の子」のアイデンティティーが確立するでしょうか?当時のように受け入れをしてくれる肝心のイエス様は身近にいません。
実は、全ての人間はあと少しでイエス様に受け入れられるところに来ているのです。ただ、受け入れが完結していないので方向転換が起きていないのです。どういうことかと言うと、イエス様は神の意思に従いゴルゴタの丘で十字架にかけられて死なれました。これによって人間の罪が神に対して償われました。本当は人間が受けなければいけなかった神罰を、イエス様が全部引き受けて下さったのです。罪を償うために私たち人間は何もしていないのに、まるで先を越されたように償いが歴史の中で起こったのです。神とイエス様に先手を打たれたのです。
あとは私たち人間が、ゴルゴタの十字架の出来事は聖書に記されている通り起こった、そこでは私の神の意思に反する罪の償いが果たされたとわかって、それでイエス様は本当に救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人に効力を発します。実に信仰とは、神がイエス様を用いて編み出した罪の赦しという恵みを受け取って自分のものにすることです。あとは、受け取った恵みを手放さないようにしっかり携えて生きていくことができるように、聖書の神の御言葉に聞きイエス様が設定された聖餐式に与かります。信仰が人間の業でなく、神の業であるというのはこのためです。
このように罪の赦しの恵みを受け取って自分のものにして生きる者は、所有者に見出だされて担いで連れ帰ってもらう羊と同じです。また、女性に見出だされた銀貨と同じです。そして、石打の刑を免れた女性のように、また父親に抱きしめられた放蕩息子のように純粋な方向転換の悔い改めが起こった者です。それは、「神に無条件で受け入れられた神の子」のアイデンティティーを持って人生を歩む者です。このように悔い改めも人間の業ではなく、神の業なのです。
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、この世にはまだ神に先手を打たれて神が両手をひろげて待っていてくれていることに気づかないでいる人たちが大勢います。神がイエス様を用いて準備してくれた罪の赦しの恵みも、せっかく神がどうぞと言って提供してくれているのに、受け取らないでいると、恵みは人の外側によそよそしくあるだけです。多くの人たちには、信仰とか悔い改めというものは人間の方で何かしなければいけないものという思いがあると思います。しかし、キリスト信仰では、それらは人間の業ではなく神の業で、人間は神が成し遂げたものを畏れ多く受け取るだけなのです。受け取ることで神の意思に沿う生き方を志向する心が生まれ強まっていくのです。神に認めてもらうために何かをするんだ、ではなく、一足先に認めてもらったから、あとはそれに相応しい者に変えてもらおう、相応しくないものを取り除いてもらおうということなのです。なので、既に受け取った私たちは、まだ受け取っていない人たちがすぐそばにある恵みに気づいて受け取ることができるように働きかけることが求められています。神は一人でも多くの人を、所有者に見つけてもらった羊のように、女性に見つけてもらった銀貨のように、本来いるべき場所に連れ帰ってそこで天使と一緒に盛大にお祝いしたいからです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
ルカによる福音書14章1、7〜14節
「神の前で自分を低くするもの」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
1、「上席を選んで座る人を見て」
今日の箇所は、14章は1節を見てわかる通り、イエス様がパリサイ派のリーダーの家に招かれたとことから始まっています。7節以降が今日の箇所になりますが、イエス様は、その食事につく招かれた客達のある姿を見て例えを語るのです。7節からですが
「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。」
その食事には、イエスだけでなく、多くの他の人々が招かれていました。その招かれた人々は「上席を選んで」座ったのでした。そこにはそのようにユダヤ人社会で、ある程度、地位が高い人々が招かれていたのでしょう。そのような食事の席でした。ユダヤ人社会は非常に厳格な階級社会ですから、そのような食事の席についての決まり事には厳しいものがありました。偉い人、階級の高い人が上席に座るのです。しかしここで招かれていた人々は、その上席を「自ら
「選んで」座っているとありますから、彼らは周りの人からだけでなく、自分自身でもそうだと認めていて、自分は当然、その上座に座るものだと思って座っていることを、このことは意味しています。そのような情景を見て、イエス様はある例えを話すのです。それは婚礼の披露宴に招かれた話です。
2、「婚礼の披露宴のたとえ」
「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。」8-10節
イエス様は婚礼の披露宴に招かれた場合を想定し述べます。その時にもしそのように最初から上席に座ってしまったら、後で、自分より身分の高い人が来た場合には、その席を動いて譲るように言われ、動かなければいけない。その時は、恥をかいてしまうというのです。これはこのパリサイ派の食事の席で上席を選んで、自分たちは当然そこに座ると思っている人に対して話しているので、そのような例えにあるような場面が起こった場合には、まさにその高いプライドが損なわれるのです。イエス様は、そのような上席を選んで座る人のプライドの高さと、そのプライドは壊れやすく脆く恥をかきやすいものであることも暗に示唆しているのです。ですから、最初から上席に座ってはいけないというのです。むしろ10節ですが、招かれた席では、末席に座りなさいと言います。そうすれば、今度は逆のことが起こるというわけです。招いたホストは、「もっと上席にどうぞと言うでしょう」と。そして面子をつぶすことはないのだと。
この例えには、イエス様独特の皮肉が込められています。ここにある「恥」とか「面目」とかという言葉は、まず、そのような上席を好んで座る人々の心を大部分、占めているものがプライドであることをイエス様は分かっていることを意味しています。それが上席を好んで、選んで座ることに現れているのですが、それは、絶えず恥や面目を気にし、プライドを大事にし生きて行動している彼らの姿であることをイエス様は例えているのです。
3、「単なる道徳の教え?」
けれども、イエス様がこの例えを話すのは、ただ「末席に座りなさい」「謙遜でありなさい」「プライドにこだわるな」等々、ただの教訓、ただのあるべき態度や行動、あるいは望ましい道徳や倫理を伝えたいのでしょうか?あるいはただ、彼らを皮肉って批判することがその言葉にある本当の目的なのでしょうか?そうではないでしょう。実はここには、それ以上のことが伝えられていることを、教えられるのです。この例えの最後に、イエス様は、実に意味深い言葉で結んでいます。
A, 「高い、低い」
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」11節
この言葉だけだと確かに人生の教訓めいたもののにも聞こえます。しかし果たしてそうなのでしょうか?ここには「低くされる。高められる」、「高い、低い」とあります。しかしそれは単に人間社会の上下関係のことを言っているのでしょうか?イエス様の神の国にあって、階級があるのかどうか、身分によって上座や末席などがあるかどうか、それはわかりません。そのようなことは一切、書かれてはいません。有名な記録として、弟子のヨハネとヤコブの兄弟は、お母さんに頼んで、神の国が来たら、自分たちをイエス様の右と左において欲しいとお願いした場面があります。しかし、その時も、イエス様は彼らに、それは父なる神がお決めになる、つまり全ては神の御手にあることだと、イエス様は答えただけでした。それは人の側では、全く心配する必要がないという意味でした。
では、このところでイエス様は何を伝えたいのでしょうか?イエス様はここでどのような神の国を示唆しているのでしょうか?まずイエス様は、この11節の言葉で、そのような世の人々や、特にパリサイ人や上席を好んで座る人々が気にすこととは、むしろ「逆」のところにこそ神の国はあることを伝えようとしていると思われます。それは、神の国にあっては、階級とか身分とかではない、上座かどうかでもない。そして、プライドや恥や面目、面子によって一喜一憂するようなものでも、もちろんない。そのようなことはあろうがなかろうが、神の国にあって重要なことではない、他に最も大事なことがある、として、イエス様は神の国の真理をこう言うのです。
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
みなさん、どうでしょう。この「高くするとき、低くされ、低くするとき、高くされる。」ということです。確かに、巷でも、高ぶって自分で上座に座るとき、低くされることがあるわけです。しかしこれが神の国のことであるときどうでしょうか?しかも何より「イエス様が真っ直ぐとエルサレムに目を向けて進んでいる」時です。そのことを踏まえるならば、このイエス様の言葉は、実はただ「人と人との間の階級や位」「人と比べての高いか低いか」あるいは、ただの道徳や「あるべき論」以上のことをイエス様はここで示唆しているでしょう。
B, 「神の前」
どういうことでしょうか?まずイエス様はこの言葉で、神の国は、そのようなこと「人の前」以上に、「神の前」つまり「神と私たち一人一人との関係」を何より指し示しているのです。先ほども触れました。このところで「上座を選んで座る人」のその席は、自他共に認めて当然のように座る席だった、のかもしれません。そのようにいつも上座に座っていて、日常的に決まっていた席だったからこそ考えもせずにそこに座ったのでしょう。おそらく、それまで例にあるような、自分より地位の高い人がやってきたので席を譲ってあげてくださいというようなこともあまりなかったからこそ、そこを当然のように選んで座ったとも言えます。しかし、実は、そのように彼らの日常ではあまりあり得ないこと、つまり、自分では気づかないことを、イエス様があえて「もし〜」と言うのは、その彼らのプライド、高ぶりが、「人の前」以上に「神の前で」はどうであるのかということこそ、彼らはこの例えで問われているということなのです。
皆さん、イエス様はここであえて「婚礼」と言っています。「婚礼」はイエス様の場合、約束の救い主の到来と神の国の実現を示しています。ですから、この例えは実は、最高の上座は花婿であるご自身を示唆していると言えるでしょう。そう、これは単なる食事の例えではない、それを超えた、救いの到来の例えとして、まずイエス様は語っているのです。しかし彼らはこの救い主がこられた救いの時でありながら、そもそもイエスを救い主であるとは信ぜず常に監視の目で見ています。そしてイエスを招いておきながら、まさに神の御子が、救い主が、花婿が来られたのに、そもそもそうだと信じていないのですから、神も見えていなければ、人の間の、人の前の自分のことしか見えていないのです。だからいつものように上座に座りました。まさに真の上席に座るお方が来ているのにです。彼らは救い主としてのイエスが全く見えていないのです。もちろん、イエス様自身は自分が上座に座りたい、上座を譲れと言いたいのではありません。しかし、彼らの神の前も神の約束や言葉も忘れ、どこまでも「人の前」と自分しか気にしていない、人と比べての、自分の地位を誇る高ぶりやプライド、自分を高くしようというその在り方によって、目の前の救い主は愚か、神の前にある自分自身の現実さえ気づかないで、自らを盲目にしてしまっている現実が浮かび上がってきます。結果として、「人の前」では自分を高くしようとしていながら、まさに神の前で小さなものとなっているという哀れな事実が、明らかになってくるのです。しかし、それは、決してただパリサイ派だけを示しているのではありません。実はこれは「人の前」ばかりに囚われる時に、「神の前」の自分を見失う、誰でも陥る現実を、イエス様は私たちにも示しているのです。
しかし、繰り返しますが、すでにエルサレムへと真っ直ぐと目を向けて進み、語っているイエス様です。そのイエス様は、この言葉で、単なる「こうあるべき」という道徳や律法のメッセージだけを伝えようとしているのではないのです。
4、「誰でも高ぶる者は低くされる」
A, 「神の前の現実:罪人」
みなさん、実に、このようにイエス様のみことばから「人の前」と「神の前」を示される時、今日も変わらず、何より、聖書が伝え私たちに気づかせようとしている大事な事実にやはりイエスは立ち返らせ導いていると言えるでしょう。そのまず一つは、「神の前」では、パリサイ人も、世界の王や偉人や聖人も、私たち、そして私自身も、皆等しく、一人一人、どこまでも罪人であるという現実です。そして何より神の前に高ぶる罪人であるという事実です。神の前に「義人はいない一人もいない。」とある通りの現実です。私たちの神の前の現実は、救われても、それでも尚も、どこまでもその神の前を忘れてしまい、神の前に高ぶってしまうものではないでしょうか。そしてただ「人の前」ばかりを気にして、人と比べて、いつでも自分を王座に座らせたい、あるいは王座に置いて考えてしまう自己中心な存在であることを私自身気付かされます。その自己中心さが、私たちの罪深い歩みの糧となっています。だからと律法として「低くなれ」と言われても、自分自身の力で、本当に、完全に、誰よりも、低くなるなんてことも、私たちは誰もできない現実もあるでしょう。むしろ自分は神の前でも人の前でも、低くなれる、低くできている、自分へ謙虚で謙遜であると思っているなら、実はそこに既に高ぶりと愚かさがあるでしょう。神の前の高ぶりは、何より私自身にもあることであり、ここで示される上席を好む人々の姿は私自身であることを教えられるのです。
しかしそのように、今まさにそうであるように、聖書から、神の言葉を通して、自分の神の前の高ぶりを気付かされる、その時にこそ、私たちは初めて、神の前の罪の現実を気づかされ、神の前に膝まずかされるのではないでしょうか。そのような神の前の現実を示され、罪を刺し通され、神の前に立つことができない自分であることを知らされ、ただ「憐れんでください
と言うことしかできなくなるのではないでしょうか。そうなのです。その時、まさにこの言葉がそこ実現しているでしょう。「高ぶる時こそ、低くされる」。
B,「低くされる」
繰り返しますが、これは単なる道徳のメッセージではありません。単なる道徳であれば、説教壇から「自分を低くしなさい。高ぶってはダメですよ、自分で低くすれば、神に受けいられますよ。祝福されますよ」で説教は終わり、律法による派遣で終わりです。つまりそのような自分で果たさなければいけない律法の重荷を背負わされ遣わされて礼拝は終わりです。しかし真のキリスト教会の説教はそうではありません。確かにそこには私たちの高ぶり、罪を示す律法ははっきりとあります。しかし「低くされる」とあるように、それは「自ら低くなる」という意味ではありません。神が、私たちにまず最初に聖書の律法の言葉を持って、神が、教え、神が高ぶりの現実を示し、罪を示すという意味に他なりません。つまり、そのようにこの言葉は、「私たちが低くならなければいけない」と言う道徳や律法ではなく、「神が」まず律法の言葉で、いつでも高ぶる私たちを「低くする」ということを教えているのです。
C,「真に低くなられたお方」
しかし、イエス様のメッセージは決して律法で終わりではありません。律法が最後の言葉、派遣の言葉でもありません。まさにここでも「へりくだる者は高められる。」と続くでしょう。そのように、神によって低くされ、「神の前」の圧倒的な罪人の現実を私たちが示され知らされ、謙らされるからこそ、そこに、それで終わりではない、もう一つの素晴らしい神の前の事実に私たちは導かれるでしょう。それがイエス様の何よりの目的でありメッセージの核心です。それは、まさにその罪人のため、私たち一人一人のために、まさにそんな私たちを、この十字架によって、その罪から救い出すため、私たちの代わりに死んで、罪の赦しを与えるためにこそ、イエス様は来られた。私たちのために十字架にかかって死んでよみがえられた。その十字架のイエス様の義のゆえに私たちは今日もその罪を赦される。その福音の事実、現実です。
実に、その福音に、イエス様の真の目的とメッセージは常にはっきりしています。先ほど紹介した、マルコの福音書の10章では、子供のようになるのでなければと、低くされることを教えていますが、そこで、イエス様は、ご自身こそ仕える者となるために来たと言って、それは十字架によってであると示しているのです。そう、まさに「低くされる」、あるいは、最も小さい者となりなさい、と言う言葉は、単なる道徳のメッセージではない、さらには、私たちを低くするだけでもない、何よりその言葉の実現者が、イエス様ご自身であることこそイエス様が伝えているということが示されています。つまり「低くなる」「仕える」は、「私たちが」ではない、何より、イエス様が、私たちのためのこの十字架において全て成就しているということが何よりも気付かされるのです。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」マルコ10章45節
5、「低くされ、高くされる」
イエス様こそがまさにこの十字架において、私たちのためにどこまでも低くなられて死にまで従われました。けれども神は、その死にまで従われ、究極まで低くなれたイエス様を、復活させ、そこに神の栄光があらわされました。そこにこそ神の国、真の勝利と救いがあることをイエス様は証しているのです。実にその十字架と復活の福音の力こそ、イエス様が私たちに与えてくださった最高の天の宝ではありませんか。そして、その福音こそが、高ぶっていた私たちが低くされたときに「へりくだる者は高められる。」と言うそのことを信じる私たちに実現する力なのだと気付かされるでしょう。十字架の横に一緒に処刑された重罪人が、自分は罪深いと認めさせられ、神の前にへりくだらされ、ただ憐れんでほしいと願った時、そこに罪の赦しがイエス様から与えられて、天国の約束があったでしょう。低くされたもの、謙らされたものを神はいつでも高めてくださいました。それは私たちにおいても同じ約束なのです。私たちは皆神の前にあります。しかし神の前に高ぶってしまう罪深い存在です。そのことを日々教えられ、刺し通され、苦しむものです。それは痛みの伴なうことなのですが、しかし、それは神が私たち一人一人を低くするために働いているのです。それはクリスチャンであれば、誰でも経験することであり、日々経験することです。聖霊が与えられている私たちはますますそのことに敏感になります。ですから悔い改めは日々当然あるのです。ないわけがない。しかし、それは聖霊とみ言葉が私たちに日々生きて働いている証拠なのです。なぜなら、そのように低くされ、謙るようにされるからこそ、イエス様によって罪赦され救われる。罪を刺し通されるからこそ、十字架が私たちの罪の赦しであり、それは闇ではなく輝きでありいのちであるとわかる。そのように、その十字架のゆえに、日々罪赦されるからこそ、日々、イエス様が与えると言われた平安が私たちを支配するのです。そのように、私たちを、最終的には、何より高めるためにこそ、イエス様は私たちを日々、まず最初に低くされるのです。キリスト者の生活は、日々、その連続であり、そのことを通して、イエス様は私たちの信仰を日々、新しく、強めることによって、高くしてくださるです。
そのイエス様はその約束の通り、今日も悔い改めイエス様の前にある私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。ぜひ、罪の赦しを受け、安心して今週も遣わされて行きましょう。
スオミ教会礼拝説教
ルカによる福音書13章10〜17節
「アブラハムの子と呼んでくださる主」
1、「会堂にいた彼女」
今日の箇所の直前では、イエス様は、いちじくの木の例えから「実を結ぶ」ということを教えました。それに続く、今日の癒しの出来事もまた、神の御子イエスが信仰者に結んでくださる一つの実を表すものとしてルカは記録しています。
まず10節、イエス様はユダヤ人の会堂にいます。イエス様は毎週、安息日にはこの会堂に来て、巻き物である旧約のモーセの書や預言書を開いて、神のみ言葉を解き明かしていました。この安息日にも同じように教えておられたのでした。しかしその礼拝の席には、11節です。
「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。 」11節
とあります。彼女は腰を伸ばすことができない病気にありました。しかしそれは18年間病の霊につかれていたとあります。病の霊というのは、私たちにとっては理解し難いことが書かれてあるのですが、しかし、その病気は聖書が言う通り霊によるものだったのでした。しかもその病気にかかっていた時間はあまりにも長いものでした。18年もの間、その霊による苦しみ、痛みが彼女を襲っていたのでした。
しかしそんな彼女は、この安息日に会堂の礼拝の席にいたのでした。そしてイエスが語る神の国のみことばを聞いていたのでした。つまり、彼女は、神にみことばを求めていました。つまり一人の信仰者であったのでした。ここでは、イエス様はそのことをきちんとわかっていることも書かれています。16節ですが、
2、「この女はアブラハムの娘なのです」16節
「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。」
と言っています。「アブラハムの娘」つまり「アブラハムの子孫」であることを意味するとき、新約聖書のイエス様の場合、それはただ、血のつながりの子孫のことを意味しているのではありません。イエス様がアブラハムの娘、子孫というときは、パウロの書簡からもわかる通り、アブラハムから連なる「信仰による義」を受け継ぐ者を指しています。創世記15章6節ではアブラハムについて「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。つまり、アブラハムの時からすでに、神の前の義は主と主の言葉を信じ信頼しより頼む信仰にあったのであり、主は、アブラハムにある何らかの行いや性質にではなく、その賜物としての信仰こそを見て、神の前に義と認めてくださったのでした。それは昔も今も変わりません。パウロがローマ4章3節、ガラテヤ3章6節でこの創世記の記録を指して言っている通りです。ガラテヤの方ではパウロははっきりとこう言っています。ガラテヤ3章7節
「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」
と。このように、この病の霊に苦しむ彼女は、紛れもなく信仰の人であり、神の言葉を求めてこのところに座っていることを、イエス様はしっかりと見て知って受け止めておられることがわかるのです。「この女はアブラハムの娘である」と。
3、「病の霊、サタンが縛っている彼女」
しかし彼女の肉体は病気でした。しかも病の霊に憑かれていました。16節ではそれは「サタンに縛られていた」とも書いています。
ここで皆さんは、不思議に思わないでしょうか。それは、この人は信仰者なのに、サタンやそんな霊に憑かれているのかと。当時のユダヤ教の考えでは、「そのような病気の人、あるいはサタンに縛られているのは、何か罪を犯したから、律法に背いているからそうなんだ、それは神の怒りと裁きの結果なんだ」、そのように決めつけられ、偏見と差別が起こるのが普通でした。それは現代でもよく聞くことでもあります。キリスト教会の中でもある教会などは、「そのような霊や病気は、信仰が足りないからだ。だからサタンに負けているんだ。だから自分で、自分の意思で、力を振り絞って、全てを捧げて、信仰をもっと強くしなさい。自分で信仰を奮い立たせて勝利しなさい。そうでなければクリスチャンではありません」と教会や牧師から教えられたりすること、そのような教えを聞くこと、そしてそのような教えに苦しんでいるクリスチャンの相談を聞くことは実は少なくありません。そのように昔も今も、いつの時代でも、災いや苦しみ、試練、うまく行かなこと、成功しないこと、失敗などなどは、神に祝福されていない証拠として、「何かが足りないから、信仰が不完全だから、信仰が足りないから、こうなんだ。祝福されていないのだと。災いがあるのだ。」そういう間違った考えは、教会やクリスチャンへの大きな誘惑であり続けているのです。
しかし、この彼女、この状態は、そうなのでしょうか?みなさん、イエス様はこの彼女をそう見ていません。その病を彼女の何かが足りないからだとは見ません。むしろそのような試練と悲しみにある彼女の、そのような中でも必死に神とその言葉にすがり求めるその信仰のみをイエス様は見て、この非常に幸いな称賛の言葉を言うでしょう。
「この女はアブラハムの娘なのです。」と。
4、「神の御子による天の御国の最高の賛辞」
みなさん、この言葉は、神の御子による天の御国から人類への最高の賛辞であり賞賛の言葉なのです。もちろん私たち人間の目から見るなら、彼女も不完全で足りないところのある信仰でもあり生き方でもあるでしょう。しかし彼女は、周りの様々な冷たい目線や差別にも関わらず、安息日にこの会堂に、神の言葉にすがり求めて、神の言葉を受けるために、礼拝にやってきました。まさにそれだけ、そのままの信仰のみを、イエス様は見て、何も足りないとは決して言いません。むしろ逆に、最高の賞賛を持って、イエス様は、彼女の信仰を言うでしょう。「この女はアブラハムの娘なのです」と。そして、彼女がどうだから、何をしたらから、何が足りないから、こうなった、とは決して言わず、その原因は、ただ「サタンに縛られていたのです。」と、サタンの一方的な働きの中でそうなり、むしろ彼女はその病い苦しみと戦ってきたことを、イエス様はただ哀れんでくださっているのがわかります。みなさん、この方こそ、私たちの救い主であるイエス様なのです。そして、このことから、イエス様が私たちをいつもどう見てくださっているのかが教えられるのです。そう、そのように、私たちのキリスト者として信じる日々、信仰の歩みというのは決して、私たちが何かをしなければいけないということで駆り立て縛るような律法の歩みではない。信仰は、どこまでも、イエス様の憐れみ、イエスからの賜物、イエス様の恵みであり、どこまでも福音によるのだと、わかるのです。
5、「祝福のはかりは律法ではない」
つまり「災いがあり、病気があり、うまくいかないのは、それは自分の罪のせい、信仰が足りないせい、行いが足りないせいなのだ、だから祝福されないのだ」では決してないということです。そのような「祝福や救いを秤る見方」は、まさに福音書に見られる通り、ユダヤ人の律法による生き方、考え方その物です。しかし、現実はどうでしょう?キリスト者の信仰の歩みでも、当然、日々、サタンとの戦い、罪との戦いがあります。イエス様も、使徒達弟子達に、あなた方は患難があります、あるいは、あなた方を狼の群れの中に送り出すようなものだ、と言いました。その中で、私たちは自分自身の力では、負けるとき、勝てないとき、どうすることもできない時が必ずあります。まさに彼女のようにです。しかもそれらの試練や重荷がすぐに解決がされず、18年、いやそれ以上、その苦しみをかかえなければいけない時もあるでしょう。災いや試練の連続、うまくいかないことばかり、失敗ばかり、それらはクリスチャン誰でも経験する現実です。そして、それが神の国や信仰に関することであれば、なおさらです。私たちが自分の力で、信じたり、敬虔になるとか、自分の力や意思で誘惑に勝利をしたり、神の国のことを何か勝ち取ったり達成することなどは実は全く不可能で無力なのです。信仰生活はそのようなものです。弱さと無力さがある。当然なのです。私たちは皆、堕落してから、肉にあってはなおも罪の世を生きているし、自分自身がなおも罪人であるのですから当然なのです。それは私たちは救われて義と認められても尚も、ルターが言うように私たちは「義人・聖徒にして同時になおも罪人」なのです。聖書にある通り、私たちには古い人と新しい人の両方があるのですから。
しかし、それは信仰がないからそうなっているのではありません。信仰が足りないからそのようなことが起こっているのでもありません。信仰の道はそのようなことが当然ある日々であり連続なのです。ですから、「問題がないから、罪がないから、いい信仰、いい教会、いいクリスチャン」ということでもないのです。むしろ自分は、あるいはあの人は、問題もなく失敗もせず完全だからいい信仰、いいクリスチャンだ、いい教会だということが良い教会、敬虔な教会の基準だと言うなら、ヨハネの手紙第一の1章8〜10節に照らして言うと、私たちは神を偽っており、私たちにはみことばがないことになります。信仰とはそのようなものではありません。むしろその逆で、そのような足りなさ、不完全さ、罪深さ、その他、多くの苦しみや戦いがある中、サタンの誘惑や攻撃がある中で、日々、戦って生きる歩みであり、それでも日々、無力さ、罪深さを感じるのが誰もが通る信仰の現実であるのです。
6、「福音の実」
しかし、そのような現実の中で、それでも主を信じて、神の言葉こそを求めて、赦してくださる主の罪の赦しと憐れみを求めて、どこまでも主なる神とその言葉にすがる歩みの幸いこそ、まさに今日のところに証されているでしょう。神の御子イエス様が、このような名もなき、しかもサタンに苦しめられている彼女、それでも礼拝に来て、神の言葉にすがる彼女の、その不完全さ、罪深さ、しかしそこに同時にある信仰を見て、「この女はアブラハムの娘なのです」と言ってくださる。そのように救い主イエス様が、認めてくださり、受け入れてくださる。そして、彼女自身が何かをしたではなく、イエス様が憐れんでくださり、イエス様がまさにその言葉と力で働いて、人の想いをはるかに超えた癒しと救いを与えてくださり、その口に賛美と証しを与えてくださっているでしょう。それが私たちに与えられている信仰であり、神の生きた働きであり、新しいいのち、真の信仰生活であり、それは律法ではなくどこまでも恵み、福音であるのです。そして、そのように全くの恵みによって、イエス様の方からまず彼女に、その信仰を賞賛するという一つの実を与え、さらには、癒しという実を与え、イエス様が彼女にそのように実を実らせることによって、イエスが彼女になさった「彼女のそのまま」が、今も、時代を超えて、福音書を通して証しされ、多くの人の福音の実のために、彼女のそのままが用いられていることがわかるのではないでしょうか。
皆さん、その証しは派手でも劇的でもありません。しかし、まさにこれがイエス様が、福音が、私たちに実を結ぶということです。実を結ぶとは、律法的に私たちの力と行いで華やかな結果を、私達が神のために一生懸命、実現すると言うことが実を結ぶということではありません。彼女は本当に不完全さと苦しみの中、神とその言葉にすがっている、ただそれだけです。しかしその信仰が「そのまま」用いられて実は結んでいくのです。これが聖書が私たちに伝える。福音による実に他なりません。
7、「律法を基準とする会堂管理者」
けれども、これと対照的な反応が、この後、描かれています。なんと会堂を管理する、会堂長はイエスに憤ります。しかもイエスに直接言わないで、群衆を巻き込んで扇動して、群衆みんながそう言っているとでも言わせたいかのように言うのです。14節
「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」」
この会堂長も、福音書に見られるパリサイ人、律法の専門家たちの反応と同じです。律法、あるいは、律法に従う人の行いしか見えていません。彼らにとってはそれが基準です。いかに従っているか、どれだけ忠実に行っているか。その自ら、あるいは他人の行いが、全ての秤の標準であり、拠り所になっているでしょう。イエス様と見ているところが全く逆であり正反対なのがわかります。自分たちが、あるいは人が、どれだけ行うかに祝福と救いと義はかかっているのです。自分たちは行っている。行っていない人はダメなんだ。そのような論理で一貫しています。
8、「イエスの目は福音の目」
しかし、イエス様の目と思いは全く彼らと逆なのです。それは、全ては天の神からくる。天から恵みが与えられるためにこそ、ご自身はそれを与えるものとして世に来られた。父子聖霊なる神の私たちへの思いは、その天の恵みを与えること、そして、人々はそのイエスご自身からそのまま受けること、そして受けることによって主の働きは全て始まり実を結ぶ、それがすべてである。そのような一貫した福音の目線であり思いなのです。ですから、イエス様は言います。15-16節
「しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」」
安息日の本当の意味について述べるイエス様の言葉を思い出します。マルコの福音書では
「そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。」」マルコ2:27〜28
と。ヨハネの福音書でも、イエス様は
「イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」 」ヨハネ5:17
と言いました。会堂長も、パリサイ人たちも、「律法に自ら生きること、何をするか、してきたか、何をしていないか、してはいけないことをしているか、していないか。」が義や祝福の基準です。しかしイエス様は、その逆で、神が何をしてくださるのか。まさにどこまでも福音が基準なのです。神が与えてくださる。み言葉のうちに神は働いてくださる。その時が神の国であり、安息日の恵みであり、みことばの恵み、福音のすべてであると、イエス様はどこまでも一貫しているのです。
9、「福音にこそ招かれ、福音にこそ生きるために」
私たちは、今日もこのみことばから、イエス様によってどちらに招かれているかは、すでに明らかです。もちろん、日々律法によって罪示されて悔い改めつつここに集められていることでしょう。しかしクリスチャン生活は律法で終わりではないのです。律法が最後の言葉ではありません。そのように罪を示され悔い改める私たちは、どこまでもその罪を赦され、福音を受けるために招かれているのです。罪に打ち拉がれ、刺し通され、悔い改める私たちに対しても、イエス様は今日も、「アブラハムの子よ、子孫よ」と、言ってくださり、罪を赦し、そのように私たちを見て喜んくださっているのです。それは私たちが何かをしたからではない。苦しみと試練の中、サタンとの戦いの中で弱さを覚える現実の中で、彼女のようにそれでも神のみにすがってここに集まってきたその、そのままの信仰こそを主イエス様は何よりも喜んで、賛美して、「アブラハムの子よ、子孫よ。よく来たね。今日もあなたに与えよう。救いを。罪の赦しを。新しいいのちを。平安を。」と、そう言ってくださっているのです。
事実、会堂長の目線や律法の言葉と、イエス様の福音と、どちらが本当に平安と光と喜びを与えるのか、どちらが本当の福音の実を結んでいくのか。皆さんにはもうお分かりだと思います。律法は人の前や理性では合理的で即効性があり理解しやすい手段にはなるかもしれませんが、律法は、人を、ただ恐れさせ強制で従わせ行わせることしかできません。何よりそこにはイエスが与えると言われた特別な平安はありません。しかし、まさに今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と福音を宣言してくださっているイエス様から、福音こそを受け、福音によってこそ新しくされ、福音によって安心し遣わされていくときにこそ、どんな困難があってもそこに平安が私たちにあるでしょう。私たちは福音によってこそ、平安と喜びをもって、真に神を愛し、隣人を愛していくことができるのです。それは律法は決して与えることはできないものです。福音が与えるのです。その福音による歩みこそ、私たちに与えられたキリストによる新しい生き方なのです。
今日もイエス様は宣言しています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。そのイエス様の恵みを受けて、イエス様が日々、「アブラハムの子よ、アブラハムの娘よ」と認めてくださっていることを賛美して、そしてそこにイエス様の福音が確かに働いてくださることを信じて、ぜひ今週も歩んでいこうではありませんか。
ルカによる福音書12章35〜40節
説教題:「賜物である信仰に生かされる歩み」
1、「はじめに」
このルカ12章は、1節にあるように、沢山の群集がイエスのもとに集まってくる中で弟子たちへの「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」と言う厳しい言葉と教えから始まっています。ファリサイ派は、人に見えるように祈ったり断食したりなど、目に見える行いで人に評価される敬虔さや立派さで、神の前に義を立てようとしていました。それは、ただ律法だけではなく、むしろ律法が教えていることさえも超えた人間の作った社会の慣習を立派に行うことによって、より神に近いとされると教えるような、どこまでも目にみえる行いを誇るようなものでした。それは確かに社会では、周りの人々から高く評価され彼らは敬虔な人々とされていたのです。しかし、イエス様は、それに対して注意するようにいい、偽善とまで言うのです。しかしその意味するところは、2節でイエス様が「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。」と続けているように、そのような目に見える「人の前」だけを意識し、ただ人に見せ、人と比較し、人に賞賛されるような生き方ではなく、むしろ「神の前」に罪人である自分を認め告白しながら、全てを行なってくださる神に謙りどこまでも信頼する生き方、信仰の生き方にこそ真の敬虔があることを示すことにありました。それがこの12章では貫かれています。だからこそ、イエス様は絶えず弟子たちを慰め、信仰を励ますように語りかけています。7節では「恐れてはならない。誰を恐れるべきか教えよう
と言います。なぜなら一羽の雀さえ神はお忘れにならないからだと。だから恐れるなと教えます。11節でも「心配してはならない
。なぜなら全て語るべきことは準備されているからと言います。22節では「思い悩むな」。なぜなら神は鳥さえも養ってくださる。あなたがたは鶏よりも価値があるからだと。そして28節ではこうあります。
「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。
と。そして言います。「神の国を求めなさい」と。このように、イエス様は「神の前」にあっては、人のどんな優れた行いや知恵に義を求めたりより頼んだりしても、そこには決して義などない。むしろあなた方にはどんな罪深く不完全でもキリストにあるならそんなあなた方にこそ神の恵みと憐れみはいつでも深く満ち満ちている。だから、どこまでも神の国を求めなさい、つまり、神を信じ、信頼しなさい。と励まし続けているのがこの12章なのです。
2、「帰ってくる:腰に帯を絞め、灯火を」
同じように今日のこの箇所も、32節でも「小さな群れよ。恐れるな」で始まります。なぜなら、その小さいものに神は喜んでその国を与えてくださるからと。そしてその後に施しの勧めがありますが、それは、神が与えてくださるのだから心配する必要がないという神への信頼があってこその教えであり、単なる律法の教えではなく、福音から生まれる信仰の実としてイエス様は施しを勧めているでしょう。そして、35節からこうあります。
「「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」
「腰に帯を締める」。これはすぐに行動できるということを意味しています。そのように備えているように、準備しているように。イエス様は教えるのです。ここでイエス様は、弟子たちは、主人のもと、つまりイエス様のもとにある僕という位置付けです。当時の婚礼というのは一日ではなく、数日行われます。そして終わる時間が定められてはいません。婚礼の祝宴はいつまで続くのか、どれぐらいで終わるのかということはわからないのです。ですから、僕はいつに主人が帰ってくるかわからないのです。婚礼に出かけた主人は、突然、家に帰ってくるということです。
そのためにイエス様は、いつでも目を覚まし主人が帰ってくるのを見られるよう備えているようにと教えます。ここでイエス様は、まず帰ってくることを「ご自分の時」のことを指しているでしょう。ヨハネの福音書などを見るとやがて来る「わたしの時」「ご自分の時」という言葉で、イエスはやがてご自身が受ける十字架と復活の時を絶えず指し示しています。イエス様ご自身は十字架の時が迫っていることを知っていました。そして見てきましたように、ルカによる福音書ではこの時はもうすでに、エルサレムにまっすぐと目を向けて進んでいた時です。イエス様ご自身もそのご自分の時である十字架と復活のことを神の国の到来の教えとして伝えてきました。しかし、弟子たちはその意味も時も知りません。いやすでにイエスが前もって伝えてもいましたが、それでも彼らは理解できませんでしたし、わからなかったのです。そのようにわからないからこそ目を覚まし準備しなさいなのです。まさにそのことをイエス様は示唆しているでしょう。
では、ここからの弟子たち、そして私たちへのメッセージは何でしょうか。まず第一にイエス様は、「帰ってくる
ことを示唆しています。
イエス様はやがて逮捕され、裁判を受け有罪とされます。罵られ、鞭うたれ、唾をかけられ、処刑である重い十字架を背負わされるでしょう。そしてついにはゴルゴダの丘で、手と足に釘を打たれ晒されます。そして息をひきとります。その身体はローマ兵によって死を確認され、そして墓に葬られるのです。
それは弟子たちにとっては大きな悲しみだけでなく、苦しみであり絶望となります。それが起こる前、弟子達は誰もそんなことが起こるはずがないと思っていました。さらには彼らはみんな言いました。もし他の誰かが裏切るとしても「自分は決して裏切らない」と誓い断言しました。けれども彼らのその決心はその通りになりませんでした。イエスが伝えたとおり、イスカリオテのユダが僅かの銀貨との引き換えでイエスを売り裏切ります。そればかりか、自分たちの建てた「他は裏切っても自分は裏切らない」と言う決心を果たせませんでした。それどころかみなイエスが逮捕された時、逃げていくのです。そしてそれでも隠れて見にいったペテロは、「イエスの仲間では?」と問われ、イエスのことを三度知らないと誓って呪いを込めて言ってしまうのです。ペテロはその時、外に出て泣いたとありました。さらには十字架の出来事は、まさに目を覆うばかりの残酷さと悲しみとなります。そしてその後の弟子たちは、恐れと悲しみと絶望で、部屋の戸を閉ざしてしまうのです。イエスご自身は復活すると約束しているのに、です。しかしイエス様は、まさにその真ん中に「帰ってくる」でしょう。
そしてもちろんこの例えにはもう一つの意味があるでしょう。それは、人の子が思いがけない時に来るのは、復活の後、天に昇られるその時に約束される通りに、キリストが再び来られることをも当然意味していることでしょう。その時に備えていなければ、41節以下で記されているような受ける報いがあることや、やがて起こることなどに直面することになります。しかし、イエス様がここで伝えたいことは、そんなイエスが再び帰って来ることを、いつとかどんな時とか、私たちがわからないことを人間が不完全な知恵で特定することでないのです。そうではなく、そのやがて来ることの意味がどちらであっても、イエス様にあっては「備えるべき」その「備え」こそしっかりとあなた方は持っていなさいと言うことが、変わることのないイエス様から私たちへの大事なメッセージなのです。それは何か?それは一貫しています。それはファリサイ派のように行いによる義や人に見せるためだけ、自尊心、自己愛を満たすための、偽善に満ちた偽りの信仰ではない。神ではなく自分への信頼でもありません。黙示録3章21節に「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」とあるように、どこまでも神を神とし、神を見、神を待ち望み、神に信頼する、いつでも神の招く食事の席に喜んで着く、まさにそのための備え、そのための信仰こそが、その信仰だけが、あなた方が常に持つべき備えであると言うことに他なりません。
3、「十字架の苦しみと死は喜びの婚礼:その信仰は律法ではない」
A,「イエスが受ける十字架は神のみ心、喜びのために」
しかし、繰り返しますが、その信仰は決して律法ではありません。そのことを示すように、そのイエス様の時、つまり、イエス様は自分の受ける十字架であるにせよ、再び来られることであるにせよ、イエス様はここでその時をなんと「婚礼」という「喜びの席」に例えているでしょう。イエス様がまさに受けようとしている十字架は、まさに苦しみと死です。イエス様は「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ぶほどの大きな苦しみと死をその身に負います。しかし、そのご自身の受けるその時をイエス様は「婚礼」だと言うのです。私たち人間の目では、ご自身の苦しみと死と婚礼の喜びとでは全く逆のことのように見えます。しかしイエス様にとって、それは決して矛盾しない福音なのです。なぜなならその十字架でこそ神の喜びだけでなく、人類の喜びが実現することを、神様は御心として見ているからです。イエス様はそのことを伝えているのです。
イエス様は事実「ご自身の時」をよく婚礼に例えています。マタイの福音書9章でも、イエス様ご自身がご自分を花婿と呼んでご自分が来たことを婚礼の時に例えています。そしてマタイ25章でも、天の御国は、灯火をもって花婿を出迎える十人の娘のようだとも話しているでしょう。イエス様が世に人として生まれたのは、確かに十字架で死ぬためでした。しかしそうであっても、それは花婿の到来。婚礼の時、喜びの時であることを伝えているのです。さらにヨハネ3章では預言者であるバプテスマのヨハネもイエス様の到来を花婿の到来、婚礼に例えています。そして「喜びに変わる」ということもはっきりと言っている場面がありました。ヨハネ16章22節、捕らえられる直前の晩餐での教えです。こうあります。
「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。 」
今は悲しみの時。しかしわたしは帰って来る。もう一度会うのだ。その時、喜びに変わる。誰も奪うことができない喜びに満たされる。それはまさに十字架の死の先にある復活と新しいいのちの約束のことをイエス様は伝えているのです。さらに旧約聖書でもイザヤ書53章では、苦難の僕は「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」(11節)ともあります。まさにこの時すでに、イエス様は、十字架にまっすぐと目を向けて、その十字架の苦しみも死も待っていることを知っていながら、同時に、ご自身の時が、婚礼の喜びに例えられる、喜びの時となることを、イエス様はまさに見ているのだと示されます。
そこで主人は帰ってくる。その通りですね。イエス様は約束の通りよみがえり、弟子たちのところに帰ってくるのです。その時に、腰に帯を締め、あかりをともして、すぐに戸を開けれるように、その帰りを待っている人のようでありなさい。つまりみ言葉を、約束を信じて待っていなさい、なのです。もちろんここには、やがて来る、つまり再びくるイエス様の再臨の時という二重の意味でもありますが、やはりどちらの意味でも、いつ来ても良いように信じて待ちなさい、なのです。
B,「賜物である信仰がいかに大切であるか」
イエス様は、ここで私たちに神を信じ、信頼し、待ち望むということがいかに神の国にとって、重要なのかを12章全体を通して示しています。12章8節以下でも、イエス様はイエス様を人の前で認めるもの、つまりイエスへの信仰を告白するものを、イエス様も神の前で知っていると証言するとあります。神の国はみ言葉を聞き信仰を告白するものにこそあるとイエス様は教えています。そして10節以下では、たとえ人間の罪の行いや言葉によってイエスをそしることがあっても赦されるけれども、聖霊を冒涜するもの、つまり聖霊の賜物である信仰を侮り否定し汚すものは赦されないと、やはりそれもみ言葉と聖霊の賜物である信仰こそ大切であると伝えていました。人のいのちは神の手にあり、一羽の雀さえも忘れられていないように、カラスや野の草さえも養うように、神は私たちを憐れみ満たしてくださる、神は喜んで神の国を与えてくださる、その神の子イエスとその約束、み言葉を信じるように、それこそ神の国を求めることなんだと、イエス様は神を信頼することこそ道であると繰り返してきました。福音と賜物である信仰こそが神が与える救いの力だからです。人は行いではなく神を信じることによって救われるということこそ、まさに堕落した時から、アブラハムの時から変わることのない神の道であったからです。いや創造の初めから、神は人を神に信頼するものとして創造しています。神への信頼こそ人の本来の姿。信仰は本当の人間の回復であり、神と人の関係の回復はただこの信頼、信仰にのみにかかっている。それが神が聖書の初めから、預言者たち、そしてイエスを通して、使徒たちを通して語ってきた福音であったのでした。
その信仰こそ、信頼こそ、何にも勝る神の国の備えであるとイエス様はここで教えています。信仰は何が起こっても動じない力です。地上で艱難があっても、神が突然来たとしても、喜んで安心してそれを迎えることができるのは信仰だけです。そのように艱難の時代にあるからこそ、神にいつでもどんな時でも信頼して、すべてを任せ、神を待ち望むことが神の国の姿なのだと、イエス様は教えてくれているでしょう。そのように備えている人は、突然、主人が帰ってきても幸いだとあるのです。ですからそれはただ、起きていないと主人が裁くとか怒るとか、そういう意味ではないのです。むしろ待っている側の喜びの心のことを言っているでしょう。その喜びの心、救いの確信は、律法や行いとしての間違った信仰にはあり得ません。それはその神の約束である福音を恵みとして受け取る信仰のみにあります。神の福音の約束を恵みとして受け取り信じていることこそ、神の前にいつ立ったとしても、突然、立つことがあったとしても、確信と平安のうちに立つことができる備えです。むしろその真の信仰がなければ、神の前に立つことができないでしょう。そこには平安も確信も失われます。まさにこのように、これは律法から解放されただ神の約束を待ち望む信仰に生ずる私たちの心の喜び幸いを伝えてくれているのです。恵みの約束をそのまま信じて待つ時、突然何があっても、心は喜びと平安と確信で揺るぐことがないということなのです。
C,「信仰は重荷、律法ではない。信仰は平安、福音である」
みなさん。イエス様が教えるように、信じることは重荷ではない、どこまでも幸いなのです。それは平安があるからです。イエスを喜ぶことができるからです。そしてそれは誰も奪い去ることができない、世が与えるのとは違う、特別なイエスの与える平安だともヨハネの福音書14章にはあるでしょう。不安や疑いではなく、平安のうちに待ち望むことは幸いではありませんか。イエス様はその備えを、つまり信仰の幸いと素晴らしさを私たちに伝えているのです。
しかし、やはり忘れてはいけない大事な点ですが、その信じるということは律法ではないと言うことです。それは福音であり恵みです。その素晴らしい恵みの上の恵みがここには証しされているでしょう。
イエス様は、弟子たちの弱さと不完全さ、罪深さをすべて知った上でこの教えをしています。事実、弟子たちは、信じて待っていることはできません。復活の日の朝、悲しみと絶望で戸を閉ざしていました。しかしそこに「イエス様の方から
戸をノックもせずに、開けもせずに、通り抜けて、彼らの前に現れて、死からよみがえったその生ける身体を触らせたでしょう。さらにはその場にいないで疑ったトマスにも、もう一度現れ、同じように触らせたのです。そのような疑うトマスの不完全さをご存知の上でイエス様は、「見ずに信じる者は幸いです」と言っているのです。このように使徒達弟子達の信仰は、不完全で罪深く不信仰な彼らでありながらも、そのようにイエス様の言葉に支えられ助けられながら、そのイエス様の教える「見ずに信ずる信仰」へと導かれている事実がわかるでしょう。それが弟子たちの歩みであり、私たちクリスチャンの恵みの歩みでもあるということです。
D,「礼拝も律法ではない、礼拝は主が仕えてくださる福音である」
そして37節の後半部分の言葉は実に意味深いです。
「主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。」
これは思い出すでしょう。エマオの途上の二人にもイエス様がパンを裂いたとありました。そしてヨハネ21章でも、漁から帰ってきた弟子たちに、イエス様が食事を準備していたとあったでしょう。イエス様の目的であった十字架と復活を境に、関係が逆転しているでしょう。もはや弟子達が、あるいは私たちがイエス様にではない、イエス様が弟子達、私たちに仕えてくださる、そのことをイエス様は示してくれています。それはまさにイエス様が私たちに仕えてくださるのが、新しい命の道、信仰の道、クリスチャンの歩みであるとうことを示唆しています。ですから、信仰の歩みは、私たちが先ず神のために自分たちの知恵や力や理性を振り絞って私たちが実現しなければいけない律法ではもはやないと言うことです。イエス様がみ言葉で仕えてくださり、絶えず支え励まし導き成長させる恵みだということです。この礼拝さえもそうです。礼拝は律法ではありません。礼拝は、人が神に仕えるからサービスではありません。ドイツ語では、礼拝は「ガッデス ディーンスト」「神が仕える」と言う意味です。み言葉を通してイエス様が教えてくださり、聖餐を通してイエス様がイエス様のからだと血を与えてくださる。まさにイエス様が仕えてくださり、それを受ける、ともにみ言葉と聖餐の食事をするのが礼拝であるということです。礼拝も福音なのです。決して律法ではないのです。
4、「結び:教会は花嫁」
イエス様がそのように信仰を与え絶えずみことばで仕えてくださる、充してくださる、支えてくださり、助けてくださる、力を与え用いてくださる、良い行いも備えてくださり、愛のわざを私たちのうちに行わせてくださる、それが神の国の幸いであることをイエス様は伝えてくれているのです。だからこそ、イエス様が花婿であり、教会はまさにその花嫁であるとも言われているでしょう。イエス様はだからこそ婚礼の譬えや花婿の到来を私たちに伝えているのです。私たちは今日も罪を示されこの十字架の元にありますが、まさにこの十字架の故にこそ今日もイエス様は罪の赦しを宣言してくださり、絶望は喜びに、不安は平安に変えられ新しく歩んでいくことができます。今日もイエス様は変わることなく宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。その約束を今日もそのまま受け取り、どこまでも仕えてくださるイエス様を信頼する歩みを続けていきましょう。
今日の聖書のお話
ルカによる福音書12章49〜53節
「イエスは天からの宝を与えるために」
2025年8月3日
説教者:田 口 聖
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。
はじめに、私の奉仕の変更の関係で、今日の礼拝の福音書の箇所は、来週の箇所の後の部分、8月17日の福音書の箇所になります。話が来週と前後してしまいますが、ご了承ください。
さて、この12章、イエス様はエルサレムへとまっすぐに目を向けて進んでいます。すでにパリサイ人や律法学者達の敵意が強まってくる中で、イエスはみ言葉の説教を通して神の国はどのようなものなのかを弟子たちに伝えていきます。イエスはこれからを起こることを例えを用いて伝えていきますが、そこで一貫して変わることなくその根底に流れているのは、ご自身がこれから受ける十字架の死と復活によって実現し与えられる罪の赦しこそ救いの力であるという福音であり、 それはどんな困難があってもそのイエスと福音を信じる信仰こそ日々新しく生かし歩ませるいのちの賜物であるということでした。今日の箇所は、非常に難しく、一見、厳しくも感じられる言葉が続いているようではありますが、しかしここにもこれまで見てきたイエスのメッセージの土台にある十字架の福音から見ていく時に、やはり恵みのメッセージが伝えられていることがわかるのです。
2、「火を投げ込むため」
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」 49節
この一節の言葉だけでを見る時、どう思うでしょうか?何か恐ろしさやネガティブなイメージを抱かされるのではないでしょうか。「イエスが来たのは地上に火を投ずるため。」ーそれは何か世の終わりを思わせるような、神の怒りや裁きを伝えるような言葉にも感じられます。確かに「火」には神の裁きという意味があるのかもしれません。しかし神が世に送ったのは、いわゆる「裁きの天使」ではありません。神が遣わしたのは御子イエスでした。ですから、そのイエスにおいてこそ神の「裁き」の意味がむしろはっきりと示されているのです。聖書はその意味をこう伝えています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネによる福音書3章16〜17節
このみ言葉にあるように、私たちが誤解してはいけない何より大事なことは、神の怒りと裁きは、私たちではなく何よりイエス様が受けられたということに他なりません。ですから、今日の箇所のような一見、厳しさが見られるようなメッセージでも私たちは十字架中心に聖書を見て解釈することが大事です。つまり、まさにこの恐ろしい裁きは罪のゆえに誰も避けられないことではあります。しかしこのイエス様の十字架のゆえに私たちは裁きを受けなくていい。ただイエスを信じるだけでいい。それが神が計画されたことであり、イエスが来られた何より意味であり目的であるということが聖書の約束することなんだと常に立ち返らされるのです。このようにイエスが世にこられたのは、神の愛、福音によって、一人一人に信仰が与えられ救われることだと言っているのですから、あるいは、その福音をそのまま受け入れることに救いと神の国があるのですから、それこそ「福音と信仰に立つかどうか」が、ある意味、救いが決まる裁きといえるでしょう。そういう意味でこそ、福音はここでいう「火」であり、「福音である火」が燃え続けること、つまり、私たちに福音による救いと神の国が燃え続けることを何よりもイエスは願っているということが、聖書全体の十字架中心、キリスト中心から見えてくるこの箇所のメッセージなのです。
3、「イエスが受けるバプテスマ」
そしてここでイエスはまさにその火に十字架を見ているのです。50節。
「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」50節
イエスはこの時すでにエルサレムにまっすぐと目を向けて歩み始めていました。それはイエスがこれから受ける苦しみと十字架に向けて進んでいたということです。イエスのすべての動機はすでに十字架にありました。イエス様のすべての例えもメッセージも十字架が中心にあってのメッセージであり、ですから十字架の福音が中心にあってこそイエス様のメッセージの本当の意味が分かってきます。それはここでも貫かれています。イエスの時、「わたしが受けるバプテスマがある」と。それは罪の洗いを示す洗礼が待っている。そしてその完成まで自分は苦しまなければならないと言います。つまり十字架のことだとわかります。つまり、その「福音の火」が燃え続ける神の国の完成は十字架によって成就すると、イエスはしっかりと見て語っていることがわかるのです。その十字架の福音を踏まえてこの51節以下の言葉がくるのです。
4、「天からの福音と罪ある人との間」(51〜53節)
A, 「天の財産」
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」(51−53節)
このことは何を伝えているでしょうか。これも非常に不条理に聞こえる言葉なので、イエスはその与えようとする救いに矛盾することを言っているかのように私たちには聞こえるかもしれません。しかしこの言葉はまさに神がもたらしてくださったイエスとその十字架、つまり福音のゆえに、地上や人の間に当然起こりうる現実を伝えているのです。どういうことでしょう。まず49節、「わたしが来た」とあります。どこからですか?それは天からです。イエスご自身は「天から」遣わされた神の御子、神ご自身にほかなりません。そしてさらには先ほどの言葉には「地に火を投げ込む」とありました。それもまた「天から地へ」ということを意味しているでしょう。このように、福音は「天から地へ」と与えられる天の宝です。巷では「地獄の炎」とはよく言いますが、聖書にあっては、福音は「天の炎」です。福音とは素晴らしいものであり、私たちにはない、作り出せない、自らでは所有することも発明することもできない、まさに「天の財産」「天からの宝」に他なりません。しかも何の行いの条件も付されていない、ただそれをそのまま受け取るようにと差し出されている恵みの贈り物です。
B, 「堕落した人の罪の性質」
けれどもただ受け取ればいいだけなのに、それをそのまま受け取らない、いや受け取ろうとしないでむしろ否定し拒む地上の人間の罪の性質があるでしょう。そのことをこのイエス様の言葉は描き出しています。この12章の始めには、イエスを拒み、イエスの伝える福音と神の国を否定し、そしてやがては殺そうとする人々のことが記されています。それはこの後も続き、復活、ペンテコステの後、教会の時代も続き、今も変わりません。まさに地上は神を拒み否定し、いないかのように、むしろ自分が神であるかのような堕落した世界です。私たちはみな神の恵みがなければ、そのままの性質では、神の前に、どこまでも神を信じようとしない、神を否定しようとする罪人です。福音についても、私たちは自らのままでは、むしろその素晴らしさを知るどころか、知らされても否定し、受け入れようとしない性質があるものです。たとえ、それがまったく恵みであると言われても、あるいは信じ受け取るだけでいいと言われても、あるいは信仰さえも賜物であるといわれても、「いやそうではない。それ以外の何かが必要なんだ」「人の行いが、努力が、貢献が必要なんだ」と人はなりやすいでしょう。世の宗教はキリスト教以外はみなそのような宗教ですね。クリスチャンの中でさえその呪縛の下から抜け出せません。恵みだけでは、み言葉の力だけでは不十分だ。もっと何かしなければいけないとか、むしろ何かする方が、つまり自分の行いのほうが、目に見えて自分で実感できることですから、確信を持てたり楽であったりしますし、福音よりもイエスよりも、イエス以外の何か、福音以外の何かに、拠り所や責任を求めたり、依存したりするほうが、むしろ人は楽なのです。目に見えますし自分の感情や欲求、自尊心や自己愛が即座に満たされるからです。律法に生きる方が罪に生きる人間にとっては理解しやすいし合理的で従いやすいのです。
それに対して、福音は、まさに神の国の奥義です。目に見えないことです。神によって明らかにされなければ知ることのない奥義です。そして信仰も与えられるものであり、それはヘブル書を見ると、目に見えないことを確信させることだともあります。それを人の自らの力で見出したり実現するというのは実に困難なことでしょう。いや無理なのです。私たちの力や行いや知恵や理解ではむしろ福音も信仰も受け入れられない、拒もうとさえする性質が罪の性質です。
事実、十字架の出来事はその証明です。イエスの十字架は華々しい成功と繁栄の出来事ではなかったでしょう。みなイエスを否定し、イエスを拒み、殺したのです。そして弟子たちもそれで皆が救われるとか、だから信じようとかにはまったくならずに、むしろ絶望と悲しみに陥ったでしょう。誰一人、そこに希望や喜びや救いなど見ていないのです。福音であるのにです。その通りです。福音は私たち自身では決してわからない。拒もうとさえするのです。しかし神の目と計画にあっては、そして聖霊が与える賜物である信仰においては、確かにそこに救いと光と喜びと私たちの平安がある。罪の赦しがある。そう信じます。それを私たちが今信じることができるのは、まさに不思議な奇跡でしょう。パウロははっきりとエペソ2章で「信仰は賜物」、み言葉と聖霊による賜物であり、「誰も誇らないため」とも伝えているではありませんか。福音とはそのようなものです。本当は、私たち地上においては手も届かないし、相容れない異なるものだということです。それが天から一方的に与えられているものなのです。しかしそのイエス、十字架、福音に対する応答は、まさに福音書に記されている通りです。多くの人は拒みます。私たちも始めはそうでした。弟子たちであっても、聞いていても、信じたと言っても、大きく間違って理解しました。事実、弟子たちは、神の国も福音も、十字架の死にあるなどとは誰一人思っていませんでした。ある者は、政治的な革命と思っていたり、メシアと呼ばれるイエスにつくグループにあることに満足し、その成功と繁栄だけを期待したり、そこでの自分たちの地位だけに関心があったりであったでしょう。まさに、それがみ言葉と聖霊による働きと助けのない、罪人のままの人間の福音への反応なのです。
C, 「天の宝がなぜ私たちのものになるのか?」
しかし、そこでなぜその福音が弟子たちのものになり、宣教がされていったのかは、聖書の通り、それはまさにすべて神の恵み、聖霊と神の力あることばのわざであったではありませんか。信仰がイエスによって与えられて、聖霊が与えられて、彼らは新しく歩き出すのです。「その信仰は恵みであった。救いであった」と弟子たちは証ししていくのです。そのように福音は教会の宝として伝えられていったでしょう。さらには、彼らの信じていた福音は、まさに十字架の福音で、成功や繁栄に神の国や教会があるのではなく、迫害と試練と、困難と死、人間の思うような期待するようなこととは逆の状況の中にこそ、本当の平安と祝福、神の導きと計画があると、ペテロやパウロはじめ弟子たちは証ししていったではありませんか。
D, 「分裂、不和、対抗の意味」
そのような福音です。逆説的な福音です。信仰は、まさに私たちの思いや理解をはるかに超えたことです。神の恵みなしには決して理解できないものです。しかし人は罪人であり自らでは理解できないし、人間の自由意志は堕落しただ神を否定し拒む自由なのですから、その人間の堕落した意思のゆえ、当然、そこには、福音に目が開かれ受け取った人々と、未だ頑なに信仰を拒む人々との間にイエスが言う分裂の現実が当然あるのです。家族同士、兄弟同士であっても、福音のゆえに、不和が起こります。対抗がおこり、分裂が生じるのです。それは、それほどまでに福音は天の宝であり、逆に、地上はそれほどまでに罪深いからなのです。まさにこのイエス様の言葉が示すことは、天の宝として来る福音と対照的な人間自身の罪深さから起こる現実を伝えているのです。
5、「福音は恵み。天からの財産が一方的にk私たちに」
けれどもまさにそうであるからこそ、私たちは奇跡を見るのです。弟子たちを見てください。一人一人は非常に罪深い、そして十字架の前ではイエスを見捨てて逃げて、さらには信じることもできず絶望の部屋の閉じこもっていた弟子たち、空っぽの墓を見てもなおも信じられなかった弟子たちです。しかしそんなバラバラでどこまでも不完全な罪深い弟子たちに、イエスが、イエスの方から現れるでしょう。そしてイエスの方から信仰を新たにし強めてくれたでしょう。約束を与えることによってです。そして、その約束の通り聖霊を与えてくれた、そしてその聖霊のゆえにこそ、あれほどまで福音も十字架も理解できなかったバラバラの弟子たちが、目が開かれて一つとなってまっすぐと十字架の福音、十字架による罪の赦しと信仰による義認、そして復活による新しいいのちを伝えていくのです。あれほど地位や繁栄と成功を求めていた自惚れた競争心まる出しの弟子たちが、パウロもペテロもヨハネも、福音と聖霊の力によって困難や試練の中にこそ十字架が輝いてイエスの本当の祝福と栄光があると福音の本当の意味を伝えていきました。それはまさに今日のところを見ていく時に人間には奇跡そのものであることがわかるのです。それはまさに福音もその福音のわざである宣教も全ては人間から出たものではない、全く天からの宝であり、天から与えられた聖霊による賜物であることの証明なのです。ですから宣教、伝道、教会は決して律法ではない。福音なのです。
事実、その福音が聖霊によって私たちのものにされるからこそ、私たちは本当に福音によって平安、平和になるではありませんか。イエスはここでは平和を与えるためではないといっていながらも、しかしヨハネ14章にある通り、最後の晩餐の席で、十字架と復活の先には、イエスが与える平安があると約束し、事実、ヨハネ20章、イエスは、シャローム「平和、平安があるように」と、入ってきて、平安のうちに弟子たちを遣わすでしょう。
6、「イエスは福音を与える」
今日の言葉から何かを誤解しないでください。これは福音に対する罪人の現実です。しかしこの現実に対して、神こそがイエスの十字架により私たちに平和を与え、私たちに神との和解を与えてくださり、この十字架の福音によってこそ、私たちが罪赦されて安心していくことができるというメッセージがあるのです。イエスがこの福音で、私たちに平安を与えるためにこそ、この十字架が私たちのために輝いているのです。そこで私たちの平和・平安、イエスが私たちに与える、世が与えるのとは違う特別な平和と平安が与えられるからこそ、そこからその平和と平安がヨハネ4章でイエス様が言う泉のごとく私たちから溢れ出して、地に平和、平安をもたらすということなのです。つまり私たちがイエスと福音にあって平和、平安であるからこそ、本当の平和、平安が家庭にも、父と子にも、嫁と姑にももたらされるというのが、神が私たちに福音を与え、福音を通して私たちを生かし、遣わしてくださる意味なのです。
ですから今日のところでも、まず私たちは「この福音は、本当に天から神から与えられた素晴らしい宝なんだ、私たちがこの福音の素晴らしさを知っていること自体が素晴らしい恵みなんだ、その恵みと約束によって確実に救われていることはなんと素晴らしいことなのか」と、まずぜひ感謝しほめたたえましょう。私たちがこの与えられた宝である福音を信じ、つまり差し出されている天からの贈り物をそのまま受け取り、福音に生きる時に、本当に私たちはイエスが与える平安と平和に満たされるのです。そのようにまず私たち自身がイエスにあって、福音にあって平安で平和であることが、世にあって生きる大事な鍵なのです。その時に平和・平安は泉のごとく溢れ出てくる。その時にこそ福音においてこそ真の教会の一致もある。私たち自身がまず福音によって平和であるからこそ、地にも、家族にも、平和の恵みをイエス様があふれださせてくださる。私たちの思いをはるかに超えてです。福音はそれほどまでの力があり、すべての解決ともなるのです。今日もイエス様は私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。福音が今私たちにあり、信仰が与えられている幸いを覚えながら、平安のうちに世に遣わされていきましょう。
人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
聖書日課 創世記18章1~10a節、コロサイ1章15~28節、ルカ10章38~42節
本日の福音書の個所もよく知られている話です。マリアとマルタという姉妹がエルサレムに向かうイエス様一行を迎えて食事や恐らく宿を提供する。その準備にマルタは一生懸命なのに、マリアの方はイエス様の教えを聞く方に専念して何もしない。業を煮やしたマルタはイエス様に、私一人で全部しなければならないなんて不公平です、マリアに手伝うように言って下さい、と文句を言う。それに対してイエス様は、教えを聞くことは大事だからマリアにそれを止めさせてはならないというようなことを言う。マルタ、マルタ、と名前を繰り返して言ったことから、マルタがそれ位苛立っていたことがうかがえます。
このイエス様の言葉を皆さんはどう思うでしょうか?救世主メシアであるイエス様の教えを聞くのは大事なことだから、マリアに聞くのを止めさせてはいけない、イエス様の言うことはもっともだと思われるでしょうか?それとも、マリアは座ってイエス様の話を聞けているのに、マルタは一人で忙しく立ち働かなければならないのはやはり不公平だ、マルタの言うことがもっともだと思われるでしょうか?多分、大方は、イエス様の言うことはもっともだ、しかし、それでも不公平感は拭えないというものではないでしょうか?
この出来事でもう一つ気になることは、イエス様の発言の後で何が起こったかは記されていないことです。マルタは、はい、わかりました、と言って一人台所に戻って行ったのか、それとも、それなら、私もあなたの教えを聞きます、と言って、食事の準備そっちのけでマリアと一緒に座って教えを聞くようになったのか、それとも、イエス様は気をきかして、今回の私の教えはこれで終わりだ、さあ、マリア、マルタのところに行って一緒に準備しなさい、と言ったのか?さあ、どれでしょうか?他にも可能性があるでしょうか?
福音書に後のことが書かれていないのは、福音書記者のルカがイエス様の発言で十分である、伝えるべき大事なことはしっかり伝えられた、だからその後のことは書く必要なしと考えたからです。それでは、伝えるべき大事なこととは何でしょうか?それは言うまでもなく、イエス様の終わりの言葉です。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マルタは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。
この言葉は、後のことを記さなくても大丈夫という位、重みのある言葉です。それで、イエス様の訪問の場面を超えて時と場所を超えて広く普遍的な意味を持っているのです。今日の説教ではその意味を明らかにしていきましょう。
まず、イエス様の一行を受け入れたマリアとマルタの二姉妹について少し情報収集してみます。マリアとマルタはヨハネ福音書11章に兄のラザロの死からの蘇りの出来事のところでも出てきます。さらにヨハネ12章でイエス様がマリアから高価な香油を注がれた時にも出てきます。少し厄介なのは、ヨハネ11章と12章のマリアとマルタの舞台はべタニアでこれはかなりエルサレムに近い所です。今日のルカ福音書の出来事の舞台はイエス様一行がエルサレムに向かって南下している時のことで、まだべタニアよりも遠いエリコにも到着していません。ルカ10章とヨハネ11、12章のマリアとマルタの繋がりがよく見えないので、今回はヨハネ福音書のことは脇に置いてルカ福音書のマリアとマルタに集中します。そうなると、二姉妹について他に情報がなくなるので情報収集が難しくなります。
ここで一つの手がかりとして、ルカ10章の初めにイエス様が72人の弟子を町々や村々へ派遣した出来事があったことを思い出しましょう。二週間前の福音書の個所です。それについて説教をしました。その時、イエス様が弟子たちに与えた指示の中に道中誰にも挨拶するなというのがあり、どうしてそんな指示を出したのか考えてみました。当時ユダヤ人の間で挨拶する時の決まり文句は「平和があなたにあるように」でした。平和はヘブライ語でシャーローム、当時イスラエルの地域でユダヤ人たちが話していた言葉であるアラム語ではシェラームです。シャーロームは普通「平和」と訳されますが、言葉の意味はもっと広くて、繁栄とか健康とか成功の意味も含みました。つまり、あなたに繁栄/健康/成功がありますように、という挨拶の仕方でした。それをイエス様は道端でしてはいけないと言うのです。ただし、誰かの家に入った時は「この家に平和がありますように」と言いなさいと。つまり、道端で禁じた挨拶をしなさいというのです。その家に「平和の子」がいれば、弟子たちの願った平和はその人に留まる、いなければ平和は弟子たちに戻ってきてしまうと。弟子たちの願った平和、イエス様から言付かった平和が留まる人と留まらない人がいるわけです。平和が留まる人は「平和の子」です。
このようにイエス様は普通とは違う「平和」の挨拶を弟子たちに指示したのです。ここから、イエス様が考えていた「平和」は一般的に考えられていたのとは違うものであることがわかります。イエス様が考えていた「平和」とはどんな平和だったでしょうか?それは、神と人間の間の平和でした。人間には神の意思に反する性向、罪がある、そのために神と平和な関係を持てなくなってしまっている。人間が神と平和な関係を持てるようにするために神はひとりこのイエス様をこの世に贈ったのでした。それで「平和の子」とは、自分には神の意思に反する罪があると認めて神との平和な関係を希求する人だったのです。まだ平和な関係を持てておらず希求する段階なので「子」なのです。
しかしながら、みんながみんな「平和の子」ではありませんでした。私と神さまの関係は大丈夫、だって、ちゃんと律法の掟を守って神殿にきちんと捧げものをしているから、と言う人はイエス様の平和の挨拶が心に届かなかったのです。しかし、自分には自分を造られた創造主の神がいるとわかって、その神との関係はどうなっているか自問し、今のままではいけないとわかって神と平和な関係を希求する人はもう「平和の子」なのです。実際に希求が叶えられて人間が神と平和な関係を持てるようになるのは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起きてからのことでした。それで平和な関係を持てるようになると、「平和の子」は「平和を実現する者」になるのです。マタイ5章でイエス様が言うように者は「神の子」と呼ばれるのです。
72人の弟子の派遣は、イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して南下の旅をしていた時に行われました。エルサレムはイエス様の受難と十字架の死、そして死からの復活の出来事の舞台となるところです。イエス様の弟子派遣は、彼がこれから通ることになる町や村への先遣隊のようなものでした。マリアとマルタの家はまさに弟子たちの訪問を受けた家だったのです。弟子たちの口を通してイエス様の平和の挨拶を受けた時、二人は「平和の子」であることが明らかになったのでした。神との平和な関係を持てるために今の罪ある状態ではいけないとわかっていて神との平和を希求していたのです。イエス様の一行はそのような家々を見つけて訪問して世話してもらってエルサレムへの旅を続けました。弟子たちの数は12人プラス72人さらにプラスアルファです。かなりの人数です。一行はマリアとマルタの村で分散したでしょう。マリアとマルタがイエス様を受け入れて世話をすることになりました。他にも何人かの弟子たちが一緒だったでしょう。以上が二人についてルカ福音書に基づく情報収集とその分析の結果です。
マリアとマルタは、神との平和な関係を持てるためには今の罪ある状態ではいけないとわかっている、それで「平和の子」であることが明らかになりました。ところが、イエス様が来られてからの二人の対応は全く異なりました。マルタは一生懸命に食事の準備をし、マリアは恐らくイエス様が弟子たちに教えているところに行って、そこで教えを聞いたのです。それに対してマルタがイエス様に文句を言ったのでした。
まず、イエス様が「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と言われたことに注目します。これは一見すると、食事の準備のことであれこれ悩み心配しているように聞こえます。食材は足りるか、味付けは大丈夫か、客を長く待たせてしまわないか等々。全てが上手くいくかどうか気が気でないという感じです。しかし、マルタが思い悩み心を乱している「多くのこと」とは果たして食事の準備だけのことだったのでしょうか?実はそうではなかったということを後で明らかにします。
次に、イエス様が「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言っていることに注目します。日本語訳では「良い方」となっているので、これはイエス様の教えを聞く方が良いのだと理解されます。そして、「それを取り上げてはならない」というのは、イエス様の教えを聞くことを中断させてはいけないと理解されます。ところが、日本語で「方」と訳されるギリシャ語のメリスという単語は「分」とか「取り分」という意味です。なので、教えを聞くという動作ではなく、何か与えられるものを意味するのです。教えを通して与えられものです。取り上げてはならないというのも、教えを通して与えられるものを取り上げてはならないということです。聞くことを中断させてはならないということではないのです。
それでは、イエス様が教えを通してマリアや弟子たちに与えようとしたことは何だったでしょうか?それがわかるために、イエス様は何を教えて何を行ったかを振り返ってみます。イエス様は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言して活動を開始しました。イエス様は神の国について教え、自分をこの世に贈った父なるみ神についても沢山教えました。また無数の奇跡の業を行って、死も苦しみも嘆きもない神の国を人々に垣間見せたり味わせたりしました。そして最後に十字架と復活の業を行って、人間が神の国に迎え入れられないようにしていた罪の問題を解決して下さいました。本当なら人間が受けるべき神罰を代わりに受けて人間が受けないで済むようにして下さったのです。それで、彼は本当に救い主なのだと信じて洗礼を受けると、罪を赦された者になれて神との結びつきが回復します。そして神の国に迎え入れられる復活の日に向かう道に置かれて、その道を神との結びつきの中で進むことになります。これで神と平和な関係が構築されたのです。他でもない神と平和な関係にあるのでもう何があっても大丈夫と、心は安心と平安に満たされ、周囲に対しても柔和でへりくだった態度になれるのです。高ぶったりいきり立ったりする必要はなくなるのです。まさに「平和を実現する人」になるのです。
マリアとマルタは神との平和な関係を持てるためには今のままではいけないとわかっていました。それで「平和の子」とされたのでした。ところがその後で二人は正反対の方向に進みました。マリアは、神との平和な関係を持てるためにイエス様の教えを通してでなければ得られないものを得ようとしてイエス様のもとに行ったのです。イエス様の教えを聞けば聞くほど平和な関係は自分の力では得られない、それはきっとイエス様が整えて下さる、だからイエス様にすがるしかないということになったのです。それで、マリアが選んだ良い取り分というのはつまるところイエス様そのものになるのです。ところが、マルタの方は、神との平和な関係を持てるために今のままではいけないとわかってはいても、マリアのようにイエス様のもとに行きませんでした。そうなると、平和な関係を持てるためには自分の力で何かしなければならなくなります。イエス様抜きで神との平和な関係を得ようとすると律法主義になります。しかし、罪の問題を人間の力で解決することは不可能です。不可能なのにしようとすればするほど、思い悩み心を乱すことになります。マルタが「多くのこと」に思い悩み心を乱しているといういのは、食事の準備のことだけではなかったのです。マルタの生き方全てに関わることだったのです。
そういうわけで、マルタも同じ「平和の子」なのだから最初からマリアと一緒にイエス様の教えを聞けばよかったのです。食事の準備は多少遅れても、後で二人で一緒にやれば遅れは取り戻せます。イエス様も本当はそれを望んだはずです。しかし、二人が別方向に走ったことで、イエス様にしがみつく福音的な生き方と律法的な生き方の違いがあらわれました。それでイエス様は福音的な生き方をするようにと教えたのです。十字架と復活の出来事の後で福音書を書いたルカはこのポイントがわかりました。それで彼からすれば、その後のことは述べる必要はなくなったのです。
主にある兄弟姉妹の皆さん、人間は神でも霊でも仏でも何か超越的なものを拝みます。それで、もし人生で何か困難や苦難に遭遇したら、超越的なものにお伺いを立てたり、何か捧げものや供えものをして宥めることをしたり、清めの儀式を受けたりします。私たちのキリスト信仰ではどうでしょうか?超越的なものとは言うまでもなく天と地とその間にある全てのものを造られた創造主の神です。私たち人間も一人一人造られ、髪の毛の数も全て把握されている真の造り主です。私たちの神は造り主であることに加え、倫理的な問題ではっきり態度表明する方です。人を傷つけるな、人のものを奪い取るな、真実を曲げるな、不倫をするな、そうしたことを心の中で思い描いてもいけないと言います。そのため、私たちはこの神との関係はどうなっているか絶えず自問し自省します。神の態度表明を知れば知るほど自分は神の前に立たされたら何も申し開きできず持ちこたえられないと思い知ることになります。何を捧げても供えても清めの儀式を受けても何の役にも立たないと思い知らされます。
だから、神は私たちにイエス様を贈られたのでした。この神聖な神のひとり子が神を宥める捧げもの供えものになったのです。彼が十字架の上で流した血が私たちを罪から洗い清めたのです。イエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しの恵みに留まっていれば、神の御前に立たされた時、神から義と認められるのです。人間の力では不可能なことが福音の力で可能になるのです。
では、キリスト信仰者が苦難や困難に遭遇したらどうなるのか?それはやはり神が怒ったり背を向けたことなので捧げもの供えものをして宥めたり清めの儀式を受ける必要があるのではないかと言う人がいるかもしれません。ナンセンスです。イエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しの恵みにとどまっていれば、苦難や困難があっても神との平和は何の変更もなくそのままなのです。だから試練があっても、それは神が怒って私たちに罰を与えていることだ、だから宥めないといけないのだ、などという考え方からキリスト信仰者は解放されています。これも福音の力によるものです。そのような考え方から解放されると、試練というのは神がこのトンネルのような暗闇の道を光が差す出口まで一緒に歩んでくれる絶好の機会になるのです。
主日礼拝説教 2025年7月13日(聖霊降臨後第四主日)
聖書日課 申命記30章9~14節、コロサイ1章1~14節、ルカ10章25~37節
今日のイエス様のたとえの教え「善きサマリア人」は、聖書を読む人なら誰でも知っている教えの一つです。そこでイエス様は何を教えているでしょうか?まず、困っている人を助けてあげなければならないと教えているとわかります。盗賊に襲われて半殺しにあった人が道端に横たわっていました。そこをエルサレムの神殿の祭司と祭司に仕えるレビ人が通りかかりました。しかし、二人とも無視して行ってしまいました。神殿のエリートたちがそんなことをするのです。ところが、サマリア人という、当時ユダヤ民族が見下していた民族の人が走り寄って助けました。これを聞いた人はどう思ったでしょうか?見下していた人が正しいことをし、偉いと思っていた人がしなかった、あの民族はレベルが低い、立派な行動などとるはずはないと決めてかかるとしっぺ返しをくらうことになる。逆に自分の民族はレベルが高いのだと鼻を高くしていると遜らなければならなくなってしまうことになる。このようにイエス様の教えは、困っている人を助けることを教えると同時に異なる民族に対する偏見は愚かなことだと教えているように見えます。こういう教えは、ちょうど今、参院選挙の真っ最中の日本で各党の主張やSNSに溢れる声を聞く時に少し考えさせる材料になるかもしれません。
ところが、イエス様の教えはもっと深いことも教えているのです。もし、困っている人を助けることが大事とか、偏見は捨てよ、という教えだけだとしたら、そういうことは別にキリスト教徒でなくても、他の宗教の人でも、また宗教を持たない無神論的なヒューマニズムの人でもわかります。イエス様が教えるもっと深いこととは何でしょうか?イエス様の教えの発端は、律法の専門家が、何をすれば永遠の命を得られるか?と聞いたことがありました。イエス様のたとえはこの問いに対する答えなのです。なので、このたとえを本気で理解しようとしたら、どうしたら永遠の命を得られるかという問いを忘れては理解出来ないのです。(2世紀から3世紀にかけて活躍した有名な神学者にオリゲネスという人がいます。彼はこのたとえについて有名な解釈を残しています。教会の説教でも牧師がよく取り上げたりします。詳しいことはここでは割愛しますが、オリゲネスの解釈は私から見たらイエス様が本当に言おうとしたことを飛躍して拡大解釈しているにしか見えません。もし、永遠の命に関する答えを明らかにしていれば解釈は妥当であると申しましょう。)
このたとえを本気で理解しようとしたら、どうしたら永遠の命を得られるかという問いに対する答えとしてこのたとえがあることを忘れてはなりません。当時のユダヤ教社会では、どうしたら永遠の命を持てるかということが関心事になっていました。ルカ18章、マタイ19章、マルコ10章に金持ちの青年がイエス様のもとに走って来て、何をすれば永遠の命を持てるでしょうか?と尋ねたことからも明らかです。また、イエス様が活動を始める前に洗礼者ヨハネが現われて、悔い改めよ、神の国は近づいた、と宣べ伝えると、大勢の人たちが洗礼を受けるためにヨハネのもとに集まってきました。これも永遠の命を得るためでした。当時、聖書に基づいて次のような考えが持たれていました。この世は神が創造して始まったが、始まりがあったように終わりもある、今ある天と地は新しい天と地に造り変えられる、その日は神の怒りの日であり裁きの日である、神に義と認められた者は怒りと裁きをクリアーできて新しい天と地のもとで永遠の命を持つことができるという考えです。人々はヨハネの洗礼でクリアーできるようになると思ったのです。ところがヨハネは自分の後に偉大な方が来られると言って、人々の心をイエス様に向けさせたのです。
金持ちの青年の質問に対してイエス様はどう答えたでしょうか?まず、十戒の掟を守りなさいと言います。それに対して青年はそんなものは子供の時から守っている、まだ何が足りないのかと聞きます。イエス様は答えます。お前には足りないものがある、全財産を売り払って貧しい人に施せ、そして私について来なさい、と。金持ちの青年はそれが出来ず悲しみにくれて立ち去って行きました。
今日の教えも同じです。律法の専門家は、何をすれば永遠の命を得られるのかと聞きました。それに対してイエス様は律法に何が書いてあるか、それをお前はどう理解しているかと聞きます。男の人は律法の専門家だけあって、十戒の教えを旧約聖書に基づいて二つの項目にまとめました。一つは、神を心を尽くし魂を尽くし力を尽くし理解力を尽くして愛せよ。これは申命記6章5節にあります。もう一つは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ。これはレビ記19章18節にあります。イエス様は専門家の答えを良しとし、その通りにすれば永遠の命を得られると言いました。ところが、専門家は自分が神の目に相応しい者であることを認めてもらおうとさらに聞きました(後注)。私の隣人とは誰のことか?と。なぜ、この質問が神の目に相応しい者であることを認めてもらうための質問だったのでしょうか?
それは、レビ記19章を少し広く見るとわかります。そこでは隣人とは、ユダヤ民族に属する者であることが言われているのです。大体9節くらいから、ユダヤ民族に属する貧しい人たちを助けてあげろとか、盗んではいけないとか、嘘をついてはいけないとか、裁判は公平に行えとか、同じ民族に属する者を中傷してはいけないとか、そして18節で同じ民族に属する者に復讐してはいけない、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、が来ます。隣人とはユダヤ民族に属する者なのです。ただし33節を見ると、興味深いことにユダヤ民族の中に一緒に住む異民族の人たちにはユダヤ民族と同じように愛せよとあります。つまり、ユダヤ民族には属さない者にも隣人愛を行いなさいということです。これは、実際はどうだったでしょうか?イエス様の時代、ガリラヤ地方とユダヤ地方に挟まれたサマリア地方がありました。サマリア人は純粋なユダヤ民族ではないと見下されて隣人愛の相手とは見なされなかったのです。ユダヤ人にとって隣人とはやはり同胞が中心に考えられていたのです。
律法の専門家は隣人=ユダヤ民族という一般的な理解を念頭において、イエス様に隣人とは誰かと聞いたのです。もし、イエス様がそれはユダヤ民族に属する者であると答えたら、しめたもの、専門家はきっと、はい、ちゃんとその通りにしています、と答えたでしょう。これが自分は神に相応しいと認めてもらうことでした。ところが、イエス様はたとえの中でレビ記19章の異民族に対する隣人愛をどんでん返しするように出したのです。ユダヤ民族の神殿エリートが傷ついた同胞を助けませんでした。このエリコに向かう途中で襲われた男の人は神殿のあるエルサレムから出発したので間違いなくユダヤ人です。傷ついたユダヤ人を助けたのは、ユダヤ民族が見下していた異民族のサマリア人だったのです。本当はユダヤ民族の方が異民族に隣人愛を行わなければならなかったのに、それが出来ずにいたところ、異民族の方がユダヤ人に隣人愛を行ったのです。ユダヤ人に隣人愛を行ったサマリア人がユダヤ人の隣人である、お前はこのサマリア人のようにしなければいけない、というのです。そうしなければ永遠の命は得られないというのです。律法の専門家は立ち往生してしまったでしょう。金持ちの青年が悲しみながら立ち去って行ったのと同じことが起こったのです。
イエス様は一般的に愛に満ちた優しいお方、何でも言うこと願いごとを聞いてくれる神さまみたいな方(実際、神さまですが)という見方がされます。イエス様は本当は厳しい方なのです。思い出してみて下さい、十戒の第5の掟「汝、殺すなかれ」について、イエス様は人を殺していなくても心の中で罵ったり憎んだりしたら同罪であると教えました。第6の掟「汝、姦淫するなかれ」も、たとえ不倫をしていなくても淫らな目で異性を見たら同罪であると教えました。「貪るな」という第9と第10の掟も、実際に他人のものを盗んだり台無しにしなくても、心の中で自分のものにしたいとか台無しにしてやりたいと思ったら罪なのです。こういうふうに十戒の掟というのは、行いや言葉で悪をしなければ十分というものではなく、心の中もそうでなければならないというのが十戒を与えた神の意思なのです。イエス様は神のひとり子の立場にたって父の意思をそのように伝えたのです。
さて、大変なことになりました。心の中まで問われたら神のみ前で潔癖な者などいなくなります。神の怒りと審判の日が来たら何も申し開きができません。神は全てお見通しです。イエス様、あんまりです、厳しすぎます、と言いたくなります。しかし、まさにここでイエス様が本当に愛のある方であることが明らかになるのです。イエス様は、神の怒りと審判の日に人間が絶体絶命にならないために、人間が受けてしまう罪の罰を全て自分で引き受けて下さったのです。それがゴルゴタの十字架の出来事でした。イエス様は私たちの身代わりとなって神罰を受けて死なれたのでした。イエス様の厳しさと優しさは表裏一体なのです。厳しさがあるから優しさは自己犠牲の愛になるのです。ところで、事はイエス様の死で終わりませんでした。神の想像を絶する力で三日後に死から復活され、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、復活と永遠の命が待っている地点への道を私たち人間に切り開いて下さったのです。あとは、私たちがこれらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いが自分のものになり、その人は罪を償ってもらったから罪を赦された者として神から見なされるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきが回復して復活と永遠の命に向かう道を進んで行くことになります。
しかしながら、永遠の命への道を歩むようになったとは言っても、自分の内には神の意思に反する罪があることにいつも気づかされてしまいます。そこで自分を偽らず、罪があることを認めて、イエス様を救い主と信じます、私の罪を赦して下さい、と神に祈り願えば、神は、わかった、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦すから、これからは気をつけなさい、と言って下さるのです。神が罪を赦すというのは、不問にするから新しくやり直しなさい、と言ってもらうことです。過ぎ去ったことを執念深く突っつきまわすことはしないということです。そういうわけで、キリスト信仰者の人生は罪の自覚と赦しの繰り返しの人生です。しかし、イエス様の厳しさと優しさが表裏一体で優しさが厳しさを上回っていたのと同じように、罪の自覚と赦しも表裏一体で赦しが自覚を上回っているのです。それで繰り返しの人生が可能なのです。そして、繰り返しの人生は罪から完全に解放される復活の日に終了します。
このように永遠の命というのは、人間の力ではどうにもならないものなのです。神のひとり子の十字架と復活の業に全てお任せしないとだめなのです。それなのに、金持ちの青年や律法の専門家のように、人間が頑張って何かをすれば得られると考えてしまったら、イエス様が十字架にかけられて復活する必要はなくなってしまうのです。イエス様がこの世に贈られる必要もなくなってしまうのです。イエス様自体が必要ではなくなってしまうのです。
金持ちの青年は失意のうちに立ち去り、律法の専門家はおそらくふてくされた立ち去ったでしょう。それは、その時点ではやむを得なかったと思います。なぜなら、イエス様の十字架と復活の出来事はまだ起こっていなかったからです。出来事の後、それを聞き知った二人は、永遠の命を得る決め手は自分たちにはない、神があのひとり子を用いて成し遂げて下さったことが全てだと信じるようになったことを願うばかりです。それは決して不可能ではありません。ファリサイ派のパウロだってイエス様を信じて受け入れたのですから。
少し隣人についてみてみます。隣人と訳されるヘブライ語のレーアはもともとは仲間という意味でした。それなので先ほどのレビ記19章の中で使われると、どうしてもユダヤ民族を中心に考えがちになります。イエス様は、たとえをもって「隣人」のユダヤ民族中心の見方「同胞の隣人」を壊して「誰でも隣人」にしたのです。傷ついたユダヤ人の隣人になったのはサマリア人でした。二人の神殿エリートは同胞の隣人にはなれなくなってしまったのです。
永遠の命は神の力によらなければ得られない、なのに人間の力で得られると勘違いする人たちがいたのでイエス様はそれが不可能であることを骨身に染みるように教えました。つまり、本当は出来ないのに出来るとする律法主義の矛盾を暴露したのです。イエス様のたとえでは律法主義の矛盾がもう一つ出てきます。律法主義が隣人をユダヤ民族に留めてしまっているという矛盾です。イエス様はたとえの中に、ファリサイ派ではなく、祭司とレビ人という神殿エリートを登場させました。レビ記21章を見ると、祭司はよほど近い親族でない限り遺体に触れてはならないという規定があります。二人の神殿エリートは道端に横たわっている同胞を見た時、この規定のゆえに、もし死んでいたら近寄ったら汚れてしまうと思ってそそくさと通り過ぎたのです。一方で、祭司は死体に触れてはいけないという掟がある。他方で、隣人を自分を愛するが如く愛せよという掟がある。さあ、どうしたらよいか?隣人愛は、神の意思を二つの大黒柱にまとめたものの一つです。もう一つの柱は神を全身全霊で愛せよでした。祭司は死体に触れるなという掟はこの大黒柱を前にしたら脇に退かなければならないのです。神殿エリートは何が主で何が従であるか本末転倒してしまったのです。まさに律法主義の矛盾です。
このことは、安息日に病人を癒すのは罪でもなんでもないということと同じでした。イエス様は安息日にユダヤ教の宗教エリートたちの目の前でこれ見よがしに病人を癒してあげました。それは神が与えた安息日の掟を否定したのではありません。病気を治すとか命を守るとか緊急のことがない場合は安息日は守らなければならないことに変更はないからです。
イエス様は今日のたとえの中に、祭司の汚れ規定が及ばない普通のユダヤ人を登場させませんでした。あえて異民族、しかもユダヤ人が軽蔑しているサマリア人を登場させました。そこに注目します。もし普通のユダヤ人に傷ついた同胞の世話をさせたら、隣人はユダヤ人のままです。しかし、サマリア人を登場させ、彼が傷ついたユダヤ人の隣人になりました。隣人の意味がまさにユダヤ民族中心から解放された瞬間です。隣人から民族の壁を取り払って「誰でも隣人」にしたのは、イエス・キリストの福音の趣旨と一致します。人間の力のおかげではなく、イエス様の十字架と復活の業のおかげとそれをその通りと信じる信仰のおかげで罪の償いと永遠の命が得られるというのがイエス・キリストの福音です。この福音は世界の全ての民族に向けられたものです。神はこの福音をどうぞ受け取って下さいと言って、全ての人間に提供して下さっているのです。
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、人を助けるというのは、キリスト信仰の場合、永遠の命と隣人愛の二つが土台にあることを忘れてはいけません。それが他の宗教やヒューマニズムの人助けと違う点です。キリスト信仰者にとって隣人愛とは、信仰者同士の場合、約束された永遠の命への道を歩めるように支え合うことです。まだ道の歩みに入っていない人たちに対しては、道に入れるように導き働きかけることが隣人愛です。人を助けることにはいろいろな形態があるのに、なぜ、永遠の命に至る道をしっかり歩めるようにすること、また、その道に入れるようにすることが助けになるのか?永遠の命を約束されたというのは、今の天と地が新しい天と地に取って代わる大変動の時、神の怒りと裁きをクリアーできるという確信を得られることです。それはとても大きな安心感を与えてくれます。この大きな安心感があれば、この世で困難や苦難に遭遇しても不安や心配に押しつぶされることはありません。なぜなら、大変動の時にある苦難や困難は今のこの世の苦難や困難よりも遥かに大きなもので、その時に大丈夫ならば今の時はもっと大丈夫だからです。このような不安や心配に押しつぶされないですむ安心感を得られるようにしてあげるのも立派な助けです。助けの中の助けです。
(後注)日本語訳では「自分を正当化しようとして」ですが、ギリシャ語のディカイオオ―は「自分を義とする」、つまり、「自分を神の目に相応しい者にする」ということです。律法主義の考えの人なので「律法を守っていることで自分を神の目に相応しい者にする」ということです。
聖書日課 イザヤ66章10~14節、ガラテア6章1~16節、ルカ10章1~11、16~20節
今日の福音書の個所は、イエス様が72人の弟子たちを町々に送ったという出来事です。イエス様は以前に12人の弟子たちを各地に派遣したことがあります。いずれの場合も弟子たちの役目は大体同じでした。神の国が近づいたことを宣べ伝えること、イエス様から委ねられた力で病気の癒しや悪霊の追い出しを行うことです。派遣に際していろいろな指示が与えられました。財布も着替えも持っていくなとか。一見無茶な指示ですが、これは、行く先々で弟子たちを受け入れて世話をしてくれるところが必ずある、だから心配はいらないということです。もっと掘り下げて言えば、神がそのような人たちを用意される、それを信頼しなさいという、神への信頼が弟子たちにあるかどうかが試されているのです。
もう一つわかりにくいことがあります。それは、道中誰にも挨拶をするなという指示です。イエス様はどうしてそんな冷たい指示を与えたのでしょうか?難しいところですが、私は次のように考えてみました。当時、ユダヤ人の間で挨拶する時の決まり文句は「平和があなたにあるように」でした。平和はヘブライ語でシャーローム、当時イスラエルの地域でユダヤ人たちが話していた言葉であるアラム語ではシェラームです。これがあなたにあるように、という挨拶の仕方でした。シャーロームは普通「平和」と訳されますが、言葉の意味はもっと広くて、繁栄とか健康とか成功の意味も含みました。つまり、あなたに繁栄/健康/成功がありますように、という挨拶の仕方でした。それをイエス様は道端でしてはいけないと。ただし、弟子たちが誰かの家に入った時は「この家に平和がありますように」と言いなさいと指示しました。つまり、道端で禁じた挨拶をしなさいということです。その家に「平和の子」がいれば、弟子たちの願った平和はその人に留まり、いなければ平和は弟子たちに戻ってきてしまうと。弟子たちの願った平和が留まる人と留まらない人がいると。平和が留まる人は「平和の子」であると。
ここで、イエス様が大事に考えていた「平和」とは、神と人間の間の平和だったことを思い出しましょう。人間には神の意思に反する性向、罪がある、そのために神と平和な関係を持てなくなってしまっている。それを正すためにイエス様はこの世に贈られたのでした。それで「平和の子」とは、自分には神の意思に反する罪があると自覚して神との平和な関係を希求する人だったと言えるでしょう。しかしながら、みんながみんなそうではありませんでした。自分と神との関係は大丈夫、だって、ちゃんと律法の掟を守って神殿にきちんと捧げものをしている、と言う人はイエス様の平和の挨拶が心に届かなかったのです。弟子たちを拒否する人は彼らを送ったイエス様を拒否し、イエス様を拒否する人は彼を送った神を拒否してしまったのです。イエス様は、弟子たちを送ることは狼の群れの中に羊を送り込むようなことだと言っているので、受け入れないところでは命の危険があったのかもしれません。イエス様やその弟子たちを受け入れるところと入れないところがあるというのは、イエス様の時代に限らず時代や国を問わずいつもあるのです。自分には自分を造った創造主の神がいるとわかり、その神との関係はどうなっているか自問し、今のままではいけないと考えるようになった人は「平和の子」なのです。
72人の弟子の派遣は、イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して南下の旅を続けていた時に行われました。エルサレムはイエス様の受難と十字架の死、そして死からの復活の出来事が待っているところです。イエス様が72人を派遣したのは、彼がこれから通ることになる町や村への先遣隊のようなものでした。この72人と12人を合わせてイエス様には少なくとも84人弟子がいたことになります。72人を選んだということは選ばれなかった人もいたことになるので、弟子はもっと多かったでしょう。なので、イエス様一行を受け入れて世話をする人たちをあちこちで準備しなければなりません。72人は2人一組で派遣されたので36カ所に派遣されたことになります。それぞれの場所で何が起きたか詳しいことはわかりませんが、戻って来た弟子たちが皆、悪霊は出て行きましたと喜んで報告しているので派遣は概ね成功だったようです。ルカ19章にエリコの町で徴税人のザアカイの家に泊まった出来事があります。イエス様の一行が町に入った時、大勢の人たちが待ってましたとばかり街道に押しかけました。エリコは先遣隊を受け入れた町の一つだったのでしょう。
前置きが長くなりましたが、本日の説教では次の2つのことに焦点をあてて福音を宣べ伝えたく思います。一つは、弟子たちの役目の一つに、神の国が近づいたと人々に告げ知らせることがありました。弟子たちを受け入れる人たちにも受け入れない人たちにも知らせるのです。神の国の近づきとは一体何か?これが第一点目。二点目は、たとえイエス様から悪霊を追い出す力や、あらゆる危険を足蹴にできる力を頂いたとしても、そんなことで喜んではいけない、あなたたちの名前が天に書き記されていることを喜びなさいと言ったこと。名前が天に書き記されていることが何にも優る喜びであるということは一体どういうことか?この二つに焦点をあてて見ていきます。
イエス様は、活動を開始した時から「神の国は近づいた」と人々に告げ知らせて「神の国」について沢山教えました。そんな国が近づいたとはどういうことでしょうか?そもそも「神の国」とはどういう国なのでしょうか?
神の国とは、まず、天地創造の神、私たちの周りの森羅万象を造られた創造主がおられるところです。神はこの世を造られた後、引きこもってしまって、あとは勝手にどうぞ、とは言いませんでした。そうではなく、この世に対していろいろ働きかけをしてきました。どんな働きかけがあったかは、聖書を見ればわかります。全ての人間に対してご自分の意思を示す律法を、ご自分が選んだ民に委ねたこと、そのイスラエルの民の歴史を通してご自分の考えやご自分がどのような方であるかを知らしめたことがあります。神はご自分の意思に反することを罪と言い、それを焼き尽くさないではいられない神聖な方であるが、同時に罪を持つ人間が悔い改めて神のもとに立ち返れば罪を不問にして新しく生きられるようにして下さる憐れみ深い方でもある、そういうお方であることを知らしめました。そして、神の働きかけの中で最大のものは何と言っても、ひとり子を私たち人間の救いのために贈ったということです。
聖書は、「神の国」は将来、私たちの目の前に現れて、私たちはそれを自分の国として受け継ぐことが出来ると知らせます。「神の国」が現れる日とは、今のこの世が終わり、今ある天と地が新しい天と地に造り変えられる時です。このように聖書は終末論と創造論がセットになっています。ヘブライ12章では、今のこの世のものは全て揺り動かされて除去されてしまうが、揺り動かされない唯一の国が現われる、それが「神の国」であると。黙示録21章では、新しく創造された天と地のもとで神の国が現われ、そこは苦しみも嘆きも死もない、全ての涙が拭われる国であると言われます。全ての涙というのは、痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。つまり、この世でないがしろにされてしまった正義が最終的に完全に実現し、全ての不正に対して借りを全部返す大清算が行われるのです。
ところで、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、本当に近づいたのでしょうか?まだ、この世が終わるような天と地の大変動は起きなかったではありませんか?実はこれは、イエス様が行った無数の奇跡の業を通して神の国の近づきが明らかになったということです。難病の癒し、自然の猛威を静めたこと、何千人の人たちの空腹を超自然的な仕方で満たしてあげたこと、一度息を引き取った人たちを蘇らせたこと、これらはどれを取っても嘆きも苦しみも死もない「神の国」の有り様でした。つまり、「神の国」はイエス様と一緒に抱きあわせの形で来ていたのでした。
しかしながら、人々は難病が癒されても、自然の猛威から助けられても、空腹を満たされても、生き返らせてもらっても、それでまだ「神の国」に入れたわけではありませんでした。人間はそのままの状態では「神の国」に入れない障害がありました。それは、神の意思に背く性向、罪を人間は持っているということでした。人を傷つけてはいけない、他人のものを妬んだり横取りしてはいけない、真実を曲げてはいけない、不倫をしてはいけない等々の神の意思に反することを行いや言葉で出してしまったり、考えで持ってしまいます。反対に、しなければならない正しいこと良いことをしなかったり、言葉に出さなかったり、考えなかったりするのも神のみ前では立派な罪になります。罪のために人間は神との結びつきがない状態に置かれ、この世を生きる時もこの世を去る時も結びつきがない状態になってしまいます。神はこの状態を直して、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられ、この世を去った後も復活の日に眠りから目覚めさせて「神の国」に迎え入れられるようにしてあげようと、それでひとり子をこの世に贈られたのでした。
神は、本当なら私たちが受けなければならない罪の罰をひとり子に全部受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせました。もし私たちが神罰を受けてしまったら、私たちは永遠の滅びに陥り「神の国」に迎え入れられなくなるのです。イエス様は私たち人間の罪を命をもって償って下さったのです。それだけではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に開かれました。それで、私たち人間は、これらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だとわかって洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものにすることができます。罪が償われたから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦されたから神との結びつきが回復します。そして、復活の日に現れる「神の国」に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って歩む人生が始まります。
キリスト信仰者はこの世ではまだ「神の国」に迎え入れられてはいませんが、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってそれを受け継ぐ者になっているのです。さらに、聖書の御言葉と聖餐式があるので「神の国」に至る道を踏み外さずに歩むことができるのです。聖書の御言葉は生ける神のみ言葉です。なので、信仰の目を持って読み、信仰の耳を持って聞けば、聖霊が働いて父なるみ神とみ子イエス様を身近な存在にして下さいます。聖餐式では私たちの口を通してイエス様を体の内に取り込みます。だから、人生の状況がいかなるものであっても、御言葉と聖餐に繋がっている限りは、道は確か道で、歩みも確かな歩みです。何も心配はありません。
天のみ神のもとに何か書物があって、そこに名前が記されていることが大きな祝福である、しかし、名前が記されていなかったり削除されるのは悲劇であるという、そういう書物が存在することは旧約聖書の出エジプト記32章32節、詩篇69篇29節、イザヤ書4章3節、ダニエル書12章1節で言われてます。新約聖書もその伝統を受け継いでいて、本日の福音書の日課でも明らかなようにイエス様自身がそのような書物があると言っているのです。新約聖書の中では他にフィリピ4章3節、ヘブライ12章23節、黙示録3章5節で言われています。これらの中で、ダニエル12章1節とヘブライ12章23節と黙示録3章5節を見ると、この「命の書」と呼ばれる書物に名前がある者は復活の日に「神の国」に迎え入れられる者を意味していることがわかります。
さらに黙示録20章を見ると、「命の書」の他に全ての人間の全ての行いが記された書物があることも言われています。最後の審判の時に神の国に迎え入れられるか、それとも滅びに陥るかの判決はその書物に記されたことに基づいて下されるとあります。今ある天と地のもとに存在した人間全て一人一人の全ての事柄について記録など膨大過ぎてあり得ないと思われるかもしれません。しかし、神は人間を一人一人造られ、母親の胎内にいる時からみんな知っていたという位の創造主です。イエス様も言われたように、髪の毛の数も一本残らず数え上げるくらい私たちのことを知り尽くしてい方です。そうなると私たちは神に対して何も隠し事はできなくなります。審判の日に神の意思に反してしまったことを一つ一つ指摘されてしまったら、取り繕うことも申し開きも一切できません。絶体絶命です。それにしても神に対して申し開きしなくて済むような完璧で潔癖な人間なんて存在するのでしょうか?
実に神は、私たちが申し開きしなくてすむようにひとり子のイエス様を贈って下さったのです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで罪を赦された者として生きることが始まりました。ところが、神の意思に反することが自分の内にあることにいつも気づかされてしまいます。その時は、聖霊がいつも私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、大丈夫、あの方のおかげであなたは罰を免れている、あなたの生きることはあの方の尊い犠牲の上に成り立っているのだと思い出させて下さいます。その時、私たちは畏れ多い気持ちと感謝に満たされて、これからは軽々しく立ち振る舞わないようにしようと襟を正します。審判の日に神は、このように罪の赦しの恵みに留まって生きたことがキリスト信仰者の真実であると認めて下さるのです。確かに神の意思に反するものを持ってしまったことがある、しかし、その度に罪を罪として認めて赦しを願い祈り、赦しがあることを確認してもらった。これこそ罪に与しない、罪に敵対する生き方であった。こっちの方が罪を持ってしまったことよりもキリスト信仰者の真実なのです。神はこれを認めて下さるので、キリスト信仰者は申し開きする必要はないのです。ここからもわかるように罪の赦しの恵みというのは人間にとって生命線なのです。
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、神のもとには「神の国」に迎え入れられる者の名前が記された「命の書」と、全ての人間の全てについて記された書物があります。罪の赦しの恵みに留まって生きる者は審判の日に神に申し開きする必要がありません。罪の赦しの恵みには、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって入れます。罪の赦しの恵みに留まって生きられるために、聖書の御言葉と聖餐式が与えられているのです。これらをよく用いない手はありません。
神の国が現われる日、それは今の天と地が新しい天と地に取って代わられる、想像を絶する天変地異の時であり、神の審判が行われる時です。神の恵みに留まって生きたキリスト信仰者は想像を絶する苦難や困難を全てクリアーできるのです。それなのでキリスト信仰者が持っている安心感と言ったら相当なものです。そんな安心感を持てれば、この世で苦難や困難に遭遇しても、本当は平気なはずです。なぜならこの世の終わりの苦難や困難に比べたらこの世の苦難や困難は小さいものだからです。それでキリスト信仰者というのは、本当は大胆不敵で肝が据わっている種族なのです。
ルカによる福音書9章51−62節
律法ではなく福音による「従う」恵みと幸い。
今日のところ、特に57節以下を注目して見ていきますが、難しい箇所のように思えます。「イエスに従うことは良いことなのに、なぜイエスはそれを受け入れないのだろうか。なぜ従うのにこんな厳しいことを言うのだろうか。これでは誰も従うことなどできないではないか」等思うかもしれません。あるいはこれまでこの箇所から「私たちが従うには、これぐらいのことをしなければいけないんだ。従うということはこれぐらい責任と重荷があることなんだ。」というような律法の説教や勧めを聞いたこともあるかもしれませんし、そのように読む方もいることでしょう。けれどもこのところが伝えていることもまた律法ではなく福音と恵みに他なりません。そして主なる神イエス・キリストにあって、「従う」ということは本当はどのようなことなのかを教えられるのです。
2、「自から「従います」ー自信」
今日のところには、54節のヨハネとヤコブも含めて様々な「服従」「従う」が書かれていますが、57節からの三人に注目して見ましょう。まず一人目、57節。
「一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。」(57節)
私たちからすれば、この人の言葉は非常に献身的な声に聞こえます。しかしイエスは答えます。
「イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 」(58節)
事実、イエスの宣教の旅には定まった自分の家がありませんでした。イエスや一行に場所を提供し、食事などをもてなしてくれる人々のところに滞在しながらの宣教の旅でした。ですから、もし「おいでになる所、どこにでも」と言う時には、まさにそのような旅になることを意味しています。彼に対するイエス様の答えは何か厳しい返答のように聞こえます。しかしここにはどのようなメッセージがあるでしょうか?弟子たちとイエス様との宣教は、確かに、そのような枕するところが定まっていない歩みではあるのです。しかし、その旅はこれまでも日々、その旅の必要は満たされて来て、神は必要な物を備え与えて下さってきた歩みでした。つまり、イエス様の言葉の背景には、人の目には十分ではなく貧しそうで枕するところもないような歩みに見えたとしてもです、そのように、イエスご自身の歩みも、そしてイエスと一緒の旅も、「天にあって」、神の前にあって、つまり、常に必要を満たしてくださる神への信仰にあっては、いつでも豊かで確かで不安のない恵みがある歩みであることをも示唆しているでしょう。つまり信仰の歩みは「天の神の恵みとその確かさへの信頼が、イエスとの旅の大事な持ち物である」ことを伝え用途してくれているのです。このイエスのことばを聞いて、この人はどう理解し答えたのかは書かれていません。
3、「「ついてきなさい」という天のプレゼント」
二人目はどうでしょう。
「そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
59節
今度の人は、イエスが「わたしに従いなさい」と言っています。しかしその人は、まず父を葬らせてくださいと言うのでした。この人は拒んでいるわけではありません。父を葬ったらついて行くという意味でしょう。それに対しイエスは言うのです。
「 60イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
60節
A, 「召しゆえに従う恵み」
これもまた何か非常に厳しい言葉です。お父さんを葬ってからついて行くのは別に良いことのように私たちは思うのです。しかし鍵は、後半の「あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」にあります。そして「イエスが」「ついてきなさい」と招いていることも重要な鍵です。思い出すことができますが、イエスの弟子達は、自分から「従います。ついて行かせてください」といって従っている弟子達ではありません。皆、イエスの方から、彼らに声をかけました。ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブは漁師で、湖の畔で、漁を終えて、網を洗っているところにイエスがやってきました(ルカ5:1〜11)。そこでイエスは、イエスの方からまずしるしを与えて自分が神であることを示しました。前の晩に魚が一匹もとれなかったのに、イエスは舟を出させて網を下ろすようにいいます。ペテロ達は誰も取れるとは思っていませんでしたが、その通りにした時に、舟が沈みそうな程の魚が取れたという出来事がありました。その後で、イエスが彼らに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と言って召した、そして彼らがそれに従ったのが、弟子達とイエスの歩みの始めでした。取税人レビはどうであったでしょうか(ルカ5:27〜32)。レビの所にも、イエスの方からやってきて、イエスが彼に「わたしについてきなさい」と声をかけて招いているでしょう。ヨハネの福音書にあるナタナエルもそうですし、他の弟子達一人一人もそうであったでしょう。「イエスが」「ついてきなさい」と招いて彼らは従っているのです。このように「従う
というのは、まず「イエスの召し、ことばがあってこそ
なのです。
B, 「自信、自信過剰ではなく」
しかし、今日の箇所のまず最初の人と、そして61節の三人目は、自分から「従います」と言っています。しかしこの「従う」の言葉は「自信」や「自信過剰」という意味がともなっています。しかしイエスに「従う」というのはそのように私たちの「自信」が伴う行動なのでしょうか?イエスにあってはそれはノーでした。むしろ「従う」ということは、私たちの側からの何か、自信によって従うということでは決してないと言えるでしょう。私たちに自信があるから、自分には従うことが出来る。あるいは、そのように自身の根拠となるような従える何かを自分は持っている。そのような何かが自分にあるから従える。従えてる。ということでもないでしょう。むしろイエスは彼らの敬虔そうな「従います」という言葉には「彼らの「自信」」を見ていたことでしょう。その表向きの言葉や自信は人の前では立派なことかもしれません。しかしそれは神の前では違います。神の前での「従う」とはそういうことではないのです。イエスに「従う」ということ、それはどこまでもイエスが「ついてきなさい」と召してくださる招き・召命と、そこにある約束が伴ったものです。イエスがみ言葉を与えて彼らを「ついてきなさい」「従いなさい」と招いた時には、彼らには何もなくこれから何が起こるかさえわからなくとも「あなたは人間を取る猟師になる」という「神の約束」が伴っていたでしょう。創世記12章でアブラハムへの「いきなさい」「従いなさい」の言葉があった時にも、神様のあなたの子孫を祝福するという約束が伴っていたでしょう。モーセもそうですね。彼は自分は従いたくない、他の人を行かせてくださいと言ったでしょう。しかし、そんなモーセに「わたしがする」という神の約束がありました。つまり神の前の「従う」は「私たちの自信」や、私たちの持っている何かによるのでは決してないのです。事実、既についてきている弟子達は何か優れていたわけではありません。いや皆、彼らは不完全な罪人です。9章ではそのような姿が何度も出てきます。まさにこの前の所、49節以下でも54節以下でも、ヨハネやヤコブのまさに弟子としての特別意識、傲慢さ、まさに自信過剰さえ見えるのです。今日のところにある三人とは変わらない一人一人でもあります。しかし彼らが弟子であり、彼らがついてきているのは、彼らに何か才能があり敬虔であるから云々ということは一才関係ない、いや彼らにはそのようなものはありません。どこまでも罪人の彼らでしたが、まさに、イエスが「ついてきなさい」と招いたその召しとイエスが全てのことをなすという約束があるから彼らは従ってきているでしょう。イエスのことばが、そして約束があるからです。これは私たちの「従う」もそうなのです。自分たちの何かではない。自分の自信でもない。私たちも罪深い一人一人、しかしそのような私たちをイエスが「わたしについてきなさい」とみことばを持って招いてくださった。み言葉を与えて下さったからこそ、私たちは今、従っているのです。
C, 「神の所有として使わされる召しの恵み」
そして、そこに約束も溢れているでしょう。そのように「召され」従うことは、それは主ご自身が全てをなすということ、そして、神が私たちを神の所有としてくださり救ってくださる約束を伴っておりキリストの責任と恵みと計画、そしてキリストの力と実行のうち、つまり天からの恵みのうちに歩むことを意味しています。そうであるなら二番目の人への言葉は、決して意地悪ではなく、天の恵みにある歩みへの招きの言葉とも言えます。「あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」と。この「神の国を言い広めなさい」というのは、まさに天からの使命であり約束でもあります。もちろん父を葬ることも大事なことですが、しかしそれは地上の営みです。イエスは「その地上のことは地上の営みに任せなさい。それ以上に、わたしが、あなたを招いているのだから、あなたにはそれ以上の私の計画があり、天からの恵みの使命がある、それを与えよう」とイエスは彼を遣わそうとしているのです。イエスが、従うように召し、招くということは、実にこのようなことです。恵みであり約束なのです。地上の物事、地上の限られた枠や限界や営みに納まること以上の計り知れない天の恵みに招かれて、天の使命が与えられている。そのようにイエスが「ついてきなさい」と言って召してくださっている、そしてその召しゆえに従うものとされていることの、はかり知れない程、大きな素晴らしさがあるのです。つまり地上にあっては非常に大事で崇高な営みである「葬る」ということさえも小さくなる位、それよりもはるかに大きなプレゼント、恵みこそを、私たちは天からイエスから受けている、頂いているということなのです。それは「わたしに従いなさい」そして「天の恵みを、キリストの与える平安を、自由を、神の国を広めなさい」と、みことばによる召しと、その従うという約束と恵みのうちに歩んでいることなのです。「従う」ということは、決して私たちから出たものではない。私たちの自信や決心でもないのです。
4、「従うとは、自分の決心でもない」
三番目の人は、最初の人と同様、自分から「従います」と言いました。しかし加えて「まず家族にいとまごいに行かせてください。」ともいいました。これも私たちの目から見ると「別にかまわないのでは」と、思うのですが。しかしイエスは、
「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない
62節
と言います。彼は「鋤を手にかけた」、つまり、彼には「従います」という「決心」はありました。しかしそれはやはり「彼の決心」であったのです。人間の決心、それは決して完全ではありません。むしろ誰でも決心しても後ろを見てしまうものではないでしょうか。むしろ彼は私たちから見ればそんなに後ろを向いてはいません。家族に別れを言うだけのことです。本当に私たちから見れば素晴らしい「彼の」決心です。しかし、イエスはそのような彼自身から出た「人間の決心」が神の国にふさわしいとは言わないのです。つまり従うということは、私たちの決心にかかっているのではないのです。私たちの決心は不完全です。私たちは決心しても「うしろを見てしまう」のです。
5、「神の国のふさわしさとは?」
A, 「私たちの自信や決心はもろい」
今日のところは何を伝えているでしょう。それは、もし従うということが、私たちから出たことにかかっているなら、つまり、もし私たちの自信や決心で、キリストに従うということが求められているのであるなら、それでは誰も「神の国にふさわしくない」のです。そうでしょう。弟子達の「決心」はどうでしょうか。まず弟子達の「従う」というのは、先程も述べました、イエスが、弟子達のそのような不完全さ、罪深さを全てご存知で、全て受け入れられて「わたしについてきなさい」とイエスが召してくださった恵みでしょう。そしてついて行きました。まさに恵みによって彼らは弟子とされたのです。しかしそれを忘れ始めたのでしょうか。イエスが有名になり、その弟子であることの特権意識という「彼らの自信」は何を生みましたか。49節以下、ヨハネとヤコブは、自分たちの弟子ではないものが、イエスの名を使って悪霊を追い出しているのを勝手に、当然のように、自分にその責任と権利があるかのようにやめさせました。さらに54節以下、イエスを受け入れないサマリヤの町に対して、天から火を呼び下し焼き滅ぼしましょうとも言いました。そして「彼らの決心」はどうでしょう。十字架の出来事の前に、彼らはイエス様が誰かがご自身を裏切ると告げられた時に、他の誰が裏切っても自分は最後までついて行く、死にまでも従うと、彼らは言い、まさに「自信」を持って「決心」するでしょう。しかしその彼らの決心は、その通りに「従う
ことができたでしょうか?彼らはみな逃げたでしょう。ペテロの「決して知らないなど言わない」という「決心と自信」も、まさに脆くも崩れ去ったではありませんか。私たちは、自らでは、イエスに従うことに、まったく無力です。私たちは皆、自分の意志や力で決心しても、後ろを見るものです。決心の通りにできない、無力なものです。私たちは自らでは、そのままでは皆、神の国にふさわしくないもの。自分たちでは「従います」と従えないものなのです。
B, 「イエス・キリストこそ全てー「従う」それは律法ではなく福音・恵み」
しかし福音書はまさに私たちに、イエス・キリストの恵みを指し示しているでしょう。イエス・キリストこそ全てである。救いである。恵みであると。弟子達は立派ではない、十字架のときまでもそれ以後も罪深かったけれども、そのような弟子達をご存知の上で「わたしについてきなさい」と言って招いてくださった。そしてそのイエスとの一緒の歩みにおいては、まさに定まった家も食事をする場所もなかったけれども、神がイエスを通しイエスのことばをとおして、全てを満たし乏しいことはなかったでしょう。イエスにあって彼らはいつでも緑の牧場に、憩いの水の畔に導かれたように、全てを満たされた歩みとなるでしょう。そして実にその究極は、その罪深い弟子達、拒む人々、イエスを罵り唾をかけ鞭打ち十字架につけるその全ての人々、いやこの何千年の人類の歴史の中で生きてきた全ての人々、つまり私たちのためにも、イエスはその全ての罪、私たちが神の前で負うべきであったその十字架を代わりに負って死なれるでしょう。私たちはその罪のゆえにまさに神の国に、神の前にふさわしくないものでした。しかしイエスはその十字架によって、私たちに罪の赦しという人間にとって神の前で一番なくてはならない必要なものを、そして神の国を一方的に与えて下さったではありませんか。ふさわしくない私たちに、イエスはこの十字架と復活で、私たちに罪の赦しを与え、それによって神の国に、神の前にふさわしいものとしてくださったでしょう。ただイエス・キリストのゆえにです。「従う」ということ、「神の国のふさわしさ」、それは律法では決してないどこまでも神からの恵み、福音なのです。イエスが「ついてきなさい」と召してくださったからこそ、私たちは今がある。イエスがただ与えて下さったものをそのまま受けるからこそ、私たちは救われている。誰でも救いはその人のものになります。私たちの自信、決心ではありません。今日も、イエスがみことばによりここで宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。ぜひ信じて喜んで安心してこのイエスが与えて下さる福音を受けようではありませんか。そしてぜひ平安のうちにここから遣わされて行きましょう。
聖書日課 イザヤ65章1~9節、ガラテア3章23~29節、ルカ8章26~39節
本日の福音書にある出来事は恐ろしい話です。悪霊にとりつかれた男が暴力的に振る舞い、どうにも押さえつけられない。自分自身を傷つけるようなことをし、墓場を住みかにしていたと。墓場と言うと、十字架や墓石が立ち並び木は立ち枯れというような不気味な光景が思い浮かび上がるかもしれませんが、ここで言われる墓場は岩にくり抜いた墓穴があるところです。墓場に住んでいたというのは、墓穴で夜露をしのいでいたということです。イエス様がその男の人から悪霊を追い出します。悪霊は自分の名はレギオンと言いました。それはローマ帝国の軍隊の6,000人からなる部隊を意味する言葉です。つまりそれくらい沢山の悪霊が男の人にとりついていたのです。悪霊たちは男の人から追い出されると今度は豚の群れに入り、豚は気が狂ったようになって崖に向かって突進、崖からガリラヤ湖に飛び込んでみな溺れ死んでしまいました。
この出来事はイエス様が悪霊を追い出す力があることを示す出来事の一つです。ここで、悪霊の追い出しということについて少し考えてみましょう。悪霊がとりついて人間が異常な行動を取ったり病気になったりする話は聖書によくあるし、キリスト教以外にも沢山あります。異常行動や病気をなくすために悪霊の追い出しということがあるわけです。しかし、それは現代社会には相応しくないと考えられます。現代では病気や異常行動の解決には医学的、精神医学的、心理学的な解決がはかられるからです。問題の原因は悪霊のとりつきにあるとして、それを追い出して解決しようとするのは前近代的と考えられます。それではイエス様の悪霊追い出しは前近代的なことで、今は医学的、精神医学的、心理学的に解決させるのが当然と言ったら、イエス様のやったことは私たちには意味のないことになります。意味がないばかりか、危険な考えを生み出すものとさえ見なされます。というのは、現代にも医学の力では解決できない問題は多くあり、その時、原因を悪霊のとりつきにあるとしてその追い出しで解決を得ようとする人もいるからです。その場合、誰が追い出しをするのかという問題がでてきます。そこにはいろいろな危険があります。でも、解決を求める人は藁にもすがる思いなので危険など二の次になります。
今日の説教では、イエス様の悪霊追い出しは前近代的なことだと言って軽く見てはいけない、それは現代にも意味があるということを明らかにします。結論を先に言うと、イエス様が悪霊を追い出した時に行使したのと同じ力が聖書の御言葉と聖礼典にも働いているということです。聖礼典とは洗礼と聖餐式のことです。聖書の御言葉と聖礼典にそのような力が働いていることをわかるために、イエス様の悪霊追い出しを細かく分析することは大事です。今日はそのような分析を行います。
本日と同じ出来事はマタイ8章とマルコ5章にも記されています。ただし、マルコと今日のルカでは出来事の場所はゲラサの町がある地域ですが、マタイではガダラの町がある地域となっています。これは、イエス様が地上で活動した時は問題の崖のある湖岸は行政的にゲラサに属していたのが、後にガダラに属したことによります。それなのでルカとマルコがこの出来事が起きた場所をゲラサと言うのは、「イエス様がおられた時あの崖はゲラサに属していた」という意味です。マタイがガダラと言うのは「イエス様が天に上げられた今はあの崖はガダラに属している」という意味です。いずれにしても同じ崖です。
この他にも、3つの福音書の記述には違いがあります。しかし、根幹部分はは3者とも共通しています。イエス様がガリラヤ湖の対岸に渡って悪霊にとりつかれている人を助け、追い出された悪霊は豚の群れに入って群れは崖に突進して湖に飛び込んで溺れ死んでしまったということ、これがマルコ、マタイ、ルカの三者に共通しています。細かい点で違いが生じたのは、最初の目撃者の証言が言い伝えられていくうちに付け足しがあったり省略があったりしたためです。しかし、付け足しや省略に付されない根幹部分があって、それが実際に起こった出来事を映し出しているということです。
さて、今日の福音書の日課はルカなので、私たちもルカの視点で出来事に迫ってみましょう。私たちの新共同訳では「ゲラサ人」とありますが、正確にはゲラサという町の住民です。ゲラサ人という民族がいたのではありません。ヘレニズム時代からローマ帝国時代にかけてこの町があるデカポリス地方はいろんな民族が混在していました。放牧されていたのが羊ではなく、ユダヤ民族が汚れた動物と見なした豚だったことから、ユダヤ民族以外の異民族が多数派だったと考えられます。
町の人たちの多数派が異邦人と考えられる理由は、豚の放牧以外にもあります。それは、町の人たちがイエス様の奇跡の業を見て彼に退去するように言ったことです。もし同じことがガリラヤ地方かユダヤ地方で起こったとしたら、人々はきっと預言者の到来だとかメシアの到来だとか大変な騒ぎになって、どうぞ滞在して下さいと言ったでしょう。ところが、ゲラサの町の人たちは、あんな凶暴な悪霊を追い出せるのはもっと恐ろしい霊が背後に控えているに違いないと恐れたのです。彼らが旧約聖書のメシア期待、エリアの再来の期待など持っていないことを示しています。
それでは、悪霊にとりつかれた男の人も異邦人だったのでしょうか?聖書の記述をよく見れば、ユダヤ人だったことが見えてきます。どうしてそんなことが言えるのかというと、イエス様は伝道の対象をイスラエルの民に絞っていたことに注目します。12人の弟子たちを伝道に派遣する時にこう言いました。異邦人の道に入るな、イスラエルの家の失われた羊のところへ行け、と(マタイ10章5~6節)。それで、悪霊に取りつかれた男の人は、異邦人が多数派を占める地域で少数派として暮らすユダヤ人とみることができるのです。まさにイスラエルの家の失われた羊なのです。イエス様の伝道の主眼は、旧約聖書を受け継ぐイスラエルの民を相手に天地創造の神について正確に教え、宗教エリートたちの誤りを正し、来るべき日に到来する神の国について教えたのです。もちろん、イエス様の十字架と復活の業は、ユダヤ民族だけでなく全ての民族が神の国に迎え入れられるようにするためになされました。しかし、それはまだ先のことです。エルサレムでの受難の道に入る前のイエス様の伝道はユダヤ民族を相手にすることが中心でした。
そう言うと、イエス様はローマ帝国軍の百人隊長の僕を癒したり、シリア・フェニキア人の女性の娘を癒してあげたりして異邦人も相手にしているじゃないか、と言われるでしょう。しかし、百人隊長と女性の場合は、イエス様が彼らとのやり取りを通じて、異邦人にもこんなに深い信仰があるのだととても驚き感心したことが癒しの実現に結びついています。つまり、二人の場合は例外的なことだったのです。本日の悪霊にとりつかれた男の人は、そういう異邦人がどうのこうのという問題は現れず、ストレートに癒しの対象になりました。それでユダヤ人だったと言えるのです。
悪霊を追い出してもらった男の人は、イエス様の弟子たちの一行に加えて下さいとお願いします。しかし、イエス様は家に帰って神がなしたことを伝えよと命じます。イエス様の命令は、ユダヤ民族に属する家の人たちに、旧約聖書に預言されたことがいよいよ実現し始めたことを伝えよと命じたのでした。ところが男の人は家に行くどころか、イエス様を拒否したゲラサの人々に伝え始めたのです。これは、イエス様の伝道は旧約聖書を受け継ぐユダヤ民族を相手にするものとして始まったのであるが、救いはユダヤ民族を超えて全ての民族に及ぶことが伝道の本質部分にあったことを示しています。この伝道の本質について既にイザヤ書49章6節で言われていました。そこで神は主の僕、つまりイエス様に対して次のように言われました。お前はヤコブの諸部族を復興させ各地に散らばったイスラエルの残存者を連れ帰らせる役目を負っているが、それでは不十分である、私はお前を全ての国民の光にして救いが全世界に及ぶようにすると。見かけはユダヤ民族に限った伝道でも、それを行うことで世界大の伝道も進むというのが神の構想なのです。
次に、イエス様が悪霊を追い出した時に用いたのと同じ力が聖書の御言葉と聖礼典にも働いているということを見ていきましょう。男の人が癒されるプロセスをよく見ることが大事です。注目すべきは、男の人は自分からイエス様のところに出向いて行ったということです。悪霊が引っ張って連れて行ったのではありません。それはあり得えないことです。なぜなら、悪霊はイエス様のことを自分を破滅させる力がある方だとわかっていて恐れているからです。何を好んで自分から進んで彼のもとに行く必要があるでしょうか?それなのに男の人はイエス様の前に行きました。これはどういうことでしょうか?ギリシャ語原文の書き方を見ると、舟から上陸したイエス様のところに男の人が自ら出向いて行ったことが明白です。悪霊にあんなにいいように振り回されていたのに、男の人はどうやってイエス様の前に行くことができたのでしょうか?
それは、悪霊にとりつかれてどんなに振り回されようとも、イエス様に会う意志があれば、それを悪霊は妨げられない、そのような悪霊に逆らう力がイエス様の方から働いてくるということです。男の人がイエス様の到着をどうやって知ったかはわかりません。たまたま岸辺近くにいたところを舟が着いて、あれは今やガリラヤ全土で預言者の再来との名声を博しているナザレのイエスだ、と誰かが叫んだのを聞いたのかもしれません。あるいは、イエス様の舟が近づいてきて、悪霊が動揺するのを男の人は感じ取ったのかもしれません。悪霊に動揺をもたらす方向、つまりイエス様の方を目指していけばいくほど悪霊の動揺はどんどん大きくなり、悪霊の方も男の人がイエス様を目指して行くことを阻止できない、それでますますイエス様の方に向かって行けたということではないかと思います。どちらにしても確実に言えることは、どんなに悪霊に振り回されても、一旦イエス様のもとに行くという悪霊の嫌がることをする意志さえ持てば、邪魔する力は弱まりだし、その意志にしがみついてさえいれば、あとは神の力が勢いを増して、あれよあれよとイエス様のもとに行けるということです。
さて、男の人はイエス様の前に立ちました。原文から出来事の流れが次のようであることがわかります。イエス様は自分の前に立つ男の人を見るや、彼が長年、悪霊にずたずたにされ、鎖や足かせを付けられても、すぐ破って荒野に引っ張って行かれてしまうことがわかった、それで彼を助けてあげようと悪霊の追い出しにかかった。そこで悪霊はパニックに陥り、地獄送り(αβυσσον地獄行きの待合室のようなところか)だけは勘弁して下さいと懇願する始末。ただし行き先は放牧中の豚にして下さいと。どうして豚を選んだかというと、こういうことだと思います。悪霊が人間にとりついても人間がイエス様のもとに行こうとする意志を持てば、最初どんなに小さな意志でも、イエス様に方向付けられたら最後、悪霊がもう何もなしえなくなる位の大きな意志になるのです。悪霊も、もう人間にとりついても無駄だと観念したのでしょう。豚だったらイエス様のもとに行こうとする意志など持たないだろうから楽だ、パニックに陥ることもないということだったのでしょう。そしてどうなったか?案の定、豚は一直線に自己破滅に突き進んでしまいました。
この出来事が私たちに教える大事なことは、この男の人のようにどんなに小さくとも破滅から助かろうとする意志があって、それでイエス様のもとに行こうとしたら、あとは邪魔するものが次々になぎ倒されていくような神の力が働くということです。自分の内なる意志は弱くて自分を助ける力がなくても、イエス様の方を向けば代わりに神の力が働いてくれてイエス様のもとに行けるのです。
しかしながら、私たちの場合は、悪霊追い出しの奇跡をする生身のイエス様が身近におられません。今イエス様は再臨の日まで天の父なるみ神の右におられるからです。しかし、心配には及びません。聖書を繙けばイエス様の教えと業が数多く証言されています。あわせて十字架と復活の業を成し遂げられたことも証言されています。目撃者は目で見た通りに耳で聞いた通りに信じました。私たちの場合は、聖書に記されている通りにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けました。そうすることで、イエス様が十字架で果たしてくれた人間の罪の償いがこの私にとっての償いになり、罪を償ってもらったのこの私は神から罪を赦された者として見なされて創造主の神と結びつきを持って生き始めます。本日の使徒書の日課ガラテア3章27節でパウロは、洗礼を受けた者はキリストを衣服のように身に纏っているのだと言います。神は私たちが纏っているキリストをご覧になるので、私たちのことを罪を償われて赦された者と見て下さるのです。悪霊はイエス様の前で動揺しパニック状態になりました。私たちは身に纏っているイエス様を悪霊に示してあげれば、悪霊はあの時と同じようにパニックに陥るのです。
悪霊が目指すことは、キリスト信仰者が身に纏っているイエス様の衣を手放させて、人間と神との結びつきを断ち切ることです。しかし、神は私たちが衣をしっかり纏えるように、神との結びつきを保てるように聖書の御言葉と聖礼典を私たちに与えて下さいました。聖書の御言葉を通してイエス様が救い主であることはその通りですという心があれば、それは洗礼を通して与えられた聖霊がその心の持ち主に働いている証拠です。悪霊が取りつく島などありません。その上、聖餐を受ければ、パンとぶどう酒を介してイエス様そのものを自分の内に取り込むことになり、受けるごとにイエス様との結びつきは強まります。イエス様の衣がしっかり纏われている状態になります。
主にある兄弟姉妹の皆さん、キリスト信仰者が聖書の御言葉と聖礼典に密接に結びつけばつくほど悪霊が忌み嫌うことをしていることになり、悪霊を無力にすることになるのです。まさにこれが、イエス様が悪霊を追い出した時に行使したのと同じ力が聖書の御言葉と聖礼典にも働いているということです。