説教「復活とは変容なのだ」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書9章2-10節

主日礼拝説教 (2021年2月14日 変容主日)


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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 本日は教会の暦では1月に始まった顕現節が終わって、来週からイースター/復活祭へと向かう四旬節の前の節目の日です。毎年この日に定められた福音書の日課はイエス様が高い山の上で「姿が変わった」(9章2節)という出来事についての個所なので、「姿が変わった」、「変容した」ということで変容主日とも呼ばれます。イエス様の「変容」は、ギリシャ語の原文では正確には受動態ですので「変容させられた」です。誰によってさせられたかというと万物の造り主である神によってです。新約聖書のギリシャ語では受動態の形で「誰によって」がない時は大抵の場合は神を指します。神を名指しすることは畏れ多いのであえて言わないのです。そういうわけで、イエス様は父なるみ神の力で変容させられたのです。これと同じことはイエス様の死からの復活にも当てはまります。普通は「復活した」と言いますが、原文では受動態なので「復活させられた」、つまり神の想像を絶する力で復活させられたのです(後注)。しかも、復活した後の体はそれまでの肉の体と異なっていました。どんなふうに異なっていたかはイースターの時にお話しすることになるでしょう。

キリストの変容

イエス様の変容はどのようなものであったかと言うと、衣服が非常に白く輝いたことが言われています。マタイ福音書の同じ出来事を扱った個所を見ると(17章2節)、衣服だけでなくイエス様の顔が太陽のように輝き始めたとあります。ルカ福音書では(9章29節)、やはり衣服だけでなく顔のみかけが別物だったと記されています。マルコ福音書で言われているのは衣服だけですが、最初に「変容させられた」(2節)と言って、その後で衣服が白く輝きだした(3節)と言っているので衣服以外の部分も変わっているのは明らかです。ただ、衣服の白さの輝きがあまりにも尋常ではなかったので、マルコはそれを特筆したのでしょう。

この高い山の上での出来事はマルコ、ルカ、マタイの3つの福音書に取り上げられていて大筋は同じです。細部は異なっていますが、それは、福音書記者それぞれの視点があって、これを強調したい、これはしなくてもいい、ということがあるからです。そういうわけでこの出来事の本日の説き明かしは、マルコの視点に立ったものになります。

ここで言われる「高い山」について。毎年お話ししていますが、ヘルモン山という現在のシリアとレバノンの国境にある2,814メートルの山であるのは間違いないでしょう。どうして特定できるかと言うと、マルコ8章27節にイエス様と弟子たちの一行がフィリポ・カイサリア近郊まで来たとあります。そこから本日の個所まで地理的な移動は述べられていません。もし一行がまだ同地方に滞在していたとすれば、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートル北に聳えるヘルモン山の可能性が大です。

ここのギリシャ語原文を見るといろいろ面白いことに気づきます。例えば、新共同訳では「ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」と訳していますが、「登る」という動詞は使われていません。正確には「イエス様は3人を運び上げた」です。イエス様が3人をおんぶしたみたいですが、実際は疲れた3人を励まし続けたか、なんで俺たちにこんなきついことをさせるのか不平不満があって叱咤し続けたのか、とにかく足取り重い弟子たちをなんとか頂上まで引き連れたのが「運び上げた」ということだったのでしょう。

ここでヘルモン山の登山がどれだけ大変なものか思い巡らしてみましょう。フィリポ・カイサリアは海抜300メートル位のところなので、頂上まで標高差は2,500メートル位あります。登山する人ならどれ位の時間とエネルギーを使うかすぐわかるでしょう。私の家族はしょっちゅうと言っていいほど高尾山に登ります。麓の高尾山口から標高599メートルの頂上まで標高差は400メートル位で、それを1時間のペースで登るとかなり汗だくになります。ヘルモン山はそれを6回繰り返さなければならないので本当に大変です。ちなみに私は高校時代によく山登りしたのですが、北アルプスの剣岳を早月尾根という尾根から登ったことがあります。標高差2,200メートルです。若かった当時は休憩含めて10時間かからなかったと思います。しかも連続する岩場のスリルと目を奪う壮大な眺めのおかげで文字通り登山の醍醐味を堪能でき、それで疲れたという記憶もありません。

ところが3人の弟子たちの場合は別に登山が趣味でもなく、しかも目的も告げられていないので、何でこんな疲れることをしなければならないのかという雰囲気になったことは容易に想像できます。イエス様はこれから山の上で起こることを後々のために見届けさせようとしたのでした。何を見届けさせようとしたのか?それは一言でいうと、復活とは変容であるということです。高い山でのイエス様の変容の出来事はこのことを私たちに教えているのです。今日はそのことをマルコの視点で明らかにしていきましょう。
2.山の上でイエス様が変容した時、マルコの注意を最も引いたのは、イエス様の着ている服が非常に真っ白に輝いたということでした。どうして服が白く輝いたことが「変容」の出来事の中で最も注意を引いたのでしょうか?それは続きの文を見ればわかります。「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とあります(9章3節)。「さらし職人」というのは、衣服や布の汚れや余計な色を洗い落として純白にする職業の人です。今で言えば、漂白ということでしょう。当時はどのように漂泊したのか特に調べませんでしたが、いずれにしても古代世界においても衣服や布を純白にする専門家がいたということです。ここで重要なのは「この世のどんなさらし職人」もできないくらいに白く輝いたということです。イエス様が放った白い輝きはこの世的でない白さ、天上の白さだったということです。イエス様は乙女マリアから肉体を伴って人間として生まれたけれども、この時は神の力で神聖な神のひとり子としての神聖な姿形に変えられていたのです。神の御許にいるのに相応しい姿形です。

イエス様がこの世的でない天上の白さで輝いた時、それは私たち人間がどれだけそのような白さから遠ざかった存在であるかを如実に示した瞬間でもありました。私たち人間は神の御許にいるのに相応しくない存在であるということです。どうしてそうなのかと言うと、創世記の最初に記されているように最初の人間が神の意思に反しようとする性向、それを聖書では罪と呼びますが、それを持ってしまったために神聖な神の御許にいられなくなって神との結びつきを失ってしまったのです。もちろん、この世には悪い人だけでなく良い人も沢山います。しかし、創世記2章17節と「ローマの信徒への手紙」5章に記されているように、最初の人間が罪を持つようになったことが原因で人間は死ぬ存在になってしまいました。それで、人間は代々死んできたように、代々みんな罪を汚れのように受け継いできたのです。

人間が罪の汚れから洗い清められ、神の目に相応しいものとなって最終的に復活の日に復活を遂げて神聖な神の国に迎え入れられるようになるためには、神の神聖な意思に完全に沿うようになっていなければなりません。しかし、それは不可能なことです。どうしてかと言うと、神の神聖な意思を表しているものとして十戒の掟があります。しかし、それは、使徒パウロがローマ7章で明らかにしているように、人間が神の目に相応しいと認めてもらうために実行していくものではありません。そもそも完全に守り切ることなど人間には出来ません。そうではなくて、人間が神の神聖な意思からどれだけ遠ざかった存在であるかを思い知らせる鏡なのです。詩篇のなかでダビデは神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(51章4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように人間の罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

それでは神は人間を洗い清めて下さるのでしょうか?もちろん、洗い清めて下さいます。どのようにしてでしょうか?それは次のような次第で行われました。神はひとり子のイエス様をこの世に送り、本来人間が受けるべき罪の神罰を全てイエス様に負わせてゴルゴタの十字架の上で受けさせて死なせました。イエス様が罪の償いを私たち人間に代わって神に対して果たして下さったのです。そこで人間はこのことが本当に起こったのだとわかってイエス様を自分の救い主であると信じて洗礼を受けると罪の償いがその人にその通りになります。罪を償ってもらったので神から罪を赦された者として見なされるようになります。パウロがガラテア3章27節とローマ13章14節で言うように、洗礼を受けた者はイエス様を衣のように頭から被せられるのです。父なるみ神は私たちを見る時、私たちの内に残っている神の意思に反しようとする罪よりも、私たちに纏われたイエス様という純白な衣の方に目を向けようとされるのです。

イエス様は十字架の上で私たちの罪を償う身代わりの死を遂げただけではありませんでした。3日後に神の想像を絶する力によって死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、そこに至る門を私たちに開いて下さいました。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は永遠の命が待っている神の国に至る道に置かれて、イエス様の純白な衣を着せられて歩み出すこととなったのです。

 

3.イエス様という純白な衣を頭から被せられたと言っても、私たちの内にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。イエス様の犠牲のおかげで罪を赦された者と見てもらえ、神の目に相応しい者にしてもらったとは言っても、それに相応しくないことが自分に沢山あることに気づかされます。人を傷つける行いや言葉は出さないようには出来ても、心の中で思ったりしてしまいます。神の意思についてイエス様は心の中まで問われると指摘しました。また、どんなに注意しても、人間的な弱さがあったり隙をつかれたりして罪が言葉や行いになって出てしまうこともあります。そのような時はイエス様の衣を汚したとして取り去られてしまうのでしょうか?もう神の目から見て一生失格者なのでしょうか?

そうではないのがキリスト信仰なのです。罪の思いを持ってしまった時、罪の言葉や行いを出してしまった時、その事実から目を背けずにそれを神の意思に反する罪と認めて次のように神に祈ります。「父なる神さま、せっかくイエス様が罪を償って下さったのにそれを台無しにするようなことをしてしまいました。イエス様を救い主と信じますので、どうか赦して下さい。」さあ、神はどう出るでしょうか?神は次のように言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前の心の目をゴルゴタの丘の上に立つ十字架に向けよ。お前の罪の赦しはあそこで打ち立てられてそれは今も微動だにしない。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからはもう罪を犯さないようにしなさい。」そう言って私たちを新しく送り出して下さるのです。その時私たちは復活された主が墓を後にして出て行ったように私たちも新しい歩みを始めるのです。

キリスト信仰者の人生はこのような罪の告白と赦しの繰り返しです。それを断ち切らないで続けることがイエス様の純白の衣を纏い続けることになります。たとえ罪が内に残っていても、神の方を向いて罪の告白と赦しを繰り返すことでイエス様の衣を手放さなずにしっかり纏い続けていくと、罪は衣の神聖な重みで日々圧し潰されていきます。そして、いつの日か神の御前に立たされる時、自分の人生は罪が内に残っていた人生だったかもしれないが、イエス様の衣を最後まで手放さなかったことで罪を圧し潰す側に立って生きていたことが明らかになります。神はこれをよしと認めて下さるのです。これがキリスト信仰者に下される審判です。この世で罪を圧し潰す側に立って生きると、馬鹿にされたり爪はじきされたりすることが多くなります。でも、それは間違いではなかったと復活の日にはっきりします。その時、信仰者にはもう圧し潰す罪がなくなっています。外側だけでなく内側も純白になって変容を遂げているのです。

 

4.ここでイエス様が3人の弟子たちに山の上で見たことを自分が復活する時まで人に話してはいけないと命じたことについて考えてみます。これは実は本日のテーマである、復活と変容の関係に関わります。なぜイエス様はそのようなことを命じたのでしょうか?

先週の説教でも触れたことですが、イエス様が自分は何者であるかとか、自分が奇跡の業を行った時とか、そういうことを他の人に知らしてはいけないと命じたことが沢山あります。これについて、W.ヴレーデというドイツの歴史聖書学者が120年前に発表した学説が今でも影響力を持っているということをお話ししました。ヴレーデの説は、マルコは福音書を書いた時、イエス様は自分の正体を復活の日まで秘密にするように命じ、その日に全てが明らかになるような仕掛けで福音書を書き上げたというものでした。彼の学説には沢山の反論もあり、私も与しない立場ですが、それならばイエス様のかん口令はどのように説明できるのか、これを説明できなければなりません。先週は悪霊に対するかん口令を説明しました。今日は3人の弟子たちに対するかん口令です。今日のは特にイエス様が自分の復活の時まで話してはいけないと言うので、ヴレーデの説明が一番響くところです。この個所をマルコの創作ではなく、イエス様が実際に話された言葉としてみたら、どのように説明できるでしょうか?

イエス様が自分の復活の時まで話してはいけないと命じた時、弟子たちは復活とは一体何なのかわからなかったとあります(10節)。弟子たちがわからなければ他の人たちもわからなかったでしょう。復活というものがわからない段階で山の上の出来事を知らせるのは時期尚早、イエス様が復活を遂げて復活というものが起こるのだとわかった段階で知らせたら復活がわかるようになるということです。つまり、イエス様の復活の後ならこの出来事は復活の理解に資するが、復活の前では資さないということです。さあ、どういうことでしょうか?

この問いに答えられるためにモーセとエリアの出現について考えることが役立ちます。遥か昔の時代の預言者が突然現れたというのは、これは幽霊でしょうか?そうではありません。二人は神の御許から送られてきたのです。ここは少し複雑なところなので、よく注意して聞いて下さい。聖書の観点では人間がこの世を去った後に神の国に迎え入れられるというのは、今の世が終わって神が新しい天と地を創造される時になってからのことです。その時までは亡くなった人たちは神のみぞ知る場所にて安らかに眠っています。その眠りから目覚めさせられるのが復活です。

ところが聖書には、そういう将来の復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた人たちがいることが言われているのです。本日の旧約の日課に出てくるエリアがその一人です。モーセの場合は少し微妙で、申命記34章では「死んだ」と言われていますが、彼を葬ったのは神自身で、その葬られた場所は誰にもわからないという謎めいた最後の遂げ方です。それでモーセの場合も、この世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしないで、復活の日を待たずして神の御許に迎え入れられたと考えられます。その証拠に彼はエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られてきました。これは、もう幽霊などという代物ではありません。このように、聖書の観点ではこの世を去った人は原則として復活の日までは神のみぞ知る場所で安らかに眠るのが筋です。ただ、例外的に復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた者もいるということです。

さて3人の弟子たちは目の前に現れたエリアとモーセを見てどう思ったでしょうか?イエス様が復活された時、突然弟子たちの前に現れて弟子たちは幽霊だと思って大騒ぎになりました。イエス様は自分は幽霊ではないと言って、新しい復活の命を持つ自分を示して弟子たちを納得させました。しかし、イエス様の復活が起きる前のヘルモン山の上で弟子たちはまだ復活について何も知りません。彼らにとってエリアとモーセはやはり幽霊だったのではないかと思います。しかし、この二人は本当は既に神の御許に迎え入れられた者として現れたのです。その証拠に、ルカ9章31節を見ると、二人は「神の栄光に包まれて現れた」と言われています。幽霊にはそんな神の栄光などありません。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からではないので、私たちは一切関りを持たないように注意しなければなりません。それは万物の造り主である神の意思でもあります。なぜかと言うと、旧約聖書の多くの個所で神は死者の霊とのコミュニケーションを禁じているからです(レビ19章31節、申命記18章11節、サムエル上28章、列王記上21章6節、イザヤ8章19節)。日本人には痛いところかもしれませんが、これが聖書の立場なのです。

さあ、3人の弟子たちの驚きと恐れはいかほどのものだったでしょうか?神は死者の霊とのコミュニケーションを禁じているのに、なんとイエス様はエリアとモーセと話をしているではないか!しかし、イエス様は天上の純白さで輝き、エリアとモーセも神の栄光に包まれている。これは幽霊ではない。じゃ、一体何なんだ!という具合にです。でもこれは、私たちも復活を遂げたらエリアとモーセのように神の栄光に包まれた者に変容させられて、天上の純白さに輝くイエス様とお話ができるという、自分たちの未来像が示されていたのです。これは本当に、死からの復活、死を超えた永遠の命があることがわからないと未来像として受け取ることは不可能です。だからイエス様の復活の後でなければわからないことであり、人々に正しく伝えられるためには主の復活を待たねばならなかったのです。

 

5.最後に山上に現れた雲についてひと言述べておきます。登山する人は高い山では天候があっと言う間に急変すること、例えば、ちょっと前まで晴れていたのが冷たい空気が流れ始めるといつの間にか周囲は霧で真っ白になることを知っています。登山用語でガスと言いますが、それは麓から見たら山にかかる雲ということになります。それなので、ヘルモン山上で急に雲が覆ったというのは普通の自然現象としてもあり得ます。普通の自然現象を超えるような雲については出エジプト記の中で述べられています。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を受け取った時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死んでしまうと言われました(18~23節)。これが神聖な神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをわきまえていなければなりません。

そういうわけでシナイ山の雲は、生身の人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山上でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、雲は同じようにペトロたちを守るものだったと言えます。そして、私たちが復活を遂げて肉の体にかわる、神の栄光を映し出す復活の体を着せられる時、私たちも変容させられたのであり、その時はもう防護壁はいりません。パウロが第一コリント13章12節で言うように、「そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」からです。まさに復活とは変容のことなのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注)復活を意味する動詞はεγειρωとανιστημιがあり、受動態で使われるのは前者です。

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたはあの高い山でイエス様が変容(へんよう)した時、彼に聞き従え、とお命じになりました。どうか私たちが、イエス様のおかげで天のみ国を受け継ぐことが出来るようになったことを常に覚えて感謝し、彼の教えられたことを喜んで行えるようにして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

 

 

 

説教「神の国に向かって進む者は疲労しても必ず回復する」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書1章29-39節

主日礼拝説教 (2021年1月31日 顕現節第5主日)

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.カファルナウムの長い一日

今日の福音書の個所を読んだ皆さんは、ここにある出来事は先週の出来事の続きで全部が一日の内に起こったことと分かったでしょうか?実にたくさんのことが一日の内に起こりました。少し遡ってみてみますと、イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、その後で荒野で悪魔から試練を受けてこれに打ち勝ちます。その時、ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕らえられたという知らせを聞き、イエス様はガリラヤに乗り込んで行きます。そこでまずペトロとアンドレの二兄弟とヤコブとヨハネの二兄弟を弟子にして付き従わせます。そして、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムにやって来て、安息日に会堂に行って教えを宣べます。この安息日に沢山のことが起こったのです。会堂にいた人々はイエス様の教えに律法学者にはない権威を感じ恐れ入ります。丁度その時、会堂にいた悪霊に取りつかれた人が叫びだし、イエス様はその人から悪霊を追い出します。会堂にいた人々はイエス様の教えにはそのような力が伴っていることも思い知ります。この会堂の出来事が先週の福音書の個所でした。この出来事はその日のうちにガリラヤ地方に伝わっていきます。

今日の個所はその続きです。会堂から出たイエス様とペトロ、アンドレ、ヨハネ、ヤコブの4人はペトロとアンドレの家に向かいます。家にはペトロの奥さんの母親が熱を出して苦しんでいました。イエス様は彼女に癒しの奇跡を行います。そして日が暮れて夜になると、なんと、カファルナウムの町中から病気の人や悪霊に取りつかれた人が大勢連れて来られて家の門の前に群れを成したのです。日が暮れた時に連れて来られたというのは、安息日が日暮れと共に終わったからでした。安息日は仕事をしてはいけない日で、病人を運ぶことも仕事とみなされたのです。町の人たちは癒しの奇跡を行う者が現れた、漁師のペトロとアンドレと一緒だと聞いて、日が暮れるや否や一気に押し寄せたのです。

イエス様はそこで大勢の人の病気を治し悪霊を追い出します。会堂に行って教えを宣べて悪霊を追い出してから、本当に長い安息日になりました。本当にお疲れ様でした。さて、癒しや悪霊追い出しが夜通し続いた途中だったのか、あるいは一息ついたところかははっきりわかりませんが、イエス様は夜明け前の一番暗い時にその場を抜け出して人気のないところに行ってそこで祈っていました。すると、ペトロたちがやって来て、人々があなたを探していますと伝えます。早く戻って来て癒してあげて下さいということでしょう。それに対してイエス様は、もっと近隣の町や村に行って教えを宣べ伝えなければならないと言います。そのために自分は家を抜け出してきたのだと言うのです。それでペトロの家には戻らず、ガリラヤ地方の会堂を回って教えを宣べ伝えます。

これを読むと、あれっ、イエス様は少し冷たいな、もう少しペトロの家の所で癒しと悪霊追い出しをしてあげればよかったのになどと思ってしまいます。でも、イエス様にとっては教えを宣べ伝える方が先決だったようです。ところで、新共同訳では「教えを宣べ伝える」と言わないで「宣教する」と訳しています。もとにはκηρυσσωというギリシャ語の単語がありますが、それは「教えを宣べ伝える」という意味です。「宣教する」も同じではないかと思われるかもしれませんが、実はそうとも言えないのです。こんなことがありまして、日本福音ルーテル教会の東教区の中央線沿線の7教会が毎年「一日教会祭」という、各教会がそれぞれのタレントをお互いに披露しあうというイベント行事を市ヶ谷教会を会場にして行っています。昨年はコロナで中止でしたが、2年前の一日教会祭である教会が教会外部のベリーダンス・グループを招いて自分の教会の出し物としてダンスを披露させました。その後で牧師と役員の会合があったのですが、私が、あの出し物は一日教会祭の趣旨に合わないのではと疑問を呈したところ、あれは立派な「宣教」なのだ、そんなこともわからないのか、と呆れかえられてしまいました。私が神学を学んだフィンランドでそういう「宣教」に類する言葉はあるかどうか考えてみたのですが思い当たらず言葉に詰まってしまいました。それ以来、私は「宣教」という言葉を使うのをやめることにしました。「福音の伝道」と言うことにしています。

話が横道に逸れましたが、イエス様が重視した「教えの宣べ伝え」を今日の説教で見ていこうと思います。イエス様が癒しや悪霊の追い出しを軽視したということではないのですが、ただそれらが「教えの宣べ伝え」とどういう関係にあるのかを明らかにする必要があります。

2.イエス様は教えることを優先するが、その教えには力が伴っていた

イエス様が宣べ伝えた「教え」とはどんな教えだったでしょうか?イエス様はガリラヤ地方で伝道活動を開始した時に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と宣べました。2週間前の説教でお教えしたことですが、「時は満ちた」というのは「神の人間救済の計画が実行に移される時が来た」という意味です。「神の国は近づいた」というのは、「神の国がイエス様と一緒にすぐそばに来ている」という意味です。「悔い改めよ」とは、「神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生きよ」と言う意味、「福音を信じなさい」は「旧約聖書にある神の約束がいよいよ実現するという良い知らせを信じなさい」ということです。イエス様の教えの中心にあるものは「神の国」です。人間が「神の国」に迎え入れられるようにするためにはどうしたらよいか?これがイエス様の教えと業の双方を理解する鍵であると言っても過言ではありません。

 「神の国」については本教会の説教でも何度もお話ししましたが、ここでも振り返ってみます。「神の国」は「天の国」とか「天国」とも言い換えられるので、何か空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」は今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られたというのが聖書の立場です。万物の造り主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはしませんでした。そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大なものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間の救いを実現したことでしょう。

そこで、イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26ー29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を創造して、そこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。そう言うと、「神の国」すなわち天国はこの世の終わりに現れてくるということになり、あれっ、キリスト教は死んだらすぐ天国に行けないの?という疑問が起きます。実はキリスト教には「復活」の信仰があるので、そうはならないのです。「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。

そうなると、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これもルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠り、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということになります。

 さて、イエス様は「神の国は近づいた」と言いましたが、それはこの世の終わりが近づいたことを意味したのではありませんでした。イエス様の時代から2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様は神の国の近づきを終末論と違った意味で言っていたのです。どういうことかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを示していたのです。イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、とにかく沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まって困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。

 実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せて味あわせたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神から労われるところです。また、黙示録21章で言われるように、そこに迎え入れられた人の目から神が全ての涙を拭い取って下さるところです。この涙は痛みだけでなく無念の涙も含まれます。つまり、この世の人生で被った不正義や害悪が最終的に神によって償われ、不正義や害悪をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえうまく行かなくとも無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。

 このように神の国とは、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死もない、永遠の平和と安心があるところです。そこで、イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。

 しかしながら、ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまいました。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしたり宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできません。自ら神聖なものに変身して神と対等になることなどできません。

この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様の十字架の死と死からの復活だったのです。私たち人間は、イエス様の十字架と復活が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が十字架の上で果たしてくれた人間の罪の償いがそのまま自分にその通りになります。罪を償ってもらった者になったら今度は神から罪を赦された者と見なされて、永遠の命が待つ神の国に向かう道に置かれてその道を進むことになります。イエス様の死からの復活のおかげで永遠の命への扉が人間に開かれました。キリスト信仰者はそこに至る道を順境の時も逆境の時もいつも変わらず神に守られ導かれて進みます。たとえこの世を去ることになっても復活の日に目覚めさせられて神の国に永遠に迎え入れられるようになったのです。

以上、イエス様は教えを宣べ伝えることをとても大事にしたということと、彼の教えの主眼は人間を神の国に迎え入れられる者にすることであったことを見てきました。イエス様の教えには癒しや悪霊追い出しの力が伴っていましたが、それは神の国が彼と共にあったからということも見ました。

3.悪霊の言うことには耳を貸すな

本日の個所のイエス様の癒しと悪霊追い出しの業の中でひとつ難しいことがあります。それは34節にあります。「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。」

これを読むと、悪霊がイエス様のことを知っていたので、イエス様は悪霊に話をすることを許さなかったということになります。これはどういうことでしょうか?悪霊がイエス様のことを知っていて、イエス様が話をすることを許さないというのは既に先週の個所にありました。24節で悪霊が取りついている男の人の口を通して叫びます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」これに対してイエス様は𠮟りつけて言います。25節です。「黙れ。この人から出ていけ!」ここで「神の聖者」という訳についてひと言申し上げます。「聖者」と言うと「聖者の行進」という有名なゴスペル・ジャズの歌があるので何だか死んだ人みたいに聞こえてきます。それではイエス様が可哀そうです。ギリシャ語原文を見ると「神の神聖な方」です。定冠詞がついているので「神の神聖な方の決定版」です。英語で言えばThe holy one of Godです。「聖者」ではありません。悪霊はイエス様が神の神聖なお方で、悪霊を滅ぼす力があるとわかっていました。それに対してイエス様は「黙れ!」と言って、それを口にしてはいけないと言うのです。マルコ3章でも、悪霊がイエス様のことを「神の子だ」と言って恐れおののき、イエス様はそれを人々に知らしてはいけないと戒めます。これは一体どういうことでしょうか?

福音書を見ると悪霊の追い出し以外にも、イエス様が癒しの業を行った時に誰にも言ってはならないとか、自分が行ったこと自分が神のもとから来た者であることを口外してはならないという場面が多くあります。イエス様のこうしたかん口令について、ドイツの歴史聖書学者のW.ヴレーデという人が1901年という昔に「メシアの秘密」という有名な研究書を出しました。彼によると、マルコ福音書を書いた人は、イエス様が自分の正体を人々に隠し続け、復活の時になって全てが明らかになるという仕掛けで福音書を書き上げたと言うのです。これからわかるように、福音書というのは歴史的事実を伝えるものではなく福音書作者の文学作品という立場です。ヴレーデの学説は長く影響力を持って、学会だけでなく礼拝の説教でもイエス様のかん口令を説明する際によく使われたのではないかと思います。ただし、ヴレーデの説に対する反論も沢山あります。私も賛成しません。それでは、悪霊がイエス様のことを知っていたからイエス様は悪霊が話をすることを認めなかったということは、どうやって説明できるでしょうか?

先週の説教で、悪霊と悪魔の区別についてお話ししました。悪魔・サタンは悪霊の頭、悪霊は悪魔・サタンの手下です(マルコ3章等にあるベルゼブル論争を参照)。悪魔は人間を神から引き離して神罰を受けるように陥れようとします。悪霊は人間に苦しみを与えて救いなどない、神などいないという気持ちに持って行こうとします。ところが、イエス様の十字架と復活の業のおかげで神から罪の赦しを受けられる可能性が打ち立てられました。さらに、永遠の命に至る扉も人間に開かれ神の国に迎え入れられる可能性が打ち立てられました。まさにそのために悪魔と悪霊の企ては破たんしてしまいました。それにもかかわらず両者は機会を捉えては、人間が罪の赦しがあることも神の国への迎え入れの可能性も知らないようにしようとします。仮に知ることになっても忘れるようにしようします。

さて、悪霊がイエス様のことを「神の神聖な方の決定版」とか「神の子」と呼ぶのは、本当にその通りで間違ってはいません。ただそれは信仰告白ではありません。私たちがイエス様のことを「神の子」と呼ぶのは信仰告白です。なぜなら私たちは、イエス様が私たちに罪の赦しと神の国への迎え入れをもたらして下さった、だから彼は真に「神の子」です、と告白するからです。これが信仰告白です。ところが、悪霊の場合は、イエス様が自分たちを滅ぼす力を持っているから「神の子」なのです。これはその通りですが、信仰告白ではありません。なぜなら、人間の神の国への迎え入れということが全然出てこないからです。イエス様が自分は神の神聖な者、神の子であるということを悪霊に話させないようにしたのは、信仰告白と無関係に正体の暴露はするなということです。イエス様と悪霊のやり取りは周りの人たちにも聞こえます。悪霊を黙らせるというのは、それらの言うことに耳を貸してはならないということも意味しています。ここでもイエス様が人間の神の国への迎え入れを大事に考えておられることが見えてきます。

4.神の国に至る道を進む者は疲労しても必ず回復させられる

先ほども申しましたように、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてその道を進むようになります。しかしながら、その道を進むことはいつも楽ではないということが、本日の旧約の日課イザヤ書40章の終わりでも言われます。まず、27節に「わたしの道は主に隠されている、わたしの裁きは神に忘れられた」と嘆きの言葉があります。ヘブライ語原文をもう少ししっかり見ると、「私の歩む道は主の目に届いていない、私の正義は神のみ前を素通りしてしまう」です。父なるみ神に見放されたと思って嘆いているのです。ところが神は、そうではないと、28~31節で言います。「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまづき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いていても疲れない。」

「主に望みをおく人」というのは、これも原文に忠実に見ると「主を待ち望む人」です。「主」というのはヤハヴェと書いてあるので、聖書の神のことです。それで「主を待ち望む」と言うのは、「神が救ってくれるの待ち望む」ことです。「神の救いを待ち望む」とは言うまでもなく、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられる、その時を待ち望むことです。その時を待ち望む者は、神の国に向かう道を進んでいる時に疲労しても必ず回復が与えられるということを、このイザヤ書40章の終わりで約束しているのです。主にある兄弟姉妹の皆さん、疲労回復のカギは何と言っても神の国への迎え入れを常に待ち望んでいるかどうかにかかっていることを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたは、ひとり子イエス様の十字架の死と死からの復活によって、私たちの心の目と耳を開いてくださいました。 どうか私たちが、開かれた目と耳をもって聖書の御言葉が伝える真の希望を見出し聞こえるようにして下さい。 

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

説教「神は人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つように教育する」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書1章21-28節、第一コリント8章1-13節

主日礼拝説教 2021年1月31日 顕現節第四主日

説教題「神は人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つように教育する」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の聖書日課の使徒書第一コリント8章と福音書マルコ1章の箇所は3年前の礼拝説教で説き明かしをしました。その時、これは頭の痛い厄介な個所だと申しました。というのは、マルコの方はイエス様が悪霊を追い出す奇跡を行うところで、悪霊追い出しなどというものは今どき真面目に取り上げるべきものではないと言われてしまうからです。しかし、聖書に書かれていることを単に大昔の人間の作り話なんかではないという立場で見ていきますと、やはりイエス様の悪霊追い出しは避けて通れないテーマです。

もう一つ厄介なのは、コリント8章の偶像に備えられた肉をキリスト信仰者は食べていいのかという問題です。キリスト信仰者が社会の少数派であるところでは似たような問題が起きてきます。この日本でもそうです。コリントの偶像に備えられた肉というのはどういうものか少し振り返ってみます。

コリントは現在のギリシャにある町で、そこにある教会に使徒パウロが手紙を送ったのでした。当時キリスト教は始まったばかりで、どこでも少数派でした。キリスト教が広まる地域は大体、ギリシャ神話の伝統が根強い地域で神話の神々の神殿があちこちにあり、人々はそこにお参りに行きます。当時の肉の食べ方ですが、まず家畜を神殿で生け贄に供えるものとしてそこで屠ります。それを祭事の時にみんなで食べるか、またはマーケットに出して売ります。そういうわけで肉料理と言ったら、宗教儀式を経た肉が使われたということなのです。さあ、キリスト教徒は違う宗教の儀式を経て供えられた食べ物を食してもよいのでしょうか?

第一コリント8章でパウロは、「偶像など存在しない、神々などというものはあっても、神は本当はただ一人のみ、その方が万物を造られたのだ」と言って、万物の造り主としての唯一の神を打ち出します。そういうことを言うと、多神教と言うのか多霊教と言うのか、そういう立場の人は、またキリスト教の独りよがりが始まったと嫌な顔をするかもしれません。

本日の説教は、3年前にお教えしたことを一歩先に進めるような説き明かしになると思います。3年前ははっきり出なかった視点がはっきりします。どんな視点かと言うと、神という方は私たち人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つように教育する方だということです。

2.偶像と異教の神々

初めに、偶像に供えられた肉をキリスト信仰者が食べることについてのパウロの教えを見ます。ここでまず、そもそも偶像とは何かということを考えてみましょう。パウロは4節で「世の中に偶像の神などはない」と言っています。しかし、そうは言っても世界には、これは何々神の像である、というような像は無数にあります。その意味で偶像の神はあります。パウロだってギリシャ神話の神々の像があちこちにあることは知っているはずです。なのにどうして、そんなものはない、などと言うのでしょうか?

これは、聖書の神が「生きる」神であることをわかるとパウロの真意が理解できます。旧約聖書のヘブライ語の言い方で、「~をした神は確実に生きておられる」とか「神が確実に生きておられるのと同じ確実さで~が起きる」というものがあります(חי יהוה אשר~)。神が確実に生きておられることの証明として「神は~をしたのだ」と言うのです。その神がした「~」には、例えば「イスラエルの民をエジプトの地から導いた」とか「民をバビロン捕囚から解放して祖国に帰還させた」とか、そういう歴史的に大きな事件が言われます(例としてエレミア16章14、15節)。こうした出来事は神が力を行使して起こったのだ、まさに神が生きていることの証しだというのです。

そこで聖書の中で偶像崇拝を批判する箇所を見ると、偶像は単なる像にしかすぎない、歴史的大事件を起こせるどころか、口があっても話せない、目があっても見えない、耳があっても聞こえない、足があっても歩けない、などと手厳しいです(例として詩篇115篇4ー8節)。つまり、生きている神から見たら偶像は死んでいるのです。それで、偶像は沢山存在するのにパウロが存在しないと言っているのは、「生きている」偶像は存在しないという意味なのです。

ただ、人によっては、何々神の像は見えないということはない、聞こえないということもない、ちゃんと見ておられる聞いておられる、聖書は失礼なことを言うな、と怒るかもしれません。つまり、そうした像が魂を持っていると思って畏敬の念を覚えるのです。像が魂を持っていると思えたら、像は見えている、聞こえている、ということになります。ところが像自体は何を見ているのか聞いているのか、像を作った人間のことをどう考えているのか教えてはくれません。人はどうやって像が見ていること考えていることを知ることが出来るでしょうか?多分、像はこういうことを見ている考えていると自分で思い描いてそれを潜在意識にインプットすれば、夢にでも出て来て教えてくれるかもしれません。

聖書の神が人のことをどう見て考えておられるかということはわかります。まず聖書に記されている神の意思というものを知って、それに自分を照らし合わせて見ると、神の目から見た自分の姿を知ることができます。また神は、私たちの祈りをいつも聞いていて下さり、祈り求めたことの答えや解決を御自分が良かれと思う仕方で良かれと思う時に必ず与えて下さいます。このように人間が自分の姿を知るにしても、祈り求めたことの答えを得るにしても、それはいつも神の視点で起こります。もちろん人間も自分の視点を持ちますが、それはいつも神の視点によって軌道修正させられます。聖書の神は、人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つようにと絶えず教育する方なのです。

第一コリント8章に戻りますと、パウロは5節で「天や地に神々と呼ばれるものがいる」と言います。生きた偶像は存在しないが、天や地に霊的なものが沢山あって、それらはみな「神」と呼ばれている、そういう霊的なものは存在することは認めています。これは旧約、新約聖書に共通する見方です。ところが6節をみると、これらの霊的なものは全て天地創造の神に造られた被造物にしかすぎないということが言われます。これも聖書の立場です。他の宗教が聞いたら、自分たちの神が低くランク付けされているようで、あまりいい気持ちはしないでしょう。しかし、聖書は出だしから万物の造り主の神が登場するので、立場上はそうならざるを得ないのです。

3.偶像に供えられた肉を食べないことが愛を示すことになる

偶像や神々というものと聖書の神の違いについて見ました。ここで、キリスト信仰者は違う宗教の儀式を経由してきた肉を食べてもいいのかという問題に入ります。このコリント8章はロジックが分かりにくいと思います。というのは、パウロは一見すると、強い信仰者は食べるが、弱い信仰者は食べない、と言っているようにみえるからです。

人によってはこれは逆なのではないかと思うでしょう。つまり、異教の神々に捧げられた肉なんか死んでも食わないぞ!と頑張るのが強い信仰者で、逆に食べないと周囲からつまはじきされてしまう、だから仕方なくおどおどして食べてしまうのは弱い信仰者ではないかと思われるからです。私が初めてこれを読んだ30年以上も前の時、その頃私に聖書を教えてくれたフィンランドの神学部の学生は言ったものでした。そうじゃないよ、逆だよ、偶像なんか存在しない!異教の神々なんか天地創造の神の前では何者でもない!そういうふうに信じる者は偶像に供えられた肉を物ともせずに食べられる、ところが、食べたら偶像や異教の神々の影響が入り込んでしまうと恐れて食べられないのは、まだそういうものがあると信じているので弱い信仰者なんだよ、と教えてくれたものでした。それを聞いた私は、そういうことならキリスト信仰者は皆、強い信仰者を目指して別の宗教の儀式に関わるものを受け入れて、さらには8章10節に言われているように、その儀式に結びつく宴にも参加できるくらいになれないといけないのか、などと驚いたものでした。

ところが、この説明に私自身しっくりいかないものがあって、なかなか食べられる強い信仰者になろうという気持ちは起こりませんでした。やはり自分は弱い信仰者止まりか、でも弱い信仰者で何が悪い、という気持ちになりました。その後もずっとこの箇所を読むたびに同じ気持ちでした。だって、パウロは弱い信仰者に強くなれとは言っておらず、弱いままでいい、自分も同じように食べないから心配するな、と言っているではありませんか!パウロは、偶像や異教の神々をものともせずに供えの肉を食べられる信仰をいいとか目指すべきとは言っていません。正確を期して言えば、パウロは他宗教の儀式を経た肉を食べる人のことを「強い」とは言っておらず、ただ「知識」を持つ者と言っているだけです。パウロが食べることを推奨する意図がないことは、テキストをよく見ればわかります。

「知識」ということについて、パウロは8章1節で「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と述べます。ここで言う「知識」は、先ほども述べた生きた偶像など存在しない、神々などあってもそれは全て被造物であるということを知ることです。その知識を持つことが肉を食べる前提になっています。「愛が造り上げる」というのは、キリスト信仰者というのは各自が一つの体の中の一つ一つの部分であって、それぞれがお互いを支え合いかばい合いながら一つの体として成長することを意味します(第一コリント12章12~31節、エフェソ4章16節参照)。パウロは、知識を持つだけでは肉は食べられるが高ぶってしまうと言うのです。それだけでは、お互いを支え合いかばい合う成長は起こらないと言うのです。

続く2節を見ると、「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は知らねばならないことをまだ知らない」、ギリシャ語原文を直訳すると、その人は知らなければならないようには知っていない(知らなければならない仕方では知っていない)、つまり、自分は知識があると言っている人の知識は神から見たらズレていると言うのです。この1節と2節から、知識を持つ者への厳しい見方が明らかです。知識を持つ者が異教の神に捧げられた肉を食べます。彼らは、生きた偶像など存在しない、神々などはあってもそれは単なる被造物で恐れるに値しない、だから食べても痛くもかゆくもない、と言って食べるのです。

ところが、食べられない信仰者もいる。なぜかと言うと、イエス様を救い主と信じて受け入れる前は、ギリシャの神々の神殿で礼拝していたので、その礼拝がどんなものかわかっています。それなので神殿の儀式を経由した肉を食べたら、その儀式の内容を一緒に摂取した感じになってあまりいい感じはしません。しかし、あの知識を持つ信仰者たちは平気で食べている、ましてや儀式が行われた神殿の宴で神殿礼拝者と一緒に食事までしている、自分も食べないと馬鹿にされてしまう、それじゃ自分も、とそれくらいの、明確な知識に基づかず風に吹かれるように食べてしまうと、はやり後で落ち着かなくなります。そのことについてパウロは10節で、「その人は弱いのに、その良心は強められて、偶像に供えられたものを食べるようになってしまわないだろうか?」と言っています。「良心は強められて」というのは、ギリシャ語原文では「良心は造り上げられて」です。さっきの1節の「愛は造り上げる」と同じ動詞(οικοδομεω)です。つまりここでは「良心は変なふうに造り上げられて」という意味で、同じ動詞を使うことでパウロは痛烈に皮肉っているのです。

パウロの結論は、自分はそうした肉は絶対食べないということでした。理由は、「弱い信仰者」が信仰にとどまれるようにするためでした。実を言うと、食べないのが正しいということはエルサレムの教会の方針でした。使徒言行録15章を見ると、パウロとバルナバがアンティオキアに派遣される時、先方の教会に対する指示が託されました。その一つがまさに偶像に捧げられた肉を食べてはいけないというものでした(29節)。

それなら、パウロはなぜコリントの知識を持つ信仰者にはっきりとダメと言わなかったのでしょうか?これはまたいろいろ調べなければ確実なことは言えませんが、今の段階で言えることは、コリントの教会は知識を持つ人や霊的に自信満々の人が多くいて、かなり好き勝手にやっていた教会であったことがパウロの手紙から窺われます。そういうところで指示通りのことを正面から言ったらどうなったでしょう?パウロは情けない奴だ、神は万物の創造者と本気で信じているのか?そう信じれば、異教の儀式で一緒にやったって痛くもかゆくもないのに。そんなふうに凝り固まっている人たちに、正攻法でいってもうまく行かないでしょう。パウロがとった論法は、コリントの知識ある信仰者たちよ、君たちは知識はあるが、それは造り上げてはいない、高ぶるのと造り上げるのとどっちが大事なのか?造り上げるのが大事だと思うのなら、私に倣いなさい。そういう論法だと思います。私に倣いなさい、というのは、食べるのをやめなさい、ということです。

4.悪霊の追い出しと神の視点教育について

次にイエス様の悪霊追い出しを見ていきます。イエス様が追い出しの奇跡をする悪霊は、本日の箇所にあるように「汚れた霊」(ακαθαρτον πνευμα)と言われるものと、ずばり「悪霊」と訳される(δαιμονιον)の二つがあります。両者は同じものです。悪霊追い出しのことが多く出てくるマタイ、マルコ、ルカの三福音書の関連箇所を見渡すと、悪霊は何か具体的な病気または病的な状態をもたらすことをしでかします。イエス様の悪霊追い出しは、それ自体が目的で行う時もあれば、何か病気を癒す奇跡を行う時に行うこともあります。いずれにしても追い出しをすると、悪霊がもたらしていた病的な状態もなくなってみんな健康な状態になります。追い出しの時に悪霊が口を聞いてくる時もあります。本日の箇所もそうです。悪霊はイエス様が神聖な神の神聖なひとり子であるとわかっていて、その力もわかっているので恐れをなしてしまいます。出て行けと言われれば、そのまま出て行くしかありません。

3年前の説教の時、私は、イエス様が行った奇跡には病気の癒しと悪霊追い出しがあることから次のように述べました。人間の病気には病気自体によるものと悪霊のような病気を超えた要因で起きるものがある、病気自体による病気を悪霊によるものと考えて医学以外のものに頼ろうとするのはよくないということです。加えて、キリスト信仰者に関して言えば、悪霊や悪魔の企ては破綻しているので、病気や苦難の時はそれらにやられていると考えないで対処すべきとも申しました。ただ、このように言うと、病気の時はただ単に医学だけを頼りにすればいいと誤解されるのではと思い当たりました。医学を用いて癒しを目指す時にも、もちろん、ベストな治療を受けられますようにとか受けた治療が良い結果をもたらしますようにと父なるみ神に祈ることは必要です。どんなに医学が発達しても神の導きや祝福がなかったら望ましい結果に至らないからです。

今私は、キリスト信仰者においては悪霊と悪魔の企ては破綻していると申しました。これはどういうことか振り返っておきます。「悪魔」というのは新約聖書ではサタナー(σατανα)とかディアボロス(διαβολος)と言われます。サタナーとはサタンのことです。ディアボロスというのは引き裂く者、バラバラにする者という意味があります。旧約聖書ではサーターン(שטן)で、非難する者、告発する者という意味があります。「神様、この者は罪深い者で神罰に値しますよ」などと神に告発する者です。神と人間の間を引き裂き、人間が救われないようにと、将来神の裁きを受けて永遠の滅びに道連れにしようとする者、それが悪魔です。悪魔は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後で荒れ野で40日間誘惑の試練を与え、イエス様がこれから神の人間救済計画を実行するのを妨げようとしました。しかし、イエス様は悪魔の誘惑を全て跳ね除けたので神の計画をそのまま実行に移すことが出来、十字架の死と死からの復活を遂げたのでした。

悪魔と悪霊の区別については3年前にもお教えしました。サタン・悪魔は悪霊の頭、悪霊はサタン・悪魔の手下です(マルコ3章等にあるベルゼブル論争を参照)。悪魔は人間を神から引き離して神の罰を受けるように陥れようとします。悪霊は人間に苦しみを与えて救いなどない、神などいないという気持ちに持って行こうとします。両者とも人間がイエス様の成し遂げたことを知らないように、知っても忘れるようにしようとするのです。

イエス様が成し遂げたこととは何だったでしょうか?それは、彼が神のひとり子でありながら、人間が持っている神の意思に反しようとする罪を全部引き受けてその神罰を代わりに受けてゴルゴタの丘の十字架で死なれたことでした。私たちの罪の償いを私たちに代わって神に対して果たして下さったのです。さらに、父なるみ神の計り知れない力で死から復活され、死を超えた永遠の命に至る扉を人間のために開いて下さったことでした。人間は、これらのことがまさに自分のために起こったとわかってそれでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになります。罪を償われたからには神から罪を赦された者と見なされ、永遠の命が待つ神の国に向かう道に置かれてその道を進むことになります。順境の時も逆境の時もいつも神の守りと導きを得てその道を進み、この世を去ることになっても復活の日に目覚めさせられて神の国に永遠に迎え入れられるようになりました。

以上のことが、イエス様の十字架と復活の業のおかげで悪魔と悪霊の企ては破たんしたということです。イエス様を救い主と信じる者に関してはそれらの企ての破綻はその通りになっているのです。

そこで一つ大きな問題になってくるのは、やはり、病気の癒しや苦難の打開を祈っても期待した結果にならない場合はどうなのかということでしょう。先ほど、どんなに医学が発達しても父なるみ神の導きや祝福がなかったら望ましい結果に至らないと申しました。それならば、祈っても望ましい結果にならなかったら神の導きや祝福がなかったということになってしまうのでしょうか?これはとても難しい問題です。例えば、何千人に一人の割合で健康上困難がある子供が生まれるという時、他のキリスト信仰者の子供はそうではないのになぜウチの子供はそうだったのか?とても不公平な感じがします。自分たちの信仰に何か問題があったのかと責めることも起きるかもしれません。さらには、イエス様を信じていなくても健康な子供が授かっているのに、信じている自分たちにはそうならなかったとなれば、信じることに何の意味があったのかという思いになるでしょう。

とても難しい問題です。ただ一つはっきりしていることは、このような不運がきっかけでイエス様を救い主と信じなくなって神に背を向けてしまったら、それは神の国に向かう道から降りてしまうことになり、悪魔や悪霊の思うつぼです。不運があっても、イエス様を信じて神の方を向いて進んでいれば、復活の日の再会があります。その時の私たちの有様はパウロが教えるように、この世の朽ち果てる体ではなく神の栄光で輝く体であり、イエス様が言われたように、みな天使のようになるのです。不運がもとで神に怒ることはあっても、神の国に至る道に留まって進むことは出来ると思います。それはきっと自分の視点を捨てて神の視点を持つようになるためのとても重いプロセスになるでしょう。それを思うと、不運を持たなかった人たちはどれだけ自分の視点を捨てて神の視点を持てるようになるか心配になってくるくらいです。

今の私にはこれ以上のことは言えません。神がこの問題を見極められる知恵を私にも皆様にも与えて下さいますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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特別の祈り 全知全能の父なるみ神よ。  あなたは私たちがいつも様々な困難や罪の誘惑に晒されていることをご存じです。どうかあなたがイエス様の十字架と復活の業を通して示された愛と恵みを今ここで私たちの心に思い起こさせて下さい。あなたの愛と恵みに強められて襲い掛かる困難と罪の誘惑に打ち克つことができるようにして下さい。  あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められる御子イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

説教「福音、神の国、悔い改めについて」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書1章14-20節

主日礼拝説教 2021年1月24日 顕現後第三主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、聖霊が彼に降りました。その後でイエス様は40日間荒野で悪魔から試練を受け、これに打ち克ちました。そして、いよいよ本格的に活動に乗り出そうとしたまさにその時、ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕えられたとの報が伝わりました。イエス様は大胆にもガリラヤに乗り込んで人々に教え始めました。本日の福音書の日課はその時のことについて述べています。「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改め福音を信じなさい』と言われた」とあります。本日の説教では、「福音」、「神の国」、「悔い改め」という三つの大事な事柄についてお教えしようと思います。

2.福音 ― 特段の良い知らせ

ここで「神の福音」と「福音を信じなさい」と、「福音」という言葉が2回出て来ます。「福音」という言葉は原語のギリシャ語でエヴァンゲリオンευαγγελιονと言います。もともとは「良い知らせ」という意味です。「良い知らせ」の中でも特段に良い知らせが「福音」です。それでは、「福音」とはどんな特段の良い知らせなのでしょうか?

「福音」がどんな内容の知らせかと言うと、大体以下のことです。イエス様がゴルゴタの十字架の上で人間の罪の神罰を人間に代わって受けて死なれた。この彼の犠牲のおかげで人間が神から罰を受けないで済む道が開かれた。さらに神は、十字架で一度死なれたイエス様を計り知れない力で復活させて、死を超えた永遠の命に至る扉を私たち人間のために開いて下さった。以上が「福音」の内容です。つまり、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事にかかわる良い知らせが「福音」と呼ばれるようになったのです。

ところが、本日の日課ではイエス様はまだ活動を開始したばかりです。十字架も復活もまだ先のことです。それなのにエヴァンゲリオンを「神の福音」や「福音を信じなさい」と訳すのは、少し気が早いのではと思われます。エヴァンゲリオンは「福音」だけでなく「良い知らせ」の意味もあるのだから、ここは「良い知らせ」と訳した方がいいのではないか?(参考までに各国の聖書の訳を見てみると、英語訳の聖書NIVは「神の良い知らせ」、「良い知らせを信じなさい」good newsと訳して「福音」gospelではありません。スウェーデン語の訳も「神の知らせ」、「知らせを信じなさい」(budskap)です。福音(evangelium)ではありません。フィンランド語の訳は「神の福音(evankeliumi)、「良い知らせを信じなさい」(hyvä sanoma)と使い分けています。ドイツ語の訳は意外にも日本語訳と同じで両方とも「福音」と訳していました。)

十字架と復活の出来事が起きる前だから、エヴァンゲリオンを「福音」ではなくて「良い知らせ」と訳した方がいいのではないかと言うと、じゃ、イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」とはどんな知らせなのかという疑問が起きます。(もちろんイエス様はギリシャ語ではなくアラム語で話したので、発音した言葉はエヴァンゲリオンではなかったのですが、書かれた記録はギリシャ語のものしか残っていないので、それに基づくしかありません。)

イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」の内容は、旧約聖書イザヤ書52章7節から53章12節を見ればわかります。それを見ていくことにします。まず最初の52章7節に次のように言われています。

「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足(רגלי מבשר)は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え(טוב מבשר ) 救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」

伝えるべき「良い知らせ」の内容は、「平和」、「救い」、「神が王になる」ことの3つです。「平和」ヘブライ語のシャロームשלוםは意味がとても広く、「救い」も含みます。それで、ここの「良い知らせ」の内容は、「救い」と「神を王に戴く国」の二点に絞ってよいと思います。イザヤ書の続きを見ていくと、この「救い」の内容と、そして、それが「神を王に戴く国」と関係することがわかります。

続きのイザヤ52章8ー12節を見ると、神がイスラエルの民に向かって、捕囚の地バビロンから祖国に帰還せよ、と呼びかけます。神は民の祖国帰還を実現させ、自分の力を諸国民に示します。つまり、良い知らせに言う「救い」とは、イスラエルの民が神の力でバビロン捕囚から解放されて祖国帰還を果たし、そこで神を王として戴く神の国が実現するということです。

ところが、これに続く52章13節から53章12節までを見ると、「救い」の内容が少し違ってきます。そこには有名な「主の僕」が登場します。その者は目を背けたくなるほど惨めな姿をしている。しかし、それは私たちの痛みと病をかわりに背負ったためにそうなったのであり、私たちの罪の神罰を代わりに受けたためにそうなったのであった。そのおかげで私たちは神と平和な関係を持てるのでだり、まさに彼が受けた傷によって私たちは癒しを受けたのであると。53章11節で神は次のように述べられます。「私の義なる僕は、多くの者が義なる者になれるようにした。彼らの罪を自ら背負うことによってそうした。」「義なる者」とは、神の目に相応しい者、神の前に立たされても大丈夫な者という意味です。主の僕が人間の罪を自ら背負うことで、人間は神の目に相応しい者になれたというのです。そうすると、ここでの「救い」は先ほどみたような、イスラエルの民がバビロン捕囚から祖国復帰して神を王として戴く神の国が到来するという意味ではなくなっています。むしろ、神の僕の犠牲によって罪が赦され神罰が免れるということが「救い」の内容になって、神の国というのもそういう罪の赦しが支配しているところになります。

このイザヤ書52章7節から53章12節までの箇所で言われる「救い」ですが、バビロン捕囚がもうすぐ終わりそうという紀元前500年代の終わりの人々にとっては、イスラエルの民の捕囚からの解放と祖国帰還がそれを意味すると考えられました。解放と帰還が実現すれば、それはただちに神が王として君臨する神の国の実現だったのです。その場合、身代わりの犠牲で人々を神罰から救う「主の僕」とは誰のことかというと、異国の地に連行された捕囚の民を指すと考えられました。イスラエルの民が長い歴史の間に重ねた罪の結果、罰としてバビロン捕囚が起きたのであり、民が異国の地で辛酸を舐めるという罰を受けることで罪の償いが果たされてまた元に戻れるようになったと考えられたのです。

ところが、祖国に帰還しても神の国は実現しませんでした。ということは「救い」も実現しませんでした。確かにエルサレムの神殿と町は再建されました。しかし、ユダヤ民族はペルシャ帝国、アレキサンダー帝国という大国の支配下に置かれ続け、一時独立を取り戻した時はあったものの、ほどなくしてローマ帝国の支配下に入ってしまいました。このように実態は諸国民も恐れおののく神の国からは程遠いものでした。加えて、神殿で行う礼拝も果たして救いの実現なのかと疑問視する声も民の間から出るようになりました。このことは、マラキ書やイザヤ書の終わり56ー65章に垣間見ることが出来ます。そうしているうちに神の国とは実は今の世の天と地が新しい天と地に創造し直される日に現れるという預言もでてきました。イザヤ書の終わりやダニエル書にそれらが窺えます。

そういうわけで、イザヤ書52章7節から53章12節までの預言は未完だったと理解されるようになったのです。それでは、いつこれらの預言が実現することになるのか?神の国を待ち望む人たちがそう問うていた、まさにその時にイエス様が歴史の舞台に登場したのです。イエス様が「信じなさい」と言う「良い知らせ」とは、神が旧約聖書の中で約束した救いと神の国の到来についての知らせでした。神の約束を信じなさいとイエス様は言われたのです。なぜなら、これからイエス様本人が「主の僕」としてその約束を果たすことになるからです。神の約束についての「良い知らせ」はまさにイエス様の十字架と復活の業の後で「福音」として結晶したのです。

3.神の国はイエス様とセットで来た!

イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた」と言われました。それについてみてみましょう。「時は満ちた」の「時」とは、ギリシャ語でカイロスκαιροςという言葉です。これは何か特別な事が起きる時、定められた時を意味し、時間の流れを意味するクロノスχρονοςと区別されます。「時は満ちた」というのは、起きるべきことが起きる時がついに来た、機は熟した、ということです。洗礼者ヨハネが投獄された時がその「時」になりました。ヨハネがもはや人々に「罪の赦しに導く悔い改めの洗礼」をすることができなくなった、それでイエス様にバトンタッチして「罪の赦し」そのものを確立してもらう段階に入ったということです。ヨハネは悲劇的な運命を辿りますが、主の道を整える役割は果たしました。

「神の国は近づいた」というのは、どういうことでしょうか?「神の国」とは「天の国」とか「天国」とも言い換えられます。言葉だけでみると、空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」とは、今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。そうすると「神の国」は、私たちの世界からすれば見えない裏側の世界みたいです。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られたというのが聖書の立場です。それなので神から見たらこちらの方が裏側でしょう。万物の造り主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはしませんでした。そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大なものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間の救いを実現したことでしょう。

そこで、イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26ー29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を創造して、そこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。そう言いますと、「神の国」は天国ですから、天国はこの世の終わりに現れてくるということになり、あれっ、キリスト教って、死んだらすぐ天国に行けるんじゃなかったの?という疑問が起きます。ところがキリスト教には「復活」の信仰があるので、そうはならないのです。「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。このことは、普通のキリスト教会で毎週日曜日の礼拝で唱えられる使徒信条や二ケア信条でもちゃんと言われています(教会讃美歌366番「愛の泉」でも明確に歌われています)。

そうなると、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも宗教改革のルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠り、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということです。そうすると今度は、亡くなった人が安らかに眠っているんだったら、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるの?という疑問が日本人だったら起こってくると思います。でも、それもキリスト信仰では私たちの造り主である父なるみ神が私たちを見守ってくれるので心配無用です。

話が脇道に逸れましたが、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、それはこの世の終わりが近づいたことを意味したのでしょうか?しかし、イエス様の時代はおろか、あれから2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様の言ったことは当たっていなかったということでしょうか?ところがそういうことではないのです。

どういうことかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを意味していたのです。皆さんもご存じのように、イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり、悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まって困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。

実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せ味あわせたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神に労われるところです。また、黙示録21章で言われるように、そこに迎え入れられた人の目から神が全ての涙を拭い取るところです。つまり、この世の人生で被った不正義や損失が最終的に神によって償われ、不正義や損失をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえうまく行かなくとも無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。

このように神の国とは、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死さえもなく、永遠の平和と安心があるところです。さて、イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反する罪を持つようになってしまいました。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしたり宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできず、自ら神聖なものに変身して神と対等になることなどできません。

この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。それは、最初に述べたように、旧約聖書に約束された良い知らせが実現して福音として結晶した出来事でした。私たち人間は、イエス様の十字架と復活が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いが自分のものとなるのです。罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦してもらったから神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。神との結びつきが確立されているので、たとえこの世を去っても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるようになります。こうしたこと全ては、神が自分のひとり子も惜しまないくらいに私たちのことを思って下さってたがゆえになされたことです。多くの人がこのことに気づきますように。

4.方向転換の悔い改め

イエス様は、「良い知らせ」を信じなさいと勧める時、「悔い改めなさい」とも勧めました。「悔い改める」はギリシャ語でメタノエオ―ですが、基本的な意味は「考えを改める」とか「方向転換する」という意味です。信仰の言葉で言えば、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになることを意味します。それなので「悔い改め」は、何か一人で閉じ籠って反省しまくっていることではなく、あくまで神に向き合うという勇気ある振る舞いです。

「悔い改め」についてルターが的確に教えていますので、それを引用します。

「イエス様は自分を信じる全ての者に、方向転換の悔い改めをしなさい、と言われる。その意味は、信仰者の生涯は休むことのない方向転換の悔い改めであるということである。そうなるのは、我々が生きる限り神の意思に反しようとする罪が我々の肉の内に留まるからであり、また洗礼の時に注がれた聖霊に攻撃を仕掛けてくるからである。聖霊もまた罪に対して攻撃をする。イエス様を救い主と信じることで神から義なる者と認められた人は、その行いの全てが方向転換の悔い改めに関係したものになる。なぜなら、罪に反抗する善い意志が備わったからだ。

方向転換の悔い改めが止まるということはありえない。それは、律法がこれは罪だと明らかにするものを我々は絶えず取り除こうとするからだ。罪はイエス様の十字架の業のおかげで赦されたものになっていて、本当は我々を支配する力を失っている。イスラエルの民はカナンの地に入った後でもその地の敵対者たちを追い払わなければならなかった。それらを追い払うことの方が、その地に入ることよりも難しかったのである。

それと同じように、絶え間ない方向転換の悔い改めによって内に残る罪を取り除くことの方が、キリスト信仰者になって罪に宣戦布告することよりも難しいのである。このために、聖なる者たちでさえ、罪が内に残っていることを自覚して悲しんだのであり、神が律法を通して彼らの良心を苦しめた時、彼らは罪を嘆いたのである。」

兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しの恵みを受けると、良心はこのように罪に対して敏感になります。しかし、敏感な良心はゴルゴタの十字架を目にするたびにヘリ下った心になり深い安堵を覚えます。これが方向転換の悔い改めです。敏感な良心を持ってこの世で生きる限り、罪の自覚は繰り返し起こります。だから方向転換の悔い改めも絶えず続くのです。しかし、これは堂々巡りではありません。ずっと一つの方向に向かって進んでいます。向かう先は復活の日の永遠の命です。良心がゴルゴタの十字架に続いてあの空っぽの墓を目にすると私たちの進む道は真っ直ぐに伸びていることがわかります。その最終目的地に着くともはや方向転換の悔い改めはなっています。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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説教「イチジクの木の下に」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書1章43-51節

主日礼拝説教 2021年1月17日 顕現節第二主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日の福音書の個所はフィリポとナタナエルがイエス様に出会った出来事についてです。イエス様はまずフィリポに付き従うようにと声をかけます。フィリポとイエス様の間に何かやり取りがあったのでしょう。その後でフィリポは自分と同じガリラヤ地方出身のナタナエルにイエス様について次のように話します。自分はモーセ律法と預言書に書かれている方を見た、ナザレ出身のヨセフの息子イエスがその方だ、と。それに対してナタナエルは、一体ナザレから何か良いものが現れるだろうか、などと疑いをはさみます。フィリポは、一緒に来て自分の目で見てみろ、とナタナエルを連れていきます。ナタナエルのこのナザレに対する疑いは何なのだろうと考えさせられます。後にイエス様が自分の故郷の町であるナザレに行って宣べ伝えを行った時、人々は受け入れなかったばかりか、ある教えに躓いて怒り狂った群衆が雪崩を打ってイエス様を崖から突き落とそうとさえしました。なんだかある国の国会議事堂に暴徒がなだれ込んだことを思い起こさせますが、そんないきり立つ気質が支配する町だったのかもしれません。

さて、ナタナエルはフィリポに言われたとおりにイエス様のところに行きました。彼が近づいてきた時にイエス様は言われました。ギリシャ語原文のニュアンスを出すとこうです。見よ、彼こそ本当にイスラエル人と呼ぶのに相応しい(後注1)。それは偽りがないからだ。イスラエル人つまり神の民の一員に相応しい。その理由として偽りがない、欺きがない、つまり神に対して自分を包み隠すことなく正直であろうとしているということです。ナタナエルは、どうしてイエス様は自分をそのような者であるとわかったのかと聞き返します。イエス様は答えは次のようなものでした。フィリポがお前に呼びかける前に私はお前がイチジクの木の下にいるのを見た、と。これがナタナエルの問いの答えになっているのかわかりにくいですが、ナタナエルは、あなたは神の子です、イスラエルの王です、と告白してしまいます。これは一体どういうことでしょうか?会う前に自分がどこにいたかを言い当てられて驚いたということでしょうか?それに対してイエス様は、お前がイチジクの木の下にいたのを見たと言ったからそう信じるのか?お前はもっと大きなことを目にすることになる。天が開き神の天使たちが人の子の上に降ったり天に上ったりするのをだ、などと言います。

このやり取りは一見すると、ナタナエルはイエス様の千里眼に驚いたので、彼のことを神の子、イスラエルの王と信じたというふうに理解できます。でも、これではイエス様はよくありがちな宗教団体の教祖とあまりかわりありません。イエス様は病気を癒す奇跡も行ったので、教祖になるのにはうってつけです。しかし、こういうイエス理解は正しい理解でしょうか?実は、イエス様とナタナエルのやり取りには、単に千里眼を見せつけられて信じるようになったということをはるかに超えた大きくかつ深いことがあります。本日の説教ではそのことを明らかにしていきたいと思います。

2.ガリラヤの男たちは既にユダヤでイエス様と出会っていた!

イエス様とナタナエルのやり取りが大きくて深いことであるがわかるためには、イエス様が弟子たちをどう呼び集めたかについて少し詳しく見る必要があります。本日の個所のすぐ前ではイエス様がアンデレとペトロの兄弟と出会った出来事が記されています。聖書をよく読んでおられる方はちょっと首をかしげるところではないでしょうか?あれ、アンデレとペトロがイエス様と出会うのはガリラヤ湖の岸辺ではなかったっけ?漁を終えた二人にイエス様が付き従うようにと声をかけ、二人は網を置いて従って行ったのではなかったか?そうマルコ福音書とマタイ福音書には記されていたではないか?(ルカ福音書はもう少し違っていて、アンデレとペトロは漁を終えていたが、イエス様の勧めでもう一度舟を出します。それでも出来事はガリラヤ湖の岸辺です。)

ところがヨハネ福音書では出会いの場所はガリラヤ湖ではありません。どこだったでしょうか?アンデレは洗礼者ヨハネの弟子になっています。洗礼者ヨハネはユダヤ地方のヨルダン川のほとりにいます。ガリラヤ地方から少なくとも50キロくらいは離れています。洗礼者ヨハネの弟子になったということは、ヨハネから洗礼を受けたということです。アンデレとペトロそれにフィリピの3人は本日の個所で言われるように皆ガリラヤ地方のベトサイダの出身です。ナタナエルもガリラヤ地方出身で町はカナです。ヨハネ21章2節にそう言われています。カナは、あのイエス様が結婚式の祝宴で水をぶどう酒に変えた奇跡を行った町です。

そうすると4人の男たちは皆ガリラヤ地方の出身者ということになります。なぜガリラヤの男たちがこの時そろってユダヤ地方にいたのでしょうか?特にアンデレとペトロは漁師です。漁をほったらかしにして何をしていたのでしょうか?アンデレが洗礼者ヨハネの弟子になったことから考えたら、4人はヨハネから洗礼を受けるためにユダヤ地方に出向いたことが見えてきます。そうすると彼らは既にそこでイエス様と出会っていたことになります。アンデレとペトロがガリラヤ湖の岸辺でイエス様に付き従うように言われて従って行ったというのは初めて会ったことではなく、既にユダヤ地方で会っていて、その時はまだ付き従いは起こらなかったが、ガリラヤ地方に戻ってきた後でイエス様の口から直接召命の声を聞いて、それでいよいよこの方と行動を共にする時が来たと覚悟を決めて付き従ったという構図が見えてきます。

弟子たちがイエス様と既にユダヤ地方で会っていたというのは、信じられない感じがするかもしれません。しかし、使徒言行録1章を見るとこんな出来事があります。12弟子の一人イスカリオテのユダが欠けたので誰かを選んで補充しようということになった。その時、選ばれる条件になったのは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時から一緒だったということでした。「一緒だった」というのは、アンデレやペトロのように後日改めて付き従うことになった例もあるので、イエス様の洗礼の時からコンタクトがあった人ということでしょう。そういうわけで12弟子というのは皆、イエス様がガリラヤ地方に乗り込む以前にユダヤ地方でイエス様とコンタクトがあった人ということになります。それで、彼らはなぜその時ユダヤ地方にいたのかと言えば、それはもうヨハネから洗礼を受けるためだったとしか考えられません。

洗礼者ヨハネの洗礼については先週の説教でもお教えしました。それは、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」です。その意味は、将来本当に罪の赦しが得られるために、神に背を向けて生きてきた生き方を方向転換して神の方を向いて生きる、その方向転換の印としての洗礼でした。罪の赦しそのものが得られる洗礼はまだです。それはイエス様が死から復活した後で命じた洗礼です。ところで洗礼者ヨハネの宣べ伝えを聞いた人たちは、いよいよ天地創造の神の怒りが爆発する日が来たと恐れおののきました。自分たちが持ってしまっている、神の意思に反しようとする罪を告白してそれから清められようと洗礼を受けたのです。ヨハネはこうした神の怒りを恐れて罪を自覚した人たちの悔恨を受け止めました。彼らが絶望に陥らないように、すぐ後に救い主が来るということに心を向けさせました。そのようにヨハネの洗礼はまさに来たるべき救い主をお迎えする準備をさせるものでした。そういうわけで12弟子というのは、洗礼者ヨハネの洗礼を受けて救い主を迎える準備をした者たちの中でもイエス様がさらに特別な任務を与えるべく呼び出した者たちだったのです。

3.希望している状態で救われたことになる

さあ、これで本日の個所のフィリポとナタナエルというのは、罪を告白して洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、罪の赦しを与えて下さる救い主を迎える準備ができた者たちだったということがわかりました。この背景を念頭に置いて、本日のナタナエルとイエス様のやり取りを見ていくと深いことが見えてきます。やり取りの中で、イチジクの木の下にいたということがありました。ナタナエルがまだイエス様に会っていない段階で彼がそこにいたことを見抜いたということですが、ここはそういう千里眼の能力の他に何か意味が見出せるでしょうか?それが見出せるのです。

まず、「イチジクの木の下に」ということに何か特別な意味があるのではないかと推測して、それを見つけてみることにします。聖書辞典で「イチジク」の項目を見てます。聖書辞典はいろんなものがありますが、私はフィンランドのアーペリ・サーリサロという古代オリエントの歴史言語学者のものがあるのでそれを見てみました。「イチジク」に関連する聖書の個所が沢山でてきます。その中で旧約聖書の中に「イチジクの木の下に」という表現はあるのかどうか、ひとつひとつ見ていきます。ここで旧約聖書のヘブライ語の原文の出番となります。どうして原文でないとダメなのかは後で述べます。

「イチジクの木の下に」は旧約聖書に5つありました。その中で本日のイエス様とナタナエルのやり取りに直接関係すると思われるものは3つあります(後注2)。列王記上5章5節、ミカ書4章4節、ザカリア書3章10節で、3つともヘブライ語は「ブドウの木とイチジクの木の下に」と言っています。ただし、新共同訳ではザカリア書3章10節のところを「木の下に」と言わずに「木陰に」と訳しています。しかし、ヘブライ語の句は直訳すると「木の下に」です。「木の下に」でも「木陰に」でも意味は同じじゃないかと言われるかもしれませんが、イエス様の言い方は「木の下に」です。そういうわけで、ヘブライ語の原文を見ると、イエス様と同じ言い回しをしている個所が旧約聖書に2ヵ所ではなく3ヵ所あるとわかります。一致する個所が多ければ多いほど蓋然性が高まります。

それでは、「イチジクの木の下に」にいることには何か特別な意味があるのでしょうか?列王記上5章5節では、ソロモン王の時代にユダヤ民族の王国が平和と繁栄を謳歌したことを象徴する言い方として用いられています。イチジクは葉が大きく太陽の光を遮ってくれる安らぎを与える木です。さらに栄養価の高い果物を実らせるので「イチジクの木の下に」いるというのは祝福された状態を意味するのです。ところがミカ書とザカリア書では、祝福が現状を意味するものではなくなって、未来の状態を意味するものになります。それは、ダビデ王・ソロモン王の祝福に満ちた王国が滅亡した後、王国が将来復興してイスラエルの民が再び「イチジクの木の下に」いられる状態になることを預言するものです。このように「イチジクの木の下に」は、実際にあった祝福された状態から、現在は荒廃してしまったが将来祝福された状態になるという希望を表わします。

そこで、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた人たちというのはどういう人たちかと言うと、自分自身も世界も神の意思に反する罪のために荒廃した状態にあると認め、将来罪が赦されるという恩寵が神から与えられて荒廃した状態から脱して祝福された状態に入れる、そういう希望を抱いていた人ちです。ナタナエルは神に対して自分を包み隠さず正直であろうとした人なので、その希望は人一倍強かったでしょう。まさにそのような時、そのような希望を抱いていた時に目の前に現れた方が突然、お前がイチジクの木の下にいるのを見た、などと言ったのです。イエス様がこの言葉を他でもないナタナエルに言ったというのは、ナタナエルが「イチジクの木の下に」ということを身近なものにしていたからでしょう。イエス様はそれを見抜いてナタナエルの心に訴える言葉をかけたのです。

つまり、ナタナエルは本当はイチジクの木の下にはいなかったが、ああ、いつ預言書に言われるような祝福された状態に入れるのだろうか、とため息をついていたことをイエス様に見抜かれたということです。もちろん、実際にイチジクの木の下にいて、木を見上げてそういう思いを抱いていた可能性も否定できません。いずれにしても大事なことは、人間が罪を赦されて神から祝福された状態に入るという純粋な願いをナタナエルが持っていたことをイエス様が見抜いたということです。もし場所を言い当てたという千里眼だけなら、別に何の木でもよかったでしょう。イチジクの木でなければならないという旧約聖書の事情があったのです。

さて、ナタナエルは洗礼者ヨハネに罪を告白して方向転換の印としての洗礼を受けました。あとは罪の赦しを受けて祝福された状態になるのを待つだけです。その待っている状態にある、つまりイチジクの木の下に入れる日を待っている時にイエス様は、お前がイチジクの木の下にいるのを見た、などと言うのです。本当はまだな筈なのに。これは一体どういうことでしょうか?

これは、使徒パウロがローマ8章24節で言っていること、キリスト信仰者は希望している状態でもう救われたのだと言っていることと同じです。どういうことかと言うと、まず、キリスト信仰者が希望することと言ったら、復活の日に目覚めさせられて天地創造の神からは何のお咎めもなく復活の体を着せられて神の御国に永遠に迎え入れられることです。これがキリスト信仰で言う救いです。このことを希望している状態でもう救われたと言うのはなんと気の早いことかと呆れかえられるかもしれません。希望しているんだったら救いはまだ先のことではないか、それなのに希望している状態で救われたなどと言うのはおかしいではないかと。

しかしながら、キリスト信仰では希望している状態で救われたというのは真理なのです。というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたら最後、その人は復活に至る道に置かれて、自分から振り払ってしまわない限り、その道を神に守られ導かれながら進むことになるからです。無敵の神に守られ導かれるのですから、目的地への到達は確実です。だから、希望している状態でもう救われたということになるのです。ここで、希望している状態が救われた状態に転化できたのは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼のおかげということを忘れないようにしましょう。

ナタナエルに話を戻します。彼は罪を告白して罪の赦しを与えて下さる方を待ち望んでいます。その意味でまだ祝福された状態にいません。イチジクの木の下にいません。それを希望している状態にいます。まさにその時、お前はもうイチジクの木の下にいる、祝福された状態にあると言われる方が現れたのです。希望している状態でもう救われたのだと言うのです。ナタナエルとしては、それが本当のことであることを体得しなければならなくなりました。でもどうやって出来るでしょうか?それはもう、そのように言ってくれた方がカギを握っていると信じてその方に付き従って何をなさるかを見届けなければならないということになったのです。そして彼が見届けたのは、神のひとり子が人間の罪を全部引き取って神罰をゴルゴタの十字架の上で人間に代わって受けたということ、そしてその三日後に神の力で死から復活させられて復活に至る道を人間に開いて下さったということでした。

このようにナタナエルがイエス様を信じたのは千里眼的な能力に恐れ入ったからではありませんでした。旧約聖書にある神の人間に対する約束が実現するカギをイエス様が握っていると信じたからでした。

4.神は決して見捨てない

希望している状態で救われたということが言えるのは、天地創造の神の守りと導きがあるので復活という目的地への到達が確実になっているからでした。でも、到達を確実にする神の守りと導きは本当にあるのでしょうか?それが本当にあるということをイエス様はナタナエルとのやり取りの終わりで述べるのです。やり取りの終わりを見ると、天が開けて天使が降ってきたり昇って行ったりするということが言われていて、神の守りや導きことは何も言われていないと言われてしまうでしょう。しかし、イエス様はここで神の守りと導きは絶対にあると言われているのです。どうしてそんなことが言えるのか?それは、この天使の昇り降りというのは、創世記28章にあるヤコブが荒野で夢を見た時の出来事であることを思い出すとわかります。ここまで言えば、聖書を読んでいる人たちは閃くのではないでしょうか?

夢を見たヤコブに神は次のように言いました。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」神がこれを言った時のヤコブはどんな状況だったでしょうか?父イサクを通して受けられる祝福を兄エサウから取ってしまったことでエサウの怒りを買い命を狙われるまでになってしまい、ヤコブは命からがらの逃避行の最中でした。とても神に守られているなどと思えない状況でした。しかし、神はそうではないのだと励ましたのです。長い年月の後でヤコブは逃避先の異国の地で築いた財産と家族を引き連れて故郷に戻ります。そしてエサウと劇的な和解を果たします。神は本当に約束を果たしたのです。

そういうわけで、天使が降り昇りをするというのは神は決して見捨てないということを象徴しているのです。ヤコブの時はイエス様の十字架も復活もまだありませんでした。それでも神は見捨てず守り導きました。私たちの場合はそれらがあります。イエス様は天使の降り昇りは自分に向かって起きると言っていました。それは、神が私たちを見捨てずに守り導いて下さることにおいて、イエス様はなくてはならないということです。

兄弟姉妹の皆さん、私たちはイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼のおかげで神の子とされました。私たちは子なのですから、父なる神は子を見捨てず守り導いて下さるということはもっと自信をもってよいのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

(後注1)αληθωςは形容詞(まことの)ではなく副詞(まことに)であることに注意。

(後注2)すみません、「イチジクの木の下に」は5カ所ではなく、ここにあげている3ヵ所だけでした。直接関係ないと言った2ヵ所は私が勘違いしてメモしてしまったものでした。お詫びして訂正いたします。

3ヵ所については間違いありません。

・列王記上5章5節 ותחת תאנתו →「イチジクの木の下に」

・ミカ4章4節   同上

・ザカリア3章10節 ואל-תחת תאנה  →「イチジクの木の下に」(前置詞が二重になっていますが同じ意味です。)

 

説教「神の我らに対する連帯について ― 主の洗礼再考」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書1章4節-11節

主日礼拝説教 2021年1月10日 主の洗礼日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

Kirisutonosenrei
イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けるとは、一体どういうことか?ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」を人々に宣べ伝えました(マルコ1章4節)。「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」とは、将来罪の赦しが得られるために、神に背を向けて生きてきた生き方を方向転換して神の方を向いて生きる、その方向転換の印としての洗礼ということです。罪の赦しそのものが得られる洗礼は、イエス様が死から復活した後で命じた洗礼です。それなので、洗礼者ヨハネの洗礼はその前段階の方向転換の印です。そうすると、イエス様のように神と同質の方でそもそも方向転換などする必要のない方がどうして洗礼など必要なのでしょうか?イエス様は罪の赦しそのものを与える方です。どうしてそのような方が罪の赦しが得られるための印を受ける必要があるのでしょうか?マタイ3章をみると、洗礼を受けにやってきたイエス様を前にしてヨハネはとまどって言います。「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」(14節)と。まことに当然な驚きです。

なぜイエス様は洗礼を受ける必要があったのか?これを考えることは、私たち人間の救いのためにイエス様が本当になくてはならない方であることが明らかになります。本日はこのことを見ていきます。

2.ヨハネの洗礼について

まず、洗礼者ヨハネの洗礼がどんなものであったか、もう少し見ていきます。ヨハネのもとに大勢の人がやって来て罪を告白して洗礼を受けました。マタイ福音書やルカ福音書を見ると洗礼を受けに来た人は皆、神の怒りを恐れていたことがわかります。旧約聖書の至る所に「主の日」と呼ばれる日の預言があります。それは神が人間に怒りを示す日で、神の意思に反する者を滅ぼし尽くし、大きな災いや天変地異が起こる時として言われています。イザヤ書の終わりではそれこそ創造主の神が今ある天と地を終わらせて新しい天と地を創造する日のことが預言されています。人々はヨハネの宣べ伝えを聞いて、いよいよその日が来たと思ったのです。それで神の怒りが及ばないようにと、そのような天変地異の大変動から助かろうと、それでヨハネのもとに来て、神の意思に反する罪を告白して罪から清められようと洗礼を受けたのです。水を浴びることは清めを象徴しました。

ところが、ヨハネは自分の後に来る方つまりイエス様の洗礼こそが本当に神の怒りが及ばないようにする力がある洗礼と言います。そのためには洗礼に聖霊が伴わないとだめなのだが、自分の洗礼にはそれがなくイエス様の洗礼にはあると認めるのです。そうするとヨハネの洗礼は罪の赦しそのものが起こる洗礼ではなかったことになります。ヨハネは人々に罪の自覚を呼び覚ましてそれを告白させ、すぐ後に来るメシア救い主による罪の赦しの洗礼に備えさせたのです。その意味でヨハネの洗礼は、人々を罪の自覚の状態にとどめて後に来る罪の赦しに委ねるためのものでした。罪を告白して水をかけられてこれで清められたぞ!というのではありません。罪を告白したお前は罪の自覚がある、それを聖霊の洗礼を受ける時までしっかり持ちなさい。その時本当に罪を赦されたお前は神の子となり、「主の日」に何も心配することはなくなるのだ。このようにヨハネの洗礼は人々を罪の自覚に留めて聖霊を伴うメシアの洗礼を今か今かと待つ心にするものでした。

ヨハネの洗礼に罪の赦しも来たるべき神の怒りから救う力も聖霊もなかったのならば、なぜ彼は洗礼を授けたのでしょうか?それは、神の怒りの日を覚えて自分の罪を自覚した人たちの悔恨を受け止めて、彼らが絶望に陥らないように、すぐ後に救い主が来るとことに心を向けさせるためでした。その意味で、ヨハネの洗礼はまさしく来たるべき救い主を迎える準備をさせるものでした。各自がイエス様を大手を拡げてお迎えできるように、心の中に道を整えて道筋を真っ直ぐにすることでした。それでヨハネは、聖霊を伴う洗礼を授けるメシア救い主の前では自分は靴紐を解く値打ちもないとへりくだったのでした。

3.イエス様の受肉と割礼 ― 自分を低める連帯

そのようなヨハネの洗礼をどうして神のひとり子のイエス様が受ける必要があったのでしょうか?これからこのことを見ていきます。

私は以前イエス様の受洗の日課について説教をした時、神のひとり子が洗礼を受けることで人間と同列に加わったという、神の人間に対する連帯を表わすものだということをお教えしました。神と同質の方が洗礼を受けることで洗礼を必要とする人間と同じ立場に立ったということ、これこそ神の人間に対する連帯の表れだと考えたのです。ところが今回、この日課を見直してみて、イエス様の受洗は神の人間に対する連帯もあるが、それでいい尽くすことの出来ないもっと大きなこともあるとわかったので、今日はそのことをお話ししていきたいと思います。

まず、神と同質の方が人間に対して連帯を示したということを言うならば、それは、その方が乙女マリアから肉体を持って誕生したという受肉の出来事と誕生後8日目に割礼を受けたことの方が洗礼よりも相応しいと思いました。

神と同質の方の受肉の出来事について、「フィリピの信徒の手紙」2章に次のように記されています。「キリストは神の身分でありがなら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。

天の父なるみ神のもとでは神の知恵ないし言葉として存在していた方が乙女マリアを通して人間の体を持つ者としてこの世に贈られてきました。それは、人間が被る死の苦しみを自分自身被ることができるようになるためでした。それで人間が罪のゆえに受ける神罰をまさに神罰として引き受けることができるようになるためでした。

イエス様が誕生8日後に割礼を受けたことは(ルカ2章21ー24節)、その外的な印をもってアブラハムの子孫の一人に加えられ、モーセの律法の効力の下に置かれました。神聖で罪の汚れひとつない神のひとり子が、神聖さがなく罪の汚れを持つ人間の立場に置かれたのです。ユダヤ民族という、罪の汚れから洗われるために数多くの宗教的儀式をこなさなければならない民族の立場に置かれたのです。本来ならばそうしたことは一切不要な立場にある方なのに、全く違う立場に置かれることになり、それによって神からの罰を罰としてちゃんと受けられて、死の苦しみを本気で受けて死ぬ者になったのです。

もしイエス様がこういう人間の立場に置かれず、ずっと天の御国の神聖な立場のままだったら、死や苦しみはイエス様に近寄ることはなかったでしょう。パウロが述べたように、神のひとり子は「律法の支配下にある者たちを救い出すために律法の支配下にある者たちと同じになった」(ガラテア4章4節)のです。ただ忘れてはならないのは、イエス様は人間と同じ立場に置かれたとは言っても、罪を持たない神聖な神のひとり子だったということです(ヘブライ4章15節)。そのような方が、受肉と割礼を通して人間と同列に加わることとなり、人間の悩み苦しみと直につきあい、また自身も人間と同じように苦しみや試練や誘惑に直面しなければならなかったのです。それゆえ、「ヘブライ人への手紙」2章18節に言われるように、イエス様は試練に遭う者たちのことを本当にわかって助けることができるのです。

神のひとり子が律法の支配下にある者たちを救い出すために律法の支配下にある者たちと同じになったのならば、同じになってどのように救い出したのでしょうか?人間は神の意思に反する罪を持っている。神は罪を焼き尽くす神聖な方である。人間は神の前に立たされたら焼き尽くされてしまう。神は人間が神罰を受けて滅んでしまうのを望みませんでした。罪は断固として認めないが、しかし人間は滅びから救われなければならない。このジレンマを解決するために、神は神罰の滅びを自ら引き受けることにしました。神の人間に対する愛が自己犠牲の愛であると言われる所以です。

しかしながら、神が犠牲を引き受けるというとき、天の御国にいたままでは、それは行えません。人間の罪の罰を全て受ける以上は罰を純粋に罰として受けられなければなりません。そのためには、律法の効力の下にいる存在とならなければなりません。律法とは神の神聖な意思を示す掟です。それは、人間がいかに神聖さと正反対な存在であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は律法の上にたつ存在です。しかし、それでは罰を罰として受けられません。犠牲を引き受けることは出来ません。罰を罰として受けられるために律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければならなかったのです。まさに、このために神のひとり子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのです。そして割礼を受けて律法の効力の下に置かれなければならなかったのです。実に、そうすることで使徒パウロが述べたように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったのです(ガラテア3章13節)。

イエス様が人間と同列に加わった連帯というのは、私たちを神の意思に反した者にしてしまう呪いから救い出すために自ら呪いを引き受けてその帰結を被って下さったのです。私たち人間が被らないように自分で被って下さったのです。私たち人間も困窮した人たちに寄り添ったり連帯したりします。しかし、神がイエス様を通して示した寄り添いや連帯は次元が違うものです。困窮した人たちもその人たちを助ける人たちも、神からこのような寄り添いや連帯を頂いていることがわかれば力や励みになるのではないでしょうか?

4.イエス様の洗礼 ― 私たちを高める連帯

神の人間に対する連帯が受肉と割礼でよく現れていると言うならば、イエス様の洗礼は一体なんだったのでしょうか?なぜ、罪の赦しを与える立場にある神のひとり子が罪の赦しを得られるための方向転換の印を受けなければならなかったのでしょうか?

ここでイエス様の洗礼の時に何が起こったかを見てみます。洗礼を受けた時、イエス様に聖霊が降ったことが目撃されました。また、天から「お前は私の愛する子である。私の心に適う者である」という神の声が轟きました。この出来事はイザヤ書42章1ー7で言われている預言の成就でした。すると、イエス様の洗礼は預言が成就するために必要な手続きだったことがわかります。そこで、この預言の内容を、本日の旧約の日課ではありませんが、見る必要があります。

このイザヤ書の箇所で神は、将来この地上で活動する僕(つまりイエス様のこと)が聖霊を受けて、神から特別な力を与えられて何かを実現していくことが預言されています。その何かとはなんでしょうか?

私たちの用いる新共同訳を見ると、「彼は裁きを導き出す」(1節)、「裁きを導き出して、確かなものする」(3節)、「この地に裁きを置く」(4節)と、「裁き」という言葉が三度も繰り返されて、神の僕が何か裁きに携わることが言われます。しかし、これは困った訳です。「裁きを導き出す」とか「裁きを置く」とは一体どんな意味なのでしょうか?そもそも「裁き」とは「置く」ものなのでしょうか?頭のいい人ならこういう奇抜で難解な表現を見ても意味を推測することが出来るかもしれません。しかし、その推測した意味が聖書のもともとの意味と同じであるという保証はどこにもありません。このことは以前の説教でもお教えしたことがあります。ここでもう一度振り返ってみることにします。

参考までに各国の聖書の訳はこのイザヤ書42章の言葉をどう言っているか覗いてみると、英語の聖書はjustice、「正しいこと」、「正義」です。「裁き」judgementとは言っていません。ルター訳のドイツ語聖書ではdas Recht、「権利」とも「正しいこと」とも訳せます。スウェーデン語の聖書では「権利」(rätten)、フィンランド語の聖書では「権利」も「正しいこと」も「正義」も意味する単語(oikeus)です。

神の僕が携わることが、どうして日本語で「裁き」になって他の訳はそうならないかと言うと、ヘブライ語の元の単語ミシュパートמשפטをどう考えるかによります。その語の大元の意味は、「何が正しいかについて決めること」とか「何が正しいかということについての決定」です。その意味から出発して「裁き」とか「判決」というような限定した意味がでてきます。しかし、限定した意味はそれだけではありません。「何が正しいかについて決めること」「何が正しいかということについての決定」をもとにすれば、「正当な要求」「正当な主張」という意味にもなるし、そこからさらに「正当な権利」とか「正義」という意味にもなります。辞書を見れば他にもあります。

以上のようなわけで、イザヤ42章の神の僕が携わることは「裁き」ではなく、「正しいこと」とか「正義」とか「正当な権利」と理解できます。さらに、「導き出す」とか「置く」とか訳されている動詞(יצא、שים)も、「もたらす」とか「据える、打ち立てる」と訳せるものです。そういうわけで、神の僕が「国々の裁きを導き出す」というのは、実は「諸国民(גוי、特にユダヤ民族の異邦人をさしますが)に正義(正しいこと、正当な権利)をもたらす」ということ。「この地に裁きを置く」というのは「この世に正義(正しいこと、正当な権利)を打ち立てる」ということです。

それでは、神の僕がもたらしたり打ち立てたりする正義(正しいこと、正当な権利)とは何でしょうか?神の御言葉である聖書の中で正義とか正しいこととか正当な権利とか言ったら、それは神の目から見ての「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」です。それでは何が神の目から見て「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」でしょうか?それは、先ほども申し上げましたように、人間が神の意思に反そうとする罪の力から解放されることであり、解放されて神との結びつきを持ててこの世を生きることであり、そして、この世を去った後は復活の日に目覚めさせられて永遠に造り主の神の御許に迎え入れられるということです。これが神の目から見た「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」です。。これらは全て、神のひとり子イエス様が十字架の死と死からの復活の業をもってこの世にもたらして打ち立てたものです。

イエス様が洗礼を受けた時、イザヤ書42章の初めに預言されたことが成就しました。天から預言どおり神の声が轟き、聖霊がイエス様に降り、神による人間救済を実行する力が与えられました。もちろん洗礼者ヨハネから洗礼を受ける前の赤ちゃんイエスや子供時代のイエス様も神聖な神のひとり子でした。しかし、洗礼は預言の成就をもたらすための必要な手続きになりました。ヨハネの洗礼を通して聖霊と特別な力を得て、主体的に神の人間救済を実現させることとなったのです。そういうわけで、イエス様の受肉と割礼は神の私たちに対する連帯の中で、ひとり子を低い私たちに低める連帯であったと言えます。そして、イエス様の洗礼は低い私たちを高める連帯であると言えます。

5.イエス様の受洗は受肉と割礼と同じように感謝すべきこと

そう言うと、次のような異論が出てくるかもしれません。イエス様がヨハネから洗礼を受けたことでイザヤ書の預言が成就できたことはわかるが、手続きとしてはどうか?そもそもヨハネの洗礼は罪の赦しに導く方向転換の印なのだ、それを受けることでイエス様が人間と同列に置かれることに目が行ってしまい、異なる次元の連帯という深いところはわかりにくくなってしまうではないか?イザヤ書の預言を見ても神の僕に聖霊が降ることがどのようにして起こるか、どのような場面で神の声を聞くことになるのか何も言っていない。ましてや洗礼を通してとか手続き的なことは何も言っていない、と。

これに対しては、次のように言えばいいでしょう。イザヤ書の預言の成就のためにはやはりヨハネの洗礼が相応しい手続きだったのだ、と。というのは、イエス様に聖霊が降ることで、これから人間を罪と死の力から救い出す十字架の業を行うことになり、また死から復活を遂げることで死を超えた永遠の命に至る道を開くミッションを始められることになったからです。そして、イエス様が私たちに設定した洗礼は、受ける者に聖霊が降って彼のミッションの果実をその人に分け与えるものになりました。だから、イエス様が受けた洗礼は私たちが受ける洗礼の先駆けとしてあるのです。イエス様の洗礼は私たちが受ける洗礼の意味をその時点で暗示しているのです。

そういうわけで、主にあって兄弟姉妹の皆さん、イエス様の受洗は、彼の受肉や割礼と同じくらいに私たちが感謝し賛美すべきものなのです!

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教「造り主である神との関係に照らし合わせて自分を見つめることは、イエス様を救い主と信じる信仰のはじめ」 神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書2章1-12節

主日礼拝説教 2020年1月3日(主の顕現)

説教をユーチューブで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の福音書の日課の箇所は有名な「東方の三賢」の話ですが、本当にこんなことがあったのか疑わせるような話です。はるばる外国から学者のグループがやってきて誕生したばかりの異国の王子様をおがみに来たとか、王子様の星を見たことが彼らが旅立つきっかけになったとか、そして、その星が学者たちを先導して王子様のいる所まで道案内するとか、こんなことは現実に起こるわけがない、これは大昔のおとぎ話だと決めつける人もでてきます。以前この個所について説教をした時にいつも申し上げたことですが、ここに書かれた出来事はおとぎ話で片付けられない歴史的信ぴょう性があります。今回もそのことについておさらいをします。

ところで、出来事がおとぎ話ではない、信ぴょう性があるとわかっても、それでイエス様を救い主と信じる信仰に至るかというと、人間とは身勝手なもので、そんな程度ではまだまだだというのが大半ではないでしょうか?実は、イエス様を救い主として信じて受け入れるというのは、聖書に記された出来事の歴史的信ぴょう性とは別のところに鍵があります。その鍵とは何かと言うと、それは自分を見つめる時に造り主の神との関係に照らし合わせてそうするということです。自分と自分の造り主である神との関係はどんなものか考えてみることです。そのことも以前申し上げてきました。本説教でもそのことについて述べますが、時間も経ったのでまた新しい視点で見ていきます。

ここで信仰と歴史的信ぴょう性の関係というのは恐らく次のようなものではないかということを述べておきます。自分を神との関係に照らし合わせて見つめ直して、その結果イエス様を救い主と信じるようになる。その時、おとぎ話みたいな出来事はきっと歴史的に何かがあると考え始めて、いろんな可能性を検証するようになっていく。それとは逆に、自分を神との関係に照らし合わせて見つめ直しこともせず、イエス様を救い主と信じる信仰に至らなかったら、こんな出来事はありえないというバイアスがかかって可能性の検証には向かわなくなる。つまり、信仰が信ぴょう性に道を開くのであり、逆ではないということです。そして、イエス様を救い主と信じる信仰は、自分を造り主の神との関係に照らし合わせて見つめることから始まるのです。

 

2.まず最初に本日の福音書の箇所の出来事の歴史的信ぴょう性について振り返ってみます。不思議な星についてはいろいろな説明があるようですが、私はスウェーデンの著名な歴史聖書学者イェールツ(B. Gierts)の説明に多くを負っています。

1600年代に活躍した近代天文学の大立者ケプラーは太陽系の惑星の動きをことごとく解明したことで有名です。彼は、紀元前7年に地球から見て木星と土星が魚座のなかで異常接近したことを突き止めていました。他方で、現在のイラクのチグリス・ユーフラテス川沿いにシッパリという古代の天文学の中心地があります。そこから古代の天体図やカレンダーが発掘され、その中に紀元前7年の星の動きを予想したカレンダーもありました。それによると、その年は木星と土星が重なるような異常接近する日が何回もあると記されていました。二つの惑星が異常接近するということは、普通よりも輝きを増す星が夜空に一つ増えて見えるということです。実は昨年12月22日に木星と土星が400年振りに大接近をしたというニュースがありました。私は後で知ったので確認はできなかったのですが、世界各地で二つの星がほぼ一つに重なるのが肉眼でも確認できたとのことです。

そこでイエス様の誕生年についてみると、マタイ2章13-23節によればイエス親子はヘロデ王が死んだ後に避難先のエジプトからイスラエルの地に戻ったとあります。ヘロデ王が死んだ年は歴史学では紀元前4年と確定されていて、イエス親子が一定期間エジプトにいたことを考慮に入れると、木星・土星の異常接近のあった紀元前7年はイエス誕生年として有力候補になります。ここで決め手になりそうなのが、ルカ2章にあるローマ皇帝アウグストゥスによる租税のための住民登録がいつ行われたかということです。残念ながら、これは記録が残っていません。ただし、シリア州総督のキリニウスが西暦6年に住民登録を実施した記録が残っており、ローマ帝国は大体14年おきに住民登録を行っていたので、西暦6年から逆算すると紀元前7年位がマリアとヨセフがベツレヘムに旅した住民登録の年として浮上します。このように、天体の自然現象と歴史上の出来事の双方から本日の福音書の記述の信ぴょう性が高まってきます。

次に、東方から来た正体不明の学者グループについて。彼らがどこの国から来たかは記されていませんが、チグリス・ユーフラテス川の地域は古代に天文学がとても発達したところで星の動きが緻密に観測されて、その動きもかなり解明されていました。ところで、古代の天文学は現代のそれと違って占星術も一緒でした。星の動きは国や社会の運命をあらわしていると信じられ、それを正確に知ることは重要でした。もし星が通常と異なる動きを示したら、それは国や社会の大変動の前触れでと考えられました。それでは、木星と土星が魚座のなかで重なるような接近をしたら、どんな大変動の前触れと考えられたでしょうか?木星は世界に君臨する王を意味すると考えられていました。土星について、もし東方の学者たちがユダヤ民族のことを知っていれば、ああ、あれは土曜日を安息日にして神に仕える民族だったな、とわかって、土星はユダヤ民族に関係する星と理解されたでしょう。魚座は世界の終末に関係すると考えられていました。それで、木星と土星が魚座のなかで異常接近したのを目にして、ユダヤ民族から世界に君臨する王が世界の終末に結びつくように誕生した、という解釈が生まれてもおかしくないわけです。

そこで、東方の学者たちはユダヤ民族のことをどれだけ知っていたかということについてみてみると、イエス様の時代の約600年前のバビロン捕囚の時、相当数のユダヤ人がチグリス・ユーフラテス川の地域に連れ去られていきました。彼らは異教の地で異教の神崇拝の圧力にさらされながらも、天地創造の神への信仰を失いませんでした。この辺の事情は旧約聖書のダニエル書からうかがえます。バビロン捕囚が終わって祖国帰還が認められても全てのユダヤ人が帰還したわけではなく、東方の地に残った者も多くいたことは旧約聖書のエステル記からうかがえます。そういうわけで、東方の地ではユダヤ人やユダヤ人の信仰についてはかなり知られていたと言うことができます。「あの、土曜日を安息日として守っている家族は、かつてのダビデ王を超える王メシアが現れて自分の民族を栄光のうちに立て直すと信じて待望しているぞ」などと隣近所はささやいていたでしょう。そのような時、世界の運命を星の動きで予見できると信じた学者たちが二つの惑星の異常接近を目撃した時の驚きはいかようであったでしょう。

学者のグループは宗教画などにはよく3人描かれています。しかし、福音書には人数は記されていません。複数形で書かれているので何人かいたのは確かですが、3人と考えられるようになったのは、イエス様に捧げられた贈り物が黄金、乳香、没薬と3種類あったからでしょう。

学者のグループがはじめベツレヘムでなく、エルサレムに行ったということも興味深い点です。ユダヤ人の信仰をある程度知ってはいても、旧約聖書自体を研究することはなかったでしょう。それで本日の箇所にも引用されている、旧約聖書ミカ書にあるベツレヘムのメシア預言など知らなかったでしょう。星の動きをみてユダヤ民族に王が誕生したと考えたから、単純にユダヤ民族の首都エルサレムに行ったのです。それから、ヘロデ王の反応ぶり。彼は血筋的にはユダヤ民族の出身ではなく、策略の限りを尽くしてユダヤ民族の王についた人です。それで、「ユダヤ民族の生まれたばかりの王はどこですか」と聞かれて慌てふためいたことは容易に想像できます。メシア誕生が天体の動きをもって異民族の知識人にまで告知された、と聞かされてはなおさらです。それで、権力の座を脅かす者は赤子と言えども許してはおけぬ、ということになり、マタイ2章の後半にあるベツレヘムでの幼児大量虐殺の暴挙に出たのです。

以上みてきたように、本日の福音書の箇所の記述は、自然現象から始まって当時の歴史的背景に見事に裏付けされるものです。しかし、問題点もいくつかあります。それも認めなければなりません。

一つ大きなものは、東方の学者グループがエルサレムを出発してベツレヘムに向かったとき、星が彼らを先導してイエス様がいる家まで道案内したということです。ハレー彗星のような彗星の出現があったと考える人もいます。それは全く否定できないことです。先に述べましたが、木星と土星の異常接近は紀元前7年は一回限りでなく何回も繰り返されました。それで、エルサレムからベツレヘムまで10キロそこそこの行程で学者たちが目にしたのは同じ現象だった可能性があります。星が道案内したということも、例えば私たちが暗い山道で迷って遠くに明かりを見つけた時、ひたすらそれを目指して進みますが、その時の気持ちは、私たちの方が明かりに導かれたというものでしょう。もちろん、こう言ったからといって、彗星とか流星とかまた何か別の異例な現象があったことを否定するものではありません。とにかく聖書の神は太陽や月や果ては星々さえも創造された(創世記1章16節)方なのですから、東方の星やベツレヘムの星が、現在確認可能な木星と土星の異常接近以外の現象である可能性もあるのです。

もう一つの問題点は、イエス親子のエジプトに避難していた期間とエルサレムの神殿を訪問してシメオンやハンナの預言を聞かされた時期との関係です。これについてはまた別の機会に考えたく思います。

 

3.次に、イエス様を救い主と信じる信仰に至る鍵は、自分を神との関係に照らし合わせて見つめることにあるということについて見ていきます。キリスト信仰者はイエス様を目で見たことがなく、彼の行った奇跡も十字架の死も復活も見たことはないのに、彼を神の子、救い主と信じ、彼について聖書に書かれてあることは、その通りであると受け入れています。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?

まず、イエス様を救い主と信じる信仰が歴史上どのように生まれたかをみてみます。はじめにイエス様と行動を共にした弟子たちがいました。彼らはイエス様の教えを直に聞き、しっかり記憶にとどめました。さらにイエス様に起こった全ての出来事の目撃者、生き証人となり、特に彼の十字架の死と死からの復活を目撃してからはイエス様こそ旧約聖書の預言の成就、神の子、救世主メシアであると信じるに至りました。自分の目で見た以上は信じないわけにはいきません。こうして、弟子たちが自分で見聞きしたことを宣べ伝え始めることで福音伝道が始まります。支配者たちが、イエスの名を広めてはならない、と脅したり迫害したりしても、見聞きしたことは否定できませんから伝道は続けるしかありません。

そうした彼らの命を顧みない証言を聞いて、今度はイエス様を見たことのない人たちが彼を神の子、救い主と信じるようになりました。そのうち信頼できる記録や証言や教えが集められて聖書としてまとめられ、今度はそれをもとにより多くのイエス様を見たことのない人たちが信じるようになりました。それが時代ごとに繰り返されて、2000年近くを経た今日に至っているのです。

では、どうして聖書に触れることで、会ったことも見たこともない方を神の子、救い主として信じるようになったのでしょうか?それは、遥か昔のかの地で起きたあの十字架と復活の出来事は、実は後世を生きる自分のためにも神がひとり子を用いて成し遂げられたのだ、そう気づいて信じたからです。それでは、どのようにしてそう気づき信じることができたのでしょうか?
イエス様を救い主と信じ受け入れた人たちみんなに共通することがあります。それは、自分を見つめる時に造り主の神との関係に照らし合わせてそうするということです。ご存知のように聖書の立場では、神というのは天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与える創造主です。それで、神との関係において自分を見つめるというのは、自分には造り主がいると認め、その造り主と自分はどんな関係にあるかを考えることになります。

造り主の神との関係において自分を見つめると、神の前に立たされた時、自分は耐えきれないのではと気づきます。というのは、神は神聖な方であり、自分は神の意思に反する罪を持っているからです。神の意思というのは、十戒に凝縮されています。父母をないがしろにしたり、他人を肉体的精神的に傷つけたり、困っている人を見捨てたり、不倫をしたり、嘘をついたり偽証したり改ざんしたり、妬みや嫉妬に駆られて何かを得ようしたならば、それらが行いに現れようが心で描こうが神の意思に反するので全てが罪です。十戒には「~してはならない」という否定の命令が多くありますが、宗教改革のルターは、そこには「~しなければならない」という意味も含まれていると教えます。例えば、「汝殺すなかれ」は殺さないだけでなく、隣人の命を守り人格や名誉を尊重しなければならないこと、「汝盗むなかれ」は盗まないだけでなく、隣人の所有物や財産を守り尊重しなければならないこと、「姦淫するなかれ」は不倫しないだけでなく、夫婦が愛と赦し合いに立って結びつきを守らなければならないことを含むのです。これらも神の意思なのです。

加えて、十戒の最初の部分は天地創造の神以外を崇拝してはならないという掟です。これを聞いて大抵の人は、ああ唯一絶対神の考え方だな、そんな掟があるから自分の正義を振りかざして宗教戦争が起きるのだと考えがちです。しかし事はそう単純ではありません。使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」12章で「悪に対して悪で報いるな、善で報いよ」と教えています。その理由は「復讐は神のすることだから」と言います。神がする復讐とは、最後の審判の日に全ての悪が最終的に神から報いを受けることを意味します。つまり唯一絶対神を信じるというのは実に人間の仕返しの権利を全部神に譲り渡すということです。そんな、やられたのにやり返さなかったらこっちが損するだけではないか、と言われるでしょう。しかしパウロは、「全ての人と平和な関係を持ちなさい、相手がどんな出方をしようが自分からは平和な関係をつくるようにしなさい」と言うだけです。このように唯一絶対神を持つと、人間は相手をなぎ倒してまで自分の正義を振りかざすことがなくなるというのが本当なのです。

このような十戒に照らし合わせて見ると自分はいかに神の意思に反することだらけということに気づかされます。自分は完璧で、神の前に立たされても大丈夫だ、何もやましいことはない、などと言う人間はいません。神の前に立たされたら自分はダメだ、持ちこたえられないと気づくと、人間は後ろめたさや恐れから神から遠ざかろうとします。そうなると、自分を見つめることを神との関係に照らし合わせてしなくなり、別のものに照らし合わせてするようになっていきます。

まさにそのような時、イエス様が何をして下さったか、神はどうしてイエス様を贈られたのかを思い出します。神聖な神のひとり子が人間の罪を全部引き取って人間のかわりに神罰を受けてゴルゴタの十字架の上で死なれました。そのようにして私たちの罪の償いを果たして下さいました。それで彼こそ救い主であると信じて洗礼を受けると罪の償いがその通りになって、神から罪を赦された者として見なされ、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。罪の赦しの十字架は歴史上確固として打ち立てられたものです。自分を神との関係に照らし合わせて見つめて、その結果、神から遠ざかろうとする自分を感じたら、すぐ十字架のもとに立ち返ります。そうすれば、神と自分との結びつきは神の愛によってしっかり維持されているとわかって、恐れや後ろめたさは消えてなくなります。

本日の使徒書の日課エフェソ3章の12節で使徒パウロは「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」と述べていました。少し注釈しながら言い換えると、「私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰により彼としっかり結びついていて、その信仰のおかげで神の前に立たされても大丈夫という確信がある。それで、神のみ前に勇気をもって歩み出ることができる」ということです。これは真理です。

 

4.最後に、東方の学者のグループのベツレヘム訪問はキリスト信仰者の信仰生活に通じるものがあるということを述べておきます。彼らは星に導かれて救い主のもとに到達しました。私たちにはそのような星はありませんが、救い主のもとに到達できるために聖書の御言葉があります。私たちには御言葉が星の役割を果たしています。

救い主のもとに到達した学者たちは捧げものをしました。私たちも救い主のもとにいる限り捧げものをします。何を捧げるのか?ローマ12章1節でパウロは「自分の体を神の御心に適う神聖な生贄として捧げなさい」と勧めます。それはどんな捧げものか?2節を見ればわかります。少し注釈しながら訳しますと、「あなたがたはこの世に倣ってはいけない。あなたがたはイエス様を救い主と信じる信仰によって物事の捉え方が一新されたのだ。だから、あとは何が神の意思であるか、善いことであるか、神の御心に適うことであるか、完全なことであるか、それらを吟味する自分へと神に変えてもらいなさい。」これが自分の体を神聖な生贄として捧げることです。どのように自分を変えて頂くか、その内容については12章でずっと述べられていきます。先ほど述べた、仕返しの権利を放棄することもその一つです。

学者たちは捧げものをした後、ヘロデ王のもとには戻りませんでした。救い主としてのイエス様のもとに到着して自分を神聖な生贄として捧げる者は、この世に倣わない者であるということが暗示されています。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

説教「今細かいことはわからないが神の基本方針をわかっていれば 後で全てがわかる」 神学博士 吉村博明 宣教師、コヘレト3章1-11節

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礼拝説教 2021年1月1日新年の礼拝

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた がたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.2021年が始まりました。私たちはまだコロナ禍の只中にありますが、新しい年を迎えるというのは、今までと違う新しいことが始めるという感じが強くするものです。そういう感じ方を持つことも大事と思います。今世界中が大きな試練の中にあるので、それをこれからも同じだ何も変わらないと思って向かって行くのと、これからは今までと違うものになるのだと思って向かって行くのでは試練に対する向き合い方、ひいては試練の只中にあっての進み方も違ってくるでしょう。どうか今日の御言葉の解き明かしがそのような向き合い方、進み方に内容を与えるものになるようにと願っています。

新しい年のことを言っているのに、昨年のことを言うのは少し気が引けるのですが、こういうことがありました。一つの原稿を依頼されていて9月が締切りだったのですが、秋はずっと家族の者や自分自身の体調の問題があって教会の礼拝を守ることで精一杯になってしまい、原稿に取りかかることができなくなってしまいました。締め切りを何度も延ばしてもらったのですが、結局は手つかずになってしまい、担当の方にお詫びのメールを送りました。原稿というのはキリスト教関係の施設の記念誌で、担当者もキリスト信仰者なのですが、彼の返事はこういうものでした。「先生とご家族の皆様の試練の間中、神はその裏で新しいことを始められていたのでしょう。」神が私たちの知らない見えない裏で何か新しいことを始めて、それが何かは事後的にわかる、しかもわかった時点から過去を振り返ってみるとあの試練はもう試練ではなくなっていて、むしろそれがあったから、それに取り組んでいたから、今この新しい時点に立っている、そして神が本当に見捨てずにずっと導いて下さったということもよくわかる、こういう捉え方はとてもキリスト信仰的です。

なぜこの捉え方がキリスト信仰的かと言うと、これは聖書の神、万物の創造主の神が本当に信頼に値する方であると信頼している者にとっては真理だからです。神を本当に信頼するとは、困っている時苦しい時に助けを祈る相手はこの方以外にはない、自分が成し遂げようとしていることに祝福をお願いする相手はこの方以外にはいない、さらに神の意思に反する罪を持ってしまった時に赦しを乞う相手はこの方以外にはない、という位に全身全霊で神一筋になることが神を本当に信頼することです。まさに十戒の第一の戒め、「私以外に神はあってはならない」の通りになることです。

それでは全身全霊がそのような神一筋になるくらいに神を信頼しきるという心はどうしたら生まれるのでしょうか?それはもう、その神が私たちにかけがえのないひとり子を贈って下って、その方に十字架の死と死からの復活という業を果たさせたということ、それで彼を救い主と受け入れて洗礼を授かった者たちをご自分の子にして下さったこと、ここに私たちの神に対する信頼は拠って立ちます。私たちは神の子とされたのです。私たちにひとり子を贈って下さった父を私たちは子として信頼するのです。だから、試練があってもそこに踏み留まらない、埋没してしまわない、堂々巡りしないで、一直線に(多少ジグザグするかもしれませんが)次の段階に向かって進んでるという見方になれるのです。

そのことを使徒パウロは第一コリント10章13節で次のように述べています。「神は真実な方です(ギリシャ語のピストスは「裏切らない、誠実な、貞節を守る」という意味があります。つまり神は私たちを見捨てないという意味です)。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。」

イエス様を救い主として受け入れていない人たちから見たら、このような見方は根拠のない楽観論にしか聞こえないでしょう。しかし、キリスト信仰者はそれを真理として抱いているのです。キリスト信仰の楽観的真理はパウロの次の言葉にもよく出ています。ローマ8章28節です。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

私たちの用いる新共同訳では「万事が益になるように共に働く」と、万事が勝手に働いて益になっていくという訳ですが、ギリシャ語原文は、主語は「万事」ではなく「神」で、神が万事を益となるようにすると訳することもできます。フィンランド語の聖書もそう訳しています。私もその方がいいと思います。今は試練の中にあり、神の助けと導きを祈りながら自分の出来る最善を尽くして取り組むのみ。それと同時に、神は私たちの知らない気がつかないところで、まさに裏で私たちのいろんな難しい形のパズルを合わせて下さっている。そして後で全てが見事に埋め合わさった全体像を見せて下さる。それを心に留めながら試練に取り組むのがキリスト信仰者というものです。

2.このようにキリスト信仰者というのは、神は試練を脱する道を備えて、試練のいろんな要素を組み合わせて最後は大きな益にして下さるということをわかっている者です。しかしながら、何がどう組み合わさっていくのか、細かい具体的なことは試練の最中にあっては全然わかりません、全然見えません。全ては事後的にわかるだけです。だから、試練の最中にあっては、神の子たちに対する父の愛情と先見の明に信頼して進むしかないのです。このような、全体的には神の基本方針はわかるが、具体的な詳細は現時点ではわからないということは本日の旧約の日課「コヘレトの言葉」の個所でも言われています。3章11節で、天と地と人間を創造された神は人間に永遠を思う心を与えたと言われています。「永遠を思う心を与えた」はヘブライ語原文を直訳すると「永遠を人間の心に与えた」です。「永遠」、「永遠なるもの」を人間の心に与えたのです。

永遠とは何か?簡単に言えば時間を超えた世界です。それでは時間を超えた世界とは何かというと、それの説明は簡単なことではありません。聖書の一番初めの御言葉、創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。つまり、森羅万象が存在し始める前には、創造の神しか存在しなかったのです。神だけが存在していて、その神が万物を創造しました。神が創造を行って時間の流れも始まりました。その神がいつの日か今ある天と地を終わらせて新しい天と地にとってかえると言われます(イザヤ書65章17節、66章22節、黙示録21章1節、他に第二ペトロ3章7節、3章13節、ヘブライ12章26-29節、詩篇102篇26-28節、イザヤ51章6節、ルカ21章33節、マタイ24章35節等も参照のこと)。そこは神の国という永遠が支配する世界です。そういうわけで、今の天と地が造られて、それが終わりを告げる日までは、今の天と地は時間が進む世界です。神はこの天と地が出来る前からおられ、天と地がある今の時もおられ、この天と地が終わった後もおられます。まさに永遠の方です。

神のひとり子がこの世に贈られて人間として生まれたというのは、まさに永遠の世界におられる方が、限られたこの世界に生きる人間たちを、永遠の世界にいる神との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、そしてこの世の人生を終えたら復活の日に目覚めさせて神のもとに戻れるようにしてあげよう、そのために贈られたのです。人間が神との結びつきを持って生きられるように、またこの世の人生を終えたら神のもとに戻れるようにするためには、どうしたらよいか?そのためには、人間から神との結びつきを失わせてしまった、神の意思に反する罪をどうにかしなければならない。それでイエス様は、人間の罪を全部引き受けて十字架の上まで運び上げてそこで人間にかわって神罰を受けて、神に対して罪の償いを果たして下さいました。イエス様を救い主と受け入れて洗礼を受ける者はこの罪の償いを自分のもとにすることができ、罪が償われたから神から罪を赦された者として見なされるようになって、それで神との結びつきを持ってこの世を生きることになるのです。

神はそのような永遠に属する方を私たちの心に与えて住まわせて下さいました。まさに、神はコヘレト3章11節で言うように、永遠を私たちの心に与えて下さったのです。それならば、なぜ「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」と言うのか?この下りですが、ここは英語(NIV)、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳も大体同じで、「神のなさる業を見極められない」と言っています。「永遠」を心に与えられたのに見極められないというのは、かなり悲観的です。コヘレトは旧約聖書の知恵文学に数えられますが、全体的にペシミスティックな作品と言われています。ところが私は、何年か前の説教で指摘したのですが、ここのヘブライ語原文を見れば見るほど、どうも逆なような気がしてなりません。つまり、「神は、永遠を人の心に与えられた。それがないと(מבלי אשר、מבליを前置詞に解し、אשרは関係詞なので、英語で言えばwithout which)神のなさる業を始めから終わりまで発見することはできないというものを」という訳になるのではないだろうか。そうすると、「神は永遠というものを人の心に与えられたので、人は神のなさる業を発見することが可能なのだ」という意味です。イエス様という永遠の御子を救い主として心で受け入れることで、神の救いの業を発見することができるのだから、この訳でいいのではないかと考える者です。もちろん、日々の試練の中で、神の業を初めから終わりまで具体的に見極めることは不可能です。そのことは先ほども申しました。その意味では心に永遠を与えられても発見できないということになります。その意味でペシミズムがあると言ってもいいです。しかし、先ほど述べましたように、キリスト信仰者は、事後的に全てが繋がっていたとわかる、神はそのように取り仕切って導いて下さる、そう信頼して進んでいくので、ことの最中の時は具体的なことは何もわからないけれども、神の基本方針はわかっている。先ほどのパウロの聖句のように神の基本方針をわかっているということでは神のなさる業を発見できているのです。ここにコヘレトがペシミズムに留まらない、それを超えるものがあると考えます。

3.「コレヘトの言葉」3章の初めの部分で、「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」として、生まれる時も死ぬ時も定められたものだと言われています。定められた時の例がいっぱい挙げられていて、中には「殺す時」、「泣く時」、「憎む時」というものもあり、少し考えさせられます。不幸な出来事というのは、自分の愚かさが原因で招いてしまうものもありますが、全く自分が与り知らず、ある日青天の霹靂のように起こるものもあります。そんなものも、「定められたもの」と言われるとあきらめムードになります。

また、「神はすべてを時宜に適うように造り」という下りですが、ヘブライ語原文に即してみると、「神は起きた出来事の全てについて、それが起きた時にふさわしいものになるようにする」という意味です。これは、もし別の時に起こったのならばふさわしいものにはならなかったと言えるくらい、実際起きた時にふさわしいものだった、と理解できます。そうすると、起きたことは起きたこととして受け入れるしかない。そこから出発しなければならない。それでは、そこから出発してどこへ向かって行くのか?

ここで「永遠」を思い出します。もし「永遠」がなく、全てのことは今ある天と地の中だけのことと考えたら、そこで起きる出来事は全て天と地の中だけにとどまります。しかし「永遠」があると、この世の出来事には全て続きが確実にあり、神のみ心、神の正義、神の義が目指し向かうべきものとして見えてきます。イエス様はマタイ5章の有名な「山の上の説教」の初めで、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」というように、今この世の目で見て不幸な状態にいるような人たちの立場が逆転する可能性が満ちているということを繰り返して述べています。「慰められる」とか「満たされる」とか、ギリシャ語では全て未来形ですので、将来必ず逆転するということです。運よくこの世の段階で逆転することもあるだろう。しかし、たとえあってもそんなのは序の口と言うようなもっと完璧な逆転が待っている。また不運にもこの世で逆転しなくとも「復活の日」、「最後の審判の日」に逆転が起こるのです。
この世は神の意思に反する罪が入り込んだ世界です。自分では神の意思に沿うように生きようと思っても、自分の罪に足をすくわれたり、また他人の罪の犠牲になってしまうことがどうしても起きてしまいます。そういう時、今ある天と地を超えたところで、その天と地を造られていつかそれを新しいものに変えられる方がいらっしゃることを思い起こしましょう。そして、その方が贈られたひとり子を私たちが信じ受け入れた以上は、その方は私たちに起こることを全て見届けていて、試練の時にはどう立ち振る舞わなければならないかを聖書の御言葉を通して教えて下さっているということを思い起こしましょう。日々聖書を繙き、神の御言葉に耳を傾けましょう。そして、思い煩いや願い事を父なるみ神に打ち明けることを怠らないようにしましょう。とにかく私たちは心に「永遠」を頂いたのですから、神が万事を益にして下さることを今一度思い起こして、今日始まった新しい年を進んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るようにアーメン

説教「クリスマスの平和を持とう!」 神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音2章1-20節

降誕祭前夜礼拝説教 2020年12月24日降誕祭前夜礼拝説教 2020年12月24日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

1. 本日は「降誕祭前夜」、日本では英語の言葉をカタカナにした「クリスマス・イブ」と呼ばれる日です。この日、北欧の国フィンランドのトゥルクという町で1300年代からずっと続いている「クリスマスの平和宣言」という行事があります。目抜き通りを挟んで大聖堂の反対側にある建物のバルコニーから、トゥルク市の儀典長が巻物を広げて群衆の前でその「宣言」を声高らかに読み上げます。「平和宣言」などと言うと、世界の平和を祈願する内容かと思いきや、そうではなく、これから救世主イエス・キリストの誕生をお祝いする期間に入るので市民は相応しい仕方でお祝いしなさい、もし、このクリスマスの平和を破る者がいれば関連法令に基づいて厳しく罰せられるから注意するように、という内容です。つまり、救世主の誕生日を敬虔な気持ちでお祝いし、お祝いの秩序を乱してはならない、という当局からの通達です。(トゥルク市の「クリスマス平和宣言」はテレビで全国中継されるほか、インターネットで世界中に同時配信されています。今年はコロナのために群衆なしで行うそうです。)

「平和」という言葉は、普通は戦争のない状態を意味すると理解されます。国と国、民族と民族の利害が衝突した時、武力を用いないで解決することを平和的解決と言います。そういう衝突や対立がない状態という意味での平和があります。他方で「クリスマスの平和宣言」に言われるような、イエス様の誕生を感謝の気持ちと喜びをもってお祝いできる状態という意味での平和もあります。もちろん、そういうお祝いが出来るためには国や社会が平和であることが大事です。フィンランドの「クリスマスの平和宣言」も、第二次大戦中の1939年は空襲警報が鳴ったため中止になりました。しかしながら、国や社会が平和ならばいつも感謝の気持ちと喜びをもってイエス様の誕生をお祝い出来るかと言うと、そうとも限りません。というのは、心がイエス様以外のものに向いていたら、それは本当のクリスマスのお祝いではなく、そこにはクリスマスの平和はないからです。裏返して言うと、国や社会が平和でない時も、心がしっかりイエス様に向いているならば、クリスマスの平和はあるということです。今コロナ禍の状況の中で世界中が混乱しています。そのような時こそ、このような平和を持てれば素晴らしいと思うのですが、そんな平和は果たしてあるのでしょうか?

先ほど朗読したルカ伝福音書2章の中で、イエス様が誕生した夜、天使の大軍が夜空に現れて「地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美の言葉を述べました。この、イエス様の誕生に結びつく平和、クリスマスの平和とはどんな平和なのか?これから、このことを見ていきたいと思います。

 

2. 初めに、イエス様誕生の歴史的背景について述べておきます。これは、出来事がおとぎ話とか空想物語と片づけられてしまわないために大事なことです。実を言うと、イエス様がこの世に誕生した年月日は歴史資料に限りがあるため100パーセント正確には確定できません。それでも、手掛かりはいろいろあります。例えば、先ほどのルカ伝福音書2章の初めに、ローマ皇帝アウグストゥスの勅令による住民登録があります。当時ユダヤ人にはヘロデという王様はいましたが、独立国としての地位は失っていてローマ帝国の支配下に置かれる属国でした。ローマ帝国は大体14年毎に徴税のための住民登録を行っていました。それで、ユダヤ人も帝国の住民登録の対象になったのです。

さて、ヘロデ王の国はローマ帝国シリア州の管轄下にあり、その総督であったキリニウスは西暦6年に住民登録を実施したという記録が残っています。しかし、それ以前のものは記録がありません。それでも、ヘロデ王が紀元前4年まで王位にあったことや、ローマ帝国は定期的に住民登録を行っていたことから逆算すると、イエス様のこの世の誕生は紀元前6ー7年という数字が有望になります。

イエス様が誕生した日にちはどうでしょうか?西暦100年代に1月6日が顕現日という聖日に定められました。当初は顕現日はイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記念することと、イエス様の誕生を記念することの両方が祝われていました。西暦100年代と言えば、まだイエス様の目撃者の次の世代が生きていた時代です。目撃者の生々しい証言はまだ昨日の出来事のように語られていたでしょう。誕生記念の方は1月6日から12月25日に移っていきますが、その詳しい経緯はわかりません。いずれにしても、イエス様の誕生が真冬の季節だったことは、初期のキリスト教会の中では当たり前のことだったと言えます。

 

3. クリスマスというのはイエス様の誕生をお祝いする日です。それで、イエス様が歴史上、実際に生まれた日が世界最初のクリスマスになります。聖書に従えば、イエス様は神のひとり子です。そして父なる神は、天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えて下さった創造主です。この創造主としての神、ひとり子としての神、それに神の霊、聖霊の三つが一つの神を成すというのがキリスト信仰の立場です。この三つを除く全ての万物は、神に造られたもの、被造物ということになります。私たちの目に見えるもの、また目に見えない霊的なものも全て被造物ということになります。天使たちもそうです。

これから考えると、世界最初のクリスマスの驚くべきことは、造り主に属する神のひとり子が人間として、つまり被造物の形を取って生まれたということです。加えて、天上の神の栄光に包まれていた方が家畜小屋で生まれたということです。皆さんは、家畜小屋がどういうところか想像つくでしょうか?パイヴィの実家が酪農業を営んでいるので、休暇の時はいつも子供たちと一緒に牛を見に行ったものでした。牛舎は、栄養や水分補給がコンピューター化された近代的なものですが、糞尿の臭いだけは現代技術をもってしてもどうにもならない。数分いるだけで臭いが服にしみつくほどです。

神のひとり子であり人間の救い主となる方が、なぜこのような仕方で地上に送られなければならなかったのか?人間に命と人生を与える造り主の立場にある方が、なぜ自ら被造物の形をとって、しかも家畜小屋で生まれなければならなかったのか?まず、神が人間として生まれたということについて見てみます。ここで大事なポイントは、もし、このことが起きなかったならば、神はずっと天上にふんぞり返っていただけだったろうということです。それでは神と人間の間にある問題を解決することは出来ません。神と人間の間にある問題とは何かと言うと、それは、旧約聖書の創世記にあるように、神に造られた最初の人間アダムとエヴァが神の意思に反するようになって、罪を持つようになってしまったということです。そのために神と人間の結びつきが失われ、両者はいわば敵対関係に陥ってしまいました。

そこで神は、人間が再び神と平和な関係を持てて、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにしようと、そしてこの世から去った後は復活の日に目覚めさせてご自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげようと、それでひとり子をこの世に送ったのでした。送って何をさせたかと言うと、敵対関係を終わらせるために人間の罪を償う犠牲の生け贄になってもらったのです。これがゴルゴタの丘の十字架の出来事でした。さらに神は、一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があるということも示されました。これらのことをやり遂げるには被造物はあまりにも無力でした。それを可能にする本物の犠牲が必要でした。それが出来たのは神のひとり子だったのです。神のひとり子の犠牲なのでこれ以上のものはないという犠牲でした。イエス様が犠牲の生け贄になったというのは、神と人間の間に和解をもたらすために神自らが人間に歩み寄って自分を犠牲に供したということだったのです。それ位、神は人間のことを大事に思って下さったということなのです。

 

4. それでは、神のひとり子が人間として生まれるのなら、なぜベツレヘムの家畜小屋での出産というような形をとらなければならなかったのでしょうか?聖書を読むと気づかされることですが、永遠の存在者である神は、有限な私たち人間を導く時、大抵は自然界と人間界にある諸条件を用いてその枠内でそうします。しかし時として、諸条件の枠を超えるような力を行使して、自然界の中で起こりえないことを起こすこともあります。それが奇跡と呼ばれるものです。例えばイエス様が医療の技術もなく不治の病を治したとか、湖の水の上を歩いたとか、5切れ程度のパンで5千人以上の人たちの空腹を満たしたとかいうものです。

人間界の諸条件の枠の内で導きをするとどういうことが起きるか?イエス様の誕生がその良い例になっています。紀元前6年頃、現在のイスラエルの国がある地域で、かつてのダビデ王の家系の末裔だったヨセフはナザレ町出身のマリアと婚約していた。そのマリアは神の奇跡の業のために処女のまま妊娠した。ちょうどその時、彼らを支配していた異国の皇帝が支配強化のために住民登録を命じた。そこで近々世帯主になるヨセフはマリアを連れて自分の本籍地であるベツレヘムに旅立った。そこでマリアは出産日を迎えた。さて、旧約聖書にはメシア救世主がダビデ王の家系から生まれ、その場所はベツレヘムである、という預言があります。ローマ皇帝はそんな他の民族の聖典の預言など全く知らずに勅令を出したわけですが、そのおかげで預言が実現することになりました。

出産場所が家畜小屋になったことについても、直接の原因は、その夜ベツレヘムの宿屋はどこも満員でヨセフたちが泊まれる場所がなかったためでした。ところが、町の郊外にいた羊飼いたちに天使が現れて、今ベツレヘムでメシア救世主が生まれた、飼い葉桶に寝かせられている赤子がそれである、と知らせました。これが重要なヒントになりました。なぜなら、家畜小屋を探せばよいからです。単に救世主が生まれたとだけ告げられたら、どこを探せばよいのか途方に暮れたでしょう。仮に誰かの赤ちゃんは見つけられたとしても、その子が天使の言った救世主であるとどうやって確かめられるのか、雲を掴むような話になったでしょう。

イエス様の家畜小屋での出産の出来事から次のことがわかってきます。神はヨセフとマリアを歴史的状況、社会的状況の荒波に揉まれさせてはいるが、決して彼らの運命の手綱を手離すことなく、ずっとしっかり握っていたということです。マリアの妊娠は、戒律厳しいユダヤ教社会の中では不倫か結婚前の関係かと疑われたでしょう。事は十戒の第六の掟「汝、姦淫するなかれ」に関わります。しかしヨセフは、神の計画ならば周囲の目など気にせず、この私が育てますと決意します。そう決心するや否や、今度は支配者の命令が下され、身重のマリアを連れて160キロ離れた町に旅をしなければならなくなります。やっと着いても泊まる所がなく、家畜小屋で子供を産むことになってしまいます。

ところが、まさにちょうどその時、神は天使を送ってイエス様の誕生を羊飼いたちに知らせ、彼らにイエス様を探し当てさせました。本日の福音書の箇所によると、家畜小屋には親子3人と羊飼いたちの他にも人々が集まっています。恐らく羊飼いたちは黙って探したのではなく、今夜この町でメシア救世主がお生まれになりました!今飼い葉桶に寝ておられます!家畜小屋はどこですか?と声に出しながら探し回ったのでしょう。羊飼いたちはヨセフとマリアと集まった人々に天使が告げたことを話しますが、人々は天使など見ていませんから、半信半疑です。しかし、天使が現れなければ羊飼いが飼い葉桶の赤ちゃんを探すこともないわけだから、嘘とも決めつけられない。聖書に書いてあるように、ただただ驚くしかありません。他方マリアは、天使ガブリエルから何が起きるかを前もって知らされていたので、羊飼いたちの言うことは心に留めたのです。これも書いてある通りです。

以上、ヨセフとマリアは、ベツレヘムまでの旅を余儀なくされて挙句の果ては家畜小屋においやられてしまいましたが、羊飼いたちがやってきたことで、これは不運でもなんでもない、神は何時いかなる時でも絶えず目を注いで下さっている、ということがはっきりしました。このように神は、神を信頼しより頼む者を状況の荒波に揉まれさせて、何もしてくれない、助けてくれないように見えても、実はその人の運命の手綱をしっかり握っていて離すことはないのです。必ず、その人に対する神の計画が明らかになり、それまでのことは無意味ではなかったとわかるのです。

 

5. このように外面的には嵐と荒波があっても、心は落ち着いていられる平和がある。そのような平和について宗教改革のルターは次のように教えています。この教えは、イエス様がヨハネ14章27節で弟子たちに平和を与えると約束したことについての説き明かしです。

「これこそが正しい平和である。それは心を静めてくれる。しかも、不幸がない時に静めるのではなく、不幸の真っ只中にいて、周囲のもの全てが動揺しているときに静めてくれるのである。

 この世が与える平和とイエス様が与える平和の間には大きな違いがある。この世が与える平和とは、不穏さがもたらす害悪が取り除かれることがそれである。それとは反対にイエス様が与える平和とは、外面上は不幸が続いてもあるものである。例えば、敵、疫病、貧困、罪、死それに悪魔、こうしたものはいつも我々を包囲している。しかしながら、内面的には心の中に励ましと平和をしっかり持っている。これがイエス様の与える平和である。心は不幸を気にかけないばかりでなく、不幸がない時よりも大胆になり、喜びも大きくなる。それ故、この平和は、人間の理解を超える平和と呼ばれる。

 人間の理性で理解できるのは、この世が与える平和だけである。平和は害悪があるところにもあるとのは、理性には理解不可能である。理性は、どのようにして心を静めることが出来るかを知らない。なぜならば理性は、害悪が残っているところには平和はあり得ないと考えるからだ。確かにイエス様は外面上の惨めさをそのままにすることがあるが、まさにそのような時に彼は人間を強くし、臆病な心を恐れ知らずにし、恐怖に慄く良心を安心感に満ちたものに替える。そのような人は、たとえ全世界が恐怖を抱く時にも喜びを失わず、安全な場所でしっかり守られているのである。」

一体誰がこのような平和を持てるでしょうか?先ほどのルカ伝福音書2章14節の天使たちの賛美を思い出しましょう。

「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」

これは、不思議な文句です。この文句は2つの部分からなります。最初は、神の栄光について言い、次は平和についてです。「いと高きところには栄光、神にあれ」の「いと高きところ」とは、神がおられる天上そのものを指します。「神にあれ」ですが、そもそも天上の栄光というものは、天使たちが「あれ」と願わなくても、もともと神にあるものなので、「あれ」と訳すより、「ある」とすべきです。従って、ここは「栄光はいと高き天上の神にある」というのが正確でしょう。

「地には平和、御心に適う人にあれ。」地上の平和は、天使たちが「あれ」と願ってもいいのかもしれません。「御心に適う人」と言うのは、「神の御心に適う人」です。「平和」は、先ほども申しましたように、神と人間の関係が和解した、神と人間の間の平和を指します。この平和は、イエス様が十字架で御自身を犠牲の生け贄として捧げた時に実現しました。そして、イエス様を救い主として受け入れた者たちがこの神との平和を持つことができます。この者たちが「神の御心に適う人たち」です。まさにこの平和は、外的な平和が失われた時であろうが、また人生の中で困難や苦難に遭遇しようが、イエス様を救い主と信じる限り、失われることのない平和です。そういうわけで、天使たちは、栄光が天上の神にあるのと同じくらい、平和もイエス様を受け入れる者にある、だから、出来るだけ多くの人がこの平和を持てますように、と願っているのです。皆さんも、この平和を持つことができますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

説教「いと高き方の力に包まれて」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書1章26-38節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.2020年の待降節ももう第四主日です。今度の木曜日がクリスマス・イブ、金曜日がクリスマスです。この期間、私たちの心は2千年以上の昔に現在のイスラエルの地で実際に起きたメシア・救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を贈られた父なるみ神に感謝してクリスマスをお祝いします。今年の待降節の礼拝の説教で私は特に、キリスト信仰者にとってクリスマスというのは過去の出来事を記念するお祝いに留まってはいけないということを強調してきました。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。そういうわけで私たちは、2000年以上前に救世主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。その意味で待降節という期間は、イエス様の第一回目の降臨に心を向けつつも、未来の再臨にも心を向ける期間でもあります。毎年過ごすたびに、ああ、主の再臨がまた一年近づいたんだ、と身も心もそれに備えるようにしていかなければならないのです。イエス様が再臨する日というのは、聖書によれば今のこの世が終わる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。それは、また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつなのかは、父なるみ神以外は誰もわからないのだとイエス様は言われました。それで大切なことは、「目を覚ましている」ことであると教えられました。

とは言っても、イエス様の再臨というのは気が重いものです。最初の降臨は神のひとり子が人となってベツレヘムの馬小屋で赤ちゃんになって生まれたという、なんだか微笑ましい話に聞こえますが、再臨となるとこの世の終わりとか最後の審判とか死者の復活とか物騒なことがつきまといます。誰もそんな日を待ち望まないでしょう。

しかし、キリスト信仰者は、その日は特別な意味を持つ日だと考えます。先週の説教でもお教えしましたが、キリスト信仰者の人生はこの世を去るまでは罪の自覚と赦しの繰り返しの人生です。キリスト信仰者というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を通して聖霊を注がれたので自分には神の意思に反するもの、すなわち罪があると自覚しています。それで、それを神の前で認めて赦しと清めを願います。そうすると神は、イエス様の十字架の犠牲の死に免じて赦して下さいます。これを繰り返していくことで神との結びつきが強まっていき、内にある罪が圧し潰されていきます。そして、その繰り返しが終わる日が来ます。それがイエス様の再臨の日なのです。神から、お前は罪を圧し潰す側についていた、と認められると、神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられます。そこではもう罪の自覚を持つ必要はありません。それなので、キリスト信仰者は主の再臨が待ち望むに値するものであるとわかるのです。

以上から、主の再臨を目を覚まして待ち望む者は次のことを肝に銘じていなければならないとわかります。自分には神の意思に反する罪があるという事実から目を背けないで、たえず神のもとに立ち返る生き方をすることです。たえず神のもとに立ち返るとは、洗礼を受けた時の自分に何度も戻り、そこから何度も再出発することです。

 

2.主の再臨を待ち望む者が肝に銘じておきべきもう一つのことを本日の福音書の個所から学んでみようと思います。本日の箇所で天使ガブリエルがマリアに、お前は救い主の母となると告げていました。天使が言わんとしていることは、神がそうなると言われたことは必ずそうなる、だから、それを信じそうなることを受け入れなさいということです。たとえ、自分の思いや考えと合わなかったり、あまりにもかけ離れていて受け入れ難いものでも、神がそう言われる以上はそうなる、だから、それを受け入れて、それを全てに優先させなさいということです。人間の本心としては、たとえ神のためとは言え、自分の意思を脇に置くというのはあまりしたくないものです。ましてや、そうすることで余計な困難や試練を抱えてしまってはなおさらです。しかし、神はまさに人の都合よりも神の意志を優先させる人と共に一緒におられるのです。この真理が本日の福音書の箇所の説き明かしから明らかになります。

このガブリエルという天使ですが、ダニエル書にも登場します(8章と9章)。神に敵対する者が跋扈する時代が来るが、それは必ず終焉を迎える、とダニエルに告げ知らせます。ガブリエルはまたマリアのところに来る6カ月前にエルサレムの神殿の祭司であるザカリアにも現れ、高齢の妻エリザベトが男の子を産むと告げます。この子が将来の洗礼者ヨハネです。

ガブリエルがマリアに告げたことは、彼女がまだ婚約者のヨセフと正式に結婚する前に、神の霊すなわち聖霊の働きで神の力が及んで男の子を産むということでした。さらに、その子は神の子であり、神はその子にダビデの王座を与え、その国は永遠に続くということも告げました。その子につける名前として「イエス」が言われます。「イエス」と言うのは、ルカ福音書が書かれているギリシャ語ではイェースースΙησουςと言います。ところでマリアがガブリエルと会話した言葉は恐らくアラム語というヘブライ語に似た言語です。その言葉ではィエーシューアישועといいます。それは旧約聖書のヘブライ語ではユホーシェアיהושעといい、これはモーセの後を継いでイスラエルの民をカナンの地に導いた指導者の名前です。日本語ではヨシュアと言います。それは文字通り「主が救って下さる」という意味です。つまり、旧約聖書の「ヨシュア記」のユホーシェアがアラム語でィエーシューアになって、その後でルカが福音書をギリシャ語に書いた時にイェースースになって、それが日本語ではイエス、英語ではジーザスになったということです。以上、キリスト教雑学辞典でした。

さて、ダビデ家系の王が君臨する王国が永遠に続くということについてですが、世界史の教科書にも出てきますが、ダビデ家系の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時に潰えてしまいました。捕囚が終わってユダヤ民族が祖国に帰還した後はもうダビデ家系の王国は実現しませんでした。しかし、旧約聖書の中にダビデの王国は永遠に続くという神の約束があるため(サムエル下7章16節、詩篇45章7節、イザヤ9章6節、ダニエル7章14節)、ユダヤ民族の間では、いつかダビデの家系に属する者が王となって国を再興するという期待がいつもありました。

しかしながら、神がダビデの家系に属する者に与えると約束した永遠の王国とは実は、地上に建設される国家ではなく、天の御国のことだったのです。ヘブライ12章や黙示録21章で言われているように、今のこの世が終わりを告げて、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる時、唯一揺るがないものとして立ち現われる神の国がその永遠の王国だったのです。私たちが「主の祈り」を祈る時に、「御国を来たらせたまえ」と唱える、あの永遠の御国のことだったのです。そこで王として君臨するのは、まさしく死から復活した後に天に上げられて今のところは父なるみ神の右に座して、この世の終わりの日に再臨する主イエス・キリストなのです。

イエス様は、人間として見た場合どこの家系に属するかと言えば、ダビデの子孫のヨセフが育ての父親だったので、ダビデの家系に属することになります。しかし、イエス様の本当の父親は、被造物である人間ではありませんでした。イエス様はマリアから誕生する以前から既に父なるみ神のもとに神のひとり子として存在していました。そのことはヨハネ福音書1章に述べられています。「イエス」という名前はマリアのお腹を通って人間の体を持って付けられた名前です。父なるみ神のもとにいた時には人間的な名前は何もありません。それでヨハネはそのひとり子をギリシャ語でロゴスと呼んだのです。ロゴスは「言葉」を意味します。つまり、神のひとり子は神の言葉としての役割を果たすというのです。天地創造の時、神は「光よ、あれ」と言葉を発していって全てのものを創造しました。それで神の言葉の役割を果たすひとり子は天地創造の時に既に存在していて父と共に創造の業を行っていたのです。そのことがヨハネ1章で語られています。その神の言葉の役割を果たす方が人間の体を持ってマリアのお腹から生まれてきたというのがクリスマスです。マリアが処女のままイエス様を産むことになったのは、神の言葉の役割を果たす方が人間の体を持ってこの世に登場できるようにするためだったのです。

 

3.それではなぜ天の御国におられる方がわざわざ人間の体を持ってこの地上に来なければならなかったのでしょうか?それはひと言で言えば、人間の救いのためでした。「救い」というからには、何からの救いなのかをはっきりさせなければなりません。聖書によれば、人間と創造主の神との結びつきが失われてしまったので、それを取り戻すことが救いです。それではなぜ失われてしまったかと言うと、創世記3章にあるように最初の人間が造り主である神の意思に反して罪を持つようになってしまったからでした。その結果、使徒パウロが「罪の報酬は死である」と述べる通り(ローマ6章23節)、人間は罪がもたらす死に服従する存在になってしまいました。詩篇49篇に言われるように、人間はどんなに大金を積んでも死から自分を買い戻すことはできません。そこで創造主の神は人間が再び造り主である自分のもとに戻れるようにと計画を立ててそれを実行しました。これが神による人間の救いです。

それがどのような計画でどのように実行されたかと言うと、神はひとり子をこの世に贈り、彼に人間の罪から来る神罰を全て受けさせました。それがイエス様のゴルゴタの丘での十字架の死でした。父なるみ神はイエス様に人間の罪の償いをさせたのです。この、神のひとり子が十字架の上で血みどろになって流した血が私たちを罪と死のもとから神のもとに買い戻す代価となったのです(マルコ10章45節、エフェソ1章7節、1テモテ2章6節、1ペトロ1章18~19節)。さらに神は一度死んだイエス様を復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る扉を人間のために開かれました。それで今度は人間の方がイエス様こそ救い主であると信じて洗礼を受けると、この神のひとり子が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになって、神からは罪を赦された者として扱われるようになります。神から罪を赦されたので、もう神との結びつきを持ててこの世を生きるようになります。神との結びつきを持ってこの世を生きるというのは、永遠の命が待つ神の御国に至る道に置かれてその道を歩むことです。順境の時にも逆境の時にもいつも変わらぬ神との結びつきを持って歩みます。この世を去った後も、新しい天地創造の日に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を付与されて神の御国に迎え入れられることになります。

人間が罪の償いと赦しを得られて神との結びつきを持てるようなることが神の救いの計画だとわかったとしても、そのためになぜ神のひとり子が人間として生まれてこなければならなかったのでしょうか?それは、償いが果たされるために誰かが犠牲にならなければならなかったからです。その償いは人間には不可能です。人間が神罰を受けてしまったらもうそれでお終いです。他人の罪を償ってあげるどころか自分の罪さえも償って生き続けることは出来ません。それで神は人間の罪の償いを人間にさせるのではなく、自分のひとり子を神聖な生贄として捧げることにしたのです。

ひとり子が犠牲を引き受けるとき、天の御国にいたままでは行えません。人間の罪の神罰を全て受けるという以上は、罰を罰として受けられなければなりません。そのためには、律法が効力を有しているところにいる存在にならなければなりません。律法とは神の意思を表す掟です。それは神がいかに神聖で、人間はいかにその正反対であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は当然、律法の上に立つ方です。上に立ったままでは罰を罰として受けられません。罰を受けられなければ罪の償いもありません。罰を罰として受けられるためには、律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければなりません。それで神のひとり子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのです。まさに使徒パウロが言うように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったということが起こったのです(ガラテア3章13節)。フィリピ2章6~8節には、次のように謳われています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。このように、私たちの救いのためにひとり子を惜しまなかった父なるみ神と、その救いの実現のために御自身を捧げられた御子イエス様、そして私たちが神との結びつきを持って生きられるように日々、支えて下さる聖霊はとこしえにほめたたえられますように。

 

4.天使ガブリエルから神の計画を告知されたマリアは、最初それを信じられませんでした。しかし、ガブリエルは、天と地に存在する真理の中で最も真理なことを述べます。「神にできないことは何一つない」(37節)です。ギリシャ語原文をもう少し直訳すると、「神が言われることは(ρημα)神の方から全て不可能ではなくなる」です。どうしてそんなに自信満々でいられるかというと、神の力というものは34節で言われるように「いと高き方の力」だからです。これももう少し直訳すると「最も高いところの方の力」です。最も高いところの方ですので、他のものは全てこの方より低いものとなります。そうなると、あらゆるものの力はこの方の力に及びません。そのような私たちの想像をはるかに超える力を「最も高いところの方の力」と呼ぶのです。そのような力がマリアを「包んだので」(ギリシャ語では「覆った」)、神の言葉の役割を果たす方が人間として生み出されることが出来たのです。

この「最も高いところの方」の力はイエス様の死からの復活の時にも働きました。そのことがエフェソ1章19~21節で言われています。「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ」ました。ここで「力」という言葉が2回出てきますが、ギリシャ語原文では4回出てきます。そのうち3つは力を意味する3つの別々の言葉です。ドュナミス、クラトス、イスキュスです(もう一つは関係代名詞)。それらの力が働いてイエス様を死から復活させたという言い方です。日本語に訳すのは大変です。「神が力の力の作用をもって、私たち信仰者に向けられる力の強大さがどれだけ桁外れのものであるかを悟らせて下さるように。その力の力の作用をもって、神はキリストを死者の中から復活させたのです」。

いずれにしても、マリアの処女受胎もイエス様の死からの復活も、何か、ちちんぷいぷいのおまじないで起きたというようないい加減な話ではないのです。当時の人たちは、本当に想像を絶する力が働いて起きたということがよくわかっていたのです。それが記述の仕方に出ているのです。そして、私たちにとって重大なことは、エフェソ書の中で言われているように、この想像を絶する力が神との結びつきを持って生きるキリスト信仰者に向けられているということです。

そう言うと、神の想像を絶する力が自分に向けられているのなら、どうして自分や自分の周囲にそんな力が働いていると感じさせないことばかりなのか?そういう疑問が出てくると思います。神の力など本当は何も働いていないのではないかと疑う人も出てきます。この問題は、マリアに何が起こったかを見ていくと神の力に包まれる(覆われる)というのはどういうことか分かってくると思います。

マリアはガブリエルに対して「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と答え、神の意思に従うと言います。この従いは、天地創造の神のひとり子の母親になれるという意味では大変名誉なことではありますが、別の面ではマリアのその後の人生に深刻な影響をもたらすものでもありました。というのは、ユダヤ教社会では、婚約中の女性が婚約者以外の男性の子供を身ごもるという事態は、申命記22章にある掟に鑑みて、場合によっては死罪に処せられるほどの罪でした。そのため、マリアの妊娠に気づいたヨセフは婚約破棄を考えたのでした(マタイ1章19節)。しかし、ヨセフも天使から事の真相を伝えられて、神の計画の実現のために言われた通りにすることに決めました。

神の人間救済計画の実現のために特別な役割を与えられるというのは最高の名誉である反面、人間の目からすれば、最悪の恥になることもあるという一例になったのです。さらにイエス様の出産後、マリアとヨセフはヘロデ大王の迫害のため、赤ちゃんイエスを連れて大王が死ぬまでエジプトに逃れなければなりませんでした。その後で三人はナザレに戻りますが、そこで人々にどのような目で見られたかは知る由はありません。仮に「この子は神の子です、天使がそう告げたんです!」と弁明したところで人々は真に受けないでしょうから、一層立場を悪くしないためにも黙って言われるままにした方が賢明ということになったかもしれません。

いずれにしても、マリアとヨセフは社会的に辛い立場に置かれたのです。このように、天使から「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられる」(28節)と言われて、本当に神から目を注がれて一緒にいてくださることになっても、それが必ずしも人間的にはおめでたいことにはならないことがあるのです。しかし、そのようなおめでたくない場合にも、神の意思に従っていれば、神は共におられのです。神の意思に従う時、人間的には辛い状況になっても、実はその状況そのものが、神が共におられ神の力に包まれている(覆われている)ことの証しなのです。マリアは順境の時にも逆境の時にも常に神が共にいるという生き方に入っていったのです。「神様が一緒にいてくれても逆境になるんだったらイヤ!」とか、「神様が一緒にいなくても順境でいられるなら、そっちの方がいい」という生き方は選びませんでした。たとえ逆境を伴うことになっても神が常に共にいる生き方を選びました。ここに、私たちの信仰人生にとって学ぶべきことがあります。

キリスト信仰者といえども、この世にいる限り、神の力に包まれている(覆われている)とは感じられないことばかりです。しかし、神の意思に従う限りは、そう感じられない状態にあるということが逆に神の力に包まれている(覆われている)ことの証しになっている、このことがマリアの生き方から明らかになります。この逆説的な状況は、復活の日にきれいに解消されます。というのは、神の想像を絶せする力に包まれて(覆われて)生きた者は、その日その力によって復活させられるからです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

アーメン