2022年5月1日(日)復活節第3主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年5月1日 復活節第三主日

使徒言行録9章1節-20節

黙示録5章11節-14節

ヨハネ21章1-19節

説教題 「イエス様が教える愛とは?」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに ― ペトロとパウロ

 今日の聖書の日課にはパウロとペトロのことが出てきます。パウロはもともとはサウロという名前でした。古代ユダヤ民族の初代の王サウルのことです。王様の名前だったのが「小さき者」を意味するパウロになりました。ペトロの方はもともとシモンという名でしたが、イエス様からお前の名はこれからは岩を意味するケーファーだと言われました。これはアラム語ですが、それがギリシャ語のぺトゥロスになりました。「岩」というのは教会の基を意味します。私が中学の時だったか高校の時だったか、世界史のテストで( )に人物名を書けという問題で「キリスト教が誕生した時、ユダヤ人に伝道したのは( )、ユダヤ人以外の異邦人に伝道したのは( )」というのがあって見事に逆に書いてしまいました。似たような名前なのでどっちでもいいじゃないかなどと思ったものですが、その頃、新約聖書くらい読んでいたら、そんなことにはならなかったでしょう。

 ユダヤ人に伝道したのがペトロ、異邦人に伝道したのがパウロというのは少し乱暴な区分けです。キリスト教会の誕生史をみると最初はユダヤ人が中心でした。イエス様の弟子たちも皆ユダヤ人で、イエス様自身、ユダヤ人の乙女マリアから人間の肉体を受けてこの世に生まれたので、旧約聖書を受け継ぐ民族の一員として生まれました。そういう背景があるので初代のキリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者はまずユダヤ人であるべきということにこだわりました。イエス様を旧約聖書に約束された救世主メシアと信じるならば、その人は旧約の伝統を受け継ぐ者でなければならない。もし異邦人がキリスト信仰者になろうとするなら、まず割礼を受けてユダヤ人にならなければならない。そう考えられても不思議はありません。ところが天地創造の神は、そうではないということをペトロに教えていたのです。それでペトロはローマ帝国の将校コルネリウスに洗礼を授けたのです(使徒言行録10章)。それにもかかわらず、エルサレムの使徒たちがユダヤ人にこだわり続けたことは、パウロの「ガラテアの信徒への手紙」からも伺えます。

 パウロは、人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける際には割礼を受けてユダヤ人になる必要はないという立場でした。私どものような異邦人は異邦人として、つまり日本人は日本人として、欧米人は欧米人として、アフリカ人はアフリカ人として、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けられ、そのようにして天地創造の神から罪の赦しを等しく受けられて神と結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後も復活を遂げて神の御許に迎え入れられるようになりました。わざわざ割礼を受けてユダヤ教に改宗してからキリスト信仰者になる必要はなくなりました。実にありがたいことです。

 そのパウロの伝道の仕方をよく見ると、彼は伝道する先々でまずシナゴーグに行って教えました。ということはユダヤ人に伝道したのです。ただ、教えを聞いたユダヤ人たちは受け入れる人も出るが反対者の声が強くてパウロは追い出されてしまうことが度々でした。ところが、シナゴーグの外でなんと異邦人がパウロの教えを受け入れるということが起きたのです。パウロは両方を相手に伝道したのですが、結果的に異邦人が受け入れたということです。

 イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるのに、ユダヤ教に改宗しないでいいというパウロの教えはどうして生まれたのか?本日の日課にある出来事、パウロがキリスト教徒迫害の旅をしていた時に復活の主の栄光を目のあたりにしたことが大きなきっかけになりました。そのことについて私は3年前の説教でお話したことがありますので、興味のある方そちらをご覧ください。本日はペトロの方をお話ししようと思います。

2.神の人間に対する愛

 本日の福音書の日課は、復活されたイエス様が弟子たちの前に3度目に現れた出来事についてです。ガリラヤ湖で夜通し漁をしていた弟子たちが何も取れないで夜明けになった頃、イエス様が岸辺に現れて大声で魚が取れるところを教えます。言われたとおりに網を下ろすと網が張り裂けんばかりの大量の魚がかかりました。イエス様だと気づいたペトロは他の者より一足早くイエス様のもとに行こうと湖に飛び込みます。その時、自分が裸であることに気づいて、失礼に当たると思ったのか慌てて服を着てそれで飛び込んでしまいました。ずぶ濡れになってしまうのに。ペトロの性格がよく表れていると思います。弟子たち全員が岸に上がると、魚を焼く炭火とパンが用意されていました。イエス様は、さあ、朝ご飯を食べていきなさい、と労います。

 食べ終わった後でイエス様がペトロに「他の誰よりも私を愛しているか?」と聞きます。ペトロは「愛しています」と答えますが、三度同じことを聞かれたので、信じてもらえないと思って悲しくなります。イエス様が三度聞いたのは、彼が裁判にかけられた時ペトロが群衆の前でイエス様のことなど知らないと三度言ってしまったことに対応すると言われます。「あなたを愛しています」と三回言わせることで、三度拒否したことを赦す意味があると言われます。もちろん、その意味もありますが、ここではもう少し深いところも見ておこうと思います。

 イエス様が「私を愛しているか?」と聞く時のギリシャ語の動詞と、ペトロが「愛しています」と答える時の動詞が違っています。イエス様が聞く時の動詞はアガパオーαγαπαωですが、ペトロが答える時の動詞はフィレオ―φιλεωです。新共同訳では両方とも「愛する」と訳しているのでこの区別が見えません。二回目のイエス様の質問とペトロの答えも同じです。ところが三回目になると、イエス様は突然動詞を変えてペトロと同じフィレオ―で聞きます。そしてペトロはフィレオ―で答えます。このことを少し見ていきましょう(後注)。

 「愛」とか「愛する」という言葉はいろんな意味が含まれるので厄介です。古代ギリシャ語は、異なる形の愛を異なる言葉で言い表していました。男女間の性愛はエロースερωςと言っていました。兄弟愛とか同志愛とでも言うべきものはフィラデルフィアφιλαδελφιαという言葉がありました。愛する対象が兄弟や同志より広がって人間愛を意味する時は、フィラントローピアφιλανθρωπιαという言葉がありました。ペトロの「愛しています」フィレオーという動詞は、このフィラデルフィア、フィラントローピア兄弟愛、同志愛、人間愛に関係する愛です。

 それでは、イエス様が「愛しているか」と聞いた時のアガパオーはどんな愛でしょうか?ヨハネ福音書13章34節と15章12節をみると、イエス様は弟子たちに新しい掟を与えると言って、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じます。ここには、イエス様の弟子たちに対する愛とそれを模範にした弟子同士の愛の二つが言われています。両方ともアガパオーです。

 イエス様の弟子たちに対する愛とはどんな愛でしょうか?ヨハネ15章13節でイエス様はこう言います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここでは、愛は動詞ではなく名詞のアガペーαγαπηですが、動詞のアガパオーも名詞のアガペーも同じ愛の形です。ここで、アガパオー、アガペーの愛は、自分の命を犠牲にすることも厭わないものであることが明らかになります。

 そう言うと、兄弟愛、同志愛、人間愛にも大切な人のために自分を犠牲にすることがあるのではないか、と言われるかもしれません。ここは、日本語の言葉に囚われず、もう一度ギリシャ語の言葉を見てみます。兄弟愛、同志愛のフィラデルフィアと人間愛のフィラントローピアは、新約聖書の中での使われ方を見ると、親切とか思いやりとか友好的とか敬意を払うとか、そういう人間同士が平和な関係でいられる態度ないし行動様式の意味で使われています(ローマ12章10節、使徒言行録28章2節、形容詞として第一ペトロ3章8節、副詞として使徒言行録27章3節、ただしテトス3章4節は神のものとして)。それなので、それらには自己犠牲を厭わない強い愛はないと思います。

 それで、親が子供の命を守るために自分を犠牲にするということが起これば、それはアガペーの愛になります。聖書は、天地創造の神の人間に対する愛はまさにそういうものだと教えます。神の愛が自己犠牲をも厭わない愛ならば、それでは神は人間を何の危険から守るためにどんな犠牲を払ったと言うのでしょうか?「ヨハネの第一の手紙」4章10節で次のように言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここで言われる「愛」、「愛する」はまさにアガペー、アガパオーです。その愛は、人間が神との結びつきを持てるのを妨げていたもの、人間がこの世を去った後で神の御許に迎え入れられるのを妨げていたもの、そうした妨げを神がひとり子を犠牲にして全て取っ払って下さったということです。そのことがゴルゴタの十字架で起こったのでした。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、私たちの内にある、神の意思に反しようとする罪が妨げの力を失くすのです。罪があることを認めて神に赦しを祈ると、神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせ、いつも赦しがあることを見せて下さいます。この時、罪に妨げの力はなく干からびています。罪よ、ざまあみろ、です。そのようにして、洗礼で新しく生まれ変わった自分にいつも戻れるのです。

 イエス様とペトロの対話に戻ります。イエス様はペトロに「愛しているか」と聞いた時、そういう神が人間に示したような深い愛で愛しているかと聞いたのです。それに対してペトロは兄弟愛、同志愛、人間愛のレベルの愛で愛していますと答えたのです。ペトロは、たとえ他の弟子が見捨てても自分はあなたを見捨てません!などと威勢の良いことを言っておきながらいざとなると見捨ててしまいました。自己犠牲からほど遠い自分を露呈してしまった手前、あまり偉そうなことは言えません。そんなジレンマが神的な愛を避けて人間的な愛で答えたことに窺われます。イエス様はペトロに「お前は神的な愛で私を愛するか?」と聞き、ペトロは「はい、ただし、人間的な愛ですが」と答えたのです。イエス様はもう一度同じ質問をし、ペトロは同じ答えをします。そして三度目の質問。今度はイエス様は神的な愛アガパオーで言わず、ペトロと同じ人間的な愛フィレオーで聞きます。「じゃ、お前は人間的な愛だったら私を愛するんだな」とたたみかけたわけです。ペトロの反応は、イエス様!私がフィレオーで愛することも疑うのですか?そりゃ、あんまりです!という様子が窺われます。

 ここでイエス様がなぜ三回聞いたのかを考えてみましょう。ペトロは三回知らないと言ったので、一回の答えでは信用できなかったというのは本当でしょうか?実はイエス様は既に一回目の答えでペトロがイエス様を信用していました。どうしてかというと、ペトロの答えの後でイエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言ったからです。イエス様の小羊、つまりイエス様を救い主と信じる者たちが神との結びつきに留まって復活の日を目指してこの世を進んでいけるように彼らを守り導きなさい、ということです。つまり牧会をしなさいということです。「わたしの小羊」と言うように、牧会者は信徒をイエス様から預かって牧会するのですから、その責任はとても大きいです。ペトロにそのような責任を委ねたのです。もし、イエス様が信用していなかったら、こんな大きな責任は委ねなかったでしょう。それほどペトロを信用していたのであれば、なぜ三回も確認させたのか?そうすることで、牧会とはイエス様を愛することが土台になっていなければならないことをはっきりさせたのです。

3.私たちのイエス様に対する愛

 それでは、私たちがイエス様を愛する愛とはどんな愛でしょうか?イエス様は人間のために自己犠牲の重荷を背負われました。私たちがイエス様のために自己犠牲することがあるのでしょうか?ここでヨハネ14章21節と23節でイエス様が、彼を愛する人は彼の掟、彼の教えたことを守る人である、と言っていることに注目します。イエス様の掟、イエス様が守るようにと教えたことは何か?それも先ほども見ました、ヨハネ13章34節と15章12節のイエス様の言葉に凝縮されています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。イエス様には自分を犠牲にしてまで神と人間の結びつきを回復してあげようと駆り立てた愛がありました。その愛で互いに愛し合いなさいと言うのです。お互いをそういうふうに愛することができれば、それはイエス様を愛することになると言うのです。

 それではイエス様を自己犠牲に駆り立てた愛で互いに愛するとはどういうことでしょうか?それは、イエス様のおかげで神との結びつきを持てて生きられるようになったのだから今度は、隣人も同じように神との結びつきを持ててこの世を生きられるように、そしてこの世を去る時は復活させられて神の御許に迎え入れられるように働くことです。

 そこで、もし隣人がキリスト信仰者ならば、その人が既に受け取った神との結びつきを失わないように支え助けてあげることです。それをお互いにすることです。キリスト信仰者が苦難や困難に陥ることはしょっちゅうあります。そんな時は、どうしてこんなことが起こるのかと、神に失望や不信が生まれる危険があります。それで信仰者を苦難や困難から助けるというのは、神との結びつきや信頼がしっかり保たれるようにするということが視野に入ります。

 イエス様が互いに愛し合いなさいと言ったのは弟子たちだったので、隣人がキリスト信仰者でない場合は関係ないような感じがしてしまいますが、よく考えるとそうではありません。天の父なるみ神は、イエス様の弟子たちだけではなくて、全ての人間が神との結びつきを回復できるようにとイエス様をこの世に贈られて十字架の死に引き渡したのです。それなので、信仰者でない隣人を苦難や困難から助ける場合でも、神との結びつきや信頼が持てるようにすることが視野に入っています。信仰者の場合は結びつきを「保てるようにする」ですが、信仰者でない場合は「持てるようにする」のです。いずれの場合も助ける時は自分の持てる力や時間や財産を使わなければならないことは肝に銘じておく必要があるでしょう。宗教改革のルターは、その時は財産や命を失う可能性すらあることを覚悟しなさいと言っているほどです。これが、イエス様のために自己犠牲することです。

4.おわりに ― 神の栄光を現わすということ

 ペトロの三回目の答えの後でイエス様は謎めいたことを言います。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」それについてこの福音書を書いたヨハネは少し不気味な解説を付け加えます。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」終わりに、このイエス様の言葉を見ておこうと思います。

 キリスト教会の古い言い伝えによれば、ペトロは西暦63ないし64年頃にローマで殉教の死を遂げました。ちょうどキリスト教徒迫害で有名な皇帝ネロの時代です。ペトロは十字架にかけられる時、私は主と同じ死に方をする値打ちはないと兵隊たちに言ったところ、じゃ、これで満足だろう、と頭を下にして逆さまに十字架にかけられたということです。イエス様が「お前は年を取った時、両手を広げ、別の者がお前を縛って行きたくないところに連れて行く」と言ったのは、後世の人から見たらペトロが殉教の死を遂げたことを意味すると事後的にわかります。しかし、まだ出来事が起きる前の人たちにとっては、なんのことかわからなかったでしょう。ヨハネは福音書を書いていた時に既にペトロの処刑を目撃していたか、またはその知らせを耳にしていたのでしょう。それで、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活の主がペトロに言ったことはその通りになったのだと事後的にわかって、それで解説をしたのです。

 ペトロの殉教は神の栄光を現すものであるとヨハネは解説しました。これは私たちを重苦しい気持ちにさせます。神の栄光を現すというのはこれくらいのことをすることなのか、と。日々平穏無事に過ごしていたら、それは神の栄光を現す生き方ではないのか、と。ここで注意しなければならないのは、天の父なるみ神の栄光や栄誉というものは、被造物である私たちの業績や達成に左右されないということです。私たちの業績が多かろうが少なかろうがそんなことに関係なく、神は超然として既に栄光と栄誉に満ちています。それならば、私たちが神の栄光を現すというのはどういうことでしょうか?

 それは、私たちが自分の言葉や行いや生き方をもって、神の動かすことのできない真理を人前で証しすることです。つまり、あなたは何者かと聞かれたら、私は次の三つの者であると答えることです。三つの者とは、まず第一に、私は天と地とそこに収まる全てのものを造られた神に造られた者であると答えることです。第二に、私はその神のみ前に立たされることになっても、神のひとり子イエス・キリストの犠牲のおかげで罪を赦されて大丈夫でいられるようになった者であると答えることです。そして第三には、私はこの世の人生の向こうで復活の日に神の御許に永遠に迎え入れられるところに向かう道を今歩んでいる者であると答えることです。以上の三つを胸をはって答えることです。何も聞かれなければ、そのような者として胸をはって生きるだけです。

このような神の真理を胸張って証しするように生きていこうとすると、いろんなことに遭遇します。そんなのは取り下げないと命はないぞという迫害の時代だったらそれこそ殉教しかないでしょう。しかし、自分は造り主に造られた者であるということをどうして取り下げられましょうか?自分は造り主が送られたひとり子の犠牲によって罪が償われて新しい命を頂いたことをどうして取り下げられましょうか?自分は神に見守られてこの世を生き御許に迎え入れられる道を今歩んでいることをどうして取り下げられましょうか?ペトロは、「取り下げない」という生き方をしたら一巻の終わりという時代状況にあって、それを貫いてこの世の人生を終えたのです。そうすることで神の真理を証しし、神の栄光を現したのです。

 私たちの生きている時代状況はどうでしょうか?神の真理に従って生きようとしたら、どんなことに遭遇するでしょうか?良心や信条の自由が保障されている現代社会ならば何も問題なく平穏無事でしょうか?人間はどこから来てどこに行くのかという根源的な問いについて、キリスト信仰と違う見解が社会の多数派を占めていれば、いろいろな軋轢が出て来るでしょう。多数派にいれば考えなくて済むようなことを信仰者は沢山考えなければならなくなるでしょう。でも、そういう余計なことを抱え込むことが現代社会では神の栄光を現わすことになると思います。信仰者が沈黙していたら多数派は何も気づかず、みんな同じ考えでいると勘違いしてしまいます。それなので口に出すことは良心・信条の自由が存続するためにも非常に大事です。

 最後に、イエス様がダマスコの途上でパウロに述べた言葉の中に信仰者にとって励みになるものがあるのでそれを述べておきます。パウロが声の主が誰であるかを尋ねた時、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(9章5節)と答えました。イエス様を救い主と信じる者が苦難や困難に陥った時、イエス様はそれを自分のことのように受け止めるということです。聖書を神の視点で読んだり聞いたりする時や聖餐を受ける時、目には見えなくともイエス様は臨在します。しかも、臨在する方はただボーっとしておられるのではなく、私たちの境遇や状況を他人事としてではなく自分事として受け止めておられるということです。このことが分かれば、私たちの祈りは必ず聞き遂げられて、必ず脱出口や解決に導いて下さると確信できます。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

(後注)イエス様とペトロのやりとりはアラム語でなされていたでしょう。もしそうなら、この箇所は、出来事を目撃した使徒ヨハネが後日ギリシャ語に訳して記したものです。イエス様とペトロがアラム語でどんな動詞を使い合っていたかはもう知りようがありませんが、ヨハネは二人のやりとりのニュアンスをしっかり捉えて福音書にあるように訳したのだと考えればよいでしょう。そもそも使徒とは、目撃者、証言者として働くべくイエス様ご自身が選んだ者たちです。それゆえ、そうした使徒たちを信頼し、彼らの証言やその伝承を信じ、彼らの教えを守ることはキリスト信仰の基本です。

2022年4月17日(日)復活祭/イースター 聖日礼拝

 

主日礼拝説教 2022年4月17日 復活祭

イザヤ書65章17~25節

第一コリント15章19~26節

ヨハネ20章1~18節

礼拝をYouTubeで見る

説教題 「復活した者たちが相まみえるところ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の想像を絶する力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。イエス様が死んで葬られた次の週の初めの日の朝、かつて付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目撃します。まさにここから世界の歴史が大きく動き出すことになったと言っても過言ではない出来事が起きたのでした。

復活祭はキリスト教会にとってクリスマスに劣らず大事なお祝いです。クリスマスは誰でも知っています。イエス様が天のみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから生身の人間として生まれたことを記念してお祝いする日です。復活祭では何をお祝いするのでしょうか?十字架刑という惨い殺され方をしたイエス様が死から復活して本当に良かったという、イエス様のハッピーエンドのお祝いでしょうか?そうではありません。それでは復活祭は何をお祝いするのでしょうか?それがわかるために、まず「復活」とはそもそも何なんのかがわからないといけません。それと、なぜイエス様は復活を遂げる前に十字架の死を遂げなければならなかったかもわからないといけません。

そういうわけで今日の説教は、初めに復活とは何なのかについて考えます。その次にイエス様がなぜ復活に先立って十字架の死を遂げなければならなかったかをわかるようにします。そして最後に、イエス様が復活したことは私たちに何の関係があるのかをみていきます。

2.復活とは何か?

復活とは何か?復活とは、よく混同されますが、ただ単に死んだ人が少したって生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。聖書で復活というのは、肉体が消滅しても復活の日に全く新しい「復活の体」を着せられて復活することです。これは、超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることを手掛かりにするしかありません。

復活の体について、使徒パウロが「コリントの信徒への第一の手紙」15章で詳しく教えています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言っていました(マルコ12章25節)。

このように復活の体は朽ちない体であり、神の栄光を輝かせる体です。それは、天の御国で神聖な神のもとにいられる清い体です。この世で私たちが纏っている肉の体とは全くの別物です。復活されたイエス様はすぐ天に上げられず40日間地上に留まり人々の前で復活した自分を目撃させました。彼の体はまだ地上に留まっていましたが、それでも私たちのとは異なる体だったことは福音書のいろんな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは、亡霊だ!とパニックに陥りますが、イエス様は手足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。食事もしました。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。

復活したイエス様の体についてもう一つ不思議な現象があります。目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったことです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流した出来事があります。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経ってからでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初わかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。

復活したイエス様は本当は天のみ神のもとにいるのが相応しい体をしていたことは、今日のマリアとの再会の場面でもわかります。以前の説教でもお教えしましたが、この再会は尋常ではありません。というのは、天にいるのが相応しい神聖な体を持つイエス様に地上の肉の体を持つマリアがしがみついているからです。かつて預言者イザヤは神殿で神聖な神を目撃して、罪に汚れた自分は焼き尽くされてしまう!と叫んでしまいました。神に選ばれた預言者にしてそうなのです。預言者でない私たちはなおさらでしょう。

神聖な神の御前に相応しい「復活の体」を持つイエス様とすがりつく地上の体を持つマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。「すがりつく」とはどういうことでしょうか?マリアはイエス様だと気づく前ずっと泣いていました。イエス様が死んでしまった上に遺体までなくなってしまって喪失感と言ったらありません。そこでイエス様に気づいた時どんな反応だったでしょうか?私たちの経験でも例えば、最愛の人が何か事故に巻き込まれて、もう死んでしまったとあきらめたか、まだあきらめきれないという時、突然その人が無事に戻ってきて目の前に現れたらどうなるでしょうか?たいていの人は感極まって泣き出して抱きしめるでしょう。マリアもそうしたのでしょう。ただ相手が崇拝する人の場合は、「すがりつく」というのはひれ伏して両足を抱きしめることだったかもしれません。

イエス様が「すがりつくな」と言ったということについて少し注意します。以前にもお教えしたことですが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」(μη μου απτου)と言っています。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。さて、イエス様はマリアに「触れるな」と言っているのか、「すがりつくな」と言っているのか、どっちでしょうか?

以前もお教えしましたが、イエス様が復活した体、天のみ神のもとにいるのが相応しい体ということを考えると、ここは原文通りに「触れてはならない」の方がよいと思います。イエス様自身、この言葉の後で触れてはならない理由を言っています。「私はまだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は自分に触れてはいけない理由として、自分はまだ天のみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが纏っている肉体の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持つ者である。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所である、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間この地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上のものなので、地上の者はむやみに触るべきではない。そういうことになります(後注)。

さて、復活の神聖な体を持って立っているイエス様、それを地上の体のまますがりつくマリア、本当は相いれない二つのものが抱きしめ抱きしめられている。そこにはかつてイザヤが神聖な神を目の前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだと言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。これは、この世離れした感動を覚えさせる光景です。

本当なら危険極まりないことなのになぜイエス様は許しているのでしょうか?イエス様は愛に満ちた方だから、という常套句を使えばそれまでですが、私はそれだけではないと思います。イエス様がマリアのことを、今は地上の体ではいるが、自分を救い主と信じている以上は彼女も復活の日に復活の体を持つ者になる、とわかっていたからだと思います。イエス様のその思いは次の言葉から窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。ここでイエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられるのだ。」これと同じことはパウロも本日の使徒書の日課でも述べていました。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

3.私たちの復活のための十字架の死

次に、なぜイエス様は復活に先立って十字架の死を遂げなければならなかったのでしょうか?

イエス様の十字架の死というのは、人間の罪の償いを人間に代わって神に果たしてくれたということでした。「罪」と聞くと普通は何か犯罪行為とか、そこまでいかなくとも何かとても悪い行いを思い浮かべる人が多いです。聖書ではそれは、人間に備わってしまっているもので神の意思に反しようとする性向と言っていいくらい広く深いものです。旧約聖書の創世記に記されているように罪は、神に一番最初に造られた人間の時から備わるようになってしまいました。人間が死ぬようになったのも罪のためでした。神の意思に反しようとするものを持ってしまったために神との結びつきが切れてしまったのです。しかし神は、罪の引き離す力から人間を解放して結びつきを回復してあげよう、人間が自分と結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげよう、そして、この世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、そういうことをしてあげようと決めたのです。

それでは、そのように人間を救おうという神の御心とイエス様の十字架と復活とはどう結びつくでしょうか?それは、イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を全部引き受けてくれたことになり、そのようにしてイエス様が私たちの罪の償いを神に対して果たして下さったのでした。それからは罪は以前のように人間を神の前で有罪者・失格者に仕立てようとしても出来なくなりました。神のひとり子が果たした償いが完璧なものだったからです。その意味で罪は本当は破綻してしまったのです。

さらに神は、想像を絶する力でイエス様を死から復活させました。これで死を超える永遠の命があることがこの世に示されました。そこに至る道が人間の前に開かれました。そこで人間は、これらのことは全て自分のために起こったのだ、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たした罪の償いがその人に入り込んで、その人の中にある罪を圧し潰していきます。自分で償ったのではなく他人が償ったというのは虫がよすぎる話ですが、償う相手が天地創造の神であればちっぽけな人間には償いなど無理な話です。しかも償いをした方が神のひとり子であれば、この償いはかけがえのないもので決して軽んじてはならないものとわかります。なにしろ罪が償われたというのは、神が、お前の罪を我が子イエスの犠牲に免じて赦してやると言って下さることなのですから。こうなったら、もう軽々しい生き方はできません。新しい人生が始まります。

罪の償いをしてもらったということは、神から罪を赦されたと見なしてもらえることになります。その時、神との結びつきは回復しています。そうなると人生は神の御心に従って進むことになります。どんな御心かと言うと、神との結びつきは人がどう感じようが順境の時でも逆境の時でも変わらずにあり、それで人生は神の守りと導きの中で復活の日を目指して進むものなるということです。そして、この世を去った後も復活の日に目覚めさせられて神のもとに永遠に迎え入れられるということです。まさに罪と死の支配から解放された人生を持つようになるということです。

このように罪と死の支配から人間を解放するという神の御心がイエス様の十字架と復活によって実現しました。罪の償いと赦しを受け取った者はイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしました。旧約聖書のダニエル書12章で、今のこの世が終わって新しい世が到来する時に死者の復活が起こることが預言されています。それがイエス様の十字架と復活の出来事で一挙に現実味を帯びたのです。そういうわけで復活祭は、イエス様が復活させられたことで実は私たち人間の将来の復活の可能性が開かれたことを覚える日でもあるのです。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったことを忘れてはいけません。イエス様の復活は彼自身のためだけでなく、また悲しんでいた弟子たちを喜ばせるためでもなく、実はイエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちにとって大きな喜びの日になるのです。

4.復活した者たちが相まみえるところ

最後に、復活というのは自分自身が復活させられるというだけでなく、復活の日に同じように復活させられた人たちと懐かしい再会を遂げるという希望があることも見ておこうと思います。

キリスト信仰の復活というのは、聖書によれば、将来、天と地が新しく再創造されて今ある天と地に取って代わる日に起こることです。新しい世になる前に今ある世が終わるのでよく終末論と言われますが、新しい天と地、新しい世ということも言っているのでそれを忘れてはいけません。死者の復活というのも、その時に一斉に起こることです。それなので、一人ひとりがこの世を去って各々が何年したら復活するということではありません。ここのところがキリスト信仰の死生観が他の宗教と大きく違う点の一つではないかと思います。一人ひとりがこの世を去った後はパウロもイエス様も言うように、復活の日まではみんな静かに眠り、その日が来たらみんなに一斉に起こされるということです。ただし、その時に起こるべきこととしてイエス様の再臨とか最後の審判ということがあります。それらについては別の機会にお話しします。

本日の旧約聖書の日課イザヤ書65章は復活を遂げた者たちが迎え入れられるところはどんなところかについて述べています。初めに新しい天と地が創造されることが言われています。この箇所で使われている言葉はこの世に関係するものばかりなので、新しい世のことを言っているように聞こえないかもしれません。しかし、聖書をよく知っている人ならこれは黙示録の終わりの部分の先取りだとわかるでしょう。この個所を見てみましょう。

17「見よ、わたしは新しい天と地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。」

「初めからのこと」はヘブライ語(הרשנות)を見ると「以前のこと」と訳したほうがいいです。その意味は、以前の天と地の時にあったこと、そこで神の意思に反したことがあったこと、それらは新しい天と地の下ではもう神にも神のもとに迎え入れられた者にも関係なくなるということです。

1819節前半「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし わたしの民を楽しみとする。」

エルサレムとは今のイスラエル国のエルサレムではなく、新しい天と地の下で復活した者たちが迎え入れられるところを聖書ではそう呼んでいます。

19節後半~20「泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。そこには、もはや若死にする者も年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ 百歳に達しない者は呪われた者とされる。」

これは黙示録21章で言われていることと同じです。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」「最初のもの」とは、旧い天と地の下にあったことです。それらはもう神にも復活を遂げた者にも関係なくなるということです。

2123節前半「彼らは家を建てて住み ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく 彼らが植えたものを他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり わたしに選ばれた者らは 彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく 生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。」

新しい天と地の下で何が変わるかについて、復活した者の有り様が永遠のものに変わるだけではありません。そこは完全な正義が実現されているところであることをこの個所は言い表しています。「他国人」は、ヘブライ語(אחר)を素直に訳すと「他人」です。外国から侵略されるという意味でなく、隣人関係において奪ったり奪われたりということがなくなるということです。「私に選ばれた者らは彼らの手の業にまさって長らえる」も、正確な訳は「私の選ばれた者らは自分たちの手の業を享受する」です。このように新しい世は正当な権利が侵されない正義が蔓延する世であることを言っているのです。

23節後半「彼らは、その子孫と共に主に祝福された者の一族となる。」ここの正確な訳は「彼らは、主に祝福された者の子孫である。彼らの子孫は彼らと共にある」です。ずばり、復活の日に復活した者たちみんなが相まみえることを言っているのです。

24「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え まだ語りかけている間に、聞き届ける。」神がそれくらい復活した者たちの近くにおられるということは黙示録21章3節でも言われています。「見よ、神が住まわるところは人々の間にある。神は彼らのもとに住まわれる。彼らは神の民となる」

25「狼と小羊は共に草をはみ 獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。」イザヤ書11章にも同じような預言があります。狼やライオンのような獰猛な獣が草やわらを食べているというのは信じられない光景ですが、実はこれは天地が創造された時の状態でした。創世記1章30節に創造の業を終えた神がこう言われます。「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草をたべさせよう。」いつから動物たちのあるものが他の動物たちを食べるようになったのでしょうか?やはり堕罪の出来事が天地創造の安全で安心な秩序を壊してしまったのでしょうか?そうだとすると、新しい天と地の再創造というのは堕罪の前の全てが良い状態に戻すということになります。そのようなところに私たちは招かれ、その招きを受けたキリスト信仰者たちはそこを目指して今この世を進んでいるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

後注 

 このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じているではありませんか。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて私の手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。

 しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です。ここで、ルカ20章39節の「触りなさい」とヨハネ20章27節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατε、βαλε)であることに注意します。ヨハネ20章17節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)です。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は「今の自分は本当は神聖な神のもとにいる存在なのだ。だから地上の者は本当は触れてはいけないのだ」と一般論で言っているのです。つまり、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止規定なのです。確認のためとかイエス様が特別に許可するのでなければ、むやみに触れてはならないということなのです。

 新しい聖書の日本語訳「聖書協会訳」では、イエス様は「触れてはいけない」と訳していると聞きました。まだ確認していませんが、本当ならば喜ばしいことです。

 

 

2022年4月15日(金)聖金曜日 礼拝

主日礼拝説教 2022年4月10日 聖金曜日

イザヤ52章13節~53章12節

ヘブライ10章16~25節

ヨハネ18章1節~19章42節

礼拝をYouTubeで見る

説教題「私たちが守るべきもの」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の前で晒すというものでした。イエス様は、十字架に掛けられる前に既にローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の材木を自ら運ばされ、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで残酷な釘打ちが始ったのでした。

イエス様の両側には二人の犯罪人が十字架に掛けられました。罪を持たない清い神聖な神のひとり子が犯罪者にされたのです。釘打ちをした兵隊たちは処刑者の背景や境遇に全く無関心で、彼らが息を引き取るのをただ待っています。こともあろうに彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始め、くじ引きまでしました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどの者はイエス様に嘲笑を浴びせかけました。民族の解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れだったか、と。群衆の中にはイエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、激痛と意識もうろうの中でイエス様が最後に目にした光景だったでしょう。この一連の出来事は、一般に言う「受難」という短い言葉では言い尽くせない多くの苦しみや激痛で満ちています。

私たちの周りにも苦しみや激痛が沢山あります。特に今はウクライナの戦争が連日ニュースに出ます。無残に破壊された町並み、殺されてしまった人たち、何百万の避難民、取り残されてしまった人たち、これらの映像や写真を毎日見ていると、イエス様の受難など背景に追いやられて色あせてしまうかもしれません。イエス様のことは2000年前の遠い過去の出来事であるのに対してウクライナの戦争はまさに現在進行中のことです。イエス様の受難はイエス様一人の苦しみでしたが、ウクライナの戦争では犠牲者は何万人単位です。そちらの受難の方が規模が大きく身近に感じられるとしても無理はありません。

ところで、侵略国との力の差は圧倒的なのにウクライナの人たちが受難を覚悟で侵略国の要求を跳ねのけてまで戦うのはなぜか?それは、自由と民主主義を守りたいからです。もし守りたいものが物質的な安定とか生命の保全とか美しい郷土だけならば、それらは独裁国が支配しても得られます。しかし、独裁国に支配されたら、間違っていることを間違っていると言えなくなります。そう言う人を毒殺することも厭わない相手です。しかし、支配者は国民が不満を抱かないように物質的・生命的安定も配慮するでしょう。自分たちに盾突かなければという条件でですが。もちろん物質的・生命的な安定は大事ですが、間違っていることは間違っていると言える自由とそれを運用できる民主主義はもっと大事だ、それは他のものと引き換えることはできない、たとえ物質的・生命的な安定を失うことになっても守らなければならない、これがウクライナの人たちの選択でありそのための戦いであると言ってよいと思います。ウクライナの人たちの選択について日本でもいろんな議論がされています。その議論は実は、もし私たちも同じ危機に襲われたらどんな選択を取るのかということを好むと好まざるにかかわらず考えさせるものになっていると思います。

2.ここで先ほど色あせてしまうと言ったイエス様の受難に目を向けてみます。実は、イエス様の受難もよく見ると、人間にとって他のものに引き換えることができない大事なものがあります。何かと言うと、イエス様の受難によって、人間は自分たちが失っていた神との結びつきを取り戻すことができたということ。それで、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになったということ。そして、この世から別れた後は神のもとに永遠に戻ることができるようになったということです。

それらのことがイエス様の受難を通してどのようにして起こったかということが先ほど読んだイザヤ書の箇所で述べられています。この箇所はイエス様の時代の数百年前に書かれた預言です。それが実際に起こったのです。

イエス様が「担ったのはわたしたちの病」であり、「彼が負ったのはわたしたちの痛み」でした。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」でした。なぜこのようなことが起こったのかと言うと、それは、イエス様の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」るためでした。神は、私たち人間の罪をすべて彼に負わせたのです。人間の神に対する背きのゆえに、イエス様がかわりに神の手にかかって命ある者の地から断たれたのです。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもありませんでした。それなのに、その墓は神に逆らう者と一緒にされました。苦しむイエス様を神は打ち砕き、こうしてイエス様は自らを償いの捧げ物としたのです。神の僕であるイエス様が「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」のです。イエス様は自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたけれども、実はそれは多くの人の過ちを担って、背いた者のために執り成しをしたことだったのです。

このイザヤ書の預言から明らかなように、イエス様は私たち人間のかわりに神から罰を受けて苦しみ死んだのでした。それは、私たちが神の意思に反しようとする性向、罪を持ってしまっているために、神との結びつきがない状態で行き先もわからずこの世を生きていたからでした。神との結びつきが回復できて行き先がわかるようになるために、神は人間の罪をひとり子のイエス様に全て負わせてその罰を受けさせたました。それがゴルゴタの十字架で起こったのでした。罰はイエス様が受けて下さったので人間は受けないで済む可能性が開かれました。あとは人間の側がこのことは本当に起こった、だからイエス様は私の救い主だと信じて洗礼を受ける。そうすると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人に入り込み、その人は神から罪を赦されたものと見てもらえるようになります。

神から罪を赦されたので神との結びつきを回復してこの世の人生を進むことになります。進む行き先は復活の日に復活させられて神の国に迎えいられるところです。罪は人間を復活のない方に追いやろうとします。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、追いやられることはありません。キリスト信仰者は罪と死の支配から解放されているのです。イエス様の十字架の受難が人間にもたらしたこと、罪の赦しと神との結びつきの回復そして復活と永遠の命、これこそがキリスト信仰者が他のものと引き換えにできないことです。これらのことを守らず他のものに引き換えてしまったら、自分をも守らないことになります。これらのことを守ることは、自分を守ることになるのです。

3.この2000年前のかの地で起きた出来事が時空を超えて現代の日本に生きる自分のためにもなされたというのは身近に感じられないかもしれません。しかし、実際にそうなのです。それを示すイエス様の言葉があります。それは彼が最後に述べた「成し遂げられた」です。ギリシャ語で書かれたヨハネ福音書ではこの言葉はテテレスタイτετελεσταιとあります。イエス様はこの言葉を口にした時はギリシャ語ではなくアラム語で言われたでしょう。それがどんな言葉だったかは記録がないのでわかりません。アラム語の言葉を十字架の近くにいて耳で聞いたヨハネが後に、イエス様の全記録をギリシャ語で書いた時に翻訳したのです。

このギリシャ語の言葉の正確な意味は、「かつて成し遂げられたことが現在も成し遂げられた状態にある」です(後注)。つまり、「成し遂げられた」とは、罪の赦しの救いがイエス様の十字架で実現したのであるが、それはそれでハイ終わりましたではないということです。ヨハネが何十年か後にこの記録を書いている時にも「成し遂げられた」状態が続いているということです。さらに彼の書物を手にして読む後世の者にとっても「成し遂げられた状態」が続いているということです。まさに時空を超えて私たちにとってもです。ヨハネの翻訳は真に的確でした。父なるみ神の御心に適うものです。なぜなら、神の御心は、彼が造った人間の誰もがひとり子を通して実現した救いを受け取ってほしいというものだからです。そしてこの御心は2000年前も今も変わらないのです。神の救いは現在も「成し遂げられた状態」にあるのです。今も新鮮なものです。それなので、ゴルゴタの十字架上のイエス様というのは、まだ救いを受け取っていない人たちにとっては新しい命を生きられるようにするものです。既に受け取った人たちには、かつて与えられた新しい命が今も変わらず新しいままでいることを忘れさせない原点です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注)アオリストετελεσθηでなく現在完了τετελεσταιであることに注意。

2022年4月3日(日)午前10時30分から 四旬節第5主日礼拝(ビデオ礼拝)

ビデオ礼拝をYoutubeで見る 4月3日(日)午前10時30分から

司式・説教: マルッティ・ポウッカ 牧師
説教題: 「良い香り」
祈り・聖書日課: パイヴィ・ポウッカ 宣教師
聖書日課: イザヤ 43:16-21、フィリピ 3:4b -14、ヨハネ 12:1-8
賛美歌: 190:1  371:1   181:1   198:1
音楽: マルッティ・ポウッカ
ビデオ編集: パイヴィ・ポウッカ

特別の祈り

天の父なる神さま、イエス様は死と罪の力に打ち勝ったのです。それは私たちの喜びと希望です。感謝します。どうか私たちに、隣人に奉仕する力と福音を伝える力を与えて下さい。私たちをイエス様の香りにして下さい。アーメン

2022年3月27日(日)四旬節第4主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年3月27日 四旬節第四主日

ヨシュア5章9-12節

第二コリント5章16-218節

ルカ15章1-3、11b-32節

説教題 「天の父よ、あなたに息子と呼ばれる資格を与えて下さったことを感謝します」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課にある放蕩息子の話はキリスト教会の内と外とを問わず聖書を読む人なら恐らく誰もが知っている有名な話です。知られすぎている話ゆえに、これを読む時に注意しなければならないことがあります。それは、この話はイエス様のたとえの教えであるということです。架空の話で実際に起きた出来事ではありません。何か大切なことを教えようとしてイエス様が自分で創作して人々に聞かせた話です。後で見ていきますが、大切なことがよく表れるようにとても精巧に出来ています。だから、読む人はイエス様が伝えようとしている大切なことをわからないといけません。

 それでは、彼が教えようとした大切なこととは何か?3つあります。一つは、神は自分のもとに立ち返る者を、たとえどんな悪事を働いたとしても立ち返るのであれば、過去のことを不問にして大喜びで両手を広げて迎えて下さるということ。二つ目は、神に迎え入れられた者は、自分より遅れて迎え入れられる者を見たら、神と一緒に喜ぶのが当然であるということ。遅れて迎え入れられる者を見て、その人の過去をとやかく言うようでは、まだまだ神に迎え入れられた恵みをわかっていないということです。そして三つめは、多分あまり注目されていないことかもしれませんが、一番大事なことです。それは、神に迎え入れられた者は、神に立ち返ろうとした最初の気持ちが、実際に迎え入れられた瞬間、もうどんなことがあっても神から離れまいという心になる、つまり最初の立ち返りの気持ちが純化して強められるということです。以下、これらの3つの大切なことを見ていきましょう。

2.神は立ち返る者は誰でも大喜びで両手をひろげて迎え入れてくれる

あるところに多くの使用人を雇えるくらいの金持ちがいて、彼には息子が二人あった。そのうちの次男が、こともあろうにまだ健在の父親に向かって遺産相続の前払いをしろと言わんばかりに財産分割を要求する。いくら将来自分の取り分になるとは言え、父親が死んだも同然と言わんばかりの要求です。十戒で言えば、第4掟「父母を敬え」と第10掟「隣人のものを貪るべからず」を破るのは明らかです。しかし、なぜか父親は言う通りにしてしまう。父親のこの気前の良さは一体なんなんだ、という疑問が起きるかも知れません。しかし、先ほども言いましたように、これはたとえ話で、何か大切なことを教えるための作り話です。父親の気前の良さも大切なことを教えるための仕掛けです。この父親が父親として適格かどうかとかというような議論は不要です。

 さて、息子は得た金を持って遠い国に旅立つ。そこで贅沢三昧、欲望全開の生活を送る。この話を聞いていた人たちは、ギリシャの繁栄した港町やローマの都を思い浮かべたことでしょう。イエス様の話は、たとえであることを忘れさせるくらいに現実味を帯びて聞こえたことでしょう。後で息子の兄が、弟は娼婦どもと一緒に親の財産を食いつぶした(30節)と言うくらいなので、十戒の第6掟「姦淫するなかれ」を破っていたことも明らかです。

 さて、息子は金を使い果たします。さらに運悪いことにその国を飢饉が襲います。困った息子はその地でなんとか豚の群れの世話の仕事にありつける。しかし飢饉はひどく、豚のえさまでが喉から手が出るくらいにほしくなる始末。まさにその時、息子は「我に返って」言う。故国の父さんの家には召使いが沢山いて彼らにはパンが有り余るほどあったなあ、それに比べて自分はなんと惨めなことか。このままでは飢え死にだ。故国に帰って、父さんに謝って召使の一人にしてもらおう。そう言って帰国の途につくことにしました。

 やがて、懐かしい家が向こうに見えてくる。その時、父親の方が先に息子に気がつく。息子は飢えと過酷な労働でやつれてみすぼらしい恰好です。すぐ後で父親は召使いに命じて息子に上等な服を着せて靴も履かせるので、息子はぼろを着て裸足だったことが窺えます。父親はそんな息子を見て、なんとかわいそうなことかと心から憐れに思って自ら走り寄って抱きしめます。これは息子にとって全く想定外のことでした。きっと白い目で見られ相手にもされないと思っていたのに、こんなに愛情深く受け入れてくれるとは。父親は召使いたちに肥えた子牛を屠ってすぐ祝宴の支度をしなさいと命令します。祝宴が始まりました。父親は息子の帰郷を本心で喜び、彼がしでかしたことを不問にしました。イエス様は、天の父なるみ神も同じだと教えるのです。つまり神は自分のもとに立ち返る者を、たとえその者がどんな悪事を働いたとしても立ち返るのであれば、過去のことを不問にして大喜びで両手を広げて迎えて下さるのです。

3.神に迎え入れられた者は後から迎え入れられた者を神と共に喜ぶ

そこで長男が畑仕事から帰ってきます。どうも家の中が大変なお祭り騒ぎになっている。なんだあれは、と召使いに聞くと、行方不明だった弟さんが無事帰ってきたのでお祝いをしています、と言う。長男はもう怒りが全身にこみあげて家に入れない。それに気づいた父親が出てきて、中に入って一緒にお祝いしようと促す。しかし長男は、自分は何年も父親に仕えてその言いつけを守ってきたのに子山羊一匹すらくれなかった、それなのに神と父親の双方に背いた弟には肥えた子牛を屠ることまでする。不公平極まりないではないか。

 ここでイエス様は、神のもとからいなくなってしまった者が神のもとに立ち返って神に見つけられるようになると、神は祝宴を催したいくらい大きな喜びを感じるのだ、ということをこの話を聞く人たちにわからせようとしたのです。そのために父親の喜びようを詳しく話したのでした。

 それでは、どうしてイエス様は神のもとに立ち返った者を神が大喜びすることを教えるのか?これは、ルカ15章全部をしっかり読むとわかります。放蕩息子の話のすぐ前にイエス様の別のたとえの教えが2つあります。合計3つのたとえは連続しているのです。

 イエス様がたとえを話すきっかけになったのは、彼が当時ユダヤ教社会で罪びとと目される人たちと一緒に食事をしたことがスキャンダルになったからでした。食事を共にするということは家族同様の親密な関係を持つことを意味しました。それで、今世間の注目の的となっているこのナザレのイエスは何と不埒な輩か、とファリサイ派や律法学者という宗教エリートたちは目くじらを立てたのです。これに対してイエス様は自分の行っていることは正しいと言うために三つのたとえを話します。最初のたとえは、群れからはぐれた1匹の羊を見つけるために99匹を置き去りにしてまで探しに出かける羊飼いの話です。二つ目は、10枚の銀貨のうち1枚を紛失して家中をくまなく探しまわる女性の話です。二つとも締めくくりの言葉は同じです。こういうなくなったものを見つけた時の喜びは、まさに罪びとが神のもとに立ち返った時に天国で抱かれる喜びと同じである、と言います。つまり、イエス様と食事を共にする罪びとたちは、イエス様の教えを聞き、彼の行った奇跡の業をみて、この方こそ約束された救い主だと信じ、神のもとに立ち返るようになった人たちなのです。

 それならば、なぜ宗教エリートたちは文句をつけるのか?神のもとに立ち返ったのならば問題ないではないか?そういう疑問が起きます。宗教エリートたちは、イエス様と一緒に食事をする元罪びとたちが本当に神のもとに立ち返ったかどうか信じられないのです。彼らからすれば、罪の赦しを間違いなく神から得られるためには、宗教上の規定に基づいていろいろな償いの儀式をしなければならない。それなのに、ナザレのイエスを救い主と信じるだけで赦しが得られるとは何事か、そんなのは赦しでもなんでもない、と思ったのです。放蕩息子の話の終わりに出てくる兄は父親の言うことをよく聞く良い子でしたが、弟を受け入れることが出来ません。イエス様は宗教エリートたちに対して、これが君たちのレベルなのさ、とわかりやすく教えているのです。

 イエス様からすれば、彼と一緒に食事をした元罪びとたちは本当に神のもとに立ち返る生き方を始めた人たちなのです。最初のたとえに出てくる1匹の羊のように、また二番目のたとえの1枚の銀貨のように、一度なくなってしまったがまた見つかったのです。それで神は、いなくなってしまった1匹の羊を見つけた羊飼いが大喜びするように、またなくなってしまった1枚の銀貨を見つけた婦人のように、そしていなくなってしまった息子を見た父親のように、神は自分のもとに立ち返る者を心から喜んで迎え入れるのだと教えるのです。それなので、神に迎え入れられた者は自分より遅れて迎え入れられる者を見たら、神と一緒に喜ぶのが当然である、遅れて迎え入れられる者を見て、その人の過去をとやかく言うようでは、まだまだ神に迎え入れられた恵みをわかっていないということをイエス様は宗教エリートたちに教えるのです。

 ここで、最初の二つのたとえに関して注意しなければならないことがあります。それは、迷った羊、なくなった銀貨は動物であり物であるということです。それなので、悔い改め、つまり神のもとに立ち返ることを教える題材としては適当ではありません。銀貨や羊が悔い改めをすることはないでしょう。そこで放蕩息子の話がでてくるのです。そこでも最初の二つのたとえと同じように、なくなったものが見つかった時の天上の喜びはとても大きいということが言われます。しかし、それに加えて、神のもとに立ち返るとはどういうことか、それに関連して人間の内面の変化についても教えているのです。

4.神に迎え入れられた瞬間、神に立ち返る心は一層強められる

そこで、このたとえの3つのポイントの中で一番大事なポイントに入ります。それは、神に迎え入れられた者は、神に立ち返ろうとした最初の時の気持ちが、実際に迎え入れられた瞬間、もうどんなことがあっても神から離れまいという心になって、立ち返りの気持ちが純化して強められるということです。息子の場合はいつそのような気持ちの強められが起こったでしょうか?

 まず17節を見ます。「我に返って言った」とあります。息子が飢えて惨めな状態にあった時のことです。これはまだ最初の立ち返りの気持ちです。強められる前のものです。18節を見ると、その時の息子の気持ちが詳しく記されています。父さんのところでは、あんなに大勢の雇い人に有り余るほどのパンがあるのに僕は飢え死にしそうだ。ここを発って父のところに帰って言おう。「父さん、僕は天に対しても、また父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。

 果たしてこの立ち返りの気持ちは純粋なものでしょうか?空腹に耐えきれずパンを腹一杯食べたいので家に帰ることに決めた、ただし父親はもう自分を受け入れてくれないだろうから、それならば息子として扱われなくていいので、せめて雇い人にしてもらおう。なにしろ、あそこは雇い人にもパンが沢山与えられるのだから。まあ、そういう論法でしょう。

 結局、パン欲しさのための立ち返りと言われても仕方がなく、息子の反省はこの時点ではまだそれほど深くはなかったと言えます。もちろん、雇い人としてでも受け入れてもらえるためには自分の非を認めて謝らなければなりません。その意味で息子の謝罪は必ずしも形式だけのものでも嘘でもない。しかしそれでも、パン欲しさのための謝罪ということも否定できない。親を死んだ者同然に扱って遺産を前払いさせて、それを自分の欲望を満たすために使った者が、金がなくなったので親のところに戻って食いつなごうとする。ちょっと虫が良すぎるのではないか。どうも謝罪は食いつなぐための手段のように見えます。

 ところが、どうでしょう。息子は父親から心からの出迎えを受けて何を言ったでしょうか?父さん、僕は天に対しても、父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません(21節)。お気づきになったでしょうか?ここには「雇い人の一人にしてください」はありません。「雇い人の一人にして下さい」というのは、パンを食べれるようになるために言わなければならない言葉でした。それが言えるためには、先に謝罪の言葉「自分は神に対しても父親に対しても罪を犯した、自分はもう息子と呼ばれる資格はない」を言う必要がありました。そのために謝罪の言葉は「雇い人の一人にしてもらってパンを腹一杯食べる」という目的のための手段に聞こえてきます。ところが、息子が実際述べた言葉の中には「雇い人の一人にして下さい」はありません。よく見て下さい。本来の目的が消えてなくなったのです。これに伴って謝罪は手段ではなくなりました。謝罪が目的になったのです。イエス様はそのようにセリフを考えて作ったのです。本当に天才的としか言いようがありません。

 どうして息子にそのような変化が起こったのでしょうか?息子が帰国を決めてから故国に到着してこの言葉を発するまでの間に何があったかをみてみましょう。遠くに息子を見た父親は「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。これは、息子にとって想定外のことでした。なぜなら父親は絶対自分を受け入れてくれないだろう、もう息子として扱ってもらえないのは火を見るより明らかだ、だから、食べ物を得られるためになんとかして雇い人の一人にしてもらえるよう頑張らなくては。息子はそのようなつもりでいたのでした。それゆえ、父親の示した愛情は本当に想定外でした。こんなに自分のことを思ってくれていた、帰って来るのをずっと待ってくれていた、忘れないでいてくれていた。それなのに自分は父さんを単なる財産提供者くらいにしか見なさず、まだ生きている間に遺産分割の先払いをさせて、しかもそれを自分の欲望を満足させるために使い果たしてしまった。そんな、父さんに受け入れてもらうに値しない者なのに、父さんは両手をひろげて迎えてくれた…。

 「あなたの息子と呼ばれる資格はありません」という言葉は、最初は「息子と呼ばれる資格がないので、雇い人に雇って下さい」という流れで言う言葉でした。それが「雇い人にして下さい」が削除された今、「息子と呼ばれる資格はありません」だけになって、それは本当に自分を恥じる言葉になりました。それに対して父親は最上の服、履物、指輪を息子につけてあげて大きな祝宴を開きました。このように父親は「息子と呼ばれる資格はない」という息子の言葉を行為で否定したのです。息子は息子と呼ばれる資格があることを認めてもらったことがわかりました。これからの息子の生き方は、この純粋な謝罪と息子として認めてもらったことに基づかなければなりません。「息子と呼ばれる資格はない」ではなく、「息子と呼ばれる資格を持つ者」に相応しい生き方をする以外に道はなくなったのです。このように父親の愛によって息子は今までと全く違う新しい人間に作り変えられたのでした。

5.天の父よ、あなたに息子と呼ばれる資格を与えて下さったことを感謝します

僕は父さんの息子と呼ばれる資格はないんです、と思っていたのに、父親からお前は紛れもなく私の息子だ、と態度と行いをもって示されました。これで息子はもう、息子の資格に相応しい生き方をする以外に道はなくなりました。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、これと同じことが私たちと天の父なるみ神の間にも起きているのです。そのことに気づきましょう。何が起きたのか、次に見ていきましょう。

 私たち人間は、神の意思に反しようとする性向すなわち罪のために自分の造り主である神との結びつきを失ってしまいました。罪を持っているために神との結びつきを回復できず、他人に対しても自分自身に対しても良からぬことを考えたり行ったりして悲劇を繰り返す私たちでした。神は私たちをこの惨めな状態から助け出そうとして、それでひとり子のイエス様をこの世に贈られました。そして、罪のゆえに本当なら人間に課せられる全ての神罰を全部イエス様に負わせてゴルゴタの丘の十字架の上で死なせました。このように神は、ひとり子の犠牲に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を三日後に復活させて、永遠の命に至る道を私たち人間のために切り開かれました。

 人間は、これらのこと全ては自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神はイエス様の犠牲に免じて私たちの罪を赦して下さり、私たちを自分の子として扱ってくれるのです。本日の使徒書の日課、第二コリント5章でパウロが言うように、イエス様の犠牲のおかげで神と私たちが和解できたのです。このようにして神の子とされた私たちは、神との結びつきを回復してこの世を生きるようになり、順境の時だろうが逆境の時だろうがいつも神から変わらぬ導きと助けを得られます。この世から別れた後も復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の御国に迎え入れらます。このように神は、神の子と呼ばれる資格を私たちに与えようとしてイエス様をこの世に贈って十字架と復活の業を成し遂げさせたのです。イエス様を救い主と信じる者はもう「自分は息子と呼ばれる資格はない」などと言ってはいられないのです。

 それでは、神の子と呼ばれる資格を持つ者として相応しく生きるとはどんな生き方になるでしょうか?それはもう、神がイエス様を用いて実現して下さった罪の赦しの中に留まってひたすら復活に至る道を進んでいくことです。罪の赦しの中に留まるとは次のようにすることです。イエス様を救い主と信じる信仰を持ち洗礼を受けても罪は残ります。それが私たちの弱さや隙をついて神の意思に反するようなことを考えさせたり言葉に出させたり、時として行いに出させたりします。その時は必ず、それは神の意思に反することなのだと自分で認め、神にイエス様の犠牲に免じて赦しを祈り願います。その時、神はこう言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。赦しはゴルゴタの十字架で打ち立てられて今も揺るがずにある。これからは罪を犯さないようにしなさい。」このように神の意思に反することを反することと認め、揺るがずにある罪の赦しに自分を委ねていくとき自分の内にある罪を圧し潰していくことになります。自分が生きているのは神のひとり子の犠牲があるからとわかり、軽々しいことは出来なくなります。これが罪の赦しの中に留まることです。罪の赦しの中に留まり続けていくと、復活に至る道をひたすら進むことになります。これが神の子と呼ばれる資格を持つ者として相応しい生き方です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

2022年3月20日(日)四旬節第3主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年3月20日 四旬節第3主日

イザヤ55章1-9節

第一コリント10章1-13節

ルカ13章1-9節

礼拝をYouTubeで見る。後でもそこで見ることが出来ます。

説教題 「神のもとに立ち返り、神にキャッチしてもらおう」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様と因果応報

本日の福音書の日課のはじめの部分は、ローマ帝国の総督ピラトが残虐行為を働いたという知らせをイエス様が聞いてどんな反応を示したかということです。ピラトの残虐行為とは、ガリラヤ地方からエルサレムの神殿に何かの祭事に動物の生け贄を捧げに来た人たちがいて、それを殺害させて、その血を生け贄の血に混ぜたということです。とても残虐な事件です。残虐な上に神殿でこのようなことがなされたのであれば、ユダヤ人が神聖と崇める神殿に対する大変な冒涜です。

これを聞いたイエス様はある出来事について述べます。それは、エルサレムの町のなかにあったシロアムの塔が倒れて、18人が犠牲になったという事故です。シロアムというのは、ヨハネ9章でイエス様が盲人の目を見えるようにしたシロアムの池がありますが、その近辺にあった塔と考えられます。イエス様が「あの(あれらのεκεινοι)18人」と言うように、聞いた人はすぐあの出来事かとわかるような、記憶に新しい出来事であったことが伺えます。

さて、報告した人たちは、この事件を通してイエス様に聞きたいことがありました。イエス様の言葉から彼らの関心事がみてとれます。イエス様の言葉はこうでした。お前たちは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、他のガリラヤ人よりも罪深かったからと思うのか?」つまり、報告者の関心事は、「罪深さの度合いが高いと、そのような災難に遭遇するのか?」ということだったのです。裏を返して言えば、「罪を犯さなければ、災難に遭遇しないのか?」です。つまり、報告者たちは「イエス様、こういう苦難災難というものはやはり、罪を犯したことの罰として起きるという因果応報の観点で説明がつくのでしょうか?」と聞きたかったのです。

これに対してイエス様は次のように答えます。3節です。「決してそうではない。」ギリシャ語のウーキουχιは通常の否定辞ウーουよりも強い否定です。イエス様は何を強く否定したのか?それは、災難に遭遇したガリラヤ人が遭遇しなかった他のガリラヤ人より罪深かったということではない、両者ともに同じくらい罪びとである、ということです。両者ともに同じくらい罪びとなので、その他のガリラヤ人も潜在的には災難に遭遇する可能性は同じ位あり、この時はたまたま事件のガリラヤ人が犠牲になっただけだということになります。そういう事件に遭わないのは罪がないからということではないのです。そうなると話はもう因果応報とは無関係になります。そういうわけで、「決してそうではない」は因果応報の観点を否定するものでした。

イエス様はこの「決してそうではない」を、塔の倒壊事故を話す時にも使います。5節です。ここでもイエス様は、塔の下敷きになった住民もそうならなかった住民も罪の深さには優劣はなく、両者ともに同じくらい罪びとである、と言うのです。両者とも同じくらい罪びとである、だから、犠牲者でない住民も潜在的には事故に見舞われる可能性はあり、この時はたまたま事故の住民が犠牲になっただけである。それなので、そういう事故に遭わないのは罪がないからということではないのだ、と。ここでも話は因果応報と無関係になります。そういうわけで、ここも3節同様、因果応報の観点を否定するものです。

ところが、どうしたことでしょう、イエス様は続けて、お前たちも悔い改めなければ皆同じように滅びる、などと言われます。そうなると、もし悔い改めず罪にとどまるならば、お前たちも同じような目に遭う、と言っているように聞こえます。裏を返して言えば、もし悔い改めれば、苦難災難には遭遇しない、と言っていることになります。それでは因果応報ではありませんか?「決してそうではない」と言って因果応報を否定しおきながら、結局は肯定しているのか?イエス様は矛盾していることを言っているのでしょうか?

 

2.イエス様にとって「滅び」とは何か?

実は、イエス様は何も矛盾していることは言っていません。イエス様が因果応報の観点に与していないこと、人間悔い改めれば苦難災難には遭遇しないなどと考えていないことは、例えばヨハネ16章33節を見ても明らかです。そこでイエス様は愛する弟子たちにさえ「お前たちには世で苦難がある」と言っています(ヨハネ9章3節も参照)。

イエス様は一体何を考えているのでしょうか?イエス様が因果応報の観点で言っているように聞こえてしまう大きな原因があります。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言う時、「滅びる」という動詞アポッリュミαπολλυμι があります。これを苦難困難に遭って命を落とすことと理解してしまうと因果応報に聞こえてしまいます。実は、この「滅びる」は「苦難災難に遭遇して死んでしまう」という意味ではありません。どんな意味でしょうか?

その意味がわかる最適な箇所があります。ヨハネ3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここでも「滅びる」は先ほどと同じアポッリュミです。この「滅びる」は、イエス様の言葉から明らかなように「永遠の命を得る」ことと反対のことです。そこで、まず「永遠の命を得る」とはどんなことか見てみます。それは、私たちがこの世を去る時、自分自身の全てを天の父なるみ神に委ねて、神の方でしっかり自分をキャッチしてくれる、そして復活の日に目覚めさせてもらって神の栄光に輝く朽ちない体を着せてもらって神の御国に迎え入れられる、これが「永遠の命」を得ることです。それで見ると、「滅び」はこれとは逆にこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、復活の日に御国に迎え入れられないことを意味します。

このように「滅びる」は、「この世で苦難災難にあって死んでしまう」という意味ではありません。イエス様にピラトの事件を報告した者にとって「滅び」は、このようなこの世で遭遇する苦難災難でした。イエス様にとって「滅び」は、この世の次に到来する新しい世で御国に迎え入れられないことでした。そういうわけで、イエス様の答えの意味は次のようになります。「お前たちは悔い改めなければ、この世を去った後、永遠の命を得られなくなってしまう。それがどんなに悲惨なことかは、この世にいてはわからないかもしれない。しかし、この世で残虐行為や不慮の事故に遭うことが悲惨なこととわかるのなら、将来の世で永遠の命に与れないことが悲惨ということもわからなければならないのだ。」

このようにイエス様にとって「滅び」とは、この世の次に到来する新しい世に関わる滅びでした。人間がこの世を去る時に神にキャッチしてもらえず、新しい世が来た時に永遠の命を得られないことが「滅び」でした。そうすると、もし人間が神にキャッチしてもらえて永遠の命を得れば、たとえこの世で苦難災難に遭って命を落とすことがあっても、それは「滅び」ではなくなります。先ほど引用したヨハネ16章33節でイエス様は弟子たちに「お前たちにはこの世で苦難がある」とは言いましたが、それゆえにお前たちは滅ぶ、とは言っていません。それでは、人間がこの世で永遠の命に至る道に置かれてそれを歩むこと、そして、歩みの途上で苦難災難に遭遇して、場合によっては命を落とすことになっても、滅ばずに永遠の命を得るということは本当に可能なのでしょうか?

 

3.神のもとへの立ち返り

それが可能だとわかる鍵は、イエス様の答えの「悔い改める」にあります。これはギリシャ語のメタノエオ―μετανοεωという動詞ですが、もともとの意味は「考えを改める」とか「考え直す」です。日本語の聖書では「悔い改める」と訳されます。ここで注意しなければならないことは、誰に対して悔い改めるかということです。もし私たちが思慮不足や身勝手さやのために他人を傷つけるようなことを言ってしまったり行ってしまった場合、それを後悔してその人に謝罪をするでしょう。この時、「悔い改め」は相手の人に向けられています。ところが、キリスト信仰では、他人に謝罪したり償いをすることは当然ながら、それに加えて「悔い改め」は創造主の神に対しても向けられることになります。なぜなら、隣人愛をせよという神の意志に反したからです。このようにメタノエオ―は、神に背を向けてしまったことを悔い改めて神に向きなおるという意味で「神のもとに立ち返る」と訳すことが可能です。

そこで「神のもとへの立ち返り」ですが、果たして人間は神から「よし、お前はしっかり立ち返った」と認めてもらえるような「立ち返り」ができるでしょうか?その「立ち返り」はどんなものか?そのことを少し考えてみます。

皆さんもご存知のように、十字架と復活の出来事の前のイエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然で十戒の第五の掟を破ったことになる、異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第六の掟を破ったことになる、と教えます。そんなこと言ったら、十戒を外面上だけでなく心の中まで完璧に守れる人間は誰もいません。神の意思を完全に実現できる人間は存在しないのです。マルコ7章の初めにイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、ということでした。イエス様は、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、と教えます。つまり、人間の有り様そのものが神の神聖さに反する汚れに満ちている、というのです。当時、人間が神のもとへの立ち返りをしようとして手がかりになったのは、十戒のような掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、掟を外面上は守っても宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現には程遠く、永遠の命を得る保証にはならないとイエス様は教えたのです。

人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世を去った後、神聖な神にキャッチしてもらえません。神が手を取ってくれて一緒に新しい世が誕生する大変動を乗り越えることが出来ません。復活の日にちゃんと目覚めさせてもらって神の国に迎え入れてもらえません。それではどうすればよいのか?人間のこの大問題に対して神自らが解決策を取って下さいました。それは、自分のひとり子をこの世に贈って、本当は人間が受けるべき罪の罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すという解決策でした。その後は人間の方が、この神のひとり子が果たした罪の償いはまさにこの自分のためになされたのだと受け止めて、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける。そうすると、イエス様が果たして下さった罪の償いはその人に効力を持ち始めます。その後ですが、日々、自分の内に残る罪を罪として認め、イエス様の犠牲に免じて赦して下さい、と神に祈り求めていきます。そうすれば神は、お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった、彼の犠牲に免じてお前の罪を赦す、だからこれからは罪を犯さないように、と言って下さるのです。

このようにして人間は、イエス様の十字架と復活のおかげで真の「神への立ち返り」の手がかりを得ることができました。それは、掟を外面上守って安心したり、宗教的儀式を積んで満足することではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、神が整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取り、その中に留まって生きることです。私たちの内に宿る罪が頭をもたげる都度に心の目を十字架の主に向け、そこから罪の赦しの再確認をして頂き、再び永遠の命への道を歩み出すことです。この時私たちは、罪に反対し、それを圧し潰す生き方をしています。神のみ前に立たされる日、神は私たちの生き方がそのようなものであったことを認めて下さいます。

 

4.神にキャッチしてもらおう

このようにイエス様が言われる「滅び」は、今の世に関係するものではなく、この次に到来する新しい世に関係しているのです。それなので、人間がこの世で遭遇する苦難災難は「神のもとに立ち返る」生き方をするキリスト信仰者にとっては「滅び」でもなんでもないのです。たとえ苦難災難のために命を落とすことになっても、その時神はちゃんとキャッチしてくれるのです。それくらい神は信仰者を守ろうとされるのです。でも、そうは言っても、やはり苦難災難の只中にいる時は、さすがにキリスト信仰者と言えども、神に守ってもらっているという気がしなくなるのではないかと思います。苦難災難に遭遇した時、信仰者はどう立ち振る舞ったらよいのでしょうか?この問いに対しては、本日の使徒書の第一コリント10章の個所がとても参考になります。

そこで使徒パウロは、イスラエルの民がシナイ半島で民族大移動をしていた時に起きたいろんな出来事はキリスト信仰者にとって反面教師になると教えます。長い大移動の中でいろんな危険や不自由や不足がありました。そのような時、神はいつも民を世話して守ってくれました。しかしながら、少しでも心配や不満が出ると民はすぐ神に対して文句を言い出し、神が遠ざかったように感じられた時は自分たちで像を造ってそれを拝みだして宴会騒ぎを始め神の怒りを招き罰として多くの者が荒れ野で命を落としました。

パウロはこれらの出来事は遠い過去の出来事として完結しているのではない、今を生きるキリスト信仰者に対して警告となるために記されているのだ、と言います。キリスト信仰者がこうした過去の出来事から発信される警告を重く受け止めねばならない特別な事情がありました。それは、信仰者が「世の終わり」に生きているということです(10章11節)。世の終わりとは物騒な言葉ですが、聖書では当たり前の観点です。世の終わりとは、天地創造の神が今ある天と地にとってかわって新しい天地を再創造し、再臨されるイエス様が死者を復活させて神の国に迎え入れる時のことです。その時がいつ来るかは神にしかわかりません。パウロが活動した時代は、それがもうすぐ来るという切迫感がありました。それはパウロの手紙の随所に見られます。特に第一テサロニケで強く表れ、第一コリントでも若い女性や未亡人に結婚や再婚を勧めないほどです。しかし、パウロの時代から2000年近く立ちました。まだこの世の終わりは来ていません。パウロは早とちりだったのでしょうか?イエス様は福音が世界の隅々まで伝わるまでは世の終わりは来ないと言っていました(マタイ24章14節等)。パウロはその言葉を知らなかったのでしょうか?パウロが活動していた頃はまだ福音書が完成していませんでした。それで、イエス様の言葉でまだ彼に伝えられていないものがあったとしても不思議ではありません。それと、パウロの頃はまだイエス様の復活の出来事から間もない頃でした。それで、イエス様に続いて死者の復活が起きるのはもうすぐと考えられたかもしれません。いずれにしても、復活したイエス様が弟子たちの目の前で天に上げられた日から今度再臨される日までの期間はどんなに長引いても、聖書の観点では私たちは「終わりの時代」を生きていることになります。

パウロは、世の終わりが近いからこそ、キリスト信仰者は出エジプト記のイスラエルの民に何が起こったかを教訓にしなさいと言います。困難な状況にあっても神は決して見捨てずに世話してくれたのに、ちょっと試練があると、すぐそれを忘れて文句を言ったり偶像にすがりついてしまうようではいけないのだ、と。そこで大事なポイントを教えます。10章13節です。君たちはこれまで試練を受けてきたと言っても、普通人間が受ける試練を超えるような度外れた試練はなかった。神は君たちを見捨てない忠実な方だから、君たちの持てる力を超えるような試練に遭わせたりはしない。試練に遭わせるようなことをしても、出口もセットで用意してくれているので、試練は耐えられるものになっている。それでは、ここで言う試練とはどんな試練でしょうか?

13節でパウロは「神は、あなたたちが自分の力を超えて試練を受けることを認めない」とか「出口を用意して下さる」と言っていますが、「認めない」も「用意して下さる」も未来形で言っています。パウロは将来の試練について言っているのです。それとは対照的に、これまで受けてきた試練は普通人間が受ける試練であったと現在完了形で言っています。ということは、将来の試練は普通人間が受ける試練を超えた、度外れな試練になります。それはどんな試練でしょうか?それは先ほども申し上げた、今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地が再創造される大変動の時の試練を意味します。なるほど、これなら普通人間が受ける試練を超えています。しかし、イエス様を救い主と信じる者は大丈夫、試練は自分の力を超えるものにはならないし、試練と共に出口が用意されると言います。出口とは神にキャッチしてもらえるということです。

私たちは恐らくそのような大変動を迎えないで、それが来る前にこの世から別れるのではないかと思います。その場合は復活の日まで眠りにつきます。しかし、その場合でも神にキャッチしてもらえることは同じです。天地の大変動のような度外れた試練の時に神にキャッチしてもらえるならば、度外れでない試練の時はなおさら神に守られているのではないでしょうか?

 

5.神はあなたの立ち返りを待っている

最後に本日の福音書の日課のもう一つのエピソードに関連してひと言申し上げて結びにしようと思います。イチジクの木についてのイエス様のたとえの教えでした。実を実らせないイチジクの木を役立たずと言って所有者が切り倒そうとする。それを園丁がかばって、肥料をやって世話するからもう一年待ちましょうと言う。まるで神の罰を受けないようにと私たちをかばって下さったイエス様のようです。ただ、ここの教えの主眼は、人間が罪の赦しの救いを受け取るのを神は永遠には待ってくれないということです。それなので、どうか、出来るだけ多くの人が一日も早く、神がイエス様を用いてして下さったことに気づいて神のもとに立ち返りますように。神が人々の一日も早い立ち返りを待っていることは、本日の旧約の日課イザヤ書55章でもはっきり言い表されています。

主を探し求めよ、主が見つかる時に

主を呼び求めよ、主が近くにおられる時に

神に逆らう者よ、その道を捨てよ

不正を働く者よ、その考えを捨てよ

主に立ち返れ、そうすれば主は憐れんで下さる

我らの神に立ち返れ、なぜなら神は何度でも何度でも赦して下さるからだ

דרשו יהוה בהמצאו

קראהו בהיותו קרוב

יעזב רשע דרכו

ואיש און מחשבתיו

וישב אל יהוה וירחמהו

ואל אלהינו כי ירבה לסלוח

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2022年3月13日(日)四旬節第2主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年3月13日(四旬節第2主日)

ビデオ礼拝をYoutubeで見る

創世記15章1-12、17-18節

フィリピ3章17節-4章1節

ルカ13章31-35節

説教題 「信仰義認に生きる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様の再臨の日、あなたはどうするか?

本日の福音書の日課の個所は、あなたの命が狙われているから逃げなさいと促されたことに対してのイエス様の答えでした。命を狙うヘロデというのは、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスのことです。イエス様と弟子たちの一行は北のフィリポ・カイサリア地方からエルサレムに向かって南下する旅を続けているところでした。それで、この促しはガリラヤ地方を通過している時に言われたものでしょう。イエス様に促した人たちがファリサイ派というのは興味深いです。なぜなら宗教エリートのファリサイ派はイエス様と敵対していたからです。しかし、ファリサイ派というのは根は天地創造の神の目に適う者になりたい人たちで、それで律法を余すところなく厳格に守ることを是としていました。それなので中にはイエス様の教えを聞いて、この方は何も間違ったことを言っていない、本当に神から遣わされた者なのではと考えるようになった人もいました。その代表例はヨハネ福音書に登場するニコデモです。そう言えば、後にキリスト信仰を地中海世界に広めることになったパウロも元々は筋金入りのファリサイ派でした。

促しを聞いたイエス様の答えは先ほど朗読した通りです。わかりそうでわかりにくいと思います。二つのことがありました。まず、あの狐のような狡賢いヘロデにこう伝えよ、と言って、ヘロデに対する申し立てがあります。私は今日も明日も人々から悪霊を追い出し病気を癒して三日目に全てを終える、と言います。三日目に全てを終えると言うのは、言うまでもなくエルサレムで十字架の死を遂げた後三日目に神の力で復活させられることを意味しています。もちろん、聞いた人たちはこの時は何のことかわかりません。

33節で「だが、私は今日も明日もその次の日も自分の道を進まなければならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからだ」と言います。先ほど申しましたように、イエス様一行はエルサレムに向かって南下中です。それなのでガリラヤ地方を通過します。だからこの言葉は、自分はガリラヤ地方から出ていくが、それはヘロデが恐くて逃げるのではない、エルサレムで死を遂げなければならないという神の計画を実現するためにガリラヤ地方を離れるのだという意味でしょう。

イエス様の答えでもう一つ大事なことは、今向かっているエルサレムを嘆く言葉です。エルサレムは天地創造の神を崇拝し礼拝を盛大に執り行う神殿がある町です。当時は地中海世界きっての大都市でした。その神のおひざ元のような町が歴史を振り返ってみると、神の遣わした預言者たちを受け入れず殺してしまうという、神の御心を顧みない町になってしまったことが何度もありました。イエス様は今も変わらないことを嘆きます。神はエルサレムの人々を親鳥がひな鳥を翼の下に集めるように呼び集めようとしたのだが、ひな鳥は来ることを拒否してしまった。かつてもそうだったし今もそうだ、と。イエス様は神のひとり子なので、この神の呼びかけを自分がしている言い方をしています。

神の呼びかけに応じないとどうなるのか?かつては神罰として敵の大軍に攻められてバビロン捕囚が起きてしまいました。イエス様の時はどうなるのでしょうか?35節を見ると、「見よ、お前たちの家は見捨てられる」と言われます。「家」と訳されているギリシャ語のオイコスは神殿の意味もあります。フィンランド語訳の聖書は神殿と訳しています。ドイツ語は「神の家」と訳され、それは神殿を意味します。英語は日本語と同じ「家」でした。私は神殿の方がいいと思います。それで35節を原文を直訳すると、「あなたたちの神殿はあなたたちに渡される」です。「あなたたちに渡される」とは分かりにくいですが、要は、神は神殿から手を引く、後はお前たちで勝手にやれ、私はもうかかわらない、と神崇拝の大事な拠点なのに神の後ろ盾を失ってしまうということです。世界史上の出来事としてエルサレムの町は西暦70年に神殿ともどもローマ帝国の大軍に破壊されてしまうので、イエス様の預言は当たってしまったことになります。

35節のイエス様の言葉で一番わかりにくいのは、「お前たちは『主の名によって来られる方に祝福があるように』と言う時が来るまで、決して私を見ることがない」と言っているところです。これは何か?もう少し後でイエス様は旧約聖書の預言通りに子ロバに乗ってエルサレムに入城します。その時、群衆はユダヤ民族の解放者が来たと思って歓呼の声で出迎えます。その時、この言葉「主の名によって来られる方に祝福があるように」を叫びました。それなのでイエス様はエルサレムに入城するまでは誰も自分を見ないと言っているのでしょうか?この言葉はエルサレムの住民に言っているように見えますが、実際は神の呼びかけに応じない人たち全てのことを言っています。エルサレムへの道中、イエス様は賛同者だけでなく多くの反対者にも遭遇します。中にはエルサレムから来て観察して宗教指導者に報告する者もいます。それなので、みんなイエス様をずっと見ているわけです。なのに「決して見ることがない」とはどういうことでしょうか?

イエス様を決して見ないというのは、彼がこの地上にいる時のことではなくて、復活したイエス様が天に上げられて今は天の父なるみ神の右の座している期間のことです。それで、私たちが「主の名によって来られる方に祝福があるように」と言うようになって彼を見る時とは、イエス様が再臨する日のことです。イエス様の再臨の日とは、今の天と地が終わりを告げて天と地が新しく再創造される時、死者の復活が起こって最後の審判が行われる日です。その時、神に相応しいと見なされた者は新しい天地のもとに現れる神の国に迎え入れられます。相応しいと見なされない者は迎え入れられないので、私たちとしては自分はどちらになるだろうかと今から心配の種になる日です。

それなのでイエス様が再び来られる日に「主の名によって来られる方に祝福があるように」と言う時には、二つの異なる言い方が生じます。一つは、親鳥の翼のもとに身を寄せるひな鳥のように神の呼びかけに応じた者が言う場合です。これは神に相応しいとされた者です。この人たちは眠りから目覚めさせられた時、この言葉を、ああ、主よやっと来て下さったのですね、長い間お待ちしていました、と安堵の心で言うことになります。もう一つの言い方は、神の呼びかけに応ぜず神の意思など気にかけない生き方をした者がこの時になって事の重大さに気づいて言う場合です。その時その人たちは、生きている人と死んだ人双方をこれから裁こうとされる再臨の主を目の前にして、その権力には逆らえないと観念してこの言葉を言うことになります。

それなので、今日の日課のイエス様の言葉は、イエス様の再臨の時、私たちはどっちの意味でこの言葉を言うことになるのかを突きつけているのです。この世の人生で神の呼びかけに応じて親鳥の翼の下で守られるひな鳥のように生きてきて再臨の日に大いなる安堵の気持ちで言うことになるのか。それとも、神の呼びかけに応ぜず神の守りなどいらないと言って生きてきて、再臨の日になって主の威光をもう否定できないと観念して恐れおののいて言うのか。

2.信仰義認に生きる

イエス様の再臨の日に私たちがこの言葉を大いなる安堵の気持ちで言えるようになるためには、この世の人生で神の呼びかけに応じてひな鳥のように守られて生きることが大事です。神の呼びかけに応じて守られて生きるということについて、今日の旧約聖書の日課に出てくるアブラハムの信仰が大いに参考になります。それを見てみましょう。この時点ではまだアブラハムはまだアブラムという名前です。17章で神からアブラハムという名前にしなさいと言われます。アブラハムはヘブライ語の父、多い、民族の三つの意味が組み合わさった単語です。それで、多くの諸民族の父という意味を持ちます。

今日の日課の中に、キリスト信仰にとって決定的に大事なことがあります。それは6節です。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」なぜこの箇所がキリスト信仰にとって大事かと言うと、ここに信仰義認の考えがはっきり出ているからです。信仰義認とは、高校の世界史の教科書にルターの宗教改革のところで出てくる言葉ですが、簡単に言うと読んで字のごとく、人は信仰によって神から義と認められるということです。この意味の裏側に、人は善い業を行うことで神から義とは認められないという意味があります。それで信仰義認とは、人は善い業を行うことでは神に義と認められるのではなくイエス様を救い主と信じる信仰によって義と認められるということです。

そこで、イエス様を救い主と信じる信仰とは何かがわからなければなりません。それは、イエス様が本当に私たちの内にある罪、神の意思に反しようとする性向を全部引き取って神の罰を私たちの代わりに受けて下さった、まさに私たちが受けないですむように身代わりになって受けて下さった、それでイエス様を救い主と信じることです。このイエス様の身代わりの罰受けはエルサレム郊外のゴルゴタの丘の十字架で起きました。加えてイエス様は、神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超える永遠の命に至る道を私たちに切り開いて下さいました。その道の行く先に復活があります。

イエス様がそのような凄いことを私たちにされた、だから彼は救い主なのだと信じて洗礼を受けると神から義と認められるというのキリスト信仰です。その時善い業というのは神に認められるためにするものではなくなります。先に神から義と認められてしまった、しかも神が自分のひとり子を犠牲にすることで認められてしまった、これは一体何なんだと驚きます。イエス様の十字架を思えば思うほど、そのおかげで何の取り柄もなかった自分が神から義と認められてなんと畏れ多いことか、神から義と認められたので今自分は神の守りと導きの中を復活の日を目指して歩ませてもらっている、そのことを思い知れば思い知るほど、神の意思に反することには手を染めないようにしよう、関わらないようにしようというふうになります。時として神の意思に反することを心に思ったり、ひょっとしたらも弱さや隙をつかれて言葉に出したり行為に出してしまう時もあるかもしれない。しかし、神からの罪の赦しはゴルゴタの丘の十字架で打ち立てられて揺るがなくあることはわかるので、また新しくやり直せます。このようなサイクルの中に入ると、善い業は自分でしようしようと意識してするものではなくなって、植物が育って実を結ぶように出てくるものになります。

イエス様を救い主と信じる信仰に生き、罪の赦しの中に留まって生きるとどういう風になるかについては、一つの例としてパウロがローマ12章で述べていることを見ればわかります。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思い、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈り、迫害する者のために祝福を祈り、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き、自分を賢い者とうぬぼれず、だれに対しても悪に悪を返さず、他の人と平和な関係が築けるかが自分次第という時は迷わずそうする、復讐はしない、全ては最後の審判の神の判断に委ねる、だから敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々です。

ここで「神から義と認められる」ということを少しはっきりさせてみましょう。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」この文を少し詳しく見てみます。「アブラムは主を信じた」と言うのは前にある出来事の流れでみなければなりません。何があったかと言うと、アブラムはもう90歳近くになって子供はもう無理、相続のための家系は潰えると諦めていました。その彼に神は諦める必要はない、お前には後継ぎが生まれる、と言ったのです。アブラムに星一杯の夜空を見せて、お前の子孫はこれ位になるとさえ言います。その時にアブラムは信じたのです。それで彼が主を信じたというのは、神が言われたこと約束されたことは人間の目から見ても常識で考えてもありえないことであっても、神が言われたのであればそうなると信じたことです。自分の目で見たこと感情で感じたこと理性で考えたことよりも、目や感情や理性はそんなのあり得ないと言っていることでも神がそうだと言われたらそうなのだと信じたことです。目や感情や理性に黙ってもらい、神の声の方を聞いて神の言葉を先に立て、他のことはその後にしたということです。

アブラムがそのように信じたことを「神が彼の義と認めた」と言います。それはどういうことでしょうか?ヘブライ語の原文を少し解説的に言い換えると、アブラハムがそのように目や感情や理性に黙ってもらい神の言うことを信じた、そのことを神は彼にとっての義と認めてあげた、です。もう少しわかりやすく言うと、アブラムがそのように信じたので神は彼を義と認めた、です。目や感情や理性を脇に置いて神の言うことをその通りだと言う、それくらい神に信頼を置くと神に義と認められるのです。

そこで、神に義と認められるとはどういうことかをわかるようにしましょう。そもそも「義」とは何なのか?ヘブライ語でツェダーカーצדקה、ギリシャ語でディカイオシュネーδικαιοσύνηです。それらが日本語で「義」と訳されるのですが、漢字の「義」という言葉をみて意味が分かるでしょうか?もちろん意味を辞書みたいに説明することは出来ます。しかしそのように説明されても、わかったようでわからないというのが大方の反応なのではないかと思います。そこで、「義」の意味を説明するのではなく、神に義と認められるとどうなるかを見て「義」をわかるようにしていこうと思います。

神に義と認められるとどうなるか?神はいつも共におられ、どんなことがあっても共におられ、この世の人生でもこの世の後に来る世においても共におられるというふうになります。罪を持っているにもかかわらず私たちは神聖な神と結びつきを持てて、この世と次に来る世の双方をその結びつきの中で生きるようになります。神に義と認められるとこのようになります。イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がまさにそうです。イエス様のおかげで神との結びつきを回復できて、この世の人生では神の守りと導きを絶えず受けながら復活に至る道を進み、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられる、これが神に義と認められた者の全人生です。

アブラムの出来事はイエス様がこの世に贈られる何千年前のことでした。しかし、アブラムの信仰はキリスト信仰と同じです。目や感情や理性よりも神に信頼を置き神の御言葉を先に立てる信仰です。イエス様が十字架にかかったことや死から復活されたことを目で見ていません。神の意思に反する罪を持っていることも時として感じることはあるが時として感じません。この世の人生の後に、この世はいつか終わりが来て新しい天と地が再創造されるなど考えられません。ましてやそこに自分が復活して迎え入れられるなどと考えられません。しかし、目や感情や理性が信じられないと言っていることを私たちキリスト信仰者は信じています。だから、私たちとアブラムは同じ立場にあります。宗教改革のルターも、アブラハムのことをキリスト到来以前のキリスト教徒と言った位です。

目や感情や理性が信じられないと言っているのに信じることが出来るというのは、イエス様を救い主と信じることの他にもいろいろあります。イエス様を信じることから始まって沢山のことが出てきます。例えば苦難や困難に遭遇した時、私たちは神の守りや導きが失われたと感じがちです。しかし、それは私たちの目や感情や理性がそう見て感じて言っているだけで、神の守りと導きはなくなっていません。イエス様を救い主と信じる信仰に生き、神の罪の赦しの中に留まる限り、神との結びつきは非常時にあっても平時と全く変わらず、復活の道を踏み外すことなく進んでいます。それなのでキリスト信仰者は、希望のない状態にあっても希望があると言えるのです。まさに詩篇23篇4節の心意気でいるからです。

たとえ我、死の影の谷を往く時も禍害を怖れじ、

汝、我と共に在せばなり、

汝の鞭、汝の杖、我を慰む。

גם כי אלך בגיא צלמות לא אירא רע

כי אתה עמדי

שבטך ומשענתך המה ינחמני

そして、主の再臨の日と復活の日を目指して進む私たちは、苦難と困難の中にあってもパウロと一緒に堂々として次のように言います。

されど我らの国籍は天に在り、

我らは主イエス・キリストの救い主として

その処より来たり給うを待つ。

ημων γαρ το πολιτευμα εν ουρανοις υπαρχει

εξ ου και σωτηρα απεκδεχομεθα κυριον Ιησουν Χριστον,

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2022年2月27日(日)主の変容の主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年2月27日 変容主日

出エジプト記34章29-35節

第二コリント3章12節-4章2節

ルカ9章28-36節

礼拝をYouTubeでみる

説教題 「復活の日に神の栄光を映し出す者になれるという希望からこの世を生きる勇気を得る」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

  1. はじめに

 本日はキリスト教会のカレンダーでは1月に始まった顕現節が終わって、この後イースター・復活祭に向かう四旬節が始まる節目にあたります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという有名な出来事です。同じ出来事は本日のルカ9章の他にマルコ9章とマタイ17章にも記されています。マタイ17章2節とマルコ9章2節では、イエス様の姿が変わったことがギリシャ語で「変容させられた(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本日は「変容主日」とも呼ばれます。

 イエス様の山の上での変容の出来事は、これは、と言うか、これもですが、私たちの命は今のこの世とこの次にやって来る世の二つにまたがっていることを思い起こさせる出来事です。出来事の場所となった山は、マタイやマルコの記述では「高い」山と言われ、マルコ8章27節によるとイエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それで、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と考えらえます。標高は2814メートルで、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ高さです。ただし、写真で見たヘルモン山ははなだらかで五竜岳のように急峻な感じはしませんでした。

 さて、ヘルモン山の上で何が起こったか?イエス様がペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れてそこに登り、そこで祈っていると白く輝きだす。旧約聖書の偉大な預言者モーセとエリアが現れて、もうすぐイエス様に起こる受難について彼と話している。ペトロがイエス様とモーセとエリアのために「仮小屋」を三つ建てましょうと言った時、不思議な雲が現れて、その中から天地創造の神の声が轟きわたる。その後すぐ雲は消えて、モーセとエリアの姿もなくなりイエス様だけが立っていた。そういう出来事でした。

 この出来事は以前の説教でも説き明かしをしましたが、今日は旧約と使徒書の日課が以前と違うので角度を変えて迫ることができます。ただ、結論はいつもと同じになりますが。旧約の日課は出エジプト記34章でモーセがシナイ山で神の栄光を受けて顔が輝き出しそれを覆いで隠したという出来事です。使徒書は第二コリントでパウロがキリスト信仰者は神の栄光を映し出す者であると教える個所です。それで今日は、神の栄光を映し出す者になるというのはどういうことか、なぜそれは大事なことかをお教えすることになります。

2.モーセとエリアの出現

 最初に、モーセとエリアが出現したことについてみてみます。二人とも旧約聖書の偉大な預言者です。遥か昔の時代の人物が突然現れたというのは、どういうことでしょうか?幽霊でしょうか?人によっては、聖書には夢の中で神や天使がお告げをすることがあるのでここも同じだと考える人もいるでしょう。しかし、32節で弟子たちは「ひどく眠たかったが、じっとこらえて」いたと言っています。ギリシャ語原文でもディア‐グレゴレオーと言っていて、頑張って起きていたという感じが伝わる言い方です。

 モーセとエリアの出現が現実に起きたことなら、彼らは幽霊なのか?彼らの出現をよりよく理解できるために、まず、人間は死んだらどうなるかいうことについて聖書が教えていることを復習します。聖書の観点では、人間はこの世を去ると直ぐではなくて遠い将来みんな一括して神の国に迎え入れられるかどうかの判定を受けます。遠い将来というのは今のこの世が終わりを告げ、判定者のイエス様が再臨する時です。この世が終わりを告げるというのは、今ある天と地がなくなって新しい天と地に創造され直すということです。

 それなのでキリスト信仰の天国の考え方は他の宗教の天国とかそれに類する国の考え方と大きく異なっていると思います。他の宗教や日本人の一般的な考え方では、天国とかそれに類する国と言うのは、この世の人生を終えた後すぐ、ないしは30何年間とか一定期間の後で到達できるという考え方ではないかと思います。つまり、今のこの世がまだ存在している時のことです。ところがキリスト信仰では、それは今のこの世がなくなって新しい天と地が再創造される時のことです。そうすると、その日が来る前に死んでしまったらどうなるのか、どこかで待っているのかという疑問が起きると思います。キリスト信仰では「死者の復活」がその答えになります。宗教改革のルターも教えるように、判定の日よりも前に死んだ人はその日が来るまでは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているということになります。イエス様も使徒パウロも、死んだ人のことを眠りについていると言っていました(マルコ5章39節、ヨハネ11章11節、第一コリント15章18、20節)。キリスト信仰では死は復活までの眠りで、その後に永遠の安寧か永遠の滅びかの振り分けがきます。

 他方で聖書には、将来の復活の日を待たずして一足早く神の国に迎え入れられて、もう神の御許にいる者がいるという考えも見られます。ルターもそのような者がいることを否定しませんでした。エリアとモーセはその例と考えることができます。というのは、エリアは列王記下2章にあるように、生きたまま神のもとに引き上げられたからです(11節)。モーセについては少し微妙です。申命記34章に死んだと記されてはいますが、彼を葬ったのは神自身で、葬られた場所は誰もわからないという、これまた謎めいた最後の遂げ方です(6節)。それでモーセの場合もこの世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしていないのではないか、ひょっとしたら復活の日を待たずして神の国に迎え入れられたのではないかと考えられます。まさに彼もエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られたからです。そうなるとこれはもう、幽霊などという代物ではありません。そもそも聖書の観点では、亡くなった人というのは原則として復活の日までは神のみぞ知る場所で安らかに眠るというのが筋です。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からのものではないので、私たちは一切関わりを持たないように注意しないといけません。神自身、死者の霊や霊媒と関りを持つことを禁じています。レビ記19章31節、申命記18章11節、サムエル記上21章6節、イザヤ書8章19節です。

3.不思議な雲

 次に、不思議な雲の出現についてみてみます。本日の箇所を注意して読むと雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが「仮小屋」を建てましょうと言っている最中に出てきてしまうのですから。山登りする人はよくご存知ですが、高い山の頂上が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではありません。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲で、それを天地創造の神がこの出来事のために利用したと考えられます。

 あるいは、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。その例は既に出エジプト記にあります。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を与えられた時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は、人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死ぬと言われます(18ー23節)。これが神聖な創造主の神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをよく覚えておかなければなりません。そういうわけで山の上の雲は、人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、同じようにペトロたちを守るものだったと言えます。

4.イエス様の変容

 そこで本日の出来事の中心であるイエス様の変容について見てみます。29節で「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語のプロソーポンという言葉が下地にありますが、この言葉は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容はイエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」です。マルコ9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。ルカ9章32節でイエス様が「栄光に輝く」と言われていますが、これは神の栄光です。この変容の場面で、イエス様は罪の汚れのない神聖な神の子としての本質をあらわしたのです。

 フィリピ2章に、最初のキリスト信仰者たちが唱えていた決まり文句が引用されています。それによると「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6ー7節)。イエス様がもともとは神の身分を持つ方、神と同質の方であることが証しされています。また、ヘブライ4章には次のように言われています。イエス様は「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)。神のひとり子はこの世に送られて人間と同じ血と肉を持つ者となったが、罪をもたないという神の性質を持ち続けたことが証されています。そういうわけで、ヘルモン山頂でのイエス様の変容は、まさに罪をもたない神の神聖さを持つという彼の天の御国での有り様を現わす出来事だったのです。

5.受難の道を選ばれたイエス様

 そうするとイエス様はこの時、「雲」に乗ってモーセとエリアと一緒に天の父なるみ神のもとに帰ってもよかったのです。日本語訳では「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」(34節)とありますが、ギリシャ語原文をよく見ると、イエス様とモーセとエリアの三人は雲の中に包まれていくではなく、自分たちで雲の中に入って行った、つまり雲の中に乗り込んで行ったと言っています。それなので、あの「雲」はお迎えの「雲」だったのです。それなのにイエス様は、私は行かなくてもいいと言わんばかりに、せっかく乗りかけた「雲」から降りてしまって、何を好き好んでか、この地上に留まることを良しとしたのです。なぜでしょうか?

 それは、私たち人間も復活の日に神の栄光を映し出して輝く体を着せられて、神の御国に迎え入れられるようにするためでした。それをするために受難の道を進んでゴルゴタの丘の十字架にかからなければならなかったのです。どうしてそういうふうにしなければならなかったのでしょうか?

 それは、人間は最初の人間の堕罪の出来事以来、神の意思に反しようとする性向、罪を内に持つようになってしまったからです。人間はこの罪の汚れを除去しない限り、自分の造り主である神と結びつきがない状態で生きることとなり、この世を去った後も神のもとに戻ることができません。人間が罪を除去できるためには神の意志を100%体現した神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能です。そのことを使徒パウロはローマ7章で明らかにしています。神の意志を表す十戒があるが、その掟は人間が救いを勝ち取るために守るものではない、人間が神聖な神からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものだと言っています。イエス様自身、「汝殺すなかれ」はただ殺人を犯さなければ十分ではない、兄弟を心の中で罵っても同罪と教えました(マタイ5章21ー22節)。「姦淫するなかれ」という掟も行為に及ばなくても異性を淫らな目で見たら同罪と教えました(同27ー28節)。詩篇51篇でダビデ王は神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

 そこで神は、できない人間にかわって人間を罪から洗い清めてあげることにしました。どのようにしてでしょうか?神はそれを罪を「赦す」ことで行いました。「赦す」というのは、罪をしてもいいとか許可する意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪を忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまう方です。しかし人間を焼き尽くすことは望まれなかった。それでは、「赦す」ことが、どうして人間の洗い清めになったのでしょうか?以下のようなことです。

 神は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本当なら人間が受けるべき罪の神罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせました。罪の償いを全部イエス様にさせたのです。イエス様はこれ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲の生け贄になったのです。このおかげで人間が神罰や罪の呪縛から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて私たち人間の罪を赦す、不問にするから自分との結びつきを持って新しく生き始めなさいとおっしゃるのです。それだけではありません。神は想像を絶する力でイエス様を復活させて死を超えた永遠の命に至る道を私たち人間に切り開いて下さったのです。あとは人間の方が、これらのことは自分のためになされたとわかり、だからイエス様を救い主だと信じて洗礼を受けると、この神が作り上げた「罪の赦しの救い」の中で生き始めることになり、復活に至る道に置かれてそこを神の守りと導きのうちに歩むことになるのです。

6.復活と神の栄光を映し出す希望とこの世を生きる勇気

 イエス様が「雲」に乗って天の御国に帰らないで地上に残られたのは、私たち人間が「罪の赦しの救い」という神からの贈り物を受け取ることができるようにするためでした。私たちはこの贈り物を受け取って携えて生きることで神の栄光を受けて輝くことができるようになるのです。全身が目に見えて輝くのは復活して御国に迎え入れられる時ですが、この将来のことがこの世の人生で希望と勇気の源になっていることをパウロが本日の使徒書の日課で教えています。最後にそのことを見ておきましょう。日課の個所はわかりにくいですが、3章7節辺りから見ていくとわかるようになります。

 神の栄光はイエス様だけでなく十戒にも現れます。というのは、十戒は神の意思なので神聖なものです。だから神の栄光を現します。しかし、先に申しましたように、人間は掟を守ることでは神の栄光を映し出す者にはなれません。先にも申しましたように、十戒は人間が罪深いものであることを明らかにするからです。それで神聖で神の栄光を現す掟は人間を罰に定めてしまい、十戒だけでは人間は神聖な神の前に立たされて立ち行かなくなってしまうのです。

 しかし、神の御心は人間が神の栄光を映し出す者になれるようにすることでした。それでイエス様に十字架と復活の業を行わせ、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者が罪の赦しを持てるようにして神の前に立たされても大丈夫な者にして下さったのです。以前は十戒が現す栄光を目指せば人間は滅んでしまうだけでしたが、神は目指しても滅ばないで永遠の命に至ることができるように栄光を変えられたのです。

 そこでパウロはモーセの顔の覆いについて述べます。パウロにとってそれは律法の危険な栄光を覆い隠すシンボルでした。ところがこの世は、イエス様の十字架と復活の出来事が起こって神から罪の赦しが与えられる時代に入りました。なのに、旧約聖書を繙く人の中にはまだ覆いをつけたままでこの真の栄光を見ようとしない人たちがいるとパウロは嘆きます。

 しかし、18節でパウロは言います。キリスト信仰者は顔から覆いが取り除かれたので、この世で神の栄光を映し出すプロセスに入っていると。以前の掟の栄光から新しい罪の赦しの栄光に目を向けるので主と同じ姿へ変容させられていくと。新共同訳では「造りかえられていきます」ですが、ギリシャ語では、山の上のイエス様の変容と同じ動詞メタモルフォオーで言われています。私たちもイエス様と同じように変容するのです。この世ではその過程にあり、復活の日に完結するのです。

 12節に戻って、パウロが言う希望とは、まさに復活の日に目に見えて神の栄光を映し出すものになれるという希望です。パウロが希望という言葉を使えば、大体それは復活と神の栄光を映し出すことを指しています。キリスト信仰者にとってこの希望が勇気の源になると言っています。12節「確信に満ちあふれてふるまっており」というのは、この希望から大きな勇気が得られてそれを持って生きるという意味です。その勇気ある生き方の具体例が4章2節にあります。心から恥ずべき事を追い出す、人を欺く生き方はしない、神の御言葉を歪曲せず、神について真理を人々に語る、そして、私たちは神のみ前ではこれ以上の者でもこれ以下の者でもないということを他の人たちにどうぞ良心で判断してみて下さい、と言う。復活と神の栄光の希望があれば、人から何を言われようと、人間は神ではないので恐くはありません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

 

2022年2月20日(日)顕現節第7主日 主日礼拝

 

主日礼拝説教 2022年2月20日顕現節第7主日 スオミ教会

創世記45章3-11,15節

第一コリント15章35-38、42-50節

ルカ6章27-38節

礼拝をYouTubeでみる

説教題 「復活の希望を携えて父なるみ神の守りと導きの中でこの世を生きていく」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 今日のイエス様の教えはとても難しいです。言っていることは簡単に理解できます。しかし、言っている内容は私たちには実行不可能なことばかりです。それで難しいのです。まず、汝らの敵を愛せよ、汝らを憎む者に良くしてあげよ、これは崇高な理想に聞こえます。実行は難しくとも理想としてなら受け入れられると多くの人は考えるでしょう。ところが、その後から大変になってきます。汝らを呪う者らを祝福せよとか、汝らを侮辱する者らのために祈れとか。お前なんか地獄に落ちてしまえと罵る奴になんでまた、神様あの人を祝福してあげて下さい、などと祈らなければならないのか?言葉や暴力で傷つける奴のためになんでまた祈ってあげなければならないのか?極めつきは29節です。汝の頬を打つ者にもう一方の頬も向けよ。つまり、頬を打たれても仕返しをしないどころか、こっちの頬もどうぞ、と差し出せとは、イエス様は一体何を考えているのか?そうすることで相手が自分のしたことの愚かさに気づいて恥じ入ることを狙っているのか?もちろん、そうなるに越したことはないですが、果たしてそんなにうまくいくのだろうか?むしろ相手はつけあがって、お望みならそっちの頬も殴ってやろう、となってしまわないだろうか?イエス様は少し考えが甘いのではないか?

 これに続く教えも、そんな無茶なと言いたくなります。汝の上着を取る者に下着もくれてやれ、欲しがる者に与えよ、汝のものを奪う者から取り返そうとするな、などと。そんなことでは泥棒や強盗にさせたい放題ではないか?十戒には盗むなかれという掟があるのに、それを守らない者をのさばらせてしまうではないか?汝殺すなかれという掟もあるのに暴力を振るう者に対してもっと殴ってもいいなどとは。キリスト信仰者はこういうふうにしなければいけないのかと聞かれて、そうです、なんて答えたら、もう誰も信仰者になりたいと思わないでしょう。実は、イエス様はこれらの難しい教えを通してキリスト信仰者がキリスト信仰者である所以について大事なことを教えているのです。自分には出来ないと言って遠ざけてしまうのではなく、これらの教えを目の前においてイエス様が本当に教えようとしていることを考えてみなければなりません。それをしないで、出来る出来ないと議論するのは意味がありません。

2.神が与えた賜物にではなく与えて下さる神に固執せよ

 この他にもイエス様の実行困難な教えは聞く人読む人の心を揺さぶる試練を与えます。その一つの例として、金持ちの青年がイエス様に永遠の命を得て天の御国に入れるために何をすべきかと聞いた出来事があります(マタイ19章、マルコ10章、ルカ18章)。本日の日課ではありませんが、その出来事でイエス様が教えていることがわかると今日のところで教えようとしていることがわかってきます。これは、聖書を理解する際には聖書の他の個所を基にして理解するというやり方です。聖書の解釈は聖書にさせると言ってもよいでしょう。

 さて、イエス様は青年に十戒を守れと言います。青年はそんなものは子供の時から守ってきた、まだ何が足りないのかと聞き返します。イエス様はその以前に山上の説教で十戒について教えた時、殺さなければOK、不倫をしなければOKではない、兄弟を言葉で傷つけたり心の中で傷つけを考えただけでも同罪、異性をふしだらな目で見ただけでも同罪と、神は心の有り様まで問うていると教えていました。金持ちの青年の時は、そういうふうには教えませんでしたが、それでも心の有り様を突いてくることを言います。「お前には足りないことが一つある。全財産を売り払って貧しい人に分け与えよ。そうすればお前は天に富を積むことになる。それから私に従ってきなさい。」青年は悲嘆にくれて立ち去って行きました。

 このイエス様の教えは2つのことを明らかにしています。その2つのことが本日の箇所を理解する鍵になります。一つは、人間は救いを自分の力で獲得することはできないということ。もう一つは、人間は賜物を与えて下さる神よりも与えてもらった賜物に固執してしまうということです。

 まず、人間は救いを自分の力で獲得できないということについて。それならば救いはどうやって得られるのでしょうか?それに答える前に、そもそも「救い」とは何かわからないと話になりません。重い病気が治ったり、貧困から脱することができると、大抵の人は「救われた」と言います。もちろん、そういう切実な願いが叶うのは大事なことです。ただ、キリスト信仰で「救い」と言ったら、もっとスケールの大きな話です。要約して言うと救いとは、この世の人生を終えた後でいつか将来この世の天と地がなくなって新しい天と地が創造されて復活の日という日が来る、その時に復活させられて、本日の使徒書の日課(第一コリント15章)で言われるように、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて神の御国に迎え入れられること、これが救いです。

 そう言うと、救いとは遠い将来のことで今ある天と地がなくなって新しい天と地が出来た時のことか、それじゃ今のこの世の人生には救いはないのかと言われてしまうかもしれません。そうではありません。キリスト信仰者にとってこの世の人生の日々は復活の日に向かう日々になります。復活させられて神の御国に迎え入れらえる日を目指して、今はこの世で父なるみ神の守りと導きの中で日々を進んでいきます。神が守って下さる導いて下さるというのは、苦難や困難があるとそんなものないと疑ってしまいます。しかし、神の意図はイエス様を救い主と信じる者が間違いなく復活の日を迎えられるようにすることです。それなので、神の守りと導きは時として人間の理解を超えた仕方で現れます。そのことについて本日の旧約の日課、創世記45章でヨセフが最高の信仰の証しをしています。それについては後で見てみましょう。

 キリスト信仰では救いとは、将来の復活の日に復活の体を着せられて永遠に神の御国に迎え入れらえる、それで今のこの世では神の守りと導きの中でそこに至る道を進むことができる、これが救いです。

 そこで、救いは人間の力では獲得できないことを肝に銘じておかないと金持ちの青年のようになってしまいます。それでは自分の力でできなければどうやって獲得できるのか?それは、人間が神の意思に反しようとする罪を持っているために神との結びつきを絶たれて復活に与れない状態になっている、その状態を神のひとり子であるイエス様が解消してくれたことによってです。イエス様はどうやってそれを解消したのか?それは、本当だったら人間が受けるはずの罪の神罰をゴルゴタの十字架で私たちの代わりに受けて下さったことによってです。そこで、今度は人間の方がイエス様の死は本当に自分のための犠牲の死だったと受け入れて、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける、そうするとイエス様の果たしてくれた罪の償いがそのままその人に入ります。それでその人は罪を償われた者になって、罪を償われたから神との結びつきを回復できて復活の日に向かって神の守りと導きの中で進んでいくことになります。そのようにイエス様が果たして下さった罪の償いと罪からの贖いを信仰と洗礼でもって受け取って自分のものにする。このようにキリスト信仰では救いは神主導です。人間はヘリ下って受け取る立場です。

 人間は救いを自分の力で獲得できないことに加えて、金持ちの青年の話が教えているもう一つの大事なことは、人間は賜物を与える神よりも与えられた賜物に固執してしまうということです。神は固執する相手を是正するために時として手荒いことをします。賜物に対する執着が強ければ強いほど、神の是正は痛いものになります。金持ちの青年の場合がそうでした。賜物を持っていてもそれに固執しないで神に固執することは可能でしょうか?宗教改革のルターはキリスト信仰者の賜物に対する心は次のようであるべきと教えています。

「私には神が与えて下さった良い賜物が沢山ある。しかし、それらは私が喜びをそこからだけ得られると考えてしまう位に愛しいものになってはならない。私はそれらを、神がお許しになる期間大事に用いよう、神の栄光が増し加わるように用いよう、自分の必要を満たす以上には用いず、隣人の役に立つように用いよう。もし神が賜物をお与えにならないと言うのなら、私はそのために起こる危険や不名誉を甘んじて受けよう。というのは、賜物を与えて下さった神を持たないというのは恐るべきことで、それに比べたら賜物を持たない方がましなのだから。」

 本日の福音書のイエス様の教え、奪う者から取り返すな等の教えについては、十戒を思い出せば神が盗みや強奪を放置せよなどと言うつもりはないことは明らかです。それでここは、人間が神を脇に押しやって賜物に執着しないようにということをショッキングな言い方で教えていると理解すべきでしょう。

3.この世で正義は不完全だが最善を尽くし復活の日に清算してもらおう

 敵を愛せよ、頬を差し出せも文面だけで考えず、聖書のキリスト信仰の観点で見なければなりません。イエス様は山上の説教で同じことを教えていました。そこでは、神は善人にも悪人にも雨を降らせ太陽を輝かせると言っていました。これを聞いたり読んだりした人は、神の寛大さ、心の広さに驚くかもしれません。しかし、よく考えるとこれはどうだろうか、こんなに悪人に気前がいいというのは悪人をいい気にさせてしまわないか、神は罰を下さず見逃してくれているとつけあがってしまわないか?これでは正義がなさすぎるのではないか?

 しかし、そうではありません。神は見境のない気前の良さを言っているのではありません。もし悪人に雨を降らさず太陽を輝かせなかったら悪人は干からびて滅んでしまいます。神がそうならないようにしているのは悪人が神に背を向けている生き方を方向転換して神の許に立ち返る生き方に入れるチャンスを与えているのです。神がそのような考えを持っていることはエゼキエル書18章23節と33章11節を見れば明らかです。もし悪人がそういう神の思いに気づかずにいい気になっていたら、神のお恵みを裏切ることになります。最後の審判の時に神の御前に立たされた時に何も申し開きできなくなります。

 敵を愛せよ、迫害する者のために祈れというのはこうした神の視点で考えます。自分を傷つける者に対して、あなたを愛していますなどと言って傷つけられるのを甘受するということではありません。目を覚まさなければなりません。神が主眼とするのは悪人が方向転換して神のもとに立ち返ることです。だから、危害を及ぼす者のために祈るというのは、まさに、神さま、その人があなたに背を向ける生き方をやめてあなたのもとに立ち返ることが出来るように導いて下さい、という祈りです。これが敵を愛することです。この祈りは、神さま、あの人を滅ぼして下さい、という祈りよりも神の意思に沿うものです。もしそれでその人が神のもとに立ち返れば迫害はなくなります。その祈りこそが迫害がなくなるようにするのに相応しい祈りです。

 ここで一つ気になることが出てきます。それは、こうした神の視点を持って危害を及ぼす者に向き合うのはいいが、危害を及ぼすこと自体に対しては何もしなくてもいいのかということです。そうではありません。法律で罰することやその他の救済機関の助けを使わなければなりません。十戒で他人を傷つけてはいけないというのが神の意思である以上は、傷つけることを放置してはいけません。ただ、法律で下される罰や定められる補償が十分か不十分か妥当かどうかという議論が起きてきます。そんな程度では納得できないということも出てきます。逆に、それは行き過ぎではないかということも出てきます。また、肝心の救済機関がちゃんと機能していないという問題もあります。こうした正義の問題についてのキリスト信仰の見解の基本には復讐はしないということがあります。ローマ12章でパウロが教えるように、復讐は神が行うことだからです。神が行う復讐とは最後の審判のことです。神の目から見て不十分だった補償は完全なものにされ永遠に続きます。逆に不十分だった罰も完全なものにされ永遠に続きます。これで完全な正義が永遠に実現します。黙示録21章で復活の日に神の御国に迎え入れられた者たちの目から全ての涙が拭われると言われていることがそれです。

 キリスト信仰者は、社会に十戒を破るようなことを放置しないが、法律や救済機関を用いる時は復讐心で行わない。それは復活とそれに先立つ最後の審判で神が実現する完全な正義を信じているからです。復讐心で行わないことは、パウロが教えるように、危害を及ぼした者が飢えていたら食べさせる、乾いていたら飲ませる用意があることに示されます。危害を及ぼす者にそういうことをするのは、悪人とは言え可哀そうだからということもあるかもしれません。しかし、危害が大きければそんな気持ちは起きないでしょう。ここでパウロの言わんとしていることは、危害が大きかろうが小さかろうが、どんな感情を持とうが関係ない、食べさせ飲ませるのは神の意思だからそうしなさいということです。法的手段に訴えたり救済機関を用いたりすると同時に心は神の意思に直結しているのです。

 復讐心で行わないということには、神の命令があるからということの他にもう一つ大事なことがあります。それは、キリスト信仰者自身が神から罪の赦しを受けたという立場にあるということです。神から罪の赦しを受けたということがどれほど大きなことかがわかると復讐心のエネルギーは削がれていきます。神が贈られたひとり子の十字架と復活の業のおかげで自分は神の意思に反する罪を持っているにも関わらず、神は自分を子と扱ってくれて、復活に向って進む自分を毎日道を踏み外さないように迷わないように守り導いて下さっている。そこはこの世の不完全な正義が完全にされて全ての涙が拭われるところだ。神の意思に反する罪を持ち汚れや至らないところが沢山ある自分だが、私はただただイエス様が成し遂げて下さった罪の償いを肌身離さず生きている。その自分を父なるみ神は子と扱ってくれて、復活に向って進む自分を毎日守り導いて下さっている。

 本日の福音書の日課の後半で、「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうれば、あなたがなにも与えられる。あなたがたは自分の量る秤で量り返される。」イエス様のこの教えはまさにキリスト信仰者に向けられています。これを述べた時点ではまだ十字架と復活の出来事は起きていないので聞いた人たちは何ことが意味が全然分からなかったでしょう。しかし、十字架と復活の後は、この地上に神からの罪の赦しが打ち立てられ、復活に至る道が切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は神から復活に至ることができる大いなる赦しを頂いたのです。この信仰に留まり復活の希望を携えて神の守りと導きの中で進む者は、もう裁かれず罪びとに定められず赦されているのです。そのような人が、私は裁く、罪びとに定めてやる、赦さないと言ったら、神はがっかりでしょう。私がお前に与えたものをよく見なさい、私がお前にしたようにお前も周りの人たちにすべきではないか、と言われてしまうでしょう。イエス様の教えは私はできない、できない、絶対できないと言い張る人への警告です。もちろん、受けた危害の大きさが甚大ならば赦すなんて遠い世界のことに思えます。しかし、罪を赦すとは罪を許可するという意味ではありません。罪は罪としてこの世では不完全かもしれないが罰せられなければなりません。これはキリスト信仰者も否定しません。ただそれを復讐心と無関係に行えるようにする、心と目を復活に向けて復讐心から解放されて行えるようにするということです。そのために神がイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせて下さったのです。この世では正義は不完全なものだが、キリスト信仰に立って最善を尽くし、足りない部分は後で神に清算してもらうということです。

4.ヨセフの信仰の証し

 本説教で、キリスト信仰者とは復活の希望を携えて神の守りと導きの中でこの世を生きる者であるということを繰り返し申しましたが、この世では神の守りと導きがあると言っても、苦難や困難があると本当にあるのか疑わしくなります。しかし、それでもあるということを本日の旧約の日課でヨセフが証ししていますので、それを終わりに見ておきましょう。

 ヨセフの人生は、皆さんご存じのように波乱万丈でした。父ヤコブの寵愛を受けて兄たちの嫉妬を買い、エジプトに奴隷として売られてしまいます。エジプトの王ファラオの宮廷役人に仕えている時も神の意思に従い不正なことには手を染めなかったにもかかわらず、不倫の濡れ衣を着せられて牢獄に入れられてしまう。その後もいろいろありますが、ファラオの見た夢の意味を解き明かしたことがきっかけで王室に仕える身分となり、最後は王国の行政の長にまでのぼるつめるところまで行きます。その時オリエント世界を大飢饉が襲いました。エジプトはヨセフの食料備蓄対策が功を奏して難を免れます。カナンの地にいたヨセフの父や兄弟たちは食料に困りエジプトに支援を求めにやって来る。宮殿で兄たちは目の前にいる高官がヨセフだとわかりません。そこでヨセフは自分の正体を明かすという場面です。そこでヨセフは、自分をエジプトに送ったのは兄たちではない、肉親たちが助かるようにと前もって神が送ったのだと言います。自分をエジプトに送ったのは神だと何度も繰り返して言います。このヨセフの半生についてルターが次のように説き明かししていますので、それを引用して本説教の結びとします。

「神のこの世での統治の仕方がいかに人間の理解を超えるものであるか、そのことについてヨセフの事例も聖書の数多くの登場人物と同じように我々によく教えてくれる。実に神は、悪魔や死が目前にあると思われるようなところで実は直ぐそばにおられるのだ。ヨセフも、エジプトに売られた時はさすがに神に見捨てられたと思ったであろう。しかし、神は一時たりともヨセフから目を離さず絶えず彼の後をついて行ったのだ。ヨセフが異国に売り飛ばされて、そこで何年も何年も試練に次ぐ試練を受けなければならないようにしたのは確かに神自身であった。あたかも神などもう近くにはおられないと思わされる位にそうされたのだ。しかし、神が定めた時が来たとき、神はエジプトの国をその手に委ねるほどにヨセフを高い位につけたのだ。そこに至るまでヨセフは神を信じて忍耐強く待たなければならなかった。

 父なるみ神は我々にも同じようになさるはずだ。もし、我々もヨセフと同じように神を信じて立ち続けることを学んでいさえすれば。我々にも、ヨセフの時代にこの世を統治していた同じ神がおられるではないか。我々にも同じ全知全能の神と神の約束の言葉があるではないか。神は我々を見捨てることはしないという約束だ。しかし、次のことは覚えておいてほしい。神は、栄誉を与えようとする者を最初不名誉に陥れ、大いなる喜びで満たしたい者を最初悲しみと心の苦しみで満たすということだ。こうしたことを神は特に選ばれた者たちに対して行う。神が彼らを底深い所に沈めれば沈めるほど、彼らを無価値にすればするほど、それ以上に彼らを高い所に引き上げて栄光の座につけるのである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

2022年2月13日(日)顕現節第6主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年2月13日顕現節第六主日

エレミア17章5-10節、第一コリント15章12-20節、ルカ6章17-26節

礼拝をYouTubeでみる

説教題 「キリスト信仰者よ、復活の視点を見失うな」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の聖書日課は、福音書がルカ6章のイエス様が群衆に教えを宣べるところです。内容的にマタイ5章の山上の説教と同じです。誰が「幸いな」かについて教えます。マタイでは「幸いな人」についてだけですが、ルカでは「不幸な人」についても教えます。使徒書の日課は第一コリント15章のパウロの教えです。キリスト信仰者の中に復活なんかないと主張する人がいて、それに対してパウロが、いや復活はある、と反論するところです。旧約の日課エレミヤ17章は誰が呪われた者で誰が祝福された者かについて述べています。

 これら3つは語られたり書かれたりした時代を見てもエレミヤからパウロまで500年以上の開きがあるものですが、何度も繰り返し読むと共通項が見えてきます。3つとも、キリスト信仰者にとって復活の視点を持ってこの世を生きることはとても大事であることを教えています。今日はそのことを見ていこうと思います。それで説教題は「キリスト信仰者よ、復活の視点を見失うな」になりました。

2.聖書とキリスト信仰の観点

 まず、ルカの日課を見てみますが、今申しましたように、マタイ5章のイエス様の山上の説教と同じ出来事を扱っています。しかし、内容が少し異なっています。4つの福音書の記述を見比べると同じ出来事なのに書き方が違っていることがよくあります。これはどう考えたら良いのでしょうか?以前にもお教えしましたが、簡単に復習します。次のようなことです。本日のマタイとルカの場合ですと、二人とも自分たちが入手した記録や資料を基にしています(それらは重複しているものもあれば、個別のものもあったでしょう)。特にマタイの場合はこれらの資料の他に直接自分の目で見、耳で聞いたこともあったでしょう。それに加えて自分が知らなかったこと見落としていたことについても資料が出てきたのです。さあ、それらをどうまとめるか?

 福音書の書き手が手にした資料というのは、手にするまでに何があったかと言うと、まず最初に直に見聞きした目撃者たちがいます。それから、彼らから口頭で伝えられた人たちがいます。さらに口頭で聞いたことを書き留めた人たちがいます。そうした伝承の流れの中で、ひょっとしたら自分の観点で手短にしたりとか逆に解説を施して長くしたということが起こります。そうすると書かれたことは史実を正確に反映していないのではという疑いが起きるかもしれません。

 しかし、ここで忘れてならない大事なことは、伝えたり書き留めたりした人は自分の観点で手短にしたり詳しくしたりしたわけですが、どんな観点に立ってそうしたかということです。伝えたり書き留めた人たちの観点はみんな共通しています。まず、イエス様というのは創造主の神がこの世に贈られた神のひとり子であり、その神のひとり子が十字架にかけられて人間の罪を神に対して償ってくれたということ。そしてそのイエス様は死から復活されて永遠の命に至る道を人間に切り開かれたということ。さらに、それら全てのことは旧約聖書の預言の実現として起こったということです。これは言うまでもなくキリスト信仰の観点です。みんなこの観点を持って見聞きしたことを記憶して伝えて書き留めていったのです。それならば手短にしようが解説を施そうが、みんな同じ観点に立ってやったわけだからキリスト信仰の真実性には何の影響もありません。むしろ、いろんな記述があることで同じ出来事をいろんな角度から見ることが出来、信仰に広さと深みを与えます。それなので、いろんなバージョンがあっても同じ信仰の観点で書かれていることを忘れず、それらを全部神の御言葉として扱い、総合して全体像を掴むことが大事です。

3.ルカ6章17~26節

 今日のルカの個所には、復活の視点がはっきり出ています。このことを見る前に「幸いな人」と言っている「幸い」とは何か、それは「幸せ」とどう違うのかについて触れておきます。「幸せ」はこの世的な良いもの、良いことと結びつきますが、「幸い」はこの世を超えたことに関係します。聖書には終末の観点があります。この世はいつか終わりを告げて新しい天と地が再創造される、その時「神の国」が唯一揺るがないものとして現れるという観点です。終末論とよく言われますが、終末の後にも続きがあるので新創造論と言うのが正確でしょう。新創造の時に現れる神の国は、死から復活させられてそこに迎え入れられる人たちを構成員とします。そこは、黙示録で言われるように、神があらゆる涙を拭って下さり、死も苦しみも労苦もなく永遠の命を持てて生きられるところです。そのような神の国に迎え入れられる人、そしてこの世ではそこに至る道に置かれて歩む人が「幸い」な人になります。23節で「その日には、喜び踊りなさい」という「その日」とは復活の日、神の国に迎え入れられる日のことです。

 この世で貧しかったり飢えていたり泣いている人というのは確かに「幸せ」ではありません。しかし、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたキリスト信仰者の場合は、復活に至る道に置かれてそこを歩むので最終的には全てが逆転する復活の日を迎えることになるのです。この世での立場と境遇が逆転して欠乏していたことは満たされ、涙は全て拭われて快活な笑いを持てるようになるのです。こうしたことがその通りになるというのは創造主の神の約束だ、だから今の境遇は「幸せ」でなくてもそれは陽炎のようなもので、それを透かして見ると、神の栄光に輝く復活の体を纏って涙を拭われた快活な笑いを持つ自分が見えるのです。

 もちろん、復活の日を待たなくともこの世の段階で自分の努力や他人の手助けまたは社会がうまく機能して貧しさや空腹や涙から脱することも出来ます。しかし、それも復活の日の「幸い」から見れば、貧しさ空腹、涙と同じ陽炎です。この世的な幸せや不運はみな復活の日に消えて復活の有り様に取って代わられるのです。

 「幸い」と正反対の「不幸な」人たちについても言われます。今裕福な人たち、満腹している人たち、笑っている人たちです。これらの人たちは今すでに満足を享受している、それなので将来飢えるようになり泣くようになると未来形で言われます。将来のいつそうなってしまうかのと言うと、復活の日に神の国へ迎え入れられない時です。

 このように言うと、この世の段階で裕福になったりお腹一杯になったり笑ってはいけないみたいで、誰もイエス様の言うことなど聞きたくないでしょう。先ほど、この世で不運な境遇にあっても、またそこから運よく脱せられても、復活の「幸い」から見たら双方とも陽炎のようなものであると申しました。不運な境遇それ自体が「幸い」ではないのです。幸いとは、22節でも言われるように、イエス様を救い主と信じる信仰に生きて復活を自分のものにしていることが幸いなのです。それがあれば不運な境遇にあっても、またそこから脱せられた境遇でも幸いなのです。不幸な人たちにも同じことが当てはまります。裕福さ、お腹一杯、笑いそれ自体が人を「不幸」にして復活と神の国への迎え入れを不可能にしているのではないのです。裕福さ、お腹一杯、笑いの底に人を不幸にする何かがあって、それで裕福な人、お腹一杯の人、笑う人を不幸にするのです。底にあるものとは何でしょうか?

 26節を見ると、「全ての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も偽預言者たちに同じことをしたのである」と言います。かつてエレミヤのような真の預言者の言うことに耳を貸さず、偽預言者を賞賛してその言うことに耳を傾けた時代がありました。人間にちやほやされて裕福だったり満腹だったり笑ったりするのが不幸なのです。人間にちやほやされる人と言うのは、神を無視して神以上に人間に信頼を置いて頼る人です。しかし、復活の日が来たら、お前たちは神なんか頼りにならないと言って無視していたんだから今さら私のもとに来る必要はない、と言われて復活に与れなくなってしまいます。ここで、神に信頼することと人間に信頼することという問題が出てきました。まさに本日の旧約の日課のテーマです。

4.エレミヤ17章5~10節

 エレミヤ17章5~10節は呪われる者と祝福される者の対比です。以前お教えしたことがありますが、聖書の中で「祝福」という言葉に出くわしたら、それは神が人間に御顔を向けて目を注いでくれて見守ってくれている状態だと思わないといけません。というのは、日本語の「祝福」とは、結婚式で新郎新婦をみんなで祝福しました、などと言うので、祝福はお祝いすることに関係すると考えられ、人間同士の事柄のように思われるからです。聖書の祝福は神から授かるもの、神を抜きにしては語れないものです。人間から授かるものではありません。これと正反対のものが「呪い」です。人間が神から顔をそむけられて背中も向けられてしまい、もう好き勝手にしなさいと見放されてしまう状態です。

 エレミヤ17章では誰が祝福される者で誰が呪われる者かがはっきり言われます。呪われる者とは、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主から離れ去っている人です。逆に、主に信頼し、主がその人の拠りどころになっている人が祝福される者です。こう言うと、人間を頼ってはいけないのか、友人も頼ってはいけないのか、天涯孤独でいなければならないのかと困惑する人が出てくるでしょう。しかし、これも先ほど申したことと同じです。貧しさ空腹さ涙それ自体が復活の日の幸いを保証しない、するのはイエス様を救い主と信じる信仰でした。また、裕福お腹一杯笑いそれ自体が復活に与れない原因ではない。神を無視して神以上に人間に信頼するような裕福満腹笑いが原因でした。つまり、人間を頼ること自体が問題なのではなく、神を無視して神以上に人間を信頼することが問題なのです。それなので、人間にも頼るが神への信頼が土台にあってそうすると言う場合は、人間への頼りは陽炎のようなものです。それを透かして見れば神への信頼が本当の信頼としてあります。神への信頼が土台にあれば、人間に頼る時も、こういう頼り方はいけないとわかって見境のない頼り方はしなくなります。

 神への信頼を土台にすると、どうして人間に頼ることが陽炎のように薄れるのかというと、9節と10節で明らかにされます。「人の心は狡猾で災難をもたらす。誰がそれを知り得ようか。」新共同訳では「とらえ難く病んでいる」ですが、ヘブライ語の辞書では「狡猾で災難をもたらす」もOKです。同じ節で誰も人間の心を知りえないと言っているのでこっちの訳がいいと思います。人間の心は狡猾で災難をもたらす、誰もそれをわからない、つかみどころがない、確かに日常生活の中で他人の力を借りることはあるが、完璧な他人など存在しない、それなのに完璧な神を無視して人間を完璧なように見て人間に信頼することは祝福の正反対になってしまうというのです。

 そこで神は言われます。人間は人間の心を知ることは出来ないが、私は知ることが出来る、と。10節の原文を直訳すると「私は人間の心の中を探知する主である、人間の奥深い部分もテストする主である」です。神は私たち人間の造り主で髪の毛の数まで知っておられる方なので、探知やテストなど当然出来ます。だからこそ「それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる」ことができ、神の下す判断はどんな優秀な裁判官もまねできない絶対正しい判断になるのです。「それぞれの道」の「道」というのは直訳でして、「生き方」という意味があります。神はそれぞれの生き方、業がどんな実を結んだかをことごとく見極めて復活の日に各々の行く先を決められるのです。いろんな生き方、いろんな実がありますが、イエス様を救い主と信じる信仰に生きたかどうかが決定打になることは言うまでもありません。

 祝福される者が水辺の木に例えられていることについてひと言。この木は、熱波が来ようが来まいが葉は青々とし、干ばつがあろうがなかろうが関係なく実を実らせ続ける木です。そこで、自分は洗礼を受けてイエス様を救い主と信じているのに現実の姿はそんな状態からはほど遠い、私は葉が枯れて実も結ばない木のようで、自分はとても祝福されたなどと思えないと言う人がいるかもしれません。しかし、先ほど申しましたように、今の不運な境遇はこの世の段階で改善される可能性はあります。しかし、改善されたにしろ、されないにしろ不運な境遇、幸運な境遇それ自体が「幸い」ではありません。神が復活させて下さるので、それを信じてその日に向かって進んでいることが幸いなのです。その時、不運な境遇も改善された境遇も陽炎のようになって、それらを透かして見ると、復活の日の栄光の体を纏う自分が見えるのです。それと同じことです。この世では実を結ばない木であろうが結ぶようになった木であろうが、それらを透かして見ると、復活の日に永遠に青葉が茂り実をたわわに結ぶ木のようになった自分が見えるのです。これが復活の視点です。

5.第一コリント15章12~20節

 第一コリント15章は、聖書の中で復活の視点が最も集中的に現れる箇所です。ここで使徒パウロは、キリストは死者の中から復活した、とか、もしキリストが復活しなかったならば、とか、キリストの復活について6回繰り返して言います。そこで注意を引くのは、ギリシャ語原文ではどれも動詞の現在完了形(εγηγερται)を用いていることです。こんなことを言うと学校の英語の授業みたいで嫌がれるかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了形は英語と結構違うので英語のことは忘れて大丈夫です。パウロはイエス様の復活を繰り返して言う時、過去形(もちろんηγερθη、アオリストのことです)を使わないで現在完了形を使うのです。ここが理解の鍵になります。今日この個所について説教する人は原文を読んで気づくでしょう。原文を読まない人は参考書を見て気づくでしょう。気づいたら、どういうことか考えなければなりません(参考書の人は答えがあるので、それを引用するだけですみます)。

 ギリシャ語の現在完了形は、過去に何か出来事が起きて、その状態が現在も続いているという意味です。過去に起きた出来事が過去に埋もれてしまわないで現在も効力を持って表面に現れているような感じです。パウロがイエス様の復活をこのように現在も続いているように言ったのには二つのことが考えられます。一つは、イエス様が復活されて今も生きておられることを意識したことです。使徒言行録にあるように、復活されたイエス様は40日間弟子たちと共に歩んだ後で天の父なるみ神のもとに上げられました。そして今は、キリスト教会の伝統的な信仰告白で唱えられるように、父なるみ神の右に座して再臨の日まで信仰者を天から守り導き、その日が来たら再臨して眠りについている信仰者を目覚めさせて神の国に迎え入れます。パウロがイエス様の復活を現在も続いているように言い表したのは、このようにイエス様が今生きて治められていることを意識したことが考えられます。

 もう一つのことが考えられます。これは私たちが復活の視点を持てるかどうかに関わる大事なことです。それは、イエス様の復活というのは彼個人の出来事にとどまらず、キリスト信仰に生きる私たちみんなの将来の復活を確実にした出来事であるということをパウロは言い表しているのです。イエス様の復活は過去の出来事として過去に埋もれてしまうものではなく、今を生きる私たちをも復活に向かって押し出していく、まさに今も表にあって私たちを引っ張る力であるということです。

 そのことがわかるためにパウロが17節で、キリストの復活がなければ私たちは罪の中にとどまってしまうと言っていることに注目します。キリスト信仰者はイエス様のおかげで罪の赦しを頂いた者です。赦しを頂いた後は自分の内に残る罪を自覚して、自覚と告白の度にゴルゴタの十字架のもとに立ち返って神から赦しがあることを確認して頂き、また前に進む、これを繰り返しながら残る罪を圧し潰していきます。もうそれをしなくても済むようになるのが復活です。その日もう自分には圧し潰す罪はありません。神の栄光に輝く復活の体を纏う者に罪などないからです。だから、復活を信じる者の内には罪が残っても罪にはその人が復活に向かう足取りを妨げる力はありません。それで復活を信じる人は内に罪が残っていても罪の中には留っていないのです。

 ところが復活を信じない人は様子が違います。その人は罪のない復活の体を目指すことはありません。復活を信じないのですから。そうすると、罪の自覚があっても罪を圧し潰すプロセスが起きません。復活の体を目指さないのですから。それでパウロは復活を信じない人は罪の中に留まると言うのです。罪を圧し潰すプロセスが起きないというのは、罪の赦しの確認が得られず前に進めないということです。そうなると、イエス様の十字架から罪の赦しを得られないことになってしまいます。これは恐るべきことです。十字架を持つキリスト信仰者が復活を信じないばかりに十字架から罪の赦しを得られなくなってしまうのです。この状態は、十字架を持たない非キリスト信仰者よりも悪いと言わざるを得ません。パウロが19節で言うこと、復活を信じない人はキリストに希望を置くと言ってもそれはこの世に関係することに限られてしまい、その人は全ての人間の中で最も惨めだと言うのは誠にその通りです。

 最後に20節をみます。キリストは復活して眠りについている人たちの「初穂」になったと言われます。「初穂」とは面白い訳です。日本の宗教的な伝統では最初に実った稲の穂を神仏に捧げます。それが初穂と呼ばれます。ギリシャ語の単語απαρχηはそういう神への捧げものの意味もありますが、穀物だけではありません。動物もあります。それで「初穂」という訳は狭すぎます。ところで、イエス様は十字架の上で私たちのために私たちの罪を償って私たちを罪から贖い出すための犠牲となって神に捧げらました。まさに神への捧げものです。しかし、捧げものを意味する「初穂」という言葉を用いると、それと眠りについた人たちがどう関係するのかがはっきりしません。

 そこで、ギリシャ語の単語には「最初の者」という意味もあることに注目します。それでいくと、イエス様は死んで眠りについて復活させられた最初の者、復活の先駆者ということになります。罪の赦しを携えて眠りについた者たちは彼に続く者になります。まさに初穂に続く穂になります。それで「初穂」を捧げものでなく先駆者の意味で捉えると復活を詩のように描写することが出来ます。皆さん、麦畑でも田んぼでもいいから思い浮かべて下さい。(今は冬ですが)秋の澄み渡った空の下、一番最初に穂になったのがイエス様です。後に続いて一斉に黄金色になるのが私たちです。真にイエス様は私たちにとって「初穂」です。兄弟姉妹の皆さん、復活の視点と言われてピンと来なくなったら、この秋の田園風景を思い描いて下さい。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

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