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降誕祭前夜礼拝説教 2025年12月24日
スオミ・キリスト教会
ルカ2章1-20節
説教題 「天には栄光、神に
地には平和、御心に適う人に」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
1.はじめに
今朗読されたルカ福音書の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音」(jouluevankeliumi)とも呼ばれますが、国を問わず世界中の教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読されます。
「クリスマス福音」に記されている出来事は多くの人に何かロマンチックでおとぎ話のような印象を与えるのではないかと思います。星の輝く夜空に羊飼いたちが羊の群れと一緒に野原で野宿をしている。そこに突然、輝く天使が現われて救い主の誕生を告げる。すると、大勢の天使が現れて一斉に神を賛美する。賛美し終えた天使たちは天に帰り、あたりはまた闇に覆われる。羊飼いたちは生まれたばかりの救い主に会いに行こうとベツレヘムに急行する。そして、馬小屋の中で布に包まれて飼い葉桶に寝かせられている赤ちゃんのイエス様を見つける。
これを読んだり聞いたりする人は、闇を光に変える天使の輝きと救い主誕生の告げ知らせ、飼い葉桶の中で静かに眠る赤ちゃん、それを幸せそうに見つめるマリアとヨセフと動物たち、ああ、なんとロマンチックな話だろう、本当に「聖夜」にふさわしい物語だなぁ、とみんなしみじみしてしまうでしょう。
2.聖夜の真相
でも、本当にそうでしょうか?皆さんは馬小屋や家畜小屋がどんな所かご存知ですか?私は、パイヴィの実家が酪農をやっていたので、よく牛舎を覗きに行きました。それはとても臭いところです。牛はトイレに行って用足しなどしないので全て足元に垂れ流しです。馬やロバも同じでしょう。藁や飼い葉桶だって、馬の涎がついていたに違いありません。なにがロマンチックな「聖夜」なことか。天地創造の神のひとり子で神の栄光に輝いていた方、そして全ての人間の救い主になる方は、こういう不潔で不衛生きわまりない惨めな環境の中で人間としてお生まれになったのでした。
問題は劣悪な環境だけではありません。クリスマス福音に書いてあることをよく注意して読めば、マリアとヨセフがベツレヘムに旅したことも、また誕生したばかりのイエス様が馬小屋の飼い葉桶に寝かせられたのも、全ては当時の政治状況のなせる業だったことがわかります。普通の人の上に権力を行使する者がいて、人々の人生や運命を牛耳って弄んだことに翻弄されたことだったのです。そのことを「クリスマス福音」は明らかにしています。
ヨセフとマリアはなぜイエス様を自分たちが住むナザレの町で出産させないで、わざわざ150キロ離れたベツレヘムまで旅しなければならなかったのでしょうか?それは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが支配下にある地域の住民に、出身地で登録せよと勅令を出したからです。これは納税者登録で、税金を漏れることなく取り立てるための施策でした。その当時、ヨセフとマリアが属するユダヤ民族はローマ帝国の占領下にあり、王様はいましたがローマに服従する属国でした。ヨセフはかつてのダビデ王の家系の末裔です。ダビデの家系はもともとはベツレヘム出身なので、それでそこに旅立ったのでした。東京から軽井沢までの距離を徒歩で行く旅です。出産間近なマリアはロバに乗ったでしょうが、それでも無茶な旅です。町と町の間は荒野が拡がり、もちろんコンビニなんかありません。場所によっては強盗も出没します。しかし、占領国の命令には従わなければなりません。当時の地中海世界は人の移動が盛んな、今で言うグローバル世界だったので故郷を離れて仕事や生活をしていた人たちは多かったでしょう。皇帝のお触れが出たので大勢の人たちが慌てて旅立ったことは想像に難くありません。
やっとベツレヘムに到着したマリアとヨセフでしたが、そこで彼らを待っていたのはさらなる不運でした。宿屋が一杯で寝る場所がなかったのです。町には登録のために来た旅行者が大勢いたのでしょう。そうこうしているうちにマリアの陣痛が始まってしまいました。どこで赤ちゃんを出産させたらよいのか?ヨセフが宿屋の主人に必死にお願いする姿が目に浮かびます。気の毒に思った主人は、馬小屋なら空いているよ、一応屋根があるから星の下よりはましだろうと言ってくれました。さて、生まれた赤ちゃんはすぐ布に包まれました。飼い葉桶にそのまま寝かせると硬くて痛いから、馬の餌の干し草をクッション代わりに敷きました。これがイエス様がベツレヘムの馬小屋で生まれた聖夜の真相です。
3.究極の権力者が共に歩んで下さる
しかしながら、聖書をもっと読み込める人はこれよりももっと深い真相に達することが出来きます。どんな真相でしょうか?それは、普通の人の上に権力を行使する者たちがいても、実はそのまた上にそれらの者に権力を行使する方がおられるという真相です。上の上におられる方が下にいる権力者の運命を手中に収めているという真相です。この究極の権力者とは、まさに天地創造の神、天の父なるみ神のことです。なぜなら、神は既に何百年も前に旧約聖書の中で、救い主がベツレヘムで誕生することも、それがダビデ家系に属する者であることも、処女から生まれることも全て前もって約束していたのです。それで神は、ローマ帝国がユダヤ民族を支配していた時代を見て、いよいよ約束を実現する条件が出そろったと見なしてひとり子を贈られたのでした。あるいはこうかもしれません、神はその当時存在していたいろんな要素をうまく組み合わせて、約束実現の条件を自分で整えたのかもしれません。神は条件が整ったのを見いだしたのか、それとも自分でそれを整えたのか、どっちにしても、この世の権力行使者たちが我こそはこの世の主人なり、お前たちの人生や運命を弄んでやると得意がっていた時に、実は彼らの上におられる神が彼らをご自身の目的達成の道具か駒にしていたのです。
人間的な目で見たら、マリアとヨセフは上に立つ権力者に翻弄させられたかのように見えます。しかしながら、彼らはただ単に神の計画の中で動いていただけなのです。翻弄させられるということは全然なかったのです。なぜなら、神の計画の中で動けるというのは、神の守りと導きを受ける確実な方法だからです。それなので、イエス様誕生にまつわる惨めさは、神の目から見たら惨めでもなんでもなく、神の祝福を豊かに受けたものだったのです。そのようにして二人には究極の権力者である天地創造の神がついておられ、その神に一緒に歩んでもらえる者として、彼らはこの世の権力者たちの上に立つ立場にあったのです。彼らの心の在りようを聖書の御言葉で言い表すとすれば、詩篇23篇4節が相応しいでしょう。「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れず、汝、我とともにませばなり。」神とは信じたら人生を順風満帆、商売繁盛、無病息災にしてくれるものだ、と考える人は聖書の神の真実を知ったら信じたいと思わなくなるでしょう。聖書は、神を信じても死の陰の谷を進まなければならないような苦難や困難に遭遇するとはっきり教えます。しかし、それと同時に紙一重でもっと肝心なことも教えます。それは、苦難や困難の谷を究極の権力者である神が私たちの傍にいて一緒に歩んで下さるということです。苦難と困難の中で恐れと不安はある、しかし、自分の命と運命はこの世の権力者ではなく、それを超えた究極の権力者である神の手中にある、救い主を与えて下さった神であれば自分の命と人生が彼の手中にあるのは正しい場所なのだ、そういう恐れと不安を超える安心が紙一重にあるのです。マリアとヨセフはそのような心を持ってベツレヘムに旅立ったのでしょう。
実は私たちも、マリアとヨセフと同じ心を持つことが出来ます。それは、マリアから人間としてお生まれになったイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで持つことが出来ます。どうしてイエス様が救い主なのかと言うと、それは彼が十字架の死を受けることで私たち人間の罪を全部神に対して償って下さったからです。それに加えて、イエス様は死から復活されたことで死を滅ぼして永遠の命への道を私たちに切り開いて下さったからです。このイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、人間は神との結びつきを回復しでき、神との結びつきを持ってこの世を歩むことができるようになります。この結びつきは人生の順境の時も逆境の時も変わらずにあり、この世から別れる時にもあり、そして復活の日が来たら目覚めさせられて、神のもとに永遠に迎え入れられるのです。この神との永遠の結びつきのゆえに、キリスト信仰者はクリスマスの時に飼い葉おけに寝かせられた赤ちゃんのイエス様を心の目で見る時、透かして見るように将来の十字架と復活にも思いを馳せるのです。それで信仰者はイエス様の誕生を自分事のように喜び、神に感謝するのです。
4.天使の賛美の意味
説教の終わりに、大勢の天使たちが歌った賛美を少し見てみます。
「天には栄光、神に
この賛美は少し難しいです。原文のギリシャ語を見ると、詩の形で動詞がありません。なので、天には栄光が神にある、と事実を述べているのか、それとも、栄光が神にありますように、と願望を述べているのかはっきりしません。続く言葉も、地には平和が御心に適う人にある、と事実を述べているのか、平和が御心に適う人にありますように、と願望なのかはっきりしません。そして一つ気になるのは、平和とは何かということです。神の御心に適う人、つまり神が贈られた救い主を受け入れた人は戦争に巻き込まれないで済むようになるのか、それとも彼らがそれらに巻き込まれませんようにと願望を述べているのか?
ここで言う平和とは、戦争がない状態が全てではありません。キリスト信仰で平和と言ったら、一番目に来るのは神と平和な関係にあるということです。神との平和な関係は、イエス様が人間の罪を人間に代わって神に対して償って下さったことで確立しました。神と結びつきを持って生きるということが神との平和な関係にあるということです。神との平和な関係にある人が今度は、誰のおかげで神が人生の歩みのお伴になったかわかった以上は、もう誰に対しても高ぶることができなくなり、ただただへりくだった者として他者と平和な関係を築こうとする、そのことが新約聖書の使徒たちの手紙で沢山教えられます。(特にパウロの「ローマの信徒への手紙」12章にはっきり出ています。)
さて、天使たちの賛美の歌の意味ですが、この言葉だけで考えるのではなく、賛美の前に一人の天使が知らせた「救い主の誕生」と結びつけて見れば意味がわかってきます。イエス様が救い主なのは、神と人間の間に平和をもたらし、人間が神と何があっても揺らぐことのない結びつきを持って人生を歩めるようにして下さり、この世を去る時も結びつきの中で去ることができ、復活の日に神に目覚めさせてもらえる、こうしたことを可能にしたのがイエス様です。それで彼は救い主なのです。そのような救い主が生まれたことと結びつけて天使の賛美をみるとこうなります。
「救い主がお生まれになりました。なので、天の上では栄光が神に一層増し加えられますように。
救い主がお生まれになりました。なので今こそ、地上では御心に適う人たちに平和が与えられますように。」
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
主日礼拝説教 2025年12月28日(降誕節第一主日)
イザヤ63章7-9節
ヘブライ2章10-18節
マタイ2章13-23節
説教題 「全知全能の神 vs. この世の悪」
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の中で難しいことは、ベツレヘムの幼児虐殺の事件です。一人の赤子の命を救うために大勢の子供が犠牲になったことに納得しがたいものを多くの人は感じるのではないでしょうか?その赤子は将来救世主になる人だから多少の犠牲はやむを得ない、などと言ったら、それは身勝手な論理でなはないか、救世主になる人だったら逆に自分が犠牲になって大勢の子供たちが助かるようにするのが本当ではないか、という反論が起こるでしょう。ここでひとつはっきりさせておかなければならないことがあります。それは、幼児虐殺の責任はあくまでヘロデ王にあって神ではないということです。神はイエス様をヘロデ王の手から守るために天使を遣わして、まず東方の学者たちがヘロデに報告しに行かないようにしました。それから、イエス様親子をエジプトに避難させました。ヘロデは学者たちが戻ってこないので、さては赤子を守るためだったなと悟って、ベツレヘム一帯の幼児虐殺の暴挙にでたのでした。天使がヨセフに警告したことは「ヘロデがイエスを殺すために捜索にくる」でした。それなのに、ヘロデは捜索どころか大量無差別殺人の暴挙にでたのでした。神の予想を超える暴挙でした。
そう言うと今度は、神の予想を超えるとは何事か!神は創造主で全知全能と言っているのにヘロデの暴挙も予想できないというのは情けないではないか?大勢の幼子を犠牲にしないで済むようなひとり子の救出方法は考えつかなかったのか?そういう反論がでるかもしれません。この種の反論はどんどんエスカレートしていきます。神はなぜヘロデ王のみならず歴史上の多くの暴君や独裁者の登場を許してきたのか?なぜ戦争や災害や疫病が起こるのを許してきたのか?そもそも、なぜ人間が不幸に陥ることを許してきたのか?もし神が本当に全知全能で力ある方であれば、人間には何も不幸も苦しみもなく、ウクライナやガザの戦争も東日本大震災をはじめとする自然災害もなかったはずではないか?人間はただただ至福の状態にいることができるはずではないか等々の反論がでてくるでしょう。
そういうわけで、本説教では、神は本当に悪に対して力がないのか?もしあるのなら、どうして悪はなくならないのか?そうしたことを本日の日課をもとに考えていきたいと思います。
2.全知全能の神とこの世の悪 ― キリスト信仰の観点
もし神が本当に悪に対して力ある方ならば、人間は悪から守られて不幸も苦しみもなく、至福の状態にいることができるではないか、そうではないのは神に力がないか、あるいは神など存在しないからではないか?この種の問題についてキリスト信仰者はどう考えているか以下に見ていこうと思います。
聖書によれば、天地創造当初の最初の人間はまさに至福の中にいました。そして、それは創造主の神の御心に適うものでした。ところが、神の意図に反して人間は自分の仕業でこの至福を失うことになってしまいました。何が起きたのかは創世記の1章から3章まで詳しく記されています。「これを食べたら神のようになれる」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間は禁じられていた知識の実を食べ、善いことと悪いことがわかるようになってしまいます。つまり善いことだけでなく悪いこともできるようになってしまいました。そして、その実を食べた結果、神が前もって警告したように人間は死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」のなかで明らかにしているように、最初の人間が神に不従順になったことがきっかけで神の意志に反する罪が人間に入り込み、人間は神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまったのです。これが聖書の人間観です。しかし、これには続きがあります。聖書の人間観の続きについては後で出てきます。いずれにしても、人間は別に神のようになる必要はなく、神のもとで神の守りの中で生きていればよかったのに、神のようになりたいと考えたことが元々の間違いだったのです。
ところで、何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのかと煙たがれます。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた、全ての人に当てはまる根本的なものを指します。神の意志に反しようとする性向です。神の意志は十戒に凝縮されています。殺すな、姦淫するな、盗むな、嘘をつくな、妬むな等々、実際にそうしてしまうだけでなく心で思い描くことも罪を持っていることを示しています。もちろんこの世には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく罪を持っていることの現れなのです。
このように人間は神の意図に反して自ら滅びの道に入ってしまいました。そこで神はどう思ったでしょうか?自分で蒔いた種だ、自分で刈り取るがよいと冷たく突き放したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。失われてしまった結びつきを人間が取り戻せるために神は計画を、人間救済の計画を立てました。人間の歴史はこの計画に結びつけられて進むことになりました。神の人間救済の計画は旧約聖書の預言を通して少しずつ明らかにされていき、最後にはイエス様の十字架の死と死からの復活をもって実現しました。そのことを明らかにするのが新約聖書です。
それでは、神と人間の結びつきはどのようにして回復したでしょうか?人間は罪の呪いのために永遠の死の滅びに定められてしまいました。その呪いから人間を救うために神のひとり子のイエス様が人間の罪を全部自分で請け負って私たちの代わりに十字架にかけられて神罰を受けて死なれました。神のひとり子の犠牲の死が人間にとてつもなく大きな意味を持っていることが、本日の使徒書の日課ヘブライ2章でも言われています。神聖な神のひとり子が人間と同じように血と肉を備えた者になったのは、人間を死の滅びに陥れる悪魔の力を無力にするためであったと言われています。それを実現するためには、神のひとり子が犠牲になって死ななければならない。神のひとり子が死ねるためには、神の姿形では無理なので人間の姿形を取らなければならない。こうして人間が罪の呪いのゆえに陥る運命であった死の滅びをイエス様が代わりに受けて下ったことで人間が陥らないですむ状況が生み出されたのです。
それでは人間は罪と死の滅びから解放された後はどうなるのか?それは、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになることです。この世から別れる時も神との結びつきを持って別れられ、将来復活の日が来たら、神との結びつきを持つ者として目覚めさせられることです。まさに神との永遠の結びつきを持つ者に解放させられるのです。
もしイエス様が人間の形をとらず神のままでいたら、神罰を受けたとしても、それは見かけ上のことで痛くも痒くもなかったでしょう。人間として受けたので本物の罰受けになって人間の罪を償うことが出来たのです。このような仕方で人間を罪と死に追いやる悪魔の力は無にされたのです。それで、ヘブライ2章17節で言われる通り、イエス様はおよそ神と人間の関係に関する全てのことにおいて人間に対して憐れみ深い誠実な大祭司となられ民の罪を償う方となられたのです。続いて18節で言われます。イエス様は神のひとり子でありながら人間として試練を受けて苦しんだ、それで試練を受けている人たちを助けることが出来るのだと。痛くも痒くもなかったら試練を受けることがどんなことかわからず、何をどう助けてよいかわからないでしょう。イエス様は神のひとり子でありながら、それがわかるのです。
イエス様の十字架の死が起きたことで、人間が死の滅びに陥らない状況が生み出されました。そして、もう一つ大事なことが起きました。父なるみ神は想像を絶する力でイエス様を死から3日後に復活させたのです。これにより死を超えた永遠の命が存在することがこの世に示され、そこに至る道が人間に切り開かれました。解放された人間が行く行き先が確立したのです。悪魔は人間を死に陥れる力を無力にされただけでなく、行き先も奪われてしまったのです。まさに二重の打撃を被ったのです。
神はこのようにして人間に救いを整えて下さいました。今度は人間のほうが、神が整えた死の滅びに至らない状況、復活と永遠の命に導かれる状況、その状況に入り込まなければなりません。そうしないと、神がイエス様を用いて整えた救いは人間の外側によそよそしくあるだけです。では、どうしたら整えられた状況の中に入れるのか?それは、「2000年前に神がイエス様を用いてなさったことは、実は今を生きる自分のためでもあった」とわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。洗礼を受けるとイエス様が果たした罪の償いを純白な衣のように被せられます。そうすると、もう呪いは近寄れません。罪の償いを纏っているので、神からは罪を赦された者として見てもらえます。罪を赦されたのだから、神との結びつきが回復しています。もちろん自分の内には罪が残存しているが、被せてもらった償いがどれだけ高価で貴重なものであるかがわかれば、もう軽々しいことは出来なくなります。なにしろ、神のひとり子が十字架で流した血が神との結びつきを回復させる代償になっているからです。あとは、この高価な衣をしっかり纏って、その神聖な重みで内にある罪を圧し潰していくだけです。かの日に神の御前に立たされる時、しっかり纏っていたことを認めてもらえます。そして今度は神の栄光に輝く復活の体を着せてもらえます。
このようにキリスト信仰者は復活の日の永遠の命に向かう道に置かれてそれを進んでいきます。神との結びつきがあるので順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと導きを得られます。順境と逆境の両方ということは、平穏と無事だけでなく苦難や困難もあります。しかし、それは詩篇23篇でも言われています。「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れじ、汝、我と共にませばなり、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」と。イエス様を救い主と信じていても「死の陰の谷」進まなくてはならない時があるのです。しかし、聖書の御言葉の繙きを通して聖餐を通して祈りを通してイエス様はいつも私たちと共におられるので災いを恐れる必要はないのです。イエス様の衣を纏って進む限り、復活と永遠の命に向かっていることには何の変更もないのです。
以上申し上げたことから見えてくるのは、世界に悪と不幸がはびこるのは神が力不足だからという見解は、キリスト信仰の観点ではズレた見解ということです。キリスト信仰の観点では、悪と不幸がはびこる世界に対して神が人間の救済計画を立ててそれを実現した、そして人間一人一人がこの救いに与れるようにと手を差し伸べているという見解になります。これはこの世の観点からはズレた見解です。しかし、それでいいと言うのがキリスト信仰です。キリスト信仰の観点で見れるようになれば、神が何々をしてくれなかったとか、何々ができなかったということで悩むことはなくなります。神がこの私にこんなに大きな救いを整えて下さったということの方に目が向いて、自分が復活の永遠の命に向かう道に置かれていることに気づきます。悩むよりその道を歩むようになります。
3.勧めと励まし
終わりに、キリスト信仰にあっては、不正義がなんの償いもなしにそのまま見過ごされることはありえない、正義は必ず実現される、ということを強調したく思います。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、今のこの世が終わって新しい世が到来する時に必ず償いがなされというのが聖書の立場です。黙示録20章4節を見ると「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした者たちが最初に復活することが述べられています。続いて12節には、その次に復活させられる者たちについて述べられています。彼らの場合は、神の書物に記された旧い世での行いに基づいて、神の御国に入れるか炎の海に落とされるかの審判を受けることになっています。特に「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海となっています(15節)。天地創造の神が御心をもって造られたものに酷い仕打ちをする者の運命、また神が御心をもって整えたものを受け取った人たちに酷い仕打ちをする者の運命は火を見るよりも明らかでしょう。
人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを意味します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。この世で多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならない現実があります。それなのに来世で全てが償われるなんて言ったら、来世まかせになってしまい、この世での解決努力がおざなりになってしまうと批判する人もいます。しかし、キリスト信仰はこの世での正義は諦めよとは言いません。神は、人間が神の意思に従うようにと十戒を与え、神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛せよと命じておられます。このことを忘れてはなりません。それなので、たとえ解決が結果的に新しい世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる間は神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければなりません。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決に至らない場合もある。しかし、解決努力をした事実を神はちゃんと把握していて下さる。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さいます。神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は何百倍にして埋め合わせて下さいます。それゆえ、およそ人がこの世で行うことで、神の意思に沿うように行うものならば、どんな小さなことでも目標達成に遠くても、無意味だったというものは神の目から見て何ひとつないのです。神がそういう目で私たちのことを見ていて下さっていることを忘れないようにしましょう。
最後に、キリスト信仰は罪の赦しを専売特許のように言うくせに、炎の地獄とか最後の審判とか言うのはどういうことか?やっぱり赦しはないということなのか?それについてひと言。もちろん、キリスト信仰は先ほども申しましたように罪の赦しを土台としそれを目指す信仰です。しかし、取り違えをしてはいけません。キリスト信仰の罪の赦しとはまず、この私にかわって命を捨ててまで神に対して罪の償いをしてくれたイエス様にひれ伏すことと表裏一体になっています。これと併せて、神に背を向けて生きていたことを認めて、これからは神のもとへ立ち返る生き方をするという方向転換とも表裏一体になっています。それなので、方向転換もなし、イエス様にひれ伏すこともなしというところには本当の赦しはありません。これを逆に言うと、どんな極悪非道の悪人でも神への立ち返りをすれば、神は赦して受け入れて下さいます。たとえ世間が赦せないと言っても、神はそうして下さるのです。
マタイ1章1〜25節
「神はご自分の民を罪から救うために」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1、はじめに
今日の福音書から語られている神の真理のみ言葉は、私たちの救い主イエス・キリストの誕生が、人の思いや知恵、あるいは人の計画や努力によるものではなく、どこまでも神ご自身が、遥か昔から約束された人類の救いの約束を、その約束の通りに実現してくださった、という素晴らしいメッセージを伝えています。
2、神の計画:罪人を用いて
A,罪人マリヤを通して
しかしその世界を救う救い主の誕生、実に不思議ではありませんか。それはここにある通り「聖霊による」と言う不思議もあるのですが、さらにヨハネの福音書1章に「人の間に」とある通り、神はその救いを、人を用い、人の間に、しかも人として生まれるという方法で、救い主を世に与えると言う不思議です。それらは私たち人間の想像や思いをはるかに超えることでしょう。キリスト教の間でさえも、人間中心で理性信仰の神学者や牧師たちは、これは事実ではなく、神話であるのだと言ったりもします。しかしこの救い主の誕生という神のみわざとその救いの約束の成就は、まさに人間には計り知れないことの実現であるということが今日のマタイ一章にははっきり現れているのです。そしてその人の間に、人を用いてお生まれになると言うことには、もう一つ大事な事実があるのです。それは「人の間に」という時のその「人」、それは「一人の罪人」であるマリヤの胎に身籠り、そこで貧しい姿で弱々しい人間の肉体を持った赤子として生まれるということです。世の救い主イエス様は、人間が神というとすぐ思い浮かべるような目にも神々しい神の姿で来られたのではありません。あるいは、目に見えない幽霊のような姿であるのでもなければ、あるいは、見るからに神の力に溢れたような力強い姿で来たのでもありませんでした。そうではなく、一人の罪人の胎に宿り、もちろん聖書にある通り、罪はない方ですが(ヘブル4章15節)、それ以外は私たちと同じ弱さを持った人間の肉体をとり、赤ちゃんで、痛みと苦しみを通して、しかも貧しい中にお生まれになられたのです。これは人の思いや理性では信じられないことです。思いもしないし、計り知れないし、説明しつくせないことです。人間の限られたちっぽけで狭い知識の範囲では当てはまらないことです。受け入れ難いことです。確かに教会でさえも、有名な神学者でさえも、これは神話だと言いたくもなるでしょう。しかし、聖書の伝える救い主は、人間の小さな知識の枠に当てはまり理解できるような小さな神では決してない。この人間には計り知れない出来事にこそ神からわたしたちへのクリスマスの福音のメッセージがあるのです。
B, 約束の系図
そのことはこの前の箇所も含めて、このマタイ1章全体に現れています。マタイはこの福音書の書き出しの1節、イエスのことをまさに伝え始めるその言葉を、18節にある言葉で語り出していないでしょう。とっても大事な箇所なので私は触れずにはいられないので、以前と繰り返しになってしまいますが、マタイはまず最初に、人の目には単調で、つまらない、何の意味があるのかと思うかもしれないこの系図から語り出しています。その事実、その系図は私たちに何を伝えていますか?それはまず第一に約束された救い主、真の神であるお方が、人の家系に、つまりまさしく「人の間」にお生まれになるという証に他なりません。そして系図が伝えるもっと大事なことがあります。ルカの福音書にもある系図を見るとそちらでは最初の人アダムにまで遡って書かれているのですが、何を意味して何を伝えているでしょうか。それは、まさにこの「救い主の誕生」が、創世記3章でアダムとエバの堕落の時すでに語っていた「最初の福音の約束」とも言われるあの約束につながっていると言うことです。創世記3章15節、こうありました。
「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。
そうです。イエス・キリストの誕生の系図は、まさに神が、人間が堕落したその時、すぐに約束されたこの「最初の救いの約束」にまでしっかり繋がっており、その約束の成就だと言うことを示しているでしょう。ですからイエス・キリストの誕生、クリスマスは2000年のローマの時代のパレスチナにいきなり起こった出来事では決してないのです。それは天地万物の創造者である真の神である方が、堕落した人類を決して見捨てず、その救いの約束も反故にしたり忘れたりせず、その「最初の救いの約束」の通り、その計画の通り、女の子孫として、ご自身が罪深い人間の体を通して人となられ人と人との間に宿られた、来られた、お生まれになられたその驚くべき出来事なのです。これは実に不思議なことです。繰り返しますが、本当に、人の思いでは計り知れない、理解できない。まさに理性でも常識でも「信じられない」ことです。実に人間の小さな知識の枠にははまらないことです。しかし、神はこの聖書を通し、使徒であるマタイとヨハネ、福音書記者でありパウロと一緒に宣教をしたルカを用いて、これがあなた方一人一人に約束した、救い主イエス様の誕生なのだ、約束の実現なのだと、今日も、このクリスマスにも、まず私たちにはっきりと伝えているのです。
C, それは罪人の系図でもある
さらにこの系図を見れば、実に、大いなる不思議と恵みがあります。これも繰り返しになりますがとても大事な事実です。その系図は「神の系図」ではありません。「聖人君子の系図」「完全な人間の系図」でもありません。そう、それはまさしく「罪人の系図」であるということがわかるでしょう。確かに偉大な信仰者とも呼ばれるアブラハムやダビデの名前があり、マリヤもヨセフもアブラハム、ダビデの家系であることはわかります。しかし、旧約聖書は、ダビデが巨人ゴリアテを倒した武勇伝やいかにも敬虔な綺麗事だけを記録しているのではなく、ダビデが一度ならず何度も罪を犯したことも正直に記録しています。マタイの記した系図を見ると、1章6節「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。つまりまさしく、読む人であれば誰でもわかる、あのダビデの犯した重大な罪と彼の悔い改めの出来事さえも隠さず記しています。信仰の父アブラハムでさえもそうでしょう。彼は100%完全で、罪も穢れもない、信仰も完璧な人間としては決して描かれていません。創世記を読んでください。彼は何度も弱さに葛藤し、失敗し、それでも彼が信仰の父と呼ばれるのはなぜですか?それは、彼が完全であったからではなく、神の約束とわざが完全であったからです。むしろアブラハムはどこへ行くのかわからなかった。彼にとっては自ら説明することも理解することもできなかったスタートであり歩みでした。しかし、彼ではなく神がその完全な真実な約束のゆえに、アブラハムを絶えず教え、戒め、日々悔い改めに導きながら、支え助け励まし導いた、そしてその主とその真実な言葉に絶えず立ち返り、計り知れない神とその言葉に信頼した、そんな信仰に歩んだ生涯であったからに他なりません。その孫のヤコブしかりです。彼の罪深さや欠点は溢れているでしょう。それだけではない、この系図にあるダビデの子孫のソロモンに始まる王達の歴史を見るなら、まさに罪人の歴史であり系図ではありませんか。神はその罪人の系図を知らなかったのでしょうか?そうではありません。分かっていてあえてその系図を私たちに示しています。聖書が「人の間に」と言われるとき、それは、「神の間」でもない。「神のような完全な人々の間でも、聖人君子の間」でもない、「罪人の間」にこそ救い主イエス様は宿られる。お生まれになるのです。そして、その罪人を用いてこそ神は救い主の誕生という素晴らしことをなされる、実現される、ということを私たちに示しておられるのです。以前も引用し紹介しました。ルター派のLuthran Study Bibleのこの箇所にはこうディボーションの勧めがあります。
「イエス・キリストの系図で、マタイは、罪人や恥ずべきことを隠そうとしていません。実際にマタイはそれらを目立たせています。イエスが生まれる家計には、売春婦、姦淫の罪を犯すもの、暴力的な人、そしてその他、説明できる他の罪を犯した人々をも含んでいます。このことは私たちを驚かせるかもしれませんが、事実、キリストの系図を構成しているのは、罪人に他ならなかったということです。イエスの先祖達は、私たちが救い主を必要とするのと同じくらい、救い主を必要としていたのです。もし神が、主の恵みにおいて、そのような欠点のある罪深い人々を用いることができるなら、今、救い主の罪のない生贄を証し、その主を信じている罪人を、主はどれだけ沢山、用いることができるでしょうか!主イエス・キリストよ、あなたが救うためにこられた人の間に、一人の罪人である私を加えてくださったことを感謝します。」(p1578、 Lutheran Study Bible(ESV), Concordia Publishing House, 2009)
イエス・キリストの誕生。それは人間の側の計画や思いによるのではありません。まさに神は人類が、そしてご自身が選んだ民でさえも皆罪人であることを知った上で、その罪人を救うために、その罪人のために、つまり私たちのために、そしてなんと、その罪人の間、罪人を用いて、救いと罪の赦しを実現される。神はそのことこそを遥昔からご計画とされた、そしてその通りに神が100%なさった、その証しなのです。
3、神がなさった約束の成就
A,人の側には恐れと戸惑い
事実、今日の箇所18節以下は、そのことこそ現れています。まず、罪人である人間の側には何があるでしょうか?人間の側で何かそんな素晴らしいことをなせる何か要素、知恵や知識や、他の何らかの強さや力があるでしょうか?ヨセフにはまず恐れがありました。18節からこうあります。
「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
ヨセフは神の律法に従って生きることを望んでいた人でした。ですから、まだ夫婦としての関係を持っていない状況で子を宿したマリヤとの婚約関係を解消しようとするのです。しかも「内密に」です。なぜなら、律法(申命記22章23−24節)は、婚約した女性が、姦淫の罪を犯したなら、石打ちにされなければならないと教えるくらい社会においては恥ずべき重大な罪であったからでした。ヨセフはマリヤのためにも、静かに人知れず、婚約を解消し、マリヤを静かにさらせることで解決しようとしたのでした。
B, 人の決心がなるのではない、神の約束を神がなさる
しかしです。ヨセフのある意味、マリヤへの愛情とマリヤを守るための非常に心のこもった行動ではあるのですが、その彼の判断の通りに行われることは、逆に神の計画がならないことになり、ヨセフとマリヤの家族も存在しないことになります。神の計画の通りにならないでしょう。しかしです。そのようなヨセフの心配や恐れ、人間のそのような知恵を絞った、ある意味人間の愛ある解決が、神の計画にまさって、神の計画や約束を覆したり、邪魔したり、ならないようにしたりすることはできるでしょうか?人間理性中心の神学者たちは、人間の愛の力が神の計画や約束や言葉に勝るというかもしれません。しかし、人間の判断や決断が神の真実の約束に勝らない、神の約束を変更することは決してできないのです。まさに19節ではヨセフは「決めた」ともある固い決意にあるヨセフ、そのままでは、ヨセフとマリヤは夫婦にならず、イエスはナザレの大工の家の子としても育たなかったかもしれない、そんなヨセフの決心に、主は介入されるでしょう。20節
「 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 」
御使いがヨセフの夢の中で現れて言います。「恐れてはいけない」と。そのように神はご自身のみ言葉によって、語りかけによって約束を必ず実現されるのです。そしてこの「恐れないで」と言う言葉。ルカの福音書でも、御使いは、マリヤに「恐れなくても良い」と語りかけています。このように神がみ言葉を与え、語りかける理由がこの言葉にはあります。それは何よりも人々の恐れを取り除くためです。世の中は罪の世ですから、人には恐れや不安が絶えません。もちろんみ言葉には確かに罪を刺し通し悔い改めに導く律法の言葉もあります。しかし律法は決して最後の言葉ではありません。神と神の言葉、何よりそのイエス・キリストの約束は、その罪の世に不安と恐れで生き、罪に刺し通され悔いる私たちに、さらに重荷を負わせ恐れさせ心配させるためではないのです。何よりもこのように「恐れなくて良い」とどこまでも平安を与えてくださるために神は私たちに語りかけるのです。
C, 御使いは律法で導かない
そんな恐れるヨセフ、密かに婚約を解消しようとするするヨセフに、神は御使いを通して告げます。「その子は聖霊によるのだ」と。さらには具体的なことも約束しています。それは男の子だと。名前はイエスとつけなさい。皆さん、この箇所は伝えています。この「恐れないで」という言葉。あるいは聖書には命令で「恐れるな」と言う言葉も沢山あります。それは一見「命令」ですから、一歩間違うと律法と理解されます。つまり「恐るな」と神が言うのだから、それは私たちが自分の力で頑張って、恐れないようにしなければいけない。つまり「私たちが頑張って恐れないようにしよう」とか、まず私達人間の意志の力でその神に応えなければいけないかのように考えることはないでしょうか?それは「いつも喜んでいなさい」(第一テサロニケ5章16節)も同じです。それは命令だからと、律法と理解する人がいます。自分の力や意志の力で神のために、いつでも喜んでいなければいけないのだと。つまり律法なんだと。そのような教えは、救いや信仰、信仰生活は、神の恵みだけでは十分ではなく、数パーセントでも人間の意志の力の協力や努力が必要なんだ、決心と決意など意志の力が重要なんだと教えるような教会ではそう考えたり教えたりするかもしれません。しかしルーテル教会ではそれが聖書の教えであるとは教えません。なぜ「恐れるな」、または、「恐れなくて良い」と神様は私たちに言われるのでしょうか?それは、神様の、神様ご自身がこれから実現するという計画と約束がそこにあるがゆえなのです。ここでもそのことがわかります。「恐れなくていい」のは、それが人ではなく「聖霊による」ものであり、人ではなく「神が」聖霊によって、男の子をマリヤに産ませるのであり、名前も人が決めるのではなく、「神が」イエスと決めているからであり、そして何と幸いではありませんか。その子がなす救いの計画がはっきりと告げられているでしょう。「この子は自分の民を罪から救うからである」と。そう「恐るな」、あるいは、「恐れなくていい」のは、神が確かにその通りに必ず実現すると言う神ご自身の約束があるからこそ「恐れなくていい」なのです。恐れからの解放、平安、喜び、何であっても、神がそのように励ますのは、人間の側が自分の力や意志の力でそうしなければいけないという律法ではなく、イエス様の約束が100%真実であり、その通りに神ご自身が実現するから、心配しなくていい。恐れなくていい。喜んでいなさい。なのです。そのように「平安」というのは、私たちの努力や意志の力で頑張って得るものではなく、イエス様が、その約束によってもたらす平安だということなのです。イエス様自身がヨハネ14章で「わたしの与える平安」と言っているでしょう。ですから「恐れるな」も、「喜んでいなさい」も、そして何より「信じなさい」という信仰も、決して「人がなさなければならない」「律法」ではない。紛れもなくそれらは福音の言葉の力によって「神がなす」「福音」だということなのです。福音の確かな真実な約束があるからこそ、「恐るな」「心配しなくて良い」なのです。この平安や喜びは聖書は真実な言葉ではなく、信じられない理性には合わない説明できないから神話なんだ、と聖書の権威を信じない人や教会には、決して起こり得ません。それはまさにイエスが福音を通して与える信仰においてイエスだけが与えることができる真の平安の他なりません。聖書は真実であると信じればこそなのです。
D,御使いは確信を得させるためにどうするか?
そしてこのところ使徒マタイは実にその真実なみ言葉の誠実な真の宣教師ではありませんか。ここで彼は、この福音書を読む人達に、現代のリベラルな神学者たちが、理性中心に人間の常識で理解できるような合理的な解釈で聖書を空想話で塗り固めて説明しようとはしません。あるいは、現代流行りの説教で、流行って好まれるからと人間の知恵の巧みな方法論や説得力で確信させるとか、流行りの魅力的で面白い例話に溢れさせて説明しようと安易な方法には走らないでしょう。マタイははっきりと私たちに証しします。22節
「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
これは旧約聖書のイザヤ書7章14節の預言です。このように使徒マタイは、聖書を引用します。そしてその主が預言者を通して言われたことが実現するためであったと、まさに「聖書がこう言っている。聖書がこう約束してきた。聖書は指し示してきた。その聖書の約束がその通りに実現するのだ、主の約束は真実であるのだ」ということこそを指し示すでしょう。その言葉がその通り、その約束の通りに実現したのだとただイエスとその約束の言葉のみを指し示すのです。全ては神が約束した通り、聖書の通り、みことばの通りにその通りになったのだ。それが使徒的なクリスマスのメッセージなのです。
4 結び:神はご自分の民、私たちを罪から救うために
私たちはどこまでも罪人です。生まれながらに神を信じない神に背を向けて生まれ育ち、自らでは聖書の言葉もイエス・キリストも見出すことも信じることもできないものです。自らでは、神の戒めの第一の戒め、心をつくし、思いを尽くし、精神を尽くして神を愛することができない、そればかりではなく、隣人さえを愛することできない存在です。隣人を愛していると思っているようで実は、自分自身しか愛することができないことに気付かされる存在です。それは私自身が、聖書の律法に照らされる時に刺し通される自分自身の惨めな姿であり、救いようない罪人は私自身です。
しかし皆さん。神の計画はそんな罪人を滅ぼし見捨てることでもありませんでした。神はアダムの堕落の時から女の子孫が悪魔を滅ぼすと約束しておられましたが、その約束の通り、堕落した罪深い女の子孫の罪人の系図の先に、ヨセフとマリヤがいます。神はその二人の罪人の間に、約束の通りに女の子孫を与えてくださいました。その神の最初の約束の通りにその神の言葉は実現しました。その通りに罪人の間に生まれ、その救い主は罪人の間に育ち、罪はありませんでしたが罪人と一緒に食事をし友となります。そして何よりその罪とその結果である、私たちの苦しみ、悲しみ、絶望、そして何より死を背負って、つまり、それは私たちが負わなければならない全てのものを代わりにその身に負って、私たちのために十字架にかけられ死なれるでしょう。その十字架のために、つまり私たち一人一人のためにこの御子は生まれるのです。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方」とある通りに。その身代わりの十字架のゆえに、私たちの罪が赦されるため、そして罪赦され、義と認められ、私たちの義ではなくイエス様の義を受けて、そして、復活の新しいいのちによって、今日も私たちが新しくされ平安のうちにここから出ていくことができるためです。
以前ある信徒が相談しました。自分が弱っている時にある教会の先輩から「あなたは信仰者なんだから、もっと一生懸命、心配しないで、熱心に信じないと天国に行けないよ」と言われた。と、だから自分は天国に行けないのかと不安になっている、そう言うのです。私はそれを聞いて切なくなりました。皆さん。そういう考えや励ましは間違いであり聖書の伝える福音を律法に混同し聖書の教えを歪めてしまっています。盲人が盲人の手引きをしてしまっています。皆さんは心配しないでください。皆さんは確実に天国に行けます。なぜなら、私たちの何かではありません。神の約束、神のみ言葉によって恵みとして信仰が与えられ、人の名前ではなくキリストの名で洗礼を授けられ、その私たちを新しく生まれさせたイエス・キリストの福音によって、今日も明日もいつまでも、日々悔い改める私たちに、イエス様が、その十字架と復活のゆえに「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださるからです。救いの確信は、私たちが律法を一所懸命、自分の力や理性で実現するから確信があるのではありませんし、それでは一生確信はありません。救いの確信は、イエス様の揺るぎない、朽ちることのない、真実のみことば、約束、福音のゆえです。今日もイエス様は悔い改めを持って主の前にいる一人一人に、このイエス・キリストの十字架とそのキリストの義のゆえに言ってくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひこの福音をそのまま受け取り、救いの確信を持って、安心して、今日もここから遣わされて行きましょう。
クリスマス祝会
主日礼拝説教 2025年12月14日 待降節第三主日 スオミ教会
イザヤ35章1~10節
ヤコブ5章7~10節
マタイ11章2~11節
説教題 「荒野のようなこの世にあっても、キリスト信仰者にとっては緑の大地の道を進むようなもの」
本日の福音書の個所も、わかりそうでわかりにくいところです。まず背景としてあるのは、洗礼者ヨハネがガリラヤの領主ヘロデの不倫問題を批判したために牢屋に入れられてしまったことがあります。ヨハネは恐らく面会に来た弟子たちからイエス様が権威ある教えを宣べ伝え奇跡の業を行っていることを聞いたでしょう。それで、弟子たちをイエス様のもとに送って、あなたは来たるべきメシアなのか、それとも別の者を待たねばならないのかと聞きました。イエス様は答えとして、自分がどんな奇跡の業を行っているかを述べて、それをヨハネに伝えよと言って弟子たちを返しました。そこで今度は群衆に向かって、ヨハネがどういう人物か話します。風にそよぐ葦とかしなやかな服を着た人の話があります。ヨハネのことを預言者以上の者と言ったりします。女から生まれた者のなかで最も偉大な者というのは、人間から生まれた者の中でという意味です。イエス様は聖霊の力で乙女マリアから生まれたので比較の対象外ということが暗示されています。ところが、最も偉大な者だと言ったかと思いきや、天の国で最も小さな者の方がヨハネより偉大だなどと言います。
さあ、これらが何を意味しているのかをこれから説き明かしてみましょう。その際に注意すべきことは、これはキリスト信仰を持つ説教者がキリスト信仰を持つ会衆に向けて行う話なので、キリスト信仰の観点での説き明かしということです。聖書の言葉を理解しようとする時、キリスト信仰がなくても信仰と無関係な理解はできます。しかし、それは聖書を神が与えた言葉の集大成とみることではなく、人間が創り出した文学作品と同じに扱うことです。キリスト信仰がない方が信仰にとらわれないいろんな解釈ができます。そういう解釈が新しい見方を生み出すと見方が深まったと思う人もいます。しかし、キリスト信仰の観点がない解釈ならば、それは信仰の深まりにはなりません。それでは、キリスト信仰の観点で聖書を繙くというのはどういうことか?それは、まず繙く人が自分はイエス・キリストを救い主と信じ、洗礼を受けて聖霊を与えられた者であるとわかっていることが前提です。では、なぜイエス・キリストが救い主かと言うと、彼が十字架にかかって私の罪を神に対して私の代わりに償って下さったからであり、彼が死から復活されて永遠の命に至る道を私にも切り開いて下さったから救い主なのです。そして今はこの主が整えて下さった道を主に守られ導かれながら共に歩んでいるとわかっているのがキリスト信仰者なのです。この信仰の観点で聖書を繙くと難しいところは結構わかってきます。難しすぎて今はわからないところでも、わからないなりにそういうものなんだと一旦受け止めて、いつか目が開かれたようにわかる日が来るから大丈夫と心の中にしまって、今はただ道を歩き続けるのみという物分かりのよさでいるのがキリスト信仰者だと私は思っています。
2.洗礼者ヨハネの奇妙な質問
イエス様が権威ある教えを宣べ伝えて奇跡の業を行っていることを牢獄にいた洗礼者ヨハネが伝え聞きました。彼は自分の弟子をイエス様のもとに送り、来るべきメシアはあなたか、それとも別の者を待たねばならないのかと尋ねさせます。この質問は一見奇妙に思えます。なぜなら、ヨハネは以前にイエス様のことを自分とは比べものにならない偉大な方とわかっていて、イエス様に洗礼を授けることを躊躇したほどでした。ヨハネ福音書では、イエス様のことを「神の子」と証ししています。それならば、なぜイエス様が来るべき方かどうかまだわからないでいるような質問を送ったのでしょうか?これについては、いろんな説明の仕方があるようです。一つには、ヨハネは投獄されて意気消沈してしまいイエス様のことを信じられなくなったのでそういう質問を送っただとか、ヨハネの弟子たちは質問をしたのではなく、あなたは来たるべきメシアですと述べたのが正しい文だとかいう説明を聞いたことがあります。でも、ギリシャ語の原文ではちゃんと疑問文になっています。なので、解釈が正しくて聖書の文章が間違っているというような説明は無視しましょう。
もし洗礼者ヨハネがイエス様の教えや業を聞いたのであれば、メシアであることに疑いはなかったはずです。それならば、なぜ聞いたのでしょうか?それは、イエス様の答えをよく目を見開いて見ればわかります。イエス様は次のことをヨハネに伝えよと言いました。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人には福音を告げ知らされているということです。これらは皆、イザヤ書の預言の成就です。イザヤ書の26章19節、29章18節、35章5~6節、42章18節、61章1節にある預言です。イエス様は、来たるべきメシアはあなたですか、と聞かれて、ハイ、そうです、で済ませるのではなく、その根拠として自分が行っていることは全部旧約聖書に預言されていることであるとまさに旧約聖書に基づいて自分がメシアであることを証ししているのです。ヨハネにはわかっていたことですが、それをイエス様が自分の口で根拠づけて証しするようにさせたのです。この証しはヨハネに向けられたものに見えますが、実はヨハネの弟子たちや周りにいた群衆も聞いたので、大勢の人にとっても証ししたことになります。一見おかしな質問に見えても、もしヨハネがこの質問をしなかったら、イエス様自身による旧約聖書に基づいたご自分の証しは生まれなかったのです。現代を生きる私たちの目にも触れることはなかったのです。つまり、これは洗礼者ヨハネとイエス様の見事な連係プレーだったのです。
証しをした後でイエス様は言われます。「わたしにつまづかない人は幸いである。」つまり、旧約聖書の預言の成就という有無を言わせない証拠がある以上、私のメシアとしての地位は明確である、これ位の確証があれば、ちょっとやそっとのことでも私に疑いを抱いたりして私に躓いて離れてしまうことはないのだ、私を信頼して復活の日の永遠の命に至るまでしっかりこの世を歩むことができるのだ、それでまことに幸いなのだということです。しかし、弟子たちをはじめ大勢の人がイエス様に躓く時が来ます。彼が裁判にかけられて十字架刑に処せられた時です。しかし、その後に起こる彼の死からの復活がダメ押しの確証になりました。これも旧約聖書の預言の成就でした。死を超える永遠の命が現実のものになった以上、確証は究極の確証になりました。それからは、この確証を抱いている限りイエス様を救い主と信じる人はもう躓く理由がないのです。
3.荒野が緑の大地に変わる時
イエス様が群衆に尋ねます。お前たちは何を見に荒野に行ったのか?風にそよぐ葦か?それとも、しなやかな服を着た人か?それとも預言者か?ヨハネがユダヤの荒野とヨルダン川を舞台にして活動を開始した時、彼は大勢の人に悔い改めに導く洗礼を授けました。実に多くの人たちがヨハネのもとにやって来ました。彼の宣べ伝えを聞いて、天地創造の神の怒りの日が近い、神の意思に沿わない者はみな罪人として断罪されると恐れ、罪を悔い改める印として洗礼を受けたのです。人々が荒野に来て見たのはまさしくこの洗礼者ヨハネでした。
それでは、風にそよぐ葦とは何のことか?一つの説明の仕方はこうです。風にそよぐ葦とはすぐ権力になびいてしまうような信念のない人のことであると。しかし、ヨハネは支配者の不正を公けに批判して投獄されたので風にそよぐ葦などではありません。それでここのイエス様の趣旨は、お前たちが荒野に行ったのは風にそよぐ葦を見るためだったのか?そうではなかっただろう、というふうに考えられます。次にイエス様は、では、しなやかな服を着る人を見に行ったのか、と聞きます。しなやかな服とは高価な服、位の高い人の着る服のことです。洗礼者ヨハネは駱駝の毛衣を着て腰に皮の帯を締めていたので、全く正反対の服装です。群衆が荒野に行って見たのは真の預言者であり、それは風にそよぐ葦とも王宮にいる人たちとも全然異なる者であるということを言うのがイエス様の趣旨だったと考えられます。
しかしながら、ここのところはもっと深い意味があります。ここまでの理解はキリスト信仰を持たない人でも出来るものです。深い意味というのは、ここの部分はイザヤ書35章が底流として脈打っているということです。イザヤ書35章は、まず、荒地が喜びの声をあげ、花が咲き誇るようなことが起きると言って始まります。荒地の中にいるような状態の神の民に対して、弱った手足に力を込めよ、恐れるなと呼びかけがあります。そこで何が起こるかと言うと、神が立場のどんでん返しを起こすのです。それはあたかもマタイ福音書5章の山上の説教のはじめイエス様が約束されたこと、悲しむ者は慰められる、へりくだった者は約束の地を受け継ぐことができる、神の義に飢え乾く者は満たされるということが起きるのです。イザヤ35章では、どんでん返しの日、目の見えない人は見えるようになり、聞こえない人は聞こえるようになり、足の不自由な人は飛び跳ねるようになり、口のきけない人は話すようになることが起こるのです。まさにその時、渇いた荒地はみずみずしい緑豊かな大地にかわり、そこには天の御国に通じる真っ直ぐな道が整備されると。その道は罪から贖われた人たちが猛獣などの危険から守られて歩むと。そして最後は目的地にて歓呼の声で迎えられ、苦しみや悩みは逃げ去ると言われます。この終わりの言葉は黙示録21章に響く言葉です。古い天と地に代わって新しい天と地が創造され、そこに現れる神の国に迎え入れられた人たちはみな涙を拭われて、もはや死も悲しみも嘆きも労苦もないと言われます。
イザヤ書35章は、キリスト信仰のない人が読めば、バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民が荒野を通って祖国に帰還する旅を美しく描いたもの以上でも以下でもありません。しかし、キリスト信仰者が繙くと、ここは、神が民の祖国帰還という歴史上の出来事を材料にして、罪から贖われた者が復活の日を目指して歩むことになる道のりを描いているとわかるのです。
ここで、風にそよぐ葦が何を意味するかもう一度見てみます。イザヤ書35章に荒野がみずみずしい緑豊かな大地に変わって葦が生い茂る様子が描かれています。イエス様が風にそよぐ葦を見に行ったのかと群衆に聞いたのは実は、お前たちはこの世という荒野が今まさにイザヤの預言のように緑豊かな大地にかわったことを洗礼者ヨハネの登場からわかったのかという意味もあるのです。しなやかな服を着た人は王宮にいると言うのも、イザヤ35章7節の「山犬がうずくまるところは葦やパピルスの茂るところとなる」と関係してきます。「山犬」と言うのはジャッカルのことです。ジャッカルは乾いた荒地に住む動物なので、土地が渇いて荒地であることを言い表す時にジャッカルが住む土地と言うくらいです。エレミヤ書49章33節でそういう言い方をしています。イザヤ35章7節では、そんな土地が葦やパピルスが生い茂る土地に変化することが言われているのです。エレミヤ書13章22節を見ると、バビロン帝国が滅ぼされた後、その王宮はジャッカルの住みかになるという位に荒廃することが言われています。つまり、しなやかな服を着た者は王宮にいると言うのは、それが本当の荒野なのです。洗礼者ヨハネが活動した荒野というのは、イザヤ書の預言のように、荒野にたとえられたこの世が緑豊かな大地に変わって真っ直ぐな道が敷かれるところになることを暗示しているのです。
そこでイエス様は洗礼者ヨハネを預言者以上の者と言って、出エジプト記23章20節とマラキ書3章1節の御言葉を引用します。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう。」神はイエス様より先に洗礼者ヨハネを遣わし、イエス様の前に道を準備させたのです。先週の福音書の日課でヨハネがイザヤ書40章で預言された荒野で叫ぶ声であったこと、そしてその役割は来るべきメシアのために道を整えることであることを見ました。ヨハネは人々に罪の自覚を呼び覚まし悔い改めの必要を感じさせてその印として洗礼を授けました。そして、イエス様が十字架と復活の業を遂げたおかげで人間に罪の赦しの恵みが与えられることになりました。ヨハネは真にイエス様の前に道を整えたのでした。洗礼者ヨハネが預言者以上だったというのは、普通は預言者は預言をしますが、ヨハネの場合は来るべきメシアについて証しをしただけでなく、旧約聖書の預言の実現そのものでもあったのです。かつて預言者によって預言されていたことを真実にしたのです。だから預言者以上の者というのは当たっています。
イエス様は、洗礼者ヨハネのことを人間から生まれた者の中で最も偉大な者と言いながら、天の御国の最も小さい者の方がヨハネより偉大であると言っていますが、これはどういうことでしょうか?ヨハネが人間から生まれた者の中で最も偉大な者と言うのはわかります。彼は預言者の預言を実現した者であり、メシアが完成する救いのお膳立て、罪の赦しに導く悔い改めの洗礼を授け、メシアが成就する人間の救い、罪の償いと罪からの贖い、永遠の命への道の切り開き、これらの救いのお膳立てをしたこと、他の人間にはできないことをしたからです。それでも、天の御国で最も小さい者の方が彼より偉大だというのはどういうことでしょうか?
イエス様は洗礼者ヨハネが整えた道を踏み進みました。ヨハネは人々に悔い改めの心を起こし赦しを受け取る心の準備をさせました。それらを踏まえてイエス様は十字架と復活の業を遂げました。私たちはこのイエス様がもたらして下さった罪の償いと罪からの贖いを洗礼と信仰をもって受け取りました。そして復活の日の永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むようになりました。だから、私たちは天の御国に迎えられる時、イエス様の救いの恵みという完成品を受け取った者として迎え入れられます。私たちは、たとえヨハネのようなイエス様の救いの業の準備というような偉大なことは何もしていなくとも、まだ完成品を持っていなかった地上のヨハネよりも偉大ということになるのです。
4.勧めと励まし
ここで、一つ申し上げたいことがあります。それは、私たちが地上のヨハネよりも偉大な者でいられるのは天の御国に入った段階だけでなく、そこに向かう道を歩んでいるこの世の段階でもそうだということです。なぜなら、神が約束されたことを信じて歩んでいるというのは、もう半分くらいは天の御国に入っているのと同じだからです。ただし、それでもこの世にいる以上は、躓く危険はいつもあります。イエス様では頼りにならない、本当に一緒に歩んでいるのか心もとないなどと疑い始めたら躓きの石はいつでも足元に置かれます。
だから、キリスト信仰者はキリスト信仰を持って聖書の御言葉を繙くこと、神に祈り礼拝から霊的な力を受けることが必要になるのです。本日の使徒書の日課ヤコブの手紙の個所では忍耐の必要性が強調されていました。「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。」本日の預言書はイザヤ35章でした。そこで預言されている罪から贖われた者が御国に至る道を歩むということは既に実現しています。私たちがそうだからです。肉眼ではこの世は荒野のようにしか見えなくとも、信仰の目では私たちが歩んでいる道はまことに緑の大地に切り開かれた真っ直ぐな道なのです。道を踏み外させようとしたり、歩むことを断念させようとする力や危険から私たちは守られているのです。最後は終着点で歓呼を持って迎え入れられ、嘆きや苦しみは逃げ去るのです。信仰の目で人生の歩みをこのように見れれば、忍耐は備わってくるはずです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。
アーメン
2025年12月7日(日)スオミ教会説教
聖書:マタイ福音書3章1~12節
説教題:「悔い改めよ、天の国は近づいた」
今年も12月になりました。救い主イエス・キリストの御降誕を祝うクリスマスが近づいて参りました。神の御子イエス様がこの世界に人の子として現れて来られる、それに際して神様は様々な準備をされています。旧約聖書の時代の預言者たちもこのために働いて来ました。私たちに想像もつかない神の御計画の中で司祭ザカリヤの子ヨハネも預言者の一人として神様に立てられ荒野に現れました。それは既に預言者イザヤによって言われている人として現れたのです。3節にマタイは書いていますね「荒野に叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋を真っすぐにせよ』」と。この預言を成し遂げる役目を祭司ザカリヤの子ヨハネが荒野に現れ「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と叫んだのです。紀元前8世紀の預言者イザヤは神に背いたイスラエルの民族はバビロンに捕え移されることをイザヤ書39章で預言した後で46章でイスラエルの民は再びバビロンから帰る時を約束しました。バビロンでの苦難の民を荒れ果てた母国に彼らを連れ戻して下さる。その救いの道をバビロンからパレスチナまでシリヤ砂漠に真一文字に整えよとイザヤは叫んだのです。この預言通りヨハネの時代、ローマ帝国の支配下で苦しむ民のため、また神に背いているユダヤの民を救うため、メシヤ到来の道備えをするため荒野から立ち上がったのです。どういう時代であったかを歴史家であるルカは3章1~2節で詳しく書いています。「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督ヘロデガカリラヤの領主その兄弟のフィリポがイトラヤとトラコン地方の領主アンナスとカイアファとが大祭司であった時、神の言葉が荒れ野でザカリヤの子ヨハネに降った。ザカリヤの子ヨハネに神の言葉が臨んだ時、ルカがローマ皇帝の領主の名をこれほど詳しく書いているのは、これらの領主の支配の下でユダヤの民がどんなに苦しんでいた時代であったかをしっかり書く必要があったからです。ティベリウス在位は15年であった、とあります。このティベリウスは皇帝アウグストの後を継いで名君の期待を負って即位しましたが彼の治世の終わりにはタキトウスの記録によりますと「遠慮と羞恥心から解放され悪業と破廉恥の中にどっと身を投じた」とありますから治世15年の頃はティベリウスの化けの皮がはげかかり人々の失望と恐怖がローマ世界全体に広がり始めたという時代であった。都エルサレムは異邦人のピラトが治めしかもこのピラトと言う人物は残忍不正な人物で国土は分断されガリラヤの領主ヘロデは不道徳で世の中は乱れに乱れて行った。この様にこの時代、民衆の不満がうっ積し多くの人々が指導者への激しい批判を持っていた。人間の悪と罪が世に満ちていた。この様な暗黒の時代に神の言葉が荒野で育ったヨハネに降ったのであります。
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このヨハネは荒野に育ち成人しました。この荒野はユダヤの山地からヨルダン川の渓谷に向かって傾斜した地帯で岩石のごろごろした草木も生えない不毛の地であります。ヨハネは父の司祭職を捨てて敢えて荒野に来て野生の蜂蜜と蝗を食べて生きていた。駱駝の毛で織った粗末な衣をまとい生皮の帯を締め、まさに野蛮人のような生活をしていた。夜は夜空を仰ぎ大地で寝て祈りと断食をして大自然の中に生きていた。この様なヨハネを神様はずうっと見守りいよいよ大祭司カイファの時に神の言葉が降ったのであります。「彼は神の言葉を受け、ヨルダン川沿いの地方に行って罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」この荒野にはエッセネ派と言われる人々が住んでいました。彼らはユダヤ人の中でも最も禁欲的な生活を送り、都会の人々の様な形式的な宗教生活から離れて荒野に来て只管祈りと断食を尊しとした。そして、彼らは一日に何回となくヨルダン川に入り、身を清め罪の汚れを洗い清めたのです。ヨハネはエッセネ派に属する事は出来なかった。ヨハネの考えは何度も形式的に水に浴びても積の汚れが清められるはずがない。問題は罪の汚れを洗い清めると言う事にあるのではない、罪の赦しを得る事である。ヨハネは神の前に「悔い改めよ!」と叫んだのです。悔い改めて罪の根源の赦しを得なければならない。そのためには生活態度と考えを自分中心から180度回転して神を第一とする、神に従う、神に向けなけらばならないのです。荒野で成人しつつあったヨハネの心にこの真理が次第に啓示しつつあったのです。そうしてヨハネが30歳に達した時、神の言葉が臨んだのです。彼は預言者としての召命を受けたのです。時代は人々の心に指導者への不満と批判が満ちている状況です。ヨハネは人々の批判の心を他に向ける前に先ず自分自身を検討し悔いくだけた魂を持つように神を望むように訴えたのです。そうしてヨハネは荒野からヨルダン川一帯の地に行って、罪の赦しを得させる真の悔い改めを叫んでいった。このヨハネの声はユダヤ全土に伝わって行き鳴り響いて行ったのであります。そして、人々の良心の心を鋭く刺激していった。人々は真の心に打たれ「悔い改め」の心を持って彼のもとに続々と集まって来たのでした。人々はローマ帝国の支配の下で苦しみ不正や不道徳、堕落に満ちた暗黒の中で真の光を求めていた。人々は本心からこれまでの自らの生活態度を反省し神の審判の近い事を思って恐れおののいていた状況です。こうした中でヨハネからバプテスマを受けたのです。その時、その群衆に向かって叫んだのです。7~9節を見ますと「蝮の子らよ!差し迫った神の怒りを免れると誰がおしえたのか。悔い改めに相応しい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが神はこんな石ころからでもアブラハムの子たちを造り出す事がお出来にばる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて火に投げ込まれる。」このヨハネの叫びは激烈な言葉であります。蝮の子らとユダヤ人を呼んでいる。荒野の岩穴に潜んでいる毒蛇であると言うのです、凄いではありませんか。激しく悩んでいる思いがあからさまです。アブラハムの末だ、と誇らしげに安住しているのは捨てよ!神の怒りの前に悔い改めるか否かを迫られているのだ。悔い改めなければ滅ぼされ地獄の火に投げ込まれるのだぞ。このように叫ぶヨハネの言葉に群衆は己の良心に突き刺さったのであります。群衆はヨハネのこのような激しい言葉に心打たれ、もしやこのヨハネが長い間待ち続けたメシアではないか、この事を察してヨハネは真の救い主であるメシアとして来られる方を指示しています。11~12節です。「私は悔い改めに導くためにあなたたちに水で洗礼を授けているが、私の後から来る方は私よりも優れておられる。私はその履物をお脱がせする値打もない。その方は聖霊と火とであなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って脱穀場を隅々まで綺麗にし麦を集めて倉に入れ殻を消える事のない火で焼き払われる。」バプテスマのヨハネの預言者としての神からの使命は救い主であるイエス・キリストの到来を告げ知らせる事であります。更にイエス・キリストの働きの前にデコボコの荒野と砂漠に一本の道を整える役目でありました。谷は全て埋められ、山と丘は低くされ、曲がった道を真っすぐに整える。そして人は皆、神の救いを仰ぎ見る。このように主の道を整える事は容易な事ではない、生半可な道備えではない、そこでは大決心をして私たちも主の前に悔い改め新たな決心をして救い主イエス様をお迎えしなければならないのです。
人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
2025年11月30日スオミ教会礼拝説教
マルコによる福音書11章1〜11節
「主がお入り用なのです」
説教者:田口 聖
1、「主イエスが先を行き導いた」
このイエス様のエルサレムへの入場のみ言葉を通して今日イエス様は何を私たちに伝えているでしょうか。これまでのイエス様と共にエルサレムへ向かう弟子たちの歩みはどのような歩みであったでしょうか?それは、イエス様が彼らを招き召し出してその彼らの歩みが始まったように、そのこれまでの歩みもまた、どこまでもイエス様が先を行かれ、イエス様が導かれ、弟子たちはそのイエス様の言葉と導きに「ついて行く」歩みでした。弟子たち一人一人は、決して聖人でも完成され立派な人間でもありませんでした。彼らは私たちと同じ罪人であり、どこまでも不完全で、彼ら自身だけでは常に恐れや惑いがありました。しかしその歩みは彼れが自分の力や意思で全てを果たさなければいけない律法の道ではなく、そんな不完全な、そして理解できない、罪深い不安で恐れる弟子達を、イエス様は常に愛し、何度でも呼び寄せ、支え、何度でも教えて来た福音の道でもあったと言えるでしょう。
2、「まだ誰も乗ったことのない子ろば」
イエス様がいよいよエルサレムへと入るこの時もまた、そのイエス様の恵みが貫かれていることがわかるのです。イエス様と一行は、まずその入場するための手前の町にやってきたのでした。1節、こう始まっています。「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、」イエス様は二人の弟子たちを使いに出すのです。それは何のためかというと、こう続いています。「言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。 それはロバの子供を連れてくるためでした。それはこの後続いているように、イエス様がそのロバの子に乗ってエルサレムへと入って行くためです。しかしイエス様がその村に繋がれていると言う「ロバの子」は、イエスや弟子たちに前もって何らか伝手があって、村に知人か誰かがいて借りる予定になっていたというようなものではありませんでした。「つないであるのを、ただ「ほどいて、連れてくる、そのようなものでした。3節を見ますとこうも続いてます。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 どうやら、そのロバの子の持ち主でさえも、その行為の意味をわからず、「なぜそんな事をするのですか」と聞くような状況になるようなのでした。このように遣わされる二人も、他の弟子たちも、そして、ロバの子の持ち主も、そのロバの子供が連れていかれる目的や意味をよくわかっていないようのです。
3、「主がお入り用なのです」
しかし、イエス様がここで言っている言葉は心をとらえます。それは、「主がお入り用なのです。」 「主が必要だから。」ーイエス様にとって理由は、はっきりしています。「主がお入り用」ーそれだけなのです。そのようにして連れてこられたロバの子、イエス様がエルサレムに入場するそのために用いられるロバの子です。周りの誰も、弟子も持ち主もわからない、しかし「主がお入り用だから」ーその理由だけで用いられ、召され、連れれてこられるロバの子なのです。 「主がお入り用なのです」
A,「召し:弟子達に理由があるのではない」
このことばから教えられます。実に、イエス様について行く弟子たちの姿、その召し、招きもそうであったのでしょう。彼らは「自ら」、「自分自身の知恵や力や計画で」イエスを見いだし、何か彼ら自身に初めから確かな理由付けや達成する目的やビジョンがあってついて行ったわけではなかったでしょう。聖書に書かれている通りに、それは、主イエス様が、主イエス様の方から、声をかけ、呼ばれ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と召されたからでした。その言葉の意味さえ、彼らは何を意味するかわからなかった事でしょう。しかし主イエス様が、主イエス様の方から召し、招いてくださったからこそ彼らはついて来たのです。神の計画を具体的にはっきりと見えてはいませんでしたし、全く何のために召されたのかは誰も分かりませんでした。むしろ聖書にある通り、その中のある者は、地上の眼にみえるイスラエルという国家の復興を見て期待し、ローマからの独立や革命を期待していた人もいたでしょう。しかし、一緒に歩いていく中で、イエス様はそんな期待する政治的活動などせず、ユダヤ人が皆、忌み嫌い避けるような罪人に声をかけ交わり、友と呼び一緒に食事をしました。そして、エルサレムを前にしても、繰り返し繰り返しイエス様が弟子達に教えるのは、自分は地上に政治的革命を起こすとか、新しい地上の王国を実現するとかではなく、「自分は祭司長たちに捕らえられ、苦しめられ、十字架につけられて死んでよみがえる」ーということでした。それはついて来た弟子達にとっては訳の分からない、あり得ない、期待はずれのことばかりでした。ペテロは「そんな事があろうはずがない」とたしなめることになります。そのようにやがて弟子たちは何のために自分たちは召されたのか。「なぜ?」と思い、この先にどんな理由と答えがあるのかと思うことでしょう。そしてさらに、弟子達が自分たちを見つめさせられる時にも問題に直面させられたことでしょう。まさに自分が救い主の弟子である自分に勝手に思い描いていた期待、しかしそれとは裏腹の自分の弱さや罪深さや不完全さの現実に直面させられる時、「なぜ、こんな自分が」とその召しに疑問を持たされ壁にぶち当たることになります。まさにそれは現代のクリスチャン、私達が自分を見るときに直面させられる葛藤です。「自分には何もない。何もできない。弟子として、クリスチャンとしてふさわしくないものだ。罪深いもの。弱いもの。聖くない。だから義に値しないものだ。」そのように自分自身に葛藤するのです。
B,「主の側に理由がある」
しかしです。イエス様のことばは私達に教えているように思わされます。それは、「主がお入り用なのです」 そのことばです。私達の理性や常識や価値判断の基準では分からない。思いもよらないこと。しかしイエス様にとって理由は、はっきりとしている言葉でしょう。そのロバの子が召され用いられる理由は、人間が建て上げたり予測できるような合理的な理由があるからではない。どこまでも「主がお入り用だから」なのです。私たちの召しにおいても同じです。私たち「人間の側で私たちが建てあげ期待できるような合理的な理由や根拠があるから」とか「それに即してだからあなた方を「召します」。だから「必要なんだ」、とは父子聖霊なる神様は言わないのです。ただ「主がお入りようなのです」、それだけです。人間の方は、自分の召しにも人の召しにも色々理由づけをしたがります。それで人間の側の自分や組織の期待した通りのことに当てはまらないと「あの人は召されていない」「あの人の召しは嘘だ」「あの人は期待外れだ」と人は言うものです。教会の中でも、クリスチャン同士でもです。そのようにして主が召された牧師や自分の教会の兄弟姉妹を人間の勝手な理由付けで退けたり非難するような声を聞いた経験は残念ながら少なくありません。あるいは、自分で自分に勝手に思い描き期待するクリスチャン像に自分が合わないからと、自分の救いの召しや救いの確信を疑い、失望することも、クリスチャンは誰でも経験することかもしれません。しかし、主が用いる理由。主に召された理由。今、救われクリスチャンである理由。なぜ、どうして、何のために?それは「主がお入り用だから」なのです。それはまったく「主の」目線、「主の」思い、主の目的と計画で、「主が」お入り用だから、なのです。つまり、それはまず、私達にははっきりと完全に知る事ができない事を意味しているでしょう。しかし、「主がお入り用だから」ーそこには、主にある「確かさ」があるでしょう。むしろ「主が」必要であり、そのために呼ばれ、召されて今があるなら、自分が自分を見て不安や失望があっても、「主の目」「主の理由」であるがゆえに、決して不安や失望ではない、期待と希望があるのではないでしょか。「主の目、主の理由である」と見るならばです。「主がお入り用なのです。」ーこのことば。イエス様は、ローマ軍の将校が勇んで乗る血統の優れたカッコイイ馬ではなく、この村の名も知らない家のロバの子供を召しました。しかもまだ一度も誰ものせた事もないロバ。ロバの子供です。合理的な分析や理由付けをしようとするなら、こんな何もできないロバの子供「何ができようか?不安で、頼りない。」と人は見るでしょう。人間の合理性ではそのような判断になり退けられます。しかし、聖書の神の前にあっては、全く逆説的です。「主がお入り用だから召される。主が用いられる。「「主が」お入り用だから」なのです。
それは、私達が自分や、誰かを見ての、大きいから小さいから、できるからできないから、ふさわしいからふさわしくないから、若いから若くないから。等々。それらの人間のたてる理由は評価は一切関係ありません。「私達の目」「私たちの評価」「私たちの合理性」人間のたてる「社会の実利性」等々に基づきません。「主の目。主の理由。」ー「主がお入り用だから。」なのです。その視点を「自分が」から「主が」に転換する時にこそ、私達は、「自分がの傲慢さ、「高ぶり」からも解放されるし、他人を裁いたり、隣人の召命を疑ったり、あるいは「自分なんて」と自己憐憫からも解放される道があるでしょう。私達の存在は、「私が」「自分が」「あの人が」の理由ではなく、「主がお入り用だから」につきるのです。 アドベントのこの時、教会の暦では新年です。主の到来の恵みを覚えるこの時、今日も私たちは「主がお入り用なのです。」という私達へ向けられた「主の理由をしっかりと心に留めようではありませんか。私達一人一人は「主が必要な、お入り用な存在」として召されているのです。「主が」必要なのです。主の目、主の思いが、必要だといってるのです。そのために、救われ、召され、生かされ、導かれている私達です。それは、私達から見て良い状況ばかりではありません。私達から見て良くない状況、試練や困難さえも、しかしそれは、主がお入り用だから。必要だから。私達はそこへ召されているのです。「私が〜だから」「あの人がどうだ」ではなく、「主がお入り用だから」ーそのことばをしっかりと心にもってこの教会の新年のスタートをしましょう。
4、「イエスは十字架にかけられ死ぬために」
さあ、そのようにして、ロバは連れてこられ、イエス様はその上に乗り、エルサレムへと入るのです。7節〜10節ですが「二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」」 みな「ホサナ。祝福があるように」と歓迎するのです。しかし、この所は思わされるところです。イエス様のエルサレム入場は、それは、十字架へかかるための入場でした。そして、今歓迎のことばも、このエルサレムではやがて「十字架へつけろ」に変わって行きます。このところは人間の現実を教えているように思わされます。それは、人が自らの力で行う礼拝も、歓迎も、賛美も、すべて不完全であるということです。この人々の礼拝、歓迎、ホサナという賛美も、祭司長たちへの賛同へと変わりました。まさにイエスが、人間が思い描き計画し期待する自分たちの期待通りの、自分たちの願い通りの地上の物事を満たしてくれる王様、メシヤではなかったからです。イエス様は、地上のイスラエルの再興や、独立のために来たでもありません。十字架にかかるために来ました。しかし、それは人々にはわかりません。いや分かる事ができないでしょう。人々は、その自分たちの期待を否定するイエスに失望しました。イエス様が与えようとする神の国の福音、罪を赦すための十字架の言葉は彼らにはわからず期待外れだったのです。そして、ついには人々にとっては極悪人の刑罰である十字架にかけられるイエス。人の前では敗北と大罪の象徴に直面します。恐ろしく残酷な十字架に、メシヤなど見なかったのでした。そこに私達の罪の身代わりと真の救いである罪の赦しがあるとは誰も分からないのです。弟子たちでさえもです。弟子たちは復活の後に、聖霊によって目が開かれそのイエス様のみことばと救いの意味を初めてわかるようになるのです。それから宣教が始まるのです。
人は、私達はどこまでも罪人です。そのなす業、礼拝や賛美であっても、決して、私達の業が、救いを完成するのではないのです。私たちの功績や貢献が神の国を完成させるのでもありません。いやできないのです。私達はどこまで不完全なものであり、不完全な礼拝者、賛美者にすぎません。しかし、ここでも唯一、全てを理解して、まっすぐと主の道を行き、主の御心をなすためにまっすぐに進む唯一の姿があるではありませんか?周りの群衆ではありません。弟子たちでもありません。イエス・キリスト、その方お一人です。イエス・キリストこそが、十字架へと向かい、十字架を負われました。私達ではありません。私達はむしろイエスを十字架にかけろと叫んだ方であり、かけた人々の方です。逃げた方であり、裏切った方であり、三度知らないと否定した方なのです。 私達自らでは主の事を実現する事は何もできません。主を礼拝し、歓迎し、賛美しているようでも、私自身、いつの間にか、自分勝手、自分本位になり、自分の期待通りではなかったら、主を疑い、不平をいい、否定し、十字架につけろと否定する側にいるものであることを気づかされます。実に不完全な存在です。しかし主イエス様こそ、イエス様だけがまっすぐと十字架の道を行き、十字架を負われました。私達のためにです。私達の身代わりとしてです。このイエスの名とその聖なる完全で力ある福音のみ言葉のゆえにこそ、私達の不完全な礼拝も賛美も祈りも、完全な礼拝と賛美として神に喜ばれ、受け入れられるのです。実に、私達の救い主はただ一人です。主イエス様こそ、私達のための救い主。イエス様との聖なる福音こそすべての全て。イエス様こそ先を行って導き、事を行ってくださったお方。行ってくださるお方です。イエス様こそ救いの完成者、助け主にほかなりません。ですから、聖書はいいます。ヘブライ信徒への手紙12章1−2節「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。2節は新改訳聖書ではこうあります。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスはご自分の前におかれた喜びのゆえに、辱めをものともせずに、十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12章2節) どうなるか分からず、先に何があるのかわからず、「ついて来なさい」のその聖なる福音の言葉にただ従って来た弟子たちです。人から見ればエルサレムに近づくほどに、自分たちの期待とは違う方向にさえ行っていました。しかし、イエスの後について行って、イエス様の聖なる力ある真実な言葉に導かれて行く事によって、彼らもまっすぐと進んで行きました。確かに途中、弟子たちは拒んだり、逃げたり、裏切ったり、否定したりしました。しかし、そのことを悔やんで、悔い改めイエスとその言葉に向いた時、イエスの憐れみにすがった時、彼らは立ち直りました。ユダはむしろ、イエスに向かなかったから、悔やんでもイエスに立ち返らなかったから、滅びました。しかしイエスとその聖なる真実な言葉を見て、目を離さないで、何度でも立ち返っていく、そのようにして完成者であるイエス様について行く時、完成があることを、弟子たちは示しているでしょう。私達一人一人もそれと同じです。確かに「キリストの姿に変えられて行く、似せられて行く」とは聖書にはあります。しかし、それも「私達が自ら、修行と努力でなる」とは一つもかいていません。その「聖化」についても小教理問答書にはっきりとあります。聖化は、私たちの理性や力ではできない。しかしそれはその聖なる真実なみことばと聖霊による目に見えない主の業であり、完成は地上でなく、主が導く新しい天と地に至るまで、主によって変えられて行くことが聖化であるとルターは教えているでしょう。私達がなるのでは決してありません。「主が」変えてくださるのです。
5、「結び」
今日は教会の暦の新年です。仮にその一年の目標に人が「一つも罪を犯さないようにする」とか「聖書を神を完全に理解する」というのを掲げても決してできません。「完全なクリスチャンに、完全な親に、完全な夫に、完全な牧師に、完全な教会に。」と掲げても、それもできないことです。私達はどこまでも、「主があなたをお入り用なのだから」「必要だから」といって召してくださり救ってくださった主、信仰の創始者であり完成者である主を、まっすぐと見て、ついて行く、それこそ変わることのない私達の歩みであり使命です。それでも何度でもはぐれます。しかし、それでも主は私たちを何度でも呼び寄せて教えてくれるでしょう。そのために今日も礼拝に集められているし、そのために聖なる真実な神の言葉と聖餐が与えられるでしょう。その主の声に、私達たちはその度ごとに戻って、悔い改めて、ついて行く。そのような私達なのです。その救いの歩みを完全になす事ができるのは、唯一の救い主、イエス様であり、そのみことばと聖霊にほかなりません。今日もイエス様は変わることなく私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ、この福音の宣言と、今日も私たち一人ひとりに変わることなく「主があなたをお入りようなのです」と言ってくださるその恵みを覚え、平安のうちにここから遣わされて行きましょう。
主日礼拝説教 2025年11月23聖霊降臨後最終主日)スオミ教会
エレミヤ23章1-6節
コロサイ1章11-20節
ルカ23章33-43節
説教題 「神の祈りの学校の生徒でいこう!」
今日は聖霊降臨後の最終主日です。来週はもうイエス様の誕生をお祝いするクリスマスの準備期間、待降節/アドベントです。キリスト教会の新年です。それなので今は教会の年の瀬ということになります。フィンランドのルター派教会では聖霊降臨後最終主日は「裁きの主日」と呼ばれ、その日の福音書の日課は「この世の終わり
とか「キリストの再臨
とか「最後の審判
をテーマにするものが普通です。日本のルター派の聖書日課も先週の福音書の日課はイエス様の終末の預言でした。ただ、今日の福音書の日課はイエス様が十字架に架けられる場面で、イースター前の受難節に相応しい箇所ではないかと思われるかもしれません。でも、よく目を見開いて読むとイエス様はこの世を超えた永遠なるものへの扉を開かれた方であることがわかります。それで聖霊降臨後最終主日に相応しい個所と考えます。
ところで、「世の終わり
だの「最後の審判
だの、ちょっと話が暗すぎないか、人を明るくハッピーにするのが宗教じゃないかと言われてしまうかもしれません。フィンランドの「裁きの主日」ですが、その趣旨は教会の一年の終わりにキリスト信仰者としての自分の歩みを振り返って、自分はイエス様の再臨や最後の審判の時に申し開きができるのか自省し、イエス様がもたらしてくれた罪の赦しの恵みを今一度畏れ多い気持ちで受け取るというのが本来の趣旨です。ところが実際はどうかと言うと、ただでさえ礼拝出席者が少なくなっているフィンランドの教会で(ただしSLEYの教会は別です!年中どこも満員御礼です!)、「裁きの主日」は一段と少なく、ところが、礼拝が終わって教会の鐘が鳴り響くや否や、待ってましたとばかり町中クリスマスのイルミネーションが一斉に点灯します。アドベントまでまだ1週間あると言うのに。果たして趣旨を心に留めている人はどれ位いるのだろうかと思ったものです。(ところで昨日知ったことですが、ヘルシンキでは昨日クリスマスのオープニング・イベントが大々的にあったとのことで、目抜き通りのアレキサンテリ通りはイルミネーションが華やかに点灯し盛大なパレードが繰り出され大勢の人でごった返したとのこと。アドベントはおろか「裁きの主日」も終わっていないのに!パイヴィによれば、もう何年も前から「裁きの主日」の前に行っているとのことで、私は知りませんでした。こういうことをするから教会の伝統に忠実でいたい人は皆SLEYの礼拝に流れて行ってしまうのでしょう。)
「世の終わり
とか「最後の審判」というのは不安や心配を引き起こすテーマで、キリスト教徒と言えどもどう向き合っていいのか悩んでしまう人が多いと思います。ただ、近年では教派によっては、今の世界情勢を見ればキリストの再臨が間近なのは明らかだ、再臨に備えて聖書に書かれてあるようなことを率先して起こそう、そうすれば彼がいらした時に神の御国に迎え入れてもらえるのだ、と血気溢れるようなところもあります。ここで、私たちが礼拝で唱えるキリスト教の伝統的な使徒信条や二ケア信条ではどう言われているか思い出しましょう。再臨するイエス様は生きている人と死んだ人を判断する(裁く)とあります。恐らく急進的なキリスト教徒は、再臨は自分が生きている間に起こると確信しているのでしょう。私は、もちろんその可能性は否定しないが、確率として見たら、主の再臨は自分がこの世を去った後に起こる方が高いのではないか、もしそうなら、まずこの世を去って再臨の日に目覚めさせてもらって判断してもらおう、なので、その日まではルターが言うように安らかに眠ることになるだろうという思いでいます。イエス様の再臨が自分が生きている間に起こるのか、後で起こるのかについては説教の終わりにまた触れたく思います。
2.メシアと神の国
本日の福音書の説き明かしに入りましょう。イエス様が二人の犯罪人と一緒に十字架にかけられました。みんな五寸釘を両手首と重ねた足首に打ち付けられています。イエス様は既に拷問を受けていて血みどろです。三人とも激痛の中を苦しみ悶えています。実に痛ましい残酷な場面です。
犯罪人の一人がイエス様を罵って言いました。お前はメシアなんだろう?だったら、自分と俺たちを救ってみろ!と。この男は、イエス様のことをメシアと言いましたが、メシアとは何でしょうか?普通は救世主を意味すると言われます。この男の人は救世主の意味で言ったのでしょうか?メシアはもともと聖別の油を頭に注がれた者を意味しました。ユダヤ民族の王様は代々、油を注がれる儀式を受けて王位につきました。メシアはユダヤ民族の王の意味があったのです。イエス様の十字架の上には「ユダヤ人の王」という札が掲げられていました。そのため彼の十字架刑は、当時ユダヤ民族を占領下に置いていローマ帝国にとっていい見せしめになったでしょう。本当に王かどうかはどうでもいい、俺たちに盾突くとなこうなるぞ、という具合に。
このようにメシアにはユダヤ民族の王という意味があり、特にイエス様の時代には、将来ダビデ家系の王様が現れてユダヤ民族を外国支配から解放して王国を復興させてくれるという期待が抱かれていました。イエス様はそういう民族解放の英雄に見られたのです。ところが当時、これとは異なる期待もありました。復興される王国とは、この世的な国を超越した国という期待です。それは、今の天と地に取って代わる新しい天と地が創造される時に現れる神の国のことでした。それをメシアが王として君臨するというのです。さて、この世的な国か、超越した国か、旧約聖書にはどっちにも取れる箇所が沢山あります。それで、イエス様の時代にはこの世的でない超越的な王国とそのメシアに対する期待を抱く人たちもいたのです。その証拠に、聖書には収められていない多くのユダヤ文書の中にはそのような期待が記されていました。イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事は実に、神の国がこの世的な国ではなく超越的な国であることをはっきりさせたのです。
イエス様を罵った犯罪人は、彼のことをこの世的な王、民族解放の英雄の意味でメシアと言ったのでした。民族の英雄と祀り上げられておきながら、なんだこのざまは、ということだったのす。十字架の近くで見物していたユダヤ教社会の指導者たちも同じでした。ところが、もう一人の犯罪人はこう言ったのです。「イエスよ、あなたがあなたの御国に入られる時に私を思い出して下さい。」つまり彼は、もうすぐ息を引き取ってこの世から別れることになっても、イエス様が「あなたの御国」、つまり彼が王である国に入ると信じたのです。メシアが君臨する国はこの地上にはない、今の世を超えた超越的な国であり、イエス様はその王メシアであると信じたのです。
それに対してイエス様は「お前は今日わたしと一緒に楽園にいる」と答えました。この答えはよく注意して見ないといけません。「今日一緒に楽園にいる」と言うと、今十字架にかけられて苦しみ悶えているのにそれがどうして楽園にいることになるのかわかりません。なんだか苦しみを和らげるための無意味な気休め言葉みたいです。そういうことではありません。ギリシャ語原文で「楽園にいる」と言っているのは動詞の未来形です。それなので今は苦しみ悶えているが、今日中の内に一緒に楽園に入ることになる、今日息を引き取ってこの世から別れた後で楽園に入ることになる、と言っているのです。
そう言うと今度は、あれ、キリスト信仰では復活というのがあるんじゃなかったのか?今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に再創造される、その時、キリストの再臨と最後の審判が起こって、神に義と認められた者は神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の御許に永遠に迎え入れられる、認められない者は永遠の炎に投げ込まれる、そういうことが起こるのではなかったのか?今日中に楽園に入ることになると言ってしまったら、そういうプロセスは飛び越えてしまったということなのか?
この疑問は、ルターが復活について教えていることを思い出すと解決できます。ルターによれば、人間はこの世から別れた後はイエス様が再臨する日まで安らかな眠りにつく。たとえ眠った時間は地上にいる人間から見たらどんなに長くても、眠っている本人にしたら、目を閉じた瞬間に目を覚まさられるようなもので、その間の眠りの時間は瞬きの一瞬にしか感じられないと。そうであれば、イエス様が今日中に楽園に入ることになると言っても、最後の審判や復活の日までの期間は全部入っているので大丈夫です。
3.犯罪人の罪の告白と赦しの宣言
次に「私のことを思い出して下さい」と言った犯罪人の言葉とイエス様の返答を見てみましょう。これらはよく目を見開いて見ると、キリスト信仰者が行っている罪の自覚と告白、そしてそれに続く罪の赦しが全部出そろっていることがわかります。
その犯罪人は、イエス様がこの世的な国を超えた国の王であると信じています。反対にもう一人の犯罪人と指導者たちは、メシアはこの世的な国の王のことで、イエスはそれになるのに失敗したという見方です。しかし、別の犯罪人は、イエス様は何も失敗していない、今、人間的な目では全てが失敗で恥と痛みと苦しみしかないが、実は紙一重で全然違うことが待っている。イエス様には何か人間の理解を超えた大きなことが起こる。今、神の計り知れない計画が行われているのだと直感しています。
このようにこの犯罪人にはイエス様が超越した国の王であることが見えていました。しかし、自分は犯罪を犯して刑罰を受けてしまった。イエス様に、私も一緒に御国に入らせて下さいなどと言える資格はないことは百も承知です。それで、御国に入られる時に私を思い出して下さい、というのが精一杯でした。これは、自分が罪びとであると告白していることになります。自分は落第だと認めているからです。しかし同時に、御国に入ることは許されなくても、心の片隅でもいいですから私のことを覚えておいて下さい、と最小限の憐れみを乞うているのです。罪の赦しをお願いしているのです。これに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?イエス様はなんと、大丈夫、一緒に御国に入れるよ、とおっしゃったのです!最小限の憐れみどころが、最大限のお恵みを与えたのです。罪の赦しのお恵みです。神の御国に入れるというのは罪が赦されたということです!死を間近に控えた絶体絶命の時にこういうことを約束してくれる方がおられるというのは何と素晴らしいことでしょうか!
この犯罪人の罪の告白と彼が受けた罪の赦しは、キリスト信仰者が行う罪の告白と受ける罪の赦しそのものです。創世記にあるように人間は堕罪が原因で造り主の神との結びつきを失い、結びつきのないままこの世の人生を送り、この世の人生を終えたら結びつきがないままこの世を去るしかない存在になってしまいました。しかし、神は人間が自分との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげよう、この世から別れる時も自分との結びつきを持ったまま別れられるようにしてあげよう、別れた後は復活の日に目覚めさせて永遠に自分のもとに迎え入れてあげようと思いました。それらを可能にするためにイエス様をこの世に贈られたのです。神はイエス様に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上に運ばせて、そこで神罰を下して彼を死なせました。神のひとり子が人間の全ての罪を償うことで、その犠牲の死に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。そればかりではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、永遠の命に至る道を人間に開かれたのです。
そこで人間が、これらのことは本当に起こったのだ、それでイエス様は救い主なのだ、と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、その人は神から罪を赦された者として扱われるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持ってこの世を生きることになります。復活の日に神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を与えられる地点に向かう道を進んでいくことになります。この神との結びつきは逆境の時でも順境の時となんら変わらずにあります。それでいつも状況に応じた守りと導きを得られます。この世から別れた後も結びつきはそのままで復活の日が来たら目覚めさせられて神のみもとに永遠に迎え入れられます。
ところで、神から罪を赦された者として扱ってもらえるとは言っても、信仰者から罪が全く消え去ったわけではありません。心の中には神の意志に反するものがよどんでいます。何かの拍子にそれに気づかされた時、キリスト信仰者はがっかり意気消沈します。しかし、信仰者にはいつも引き上げてくれるものがあります。ゴルゴタの十字架です。あそこに自分の罪の罰を代わりに受けて下さった方がおられる。神の驚くべき計画によってあの十字架が歴史上打ち立てられた以上は、あの方は私の救い主であり続け、救い主である限り神は私のことを罪を赦された者として扱って下さるとわかります。もうがっかりも意気消沈もありません。そのようにしてキリスト信仰者は罪の自覚を持ち、それを告白するたびに神から罪の赦しを受ける、これを繰り返しながらこの世を進んでいきます。繰り返しがあるのは、自分にはまだ罪が残っていることを意味します。しかし、繰り返しをするのは、自分は罪と敵対している、罪の赦しという神のお恵みの力で罪と戦っていることを意味します。この繰り返しは、復活の日、神の御国に迎え入れられる日に完全に終結します。
本日の福音書の犯罪人は息を引き取る寸前に罪を告白して赦しを受けました。そうすると、どうせ最後の瞬間にイエス様を救い主と告白すれば罪を赦されて天の御国に迎え入れてもらえるのだから、その前は別にイエス様を信じず洗礼を受けなくても問題ないではないかと言う人もいるかもしれません。実際、そういう方とお話ししたことがあります。以前の説教でお話ししたことですが、ここで改めて取り上げたく思います。最後の瞬間にイエス様を救い主と告白すれば天の御国に迎え入れられる可能性は否定しません。しかし、考えなければならないことが二つあります。
一つは、洗礼を受けると聖霊が授けられるというキリスト教の伝統です。人間は聖霊の力が働かないとイエス様を自分の救い主と信じることはできない、理性だけではできない、というのがキリスト信仰の立場です。理性だけだと、イエス・キリストは過去の歴史上の人物に留まります。イエス様には現代を生きる人にとって何か感銘を与える思想と行動があるので、それで興味と共感を覚える人もいます。しかし、それはまだ理性止まりです。それだけだと、イエス様のことを誰もこの世と次に到来する世の双方を生きられるようにしてくれる救い主とは考えません。イエス様をそのような救い主であると分かりだすのは聖霊が働いているからだというのがキリスト信仰の観点です。洗礼を受けるとこの働きをする聖霊が腰を据えて留まることになります。洗礼を受けないでいると、一時イエス様と大いなる人生についての真理を垣間見ることがあっても、すぐ見えなくなります。この世にはいろんな霊が跋扈しているからです。本日の犯罪者の場合は、他の霊が入り込む隙がない位の最後の瞬間でした。このように最後の瞬間の告白で十分だとする考え方の問題点は聖霊を持てないということです。
もう一つ考えなければならないことは、「神の祈りの学校」の在学期間です。「神の祈りの学校」はフィンランドのキリスト信仰者の間でよく口にされる言葉です。どんな学校かと言うと、キリスト信仰者は学校の生徒のようなもので、いろんなことを通して神から教えられる、例えば、祈っても願い通りにならなずに失望や挫折することがあるかもしれない、しかし、そういうことを通してでも神は人間の望みよりも大きなことを与え、そういうやり方で人間を成長させ鍛えて下さる、信仰生活とはそんな実践的な学びの場であるということです。実践的な学びを通して神がどんな方であるかを知ることができます。在学期間が長くて神のことを知れば知るほど、神は本当に信頼に値する方であり、この方が共にいて下されば何も恐れることはないということがわかります。そういうわけで、神の祈りの学校の在学期間が長ければ長い程、この世から別れる時、これから自分の全てを委ねる方はどんな方なのかがよくわかっています。とても身近な存在になっています。在学しないで私は最後の時に委ねるからいいです、と言うのは、神がどんな方かまだよくわからず、まだ身近な存在になっていないで委ねることになります。その時、安心して自信を持って委ねることができるでしょうか?委ねる方がどんな方か自分でよくわかっていて身近な存在になっている場合の方が安心して自信を持って委ねることができるのではないでしょうか?そういう心が持てれば、主の再臨が生きている間に来ようがこの世を去った後に来ようがどっちでもよくなると思います。
主日礼拝説教 2025年11月9日(聖霊降臨後第22主日)スオミ教会
ヨブ19章23-27a節
第二テサロニケ2章1-5、13-17節
ルカ20章27-38節
説教題 「神は死んだ者の神ではなく、生きる者の神である。」
本日の福音書の箇所は復活という、キリスト信仰の中で最も大切な事の一つについて教えるところです。復活は、人間はこの世の人生を終えたら何が待っているかという問いの核心となる答えです。キリスト信仰の死生観そのものと言ってもよいでしょう。
サドカイ派というグループがイエス様を陥れようと議論を吹っかけました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿の祭司を中心とするエリート・グループです。彼らは、旧約聖書のモーセ五書という律法集を最重要視していました。また彼らは復活などないと主張していました。これは面白いことです。ファリサイ派というグループは復活はあると主張していました。復活という信仰にとって大事な事柄について意見の一致がないくらいに当時のユダヤ教は様々だったのです。
サドカイ派の人たちが吹っかけた議論とは、7人の兄弟が順番に同じ女性と結婚したという話です。申命記25章5節に、夫が子供を残さずに死んだ場合は、その兄弟がその妻を娶って子供を残さなければならないという規定があります。7人兄弟はこの規定に従って順々に女性を娶ったが、7人とも子供を残さずに死に、最後に女性も死んでしまった。さて、復活の日にみんなが復活した時、女性は一体誰の妻なのだろうか?ローマ7章でパウロが言うように、夫が死んだ後に別の男性と一緒になっても律法上問題ないが、夫が生きているのに別の男性と関係を持ったら十戒の第6の掟「汝、姦淫犯すべからず」を破ることになる。復活の日、7人の男と1人の女性が一堂に会した。さあ大変なことになった。復活してみんな生きている。この女性は全員と関係を持つことになるのか?ここからわかるようにサドカイ派の意図は、イエス様、復活があるなんて言うと、こういうことが起きるんですよ、律法を与えた神はこんなことをお認めになるんですかね。真に巧妙な吹っかけ方です。
これに対するイエス様の答えは反対者に有無を言わせないものでした。イエス様の答えには二つの論点がありました。まず、人間のこの世での在りようと復活した時の在りようは全く異なるということ。第二の論点は、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことです。
2.復活の在りよう
まず、第一の論点の復活の在りようを見てみましょう。人間は復活すると、この世での在りようと全く異なる在りようになる、嫁を迎えるとか夫に嫁ぐとかいうことをしない在りようになる。つまりサドカイ派は、人間は復活した後も今の世の在りようと同じだと考えて質問したことになります。それは全く誤った前提に基づく質問でした。それでは、復活した者はどんな在りようになるのか?まず、復活した者がいることになる場所は、今の天と地が終わった後の新しい天と地の世になります。そこで、復活した者はもう死ぬことがなく、天使のような存在になり、第一コリント15章でパウロが言うように、復活の体、朽ちることのない体、神の栄光で輝いている体を着せられた者になります。そういう復活に与る者をイエス様は「神の子」であると言います(36節)。それなので復活した者は、誰を嫁に迎えようか、誰に嫁ごうか、誰に子供を残そうか、そういうこの世の肉体を持って生きていた時の人間的な事柄に神経をすり減らすことはなくなります。つまるところ、サドカイ派は復活を正しく理解していなかったのです。だから、女性は7人兄弟の誰の妻になるのか、などという的外れな質問が出来たのでした。
ところで、キリスト信仰の復活を考える時、次の3つのことを忘れないようにしましょう。第一の忘れてはならないことは、今見たように、復活の在りようはこの世での在りようと異なるということです。
二番目に忘れてはならないことは、復活の時、神の御許に迎え入れられる者たちと入れられない者たちの二つに分かれるということです。それを決める最後の審判があるということです。
三番目に忘れてはならないことは、復活と最後の審判は将来、一括して一斉に起こるということです。人間一人一人死ぬたびに起こることではありません。そうすると、じゃ、死んだ人たちはみんな復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも、本教会の説教でルターの教えに基づいて何回もお教えしました。亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っているのです。ところが我が国では、人は死んだら高いところかどこかに舞い上がって、今そこから私たちを見守ってくれているという考え方をする人が多いです。しかし、復活を信じるキリスト信仰から見ると、そんなことはありえません。死んだ人は今、神のみぞ知る場所で眠っている。高いところに行くのは将来のことで、その日その高いところから下を見下ろしても、その時はもう今ある天と地はなくなっています。あるのは新しく創造された天と地と唯一残る神の国だけです。
そうなると、死んだ人が本当に眠ってしまったら、誰が見守ってくれるのかと心配する人が出てくるでしょう。これもキリスト信仰では見守ってくれるのは亡くなった人ではなく、天と地と人間を造られた神、人間に命と人生を与えた創造主の神だけです。この方が私たちの仕えるべき相手です。日本人もこういう心になれば、先祖の祟りだの、何とか霊の呪いだのと言われても慌てなくなり、霊的な恐れや不安を抱かずに生活できるようになるでしょう。
そこで、神の国への迎え入れは復活の日まで待たないといけないとすると、じゃ、天国は今空っぽなのか、という疑問が起きるかもしれません。もちろん、父なるみ神自身はおられます。天に上げられたイエス様も神の右に座しておられます。あと天使たちもいます。他にはいないのでしょうか?そこで気になるのが本日の福音書の個所です。イエス様が言います。かつて神はモーセに向かって、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると言った、と。そして神は生きている者の神である、死んだ者の神ではないとも。そうなると、この三人は今生きているということになります。それはもう復活の日を待たずに一足先に神の御許に迎え入れられてしまったことになります。実は聖書はそういう可能性があることも言っています。例えば、創世記5章に登場するエノクと列王記下2章のエリアはその例です。
3.神は復活に与かって生きる者の神である
次にイエス様の答えの第二の論点、復活があることの根拠に神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言ったことについて見てみましょう。出エジプト記3章6節で神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗り出ます。モーセから見れば、アブラハムもイサクもヤコブもとっくの昔に死んでいなくなった人たちなのに、神は彼らがさも存在しているかのように自分は彼らの神であると言う。イエス様はこれを引用した後でたたみ掛けるようにして言います。「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(38節)。
このイエス様の言葉はわかりそうでわかりにくいです。実は、これを正しく理解できないと、イエス様の答えの第二の論点が理解できません。まず、「神は生きている者の神」と言う時の、「生きている」の意味ですが、これはただ単にこの世で生存している者のことではありません。イエス様が、特にヨハネ福音書で、「生きる」と言う時はきまって永遠の命、復活の命に与かって生きることを意味していたことを思い出しましょう。それなので「生きている者」とは、永遠の命、復活の命に与っている者のことです。永遠の命に与かっている者には、復活の日を待たずして神の御許に迎えられた者と、復活に至る道に置かれて今それを歩んでいる者の両方が含まれます。それで、「生きている者の神」とは、既に神の御許に迎え入れられた者と今そこに向かって歩んでいる者の双方にとっての神です。
次の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」は要注意です。実は、この日本語訳はよくありません。「神によって」と言うと、「神に依拠して」とか「神のおかげで」生きているという意味になります。実はここはそういう意味ではないのです。もちろん、「すべての人は神によって生きている」という言うこと自体は間違っていません。全ての人間は神によって造られて神から食べ物や着る物や住む家を与えられているわけですから、「全ての人は神によって生きている」と言うのはその通りです。しかし、この理解はこの復活の個所とかみ合いません。文脈から浮いてしまいます。文というものは、それ自体は正しくて意味を成すことを言っていても、置かれた文脈とかみあっていなかったら意味を成しません。
それでは、この言葉はどう理解できるでしょうか?まず、「全ての人」というのはここでは全人類のことではありません。これは、35節と36節に言われている、「復活に与るのに相応しいとされた人たち」のことであり、復活に与かる神の子のことです。従って、「全ての人」とは「復活に与かる全ての人」という意味です。
次に、「神によって」と訳されているギリシャ語のもとの言葉は素直に訳して「神のために」とします(後注1)。参考までにドイツ語のEinheitsübersetzung訳ではfür ihn「彼のために」、スウェーデン語訳でも「彼のために」(för honom)です。英語訳聖書NIVはto him「彼に対して」でした。フィンランド語訳は「彼のために」でも「彼に対して」でもとれる訳(hänelle)でした。少なくとも4つの言語で「神によって」と訳しているものはありませんでした。
そこで、「神のために生きる」というのはどういう生き方かがわからないといけません。イメージとして神さまにお仕えする生き方が思い浮かぶでしょう。それでは、神に仕える生き方とはどんな生き方でしょうか?それがわかる鍵がローマ6章10~11節にあります。パウロが、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は罪に対して死んでおり、神のために生きている、と言っているところです(日本語訳では「神に対して生きている」ですが、ギリシャ語では今日のイエス様の言葉同様、「神のために生きている」です)。
パウロはローマ6章で、罪に対して死んで神のために生きるということをどう教えていたでしょうか?人間は洗礼を受けるとイエス様の死に結びつけられる。それと同時に彼の復活にも結びつけられる。イエス様の死に結びつけられると、私たちの内にある、罪に結びつく古い人間も十字架につけられるので、私たちは罪の言いなりになる状態から離脱します。そして、イエス様は死から復活されたので、もう死が彼を支配することはありません。確かにイエス様は十字架で死なれたが、それは彼が罪と死に負けたのではなく、事実は全く逆で、イエス様の死は罪と死が彼に対して力を及ぼせなくなっただけでなく、洗礼を通して彼と結びつけられた私たちに対しても及ぼせなくする出来事だったのです。イエス様が罪に対して死なれたというのは、このように罪に対して壊滅的な打撃を与える死だったということです。そのことが十字架の出来事をもって未来永劫にわたって確立されたのです。
さてイエス様は罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれた後、復活されました。その後は生きることは神のために生きることになると言います(ローマ6章10節)。この、罪に壊滅的な打撃を与えて神のために生きるとは、パウロがローマ6章11節で言うように、イエス様だけでなく洗礼を受けたキリスト信仰者にもそのまま当てはまるのです(後注3)。それでは、キリスト信仰者が罪に壊滅的な打撃を与えて神のために生きるというのはどういう生き方か?パウロは、それは全身を罪の道具に替えて神の義を現わす武器にするのだと教えます。全身を神の義を現わす武器にするとは、具体的にはどういうことか?それは、本教会の説教でも繰り返し教えています。イエス様がもたらしてくれた罪の赦しのお恵みの中にしっかり留まって生きることです。罪の自覚が起こる度に心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しが確かなものであることを毎回確認して、畏れ多い厳粛な気持ちと感謝の気持ちを持って絶えず新しく歩み出すことです。このように罪の赦しのお恵みの中に留まって生きることは罪を踏みつぶしていく生き方であり、神の義を現わす生き方になるのです。復活に与かるのに相応しいとされた全ての人たちは、このようにしてこの世を神のために生きるのです。そして復活の日には、もう踏みつぶす罪はなくなり、完全に神の栄光を現わす器になっているのです。.
最後に、なぜ神はアブラハム、イサク、ヤコブの3人だけの神であると名乗ったのか、ヨセフやベンヤミンは入れなかったのか、ということについて見てみます。神がモーセにこのように名乗ったのはどんな時だったでしょうか?それは、これからモーセがイスラエルの民を率いて奴隷の国を脱して約束の地カナンに民族大移動する任務を与えられる場面でした。神はかつてアブラハムとイサクとヤコブの3人に対して、お前の子孫にカナンの地を与えると約束していました。その約束をこれから果たすという時が来たのです。神はその約束を与えた3人の名を引き合いに出したのです。もちろん、ヨセフもベンヤミンも皆、アブラハム、イサク、ヤコブ同様に復活に与ることには変わりありません。ただ、モーセの前で神は約束した相手に限定して名乗って、自分はした約束を忘れない、必ず果たす者である、と明らかにしたのです。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、聖書の神は約束したことを忘れず、必ず果たす方というのは、私たちの復活の場合もそうです。アブラハムの神が私たちの神であるならば、私たちも復活の日に復活させられるのです。
(後注1)αυτω代名詞、男性、単数、与格
(後注2)ルカ20章38節αυτω ζωσιν、ローマ6章10節ζη τω θεω、11節ζωντας (…) τω θεω (…)。
(後注3)「罪に対して死ぬ」の「~に対して」の与格はdativus incommodiです。なので、罪に対して壊滅的な打撃を与えるように死ぬことを意味します。「神のために生きる」の「のために」の与格は対照的にdativus commodiです。神に栄光を帰する、神の栄光を現す器として生きることを意味します。
フインランドからのプレゼントの讃美歌掲示板です。重いボードでしたが牧師が手荷物で運んで来て下さいました、礼拝時の讃美歌が一目でわかります。
主日礼拝説教 2025年11月2日 全聖徒主日
ダニエル書7章1~3、15~18節
エフェソ1章11~23節
ルカ6章20~31節
説教題 「復活の視点で見渡すことができれば、あなたも聖徒」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書ルカ6章の日課はマタイ5章と同じ「幸いな人」についての教えです。教えの主題は同じですが、見比べるといろいろ違いがあることに気づきます。一般に4つの福音書を見比べると同じ教えや出来事の書き方が違っていることがよくあります。これはどういうことでしょうか?以前にもお教えしたですが、以下のようなことです。ルカ福音書の記者はその冒頭で、自分は信頼できる目撃者の証言や書き留められたものを集めて書き上げたと言います。つまり、自分は目撃者ではないと明らかにしているのです。マタイ福音書の方は、言い伝えによると12弟子の一人のマタイ、つまり目撃者が書いたことになっています。しかし、彼が今の形で全部書き上げたというよりは、彼が残したことを土台にして彼の取り巻きか後継者が追加資料を加えて完成させたと見るのが妥当ではないかと思います。このように、ルカもマタイも今の形になる前にいろいろな資料が土台にあるのです。それでは、それぞれの違いはどのようにして生まれたのでしょうか?
福音書を完成させた人が手にした資料は、その手に渡るまでに何があったかと言うと、まず最初に直に見聞きした目撃者たちがいます。それから、彼らから口頭で伝えられた人たちがいます。さらに口頭で聞いたことを書き留めた人たちがいます。そして最後にそれらをまとめて完成させた人がいます。そうした流れの中で、各自の観点で短く要約したりとか逆に解説を加えて長くしたということが起こります。もしそうだとすると、完成品は史実を正確に反映していないのではという疑いが起こるでしょう。
ここで忘れてはならない大事なことがあります。伝えた人、書き留めた人、完成させた人は自分の観点で短くしたり長くしたりしたとは言っても、彼らはみな共通の観点を持っていました。共通の観点とは次の4つから成ります。まず、イエス・キリストというのは創造主の神がこの世に贈られた神のひとり子であるということ。第二に、その神のひとり子が十字架にかけられて人間の罪を神に対して償ってくれたということ。第三に、そのイエス様が死から復活されて永遠の命に至る道を人間に切り開かれたということ。そして第四に、それら全てのことは旧約聖書の預言の実現として起こったということです。これら4つのことを共通の観点としてみな持っていたのです。これは言うまでもなくキリスト信仰の観点です。この観点はイエス様の教えと出来事がなければ生まれませんでした。みんなこの観点を持って見聞きしたことを記憶して伝えて書き留めて福音書を完成させたのです。それならば手短にしようが解説を施そうが、みんな同じ観点に立ってやったわけだからキリスト信仰の真実性を損なうものではありません。違いの根底には同じ出来事、同じ教えがあるのです。それに、いろんな記述があることで同じ出来事と教えをいろんな角度から見ることが出来、信仰に広さと深みを与えます。それなので、いろんなバージョンがあってもみな同じ信仰の観点で書かれていることを忘れないようにしましょう。それらを皆等しく神の御言葉として扱い、いろんな角度を総合した全体像を予感することが大事です。教会の礼拝で福音書をもとにしてする説教とは実は、今日はルカの角度から全体像に迫ります、ということに他なりません。
2.復活の視点と「幸い」
ルカ福音書とマタイ福音書にある「幸いな人」の教えは共に人間的に見て好ましくない状態が将来逆転することを述べています。好ましくない状態についてルカは経済的な格差に焦点を当てています。将来とは復活の日のことです。今日は全聖徒主日、イエス様を救い主と信じる信仰を抱いてこの世の旅路を終えた人たちを覚える日であり、彼らと相まみえる日に思いを馳せる日です。復活の視点はこの日に相応しいテーマです。
「幸いな人」の教えの中に復活の視点があることがわかるために、まず「幸い」とは何かを考えてみます。どうして「幸せ」と言わず、「幸い」なのでしょうか?「幸せ」はこの世的な良いものに関係します。「幸い」はこの世を超えたことに関係します。皆さんもご存じのように聖書には終末の観点があります。この世はいつか終わりを告げて新しい天と地が再創造される、その時「神の国」が唯一揺るがないものとして現れるという観点です。よく終末論と言われますが、終末の後にも続きがあるので新創造論と言うのが正解でしょう。新創造の時に現れる神の国は、死から復活させられてそこに迎え入れられる人たちをメンバーとします。黙示録で言われるように、そこは神があらゆる涙を拭って下さり、死も苦しみも労苦もなく永遠の命を持てて生きられるところです。そのような国に迎え入れられる人、そしてこの世ではそこに至る道を進む人が「幸い」な人になります。23節で「その日には、喜び踊りなさい」という「その日」とは復活の日、神の国に迎え入れられる日のことです。
この世で貧しかったり飢えていたり泣いている人というのは確かに「幸せ」ではありません。しかし、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたキリスト信仰者は、復活に至る道に置かれてそれを進むので最終的には全てが逆転する復活の日を迎えることになるのです。この世での立場と境遇が逆転して欠乏は満たされ涙は拭われて快活な笑いを持てるようになるのです。これは創造主の神の約束です。だから今の境遇は陽炎のようなもので、それを透かして見ると、神の栄光に輝く復活の体を纏って涙を拭われて快活に笑う自分が見えるのです。
もちろん、復活の日を待たずともこの世の段階で貧しさや空腹や涙から脱することは出来ます。しかし、それも復活の日の「幸い」から見れば、貧しさ、空腹、涙と同じ陽炎です。このように、この世の不運だけでなく幸せもみな復活の日に消えて復活の有り様に取って代わられるのです。
「幸い」と正反対の「不幸な」人たちについても言われます。一つ注釈しますと、ギリシャ語の原文は「あなたがたは不幸である」という言い方ではなく、「お前たちに災いあれ」という言い方です。英語のwoe to youで、ドイツ語もフィンランド語もスウェーデン語も同じ言い方です。どんな災いが降りかかることになるのかと言うと、将来飢えるようになり泣くようになるなどと今の境遇が逆転することが未来形で言われます。将来のいつそうなってしまうかのと言うと、復活の日に神の国へ迎え入れられない時です。
こんなことを言うと、この世で裕福になったりお腹一杯食べたり笑ったりしてはいけないみたいで、もう誰もイエス様の言うことなど聞きたくなくなるかもしれません。ここで次のことに気づきましょう。イエス様は不運な境遇それ自体が「幸い」と言っているのではありませんでした。イエス様を救い主と信じる信仰に生きて復活を自分のものにすることできる、これが幸いなのです。同じように裕福、満腹、笑いそれ自体が災いではないのです。そのような人も信仰に生きて復活を自分のものにすれば、この世の有り様は消えて復活の有り様に替えられるのです。しかし、裕福、満腹、笑いの中にそうさせない力が特に働くので、そういう人たちはとても注意しないといけないのです。
それはどんな力でしょうか?26節を見ると、「全ての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も偽預言者たちに同じことをしたのである」と言います。かつてエレミヤのような真の預言者の言うことを聞かず、偽預言者を賞賛してその言うことを信じた時代がありました。偽預言者のように人間にちやほやされてまるで神のお墨付きを得たような気分に浸ることが災いになるのです。そのような人は神よりも人間を頼りにする人です。神の御前に立たされる日が来たら、神から言われてしまいます。お前は私よりも人間を頼りにしてきたのだから、私抜きで神の国に入ってみよ、と。同じように裕福、満腹、笑いにも神以外のものに頼るものを求めさせる力が働きます。だから、そういう人は注意しないといけないのです。
イエス様はこれらの教えをつき従って来た人々に宣べました。彼らに対して「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」と言い、「富んでいるあなたがたには災いあれ」と言うのです。つまり、彼の周りで聞いている人たちの中に貧しい人も裕福な人もいて、両者に復活の視点を提供しているのです。神の正義はこの世での不正義を逆転させるものなので、今大変な境遇にある人には最終的には大丈夫になるという希望を与えてこの世を雄々しく生きる勇気を与えます。逆に今満足な境遇にある人には注意しないと将来大変なことになるぞと警告を鳴らしてへり下って生きる賢明さを与えます。
3.復活の視点と正義
次にくる教えはとても難しいです。どれも実行不可能なことばかりです。まず、汝の敵を愛せよ、汝を憎む者に良くしてあげよ、これは実行は難しくとも理想としてなら受け入れてもいいと多くの人は考えるでしょう。ところが、その後がもっと大変です。汝を呪う者を祝福せよとか、汝を侮辱する者のために祈れとなどと。極めつきは29節、汝の頬を打つ者にもう一方の頬も向けよ。つまり、頬を打たれても仕返ししないどころか、こっちの頬もどうぞとは、イエス様は一体何を考えているのか?そうすることで相手が自分の愚かさに気づいて恥じ入ることを狙っているのか?もちろん、そうなればいいですが、果たしてそんなにうまくいくものだろうか?むしろ相手はつけあがって、お望みならそっちも殴ってやろう、となってしまわないか?
これに続く教えも無茶苦茶です。汝の上着を取る者に下着もくれてやれ、欲しがる者には与えよ、汝のものを奪う者から取り返そうとするな、などと。十戒には盗むなかれという掟があるのに、それを破る者をのさばらせてしまうではないか?汝殺すなかれという掟もあるのに暴力を振るう者に対してもっと殴ってもいいなどとは。キリスト信仰者はこういうふうにしなければならないと言ったら、誰も信仰者になりたいとは思わないでしょう。さあ、どうしたらよいでしょうか?実は、イエス様はこれらの教えを通しても、キリスト信仰者は物事を復活の視点で見ることを教えているのです。自分には出来ないと言ってここをスルーするのではなく、これらの教えを目の前においてイエス様はどんな視点に立ってこれらを教えているのかを見抜けなければなりません。それをしないで、出来る出来ないと議論するのは意味がありません。
敵を愛せよ、頬を差し出せという教えについて。これは、この箇所だけで考えず、広く聖書の観点で考えます。マタイ5章にも同じ教えがあります。そこでは、神は善人にも悪人にも雨を降らせ太陽を輝かせるとも言っています。これを聞いた人は、神の心の広さに驚くでしょう。しかし、こんなに気前よくしたら悪人は、しめしめ神は罰など下さないぞ、とつけあがらせてしまわないだろうか?これではあまりにも正義がなさすぎるのではないか?
しかし、そうではありません。神は見境のない気前の良さを言っているのではありません。もし悪人に雨を降らさず太陽を輝かせなかったら悪人は干からびて滅んでしまいます。神がそうならないようにしているのは悪人が神に背を向けている生き方を方向転換して神の許に立ち返る生き方に入れるチャンスを与えているのです。神がそのような考えを持っていることは、旧約聖書のエゼキエル書18章と33章からも明らかです。もし悪人がそういう神の思いに気づかずにいい気になっていたら、神のお恵みを台無しにすることになります。最後の審判の時に神の御前に立たされた時に何も申し開きできなくなります。
敵を愛せよ、迫害する者のために祈れというのはこうした神の視点で考えます。自分を傷つける者に向かって、あなたを愛していますなどと言って傷つけられるのを甘受するということではありません。先ほども申しましたように、神が主眼とするのは悪人が方向転換して神のもとに立ち返ることです。だから、危害を及ぼす者のために祈るというのは、まさに、神さま、あの人があなたに背を向ける生き方をやめてあなたのもとに立ち返ることが出来るようにしてあげて下さい、という祈りです。これが敵を愛することです。この祈りは、神さま、あの人を滅ぼして下さい、という祈りよりも神の意思に沿うものです。もしそれでその人が神のもとに立ち返れば迫害はなくなります。その祈りこそが迫害がなくなるようにするのに相応しい祈りです。
汝のものを取られるに任せよというのも、私たちが神から頂いた賜物に固執してしまって賜物を与えてくれた本人を忘れてしまうから、そんな賜物は取られてしまった方がいいのだと極端な言い方で教えているのです。
そうすると一つ大きな問題が出てきます。こうした神の視点を持って危害を及ぼす者に向き合うのはいいが、及ぼされた危害そのものには何もしなくてもいいのかということです。神から頂いた賜物を固執などせず神の御心に沿うように用いていたのに不当な仕方で取られたらそのままでいいのか?そうではありません。法律で罰することやその他の救済機関の助けがなければなりません。十戒で他人を傷つけてはいけない、盗んではいけないというのが神の意思である以上は、それらを放置してはいけません。ただ、法律で下される罰や定められる補償が十分か不十分か妥当かどうかという議論は起きます。そんな程度では納得できないということが出てきたかと思うと、それは行き過ぎだということも出てきます。こうした正義の問題についてのキリスト信仰の考え方の土台にあるのは、自分で復讐しないということです。ローマ12章でパウロが教えるように、復讐は神が行うことだからです。神が行う復讐とは最後の審判のことです。神の目から見て不十分な補償は完全なものにされて永遠に続きます。逆に不十分な罰も完全なものにされて永遠に続きます。これで完全な正義が永遠に実現します。黙示録21章で復活の日に神の御国に迎え入れられた者たちの目から全ての涙が拭われると言われていることがそれです。
キリスト信仰者は、社会に十戒を破るようなことを放置しないが、法律や救済機関を用いる時は復讐心で行わない。それが出来るのは、復活と最後の審判の時に神が完全な正義を実現されると信じるからです。復讐心で行わないことは、パウロが教えるように、危害を及ぼした者が飢えていたら食べさせる、乾いていたら飲ませる用意があることに示されます。危害を及ぼす者にそういうことをするのは、悪人とは言え可哀そうだからそうしてあげようという優しい気持ちがあるからかもしれません。しかし、受けた危害が大きければそんな気持ちは消えてしまうでしょう。ここでパウロの言わんとしていることは、危害が大きかろうが小さかろうが、どんな感情を持とうが関係ない、食べさせ飲ませるのは神の意思だからそうしなさいということです。法的手段に訴えたり救済機関を用いたりすると同時に心は神の意思に直結しているのです。
十字架と復活の出来事が起きる前にイエス様の教えを聞いた人たちは何のことか全然意味が分からなかったでしょう。しかし、十字架と復活の後で、この地上に罪の赦しが打ち立てられ、復活に至る道が切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は復活と完全な正義に至る道に置かれてそれを歩み始めたのです。神から罪の赦しを頂いたことがどれほど大きなことかがわかると復讐心が肥大化するのを抑える力になるはずです。それなのに、私はあいつを裁く、絶対に赦さない、などと言ったら、神は何のためにひとり子を犠牲にしたのかとがっかりするでしょう。私がお前にしたようにお前も周りにすべきではないか、お前に対して恨みを持つ人にそれをなくしてほしいと願うなら、お前がそうしなければならない、そう神は言われるでしょう。イエス様の教えと行動は神の視点、復活の視点をもって見れば見るほど、私はできない、絶対できないと言い張る頑な心を柔和な心に変えてくれるはずです。
2025年10月26日
福音ルーテル・スオミ・キリスト教会礼拝説教
ルカによる福音書18章9〜14節
「神様、罪人のわたしを憐れんでください
1、「はじめに」
今日の箇所の前のところでイエス様は、父なる神様は私たちの祈りを必ず聞いて下さるお方であるのだから、私達はいつでも祈るべきであり、失望してはらないと教えています。そこでイエス様は不正な裁判官の例えを用いて、そのような不正な裁判官であっても、その裁判官にどこまでもしつこく頼むならば、裁判官はその重い腰を上げて裁判をするだろう。不正な裁判官であってもそうであるなら、まして、私達を愛して下さり、子として扱って下さる神様は私達の声を、願いを、祈りを聞いて下さらないわけがあろうかと教えたのでした。その神様への「祈り
についてのメッセージが今日のところでも続いていきます。イエス様は二人の人のことを例に取り上げて、祈りについて、そしてそこにある信仰について教え始めるのです。
2、「自分を正しいと自惚れる人々」
まず、このお話は、9節にある通り、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」とあります。「自分は正しい、自分は間違いがない、悪い所は何もない」と言う人がイエス様のまわりにいた。そしてその人々は、他の人、つまり、彼らから見て、周りの正しくない人、間違っている人を見下しているのを、イエス様は見たり、その人の声を聞いたりしていたのでした。確かに15章の有名な放蕩息子の譬えを話した時にも、イエス様は罪人と呼ばれる人達と食事をしている時でした。その時、周りのユダヤ人たちは、それを見てそのようなイエス様を蔑んだたとありました。さらに16章でも、イエス様がそのような罪深い小さな人々こそを愛するように教える中で、周りの金持ちなどは、それを嘲笑ったともありました。そのように自分たちこそ正しいと自認して、そうでない人を見下す人々が、絶えずイエスのまわりにいた、あるいは社会の中には当たり前のようにいたのでしょう。そんな彼らにイエス様はある二人の人の話をするのです。10節からですが、
2、「祈るために神殿に上る二人」
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
二人の人は祈るために神殿に上って来ました。二人とも祈るためにやって来たのです。一人はファリサイ派の人。つまりそれは旧約聖書を幼い時から非常に良く勉強していて、聖書の律法を厳しく守っている人でした。そしてユダヤ社会では地位が高く、世間からは立派な人達と見られている人達でもありました。他方、もう一人は、徴税人です。徴税人たちは、不正を働いて富を得るものとして、罪人として嫌われていました。彼らはユダヤ人でしたが、外国からの支配者であるローマの皇帝のために税金を集めている人達でした。ユダヤ人たちはローマに支配されていることを良く思っていませんでしたから、「嫌なローマのために税金を集めている人
とまず見られるのです。しかし、それだけで罪人と呼ばれていた訳ではありません。それだけでなく、さらに彼らは、本来集める額よりも多く集めて、その多く集めた分を自分の懐にいれていることをみんな知っていたのでした。ですから、罪人と呼ばれて、蔑まれ、嫌われていたのです。 ユダヤ人たちはそのような罪人である徴税人と交わることを忌み嫌いました。
このファリサイ派の人と徴税人の二人が祈りにやってきました。
A、「ファリサイ派の人の祈り」
ファリサイ派の人はこう祈ります。11節ですが
「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」
彼は、まさに「自分は正しい」と思っています。そして「自分はこんなに、これだけのことをしている」「神の律法をこんなに守っている」と、自らと自分の行いを誇っているでしょう。しかし彼は他の人々や、なによりその隣の徴税人と「比べて」祈ってます。そして「この彼のような罪を自分は犯していない」「だから正しい」というアピールです。そのように彼の正しさの基準はその徴税人、人との比較にあることがわかります。もちろん神様の律法もよく知っていたでしょう。しかし律法云々よりも、彼は「この徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈るのです。これは新改訳聖書ですと、「ことのほか、この取税人のようではないことを感謝します」と強調の言葉で述べられています。
彼は神に祈っていながら、大事なことを見落としているのです。それは何でしょうか?それは彼は「人の前」のことは見ていても、「神の前」にあっての自分は見えていないということです。彼はどこまでも「人との比較」のことを言っています。「人と比べてどうであるか。人とくらべて正しい、悪くない」と。ですから、断食しているとか、献金しているとかも、それは人とくらべてこれだけしているということを言っているのです。それは神の前ではなく、どこまでも人の前でのことに過ぎないでしょう。ですから、彼は、神に祈っているようで、実は神様に祈っていません。神様に向いているようで、神様に向いていません。人と比べて自分を誇ることだけしか向いていないといえます。むしろ自分を誇るために、徴税人を利用し、神さえも利用しているとも言えます。そして「神の前」ということはまったく、彼の心にはありません。むしろ、もし私たちが「神の前
にあるなら、あるいは神の前の自分を知るなら、私達は誰一人何も誇れるものはないのです。だれと何を比べようとも、どんなに人の前で立派な振る舞いし社会の貢献ができ一人当たりも良く世間に評価されていたとしてもです、全ての人は、誰一人漏れることなく、皆神の前には罪深い一人一人だからです。本来、祈りのための神殿は、その罪のための全焼のいけにえをささげに来る礼拝の場所であり、「神の前にあって
、罪を告白する場所でもあったはずでした。ですから、彼はそのような神殿とか礼拝とか、祈りさえも、まさに自分を誇るために利用しているに過ぎないのでした。なにより「神の前」ということがすっぽり抜けてしまっているのです。
この「神の前」ということが抜けてしまう時に、信仰も、祈りも、どこまでも「人の前」になってしまいます。神に聞いてらうのではなく、人に見せるため、聞いてもらうため、人に評価されるためになってしまいます。そしてやはり「人と比べて」の信仰や祈りにもなってしまうでしょう。人はこの「人と比べる」ということで安心を求めます。そしてそれは一瞬は安心するのかもしれません。けれども、神の前」を忘れて、人と比べることによって得られる安心は、不安定な安心であり、長続きしません。そしてやっぱり不安にしかなりません。それ不安定さと不安の結果として、このパリサイ人のように、隣人を、裁いたり、批判したり、蔑んだりになってしまっているのがわかるのではないでしょうか。
B、「徴税人の祈り」
しかし他方、徴税人はどうでしょうか?13節
「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」
目を天にも向けない。そして自分の胸をたたきます。胸の痛みです。それは肉体や内臓の痛みではありません。それは「神様。こんな罪人の私をあわれんで下さい」と。罪ゆえの心の痛みでした。聖書には、罪ゆえの痛みを「心を刺し通される」とか、「心が砕かれる」というような表現がありますが、罪は、心に、何かが刺さるような強い痛みを起こすものです。徴税人は悪いことをしてしまいました。しかし彼は神の前にあって神の前に立つ事ができないのです。見上げることができません。しかし彼は「神の前」にあることを何よりも意識して、知っています。そしてその時、何より、彼はその神の前にあって、自分の罪深さしか見えて来なかったのでした。その痛みと恐れと告白なのです。憐れまれるに値しないような自分しか見えません。絶望的な自分です。しかし彼は、その罪の告白に、この罪人をどうか憐れんで下さいとだけ祈るのでした。いやそう祈ることしかできなかったのでした。
こんな二人、こんな二人の祈りでした。
3、「義とされて家に帰ったのは」
そんな二人について話しイエス様はこう続けます。14節ですが。
「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」」
イエス様はいいます。この徴税人こそ義とされた。ファリサイ派ではないと。ファリサイ派の祈りではなく、この徴税人の祈り、告白こそ、神に受け入れられた。いや、義と認められた。そういいます。正しいとされたというのです。私達人間や、社会の目から見るなら、ファリサイ派の人の方が、社会的にも評価されるのではないでしょうか。人は誰でも、これだけのことをしましたとアピールして、自分を良く見えるように装います。そして世もそれを求めます。それを評価します。人は心の中が見えません。だから人は心を隠し、外面的に自分は正しいとアピールするのです。時にはこのファリサイ派の人のように自画自賛さえします。残念ながら多くの場合、現代でもどの国でも偉い人や地位のある人の方がそのようなことが見られます。政治家は特にそうです。それは宗教家でさえも、牧師にさえも見られることです。当時にユダヤ社会中でもそのようないい人、立派な人、正しい人、信頼できる人は、このファリサイ派の人の方だと、見ていたのです。大体の社会の人の評価はそうかもしれません。しかし、イエス様は、神の視点は全く逆です。義と認められて家に帰ったのは、「ファリサイ派の人ではありません」と、わざわざ言っています。徴税人が義と認められて家に帰ったとイエス様はいいます。なぜでしょう。 「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くするものは高くされるからです」といいます。しかしそれは何より、「神の前にあって」ということです。人の前に何をしたか、何ができるかは、神の前にあって、あるいは何より、ここでは「義と認められるために」、つまり「救いのために」は、全く重要なことではないというのです。行いを見るなら、パリサイ人のほうが言うまでもなく立派であり、取税人のしてきたことは、罪です。しかしどんなに人の前で立派に振る舞うことができ、社会に貢献でき周りに評価され尊敬されても、神の前にあっては、その自分の行いを誇って、自分の罪が見えないことは、救いのために何の役にも立たないのです。それどころか高ぶりの罪とさえ聖書は見ます。神の前では、ファリサイ派の人のようであってはならない、むしろ神の前に、自分の罪を認めることこそが、神様はなによりも求めておられる。そして外側を飾り、装うのではない、人と比べるのでもない。むしろその罪を認め、苦しむ心、神にのみ憐んでくださいと、ただすがる心を神様は決して責めるのでも、裁くのでも、更に苦しめ、大きな罰を加えられると言うのでも決してない。むしろ、神様は、それこそを義と認めて下さる。むしろその罪を赦し、正しい者として、再び立たせ、家へ、社会へと送り出してくださる。遣わしてくださる。そのような神様の心を、イエス様は私達に伝えているのです。
4、「砕かれた悔いた心を神は侮らない」
聖書は一貫してその神様の心を私達に伝えています。詩篇51篇18〜19節にはこうあります。
「もしいけにえがあなたに喜ばれ焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのならわたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。
これは新改訳聖書ではこうあります。
「たとい私がささげても、まことにあなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません。」
と。神の前に、砕かれた悔いた心こそ、神へのささげものとして喜ばれるとダビデは歌っています。イエス様は、マタイ6章のところで、祈りにおいても、人に見られるような祈りではなく、やはり「隠れたところにおられるあなたの父に」と、人の前ではなく、「神の前」ということをイエス様は教えて下さっています。さらにマタイ7章では、隣人に対しても、兄弟の目の中のちりに目を付けるが、自分の目の中の梁に気がつかないものを、イエス様は偽善者と言っています。そして、なにより「自分の目の梁を取り除くように」と教えました。やはりパリサイ人のような「人の前」で人と比べ自分を誇り隣人を裁くのではなく、この取税人のように「神の前」に自分の罪を認める悔いた心をイエス様は教えているのです。そのような自分の目の梁は自分では取り除くことはできません。しかしその梁はこのキリストの十字架のゆえにこそ完全に取り除かれます。罪はキリストの十字架のゆえにこそ赦され、罪人が義と認められるのです。事実イエス様自身は、そのような人の前だけの立派な人を招くためではなくて、神の前に罪に痛み苦しみ、悔いる者を招くためと言っています。ルカ5章31−32節
「「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」」(ルカ5:31〜32)
5、「神の前にあって真に平安に立てるように」
私達はみな「神の前
にあるものです。アダムとエバは堕落した時に、神の前から隠れ、神の声を避けようとしましたが、彼らがそうであったように私たちは誰も神の前を避けることも隠れることもできません。その「神の前
にあって、私達はみな、この取税人のような罪人です。このファリサイ派の人も同じ罪人です。しかし神様はその罪人を裁くためにイエス様を送ったのではありません。救い主として送りました。罪人を招いて、一緒に食事をし、愛を表し、悔い改めさせるためにです。その神の前にあって、私達は自分を誇ることは空しいことです。人と比べて安心することも、結局は意味のないことです。私達は、神の前にあって、何より、そのままの罪深い自分を告白して、「神様、この私を、憐れんで下さい」と、神様に頼り、求める声を、神様はなにより喜んで下さり、受け入れて下さいます。そのような私たちをも罪を赦し義と認めて下さいます。ですから、今日もイエス様は宣言してください。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。今日も神様は私たちをこの福音の約束と十字架と復活における実現で再び新しく立たせて、平安のうちに私達を家族へ、社会へと、新たにつかわしてくださるのです。ぜひ平安のうちにここから遣わされて行きましょう。