説教「神の創造の秩序の中で生きる」 吉村博明 牧師 、マルコよる福音書10章2~16節

2024年10月6日 聖霊降臨後第二十主日 主日礼拝説教

聖書日課 創世記2章18~24節、ヘブライ1章1~4節、2章5~12節、マルコ10章2~16節

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

ファリサイ派の人たちがまたもやイエス様を窮地に追い込んでやろうと質問してきました。今回はモーセの律法集の中にある規定の一つで、夫が妻に離縁状を書いて別れてもいいという規定についてです。申命記24章1節にあります。別の所でイエス様は、不倫以外の理由で妻と別れたら、その妻を姦通の標的にしてしまうとか、夫と別れた女性と結婚する者は姦通の罪を犯すことになると教えていました(マタイ5章)。それでイエス様が結婚をとても重んじていたことは広く知られていました。それなら、なぜモーセの律法に離縁状の規定があるのか?申命記24章1節で言われていることは、妻に何か恥ずべきことがあって夫が気に入らなくなったら離縁状を書いて追い出していいと言っている、なのにこのイエスは神の掟をいたずらに厳しく解釈して人々を不安に陥れている。神の掟とイエスの教えが食い違っていることを公衆の面前でさらけ出してやろう、そういう魂胆でした。

 これから見ていくイエス様の答えは、いかに私たち人間は神の創造の秩序を深く考えないで、自分たちの思いを優先させてきたかを思い知らせるものでした。思い知らされた私たちは、どうすればいいのかと心配になります。イエス様の目的は私たちを心配させることではなく、私たちの心が彼の十字架と復活の業に向くようにすることでした。今日はそのことを見ていきましょう。

2.なぜイエス様は離婚は神の創造の秩序に反すると教えるのか?

 妻と別れてもいいのかと聞かれてイエス様は、モーセは何を命じているかと聞き返します。ファリサイ派は待ってましたとばかり、離縁状の規定のことを言います。別れてもいいという根拠はここにあるのだと。そこでイエス様は神の意思を明らかにします。律法に離縁状の規定があって離婚を認めているのは、人間の心がかたくなになっていることを神が考慮した結果なのだと。新共同訳では「心が頑固」と言いますが、「頑固」だと何だか頑固おやじみたいで、ちょっと微笑ましくもあり、あまり深刻な感じがしなくなってしまいます。ギリシャ語のσκληροκαρδιαは「心がかたくなな状態」という意味で、とても深刻な状態を意味します。どう深刻かと言うと、イザヤ書6章10節で神が罪深いイスラエルの民に罰を下すと宣言した時、民の心を一層「かたくなにせよ」と言いました。それは、神の御言葉や業を見たり聞いたりできなくなるようにするということでした。それで、「心がかたくなな状態」というのは、神に対してかたくなになることで、神に背を向けて神の御心を知ろうともわかろうともしない状態のことを言います。

 それでは、結婚に関して何が神の御心かと言うと、イエス様は「神が結び合わせたものを、人は離してはならない」、つまり離婚してはいけない、これが神の御心であると言います。どうしてそうなのかというと、神の創造の秩序がそうだからと言うのです。では、神の創造の秩序とはどのようなものか?イエス様は創世記2章を引き合いに出して言います。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々でなく、一体である。」イエス様の言葉が書かれているギリシャ語を見ても、彼が引用した創世記2章のヘブライ語を見ても、二人は「一つの肉」になると言います。結婚というのは、神が人間を男と女に造り、男と女がある段階に達すると自分たちを生み出した父と母から離れて父と母がそうであったように一緒になることです。その一緒というのは神の目からすれば合体と言ってもいいくらいの結びつきです。それが神の意思であり、それに基づいて結びついたものを引き離すのは神の創造の秩序に反することになるのです。

 それなら、なぜモーセ律法の中に離縁状の規定があるのか?そこが問題の核心でした。それは、神に背を向ける心のかたくなさが人間にあるからだ、とイエス様は言います。そのために神の御心を知ろうともわかろうともせず、その結果、安易な理由で別れたり、または相手を裏切って別の相手と一緒になるということが起こる。申命記24章1節の離縁状の条件は、「伴侶に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなった時」でした。この「恥ずべきこと」というのはヘブライ語でエルヴァト ダーバールと言いますが、「性的に不適切なこと」という意味です。いろんなふうに解釈される可能性があります。しかし、イエス様は、これを伴侶に対する裏切り、つまり不倫の1点に絞ったのです。そのようなことが起これば離縁状はやむを得ないと言うのです。そういうことがないのに伴侶のここが気に入らないとか、ましてや別の相手と結ばれたいというのが本心で嘘の離縁状を書いてはいけないと言うのです。神の創造の秩序を損なうようなことが相手側に起きてしまった時にやむを得ないものとして認められると。ところで、創造の秩序を損なうことは、伴侶を裏切ることの他に、DVのような伴侶に命の危険をもたらす事態も入れてよいと思います。十戒の第5の掟から明らかなように、命の危険をもたらす事態は神の意思に反するものだからです。そういう重大なこともないのに別れるのは、神の創造の秩序を損なうことになるのです。

 ここで私たちは一つ大事なことに気がつかなければなりません。それは、人間の心からかたくなさが取れて、神に背を向けた生き方をやめよう、神の意思をわかって、それに沿うように生きよう、そういう心が得られれば、離縁状など不要になるということです。どうしたら、そんな心を持てるでしょうか?

 そのような心を持てるために私たちキリスト信仰者は、創造主の神がひとり子を用いて私たち人間に何をして下さったかを思い返します。ひとり子のイエス様は十字架の死を遂げることで、私の神の意思に反しようとする性向、罪を神に対して償って下さいました。人間は、この神のひとり子の身代わりの死は自分のためになされたとわかって、それでイエス様は救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることが出来ます。罪を償ってもらったら、神から罪を赦された者と見なされるようになります。罪を赦されたから、神と揺るがない結びつきをもってこの世を生きられるようになります。この結びつきはひとり子を犠牲にして神が与えて下さったものです。ちょっとやそっとのことで切れるものではありません。人生の中で「死の陰の谷」と言われるような苦難や困難の時が来ても、神が私たちと共に歩んで下さることが本当のことになります。この世から別れる時も結びつきを持って別れます。そして、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く朽ちない復活の体を着せられて、永遠に神の国に迎え入れられます。今日の福音書の日課の終わりでイエス様は、子供のように神の国を受け入れないとそこに入ることは出来ないと言われます。子供たちはどのように受け入れたのでしょうか?イエス様の元に行くことが神の国の受け入れでした。私たちにとって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることがイエス様のもとに行くことです。

 イエス様のおかげで自分は神から罪の赦しの恵みを受けて生きられるようになったとわかった人は、パウロがローマ12章の中で言うような心と態度を持つようになります。他人に対してへりくだる、高ぶらない、悪に対して悪で返さない、善を持って悪に勝つ、喜ぶ者と喜び、泣く者と泣く、少なくとも自分の方からは全ての人と平和な関係を保つようにする、自分で復讐しない、神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませる等々。このような心と態度は、そうしないと神に認めてもらえないぞ、というような脅かしではなく、イエス様のおかげで先に神に認められてしまったからこのような心と態度が続いてくるのだ、それを忘れるなというとても重い注意喚起です。

 そうは言っても、未熟さや力不足で人間関係、夫婦関係で火花が散ってしまうこともあります。そんな時はいつもゴルゴタの十字架に立ち返ります。そこは、赦すことが自分にとっても相手にとっても大事だとわかるところです。私たちは自分が受けた大いなる赦しを、いつも思い出さなければなりません。そうしないと、すぐ血と肉の思いに振り回されてしまいます。自分への言い聞かせは、聖書の御言葉の宣べ伝えを聞いたり(ちょうど今みなさんされているように)、自分で聖書を繙いて罪の赦しの恵みが自分の内に根付くように祈ることです。そして、私たちキリスト信仰者には聖餐式があります。それは、洗礼の時に注がれたこの恵みが自分の内に一層根付くようにする恵みの手段です。

3.なぜイエス様は離婚した後の再婚は姦淫になると教えるのか?

イエス様は離婚はいけないと言うだけでなく、離婚した後の再婚は姦通、姦淫になるなどと驚くべきことも言われます。日本語の「姦淫」とか「姦通」と言う言葉は、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語ではとても単純明快でずばり「結婚を破ること、壊すこと、結婚に対する罪」という言葉です(Ehebruch, äktenskapsbrott, aviorikos)。英語の言葉はadulteryで、英英辞書を見ると「結婚している者が、結婚相手ではない者と自発的に性的関係を持つこと」とあります。つまり、「不倫」です。

 離婚後の再婚を姦淫と言うのは少し言い過ぎではないかと言いたくなります。正式に離縁したのであれば、もう結婚関係はないから、新しい相手と一緒になっても結婚を壊したことにならないのでは?しかし、イエス様はそうは見ない。なぜでしょうか?それは、先ほど見た神の創造の秩序があるからです。

 男性と女性がそれぞれ生まれ出てきた父と母のもとを離れて神が結びつけて一つの肉になる、これが結婚です。そこに外部のものが入ってきて神がせっかく結びつけたものを壊してしまうのが姦淫です。しかし、離婚の場合は結びつきを解消したのだから再婚しても姦淫にならないのではと思われるのですが、イエス様はそうだと言われる。それは、一度一つになったら人間の目では別々になっても、神の目から見たら、一度一つになったことはとても大きなことで、その事実は原則消せないということのようです。つまり、神が結びつけたものは神の記録に記される、人間が解消できたと言ったら、自分には神の結びつけの力よりも強い力があると言うことになります。これは、神は認めないでしょう。離婚の後の再婚をイエス様が姦淫と言うのは、神の記録に記されたことを人間は無効に出来ないということの裏返しです。

 しかしながら、現実には離婚の後の再婚は沢山あります。イエス様の厳しい教えを守っていたら、「新しい出会い」や「人生の再出発」ができなくなってしまうと言われます。それを神の意志に反するなどと言われてはたまらない、そんな神は相手になんかしないという気持ちを引き起こします。あるいは、自分の信じたい神様はそんな偏狭な方ではない、もっと物わかりのいい方だ、と自分都合の神を持ち出してしまうかもしれません。どっちにしても創造主の神に対し心をかたくなにすることです。どうしたらよいでしょうか?

 イエス様は、人間にとっての「新しい出会い」、「人生の再出発」は神の意志に反することだと言われる。他にも心の中で描いただけでも罪だなどと言われる。そこまで厳しいことを沢山言って、人々を後ろめたい気持ちにさせて、イエス様は偉そうにふんぞり返っていたでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。イエス様は人間が持つ神の意志に反すること、行い、考え、言葉すべての面で神の意志に反すること、これが神の怒りをもたらして人間が神との結びつきを持てなくなってしまった状態を変えようとして身を投じたのです!それで、ゴルゴタの十字架の上で自分を犠牲にして神の怒りと神罰を人間の代わりに受けて人間が受けないで済むようにして下さったのです。

 イエス様を救い主と信じる心には神から罪の赦しの恵みが注がれています。イエス様のことも神の意思についても何も知らずに新しい出会いや再出発をした人は、一度起きてしまったことはもう元には戻せませんが、イエス様を救い主と信じて罪の赦しの恵みを受けて生きることはできます。神のひとり子が自分の身を投じてまで与えて下さった罪の赦しです。人間が神との結びつきを持てて神の守りと導きの中で生きられるようにしようと、ひとり子を惜しまなかった神の愛です。私たちがしてしまったこと、考えてしまったこと、口にしてしまったことは全て神のひとり子を犠牲にしなければならないほどの重大なことだったとわかれば、人間は十字架のもとにひれ伏すしかありません。これからはどう生きるか、行うか、考えるか、言葉にするか、全てにおいて神に背を向けず、神の方を向いてするようになります。そうすれば神の創造の秩序に沿わなかった出会い、再出発も罪の赦しに相応しいものに変えられるはずです。

4.勧めと励まし

最後に、神の創造の秩序に男と女の結婚の結びつきがあるとすると、結びつきを持たないで一人でいるというのは創造の秩序に反することになるのでしょうか?そういうことではないようです。マタイ19章12節でイエス様は「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる」とおっしゃっています。それぞれが具体的にどんな人なのか、ここでは立ち入りませんが、一人でいても創造の秩序に反することにならないのです。

 使徒パウロは未婚者とやもめに対して結婚しないで一人でいる方がいいなどと言います(第一コリント7章)。そうかと思えば、結婚しても罪を犯すことにはならない、してもいい、とも言います。このような言い方をするのは、今の世の終わりが近づいているという終末観があるからです。イエス様の十字架と復活の出来事の後しばらくは、もうすぐ最後の審判や死者の復活が起きる、そういう緊迫した雰囲気が当時のキリスト信仰者の間で強くありました。それくらい、イエス様の十字架と復活の出来事は本当につい最近起きた出来事としてまだ大きなインパクトがあったのです。しかしながら、パウロの時代から2000年近くたちました。今ある天と地はまだそのままです。これは、新しい天と地の創造がもう起こらないということではありません。イエス様も言われたように、福音が世界の隅々まで宣べ伝えられるまでは終わりは来ないということなのです(マタイ24章14節など)。

 それでも、キリスト信仰者はイエス様が命じるように(マタイ24章44節など)いつその日が来ても慌てないようにいつも目を覚ましていなければなりません。しかし、終末のことを考えながら、家庭を築くとか、子供を育てるというのは何か矛盾があるように感じます。この世の終わりが来ると言うのに何の意味があるのかと。その場合は、ルターのように考えます。家族とか伴侶とか子供というものは、神が世話しなさい、守りなさい、育てなさい、と言って私たちに贈って下さったものである。神がそうしなさいと言って贈って下さった以上は、感謝して受け取って忠実に世話し守り愛し育てる。もし神の定めた時が来て神にお返ししなければならなくなったら、素晴らしい贈り物を持てて世話できたことを感謝してお返しする。神が世話しなさいと定めた期間はどのくらいかはわかりませんが、その期間は有限とわかればとても大事なものとわかります。贈られたものと一緒にいる一時一時が貴重な時になり、贈られたものは一層愛おしくなります。そして、キリスト信仰は「復活の日の再会の希望」を持つ信仰です。終末と復活が裏表になっていることがわかれば、有限でもこの世で愛情を注ぐべきものがあることは素晴らしいことだとわかります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

説教「救いを勝ち取るために良い業をするのか?救いを得たからするのか?」 吉村博明 牧師 、マルコによる福音書9章38~50節

2024年9月29日 聖霊降臨後第十九主日 主日礼拝説教

民数記11章4~6、10~16、24~29節、ヤコブ5章13節~20節、マルコ9章38~50節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日の福音書の日課には二つの異なるテーマがあります。一つは、38節から40節まで、キリスト信仰者ではなくてもキリスト信仰に好意的肯定的な態度を取る人のことを神はどう見るかという問題です。

イエス様の弟子グループに入っていない人がイエス様の名前を使って奇跡の業を行っていました。弟子たちは、グループに入っていないのだからやめさせるべきと考えましたが、イエス様はやめさせるべきではないと。イエス様グループに反対しない者はグループの側に立っている、つまりキリスト信仰に反対しない者は信仰の側に立っているというふうに聞こえます。

さらに40節では、イエス様の弟子たちに水一杯を飲ませる者は神から報いがあると言います。相手がキリスト信仰者だという理由で飲ませる、と言っていることに注目します。キリスト信仰者に助けの手を差し伸べるのが何か問題になる状況が前提されています。言うまでもなく、迫害の状況です。困っているキリスト信仰者を助ける方は困っていないので迫害を受けていない、ということはキリスト信仰者でない人です。キリスト信仰者でない人があの人はキリスト信仰者だとわかって助けると報いがある。報いというのは、善いことをしたら、ご褒美に何かいいことがあるというようなこの世的ご利益ではありません。マタイ5章11節で「天には大きな報いがある」と言っているように、「報い」とは、将来、天の御国、神の国に迎え入れられることです。さて、キリスト信仰者でなくても信仰者を助けたらそれで天国に入れるということになります。そうなると、イエス様を救い主と信じる信仰以外にも道があることになります。本当にそうなのでしょうか?このことを後で見ていきます。

もう一つのテーマは41節から50節まで。信仰を躓かせるもの、つまりキリスト信仰者を神の意思に反するように導いてしまうものがあることについてです。そういう者は重石を抱き合わせにして海に投げ込んでこの世から消してしまうのがいい、その方が信仰者が神の意思に反するようになるよりもはるかによい、と言います。しかし、実際にはそういう海への投げ込みは起こりません。イエス様は、ただ、その方がましだ、と言っているだけです。海に投げ込まれた方がよさそうな者たちが大手を振っているのがこの世の現実です。なので、キリスト信仰者はそういう者と手を合わせて神の意思に反しようとするものが自分の内にあることを認めてそれと戦わなければなりません。イエス様は、手足目など体の部分が神の意思に反するように導こうとするならば、それらは

り取ってしまえ、五体不満足で天の御国に迎え入れられる方が、五体満足のまま炎の地獄に投げ込まれるよりいいのだ、などと言います。とても極端なことを言っているように聞こえます。果たして私たちキリスト信仰者は、体の部分を切り取らずに五体満足の状態で天の御国に迎え入れられることができるのでしょうか?このことも後で考えてみます。日課の最後は塩について言われています。キリスト信仰者が神の意思に反しようとするものと戦うこと、これが、自分の内に塩を持っているということです。このことも説教の終わりで見ていきます。

2.信仰の告白としての良い業

イエス様の弟子のグループに入っていない人がイエス様の名前を使って悪霊を追い出していました。弟子たちはやめさせようとしましたが、イエス様はそのままにしておいてよいと言われました。その理由は、「私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えまい」でした。これは、どういう意味でしょうか?直ぐ後でイエス様の悪口は言わないということは、一時したら言うようになるということなのか?イエス様はそれでもいいと言っているのか?ここのギリシャ語の原文はとても微妙です。可能性を表す助動詞の未来形がさりげなく使われているからです。この助動詞がある場合とない場合でどう意味が異なるかを考えながら、この個所を何十回も読み返してみました(後注)。恐らく次のようなことではないかと考えるに至りました。「私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で私の悪口を言う可能性はない。」つまり、すぐ後で悪口を言う可能性はないが、一時したら言う可能性がある。言う可能性があるということは、言わない可能性もある。つまり、一時したら必ず悪口を言うようになるとは限らない。悪口を言わないまま続く場合もあるということです。イエス様の反対者になる可能性はあるが、イエス様と一緒になる可能性もあるということです。

イエス様の反対者になる可能性としてどういう場合が考えられるでしょうか?神は何らかの理由で弟子でなくてもイエス様の名前を出したら奇跡を起こさせることをされました。しかし、神はそれをやめさせることも出来るのです。やめさせられたらその人はイエス様に背を向けるようになるでしょう。いつ神はやめさせるでしょうか?それは、その人がいい気になって、自分が何か言えば全部イエスは聞き従ってくれると錯覚するようになった時です。

実際、イエス様の名前を出しても、奇跡が起きないという事例が使徒言行録19章にあります。ユダヤ人の祈祷師たちが悪霊に取りつかれている人に「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言いました。すると、悪霊は次のように言い返したのです。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」そして悪霊に取りつかれた人が祈祷師たちに襲い掛かったのです。イエス様を救い主と信じる信仰がなければ、イエス様の名前を出しても効果はなく、逆に危険なのです。

イエス様に属していなくても彼の名前を使って奇跡を起こした人が反対者にならないでイエス様に属するようになるというのは、どういう場合でしょうか?それは、その人がイエス様の名前を使うと神の力が働くのを目の当たりにして、この名前の持ち主は一体どんな方なのだろうと真面目に考えるようになることです。その方は十字架と復活の業を遂げた救い主であるとわかって、イエス様を救い主と信じるようになることです。神がどういうわけかこの私を選んで奇跡の業を起こさせたことに対して畏れ多い気持ちになって信仰に入ったということです。このようなプロセスに入らないで、ただイエス様の名前を使って奇跡を行い続けることは神の意図するところではありません。遅かれ早かれ打ち切られるでしょう。

以上は、イエス様に属する者ではなかったが、属するようになる可能性があることについてでした。次に、キリスト信仰者でなくても、信仰者が困っている時に助けてあげると天の御国に迎え入れられるということについて見てみます。17世紀の日本のキリシタン迫害の歴史を見るまでもなく、迫害というのはいつも恐ろしい位に徹底していています。キリスト教徒や宣教師を匿ったり世話をしたことが発覚したら、キリスト教徒でなくても全く同じ拷問を受けます。こういうふうに迫害というのは、水一杯を飲ませることさえ命にかかわることなのです。それにもかかわらず、相手がキリスト信仰者だとわかって、命にかかわるとわかって助けてあげるというのは、天の御国に迎え入れられるという報いに値するのだと言う。これは、善い業を行ったらキリスト信仰者でなくても救われるということなのでしょうか?私たちルター派の場合、救いは善い業に基づかない、救いを果たしたイエス様を救い主と信じる信仰に基づく、それとイエス様がもたらした救いを洗礼を通して自分に注ぎ込むことに基づくということを強調します。この考え方とどうかみ合うでしょうか?

この問題で一つ思い出したことは、ルカ福音書23章でイエス様が二人の犯罪人と一緒に十字架にかけられた時、犯罪人の一人が神を畏れてイエス様を救い主と信じる言葉を口にしたことです。これを聞いたイエス様はその人も神の国に迎え入れられると告げました。信仰を告白することが神の国という報いと結びついているのです。そこでキリスト信仰者でない人が自分に降りかかる危険を顧みずに信仰者を助けるというのは、どういうことか考えてみます。イエス様はそれが神の国の報いと結びつくと言っています。つまり、神はこの助ける業を信仰の告白と同等に見なされるのです。ここで注意すべきことは、信仰を告白することは、救いを得るためにする業ではないということです。イエス様を救い主と信じます、なぜならイエス様は罪がもたらす滅びから私を救って下さったからです、私に救いを与えて下さったからです、それで信じますというのが信仰の告白です。救いを得るためにする業ではありません。救いを得たからする業なのです。ルカの犯罪人は、イエス様は罪がもたらす滅びから救い出してくれる唯一の方だと信じ、それ以外のことは見えなくなったのでした。マルコの危険を顧みないでキリスト信仰者を助けることは、真に恐れるべきものは創造主の神であって、迫害を行う権力者やそれに加担する社会ではないということがわかったということです。迫害を受けているキリスト信仰者を見て、神こそが真に恐れるべき方だとわかる、それで助けることは信仰の告白になるのです。それでこの助けは人道支援ともヒューマニズムとも違うものなのです。

ここで少し脇道に逸れますが、マタイ12章30節でイエス様は、私の側についていない者は私に反対している、私と一緒に集めない者は散らしていると言い、イエス様と一緒にいない者を反対者扱いします。この言葉は、イエス様が悪霊を追い出している時に、イエス様に反対するファリサイ派の人たちが、あいつは悪霊の頭の力を使って追い出していると中傷した時の反論です。今日のマルコのイエス様の名前を使って悪霊を追い出している人の場合は、キリスト信仰に入る前の段階のことで、イエス様はその人が信仰に入る可能性があることを言っていました。マタイの場合は、イエス様が言うように、ファリサイ派は聖霊を冒涜しています。既にこの時点でイエス様に背を向けてしまっているのです。それで、厳しい言い方になったのでしょう。

3.イエス様が五体満足で天の御国に入れるようにして下さる

次に信仰に躓きを与えるもの、神の意思に反しようとさせるものとどう戦うかについて。最初に申し上げたように、この世は神の意思に反するように導く力が沢山働いています。それなので、キリスト信仰者はそういう力と結びついて神の意思に反しようとするものが自分の内にあることを認めてそれと戦わないといけないのです。どう戦えばいいのでしょうか?イエス様は、手足目など体の部分が神の意思に反するように導こうとするならば、それらは切り取ってしまえ、五体不満足で天の御国に迎え入れられる方が、五体満足のまま炎の地獄に投げ込まれるよりいいのだ、などと言います。しかし、汚れた部分は切り取って残ったきれいな部分だけで天の御国に行くことは可能でしょうか?それは不可能です。なぜなら、人間は全身全霊が神の意思に反するもの、罪に染まってしまっているというのが聖書の立場だからです。いちいち切り取っていたら、何もなくなってしまう位に染まってしまっているのです。イエス様もそのことはわかっています。人間は自分の力で救いを得ることは出来ないということをイエス様はこの極端な言い方で教えているのです。私たちは救いのために自分の力では何もできないと思い知ります。

だから、父なるみ神はひとり子のイエス様をこの世に贈られたのです。私たちが罪の罰を受けないで済むようにひとり子に罪を負わせて代わりに罰を受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせたのです。しかもそれで終わらず今度はイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命、復活の命に至る道を私たちに切り開いて下さいました。私たちがこのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、イエス様が打ち立てた罪の償いと罪の赦しを自分のものにすることができます。そして永遠の命、復活の命に至る道に置かれて、それを神との結びつきの中で歩むようになります。この世にある限り、肉を纏う私たちの内にはまだ罪が残りますが、そんなのおかまいなしに、洗礼を通してイエス様の無罪(むつみ)、神聖さ、義を衣のように頭から被せられます。この神聖な衣をはぎ取られないように、しっかり掴んで歩むのがキリスト信仰者の人生です。この衣を手離さないでしっかり纏い続けることが、罪に反対して生きていることの証になります。たとえ、神の意思に反することが出てきてしまっても、心の目をゴルゴタの十字架に向ければ、あそこに罪の赦しがあるとわかります。あの方のおかげで体の部分を切り取らなくてよいと安心し、感謝に満たされます。このように罪の赦しという神の恵みに留まることが出来れば、罪の鋭い棘はどんどん鈍くなっていきます。まさにイエス様の神聖な衣を被せられて、その重みで罪を圧縮していくのです。イエス様の神聖な衣をしっかり纏っている限り、私たちは何も切り取る必要はなく、五体満足で天の御国に迎え入れられるのです。

4.勧めと励まし

本日の日課の終わりのところで塩について言われていました。「火で塩味をつけられる」というのは、その前にある地獄の火とは全く異なる火です。人が塩を持てるようにする火です。その塩を持てれば互いに平和に過ごすのが当然になると言うのです。塩は何を意味するのでしょうか?パウロは「ローマの信徒への手紙」の中で、キリスト信仰者とはイエス様を救い主と信じる信仰によって神から義と認められた者、洗礼を通してイエス様の十字架の死と復活に結びつけられて罪に背を向け永遠の命に向かって生きるようになった者であると言います。そのキリスト信仰者がこの世でどういう心と態度を持つようになるかについて同じ手紙の12章で詳しく述べられています。他人に対してへりくだる、高ぶらない、悪に対して悪で返さない、善を持って悪に勝つ、喜ぶ者と喜び、泣く者と泣く、自分で復讐はしない、神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませる等々あります。今日の日課の終わりと同じ、全ての人と平和な関係を保てということもあります。そういう心と態度のことです。これらは、キリスト信仰者はしなければ神に認められないと言っているのではなく、神に認められたからこのような心と態度を持つようになるのだ、忘れるなという注意喚起です。こういう心と態度が塩です。火で塩味を付けるというのは、恐らく洗礼を暗示していると考えられます。洗礼者ヨハネは、イエス様は聖霊と火を持って洗礼を授けると予告しました。聖霊降臨の時、弟子たちの上に炎のような舌が分岐して下ったとあります。洗礼を通して、私たちの全身全霊は新しい心と態度を持つように焼き直されたのです。兄弟姉妹の皆さん、私たちにはこの塩が備えられていることを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注)

原文は以下の通り。可能性を表す助動詞がδυνησεταιあります。

ουδεις γαρ εστιν ος ποιησει δυναμιν επι τω ονοματι μου και δυνησεται ταχυ κακολογησαι με

原文からこのδυνησεταιを取りのぞいたら次のようになります。

ουδεις γαρ εστιν ος ποιησει δυναμιν επι τω ονοματι μου και ταχυ κακολογησει με こちらの方が、「奇跡の業を行った直ぐ後でイエス様の悪口を言わないが、一時したら悪口を言う

の意味がはっきりすると思います。原文のようにδυνησεταιがつくとどう違ってくるかということを考えに考え、説教文にあるような見解に達しました。

説教「道徳論や人権論とは異質なキリスト信仰」 吉村博明 牧師 、マルコによる福音書9章30~37節

主日礼拝説教

2024年9月22日 聖霊降臨後第十八主日

聖書日課 エレミヤ11章18~20節、ヤコ3章13節~4章3、7~8a節、マルコ9章30~37節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

イエス様と弟子たちの一行はエルサレムに向かって南下する旅をしています。今日の日課の出来事は、一行がガリラヤ湖畔の町カファルナウムに来た時の話です。少し前にイエス様は自分がエルサレムでユダヤ教社会の指導者たちに捕らえられて殺される、しかし、三日後に復活すると予告していました。それを聞いて驚いたペトロがそんなことがあってはならないと反対すると、イエス様はペトロを厳しく叱り、お前は神のことを思わず、人間のことを思っている、と言われました。弟子たちにとってイエス様は期待のヒーローでした。イエス様の権威ある教えを聞いて無数の奇跡の業を味わった人たちも思いは同じでした。当時ユダヤ民族はローマ帝国に支配されていたので、いつかそれを打ち倒してかつてのダビデ王の王国を復興させてくれる王の到来を期待していたのです。イエス様に注目が集まったのも無理はありません。

 私たちは、メシアという言葉が救世主を意味すると知っています。もともとの意味は「香油を頭に注がれて聖別された者」で、ユダヤ民族の伝統では王様がメシアの代表格でした。それでイエス様の時代、メシアを民族を超えた全人類の救世主と考える向きはほとんどありませんでした。なので、イエス様をメシアと言って担ぎ出してしまうと、ローマ帝国から反乱者と見なされて弾圧されてしまいます。神が定めた救世主の目的を果たすまでは邪魔されてはいけないのです。十字架と復活の出来事が起きる前、なぜイエス様は自分がメシアであることを公けにするのに消極的だった理由がわかります。ガリラヤ地方に来た時、人々に知られたくなかったのも、このように理解できるでしょう。

 本日の福音書の個所で、イエス様は再び自分の受難と復活について予告します。弟子たちは恐れて何も言えません。このイエス様の驚くべき予告を聞かされた弟子たちは混乱してしまったようです。これから、ユダヤ民族の将来にとって何か途轍もないことを起こす偉大な方が、自分は殺されてしまう、しかし復活する、などと言われる。これは一体何なんだ?この方は自分たちが考えるような偉大な方ではなかったのか、それともやっぱり偉大な方なのだが、それは自分たちが考えるのとは違う偉大さなのか?それで、誰が偉い者かという議論が起こったと考えられます。

それに対するイエス様の答えはこうでした。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、子供を真ん中に立たせて抱き上げて、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

これを読んだ人は、ああ、イエス様は、人間謙虚さが大事、高い地位にふんぞり返っている者は偉くもなんともない、自分を低くして他人に仕える者が本当に偉いのだ、と道徳論をぶっていると思うでしょう。子供を受け入れなければならないと言っているは、聞く人によってはイエス様は子供の人権擁護の先駆者だと考える人もいるかもいれません。しかし、そういうことではないのです。聖書とは、キリスト信仰について教える書物であると同時に、読む人をキリスト信仰に導く神の御言葉です。イエス様のことを道徳論者とか人権擁護者に理解する読み方は、別にキリスト信仰がなくても読める読み方です。イエス様を道徳論者とか人権擁護者に仕立て上げると、古今東西無数にいる道徳論者や人権擁護者の一人にすぎなくなります。

私たちキリスト信仰者は聖書をキリスト信仰なしで読むことはしません。信仰をもって読む者です。それで、今日の福音書の個所も、道徳論、人権論とは全く異質なものが見えてくるのです。今日の説教では、この異質なものを明らかにしようと思います。次の3つのことに焦点を当てて明らかにします。一つは、キリスト信仰にとって「仕える」とは何なのか?二つ目は、「わたしの名のために子供を受け入れる」と言う時の「わたしの名のために」とはどんな意味なのか?三つ目は、キリスト信仰にとって「受け入れる」とは何なのか?

2.キリスト信仰にとって「仕える」とは

イエス様は一番先になりたい者は一番後になりなさいと言い、一番後になるとはみんなに仕えることであると言いました。本当に偉大な者とは人々に仕えられてふんぞり返っている者ではなく、逆に全ての人に仕える者が偉大なのだと。ここで「仕える」とは具体的に何をすることでしょうか?お仕えする相手の要望に聞き従い、お世話をすることでしょうか?召使いのようになることでしょうか?全ての人々に対してそのようなことができるでしょうか?一人や二人だったらできるかもしれませんが、人数が多くなるにつれ難しくなり、全ての人というのは不可能です。

ここで、全ての人に仕えることをしたのはイエス様本人であったことを思い出しましょう。イエス様はどのようにして全ての人に仕えたでしょうか?それは、彼が予告した十字架の死と死からの復活をもってしたのです。どうして、十字架と復活が全ての人に仕えることになるのか?それは、人間が創造主の神に対して、その神聖な意思に反しようとする性向を持ってしまっている(聖書はそれを罪と呼びます)、そのために人間が神との結びつきを失ってしまった、それで人間は神との結びつきを失ったままこの世を生きなければならず、この世を去った後も神のもとに戻ることができない状態になってしまった、この状態から人間を救い出すために神はひとり子のイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせたのでした。人間が持ってしまっている神の意思に反すること、つまり罪の神罰を人間が受けて滅びてしまわないために、イエス様が身代わりになって受けて死なれたのです。これがゴルゴタの十字架の出来事でした。しかし、事はそれで終わらず、創造主の神は今度はイエス様を死から復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示されました。

そこで、今度は人間の方が、これらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、それでその人は神との結びつきを回復して、その結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この世を去る時も結びつきは失われず、復活の日が来るとイエス様と同じように復活させられて神の御許に永遠に戻れるようになったのです。これが、イエス様が全ての人に仕えたということです。

それでは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者にとって人に仕えるとはどういうことになるでしょうか?イエス様は、罪の赦しの救いを全世界的に打ち立てました。しかし、人間は信仰と洗礼を通してそれを自分のものにしないと、打ち立てられた救いの外側に留まってしまいます。人間の救いを計画した神とそれを実行したひとり子イエス様の願いは、全ての人がこの救いを自分のものにすることです。なので、キリスト信仰者にとって人に仕えるというのは、人々が救いを自分のものにできるように働きかたり、考えたり、祈ることが仕えることになります。まさに神が全ての人に仕えたことを受け継ぐことです。

3.「わたしの名のために」の意味

次にイエス様が子供を受け入れる時に「わたしの名のために」と言っていることに注目します。「私の名のために子供を受け入れる」とはどういうことでしょうか?「~のために」はいろんな意味があります。「合格するために一生懸命勉強する」と言う時は目的とか目標です。イエス様の名前が子供を受け入れる目的、目標になっているというのは意味が通るでしょうか?「悪天候のために遠足は中止です」と言う時は原因とか理由の意味です。イエス様の名前が子供を受け入れる原因とか理由になっているというのも意味が通るでしょうか?「家族のために仕事を頑張る」と言う時は何かに利益をもたらす、何かを支えてあげる意味になります。イエス様の名前は私たち人間が何かをして支えてあげなければならないようなか弱いものでしょうか?このように、日本語で何となくわかったような気分でいたことが、少し突き詰めて見ると実は何を意味しているのかわからなくなることが多くあります。

聖書でそうことが起これば、すかさず原語のテキストを見てみます。ギリシャ語でエピ(επι)という前置詞が使われています。これが「~のために」と訳されているのですが本当でしょうか?エピに続く単語は属格、与格、対格のいずれかの格変化をします。格に応じて意味も変化します。今日の個所のエピには「私の名前」が続きますが、「名前」は与格です(ονομα⇒ονοματι)。古典ギリシャ語の文法書によると(後注1)エピに与格が続くと、まず場所を表す意味や時間を表す意味があります。「私の名前」は場所でも時間でもないので当てはまりません。そこでもう一つ、比喩的な意味というのがあります。その中にもいろいろな選択肢がありますが、それらを見比べて一番当てはまると思われたのは、「~に依拠して」とか「~という条件の下で」という意味です(後注2)。イエス様の名前に依拠して、イエス様の名前という条件の下で子供を受け入れるということ。つまり、子供を受け入れる時、イエス様以外の名前には依拠しない、イエス様以外の名前を条件にしない、他でもないイエス様の名前に依拠して子供を受け入れる、イエス様の名前を条件にして受け入れる。それでは、イエス様の名前に依拠して、その名前を条件にして子供を受け入れるとはどういう受け入れなのでしょうか?

4.キリスト信仰にとって「受け入れる」とは

ここでイエス様が成し遂げられた救いを思い出します。イエス様は自分を犠牲に供することで神に対する人間の罪を人間に代わって償って下さいました。人間が神罰から免れて神との結びつきを持てるようになる可能性を打ち立てたのです。さらに、死から復活されたことで死を超えた永遠の命、復活の命に至る道を人間に切り開かれました。イエス様の名前に依拠して、名前を条件にして子供を受け入れるというのは、まさに子供をイエス様が成し遂げた救いの中に迎え入れるということです。子供も大人と同じように罪の償いを自分のものにすることが出来る、永遠の命、復活の命に至る道を歩むことが出来る、子供だからまだ無理だとか、早いとか、そんなことはない、大人のキリスト信仰者はそれをわかって、子供も救いの中に迎え入れなさいということです。

このような教えは、当時のギリシャ・ローマ世界にとって革命的なことでした。というのは、十字架と復活の出来事の後で罪の赦しの福音が地中海世界に宣べ伝えられていきますが、そこは子供や女性の地位が何もないような世界でした。確かに古代ギリシャ・ローマは進んだ文明も持っていましたが、生まれたばかりの赤ちゃんの間引きは日常的に行われていました。最初ユダヤ教がそれに異を唱えました。人間は神に造られた、母親の胎内の時から神に知られているという視点に立っていたからです。キリスト教も同じ視点を受け継ぎました。キリスト教が長い迫害時代の後、ローマ帝国内で地位を確立すると間引きの風習は禁止されました。イエス様は、子供たちにも天使がついていて神の御顔を仰いでいると言われました(マタイ18章10節)。大人についている天使と何ら遜色はないというのです。これも当時の人たちには衝撃的に聞こえたでしょう。

このように「受け入れる」とはイエス様の成し遂げた救いの中に迎え入れることだと言うと、それは別に子供に限ったことではないかと言われるかもしれません。その通りです。イエス様の成し遂げた救いは大人子供関係なく全ての人のために打ち立てられました。それを神はどうぞ受け取って下さいと全ての人に提供して下さっているのです。人はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通してそれを受け取ります。救いが「全ての人に」向けられているということを如実に示しているのが、子供を受け入れなさいというということなのです。子供も大人と同じように罪の償いを自分のものにできる、永遠の命、復活の命に至る道を歩める、だからイエス様の打ち立てた救いは本当に全ての人に向けられているのです。赤ちゃんや小さな子供の場合は先に洗礼を受けて救いを受け取ります。それから両親と教会が、あなたの受けた洗礼はこういう意味があるんですよ、と教え育てて、イエス様を救い主と信じる信仰を意識化していき、堅信礼へと導いていきます。(世の人はこれを聞いて、子供の人権侵害だと騒ぐかもしれません。宗教2世の問題を引き起こすものだと。悲しい世になってしまいました。)

子供をはじめ救いの外側にいる人たちをその中に迎え入れる者は、もう既にイエス様を受け入れており、イエス様を送られた神を受け入れています。それが、外側にいる人たちを迎え入れることで、イエス様と神を受け入れていることが一層証しされるのです。

4.勧めと励まし

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちも、イエス様が打ち立てた罪の赦しの救いは全ての人に提供されていることを覚えて、まだ受け取っていない人たちが受け取ることができるように働きましょう。とは言っても、今はいろんな宗教団体が社会問題を引き起こす時世ですので、誤解や警戒を生まないように何ができるだろうかと悩んでしまいます。しかし、あなたの信仰について教えてほしいと言う人が出たら、しめたもの、何も遠慮することはありません。ペトロの次の言葉の通りにしなさい。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。」(第一ペトロ3章15~16節)。教えてほしいという人がなかなか出なくても、慌てる必要はありません。皆さんが、神と結びつきをもって人生を歩んでさえいれば、順境の時も逆境の時も神から変わらぬ守りと導きを受けているんだという生き方をしていれば、そして将来いつの日か自分もイエス様の復活に与ることになるんだという希望を持っていれば、それを雰囲気を感じ取った人が興味を持って聞いて来るようになるでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

後注1 私が使用している古典ギリシャ語の文法書は、Jerker Blomqvist & Poul Ole Jastrup著の”Grekisk/Grækisk gramatik”です。用いている辞書は、Ivar Heikel & Anton Fridrechsen編の”Ordbok till Nya Testamentet och de apostoliska fäderna”。

後注2 比喩的な意味の他の選択肢は、~に対する命令、(感情表現の動詞と一緒に)その感情の原因、~しようとする意図・目的。

2024年9月8日(日)聖霊降臨後第十六主日 主日礼拝 説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

マルコによる福音書7章24−37節(2024年9月8日スオミ教会礼拝説教)

「謙った砕かれた心を見て喜ばれるキリスト」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「はじめに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 前回は、エルサレムからイエスのもとにやってきたファリサイ派の人々と律法学者達が、イエスの弟子達が手を洗わず食事をしていることを見て、「なぜ昔の人々の言い伝えの通りに手を洗うことを守らないのか」と質問し、それに対してイエス様が答えられた出来事を見てきました。イエス様は彼らに、旧約聖書の預言の言葉から答え、その預言の言葉が示すように、彼らは「口では神を敬うが、心は神に向いていない」と、その見た目は敬虔そうに装っても、その心は偽善に満ちていることを指摘しました。そして「人に入るものが人を汚すのではなく、人から出るものが人を汚すのである」と、神の前では人の心にある罪が汚れの原因であり、人は手を洗おうが、口で綺麗事を言おうが、どんなに立派な行いをしようが、それらで神の前に自らを清めることはできないことを教えたのでした。そこから私たちを唯一きよめ救うことができる天から来られた救い主イエス・キリストを改めて指し示されたのでした。

2、「知られたくないと思うイエス」

 さて、イエス様はその出来事ののち、再び別の地へと移動します。24節からこう始まっています。

「24イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。

 ティルスは、ガリラヤの北、フェニキア地方の地中海沿岸の、異教徒の街です。そして、こう続いています。

「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。

 この時すでに、イエス様の評判は広まっており、ガリラヤ地方でも行く所、行く所で大勢の人々が群衆となって押し寄せていました。5つのパンと二匹の魚の場面でも男性だけで五千人いたことが書かれていました。しかしこのように人から見れば、それほどまでの人気があって支持されている状況であるのに、そのガリラヤから北のフェニキアの異教徒の街にまで退かれ、さらには隠れるように家に入り「誰にも知られたくないと思っておられた」とあるのは、何か疑問に思われるかもしれません。人気があるんだから、もっと支持者を増やして自分の勢力を増せばいいじゃないか、人間の党派心、あるいは多数派が勝るという価値観ではそう思うかもしれません。ですから、ある学者達は、この身を隠した行動について、イエス様は本当は救い主としての道を望んでいなかったんだという人もいるようです。しかし、4つの福音書全体、そしてパウロの書簡に照らしても、間違いなくイエス様は、十字架の道をまっすぐと見て歩んでいましたし、そしてイザヤの預言53章を見ても、その十字架の道は神の御心でありそして罪のための犠牲は神の喜びであったとも書かれていますから、そのような学者達の考えは明らかに間違いだと言えるでしょう。むしろ、そのようにイエス様が世の罪を取り除く神の子羊としてこられ、十字架と復活による救いの完成をまっすぐと見て歩んでいたのであるなら、この地に退き、「誰にも知られたくないと思っておられた」理由が見えてくるのです。それは、すでにこの時、人気が出てきて、人々の人間的な動機や目的や、その勢いだけで彼を地上の王にしようとまでする流れがあった中です。まさにそのような人間的な人気の力などで神のみ心に反して王に祭り上げられることはイエス様の望むことではないでしょう。そのためにこそ、そのような人間の間違った勢いによって導かれることから離れ、神の時を待つためにも、このように異教の地に退き、密かに隠れるような行動も必要だったと言えるのです。

3、「異邦人の女性の求め」

 しかし、それでも、どうやらこの異教の地ティルスにもイエス様の噂はすでに広まっていました。人々に気づかれ、25節

「25汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 26女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。

A,「ひれ伏す女性」

 一人の女性がイエスのことを聞きつけてやってきます。彼女は「足元にひれ伏した」とあります。最大限の心からのイエスへの敬意と謙りです。そして求めるのです。「娘から悪霊を追い出してください」と。彼女の娘は絶望的な状況であったでしょう。彼女は「娘のために」「イエス様ならおできになる」と藁にもすがるようにやってきてひれ伏したのでしょう。しかし福音記者マルコはここで、この女性は「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」と説明を記しています。それは彼女が異邦人の背景があることを強調するものです。それは、先週の、言わば異邦人とは正反対にあるイスラエルの民のファリサイ派や律法学者達との出来事と対照的に描いているようでもあります。そして、この後のイエスと女性とのやりとりともその対照は関わってくるでしょう。女性がそこまでも縋り求めてくるのに対して、27節、イエス様は最初、次のように返しますが、その言葉は私たちから見れば驚くべき違和感のある応答です。

B,「子犬に」

「27イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」

 イエス様は、異邦人である彼女に対して、まずは子供達、つまりイスラエルの民に対して与えるのが先であるといういうことを言いたいのかもしれませんが、彼女を指して「子犬」という非常に侮辱的な言葉を用いているのです。イエス様はなんと失礼で冷たく、突き放しているんだと、私たちは思わされるのです。しかし、この言葉がイエス様の成そうとすることのゴールではもちろんありません。この後に成そうとすることのためのイエス様の意図が必ずあるのです。そのような非常に大きな侮辱にも思えるような、そして突き放されているとも感じる言葉に対して彼女はいうのです。

C,「彼女の応答」

「28ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」

 イエス様が「子犬」と言っている言葉は、ギリシャ語「クナリオン」という言葉ですが、それは野生の犬や、通りにいる野犬のことではなく、家庭のペットを指すような言い方を示すものです。彼女も、そのイエス様のそのことばを捉えて「しかし、食卓の下の小犬も」と答えています。この言葉に、彼女の「足元にひれ伏す」という行為は見せかけの格好だけのパフォーマンスではなく、本当に心からのものであることがここにわかるのです。「最初は子供達に」と言われ、「子犬」と言われても、彼女は、それに怒るのではないし、自分を「侮辱した」と求めるのを止めるのでもありません。むしろ「その通りです」と、イエス様に返しているでしょう。そして、子犬でも、その子供にあげたもののパン屑でもいただければ、それでいいという、彼女の実に謙った心の内がこの彼女の言葉にはわかります。それはまさに彼女の「イエスをどこまでも求める」信仰から出る言葉です。

D,「イエス様の言葉の意図」

 イエス様の意図ははじめから、彼女の娘を突き放すつもりはなかったことでしょう。その求める思いが本物であることも心を見られるイエス様は分かっていたでしょう。だからこそ、その彼女の信仰の告白を彼女の口から引き出すためにこそ、そのような冷たい言葉で返したのではないでしょうか?そして、そのやりとりは、まさにその前の出来事である、先週のファリサイ派や律法学者達と対照的な出来事であり、また対照的な言葉であり、心であることを、イエス様は見事に描き出しています。

4、「神は人の心を見られる」

 イエス様は、前回の出来事からも分かるように、表面的な地位や立場、その表向きの立派な言葉や言い回しや、行いが見た目に立派に映るとかそのような表面的なことだけを見るのでは決してありません。神は人の心を見られるというのは、旧約聖書の時から実に一貫した神様の性質です。イエス様は、ファリサイ派と律法学者達がやってきた時に、その偽善性をすぐに見抜いて、聖書から答えました。彼らは確かに律法に誰よりも詳しく、教える立場であり、律法を完全に守っていると自負する人々でした。しかし、彼らは律法だけでなく、そのように律法を捻じ曲げて解釈した伝統までも含めて、それらを守っている自分の行いを誇り、それゆえにそれを基準に人々を監視したり裁く立場にもなっていました。そのようにしてイエスのもとにやってきて、彼らは確かに口では神の律法や、それを守ってきた先祖の昔から言い伝えられてきた伝統を口にして神を敬うのですが、しかしその心には神はおらず、人間の作り上げたもので神の律法を捻じ曲げ人間の心を支配する偽善性があったのでした。見た目や表向きは立派でしたが、その心が、神を求めない、いやむしろ神であるイエスを試し裁こうとする罪深い動機で支配されているのをイエス様は見抜いていました。そしてそのような心から出るものは何も生まず、清めず、たてあげず、それは人を汚すだけのものであるとイエス様は示しました。

A,「ファリサイ派のようか?異邦人の女性のようか?」

 しかし、このイスラエルの民から見れば卑しい存在である異邦人の女性の心は、彼らの心とは全く逆でしょう。イエス様はまさにこの女性とのやりとりで、周りの弟子達に、そして、現代の私たちにも、神の国のために何が大事であるのかを、はっきりと示してくれているのです。それは、ファリサイ派や律法学者達のように、選ばれた民であり、聖書もよく学び、律法もよく知り、表向きは律法もよく守る良い行いをし、地位も社会的立場もしっかりしている、尊敬もされていて、人の目には申し分ないように見えるが、神は二の次、自分が中心、心には神を求める思いがない、「自分が自分が」になっている、そんな信仰が大事で求められているのか?それとも、卑しい存在、異邦人、本当に子犬と呼ばれてもその通りですとしか言えないし認めざるを得ない現実、しかしそれでも、あくまでも「イエス様、このような卑しいものを憐れんでください。こんな罪深いものにテーブルの上からのパン屑でもいいから与らせてください」と、どこまでもイエスの前に膝まずき、ひれ伏し、イエスの力と憐れみに縋り求める信仰が大事なのか?どちらなのか?イエス様の答えははっきりしているでしょう。29節

「29そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 30女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

 イエス様のこの福音のメッセージは、選びの民だとか異邦人だとか、そのような線引きはもはや関係ありません。それさえ外側のことです。イエス様はこの前のところでも、「人の心」のことを教えていたでしょう。神様は人の表向きの立派さとか、何をしたとか、何を果たしたとか、そのようなことを第一に、あるいはそれだけを見るのではないのです。いやむしろ、大事なのは、その心を見られるのです。

B,「それは純粋で清い完全な心か?」

 しかも、その心が純粋で清いかでもありませんね。むしろ、人は皆その心までも見られるなら誰でも汚れてた罪深い心です。どこまでも自己中心で、自分を神のようにしようとする心です。神の言葉を退け、自分の言葉こそ正しい、義である、清い、清めることができる、そう思い神を無視する心です。しかし、ここでイエス様が見られているのは、どこまでも、神の前に謙り、むしろその自分の卑しさ、罪深さを、その通りですと認め、子犬にすぎない現実を認め、それでも「イエス様、そんな私を憐んでください。癒してください。助けてください」とどこまでも縋り求める心をイエス様は見られ、賞賛されていることが分かるのではないでしょうか。ルカの福音書の18章にも、ファリサイ派と人と徴税人の祈りの例えをイエス様は語っています。そこでは「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」(ルカによる福音書 18:9)とその例えは始まっています。ファリサイ派は、神殿で『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 (11−12節)と祈りました。彼は、自分の完全さを誇るのですが、隣の徴税人と比べての誇りであり、しかし、神の前での自分はまるで見えていません。神の前には皆が罪人であるのに、あたかもそうでないかのように自分を誇る罪深い心があるのですが、それが見えていません。しかし、その隣の徴税人はこうでした。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 」(ルカによる福音書 18:13)。彼は自分の罪深さを悔い、神の前に認め、謙り、「神よ、罪人のわたしを憐んでください」の心です。イエス様はどちらの心を、祈りを受け入れているでしょうか。こう続いています。14節「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 神様は聖書に一貫しているでしょう。イザヤ書57章15節にこうあります。

「高く、あがめられて、永遠にいましその名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にありへりくだる霊の人に命を得させ打ち砕かれた心の人に命を得させる。

 詩篇でもダビデはこう証ししています。51篇19節

「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。

5、「結び」

 私たちは、この1週間、聖書を通して、その中の律法をとおして、日々、自分の罪深さを気付かされる毎日です。律法は実に私たちの心を刺し通し、神の前にあって私たちの本来の事実は、神に受け入れられない滅びゆく存在であることを教えられます。しかし、そのような罪深い私たちに神様は、「自ら自分の力で、自分の罪をきよめ、精算し、克服して、自ら自分の力で、完全に聖なるものとなりなさい。そうすればあなたを救おう、天国に受け入れよう」とは言いませんでした。神はそのような罪深い私たちの現実、滅びゆく現実、自分たちではどこまでも神に背くだけであり、自分で清めるどころか自分でますます汚していくようなそんな救いようのない存在であることを、ご存知だからこそ、あるいは、そんな存在をどうしても救って神の国に与らせたいからこそ、御子キリストを世に人として与えてくださった、送ってくださった。そして、その御子に人類の、つまり私たちの、全ての罪の責任を負わせ、罪の報いである死を、罪の罰である十字架の処罰を、その御子に負わせた。そしてその御子キリストがこの十字架で私たちが負うべき罪の代価を全て代わりに払ってくださったからこそ、神はそのキリストのゆえに、「あなたたちの罪を問わない。あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださり、平安のうちに遣わしてくださるし、神は私たちに永遠の命の道を備えてくださっているのです。その一人子を私たちのために死なせるほどに神は私たちを愛してくださっているのです。それが神が天から私たちに与えてくださっている良い知らせ、福音ではありませんか。イエス・キリストの十字架は、その福音によって平安のうちに生きるようにと私たちに与えられている素晴らしい宝ですね。そうであるのなら、私たちが日々導かれるのは、ファリサイ派のように、表向きの自分でなす行いの立派さで自分を誇り、自分自身に確信の根拠を探すことでは決してありません。このイエス・キリストの十字架と復活が私たちの宝、福音、命であるからこそ、私たちはどこまでもこのイエスの前に日々、謙り、日々悔い改め、「神よ、罪深い私を憐んでください」と祈り求めすがるのです。その砕かれた心こそ、真の神への礼拝、生贄なのです。それこそ神は私たちに求めており、喜んで受け入れてくださる。そして事実、私たちを憐んでくださり、このイエス・キリストの十字架のゆえに、私たちの義のゆえではなく「キリストの義のゆえに」日々、赦してくださいます。そして日々、復活の命で、私たちを日々新しくし、新しい命で生かしてくださり、世にあって私たちを用いてくださるのです。だからこそ、イエス様は今日も私たちに宣言してくださるのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひこの福音を今日も受け、新しくされて、平安のうちにここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2024年9月1日(日)聖霊降臨後第十五主日 主日礼拝 説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

マルコによる福音書7章1−8節、14−15節、21−23節

「人は自らをきよめられない。神が私たちを聖としてくださる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「はじめに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 この週から再びマルコの福音書に戻り、7章に入ります。7月の各週では6章を見てきていますが、そこでは、ヘロデ・アンティパスが洗礼者ヨハネを処刑したところまでを見てきました。その後は、マルコの福音書でも「5つのパンと2匹の魚の奇跡」のことが書かれているのですが、8月はマルコの福音書からではなく、ヨハネの福音書6章からその奇跡と共に、イエス様ご自身がご自分こそ天からのいのちのパンであると告げられたことまで詳しく見てきました。そして再びその後の出来事を、マルコの福音書に戻りまして7章から見ていきます。この直前の6章の終わりのところで、イエス様と弟子達の一行は湖の向こう側のゲネサレの地を訪問されたことが書かれています。ゲネサレの人々はイエスが来たのを聞きつけて、病気の人々を次々とイエスのもとに連れてきました。イエス様のせめて服にでもさわれば治るとまで人々は信じてイエス様に求めてきました。イエス様は、そんな彼らの病を癒やされたのでした。しかしこの7章、同じようにイエス様の元に集まってくる人々がいますが、純粋にイエスの力を信じて集まってきたゲネサレの人々とは実に対照的です。1節から見ていきましょう。

2、「自らのきよめの行為で神の国を見ようとする人々」

「1ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。

 集まってきたのは、ファリサイ派の人々と数人の律法学者達でした。しかもエルサレムからわざわざやってきた人々でした。彼らはなぜ、どのような目的でイエスのもとに集まってきたのでしょうか?彼らもゲネサレの人々のように、純粋に「直してほしい」「イエス様には力がある」とイエスを求めてやってきたのでしょうか?2節からこう続いています。

「2そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 3――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 4また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― 5そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」

 彼らが見たのは、イエスの弟子達の汚れた手、手を洗わないで食事をする弟子達でした。3節以下には、彼らが昔の人々からの言い伝えを固く守っていて、そのようなものが沢山ある事が説明されています。もちろん、私たちも食事をする前に手を洗ったりするのですが、それは衛生上、清潔のための習慣であり、何か昔の人々から受け継いでいる厳格な言い伝えというものではありません。彼らの、手だけでなく、杯などの器や、食べるときに寝そべる寝台までも洗うというこの言い伝えは、衛生上のことではなく、罪汚れに対するきよめが理由であり、神殿に入るときに手を清めるのと似たような理由です。それと同じように、彼らには、汚れた食物などの定めもあり、そのようなものに触れたり食べたりすることは厳格に禁じられていて、決して食べたりせず、食べたら汚れるとして、厳しく戒めてもいました。それは確かに旧約の儀式律法で手を清めるということが命じられてはいるのですが、昔の人々からの言い伝えとあるように、彼らはその律法を厳格に解釈して、神殿礼拝の時だけでなく、人々に食事の前に、自分も食器も食べる時のクッションまでも全てを清めるよう、求めてきたのでした。ですから、彼らはイエスを求めていたのではなく、律法、とは言いましても、彼らが拡大解釈し生活に当てはめた慣習、あるいは昔からの言い伝え、伝統を、イエスや弟子達が守っているか、破っていないかどうかを見るためにイエスのもとにやってきたのでした。そして、尋ねるのです。

「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。

 彼らは自分たちはモーセの律法に、つまり彼らが信じるところの聖書の神の命令にしっかりと厳格に従ってきたし守ってきた、それに誰よりもその律法をわかっていると自負する人々でした。この食事の前の手や食器や寝台を念入りに洗うことも先祖代々受け継がれ守られてきた律法の伝統に沿ったことだと自信を持っていたことでしょう。だからこそ、彼らはこのように質問できたのでしょう。しかしイエス様はその彼らの自信にある矛盾を聖書から照らして指摘するのです。6節からですが、

3、「御言葉からの応答」

「6イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。

『この民は口先ではわたしを敬うが、

その心はわたしから遠く離れている。

7人間の戒めを教えとしておしえ、

むなしくわたしをあがめている。』

8あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

 イエス様は、旧約の預言書のイザヤ書29章13節の言葉を引用します。そしてその預言はファリサイ派や律法学者達あなた方のような偽善者のことを指しているというのです。彼らは確かに社会の周りの人々から見た限りでは、律法をよく知り、教えていました。自分達でもよく守り、守るように教え、時には人々を戒めてもいたでしょう。社会では立派な行いで模範となるような人々であり尊敬もされていたでしょう。もちろん聖書の律法を正しく理解し、正しく行うことは神の御心であり大事なことなのです。しかし、彼らは確かに口では神や律法を口にはし敬っていたとしても、ここで彼らが弟子達を見て問いただし要求してる内容は、律法の正しい理解でも正しい解釈でも正しい行いでもありませんでした。福音記者のマルコ自身も3、4節でわざわざ説明を記しているように、神殿礼拝で行われる儀式律法を人間的に拡大解釈して当てはめたものであり、マルコも神の律法とは呼ばないように、「昔から受け継いで固く守っている言い伝え」に過ぎないと書いたのでした。いわゆる伝統の類のものでした。

 もちろん伝統が全て悪いわけでなく、このキリスト教会に当てはめれば、きちんと聖書に教えられていることに従っており、聖書を歪めたり、聖書の教えを軽んじたりするものではなく、そのように伝統が聖書に従うものであり、教会の徳のために良いものである限りは、伝統は大事にしていくのは全然良いことです。しかし、それが逆になってしまい、まさに昔から受け継いで固く守っている伝統が、聖書よりも優位に立って、聖書を伝統に従わせてしまうなら、それは、イザヤの預言のごとくです。口ではいくら神の名を崇め、賛美をし、神を敬ったり礼拝したとしても、人間の伝統がいつでも優先されたり、判断基準になったり、教会のなかで大きな比重を占めるようになってしまえば、神も神の言葉も実はただの飾りです。その口から出るものとは裏腹に、その心は神から遠く離れてしまっています。神よりも人間の戒めが大事な教えになっており、神よりも人間に従ってしまっています。それは見た目はどれだけ敬虔に見えても、偽りの敬虔です。イエス様がいう偽善というのはそのことです。

 今日の箇所ではない9節以下13節までのイエス様の言葉も彼らの教えていることの矛盾を示しています。十戒では「父と母を敬え」とはっきりと教えられているのに、彼らは、両親にさし上げるものを神殿や神への捧げ物とするなら、両親へするはずだったことはしなくても良いというような教えをしていたようです。何か、家族を犠牲にしてまで教団にいっぱい献金させるような、現代に問題になっているカルト宗教のようですが、しかしそれはカルトだけでなく、キリスト教でもカリスマ的な教会では時々聞く危険で間違った教えです。しかし多くの人がそんなカルト的な人間の教えに騙され引き込まれ、そのようなカリスマ的なキリスト教会でも、家族を犠牲にしてまで教会に献身させたり、高額を献金させたりすることがさせる方だけでなく、する方もそれが「敬虔だ」とか「祝福をもらえる」とか本当に思わされているのを聞くことは実は少なくないです。それぐらいに、人は、聖書を口にしていながらも、そのような本当は聖書は教えていない人間の作り出す最もそうでご利益的な教えに、巧妙に流されて行きやすいということは今もあるのです。そしてカルトやカリスマではなくても、キリスト教会や教団の中でも、何か聖書の一箇所だけを文脈や真の意味や解釈も考慮せずに取り上げて、それにいろいろ教会指導者や教会組織に都合のいいように拡大して作り出された人間的で律法的な教えや伝統の方が、教会やその成長や宣教のために大事にされたり強いられたり、教会内や教団内での評価判断基準とされたりするということは実はよくあることのように思います。しかもそれが聖書的に矛盾するのではと思ったり疑ったりすることも悪であるかのように思えるぐらいに教会や教団で大切にされている伝統とかも時々聞いたりもします。それぐらい巧妙に聖書を超えた人間的なものは聖書を支配し脅かしたりするのです。

4、「人から出たもの」

 当時も、まさにそのような人間の作り出した教えが社会の敬虔になっていたからこそ、彼らは自信を持ってその伝統の管理人としてわざわざエルサレムから来てイエスとその弟子達を指摘できたのでしょう。

 しかし、それらはイエス様の目からはっきりしています。それらは「人から出たもの、教え、言葉」に過ぎませんでした。それは13節にある通り「受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」ことなのです。イエス様は冷静に、彼らの間違いを、しかも聖書から正しく解釈した正しい教えをもって、彼らの質問に答えているのです。

 そして、14節15節の言葉、そしてその言葉を弟子達に解説した20〜22節の言葉は、彼らが投げかけた「手を洗う」「清め」ということについてのイエス様の教えです。

「14それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 15外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」

〜18イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。 19それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」 20更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。 21中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 22姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 23これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

 人から出るもの、それは人間の作り出す、伝統、教え、そして行いや振る舞いや習慣もそれは神の前にあって人間を清めることは決してできません。たとえその手をどれだけ綺麗に洗い、食器までも全て洗い清めたとしても、それは神の前にきよいものとして立つことができる方法では決してあり得ません。あるいは、聖書の言葉だけだと、弱い、分かりにくい、現代の文化や流行に合わない、信じられない、だから人間の側に合うように、分かりやすいように、受け入れやすいように、聖書を人間らしく変えよう、聖書の言葉を都合よく解釈しよう、衣をつけよう、人間らしく装うとしても、それは人間的な成果や成功は実現できるかもしれませんが、神の前になんら良いものとなることはできません。どれだけ周りに賞賛され尊敬され敬虔そうに見えたとしてもです。神の前に清くなることも、功績を積むことも、神のわざに協力し貢献することも、救いや神の国を得ることも、決してできません。いやそれどころか、それは「受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」ことと同じです。それは、人から出ているもので、人を汚しているだけでなく、神を冒涜しているだけなのです。イエス様はここで清くない食べ物の問題にまで踏み込んでいます。当時はそのようなものがありました。使徒の働きでも、イエス様はペテロに幻を見せて、清くない動物を食べるように言われたペテロは躊躇しています。その時、イエス様はペテロに、神が清めたものは清いと言いました。しかし、イエス様はすでにここで、外から人に入る食べ物は消化され外に出るだけで、決して人を汚さないと教えています。

 イエス様がここで「人から出るものが人を汚す」といいます。それは何でしょうか?人の心に巣くう最も深刻で重大な病巣である罪のことを示しているのです。まさに人から出て聖書を曲解し、伝統の衣や文化的解釈の衣で、イエス様の教えを全く異なったものにしてしまうのは、人間の罪です。そのような間違った伝統や律法で、イエス様が与えてくださった信仰の自由や平安を、強制や束縛や不安に変えるのもそれは人間の罪であり人間が罪のゆえに神の言葉を捻じ曲げて作り上げる偽りの教えです。イエス様がその約束の故に私たちに与えてくださっている救いの確信を「本当に救われているのだろうか?と疑わせ不安にさせるのも、人間がそのキリストの福音を捻じ曲げて、福音と律法を混同させて教える間違った福音や間違った律法の教えです。全て「神の言葉、神の恵み、神の福音を疑う」という人間の罪から出るものであり、人から出るものは、どんなに敬虔そうで合理的であっても、数の上では成功で繁栄しているように見えても、聖書に正しく基づき従うものではないなら、それはまさしく人間を汚し、人間を滅びに導くものです。そのように決して人間のわざ、人間の言葉、人間の作り上げる伝統や新しい律法が、人を神の前にあって聖なるものとし義とし、人を救うのではないのです。

5、「終わりに」

 神の目にあって、人を、どんな人でも、真に清め、義と認め、聖徒としてくださり、私たちを救い、平安と救いの確信を与えることができるものは、私たちが手を洗うことでも伝統を守ることでもありません。人から出る何らかの良い行いや功績でもありません。それは、神が与えてくださる言葉、何より、イエス様が私たちの罪のために死んでくださった、そのイエス様の十字架の義のゆえに罪赦され、復活のゆえに日々新しい命を生かされるという福音の言葉であり、そしてその福音のゆえにイエス様が与える水である洗礼、それによる賜物として信仰と聖霊なのです。それだけです。今日もイエス様はその唯一の救いであるイエス・キリストの十字架と復活を私たちに指し示して、今日も宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ今日も、イエス様の福音によっていのちを新たにされて、ここから救いの喜びと平安のうちに世に遣わされて行きましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2024年8月25日(日)聖霊降臨後第十四主日 主日礼拝 説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ヨハネよる福音書6章56−71節(2024年8月25日スオミ教会礼拝説教)

「信仰は律法ではなく、天から私たちへのプレゼント、福音である」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 このヨハネの福音書6章を通して、イエス様が「自分こそ命のパンである」と神の国の福音を伝える箇所を続けて見ています。イエス様はご自分について来る人々に「あなた方がわたしを探すのはただパンを食べて満腹したからだ」と彼のその動機を見抜いて伝えました。しかしそのように言うのは彼らを責めるためではありませんでした。イエス様は、そのような無くなるパンを追い求めても、事実ただなくなるだけであるけれども、イエス様ご自身こそ、それに遥かに勝る、いつまでもなくならない、天からのいのちのパンを与えることができるという福音を彼らに伝えるためであったたのでした。それを聞いて人々は、では「何をしたら」それを得ることができるのかと尋ねるのですが、イエス様はそれは神ご自身が引き寄せ与える人々に、救い主が与える賜物、恵みであり、それは「いつまでもなくならない」「天から」とあるように、地上の物質的な出来事を遥かに超えた霊的な出来事であることを徐々に明らかにしていきます。しかし、あくまでも目に見えるしるしだけに求める人々はそのことを理解できません。それでもイエス様は彼らに神の国の福音を伝え続け、ついには、イエス様はご自身こそ、そのいつまでもなくならない、天から降ってきたいのちのパンそのものであり、わたしの肉を食べ、血を飲むものが永遠の命を得るのだと伝えたのでした。それが先週までのところでした。今日は先週の最後の節から始まります。56節以下こう始まっています。

2、「「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む物」とは?」

「56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 59これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。

 イエス様は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは」と言います。これは驚くべき言葉を言っており、この後の記録を見ても分かる通りに、このイエス様の言葉に多くの人は躓くのです。私たちもこれは何を言っているだと疑問を持つでしょう。これには二つの「食する」ことの意味があります。それは「わたしの肉」を食べ、「わたしの血」を飲むとイエス様がご自身が言っているのですから、一つは、事実、イエス様の肉と血のことを指し、実際に口で食するという意味です。ただもう一つの意味もあります。それは「霊的に」食することをも指しています。54節で

「54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、〜」

 とイエス様が「永遠のいのち」を指して言っている通り、この「食べる」は聖霊と信仰において起こることであり、それは福音の説教とそのみ言葉を聞き、思い巡らし、そして、聖餐を食するときに起こることを意味しています。ヨハネ1章のはじめを思い出すと分かる通りに、イエス様は「ことば」である方が受肉されて人となられたお方です。まさにイエス様は、神の言葉そのものでもあり、神の言葉の語られるところ、説教されるところには、イエス・キリストがおられるのであり、私たちはまさに説教を聞いている時に、聖霊と信仰において、その受肉したキリストの言葉を受けており、キリストそのものを受けているのです。それて何より、聖餐では実際に口で食する行為があり、その御言葉が「わたしのからだ」と宣言する、パンでありながら同時にイエスのからだに預かるのですから、聖餐に与る時、私たちは決して象徴としての体と血を受け取っているのでもなければ、私たちの何らかの行いが聖餐を成り立たせるとか、私たちの行いの捧げものをするとか、信仰の決意表明をする時、とも異なります。私たちは、イエス様の福音書の設定の言葉から、「これはあなたのために与えられるわたしのからだです」と宣言される時には、イエス様が「である」と言っているのですから、イエス様のその真実なみ言葉のゆえにそれはパンを食していながら同時に紛れもなくイエス様のからだを食しているのです。そして同じようにイエス様の言葉から「これはあなた方の罪の赦しのために流されるわたしの血です」とイエス様が「である」と言われているのですから、その通り、それは葡萄酒飲んでいながら同時に、イエス様の「血」を確かに飲んでいるのです。そのようにここで「イエスの肉を食べ、わたしの血を飲むものは永遠の命を得る」と教えられる時に、私たちはイエス様がその肉を引き裂かれ血を流されたその十字架の死と復活、そしてそのイエス様の体と血に口で食し与るがゆえに、罪の赦しと永遠の命を与えられていると告白できるのです。

3、「なぜイエスは、分かり難い言い方をしたのか?信仰によって明らかになる福音」

 しかし、ここでイエス様はなぜはっきりとそう言わず、「わたしのからだを食べ、わたしの血を飲む」と明らかに誤解を与え、何か、実際に人の肉を食べるような言い方をするのだろうか、もっと分かりやすくいうことはできないのだろうか、と思うかもしれません。しかし、これは意地悪でも、知識のひけらかしでもなければ、神の知恵で謎解きをふっかけているのでもないのです。イエス様にあっては、今見てきたように、やがて最後の晩餐で事実になり、聖霊による教会の時代が始まるときに、日々繰り返される恵みの事実を明らかに伝えています。つまり、イエス様が語っていることは、今その時に理解されることではなく、やがて聖霊と信仰によって明らかになる神の福音でした。そして、ここではもう一つの事実をイエス様は、ずっと伝えてきたでしょう。彼らは、「どうすれば、何を行えば」と尋ね続けています。つまり、「自分が何かをする」ことによって、あるいは自分の行為によって得る「いつまでもなくならないパン」を求め続ける、あるいは得ようとする、そんな彼らに対して、37節以下でイエス様はこのようにも言っていたでしょう。

「37父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。 38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。

 つまり、それは人の行いや努力で得ることができるものではなく、神が与えた人々に、御子が与えてくださる賜物、恵みであるとイエス様は伝えていたでしょう。そして、44節以下でも、こうありました。

「44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。 45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。

 その素晴らしい真理を知り、それを受けることができるのは、父が引き寄せたものにイエス様が働かれ与える恵みであることをイエス様は伝えていました。そのように「イエス様のからだを食し、血を飲むということ」は、イエス様がその言葉と聖霊によって与える信仰において明らかにされる福音で、イエス様にあってはその時だけではない、いつまでも残る事実を伝えているのです。しかしこの時はまだ十字架の時ではなく、その前であり、教会と使徒たちによる福音の宣言が始まる前ですから、彼らにたとえ分かりやすく伝えたとしても、仮にそれは自分がかかる十字架と復活のことであると言ったとしても、彼らは理解できず、信じることもできず、やはり躓くのです。なぜなら、それは後に福音の言葉によって目が開かれ知り信じることができることななのですから。事実、私たちも、最初は、十字架と復活の言葉を自分たちで、自分の力で理解できた人はいたでしょうか?そこに至るには当然、自分の罪に刺し通され、悔い改めに導かれるからこそ、十字架の素晴らしさがわかったのですが、その罪さえも私たちは、自分が罪人であるということさえ自分では認められなかったし、悔い改めなんて馬鹿らしい、聞きたくないと最初は誰もが思ったことでしょう。誰でもそうなのです。そう人は、自分の力で、信じようとしても決して信じられません。パウロが言うように、十字架の言葉は、しるしに求めるものには躓きとなり、知恵に求めるものには愚かに聞こえるのです。しかし、今まさに私たちに、このイエス様の言葉の意味、イエス様を食し、その血を飲むことの素晴らしさを知り、信仰があるのは、まさに「与えられている」からでしょう。父子聖霊なる神が、その律法と福音の言葉によって、引き寄せ、導き、与えてくださったからではありませんか。それが福音の真理、福音の力です。ですから、私たちは、ここでその恵みを感謝するとともに、今、目の前の数字や現実を見れば、宣教が不可能で困難だと思えるような現代の状況あったとしても、それを見て嘆くのでも、何か強迫観念にかられ律法的になり互いに裁き合うのでもなく、希望を失うのでもなく、どこまでもイエス・キリストとその言葉、福音を見上げ、イエス様の言葉には不可能なことは何もない、イエス様がその言葉で私たちに信仰という私たちの思いを遥かに超えたことを行なってくださったように、同じように、世のまだイエス様のこの素晴らしさを知らない人々にも同じように行うことができる、行なってくださいと、私たちはそのことを信じ祈り求めて行きたいと教えられるのです。

4、「ゆえに、弟子達も躓く」

 さて、それゆえに、当然のことが起こるのです。60節以下です。

「60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」

 「弟子たち」というのは、12使徒たちと区別しなければなりません。12使徒たち以外にも、多くの弟子たちが着いてきたのでした。しかしその弟子たちの多くのものは、この「イエスのからだを食べ、イエスの血を飲む」という言葉と教えに「聞いていられない」と躓くのです。弟子としてこれまでイエス様の言葉を聞いてきた人々でさえもこの真理を理解できません。人の肉を食事するものとしか理解できませんでした。イエス様はそこで

「62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。

 と続けます。まさにイエス様の教えていることも与えようとしていることも天からの出来事でした。そしてイエス様の十字架と復活の出来事、そこから始まる教会の宣教も、イエス様が天に上られるところをともに見ることから始まります。イエス様はそのことを指して言っているのかどうかははっきりは書かれていませんが、人の肉を食することで躓く弟子たちにイエス様はさらに解き明かすのです。63節以下

「63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

 イエス様は、単なる目にみえる肉の出来事を伝えているのではなく、まさにこれは「天からのパン」「天から来られた救い主」と語り、そして、信仰こそ神が求めておられ、それこそ神が与えるものですから、この言葉によってイエス様は、命のパンは、み言葉とそこに働く聖霊、そして信仰による賜物であることを伝え、それが真のいつまでも消えることのない永遠のいのちをもたらすものであることを伝えるのです。しかし、イエス様はそれでもわかっていました。64節

「64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。

 どんなに伝えても信じない人がいることをイエス様は知っていました。それが誰であるのか、そして、71節にある通り、この後起こる、使徒たちの中の一人が裏切ることさえも知っていました。しかし、ここにも、やはり繰り返し、私たちの信仰の真理、この福音の真理がはっきりと繰り返されています。65節

「65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」

5、「信仰は私たちのわざの結果、律法ではないー信仰は福音」

 「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」ーイエス様の下に来ること、まさにそれは永遠のいのちの歩みであり、信仰の歩みのことです。しかし、それは「父が引き寄せるのでなければ」、ここでは「父からお許しがなければ」とあるでしょう。そこには、救いも信仰も永遠の命も、まさに命のパンに与ることは、人間の知性や理性や行いの度合いや努力による産物では決してあり得ない、それはどこまでも神の働きであり、神が引き寄せイエス様に与えてくださった羊を牧者であるイエス様が決して見捨てず、みことばを語り続け、働き、導いて下り、羊はその声に聞いてただ着いてゆくがゆえの恵みであることをイエス様も教えているのです。このように、信仰は人の行いではなく、賜物であるとエフェソ書でパウロが言うのも、あれはパウロの作り話や誇張した表現ではなく、まさにイエス様の教えに根拠がある、聖書的な真理であることがわかるでしょう。信仰は決して、私たちの行いや意志の力や理性的な理解によるものではない。私たちの信じる信仰は、神が引き寄せてくださったから、神がイエス様にあって語ってくださったから、律法と福音の言葉を通して聖霊が私たちに働いてくださったから、今私たちにあるのです。どこまでも賜物、贈り物、プレゼントなのです。感謝なことではありませんか。

6、「去っていく弟子達。使徒達の信仰告白は天から」

 ところが66節

「66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。

 やはり多くの弟子たちは、イエスの福音に躓き、離れて行きました。 12人の使徒たちに尋ねます。67節

「67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。 68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

 この後、イスカリオテのユダの裏切りの預言で結ばれますが、このシモンペテロの告白は、マタイ16章の有名な告白を連想させます。マタイ16章15-17節

「15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。

 ペテロの「あなたはメシア、生ける神の子です」と言う信仰の告白。その告白についてイエス様は、人間によるものではなく、それを明らかにしたのは「わたしの天の父だ」と教えています。それなのに、このヨハネ6章のペテロの告白「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」 と言う告白はそれとは違う、人間による、ペテロ自身から出たものだ、とは誰も言えないでしょう。もしそうであれば聖書にもイエス様の教えにも一貫性がなく矛盾があります。しかし聖書にもイエス様にも矛盾は全くありません。聖書は初めから終わりまで一貫して真理を伝えています。信仰の告白は、決して人間によるものではなく、どこまでもイエス様の父なる神からのものであると言うことです。その神から与えられた信仰の上に、イエス様は「わたしの教会を建てる」ともペテロに伝えたでしょう。

7、「朽ちない種から生まれた私たち」

そのペテロがこう教会に教えています。

「23あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。 24こう言われているからです「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。25しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」ペテロ第一1章23−25節

 私たちのクリスチャンとしての土台、それはイエス・キリストであり、そのイエス・キリストという土台こそ、朽ちて消えゆく野の花のようではなく、食べては消化されなくなる地上のパンでもマナでもなく、永遠にいつまでも残る、土台であり、拠り所です。決して消えることも裏切ることも見捨てることもなく、いつまでも残る平安と救いの拠り所です。それは御子イエス様が十字架と復活で成就してくださった罪の赦しと永遠のいのちのパンを、絶えず、毎週、悔い改める私たちに与えてくださり、私たちが、イエス様を御霊と信仰により、事実、そのイエス様のからだと血を、受肉されたイエス様のいのちの言葉を、食することができるからこそです。その信仰を与えてくださったのも、神様であり、イエス様であり、聖霊様に他なりません。信仰は賜物、贈り物、プレゼントです。今日もイエス様は私たちにそのみ言葉で変わることなく宣言し与えてくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひそのいつまでも残るみ言葉による罪の赦しと安心をここで今日も受け取り、安心してここから世に喜びと愛を持って仕えるために遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2024年8月11日(日)聖霊降臨後第十二主日 主日礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ヨハネ6章35節、41〜51節(2024年8月11日スオミ教会礼拝)

「父なる神が引き寄せてくださらなければ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 先週は、パンの奇跡を目撃し、パンを食べて満腹し、さらなるしるしを求めて自分のところにやってくる人々に、イエス様は、「なくなる食物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物を求めよ、それこそ救い主が与えることができるものなのだから」と、ご自身が与えようとしている神の国の恵みと救いを伝え始めます。しかし人々は、そのことを悟ることができません。「何を努力し達成すれば、そのようなものを獲得できるのか」あるいは「信じることができるように、イエス様はさらにどんなしるしを、証拠を見せてくれるのか」と、的外れな質問をするのです。さらには、そのイエスが言う、いつまでも残る食べ物は、モーセの時代に天から下ったマンナのような物質的な食べ物であると言う期待に過ぎませんでした。彼らの考え方は、人間的で肉的な考え方を超えるものではなかったのでした。いや、むしろそのように神の知識は人間には、越えられないばかりか、人間は自らの力や知性、理性や論理では、イエス様の語る神の国の知識に至ることなど決してできないのです。そのように人の力ではなく、神のみ言葉こそ救いに導く力でありいのちの糧に他ならないのです。

2、「イエスの言葉を理解できない」

 前回は35節のこの言葉で終わりました。

35「イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

 イエス様は「なくなる食物」を例に「なくならない食物」を取り上げ、少しずつ紐解いてきましたが、この35節「わたしが命のパンである」と、ご自身こそが永遠に続き残る真のいのちの源であることをはっきりと伝えるのです。しかし、36節で、

「36しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。

 と続けているように、イエス様は彼らにご自身をはっきりと示し教えても、彼らが信じないこともよく知っているのです。事実、イエス様が「わたしが命のパンである」と教えたことに対して、彼らは信じるどころか疑い始めます。41ー43節

「41ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、 42こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」

 彼らは「パンを食べて満腹したから」イエス様を探しついてきます。つまり、あの人里離れた山の上で、何も食べるものがないようなところで、5つのパンと二匹の魚から5千人以上の人々を満腹にさせた奇跡、紛れもない神のわざを経験した者たちでした。その奇跡に「満腹」であるにせよ、感動したから彼らはついてきたでしょう。そのしるしは紛れもないイエス様が神の御子であることの証しでもありました。しかも、彼らは、30節で

「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。

 と、彼ら自身が「信じることができるようにしるしを見せてほしい、証拠を示してほしい、」と求めているのです。まさにその求め以前に示された証拠、しるしが、5千人の給食であったでしょう。しかし、それに基づいて、イエス様が「わたしが命のパンです」と、ご自身こそそのしるしが指し示す、約束の救い主であることを示したとしても、彼らは信じられず、むしろ、そのイエス様が自分のことを「わたしが天から下ってきたパンである」とはっきりと示したことに彼らは呟き躓くのです。マルコの福音書で見てきた、ガリラヤのイエスの出身の村の人々が躓いたのと同じ理由です。人は、自分中心の常識や正義の論理、あるいは価値観で真偽を判断するものです。彼らから見れば、イエスは、エルサレムの律法の教師やパリサイ派出身でもなければ、祭司の家の生まれでもありませんでした。大工であるヨセフの家の長男です。彼らにとっては父も母も知っていて、家族も知っていて、そんなごく普通の貧しい家族と「天から降ってきた」と言う言葉がつながらないのです。神でなければできないような、あれだけの奇跡としるしを見て満腹してもです。そのように、人間の知識や理性、どんな論理的な説明も、あるいは人間の万人が認めるような常識や価値観も、それがどんなに高等なもので、人の前で理路整然としたものであっても、人間の力や理性では、決して神の国の言葉と証しを理解できない、むしろ躓きになる事実が、ここにも示されています。

3、「罪人の現実:十字架の言葉が、躓きであり愚かとなる」

 パウロが教えている通りです。コリント第一1章22節以下、こうあります。

「22、ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 23わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 24ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 ですから、よくキリスト教信仰に対して「信じるから、科学的証拠を見せてみろ」と言う人はいるわけです。そもそもキリスト教は人間の合理性に当てはまる宗教でも、論理的な証拠を示す宗教でもありません。むしろここにある通り、神の力であるみ言葉を通して、しるしを求めるユダヤ人には躓きで、知恵を求める異邦人には愚かに聞こえる福音を伝える宗教なのです。ですから彼らが求め期待するような証拠など示すことはないのですが、しかし仮に、十分確かな証拠を示したとしても、そのように言う人々はどこまでも「信じない」ことでしょう。なぜなら、神の国の福音は、人間の力、努力、理性、あるいは論理性に裏付けられた理解によってわかる、信じることができるものではないからです。そして同時に、人間は、どこまでもあの堕落のアダムとエバの腐敗した性質を受け継ぐ罪人であり、その自らの力では、どこまでも、神とその言葉を信じられない、受け入れられない、否定しようとし、反逆しようとするものだからです。ですからイエスの言葉に躓く人々、まさにパンを食べて満腹したから探し求め、そして、このようにはっきり「わたしだ」と示されても信じられずに躓く人々の姿は、特殊な人間を示しているのでも、私たちとは無関係な、不信仰で反抗する人々を示しているのではないのです。この姿こそ、罪人である人間、人間の罪深い性質、私たち自身の姿、私たち自身の性質を代表し示しているとも言えるのです。

4、「真の教会と宣教:イエスは躓く人のために福音を捻じ曲げ妥協したか?」

 ですから、何か人間が躓くような聖書の記録は神話だとか作り話だとか間違いだとか、聖書を捻じ曲げ、人間が躓かないような理性的な説明や新しい解釈で、新しいキリスト教、文化的な新しく解釈された神や福音を伝えようとすることが、現代的な教会だとか宣教だという主張をよく聞きます。そのような考えは、個人主義的で消費社会の申し子である現代人の必要に合致していて最もそうで理解しやすいかもしれません。しかし、それはイエス・キリストの福音を宣教しているのではなく、イエス・キリストを私たちの罪深い好みの服装で装飾し着飾らせた別のキリスト、偽りの福音を伝えているに過ぎないとも言えるでしょう。しかしイエス様は、ここで彼らが躓くからと、そこで真理を捻じ曲げたり、神の約束や計画を否定したり、再解釈したりしません。躓き呟く彼らに神の真理をそれでも、どこまでもまっすぐ語り続けます。43節

「43イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。 44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。

 人々は、どこまでも自分中心でしか物事も信仰も、神の国や救いも考えられません。満腹したから来ました。さらに自分を満足させる印を求めます。そのためには自分が何をしたら良いのかと求めます。あたかも自分がそれを達成し果たすことができるかのように。そして信じられないことをイエス様に言われると、信じることができるようにさらなるしるしや証拠を求めます。「自分が信じることができるように」と。そして、イエス様が「それがわたしだ」とはっきりと自分を示されると、今度は、自分たちの常識や価値観で「そんなことありえない」と疑い否定し始める。どこまでも自分中心に神を解釈し、神を見ようとする。その自分中心の価値観や枠組みに合わないと、神はいない。そんな神はありえない。本当の神ではないと言い始める。それが人間であり、私たちなのです。しかしそんな彼らを全てご存知で、全てを見通して、そしてそんな躓きに妥協せずに、イエス様はまず「呟くのはやめなさい」と言います。なぜでしょうか?イエス様は、神の国の真理、信仰の真理をはっきりとこういうでしょう。

5、「父が引き寄せてくださらなければ:人が得るのではなく神が天から与える真の命」

「44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。

 と。「呟くのはやめなさい」ーなぜか?なぜなら、どんなにつぶやいても、理屈を並べ立てても、「 44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない

からです。ここにも信仰と救いの本質をイエス様ははっきりと教えています。「父なる神が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしの元へ来ることはできない」と。神の国も、そこに至る信仰も、神が働くのでなければ私たちには不可能なのです。これは今日の箇所では飛ばされている37節でもイエス様は言っています。

「37父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。

 と。ここでも父がわたしに与えてくださるから」その人はわたしのところへ来るのだと。39節でも繰り返しています。「わたしに与えてくださった人を」と。このように神の国は、神がイエスに引き寄せ、神がイエスに与えてくださるからこそ、その人はイエスを通って、神の国へ導かれる。これが何よりの真理であり、ゆえに、なくなることのない命の食物も、それは、人が努力して勝ち取るものでは決してない、神がイエスに与えてくださるから、引き寄せてくださるからこそなのです。そのような人を36節以下ではこう続いています。

「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。 38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 40わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 と。神がイエスに引き寄せる人々、与えてくださる人々を、イエス様は決して追い出さない見捨てないとあることはものすごく感謝なことです。神が引き寄せ与えた人々を、イエス様は責任を持って、その人に神の御心を行ってくださる。その御心とは、その与えられた、引き寄せられた人々が一人も失われることがないようにすること、信じるようになること、永遠の命を持つこと、死んでもやがて復活するその時まで、全責任を持って導くことだと、イエス様は言ってくださっているのがわかるでしょう。

6、「真の教会と宣教:御言葉による確証と約束:「こう書いてある」

 しかもイエス様はそれを単なる思いつきでは言いません。あえてしるしや証拠を示すとするなら、イエス様はここでみ言葉を引用するのです。45節です。

「45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 48わたしは命のパンである。 49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

 イエス様はもちろん目に見えるしるしや癒しも沢山行いました。それもイエスが神の御子救い主であることを示す証しであり、しるしはしるしそのものではなく、何よりイエス・キリストは真の救い主であることを指し示していました。しかしそれ以上に、イエス様が絶えず示す証しは、どこまでもみ言葉です。「預言者の書」というのは当時の聖書であり、私たちが旧約聖書と呼ぶものです。そこに「こう書いてある」というのがイエス様の証しであり証明でした。このスタンスは何よりあの荒野でのサタンの誘惑の場面からも一貫していることです。あの巧妙で狡猾で知恵深いサタンの、み言葉を悪用してまでの三つの誘惑に対して、イエス様は、当時の社会の価値観や哲学や科学の最先端の論理的説明や、あるいは人間が好むような文化的な解釈でサタンに反論しませんでした。イエス様はサタンの聖書の悪用による誘惑に対しても、どこでも聖書のみ言葉を引用し「聖書にこう書いてある」と言って、誘惑を退けたでしょう。みなさん。ここに教会の立つべき最高の模範と宣教があるのです。昨今、いやすでに初代教会の時代から変わらない教会内の問題ではあったわけですが、今も、世の中の問題に、まさに教会までもが、神の言葉の力を信じないかのように、人間中心で、社会の価値観や、理性や科学の常識、あるいは文化的な解釈と呼ばれるもので、聖書を再解釈して教えるようなことが、自由主義教会だけでなく、福音派の中でもいつの時代も当たり前とされてきています。しかし、それはサタンの誘惑に見事に乗ってしまっていますし、聞き手がつまずくからと、聖書の真理を妥協し、神の御心を損なっているのです。しかしイエス様はそうしないでしょう。イエス様は聖書を、聖書から解釈し、教え、説教するのです。神の言葉は、人間の知恵で解釈するのではなく、神の言葉によって解釈し、だからこそみ言葉と聖霊の力と助けによって人は神の御心を正しく知ることができるのです。そして、イエス様がそのようにして伝えることは100%誤りのない完全な言葉であり解釈でもあります。なぜなら46節、「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」とあるからです。そう、イエス様は、イエス様こそが、イエス様だけが、神の下から来られたお方です。だからこそイエス様だけが父を見たお方です。他は誰もいません。どんなに知恵のある律法学者でもパリサイ派でも、偉大な預言者でも、父を見たものはいないのです。モーセでさえもその顔を見ることができませんでした。そう、イエスは真に父なる神から、人となられた神の御子、父なる神を知る方、父なるを神を証しできるただ一人のお方です。その方の証しこそ、神からの言葉こそ、神から与えられた権威と力こそ、真実であり、真の永遠に残る、朽ちることのないいのちを与えることができるのだと、それが、死んでも生きる、マナを食べた人が皆死んでいったようなことは起こらない、永遠にいつまでも残るいのちのためのパンの意味であることをイエス様は伝え続けるのです。

7、「結び:救われる私たちにとってそれは愚かではない」

 今日はここまでですが、この後、さらにイエスの説教が続いていきます。ここに至っても、人々は、世の知恵や理性に合致しないからと議論し続けます。正しく、しるしを求めるユダヤ人には躓きで、知恵を求める異邦人にはどこまでも愚かにしか聞こえないのです。私たちにとってもかつてはそうであったでしょう。十字架の言葉は愚かでした。イエス様が真の命のパン?そんなことよりも世に満ち溢れ自分の欲求を満足し理性を満たす知恵を見せろ、というのが、私たち皆にある罪深い性質であり、私たちの堕落したままの姿です。しかし、いつも立ち返るところは同じなのですが、イエス様は今日もこのことを指し示しているでしょう。皆さん、この御子イエスキリストの十字架の言葉は、今ここにいる私たちにとっては、愚かに聞こえますか?躓きですか?違うでしょう。私たちにとっても(コリント第一1章24節)「召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」と私たちは今日も告白するでしょう。(1章18節)「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と、私たちは今日も確信を持って告白し、ゆえに今日も救いを確信し安心するでしょう。そして、その信仰と確信は、今日学んだ通りです。私たちの力や知恵、呟きや屁理屈の結果では決してなく「父なる神がイエス様に引き寄せてくださったから、イエス様に私たちを与えてくださったから」こそ、イエス様がその大事な宝である私たちを責任を持って、み言葉と聖霊の働きによって、信仰を与えてくださった。永遠のいのちを与えてくださった、そして復活の日まで責任を持って導いてくださると、その恵みを喜び安心し、今日も出ていくことができるでしょう。今日もイエス様は変わることなく悔い改める私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ今日も安心してこここから世に、御心を行うために遣わされていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2024年7月28日(日)聖霊降臨後第十主日 主日礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ヨハネによる福音書6章1〜15節(2024年7月28日:スオミ教会説教)

「イエスは僅かなものを感謝し神のわざを行われる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 このヨハネの福音書6章では、イエス様は、パンと魚を通して、肉体の必要を心配し満たしてくださる感謝な恵みとともに、そのことを通し、イエス様に開かれる神の国は、何よりも、私たちの霊的な必要を満たしてくださることを教えてくれています。

 イエス様はガリラヤ地方を巡っています。ここで1節「ガリラヤ湖の向こう岸」とあるのは、ガリラヤ湖の北東の岸を意味しています。そこで2節、大勢の群衆がイエスのもとに集まります。そこには「イエスが病人達になさったしるしを見たからである」とあります。これまでのマルコの福音書でも見てきたように、イエス様は、大勢の病人を癒やされ、その中の医者にも見捨てられたような病人さえも癒やされたり、さらには病気で死んでしまった人を生き返らせたりと、人間の力や思いを超えたような出来事もありました。その目撃者、それを聞いた人が群衆となって押し寄せていたのでした。その奇跡はもちろん、身元にやってくる病気に苦しんでいる人々への憐れみと愛の実現であるのですが、同時に、イエス様が真に神の御子救い主であることを示すための証しでもありました。しかし、イエス様が世にこられた目的は、そのしるしを見せるだけでもなければ、病気を治すことだけでもないこともこれまで見てきた通りです。この6章では、後の箇所になりますが、しるしを見て、あるいは今日の出来事のパンを食べて満腹し、満足して、さらにしるしを求める人々へ、イエス様は真の目的である霊的ないのちの糧であるご自身を示していくことになります。

 今日の箇所を見ていきますが、3節、

2、「イエスの求め:それに対する弟子たちの現実を見ての戸惑い」

「3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。

A,「弟子たちへの教えの時」

 先週まで見てきたマルコの福音書の6章30節以下を見ると、今日のいわゆる「5千人の給食」の前に、イエス様は弟子達に権威を与え遣わしており、ちょうど帰ってきて弟子達がイエスへ報告した後になっています。そこでマルコ6章31節を見ると、イエス様は「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と弟子達に言っており、それは「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 」(マルコによる福音書 6:31)とあるのです。ですから、当初は弟子達は休むために「人里離れた」山に向かったようです。その後でイエス様が合流されその静かなところで弟子達に教えるために座られたと思われるのです。しかし、5節です。大勢の群衆はそのイエスについてきたのでした。

 そこでイエス様は弟子の一人フィリポに尋ねるのです。5節からお読みしますが、

B,「すべてを知った上でのイエスの弟子たちへの質問」

「5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、 6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。

 最初、イエス様は群衆にではなく、弟子達に神の国を伝えていました。そこにしるしを見た群衆が集まってきたのでした。ですからイエス様の目的は群衆に教えることではありませんでした。しかし、イエス様はその集まってくる群衆を見られて、彼らのことも心配され「食べさせるためには、どこでパンを買えば良いだろうか」とその空腹という身体的な必要のことを心に留めてくださっています。他の福音書を見るとその時は、もう時は「日も暮れ始め」とあり、そして「人里離れた」ところでもありました。そんな所にわざわざ見にきた人々を、「空腹にさせないように」心配されるイエス様がわかるのです。

 しかし同時に、それは弟子達に教えている時でもあったのですから、このイエス様の問いかけは彼らの教えの一環、あるいは継続としてちょうど良い訓練の始まりでもあったと言えるでしょう。その質問は、弟子の一人フィリポを試すためでした。むしろご自身がこれからしようとすることをイエス様ご自身はすでにわかっていたとあるのです。これはルカの福音書9章の方では、まず弟子達が、この夕暮れ、そして人里離れたところであるからと、イエス様に群衆を解散させて、彼らが各々、近くの村や部落に行き、自分たちで食べるものを得させるようにと提案しています。それに対してイエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と弟子達に言っています。それに対して、フィリポはイエス様は答えるのです。7節。

C,「人の目には、理に合わない①:二百デナリオンでは足りない」

「7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。

 マルコ6章37節では弟子達の「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」との声が記されています。この200デナリオンというのは、一年の半年分の給料以上であり、相当な額になりますが、男性で5000人で、家族で来ている場合には、それ以上の人数になりますので、フィリポはすぐに金額でどれくらいか想定できたのでしょう。200デナリオンでもそれだけの人数が少しずつ食べたとしても足りないと計算できたのでした。しかももし買ってくるとしてもそれはあまりにも現実的なこととはならないのも明らかでした。「イエス様、なんて非現実的で無謀なことをおっしゃるのですか?」とでもフィリポは思ったでしょうか。フィロポの計算では、いや誰の計算であっても、全く理に合わない、合理的ではない、イエス様の提案であったのでした。そのようなイエス様の指示が理にかなっていないと思ったのは、フィリポだけではありません。8−9節。

D,「人の目には、理に合わない②:これだけで何になろうか?役に立たない」

「8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

 少年、ギリシャ語では「子供」ですが、その子供が「大麦のパン五つと魚二匹とを持ってい」たのでした。「ここに」とありますから、その子供が弟子達のところに持ってきたのでしょう。しかしアンデレはいうのです。

「けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

 新改訳聖書では「それが何になりましょう」ともあります。本当にその通りです。たった五つのパンと二匹の魚だけで、5000人以上の人が食べられるわけがありません。物理的に小さく均等に分けられたとしても、もうものすごく小さなものになります。そう、人間の頭、計算、常識では、それだけで5000人以上の人々が食べるなんていうのは不可能なのです。何の役にも立たないのです。私たちも同じ状況であったなら、「それだけで何になろうか」ーそう言うのではないでしょうか?

E,「不可能なことを自分たちの力で果たさせる命令ではない:律法ではない」

 私たちは自分たちの計算できる常識の範囲内で、その目にみえる数字や物で、何ができるかできないかを当然のように判断します。そのようにして家計を維持したり、個々人や家族の経済活動、生活などもするものです。それは弟子達も当然、会計係を担っていた弟子などは、きちんと管理をしていたことでしょう。それはそれで正しいことです。しかし、この時、イエス様は弟子達を囲んで教えをしていました。神の国の教えです。そして、フィリポ、おそらく計算がきちんとでき管理できる弟子であったことでしょう。イエスはそんな彼を試すために、そのような提案をしています。ですから、それは何か計算をど返ししたような無謀なことをするように弟子達が促され、それを自分たちで考え、計画提案し、自分たちで実行し、そして、彼らで群衆を食べさせるなければならないという、ことをイエス様は教えたり命令したいのではないのです。つまり、弟子達に何か律法的なことを求め、彼らにそれを果たさせることとか、彼らの頭や能力を振り絞って、何か知恵や方策を答えさせようとしているのでもなければそれを求めているのでもないのです。では、イエス様は彼らに何を示し教えられるのでしょうか。10節以下です。

3、「人の目ではわずかで足りなくてもイエスは感謝し祝福した。」

「 10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。

A,「すべては十分な神の恵み」

 「五つのパンと二匹の魚」ーそれは弟子達にとっては、僅かなもの、なにもできないもの、明らか不足、マイナスです。確かに人の目からみるなら、それはマイナスであり、大問題であり、不平を言うには十分すぎる現実的理由であったでしょう。けれどもここで大事なことをイエスは私たちに教えています。それは主であるイエス様にあっては、神の前では、それは決してわずかではない。むしろ人の目から見れば、5千人に対しては明らかに不足しマイナスであるその5つパンと2匹の魚さえも、イエス様にあっては、それは神から与えられた物であり、十分な神の恵みであると、イエスははっきりと見ているということです。イエスは、その僅かな物を「祝福した」とあるのです。その僅かな物であっても「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから」とあります。ルカの福音書9章の方では「天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え」とあります。そしてその箇所は新改訳聖書では、「天を見上げて、それらを祝福して裂き」とあります。それはユダヤ教の家族では家族の長である父が習慣的に食事を祝福することに倣っています。そのようにイエス様は、そのわずかなものを、感謝し、感謝の祈りを神に祈り、そしてそれを祝福の食卓であると感謝したのでした。人の目にはわずかで、足りない、これだけで何になろうかというものであったとしても、神が与えてくださったものは、いつでも十分であり、「乏しいことはなく」(詩篇23篇)、祝福であり感謝であり、神が与えてくださった恵みであったのでした。そしてここには人の目の不足も神は必ず満たしてくださるという約束もああるのです。

B, 「不十分で無力な弟子たちを感謝し祝福し用いようとされる」

 確かにイエスにあっては全てのことがそうであったでしょう。何よりも、弟子達一人一人から見れば、人の前では小さな小さな一人一人です。彼らは十分な力と知恵があったでしょうか?彼らはパリサイ人や律法学者達のように、育ちも家柄もよく、財産ももっているうえに、聖書の英才教育を受け、聖書・律法を全て知っていて、守っていて、尊敬されているような、まさに人間の価値観に沿えば「十分に持っている」ような人々であったでしょうか?まさに人間の評価から見て、救い主の弟子にかなうような立派で成熟して出来た立派な人々であったでしょうか?そんなことは全くありません。むしろどの福音書も、どこまでも不完全で罪深い、不足の多い弟子達の姿を最後まで伝えているでしょう。しかしマルコ5−6章で見てきました。イエスはまさにそのような人の目にあっては不十分な弟子達に声をかけ、招き弟子とするでしょう。そんな彼らをまさに祝福し、そして祈ったことでしょう。そしてそのような彼らに、ご自身の名、その名によって悪霊を追い出し、病気を直すための力と権威とを与えて、神の国の福音を伝えるために遣わしているではありませんか。その罪深さや不完全さは、十字架の時だけでなく、復活の日の朝まで、いや教会の時代でさえも、彼らはそう、罪人の一人一人です。しかし、まさにそのような不十分な彼らをイエス様は知って、彼らが十字架でみな裏切って逃げ、ペテロが三度知らないと言うこともみんな知り、復活の日の朝もご自身が現れるまで、約束を忘れて沈んでいることも、教会の時代でさえも聖人ではなく罪人である彼らであることを、みんな知った上で、そんな弟子達を招き、友となり、教え、導いてきたでしょう。権威を与え遣わしたでしょう。それは、イエスがそんな彼らだと知った上で、彼らはまさにこれから神の大きなわざを行うにはほんの僅かな「5つのパン、二匹の魚」以下のようであるにも関わらずに、彼らを神に感謝し、祝福し、そして、そんな彼らに神が与え、神が働いて下さったからこそ、彼らは各地で、悪霊を追い出すことが出来、病気の人を癒すことが出来、神の国の福音を伝えることが出来たのではなかったでしょうか?いやそうだからこそ、彼らは使徒の時代にも死を恐れず教会で宣教していったのです。彼ら自身の力では出来ない一つ一つです。「これだけで何になろうか」の彼らなのです。モーセ風に言えば「他の人を遣わしてください」なのです。しかし、その不十分なモーセにしたのと同じように、不十分な彼らをイエスが祝福し力を与え遣わされたからこそ、彼らを通して主の御業がなされてきたし、なされていくでしょう。いや、まさにそれと同じようにして、私たちにも、今日の今まで教会を通して、私たちを通して、イエス様は同じことをされるという恵みの事実、福音こそを、イエス様は私たちに伝えているのではありませんか?

C,「私たちへの恵みと約束でもある」

 まさに、そのことと何ら変わらないのです。彼らは、5つのパンと2匹の魚です。私たちも5つのパンとの2匹の魚です。あるいは、弟子達が、本当に不足ばかり、欠点ばかり、そして不十分さを覚えるようなもの、5つのパンと2匹の魚しかもっていないように、人の目、私たちの目から見るなら、私たちも自分自身にそのように不足しか見えないものかもしれません。けれども、それは、イエスにあっては、神の前、神の目にあっては、すべては十分、全ては恵みであるということです。なぜなら、その僅かなものさえも、神が与えてくださった恵みであるし、その僅かなように見えるすべて、私たち自身、私たちに今あるもの、置かれている状況、それが試練や困難や不足であっても、神がそれら全てを祝福し用いて、すべてのこと、まさに人間の計画、推測、決めつけ、考えを遥かに超えた神のわざを実現してくださるからです。イエス様はまさにそのことを弟子達に、そして私たちに教えようとしておられるのではないでしょうか?どんなに小さくとも少なくとも「これだけで何になろうか」と思えることも、すべてのことは、神の前にあっては、神が与えてくださっている恵みなのです。人の目にあっては、5つのパンであり、2匹の魚、不十分であったとしても、イエス様はそれらを喜び、感謝し、祝福し、イエス様のわざ、不足に見えるものでも満たし、人の思いを遥かに超えたことを実現してくださるのです。

4、「御言葉は人知を超えてすべてを満たし神の御心を実現する力」

 事実、感謝と祝福の先に、それだけで終わらずその通りになります。12節から

「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。

 人々は満腹します。それだけでない。残りを集めたときに、12の籠にパン屑がいっぱいになりました。それは理性では説明できないことです。だからと、この奇跡は弟子達の作り話だとか、奇跡を否定する、のではないのです。そのように「奇跡は理性に合わないから」と奇跡を否定し教えることは人間の理性に神のみ言葉を従わせてている、まさに偶像礼拝です。神の言葉には、不可能なことはありません。まさにほんの僅かなことを用いて、大きなことをなされます。事実、天地創造は、無から天地万物を創造したと聖書にはあります。人間の理性に合わせて奇跡を否定する教えは、天地創造も神話にしてしまうでしょう。しかし、それではそのように言う人は一体何を信じるのですか?人間の理性ですか?聖書は道徳と倫理の教えに過ぎないのですか?それだと、もはや神は不在、神の言葉も不在。神の言葉に私たちを救う力があると言う素晴らしい教えも神話になり、キリスト教はただの道徳と倫理の教え、律法になってしまうでしょう。イエス様は神の御子であり、その言葉に力があるからこそ、僅かなパンで、このことは事実起きたのです。神の言葉が真理で力があるからこそ、神の約束は一貫して変わることなく、まさに、約束の通り、神の御子が、女の子孫として生まれ、私たちの罪の身代わりとしてのその命の犠牲と復活のゆえに、神からの永遠のいのち、新しいいのちが、そしてそれによる平安が私たちに事実として溢れ出て、世に流れていくのです。神の言葉が真実だからこそです。

5、「結びと派遣」

 私たちは神の前には、本当に小さな存在です。いや小さい存在だけではない、どこまでも反逆し背を向けていった罪人です。しかしそんな小さな罪深いものを見捨てなかったからこそ神は御子イエス様を人として送ってくださいました。それだけではない、その御子の命をそんな罪人の罪の贖いのために、世に与えるほどに愛してくださいました。だからこそ、滅びに至るはずであった私たち、信じることも悔い改めることもできない私たちに、悔い改めが起こされ、信仰が与えられました。そしてこの御子イエス様の十字架のゆえに、私たちは罪赦されている、救われていると確信できます。安心できます。平安があり、安心して出ていくことができます。私たちは、だからこそ今ある全て、自分自身も含め全て恵みであると感謝し子供のようにイエス様に全てを託しましょう。委ねましょう。子供のように、イエス様に今あるものを恵みであると感謝し全てをイエス様に委ねる時に、イエス様はそれを用いて、私たちを用いて、思いをこえた神のわざと計画を必ず実現してくださるのです。今日も、イエス様は宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ安心してここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2024年8月4日(日)聖霊降臨後第十一主日 主日礼拝 説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ヨハネ6章24−34節(2024年8月4日スオミ教会礼拝説教)

「朽ちることのない、いつまでも残るいのちの糧を受けて」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 先週は、イエス様が五つのパンと二匹の魚から五千人以上の人に食べさせた箇所を見てきました。先週の後半部分を触れることができませんでしたので、簡単に触れてから今朝の箇所に入って行きます。6章14節を見ると、人々はイエス様のその「しるし」を見て「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言い、イエス様を「王にするために連れて行こう

としているのをイエス様は知り、一人でまた山に退かれたとあります。人の評価では、大勢の人がイエス様を支持し、約束の預言者だと信じて「王としよう」としている、だから「状況は良くなってきているのだからその人々の求めに従い受け入れて王になったらいいじゃないか」と人々は思うかもしれません。しかし前回の初めに述べたように、イエスは目にみえるしるしを示すことだけを目的としているのでもなければ、人々が自分を地上の王とすることを求めているのでもありません。まして、イエス様は人から王とされる必要もなければ、何よりイエス様の王国は、人によって担ぎ上げられ建てられるものでも決してありませんでした。真の神の国は、父子聖霊の三位一体の神が、御子の十字架と復活によって建てるものでした。だからこそ、人々によって王とされることは明らかに神の御心ではなかったのでした。16節以下では、弟子たちだけで再び湖を渡りカフェルナウムへと向かいます。しかし強風と大波で船は困難な状況です。しかしそこでイエス様が湖の上を歩いて来られるのです。弟子たちはそれを見て恐るのですが、イエス様は「わたしだ。恐ることはない」と言われたことが書かれています。そのように到着したカフェルナウムでの出来事が今日の箇所になります。22節以下にあるように、イエスのしるしを見て追いかけるように着いてくる人々や、そしてパンの奇跡を経験した人々が、揃ってイエスを追い求めカフェルナウムへと小舟に乗りやってきたところから始まるのです。24節からですが、

2、「パンを食べて満腹したからだ」

「24群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。 25そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。

 イエス様を追い求めてついてきた人々はイエス様を見つけて、自分たちがこんなにもイエス様を探し回ってついてきている熱心さを主張するかのように、言うのです。それは人の目から見れば表向きは熱心で敬虔な追い求める姿に見えてくるのではないでしょうか?しかしそんな人々へイエス様はこう言うのです。26節からですが、、

「26イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。

 イエス様は彼らのその表向きの追い求めてついてくるという行為の目にみえる部分だけを見ているのではありませんでした。むしろその心のうちまでもしっかりと見ています。彼らがついてくる、彼らが求める、その真の動機をイエス様は見過ごしません。行いよりもまず信仰を求める神であるイエス様なのですから、表面的な外面的なことや目にみえる行いよりも、むしろその行動の真の動機、心のうちの方が重要なのです。彼らが探し、求め、ついてくる、その動機はただ「パンを食べて満腹したからだ」と言います。ここには「しるしを見たからではなく」とありますが、これはただ「しるしを見る」ということだけの意味ではありません。ヨハネ20章30節以下にはこうあります。

「30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 イエス様が「しるしを見た」と言う時には、それはしるしそのものだけを見るのではなく、しるしを行った神と、しるしを通して神が指し示す、イエス・キリストを見、イエスこそ神の子メシアであると信じることを示しています。しかし、この6章でついてきた人々は、ただパンを食べて満腹した、それだけの人々でした。つまり、しるしをなさった、あるいはしるしが指し示す御子イエス様とその言葉を見てもいないし、その与えようとしている救いも、求めてもいないし、そのためについてきたのではありませんでした。この先30節以下で彼らは、

「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。

 と言っていることからも分かる通り、彼らは、再び、あるいは「さらに」「もっと」と自分の欲求を満足させるような、目にはっきり分かり満足できるモーセの時代のマナのような、さらなる目に見えるしるし、自分の満足、腹や肉体や感情の欲求の満たしこそ「天からのしるし」として、求めているに過ぎないこと、イエス様は見抜いていた、そんな言葉であったのでした。

3、「福音を伝えるために」

 しかし、求めることは決して悪いことではありません。むしろ、これまでイエス様は求めてついてくる人々、特に、病に苦しんで、癒してほしい、イエス様なら癒すことができると信じて求めてくる人々の求めには、目をとめられ、それに答えてくださっていました。彼らの必要に答えてくださいました。それでも信仰が衰え絶望しそうになった会堂長ヤイロには「恐れてはいけない。信じなさい」と信仰を励ましたのを見てきました。それに比べて、この26節のイエス様の言葉は何か冷た過ぎはしないか?厳しくはないか?突き放しているのでは?と思う人もいるかも知れません。皆さんもそう思いますか?

 しかし、実はそんなことはないのです。そのようにイエス様が言われたのは、まさにこれから彼らに神の福音の真理を伝えるために、彼らの現実を示しているに過ぎません。イエス様はそんな彼らの現実を伝えた後に、まさに最も伝えたいいのちの福音を伝えるでしょう。27節

「27朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」

 イエス様ははっきりと伝えます。まず第一に「朽ちる食べ物のためではなく」と。「あなた方は、腹に入って排出され消えてゆく朽ちてゆくパンを求めています」と。あの天からのマナでさえもそのような食物に過ぎませんでした。事実、マナは天から与えられましたが、腐敗していく食物でした。パンもマナももちろん肉体を養い空腹を満たす神からの贈り物で大事なものです。しかしそれらは朽ちて行きいつかは無くなるものであると言うのもまさに私たちの現実です。朽ちるものは私たちを永遠の神の国に与らせ、天につながる道では決してあり得ません。もしイエス様がパンだけを与えるためだけに来たのなら、こんなことを言わなかったことでしょう。「満腹して良かったね。じゃあもっとパンをあげよう」で終わったはずです。しかし、聖書が初めから終わりまで一貫してはっきりと示しているように、聖書の約束の救い主は、そのために来られたのではありません。まさに肉体的な必要だけでなく、み言葉を持って祝福を与え、そのみ言葉によってご自身との信頼と愛の関係で平安に交わるために人類を創造しました。しかしその人類は神に背き堕落しますが、それでも神は、人類が堕落してなおも、その女の子孫がサタンの頭を砕くと罪からの救いを約束されました。その救いはパンを与えることではなく、まさにご自身の御子を人として生まれさせ、その命を十字架で贖い、罪の赦しを与えることであり、それによって、悔い改め信じる者に神との本来の関係が永遠に回復され、地上の王国ではない永遠の神の国へ与らせることこそ、何よりの一貫した目的でした。それこそをイエス様は与えるために来たでしょう。朽ちる食べ物だけを与えるためでは決してありません。それ以上のものです。まさに「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために」こそ、そしてそれを全ての人々に与えるためにこそイエス様は来られたと言うのが聖書が伝えることでしょう。「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」とイエス様が言われる通りです。そして「父である神が、人の子を認証されたからである。」ともある通り、その永遠の命に至る霊の食物こそご自身であり、ご自身の御言葉であり、神が認められたものであるとまでここで示すのです。

 ですから、この所は、ついてきた人々、しかも全く求める動機が的外れである人々を、冷たく突き放しているのでは決してありません。イエス様は彼らに本当に必要な永遠のいのちの食物の説教、福音の説教をまさに語り始めているのです。そのためには、まず彼らが自分では気づいていない、その求めていることの現実、心の中の現実をはっきりと示し彼らがそれを知る必要があるでしょう。その求めているものは的外れであり、その求めているものは朽ち行くものであるという現実を気づかせることがまず必要です。なぜなら、その現実に気づくからこそ、本当の必要がわかってくるからです。まさにさらなる必要、人間にとって朽ちることのない、ご自身と御言葉による本当に必要な救いを教え与えるための言葉が27節だったのです。それはそれだけとれば厳しい冷たい言葉に思えますが、きちんと全体から見ると決してそんなことはないのです。

4、「教会は、真の人の必要のために何を伝えるのか?」

 このイエス様の説教から何が教えられるでしょう。私たちも、教会の説教で、律法を通して刺し通され、痛みを感じるものです。悔い改めを迫られる時もあります。人々はそれは辛く嫌なものであり、聞きたくないものかも知れません。だからと、「律法や罪の指摘や悔い改めなど、教会で取り上げるな、語るな、ただ神の愛だけ語っていればいい、隣人愛や道徳だけ語っていればいい、人の好むような聞きたいことだけ、耳に優しいことだけを語っていればいい」、そのように言ったり求めてたりする教会も、自由主義の教会でも福音派の教会でも少なくありません。しかしそれは人の前では好評で好まれても、神の前にあっては聞く人々に対して、ものすごく不親切で、愛のない行為です。なぜなら、御言葉を通して、神の前にあっては、私たちはどうしようもなく罪深い罪人であるという圧倒的現実であるからです。そして、イエス様の十字架の罪の赦しと悔い改めることがなければ決して救われない、という私たち人間の神の前の現実と聖書の真理から、人々の目を背けさせているからです。そのようにして聖書が与えよう伝えようとしている本当の朽ちることのない永遠のいのちへの道を閉ざしてしまっているからです。なぜなら、罪の現実と悔い改めることなくして、この天からの神が与えてくださる真の救いである、イエス・キリストの十字架と復活の救いは決してわからないからです。ですから、教会で律法を通して、罪を示されること、私たちの神の前の現実を知らされ、悔い改めに促されることは、痛いこと、辛いことですが、しかし、幸いなことでもあるのです。なぜならそんな私たちのためにこそ、イエス様はそこで、律法だけでなく、福音であるこのイエス・キリストを、この十字架を、罪の赦しを見なさい。受けなさいと言ってくださる、そのことがわかり、救いを確信し、世が与えることのできない真の平安に与ることができるからです。感謝な恵みです。

5、「何をしなければいけないかの視点ではなく、神のわざ」

 そのようにイエス様の教えが続きます。28節以下ですが

「28そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、 29イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」 30そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。 31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」

 イエス様は、「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と言っています。だから人々は「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねたのでしょう。彼らは、どうすれば、自分がどんなことをすれば、自分が「神のわざ」を行うことができるのか、自分がその永遠の命に至る食べ物を得るために働けるのかと尋ねるのです。世の人々の「救われるために」の視点はいつでもそうです。「自分が何をすれば、どんなことをすれば、どんな条件を課題をクリアすれば」とまず考えます。どの宗教でもそのような教えになるでしょう。まず人の側が何かをして、何かを果たして、何かをクリアして、それからその後に、そこにご利益、救いがあるのだという教えです。人々の当たり前の常識的な宗教観ではそのような質問になって当然のことかも知れません。しかし、イエス様が教える真の救い、つまり聖書が約束する真の救いの教えはそれと全く逆、正反対です。27節の言葉でもイエス様はこう続けているでしょう。「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」と。まさに人の子、つまり「イエス様が」「与える」ものだと。つまり、それは人がなんとか頑張って得るものではなく、「与えられる」ものだとイエス様は示唆しています。ここ29節でもイエス様はこう続けているでしょう。

「イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

 イエス様は、神が遣わされた者、つまりご自身を「信じること」が、神のわざであると言います。このやりとりは不思議なやりとりです。人々は自分が何をすれば、神のわざを行うことができるかと聞いていますが、イエスは「自らの力で信じれば、それをすることができるようになる」とは答えません。「信じること、それが神のわざ」だと言うのです。つまり、信じることそのものに神のわざが行われているという意味になるでしょう。信仰はまさに神のわざ、賜物であることがイエス様ご自身から示されているのです。その賜物としての信仰を通してこそ、32節以下、イエス様はこう言うのです。

6、「神が与える」

「32すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。 33神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」

 救いは、モーセが何かをしたからではない。モーセの律法の通りにしたからでもない。私たちが何かをしたから「天からのパン」を得られるのではないとイエス様は言います。この人々のように、人々は人の功績や人が何をしたかに救いの根拠を見たり、自分の行いや功績に救いの確信を探そうとします。しかしそうではない。イエス様が与えようとしている、朽ちることない「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物」、真の命を与える救いは、天の父から「与えられる」ものである、どこまでも恵みであり、その信仰さえも神のわざ、賜物であるとイエス様は一貫して、救いは人が成し遂げなければならない律法ではなく、神がなす福音であると彼らに示す続けているのです。

 人々は答えます。34節「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」。それに対してイエス様ははっきりと示します。35節

「 35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

 イエス様は、「わたしが」と言っているように、ご自身こそ、いのちのパンだ。ご自身こそ、朽ちることのない、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物だと、「なくなっていくパン」との比較を用いて、まさにご自身こそ、人に立てられるのではない神が約束し神が建てられた真の王、約束の救い主であることを宣言するのです。それは、しるしを見てパンを食べて満腹するだけでは得ることのできない、そのしるしが指し示す、イエス様のもとにきて、信じること、それによって、決して飢えることも渇くこともない、いつまでもなくならない永遠の命に至るのだ、イエス様こそそれを与えることができるのだと、はっきりと福音を指し示し宣言なされるのです。

7、「終わりに」

 このやり取りはさらに続きますが、人々は理解できず信じることができません。彼らにはまだ隠されていることなのです。しかし、その事実さえも、まさに信仰は理性や知性のわざでもなければ、知識の量の問題でもなく、み言葉と聖霊の働きによる神の賜物であると言うことが証しされています。人の力ではその時、信じることができないことでも、十字架と復活の後、彼らのあるものは、使徒たちを通しての聖霊による福音の宣教によって信仰へと導かれることでしょう。イエス様はこのところで、その未来のための種蒔きもしているし、当然、それは私たちのためでもあり私たちへと向けられているイエス様のメッセージなのです。私たちはまさに今、イエスこそ朽ちることのない、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物だという信仰を与えられています。そして、だからこそ、今日も自分の罪を認め、悔い改めをもって、この神の前に集められています。そしてこの時、イエス様によって、イエス様の言葉によって、そして聖餐によって、イエス様から、この十字架の罪の赦しの宣言を受け、平安を受けます。それはまさに天から、神からの、朽ちることのない、いつまでも残るいのちの糧を受けているその時、今はその時なのです。この確信と平安のうちに今日も遣わされていくことは、賛美すべき恵みではありませんか。今日もイエス様は宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。ぜひ安心してここから遣わされていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

2024年7月14日(日)聖霊降臨後第八主日 主日礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

 

7月14日 マルコ6章14−29節

「洗礼者ヨハネの死が私たちに示す福音」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 さて、今日の箇所は、ヘロデ王の話が書かれています。14節に「ヘロデ王」と書かれていますが、彼は、イエス様が母マリヤから生まれた時に、東の賢者からの救い主の誕生の知らせに恐れて「幼児虐殺」の命令を出した、俗に「ヘロデ大王」と呼ばれる人物の息子ヘロデ・アンティパスです。「王」と書かれていますが、ルカやマタイの福音書では「領主」と書かれています。というのは、ローマ帝国は、ヘロデ・アンティパスを王とは認めておらず、ガリラヤとペライヤのテトラルキアという領主として認められていたからでした。ですから厳密には王ではなく領主でした。14節こう始まっています。

「14イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」

 イエスの噂は、群衆が押し寄せエルサレムから律法の専門家さえ観にくるほど広く広まっていました。当然、ヘロデ・アンティパスの耳みにも入るのですが、やはりその「起こった奇跡」や教えていることへの様々な勝手な評価や解釈も噂となって入ってきていたようなのです。15節の「エリヤだ」とか「昔の預言者のような預言者だ」という噂以上に、彼の心に刺さってきた噂は「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 という評判でした。彼はこの噂を聞いて言うのです。

2、「ヘロデ・アンティパスに対する洗礼者ヨハネ」

「16ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。

16節

 この時、その人々の言葉にあるように、すでに洗礼者ヨハネは死んでいました。それは、ヘロデ自身がこの16節で言っているように、彼による処刑によるものであったのでした。17節以下にその経緯が書かれています。

 ヘロデ・アンティパスの妻ヘロディアは、ヘロデ大王の孫娘です。彼女は最初、やはりヘロデ大王の息子でありアンティパスの異母兄弟であるフィリポと結婚していました。つまり、叔父と姪の結婚ということでした。しかし、ヘロディアはその後、今度はアンティパスと婚姻関係を結んだのでした。そして17節にある通りに、この出来事が発端となり、洗礼者ヨハネを逮捕して牢獄に繋いでいたのでした。なぜでしょうか?18節です。

「18ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。

 洗礼者ヨハネは、人々に悔い改めのバプテスマを教え、洗礼を授けていました。彼は、救い主イエスが来る前に、救い主の道を整え真っ直ぐにするものと預言された預言者でしたが、そのようにまさに福音であるイエス様が来る前に、律法で神の御心、神の前で何がしてはいけないことであるのか、はっきりと示していました。それは当時の領主であるこのヘロデ・アンティパスに対しても例外ではなかったのでした。洗礼者ヨハネは、アンティパスが自分の兄弟の妻ヘロディアと結婚したことを、それは神の律法に違反する罪であると指摘したのでした。この後の20節からもわかる通り、洗礼者ヨハネはアンティパスに時々、聖書の教えを教えていたようなのです。こうあります。

「ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。

20節

3、「神に言葉を託されたものの宣教」

A,「神が何を私たちに伝えたいのか:律法と福音の説教」

 ここに、洗礼者ヨハネの、神から召された預言者としてのその宣教の一端を見ることができます。まず、彼はそれが王であろうと領主であろうと、まず聖書から律法を語り、まっすぐと伝えていたということです。私たちも律法を語られる時に、心を突き刺され、痛みを覚えます。恐れ、当惑します。時に、抵抗しようともします。それがヘロデにもありました。しかし、ヘロデにはものすごい葛藤があります。19節では「恨み」「殺そうと思っていた」ともあるのですが、20節では、その教えから「ヨハネは聖なる人であるとも知っていた」そして律法を聞きながら怖れ戸惑いながらも、なお喜んで耳を傾けていたともあります。ヨハネは、律法を語り悔い改めのバプテスマを説いていましたが、しかし同時に、「イエスの道を整え真っ直ぐにする」預言者ですから、ヨハネ1章にもあるように、到来した救い主であるイエスを「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と指し示していたのでした。つまり、洗礼者ヨハネの宣教も紛れもなく、律法と福音の説教の宣教であり、それは王であろうと領主であろうと、全く関係なく全ての人々へであったことがわかります。

B,「「人が何を聞きたいか」に流される教会」

 まずこのところから、洗礼者ヨハネの宣教、つまり神の言葉を預かって伝える預言者の宣教、つまり、現代の牧師、そして教会の宣教が教えられていることがわかります。それは、どこまでも律法と福音の説教であり、その宣教は今も変わらないということです。つまりそれは、どこまでも「人が何を聞きたいか」の説教ではなく、「神が何を伝えているのか」の説教であり宣教であったということに私たちは教えられるのです。近現代の個人主義と消費主義社会の発展によって、教会もその世の流れ・流行に流されて、リベラルも福音派もこれと逆の教会や宣教になってきています。つまり「神が何を伝えているのか」ではなく「人が何を聞きたいか」が中心になって、教会や宣教は進められることが多いですし、それがあたかも正しい、宣教や教会の王道であるかのようにもされています。それは名目は隣人愛の名目が大々的に掲げられますが、聖書の教えとはいえ、「人が聞きたいこと、聞きたくないこと」、その必要を何よりも中心に合わせて、聞きたくないことは語らない、罪や悔い改めなんかは人は聞きたくないから、語らなくて良い、語らない方が良いと、なることは珍しくありません。さらには、本当は罪であるのに、もはや世の中や社会では受け入れられて誰も罪だとか思っていないとか、社会的に制度的に認められていることだ、だから、それはもう罪ではない、としてしまうことも教会や説教台で当たり前になされ教えられてもいるでしょう。むしろそれに対して、聖書が罪は罪だと言っていることだからと、あくまでも罪ですということの方が、頭が硬いとか、隣人を愛していないとか、なんて酷い思いやりのない教会だ牧師だなんて言われることも多いです。

C,「洗礼者ヨハネやイエスはそのようにしたのか?」

 しかし、洗礼者ヨハネも、そしてイエス様も、使徒の時代の使徒達もそのようにしたのか?、そのように聖書の教え、律法を歪めてまで、人間の都合の良い教えを教えることで隣人愛を表したのかと問うならば、全くそんなことはないでしょう。洗礼者ヨハネは、ガリラヤの領主であっても、「それは罪です」とはっきりと神は何を伝えているのかを教えているではありませんか?洗礼者ヨハネは、確かにヘロデに福音も語り、彼は喜んで聞いています。だからと、もしかしたらもう少ししたら信仰に導けるかもしれない。だから、ここで罪を指摘することはやめておこう、罪だけどもヘロデが気分を害し、せっかく仲間になるのを妨げるといけないから「罪ではないとしよう、罪ではないと教えよう」、とはしなかったでしょう。自分が「それが罪です」ということで、相手は領主であり王のような存在であるのですから、恨まれて牢獄に投げ込まれることも推測できたでしょう。しかしだからと「それが罪です」ということをやめたりはしなかったでしょう。彼は、どこまでも「人が何を聞きたいか」ではなく、「神が私たちに伝えたいのか」を語った。そこに彼の宣教の王道があったし、それが聖書の伝える宣教だったのです。

D,「隣人愛を理由に聖書を捻じ曲げることの自己満足さ」

 事実、みなさん、聖書が罪であると言っていることを、隣人愛の名目や思いやりと称して、罪であることを、それが罪ではないと伝えることが、隣人愛ですか?優しさですか?人の前ではそうかもしれません。しかし、神の前では、その相手は確実に罪を犯すことになり、悔い改めなければ神の前に救いに与れないのです。神の怒りと裁きの座に立ち、滅んでいくのです。それなのに、人の前の一時の満足のために「それは罪でありません」と教えることは、何の愛でも思いやりでもないでしょう。その人がキリストの十字架の罪の赦し、そこにある平安に出会えない、経験できない、与れないのですから。むしろ妨げていることになります。ただ私たちや教会の地上の欲求や願望や自己満足のためにです。ぜひ私たちは、人々を十字架の救いに真に導くために、彼らが真の福音に出会うためにも、その前に、きちんと律法で「これは罪です」と人間の現実を示し悔い改めに導く、それから福音を示していく、律法と福音の宣教者の教会であり続けれるようぜひ祈って行きたいのです。

4、「ヘロデの心の矛盾」

 さて、先ほども言いましたように、ヘロデ・アンティパスは、洗礼者ヨハネとその教えとの出会いにものすごい心の揺れ動きと葛藤があったことが見て取れます。ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、恐れ、保護までし、喜んで耳を傾けていながらも、なんと、恨み、殺そうとまでしていた、という、大いなる矛盾が彼の心にはあります。罪を責められて、やはり素直に聞けず、怒りは込み上げていたのでしょう。しかし、完全に怒り切ることもできない、確かにヨハネの語る福音に喜んだ自分もいた。ものすごい葛藤です。しかし、そこに21節、「良い機会が訪れた」という言葉で展開を迎えるのです。

「21ところが、良い機会が訪れた。

 良い機会とありますが、あくまでもヘロデから見ての良い機会であり、まさにあの堕落の時のようにサタンの巧妙な誘惑がそこに忍び込んでくるのです。このようなことがあったのでした。21節続きますが、

「ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、 22ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、 23更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。 24少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。 25早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。 26王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。 27そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、 28盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。

 自分の誕生日の出来事です。高官も将校も有力者も、自分の支持者でした。彼はご機嫌でしたしょうし、彼のメンツやプライドがまさに高められているそんな時でした。そこで有名な戯曲やオペラの元にもなっているヘロディアの娘の出来事が起こります。まさにアンティパスは自分のために踊った娘へ、上機嫌で「願うものは何でもやろう」というのです。国半分などあげられるはずもないのに、まさに大口を叩き「固く誓って」までいうのでした。しかし、そこにヘロディアは娘をそそのかして、自分の結婚を罪だと批判したヨハネの首を、盆に乗せて、それを自分に欲しいと言わせるのです。アンティパスは26節「非常に心を痛めた」とあるように葛藤しますが、「誓ったこと」であり、そして「客の手前」ともあります。彼は引き下がれなかった、自分を優先させたのでした。そして彼は権力のままその娘の通りにさせ、ヨハネを処刑したのでした。

5、「洗礼者ヨハネは死を通してキリストを指し示す」

 みなさん、ここで疑問に思うでしょう。「神は彼を守れなかったのか?そんな大事な預言者なら、彼の処刑を止めさせることができただろう」と。またある人は理屈をこねていうことでしょう。彼はそんな風に「それは罪です」とストレート過ぎたから、だから失敗したんだ、だから報いを受けたんだ、志なかばで挫折したんだ、それ見たことか、だから、「それは罪なんだ」なんてストレートに言っちゃダメなんだと。みなさん、本当にそう思いますか?でも、みなさん、これと同じ出来事が、まさにこの後、同じように起こるでしょう?そうイエス・キリストです。あのイエス様の場面も、神は止めることができたはずです。いやイエス様自身がマタイ26章、逮捕の場面で弟子の一人が剣で衛兵の耳を切り落とした場面で、言っているでしょう

「そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 53わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。 54しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」マタイ26章52〜54節

 と。イエス様には、つまり神には、イエス様の十字架も、そして当然、ヨハネの処刑も止めることができるのです。神の12軍団以上の天使を今すぐ送ることができるのです。しかし、それをしませんでした。なぜなら、そうしてしまうと、神が必ずこうなると書いていることが聖書の御言葉が実現しないからです。イエス様は、ゲッセマネでも、御心ならこの杯を取り除けてくださいと祈りました。しかし、イエス様は父の御心の通りになるようにと祈ったでしょう。そしてイザヤ53章10節からわかる通り、その神の御心の通り起こったことこそが逮捕であり、十字架の死であったではありませんか。洗礼者ヨハネも、キリストの道を整え真っ直ぐにするためにきました。しかし、かつて旧約の時代の正しい預言者たちが沢山殺されたのと同じように、彼も殺されることに、キリストの予兆、雛形があるのですから、この洗礼者ヨハネもまた、十字架のイエス・キリストの雛形です。まさに、このイエス・キリストの十字架の雛形として、この人の目から見れば悲惨な処刑という道を歩むことによって、まさにイエス・キリストの道を示し真っ直ぐにイエス・キリストを指し示す、その召命を全うしているのです。このようにヨハネは用いられていますし、このようにヨハネの処刑を通して、もちろんヘロデの罪深さから、神の義を決して実現できない人間の罪深さ、正義よりも自分のメンツやプライドを優先させ、正義を犠牲にしてしまう、人間の、つまり私たち一人ひとりの自己中心さも示されるのですが、何よりも、そんな罪深い私たちのためにこそ、ここでもヨハネという預言者と彼に起こった出来事を通して、神は、イエス・キリストの十字架を見るよう私たちに差し示している。洗礼者ヨハネは、生涯を通して「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と、この死を通してもイエス・キリストを私たちに指し示している、それを全うしていることを教えられるのです。

6、「私たちは誰を見るか?」

 私たちは、今日この聖日、イエス様から与えられた御言葉に、説教を通して、誰を見るでしょうか?ただ悲惨な出来事だけを見て驚き悲しみ、怪しみ神の成そうされた全てを疑いますか?そうであってはなりません。今日も神はみ言葉を通してこの世の罪を取り除く神の子羊、イエス・キリストを、その十字架と復活を私たち一人一人に指し示しているのです。ここに神の前にあって、真の救い、永遠のいのちがある。ここにイエス様が与える罪の赦しと平安と新しいいのちがある。神の国への道があるのだと。悔い改めて、神の国を、イエス・キリストを信じ受け入れなさいと。

 そのように神の前にあって悔い改める私たちに今日も十字架と復活のイエス様は宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひこの福音を受け取って、喜び、安心して、ここから世に遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン