説教「神の国への入門講座」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書20章1-16節

主日礼拝説教 2020年9月20日(聖霊降臨後第十六主日)

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の個所は、イエス様のブドウ畑の所有者と日雇い労働者のたとえの教えです。日の出から日の入りまで12時間炎天下の中を働いた人たちが夕暮れ近くの最後の1時間しか働かなかった人たちと同一賃金だっので、それに対して所有者に不平を言う。所有者は、朝雇う時に1デナリオンで合意したではないか、別に契約違反ではない、と。1デナリオンというのは当時の低賃金労働者の一日の賃金です。しかし、長く働いた者からすれば、一番短く働いた者が1デナリオンもらえるのなら自分たちはもっともらえて当然ではないか。もっとな話です。それに対して所有者は、「私の気前の良さをねたむのか」と言って自分のしたことは間違っていないと言う。ギリシャ語の原文は少しわかりにくくて、直訳すると「私が善い者であることに対してお前の目は邪悪なのか?」、つまり「私が善い者であることをお前は邪悪な目で見るのか?」ということです。お前は私が善いことをしているのを正しくないと言って覆すつもりなのか、私は間違ったことはしていない、それに反対するのは悪い心だと言うのです。

これは一体どういう教えなのでしょうか?1デナリオンは当時の低賃金労働者の一日の賃金ということで、先週もやりましたが、今のお金の感覚で言えば、東京都の最低時給が1,000円ちょっと、それで12時間働いたら12,000円です。12時間働いた人がその額をもらった時に、おい、聞いたか、1時間の奴らも同じだってよ、なんて聞かされたら心穏やかではなくなるでしょう。まさか、キリスト教は自己犠牲の愛を教える宗教なので、一番長く働いて一番苦労した者は一番短く働いて一番楽した者と同じ扱いを受けても当然と思わなければならないということなのか?でも、このたとえに何の自己犠牲があるでしょうか?一番短く働いた人が12,000円もらえたのは一番長く働いた人のおかげということはありません。専ら所有者が自分はそうすると決めてそうしただけです。一番長く働いた人は最初に同意した額は減らされたりしていません。

ここでのイエス様の趣旨は、所有者の給与の払い方を私たちの現実の生活にあてはめよ、ということではありません。この教えはたとえです。なにをたとえて言っているか知ることが大事です。初めに「天の国」はブドウ園の所有者にたとえられると言います。「天の国」とは天地創造の神、万物の造り主がおられるところです。「神の国」とも呼ばれます。マタイは「神」という言葉を畏れ多く感じてよく「天」に置き換えます。本説教では「神の国」と言うことにします。

「神の国」がブドウ畑の所有者に、国が人にたとえられるのは変な感じがします。これは、「神の国」というのはこれから話すブドウ畑の所有者の意思、考え方が貫かれている国だということです。つまり、ブドウ畑の所有者のような考え方をするお方が「神の国」を体現しているということで、この所有者は神を意味します。イエス様はこのたとえで、神はどのようにして人間を神の国に迎え入れるか、ということを教えているのです。そういうわけで、本説教ではそのことについて以下の3つの点に注目して見ていこうと思います。まず、人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を受けることによって神の国に迎え入れられる、そこでは信仰と洗礼がいつだったか期間の長短は問題ではないということ。次に、人間は自分の能力や業績や達成によっては神の国に迎え入れられない、迎え入れは神のお恵みとしてあるということ。最後に、神の国に迎え入れられる者になったら、この世では罪との戦いが仕事になるということ。そういうわけで本説教は神の国に迎え入れられることについての基本をお教えします。、まさに神の国への入門講座です。

2.イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたのが早い遅いは関係ない

神の国に迎え入れられるとはどういうことでしょうか?それは、聖書が打ち出す人間観と死生観に結びついています。聖書の人間観とは、人間というものは神の意思に反するものを内に持っていて、それを心に抱いたり言葉に出したり行いに出したりしてしまう。それをひっくるめて罪と呼びますが、そういうものを持っているということです。死生観は、人間はそういう罪を持つがゆえに神聖な神から切り離された状態に置かれてしまっている。もしそのままでいたら神から離れた状態でこの世を生きなければならなず、この世を去った後も最後の審判の時に神聖な神の前に立たされた時に申し開きが出来ないということです。そこで神が、これではいけない、人間が自分と結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、この世を去った後も自分のもとに、つまり神の国に迎え入れられるようにしてあげよう、そのために人間の罪の問題を解決しなければ、ということでひとり子のイエス様をこの世に贈られました。これが人間に対する神の愛ということです。

それでは、神はイエス様を贈ることでどのようにして人間の罪の問題を解決したのでしょうか?それはまさに、彼に人間の罪を全部負わせて神罰を受けさせて人間に代わって罪の償いをさせることで果たされました。ゴルゴタの十字架の出来事がそれだったのです。さらに、一度死んだイエス様を今度は計り知れない力で三日後に復活させて、死を超える永遠の命があることを天地に示し、その命に至る扉を人間に開かれました。神の人間に対する愛がイエス様を通して示されたというのはこのことです。

そしてこの後は、人間がこれらの出来事は自分のために起こされた、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、その人は永遠の命が待つ神の国に至る道に置かれてその道を歩むようになります。その時、その人は罪を償われた者と神から見られ、まさに神から罪を赦してもらった状態に置かれます。それで神聖な神の目に適うものとなって神との結びつきを持ってその道を歩むことになります。最後の審判の時も、イエス様を救い主と信じる信仰を持って生きていたことが決め手となって神の国に迎え入れられます。これら全てをひっくるめたことが、キリスト信仰でいう救いです。それを人間に命を賭してまで整えて下さったイエス様は真に救い主です。

ここで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということですが、そのタイミングは人それぞれです。ある人は、親がキリスト信仰者で赤ちゃんの時に洗礼を受けて、信仰者の親のもとでイエス様が救い主であることが当たり前という環境の中で育って大人になる場合があります。別の人は、大人になってイエス様を救い主と信じるようになって洗礼を受ける場合があります。子供の時からずっとキリスト信仰者である場合、大人になってから、それこそ晩年でも死ぬ直前でもキリスト信仰者になる場合があります。どの場合でも神の国への迎え入れということについて差は生じません。信仰者として生きた期間が長かったから迎え入れられやすいとかそういうことはありません。みな同じです。そのことを、たとえの労働者がみんな同じ1デナリオンをもらったことが象徴しています。

そういうことであれば、晩年やこの世を去る直前に洗礼を受けることになっても何も引けを取らないということがわかって安心します。長年キリスト信仰者の人も神の愛はそういうものだとわかっているので、誰も信仰歴が短すぎるなどと目くじら立てません。全く逆に、私が神から頂いた計り知れないお恵みにあなたも私と全く同じ値で与ることが出来て本当に良かった、そう言ってくれます。

ここで一つ気になることは、赤ちゃんの時に洗礼を受けても、何らかの事情でイエス様が救い主であることがはっきりしない状態で大人になってしまう場合があうということです。近年のヨーロッパではそう言う人が多いです。この場合、神の国への迎え入れられはどうなるのか?この問題は本説教の終わりで触れようと思います。

3.人間の能力や業績によるのではなく神のお恵みで迎え入れられる

次に、神の国への迎え入れは人間の能力、業績、達成によるのではなく、神のお恵みとしてあるということについて。本日のイエス様のたとえは、実は前の章、19章の出来事の総括として述べられています。どんな出来事があったかと言うと、金持ちの青年がイエス様のもとに駆け寄って来て、「永遠の命を得るためには、どんな善いことをしなければならないのか」と聞いたところです。イエス様は十戒のうち隣人愛に関する掟を述べて、それを守れと答える。それに対して青年は、そんなものはもう守ってきた、何がまだ足りないのか、と聞き返す。それに対してイエス様は、足りないものがある、全財産を売り払って貧しい人に分け与え、それから自分に従え、と命じる。青年は大金持ちだったので悲痛な思いで立ち去ったという出来事です。

このイエス様と青年の対話の中で、若者が「どんな善いことをしなければならないか」と聞いたときに、イエス様が返した言葉はこれでした。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。」善い方はおひとりと言う時、それは神を指します。ここでは話が善い「こと」から善い「方」へ、事柄から人格へ変わるのです。青年は「善い」は人間がすること出来ることと考えて質問したのに対して、イエス様は「善い」は神だけが持つ、「善い」を体現しているのは神しかいないと言い換えるのです。つまり、そもそも「善い」を体現していない人間が神の国に迎え入れられるような「善い」ことが出来ると考えるのは外れているというのです。「善い」ということについて考えたり口にする場合、神が出発点にならないといけないのに、青年は人間を出発点にしているのです。

このように、神のもとだけに「善い」がある、神が「善い」を体現しているということを忘れると、人間は救いを自分の能力や業績に基づかせようとします。でもそれはいつか必ず限界にぶつかります。青年の場合は、イエス様が全財産を売り払えと命じたことでその限界が明らかになりました。救いは人間の能力や業績にではなく、ただただ神が「善い」ということに基づかせなければいけないのです。

イエス様と青年の対話から、神が「善い」方ということが救いの大前提であることが明らかになりました。この神が「善い」方ということが本日のたとえの中にまた出てくるのです。本説教の最初でも申し上げましたが、「わたしの気前の良さをねたむのか」というのは、ギリシャ語原文では「私が善い者であることをお前は邪悪な目で見るのか」ということでした。ここの「善い」と青年との対話に出てきた「善い」は両方とも元のギリシャ語では同じ言葉アガトスαγαθοςです。日本語訳では本日のところは「気前の良さ」と訳されてしまったので繋がりが見えなくなってしまうのですが、原文で読んでいくと本日のたとえは青年との対話と繋がっていて、それを総括していることがわかります。どう総括しているかと言うと、永遠の命が待つ神の国に迎え入れられることは人間の能力や業績や達成に基づくのではない、神が「善い」方であることに基づくということです。神がそのような「善い」方であるというのは、ひとり子イエス様を私たち人間に贈られて彼を犠牲にしてまで私たちを罪と死の支配から解き放って永遠の命に向かってしっかり歩めるように全てを整えて下さったということです。

4.罪と戦うという仕事

神の国への迎え入れが人間の能力や業績に基づかず、善い神のお恵みに基づくと言ったら、人間は迎え入れのために何もしなくてもいいのか?そのように言われるかもしれません。それなら、所有者はわざわざ何度も広場に出向いて人を雇うのではなく、夕暮れの時にみんなを集めてお金を渡してもいいのではないか?しかし、1時間でも働いてもらうというからには、何か人間の側でもしなければならないことがあるということではないのか?そのしなければならないこととは何か?洗礼を受けてクリスチャンになったら、毎週がんばって教会の礼拝に通い、ちゃんと献金をして人助けや慈善活動をすることか?それが、若い時からずっとしてきた人と晩年になってからするようになった人を神は同等に扱って下さるということなのか?

もちろん、そういうこともあるにはあるのですが、ここではもっと根本的なことが問題になっています。教会通いとか献金とか慈善活動はその根本的なことがあって出てくるものです。それがないと、教会通いなどは見かけ倒しになります。それでは、根本的なこととは何かと言うと、それは、キリスト信仰者には罪と戦うという仕事があるということです。

パウロが「ローマの信徒への手紙」で教えているように、人間は洗礼を受けるとイエス様の死と復活に結びつけられます。古い自分が死んで新しい自分が始まるのです。この新しい自分とはまさに罪との戦いに身を投じる自分です。ローマ8章13節でパウロは「もしあなたがたが聖霊の力によって体の行いを日々、死なせていくならば、あなたがたは永遠の命に与る者として生きる」と教えています。新共同訳では「体の行いを絶つならば、生きる」と訳されて、「絶つ」などと言うと一気に断ち切ってしまうみたいですが、ギリシャ語の時制は日々そうするということです。動詞も「絶つ」ではなく、文字通り「死なせる」です。「生きる」という動詞も未来形なので永遠の命に向かう生き方を意味します。それで、「体の行いを日々、死なせていくならば、永遠の命に与る者として生きる」というのが正確な意味になります。これが罪と戦うということです。

「体の行いを死なせる」というのはどういうことか?ルターがそれを的確に説き明かしていますのでそれを皆様にお聞かせします。

「この聖句でパウロは、キリスト信仰者にはまだ死なせなければならない罪の汚れが体に宿っていることを認めている。自然のあるがままの状態では、そのような「体の行い」はいつも生じてきてしまうのだ。それは神の意思に反しようとするあらゆる欲望や誘惑である。例えば、神の意思や御言葉に意を介さない傲慢さ、心の冷たさ、辛い時に神を恨み背を向けること、神に対する反抗心、隣人に対する復讐心、妬み、憎しみ、利己的な心、ふしだらな生活などである。こうしたものはキリスト信仰者の肉と血にも宿っていて、信仰者といえどもたきつけられたり苦しめられたりする。そればかりでなく、人間的な弱さのために、また油断してしまったために不意をつかれることもある。もし、これらに対して立ち向かおうとせず、パウロが言うような「体の行いを死なせる」ことをしないでいると、これらの罪は一線を越えて人間を占拠してしまうことになる。

聖霊の力を借りて罪を死なせていくというのは、次のようにすることである。まず、罪は罪であり神の意思に反することであると自分自身はっきりさせて、自分にはそれがあるという弱さを認める。自分に罪が芽生えてその欲に火が灯ったと気づいたら、すぐ罪ではなく神の御言葉をもって信仰者としての自分に立ち返る。神の御言葉とは、罪を神罰に値するものであると言い、同時にイエス・キリストの十字架のところでそれは償われていると言う御言葉である。キリスト信仰者はこのようにして罪の赦しを信じる信仰で強められて罪と戦うことができるのであり、罪の言いなりにならず、欲望が行為に現れることを圧しとどめることが出来るのである。」

以上がルターの教えです。「体の行いを死なせる」とは、内に宿る罪が行為や言葉となって現れてくるのを圧しとどめることと考えられています。このような生き方はパウロがローマ12章2節で言っている、この世に倣わない生き方です(μη συσχηματιζεσθε τω αιωνι τουτω)。理解・意志が一新された者として神によって変えられていく生き方です(μεταμορφουσθε τη ανακαινωσει του νοος…..)。その結果、何が起きてくるかと言うと、パウロはガラテア5章で聖霊の結ぶ実を結ぶようになると言います。どんな実かと言うと、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と言われています。どれも素晴らしく聞こえますが、これらは日本語の漢字に置き換えられているのでギリシャ語のもとの意味が正確に伝わっているか怪しいところもあります。それなら、聖霊の結ぶ実は具体的に何であるかを見てみるといいです。いろいろありますが、ローマ12章にその例が列挙されています。悪を憎み善から離れない、兄弟愛を持って互いに愛し尊敬をもって互いを優れた者と思う、希望を持って喜び苦難を耐え忍びたゆまず祈る、迫害する者を呪わずその者の祝福を祈る、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣く、身分の低い人と交わり自分を賢い者と自惚れない、誰に対しても悪に対して悪を返せず全ての人の前で善を行う、他者と平和に暮らすことが自分次第であるという時は必ずそうする、復讐は神の怒りに任せて敵が飢えていたら食べさせ渇いていたら飲ませる等々です。こうしたことが、神の御言葉の上に立って罪を死なせる戦いをしていくうちに実のように出てくるというのです。

パウロはまた洗礼を受けるとイエス・キリストを衣のように着せられると言いますが(ローマ13章14節、ガラテア3章27節)、そのような神聖な衣を着せられたら、内側に宿る罪は圧し潰されていきます。罪は私たちの肉を足掛かりにして抵抗しようします。それで罪との戦いが生じてしまうのです。罪と戦うというのは、神聖な衣が罪を圧し潰していくのに自分を委ねることです。つまり、イエス様という衣を手放さないで、しっかり纏い続けるということです。そうすれば、苦しい戦いかもしれないが、勝利が約束されている戦いです。最後の審判の時に神聖な神の前に立たされる時、至らないところがは沢山ありましたが、頂いた衣はしっかり纏ってきました、と言うことが出来ます。それは、纏った期間が長くても短くても関係ありません。

4.洗礼を受けても罪と戦っていない人たちはどうするのか?

最後に、赤ちゃんの時に洗礼を受けても、イエス様が救い主であるとわからないで大人になってしまった場合はどうなるかということについてひと言。これはやっかいな問題で、キリスト教会が分かれてしまう一つの原因にもなります。教派によっては、赤ちゃん洗礼は意味がない、イエス様が救い主であるとわかって告白してから受けないと意味がないというところもあります。私たちのルター派の場合は、救いは人間の能力や業績に基づかず神のお恵みとしてあるということにこだわるので、自分を出来るだけ無力な者として受けた方がお恵みということがはっきりする、それで、むしろ赤ちゃんの方が相応しいということになってしまうのです。しかしながら、子供に洗礼を授けることを願う親が皆が皆、イエス様が救い主と教えたり、信仰の生き方をするとは限らない現実もあります。

その場合はどうしたらよいのか?これはもう、わかっていない人にあなたが受けた洗礼というのはイエス様の衣を着せられたということで、それがわかって罪と戦わないと神聖を冒涜してしまう危険なことだ、しかし、わかって戦えば大きな祝福があるということを教えていかなければなりません。

まさにそのための活動があるのです。私とパイヴィを派遣しているフィンランドのミッション団体「フィンランド・ルター派福音協会SLEY」は海外伝道だけの団体ではありません。その組織は海外伝道部と国内伝道部の二本立てです。国内伝道とは、まさに洗礼を受けても何もわからずに生きている人たちに伝道することです。国内伝道のキャッチフレーズはまさに「おかえりなさい!Tervetuloa kotiin!」です。翻って、海外伝道は、まだ洗礼の恵みに与っていない人たちにその恵みを伝えて分け与えることです。国内伝道は恵みに与っている筈なのに気づかない人に気づかせることです。両方行っているのです。最近はフィンランドも、キリスト教以外の国からの移民や難民が増えたので彼らに対する伝道も行っています。またフィンランド人でも洗礼を受けない人が増えていて、30年前にはルター派の国教会に属する人は90%以上いたのが今では70%を下回る勢いです。それで国内伝道も海外伝道みたいになってきているというのが現状です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

説教「罪という神に対する負債を帳消しにされて」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書18章21-35節

主日礼拝説教 2020年9月13日(聖霊降臨後第十五主日)

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の個所はそんなに難しくない感じを持たれるのではないでしょうか?王様に多額の負債があった家来が泣きついて情けをかけられて借金を帳消しにしてもらう。しかし、自分に対して少額の借金がある仲間の家来に対しては、泣きつかれても耳をかさず非情な態度で厳しく取り立てる。それを知った王様はこの情けのない家来を牢屋に入れて完済するまで出さないことにした。これを読んだ人は、ああイエス様は、情けをかけてもらったら自分も他の人に同じようにしてあげなければならない、そう教えているのだなと思うでしょう。でもそれはなんだか当たり前の話で、別にキリスト教でなくても、聖書を持ち出さなくても、道徳教育で教えることができると思うかもしれません。さらには、情けをかけられたらお返しに他の人にもかけられるだけでなく、むしろ自分が最初に情けをかける人になって周りの人がそれに倣うことができるような模範になることも大事だと教える人もいるかもしれません。つまり、たとえの中の王様になることです。聖書はそこまでは言っていないので、そのように教える人は聖書なんか大したことないなどと思うかもしれません。

しかし、イエス様がここで教えていることはそういう道徳論ではありません。では、何を教えようとしているのか?これから、それを見ていくわけですが、結論を先に申し上げます。道徳論だと先に申し上げたように人間と人間の間の関係はこうあるべきだという話になりますが、ここでは、もっと根底的なこと、天地創造の神、万物の造り主の神と人間の関係はこうあるべきだという話です。そこから派生して人間と人間の間の関係はこうあるべきということも出てきます。まず、神と人間の間のあるべき関係があって、それに続いて人間と人間の間のあるべき関係が来ます。

そういうわけで、このたとえの中で教えられる神と人間のあるべき関係とはどんなものか、そしてそこから導かれる人間と人間の間のあるべき関係とはどういうものかについて見ていきましょう。

2.

このたとえはペトロの質問に対するイエス様の答えとして話されました。ペトロがした質問は、もし兄弟が自分に罪を犯したら何回まで赦してあげていいのか?7回までか?というものでした。つまり、赦しには制限があってそれを超えたらもう赦してあげなくてもいいのか、という質問です。それに対するイエス様の答えは7回までではない、7を70回繰り返すまでだ、でした。聖書の訳によっては77回とするものもあります。それは、創世記4章24節に数字の7と77の対比があるからですが、ギリシャ語原文を見るとどっちにも取れます。どちらにしてもイエス様の意図は赦すことに制限を設けるなということです。イエス様は教える時、よく相手の度肝を抜くような誇張を用います。数ミリしかない小さなからし種から大木が育って天の鳥たちが来て巣を作るとか、麦の種が30倍、60倍、100倍の実を結ぶとか、ここも7回なんてみみっちいことを言うな、77回だ、7の70倍だ、と少しぶっきらぼうに相手があっけに取られるような言い方をしているのです。制限のない赦しとはどんなものか教えるためにたとえが話されます。

たとえの説き明かしに入る前に、先週のイエス様の教えを少し振り返ってみます。というのは、ペトロの質問は先週の教えの続きとしてあるからです。「私の兄弟」とは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者のことです。信仰者が別の信仰者に罪を犯すという問題です。先週の教えもそのことについてでした。

まず、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者が同じ信仰を持つ者に「罪を犯す」ということはどういうことか。これは何か法律的な犯罪を犯すことよりももっと広い意味で、要は十戒の掟に示されている神の意思に反することをしてしまうことです。イエス様は、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟の核心は全て「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」なのだと教えました(マルコ12章31節等)。隣人を自分を愛するが如く愛さないで、殺す、姦淫する、盗む等々の掟を破る、こうしたことを行為のみならず考えや言葉でも行ってしまうことが「罪を犯す」ことです。

ここで「隣人」というのは、イエス様が「善きサマリア人」のたとえで教えているように、自分が属している民族、グループその他共同体の境を超えた全ての人が相手です。それで隣人愛はキリスト信仰者にとって信仰者であるなしにかかわらず全ての人に向けられるべきものです。ただ、今見ているマタイ18章では問題が絞られていて、隣人の中でもキリスト信仰者が別の信仰者に隣人愛を破るようなことをしたらどうするかということです(後で見るように、問題が信仰者以外の隣人の場合にはどうするかということにも応用がききます)。

イエス様の教えは、罪を犯された信仰者は犯した信仰者が罪を認めて赦しを願うように導かなければならない、ただし、大っぴらにならないように出来るだけ内輪でしなければならないというものでした。もし罪を犯した信仰者が心をかたくなにして赦しを願わず、最後に教会の代表者の言うことも聞かなければ、その時はその人は教会の外側の人間のようになってしまうのだ、ただし、それは罪を犯された人についてそうなのだ、と教えます。少し微妙な言い方ですが要は、罪を犯した者は教会員全員にとって外側の人間になってしまうのではなく、罪を犯された者に関してのみそうなるのである、しかも外側の人間そのものになってしまうというより、そのような者になると言っていて、そこには断罪の視点がありません。断罪の視点がないというのは、裁きは神がすることとして神に委ねられているということです。人間がすることと言えば、犯された罪は罪であると明確にはするが、罪の赦しを受け取れるように導くことです。罪を犯した者がキリスト信仰者であれば、罪の赦しの恵みに再び戻れるようにすることです。信仰者でない場合はその恵みに初めて入ることが出来るように導くことです。

以上のことを教えた後で、今日のペトロの質問が出てきます。信仰の兄弟が罪を犯した、話し合いの結果、赦しを願ったのでめでたしになったが、残念なことにまた犯してしまった。それで話し合ったら、また赦しを願った。そんな繰り返しは何回まで許されるのか?あるいは、話し合いをしたが、心がかたくなで赦しを願わなかった。その状態でまた罪を犯した。それで話し合って、今度こそ赦しを願うかと思ったらまた願わなかった。こんな状態で罪の赦しの恵みに戻ることが出来るように導くことをずっと続けるのか?イエス様の答えは明快でした。ずっと続けるのだ、赦しを願ってまた犯しても赦しを願ったら何度でも赦すべし、赦しを願わなくてまた犯しても罪の赦しの恵みに戻ることが出来るように導くことを続けるべし。裁きはしないと言う以上は、そうにしかならないのです。裁きというのは、罪の赦しの恵みに戻れるようにしない、入れるようにしない、とシャットアウトしてしまうことです。それは人間がすることではありません。そもそも人間には出来ないことです。

他人を裁くことは人間がすることでなく、そもそも出来ないということは、本日の使徒書の日課ローマ14章10~12節でも言われています。「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです(10節)。わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです(12節)。」この「自分について神に申し述べる」と言うのは、ギリシャ語原文ではなにか収支報告をするような意味の言葉です。自分ではどんなに正確に報告しているつもりでも、神の御手にはその人のことの全てを記した「命の書」があるので、見落としていることは全て指摘されてしまいます。ましては誤魔化しなどは一切通用しません。この人生の収支報告はまさに自分自身についてであって、他人がどうだったということは全く関係ないのです。全知全能の神の前ではあなた自身、私自身のことだけが問われるのです。

3.

さて、赦しを願う心になってもまた罪を犯してしまった、それでも赦しを願ったら何度でも赦さなければならない。または、赦しを願わないまままた罪を犯してしまった、それでも、その人が罪の赦しの恵みに戻ることが出来るように導くことを続けなければならない。そういう無制限の赦しをイエス様はたとえで教えるわけですが、その教えで無制限の赦しが納得できるでしょうか?以下、見ていきましょう。

まず、言われている金額について見てます。これは以前にもお話したことがありますが、まだ聞いていない人もいらっしゃるので今一度お話しします。1万タラントンというのは誰でも何か大きな額だろう、100デナリオンは小さな額だろうと推測できると思います。具体的にどれくらいの額かと言うと、まず100デナリオンですが、1デナリオンは当時の低賃金労働者の1日の賃金です。それなので100日分の賃金となります。少し身近な金額で考えてみますと、今東京都の最低賃金は時給1,013円ということで、仮に8時間働いて8,000円ちょっと、その100日分で80万円強。これが、王様から情けをかけてもらった家来が仲間の家来には情けを示さなかった借金の額です。仲間の家来は情けを乞いましたが、問題の家来は返済が済むまで彼を牢屋に入れてしまいました。

次に1万タラントン。1タラントンは6,000デナリオンなので1万タラントンは6,000万デナリオンになります。1デナリオンを8,000円とすると、6,000万デナリオンは4,800億円。問題の家来は4,800億円の借金を返すことが出来ず王様に泣きついて情けを乞い、王様は憐れんで帳消しにしてくれました。なのに、仲間の家来が抱える80万円の借金は情けを乞われても聞いてあげませんでした。

普通に考えると、4,800億円の借金を帳消しにしてもらったら、80万円の借金など帳消しにしても痛くも痒くもないだろうに、なんと心の狭い家来だということになるでしょう。しかし、ここは心の狭い広いという問題を超えた大きなことがあります。問題の家来は王様の怒りを買って、牢屋に入れられてしまいます。返済が済むまで出られないということですが、借金を返す余裕がない人がどうやって返済できるでしょうか?これはもう永遠に牢屋に入っていることになります。1万タラントンという金額はイエス様流の度肝を抜く言い方ですが、要は返済は一生かかっても無理、永遠にかかるという意味です。

そこで詩篇49篇にある御言葉を思い出します。

「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに払い終えることはない。」(8~9節)

「贖う」というのは難しい言葉ですが、捕らわれた状態にある人を代償と引き換えに解放するという意味です。「買い戻す」と言い換えてもいいです。さて、問題の家来は「とこしえに払い終えること」のない状態に陥ってしまいました。彼は本当ならば初めの段階で永遠の捕らわれの状態に陥っていたはずなのですが、王様から常識では考えられないような憐れみをかけられて陥らないで済んだのでした。詩篇の御言葉、魂を買い戻す値は高く、永遠に払い終えることはないというのは、人間は誰かに買い戻してもらわないと天国に入れないということです。人間は何かに捕らわれた状態になっている、そこから解放されないと天国に入れないということです。それでは人間は何に捕らわれているのでしょうか?

そこでマルコ10章45節にあるイエス様の言葉を思い出します。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」

イエス様が人間のために身代金になったというのはどういうことでしょうか?この言葉はイエス様が十字架にかけられる前に話されました。これを聞いた弟子たちは何のことか理解できませんでした。しかし、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起きた後で全てのことがはっきりとわかるようになりました。イエス様が神の想像を超える力で死から復活された時、彼は本当に死の力を超える永遠の命を持つ方、まぎれもなく旧約聖書に預言されていた神のひとり子であることがはっきりしました。それではなぜ、神のひとり子が十字架にかかって死ななければならなかったのか?これも旧約聖書に預言されていたように、人間の罪に対する神罰を人間に代わって受けて、神に対して人間の罪を償う犠牲の死だったことがはっきりしました。人間は自分では何も犠牲を払っていないのに、神のひとり子イエス様のおかげで神から罪を赦された者として扱ってもらえる、そういう状況が生み出されたのです。

そこで今度は人間の方が、イエス様の十字架と復活の出来事は本当に自分のために起こったのだとわかってそれでイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、この罪の赦しの状況に入れます。そこに入れると、人間は死を超えた永遠の命に向かう道に置かれその道を歩み始めることになります。この世を去る時が来ても、その時は安心して信頼して神の御手に自分を委ねることができます。そして、復活の日に目覚めさせられて永遠に自分の造り主である神の御許に迎え入れられます。このように人間は、イエス様の十字架と復活の業によって、かつ、そのイエス様を救い主と信じる信仰によって、罪と死の捕らわれ状態から解放されて神の御許に移行できるようになったのです。そこにはイエス様の犠牲の死があります。彼が人間を神のもとに買い戻す身代金になったのです。十字架と復活の出来事の後、やっとこのことがわかった使徒たちは次のように記しました。

パウロ「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ1章7節)

ペトロ「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(第一ペトロ1章18~19節)

神聖な神のひとり子が十字架の上で流した血を代償として罪と死の支配から神の御許に買い戻される道が人間に開けたのでした。イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者はその道に入ったのです。

4.

イエス様を救い主と信じる信仰で神から罪を赦された者であると見てもらえるようになったとは言っても、最後の審判の時に神の御前に立たされて人生の収支報告をしなければなりません。神は細かいところまで全てお見通しだと言うのなら、その時自分は罪は全然ありませんでした、あなたの意思に完全に一致するように生きてきましたなどとは言えないのではないか。そういう不安が起きます。その時はパウロの次の言葉を思い出します。

「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテア3章27節)

実に洗礼を受けるというのは、イエス様を神聖な衣のように頭から被せられることなのです。その衣を被せられたら、神は内側に残る罪よりもその衣に目を向けられます。自分が編み出したのではなく、着せてもらった神聖な衣に神は目を向けられて内側の汚れを覆い隠して下さるのです。

そう言うと、罪を隠し持っていてもいいのか、それなら神の意思に反することを行ったり考えたりしても大丈夫ではないか、と思われるかもしれません。しかし、そういうことでは全然ないのです。着せられたものは神の神聖さそのものです。覆われたものは神の意思に反する罪です。神聖と罪は全く相いれません。死の力を超える神聖は、一度覆いかぶさると内に残る罪を圧し潰そうとします。嫌でもそういうことになるのです。イエス様を衣のように纏ったら、あとはその神聖さが罪を圧し潰していくことに身も心も任せるしかありません。もちろん罪は抵抗しようとします。無駄な抵抗ですが、罪は肉を通して人間が抵抗に加担するように仕向けるので、時として物凄い戦いが起きます。イエス様を衣のように纏う者がどのような内的な戦いに身を投じることになるかということをパウロの次の言葉はよく表しています。

「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」(ローマ13章14節)

神の御前で人生の収支報告をしなければならない時、神は信仰者がイエス様という衣を最後までしっかり身に纏っていたかどうかに目を留められます。衣を手放さずに纏っていたということ自体が、自分は罪を罪としてはっきりさせてそれに加担しない生き方をしたという証しだからです。衣を手放せという暴風雨のような力にも屈せず、手放さなかったからです。この時、イエス様をしっかり纏っていた人は、あの暴風雨の時、神はもう自分から離れてしまったと思ってしまったが、全然そうではなかった、あの時もずっと一緒だったとわかるのです。

5.

このように天地創造の神、万物の造り主である神はイエス様を通してまことに人間の贖い主でもあります。人間を罪と死の支配のもとから御自分の御許に買い戻すために、ひとり子の血を流すことまでされました。それは、人間がこの世を御自分としっかり結びついて歩むことができ、この世を去った後は永遠に御許に迎え入れられるようにするためでした。真に永遠ということがかかっているので、それこそ死を超える価値がないと買い戻すことができません。金や銀をいくら積み上げてもその価値は生まれません。人間には払えないので神が代わりに支払って下さったのでした。このことがわかれば、隣人が罪の赦しを受け取れるように導くことが神の御心であることがわかります。罪という神に対する莫大な負債を帳消しにしてもらったら、隣人にも帳消しが起きるように導かなければなりません。あの家来が仲間の家来にしたことは導くどころかシャットアウトしてしまったことを意味します。罪を犯した者がキリスト信仰者であれば、罪の赦しの恵みの中に再び戻れるようにすること、信仰者でない場合はその恵みに初めて入ることが出来るように導くことが何よりも大事です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

説教「罪は罪であると言うが、我のすべきは神への立ち返らせであり裁きにあらず」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書 18章15-20節

主日礼拝説教 2020年9月6日(聖霊降臨後第十四主日)

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の箇所でイエス様は、「あなたの兄弟があなたに罪を犯したら、どうすべきか」について教えます。ここで言う「あなた」と「あなたの兄弟」は、双方ともイエス様を救い主と信じる者です。17節を見ると、問題が当事者同士で解決できなければ教会に持ち込めと言っているので、二人とも教会に属する者です。つまり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者です。それでは、キリスト信仰者が別の信仰者に罪を犯したとき、どう対処すればよいのでしょうか?

それを見る前に、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者が同じ信仰を持つ者に「罪を犯す」ということはどういうことか考えてみます。「罪を犯す」と言うと、何か犯罪を犯すみたいに聞こえますが、要は十戒の掟に示された神の意思に反することをしてしまうことです。本日の使徒書の日課ローマ13章でパウロは、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟の核心は全て「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」なのだと教えます(9節)。これと同じ教えはパウロよりも前にイエス様も教えていました(マルコ12章31節等)。パウロはイエス様の教えを受け継いでいるのです。隣人を自分を愛するが如く愛さないで、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟を行為のみならず考えや言葉でも破ってしまうことが「罪を犯す」ということです。

「隣人」というのは、イエス様が「善きサマリア人」のたとえで教えているように、自分が属している民族、グループその他共同体の境を超えた全ての人が相手になります。それで隣人愛はキリスト信仰者にとって信仰者であるなしにかかわらず全ての人に向けられるべきものです。本日の福音書の個所のイエス様の教えでは問題が絞られていて、信仰者が別の信仰者に隣人愛を破るようなことをしたら、その者に対してどうするかということです。

少し脇道に逸れますが、「コリントの信徒への第一の手紙」の6章をみると、信仰者同士の間で利害の対立があって、その解決を当時まだキリスト教と何のかかわりもなかったローマ帝国の法廷に委ねられていたことがうかがえます。それについてパウロは、問題解決を信仰者同士で行うのではなく、信仰を持たない者に委ねるとは何事かと叱責します。どんな利害の対立があったのかははっきり述べられていませんが、「相手から損害を被っても耐えろ」とか「相手から奪い取るな」とか言っているところをみると(6章7ー8節)、金銭上のトラブルがあったことが窺えます。すぐ法廷に持ち込むということに自己の利益しか頭にないということをパウロは見抜いていました。

金銭上のトラブルに加えて、信仰者同士の罪の問題には性関係の乱れがあったことも、同じコリント第一の手紙の中に記されています(5章)。キリスト教の性モラルの基本は、イエス様の教え「神は人間を男と女とに創りあげ、男と女は親元を離れて、神によって一つに結ばれる」(マルコ10章6ー9節)にあります。つまり、徹底して男女の間の永続する一夫一婦制です。当時の地中海世界の性モラルは、この第一コリント5章の他にローマ1章などからも伺えるようにイエス様やキリスト教会が教えるものとは異なっていました。それで、なかなかそこから抜け出られない信仰者もいたに違いありません。

 

2.

本題に戻りましょう。罪を犯された信仰者は犯した信仰者にどう対応したらよいか?

ここで一つ細かいことで恐縮ですが、私たちの新共同訳では「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」とあります。ここには写本の問題があります。写本の問題というのは、私たちが手にする聖書の中にある書物はみなオリジナル版の写本に基づいているということです。というのは、書物のオリジナル版は現存せず、それを手書きで写した写本、写本の写本、そのまた写本を手掛かりにするしかないからです。無数の写本の中からどれがオリジナル版に近いかということが研究され、それが聖書の翻訳に反映されるのです。このマタイ18章15節について、古い写本によっては「あなたに対して」がないものもあります。その場合、兄弟の罪は具体的に誰に対して犯されたということがないので、それを目撃したあなたはどうするかという意味になります。新共同訳では罪を犯されたあなたはどうするかという意味です。ギリシャ語”原文”の新約聖書(Nestle-AlandのNovumu Testamentum Graecaeです)の解説部分を見ると、第25版では「あなたに対して」がある写本に基づいていたが26版からはないものに基づくと言っています。それでフィンランド語の聖書も1938年の訳は「あなたに対して」がありましたが、1992年の現行訳では外されました。このように写本やその他学会の研究が進むと聖書の文言も変わるということが起きるのです。日本では最近「聖書協会訳」が出ましたが、そこでは「あなたに対して」はどうなったでしょうか?

さらにギリシャ語聖書の解説部分を見ると、このマタイ18章15節のところはどの写本に基づくべきか最も困難な個所の一つである、各自しっかり調べて判断しなさいというようなことが述べられています。まさに説教者の力量が問われるところです。私もどっちにするか随分悩みましたが、マタイ18章全体の流れからみて「あなたに対して」があった方がよいという結論に至り、新共同訳の通りにいこうと決めた次第です。

話をもとに戻します。罪を犯された信仰者は犯した信仰者に対してどうすべきか?イエス様が教えることは、まず、二人だけのところで、「君が行ったことは我々の神の意思に反することである。罪である」とはっきり教え戒めるべきである、ということです。もし罪を犯した者が「おっしゃる通りです」と認めて、罪を悔いて赦しを願えば赦してあげる。そうすることで、罪を犯された信仰者は信仰の兄弟を取り戻したことになる。なぜなら、神の意思に沿うように生きようと、お互いの心がまた同じ方向を向くようになったからです。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、この「二人だけのところで教え戒めよ」というイエス様の教えは、レビ記19章17節にある神の命令「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」に基づいているということです。どういうことかと言うと、罪を犯された信仰者は、それに対して何もせずにただ心の中で、こんちくしょう、あの野郎、と憎しみを燃やしてはいけない。そうではなくて、その人の前に行って「君がしたことは我々の神の意思に反することなのだ。罪なのだ」とはっきり教え戒めなければならない。それをしないでいるのは罪の放置・黙認になり、放置した人もその罪に関与したと神に見なされてしまう、と言うのです。教え戒めて相手が聞き従えば、それは神から大きな祝福が与えられたことになります。しかし、聞き従わない場合は罪の責任は犯した人が全部神に対して負うことになり、教え戒めた人は責任解除になるのです。これと同じことが、本日の旧約聖書の箇所エゼキエル書33章7ー9節でも言われていました。「あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち返るよう警告したのに、彼がその道から立ち返らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」

以上から、「二人だけのところで教え戒める」というのは、単に仲直りの手続きではないことがわかります。それは、罪を犯した者にそれは神の意思に反することであると認識させて、その上で赦しを願うように導くということです。罪を犯された者はその導きをする大事な役割を持つということです。

そこで、罪を犯した者が悔いて赦しを願う時は、犯された者は赦さなければなりません。それも神の意思です。なぜそうかと言うと、神がイエス様を私たちに贈られたのは私たちが罪の赦しの中で生きられるようにするためだったからです。創世記の堕罪の出来事以来、人間には神の意思に反しようとするものが備わってしまいました。それを聖書は「罪」と呼ぶのですが、そのために初めにあった神と人間との結びつきが失われてしまいました。失われた結びつきを神は人間に取り戻してあげようと決めました。そうすれば人間は神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後も永遠に自分のもとに戻れるようになれる。それで、本当なら人間が受けなければならない罪の罰を御自分のひとり子のイエス様に代わりに受けさせて、人間が受けないで済むようにしました。それが、ゴルゴタの十字架でイエス様が死なれたことでした。こうしてイエス様は神罰を引き受けて死なれましたが、神はそのイエス様を三日後に復活させて、死を超えた永遠の命があることを示し、その命に至る扉を人間に開きました。

そこで人間が、自分の罪は真にイエス様に償なってもらった、だから彼こそは真に私の救い主だと信じて洗礼を受けるとイエス様の死と復活に結びつけられて、古い自分は死に新しい自分が生き始めます。そして、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、その結びつきは自分から手放さない限り何があっても失われません。この世を去った後も結びつきのゆえに復活の日に目覚めさせられて、神の御許に永遠に迎え入れられるようになるのです。

イエス様の償いによる罪の赦しを受け取って、このような神の恵みの中で生きられるようになった者は、罪の赦しを願う者に対しては自分も神からしてもらった以上、赦しを与えなければならない。また、罪が何かわからず赦しを願うこともしない者に対してはまさに罪の赦しの恵みを受け取ることが出来るように導いていかなければなりません。

罪の赦しを願う者に赦しを与えるというのは、何かその者に対して優位に立つということではありません。自分こそが神から赦しを与えられた者であることに思い至らなければなりません。そして、赦しを与えるというのは、赦した後は犯された罪はさもなかったかのように振る舞い、以後不問にするということです。ミカ7章19節に「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」とあります。神が人間から罪の汚れを取り除くというのは、まさにこのことです。まず、罪を包み隠さずに罪は罪であるとはっきり言い、そこから赦しを与えることで罪を帳消しにしていくということです。どうか、全てのキリスト教会がこのようにして罪の汚れから清められていきますように。

イエス様の教えの次に進みましょう。残念なことに「二人だけのところで教え戒める」ことが功を奏せず、罪を犯した信仰者が教え戒めに耳を貸さなかった場合はどうするか?自分は罪を犯していないとか、自分のやったことは罪ではない、と言い張った時です。その時は、証人を信仰者の中から一人か二人呼んで、それは神の意思に反することだったということを確認してもらうことになる、とイエス様は教えます。この証人を立てるというイエス様の教えは、旧約聖書の申命記19章15節にある神の命令に基づいています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」イエス様が旧約の伝統の上に立っていることの一例です。

さて、証人の証言が出ました。これで罪を犯した信仰者が赦しを願えば、信仰の兄弟を取り戻したことになりますが、耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は問題の解決は教会に委ねられるとイエス様は教えます。なんだか教会員みんなの前でつるし上げにあうような感じがしますが、そうではありません。最初は二人だけで、それがだめなら二人か三人の証言で、と言っているように、罪を大っぴらにしない方向性がはっきりあります。罪を犯した者の神との結びつきを修復することが目的です。糾弾したり、ましては裁くことではありません。教会を代表する者が当事者と証人と話し合うということになるのでしょう。

そこで罪を犯した信仰者がそれを認めて赦しを願えば、問題は解決します。しかし、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われます。異邦人とは、天地創造の神、御子イエス様をこの世に送られた神を信じない人のことです。徴税人とは、当時ユダヤ民族を支配しているローマ帝国の租税官吏となって同胞から不当に取り立てて私腹を肥やしていた人たちです。民族の裏切り者と見なされていました。罪を犯しても最後までそれを認めない、心がかたくなな信仰者はこうした神の民に属さない者、裏切り者と同様である、とイエス様が教えていることになります。

ところで、日本語訳の「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」を注意して見てみます。ギリシャ語原文をしっかり見ると、「その人は、あなたに関して言えば、異邦人か徴税人のようになってしまえばいい、そうなってしまうのはやむを得ない」というような意味です。ここは三人称単数の命令形なのでちょっと難しいのですが、少なくとも日本語訳の「見なしなさい」みたいに、罪を犯された者に向けた命令文ではありません。

それではどういうことかと言うと、「その人は、あなたに関して言えば、異邦人か徴税人のようになってしまえ」と言っているので、「あなたに関して言えば」と限定的に考えています。全ての人に関してそうだとは言っていません。しかも、「異邦人のように」なので「異邦人」そのものだとも言っていません。ここは断罪的ではないのです。そうなると問題の兄弟の神との結びつきを回復することを考えることができます。このことについて神自身、本日の旧約の日課エゼキエル33章11節で次のように言われています。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。」

(その前の10節ではイスラエルの民が罪の告白をしています。罪は罪であるとはっきり認めた後で神はこのように裁きではなく憐みの言葉をかけて下さるのです!)

それなので、罪を犯された者は教会の訓戒が功を奏しなかった場合でも、あいつなんか最後の審判の時に神罰を受けてしまえばいい、などと呪ってはいけないのです。このことは、本日の福音書の箇所に続く21ー22節を見るとよくわかります。ペトロがイエス様に、信仰の兄弟が罪を犯したら何回赦すべきか7回までか、と尋ねるところがあります。それに対してイエス様は、7回どころか7の70倍までも赦せ、と答えます。これはもう、赦すことにおいて回数に制限を設けるなという意味です。このことについては次主日の説教でお話しします。ここでは、兄弟を教え戒めることに続くイエス様の教えを見ていきましょう。

3.

18節「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」「あなたがた」は、18章の最初を見ればわかるようにイエス様の弟子を指します。「つなぐ」というのは禁止することを意味します。「解く」というのは、許可することを意味します。イエス様は以前16章で同じこと「地上でつなぐこと、解くこと」は将来教会の代表格になるペトロがすると言っています。今日の18章では弟子たちがすることとして言っています。ペトロを中心にした弟子たち、すなわち使徒たちが教会を形成して、彼らがこの地上で禁止したり許可したりすることは、神がおられる天の国でもお墨付きを得るということです。使徒たちは、かつてイエス様の教えと業をつぶさに目撃して彼の十字架の死と復活の証人になって、その後は迫害にも屈せずイエス様が神から送られた人間の救い主であると宣べ伝えました。彼らが神の意思はなんであるかを地上で明らかにする権限を持っているということです。

続く19節から20節をみると、どんな願い事でも、信徒が二人集まって心ひとつにして願い求めたら、天の父なるみ神はかなえて下さるというような、一見、願い事は何でもかなうと言っているように見える教えです。実はこれはもっと広い意味です。これは先ほどの18節の使徒たちの権限の教えの続きです。しかも、先の16節でイエス様が基づいた旧約の伝統「二人か三人の証人の証言」を一段高い次元に引き上げるものです。どういうことかと言うと、まず、19節の意味ですが、これをギリシャ語原文を解説的に訳すと次のようになります。「お前たちのうち二人がこの地上で祈り求めようとする全ての事柄について合意して祈り求めれば、その事柄は天の父なるみ神のお墨付きを得て実現される」ということです。18節では使徒たちが決めたことが天の国のお墨付きを得ると言っていました。19節ではそのためには使徒一人ひとりが勝手に決めるのではなく二人以上が合意することが必要だ、そして20節でイエス様の名前のもとに集まって合意することが必要だと言います。願い事が何でもかなうということもあるかもしれませんが、ここの全体の流れから見ると、信仰者同士のいろいろな問題について、何が神の意思に沿っているか、反しているかを明らかにしなければならない。その時、二人以上がイエス様の名前のもとに集まって合意したら、それは天のお墨付きを得たことになり、その通りになるという意味です。

ここで見落としてはならないことは、二人以上が集まる時、「イエス様の名前のもとに」そうするということです。先の申命記19章15節では二人以上の証言をもって事の立証がなされるということでした。イエス様は、この二人以上の証人ということに「自分の名前のもとに」を付け加えました。罪を犯した信仰者を二人以上の証人をもって教え戒める時も、イエス様の名前のもとに集まることになります。このように旧約聖書の掟に「イエス様の名前」という新しい要素が付け加わりました。信仰者が集まる時、祈る時、イエス様の名前が付け加えられることで、集まる者たち祈る者たちがみんなイエス様のおかげで天地創造の神との結びつきを持てていることを確認・告白します。

こうしてみると、まだイエス様の名前がない旧約の時には、神との結びつきを持たねばならないと思っても、手掛かりがなかったことになります。イエス様の名前が付くと、イエス様の十字架と復活の業のおかげで神との結びつきが持てるようになったことがはっきりします。神が罪を海の深みに沈めると言うミカの預言も、それだけ聞くと神は憐れみ深い方だとわかりますが、どのようにしてそんなことが起きるのかはわかりません。ありがたくは聞こえますが、よく考えると漠然としすぎています。それが、イエス様の十字架と復活の出来事があったことで、もう考えるまでもなく神は本当に罪を海の深みに沈められたのだとわかります。それがわかれば隣人に対する私たちの心も一気にそれに倣うようになっていきます。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

2020年8月30日 主日礼拝(ビデオ礼拝、聖霊降臨後第13主日)  司式・説教:マルッティ・ポウッカ 牧師

説教題:「希望の元です」  

祈り・聖書日課パイヴィ・ポウッカ 宣教師

聖書日課エレミヤ15章15―21節、ローマ 12章9−21節、マタイ16章21~28節

賛美歌: 187:1      245   167:1   333:4

音楽マルッティ・ポウッカ、谷八智子

ビデオ編集:パイヴィ・ポウッカ

 

礼拝はスオミ・キリスト教会ではなく、YouTubeだけで配信し、後でもそこで見ることが出来ます。YouTube放送、8月16日10時30分~ アクセス

https://www.youtube.com/channel/UCttMNU_tjIJmcbWUM0X7haA  

 

パイヴィ先生からフインランドの森の中で採取したブルーベリーの写真をいただきました。

2020年8月23日 主日礼拝(ビデオ礼拝、聖霊降臨後第12主日)  司式・説教:マルッティ・ポウッカ 牧師

説教題:「恵は無料です」  

祈り・聖書日課パイヴィ・ポウッカ 宣教師

聖書日課イザヤ 51章1―6節、ローマ 12章1−8節、マタイ16章13~20節

賛美歌187:3  339:1   181:1   333:3

音楽マルッティ・ポウッカ、谷八智子

ビデオ編集:パイヴィ・ポウッカ

 

礼拝はスオミ・キリスト教会ではなく、YouTubeだけで配信し、後でもそこで見ることが出来ます。YouTube放送、8月16日10時30分~ アクセス

https://www.youtube.com/channel/UCttMNU_tjIJmcbWUM0X7haA

2020年8月16日 主日礼拝(ビデオ礼拝、聖霊降臨後第11主日)  司式・説教:マルッティ・ポウッカ 牧師

説教題「信頼できる」

祈り・聖書日課パイヴィ・ポウッカ 宣教師

聖書日課イザヤ 56章1、6−8節、ローマ 11章1−2a、29−32節、 マタイ15章21~28節

賛美歌187:2  246   371:3   333:2

音楽マルッティ・ポウッカ、谷八智子

ビデオ編集:パイヴィ・ポウッカ

 

礼拝はスオミ・キリスト教会ではなく、YouTubeだけで配信し、後でもそこで見ることが出来ます。YouTube放送、8月16日10時30分~ アクセス

https://www.youtube.com/channel/UCttMNU_tjIJmcbWUM0X7haA

8月9日 主日礼拝(ビデオ礼拝、聖霊降臨後第10主日)  司式・説教:マルッティ・ポウッカ 牧師

説教題「恐れることはない」

祈り・聖書日課パイヴィ・ポウッカ 宣教師

聖書日課列王記上19章9~18節、ローマ10章5~15節、マタイ 14章22~33節

賛美歌187  240   371   333

音楽マルッティ・ポウッカ、谷八智子

ビデオ編集:パイヴィ・ポウッカ

礼拝はスオミ・キリスト教会ではなく、YouTubeだけで配信し、後でもそこで見ることが出来ます。

YouTube放送、日10時30分~ アクセス
https://www.youtube.com/channel/UCttMNU_tjIJmcbWUM0X7haA
 

 

 

 

 

 

 

 

説教「神の国に向かって進む者には奇跡は本当のことになる」吉村博明 宣教師、マタイによる福音書14章13-21節、イザヤ書55章1-5節

主日礼拝説教 2020年8月2日(聖霊降臨後第九主日)

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の日課の個所は、イエス様の有名な奇跡の業についてです。お腹をすかせた5千人以上の群衆にわずか五切れのパンと二匹の魚でみんなをお腹いっぱいにしたという奇跡です。これと同じ出来事についての記述が今日のマタイ13章の他にマルコ6章、ルカ9章、ヨハネ6章にもあります。他にも大勢の群衆をわずかな食糧で満たした出来事が、マタイ15章に4千人以上を相手にして七切れのパンと少しの魚で行ったことが記されています。これと同じ出来事はマルコ8章にもあります。人数は5千人から若干少なくなり元手のパンも5切れから少し増えますが、それでも想像を超える話には変わりありません。言われる人数も、女子供は除いてということですから、実際は5千人、4千人よりもずっと多かったでしょう。

一体この出来事は何なのでしょう?自然の摂理に反しすぎています。目の前にいるのは5千人以上の群衆。手元にあるのは5切れのパンと2匹の魚。5人に分け与えてもお腹いっぱいになんかならないでしょう。これを読んだ人は誰だって、こんなこと起こりっこない、大昔の人のファンタジーだと言うでしょう。ただ、話は聖書という宗教の本に載っていることなので本当かどうかは大事ではない、宗教の教祖というのは不思議な力を持って慈悲深い者であると描くのは古今東西どこにでもある、ここもそれなのだと言って、ありえないと騒ぎ立てることもしない、そういうのが普通の受け止め方ではないでしょうか?

 しかしながら、この話が群衆の空腹の満たしで終わらず、残ったパン屑を集めたら籠12個分が一杯になったというのを聞くと、あっけに取られてしまいます。これじゃ、最初の5切れよりも増えてしまったじゃないか?これは一体何なんだ?命と体のために必要なものを消費する。ところが、消費したはずのものは無くならないで、逆に消費すればするほど増えしまう。ここまでくると、教祖の慈悲深さを超えて、自然の法則を足蹴にして鼻で笑っているような感じさえします。

私も含めてキリスト信仰者の多くは、全員ではないかもしれませんが、そういう信じられない出来事が実際に起こったのだと言います。それは、私たちが科学的に無知でイエス・キリストの慈悲深さにすがりたいあまり、現実世界に目をつぶっているということではないと思います。もちろん、このようなことは普通はあり得ないとわかっているので科学的に無知ではありません。ただ、この場合は普通あり得ないことが起こったのだ、と言うだけです。そういう例外を認めることが無知ということになるのであれば無知でもいいです。また、イエス・キリストの慈悲深さにすがりたいあまり、あり得ないことを起きたことにしているのでもないと思います。イエス様が慈悲深いというのはその通りと思いますが、人間が病気や食べ物がないから可哀そうだから助けてあげるという人道主義を超えたことがあると考えています。というのは、もしイエス様のこの世での活動が人道主義で説明できるのなら、30そこそこの年齢で活動を打ち切ってさっさと十字架刑にかけられる道には進んだのはどうしてでしょうか?せっかく超能力に溢れているのだから、もっと長生きして世界各地に赴いて人道支援を続けた方が理に適っていると思います。なぜイエス様はあの時点で打ち切って受難が待ち受けるエルサレムにわざわざ向かって行ったのでしょうか?

全てのことは、イエス様の活動の主眼が「神の国」にあったということで説明がつくと思います。そういうわけで本日の説教では、イエス様の教えや業が「神の国」に結びついていることを明らかにしていこうと思います。

2.「悔い改めよ、神の国は近づいた」

 イエス様がこの地上で活動した時の主眼は人々に「神の国」について知らせ、人々の目と心をそれに向けさせることにありました。

活動を開始した時、イエス様は「悔い改めよ、神の国は近づいた」と宣べていました。どんな意味でしょうか?「悔い改める」と言うと、悔恨の念を持って一人で暗くねちねち反省しまくっているようなイメージがわきます。何か、日本の職場や学校で反省文を書かされるようなイメージと結びつけられてしまうかもしれません。しかし、ギリシャ語のメタノエオーという動詞の基本的な意味は「考えを改める」です。そして、その動詞の背景にあるヘブライ語のシューブは、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるということです。ねちねちなんかしていられません。神の意思に反する生き方をしてしまった、それは罪なのだ、だからこれからはそれをやめて神の意思に沿うように生きなければ、と言って、エイ、ヤーと方向転換するのです。

ただし、ことはそう単純ではないことも事実です。方向転換とは言っても、神の意志に反していたことはどうなるのか?神は、そんなこともういいよ、と気安く言ってくれるのか?神がそんなに手軽で手ごろな方だったら、誰がもう罪を犯さないように生きようなどと思うでしょうか?逆に、もし神が罪を簡単には赦さない方ならば、どうしたらいいのか?何か償いをしなければならないのか?神が、お前の償いは完璧だから赦してやることにする、と言ってくれても、その後の人生でいいことがなければ、そんな神に方向転換したことを後悔するでしょう。逆に、いいことがあって、それで神の方を向き続けることが出来たとしたら、それでは足元はおぼつかないでしょう。

実は、イエス様は人間が神に向かう方向転換がおぼつかないものではない、完璧なものにしてくれたのです。そのことを後で見ていきます。悔い改めなさい、方向転換しなさい、と言うのは、これからそれが出来るようにしてあげよう、だから、私のところに来て私の教えることを聞きなさい、私の行うことを見なさい、ということです。

3.イエス様と共にあった「神の国」

 イエス様は併せて、「神の国は近づいた」と宣べました。これは驚くべきことです。神の国というのは本来は、終末の時、天と地が新しく創造し直されて、今の世が新しい世に生まれ変わった時に現れるものだからです。

 「神の国」に終末論が関係することについて少し触れておきましょう。ここ数週間の説教でもお教えしてきたことですが、聖書には終末論の観点があります。今のこの世が終わり新しい天と地が創造され、新しい世が始まるということです。終末論とは言いますが、正確には終わりだけでなく始まりも考えられます。新しい世では「神の国」が唯一現れる国となり、再臨するイエス様が最後の審判を行い、誰が「神の国」に迎え入れられ誰が入れられないかを決めます。その時、死者の復活が起こり、迎え入れられる者たちはこの世で纏っていた朽ち果てる肉の体にかわる神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられます。

 「神の国」がどんな国かを考える時、黙示録21章4節で言われていること、つまり神が迎え入れられた者たちの目から全ての涙を拭われた国であり、死も悲しみも嘆きも労苦もない国であることに着目すべきと先週申し上げました。死も悲しみも嘆きも労苦もないので、安心安逸な天国そのものです。それに加えて、神が拭われる涙はギリシャ語原文で「全ての涙」なので、痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。この世で中途半端や不完全に終わってしまっていた正義が最後の審判の時に完結させられ完全なものにされるということです。神の正義が完全と言うのは、人間は他人のことのみならず自分のことさえも知り尽くすことはできません。それなので人間が下す判断はいつも偏って不完全です。人間のことを知り尽くしているのは、人間を造られて一人ひとりの髪の毛の数まで知っておられる創造主の神だけです。その神が下す判断が偏らず完全で、それが隅々まで行き渡っている国が神の国です。

イエス様はその「神の国」が近づいたと言ったのですが、それじゃ、もうその時は終末だったのか?しかし、あの時から今日まで天と地は全然変わっていないじゃないか?そういう疑問が起きます。イエス様は何を意味したのか?

それは、「神の国」がイエス様と共にあった、というか、イエス様の背後に控えるようにしてあった、ということです。どういうことかと言うと、イエス様の行った奇跡の業を思い出しましょう。無数の病人の癒し、悪魔の追い出し、自然の猛威の静め、そして今日の個所のように、わずかな食糧で大勢の人たちを満たすことがありました。健康、安心、安全、魂の守り、全て神の国に当たり前のようにあるものです。イエス様の奇跡の業と言うのは、「神の国」がどういう国であるかを人々に垣間見せた、味わわせたという意味を持ちます。もちろん、イエス様が慈悲深い方で困っている人を助けないではいられなかったと言うことも否定はしません。しかし、それならば、もっと大勢の人たちを助けるためにもっと地上にいてもっと多くの国々を回った方がよかったではないかということになります。イエス様は、まず当時の人々に「神の国」で当たり前にあることに与らせることをして、人々の目と心を神の国に向けさせました。後世の人は、それらの証言や記録に触れることで目と心を向けることが出来るようになりました。

イエス様は人々の目と心を神の国に向けさせただけに留まりませんでした。人々がそこに迎え入れられる手はずも整えたのです。イエス様の十字架と復活の出来事がその手はずでした。

人間に神の意思に反する罪が備わっていることは、世界や自分の周りに起きている痛々しい出来事を見ればわかります。自分自身を振り返ってみてもわかります。また自分は周囲に対して何も迷惑をかけていないと、優等生のつもりでいても、十戒の掟を鏡として自分を見れば、神の意志に沿うものでないことがわかります。人間はそのままの状態では、神の目から見て相応しい者ではないのです。神とイスラエルの民との間の旧い契約に基づけば、人間は神から与えられた掟を守れば、神の目から見て相応しい者になれるということでした。ところが、神が求めているのは外面的な行いだけでなく心の中の清さもそうなので、それは人間には不可能なことが明らかになりました。

そこで神が採った策は、誰かに人間の罪を全て償ってもらい、人間の罪を帳消しにした状況を創り出して、人間をその中に入れて人間を神の目に相応しい者に変えていこうというものでした。それでは、誰が人間の罪を償う役割を果たすのか?それが神のひとり子のイエス様だったのです。神聖な神の神聖なひとり子です。これ以上の身代わりはないという犠牲でした。これがイエス様のゴルゴタの丘の十字架の死の出来事の真相だったのです。人間は、この神の策による罪の償いが自分に対しても行われたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪を赦された者として見られるようになり、それからは神との結びつきを持ってこの世を歩むようになります。神の目に相応しくなろうとして自分で何かを成し遂げたのではなく、神のひとり子にそうしてもらったのです。畏れ多いことです。自分がしたことと言えば受け取るだけで、他は何もしなかったのに、天地創造の神が毎日、私の傍にいて祈りや願いを聞いてくれる神になったのです。

それからは、神のこの深い恵みに背くような生き方は出来なくなります。 もちろん、キリスト信仰者になっても弱さはあるし、隙をつかれることもあります。しかし、たとえ神の意思に反することがあってどうすれえばいいのか、ということになっても、一度打ち立てられた十字架の贖いの力は消えません。罪の赦しがそこにあるのだと確認できれば、また前に進んでいくことができます。その時の方向転換は本物です。進んでいく先とは「神の国」です。そして、この世を去った後、復活の日に目覚めさせらる時、神は、このように絶えず十字架に戻りながら前に進んでいたことを覚えていて下さるのです。

4.神の国を知らしめる教え

 イエス様が奇跡の業を行ったのは「神の国」を垣間見せた、味わわせた、ということであり、それは人々を、当時の人も後世の人も皆、「神の国」に導くためでした。しかも、イエス様は、十字架と復活の業を通して、その導きを具体的なもの、現実のものにして下さったのです。ただ単に超能力を行使していたということではなかったのです。もしそれだったら、人々の目は「神の国」になど向かず、イエス様を教祖として拝むだけでしょう。

イエス様は、奇跡の業で私たちの目を「神の国」に向けさせるだけではありませんでした。教えを通しても、神の国がどのような国であるかを知らせました。先々週と先週のたとえの教えは、まさに「神の国」とそこに迎え入れられる者はどういう者かについて教えるものでした。「からし種」と「パン種」のたとえでは、朽ち果てる肉の体を纏った、取るに足らない私たち人間が、イエス様を救い主と信じる信仰に入ることで、最後には神の栄光を映し出す復活の体を纏う者に変わるということが教えられていました。「畑の宝石」と「真珠」のたとえでは、人間は神のひとり子の血を代償として神のもとに買い戻されるという位、神に高価なものと見なされて、神の国が現れる日までずっと守られているということが教えられていました。「良い麦と毒麦」と「魚を捕る網」のたとえでは、終末の時、神の国に迎え入れられる者と入れられない者の選別があるということが言われ、特に、最初迎え入れの候補者だった者も除外される可能性があるということ、だから、まさに今これからイエス様が果たした償いを受け入れて、十字架に戻りながら前に進むことを始めるかどうかにかかっているということが教えられていました。

イエス様の「神の国」を教えるたとえには、神の正義について教えるものもあります。マタイ20章にあるブドウ園の所有者と労働者のたとえでは、朝から晩まで一日中働いた者と夕方に来てちょっと働いた者の賃金が同じになることがあります。これは、神の国への迎え入れということについて、子供の時からキリスト信仰者として信仰ゆえにいろいろ苦労があった人も、晩年にイエス様を救い主と信じて洗礼を受けてそういう苦労がほとんどなかった人も、神の招きに応じたのだから神の目から見て同じくらい相応しいということを意味します。神の国への迎え入れに関しては、神がイエス様を用いて用意したことを受け取るかどうかが本命になります。そこには人間社会の正義の尺度からはみ出すものがあるのです。

5.神の国の奇跡と聖餐式

以上から、本日の日課の5,000人以上の空腹を満たす奇跡の出来事も、他の奇跡も全て、イエス様を救い主と信じて「神の国」に向かって進む者にとっては起きて当然のものになることがわかって頂けるのではないかと思います。「神の国」に向かって進んでいない人にとっては、あり得ない話に留まるでしょう。

本説教の最後の部分です。本日の旧約の日課はイザヤ書55章の個所でした。一見すると、お金がなくても神が食べ物と飲み物を与えてくれるような内容です。4節と5節を見ると、諸国民に対する証人、諸国民の指導者、統治者とあるので、イエス様のことを指しているとわかります。そうすると、この個所は5,000人の奇跡を暗に意味していると考えることが出来ます。そこで、5,000人の奇跡が単なる空腹の満たしの超能力ではなく、「神の国」を知らせ迎え入れに導く奇跡であれば、このイザヤ書の個所も同じです。

1節で「穀物を求めて、食べよ、来て、銀を払うことなく穀物を求め」の「求め」はヘブライ語原文では「買う」です。お金がないのに「買う」というのは変なので「求め」に訳したのではないかと思われますが、要は「タダで手に入れる」ことです。私たちは罪の償いと神の国への迎え入れを神からタダで頂きました。2節で「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」というのは、せっかく神が無償で与えてくれる救いがあるのに、人間は違うものに救いがあると思って、それに自分の持っているものや労力を費やそうとしている。そこで、神は、私に聞けと命じます。「聞け」が何度も繰り返されます。と何度も繰り返されます。

2節の中ほどに「わたしに聞き従えば」とありますが、ここはヘブライ語原文は命令形です。それもとても強調された言い方の命令です。それで、「しっかり聞くんだ!」としておきます。実はここのところをヘブライ語で読んでいくと、シムアー・シャーモーアと読みますが、いきなりイザヤ書6章9節に引き込まれます。というのは、そこにも同じ言い方があるからです。ただし、使われ方は180度正反対です。6章9節は、神の意思に反する生き方をするイスラエルの民に神が罰を下すところです。「しっかり聞け!しかし、お前たちは理解するな」と命じるのです。神との旧い契約が破綻したことを示しています。

それとは対照的に55章2節の「しっかり聞け!」は、「そうすればお前たちは良い物を食することが出来、魂に命を吹き込むことが出来る」と続きます。続く3節では新しい契約について言われます。新しい契約とは何か?それは、律法を守ることで神の目に相応しくなろうとするのではなく、神のひとり子が果たしてくれた罪の償いを受け入れることで神の目に相応しくなることです。神の目に相応しいものにされた以上は、これからは神の意思に沿うようにと自分を方向づけていきます。そこでは神に聞くことが重要になります。

神に聞くこととは、聖書を繙くこと、説教で御言葉の説きあかしを聞くことです。聖餐式のパンと葡萄酒は、神の国に向かって進んでいく時に起きてくる霊的な空腹を満たすものです。神が無償で与えて下さる糧です。消費すればするほど満たされ、消費してもなくなることもありません。まさに聖餐式は、全てが満たされている神の国を先取りするものです。聖餐式で私たちは神の国を味わい垣間見ることになるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教「神の国に向かって進む子らよ、これだけは忘れないでほしい」吉村博明 宣教師、マタイ13章31-33、44-52節

主日礼拝説教 2020年7月26日(聖霊降臨後第八主日)

列王記上3章5-12節、ローマ8章26-39節、マタイ13章31-33、44-52節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

先々週から福音書の日課はマタイ13章のイエス様のたとえの教えです。先々週は「種まき人」のたとえ、先週は「良い種と毒麦」のたとえでした。今日は、短いたとえがいくつかあります。まず、「からし種」と「パン種」の二つのたとえ、これは群衆を前にして語られました。その後でイエス様は群衆と別れてある家に行き、そこで弟子たちに四つのたとえ、「畑の宝物」と「良い真珠を探す商人」と「魚取りの網」、そして「天の国のために弟子になった律法学者」のたとえを話されました。最後のたとえは、新共同訳では「天の国のことを学んだ学者」ですが、ギリシャ語原文の正確な訳は今申した通りです。

今日は合計六つのたとえがあることになりますが、先週の「良い種と毒麦」と今日の最後のもの以外の五つは全部、イエス様が言うように「神の国」をたとえるものです。ただし全部について「神の国」とは言わず「天の国」と言われています。これは、マタイが「神」という言葉を畏れ多くて使わず、「天」に言い換えていることによります。「天の国」も「神の国」も同じことです。後で「神の国」について見ていきます。

イエス様はこれらのたとえを神の国が理解できるために語られました。私たちは、これらを聞いて神の国がどういう国であるか理解できるでしょうか?そういうわけで本日の説教では、これらのたとえをもとにして神の国を理解してみようと思います。まず説教の第一部は、聖書で言われる神の国について少し一般的なことを述べておきます。そうすると後でたとえの教えがわかりやすくなると思います。第一部ではまた、本日の旧約の日課、列王記上の個所が役に立つと思います。第二部では、本日のイエス様のたとえの教えをみます。第三部では、神の国を信じる者はこの世をどのように生きることになるかということについて見ていきます。そこでは、本日の使徒書の日課、ローマ8章が役に立つでしょう。

2.神の国について

先週の説教でもお教えしましたが、聖書には終末論の観点があります。今のこの世が終わり新しい天と地が創造され、新しい世が始まるということです。終末論とは言いますが、正確には終わりだけでなく始まりも考えられます。新しい世では神の国が唯一現れる国となり、再臨するイエス様が最後の審判を行い、誰が神の国に迎え入れられ誰が入れられないかを決めます。その時、死者の復活が起こり、神の国に迎え入れられる者たちはこの世で纏っていた朽ちる肉の体にかわって神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられます。

神の国がどんな国かを考える時、黙示録21章4節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」とあるので、安心安逸な世界、天国そのものとわかります。ただ同じ節に、神は御許に迎え入れられた者たちの目から涙をことごとく拭われると言われているので、そこにも着目します。この涙は、痛みや苦しみの涙だけではなく、無念の涙も含まれる、文字通り「全ての涙」です。この世で中途半端や不完全に終わってしまっていた正義が最後の審判の時に完結に至らされ完全なものにされるということです。正義というのは、とても難しいことです。大きな悪や害を被ったのに、どんなに頑張っても補償や償いが見合わないということがあります。逆に、本当はそこまで要求する必要はないのに法外な償いや謝罪を求めるということもあります。そういうことは日々のニュースを見ても気づかされるし、私たちの身の回りにもよくあります。このように人間同士が行うことは、不釣り合いで不完全なことばかりなのです。釣り合いが取れた完全な判断というものは、全ての人間の全てのことを知り尽くしている者でないと出来ません。そのような者は、人間そのものを造られ、人間一人ひとりの髪の毛の数まで知っておられる神をおいて他にありません。神の国とは、神の判断が隅々まで行き渡っている国なので完全な正義があるのです。

本日の旧約の日課の個所でソロモン王が神にお願いしたことは、そういう神の正義を求めるものです。ソロモンは父ダビデからイスラエルの国と人民を受け継ぎました。彼はこの勢いある国をちゃんと統治できるか自信がありませんでした。もちろん権力があるので、自分の好きなようにやることは可能です。自分にたて突く者は排除し、自分に媚を売る者を周りに集めてやりたい放題できます。しかし、王はそれを望みませんでした。「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与え下さい」(3章9節)と願い出ました。長寿も富も敵の命も要らない、本当に正しい決定を行える心を望んだのです。国を統治する時、多くの決定を下さなければなりません。いろんな利害や対立を解決しなければなりません。その時、いろんな声を聞かなければならなくなるでしょう。人間が把握できることは限られています。全てを把握しようとすると無制限になってしまって何も決められなくなります。見切り発車したら多くのことを見落としてしまい、ある人たちは満足しても別の人たちはしないということになります。

しかし、全てを把握している全知全能の神は誰が見てもこれ以上のものはないという決定を下せます。私たちはそういう超えた判断をされる方がおられるとわかった時、例えば、自分が得た利益は他人に犠牲を強いたものだったかどうか振り返ってみることができます。また他人の重荷を軽くするために自分はこれくらいの犠牲は担えると言うこともできます。ソロモンはまさに人間的な思いが入り込まない、神の思いを自分の思いにして決定を下したかったのです。どうしてそう言えるのかというと、3章11節で神がソロモンに、お前が望むのは(ヘブライ語で)”ミシュパート”が分かるということだな、と言っているからです。”ミシュパート(משפט)”というのは、ずばり「正しい決定」、「正義」を意味する言葉です。新共同訳では「訴え」と訳されていますが、正確ではありません。このソロモンの望みが神の御心に適っていたのは言うまでもありません。神はソロモンに知恵を与えました。ソロモン王の治世の間、イスラエルの王国は繁栄の頂点に達しました。ただ、繁栄に伴って富や名声も膨れ上がり、やがて人間的な思いが入り込むようになって神の思いが脇に追いやられていきます。それが後に禍のもとになっていきます。そのことについてはまた別の機会にお話しすることになるでしょう。

3.神の国を構成する復活の者たち

以上、神の国とは、新しい天と地のもとでの新しい世に現れる国であり、神の栄光を映し出す復活の体を纏われた者たちが迎え入れられる国、痛みも苦しみもない天国そのものであるだけでなく、神の意志と判断が隅々まで行き渡り正義が完全に実現される国であることを見てきました。その国をイエス様は本日のたとえでどう教えているでしょうか?

神の国は新しい世に現れるからと言って、今の世にまったく何もないということではありません。先週の「良い種と毒麦」のたとえの教えでもお教えしましたように、「人の子」イエス・キリストは今は父なるみ神のもとにいながら、今この世で行われている福音伝道や教会生活を通して将来神の国に迎え入れられる人たちを増やし育てています。神の国が目に見える形で現れるのは将来のことですが、それは今は目には見えない形で始まっているのです。それでは何が始まって、今どう進んでいるのでしょうか?

確かにこの世の段階では、復活の体を纏った者たちが集い、正義も健康も安全も全てが完全になっている国は夢物語です。今あるのは何かと言うと、イエス様がゴルゴタの丘の十字架で果たして下さった人間の罪の償いがあります。それから、それを受け入れて神との結びつきを回復して神の国に向かう道を進んでいる者たちがいます。彼らはまだ復活の体を纏っておらず肉の体ですので、神の意思に反することにいつも晒されてしまいます。それで心はいつもイエス様の十字架の下に立ち返り、神から罪の赦しを確認してもらいながら、また進んでいくという生き方です。キリスト信仰者はまだ不完全な状態ですが、イエス様の十字架による罪の償いという完全な償いを持てています。今、神の国という完全な国に向かう道を神との結びつきを持って歩んでいるということです。不完全なものが完全なものになる前に完全なものに結びつけられているということです。

そこで、「からし種」と「パン種」のたとえを見てみましょう。まず、「からし種」のたとえ。神の国は今は目に見えないものであるが最後には結果がはっきり現れるというのは、数ミリ位のあるかどうかわからない「からし種」が成長して最後には鳥たちが巣を作るくらいの木になるのと同じだということになります。天の鳥たちが木の枝に巣を作るというのは、旧約聖書の預言で神の国をたとえるものとして言われています(ダニエル4章9、18節、エゼキエル17章23節、31章6節)。

「パン種」というのは、以前に作ったパンの生地の小さな残りを発酵させて、次のものを作る時に生地に混ぜると、良い香りがしてパンも膨らむというものです。三サトンというのは小麦粉39リットル位の量でそれから出来る生地なので、かなり大量のパンが出来ます。小さな発酵した生地のかけらは、それ自体では何の価値もないのですが、それがふっくらした香ばしい大きなパンを生み出すのです。これも、取るに足らないものから大きく目に見える素晴らしいものが現れるということで神の国にたとえられています。

ここで私は見方を拡げて、パン種もからし種も復活の体を纏わされた者たちのことも指していると考えます。取るに足らない、それ自体何の価値もないようであるが、撒かれて神に成長を与えられて立派な木に育つ、または捏ねられるように神に手をかけてもらってふっくらした香ばしいパンに変わる。これは、朽ち果てる肉の体が神の栄光を映し出す復活の体に変えらることと同じです。神の国とは、そのような者たちを構成員とする国なのです。

次に「畑の宝物」と「良い真珠を探す商人」。これらのたとえが解釈される時は普通、宝物と真珠は神の国を意味する、つまり神の国がそれほど素晴らしいので登場人物は自分の全財産を売り払ってまでして購入する。そういう神の国の何ものにも代えがたい素晴らしさを語っているのだと考えられることが多いと思います。神の国が素晴らしい価値あるものというのは私も同意見ですが、今回はこう考えたらどうかという解釈の提案をいたします。それは、宝物を見つけた人や商人が全財産を売り払ってまで購入したというのは、これは神がひとり子イエス様を犠牲にしてまで私たち人間の罪を償って下さったことを意味するのということです。人間はイエス様が十字架で流された血を代償として、罪と死の支配下から神のもとへ買い戻されました。それ位、私たち人間は神の目から見て価値あるものと見なされたのです。- どうか多くの人がこの素晴らしい真理に気づくことが出来ますように - そうすると、たとえの宝物や真珠はイエス様に罪を償ってもらった価値ある人間ということになります。これを高い代価を払って買い取ったのは神ということになります。神は畑ごと買うので、誰もそこに足を踏み入れることが出来ません。これはまさしくイエス様を救い主として受け入れて罪の償いを自分のものにしたキリスト信仰者が復活の日まで守られていることを意味します。

次の「魚を捕る網」のたとえは、先週の「良い種と毒麦」のたとえと同じ内容です。最後の審判の時に誰が神の国に迎え入れられ誰が迎え入れられないかということが決められる、その日が来るということです。せっかく同じ網にかかっても投げ捨てられてしまうというのは、「良い種と毒麦」にあったのと同じ問題提起があります。それは、神の国に迎え入れられる予定の者だったのに神の意思に反する不法を行う者だったので毒麦と一緒に燃やされるということでした。つまり、キリスト教徒でも、自動的に神の国に迎え入れられるということではないのです。つまづきとなるものをことごとく踏みつぶし不法を行わない者が迎え入れられるのです。つまり、自分自身のキリスト信仰を保ち、他人のキリスト信仰も支え、神の意志に沿う生き方をする者です。神からの罪の赦しの中にとどまって神との結びつきを守る者です。そういうわけで、今の時点で自分はキリスト教徒だと言っていても、将来倉に納められる麦のように、また器に入れられる良い魚のように神の御国に迎え入れられるという保証はありません。逆に、今の時点でキリスト信仰者でないからと言って、それで今後も火に投げ込まれる毒麦や悪い魚のままだと言うことも出来ません。イエス様のことを救い主と信じるきっかけはいつ転がって来るかわからないからです。要は、最後の審判の時に「人の子」イエス様にどう判断されるかということです。それなので、問われているのは、これまでの時点でキリスト教徒だったかどうかではなく、これからどうするのか、例えばこの説教を聞いた後でどうするのか、ということです。

最後のたとえ「神の国のために弟子になった律法学者」はわかりにくいかもしれません。それを見ていきましょう。「律法学者が神の国のために弟子になると皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す屋敷の主人のようになる」というのはどいういうことでしょうか?律法学者とはモーセ律法の専門家で、神とイスラエルの民との間で結ばれた契約について熟知している専門家です。彼らが今度はイエス様が教える神の国を受け入れると、こういう屋敷の主人のようになるというのです。イエス様が教える神の国を受け入れるというのは、イエス様の十字架と復活は本当に起きたのだ、それは神の計画の実現であり、人間が神の国に迎え入れられるようにするために行われたのだ、そう信じることです。イエス様を救い主と信じることで神との結びつきが生まれるとそれは神との新しい契約になります。こうして律法学者の専門知識には古い契約と新しい契約の両方が入ることになります。新しい契約が来たからと言って十戒の掟が廃棄されることはありません。十戒は新しい契約の中で新しい役割を果たすようになります。守らなければ神の罰を受けるぞと人間を追い込むものではなくなりました。かわりに人間が神の意志に沿えない罪深いものであることを映し出す鏡になって、人間に罪の自覚を生み出してイエス様の贖いの業の必要性を覚えさせて 人間をイエス様の下に送り出す役割を持つようになりました。

そういう律法学者が実際にいたかどうかは聖書からではわかりません。ある律法学者がイエス様との問答で最も大事な掟は何かと聞いて、イエス様が神を全身全霊で愛し、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛せよ、と答えたことがあります。その答えに感銘を受けた律法学者はそれを復唱し、イエス様から「お前は神の国から遠くはない」と言われたことがあります(マルコ12章34節)。「遠くはない」だから、まだ神の国の弟子にまでは至らなかったようです。でもそれは無理もないことでした。まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きていなかったのですから。

3.神の国に向かって進む者が忘れてはいけないこと

以上、本日のイエス様のたとえを見てきました。神の国やその構成員は、今のこの世では取るに足らないものであるが、神は手をかけて育てたり捏ねたりして、最後には必ず結果が目で見えるものになって現れるということ。さらに神は、私たち人間のことをひとり子を犠牲に供してもよいと考えるほど価値あるものと見なし、イエス様を救い主と信じて受け入れた者を復活の日まで守って下さり、その守りの中に留まる限り必ず神の国に迎え入れて下さることがわかりました。

復活の日まで守って下さると言われて、その通りだと信じますとは言ったものの、本当にそうだろうか、守ってもらっていないのではないかと思う時があります。また、守ってもらっていながら、自分は神の意志に反することばかりではないか、いつ守りの手を離されてもおかしくない、実はもう離されてしまったのでは?と心配することもあります。そんな時は、本日の使徒書の日課ローマ8章の個所を見てみると、そんなことはない、神は私から手を離さないばかりか、私自身がその手を離さないように力を下さっていることがわかります。

先週8章に入りました。洗礼を受けた者には、神の霊、聖霊が宿っているということが言われました。聖霊が肉の体に楔のように打ち付けられているので、その通りに出来るかできないかは別として、神の意志に沿おうとする意志と心があります。それが内面の戦いを生み出し、キリスト信仰者はため息をつくようなことばかりだが、将来神の栄光を現わす復活の体を纏わされて神の国に迎え入れられる希望を持っています。この希望を持っている限り、もう救われた、神の国に迎え入れられるから心配するなということになります(8章24節)。この希望がないとどこに向かっていけばいいかわからなくなり、救われないことになります。

希望があって向かうべきところがわかって進むと、今度はそれを邪魔するようなことが起きてきます。悪魔がキリスト信仰者の心と目を罪だけに向けさせて赦しがあることを忘れさせようとします。この世の誘惑や迫害が信仰を捨てさせようとします。それで、本日の個所では聖霊が弱い私たちを助けてくれるということが言われます。先週、私たちには聖霊があるので一人孤独の中で進んでいるのではないことがわかりました。本日の個所では聖霊とイエス様が私たちの祈りを父なるみ神に取り次いでくれていること、そして神自身も私たちを本当に手をかけて守り導いて下さっていることが強調されます。「神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」と言います(8章28節)。この訳では万事が益になるのは自動的になるような意味です。その訳も可能ですが、神自身が益をもたらすとはっきり言う訳も可能です(後注)。それに基づいてギリシャ語原文を訳すと次のようになります。「神が万事において影響力を行使して最善のものにしていく。

私たちは、イエス様が果たして下さったことは全て神の御心によるものであったとわかって、それで神を愛するようになると、神はその者を守り導きます。たとえ今起きていることはその人にとって最善のものになっていないかもしれないが、神は全てのことを驚くべき仕方で組み換え組み合わせてよいものに変えて下さるのです。

このような神がキリスト信仰者の側に立っていて下さるので、本当はもう怖いものはありません。本日の個所でパウロが言っていることを忘れないように毎日読み返しましょう。神はひとり子のイエス様を私たちに贈って下さったくらいに、私たちを罪と反対の義なる者にしようとされたのです。もし私たちを罪に定めることが目的なら、ひとり子など送らなかったはずです。だから、私たちには神の愛、キリストの愛が疑いもなく注がれており、何ものも私たちをこの愛から引き離す力を持っていません。私たちの目と心を惑わすことは出てくるかもしれませんが、それは惑わされた目と心がそう感じただけの話で、神の愛自体は全然変わっていないのです。そのことを忘れないようにしましょう。神の愛が全然変わっていないことは聖書の御言葉からいつも確認できます。聖書を繙き説教を聞くことも忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

アーメン

 

(後注)動詞συνεργειの主語をπανταとすれば、新共同訳のような訳になります。主語を神θεοςとすれば、ここで申し上げたような訳になります。その場合、πανταは名詞ではなくなり、「万事において」という副詞用法になります。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

説教「キリスト信仰者はため息をつきながら希望に燃える」 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書13章24-30、36-43節、ローマ8章12-25節

主日礼拝説教 2020年7月19日(聖霊降臨後第七主日)

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.「良い種と毒麦」のたとえ

本日の福音書の日課は先週に続いてイエス様のたとえの教えです。良い種と毒麦のたとえです。先週は「種まき人」のたとえでした。マタイのバージョンでは種は福音を聞いた人を意味しました。迫害や誘惑に遭っても信仰を保ち続け、神の意志に沿う生き方をすることで善を生み出す、そのことが良い土地に撒かれて実を結ぶということにたとえられているとお教えしました。ルカのバージョンでは種は神の御言葉であり、マルコのバージョンでは神の御言葉と人間の双方を意味するので、教えの内容も視点が変わってくるということも申しました。

本日のたとえも種は人間を指していますが、実る実は人間のままなので、「種まき人」で実が善であるのとは違います。加えて、種は二種類あります。つまり、二つの異なる人間のタイプがあるということです。一つは良い種でこれは麦に育つ。もう一つは毒麦になる種です。毒麦というのは、ちょっとネット情報を見ましたが、イネ科の植物で、写真を見ると、なるほど穂が出たばかりだと麦と見分けがつきにくいようです。麦がちゃんと黄金色に実ったら区別できるようです。毒麦という名前ですが、それ自体に毒性はないのだが、何か悪い菌が付きやすく、家畜が食べると中毒を起こすことからその名が付いたとのことでした。

 そこで、このたとえをもう一度見てみましょう。ある人が良い種を畑に撒いた。知らない時に敵が来て毒麦を撒いて行ってしまった。麦が育って穂が出始めた時、毒麦も一緒に育っていた。僕たちが主人に毒麦を抜きましょうかと聞くと、主人は今の段階では区別がはっきりしないから麦も一緒に抜いてしまうおそれがある、刈り入れ時まで待って区別がはっきりつくようになったら、まず毒麦を抜いて集めて燃やし、麦は刈り入れて倉に納めると言います。

 イエス様はこのたとえを群衆に聞かせた後で弟子たちに限ってその説明をします。それを見ますと、実にこのたとえは聖書の終末論の観点が結晶したものと言えます。まず、良い種を撒く者は「人の子」と言いますが、それはイエス様を意味します。ただし、イエス様はイエス様でも「人の子」のイエス様は、十字架と復活の出来事の前にこの世で活動されたイエス様というよりは、終末論的な存在です。どうしてかと言うと、ダニエル書7章に預言されている「人の子」とは、まさにこの世の終わりに現れる救世主だからです。イエス様は自分がそれであると言うのです。そこで終末論的なイエス様とは何かと言うと、復活された後、天に上げられて今は天の神の右に座しているが、将来この世に再臨して最後の審判を司ることになる救世主イエス・キリストということです。この方が再臨の日までずっとこの世で良い種を撒いているのです。種が撒かれる畑とは世界そのものと言われます。そして良い種とは御国の子、つまり将来、神の国に迎え入れられる者たちです。正確に言えば、迎え入れられるのは種が育った実ですので、種は候補者ということになります。つまり、天上のイエス様は、地上で行われる福音伝道や教会生活を通して将来の神の国に迎え入れられる人たちを増やし育てているのです。

 そこで、毒麦というのは、良い種と正反対のもので悪い者の子と言われます。正反対なので将来神の国に迎え入れられない者たちです。毒麦を撒いた敵は悪魔です。悪魔とは、創世記の初めに最初の人間に神の意思に反することをするように仕向けて神と人間の結びつきを失わせた張本人です。悪魔の目的は人間が造り主である神との結びつきを失ったままでこの世を生き、この世を去った後も永遠に神のもとに戻れなくすることにあります。それで、毒麦を撒いて、正しい麦と入り混じるようにして、正しい麦の成長を邪魔したり、また慌てた主人が急いで毒麦を刈り取ろうと正しい麦も一緒に刈り取ってしまい一緒に燃やされたら、悪魔にとって大成功なのです。しかし、そうはなりませんでした。主人は刈り入れの時を待つことにしました。正しい麦も毒麦も育つだけ育って、しっかり見分けがつくようになった時に、毒麦は毒麦で正しい麦は正しい麦で刈り取って、一方は燃やし一方は倉に納めることにしました。

 イエス様は、刈り入れの時は世の終わりを意味すると言います。つまり、今のこの世が終わって新しい天と地の創造が起こって、そのもとで神の国が唯一の国として現れる時です。世の終わりとは言いつつも、実は新しい世の始まりも意味します。聖書にはこのような今の世の終わりと新しい世の到来という観点があります。イエス様の再臨と最後の審判は、この二つの世の過渡期に起こることです。最後の審判の時にはまた、眠りについている者も起こされて、誰が新しい世の神の国に迎え入れられるかが明らかにされます。神の国に迎え入れられた者たちは倉に納められた麦ということになります。彼らは太陽のように輝き、毒麦は燃えるさかる炉の中に投げ込まれると言われます。これは明らかにダニエル書12章の預言を土台にしています。

以上のように、良い種と毒麦のたとえは聖書の終末論を凝縮したような教えです。そこで問題になるのが、それでは、良い種から育って倉に納められる麦、つまり神の国に迎え入れられる者たちとは具体的に誰のことを指すのか、ということです。そして、火の中に投げ込まれてしまう毒麦とは誰のことか?「人の子」イエス・キリストが地上の福音伝道と教会生活を通して、神の国に迎え入れられる人を増やし育てようとしているので、良い種や麦の実はキリスト教徒ということになります。そうすると、火に投げ込まれるのはそれ以外の者たちということになります。こういうのは他の宗教の人たちや無宗教の人たちは顔をしかめるでしょう。キリスト教会の中でも現代の宗教対話の思潮にそぐわないと思う人がいるでしょう。そのような人は、このたとえを現代の思潮にあうように解釈するかもしれません。しかし私としては、イエス様やイエス様のことを伝えた使徒たちが思いもよらないことを、イエス様が言ったことにしてしまうのはイエス様に気の毒というか申し訳ない気持ちになるのでしません。時代の要請はそれとして、それには耳栓をして聖書の御言葉の中に潜り込んでいくことをします。そしてまた水面に浮上した時に世の中や時代はどう見えて、御言葉はどんなインパクトを与えるかを考えたく思います。もちろん、御言葉の中に潜り込むなどというのは、いくらヘブライ語やギリシャ語やアラム語が出来てもそんなに簡単なことではありません。それはよくわかっています。しかし、このようなスタンスで私は聖書の説き明かしをしているということを申し上げておきたく思います。

話が脇道に逸れましたが、このたとえがキリスト教徒とそうでない人たちの二分法で言っているということに関して、一つ注意しなければならないことがあります。それは41節でイエス様が、「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものをすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませる」と言っているところです。つまづきとなるものとは、キリスト信仰を持つ人に対して持てなくなるようにしてやろうと躓かせることです。誘惑や迫害があります。不法とは、神の意志に反すること全てです。具体的には十戒の掟に反することです。天地創造の神を唯一の神、自分の造り主としてお祈りしないこと、神の名を汚すこと、安息日を無視すること、両親を敬わないこと、人を傷つけること、異性をふしだらな目で見たり不倫をすること、他人のものを奪うこと、偽証したり真実を曲げること、他人を妬んだり他人や他人のものに執着心を抱いてしまうこと等々です。

ここのイエス様の言葉をよく見ると、「自分の国から集めさせ」ると言います。つまり、神の国に迎え入れられる予定の者だったが、神の意思に反する不法を行う者だったので毒麦と一緒に燃やされるということです。つまり、キリスト教徒でも、自動的に神の国に迎え入れられるということではないのです。キリスト教徒でも、つまづきとなるものをことごとく踏みつぶし不法を行わない者が迎え入れられるのです。つまり、自分のキリスト信仰を保ち、他人のキリスト信仰も支え、神の意志に沿う生き方をする者です。そういうわけで、今の時点で自分はキリスト教徒だと言っていても、将来倉に納められる麦のように神の御国に迎え入れられるという保証はない。逆に、今の時点でキリスト信仰者でないからと言って、それでこれからも火に投げ込まれる毒麦のままだと言うことも出来ません。イエス様のことを救い主と信じるきっかけはいつ転がって来るかわからないからです。要は、最後の審判の時に「人の子」イエス様にどう判断されるかということです。それなので、問われているのは、これまでの時点でキリスト教徒だったかどうかではなく、これからどうするのか、例えばこの説教を聞いた後でどうするのか、ということです。

誰が倉に納められて、誰が炉に投げ込まれるかという問題については、ここではこれ以上のことはもう言えないので、ここでやめておきます。ここから先は、キリスト信仰者は本当につまづきとなるものをことごとく踏みつぶして神の意志に沿うような生き方が出来るのかどうかということを見ていこうと思います。これを考える際に、本日の使徒書の日課ローマ8章がよい手引きになります。

2.キリスト信仰者のため息と希望

3週間前から使徒書の日課はローマ章から章を追って見ています。6章で使徒パウロは、洗礼を受けた者はイエス様の死と復活に結びつけられる、それで罪に対して死に神に対して生きるようになると説きます。罪に対して死ぬと、罪が支配しようとしても出来ない位こっちは死んでしまっている。だから、罪に服従することはない。代わりに神に服従するようになった。しかしながら、自分はまだ肉の体を纏っており、それは罪が肉の思いをたきつける格好の道具になっている。そのためパウロは、キリスト信仰者は洗礼を受けた自分の立ち位置をよく自覚して体を罪のための道具とせず、意識して神の意思のための道具にせよと説きます。ところが、信仰者にとって一つ足枷になるのは、律法の掟が罪を罪として白日の下に晒してながら鏡のように自分の前に現れてくることです。キリスト信仰者は律法の掟を通して何が神の意志かわかっているのだが、その通りに行えない、語れない、思えないということばかりの自分にやはり律法の掟を通して気づかされてしまう。そのことをパウロは7章25節で自分を例にして、信仰者というのは意識や理解の面では神の命じることに従っているが、肉の面では罪の命じることに従っていると言います。

しかしながら、パウロは8章1節で断言します。洗礼を通してイエス様と結ばれている者には神の裁きはない、と。つまり、意識や理解の面で神の命じることに従っていることが大事なのです。もちろん肉の面でも従えれば言うことなしですが、それは復活の日に神の栄光に輝く復活の体を着せられる日まで待たなければなりません。今の肉の体の時は、意識や理解の面で神の意志に従うということが楔のように肉に打ち込まれているのです。まさに肉に対して聖霊が楔のように打ち込まれています。それでパウロは11節で次のように言います。キリスト信仰者には洗礼の時に注がれた聖霊が宿っており、神はその聖霊を通して信仰者の滅びの体を永遠に生きる体すなわち復活の体に変えて下さるのだ、と。キリスト信仰者にとってこの約束は絶対である、と先週の説教で申し上げた次第です。

今日はその続きの12節からです。今は肉の体を纏ってはいるが、そこに聖霊が楔のように打ち込まれました。それで肉の思いに相対立する神の意思を知っています。罪の命じることに真っ向から対立する聖霊の命じることに耳を傾けるようになりました。復活の日に肉も罪も消滅して復活の体を纏うことになるので、今は何か大きな過渡期を進んでいるようなものです。この過渡期では、先にも申し上げたように、キリスト信仰者は洗礼を受けた自分の立ち位置をよく自覚して体を罪のための道具とせず、意識して神の意思のための道具にしなければなりません。そこでパウロは13節で言います。聖霊によって体から生じてくる業を死なせるならば、あなたがたは永遠の命に入れます、と。新共同訳では「体の仕業を絶つならば」ですが、ギリシャ語の動詞タナトオ―は「殺す」「死なせる」とかなりどぎついです。しかも、「絶つ」と言ったら、エイ!ヤー!と罪を一気に断ち切ってしまうみたいですが、そんなことは無理です。そんなこと出来たら苦労はいりません。「ローマの信徒への手紙」の6章とと7章は要らなくなります。ギリシャ語の動詞の用法は死なせることが常態、日々繰り返し行われるという意味です(タナトゥーテは現在形の命令 アオリストの命令タナトーサテだったら「絶つ」の訳でいいでしょう)。罪との戦いは一気にケリがつくものではなく不断に続くものなのです。

体から生じてくる業を死なせるというのは具体的にはどういうことか?ルターが次のように教えています。まず、神の意思に反することをしてしまった、言ってしまった、思ってしまった、それは罪であると神の御前で認め、それを憎むこと。そして、イエス様を救い主と信じる信仰に留まって罪の赦しをゴルゴタの十字架にかけられた主に見出すこと。そこで神の手から罪の赦しを受け取ること。こうすることで、罪が私たちを支配下に置こうとするのを打ち破ることが出来るとルターは教えます。これが、体から生じる業を日々死なせていくことです。

この戦いは一人孤独に暗中模索で行うものではありません。パウロは、この戦いの真っただ中で聖霊が私たちキリスト信仰者を導いてくれていると言います。罪と戦っていること自体が聖霊に導かれていることの表れと言えます。パウロはこのように罪と戦って聖霊に導かれる者は「神の子」であると言います。14節からあとはこの「神の子」のテーマが教えを深めていきます。聖霊がキリスト信仰者を神の子にしていることは、信仰者が祈る時に神のことを「アッバ!」と呼びかけることから明白だと言います。「アッバ」というのは、アラム語のアッバーという父親を呼び掛ける言葉です。お父さん、父ちゃん、パパです。罪と戦って聖霊に導かれる「神の子」は神に祈る時、神を父親呼ばわりするのは当然なのです。

16節を見ると、聖霊と私たちの霊が一緒になって私たちのことを神の子であると証言していると言います。「私たちの霊」というのは何か?人間は神に造られる時、体と心という肉の部分に対して神から息を吹きかけられるようにして霊を吹き込まれて生きる者になります。こうした人間誰しもが持つ霊に加えて、洗礼を受けてキリスト信仰者になると聖霊が注がれます。それでキリスト信仰者には聖霊と各自の霊があって、それらが一緒になってキリスト信仰者のことを神の子と言うのです。

キリスト信仰者が神の子ならば、やはり神の子であるイエス様と兄弟ということになります。そうなると神の国もイエス様と一緒に相続することになります。このようにイエス様と同一の扱いを受ける者になると、今度はイエス様が苦しみを受けたことも一緒のものになると言います。イエス様と同一扱いでせっかくいい気になれたのに、苦しみも一緒だなどとは冷や水を浴びせらる感じがします。しかし、パウロはすかさず、イエス様の苦しみに与るのは、実はイエス様が受けた復活の栄光に与るためだと言います。さらにたたみかけるように、復活の栄光というのはこの世での苦しみなど色あせたものにしてしまうくらいのとてつもない価値があると言います(18節)。

19節からあとは話のスケールが急に壮大になります。神に創造されたこの世の被造物全てが、今この世で苦しむ神の子の復活の日の栄光を待っているというのです。復活の栄光が現れるのは、天と地が新しく創造し直される時ですので、その時は今ある被造物は全て消え去ってしまいます。その日を被造物が待っていると言うのです。一体どういうことでしょうか?そもそも今ある被造物は朽ち果てる運命に定められていると言います。それを定めたのは神だと言います。しかし、神がそれを定めたのは希望と抱き合わせだったと言います。どんな希望かと言うと、被造物が滅びという奴隷状態から解放されて、神の子たちが復活の栄光に変えられる解放に合流できるという希望です。神はこのような希望と抱き合わせで被造物を朽ち果てる運命に置いたのでした。

それなので、パウロはこの世の被造物は今、キリスト信仰者と一緒にため息をつき産みの苦しみにうめいていると言います。新共同訳では「共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」ですが、ギリシャ語原文では後者は「共に産みの苦しみを味わう」(シュノーディネイ)で同じですが、前者は「共にため息をつき」(シュステナツェイ)です。フィンランド語訳の聖書もその通りに「ため息をつき、産みの苦しみを味わう」と訳しています。

ところが、23節からあとを見ると、希望ということが神の子に関わることとして述べられていきます。そのため希望をもって生きるのは神の子たちの方で、被造物の方は希望を与えられているのにそれを持っていないようなのです。パウロは、神の子が現れるのは肉の体が復活の体に変えられる時で、今はそれをため息をつきながら待っている状態だと言います。また「ため息をつく」という言葉が出てきました(ステナツォメン)。ため息をつくというのは、キリスト信仰者は復活の栄光に変えられる日までは、神の意志は分かっていても肉の思いに遮られる現実にため息をつく日々なのです。復活の日に必ず栄光に変えられると知っていて、その希望は持ってはいるが、希望が叶えられる日までまだ待たなければならないので産みの苦しみにうめいているのです。先ほど見た、アッバ、お父さん、と叫ぶ神の子はまだこの世の肉の体を纏っている時のことです。23節で言う神の子は肉の体が復活の体に変えられた正真正銘の神の子になった時のことです。しかし、それはまだ起こっておらず、希望の中のことです。ここでパウロは重要なことを言います。24節です。キリスト信仰者は復活の体をまだ目で見ていない状態、それを希望している状態で救われたのだ、と。どうしてそんなことが可能でしょうか?

イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、肉の体を纏いながらも聖霊が楔のように打ち付けられて、神の意志に沿うように生きようとします。肉の思いに反抗しようとします。人生の中でこれまでなかった大きな決定的な変化です。あとは復活の日まで聖霊に導かれて行きます。その日、復活の体を目で見ることになります。そうなったらもう希望することはありません。希望したことを目にしたからです。しかし、その日までは希望して生きていきます。それで今は復活の体を目で見ないで希望で感触を得ているようなものです。「希望している状態で救われた」というのは、復活の体の希望を持ったことが肉の体に挑戦状を叩きつけたことになり、神の側に立ったことを宣言したことであると言えます。この希望を持って生きると沢山のため息をつくことになるでしょう。しかし、この希望を持っている限り、つくため息はいつも次から次へと過ぎ去っていき、私たちは前に進めるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン