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アウグスブルグ信仰告白20条と現代
礼拝後のコーヒータイムの時に行っている、アウグスブルグ信仰告白の学びも、今やっと20条「善い行いについて」に到達。これは内容的に、信仰とは何か、宗教とは何かを改めて考えさせるものではないか、それで500年近く経った今でもそうしたことを考える材料として有用ではないかと考える者である。
20条は内容的に三つに分けられる。一つ目は、「信仰の教理」と「行いの教理」の対比。前者は、人間が神から義と認められる(神から見て正しい者、神の目に適う者と認められる)のはイエス・キリストを自分自身の救い主と信じる信仰によるという教理。それに対して後者は、神の掟や教会が決めたことを「善い行い」として行うことで神から認められるという教理。ルター派は前者を掲げ、後者を排する(「行い」は「業」と言い換えてもよいのではないかと思う)。
二つ目は、「信仰」と「知識」の対比。聖書に書いてある、イエス・キリストを巡る出来事は歴史的事実だと信じても、それはまだ知識にすぎず信仰ではない。それらの歴史的出来事、特に十字架と復活の出来事が自分にどんな効能をもたらすのか、その効能を信じるのが信仰である。その信仰から神を深く信頼する心が生まれ、その信頼がある限り悩み苦しむ心は慰めと励ましを得る。
三つ目は、ルター派は「行いの教理」を排したが、「信仰の教理」は信仰者が全く異なる土台に立って善い行いをする者に変える。歴史的出来事の効能を信じる信仰と一体となって聖霊が働き、心をそのように改革する。善い行いとは実は「信仰の教理」の帰結なのだ。「行いの教理」では心は何も改革されないのだ。
20条では、悩み苦しむ良心の戦いがなければ「信仰の教理」を自分のものにすることはできないと言われる。自分は神の目に適う者ではないのでは?という恐れの自覚があるところでのみ「信仰の教理」は真の心の平安と神への信頼をもたらすからだ。政治家でも一般市民でも、何か宗教を信奉する者が例えば平気で嘘をつき苦しむ良心の戦いを戦わずにその宗教の集会や儀式を続けるのは、「行いの教理」の成れの果てである。
今やAIは全人類の知識の集積となり、人間の問いや悩みに応えるばかりか、創造めいたことも始め、人間にとって神よりも身近な存在になりつつある。しかし、いくらAIが、聖書の神は御子の受難を通して死の苦しみを味わった、と知識で知っていても、自分ではその苦しみを味わあない。また、「信仰の教理」や良心の戦いについて知識はあっても、自分でその戦いは戦わない。なので「信仰の教理」を自分のものにしていない。近年、聖書の歴史的出来事について、理性にそぐわないものを事実ではないとし、出来事の効能を無効化する傾向がある。それはキリスト信仰を知識の集積に置き換えてしまわないだろうか?それに20条はまた、キリスト信仰の義は社会的正義や哲学が構想する正義とは別物であるとも言っている。
以上のようなことを考えさせる20条を次回から本コラムで紹介します。