説教「聖霊の風に吹かれて」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書3章1-17節

 

主日礼拝説教2020年3月8日 四旬節第二主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.自省するファリサイ人ニコデモ

ニコデモHenry Ossawa Tanner / Public domain

本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答の一部です。ニコデモについて、私たちの用いている新共同訳聖書では「ユダヤ人たちの議員」と訳されていますが、間違いなく当時のユダヤ民族の最高意思決定機関である最高法院のメンバーだったのでしょう。つまり、身分の高い人です。そのニコデモが属していたファリサイ派とは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということにとてもこだわったグループでした。他にサドカイ派と呼ばれる神殿祭司を中心とするグループが別にありますが、ファリサイ派はむしろ熱心な信徒のグループでした。彼らは旧約聖書に記されたモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則を厳格に守ることを唱え、自らそれを実践していました。何しろ、自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。

イエス様が歴史の舞台に登場して、数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々を集め始めると、ファリサイ派の人たちもつきまとうようになります。一体、あの男は群衆に何を吹き込もうとしているのか?彼が律法や預言に依拠しているのは明らかなのだが、でも何かが違う。一体あいつの教えは何なんだ、という具合でした。イエス様に言わせれば、神の前での清さ、神聖さというのは外面的な行いのレベルに留まるものではない。内面的な心の有り様も含めた全人的な清さ、神聖さでなければなりませんでした。つまり、「殺すな」というモーセ十戒の第五の掟は、実際に殺人を犯さなくても、心の中で他人を憎んだり見下したりしたら、もう破ったことになる(マタイ5章22節)というのです。「姦淫するな」という第六の掟も、実際に不倫をしなくても、心の中で思っただけで破ったことになるとイエス様は教えたのです(同5章28節)。こうした教えは、イエス様が私たちに無理難題を押し付けて追い詰めているというのではありません。十戒を人間に与えた神の本来の意図はまさにそこにあるのだと、神の子として父の意図を人々に知らせていたのです。

全人的に神の掟を守っているかどうかが基準になると、人間はもはやどうあがいても神の前で清い存在になるのは不可能です。それなのに、人間の方が自分で規則を作って、それを守ったり修行をすれば清くなれるんだぞ、と自分にも他人にも課すのは滑稽なことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。

ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、グループの中には、このようなやり方で神の前の清さ神聖さは保証されるのだろうか、そもそもそういうやり方で創造主の神の目に適う者になれるのだろうか、と疑問に思った人もいたでしょう。本日の箇所に登場するニコデモは、まさにそのような自省するファリサイ派だったと言えます。3章2節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。ファリサイ派の人たちが日中にイエス様と向き合うと、たいてい批判や非難を浴びせかけるだけでしたので、夜こっそり一人で出かけるというのは意味深です。案の定、ニコデモはイエス様から、人間が肉的な存在から霊的な存在に変わることについて、また神の愛や人間の救いとは何かについて教えられます。

この対話をきっかけにニコデモはイエス様を救い主と信じ始めたようです。例えば、最高法院でイエス様を逮捕するかどうか話し合われた時、ニコデモは弁護するような発言をします(ヨハネ7章50ー52節)。さらに、イエス様が十字架にかけられて死んだ後、アリマタヤのヨセフと一緒にローマ帝国総督のピラトの許可を得てイエス様の遺体を引き取り、それを丁重に墓に葬ることもしています(19章39ー42節)。

2.「新たに生まれる」とは?

さて、本日の箇所にあるイエス様とニコデモの対話で重要なテーマは、「新たに生まれる」ということです。「新たに生まれる」というのは、どういうことでしょうか?「生まれ変わる」という言葉はよく聞きます。例えば、貧乏な人が、今度生まれ変わったらお金持ちになりたいとか、人から注目されないことに不満な人が生まれ変わったら有名になりたいとか、そういうことを言うことがあると思います。また、赤ちゃんが生まれた時、表情がおじいちゃんかおばあちゃんに似ている、この子は亡くなったおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだ、などと言うこともあります。このように「生まれ変わる」という言葉は、現在の不幸な境遇から脱出を願う気持ちや、何かを喪失した空虚感を埋め合わそうとする気持ちを表現する言葉と言うことができます。しかし、時として、自分は前の世には別の人物だったが、今の自分はその人物の生まれ変わりだとかいうような輪廻転生の考えを述べる人もいます。ただ、輪廻転生の考えを持ったら、生まれ変わり先は人間とは限りません。動物や昆虫にもなってしまいます。

聖書の信仰には輪廻転生はありません。私、この吉村博明は、この世から死んだ後、何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはもうありません。ルターの教えによれば、この世から死んだ後は、「復活の日」が来るまでは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。「復活の日」とは、今のこの世が終わりを告げて天と地が新しく創造される時に来る日です。運よくその日に朽ちない復活の体と永遠の命を与えられることになったら、それも吉村博明です。

それでは、本日の福音書の箇所でイエス様が教える「新たに生まれる」とは、「生まれ変わり」ではないとすると、どういうことなのでしょうか?イエス様が教えます。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。ニコデモが聞き返します。「年をとった者がどうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)。ここで明らかなのは、ニコデモも輪廻転生の考えを持っていないと言うことです。もし持っていたら、「新たに生まれる」と聞いて、それを「生まれ変わる」と理解したでしょう。しかし、イエス様も「イスラエルの教師」と呼んだニコデモ(10節)です。ファリサイ派とは言え、旧約聖書もしっかり勉強しているので輪廻転生の考えは持っていません。「生まれる」というのは、文字通り母親の胎内を通って起きることなので、一度生まれてしまったら、もう同じことは起こりえません。ニコデモが「新たに生まれよ」と言われた時、年とった自分が母親の胎内に入ってもう一度そこから出てこなければならない、と聞こえても無理はありません。

ところが、イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」は、母親の胎内を通って起こる誕生ではありませんでした。それでは、どんな誕生だったのでしょうか?次のイエス様の教えをみてみましょう。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5ー6節)。イエス様が教える新たな誕生とは「水と霊による誕生」です。これは洗礼を受けて、そこで神からの霊、聖霊を注がれることを意味します。人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてくるのであるが、それは単なる肉の塊である。その肉の塊は、創世記2章6節やエゼキエル書37章9~10節で言われるように、神から霊を吹き込まれてから生きものとして動き始める。しかしながら、それはまだ肉的な存在で「肉から生まれたもの」に留まります。それが、その上に神自身の特別な霊、つまり聖霊を注がれると「霊から生まれたもの」に変わるのです。「水と霊による生まれ変わり」の「水」は洗礼を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は最初母の胎内から生まれた時は肉的な存在であるが、洗礼を通して聖霊が注がれることで霊的な存在になり、これが人間が新しく生まれるということになります。

ところで、旧約聖書が書かれているヘブライ語と新約聖書が書かれているギリシャ語では、「霊」と「風」を意味する単語は同じです。それぞれ、ルーァハרוח、プネウマπνευμαと言います。肉の塊が神から霊を吹き込まれて「肉から生まれたもの」になります。さらに、その肉的な生きものが神自身の特別な霊、つまり聖霊を注がれて「新しく生まれ」ます。聖霊にしろ、そうでない霊にしろ、どちらにしても風のように吹き込まれるということがルーァハ、プネウマという言葉からわかります(後注1)。

3.肉的な存在から霊的な存在へ

それでは、霊的な存在になるというのは、どういう存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえるるかもしれませんが、そうではありません。ここで言っている「霊」は、先ほどから言っている神の霊、聖霊のことです。洗礼を通して聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、内面的に大きな変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)

風は空気の移動です。空気も風も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。聖霊を注がれた人も目には見えない動きがその人の内にあるのです。それはどんな動きなのでしょうか?ここでニコデモの理解力は限界に達してしまいました。水と霊から新しく生まれるだとか、それが風の動きのように起こるだとか、そのようなことは、どのようにして起こり得るのか?彼の問い方には、途方に暮れた様子がうかがえます(後注2)。

これに対してイエス様は最初、厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、その無知さ加減はなんだ!清めの規定とかそういう地上に属することについて私が教えてもお前たちは信じないのに、こういう天に属することを教えて、お前たちはどうやって理解できるというのだろうか?厳しい口調は、相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があると思います。ニコデモは真剣な眼差しになったでしょう。イエス様が核心部分に入ります。

「天から一度この地上に下ってから天に上ったという者は誰もいない。それをするのは『人の子』である。」(13節)」つまり自分がそれをするのである、と。「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。ここでイエス様は、それはまさに自分のことであると言い、さらに自分は天からこの地上に贈られた神の子であると言っているのです。それが、ある事を成し遂げた後で天にまた戻るということも言っているのです。そして、そのある事というのが次に来ます。

Providence Lithograph Company / Public domain

「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。」(14節)」これは一体どういう意味でしょうか?モーセが掲げた蛇というのは、民数記21章にある出来事のことです。イスラエルの民が毒蛇にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅の蛇を旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じことが自分にも起きると言うのですが、これは何のことでしょうか?

イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることを意味しました。イエス様はなぜ十字架にかけられて死ななければならなかったのでしょうか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。人間は神聖な神の意思に反するという性向を最初の人間の時から持ってしまっている。そのために人間は神との結びつきがない状態でこの世を生きなければならなくなってしまった。しかし、この状態を正すために神はひとり子イエス様をこの世に贈り、彼を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき神罰を彼に受けさせた。それによって、罪が償われて赦されるという状況を生み出した。あとは人間の方が、神は本当にこれらのことを成し遂げて下さり、イエス様は本当に救い主だとわかって洗礼を受けると、この償いと赦しの状況に入ることになる。それからは、神との結びつきを持ってこの世を生きることになる。

さらに神は、一度死なれたイエス様を復活させて、死を超える永遠の命と復活の体があるということを示された。それで、神との結びつきを持って生きる者は、その永遠の命と復活の体が待つ神の国を目指して歩むことになる。まさにイエス様が言われたこと、すなわち、水と霊を通して新たに生まれた者が「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。

ところで、新たに生まれて霊的な者になったとは言っても、最初に生まれた時の肉を持っていますので、まだ肉的な存在でもあります。そのため聖霊が、神さまの御心はこうなんですよ、と聖書の御言葉を指して示してくれているのに、それに反することを考えてしまったり、果ては行ってしまうことすらあります。もっとひどい場合には御言葉を曲解したりぼやかしたりしてしまうこともします。このように、人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。

この内的な戦いは、苦しい戦いです。使徒パウロも認めているように、「むさぼってはならない」と十戒の中では命じられていて、それが神の意思だとわかっているのに、すぐむさぼってしまう自分に、つまり、神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。心の奥底まで、神の意思に完全に沿える人はいないのです。それではどうしたらよいのか?どうせ、沿えないのなら、神の意思なんか捨てて生きることだなどと言ってしまったら、神のひとり子の犠牲を踏みにじることになります。しかし、心の奥底まで完全に沿えるようしようしようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていないところが見えてきてしまう。

ここで大事なことは、まさにこの自分の真実を曝け出されてがっくりした瞬間、心の目をすかさずゴルゴタの十字架の上で息を引き取られたイエス様に向けるのです。聖霊が目をそこに向けさせてくれます。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神が送られたひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神の罰を受けられたのではなかったか?あの方がお前のために犠牲の生け贄となって下さったおかげと、お前があの方を真の救い主と信じた信仰のゆえに、神はお前の罪を赦して下さったのだ。お前が神の意思に完全に沿えることができたから赦されたのではない。そもそもそんなことは不可能なのだ。そうではなくて、神はそのひとり子を犠牲に供することで、至らぬお前をさっさと赦して受け入れて下さることにしたのだ。あの夜、イエス様がニコデモに言っていたではないか。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)

こうして聖霊の働きで再び心の目を開けてもらった信仰者は、神の深い憐れみと愛の中で生かされていることを確認し、神の意思に沿うようにしなければと心を新たにします。このように信仰者は、聖霊のおかげで、神との結びつきを絶えず持てて、順境の時も逆境の時も常に神から守りと良い導きを与えられて、万が一、この世から死ぬことになっても、復活の日に永遠に神のもとに戻ることができるようになったのです。

ところで、イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「新たに」という言葉ですが、ギリシャ語のアノーテンανωθενは「新たに」の他に「天から」という意味もあります。「天から生まれる」というのは、まさに天の御国を出身地とする者になるということです。聖霊を注がれた者は天国が出身地になり、天国に帰るように導かれるのです。

4.聖霊の風に吹かれて

このように心の目をイエス様の十字架に向けることができた時、私たちの洗礼の時に植えつけられた新しい人は一段と重みを増して、肉に結びつく古い人を押し潰していきます。ルターの言葉を借りれば、信仰者というものはこのようにして古い人を日々死に引き渡し、かわりに日々新しい人が育てられていくのに任せるのです。

以上からもわかるように、洗礼を通して聖霊を注がれた人は、聖霊がその人の内に働くようになっていて、聖書を繙く時、御言葉を聞く時、それを心でかみしめる時に本当に風のようにその人の内面を駆け巡っているのです。私たちは、外見上はそう見えなくても、本当に霊的な存在なのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

(後注1)エゼキエル書37章9~10節で言われる「霊」は肉の塊を生きものにします。14節を見ると今度は、神が「私の霊」と言う霊が出て来きます。神の霊です。神はその霊をバビロン捕囚で絶望状態に陥っているイスラエルの民に注ぐ、そうすると民は捕囚から解放されて祖国に帰還できる民になって、神を知る民になる、と言われます。そうした絶望状態にある民が復興を遂げる民に変わることが、死骸が生身の人間に変身することとパラレルに言われています。前者では「神の霊」、後者ではそうではない「霊」がカギになっています。新共同訳では14節の霊が原語通りの「私の霊」と特定する訳になっておらず、単なる「霊」なので、復興を遂げる民が「霊的な存在」のプロトタイプになっていることが見えなくなってしまっています。

あと、ローマ8章15~16節を見ると、キリスト信仰者が受けた霊と、もとからある「わたしたちの霊」が出てきます。前者は聖霊、後者は生きものにする霊と考えられます。

 

(後注2)ニコデモの問いは新共同訳では「どうして、そんなことがありえましょうか」という、そんなことはありえないということを意味する修辞疑問に聞こえます。また、「どうして」などと聞くと、「なぜ」と理由を聞く疑問文にも聞こえます。ギリシャ語原文はどちらでもありません。πως δυναται ταυτα γενεσθαι; は素直に「どのようにして、そんなこと(=水と霊から新しく生まれること、それが風の動きのように起こること)が起こることが可能でしょうか?」と訳して全然問題ありません。むしろ、その方が後に続くイエス様の十字架の教えがまさに「どのようにして起こるか」の答えになっていることがわかるのではないでしょうか?

説教「アダムのせいで人間が失ったものをイエス様が命を賭して取り戻したのだ」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイにようる福音書4章1-11節

主日礼拝説教 2020年3月1日 四旬節第一主日
聖書日課 マタイ4章1-11節、創世記2章15-17節、3章1-7節、ローマ5章12-19節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.ユダヤの荒野で人類は非常事態の瀬戸際にあった

歴史上、人類が危機の状況に陥った時はいつだったかと聞かれたら、世界規模の戦争や疫病などが思い浮かぶと思います。今次の新型コロナウイルスも各国への感染拡大を見ると、それが世界経済に及ぼす影響などもあわせ考えると、世界全体に関わる危機だと感じさせます。

しかしながら、全ての人類が地球上の隅々まで本当に非常事態の瀬戸際に立たされたことがあったということが聖書からわかります。それはいつのことか?正確に年月日を特定するのは難しいですが、それでも西暦20年代の後半、出来事の場所は今のイスラエルの地のエルサレムの町からそう遠くない、ヨルダン川から死海にかけての荒野でした。それは、ローマ帝国の皇帝がティベリウスだった時代で、帝国から派遣された総督ピラトがユダヤ地域を統治していた頃でした。そこで何が起きたかと言うと、本日の福音書の個所にある、イエス様がユダヤの荒野で悪魔から誘惑の試練を受けたということです。それがどうして地球上の人類全てに関わる非常事態だったのか?それについて見ていきましょう。

マタイ福音書の記述によると、イエス様は40日間飲まず食わずの状態にいた後で悪魔から三つの誘惑を受けます。最初の二つは、「お前が神の子なら、石をパンにかえて、空腹を満たしてみろ」というのと、「お前が神の子なら、このエルサレム神殿の屋根の上から神殿の背後にまっさかさまに切り落ちている谷に身を投げて、天使に助けさせてみろ」というものでした。イエス様は多くの人の不治の病を治したり、自然の猛威を静めたりする奇跡を行える神の子です。パンを石に変えたり、谷に身を投げて天使に飛んできてもらうことなど容易に出来たはずです。それなのになぜ、これらのことをせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また目のくらむような高い所にとどまることを選んだのでしょうか?

イエス様は神のひとり子だから本当に空腹や恐怖を感じるのか?そう思われるかもしれませんが、人間のマリアから生まれたことで人間の心と体を持っています。だから、人間と同じ空腹や恐怖も感じることができたのです。

それで感じてしまった空腹や恐怖から逃れるために、すぐに神の子の力を発揮して石をパンに変えたり天使に来てもらったりすることは出来たはずです。しかし、もしそうしていれば、しかしその瞬間、イエス様は悪魔が命令したからこれらのことをしたということになってしまいます。これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意思に従ったことになってしまいます。悪魔がやれと言ったからやったことになってしまいます。凄まじい空腹や危険の恐怖という弱みにつけこんで、どうだ、そこから逃れたいだろ、お前が神の子ならわけないだろ?それとも逃れられないのか?だったらお前は神の子でないんだ、という具合に、苦しみからの逃れと神の子であることの証明を結びつけて自分の意思に従わせようとしたのです。ここまで追い詰められたら普通はやるしかありません。しかし、イエス様は悪魔の言う通りにはならないということを貫きました。たとえそれで空腹と恐怖の中に留まることになろうとも。

三つ目の誘惑は、イエス様に世界の国々の豪華絢爛を見せて、もし俺にひれ伏したら、これらを全部お前にやろうというものでした。しかし、イエス様はこれにも応じませんでした。この誘惑をはねつけたことが、先の二つに増して、人類の運命にとってとても重要な意味を持ちました。というのは、イエス様はこの荒野の試練の直前にヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かっていました。まさにその時、神から聖霊を受けて、これは神の子であるとの認証を神から受けていました(マルコ1章10~11節)。それで、もし、その神のひとり子が悪魔にひれ伏してしまったら、神の子が受けている聖霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と聖霊が悪魔よりも下になってしまったら、もはや神そのものも悪魔にひれ伏したのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔の上に立つ者は存在しなくなってしまいます。しかし、そうはなりませんでした。イエス様は、豪華絢爛などいらない、だからお前にひれ伏すこともない、ときっぱり拒否したのです。こうして天上でも地上でも地下でも神の権威は揺らぐことなく保たれました。

人類は実に際どいところにいました。もしイエス様が必要物を得るために悪魔の指示通りに動いたり、欲望を満たすために悪魔にひれ伏していたら、神自体が悪魔の下の立場に置かれることになっていたのです。神が悪魔の下に置かれるということは、この世も当然、悪魔の下に置かれることになります。そうならなかったので、神は依然として悪魔の上に立つ方です。この世についてみると、現実には悪魔に振り回されることが一杯あるけれども、それでも悪魔の上に立つ方がちゃんとついていて下さっているのです。だから、この世には救いがないとか希望がないと言うのは当たっていません。ないと言ったら悪魔の思うつぼです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、創造主の神が私たちの側についておられ、私たちも神の側に立つ限り、希望が失われることはないということを信じて参りましょう。

2.アダムのせいで人間は大切なものを失った

さて、イエス様が誘惑を撃退したおかげで、神は全ての上に立つ地位を保つことができました。本当に良かったです。しかし、これでめでたし、めでたしで終わったわけではありません。神は自分の地位が安泰だったからそれで満足して終わりにはしませんでした。実はここからが始まりなのです。何が始まるのか?神が悪魔の上に立つ方である以上は、神が造られたこの世も悪魔の上に立つはずなのに、現実はこの世は悪魔に振り回されている。しかし、もしこの世が神に結びついていれば悪魔の上に立てるのだ。私たち人間も悪魔の上に立てるようにと神は動きだしたのです。どのように動き出したのでしょうか?

それがわかるために、まず、この世はどのようにして悪魔に振り回されるようになってしまったのか?それについてみてみます。本日の使徒書の日課ローマ5章でそのことについて端的に言われています。神に造られた最初の人間を通してこの世に罪が入り込み、罪を通してこの世に死も入り込んだと言うのです。罪と死が一体となって最初の人間を通してこの世に入り込んで、それが全ての人間に及ぶようになってしまったのです。どうしてそんなことが起こったのか?そのことが、本日の旧約の日課、創世記3章によく記されています。

神に造られた最初の人間は、エデンの園で耕してそれをよく守るためにそこに配置されました。そこで取れる実はどれも食べて良いが、ただ善と悪がわかるようになる木というのがあって、その実は食べてはいけない、それを食べたら死ぬことになると神は言いました。しかし、アダムとエヴァはその実を食べてしまったので、人間は最初の人間から死ぬ存在になってしまいました。こういう話を読むと大抵の人は、「神の言うことに背くとろくなことが起きない

という教訓を教える寓話と思うでしょう。ところが、これは教訓話などという代物なんかではなく、文字通り人間存在についての真理を表しているのです。どういうことか見ていきましょう。

ヘビがエヴァをそそのかしました。ヘビは悪魔で、エデンの園ではヘビの形で登場します。それが悪魔であったことは黙示録ではっきり言われます(12章9節、20章2節)。ヘビは人間にその実を食べさせようと目論見ます。なぜかと言うと、人間を神から切り離された状態にすることが悪魔が目指すところだからです。ヘビの話の持って行き方はとても巧妙です。もし「食べなよ、その実を」なんて直接に言ったら、「いいえ、食べません」と言われてしまうのがオチです。話はそこで終わったでしょう。ところが、ヘビは話が続くようにして、その流れの中で主導権を握ることを目指しました。それで、まず「本当に神は、全部の木から採って食べてはいけないと言ったのかい?」などと聞いたのです。いけないのは全部の木ではないと知っていてわざとそう聞いたのです。そう聞かれたら誰だって「いいえ、全部の木じゃないんです」と答えるのが人情です。案の定エヴァはそう答えて、全部じゃなかったらどれがいけないのかを教えます。園の真ん中にある木がダメと言って、その理由も教えます。食べたら死んでしまうから。ヘビは「しめた」と思ったでしょう。「死にはしないよ」。ヘブライ語で「死ぬ」という動詞が2回異なる形で使われ強調感があります(後注)。「死んでしまうだって?そんなことないって!」という感じでしょうか。

次に「なぜなら」と理由を意味する接続詞(כי)が来ます。そこでヘビは死なない理由をどう説明しているでしょうか?「神は知っているんだ、それを食べたら君たちの目が開かれて、神のようになって善と悪がわかる者になるってことを」。つまり、神は自分と対等な者が現れたら嫌だ、それで食べてはいけない、食べたら死んでしまうなどと脅したのだ。要するに、神は自分が人間に対して優越的な立場を持ち続けられるようにウソをついた、というのです。

ここで「食べたら目が開かれる」というのは、アダムとエヴァは禁断の実を食べる前は盲目だったのかと思われるかもしれません。特に、食べた後で二人は自分たちが全裸であることを見たとあるので、盲目だったと思われるかもしれません。実はそうではなく、異なる目があるのです。ヘビがエヴァに食べても死なない根拠を言った時、エヴァは問題の木を見ているのです。それが食べるのに良い木であることを見、目を眩ませるような魅惑的な木であることも見、さらに、お前を賢いものにしてあげるよと訴えかけているように見える木であることも見ているのです。つまり、エヴァは見えているのです。

それでは、食べた後で「目が開かれる」とあえて言うのはどういうことか?それは、この世の見え方が変わるということです。どういう風に変わるのか?それは、善と悪がわかるようにこの世が見えるのです。それじゃ、食べる前は善と悪はわからなかったのか?善と悪がわかるというのは神と同じになることだとヘビが言いました。それは真理です。神は善と悪がわかり、悪を憎みそれを裁いて焼き尽くそうとします。しかし、人間の場合は善と悪がわかっても、神のように悪を裁いて焼き尽くす立場にはなり得ません。なぜなら、人間は神に造られた被造物で神は造り主の創造主なので、どうあがいても神と同じ立場にはなれないのです。人間が善と悪がわかるようになるというのは、善もわかるが悪もわかるようになって、それをやってしまうようになるということです。それで、神から裁きを受けて焼き尽くされるようになるのです。それで人間は死ぬ存在になってしまったのです。アダムとエヴァはそこを見間違えました。「神のようになれて、善と悪が分かる者になれる」と言われて、本当に神のようになれると思ってしまったのです。しかし、自分たちが被造物であることを忘れてしまって悲劇が起こってしまったのです。

このように善と悪がわかるようになるというのは、一方では悪を裁く地位にあること、他方では悪を行って裁かれる地位に置かれてしまうことを意味したのです。この違いが生じるのは、一方が造り主で、他方が造られた者だったからです。それなのに、「神のようになれる」と言われて、自分が被造物であることを忘れられるようなことを言われて、違いの問題に気づかないまま食べてしまったのです。そして、その結果は起きるべくして起きてしまいました。人間は善だけでなく悪もわかり行えるようになって、神の裁きを受けて焼き尽くされる存在となりました。

そうすると、問題の実を食べる前は善と悪がわからなかったから、善もしなかったのかというとそうではありません。神聖な神のもとにいられたのだから、悪はなかったのでしょう。それが悪も持てるようになって、それまで善一色だったのが相対化されてしまったのです。実を食べた後で目が見えるようになったということも、かつて善一色の時に持っていた見方を失って、悪も入り込んで善が相対化されたようになって世の中が見えるようになったということです。ちょうど今私たちが見ているようにです。食べる前の時に世の中がどう見えたかは推し量りようもありません。

これらが、この堕罪の出来事が単なる寓話ではなく人間存在についての真理を表しているということです。それでも何か教訓をくみ取ろうとするのであれば、それは「神の言うことに背くとロクなことはない」ではなく、「人間が神と同じようになろうとするとロクなことはない」ということになるでしょう。人間は神へと進化するホモ・デウスなんか目指さず、神に造られた者と素直に認めて造り主の前にヘリ下っているのが間違いがないのです。

このようにして最初の人間はヘビにまんまと騙されて食べてはいけない実を食べてしまいました。その結果、善と悪はわかるようにはなっても、神がわかるのとは全く違う結果をもたらしてしまいました。神のようになれると言われてやったことが、皮肉なことに神から切り離される結果になってしまいました。人間は神から裁きを受ける存在、死ぬ存在になってしまい、神聖な神のもとにいることが出来なくなってしまいました。神と人間の間の結びつきは失われ、その間に深い断絶が生じました。そのことをパウロはローマ5章で、一人の人間アダムを通して罪がこの世に入り込み、罪を通して死がこの世に入り込んだと言うのです。罪とは何か犯罪を言うのではなく、それも含みますが、もっと広く、人間が神の意思に反しようとすること、外面的な行為だけでなく内面的な心の動きも全て含みます。そして、全ての人間が死んできたことから明らかなように、全ての人間は罪を持ってしまっているのです。

3.イエス様が命を賭して取り戻してくれたもの

しかし、これで全てが終わったわけではありませんでした。パウロはローマ5章で、最初の人間アダムの大失態がその後の全ての人間の運命を決してしまったと述べていますが、その後で今度はその運命を逆転する方が来られたと言います。アダムの神に対する背きが全ての人を死する存在にしてしまった。アダムの背きを全ての人が受け継いでしまった。それを、イエス・キリストという神からの贈り物が全ての人の背きを無罪にして死を超える永遠の命を受け継げるようにして下さった。アダムの失態を何百倍にも逆転させるようなことを神はして下さった。そのようにして神は人間に対する愛と憐れみと恵みを示された。そういうことをパウロは言います。

具体的にはどういうことかと言うと、神はひとり子のイエス様をこの世に贈られて、そのイエス様に人間の罪を全部背負わせて、ゴルゴタの十字架の上にまで運ばせました。そこで人間に代わって神罰を受けさせて死なせました。神はイエス様に人間の罪の償いをさせたのです。それで、人間はこのことが自分のためになされたとわかってそれでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、彼がした罪の償いが自分にとっての償いになり、それで神から罪を赦された者として見られるようになります。神から罪を赦されたので神との結びつきが回復します。アダムの失態で人間が失ったものを、イエス様の犠牲の業で人間は取り戻してもらったのです。

さらには、一度死なれたイエス様が神の力で復活させられて、復活の体と永遠の命を持つ方として立ち現れました。ここに死を超えた命があることがはっきり示されました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は、神から罪を赦されて神との結びつきを持ってこの世を生き始めます。そして、その生きる道には方向性が与えられています。復活の体と永遠の命が待つ神の国です。信仰者は、その道に置かれて歩み出すのです。

イエス様が悪魔の誘惑を撃退した時、神は悪魔の上に立つ方であることが保たれました。神に造られたこの世はどうかと言えば、現実は悪魔に振り回されているが、悪魔の上に立つ神に結びついていれば悪魔の上に立てることが明らかになりました。あとは、神との結びつきを失っている人間がそれを取り戻すようにするだけです。そのためにイエス様がこの世に贈られ、十字架にかけられ死から復活させられたのでした。四旬節第一主日の今日、私たちはイエス様の十字架と復活の業それに荒野での勝利どれもが本当に私たちのためになされたことを覚え神に感謝しましょう。

4.聖書の御言葉は悪魔の誘惑を撃退する武器

終わりに、イエス様はどのようにして悪魔の誘惑を撃退したか見ていきましょう。結論から言うと、イエス様は聖書(旧約)の神の御言葉を武器にして悪魔を退散させたのです。

まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対して、イエス様は申命記8章3節の御言葉をもって誘惑を撃退にします。その箇所の全文はこうでした。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民は、シナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神の御言葉こそが生きる本当の糧であることを身に染みて体験します。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく経験に裏付けられた真実の言葉です。もし、悪魔が空腹のような人間の最も基本的な必要に訴えて私たちを従わせようとしたら、私たちはこの申命記の言葉を唱えればよいのです。

次に、悪魔がイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと命令した時、巧妙にも聖書の御言葉を使いました。それは詩篇91篇11ー12節の御言葉、「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」という箇所です。神の御言葉にそう言われているのだから、その通りになるだろ、だから飛び降りてみろ、と言うのです。それに対してイエス様は、申命記6章16節をもって誘惑を撃退します。それは、こういう箇所でした。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは、出エジプト17章にある出来事です。イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなって指導者モーセに不平不満を言い始め、神に水を出すよう要求した事件です。

実際イスラエルの民は、シナイ半島の荒野の40年間、困難に遭遇するたびにすぐ神に不平不満をぶつけました。神の奇跡の業を何度も目にしてきているのに新しい困難が起きる度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神の権威と力を疑い、こんなことならエジプトに帰ってやるなどと、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すようなことばかりを繰り返してきました。申命記の6章で、イスラエルの民がやっとシナイ半島からカナンの地に移動するという時に、神は40年の出来事を振り返って、あの時のように「神を試してはならない」と命じるのです。

それでは、私たちは困難に直面したらどうすればよいのでしょうか?期待した解決がすぐ得られない時、どうすればよいのでしょうか?その時は、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じ、また祈りを通して得られた解決が自分の意にそぐわないものでも、それを最上の解決として受け入れる、それくらいに神を信頼するということです。実は、このイエス様の神への深い信頼こそは、悪魔が誘惑用に使った詩篇91篇全体の趣旨だったのです。この篇の最初をみると次のように記されています。「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(2ー3節)。このような神に対する深い信頼がある限り、神の守りや導きを疑って神を試す必要は全くなくなります。悪魔は、詩篇91篇全体に神への深い信頼が貫かれていることを無視して、真ん中辺にある天使の守りの部分だけをちょこっと文脈から取り外してイエス様に投げつけたわけです。しかし、そんな軽々しいやり方で重みのある真理を覆すことなど出来るはずがありません。

三つ目の誘惑は「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の手下になれ」でした。これに対してイエス様は申命記6章13節の御言葉を突きつけて誘惑を撃退します。その御言葉とは、ずばり「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」でした。

このようにイエス様は聖書の御言葉を武器にして悪魔を退散させました。これらのことは私たちにも当てはまります。もし悪魔が私たちを従わせようとして必要物や欲望をちらつかせてきたら、私たちは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある!『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある!

と言えばいいのです。ただ、やっかいなのは、悪魔が私たちを誤った道に導こうとして聖書の御言葉を使う場合です。イエス様の荒野での試練からわかるように、それは、御言葉を文脈から切り離して使ってもっともらしく聞こえるようにするという手口です。私たちは騙されないために、本当に聖書に習熟して全体像と文脈を把握して個々の御言葉を受け入れなければなりません。そのために毎日の聖書の繙きは大事です。それと、毎週礼拝で御言葉の解き明かしに耳を傾けることも大事であることは言うまでもありません。その御言葉に立って神に祈り賛美を捧げ聖餐に与ればもう怖いものなしです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注 ヘブライ語分かる人にです)infinite absoluteの מות とfiniteの תמתוןです。

説教「イエス様がモーセとエリアに会する時、我らの軛を軽いものに替えて下さる」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書17章1-9節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

本日は、教会のカレンダーでは先月始まった顕現節が終わって、来週からイースターに向かう四旬節/受難節が始まる前の節目にあたります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという出来事についてです。同じ出来事は、先ほど読んで頂いたマタイ17章の他に、マルコ9章とルカ9章にも記されています。マタイ17章2節とマルコ9章2節では、イエス様の姿が変わったことが「変容した(μετεμορφωθη、受け身なので正確には「変容させられた」)」という言葉で言い表されているので、この出来事を覚える本日は変容主日とも呼ばれます。毎年、四旬節/受難節の前の主日はこの変容主日になります。

イエス様が三人の弟子を連れて登った「高い山」とは、ほぼ間違いなく、フィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山でしょう。標高は2814メートルで、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ高さです。ロープウェイもケーブルカーもバスもなくいきなり麓から北アルプス級の山に登るのはとてもしんどいことです。やっとこさの思いで頂上にたどり着くと、イエス様が白く眩しく輝きだし、旧約の偉大な預言者であるモーセとエリアが現れる。ペトロが三人のために「仮小屋」を立てましょうと言っている最中に辺りは雲に覆われ、その中から天地創造の神の声が轟きわたる。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(5節)。その後で雲は消え去り、モーセとエリアの姿もなくなり、イエス様だけが立っておられた。神が「これに聞け」と命じたのはイエス様であることが明らかになりました。

以上がマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に記されている出来事の大筋です。細部はそれぞれ少し異なっていますが、このようなことが起こったという点ではみんな一致しています。この山の上での出来事の後、イエス様は弟子たちと共にエルサレムに向かってただただ南下していきます。十字架の受難が待ち受けているエルサレムにひたすら向かって行くのです。

本日の説教は、マタイの記述を中心に解き明かしをしていきます。その際、3つの問題点をあげて、それに答える形で解き明かしをしたく思います。まず初めに、イエス様が白く輝いたこととモーセとエリアが出現したことは一体何なのか?次に、ペトロが3人のために仮小屋を建てると言ったことは何なのか?それに対して神が打ち消すように「これは私の愛する子、これに聞け」と言ったのは何だったのか?そして三つ目は、なぜイエス様はこの出来事を彼の復活が起きるまで誰にも話してはいけないと言ったのか?

聖書の中で今日のような個所は特に難しく感じられないかもしれません。ただ書いてある通りに、ああ、イエス様は山の上で輝いたんだな、そこにモーセとエリアが現れたんだな、ペトロが仮小屋3つ建てると言ったら神がイエスに聞き従えと言ったんだな、という具合に受け取れば、書かれた事柄は頭に入ります。しかし、そのような受け取り方では神の私たち人間に対する思いは何もわかりません。神の私たちに対する思いや私たちに求めていることを明らかにしなければなりません。それが説教の役割というものです。

2. イエス様が白く輝いたこととモーセとエリアの出現

まずイエス様が白く輝いたこととモーセとエリアの出現は何だったのかということを見ていきます。イエス様の顔が太陽のように輝き出して、着ているものも白く光り出しました。そこで黙示録1章16節を見ると、それを書いたヨハネは天の父なる神のもとにいるイエス様を目撃します。その顔は日中の輝く太陽のようであったと言います。私たちは太陽を目で見ることはできません。ほんの瞬きする間くらいしか見れません。その時、太陽は何色に見えたでしょうか?赤でもオレンジ色でもなく白です。白ですが、輝きが強烈すぎて見ることのできない白です。イエス様の顔も着ているものも白く輝いたというのは、ヨハネが目撃した、天のみ神のもとにいるイエス様と同じです。つまり、山の上でイエス様は神としての本性を現わしたのです。ルカ福音書の同じ出来事の記述を見ると、モーセとエリアも輝いていたと言われていますが、文章をよく見るとそれは天の輝きを映し出した輝きで自分たちが発する輝きではありませんでした(9章31節)。イエス様の場合は、自分自身から発する輝きでした。

神の本性を現わしたイエス様にモーセとエリアが現れました。かたや紀元前1300年代の人物、かたや紀元前800年代の人物です。とっくの前にこの世を去った人物です。それでは、これは幽霊でしょうか?でも、幽霊だったら、ペトロたちはきっと恐怖に慄いたでしょう。というのは、イエス様が死から復活して弟子たちの前に現れた時、弟子たちは幽霊だと思って恐怖に陥ったことが記録されているからです(ルカ24章36~43章)。しかし、この山の上では恐怖に陥っていません。これはどういうことか?

当時、律法学者を中心にユダヤ民族の間では、エリアがいつか再臨するということが信じられていました(マタイ17章10-11節、マルコ9章11-12節を参照)。この世の終わりが近づくと、天からエリアが再臨して神の裁きの準備をするというのです。つまり、エリアは天の神のもとにいて待機しているわけです。でも、これは少しおかしなことです。というのは、聖書には死者の復活ということが言われていて、それによるとこの世が終わる時に最後の審判があって、死んだ者と生きた者が一緒に裁かれる、そこで神の目によしとされる者は復活の体と永遠の命を与えられて神の国に迎え入れられる。そうなると、審判の日まではこの世を去った者は神のみぞ知る場所にいて眠りについていることになる。眠りから目覚めさせられるのが復活の日ということになる。これが聖書の立場です。そうなると天国に行く行かないということは、この世の終わりまで待たなければならないということになる。それなのに、モーセとエリアが天から来たということは、この世の終わりを待たずに天国に入った者があるということになります。

少なくともエリアに関しては、その点は大丈夫と言えます。というのは、列王記下2章にあるように、エリアは生きたまま神のもとに引き上げられたからでした。それでエリアは既に天の神のもとにいて、世の終わりの時に再臨すると信じられていたのです。このように聖書は、将来の終末や復活の日を待たずにして既に天に迎え入れられた者があるということを考慮に入れていると言えます。ただ、それが具体的に誰かは名前は記されていません。モーセの場合は少しやっかいなです。申命記34章を見ると、彼はモアブの地で死んだとあります。しかし、神自身が彼を葬ったので誰も彼の埋葬地を知らないとあります。そうなれば、モーセも一度死んだが将来の復活の日を待たずに神の許に引き上げられたと考えることも可能です。

そうなるとヘルモン山の上での出来事は、モーセとエリアが天の神の許から送られて、イエス様と共に一堂に会しているということになります。神としての本性を現わした神のひとり子イエス様、それと死を超えた永遠の命を持つ者としてモーセとエリアが一堂に会しているわけです。さらに、モーセはと言えば神から十戒を初めとする掟を受け取ってそれを人間に仲介した人です。エリアはと言うと、その掟はイスラエルの民が諸国民を代表して受け取ったのであるが、その肝心の民が神に離反するようになってしまい、その時エリアは民が神の許に立ち返るように孤軍奮闘しました。かたや神の意思を人間に伝えた者、かたや神の意思からの逸脱を阻止しようとした者です。そしてそこに神としての本性を現わしたイエス様がおられる。そのように見ていくと、この3人が一堂に会したことの意味が少し見えてきます。それをこれから少しずつ明らかにしていきます。

3.3つの仮小屋と神の戒め

次に、ペトロが3人のために仮小屋を建てると言ったことは何なのかということを見ていきます。そして、ペトロの提案に対して神が打ち消すように「これは私の愛する子、これに聞け」と言ったのは何だったのかということも。

ペトロが仮小屋を建てると言ったのには背景があります。本日の旧約の個所、申命記24章でモーセがシナイ山に登ったことが記されていま*/す。山の上で神は十戒に続く掟、特に神殿崇拝に関する掟を与えます。十戒は、神と人間の関係について神が人間に求めていることと人間同士の関係で神が求めていることを言い表わす掟集です。それに続いて神は、イスラエルの民が今後神をどのように崇拝すべきかという礼拝の仕方についての掟集を与えました。そこで最初に出てくる掟が幕屋の建設でした。後にエルサレムに巨大な神殿が建てられますが、その前の段階の礼拝場所についての規定です。この幕屋建設についての掟は、本日の旧約の個所のすぐ後に続いてきます。

ここで、ペトロがイエス様とモーセとエリアのために「仮小屋」を建てると言った「仮小屋」ですが、それはギリシャ語のスケーネー(σκηνη)といい、その言葉の正確な訳は、神に礼拝を捧げる場所である「幕屋」を意味します。このようにペトロの提案は、モーセのシナイ山での出来事を背景として見ると理解できます。旧約の伝統に立てば、ヘルモン山で起きたような出来事に遭遇すれば、誰でもシナイ山での出来事を想起して「幕屋」ないし仮小屋を立てなければいけないという反応が起きるでしょう。

しかしながら、その提案は場違いなものでした。というのは、ペトロはイエス様だけでなくモーセとエリアのためにも礼拝を捧げる場所を建てると言ったからです。シナイ山で与えられた幕屋建設の規定は、天地創造の神を崇拝するための幕屋でした。人間を崇拝するためのものではありませんでした。ヘルモン山での神の声「これは私の愛する子、これに聞け」というのは、神のひとり子のイエス様が崇拝の対象であるということです。そのためにイエス様は神の本性を現わしたのでした。モーセとエリアは、いくら天の父なる神の許にいる存在とは言え、崇拝の対象にはならないことが明らかになりました。

モーセは神の人間に対する意思が詰まった律法を人間に仲介したという役割を担った人、エリアは律法からの逸脱を阻止する役割を担った人です。この二人を超えるイエス様は、どんな役割を担ったのでしょうか?次にそのことを明らかにしてみましょう。

4.イエス様のかん口令

ここで、イエス様はなぜヘルモン山での出来事を彼が死から復活するまでは話していけないと命じたのかを考えて見ます。

この個所に限らず、イエス様は奇跡の業を行う時、これを口外してはならないとかん口令をよく敷きます。これについて、ウイリアム・ヴレーデWilliam Wredeという聖書学者が1913年に出した「福音書におけるメシアの秘密Das Messiasgeheimnis in den Evangelien」という研究書の中で次のような見解を述べました。マルコ福音書の著者は、イエスがメシアであるということは復活が起きた時に人々の目に明らかになるように福音書を構成した。だから、十字架の出来事の前にイエスが奇跡を行ってメシアであることを示しながらも、復活までは人々に気づかれてはならない、復活をもってメシアであることが白日の下に晒されるようにする、それで福音書の著者はイエスにかん口令を敷かせたのだ。そういう分析をヴレーデはしたわけです。

ヴレーデの研究書はその後の世界の聖書学に大きな影響を与えました。「メシアの秘密」というテーマは今でも聖書学で議論されます。マルコはこうした「メシアの秘密」という観点をもって福音書を書いたのか、それとも別の観点で書いたのか、という具合にです。もちろん、ヴレーデの見解に組しない見解も多くあります(私もその一人です)。しかしながら、彼がその後の聖書学に与えた影響は、現在まで続く賛否両論を引き起こしたということだけに留まりません。福音書は歴史を記述したものではなくて、著者の創作物語であるという見方を強めてしまったのです。大学の神学部を出ても、奇跡などない復活などないと言う人が出るようになったのも、聖書学がそういうものになったことに原因があると言えます。

聖書がどのようにして出来たか、書かれたのかということを歴史学のやり方で分析すると、奇跡も復活も入り込む余地はなくなります。歴史学は学術研究ですので、超自然的な現象を歴史的事実として記述しません。そういうものは現実には起こり得ないということを前提にして全ての歴史は記述されます。それじゃ、奇跡や復活は歴史に記述されなければ、なかったことになるのか?「ない」と言う人は、信仰がなくなります。人によっては「ない」と言っても信仰を持っていると言う人もいるかもしれませんが、それは使徒の伝承や教えに基づく信仰、使徒的な信仰ではありません。超自然的現象がないと言ったら、奇跡や復活だけでなく、創造主の神も天国も地獄もなくなります。使徒的な信仰に立つ人は奇跡や復活について次のように言うのではないかと思います。「奇跡や復活というのはその性質上、歴史学の歴史には入りきれないかもしれない。しかし、それは、歴史学がそういうものは現実には起こり得ないということを大前提にしているからである。それで歴史学が構成する歴史は狭まれたものになる。しかし、その大前提は絶対とは言えないのだ。だから、歴史学が構成する歴史をはみ出す歴史にも心を向けるのである。」

話が脇道にそれました。ヘルモン山での変容についてのイエス様のかん口令に戻ります。死から復活するまでは口外してはならない、というのは、復活の後に人々に知らせたら意味のあるものになる、その前に知らせても無意味だということです。復活には、それに先立つ十字架の死があります。従って、十字架と復活はワンセットで考えなければなりません。それなので、十字架の死と死からの復活が起きる前に、ヘルモン山での出来事を人々に知らせても意味がない、意味があるのはそれらが起きた後である、ということです。どうしてそうなるのでしょうか?
イエス様が神の力で死から復活させられたことで、彼が神のひとり子であることが明らかになりました。それならなぜ神のひとり子が十字架にかけられて死ななければならなかったのか?これも、旧約のイザヤ書53章の預言にありました。人間の罪を身代わりになって神に対して償って人間と神との間に平和を打ち立てて、人間が霊的に癒されるようにするためと書いてあります。それがイエス様の十字架の意味でした。このことがわかって、イエス様を自分の救い主であると信じるようになった者は、まさに信じることで罪を償ってもらった者になり、神から罪を赦された者として扱われるようになります。さらにイエス様の復活によって、死を超えた永遠の命があることが示されました。イエス様を救い主と信じる者は永遠の命に向かう道に置かれてその道を進んでいくことになります。

神のひとり子の犠牲のおかげで神から罪を赦された者として扱ってもらえる。そうなると、もういい加減な生き方は出来ません。いい加減なところがあれば、それをどんどん削り取って、神に扱われている状態に自分をかたどっていかなければなりません。その時、十戒を中心とする神の律法は心も体も含め全身で守らなければならないものになっています。そこからの逸脱は許されません。まさに律法の大立者であるモーセとエリアが私たちの前に立っています。しかし、ここで思い出さなければならないことがあります。それは、律法に全身を従わせるというのは、キリスト信仰者にとっては、自分の力で行うものではないということです。イエス様は律法を全て実現されている方です。そのイエス様に洗礼を通して結びつけられたのです。イエス様が律法を全て実現されている状態の方というのは、まさに山の上での変容に現れた眩しすぎる光がそれを示しています。そこで、この光を鏡のように受けて反射させる、これがキリスト信仰者にとっての全身を律法に従わせるということです。信仰者は自分の力で従わせる必要はありません。イエス様から来る光を受けてそれを反射させるだけで十分なのです。自分から光を発する必要などありません。その意味でイエス様は律法の軛を軽くして下さったのです。モーセとエリアが退場したあとでイエス様だけが残っていたことがそれを示しています。

しかしながら、注意しなければならないことがあります。イエス様は軛を負いやすくするとはおっしゃいましたが(マタイ11章29~30節)、それをなくするとは言ってません。どういうことかと言うと、神を全身全霊で愛そうとします。喜びも悲しみもこの神だけに打ち明ける。願い事も赦しもこの神だけにお願いする。手を合わせ拝むのはこの神だけである。そういうことをすると、違うものに手を合わせる人たちから総スカンを食らうことになります。また、隣人を自分を愛するが如く愛そうとします。そうすると、自分だけが損をしている、こんなお人好しでいいのだろうか、ということが沢山起きてきます。しかし、総スカンを食らうことも損をすることも、イエス様抜きで律法を全部自分の力で全うしようとすることに比べたら、全然軽い軛なはずです。

軽い軛でも時には重く感じられて、地面にうつ伏してしまうこともあるでしょう。その時は山の上のイエス様がどうしたかを思い出しましょう。彼はすぐ弟子たちのところに行って手で揺り動かして、「起きなさい、恐れることはない」と言って励まして下さいました。この出来事は、キリスト信仰者にはイエス様の励ましはいつも隣り合わせにあるということを示しています。

5.目撃者と同じ立場に立つ

以上見てきたように、ヘルモン山での出来事は、律法の要求を満たすということが十字架と復活の出来事が起きる前と後で意味が違うということを示しています。十字架と復活の前は全部自分の力でしなければなりませんでした。その後はイエス様が放つ光を受けて反射させればいいというふうになりました。それなので山の上の出来事は、十字架と復活の後にイエス様を救い主と信じる者にとって意味をなしたのでした。

本日の使徒書の日課である第二ペトロ1章でペトロが、自分たちは人為的に作った物語に基づいてイエス様のことを教えているのではない、目撃者として教えているのだと言っています。十字架と復活の後でも、いくら目撃者です、と言っても信じてもらえなかった様子がうかがえます。十字架と復活の前だったらなおさらでしょう。実はこの手紙はペトロの名が冠されているにもかかわらず、聖書学の学会では作者はペトロ本人ではないという見解が強いようです。それならば誰が作者か?ペトロの弟子だろうと言われています。仮にそうだとすると、「私たちは目撃者である」、「私たちは山の上で神の声を聞いた」と言う時の「私たち」はまさに直の目撃者のペトロの証言を聞いて、それを信じて自分たちも目撃者と同じ立場に立つと見る人たちです。彼らは、まずイエス様の十字架と復活の証言を聞いてイエス様を救い主と信じました。その上で、山の上の出来事を聞いてますます確信を強めたのです。律法の実現をイエス様を中心にして考えてよいことがわかったのです。まさにその時、山の上の出来事は本当に起こったこととして受け取ることができるのです。この時私たちは、歴史学が構築した歴史をはみ出す歴史に身を置いているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「心の罪とどう向き合うか?」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書5章21-37節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

  本日の福音書の箇所は、マタイ福音書の5章から7章にかけてある「山上の説教」の一部です。ここでイエス様は、十戒をはじめとするモーセ律法の正しい理解の仕方を教えます。律法を正しく理解するとは、とりもなおさず、律法を人間に与えた方を正しく理解することです。律法を与えた方とは、言うまでもなく天と地と人間を造られ私たちに命と人生を与えられた父なるみ神です。律法を正しく理解するとは、その神を正しく理解することに他なりません。イエス様は律法が正しく理解されていないことを知っていました。それで、山上の説教で何度も繰り返してこう言います。「あなたがたも聞いているとおり.....と命じられている。しかし、わたしは言っておく。.....」

今まで律法についてこう言われてきたが、本当は次のように理解されねばならないと。このようにして、山上の説教で創造主の神が人間に何を求めているのかが明確にされていきます。そうすることができたのは、イエス様が父なるみ神のひとり子で、まさに神の視点を持てたからでした。

 本日の福音書の個所で一つ気になることは、イエス様が地獄を引き合いに出して教えていることです。十戒の第五の掟「汝殺すなかれ」に関して、イエス様は21節で「人を殺した者は裁きを受ける」と言いますが、「裁き」とはこの世の司法制度で受ける刑罰だけではありません。神から受ける罰も含みます。神の罰とは何か?それは22節にあります。兄弟つまり隣人を罵ったり悪口を言ったら、それは「殺すな」という掟を破ったのも同然で、炎の地獄に投げ込まれると言います。炎の地獄で永遠に焼かれる、これが神の罰です。また28節で、女性をふしだらな目で見たら、たとえ行為でしていなくても第六の掟「汝姦淫するなかれ」を破ったのも同然と言います。それで、もし目でも何でも体の部分が全身に姦淫するように仕向けるならば、そんな部分は切り取って捨ててしまったほうがいい、その方が全身炎の地獄に投げ込まれるよりましだからなどと言います。

 地獄というものがあって、前世の行いが悪かった者はそこに落とされて永遠の火で焼かれるというのは、他の宗教でも見られます。天国とか地獄というものは、この世での生き方に指針を与える意味があると言えます。悪いことをしたら地獄に落ちるからしないようにしようとか、いい人間でいたら天国に行けるからそうしよう、というふうになるからです。特に子供に対して教育効果があります。ただ、昨今は閻魔大王がアニメのキャラクターになったりしているので、そんな真剣みを帯びなくなってきているかもしれません。なまはげの方が迫力があって効果的かもしれません。

地獄を持ち出すというのは、なんだキリスト教も他の宗教と変わらないじゃないか、人間が悪いことをしないようになるためにキリスト教もそういうものに頼らなければならないのか?と言われるかもしれません。しかしながら、キリスト信仰で地獄が出てくるのは、どうも人間が悪いことをしないように、いいことをするように方向づけるためとは言えないことがあります。このことに気づけるために、イエス様が律法の遵守をどう教えるか見てみます。

「汝殺すなかれ」について、イエス様は人に対して腹を立てる、怒る、憎しみを抱くことも同罪と言われる。悪口を言う、罵るというのも、そういう気持ちが行為に表れることであり、やはり行為で表れる殺すことと同じだと言う。行為の大元にある、人を愛する心がない状態、それでもう「殺すな」という掟を破ったことになるというのです。つまり、外面的な行為だけでなく、人間の心の有り様まで問うているのです。

 「汝姦淫するなかれ」についても同様です。人間の男女の結びつきは神が二人を一つに結びつける結婚という枠の中で行われるべきというのが創造主である神の意思である。それについてイエス様は、結婚の枠を踏み倒して結びつきを求めること、たとえそれを行為に移さなくても、そのような願望で異性を眺めたら、それはもう「心の中」で結婚の枠を踏みにじったことになる。姦淫したことになる、そう教えます。先ほどの「殺すな」と同様、外面的な行いと内面的な心の有り様が同じレヴェルで扱われます。

心の中まで追及されてしまったら、天国に行ける人など誰もいなくなります。みんな地獄に落とされてしまいます。外面的に現れる罪であれば法的または社会的に制裁や矯正が行われるでしょう。しかし、心の中の罪は法律や社会は何もなしえません。しかも、本人でさえそんなに自覚していない場合もあります。しかし、創造主の神は全てお見通しで、本人が自覚していなくても代わりにわかって下さっているのです。そうなると、善行を沢山した人でも、もしある一瞬にある人のことを心の中で罵ったとすると、その人の沢山の善行はそれで無効になって地獄に落とされるというのか?この点で、芥川龍之介の有名な「蜘蛛の糸」を見ると、カンダタは悪の限りを尽くしたが、一度蜘蛛を生かしてやったという一点を釈迦が認めて、救いの蜘蛛の糸をたらしてもらった。もちろん、最後は期待通りの結果にはならなかったが、それでも、キリスト教より慈悲がある対応ではないかと思えてきます。

創造主の神とそのひとり子イエス様はまるで「人間よ、お前たちはどうあがいても天国には行けないのだ、地獄行きなのだ」と言っているようです。そこまで言われたら、地獄を持ち出されて、もう悪いことしません、いい人になります、という気持ちなど起きなくなります。だって、父なるみ神は私たち自身気づかない心の中の罪さえも知っておられるのですから、もう何をしたって無駄です。

どうしてイエス様と父なる創造主の神はこれほどまでに厳しいのでしょうか?それは、彼らが無慈悲だからでしょうか?それを少し考えてみます。

 

2.

  「山上の説教」の別の個所でイエス様は、天の父なるみ神は完全な方である、だからあななたちも完全になりなさい、と言われます(マタイ5章48節)。それが言われたのは、隣人だけではなく敵も愛しなさい、迫害する者のために祈りなさい、と教えたところでした。ここから明らかなように、創造主の神の趣旨は「人間よ、完全になりなさい」であって、「完全になることなどお前たちには無理なのだ」というのではありません。でも、心の中まで問われたらやはり無理ですよ、と言いたくなります。こんな無理な条件を突き付けられて、それを全て満たして完全になれなどとは。イエス様ももう少し手加減してくれれば私たちとしても父なる神をもう少し近くに感じられるのに、ここまで完全さを要求されたら、神は果てしなく遠い存在になってしまいます。

 でもそれが真実なのです。天の父なるみ神は人間にとって遠い存在なのです。なぜかと言うと、神は神聖な方で、人間はそうではないからです。神聖と非神聖は全く相いれないものだからです。ただし、もともとはそうではありませんでした。人間が初めて造られた当初は、神聖な神のもとにいることが出来たのです。それが、創世記3章に記されているように、人間が神に対して不従順になって罪が人間に入り込んでしまったために、神と相いれない存在になってしまったのです。それで神の許にいられなくなってしまったのです。人間は神との結びつきを失った状態でこの世を生きなければならなくなり、この世から死んだ後も神の許に戻れる術がありません。このように神聖な神とそうでない人間の間には果てしなく深い溝が出来てしまったのです。神の意思そのものである律法をイエス様が解き明かす時に、歯に衣(きぬ)着せぬ言い方をするのは、この現実をあるがままに示すためだったのです。

 しかしながら、神の御心は、人間との溝が果てしなく深いことを思い知らして人間を絶望させることではありませんでした。全く逆で、失われてしまった結びつきを取り戻してあげなければというのが御心でした。ただし、罪のために神と人間の結びつきは完膚なきまで壊されている、その再建は人間の力では到底成し遂げられるものではない、ということをまずわかってもらわなければならない。その上で自分がそれを成し遂げてあげるからよく見ておきなさい、ということだったのです。それでは神はどのようにして人間に結びつきを取り戻したのでしょうか?

 それは、ひとり子のイエス様をこの世に贈ることでなされました。イエス様はまず人々に、神とその意思について正確に教えました。また、人間が神との結びつきを回復した暁には将来、死からの復活ということが起こり、神の国に迎え入れられるということが起こるわけですが、その神の国がどんなところであるか、それを無数の奇跡の業を通して垣間見せました。そして、一通りのことをやり終えた後で、この世に贈られた本当の目的を果たされました。どんな目的かというと、人間が持っている罪を全部、外面的なものも心の中のものも全て引き受けてゴルゴタの十字架の上にまで運び上げて、そこで本当だったら人間が受けるべき神罰の総和を受けて死ぬという芸当をやってのけたのです。つまりイエス様は、人間の罪の償いをされたのでした。そのための犠牲になったわけです。それは神のひとり子という神聖な犠牲で、これ以上のものはないと言えるくらいの犠牲でした。

罪の償いがなされたので、ここに罪が赦されるという状況が生まれました。罪は神と人間の間を引き裂く力を持っていたのですが、それが力を失ったという状況が生まれたのです。そこで私たち人間が、イエス様は本当にこれらのことを成し遂げたのだ、それなので彼は私にとって救い主です、と表明して洗礼を受ければ、その人は罪の赦しの状況に移行します。そこでは、イエス様が成し遂げた罪の償いがその人に対してなされた償いになっています。それなので、神から罪の赦しを頂いたことになり、神との結びつきが回復します。イエス様が厳しく神と人間との間の溝が絶望的であると言ったのは、人間を落胆させることが目的ではありませんでした。そうではなくて、神のひとり子が身を投げ捨てる以外にもう手立てはないというくらいのものということをわからせるためだったのです。父なるみ神と御子イエス様は無慈悲だったのではなく、ごまかしの利かない完璧なリアリストだったのです。人間の現実はこれだけ厳しいのだとはっきりさせた上で、それに相応しい対応をしたまででした。つまり、神のひとり子が至らぬ人間のために身を投げ捨てたのでした。人間に対して無慈悲だったらそんなことはしないでしょう。

 イエス様が十字架で死なれた時、人間の罪が償われて、罪からは人間を永遠の滅びに陥れる力が消え去るという状況が生まれました。そこでイエス様を救い主と信じる者は、神から罪の赦しを受けて神との結びつきを回復しました。話はまだ続きます。父なるみ神は罪を滅ぼすためにイエス様を十字架の死に委ねたのですが、その後でさらに一度死なれたイエス様を死から復活させたのです。まさにこれで、死を超えた永遠の命と復活の体というものがあることをはっきり示されたのです。先ほども申しましたように、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は罪の赦しを得て神との結びつきを持ってこの世を生きるようになります。その時、イエス様の復活が起きたおかげで、一つの大きな方向性が与えられることになりました。それは、永遠の命と復活の体が待っている「神の国」に向かう道に置かれて、その道を歩みだしたということです。

 その道を歩む者は、かつて厳しく聞こえたイエス様の教えが違う響きを伴って聞こえてくるようになります。十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、心の清さの完全さを求めるイエス様の教えは受け入れ難いものでした。そんなこと言っていたら、誰も天国には行けなくなります。宗教的な修行を積んでもお祓いをしても何の役にも立ちません。それが十字架と復活が起きた後では、イエス様を救い主と信じるようになった者たちにとって彼の教えはなんだか体の一部のような身近なものになったのです。同じことは後の時代でもイエス様を救い主と信じるようになった人にも起きました。信じていなかった時は、完全たれという教えは、無理ですよイエス様、とか、馬鹿馬鹿しくて相手に出来ないと、背を向けていたのですが、信じて以後は教えはやはり体の一部みたいになっているのです。もちろん、信じるようになっても、そんなの無理だと言ってしまうことがあるのですが、無理だと言う自分に対してもう一人別の自分がいて「無理だなんて言うな、一体自分を何様と思っているんだ!」と叱咤しているのです。以前だったら、無理だ!という声しかなかったのが大きな変化です。どうして無理じゃなくなったのか、これを見ていきましょう。

 

3.

  イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪が償われて神から罪の赦しを受けて神との結びつきを持って生き始めるということが起きます。まさに洗礼には人間を異なる次元に移し替える力があります。それでは、新しい次元に移った人間は、真人間になって心も清くなってイエス様が言った厳しい教えがそのまま出来ているのかというと実は全然そうではない。まだ心に清さがないのです。それじゃ、何も変わっていないではないか!と言われてしまうでしょう。しかし、それでも変わっていることがあるのです。

 それは、パウロが洗礼を受けた者のことをイエス様を上着のように頭から被せられた者と言っていますが、それを思い出せば、わかってきます(ガラテア3章28節)。新約聖書を読むと、よく「イエスにあって」とか「キリストにあって」とか「主にあって」という文句が出てきます。ギリシャ語原文では前置詞のενが使われているのですが、英語のinと同じように「~の中に」というのが基本的な意味です。だから、「イエスの中で」、「キリストの中で」、「主の中で」という意味になりますが、それでは何のことかわかりにくいです。ギリシャ語のενは、何かとしっかり結びついていることも意味します。それで、「イエスと結びついて」、「キリストとの結びつきを持って」、「主との結びつきの中で」という意味でも捉えることが出来ます。しかしながら、イエス様を上着のように頭から被せられるというのはイエス様にすっぽり覆われることですから、それをわかっていれば、「イエスの中で」と言っても問題はありません。

 このようにキリスト信仰者はイエス様を衣のように纏っています。それは罪の汚れのない神聖な、色で言えば純白な衣です。被せられた信仰者はと言えば、まだ罪の汚れが残っています。さすがに罪を行為に表して犯すというのは注意深くなったのでしなくなると思います(もちろん弱さや、隙や弱みをつけられることもあります)。そうは言っても、心の中まで清いとは言い切れないことが沢山あります。本日の福音書の個所にあるように、殺人を犯さなくても、口で隣人を悪く言ってしまったり、または心の中で良くないことをいろいろ思ってしまったりします。イエス様は、それは殺人と同罪と言われました。その時キリスト信仰者は、そんなことはありえないなどという反論はもうしなくなります。なぜなら、自分に神聖な衣が被せられている以上は、その衣にたて突くことはしないからです。神のひとり子がそれは罪ですよ言われるので、罪と認めるしかありません。そうなると、殺人と同罪だからやはり地獄行きかと観念しそうになると、そうではないことに気づくのです。あなたは何を纏っているのか忘れたのですか?罪の償いと赦しそのものを纏っているんですよ。それをしっかり纏っている以上、地獄なんかには行きません!そのまま神の国に向かう道を進んでいます。しかも、神との結びつきを持ってですよ!

 兄弟姉妹の皆さん、イエス様は地獄なんか持ち出して心の中の罪も神の罰に値する罪であるなどと厳しいことを教えました。そしてそう教えた本人が自分の命と引き換えに神聖な衣を私たちに着せて下さいました。これをしっかり纏っている限り、何も心配しなくていいのです。心の中の罪のゆえに怯える必要はないのです。洗礼を受けて衣を着せられた信仰者はまた、自分をその被せられた衣に合わせていこうとします。「合わせていこう」というのは、人間は洗礼を受けたら即、真人間、心の清い人間になれるということではないことを示しています。愛のない心は何かの拍子にいつも現れてきます。そのたびに、心の目をゴルゴタの十字架で首を垂れている主に目を向けると、自分が纏っている衣がどれほどの価値があるものかが改めてわかり、それを手放さないようにしっかり纏おうとし、その纏っている衣に自分を合わせていこうとします。そうする度に、自分の内にある罪は圧迫され押しつぶされていきます。パウロは、キリスト信仰者とは罪に結びつく内なる古い人間を日々死なせていく者であると言っていますが(ローマ8章13節)、真にその通りです(後注)。本日の使徒書の個所でもパウロは、コリントの信徒たちは仲たがいし合っていて、それはまだ霊的に大人になっていない肉の段階で、まだ固形食が食べられない母乳で育てなければならない段階であると言っていました。このようにキリスト信仰者は、神に成長を与えられて成長していくのです。それなので、洗礼は清さや完全さのゴールとしてあるのではなく出発点です。復活の体と永遠の命を持てる日がゴールです。

 

4.

 最後に、本日の福音書の個所の終わりにある、誓うことについてのイエス様の教えは少しわかりにくいので、ひと言申し添えておきます。「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは必ず果たせ」ということが昔から言われている。そこでの「偽りの誓い」とは、神に対して誓った誓いが果たせないと誓いが偽りになってしまうということです。つまり、偽りの誓いを立てるなというのは、逆に言えば、誓いを立てるなら果たせるような誓いを立てよということになります。そうなると、人間は果たせそうな誓いを立ててそれを果たすことで神の意思に沿うことができるのだ、という思い上がりを生み出す危険があります。それで、イエス様は、「然り、然り」「否、否」だけ言いなさいと命じられるのです。つまり、「汝、腹を立てるな、怒るな、憎しみを抱くな」と言われたら、余計な条件を付けずに、「然り、然り」とだけ言う。「汝、心の中で姦淫を犯すな」と言われたら、これも「然り、然り」と言う。それ以上のことを言うのは、神の意思を水で薄めることになる。だから、果たせるような誓いは立てるな、果たせるような誓いをして神に認めてもらったとか、神とお近づきになったなどと思い上がるなと言うのです。

これも、キリスト信仰者にとっては大きな問題にはなりません。そのように「然り、然り」と言うことは、確かに父なるみ神の意思に反することが自分の内にあることを認めることになります。しかし、イエス様の神聖な衣を纏っている限り、神はそれを見て私のことを「よし」と見て下さり、そして、纏っているこの衣が自分の内にある罪を圧迫していく。それなので、キリスト信仰にあっては、心の中の罪を自覚しても神の国へ向かう道から外れることはなく、むしろ自覚することで歩みが確実になっていくとさえ言えるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

(後注、ギリシャ語が分かる人にです)ローマ8章13節は、新共同訳では「霊によって体の仕業を絶つならば」とありますが、ギリシャ語原文では「霊によって体の業を死なせるならば/殺すならば」です。しかも、「死なせる/殺す」は現在形なので、常態として死なせる/殺す、つまり日々そうするということです。「絶つならば」と言うと、エイッ、ヤーと一気に絶つみたいですが、その場合は動詞は現在形ではなくアオリストになるべきでしょう。

 

今年度の役員就任式が行われました。

説教「見よ、これぞ世の罪を取り除く神の小羊」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書1章29-42節 

主日礼拝説教 2020年1月19日顕現後第二主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」イエス様のことを洗礼者ヨハネはそう呼びました。小羊とは可愛らしいですね。皆さんも、動物園や農村で見たことがあれば、白い毛の衣に身を包み、まだ大人の羊になっていない段階で親羊に寄り添うようにしている姿を思い浮かべただけで純で無垢な感じがします。それが、小羊は小羊でも世の罪を取り除く小羊で、しかもイエス様がそれだと言う。それは一体どういうことか?世の罪を取り除くとは何なのか?世の中には悪いことが沢山ある。人を傷つけたり騙したり、自分のことだけを優先して他の人のことを顧みないということが沢山ある。それらが犯罪までになって法律に基づいて処罰されるということが沢山ある。「世の罪を取り除く」というのは、そういう悪や犯罪を取り除くということなのか?イエス様が取り除きをされるのか?される時、小羊のようにされるというのは、どういうことか?悪や犯罪を取り除くのならば、例える動物としてはライオンとかもっと雄々しいものを考えた方がピッタリなのでは?けな気で可愛らしいが弱々しい小羊に例えるのはどういうことなのか?洗礼者ヨハネの言葉は、字面だけ追えば、分かったような気になりますが、実は考えれば考えるほどわからなくなります。 

そういうわけで、本日の説教はこの「イエス様は世の罪を取り除く神の小羊」ということを徹底的に見ていきたいと思います。

 

2.

 「神の小羊」と言っているので、まず「神」について考えます。聖書の話ですので、あくまで聖書の神です。聖書の神は、何と言っても、天と地とその間にあるもの全て、見えるものと見えないもの全ての造り主、創造主です。私たち人間も神の手に造られたというのが聖書の立場です。人間一人ひとりに命と人生を与えた。しかも、母親の胎内に宿った時から、私たちのことを知っておられた。そのことが旧約聖書と新約聖書の至るところで言われています。本日の旧約の日課イザヤ49章1節でも、「主は私が胎内にいる時から声をかけ、母のお腹の中にいる時から私を名前で呼んでいた」(後注)と言っていますし、5節でも「母の胎内にいる時から私を御自分の僕として形作られた」と言っています。胎内にいるときからこうですから、生まれ出てきた後も、私たちのことをよく見て全て知っています。私たちは気づきませんが、私たちが何をしているか、何を考えているか、神は全てお見通しです。人には隠し立て出来ても、神に対しては出来ません。何しろ、私たちの造り主だからです。

聖書の神は造り主であるほかに、自分の意思をはっきり示される方でもあります。十戒という掟があります。それは、造り主である以上は、その方が拝む対象であるとか、その方の名を汚すようなことをしてはいけないとか、週一日は仕事の手を休めてその方に心を傾ける日とせよとか、神との関係でこうしろああしろという掟があります。まだこの他に、父母に敬意を払えとか、殺すなとか、自分のであれ他人のであれ夫婦関係を損なうことはするな不倫などもってもほかとか、盗むなとか、他人を陥れるようなことは言ってはならないとか、他人に属するものを妬んだり自分のものにしようとしてはいけない、というふうに人間との関係でこうしろああしろ(というか、こうしてはいけない、ああしてはいけない)という掟があります。これらの掟に従っていれば、神の意思に沿っていて、神の目に適うということになります。

ところが、人間ですから完全ではなく弱さや隙があります。それで、掟を破ってしまったらどうなるか?神の意思に反し、神の目に適わなくなってしまい、神の失望と怒りを買って罰を受けてしまう。それで、神の意思に反したことの償いをしなければならなくなります。償いを神が受け入れれば、罪を赦してもらったことになります。それで、神との関係が改善されます。私たちは悔いていますと言うのなら、その気持ちを動物を生贄に捧げることで表しなさいということになりました。旧約聖書のレビ記の4章をみると、掟を破ったのが祭司だったり、共同体全体だったり、その代表者だったり、個人だったりに応じて、牛や山羊を犠牲の生贄に捧げることが定められています。生贄を捧げると神から罪が赦されるとあります。まさに罪の償いのための生贄です。レビ記の16章をみると、第七の月の10日に贖罪日という国民的な儀式の日が定められ、この時も罪の赦しを得るために動物の生贄が捧げられます。

ここで、神に背いたのは人間だから人間が罰せられるべきで、動物を生贄に捧げるなんてちょっと身勝手で動物が可哀そうと思われるかもしれません。しかし、人間が神から赦しを得てもう一度やり直すことができることが目指されているのです。罰を受けて死んでしまったら、やり直しなど出来ず、元も子もありません。人間が死なないでやり直しできるためには誰かに代わりに死んでもらわないといけない、神の意思に背くというのはそれくらい命に係わる重大なことだというのです。

聖書の世界の外を見ても、人間が何か超自然的な相手に捧げものをするということはあります。例えば、何か不幸が起これば、そういう超自然的な相手の怒りを買ったとか祟られたなどと解釈して、その相手を宥めたりご愛顧を引き出すために、動物の生贄とまでは行かなくとも、何か捧げものをしたり、お祓いや清めの儀式をします。もちろん、不幸が起こる前に、起こらないようにと前もってそういうことをします。旧約聖書みたいに動物を犠牲の生贄に供することをしない宗教であれば残酷ではないと言えるかもしれません。しかし、その場合、神の意思が重大なものとしてある、ということはどうやってわかるでしょうか?それに背くことは命に係わる重大なことなのだ、というような重大さはどうやってわかるでしょうか?

こういう、創造主というものがあって人間はその意思に背くと創造主との関係がだめになる、それで背いてしまったら償いをして関係修復をしなければならないということが聖書の神と人間の間にあります。また、聖書の世界の外でも、不幸が起きないように超自然的な相手を宥めるということがあります。こうしたことは現代を生きる人たちにとっては、未開の人間のやることで馬鹿馬鹿しいものに見えるかもしれません。でも、そう思っている現代人でも、これをしないと、霊か何かの機嫌を損ねて良からぬことが起きる、などと言われたら、やはり不安になってやるのではないでしょうか?

 

3.

 聖書の中で犠牲の生贄を捧げるというのは、他の宗教と同じように不幸が起きないようにするという側面もあります。しかし、それよりも、もっと深い側面があります。神に造られた自分と造り主との関係はうまくいっているのか、関係がしっかり保たれているのか、ということを見つめ直す時、自分は果たして神の意思に沿うように生きているのか、と自分を神の意思に照らし合わせて見つめ直します。自分は神をしっかり拝んでいるか、その名を汚すようなことはしていないか、週一日を神のことに心を割く日としていているか、父母に敬意を表しているか、殺していないか、自分のにしろ他人のにしろ夫婦関係を守っているか、盗んでいないか、他人を陥れるようなことは言っていないか、他人に属するものを妬んだり自分のものにしようとしていないか、それらの型にしっかりはまっているかどうかということがとても大事になります。不幸が起きませんように、ということよりも、神の意思に沿う人間でいられますように、というのが大事なのです。造り主の意思に背くというのは、造り主と一緒にいられなくなることを意味します。造り主あっての自分です。造り主と離れ離れになることほど恐ろしいことはありません。それなので、痛みや不幸を伴うものであっても、神の意思に沿うように生きることが出来るのであれば、それでいいのだ、という心構えになります。

動物の生贄の話に戻りましょう。イスラエルの民は罪の赦しを得るために律義に動物の生贄を捧げ続けました。ところが、神との関係を保つ方法として、それは持続可能なものでないことが明らかになりました。イスラエルの民が罪の赦しのためと言って生贄を捧げても、神の意思への背きは繰り返されてしまいました。贖罪の儀式が形式的、表面的になって、儀式を行った人の心は何も変わっていないということが明らかになっていきます。心は変わっていなくても儀式をこなせば赦されるのだというようことは、聖書の世界に限りません。はじめは心をこめて儀式が華やかで大掛かりなものになったかもしれません。それが、心はこもっていないくせに、儀式が華やかで大掛かりなこと自体が心がこもっていることの証しのようになるということがあると思います。そういう心の変化を伴わない儀式を目の当たりにした神ははっきりと、生贄を捧げても何の意味があるのか、そんなものを持ってこられてもうんざりだ、と言うようになります(イザヤ書1章11~17節、エレミア書6章20節、7章21~23節、アモス書4章4~5節、21~27節などにあります)。つまり神は、外見上だけでは意味がない、内面が変わらなければ意味がない、と言われるのです。このことは、後にイエス様が、十戒の掟は外面上守れても、内面までも守れなければ守ったことにならないと教えたことに重なります。例えば、人を殺していなくても、罵ったら同罪であるとか、不倫をしていなくても、ふしだらな目で異性を見たら、同罪である、と。

神は、御自分が造られた人間がなんとかして自分の意思に沿うようになって、造り主である自分と一緒にいることができるようになるために、つまり心が変わるように、何か別の方法を採らなければならなくなりました。それは、イザヤ書53章で予告されました。そこでは、人間の罪を自ら負って自分を罪の償いの捧げ物にして命を捨てる「主の僕」なる人物について述べられています。彼は屠り場に引かれる小羊のようであったと言われています。そして、このイザヤ書の予告は全てイエス様が具体化させました。彼は罪となんのかかわりもない、神聖な神のひとり子だったのに、私たち人間の罪を全部引き取って、それを全部十字架の上にまで運び上げ、そこで人間の罪の責任は全部自分にあるかのように神の罰を私たちに代わって受けられたのでした。実にイエス様は、かつての動物の生贄のように、人間の罪を償う犠牲の生贄となったのでした。

しかも、犠牲に供されたのは動物ではなく、神聖な神のひとり子でした。これ以上の犠牲はないという位の完璧な犠牲でした。それゆえ、神に罪を赦して頂くための犠牲はこれで完了しました。エルサレムの神殿で行われていた動物を生贄に捧げる儀式は根拠を失いました。神聖な神のひとり子が人間の罪を償う犠牲の生贄になった、これは本当のことであり、そのひとり子イエス様は本当に救い主だった、そう分かって、彼をそのような者と信じると、神から彼の犠牲に免じて罪の赦しを頂けるようになりました。そこで聖書の世界の外に対しても、不幸の原因を取り除こうとして超自然的な相手のご機嫌を宥めようと捧げものや儀式をしている人たちに、天地創造の神のご機嫌を未来永劫に宥める捧げものがなされた、それがイエス様である、彼を救い主と信じれば、天地創造の神がいつもそばについていてくれるようになる、と言うことができるのです。

 

4.

 かつて動物の生贄を捧げていた時は、儀式が外面的、表面的なものになって心の変化が伴わなくなってしまい、神の批判の的になったと申しました。それでは、イエス様を救い主と信じて神から罪の赦しを頂いたら、心の変化はしっかりあって神の意思に沿うように生きることが本当にできるのでしょうか?

それは本当にできます。まず、イエス様が十字架の上で死なれた時、罪が力を失ったことを知りましょう。動物の生贄の場合は、毎年捧げなければならないものでしたので、それで得られる罪の赦しは有効期限というか、賞味期限があったことになります。動物の贖罪の効力は限定的でした。翻って、イエス様の犠牲は未来永劫に渡って罪が赦される桁違いの償いでした。罪は本当に人間を神から引き離す力を失ったのです。それだけではありません。一度死なれたイエス様を父なるみ神は死から復活させました。これで死を超えた永遠の命があることが示されました。しかもその時のイエス様の有り様は、永遠の命を包み込む復活の体でした。遠い将来、死者の復活が起こる時、復活させられる者はこういう有り様なのだということが示されたのです。なんと楽しみなことではありませんか!

こうした、罪が力を失ったこと、永遠の命と復活の体というものが、自分のものになるということは、これは頭で考えて理解しようとしても、受け取ることは難しいです。それらのものは、あまりにも大きすぎて、理解という小さな門を通り抜けることは出来ません。あたかも、駱駝が針の穴を通過できないようにです。それでは、これらのものを受け取って自分のものに出来るためにはどうしたらよいのか?そのために洗礼があります。ルター派の立場で言えば、正当に按手を受けて牧師として立てられた者が儀式の時に水に対して聖書の御言葉を語ると、水はただの水でなくなって洗礼を実現する手段になります。それを用いて洗礼をすると、罪が力を失ったこと、永遠の命と復活の体がすっと自分のものになります。まるで駱駝が針の穴を通ったようにです。正確を期して言うと、永遠の命と復活の体に変わるのは将来の復活の日ですので、洗礼ではそれが約束されるということです。洗礼を通して、永遠の命と復活の体をゴールにする道に置かれて、その道を歩み始めるということです。

このように洗礼は本当に奇跡的なことですが、聖餐式も同じです。正当に按手を受けて牧師として立てられた者が儀式の時にパンと葡萄酒に対して聖書の御言葉を語ると、パンと葡萄酒はただのパンと葡萄酒でなくなって聖餐を実現する手段になります。これを「私は洗礼を通して罪が力を失ったことと、永遠の命と復活の体を受け取りました」と洗礼の賜物をわかっている人が聖餐を受けると、それらの受け取ったものはしっかり根をおろします。罪は力を失ったままで、永遠の命と復活の体に向かう道を踏み外さずに歩み続ける力を得ます。

このように生きる者にとって、神の意思に沿うというのは体の一部になっています。それで、神の意思に背くというのは、体や心に傷がつくようなもので、健康が失われたのと同じです。そこで、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる者はもう神の意思から離れることが全くないのか、と問われると、やはりあると言わざるを得ません。それは、肉や心の弱さのためであり、また自分の中の罪は力を失ったとは言っても、この世には人間と神の間を引き離そうとする力が沢山働いているという現実があります。隙があれば、いつでも弱さにつけこまれます。そこで、神の意思に沿わないことがあると気がついたら、すぐ神に赦しを願います。すると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架にかけられた主に向けさせて下さいます。そしてこう言われます。「お前の罪はあそこで償われている。お前が犯した罪にはもうお前を私から引き離す力はない。わが子イエスを救い主と信じるお前の信仰とイエスの犠牲に免じてお前は罪を赦され、私としっかり結びついている。だから安心して行きなさい。もう罪を犯さないように。」神はそうおっしゃって下さるのです。

 

5.

 兄弟姉妹の皆さん、イエス様は真に世の罪を取り除く神の小羊です。私たちの罪を償い、私たちを罪の支配から贖い出して下さった犠牲の小羊です。旧約聖書の世界の犠牲の生贄は人間が準備するものでしたが、この小羊は神が準備したので真に「神の小羊」です。また、以前の犠牲では罪の力を消すことはできませんでしたが、この犠牲はそれを消すことができました。それが神聖で完璧な犠牲だったからでした。それで真に「神の小羊」です。この小羊の償いと贖いの業により、罪からは神と人間の間を引き裂く力が失われて、永遠の命と復活の体に向かう道が人間に開かれました。イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼により、罪が力を失った状況に置かれて、その道を歩む人たちが出てきました。罪は完全に面目を失い、世の罪が取り除かれた状況が打ち立てられました。しかし、まだ大勢の人が罪が無力の状況に置かれていません。永遠の命と復活の体に至る道も歩んでもいません。せっかく、その状況と道が打ち立てられたという現実があるにもかかわらず。問題は、人々がその状況の外側に留まることをやめて、その中に入って来れるかどうかです。それで、福音伝道の必要性は決してなくなりません。「世の罪を取り除く」と言う時、「取り除く」はギリシャ語原文では現在形なので常態として行っているということです。2000年経った今も「取り除く」ことは続いているのです。「取り除いて下さった」と言ったら、過去か完了の形にしなければなりませんが、それは気の早い話です(後注2)。それなので今も世の中には神の意思に反することが沢山あるわけで、その意思に沿うように世を変えていこうとする働きが続けられていきます。神の意思に反することをやめてそれに沿うようにしようと方向転換する人たちはいつも現れてきます。神の意思に沿う生き方をすることは、反する生き方からあざ笑われますが、「かの日にはこの自分も復活させられるんだ」という希望を持つ人にはこの世の嘲りなどどうでも良いことです。兄弟姉妹の皆さん、真にイエス様は「世の罪を取り除く神の小羊」です!

ιδε ο αμνος του θεου ο αιρων την αμαρτιαν του κοσμου.

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注 ヘブライ語分かる人に)細かいことかもしれませんが、1節でも5節でも前置詞はבではなく、מןが使われています。大学のヘブライ語の先生がこういう細かいことをうるさく言う人だったので。

(後注2 ギリシャ語分かる人に)これをアオリストの分詞を用いて、ο αρας την αμαρτιαν του κοσμουにすれば、「世の罪を取り除かれた」ですが、「取り除かれた」のは将来のことでもよいわけで、その場合は「(将来)取り除きを完了させる」という意味になります。でも、ここはαιρων現在の分詞ですので、常態として「取り除いている」です。

説教「イエス様の途方もなさに与って生きる」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書1章1-18節

主日礼拝説教 2020年1月5日降誕後第二主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 はじめにことばありき - 聖書の文句のなかで、これほど有名なものはないでしょう。キリスト信仰者でなくても、この聖句を知っている人なら誰でも、この「ことば」というのはイエス・キリストのことを指すと知っているのではないでしょうか。ヨハネ福音書の1章1節から18節までは、イエス様とは本質的にどんな方であるのかを述べているところですが、特に冒頭の5節まではそれを詩的な口調で表現しています。詩的というのは、新約聖書が書かれている元の言語であるギリシャ語で読むと、エン(εν)、エーン(ην)の音が繰り返されていることに気づきます。偶然そうなったのか、著者のヨハネが意図してそうしたのかわかりませんが、韻を踏んでいるように聞こえます。それを一つお聞かせします(エンεν、エーンηνを少し強調して言います)。

Εν αρχη ην ο λογος,

και ο λογος ην προς τον θεον,

και θεος ην ο λογος.

ουτος ην εν αρχη προς τον θεον.

παντα δι’ αυτου εγενετο,

και κωρις αυτου εγενετο

ουδε εν ο γεγονεν

εν αυτω ζωη ην,

και η ζωη ην το φως των ανθρωπων

και το φως εν τη σκοτια φαινει,

και η σκοτια αυτο ου κατελαβεν.

 

 皆様もご存知のようにマタイ福音書とルカ福音書では、イエス様が乙女マリアから生まれる出来事が最初にきます。父、御子、御霊の三位一体の神の御霊、つまり聖霊が力を及ぼして乙女が身ごもってイエス様を産む。その意味では、イエス様誕生の出来事の記述も、イエス様が本質的にどんな方であるかを示しています。ヨハネ福音書では、イエス様が本質的にどんな方であるかということについて、著者がイエス様と共にいた日々を振り返って自分の目で見、耳で聞いたことをもとに分析・総括した、その結果を冒頭に持ってきたわけです。それを、さらに詩的な口調で表現しているのです。

このようにしてヨハネ福音書1章1節から18節までは、イエス様についての真理が語られます。途中の6ー7節と15節で洗礼者ヨハネのことが出て来るので、少し脇道にそれるようになりますが、それはイエス様の本質を一層明らかにするために入れられたものであることはすぐわかります。1~18節のうち特に最初の5節は真理が詩的な口調で語られていると言えます。それは、真理であるがゆえに、人間を大いなるものを前にして謙虚にする力があります。また詩的であるがゆえに、人間の心を広くして大いなるものを受けとめられるようにする力があります。そういうわけで本日の説教では、この聖句を通して、私たちを謙虚にし、かつ私たちの心を広くする力に触れられるようにしていけたらと思います。

 

2.天地創造の前からいた神のひとり子

 「初めに言があった」。この「はじめ」とはいつのことを指すのでしょうか?多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記1章1節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。それで、神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると思われるのではないでしょうか?実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしにある「はじめ」というのは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです(後注)。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。時間をずっとずっと過去に遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いたら、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに「ことば」と称される神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。

この永遠のところにいた神のひとり子が「イエス」の名前で呼ばれるようになるのは、今から約2000年少し前に彼がこの世に送られてからのことでした。しかし、ひとり子そのものは、既に天地創造の前の永遠のところに父なるみ神と共にいたのです。そして、天地創造が成って時間が始まった後もまだしばらくは父のいる永遠の御国にいたのです。そして、父が定めた時、つまり今から約2000年少し前の時にひとり子はこの世に送られました。人間の姿かたちを持つ者として人間の母親から生まれて、「イエス」の名がつけられたのです。

それでは、天地創造の前の永遠のところにいた神のひとり子とは一体どんな方だったのでしょうか?ヨハネ福音書の著者ヨハネは、ひとり子を「ことば」、ギリシャ語でロゴスと呼びました。ギリシャ語のロゴスという言葉はとても幅広い意味を含みます。もちろん、紙に書き記して文字になる「言葉」や(昨今では紙に書かないでキーボードをたたくのが主流ですが)、口で話して音になる「言葉」を意味するのは言うまでもありません。これは私たちが普段日本語で「言葉」と言っているものと同じです。他にも、何か内容を持つ「話」や「スピーチ」を意味したり、また「教え」とか「噂」とか「申し開き」、「弁明」とか「問題点」とか「根拠」とか「理に適ったこと」などなど、日本語だったら別々の言葉で言い表す事柄が全部ロゴス一語に収まります。さらに、古代のギリシャ語の文化圏では、哲学のある一派の考え方として、世界の事象の全て、森羅万象を何か背後で司っている力というか、頭脳というか、そういうものがあると想定して、それをロゴスと言っていた派もありました。日本語では「世界理性」とでも訳されるのでしょうか。

このような森羅万象を背後で司るロゴスというのは、古代ギリシャの哲学の話でして、もともとはユダヤ教キリスト教とは何のゆかりも縁もない、人間の頭で考えて生み出された概念でした。ところが、聖書に依拠するユダヤ教とキリスト教は、天地創造の神が人間に物事を伝えたり明らかにしたりして、人間はそれを受け取るという立場です。生み出す大元にあるのはあくまで神とう立場です。哲学では、大元は人間の頭ということになります。

ヨハネ福音書の著者ヨハネは、神のひとり子のイエス様というのは、ある意味で森羅万象を背後で司るロゴスが人間の形をとったものと考えたのでした。ここで注意しなければならないのは、ヨハネはギリシャ哲学の内容をイエス様に当てはめたのではないということです。そうではなくて、旧約聖書の伝統とイエス様自身が教え行ったことに基づいて、イエス様を捉えた結果、このとてつもないお方を、自分が伝えようとしているギリシャ語世界の人々の頭にすっと入るコンセプトはないものか、と考えたところ、ああ、ロゴスがぴったりだ、ということになったのです。土台にあるのはあくまで、旧約聖書の伝統とイエス様の教えと業です。哲学のいろんな理論や議論ではありません。

では、旧約聖書のどんな伝統が、イエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたかというと、それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の8章22ー31節をみると、この「知恵」は実に人格を持ったものとして登場します。まさに天地創造の前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の時にも父と同席していたことが言われています。しかし、ひとり子の役割は同席だけではありませんでした。ヨハネ福音書の1章3節をみると、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に創造の業を行ったのです。どうやってか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記1章3節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように、ひとり子は「神の言葉」という側面を持つとわかれば、彼も天地創造になくてはならないアクターだったことがわかります。先にも見たように、ロゴスは直接的には「言葉」という意味を持ちますから、ひとり子をロゴスと呼ぶことで彼が創造の役割を果たす「神の言葉」であることも示せます。

このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。実はイエス様はこの地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であるとおっしゃっていたのです。ルカ福音書11章49節、マタイ11章19節にあります。(もちろんイエス様が実際に口にした言葉は、ギリシャ語のソフィアσοφιαでなくて、ヘブライ語のחכמהか、アラム語のそれに近い語だったでしょう。)イエス様は本当に、天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられた方だったのです!ヨハネ福音書8章を見ると、イエス様が自分のことをそういう果てしないところから来られた方であると言っているのに、ユダヤ教社会のエリートたちときたら全く理解できず、「お前は50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか」などととんちんかんな反論をします。50年どころか50億年位のスケールの話なのに。しかし、こうしたことはイエス様の十字架の死と死からの復活が起きる前は、とても人知では理解できることではなかったのです。

ところで、イエス様を箴言にある永遠の「神の知恵」とすると、一つやっかいなことが出て来ます。箴言8章をみると「神の知恵」は「生み出された」と言われています(24、25節、ヘブライ語חיל )。「生み出された」と言うと、ひとり子も私たちと同じように何か造られた感じがします。私たち人間も生まれるのだし、そもそも人間は神に造られたものですから。さらに箴言8章22節を見ると、「神の知恵」である「わたし」、つまりひとり子も父なるみ神に「造られた」と書いてあります。神のひとり子も被造物なのでしょうか?

これはよく注意してみなければなりません。まず、箴言8章22節の「造られた」のヘブライ語の元の動詞(קנה)は、創世記1章1節の「神は天地を創造された」の「創造された」(ברא)と異なる動詞を使っているので、造りは造りでも何か質的に違うものだということに気づかなければなりません。そこで、箴言8章をよく見ると、神の知恵が「造られた」のは、天地創造の前に起きたことが強調されています。つまり時間が始まる前の永遠のところでひとり子は「造られた」のです。人間をはじめとする被造物が時間が始まってから造られたのとは異なります。

さらに、「生み出される」についても同じです。確かに神に造られた被造物である私たち人間も「生まれる」のですが、「神の知恵」「神の言葉」であるひとり子が「生み出される」というのと全然事柄が違います。人間や動物の場合は、天地創造の時に造られて、被造物の生殖作用を通して被造物として「生まれ」ます。被造物としての地位はかわりません。この、天地創造の前のひとり子の「生み出され」は、これは、まだ天地創造がない、まだ時間がない、永遠のところのことです。天地創造の後の被造物の「生まれる」とは質的に異なります。それが具体的にどんな「生み出され」なのかはもう誰にもわかりません。聖書に、天地創造の前に私は生み出された、と言っているから、それはもうそうとしか言いようがないのです。全ては天地創造の前のことなので、私たち被造物が造られたように造られたのではないということをしっかりわきまえておくしかありません。それ以上のことはわかりません。時間の中に存在する私たちは、その外側の世界のことはわからないのです。ひとつだけ確実に言えることは、この「生み出される」ということがあるおかげで、生み出された方は生み出した方の「ひとり子」と言うことができ、また、生み出した方を「父」と呼ぶことができる、そういう関係ができたということです。

 このようにロゴスと呼ばれる神のひとり子は、天地創造の前から父なる神と共にいて、創造の時には父と共に働かれました。それで、ヨハネ福音書1章1節で「ことばは神であった」と言われるように、ロゴスはもう神としか言いようがないのです。このヨハネの分析は、キリスト教会の伝統に受け継がれていきます。私たちの礼拝でも唱えられる信仰告白の一つである二ケア信条にひとり子のことを「父と同質であって」と言われていることがそれです。

 

3.永遠の命に導く光

  4節と5節をみると、光と闇と命について述べられます。「命」というのは、ヨハネ福音書ではたいてい、私たちが今生きている限りある命を超えた「永遠の命」、まさに父なるみ神のもとにある「永遠の命」を指します。創世記の初めに明らかにされているように、人間は堕罪の時に神に対して不従順になって罪を持つようになってしまったがために、この「永遠の命」を失ってしまいました。しかし、父なるみ神は人間にそれを再び取り戻してあげて、人間がこの世を生きる命とその次の永遠の命の両方を合わせもった大きな命を生きられるようにしてあげようと、それでひとり子を御自分のもとからこの世に贈られたのです。

永遠の命が「人間を照らす光」であるというのは、一つには暗闇の中を照らす光として、人間に永遠の命への道を示す役割を果たすことがあります。しかし、それだけではなく、人間が闇の力に支配されないように、人間の内に灯して闇の力に対抗できる力として働くこともあります。闇の力とは、人間を神に対して不従順にして罪を植えつけて永遠の命を失わせてしまった悪魔の力です。罪はそのままにしておけば人間が永遠の命を持てなくしてしまうものなので、まさに呪いそのものです。

5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とありますが、これはいろんな意味を持つギリシャ語の動詞καταλαμβανωが元にあり、訳仕方がわかれるところです。フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語訳の聖書ですと、「暗闇は光を支配下に置けなかった」ですが、英語NIVとドイツ語の別の訳(Einheitsübersetzung)だと、日本語と同じ「暗闇は光を理解しなかった」です。どっちが良いのでしょうか?もちろん、悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持つか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解することができます。しかし、十字架にかけられて全ての人間の罪の罰を一身に請け負ったイエス様は、全ての人間の罪の償いを神に対して果たして下さいました。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、悪魔は私たちをもはや罪の罰に繋ぎとめることは出来なくなりました。十字架の出来事がなかったら人間はそれに繋ぎとめられるしかないのです。さらに、一度死なれたイエス様を父なるみ神が復活させたので、死を超える永遠の命の扉を開かれました。こうしてイエス様のおかげで罪の償いを受けて赦された者は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。

悪魔は罪を最大限活用して人間を永遠の命から切り離そうと企てるのですが、それはイエス様の十字架と復活の業で完全に破たんしてしまいました。そういうわけで、先ほどの訳の問題は、暗闇は光を支配下に置けなかったというのがピッタリな訳ではないかと思います。

 

4.ことばが肉となる

父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、人間を永遠の命から切り離す罪の呪いから人間を解放して再びその命を携えて生きられるようにするためにこの世に送られました。ただし、「あの方が本当に罪を全部請け負って償って下さったんですよ」と言えるためには、その方が本当に神罰を神罰として純粋に本気で受けられないといけません。受けた罰がみせかけのものではいけません。本当に罰の名に値する苦しい痛いものであるためには、受ける者はそれを身に沁みて受ける生身の人間でなければなりません。しかし、普通の人間が全ての人間の罪を背負って神罰を受けて全ての人間の罪を神に対して償うことなどは不可能です。そこで、人間を救うのに他に手立てがないと見た神は、それを全部自分のひとり子に請け負わせることにしたのです。これが、神のひとり子がこの世に送られるとき、人間の姿かたちを持って人間の母親を通して生まれてこなければならなかった理由です。まさに、ヨハネ福音書1章14節に言われるように「言ロゴスは肉となった」のです。この何気ない一言に神の人間に対する大いなる愛と恵みが凝縮されています。ここに神の大いなる真理があります。まさにキリスト信仰の核がここにあるのです。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)。

 

5.イエス様の途方もなさに与って生きる

 父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、私たち人間が失っていた永遠の命を再び持てるようにと、永遠の御許からこの限りある世に来ることが出来るために肉となられました。それでイエス様は見かけは私たち人間と同じ姿形をして人々と共にありました。しかし、その姿形にはこのような途方もないことが凝縮されていたのです。一体誰がそのことをわかったでしょうか?わかるようになったのは、十字架と復活の出来事が起きてからでした。出来事の直接の目撃者である使徒たち、さらにイエス様から直接啓示を受けたパウロが中心となって、「罪の赦しの救い」の福音を宣べ伝え始めました。これを聞いてイエス様を救い主と信じるようになった人たちは皆、この途方もないことに与るようになりました。なにしろ、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、肉体的な誕生に加えて、霊的に誕生することになったからです。ヨハネ3章でイエス様が教えている通りです。この世を去る時には肉体的に誕生した命は終わりますが、霊的に誕生した命はそのまま続きます。この世にいながら、命を二つもっているようなものです。

兄弟姉妹の皆さん、私たちは聖書を通してこのような途方もない方と出会ったのであり、その方を受け入れてその途方もなさに与って今を生きているのです。このことが皆さんにとって勇気と力と元気のもととなって、この新しい年も歩むことができますように。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

(後注)「あった」ηνが過去形なのに注意。もし「はじめ」が天地創造の時を指して、その時点で「ことば」が出てきたということならば、過去形のηνではなくて、アオリストのεγενομην/εγενηθηνにすべきでしょう。

 

説教「預言する女たち」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書1章46ー55節、サムエル上2章1-10節

主日礼拝説教 2019年12月22日待降節第4主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに福音

  本日の旧約の日課と福音書の日課は、二人の女性が神を賛美する祈りをしているところです。旧約のサムエル記上の女性はハンナ。彼女が賛美の祈りをしたのは紀元前1,000年代、今から3,000年以上も前のことです。新約の女性はマリア。彼女がこの賛美の祈りをしたのは今から2,000年前のことです。二人とも子供の誕生に関係して神を賛美しています。

ハンナが産んだのはサムエルです。後にユダヤ民族の指導者になりますが、「士師」という地位の指導者です。「士師」とは何かと言うと、ユダヤ民族がモーセやヨシュアに率いられてエジプトから民族大移動を果たしてカナンの地に定住を始めた頃でした。その時、宗教面と政治面の両方の指導者を兼ねる指導者が現れました。それが「士師」です。旧約聖書には創世記から始まるモーセ五書と呼ばれる書物があって、それに続いて「ヨシュア記」が来ます。モーセ五書の二番目の「出エジプト記」から「ヨシュア記」までがエジプトからカナンの地への民族大移動の記録です。その次に「士師記」が来ます。その後の短い「ルツ記」を挟んで「サムエル記」へと続きます。サムエルの時代にユダヤ民族は王制に移行します。そういうわけで、士師というのは、ユダヤ民族がカナンに到着してから王制に移行するまでの間の期間、宗教と政治の両面での指導者でした。

ところが、ユダヤ人たちは周りの民族のような王制を求め、サムエルもこれを受け入れます。サムエルは、神の指示に従ってサウルに王の印として頭に油をかけることをします。これでサウルは民族の王に就任しました。こうして宗教面の指導者と政治面の指導者が分かれることとなりました。ところで、ヘブライ語で「油を注がれた者」のことをマーシーァハמשיחと言いますが、これは日本語で言うメシアです。本日の日課のハンナの祈りの最後に「油注がれた者」が出てきますが、これはそのマーシーァハ/メシアです。「メシア」は新約聖書では「救世主」の意味を持ちますが、旧約聖書では、もともとはユダヤ民族の王の位につく人を指しました。サムエルはサウルの在任中の時に、神からの指示に基づきダビデに油を注ぎました。このため、サウルは王としての正統性を失いました。どうしてそんなことになったかと言うと、サウルが神の意思に沿わないことをするようになったからです。このように、王と言えども、全知全能の神の意思に従わなければならず、それから外れれば、もう王として認められなくなるということです。サムエルは神の代理人の機能を果たしたと言えます。

次にマリアを見てみましょう。マリアは誰を産んだか?これはもう、言うまでもなくイエス様です。イエス様は「メシア」と呼ばれますが、これはユダヤ民族の王という意味ではなく、人類全体の「救世主」の意味です。ただし、当時の人々は最初、イエス様が民族の王国を再興してくれる王様になると期待したので、その意味で彼のことをマーシーァハ/メシアと思っていました。他方で「メシア」という言葉には当時、民族自決を実現する王様という理解の他に、もっとこの世離れした理解の仕方も出てきていたのです。そして、そっちの理解が前面に現れて理解の仕方が逆転する事件が起きました。

何が起こったのでしょうか?まず、イエス様は支配者側にとって危険な分子として十字架刑に処せられてしまいました。人々は期待外れだったと失望しました。ところが、死んだはずのイエス様が天地創造の神の力で復活させられて、人々の前に現れたのです。体を持ってはいましたが、それは普通の肉体の体とは別のものでした。朽ちない復活の体でした。このようにしてイエス様は、死を超えた永遠の命に至る扉を私たち人間に開かれて、私たちをその命に導いて下さる救世主ということが明らかになったのです。そうなると、彼が十字架で死ななければならなかったのも、人間が持ってしまっている罪を神に対して償う犠牲だったことがわかりました。このことが旧約聖書のイザヤ書53章で預言されていたからです。神はイエス様がそのまま死の陰府の世界に留まることをお認めにならず、復活させました。それは彼が愛するひとり子だったからです。

それならば、なぜ神は愛するひとり子をこの世に贈って十字架の死に引き渡さなければならなかったのか?それは、人間の罪を罪として断罪して罪が償われて赦された状況を作り出し、そこに人間を導き入れるためでした。そこに入れることで人間は罪と死の従属状態から脱せられるのです。そして人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受け入れると、その状況に入れるのです。罪が罪として断罪されるためには神罰を100%受けて立つ者が必要でした。神の姿かたちでそれを受けても痛くもかゆくもなんともないので、100%受けたことになりません。人間の姿かたちを取ることが求めらたのです。人間の姿かたちは人間の母親から生まれてこないと持てません。マリアがその母親の役目を果たすべく選ばれました。そして、聖書に記されているように、マリアは神の霊、聖霊の力で妊娠しました。

以上、福音を宣べ伝えたので、説教はこれで終わりにしても良いのですが、ただ、本日の日課の個所の解き明かしはまだしていません。それで、まだ説教は続きます。

ハンナもマリアも、生まれてくる子供は、一方はメシア(王様)に正統性を与える立場になる者(サムエル)、他方はメシア(救世主)そのものになる者(イエス様)というようにメシアに関係しました。そうかと思うと、二人の境遇はとても異なっています。ハンナは不妊の女性でした。夫エルカナにはもう一人の妻ペニナがいて、ハンナは子供が得られないことでペニナから意地悪を受け続け、それがつらく、神に子供を嘆願します。神はハンナの祈りを聞き、それでサムエルを産むことになります。ここで一つ気になるのは、エルカナには妻が二人いたということです。ということは、ユダヤ教社会や聖書は一夫多妻制を認めているのかという疑問が当然起きます。このことは後で見ていきます。

マリアの方はと言えば、まだヨセフと婚約中の身なのに聖霊の力が働いて処女のまま妊娠しました。このように、二人の境遇は異っていますが、二人とも神の力が働いて、一方は不妊が治って子供を産み、もう一方は処女なのに妊娠して産むということが起こりました。神の力が働いた二人は神を賛美したわけです。彼女たちの賛美の祈りは、天地創造の神そしてイエス様の父である神がどんな方であるか、また人間に対して何を考え、何をされようとしているかを明らかにしています。まるで預言です。預言という言葉を聞くと、普通は未来の出来事を言い当てることを意味すると考えるでしょう。もちろん、それも含まれますが、聖書で言う「預言」はもっと意味が広く、神の考えや計画を預言者を通して人間に伝えることです。その意味でハンナとマリアの賛美の祈りは、神の考えや計画についても言っているので、預言と言ってもよいものです。

 

2.一夫一婦制が神の意思

 ハンナとマリアの賛美の祈りを見る前に、ユダヤ教社会や聖書は一夫多妻制を認めていたのかどうかについて見てみます。妻を複数持っていた例は、ヤコブがあります。アブラハムには側女がいました。ダビデとその子ソロモンも複数妻がいましたが、ソロモンに至っては複数なんて生易しいものではなく王妃が700人、側室が300人ですから、正気の沙汰ではありません。結論から言うと、創造主の神の意思は一夫一婦制です。それは、創世記の天地創造のところで最初の人間が神に造られた時、次のように言われていることによります。「こういうわけで、男は父母から離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2章24節)。はっきり一夫一婦制の観点を打ち出しています。最初の人間アダムとエヴァも一夫一婦でした。申命記17章17節にも「王は大勢の妻をめとって、心を惑わしてはならない」と言われています。アダムとエヴァの後の子孫を創世記4章の系図に従ってたどっていくと、7代目のレメクが妻を二人持っていたことが記されています。でも、その後は特に複数妻のことは何も記されていません。どうやら、一夫多妻は例外的な出来事のようです。

それでも、聖書に載るというのは容認されているようにみえます。一夫多妻制は「姦淫するな」という十戒の第6の掟から見て問題ないのでしょうか?ダビデがウリアの妻を自分のものにしたという出来事がありました。これは神の意思に反することとして、預言者ナタンの口を通して神の罰を宣せられました。ダビデは既に複数の妻を持っていました。ナタンが非難したのは、他人の妻を計略を用いて自分のものにしたことでした。そうすると、十戒の第6の掟は他人の妻に手を出してはいけないということであって、他人の妻でなかったら妻を複数持ってもOKという考え方だったのかもしれません。しかしながら、神の基本的な立場は先ほども申しましたように一夫一婦制です。

ところで聖書は、複数の妻を持つことでどんな問題が起こるかも隠さずに伝えています。子供に恵まれなかったサラは、先に夫アブラハムに子供を産んだ側女のハガルに我慢できなくなって、これを追放し悲惨な目に遭わせます。ラケルは夫ヤコブの寵愛を得ていたにもかかわらず、子供に恵まれなかったためにもう一人の妻レアを妬みます。ダビデは前述したように、複数妻を持っていたにもかかわらず、それでも物足りないと言わんばかりに人妻に手を出してしまいました。ソロモンに至っては、大勢の正室と側室の中に異なる神を崇拝する者がいたため、聖書の神から離れていくようになりました。アダムから7代目のレマクもどんな人間かというと、損害を受けたら賠償は常識を超える大きさを要求するような神経の持ち主でした。そんな人間なら妻を複数持ちたいと思っても不思議ではないかもしれません。本日の日課の個所のハンナの夫エルカナも子だくさんの妻ペニナがいて、彼女はハンナをいじめ抜きます。ユダヤ教社会では子だくさんは神の祝福の現れと見なされたので、子供に恵まれないハンナにとってペニナのいじめは屈辱的なものだったでしょう。

ユダヤ教社会の一夫多妻は、紀元前6世紀の終わりに民族がバビロン捕囚からエルサレムに帰還した頃には姿を消したと言われます。かつての王国はもう復興しなかったので、それでダビデやソロモンのような妻を何人も持てるような権力者が出なかったということでしょう。それから、バビロン捕囚の事件はユダヤ民族が神の意思に逆らうような生き方をしたことにそもそもの原因があるという考えが強まりました。それで、神の意思に忠実になろうとする姿勢が強まったと考えられます。イエス様も創世記の言葉をそのまま受け継いで次のように述べています。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体でる」(マルコ10章6~9節、マタイ19章1~4節)。

ここで、ひと言付け加えますと、聖書では神の民に属する者の不都合なことも結構書いてあります。妻を多く持った者にはよからぬことがあったということも包み隠さず述べています。ダビデのような神の目に留まった者についてもそうです。決して理想像だけで塗り固めることはありません。その意味で聖書はリアリスティックな書物と言えます。

 

3.ハンナの預言

  さて、ハンナの賛美の祈りから、神がどのような方で、私たちに何を計画しておられるのかを見てみましょう。

ハンナの祈りが神に聞き入れられて、待望の子供が生まれました。ところが、待望の子供だったのに、乳離れした段階でハンナは子供を祭司のエリに養子に出します。つまり、それだけ子供というのは神から授かったものなので親と言えども自分の所有物のようにしてはいけない、場合によっては与えて下さった方にお返ししなければならない、そういう考えが強く表れたケースと言えます。

3節から5節を見ると、神は高ぶるものを低くされ、低く抑えられている者を高く上げるという思想が現れています。イエス様の教えにもよく出てきます(マタイ23章12節、ルカ14章11節、18章14節)。

6節から8節を見ると、一見、神は低くされている者を高くされるという思想の続きかと思いきや、よく読んでみると、今の世が終わりを告げて新しい天と地に取って代わる日、復活の日、最後の審判のことを言っていることが見えてきます。「主は命を絶ち、また命を与え」というのは、ヘブライ語原文を少し詳しく訳すと「主は私たちを死のもとに連れて行くが、命に戻して下さる」です。そして「我々を陰府に下すが、また引き上げて下さる」。これはまさに死者の復活です。

7節と8節「主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる」は、これもヘブライ語原文を少し解説的に訳すと「主は取り上げられるが、豊かに富ませてくれる、高ぶった者をヘリ下させる」です。「弱い者を塵の芥の中から立ち上がらせ、貧しい者を芥の中から高く上げ、高貴な者と共に座に着かせ、栄光の座を嗣業としてお与えになる」というのも、弱い者と訳されるヘブライ語の単語דלは意味が広く、無力な者、取るに足らない者、虐げられた者、弾圧された者等も含みます。「塵の芥」と訳されている単語עפרも「滅びゆくものの領域、過ぎ去るものの領域」の意味を持つと辞書に出ています。それでここは、「虐げられた者をこの滅びる世から立ち上がらせて、貧しい者を灰溜めの中から引き上げて下さる。それは、我々が高貴な方々と共に暮らすようになるためである。神は受け継ぐものとして栄光の座を与えて下さる」。どうです、復活のことを言っているように聞こえてくるでしょう。無力な者、弾圧された者が奪われたり失ったものを補って余りあるくらいに報われるというのは、この世でないがしろにされたり中途半端になってしまった正義が完全に実現する「神の国」も見えてきます。8節の終わりに、「大地のもろもろの柱は主のもの、主は世界をそれらの上に据えられた」とあります。これは、まさに主なる神はこのように天地を創造する力を持つ方である。そうであれば、最後の審判も完全な正義も実現できるということです。

ハンナの賛美をこのように終末論的に捉えることに難色を示す向きもあるかもしれません。ハンナがここで低くされた者が高くされると言っているのは、不妊で虐げられた自分が子供を授かって逆転勝利したことを示唆しているにすぎないと言われるかもしれません。でも、辞書に出ている意味の範囲内で可能な捉え方です。もちろん、ハンナが終末論を意識して語ったかどうかはわかりません。しかし、逆転勝利して神に賛美するハンナの口を通して、神は終末論的な逆転勝利を語らせたということが見えてくると思います。

10節は「主は地の果てまで裁きを及ぼし」と訳されていますが、ヘブライ語の言葉דיןは「正義をもたらす」の意味があります。それで、「地の果てまで正義を実現する」と訳せます。これまで見てきた終末論とかみ合います。ここで「王」と「油注がれた者」-メシア―が登場しますが、それは誰のことでしょうか?サムエルが油を注いで王として就任させたサウルとダビデのことでしょうか?今まで見てきたこと、預言が最後の審判、復活、正義が完全実現する「神の国」のことを言っていることを考えると、これはイエス様のことを言っているとみるべきでしょう。イエス様が登場するよりも1,000年前にハンナの口を通してイエス様のことがこのように預言されていたのです!

 

4.マリアの預言

 次にマリアの賛美の祈りを見てみましょう。マリアは、天使から聖霊の力でイエスという男の子を産むことになると告げられていました。疑うマリアに対して天使は、年老いて不妊状態だった親類のエリザベトが神の力で妊娠した、神には不可能なことはない、と述べていました。マリアは、エリザベトに会いに出かけました。マリアの訪問を受けたエリザベトは、マリアが挨拶した時にお腹の赤ちゃんが反応したことに驚きます。マリアは、エリザベトの妊娠を見て、天使の言ったことは本当で、自分について言われたこともその通りになると確信しました。そして、この賛美の祈りをしたのです。

そこで、創造主の神がどんな方であるかが述べられます。48節で「身分の低い、この主のはしためにも目を留めて下さった」と言いますが、ここのギリシャ語の単語ταπεινωσιςの意味は社会的身分の高い低いというよりは、「ヘリ下り」とか「自分を高くしないこと、自分を低くすること」という特性ないし姿勢、態度のことです。「はしため」も「召し使い」のことですが、主人に仕える者です。ここは、「召し使いのように神の命じられること、言われることに聞き従ってお仕えする私は、自分を高くすることなど出来きない、ヘリ下った者です。あなたは、そのヘリ下った様に目を留めて下さった。」つまり、天地創造の神は、高ぶった人間には目を留めず、ヘリ下って自分を低くする者に目を留める方ということです。ハンナの賛美にも、またイエス様の教えにもあるように、真に神は、自分を高くする者を低くし、低くする者を高くする方なのです。52節で「身分の低い者を高く上げ」というのも同じです。ヘリ下った者、自分を低くする者を神は高く上げて下さる。

54節で「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」というのは、神が受け入れるのはユダヤ民族で他の民族は受け入れないような印象を受けてしまいます。もちろん、救い主がユダヤ民族の中に生まれてきたという意味で同民族が憐れみを受けたということはできます。しかし、その後何が起きたかというと、ユダヤ民族はイエス様を救い主と受け入れる人たちと拒否する人たちに分かれてしまいました。それでは、イスラエルは全体としては憐れみを受けられなかったのか、というと、そういうことではなかったのです。本日の使徒書のローマ2章でパウロが教えていることを思い出しましょう。割礼を受けて見かけ上のユダヤ人である者が本当のユダヤ人であるとは限らない。なぜなら、割礼を受けても律法の掟を守らなければ意味がない。逆に割礼を受けていなくても律法の掟を守ったら、そっちの方がユダヤ人である。その者は心に割礼が施されている者であり、そうなったのは洗礼を通して聖霊を与えられたからである。

イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、心に割礼があるユダヤ人なのです。マリアからイエス様が生まれ、そのイエス様が十字架と復活の業をもって、人間が割礼を経ないでも神の子となれる道を開きました。マリアが新しいユダヤ人が誕生することを可能にしたのです。マリアの言う「僕イスラエル」とは新しいユダヤ人から成るものです。マリアは本当に預言しているのです!

イエス様が成し遂げた罪の償いを純白な衣のように纏うキリスト信仰者は、自分をその被せられた衣に合わせようと、それにそぐわない罪に対して敏感になり、神の御心に沿うように生きようと心がけます。敏感であるがゆえに、まだまだ自分には罪があることを気づかされます。しかし、十字架は打ち立てられたので、そこに罪の償いと赦しがあることは打ち消すことはできません。キリスト信仰者は、その打ち消すことのできないものを重石のようにして罪を押しつぶしていきます。

兄弟姉妹の皆さん、このように私たちは律法の掟の文字を注視して神の御心に沿うように生きる者ではなく、ゴルゴタの十字架に目を向けることで神の御心に沿うように生きる者です。まさに、聖霊を受けて心に割礼があるユダヤ人なのです。マリアが賛歌で言っている僕イスラエルの一員なのです!

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「我々が目指す旗印」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書3章1-12節

主日礼拝説教 2019年12月8日待降節第2主日

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

  本日の福音書の箇所は、洗礼者ヨハネが活動を開始したことについて述べています。ヨハネはルカ福音書1章によれば、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました。らくだの毛の衣を着、腰に皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。そして、神の定めた日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の人が、ユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ3章には、この出来事がいつだか詳しく記されています。ローマ帝国皇帝ティベリウスの治世の第15年で、ポンティオ・ピラトが帝国のユダヤ地域の総督だった時でした。ティベリウスは、あのイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で西暦14年に即位します。その治世の第15年ということです。彼が即位したのは西暦14年の9月で、その年を数え入れて15年目なのかどうかは不明です。それで、西暦28年か29年の出来事いうことになります。いずれにしても、洗礼者ヨハネの登場もイエス様の登場も歴史的出来事です。おとぎ話ではありません。

 

2.洗礼者ヨハネのスローガン ‐「悔い改めなさい」と「神の国は近づいた」

  洗礼者ヨハネのスローガンは、「悔い改めなさい。天の国は近づいたのだから」でした。まず、「天の国が近づいた」ということは何のことか?「天の国」とは天国のことですが、普通、日本人が天国と聞いたら、人が死んだらふわふわと上がって上から私たちを見下ろしている居心地にいい場所というイメージがあるでしょう。それが、私たちのいるところに「近づいてきた」と言うのです。これは一体どういうことでしょうか?

「天の国」とは、他の福音書では「神の国」と言われています。マタイは「神」と言う言葉を畏れ多くて避ける傾向があり、「天」と言い換えます。それでは、「天の国」、「神の国」とはどんな国かと言うと、「ヘブライ人への手紙」12章には次のように言われています。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうという、この世の終わりが来る。その時、唯一揺り動かされてしまわないものとして現れる国です。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうというのは、イザヤ書65章や66章にあるように、天地創造の神が今ある天と地に替えて新しい天と地を創造するということです。黙示録21章にはもっと端的に、新しい天と地が創造される時に神の国が見える形で現れることが預言されています。

 キリスト信仰に特徴的なこととして、この世には終わりがあるという立場をとります。しかし、この世が終わってもそれで終わりっぱなしではなくて、その後に新しい世が来るから今のは終わるという立場です。新しい世では神の国が唯一存在する国となり、そこに迎え入れられるか入れられないかを決する最後の審判というものがある。迎え入れられる者は「復活の体」という創造主の神の栄光を現わす体を与えられて迎え入れられる。この壮大な大変動の時にイエス様が再臨して最後の審判を執り行う。黙示録21章4節を見ると、神の国では「涙が全て拭われ、死も心配も嘆きも苦しみもない」と言われます。涙には痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。それなので、この世でないがしろにされたり中途半端で済んでしまった正義が完全なものにされます。さらに、神の国は黙示録19章で言われるように結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。この世での労苦が全て労われるところです。

 さて、そんな夢のような国が2000年前に「近づいた」とヨハネが言ったのは、一体どういうことなのか?そもそも神の国というのは、今ある天と地がなくなってこの世が終わる時に出現するものではないか?今私たちのまわりにある天と地は当時と全く同じではないか?新しい天と地などまだ創造されてはいないではないか?いろんな疑問が沸き起こります。

 実は、2000年前に神の国が近づいたというのは、イエス様が行った無数の奇跡の業と関係があります。皆様もご存知のようにイエス様は不治の病の人々を完治したり、わずかな食物で大勢の群衆の空腹を満たしたり、大嵐を静めたり、悪霊を憑りつかれた人々から追い出したり、とにかく無数の奇跡の業を行いました。それで、2000年前のイエス様の存在と活動というのは、将来の神の国を、まだ今の天と地がある段階で人々に体験させる、味あわせるという意味がありました。それで、神の国が本格的に出現するのは、やはり今の天と地が新しい天と地にとって替わられる日だったのです。そういうわけで、洗礼者ヨハネが「神の国が近づいた」と宣べ伝えたのは、この世の終わりが今すぐ来て神の国が本格的に現れるということではなく、この神の国を人々に体験させられる方、イエス様が来られる、イエス様が神の国と一体としてある、彼のすぐ後ろに控えている、それくらい一緒にあるということを意味したのです。

 洗礼者ヨハネのスローガンのもう一つは「悔い改めなさい」でした。「悔い改め」と言うと、何か悪いことをして後で悔いる、もうしませんと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、この「悔い改め」と訳されるギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)には、もっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書によく出てくる言葉で「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになります。それで、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで自分の造り主である神に背を向けて生きていた生き方を改めて生きる、生き方を方向転換して、神のもとに立ち返る生き方をする、そういう意味を持つようになりました。

 そういうわけで、洗礼者ヨハネのスローガン「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というのは、「あなたがたはもともと自分の造り主である神に背を向けていた生き方をやめて、神のもとに立ち返りなさい。なぜなら、神の国と一体になった方が来られるからだ。その方のおかげで、あなたたちは神の国に迎え入れられることになるのだ」という意味になります。

 

3.洗礼と神の国への迎え入れについて

  ところで、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた大勢の人たちは、まだイエス様のことを知りません。それで、ヨハネのスローガンを聞いた時、ああ、この世の終わりがすぐ来るんだ、今ある天と地が預言者の言った通りに新しい天と地に取って替えられる日がすぐに来るんだ、と理解したようです。そうなると、預言書に言われているように(イザヤ書24章21ー22節、26章20ー21節)最後の審判も来てしまう。これは大変だ、ということになりました。ヨハネは、特にファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教社会の宗教エリートの人たちには特に手厳しく、蝮の子らよ、お前たちは神の怒りから免れると思っているのか、お前たちは斧が根元に置かれた木と同じで、良い実を結ばない木だから、切り倒されて火に投げ込まれてしまうんだぞ、などと言います。宗教エリートでさえダメなんだから、人々は神の怒りと裁きから免れるために神への不従順と罪を赦してもらわなければならないと考えたのは無理もありません。皆こぞって洗礼者ヨハネに洗礼を授けてもらおうと彼のもとに集まってきました。そして、洗礼に際して罪を告白したのです(6節)。

 人々は、どうしてヨハネから洗礼を受けると罪を赦してもらえると考えたのでしょうか?当時のユダヤ教社会には、水を用いた清めの儀式がありました。それでヨハネから洗礼を受けたら罪から清められると考たと思われます。しかし、ヨハネの洗礼の意図は別のところにありました。どういうことかと言うと、マルコ7章の初めにイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。ファリサイ派が特に重視した宗教的行為として、食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清め等がありました。それらの目的は、外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。しかし、イエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間は本質的に神の神聖さに相反する汚れに満ちている。律法を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらない、神の意思に沿ったりそれを実現することには程遠く、神の国への迎え入れを保証するものではない、とイエス様は教えるのです。

人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世を去った後、復活させられて神の御国に迎え入れられません。この大問題に対して神が編み出した解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が受けるべき罪の罰を全部彼に担わせて彼に罪の償いをさせる。その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すというものでした。このことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。そこで人間が、ひとり子を犠牲に用いた神の解決策はまさに自分のためになされたのだとわかって、そのひとり子イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、してもらった罪の償いがその人のものになる。それでその人は罪を赦された者と神に見てもらえるようになる。使徒パウロが教えるように、人間は、洗礼を受けることで、罪の汚れを残したままイエス様の神聖さを頭から被せられる、イエス様を純白な衣のように着せられるのです(ガラテア3章27節、ローマ13章14節、さらにエフェソ4章23ー24節とコロサイ3章9ー10節では、着せられるのは霊に結びつく新しい人となっています)。あとは、この白い衣を手放さないようにしっかり纏うことで内に残っている罪を押しつぶしていきます。パウロが言うように、洗礼を受けた者は聖霊を受けているので、その聖霊の支援を受けながら肉から生じる罪の思いや行いを日々死なせていく、そうすれば復活の日に復活させられて神の国に迎え入れられるのです(ローマ8章13節)。

ところで、ヨハネの洗礼は、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前のことでした。神が人間に贈り物として与える罪の赦しはまだありません。ですから、ヨハネから洗礼を受けても、それは人間を神への立ち返りに向かわせるきっかけか出発点にしかすぎません。これとは別に、神の国に迎え入れられるのを確実にする完璧な罪の赦しが必要です。それが、先ほど申しました、イエス様の身代わりの犠牲がもたらした罪の赦しです。ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと預言しました。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。「火を伴う」というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2ー3節)、罪からの浄化を意味します。もちろん、洗礼を受けても、人間は肉を纏う以上は罪を内在させています。しかし、洗礼を受けることで人間は罪の赦しの救いを受け取る者となり、たとえ罪を内在させてはいても、信仰にとどまって白い衣をしっかり纏う限り、罪は人間を神の国への迎え入れを邪魔する力を失っている。その意味で人間は罪から浄化されるのです。

 そういうわけで、ヨハネの洗礼は罪の赦しの救いをもたらす洗礼ではありませんでした。けれども、彼が人々に自分の洗礼を呼びかけたのは、宗教エリートが唱道する清めの儀式では神のもとに立ち返ることなどできない、それほど人間は汚れきっている、むしろその汚れきっていることを認めることから出発せよ、そうすれば、もうすぐ実現する罪の赦しの救いを受け取れる器になれる、ということでした。預言者イザヤが述べた、道を平らにする、まっすぐにする、というのはこのことでした。もし、人間の掟や儀式で汚れが無くなると言うのなら、神が実現した救いはいらなくなってしまいます。それでは、道は整えられず、でこぼこのままです。

 

4.神の国と完全な正義

  こうして人間は、イエス様が罪を償って下さったおかげと、その彼を救い主と信じる信仰と洗礼によって神の国に向かう道に置かれて、その道を歩むようになりました。死からの復活が起こる日に復活の体を与えられて神の国に迎え入れられるようになりました。

ところで、復活の体を与えられて神の国に迎え入れられると言われても、何かかけ離れすぎて縁遠い話に思われるかもしれません。クリスチャンが伝道する時によく口にする言い方に「イエス様を信じましょう、そうすれば天国に行けます!」というのがあります。もちろん正しいことを言っているのですが、天国つまり神の国がどうして素晴らしいのか、どのように素晴らしいところか、それを言わないと空しいスローガンになってしまわないでしょうか?「天国に行けます」というのは、聞きようによっては、イエスを信じたら死んでしまう、縁起でもない、と思われてしまうでしょう。

天国が素晴らしいところというのは、何か綺麗な花が一杯に咲いている楽園をイメージするというような感覚に訴えてわからせることがあると思います。最初の天地創造の時にエデンの園がありました。次に起こる天地創造の時はどうでしょうか?黙示録21章と22章をみると神の国は都市のように描かれています。光はもはや太陽の光ではなく神の栄光の輝きです。その国のなかを輝く川が流れ、岸には「命の木」なる木がありますが単数形なので1本です。神の国には今私たちが美しいと感じる自然に類する自然はあるのでしょうか?それとも、同じ自然ではないかもしれないが、今の自然から美しいと感じるその「美しい」がもっと完成された「美しい」になっている。それで、今感じる「美しい」はその完成された「美しい」の前触れのようなものということなのか?もし、そうならば、私たちは神が最初の天地創造の時に造って下さったものの中にある「美しい」をもっと見つけ出して大切にする、そうすることで天国が感覚的に身近になるのでと思います。

聖書の観点は、天国をこのように感覚的だけではなく認識的に捉えるということもあると思います。「認識的」というのは正確な言葉ではないかもしれません。どういうことかと言うと、本説教のはじめで、神の国というのは、この世の労苦が全て労われて無念の涙を含む全ての涙が拭われて死も心配も嘆きも苦しみもない国、この世でないがしろにされたり中途半端で済んでしまった正義が完全にされる国と申しました。正義の問題については前回と前々回の説教でお話ししました。少し振り返りますと、正義というのは、この世の段階で人間同士の間で実現するのはとても難しい、一筋縄ではいかない。もちろん、損なわれたら回復しなければならない。そのために国や社会には法律や司法制度があり、国と国の間には国際機関がある。しかし、出来事を全て隅々まで100%詳細に正確に客観的に把握できる人はいません。それで、大きな悪や害を被ったのに、どんなに頑張っても償いが小さすぎるとか、逆に本当はそこまで要求する必要はないのに法外な償いや謝罪を求められることが起こる。人間同士が行うことは不完全で不釣り合いなことばかりです。

聖書の立場は、全ての人間の全てのことを知っている全知全能の神とそのひとり子のイエス様が下す判決が釣り合いがとれた完全なものである。だから、私たちがこの世で正義の実現を努力するにしても、全ては最後の審判の時に決着がつけられるということに託さなければならない。このことがローマ12章のパウロの教えからわかります。最後の審判での正義の実現に全てを託すと、キリスト信仰者はこの世では次のような姿勢にならざるを得ない。悪を憎む、しかし悪に対して悪で返すことはしない、迫害する者のために祝福を祈る、高ぶらず身分の低い人たちと交わる、相手を自分より優れた者として敬意をもって接する、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣く、自分で復讐せずに神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々、神の正義実現に全てを託すとこういう生き方になるとパウロは教えます。正義の回復や実現のために努力はしても自分自身は神にならないということです。そうならないのは、最後の審判で完全な正義が実現することに全てを託しているからです。

 そこで、神の国で完全に実現している正義とはどんなものなのか?「釣り合いが取れた」だの「完全」だの、言葉で飾らないでもっと具体的に言えないのか?具体的なことは天国がやって来ないとわかりません。それでも、本日の旧約の日課イザヤ書11章の預言を見ると、完全な正義が実現する神の国が垣間見ることが出来ます。本説教の締めとして、それを垣間見てみましょう。

まず1節の「エッサイの株」。「株」とは木の切り株のことです。木が切り倒されて無残にも切り株だけが残されている。そこから芽が出てくる。若枝が伸びてくる。これは何か?エッサイとはダビデの父親なのでダビデの家系が暗示されています。木が切り倒されたというのは、歴史的に見ると、ユダヤ民族の王国がバビロン帝国の攻撃を受けて滅亡することを指します。イザヤ書6章終わりにそのことを暗示する預言があります。神の意思に反する生き方をしてしまった民に対して神が罰として強大な帝国を送り込む。その攻撃を受けて国は荒れ果てて民は異国の地に連行されてしまう。それはさながら、大木が切り倒されたような様である。しかし、残された切り株が神聖な種になる、という預言です。預言通り国は滅びました。その後でバビロン連行から解放されて祖国に帰還できましたが、かつてのような栄華を誇った王国は復興できないでいました。そのような切り株から若枝が萌え出る、ダビデ家系から出てくるイエス様が登場したのです(後注)。

そのイエス様が最後の審判で裁きを下す時、どのような資質を備えているかが2節から5節まで言われます。神の霊に満たされている。その霊は知恵の霊であり洞察力の霊、助言する霊、力の霊、知識の霊、神を畏れる霊である。知恵は神の知恵ですから人間の知恵を超えています。洞察力も、助言も、力も、知識も皆、神のもので人間のものではありません。こうした資質を備えた方が正義を実現する判決を下す。その際、目で見えることや耳にすることに基づいて行わない。つまり、目に見えない部分も見極められる。声にならない声も聞き分けられるということです。

「弱い人のために正当な裁きを行い」というのは、ヘブライ語原文を直訳すると「立場の弱い人たちのために『正義をもって』(בצדק)判決を下す」です。「この地の貧しい人を公平に弁護する」も、「この世のへりくだった人たちのために『ストレートに』(במישור)判決を下す」です。「その口の鞭をもって地を打ち」というのは、辞書によれば「口」(פיו)は「口から発せられる決定」の意味があるので「決定の杖で地を打つ」です。王様が自分の決定を告げる時、杖で床を打つと臣下の者たちは「ははー」と畏まります。最後の審判者は決定を告げる時、その杖で大地を打ちます。大地は震え恐れおののきます。「唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる」というのは、「口から吐かれる息(ברוח)が強風のようで有罪判決を受ける者たちを永遠の死に吹き飛ばす」という意味になります。「永遠の死」については、本日の福音書の洗礼者ヨハネが「永遠に消えない炎」と言っています(ヘブライ語の辞書はHolladyの”Concise”です)。

最後の審判者は、まさに正義と真実を腰の帯のように身にまとっている。「真実」と訳されている言葉(האמונה)は、辞書では「信頼性のある」という意味です。最後の審判者を見れば、そのいで立ちは文字通り正義を体現し、信頼しきって大丈夫な方だとわかるものということです。

6節から9節までは、野獣や猛獣が家畜や幼子と一緒にいて何も危険がないということが言われます。それくらい完璧な安心と安全がある夢のような国です。ヘブライ語原文を見ても、同じ言葉や似た表現が繰り返され、詩の美しさを感じさせる個所です。何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。神を知っているということが全地に行き渡っている。まさに神を知らないことが一掃されるので、正義に反することも一掃されています。正義が隅々まで行き渡っています。

10節「その日」というのは、旧約聖書では「その日」、「主の日」、「神の怒りの日」という言い方でよく出てきます。それはバビロン捕囚の前の時代なら、敵が攻めてきて国が亡びる日という理解がされましたが、バビロン帰還の後の時代は、私たちの今の時代も含めて、それは今の世が終わり新しい世が来る時、イエス様の再臨の時、最後の審判の時、復活の起きる時を指します。その日に、エッサイの根は全ての民の旗印と立てられる。日本語訳では「国々がそれを求めて集う」と言ってますが、原語(גוימ「諸民族」)は「諸民族が旗印を目指して行く」です。黙示録でも言われるように、神の国に迎え入れられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きた者であれば、イエス様の出身民族であろうがその他の民族であろうが関係ないということです。

最後の「そのとどまるところは栄光に輝く」。「とどまるところ」と訳されている言葉(מנחתו)は辞書によると「休息の場」です。神の国とは、この世で流さなければならなかった涙を全て拭われて完全な労いを受ける永遠の休息の場です。「栄光に輝く」と訳される言葉(כבוד)は訳が難しく、impressive appearanceという意味があり、まさに息をのむ、目を見張る、そういう光景が目の前に広がるということです。今まで見てきたことを踏まえたら、神の国、天国はまさにそういうところだと言うほかありません。兄弟姉妹の皆さん、私たちが目指して進む旗印はこれではっきりしたでしょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

(後注)ただし、イザヤ11章1節の「切り株」はגזעで、6章13節のמצבתהとは違っています。

説教「闇は深くても、夜明けは必ず来る。」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイ21章1~11節、イザヤ書2章1~5節、ローマ13章11~14節

主日礼拝説教2016年11月27日 待降節第1主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

  フィンランドやスウェーデンのルター派教会では待降節第一主日の礼拝で必ず「ダビデの子、ホサナ」が歌われます。キリスト教会の新年の幕開けを元気に迎えるに相応しい歌だと思います。スオミ教会でも今皆さんと一緒に歌いました。フィンランド語やスウェーデン語では「ホサナ」は「ホシアンナ」ですが、この言葉は詩篇118篇25節にある言葉「主よ、どうか救って下さい」ヘブライ語のホーシィーアーンナァהושיעהנאに由来します。それで、フィンランド語訳とスウェーデン語訳の聖書でも本日の福音書の個所の群衆の歓呼は「ホシアンナ」になっています。どうして日本語の聖書と讃美歌では「ホサナ」になっているかと言うと、恐らくヘブライ語のホーシィアーンナァをアラム語に訳したホーシャーナהישע־נא 用いているのではと思います。アラム語というのは、イエス様の時代の現在のイスラエルの地域の主要言語です。ヘブライ語は旧約聖書を初めとする書物の書き言葉として残っていましたが、人々が日常に話す言葉はアラム語でした。会堂シナゴーグで礼拝が行われる時も、ヘブライ語の旧約聖書の朗読の後にアラム語で解説的な通訳がつけられていました。それなので、群衆が叫んだ言葉も、ヘブライ語のものよりはアラム語だった可能性が高いです。どっちの言葉にしても、もともとは「主よ、どうか救って下さい」の意味だったのが、古代イスラエルの伝統では群衆が王様を迎える時の歓呼の言葉として用いられるようになりました。日本語的に言えば、「王様、万歳!」になるでしょう。

 とすると、本日の福音書の箇所で群衆は、ロバに乗ったイエス様をイスラエルの王として迎えたことになります。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがった堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、ロバに乗ってやってくるのです。これは一体何なのでしょうか?

 同じ出来事を記したマルコ福音書11章やルカ福音書19章を見ると、イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じた時、まだ誰もまたがっていないものを持ってくるようにと言います。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味で、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、ロバに乗ってトコトコ、エルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

 

2.群衆の目に映ったロバに乗ったイエス様の凱旋

  このイエス様の奇妙なエルサレム入城は何かのパロディーでもなんでもなく、まことに真面目で、人類の運命に関わる重大かつ神聖な出来事でした。このことについては以前の説教でもお教えしましたが、今回は旧約の日課イザヤ書2章とローマ13章も用いて解き明かしを深めていこうと思います。

 まず、イエス様のこの行為は旧約聖書のゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味しました。ゼカリヤ書9章9ー10節には、来るべきメシア・救世主の到来について次のような預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。/見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ロバの子であるろばに乗って。/わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。/彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、ヘブライ語原文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者ということです。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した箇所から明らかなように、神の力を受けて世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者です。本日の旧約の日課イザヤ書2章でもそのような平和な世界が到来することが言われていました。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣をあげず、もはや戦うことを学ばない。」これを読むと、本当に世界中の戦車や戦闘機や軍艦を一斉にスクラップにして、全世界の核兵器やミサイルも全部どこか、アリゾナの砂漠でもゴビ砂漠でもシベリアのツンドラ地帯でもどこでもいいから一ヵ所に集めて全世界の人たちが注視する実況中継の前で一斉に解体・分解したら、どんなにかせいせいすることか。そんなことされては困ると言う人もいるかもしれません。兵器の解体、スクラップ化を妨げる要因は何かを列挙して、それらを一つ一つを除去する手立てを考えるというのは、新兵器をどんどん開発することよりも難しいことなのでしょうか?

 話がそれました。旧約聖書の「世界の平和」についての預言に戻ります。そういう平和な世界を打ち立てる者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と凱旋するのではなく、ロバに乗ってやってくるという預言がありました。イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。民衆の期待が高まったのは無理もありません。彼らが考えていた預言の実現というのは、ダビデ家系の者が王となって神の偉大な力を得てユダヤ民族を占領者ローマ帝国から解放してイスラエルの王国を再興するということでした。それが成就すると今度は、神の力を思い知った諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムの神殿に上って来る。このような理解が預言に対して生まれたのは、先ほどのイザヤ2章の3節の預言「国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。」これがあることは言うまでもありません。

 後世の私たちから見たら、そんなことはイエス様のエルサレム入城の後に起きなかったと事後的にわかるので、預言は見事に外れたと言うでしょう。しかし、当時の人たちは預言をまさにユダヤ民族の解放と諸国民のエルサレム神殿参拝の日である理解していたので、ロバに乗って凱旋するイエス様を見て、ついにその日が来たと思ったのです。それでイエス様を熱狂的な大歓呼の中で迎えたのでした。ところが、その後で何が起こったでしょうか?華々しい凱旋は、全くの期待外れの結果で終わってしまいました。イエス様はエルサレムの市中でユダヤ教社会の指導者たちと激しく衝突します。まず、神殿から商人たちを追い出して、当時の神殿体制に真っ向から挑戦しました。また、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者であるローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせてしまう、せっかく一応の安逸を得ているのに占領者の軍事介入を招いてしまう、そういう懸念を生み出しました。さらに、イエス様が自分のことをダニエル書7章に預言されている終末の日のメシア「人の子」であると公言したり、自分を神に並ぶ者とし、果てはもっと直接的に自分を神の子と見なしている、これも指導層にとって赦せないことでした。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けます。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。

 

3.イエス様の凱旋の本当の意味

  イエス様が十字架刑で処刑されて、これで民族の悲願は潰えてしまったかと思われた時でした。とても信じられないことが起こって、旧約聖書の預言は実はユダヤ民族の解放を言っているのではなく、何か人類全体に関わることを言っていることがわかるようになる、そんな出来事が起こりました。それは、イエス様が神の力で死から復活させられたことです。これによって死を超えた永遠の命が打ち立てられたことが誰の目にも明らかになりました。ダニエル書12章に預言されていた復活ということが本当に起こるものであることが明確になりました。死の力を上回る命があるということがはっきりしたのです。死の力を上回るものが現れた時、人間を死に追いやる役目を果たしていた罪も存在する意味を失いました。

どのようにして、そうしたことが起きたかと言うと以下の次第です。創世記に記されているように、最初の人間が創造主の神に対して不従順になり罪を自分の内に入り込ませてしまった。その結果、人間は神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまった。それを神のひとり子のイエス様が人間の罪を全部自分で引き取ってゴルゴタの十字架の上で人間に代わって神罰を受けて死なれた。まさにイザヤ書53章にある、人間が神罰を受けないで済むようにするために神の僕が自分を犠牲にするという預言が実現したのです。そしてイエス様が死から復活させられたことで、死は永遠の命を突き付けられて自分がもう絶対的な者ではないことを思い知らされました。人間を死に追いやる役目を果たしていた罪も存在する意味を失いました。

そこで人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、死は絶対者でない、罪も存在する意味がない、という状況の中に置かれることになります。そこでは、イエス様が成し遂げて下さった罪の償いを純白の衣のように頭から被せられて、神からは罪を赦された者として認めてもらえます。罪を赦されたのですから、神との結びつきが回復しています。進むべき道として、死を超える永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩むことになります。罪がキリスト信仰者に神罰が下るようにとそそのかしても、既に罪を償われて赦されてしまったので、神罰の下しようがありません。このようにして人間は罪の支配から脱することが出来るようになりました。永遠の命に向かうので、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限りは、死もその人には何もなしえまえせん。

このようにロバに乗ってのイエス様のエルサレム凱旋は、ある特定の民族の解放の幕開けなんかではなかったのです。旧約聖書をそのように解したのは一面的な理解でした。でも、そのような理解が生まれたのは、ユダヤ民族が置かれた状況や悲願を思えばやむを得ないことでした。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事はこうした一面的な理解に終止符を打ちました。神の御心は全人類の課題を解決することにあるということが明らかになりました。罪と死からの解放、造り主との結びつきの回復、そして死を超えた永遠の命の獲得、そうした全人類に関わる課題の解決がいよいよ幕を切って落とされる、それがイエス様のロバに乗ってのエルサレム凱旋だったのです。

 

4.キリスト信仰者と平和の実現

  イエス様の十字架と復活の業によって全人類にとっての課題が解決されたと言うのなら、ゼカリア書9章やイザヤ書2章にある、世界の完全な平和についての預言はどうなるのでしょうか?十字架と復活の出来事が起きて、そのような世界が果たして実現したでしょうか?人類の歴史を見渡せば、戦争が起きて終わって、少し和平が続いて、また戦争が起きるという繰り返しでした。武器のスクラップ化ということも、弓矢や刀の時代なら簡単に考えることができますが、現代のように装備、技術、規模とも途方もないものになってしまっては、そう単純なことではないのではないか。そうなると、預言された完全な平和というのは、ますます実現困難に見えてしまいます。

 兄弟姉妹の皆さん、実は、聖書で言われる、武器が存在しない世界、誰も戦争の仕方を学ばない世界、それくらい完璧な平和というのは、これは今の世の次に来る新しい世での平和のことです。父なるみ神が今ある天と地に替えて、新しい天と地を創造し、そこに唯一揺るがない神の国が現れる。この神の国にある平和がゼカリア9章やイザヤ2章で言われている完全な平和です。聖書の立場に立つと、今の世が終わる終末というものがあります。その時、イエス様が再臨して、「生ける人と死んだ人を裁く」という最後の審判があります。審判の結果、神の国に迎え入れられる人たちは神の栄光に輝く復活の体を着せられて祝宴の席に着き、この世の全ての労苦の労いを受けます。イザヤ書2章を読むと、諸民族がエルサレムに向かって進むとか「ヤコブの家」とか、ユダヤ民族に結びつく言い方がされるので、どうしても同民族の解放について言っているという理解になりやすい。しかし、イザヤ書の預言を黙示録と重ね合わせて読むと、実は預言は終末と新しい世のことを先取りして言っているとわかります。黙示録の方でも神の国を「天のエルサレム」などと呼びますが、それは名称だけのことで、現在中東にある都市とは関係はありません。

このように聖書では武器が全く存在しない、戦争の知識もないという信じられない平和な世が預言されています。そこで、この平和は今の世の次に来る新しい世の状態であるというのが聖書の立場だとすると、今の世ではそういう完全な平和は無理ということなのか?そうしたら、この世で平和の実現を求め努力することは意味がないのか?どうせ次の世で実現するのなら、今は別に何もしなくてもいいという考えになってしまわないか?聖書はこの世の平和問題について消極的な態度なのか?等々、いろんな疑問や反論が出るでしょう。

 この問題については、先週の説教でお教えした、完全な正義の実現ということを重ね合わせて考えてみたらよいと思います。この世では完全な正義は実現しない。例えば、とても大きな悪や害を被ったのに、その解決を目指してどんなに頑張っても得られる償いは小さすぎるということがある。また、他人に与えてしまった害に対してあまりにも法外な補償や謝罪を要求されることもある。そうしたことは、日々のニュースからでも、また自分の身の回りからでも、よく起こるとわかるでしょう。このように、人間同士の間で実現しようとする正義はどうしても偏ったり、不釣り合いなものになってしまう。しかし、神は最後の審判の時、不完全で未解決だった正義の問題に決着をつけるので、神の国は完全な正義で覆いつくされる世界となる。黙示録21章4節で、神は「彼らの目の涙をことごとく拭い取って下さる」と言われる時、その涙とは痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。文字通り「全ての」涙です。ギリシャ語原文でも「全ての」πανとついています。

神は最後の審判の時に無念の涙を含む全ての涙を拭って完全な正義を実現すると言われる。それじゃ、この世ではそういう正義は実現しないということなのか?もしそうなら、正義の実現のために努力するのは意味のないことになってしまうのか?実はそうならないということを先主日の説教でお教えしました。その時、ローマ12章でのパウロの教えが鍵になると申しました。もう一度みてみますとパウロは、悪を憎め、ただし悪に対して悪で返してはならい、迫害する者のために祝福を祈れ、相手を自分より優れた者として敬意を持って接しろ、高ぶらず身分の低い人たちと交われ、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣け、自分で復讐しないで神の怒りに任せろ、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませろ等々、そういうふうに教えました。神が正義を完全に実現するということに全てを託すと、そういう生き方になるのです。次の世に実現するからと言って、この世で何もしないで手をこまねいているわけではありません。不正義や不正には当然対抗していく。しかし、その場合、正義を振りかざして逆に不幸をまき散らさないようにするための神の知恵がここにあります。

完全な平和の実現もこれと同じです。預言にあるような完全な平和は次の世に実現するものである。だから、今この世にいる間は、ローマ12章の神の知恵に従って、平和に反することに対抗していかなければならない。知恵に従えるのは、神が平和を完全に実現することに全てを託しているからです。さらにローマ12章の18節をみてみると、パウロは全ての人たちと平和な関係を持つことを勧めています。他の人たちとの平和な関係を持てるかどうか、それがあなたがた次第であるならば是非そうしなさい、と教えます。つまり、キリスト信仰者は少なくとも自分から平和を崩すようなことはしてはいけない。それじゃ、相手がどんな出方をしても、こっちは何もしないで言いなりか?と言うと、そうではない。最後の審判の時に全てが決せられるということに全てを託して、この世では神の知恵に従って不正や悪に対抗していくということです。

 

5.闇は深くても、夜明けは必ずやって来る

 次の世での完全な正義と平和の実現に全てを託して、この世ではその正義と平和を遠くに見据えるようにして生き、神の知恵に従って不正や悪に対抗していく、これを本日の旧約の日課イザヤ2章は「主の光の中を歩く」ことと言います。使徒書の日課ローマ13章では、この光についてもう少し具体的に述べられています。

12節の「夜は更け、日は近づいた」。「日」とはお日様が出ている「日中」ですが、ここでは新しい天と地が創造されて復活の体を着せられた者たちが神の国に迎え入れられる日のことです。神の栄光の輝きに満ちた光の日中です。従って「夜」は、復活の栄光の前の時代なので、今のこの世の時代です。「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう」。「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。」今はまだ新しい天と地の創造が起きていない「夜」の段階であるが、この「夜」はもうすぐ終わる。だから、キリスト信仰者は約束されているのだから疑わずに、今はもう復活させられて神の栄光を現わす者になっているかの如く、そのような者としてこの「夜」が終わりつつある最後の時代を生きようということです。

この「夜」が終わる時代にあって、「日中」の復活させられた者として生きるためには「光の武具」を身に着けることが必要である。この世というところは、神との結びつきを持つ者や将来復活させられる者を見つけたら、すぐ引き離そうとするからです。キリスト信仰者が身に着けるべき武具はエフェソ6章にリストがあります。帯として神の真理、胸当てして神の正義、履物として平和の福音を告げる準備、盾として信仰、兜として救い、剣としての霊がそれです。これらの武具は神がキリスト信仰者にちゃんと取り揃えて下さるものです。信仰者は自分が纏っているこれらの武具をいつも確認しなければなりません。そうすることで、「欲望を満足させようとして、肉に心を用いない」ようになります。この文は、私なら意訳して「肉の言うことに耳を傾けたり聞き従うと欲望が欲望を生む状態となる」とするでしょう。これが闇の行いです。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみが言われています。肉の言うことに耳を傾けて聞き従ってしまうと、こうした闇の行いに走って行ってしまいます。夜が終わって明るくなったらその人は存在する場所がありません。しかし、イエス様が成し遂げて下さった罪の償いを白い衣のように被せてもらうことは、今からでも間に合います。夜は必ず終わります。急がないといけません。

 夜の闇は深くても

夜明けは必ず来る。

だから今のこの闇の残りの時間は、

もう光の中にいるつもりで生きよう。

もう闇の行い、肉の思いへの従属はやめよう。

夜が明けた時に手遅れにならないために。

だから、今から光の中にいるつもりで生きよう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         

アーメン

 

 

聖餐式:木村長政 名誉牧師

 

 

 

 

 

説教「最後の審判と神の正義の実現について」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書21章5ー19節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.「裁きの主日」の趣旨

CC0本日は6月9日の聖霊降臨祭から数えて第24の主日で、今年のキリスト教会のカレンダーの1年の最後の主日です。それなのでキリスト教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。待降節に入れば、私たちの心は、神のひとり子が人間となってこの世に贈られたクリスマスの出来事に向けられます。私たちは、2000年近い昔の遠い国の家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられた、あの赤ちゃんの誕生をお祝いし、私たちの救世主になる方をこのようなみすぼらしい形で贈られた神の計画に驚きつつも、そこに人知では計り知れない深い愛を覚えて感謝します。

今日の教会のカレンダーの1年最後の主日は、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」というのは、今のこの世が終わる時にイエス様が再び到来する、ただし今度はみすぼらしい姿ではなく神の栄光に包まれて天使の軍勢を従えてやって来る、そして、伝統的なキリスト教会で唱えられる使徒信条や二ケア信条にあるように「生きている人と死んだ人を裁く」ということです。まさに最後の審判のことです。裁きの結果、天の御国に迎えられる者たちは神の栄光を現わす復活の体を着せられて迎え入れられる、そういう復活が起きる時でもあります。実に私たちは、イエス様の最初のみすぼらしい降臨と次に来る栄光に満ちた再臨の間の時代を生きていることになります。つまり、クリスマスを毎年お祝いするたびに、一番初めのクリスマスから遠ざかっていくと同時にその分、主の再臨の日に一年一年近づいていることになります。その日がいつなのかは、マルコ13章32節でイエス様が言われるように、天の父なるみ神以外に誰もわかりません。そのためイエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように常時、神から与えられた自分の務めをちゃんと果たしていなさいと教えられるのです(34-38節)。

このように、教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることで、北欧のルター派教会では、この日、最後の審判に今一度、心を向けて、いま自分は神の御国に迎え入れられる者だろうか、と各自、自分の生き方を振り返るという趣旨の日です。とは言っても、フィンランドを見ても、教会員の大半は「裁きの主日」の礼拝など行きません。礼拝が終わったことを告げる教会の鐘が鳴るや、待ってましたとばかり、町々のクリスマス・ストリートが華やかなイルミネーションを伴ってオープンします。(ヘルシンキのアレクサンテリン・カトゥ通りのクリスマス・ストリートも今日の14時オープンだそうなので、時差を入れたらあと10時間ちょっとです。)私としては、待降節まで待つのが筋ではないかなと思うのですが。そのように、趣旨が実際に活かされているとは言い難い現状があります。それでも、自分の生き方を振り返って今後の方向を考える時、聖書という権威ある書物に照らし合わせてみるのはいつの世でも意味があると思います。

2.イエス様の複雑な預言を解きほぐす

本日の福音書の箇所は、ルカ福音書21章5節から始まって章の終わりまで続くイエス様の預言の初めの部分です。本日の説教はこの預言の解き明かしを中心に進めていきますが、旧約の日課イザヤ書52章と使徒書の日課第一コリント15章も解き明かしに欠かせません。

このイエス様の預言は少々複雑です。というのも、彼の十字架と復活の出来事のすぐ後に現在のイスラエルの地域に起こる出来事を預言しているかと思えば、もっと遠い将来に全世界の人類全体に起こる出来事を預言することもしているという、二つの異なる預言が入り交ざっているからです。一方では、私たちから見て既に過去になった出来事が起こる前に預言されている。他方で、今の私たちから見てこれから起こる出来事の預言も入っているのです。

 まず、この複雑な預言を解きほぐしていきましょう。以前にもお教えしたことなので、復習の意味で見ていきます。イエス様と一緒にいた人たちが、エルサレムの神殿の壮大さに感嘆します。それに対してイエス様は、神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言します(6節)。これは、実際にこの時から約40年後の西暦70年にローマ帝国の大軍によるエルサレム攻撃の時にその通りになります。イエス様の預言が気になった人たちは、いつ神殿の破壊が起きるのか、その時には何か前兆があるのか、と尋ねます。それに対する答えとして、イエス様の詳しい預言が語られていきます。

まず、偽キリスト、偽救世主が大勢現れて人々を誤った道に導く、しかし、彼らに惑わされてつき従ってはならない、と注意を喚起します。どうしてそういう偽救世主が現れるかというと、9節にあるように人々は戦争やさまざまな混乱や天変地異を耳にするようになり、この先どうなるだろうか、自分は大丈夫だろうか、と心配になる。そうなると、偽救世主たちにとってはまたとない機会で、自分についてくれば何も心配はないと言う。それで人々はそういう混乱や天変地異の時代になると偽救世主について行きやすくなる。8節で言われていますが、偽救世主は「世の終わりの時が近づいた」などと言って不安を煽るのです。そこでイエス様は、こうした不安と混乱の時代にどう向き合ったらいいかを9節で教えます。これらの出来事は世の終わりの序曲として必ず起こるものではあるが、これらが起きたからと言って、すぐこの世の終わりになるのではない。だから、偽救世主に助けを求める位に恐れる必要はないのだ、と。それで、イエス様は、不安の時代になっても「おびえてはならない」と命じるのです。そう命じられているのは、その時イエス様と一緒にいた人たちだけではありません。イエス様を救い主と信じる者みんなです。私たちも「おびえるな」と命じられているのです。

その混乱と天変地異の時代に何が起こるかということについて、イエス様は10節と11節で具体的に述べていきます。民族と民族、国と国が互いに衝突し合う。つまり戦争が勃発する。それから、世界各地に大地震、飢饉、疫病が起こる。さらに、天体に恐ろしい現象や大きな徴候が現れる。イエス様は、これらのことはこの世の終わりに先行するものではあるが、すぐ終わりが来るのではない。だから、これらのことが起きても、イエス様を救い主と信じる者は怯える必要はない、と言われるのです。そんなこと言われても、そういうことが起こったら、恐れたり怯えたりしないでいられるでしょうか?そうならないでいられる何か勇気のもとがあるでしょうか?それががなかったら、怯えるなと言っても空振りです。しかし、イエス様の観点は、キリスト信仰者はそういう勇気のもとがある、だから怯えるな、というものです。何がそういう勇気のもとか?それが本説教を通して明らかになると思います。

さてイエス様は、神殿破壊の前兆に何が起きますかと聞かれて、以上のように答えました。それなので、偽預言者、戦争、地震、飢饉、疫病、天体の徴候等々の混乱や天変地異が神殿破壊の前兆のように聞こえます。他方で、12節を見ると「これらのことが起こる前に」迫害が起こると述べていきます。つまり、迫害が先に来て、次に混乱と天変地異が起きるという順番になります。キリスト信仰者に対して起こる迫害は、権力者によって信仰者が連行されて自分の信仰の申し開きをしなければならなくなる。その時、信仰者がなすべきことは、この事態を信仰の証しの絶好の機会だと捉えること、どう弁明しようかと前もってあれこれ考えず、イエス様が反論不可能な言葉と知恵を与えて下さるのに任せて、その通りに話せばいいということです。迫害の中で痛々しいのは、権力者による迫害ならまだしも、親兄弟、親族、友人からも見捨てられて命を落とすことがあるということです。「イエス様は私の救い主です」と名前を口にするだけで、それほどまでに憎まれてしまう。しかし、そのような時でも、信仰者が忘れてはならないことがある。それは、信仰者は頭のてっぺんから足のつま先まで神の手中にしっかりおさまっている、だから髪の毛一本たりとも神の御手から洩れることはないのだということ。

神はお前たちから一寸たりとも目を離さず、お前たちに起こることは全て記録し全てを把握している。たとえ全ての人から見捨てられても、お前たちは神には見捨てられていない。神はお前たちを復活の日、最後の審判の日に天の御国に迎え入れるおつもりだ。それがわかれば、試練があっても忍耐できるのだ。試練の中で忍耐することを通して、天の御国の命を勝ち取ることが出来る、そう19節で言われます。忍耐するというのは、イエス様を救い主と信じる信仰に留まるということです。信仰を捨てさせようとする試練の中で忍耐して信仰に留まって、天の御国に迎え入れられて永遠の命を勝ち取ることが出来る。もし、御国への迎え入れと永遠の命の勝ち取りということが本当に起こらなければ、迫害に耐える意味がなくなります。そうしたことは本当にあるのでしょうか?このことも本説教を通して明らかになります。

ここでイエス様の預言に戻りましょう。出来事の順番は、まず迫害が起こって、それから偽預言者、戦争、大地震とその他の混乱や天変地異の時代が来ます。本日の個所の後になりますが、20節からは質問者にとっての関心事、エルサレムの神殿破壊についての預言になります。24節まで続きます。迫害が起きて、混乱や天変地異が起きて、エルサレムとその神殿の破壊が起こる。先ほども申しましたように、この破壊は西暦70年に実際に起こりました。イエス様は、約40年後に起こることを言い当てたのです。ところが、ここでよく注意しなければならないのは、迫害が起きて混乱と天変地異があって神殿破壊が起こっても、預言はこれで完結したのではないということです。イエス様は9節で、偽預言者、戦争、大地震等々の混乱と天変地異の出来事はこの世の終わりの前兆として起こると言っています。つまり、イエス様の主眼は質問者の意図を超えて、この世の終わりに向けられているのです。これらの混乱と天変地異はエルサレムの破壊の前にも起こるが、その後にも起こるということです。

そこで、この世の終わりそのものについて、25節から28節で預言されます。太陽と月と星に徴候が現れる。つまり天体に異常が生じる。それから、地上でも海がどよめき荒れ狂う異常事態になり、人類はなすすべもなく苦しみ恐れおののく。文字通り天体が揺り動かされるようなことが起こり、まさにその時、イエス様が再臨する。
太陽や月を含めた天体に大変動が起きるというイエス様の預言は、イザヤ書13章10節や34章4節(他にヨエル書2章10節)にある預言と結びついています。天体の大変動が起きて今ある天と地が新しい天と地にとってかわります。同じイザヤ書の65章17節で神は、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と言い、66章22節で「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に長く続くようにあなたたちの子孫とあなたたちの名も長く続く」と約束されます。さらに「ヘブライ人への手紙」12章では、今ある天と地が新しいものにとってかわる時、そこに永遠に残る神の御国が現れるということが預言されています。

ルカ21章28節で、イエス様は、天体の大変動の時に再臨される時こそが、キリスト信仰者にとって「解放の時」であると言いいます。「解放」とは何からの解放なのでしょうか?迫害でしょうか?戦争や自然災害や疫病や天体の大変動がもたらす恐怖や苦しみ痛みからの解放でしょうか?このことも本説教を通して明らかになると思います。

3.聖書の立場に立って世の終わりに立ち向かう

さて、イエス様の預言は当たるでしょうか?本当にこの世の終わりが来て、新しい天と地が創造されたり、最後の審判が起きたり、復活が起こるのでしょうか?

エルサレムの神殿の破壊は歴史上、実際に起こりました。その前兆である戦争や迫害も起きました。しかし、天地創造以来とも言える天体の大変動はまだ起きていません。神殿破壊からもう1900年以上たちました。その間、戦争や大地震や偽救世主は無数にありました。大地震も飢饉も疫病も天体の徴候も沢山ありました。キリスト教徒迫害も、過去に大規模のものがいくつもありました。ご存知のように、この日本でもありました。現代世界でも国や地域によっては迫害はあります。歴史上、そういうことが多く起きたり重なって起きたりする時には、いよいよこの世の終わりか、イエス・キリストの再臨が近いのか、と期待されたり心配されるということもたびたびありました。しかし、その度に天体の大変動もなく、主の再臨もなく、世界はやり過ごしてきました。イエス様が預言したことが起きるのは、まだまだ先なのでしょうか?それとも、1900年の年月の経験からみて、もう起こりそうもないと結論を下してもいいのでしょうか?

よく考えてみると、少なくとも天体の大変動がいつかは起こるというのは否定できません。これも以前の説教で申し上げたことですが、太陽には寿命があります。太陽には出来た時と終わる時があるのです。水素を核融合させて光と熱を放っている太陽は、あと50億年くらいすると大膨張して燃え尽きると言われています。膨張などされたら、地球などすぐ焼けただれてしまうでしょう。50億年というのは気の遠くなる年月ですが、それでも旧約聖書やイエス様が預言するように「太陽が暗くなる」ということは起こるのです。もちろん、太陽が燃え尽きるまで地球が大丈夫ということはなく、少しでも膨張し始めたら、地球への影響は甚大です。他にもまだ解明されていない天体の変動も起きる可能性だってあります。そういうわけで、今ある天と地は永遠に続かないということは科学的にも真理なわけで、聖書はそれを科学的でない言葉で言い表しているにすぎません。

それでは、今ある天と地がなくなった後で果たして本当に新しい天と地ができるのかどうか、これは今の科学では何も言えないでしょう。ところが聖書の方は、今ある天と地は創造主が造ったものなので、この同じ創造主がいつかそれを新しいものに造りかえる、それで今あるものはなくなる、という立場をとっています。この立場を受け入れるかどうかは、科学で証明できない以上、信じるか信じないかの信仰の領域です。信じる人はどうして信じられるのか?それは、万物には造り主がいるということ、つまり聖書の神を信じているからです。

万物には造り主がいるという立場をとる聖書は、さらに一歩踏み込んで、造り主と造られた人間の関係がどうなっているかも問います。関係がうまく行っているのかいないのか、ということです。聖書は、うまく行っていないという立場です。なぜかと言うと、最初に造られた人間が造り主の神に対して不従順になって罪を自分の内に入り込ませてしまったからです。それで人間と神との結びつきが失われて、人間は死ぬ存在になってしまった。だから、人間が代々死んできたというのは、代々罪を受け継いできたからに他ならないという立場です。

本日の旧約の日課イザヤ書52章3節で「ただ同然で売られたあなたたちは銀によらずに買い戻される」とあります。ヘブライ語原文を直訳すると、「あなたたちはタダで自分を売り飛ばした。金銭をもってしても自分を買い戻すことはできないであろう」ともっとシビアです(後注)。「自分を売り飛ばす」というのは、お金に困った人が自分を奴隷として売るということです。この個所では、人間が罪と死に売られてそれらの奴隷になったことを意味します。しかもこの場合は代金の支払いなしですから、大損もいいところです。罪と死から自分を買い戻してそれらから自由になりたいと思っても、お金で買い戻すことは出来ない。詩篇49篇9節でも「魂を買い戻す値は高く、とこしえに払い終えることはない」と言われています。人間が罪と死から買い戻されてそれらから自由になるという時、買い戻す先は神しかいません。もともと神のもとにいた自分を売り飛ばしたわけですから。人間はどうやって自分の造り主である神のもとに買い戻されることができるでしょうか?

その買い戻しを神は、ひとり子イエス様をこの世に贈って行って下さったのです。イエス様は全ての人間の罪を自分で引き受けてそれをゴルゴタの丘の十字架の上にまで背負って行き、自分があたかも全ての罪の張本人であるかのようにして神罰を受けて死なれました。このようにして私たち人間に代わって神に対して罪を償って下さったのです。しかも、神は一度死なれたイエス様を復活させて死を超える永遠の命を打ち立てました。死は、太刀打ちできないものを突き付けられたのです。そもそも、死の目的は、人間が造り主である神と永遠に切り離された状態にすることでした。それが、人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、罪の償いを白い衣のように頭から被せられ、神から罪を赦されたものとして見てもらえるようになった。そうなると、その人は神との結びつきが回復してしまい、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩む者になります。死は、その人が永遠の命に向かうことを阻止する力がなくなったのです。そして、人間を死に追いやる役割を持っていた罪も、いっくら信仰者に道を歩まらせて死に追いやろうとしても、信仰者が信仰にとどまろうとする限り、追いやることができない空振り空回りの状態です。まさに、本日の使徒書の日課第一コリント15章54-55節に言われている通りです。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」パウロは、罪のことを「死のとげ」と呼んでいます。

ただし、罪は空振り状態とは言っても、律法というものがあり、それが私たちの内に罪があることを暴露し続けます。56節で「罪の力は律法です」と言っているのはこのことです。信仰者といえども、外面上は言葉や行為で罪を犯さないとは言っても、内にある罪、悪い思いは律法によって暴露されます。しかし、その度に心の目をゴルゴタの十字架に向け、自分の罪の赦しはあそこに打ち立てられていると再確認できれば、自分が罪と死から解放されるために捧げられた犠牲はなんと大きいものだったか思い知らされ、とても厳粛な気持ちになります。これからは罪を犯さないようにしなければと思いを新たにします。このようにすればするほど、罪は空振りを続けるしかなくなります。罪の償いの十字架と永遠の命が打ち立てられた以上は罪と死は本当に力を失ったのです。イエス様を救い主と信じる信仰者は罪と死が力を失った状況の中に置かれているのです。

4.最後の審判と神の正義の実現

そこで、このような聖書の立場に立たず、天地創造の神を信じることがなければどうなるか見てみましょう。万物には創造主がいるということを知らなければ、今ある天と地はある時に造られたという発想がなく、永遠の昔からずっとあって、終わりもなくただずっと続いていくように思われるでしょう。でも、それは太陽や天体のことで明らかなように、永遠には続かないのです。終わりがあるのです。それなら、終わるのならそれで仕方がない、終わりは終わりなので全ては消えてなくなると考えるでしょう。しかしその場合、天地創造の神がないので、終わった後で新しい天と地に造り直されるということもなく、全ては本当に終わりっぱなしになってしまいます。そうなると、死者の復活も起こりません。せっかく復活しても居場所がないわけですから。従って、それまで霊とか魂とかいう形で残っていたものも、全てそこで終わりになって全部なくなってしまいます。創造主の神などいない、と言うとそうなります。
ところが、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた創造主の神を信じると、この自分は終わらないということがわかります。たとえ天と地の有り様がかわっても、自分もそれに合わせて神の栄光を映し出す復活の体(第一コリント15章35-49節)を着せられる、本日の個所によれば、その体は朽ちることもなく死ぬものでもないので、消えてなくなることはない。「自分はある」とわかっている自分が、この世からの死を超えて、ずっと続いていくことがわかります。そうすると、本説教の初めで申しました、この世の終わりの前兆が起きても恐れないでいられる勇気のもとがあるかということも、有り様が変っても続いていく自分が約束されていることがそれだということになります。

他方で、有り様が変っても自分が続いていくということに関して、こういう考えをする人もいます。聖書で言うような最後の審判なんか持ち出さないで、死んだ人は全員そのまま天国に行けるという考えです。そういう人から見たら、最後の審判で誰が天国に迎え入れられ誰が入れられないかなどと言うのは、教会の言うことを聞かないと地獄に落ちるぞと脅して人を教会に縛り付けようとすることになります。確かに、全員がそのまま天国に行けれということであれば、この世でどんな生き方をしたか心配する必要もなく、自分が新しい有り様で続いていけることになります。

ここで少し考えてみましょう。そういう考えだと、正義の実現はどうなるでしょうか?聖書の立場に立つと、最後の審判で天の御国に迎え入れられるとされた人たちは、その御国で目から涙をことごとく拭われる、そう聖書では約束しています(黙示録21章4節、7章17節、イザヤ書25章8節)。この涙は、痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含まれます。この世で中途半端や不完全に終わってしまっていた正義が最後の審判の時に完結に至らされ完全なものにされる。こうしたことがないと、正義の実現はこの世の段階に全て任されてしまうことになります。でも、それはとても難しいことです。日々のニュースを見ても気づかされるし、私たちの身の回りにも起こることですが、大きな悪や害を被ったのに、どんなに頑張っても償いが小さすぎるということが往々にしてあります。逆に、本当はそこまで要求する必要はないのに法外な償いや謝罪を求めることもあります。人間同士が行うことは、不釣り合いなことばかりなのです。

そこで、全ての人間の全てのことを知っている創造主の神が下す判断こそ釣り合いがとれた完全なものである、最後はそこに託してそれを待たなければならない、そうパウロがローマ12章でまさにこのことを教えています。悪を憎む、しかし悪に対して悪で返さない、迫害する者のために祝福を祈る、相手を自分より優れた者として敬意を持って接する、高ぶらず身分の低い人たちと交わる、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣く、自分で復讐しないで神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる、という教えです。神の正義実現に託してそれを待つと、こういう生き方になるのです。人間が正義を掲げて逆に不幸をもたらさないための知恵がここにあります。それは、神の審判に委ねそれを待つということが土台にあります。

最後の審判とそれに続く天の御国への迎え入れということに関して、審判も新しい世もない、全ては滅んで消えるというのは、正義の実現を全て人間同士の間で解決するように任せることになります。そこでは、神の審判など土台に置くパウロの教えは馬鹿馬鹿しく思われるでしょう。なんてお人好しなんだ、と。また、全員が天国に入れるというのも、これと同じことになると思います。神の審判がないのですから、正義の実現はこの世のことだけになります。こうして見ると、天国も何もなく全ては消滅するという立場と、全員が天国に入れるという立場は深いところでは繋がっていると言えないでしょうか?

兄弟姉妹の皆さん、本日の使徒書の第一コリント15章のところでパウロは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は復活の朽ちない死なない体を着せられることについて述べた後、次のように結びます。そういうふうに新しい有り様に変えられるのだから、この世ではしっかりと信仰に立って揺らぐことがないようにしなさい。その場合、主の業に溢れるようになりなさい、と。日本語訳では「励みなさい」などとそつなく訳していますが、ギリシャ語原文では「主の業で溢れかえりなさい」です。主の業というのは、まさに先ほど申しました、悪に対して悪を返さず、敵が飢えていたら食べさせる等々の業です。それらは、神の審判に全てを委ねそれを待つということが土台にあってできるのです。そして、パウロの結びの言葉はこうです。それらの業は労苦を伴うが、主に結びついている者には無駄に終わることはない。どうしてそう言えるかと言うと、最後の審判で神の釣り合いの取れた完全な正義が実現するからです。キリスト信仰者だったら、ひとり子イエス様を贈って下さった神の正義ですから文句なしに受け入れます、と言います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

(後注)イザヤ書52章3節の神の言葉について、否定辞לאがבכסף(銀/金銭によって)にかかると考えると日本語訳のようになります。חגאלו(買い戻す)にかかると考えるとシビアな意味になります。
 イザヤ書の本日の個所52章1~6節はとても興味深いです。イスラエルの民のバビロン捕囚からの解放が人類の罪と死からの解放のプロトタイプのようになっているからです。神は将来、人間を罪と死から解放する意思を示すが、それが口先ではないとわからせるために手始めとしてイスラエルの民を捕囚から解放するというようなことです。それは、あたかも、イエス様が全身麻痺の人を前にして、最初、罪の赦しを宣言して、宗教エリートから神への冒涜だと批判された後すぐ、その人を歩けるようにしたことを想起させます。全身麻痺の人を癒せば結果が目に見えるので、イエス様には奇跡を起こす力があるとわかります。でも、あなたの罪は赦されたと言っても、目に見えた効果はないので、信じない人には口先だけにしか聞こえません。それで、罪の赦しの宣言をした後に癒しを行ったことで、イエス様の言うことは口先ではないと思い知らされます。この二つの事例の連関性を明らかにするためにイザヤ書52章4~5節の解き明かしが必要です。ここにもいろいろなことが含まれていると思います。ただ、解き明かしをそこまでやったら、説教が際限なくなってしまいます。それで今回はしないでおきました。