説教「天国がこの世を生きる指針になる」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書5章21-43節

主日礼拝説教、2021年6月27日 聖霊降臨後第五主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の本題に入ります。本日の福音書の日課の個所には二つの大きな出来事があります。一つは、長年の病気で苦しんでいた女性がイエス様の衣服に触れて治ったという奇跡。もう一つは、会堂長ヤイロの娘が息を引き取った後でイエス様が生き返らせたという奇跡です。本説教ではこれらの出来事の中にあるイエス様の二つの言葉に注目します。一つは「お前の信仰がお前を救ったのだ」、もう一つは「娘は死んではいない、眠っているのだ」です。これらの言葉はキリスト信仰の核心をつく言葉です。そのことを明らかにしていこうと思います。

2.「お前の信仰がお前を救ったのだ」

 まず一番目の奇跡です。イエス様は癒された女性に言われました。「お前の信仰がお前を救ったのだ。」一見すると、これはそんなに難しい言葉ではありません。女性はイエス様が癒す力がある方と信じてその衣服に触れたら治ってしまった。つまり、病気が治ったことが救われたということになります。宗教とか信仰というのは普通そういうものと考えられます。何かを信じて病気が治ったら、信仰が強かったからというふうに見なされます。逆に治らなかったら、信仰が弱いというふうに。それでは、イエス様もそういうことを言っているのでしょうか?同じような例はルカ17章19節にもあります。重い皮膚病を患わっていたサマリア人が癒されて、イエス様が同じ言葉をかけます。

 ところが、ここに一つわかりにくいことがあります。それは、「お前を救ったのだ」と言う時の「救った」なのですが、ギリシャ語原文を見るとそういう理解がうまくあてはまらないのです。細かいことですが、「救った」はセソーケンという現在完了形です。現在完了などと言うと中学の英語の授業みたいで嫌がられそうですが心配無用です。ギリシャ語の現在完了は英語と少し違うので英語のことは忘れていても大丈夫です。ギリシャ語の現在完了は、「過去のある時点から現在まで~の状態にある」と言う意味です。それで、ここの「救った」の正確な意味はこうです。「過去のある時点から現在まで救われた状態にある。」「過去のある時点」とはイエス様を信じた時点です。そういうわけで、「お前の信仰がお前を救った」と言うのは、「お前が私を信じた時点から現在までお前は救われた状態にあったのだ」ということになります。

 これは少し変な感じがします。本日の個所の女性も皮膚病のサマリア人もイエス様を信じて、それでひょいと癒しが与えられたと思ったら、そうではないのです。信じた時つまりまだ癒しを受けていないで信じた時から始まって、癒しを受けた後の現在に至るまでずっと救われた状態にあると言うのです。信じてひょいと癒しが与えられるということを言いたければ、現在完了ではなくてアオリストというギリシャ語特有の時制がピッタリだと思います。その場合、エソーセンと言います。それなのに現在完了形セソーケンを使って、まだ癒しを受けていないで信じた時から救われた状態にあると言うのです。これは、一体どういうことでしょうか?

 その答えが福音書の別の個所にあります。マルコ10章52節を見ると、盲目の人がイエス様に目が見えるようにして下さいと懇願する。それに対してイエス様は同じ言葉「行け、お前の信仰がお前を救った」を言います。それを言った後で目が見えるようになりました。これは変です。病気の女性と皮膚病のサマリア人は癒された後にこの言葉を言われました。しかし、ここでは癒しが起きる前に「お前は、私を信じた時から今のこの時まで救われた状態にあったのだ」と言うのです。まだ目が見える前に救われた状態にあったというのです。つまり、救いというのは癒しに尽きてしまうのではない、救いは癒しを含むかもしれないが、それよりももっと大きなものであることを言っているのです。

ここで一つ驚くべきことがあります。それは、マタイ9章に本日のマルコの日課と同じ出来事を扱った個所があります。マタイの記述はマルコと違っていて、イエス様はこの言葉「お前の信仰がお前を救ったのだ」を女性が癒される前に語ります。この言葉を述べた後で女性は癒されます。これはマルコ10章の盲目の人の場合と同じです。「お前は、私を信じた時から今のこの時まで救われた状態にあったのだ。」それで、救いは癒しに尽きてしまうものではない、癒しを含むかもしれないが、それよりももっと大きなものであることを言っているのです。それなのでマルコ5章の日本語訳は癒し=救いという誤解を招くものです。先ほど申しましたように、もし、癒し=救いという理解が正しければ、ギリシャ語の時制をそれに合うものにしなければなりません。しかし、マルコはそうしませんでした。女性はまだ癒しを受けていないで信じた時に救われた状態に入って、その後で癒しを受け、癒された後も同じ救われた状態にあると。マタイの場合は、女性はまだ癒しを受けていないで信じた時に救われた状態に入ったと。いずれの場合も、イエス様の言葉は癒しが与えられていなくとも彼を信じた段階で救われた状態に入るということを意味しています。

 そうなると、病気が治らないから信仰が弱い、治ったから信仰が強いということは言えなくなります。普通の宗教や信仰の尺度があてはまらなくなります。病気が治っても治らなくても救われているというのは、どんな救いなのでしょうか?(後注)

3.「神の国」とはどんな国?

キリスト信仰で「癒し」と「救い」の関係を考える時、イエス様の教えの中心にある「神の国」がわからないとその関係は理解できません。「神の国」はマタイ福音書では「天の国」つまり天国と呼ばれます。マタイは「神」という言葉が畏れ多いので「天」に置き換えます。それでは「神の国」、天国とはどんな国か?それがわかれば「癒し」と「救い」の関係が理解できるのならば、それはどんな関係なのか?それを以下に見てみましょう。

「神の国」はどんな国かについては2週間前の説教でもお教えしました。それを少し復習します。

 神の国とはまず、「ヘブライ人への手紙」12章にあるように、今のこの世が終わりを告げて今ある全てのものが揺り動かされて取り除かれる時、唯一揺り動かされず、取り除かれないものとして現れてくる国です(26-29節)。この世が終わるというのは、景気の良い話ではありませんが、聖書が言わんとしていることは、この世が終わりを告げるというのは同時に次の新しい世が始まるということです。イザヤ書の終わりの方で、神が今ある天と地にとってかわる新しい天と地を創造するという預言があります(65章17節、66章22節)。そのような新しい天と地の創造の時というのは最後の審判の時であり死者の復活が起きる時でもあるということが黙示録の21章と22章の中で預言されています。その時点に既に死んでいて眠っていた者たちは起こされて、その時点で生きている者たちと一緒に最後の審判を受け、万物の創造主である神の目に相応しいとされた者は「神の国」に迎え入れられるというのです。

 「神の国」の中はどうなっているのかというと、黙示録21章に言われるように、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」ところで、そこに迎え入れた人たちの目から神が全ての涙を拭い取って下さるところです(4節)。痛み苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含みます。さらに使徒パウロによれば、そこに迎え入れられる人たちは今のこの世で着ている朽ち果てる肉の体に替わって朽ち果てない神の栄光を現わす復活の体を着せられます(第一コリント15章42-55節)。イエス様は、「神の国」に迎え入れられる者たちのことを「天使のような者」と呼んでいます(マルコ12章25節)。

 神の国はまた、黙示録19章にあるように、結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。旧い世での労苦が全て労われるところです。イエス様も神の国を結婚式の祝宴にたとえています(マタイ22章1-14節)。

 以上をまとめると、「神の国」は今の世界が一変した後の新しい天と地の下に現れる国で、そこに迎えられる者は朽ち果てない神の栄光に輝く復活の体を着せられ、死も病気もなく皆健康であるところです。旧い世での労苦を全て労われ、そこで被った不正や不正義も最後の審判で全て神の手で最終的に清算されてすっきりするところです。その意味で道徳や倫理も人間がこねくり回したものではなくなって万物の創造主の意思が貫かれるところです。

 不正や不正義の清算についてもう少し言えば、イエス様はよく、高いものは低くされ低いものは高くされる、先のものは後にされ後のものは先にされる、と教えました(マタイ19章30節、23章12節など多数)。今この世で神の意思に沿わない仕方で高いところにいる者や一番前にいる者は、最終的には全く逆の立場に置かれる。今そうした者のために低くされ一番後にされている者は、これも最終的には全く逆の立場に置かれる、ということです。イエス様の有名な「山上の説教」のはじめに「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5章4節)という教えがあります。これも、ギリシャ語原文に即せば、彼らは将来間違いなく慰められることになるという約束の言葉です。この世で起きた不正や不正義は、うまく行けばこの世の段階で補償や救済がなされます。それは目指さなければならないことですが、しかし、いつも実現するとは限りません。それに、なされた補償や救済も正義の尺度にぴったり当てはまるものかどうかということも難しい問題です。それで、神の意思が隅から隅まで貫徹されている神の国は、そうした無数の齟齬が、それをもたらした不正や不正義と一緒に一掃されるところと言ってよいでしょう。

 さらに「神の国」は、イエス様が語り教えたということに留まりません。イエス様が地上にいた時、「神の国」はイエス様とくっつくようにして一緒にあったのです。そのことは、イエス様が起こした無数の奇跡の業から明らかです。イエス様が一声かければ病は治り、悪霊は出て行き、息を引き取った人が生き返り、大勢の人たちは飢えを免れ、自然の猛威は静まりました。果ては、本日の日課のように一声かけなくても、イエス様の服に触っただけで病気が治りました。イエス様から奇跡の業をしてもらった人たちというのは、神の国の事物の有り様が身に降りかかったと言うことができます。病気などないという事物の有り様、飢えなどないという事物の有り様、自然の猛威の危険などないという事物の有り様、それらが身に降りかかってそうなったのです。そのようなことが起きたのは、まさに「神の国」がイエス様と抱き合わせにあったからです。その意味で奇跡を受けた人たちというのは、遠い将来見える形で現れる「神の国」を垣間見たとか、味わったことになります。「神の国」では奇跡でもなんでもない当たり前のことがこの世で起きて奇跡になったのです。

 しかしながら、イエス様が「神の国」に関して人間に行ったことで一番大切なことは、それについて教えたり、奇跡の業を通して味あわせたということではありません。もちろんそれらも大事なことですが、一番肝心なことは、人間が「神の国」に迎え入れられないように邪魔していたものを取り除いて、迎え入れらえれるように道を切り開いて下さったということです。それが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。人間と神の結びつきを断ち切っていた原因であった人間の罪、神の意思に背こうとする性向を、イエス様が全部自分で引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げてそこで人間に代わって神罰を受けられたのでした。さらに死から三日後に神の想像を絶する力で復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示されて、そこに至る道を人間に切り開いて下さったのでした。

そこで人間がこれらのことは本当に起こったとわかってそれでイエス様を本当の救い主と信じて洗礼を受けると、このイエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ることができます。それでその人は罪を償ってもらったことになります。罪を償ってもらったということは罪の支配から解放されたことになります。人間と神との結びつきを断ち切って人間が神の国に迎え入れられないようにしようとする力から解放されたのです。なぜなら、イエス様の果たした罪の償いを受け取ると神に買い取られた、買い戻されたことになるからです。買取価格は神聖な神のひとり子が十字架で流した血です。金銀銅とは比べられない高価な値をつけられたのです。そうであれば、どうして、これから神の意思に背くような生き方が出来るでしょうか?どうして、これから十字架のイエス様を見て自分の罪の赦しがあそこにあるということを忘れたり曇らせたりすることが出来るでしょうか?どうして、あの日、主の墓が空であったことが全てに勝る真の希望にならないということがあるでしょうか?

4.天国がこの世を生きる指針となる

以上から、イエス様の言葉「お前の信仰がお前を救ったのだ」の意味はこうなります。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けて罪の赦しの恵みの中で生きるという信仰に入ったのならば、神の国に至る道に置かれてその道を進むことになる、そして復活の日にそこに迎え入れられることになるということです。。そういうわけで、神の国に至る道に置かれてそこを目指して進むことが救われた状態なのです。病気の人も健康な人も、病気が治った人も治らなかった人もみんな、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の赦しの中で生きているのであればみんな同じ救われた状態にいます。そして神の国に迎え入れられた時、病気も死もない神の栄光に輝く復活の体を着ているのです。

そう言うと、じゃ、この世で病気は治らなくてもいいと言っているのか?とと言われてしまうかもしれません。そんなことは言っていません。病気は放置してはいけません。治すように努めなければなりません。なぜかと言うと、そうすることは神の国を目指している決意の表れだからです。病気を治そうとすることは病気などない神の国を遥かに見据えてそこに向かうことです。治れば、神の国の有り様に少し与った、それを味わえたということで、本当の神の国はもっと素晴らしいところだろうなあ、と予感すればよいのです。もし不運にも治らなかった時は、前味は味わえなかったが、その分そこに早く迎え入れられたいと希求を強めればよいのです。ひょっとしたら、治った人は前味で満足してしまって希求しなくなる危険があるかもしれません。

同じことが正義の問題にもあてはまります。神の国で神の完璧な正義が実現し、旧い世の全ての不正・不正義は一掃される。そう言うと、じゃ、この世では正義の実現はしなくていいのか?と言われてしまうかもしれません。しかし、そうではありません。この世で十戒に示された神の意思に沿うように生きることは神の国を目指している決意の表れになります。不正や不正義を正そうとすることで、それらがない神の国を遥かに見据えてそこに向かうことになります。不正・不正義が正せれば、神の国の有り様に少し与った、前味を味わえた、本当の神の国はもっと素晴らしいところだろうなあ、と予感すればよいのです。もし不運にも正せなかった時は、前味は味わえなかったが、その分そこに早く迎え入れられたいと希求を強めればよいのです。それで正せた人はひょっとしたら前味で満足してしまって希求しなくなる危険があるかもしれません。

以上申し上げたことは、神の国、天国を実在のものとしてそれをこの世を生きる基準にするということです。こういう考え方は、ひょっとしたら現代の考え方にあわないのかもしれません。あるキリスト教会の教団の年次総会で、我々はこの地上に神の国を実現するだったか建設するだったか忘れましたが、そんなことを方針にしようとしていました。人間が神の国を実現する?それは既に神のもとにあり、復活の日に我々の目の前に現れるものではないか?その日まではそれを目指してこの世を生きるのではないか?などと思ったものです。その教団の中で働く牧師の中には、復活などないと言う人もいれば、天国などないとジョン・レノンみたいなことを言う人もいるとのことでした。恐らく、そういう人たちにとって、神の国は人間の心の中にあるもので、人間の外側には実在しない心理現象のようなものではないかと思われます。その場合、この世を去ることになったらどうなるのでしょうか?死んでしまったら心理現象も一緒に消えてしまいます。それで自分たちで作り上げるということになったのでしょうか?

4.「娘は死んではいない。眠っているのだ。」

最後にイエス様が会堂長ヤイロの娘を生き返らせた奇跡を行った時に述べた言葉、「娘は死んでいない。眠っているのだ」についてひと言です。本日の注目すべき言葉の二つ目でしたが、時間も厳しくなったので駆け足で述べます。この言葉は、この世から去る死というのは実は復活の日までのひと眠りにすぎないということを具体的に示すものです。このことは、同じ言葉が述べられたラザロの生き返らせの時にもっとはっきりします。

復活というのは、肉の体が土葬にしろ火葬にしろ消滅した後で起きるものです。ヤイロの娘の場合もラザロの場合もまだ肉体があったので(ラザロはもうギリギリのところだったでしょう)蘇生です。本当の意味での復活ではありません。本当の復活は、肉体が消滅した後に残った人格(おそらく魂)に復活の体が着せられて永久化するということです。イエス様は十字架と復活の出来事の前に生き返らせの奇跡を行った際に「眠っている」と言って起こしました。それは、彼が将来、死んだ者を眠っているがごとく目覚めさせる力があることを人間にわからせるために行ったのです。そして、十字架と復活の出来事の後、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の赦しの中で生きる者は、そのようなイエス様の力を及ぼされることが確実になったのです。

最後の最後に、イエス様が娘を生き返らせた時に述べた言葉、タリタ・クムですが、これはおまじないの言葉に思われるかもしれませんが、そうではありません。アラム語という当時イスラエルの地域で話されていた言葉です。テゥリーター クウミーと発音します。新約聖書は古代のギリシャ語で書かれていますが、イエス様や弟子たちは主にアラム語で話していました。それが記録されてギリシャ語に翻訳されたのでした。新約聖書の中にはこのようにアラム語の記述をそのまま残して、それはこういう意味ですと解説を付けるところが何か所かあります。どうして残したかと言うと、主の言葉がその場に居合わせた人々に強烈な印象を残したのでそれを後世の人に生々しく伝えたかったのです。そのような個所は、まさにイエス様の肉声を耳にすることが出来る個所です。この他の個所を皆さん、どこにあるか言い当てられますか?夏休みの宿題にしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

(後注)「お前の信仰がお前を救ったのだ」はこれらの他に、ルカ7章50節でも言われます。イエス様に罪を赦された女性に対してです。ここでは癒しは関係ありません。救いは癒しに尽きてしまわないことの一つの例です。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
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特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

 あなたが贈って下さったイエス様を通して、あなたの御心を知ることができるようになりました。どうか私たちが、聖書の御言葉を通して一層あなたの御心を知ることができ、天の御国への道を日々、御心に従って歩めるように力を与えて下さい。

  あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

説教「我らの不幸と悩みの時に神は共に歩み給う - 日本に住むキリスト信仰者が考えておくべきこと」吉村博明 宣教師、ヨブ記38章1~11節、マルコによる福音書4章35~41節

2021年6月20日(日)聖霊降臨後第四主日 主日礼拝説教

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の旧約の日課はヨブ記からです。皆さんご存知のように、ヨブ記にはとても重い、深いテーマがあります。それは、神の意思に沿う生き方、非の打ちどころがない正しい生き方をしても、もし不幸や苦難に見舞われたら、そんな生き方に意味はないのではないか?という問いです。ヨブは神からも正しい良い人間だとお墨付きだったのに悲惨な運命に陥ります。財産や肉親や健康さえも失い、最後に残った妻からも、この期に及んでまだ神を信じるなんて馬鹿げている、神を呪って死んでしまいなさい、と言われてしまいます。しかし、それでもヨブは神に対して反抗的になりませんでした。その後で3人の友人がヨブを見舞いに来ます。ヨブの変わり果てた姿を見てみな嘆き悲しみます。そこから4人の長い対話が始まります。

このようなとても大きなテーマの書物をあらすじだけ述べるというのは、大事なことを沢山落とす危険があります。しかし、それを承知で話を進めます。ヨブと3人の友人の関心事は大体同じです。友人たちは、善いこと正しいことをしたら神から良い報いがある、悪いことをしたら悪い報いがある、神は絶対に正しくその判断に間違いがない方だからヨブがこんな酷い目に遭うのはやはり何か落ち度があったからではないか、というふうになります。それに対してヨブは、そんなこと言われても自分には身に覚えがない、神よ、なぜなのですか?と問うしかない。このような疑問が起きるということは、ヨブも友人たちと同じ考え方に立っていることを示しています。善人には良い報いがあり悪人には悪い報いがあるというのが神の絶対的正しさだという考え方です。だから、一体私が何をしたというのですか?という疑問が起きるのです。

ヨブと友人たちの対話は延々と37章まで続きます。それが本日の38章で急展開を遂げます。ずっと対話を聞いておられた神が突風の中からヨブの疑問に答えます。それは人間の理解力を超える答えでした。まず神はヨブのことを、無知蒙昧な言葉をもって「神の経綸」を曇らせる者と言います。「経綸」とは分かりそうで分かりにくい言葉です。ヘブライ語のエーツァーという言葉ですが、辞書を引くと「計画」とか「スキーム」とあります。つまり、神が考案したり計画したり構想したものと言ってよいでしょう。それを曇らせる無知蒙昧な言葉とは何か?それは、ヨブをはじめ3人の友人たちの考え方です。神の意思に沿う生き方は、それで繁栄や安逸を得られれば意味がある、しかし、そのように生きても不幸や苦難に見舞われたら意味がないという考えです。そのような考えは恐らく全ての人間にあるでしょう。そのような考えを持ったら神の考案・計画・構想を曇らせるというのです。ここまで来れば神の狙いは明らかです。神はそのような考え方を打ち壊して人間を新しい地点に導こうとしているのです。どんな地点か?それは、神の意思に沿う生き方に意味があるかどうかの判断材料として、繁栄や安逸をもたらすかどうか、不幸や困難を回避できるかどうかは全く無用であるという地点です。

それではヨブはどのようにしてそのような地点に導かれたでしょうか?神は畳みかけるようにヨブに質問します。私が大地の基を据えた時、お前はどこにいたのか?お前に見極める力があるというのなら、述べてみよ。もちろん天地創造の時にヨブはまだ存在していません。その時、存在していたのは父、御子、み霊の三位一体の神だけです。創造主の神が森羅万象を造り上げていきます。5節で、大地の基を据えた神は測量もしたと言います。つまり、地球を直径12,742キロメートルの星に造り上げ、直径1,392,700キロメートルの太陽から1億4,960万キロメートルの距離になるようにしたということです。全ての星も神の創造によるものですが、ここでは地球を中心に語っていきます(31~32節で天体のことも触れています)。8節からは海について、海と陸の境界、海から水蒸気が蒸発して出来る雲についても言われています。つまり、水は標準大気圧の時100℃で沸騰し、0℃で凍るという法則が関係してきます。自然の中にはそういう法則が無数にあります。光は1秒間に約30万キロの速さで進むとか、地球上のものは地球の引力で引っ張られ、さらに地球の回転によって生じる力もかかっているというふうに造られている。本日の日課に続く12節からあとを見ても、自然の中にある法則性は神の考案・計画・構想ぬきにはありえないということを思い知らせる内容です。

森羅万象は神の創造の業によるものであり、それだから神の意思が作用していて、それは自然の法則の中に見出すことが出来る、これは聖書的な見方です。人間は自然の法則を変えることは出来ません。創造主でないからそれは無理です。自然の法則に逆らって生きることはできません。自分は精神力があるからなどと言ってマイナス30℃の中に防寒着なしで出かけたら間違いなく凍死します。無神論の人でもわかることです。聖書の観点に立つ人ならば、自然の法則に創造主の意思が映し出されていると考えます。

そう言うと、ひとつ大きな問題が出てきます。それは、大地震とか自然災害も神の意思なのか、ということです。東日本大震災の時、評論家か作家か忘れましたが、ある著名な方が、こんな残酷なことを起こす神など自分はもう信じない、というようなことをおっしゃっていました。自然法則に神の意思が映し出されていると言うなら、地震も自然法則に従って起きる以上は創造主の神が引き起こしたということになります。

しかし、ここで考えを少し掘り下げてみます。地球の表面には厚さ何十キロのプレートと呼ばれる岩盤層があります。その下のマントルという層が動いているのでプレートも移動します。私たち日本人になじみ深いことですが、二つのプレートがぶつかり合うところで、一つプレートが別のプレートの下に沈み込むような移動をすると、引きずり込まれた上部の方が反発して地震が起きます。日本列島の太平洋側はそういう二つのプレートがせめぎあうところなので一定期間が経つと必ず大型の地震が起きます。聖書の観点に立てば、創造主の神が日本列島とその周辺をそういうふうに造られたということになります。その意味では神が地震を引き起こすように造ったと言うことが出来、神を災害の責任者にする人が出てきます。

しかしながら、私たちがそういう、必ず大地震に襲われるところと知っていてここに住んでいることも忘れてはなりません。大地震はどうしてもいやだというのであれば、どこか別の国に移住するしかない位に必ず襲われるところに何を好き好んでか住んでいるのです。神は、ユーラシア大陸の東端と太平洋の西端の間にあるこの列島をせめぎ合うプレートの上に置かれたのです。神にプレートや断層をを動かさないでくれなどと要求したり祈る人がいないということは、神のこの創造を動かしがたいものとして受け入れていることになります。仮にそう祈っても、自然の法則を変えるようなことはよほどのことがない限り起こらないでしょう。もし、地震を起こすエネルギーが十分過ぎるほど貯まって自然の法則からすればいつ起きてもおかしくないという段階に入ったのになかなか起きなければ、それは神が法則に手を加えて起こさないようにしていることになります。しかし、それは奇跡と同じことなのでそういうことは普通起きないということを前提にして考えたり行動しなければなりません。

それなので、この神の創造を受け入れてここに住んでいる以上は、それに備えて暮らすしかありません。被害を最小限にするために何をしなければならないかを考えてそれをする。どんな発電所を建設するのが被害を甚大にしないですむかを考えてそれをする。そして、大地震が起きた場合はどのように行動するかを考えてそれをする。生じた被害損害に対してどう復旧復興するかを考えてそれをする。さらに、被災して悲しみにくれる人たちをどう支えるかを考えてそれをする。こうしたことは当たり前のことなので誰でもわかることです。しかし、現実には目先の利益にとらわれてこうした備えを怠ったり後回しにすることも起こります。そうすると後で目先の利益を吹き飛ばすような高いツケを払わなければならなくなります。

話が少し逸れましたが、神は創造の業をヨブに突き付けることで彼の考え方を変えようとします。果たしてこの神の論法はヨブの疑問に答えているでしょうか?神の意思に沿うような生き方をしても不幸や災難に見舞われたらその生き方には意味はないのではないかという疑問です。その答えになっているでしょうか?

昔、私が勉強したフィンランドの大学の神学部で聖書の知恵文学を扱う授業がありました。そこでヨブ記も取り上げられました。もう20年以上も前の話で講義録も手元にないので記憶は定かではないのですが、神が創造の業を出すことがヨブの疑問の答えになっているかどうか研究者の間で論争があるとのことでした。答えになっていると言う論者の中に、記憶が間違っていたらすみません、ラードゥ、ゲアハルドゥ・フォン・ラードゥという名前だったかドイツの旧約神学者がいて、彼の論点は以下のようなものだったと思います。ヨブにすれば、正しく生きてもこういう結果になるのであれば、神というのは支離滅裂で世界はカオスになってしまう。しかし、神は創造の業を見せつけることで、全ては神の計画、考案、構想に基づいて造られ、それで動いて生きているものは皆それに従ってそうしている。だからカオスでも支離滅裂でもないということを示す。それに対してヨブは、おっしゃる通りです、あなたのことを何もわからず勝手なことを言ってすみませんでした、とひれ伏す。つまり彼にすれば答えになったのです。

当時これを聞いた私は、神の創造はとてもスケールの大きなことで人間はなんとちっぽけな存在だろう、神の壮大な創造を思えば不幸や苦難に陥ってもそれはちっぽけなことでしかすぎないと気づかせて、不幸や苦難に埋没してしまわない視点が得られるということか。それはそれで意味のあることだと思いました。ところがちょうどその講座の後で、特別支援の子供を授かることになっていろいろ考えさせられました。神の壮大な創造を思えば不幸や苦難はちっぽけなことにすぎなくなる、それは確かにそうなのでありがたい視点ではある。しかし、それだけでは神は夜空の満点の星と同じではないか?創造の業をもって人間を感動させたり驚嘆させて、人間とそれについて回ることをちっぽけなものに思い知らせてくれるが、それだけでは神はあまりにも遠すぎます。ところが聖書は、神がそういう壮大な創造を行う、人間からかけ離れた方であると同時に身近な方でもあることも伝えているのではなかったのか?

 

2.本日の福音書の日課は神が身近におられる方であることを明らかにする個所のひとつです。出来事は、イエス様と弟子たちが乗った舟が嵐にあって沈みそうになったところをイエス様が嵐を静める奇跡を行い、皆無事に目的地に着いたという話です。舟が沈みそうになってパニックに陥っていた弟子たちにイエス様は言います。「なぜ恐れたのか?お前たちには信仰がないのか?」イエス様が言われる「信仰」とは、イエス様が一緒にいれば、たとえ彼が居眠りしていても何も恐れる必要はないとわかることです。弟子たちはわからなかったので恐れました。どうしたら、そんなことがわかるでしょうか?

この出来事には旧約聖書の土台があります。そこから見ていく必要があります。土台とは詩篇107篇です。その出だしはこうです。「主を賛美せよ、主は善い方、私たちを永遠まで忠実に守って下さる、と。そう賛美しなさい、贖われた者たちよ、敵の手から救い出された者たちよ、主は贖われた者たちを東西南北から集められる。」

「贖う」というのは難しい言葉なので、「神が買い戻す、買い取る」にしましょうと先々週の説教で申し上げました。神が東西南北から、神に買い戻された者たちを集めるというのは、最後の審判の日、復活の日に起きることです。その日は今ある天と地に替わって新しく天と地が創造され、そこに唯一「神の国」が現われ、神に買い戻された者たちはそこに迎え入れられます。その日、迎え入れられる者たちは前にあった世(私たちから見たら今ある世)で神にどう助けられ守られ導かれたか振り返ってみなさいということで、三つの例があります。一つは、人生という旅路で目的地に到達できなくなりそうになり飢えて死にそうになったが、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから救って下さった」(6節)。二つ目の例は、神に背を向けていた時があって、それが苦難や不幸を招いてしまったが、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らの苦しみに救いを与えられた」(13節、19節)。

最後の例は、船で大海に乗り出した者たちが嵐に遭い波と風のために沈没しかけたが、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから導き出された」(28節)。このことがイエス様と弟子たちの舟の出来事で起こったのです。もちろん、大海とガリラヤ湖とでは舞台設定が違いますが、イエス様は奇跡を起こすことで詩篇の言葉は単なる書き記された文字に留まらず、本当に起こることであることを示したのです。しかしもっと大事なことは、詩篇のこの御言葉はガリラヤ湖の出来事で終了したのではないということです。先ほども申しましたように、詩篇の中で言われる人たちは神に買い戻された人たちです。その人たちが、この世の人生を船で航海するように進んで行く。そうすると必ず嵐に見舞われる。しかし、主に助けを求める者たちを主は必ず助け導いて下さる。「望みの港」というのは嵐を乗り越えたことを意味します。人生の中で多くの嵐を乗り越えてその度に港に到着してまた出発することが繰り返されます。しかし、詩篇のこの御言葉の奥義はこうです。人生そのものを終えて、復活の日に神の国に迎え入れられるという最終的な港が真の「望みの港」であるということです。

イエス様は嵐を静める奇跡を行うことで詩篇の御言葉が文字に留まらず本当に起こることを示しました。しかしそれはそれは詩篇の言葉がガリラヤ湖の出来事で完結したことを意味しませんでした。詩篇のこの御言葉は「神に買い戻された者たち」がこの世の人生を神に守られて永遠の命の待つ神の国に到着することで完結することをイエス様は奇跡の業で示したのです。なぜなら、イエス様の奇跡の業の背景にある、この詩篇の御言葉はまさに「神に買い戻された者たち」について言っているからです。

それでは「神に買い戻された者」とは誰のことでしょうか?それは、イエス様がゴルゴタの十字架で死なれたのは神のひとり子が人間の罪を人間に代わって償うための犠牲であったとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者のことです。信じて洗礼を受けるとどうして神に買い戻された者、買い取られた者になるのかと言うと、そうすることでイエス様の果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになって、その人は罪を償われた者になったから基本的には神から罪を赦された者として扱われるようになります。それでその人は神と結びつきを持てるようになったので、罪の持つ、人間と神との結びつきを失わせようとする力から解放されたのです。その人は罪の人質状態からイエス様の流された血を代価として神に買い戻されたのです。本当に高い値をつけてもらいました。それで神の子とされたのです。

ガリラヤ湖の出来事は、まだ十字架の出来事が起きる前でした。本当の意味で「神に買い戻された者」になる前のことでした。それなので、「望みの港」に着けるかどうかということは、神に買い戻されたかどうかはっきりしない段階ではどうなるかわかりません。しかし、十字架と復活の出来事の後は事情が一変します。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければもう「神に買い戻された者」なのです。嵐が来ても、「望みの港」に着ける者なのです。

今自分の人生を海を進む航海にたとえてみて、ガリラヤ湖の時みたいにイエス様が近くにいないから嵐が来たら心配だ、目の前で奇跡を起こしてくれる方がいた方が安心なのにと思われる方がいらっしゃるかもしれません。そういう方は自分が何を恵まれているかを今一度思い起こす必要があります。人間はイエス様を救い主と信じる信仰も洗礼もない状態だと、罪の償いもなく神への買い戻しもないのでこの世の人生を神との結びつきなしで生きなければなりません。そのままこの世を去ることになったら結びつきを得るチャンスはこの先どうなるでしょうか?神は、私たちの内に神の意思に背こうとする罪があるにもかかわらず、ひとり子を犠牲にしてまで私たちと結びつきを回復しようとされたのです。先ほど、プレートにひずみとエネルギーがたまって自然の法則に従えば大地震が起きるはずなのに起きなければ、それは神が法則を曲げて押しとどめていることになると申しました。しかし、それは実際には起こらないことで、もし起きたら奇跡になると申しました。罪の償いや神のもとへの買い戻しというのは、そのような奇跡が起きたことです。自分は罪を持っているにもかかわらず、神のひとり子の犠牲のおかげで神との結びつきが持ててこの世とこの次に到来する世の両方を生きられるようになるというのは、これこそ神が自然の法則を曲げるようなことをしたことで文字通り奇跡です。「神に買い戻された者」というのはまさに奇跡の人です。
そのように奇跡的に神に買い戻された人にも不幸や苦難が起こるということを聖書は当たり前のように言っています。その一つに詩篇23篇4節があります。以前の説教でもお教えしましたが、今一度見てみます。「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、災いを恐れじ、汝 我とともにませばなり、汝の鞭、汝の杖、我を慰む。」

イエス様を救い主と信じて、彼を羊飼いとして従って行く者も「死の陰の谷」を進む時があるとはっきり言っています。しかし、イエス様が一緒に進んで下さるとも言っています。聖書の御言葉を繙く時、また聖餐のパンとぶどう酒を頂く時、イエス様は私たちには見えないながらも共におられるます。杖と鞭が慰めるというのはどういうことか驚かれるかもしれません。羊が暗い道を行く時、道を外したら羊飼いが杖か鞭でそっちじゃないと正します。叩かれたら痛いですが、羊飼いが傍にいてちゃんと導いてくれることがわかってホッとする瞬間です。

この御言葉から明らかなように「神に買い戻された者」にとって不幸や苦難とは神の意思に沿う生き方を無意味にするものではありません。そうではなくて神と一緒に通り抜けるためのプロセスになるのです。それなので、神に買い戻された者にとっては、不幸や苦難が起きたら神の意思に沿う生き方は意味がなくなるのではないか、という疑問は無用な疑問なのです。

最後に、ヨブが神の創造の業を見せつけられてヘリ下った時、こういう神に買い戻された者の見方はあったのかどうかということについて一言述べておこうと思います。

まだイエス様の十字架と復活が起きる前のことなので、それは難しいのではないかと思われる反面、こういうことがあります。それは、ヨブ記19章25節でヨブが次のように言っていることです。

「私は、私を買い戻される方が生きておられると知っている。」
新共同訳では「買い戻される」は「贖う」ですが、ヘブライ語の動詞ガーアルは「買い戻す」、「買い取る」という意味です。ヨブは三位一体の御子の存在を信じたのでしょうか?少なくとも、神の働きには罪びとを買い戻す働きがあることを信じていたのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたが贈られ、十字架の死と死からの復活によって私たちを罪と死の支配から解放して下さったひとり子イエス様を救い主と信じます。そのような私たちをどうか、あなたの子として受け入れ、私たちが試練や苦難に立ち向かう時、それらを乗り越えられるよう、いつも私たちと一緒にいて下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

説教「神の御言葉という驚異の種」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書 4章26-34節

主日礼拝説教 2021年6月13日 聖霊降臨後第三主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課の箇所でイエス様は、「神の国」とはどういう国か教える際に種の成長に結びつけて教えています。二つの教えがあります。最初の教えでは次のように言います。「神の国とは、人が種を地に撒いて、それから夜は寝て昼は起きてを繰り返していくと何が起きてくるかということに似ている。種は育っていくがそれがどう伸びていくか、その人は知らない。しかし、種が撒かれた地が自ずから種を成長させ、初めは茎、次に穂を成長させ、最後に穂の中に実を結ばせる。実がなると、その人は鎌を送る。収穫の時が来たからである。」

どうです、皆さん、わかりますか?神の国とは、撒かれた種がどう伸びていくか詳細はわからないがとにかく育っていく、そういうことに似ていると。なんだか、わかったようで、でも、わからないというのが正直な感想ではないでしょうか?種が自然に育っていくというのは、私など、小学校の夏休みの課題で朝顔の観察をしたことを思い出します。絵日記をつけて、今日は芽が出ました。今日は茎、茎が伸びて葉っぱも出るようになってを何日か繰り返し、今日は花のつぼみ、そして今日は開花と言う具合に。それこそ夜は寝て日中は起きていましたから、常時つきっきりで見ていたわけではありません。それで詳細はわかりません。イエス様の教えと同じことですが、今それを思い出しても朝顔の観察から「神の国」などなかなか想像できません。しかし、教えの終わりで言われていること、鎌を送る、収穫の時が来たということを考えると、この教えは見事に「神の国」の教えになります。朝顔の成長を思い出しただけではわかりません。後でこのことを見ていきましょう。

もう一つ「神の国」についての教えは、「神の国」を「からし種」にたとえる教えです。イエス様のたとえの教えの中でも有名なものの一つです。蒔かれる時は地上のどんな種よりも小さいが、成長するとどんな野菜植物よりも大きくなる、これが神の国を連想させるというのです。ここで言われている「からし種」とは、日本語でクロガラシ、ラテン語の学名でブラッシカ・ニグラということで、その種はほんの1ミリ位で、成長すると大きな葉っぱを伴って2~3メートル位になるそうです。

イエス様のたとえの中では、大きな枝を出してその葉の陰の下に空の鳥が巣を作れるくらいになると言われています。クロガラシは、大きな葉っぱは出てきますが、大きな枝というのはどうでしょうか?少し誇張がすぎて的が外れているのではないでしょうか?

実は、イエス様がそう言われた背景には先ほど朗読して頂いたエゼキエル書17章があります。イエス様はそれをたとえに結びつけているのです。

「わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる」(22ー23節)。

確かにエゼキエル書には、あらゆる鳥が来て宿れるような枝が沢山あることが言われていて、イエス様のからし種の教えと合致します。しかし、それなら最初から「からし種」なんか出さず「柔らかい若枝」を用いてたとえを言えばスムーズに行ったのでは?「からし種」に起こりそうもないことを言わないで済んだのではないでしょうか?イエス様は一体何を考えていたのでしょうか?

以下、この二つの教えについて本日は見ていこうと思います。

2.「神の国」とはどんな国?

本日のイエス様の教えを理解するために「神の国」について復習する必要があります。そもそも今日の個所でイエス様はまさに「神の国」について教えようとして「成長する種」や「からし種」を引き合いに出したからです。

 神の国とはまず、「ヘブライ人への手紙」12章にあるように、今のこの世が終わりを告げて今ある全てのものが揺り動かされて取り除かれる時、唯一揺り動かされず、取り除かれないものとして現れてくる国です(26ー29節)。この世が終わりを告げるというのは、あまり明るい話に聞こえません。しかし、聖書が言わんとしていることは、この世が終わりを告げるというのは同時に次の新しい世が始まるということです。イザヤ書の終わりの方で、神が今ある天と地にとってかわる新しい天と地を創造するという預言があります(65章17節、66章22節)。そのような新しい天と地の創造の時というのは同時に、最後の審判の時であり死者の復活が起きる時でもある、ということが黙示録の21章と22章の中で預言されています。その時既に死んでいて眠っていた者たちは起こされて、その時生きている者たちと一緒に神の審判を受け、万物の創造主である神の目に相応しい者は「神の国」に迎え入れられるというのです。

そこで目を「神の国」の内部に転じると、それは黙示録21章に言われるように「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」ところで、そこに迎え入れた人たちの目から神が全ての涙を拭い取って下さるところです(4節)。痛み苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含みます。さらに使徒パウロによれば、そこに迎え入れられる人たちは今の朽ち果てる肉の体に替わって朽ちない神の栄光を現わす復活の体を着せられます(第一コリント15章42ー55節)。本日の使徒書の日課・第二コリントの個所でもパウロは、キリスト信仰者というのは今はこの世で肉の体を纏っていて復活の体は将来のことでまだ目にしていないが、それを着せられることに希望をおいているので今の段階から神の意思に沿うように生きていくのだ、ということを言っています(5章6~9節)。復活の体を着せられて「神の国」に迎え入れられる者たちのことをイエス様は「天使のような者」と呼んでいます(マルコ12章25節)。

神の国はまた、黙示録19章にあるように、結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。イエス様も神の国を結婚式の祝宴にたとえています(マタイ22章1ー14節)。

 以上を総合して見ると、「神の国」とは今の世界が一変した後の新しい天と地の下に現れる国で、そこに迎えられる者は朽ち果てない神の栄光に輝く復活の体を着せられ、死も病気もなく皆健康であるところ。前の世での労苦を全て労われるところ。また前の世で被った不正や不正義も最後の審判で全て神自らの手で最終的に清算されてすっきりするところ。その意味で道徳や倫理も人間がこねくり回したものではなくなって万物の創造主の神の意思が貫かれている国と言うことができます。

不正や不正義の清算に関して言えば、本日の旧約の日課の中で神が「高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせる」(エゼキエル17章24節)と言われています。イエス様も多くの箇所で、高いものは低くされ、低いものは高くされる、先のものは後にされ、後のものは先にされる、と教えています(マタイ19章30節、23章12節など多数)。今この世で神の意思に沿わない仕方で高いところにいる者や一番前にいる者は、最終的には全く逆の立場に置かれる。今そうした者のために低くされ一番後にされている者は、これも最終的には全く逆の立場に置かれる、ということです。イエス様の有名な「山上の説教」のはじめに「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5章4節)という教えがあります。これも、ギリシャ語の原文に即して訳せば、彼らは将来間違いなく慰められることになるという約束の言葉です。この世で起きた不正や不正義は、うまく行けばこの世の段階で補償や救済がなされるかもしれません。もちろん、それは目指さなければならないことですが、いつも実現するとは限りません。また、なされた補償や救済も正義の尺度にぴったり当てはまるものかどうかということも難しい問題です。それで、神の意思が隅から隅まで貫徹されている神の国は、そうした無数の不均衡が最終的にぴったり清算されるところと考えてよいでしょう。

それから「神の国」は、イエス様が語り教えたということに留まりません。イエス様が地上にいた時、「神の国」はイエス様とくっつくようにして一緒にあったのです。そのことは、イエス様が起こした無数の奇跡の業に窺えます。イエス様が一声かければ病は治り、悪霊は出て行き、息を引き取った人が生き返り、大勢の人たちは飢えを免れ、自然の猛威は静まりました。果ては、一声かけなくても、イエス様の服に触っただけで病気が治りました。イエス様から奇跡の業をしてもらった人たちというのは、神の国の事物の有り様が身に降りかかったと言うことができます。病気などないという事物の有り様が身に降りかかって病気が消えてしまった、飢えなどないという事物の有り様が身に降りかかって空腹が解消された、自然の猛威の危険などないという事物の有り様が身に降りかかって舟が沈まないですんだという具合です。そのようなことが起きたのは、まさに「神の国」がイエス様と抱き合わせにあったからです。その意味で奇跡を受けた人たちというのは、遠い将来見える形で現れる「神の国」を垣間見たとか、味わったことになるのです。「神の国」では奇跡でもなんでもない当たり前のことがこの世で起きて奇跡になったのです。

しかしながら、イエス様が「神の国」に関して人間に行ったことで一番大切なことは、それについて教えたり、奇跡の業を通して味あわせたということではありません。もちろんそれらも大事なことですが、一番肝心なことは、人間が「神の国」に迎え入れられないように邪魔していたものを取り除いて、迎え入れらえれるように道を切り開いて下さったということです。それが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。人間と神の結びつきを断ち切っていた原因であった人間の罪、神の意思に背こうとする性向を、イエス様が全部自分で引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げてそこで人間に代わって神罰を受けられたのでした。さらに死から三日後に神の想像を絶する力で復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示されて、そこに至る道を人間に切り開いて下さったのでした。

そこで人間がこれらのことは本当に起こったとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、このイエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ることができます。その人は罪を償ってもらったことになります。罪を償ってもらったということは罪の支配から解放されたことになります。人間と神との結びつきを断ち切って人間が神の国に迎え入れられないようにしようとする力から解放されたことになります。なぜなら、イエス様の果たした罪の償いを受け取った人は神に買い取られた、買い戻された人で神のものとなったからです。買取価格は神聖な神のひとり子が十字架で流した血です。金銀銅とは比べられない高価な値をつけられたのです。どうして、これから神の意思に背くような生き方が出来るでしょうか?どうして、これから十字架のイエス様を見て自分の罪の赦しがあそこにあるということを忘れたり曇らせたりすることが出来るでしょうか?どうして、あの日、主の墓が空であったことが全ての希望に勝る希望にならないということがあるでしょうか?

3.神の御言葉は驚異の種

以上、「神の国」について復習し、イエス様の十字架と復活の業こそ人間がそこに迎え入れられるようにするための業であった、万物の創造主である神の人間に対する愛と恵みの現われであったことを申し上げました。

ここで、本日のイエス様の二つの教えの説き明かしに入りましょう。また前置きが長くなってしまったので、駆け足になってしまうことをご了承下さい。

初めに「からし種」のたとえから見ていきます。最初に申し上げたように、このたとえの背景にはエゼキエル書17章があります。からし種、パブリックドメインそこで言われる、大きく育ったレバノン杉というのは、まさに今あるこの世が終わりを告げて新しい天と地の下に現れる神の国を意味します。(注 エゼキエル書31章やダニエル書4章のように、大きな木がイスラエルの民に敵対する大国を指すこともありますが、それらは切り倒されるとも預言されています。)もともとこの預言は、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて祖国帰還と復興を遂げることを預言するものと考えられていました。ところが、民が帰還してエルサレムの町や神殿を再建しても取り巻く状況は預言の実現には程遠いことが多くの人々の目に明らかになってきます。そうすると、鳥たちが安心して宿れる木というのは実はバビロン捕囚からの帰還ではなくて、もっと将来のこの世が終わりを告げて新しく創造された天と地の下に現れる「神の国」を指すのだと気づき出されるようになります。イエス様自身も、「神の国」は今のこの世が終って新しい天と地の下に現れるものであるとの立場をとっています(マルコ13章27ー27節など、マタイ25章31ー46節も)。

それにしても「神の国」を最初からレバノン杉の大木にたとえないで、高さ2,3メートルほどのクロガラシを引き合いに出すのはどうしてでしょうか?それは、ここでのイエス様の主眼は、からし種のように砂粒みたいな種が2,3メートル位の大きさの植物を生み出すという、そういう変化の大きさを強調したかったからです。もし最終的な大きさだけを強調したければ、レバノン杉だけで十分だったのですが、イエス様としては、最初取るに足らない小さなものからまさかこんなに大きな葉や茎が出るとは驚きだ、という位のものが出てくることを強調したかったのです。それを誰もが知っているからし種を題材に選んで、イメージがわきやすくなるように話をしたのです。

それでは、最初は取るに足らない小さいものがとても大きなものに変化する場合、大きなものとは神の国を指すとして、そうしたら、取るに足らない小さなものとは何を指すでしょうか?からし種にたとえられているものは何なのでしょうか?

その答えは、マルコ4章を初めからみていくと見つかります。マルコ4章の最初にイエス様のたとえの教えの中でこれも有名な「種まき人」があります(3ー8節)。少し後でイエス様は、そのたとえの解き明しをします(14ー20節)。そこで、「種まき人は言葉を蒔く」と言います(14節)。つまり、種とは神の御言葉を指すのです。

これで、からし種のたとえの意味が少し見えてきます。最初に取るに足らないように見える神の御言葉があり、それがもとにあって最初の小ささからすれば比較にならない大きなものが現れてくる。それが神の国であると。

神の御言葉が取る足らない小さなものとはどういうことでしょうか?そもそも神の御言葉とは何でしょうか?イエス様が地上にいた時、神の御言葉とは旧約聖書とイエス様自身の言葉を指しました。イエス様自身の言葉は旧約聖書に基づいていました。基づいてはいましたが、当時のユダヤ教社会のエリートたちと異なる仕方で、神のひとり子として旧約聖書を正しく教えました。イエス様の十字架と復活の出来事の後は、神の御言葉は十字架と復活の意味を明らかにするものになりました。旧約聖書の御言葉もイエス様の御言葉も全て十字架と復活に向かうものとなりました。特に出来事の目撃者であった使徒たちの説き明かしが大きな役割を果たしました。それで彼らの教えも神の御言葉に加えられました。

ここで一つの国家が成立する時、国土とか構成員とか経済とか政府とか軍隊を構成要素とします。国家が大きくなればなるほど、これらの要素も大きくなります。ところで「神の国」は将来新しい天と地にの下に唯一現れる国なので、今のこの世の中ではまだ何もないように思われます。ところが、この世ではその構成員が一人また一人生まれ、将来そこに迎え入れられるようにそこに向かってこの世の人生を歩んでいきます。「神の国」はまだ現れていませんが、既に始まっているのです。この始まっている国は、そこに向かう構成員はいますが、国土も政府も軍隊もありません。それを成り立たせているのは今申し上げた神の御言葉です。それが人の心に撒かれて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて「神の国」に向かって歩み出すようになると、そこに迎え入れられる人がまた一人増え、そうやって大きなうねりになっていきます。そして、将来「神の国」が現れる時、神の御言葉こそがそこに迎え入れられる決定的な要因であることが明らかになります。どんな国力をもってしても、また人間の名誉、知恵、財産をもってしても迎え入れには何の役にも立たないことが明らかになります。かつては、そうした人間的なものこそが役に立つと思われ、神の御言葉など何の役に立つのかとあざ笑われて取るに足らないと見なされていたことが大逆転するのです。

 もう一つの教え「成長する種」は「神の国」とどう結びついているでしょうか?最初に申し上げたように、終わりのところで「収穫の時に鎌を送る」という言い方があり、これは「神の国」が現れる時を意味します。新共同訳では「鎌を入れる」ですが、ギリシャ語の動詞(αποστελλω)は「送る」です。この原文の意味にこだわると、イエス様はヨエル書4章13節を引用していることがわかります。そこでは、「鎌を送れ、刈り入れの時は熟した」という神の託宣があります(新共同訳では「鎌を入れよ」ですが、ヘブライ語の動詞(שלח)は「送る」です)。ヨエル書のこの箇所は終末の日の預言です。イエス様もマタイ13章で「刈り入れ」とは世の終わりの日を意味し、そこで良い麦は倉に収められると言って、神の目に相応しい者が神の国に迎え入れられることについて教えています(24ー30節、36ー43節)。

そこで地に撒かれる種とは、これも神の御言葉であると考えるとこのたとえの意味がわかってきます。ここでのポイントは「からし種」のたとえと違って、小さな取るに足らないものが大きなものに変わるという変化ではありません。それでは何がポイントかと言うと、「種が撒かれた地が自ずから種を成長させ、初めは茎、次に穂を成長させ、最後に穂の中に実を結ばせる」と言っていることに注目します。御言葉が人の心に撒かれて、人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、その人は復活の日に神の国に迎え入れられるようにと、そこに向かってこの世を進んで行きます。この向かって進んで行くことが成長です。到達して迎え入れられると、実を結んで刈り入れされたことになります。

「種が撒かれた地が自ずから種を成長させる」というのは少し注意して聞く必要があります。それは、御言葉を撒かれた人が自分の力で成長するということではありません。撒かれたらあとは御言葉が含んでいる力が自分の内に発揮されるように任せていくということです。御言葉に含まれている力とは、先ほども申しましたように、イエス様の十字架と復活が人間に対して持っている力、人間を罪と死の支配から解放して神のもとに買い戻し神の子にする力です。

本日の第二コリント5章でパウロも次のように教えています。キリスト信仰者というのは、一人のお方が全ての人たちのために死なれたということを厳粛に受け止めているのでキリストの愛に捕らえられているのです。全ての人たちのために死なれたのは、今生きている者が自分の方を向いて生きるのではなく、全ての人たちのために死なれて復活させられたお方を向いて生きるようになるためだったのです。洗礼を受けてキリストと結ばれる者は新しく創造された者だというのは、まさにそのことです(5章14、15、17節)。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

主イエス様のおかげで私たちが日々、罪の赦しの恵みの中で生きられ、いつもあなたに見守られていることを感謝します。どうか、私たちの内にまかれた御言葉の種があなたから成長を与えられて私たち自身が実を結ぶように育ち、復活の初穂(はつほ)であるイエス様に続いて私たちも、み前にて永遠に生きられる者にして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

説教「償い 買い戻し 赦されない罪」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書 3章20-35節

主日礼拝説教2021年6月6日 聖霊降臨後第二主日
聖書日課 創世記3章8-15節、第二コリント4章13節-5章1節、マルコ3章20-35節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

本日の福音書の箇所にはとても重苦しいことがあります。28節でイエス様は、「全ての罪は赦される」と言ったと思いきや、すぐ後の29節で、永遠に赦されない罪があると言うのです。聖霊を冒涜することがそれです。罪が「赦される」と言う時、新約聖書のギリシャ語で「~される」の受け身の形は普通、天の父なるみ神が隠れた主語になっています。それで、神は全ての罪を赦すが、聖霊を冒涜する罪は赦さない、ということになります。本日の説教では、神に赦されない罪、聖霊を冒涜する罪とはどんな罪なのかということについて見ていきます。その場合、罪が赦される/赦されないというのはどういうことかということも考えなければなりません。さらには、赦される/赦されないと言っている当の罪とはそもそも何なのかということも確認しなければなりません。そういうわけで本説教では最初に、こうしたキリスト信仰の基本的な事柄である罪について見ていきます。その後でイエス様が言われる赦されない罪、聖霊を冒涜する罪について見ていこうと思います。

2.根本的な罪 受け継がれる罪

聖書の観点では人間はみな罪びとです。そう言うと、自分は何も犯罪を犯していないのにどうしてそんなことを言うのかと嫌がられます。しかし、聖書の観点では罪というのは個々の悪い行為だけでなく、もっと根本的なものも含めて言います。根本的なものとは、万物の創造主の神の意思に背こうとする性向を人間誰しも持っているということです。これが根本的な罪で、これがあるから何かのきっかけで具体的な悪い行為、悪い言葉、悪い思いになって現れるのです。

人間にそういう根本的な罪、全ての罪の源としてある罪が備わるようになってしまったことは、本日の旧約の日課の前にある有名な堕罪の出来事の中に記されています。最初の人間アダムとエヴァは神から、エデンの園の真ん中にある木の実は食べたら死んでしまうから食べないようにと言われていました。そこへ悪魔がヘビの姿形を取って現れてエヴァをそそのかして言います。その実を食べても死なないよ、神がそんなことを言ったのは、人間が食べたら神のようになって善と悪がわかるようになると知っているからなのさ、神は人間が自分のようになれるのを嫌がっているのさ、だからそんなこと言ったんだよ、という具合にです。そう言われたエヴァは木を今一度見てみます。なんともうっとりさせられる麗しさで、実の方もこれを食べたらいろんなことがわかるようになりますよ、だから早く食べてねと言っているみたいで、抗しがたくなってしまいました。エヴァは、神がいけないと言った言葉など耳の奥から消えてしまい、ついに実を取って食べてしまいました。その実をアダムにも渡して、彼も食べてしまいました。

すると、二人の目は今までと異なる見方が出来るようになり、善と悪が分かるようになりました。しかし、神のようにはなれませんでした。なぜなら、神が善と悪をわかるというのは裁きを行う資格があるということで、人間は神のような裁き主にはそもそもなれないからです。裁き主になれないで善と悪をわかるとどうなるかと言うと、それは善だけでなく悪も行えるようになって神から裁かれる立場になってしまったということです。本当にあの実さえ食べなかったら、神と人間の関係は裁く側と裁かれる側の関係にはならなかったのに余計なことをしてくれたものだと思います。もちろん全てはヘビの巧みな誘導作戦のせいですが、食べたら神のようになれるぞという言葉で弱みにつけ込まれたのです。人間は別に神のようになろうとしなくてもよかったのです。最初のままで生きる上で何も問題はなかったのです。人間が神のようになろうとしたことがいけなかったのです。

ところで、アダムとエヴァがしたことは、ただ何か特殊な木の実を食べただけで、別に殺人とか盗みとかいうような罪を犯したわけではありませんでした。それなのに何でそんなに大騒ぎをするのかと思われてしまうかもしれません。でも、やはり重大なことが起こったのです。それはこの出来事をきっかけに人間が神の意思に背くということが起きたのです。その動機として、自分を神の下にとどめておくことに満足せず神と張り合おうとする大それた願望が芽生えたのです。そして善悪がわかるようになって悪も行えるようになり神の審判を受ける立場になってしまったのです。これらが根本的な罪となったのです。これがあるから、人間は何かのきっかけで個々の様々な罪を犯すようになったのです。

そう言うと今度は、それはアダムとエヴァ個人の問題で、それ以外の人は関係ないのではないかと言われるかもしれません。ところが神が警告した通り、その実を食べたために二人は死ぬ存在になりました。そして人間はみな代々死んできました。つまり、この世から死ぬということが人間はみなこの根本的な罪を持っているということの現れなのです。

ここで、この根本的な罪の呼び方ですが、日本語では「原罪」と言います。大元にある罪という意味です。英語はオリジナル・シンと言い、同じ意味です。ところが、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語では「受け継がれる罪」、「相続される罪」という言い方をします(Erbsünde、arvsynd、perisynti)。この罪に対して「行われる罪」というのが別にあります(スウェーデン語とフィンランド語でgärningssynd、tekosynti、ドイツ語にもありますか?)。殺人や盗み、偽証や改ざん、不倫、悪口、妬みなどは「行われる罪」です。これらは「受け継がれる罪」ではありません。「受け継がれる罪」は根底的なところにある、神の意思に背こうとする性向です。それがあるから何かのきっかけで「行われる罪」が犯されます。私としては、「原罪」というとアダムとエヴァ止まりの感じがしてしまうので、「受け継がれる罪」と呼ぶのがいいと思います。

3.罪の赦し、償い、買い戻し

こうして人間は「受け継がれる罪」を持つようになり、何かのきっかけがあれば「行われる罪」も犯すようになって神との結びつきが失われてしまいました。これに対して神は、身から出た錆だ、勝手にするがよい、などと自己責任論を展開することはしませんでした。そうではなくて、結びつきを失わせた原因である罪の問題をなんとか解決して、人間がこの世の人生で神との結びつきを持てて生きられるようにしてあげよう、そしてこの世を去った後は永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげようと決めたのです。それでは神はどのようにして罪の問題を人間のために解決して下さったのでしょうか?

juujikaそれは次のような次第でした。ご自分のひとり子をこの世に贈り、本当なら人間が罪のゆえに裁かれて受けることになる神罰を彼に代わりに受けさせる。そうすることで彼が人間に代わって神に対して罪の償いをする。これこそがゴルゴタの丘のイエス様の十字架の死でした。そこで今度は人間の方が、神がひとり子を用いて行ったことは本当のことでそれは自分のためにもなされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主なのだと信じて洗礼を受けると罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったわけだから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。

実は、この罪を償ってもらったということには、もう一つ大事なことが付随しています。それについてこれまでの説教でもお教えしたつもりだったのですが、言葉を言い換えて話してきたので、どうも伝わっていなかったようです。スオミ教会では礼拝の後いつもズームを使って会堂とオンラインの礼拝出席者の交わりの時を持っています。そこでその日の説教も話題になるのですが、ここ何回か皆さんのお話を聞いていて、この罪の償いに付随する大事なことが伝わっていなかったということがわかり反省した次第です。それで、今日はそのことをはっきりお教えしなければならないと思いました。

イエス様は私たちの身代わりの犠牲となって神に対して私たちの罪を償って下さいました。それを信じて洗礼を受けると、罪の償いを受け取れて罪を償われた者になれということは先ほど申し上げた通りです。そこで、罪を償われたということは罪を帳消しにしてもらったということで、これはそのまま罪の支配から解放されたことを意味します。それでは、罪の支配とはどういうことかと言うと、罪が人間を支配すると、人間はこの世の人生で神との結びつきなしで生きなければならなくなり、この世を去った後も神のもとに戻ることができなくなります。このように神との結びつきがこの世でもその後も永遠に失われてしまうということなので、罪の支配とはまさに罪の呪いです。それで罪を償われたというのは、こうした罪の呪いから解放されたということなのです。どうやって解放されたかと言うと、イエス様がマルコ10章45節で自分のことを「身代金」と言っていたことに注目します。つまり、神がイエス様を元手にして罪の人質状態になっていた私たちをご自分のもとに買い戻してくれたということです。そういうわけで、イエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取るというのは、イエス様を元手にして神に買い取られる、買い戻されるということなのです。

神に「買い取られる」、「買い戻される」という言い方は旧約聖書のヘブライ語の動詞でして(ガーアル、ファーダー)、イザヤ書35章、51章、52章によく出てきます。新約聖書を見ても、例えば、第一ペトロ1章18~19節で、キリスト信仰者というのは金銀なんかでなく清い神の小羊キリストの高価な血によって買い取られた者だと言っています(リュトゥロオー)。エフェソ1章7節も同じで、キリストの血によってキリスト信仰者には神への買い取り、買い戻しがあるのだと言っています(リュトゥロオーの名詞形のリュトゥローシス)。第一コリント6章20節では、ずばり神はキリスト信仰者を高価なもので買い取ったと言います。ここで使われている動詞はまさに売り買いの「買う」です(アゴラゾー)。高価なものとは、イエス様が十字架で流された血であることは明らかでしょう。

ところが、この神に「買い取られた」、「買い戻された」というのは、日本語では「贖われた」と言います。とても分かりにくい言葉です。ヘブライ語の単語もギリシャ語の単語もみな「買い取る」「買い戻す」の意味があり、英語、スウェーデン語、フィンランド語もその言い方に倣っていて、それとは別に特殊な宗教用語をあてることはしていません。例えば、高速道路を造るために国は土地を収用したと言う時、フィンランド語はこの「収用する」(lunastaa)という同じ言葉が人間の罪からの解放を言い表します。とても具体的でわかりやすいです。土地を収用する際の代価は税金や国債に基づく国庫、人間の買取りは神のひとり子が流した血です。どうして日本語では「買い取る」、「買い戻す」ではダメなのか?宗教的なことだから出来るだけわかりにくくした方が神秘的で権威が感じられるということでしょうか?しかし時々、「罪を贖われた」などと言う人もいて仰天してしまいます。罪は「償われる」です。「贖われる」のは人間です。罪を贖うなんて言ったら、罪を買い取ることになってしまい、神はそんなもの買い取りたくないと言うでしょう。

こういうふうに、日本語には漢字があるため、それが簡潔な言い方で多くの事柄を含めるという奥の深さがある反面、ズバリ何を意味しているか掴みどころがなくなって各自で意味を探さなければならなくなることがあると思います。自分の知識や経験に依拠して自分にピッタリな意味を探し当てることになると思います。そこで探し当てた意味がイエス様やパウロが言わんとしたことに合致すれば万々歳なのですが、どうやって合致しているとわかるでしょうか?まさにそのために神学校や神学部でギリシャ語やヘブライ語を勉強して、信徒たちの探し当てがイエス様やパウロの言わんとしたことから離れないように導いてあげるのです。もちろん神学教育を受けて完璧にイエス様の言わんとしたことがわかるということでもないので、私としては、信徒たちと対話しながら説教者自身も深めていかなければならないと思います。日本では牧師というのは神に近い存在とみなされるので、時としてその日の聖句と関連性が疑われることを言っても、信徒さんの方が「そういう解釈もあるんだ」などと受け取り、疑問を持つ自分が間違っているとしてしまうところがあります。このスオミ教会はそういうことがないので説教者にすればとても緊張感を抱かせる教会です。

ところで、「贖い」という言葉のほかに先ほど「原罪」という言葉についてもひと言申し上げました。他にも、日本語が醸し出すイメージが本来の意味を遠ざけてしまわないか注意すべきものとして「恵み」と「悔い改め」があると思います。それらについても今まで説教の中で言い換えてお話してきました。お気づきになられたでしょうか?これらはこれからも繰り返し出てきますので、ここではこれ以上触れないで先に進みます。

3.神に買い戻された者として

さて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたら罪を償ってもらったことになって神から罪を赦された者と見てもらえる。その場合、「受け継がれた罪」はどうなるのか?消えてなくなるのか?それで「行われる罪」も行ったり、口に出したり、心で思い描いたりしないようになるのか?どうでしょうか?

聖書の観点では、洗礼を受けても「受け継がれた罪」は消えずに残ります。「行われる罪」も心で思い描くことはしょっちゅうあり、場合によっては口に出たり、最悪の場合には行いで出てしまう時もあります。それじゃ、何も変わっていないじゃないか!と呆れかえられるかもしれません。ところが、やっぱり変わっているのです。パウロがローマ8章1節で言うように、洗礼によってイエス様と結びつけられている者には神の有罪判決はないと言うのです。そう言うとキリスト信仰者でない人たちは、そんなのありか!信仰者だって罪があると言っているのに洗礼を受けたからもう大丈夫だなんて虫がよすぎるぞ!とクレームがかかるかもしれません。でも、そう言う人たちは、キリスト信仰者が洗礼を受けた時から通り抜けなければならない霊的な戦いのことを何もわかっていません。

パウロはローマ7章の終わりで、全てのキリスト信仰者にあてはまることとして次のように言います。キリスト信仰者は意識の面では神の命じることに従っているが、肉の面では罪の命じることに従っていると。このようにキリスト信仰者は何が神の意思に沿うことかわかっているが、肉を持っている限りそれに背こうとする力も働いているというのが現実なのです。この二律背反した状態が解消されるのは、この世を去ってまずは肉の体を捨てて復活の日までひと眠りして、復活させられた時に復活の体という神の栄光を映し出す体を着せられた時です。その時、魂も体も全て罪がない者となって神の御許に迎え入れられて自分がさらに続いていくのです。

それでは復活の日まではどうすればいいのかというと、それはただこの世の人生の歩みとはその日を目指して進むことに尽きると観念することです。それはどういうふうに進んで行くのかと言うと、パウロがローマ8章13節で言うように、洗礼の時に注がれた聖霊の支援を受けながら肉の体の業を日々死なせていくという進み方です。物騒な言い方ですが、要は神の意思に沿わない行い、言葉、思いを踏みにじって生きることです。どうやって踏みにじるのか、それは罪や罪を操る悪魔が一番聞きたくないことを日々、自分に言い聞かせることです。私の罪はあのゴルゴタの十字架であの方の犠牲によって帳消しにされた。だから私はもう神のものである、と。確かに「受け継がれる罪」は残っているが、それでも神は自分を買い取って、復活を目指す者にして下さったのだ、と。自分には罪があっても、神によって打ち立てられた罪の赦しは否定のしようがありません。だから罪があることを認めると同時に、それが高価な犠牲によって赦されているという状況の中に踏みとどまるだけです。それが復活を目指して進むことです。その進むところ、私たちの内に駐留する聖霊がいつも惜しまず支援してくれるということは先週と先々週の説教でもお教えした通りです。

しかし、これでもまだ自分に罪が残っていることが気になる、復活があるとは言え死が立ちはだかって怖いと言う人がいらっしゃれば、そういう人にはルターがこう言ってやればいいと言っている言葉があるのでそれを紹介します。キリストはそんなあなたにこう言って下さっているんですよ!という言葉です。「私はお前を助けてやる。お前の弱さを私の強さに沈めてやる。お前の罪を私の義に撃ち落としてやる。お前の死を私の命に飲み込んでやる。」

4.赦されない罪はキリスト信仰者には関係ない

聖霊の支援を受けながらこの世の人生を霊的な戦いを戦いながら復活を目指して進んで行くということは、これからもいろんな聖句や日課を通して繰り返し出てきますので、本日はここまでにして、ここで本当は本日のメインイベントになるはずだった聖霊を冒涜する罪について見てみます。もう時間も時間なので駆け足になってしまうことをご了承下さい。本日は前置きが異様に長くなってしまいましたが、大事なことだったと思います。

聖霊を冒涜する罪が神から赦されない罪であるということを考える時、何が聖霊を冒涜することかをはっきりさせなければなりません。そこでまず、聖霊とはどういう方なのかを今一度確認しなければなりません。聖霊とは、まず第一に人間をイエス様を救い主と信じる信仰に導く方です。ある人が、それまではイエス・キリストのことを、あの2000年前の現在のイスラエル国がある地域でとても斬新な宗教活動を行って最後は占領国のローマ帝国の官憲に捕まって十字架刑を受けてしまった者という、世界史の教科書的な理解だったのが、実はそれは表面的な理解だったとわかるようになる。イエス様の出来事は全て万物の創造主である神が人間を罪の呪いから解放するために行ったことで、それは旧約聖書に約束されていたことの実現だったのだ、と。そのようにわかって、イエス様を自分の救い主と信じるようになってくる、この時すでに聖霊が影響力を及ぼしていることになります。

そして、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとその人はすっぽり聖霊の影響下に置かれます。そうなると、今度はその人にとってイエス様が救い主であることがブレないで保たれるように助けることが聖霊の働きとなります。そういう聖霊の働きについてはパウロがローマ8章でよく教えています。本教会の説教でも度々取り上げました。これからも繰り返し出てくるでしょう。

このように聖霊とは、人間をイエス様を救い主と信じる信仰に導き、救い主と信じる人が今度はその信仰に踏みとどまれるように助けてくれる方です。その聖霊を冒涜するというのは、その働きを否定するようなことを言うことになります。人間を信仰に導き信仰に踏みとどまれるようにする働きを否定するのは、イエス様の十字架を無意味にすることになり、人間を罪の呪いから解放しようとした父なるみ神の愛を踏みにじるものです。こんなのを赦したら赦しの自己否定になります。まさに罪の赦しがある限りはあってはならない赦しです。

ここで一つ興味深い質問は、イエス様が聖霊の力で悪霊を追い出しているのに、あいつは悪霊のドン・ベルゼブルの力を借りて追い出していると言った人たち、彼らはもう赦しを祈っても無駄で永遠に赦されない罪に定められてしまったのかということです。人によっては、すんなりそうだと言うかもしれないし、人によっては、まだイエス様の十字架と復活が起きる前のこと、聖霊が人間をイエス様を救い主と信じる信仰に導く働きをする前のことなので、まだ事情が違うのでは言う人もいるかもしれません。私としては、後者に肩入れする見方かもしれませんが、マタイ12章とルカ12章を見ると、イエス様は自分に向けられる冒涜は赦されるが、聖霊に向けられる冒涜は赦されないと言います。このベルゼブルの件は、直接的にはイエス様を中傷しようとして言ったことと見なすことが出来ます。しかし、中傷した者たち自身は気づいていなかったかもしれないが、事は聖霊に及ぶものであった。それでイエス様は、お前たち口を慎めよ、さもないととんでもないことになるぞ、と警告を発したのではないかと考える者ですが、ただそれが、手遅れの警告だったのか、事前の警告だったのか、私には決めることは不可能で父なるみ神に任せるしかありません。

そこで私たちにとって一番肝心なことを申し上げます。赦されない罪があるなどと聞くと果たして自分は大丈夫かなどと思ってしまいます。しかし、心配無用です。私の罪はあのゴルゴタの十字架で神のひとり子の犠牲によって帳消しにされた。だから私はもう神のものなのだ、と自分に言い聞かせている限り、聖霊を冒涜することはありえないからです。だから、この点については何も心配せず安心して進んで行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたは、み子イエス様の十字架と復活の業を通して、私たちがあなたとの結びつきを持ててこの世とこの次に到来する世において生きられるようにして下さいました。どうか私たちがこのあなたの計り知れない愛を日々、十分受け取ることが出来るように、私たちの狭い信仰の器を日々広げて下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

説教「三位一体の神と新たに生まれること」吉村博明 宣教師、ヨハネ3章1-17節

主日礼拝説教 2021年5月30日

聖書日課 イザヤ6章1-8節、ローマ8章12-17節、ヨハネ3章1-17節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天と地と人間を造り、人間に命と人生を与えてくれた神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神なのです。

そうは言っても、三位一体はわかりにくいことです。三つあるけれども三つあると言わないで一つだという。いち足す、いち足す、いちは三ではなくて一であると。どのようにしてそんなことが可能なのかと考えると、もう無理です。しかし、キリスト信仰者はこういうものなんだと受け入れている。どうして受け入れられるかと言うと、三つがどういうふうにして一つになるのかということはあまり考えません。むしろ、なぜ三つが一つなのかということを考えるからです。そして、なぜそうなのかということの答えを聖書から見つけているからです。どんな答えかと言うと、神がそういう三位一体であるというのは私たちに愛と恵みを注ぐためにそうなのだということです。三位一体でなければ愛と恵みを注げないと言っても言い過ぎでないくらい、神は三位一体でなければならないということです。本日の説教を通してそのことがわかるようにしていきましょう。

2.神聖と非神聖の断絶

まず最初に思い起こさなければならないことは、天地創造の神と私たち人間の間には途方もない溝が出来てしまったということです。この溝は、創世記に記されている堕罪のときにできてしまいました。神に造られた最初の人間が神の意思に背くような性向、罪を持つようになってしまい、それがもとで死ぬ存在になってしまったのです。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」5章で述べるように、死ぬということは人間誰でも罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれです。もちろん、悪いことをしない真面目な人もいるし、悪いこともするが良いこともちゃんとしているという人もいます。それでも、全ての人間の根底には神の意思に背く罪が脈々と続いているというのが聖書の観点です。このように人間が罪を持つ存在であるとわかると、神は全く正反対の神聖な存在であることがわかります。神と人間、それは神聖と罪という二つの全くかけ離れた存在です。

罪を持つ人間にとって神の神聖さとはどんなものであるか、それについて本日の旧約の日課イザヤ6章の個所はよく表しています。預言者イザヤはエルサレムの神殿で肉眼で神を見てしまいました。その時の彼の反応は次のようなものでした。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は滅びてしまうからだ。なぜなら私は汚れた唇を持つ者で、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が、王なる万軍の主を見てしまったからだ」。これが、神聖と対極にある罪ある者が神聖な方を目にした時の反応です。罪の汚れをもつものが神聖な神を前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。神から預言者として選ばれたイザヤにしてこうなのですから、預言者でもない私たちはなおさらです。

イザヤは自分の罪と自分が属している民族の罪を告白しました。それに対して天使の一種であるセラフィムが来て、燃え盛る炭火をイザヤの唇に押し当てます。イザヤが大やけどを負わなかったというのは罪から清められたことを示しています。罪から清められたイザヤは神と面と向かって話ができるようになります。モーセの場合はそのような罪の清めは受けずにシナイ山で神と面と向かって話すことを許されました。しかし、彼が山から下るとその顔は光輝き、人々の前で話をするときは顔に覆いを掛けねばならないほどでした(出エジプト記34章)。神の神聖さは、罪の汚れを持つ人間には危険なものなのです。

このように神と人間との間には神聖と非神聖の果てしない溝が出来てしまいました。しかし、その神が溝を超えて私たちに救いの手を差し延ばされたのです。その救いの手がイエス様でした。そのことをイエス様は本日の福音書の日課の中でニコデモに教えます。そこでは「新たに生まれる」ということがポイントになっています。神聖な神との結びつきを回復してこの世を歩め、この世を去った後は神の御許に永遠に迎え入れられるようにする、これが「新たに生まれる」ことです。それはどのようにして起こるのか、それを次に見てみましょう。

3.悩めるファリサイ派のニコデモ

まずニコデモについて少し述べておきましょう。彼が属していたファリサイ派というのは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということにとてもこだわったグループでした。彼らは旧約聖書に記されたモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則を厳格に守ることを主張し、それを実践していました。何しろ、自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。

イエス様が歴史の舞台に登場して、数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々を集め始めると、ファリサイ派と衝突するようになります。イエス様に言わせれば、神の前での清さというのは外面的な行為に留まるものではない。内面的な心の有り様も含めた全人的な清さでなければなりませんでした。つまり、「殺すな」というモーセ十戒の第五の掟は、実際に殺人を犯さなくても心の中で他人を憎んだり見下したりしたらもう破ったことになる(マタイ5章22節)というのです。「姦淫するな」という第六の掟も、実際に不倫をしなくても心の中で思っただけで破ったことになるとイエス様は教えたのです(同5章28節)。こうした教えは、イエス様が私たちに無理難題を押し付けて追い詰めているというのではありません。十戒を人間に与えた神の本来の意図はまさにそこにあるのだと、神の子として父の意図を人々に知らせたのです。

全人的に神の意思に沿っているかどうかが基準になると、人間はもはやどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方が自分で規則を作って、それを守ったり修行をすれば清くなれるんだぞ、と自分にも他人にも課すのは滑稽なことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。

ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、グループの中には、このようなやり方で神の前の清さは保証されるのだろうか、そもそもそういうやり方で天地創造の神の目に適う者になれるのだろうか、と疑問に思った人もいたでしょう。ニコデモはまさにそのような自省するファリサイ派だったと言えます。3章2節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。ファリサイ派の人たちが日中にイエス様と向き合うといつも議論の応酬でしたので、夜こっそり一人で出かけるというのは意味深です。案の定、ニコデモはイエス様から、人間が肉的な存在から霊的な存在に変わることについて、また神の愛や人間の救いとは何かについて教えられます。

(余談ですが、この対話をきっかけにニコデモはイエス様を救い主と信じ始めたようです。例えば、最高法院でイエス様を逮捕するかどうか話し合われた時、ニコデモは弁護するような発言をします(ヨハネ7章50ー52節)。さらに、イエス様が十字架にかけられて死んだ後、アリマタヤのヨセフと一緒にローマ帝国総督のピラトの許可を得てイエス様の遺体を引き取り、それを丁重に墓に葬ることもしています(19章39ー42節))。

4.「生まれ変わる」ではなく「新たに生まれる」

さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである「新たに生まれる」ということについて見ていきます。ところで、「生まれ変わる」という言葉はよく聞きます。例えば、貧乏な人が今度生まれ変わったらお金持ちになりたいとか、人から注目されないことに悔しい人が生まれ変わったら有名になりたいとか、そういうことを言うことがあると思います。また、赤ちゃんが生まれた時、表情がおじいちゃんかおばあちゃんに似ている、この子は亡くなったおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだ、などと言うこともあります。このように「生まれ変わる」という言葉は、現在の不幸な境遇から脱出を願う気持ちや、何かを喪失した空虚感を埋め合わそうとする気持ちを表現する言葉と言うことができます。時として、自分は前世では別の人物だったが、今の自分はその人物の生まれ変わりだとかいうような輪廻転生の考えを言う人もいます。ただ、輪廻転生の考えでは生まれ変わり先は人間とは限りません。動物や昆虫にもなってしまいます。
聖書の信仰には輪廻転生はありません。私、この吉村博明は、この世から死んだ後、何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはもうありません。宗教改革のルターも言うように、この世から死んだ後は「復活の日」が来るまではみんな神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。「復活の日」とは、今のこの世が終わって天と地が新しく創造される日のことです。その日この吉村博明は目覚めさせられて運が良ければ朽ちない復活の体を着せられて永遠バージョンの命を与えられて吉村博明が続いていくことになります。

そうすると、「生まれ変わり」ではない「新たに生まれる」というのはどういうことでしょうか?イエス様が教えます。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。ニコデモが聞き返します。「年をとった者がどうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)。ここで明らかなのは、ニコデモも輪廻転生の考えを持っていないということです。もし持っていたら、「新たに生まれる」と聞いて、それを「生まれ変わる」と理解したでしょう。さすがイエス様が「イスラエルの教師」と呼んだニコデモ(10節)です。ファリサイ派とは言え、聖書をそれなりに学んでいるので輪廻転生の考えは持っていません。「生まれる」というのは、文字通り母親の胎内を通って起きることなので、一度生まれて出てきてしまったら、もう同じことは起こりえません。ニコデモが「新たに生まれよ」と言われて、年とった自分が母親の胎内に入ってもう一度そこから出てこなければならない、と聞こえても無理はありません。

ところが、イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」はもはや母親の胎内を通って起こる誕生ではありませんでした。どんな誕生なのかと言うと、次のイエス様の教えをみてみましょう。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5ー6節)。イエス様が教える新たな誕生とは「水と霊による誕生」です。これは洗礼を受けて、そこで神からの霊、聖霊を注がれることを意味します。

人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてくるのですが、それは単なる肉の塊です。その肉の塊は、創世記2章6節やエゼキエル書37章9~10節で言われるように、神から霊を吹き込まれて生きものとして動き始めます。しかしながら、それはまだ肉的な存在で「肉から生まれたもの」に留まります。それが、その上に神自身の霊、つまり聖霊を注がれると「霊から生まれたもの」に変わるのです。「水と霊による生まれ変わり」の「水」は洗礼を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は最初母の胎内から生まれた時は肉的な存在であるが、洗礼を通して聖霊を注がれることで霊的な存在になり、これが人間が新しく生まれるということになります。

5.肉的な存在から霊的な存在へ

それでは、霊的な存在になるというのは、どういう存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえるるかもしれませんが、そうではありません。ここで言っている「霊」は先ほどから言っている神の霊、聖霊のことです。洗礼を通して聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、内面的に大きな変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)
風は空気の移動です。空気も風も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。聖霊を注がれた人も目には見えない動きがその人の内にあるのです。それはどんな動きなのでしょうか?ここでニコデモの理解力は限界に達してしまいました。水と霊から新しく生まれるだとか、その生まれが風の動きのように起こるだとか、そのようなことはどのようにして起こり得るのか?彼の問い方には、途方に暮れた様子がうかがえます。

これに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、その無知さ加減はなんだ!清めの規定とかそういう地上に属することについて私が正しく教えてもお前たちは聞かない。ましてや、こういう天に属することを教えて、お前たちはどうやって理解できるというのだろうか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。ニコデモは真剣な眼差しになったでしょう。イエス様は核心部分に入ります。

「天から一度この地上に下ってから天に上ったという者は誰もいない。それをするのは『人の子』である。(13節)」
つまり自分が「水と霊による新たな生まれ」を起こすのである、と。「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。ここでイエス様は、それはまさに自分のことであると言い、さらに自分は天からこの地上に贈られた神の子であると言っているのです。それが、ある事を成し遂げた後で天にまた戻るということも言っているのです。そして、そのある事というのが次に来ます。

「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』」も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。(14節)」
これは一体どういう意味でしょうか?モーセが掲げた蛇というのは、民数記21章にある出来事のことです。イスラエルの民が毒蛇にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅の蛇を旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じことが自分にも起きると言うのですが、これは何のことでしょうか?
イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることを意味しました。イエス様はなぜ十字架にかけられて死ななければならなかったのでしょうか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。先ほど申し上げたように、人間の、神の意思に背こうとする罪のゆえに神との間に果てしない溝が出来てしまいました。しかし、神は人間が自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげようと、そしてこの世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげようと、それで溝を超えて私たち人間に救いの手を伸ばされました。その救いの手がイエス様でした。神はこのひとり子をこの世に贈り、彼を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき神罰を彼に受けさせました。それによって、罪が償われて赦されるという状況を生み出しました。あとは人間の方が、神は本当にこれらのことを成し遂げて下さり、イエス様は本当に救い主だとわかって洗礼を受けると、この償いと赦しの状況に入れることになります。それからは神との結びつきを持ってこの世を生きることになり、この世を去った後は永遠に造り主のもとに迎え入れられることになります。このように神との結びつきを持って生きる者は、永遠の命と復活の体が待つ神の国を目指して進むことになります。まさにイエス様が言われたこと、水と霊を通して新たに生まれた者が「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。

6.キリスト信仰者の霊的な戦いと聖霊の支援

しかしながら、新たに生まれて霊的な者になったとは言っても、最初に生まれた時の肉を持っていますので、まだ肉的な存在でもあります。そのためキリスト信仰者の内に駐留する聖霊が、神さまの御心はこうですよ、と聖書の御言葉で示してくれているのに、それに背を向けて考えを持ってしまったり、果ては行ってしまうことすらあります。もっとひどい場合には御言葉自体を曲解したりぼやかしたりしてしまうこともします。このように人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。

この凌ぎ合いがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。使徒パウロも認めているように、「他人のものを自分のものにしたいと思ってはいけない」と十戒の中で命じられていて、それが神の意思だとわかっているのに、すぐそう思ってしまう自分に、つまり神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に沿える人はいないのです。それではどうしたらよいのか?どうせ沿えないのなら、そんな鬱陶しい神の意思なんか捨てて生きていけばいいじゃないか、などと言ってしまったら、イエス様の犠牲を踏みにじることになります。しかし、心の奥底から完全に沿えるようにしようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていないところが見えてきてしまう。

ここで大事なことは、自分の真実の姿にいい加減いやになった時は、いつも必ず心の目をゴルゴタの十字架に向けるのです。目をそこに向けさせてくれるのは聖霊です。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神のひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神罰を受けられたのではなかったか?あの方がお前のために犠牲の生け贄となって下さったおかげと、お前があの方を真の救い主と信じた信仰のゆえに、神はお前を赦して下さったのだ。お前が神の意思に完全に沿えることができたから赦されたのではない。そもそもそんなことは不可能なのだ。そうではなくて、神はひとり子を犠牲に供することで至らぬお前をさっさと赦して受け入れて下さることにしたのだ。救いに関してお前は先回りされたので、あとは何も考えずにその後を追いかけるだけでよいのだ。あの夜、イエス様がニコデモに言っていたことを思い出しなさい。

モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、人の子も高く掲げられなければならない。彼を信じる者が永遠の命を得るために。神はそういう仕方でこの世に愛を示された。それで人の子を贈られたのだ。彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るために(ヨハネ3章14~16節)。こうして聖霊の働きで再び心の目を開けてもらった信仰者は、神の深い憐れみと愛の中で生かされていることを確認し、神の意思にすっぽり包まれているので、また先まわりされたことの後追いが始まります。

キリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきますが、こうすることで自分の内に宿る罪を圧し潰していきます。これが本日の使徒書の個所でパウロが「霊によって体の仕業を死なせる」と言っていることです(ローマ8章13節)。日本語訳では「体の仕業を絶つ」ですがギリシャ語では「死なせる」(θανατουτε)です。しかも、動詞は現在形なので「日々死なせる」です。一度に罪を絶つことが出来る人などいません。聖霊に何度も何度も助けられて毎日毎日死なせるのが真実な生き方です。

7.おわりに ― 素晴らしき三位一体

このように神は、私たち人間との間に出来てしまった果てしない溝を超えて、私たちに救いの手を差しのばされ、私たちがイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時にその手と手が結ばれます。その後は私たちが自分から手を離さない限り、神は私たちを天の御国に導いて下さり、復活の日に私たちを神聖な御自分のもとに迎え入れて下さいます。この神の私たちに対する愛は、三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりします。まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪を宿すようになってしまったために、神は今度はひとり子を犠牲にして私たち人間を罪と死の支配から解放して下さいました。こうして、私たちは罪の赦しの中で生きられることになりましたが、人生の中でいろんなことがあってそのことを忘れそうになります。そのたびに、聖霊から指導や支援を受けられるようになりました。

ここからわかるように、三つの人格の機能は別々のものにみえますが、どれもが一致して目指していることがあります。それは、人間が罪と死の支配から解放されて永遠の命まで生きられるようになるという、造られた目的を達成するということです。このように三位一体は私たちにあるべき姿を示し、そうなれるようにする力そのものです。本当に三位一体はすごいです!

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

私たち人間を造られたあなたはみ子を通してご自身の栄光を顕(あらわ)し、多くの人を正しい信仰に導きました。どうか、あなたから信仰を頂いた私たちが聖霊に支えられて今日も福音の喜びを新たに持てて、周りの人々にもその喜びを伝えることができるようにしてください。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン

説教「聖霊が希望を強めてくれる」吉村博明 宣教師、使徒言行録2章1-21節、ヨハネ15章26-27節、16章4b-15節、ローマ8章22-27節

主日礼拝説教 2021年5月23日 聖霊降臨祭

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーと呼ぶことから聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が人間の救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭では、人間の救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が神の力で復活させられ、そのイエス様を救い主と信じる者も将来復活することが出来るようになったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の時、イエス様が約束通り聖霊を送って下さったおかげで、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰を持てて救われた者としてこの世を生きられるようになったことを喜び祝います。

 本日の説教は三つのテーマについてお話しようと思います。最初に聖霊降臨の出来事について本日の日課の個所にもとに少し詳しく見てみます。二番目のテーマは聖霊とは何者かということについて、特にイエス様が本日の福音書の日課の中で聖霊を「弁護者」とか「真理の霊」と呼んでいて、どうしてそうなのかということを見てみます。毎年教えていることのおさらいです。最後は、本日の使徒書の日課ローマ8章でパウロが聖霊はキリスト信仰者の希望を強めてくれる働きをすると教えていますので、それについて見てみます。

2.聖霊降臨の出来事


聖霊降臨とは、先ほど朗読して頂いた通り、イエス様の弟子たちが聖霊降臨を受けて群衆の目の前で、群衆のそれぞれの母国語で話を始めたという出来事です。どんな言語にしても外国語を学ぶというのは、とても手間と時間がかかることです。それなのに弟子たちは留学もせず英会話学校にも行かず突然できるようになったのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(2章4節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話したのでしょうか?群衆の驚きを誰かが代表して言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(2章11節)」。

 弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」とはどんな業だったのでしょうか?ギリシャ語原文では複数形なので数々の業です。集まってきた人たちは皆ユダヤ人です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と聞いて理解するものの筆頭は何と言っても出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで十戒をはじめとする律法の掟を神から授けられて約束の地カナンに民族大移動していく、そういう壮大な出来事です。神の偉大な業としてもう一つ考えられるのはバビロン捕囚からの帰還です。国滅びて他国に強制連行させられた民が、神の人知を超える歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還が実現したという出来事です。さらに考えられるのは、神が私たち人間を含めた万物を全くの無から造られた天地創造の出来事も付け加えてよいでしょう。

 ところが弟子たちが「神の偉大な業」について語った時、以上のようなユダヤ教に伝統的なものの他にもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが自分たちの目で直に目撃して、その証言者となったイエス様のことでした。あの「ナザレ出身のイエス」は単なる預言者なんかではなく、まさしく神の子であった。その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の力で復活させられて大勢の人々の前に現れて、つい10日程前に天に上げられたという出来事です。これは、まぎれもなく「神の偉大な業」です。こうしてユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。太古の昔にバベルの塔が破壊されて人間の言語がバラバラになって以来、初めて人間が異なる言葉を通してでも一致して天地創造の神の偉大な業を称えることが起きたのです。

 そこでペトロは集まってきた群衆に向かって、この不思議な現象を説明します。群衆の中には新種のぶどう酒で酔っぱらってこんなことが出来るのだ、などと的外れなことを言う人もいました。それに対してペトロは、酔っぱらってなんかいません!今はまだ朝で酔っぱらっていい時間でないことくらいわかっています!などと的外れな意見に真面目に応答するのがユーモラスに感じられます。それでは、この不思議な現象は一体何なのか?

 ペトロの説明は大きく分けて二つの部分からなっています。最初の部分(2章14ー21節)では、この不思議な現象は旧約聖書ヨエル書の預言の実現であると言います。後半部分では、イエス様の出来事そのものについて説き明かしをします(2章22ー40節)。この後半部分が群衆の神への立ち返りをもたらす決定打になっていますが、本日の日課から外れるので、そこには今日は立ち入らず後日に譲り、今日は前半部分だけを見ます。

 ペトロはまず、この不思議な現象はヨエル書3章1ー5節の預言の成就であると説き明かしします。分岐した炎のような舌が弟子たち一人一人の上にとどまって彼らは異国の言葉で「神の偉大な業」について語り出しました。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言の言葉そのままの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きた、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だったとわかったのです。

 ところでペテロは、ヨエル書の箇所を引用する時に「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と述べます。「終わりの時に」とはギリシャ語原文では「終わりの日々に」です。ところが、ヘブライ語原文のヨエル書では「終わりの日々」とは言っておらず、「その後に」と言っています。これはペトロが引用で改ざんしたのではなく、ギリシャ語訳の旧約聖書が「終わりの日々に」と訳していることに倣ったのです。訳した人たちは終末論の観点でヘブライ語の意味を確定したわけです。ペトロはそれに倣ったのでした。

それでは「終わりの日々」とはどんな日々かと言うと、イエス様が天に上げられて以後の人間の歴史は彼の再臨を待つ日々になるというのです。イエス様が再臨する日とは、今ある天と地が新しく創造され直すという天地大変動の時で、それはまた唯一残る神の国が現れて、誰がそこに迎え入れられるかという最後の審判が行われる時でもあります。イエス様の再臨を待つ日々は「終わりに向かう日々」なのです。イエス様の昇天からもう2千年近くたちましたが仮に3千年かかろうとも、彼の再臨を待つ以上は「終わりの日々」なのです。19節からそういう天地の大変動について預言されています。20節で「主の日」が来ると言われていますが、これは旧約聖書の預言書によく出てくる言葉です。バビロン捕囚の後の時代には終末論的に理解されるようになります。イエス様の十字架と復活の出来事の後は彼の再臨の日を意味するようになります。

21節を見ると、そういう天地の大変動の時に無事に神の国に移行できるのは、創造主の神の名により頼む者たちであると言われています。ペトロの大説教の後半は、群衆にそのような者になりなさいと導く内容です。

こうして聖霊降臨の日に全く異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。まさにそうした宣べ伝えの初日に3000人もの人たちが洗礼を受けました。キリスト教会が誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。

3.弁護者、真理の霊

 それでは、聖霊とは一体何者でしょうか?まず、キリスト信仰では神というのは、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父や御子と同じように人格があるのかと驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)、まさしく人格を持つ者です。

 それでは、人格を持つ聖霊とは一体どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章にかけてイエス様は最後の晩餐の席上でこれから起こることについて話します。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。しかし、神の力で死から復活させられて、その後で天の神のもとに上げられる。弟子のお前たちとは別れることになってしまうが、神のもとから聖霊を送るので、お前たちがこの世で孤児のようになることはない。そうイエス様は聖霊を送る約束をしました。その時イエス様は、本日の福音書の箇所でも言われるように、聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼びます。聖霊が弁護者ならば、何に対して私たちを弁護してくれるのか?真理の霊とは、何が真理でそれをどうしようと言うのか?これらのことは以前の説教でも何度かお教えしましたが、何度繰り返して教えてもよい大事なことなので、ここでも述べておきます。

 聖霊が「弁護者」ならば、何に対して私たちを弁護してくれるのか?それは私たちを告発する者がいるから弁護してくれるのです。では何者が私たちを告発するのか?それはサタンと呼ばれる霊です。悪魔です。サタンとは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが十戒の掟の光に照らされて、外面的にも内面的にも神の意思に沿う者でないことが明るみに出ると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、自覚を失意と絶望へ増幅させます。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ。神聖な神の御前に立たされたら木っ端みじんさ」と。旧約聖書のヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前に進み出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけば本当はどうしようもない罪びとなんですよ」などと言います。悪魔のそもそもの目的は人間と神の間を引き裂くことです。もし私たちが神の罪の赦しを信じられなくなるくらいに落胆してしまったり、または罪を認めるのを拒否して神に背を向け神のもとから立ち去ったりすれば、それはもう悪魔にとって万々歳なことになります。

 人を落胆させたり神のもとから立ち去らせるものには罪の他にもあります。私たちがこの世で遭遇する不幸や苦難です。神は私の至らなさに不満でそれでこんな目に遭わせているんだ、と自分に原因を見て絶望してしまったり、または、私の何が悪くてこんな仕打ちを!と神に原因を見て失望してしまったりします。このような絶望、失望に陥ることも悪魔の目指すところです。

私たちがどんな状況にあっても神の愛を信じられるように、しっかり神のもとにとどまることが出来るように助けてくれるのが聖霊です。聖霊は罪の自覚を持った人を神の御前で次のように言って弁護してくれます。「この人は、イエス様が十字架の死をもって全ての人間の罪の償いをして下さったとわかっています。それが自分の罪に対してもそうであるとわかって、それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いているのです。それなので、この人が信じているイエス様の犠牲に免じて赦しが与えられるべきです」と。翻って聖霊は私たちにも向いて次のように囁きかけて下さいます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられています」と。キリスト信仰者は神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦してくれるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通して聖霊を受けた以上はこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ、「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲に免じて赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言って下さるのです。その時、私たちは本当にもう罪は犯すまいという心を強く持つでしょう。

 不幸や苦難に陥った時も同じです。心の目をゴルゴタの十字架に向けることで、あの方が私の救い主である以上は、この私と天地創造の神との結びつきは失われていないのだとわかります。神との結びつきがあるということは神にしっかり守られていることだとわかります。あの方は十字架の上で犠牲になられたが、神の想像を絶する力で復活させられ、今は天の神のもとにいて、そこから、あらゆる力、罪、死、悪魔も全部、御自分の足下に踏み潰しておられる。そのような方と私は洗礼によって結び付けられている。そういうふうにわかると不幸や苦難が違ったものに見えてきます。それまでは不幸や苦難は神が自分を見捨てた証拠とか神の不在の証拠のように見えていたのが、今度は逆に、存在しかつ見捨てない神と一緒にくぐり抜けるための一つのプロセスに変わります。真に詩篇23篇4節の御言葉「たとえ我、死の陰の谷を歩むとも禍をおそれじ、なんじ我と共にいませばなり」が真理になります。嵐吹き荒れる時でも一緒に歩んで下さる神に心が向くようになります。その時、不幸や苦難はもはや自分を打ちのめそうとする嵐ではなくなり、ただの耳障りな強風、煩わしい雨水にしかすぎなくなります。全身ずぶ濡れにはなりますが、家に帰れば湯船につかって服を取り換えてさっぱりできるんだ、というような気持ちで歩めるようになります。フィンランド人だったらサウナでしょう。

次に聖霊が「真理の霊」とはどういうことか?2週間前の説教でもお教えしましたが、キリスト信仰の観点では人間がイエス様を自分の救い主と信じる信仰に入れるのは聖霊の力が働かないと出来ないということです。人間の理解力、能力、理性では、イエス様は単なる歴史上の人物に留まります。約2,000年前の現在イスラエル国がある地域でナザレ出身のイエスは旧約聖書とその神と神の国について教えを宣べて多くの支持者を得たが、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと衝突してしまい、その結果、ローマ帝国の官憲に引き渡されて十字架刑で処刑されてしまった。そういう歴史上の人物理解に留まります。

ところが聖霊の力が働くと、これらの出来事は見かけ上のもので、その裏側には万物の創造主の計画が実現したという真理があることがわかるようになります。つまり、イエス様が神の想像を絶する力で復活したことで彼が神から贈られたひとり子であることが旧約聖書の預言を通して明らかになります。では、神のひとり子ともあろう方がなぜ十字架で死ななければならなかったのか?それは、人間が内に持ってしまっている、神の意思に背こうとする性向すなわち罪を神に対して償う犠牲の死であったことがやはり旧約聖書の預言から明らかになります。イエス様の死は人間が神罰を受けないで済むようにと人間を守るための犠牲の死であり、罪の償いを受け取った人間は神から罪を赦された者と見てもらえるようになります。罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世とこの世の次に到来する世の双方を生きられるようになりました。それなので、この世から別れた後も復活の日に神がイエス様の時と同じ力を及ぼして復活させてくれて神の国に迎え入れて下さる。そうした旧約聖書に約束されたことを実現するためにイエス様の十字架の死と復活が行われたのでした。これらのことが、歴史上の見かけの出来事の裏側にある本当のこと、真理なのです。聖霊はこの真理を私たちの心に示す働きをするのです。

人間がイエス様のことを自分の救い主とわかるようになるのは、この真理を示されたことに気づいたからです。人生のいろんな経験を通して神はこの気づきへと導かれます。気づかせた聖霊の働きを一過性のものにしないで恒常的なものにするために人間をその働きの下に服させるようにするのが洗礼です。洗礼に至る前に聖霊から働きかけられてイエス様を救い主と信じられるようにはなってきても、聖霊の働きの下にすっぽり覆われないと、この世に跋扈するいろんな霊に引っ張りまわされます。イエスは救い主ではないとか、また、救い主は沢山あってイエスは単なるそのうちの一人にすぎないとか、霊たちはそのように言います。しかし、聖霊の下に服したら、もう他の霊の言うことは何の意味もなさなくなります。万物の創造主の神との結びつきを持って生きることができるので、霊的に安全地帯にいることになります。

(以下は説教の時に長くなるので省略しました。「ところで、先ほど見たような習ったことのない外国語で神やイエス様のことを語る力を「異言を語る力」と言います。聖霊降臨の出来事はまさにその力が与えられた出来事でした。このような特別な力は「恵みの賜物」とか「聖霊の賜物」と呼ばれ、ギリシャ語でカリスマと言います。こうした賜物は教会が一つにまとまって成長するのに資するようにと、聖霊が自分の判断で誰にどの賜物を与えるか決めて与えます。それゆえ、何か賜物を与えられても、与えてくれた方は取り上げることも出来る方だとわきまえて、謙虚に本来の目的のみに仕えるように用いることが求められています。キリスト教の教派によっては、聖霊の賜物を追求することを強調する派もあるのですが、ルター派はどちらかと言うとその点はおとなしい方かもしれません。なぜそうなのかはいろいろ理由が考えられますが、一つには、聖霊のことをここで申し上げた「弁護者」、「真理の霊」として捉えていることが大きいのではないかと思われます。」)

4.聖霊が希望を強めてくれる

最後に聖霊がキリスト信仰者の希望を強めてくれることを本日の使徒書の日課のパウロの教えから見てみましょう。まず背景としてローマ6章から7章にかけてパウロが教えていたことを駆け足で見てみます。

人は洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられると、罪に対しては死んで神に対して生きるようになると言います。罪に対して死ぬと言うのは、罪が洗礼を受けた人を支配しようとしても出来ないくらいにその人は死んでしまっているということです。だから、洗礼を受けた人は罪に服従することはなくなって、代わりに神に服従するようになるのです。しかしながら、洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられたとは言っても、私たちは実際はまだ死んで葬られていないし、ましてや復活して復活の体も纏っていません。私たちはまだ肉の体を纏っており、それは罪が肉の思いをたきつける格好の道具になってしまっています。さらに、十戒の掟が神の意志に反することは罪であるとはっきり言い、私たちの真実の姿を晒す鏡のように立ちはだかります。キリスト信仰者は十戒の掟を通して神の意志が何であるかわかっているのですが、その通りに行えない、語れない、思考できない自分というものを、まさに十戒を通して気づかされてしまうのです。そうなると私たちは、洗礼を受けるとますます神から遠ざかってしまうのでしょうか?

いいえ、そういうことではないのです。パウロは7章の最後で、キリスト信仰者は意識や理解の面では神の命じることに従っているが、肉の面では罪の命じることに従っていると言います。しかし、洗礼を通してイエス様と結ばれている者には神の裁きはないと断言するのです。8章1節です。つまり、意識や理解の面で神の命じることに従っていることが大事なのです。もちろん肉の面でも従えれば言うことなしですが、それは復活の日に神の栄光に輝く復活の体を着せられる日まで待たなければなりません。今の肉の体の時は、意識や理解の面で神の意志に従うということが楔のように肉の体に打ち込まれているのです。

意識や理解の面で神に従うということに続いて、パウロは、キリスト信仰者に洗礼の時に注がれた聖霊が宿っている限り、信仰者は間違いなく復活に向かって進んでいると言います。8章11節です。神はキリスト信仰者に宿る聖霊を通して信仰者の朽ち果て滅びる肉の体を永遠に生きる体すなわち復活の体に変えて下さるのです。

意識や理解の面で神の命じることがわかっていて、聖霊が宿っていれば、大丈夫、信仰者は復活に向かって進んでいます。そこでもう一つキリスト信仰者を大丈夫にするものについて言われます。それが8章24節で言われる「希望」です。パウロがここで言う希望の内容は23節にあるように、肉の体から解き放たれることです。将来、死者の復活が起きる日に朽ち果てる肉の体に替わって神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられる、これが希望の内容です。その体は今のこの世の段階ではまだ目にすることは出来ません。希望するだけです。パウロが言うように、それを目にしたらもう希望することはないのです。目に見ていないから希望するのです。

そういうわけで「希望によって救われた」というのは、復活の体をまだ目にしていない段階で、それを希望している段階で救われた状態つまり神の国に足を踏み入れたということです。復活の体を着せてもらえるという希望を持てていること自体が、今この世で間違いなく神との結びつきを持って復活の体の国に向かって進んでいることになっている。一旦足を踏み入れてしまったら、もう抜け出せないと言えるくらいに神の国に向かって進んでいるということです。ところが、そう言われて感激したのも束の間、すぐ聖霊と肉、神の意思と罪の意思の狭間に置かれて苦しい思いをする現実に戻ってしまい希望が萎えてしまいます。

しかし、聖霊が萎えさせないのです!どうしてか?26節でパウロは言います。聖霊は私たちが弱いから助けてくれるのだ。どのようにしてか?私たちのつたない祈りを神に取り次いでくれることによって!私たちは罪の自覚の時、苦難困難の時、もちろん神に祈ります。時として、この言葉で祈り足りているのか、この言い方で聞き入られるのか、不安になります。実は私たちが祈る時、私たちに駐留する聖霊が私たちの祈りを全て神の耳に入るように祈り直して神に伝達してくれるのです。言い足りなかったことは補い、言い間違えたことは訂正して。それは人間の言葉になっていないただの吐く息のようなものかもしれないが、聖霊が取り次ぐ祈りは神の意思に沿うものになっている。だから神は私たちにどんな解決、どんな時間表がいいかちゃんと考えて下さる。このように洗礼を受けて聖霊を注がれたら最後、自分から背を向けて振り払わない限り、神との結びつきは切ろうにも切れない、希望は弱まろうとしてもそれは決して失われないものになっているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

どうか、聖書の御言葉を通して聖霊が私たちの内に働き、イエス様が真(まこと)の救い主であることを絶えず覚えられるようにして下さい。そして、あなたから頂いた賜物を隣人の救いのため、そして教会の成長のために用いることが出来るようにして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン

説教「キリストの体の部分でいれば大丈夫」吉村博明 宣教師、使徒言行録1章1-11節

主日礼拝説教 2021年5月16日 昇天主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は天地創造の神の力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのは実はこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは祝日です。近年、国民の教会離れ聖書離れが急速に進んでいるフィンランドですが、それでもカレンダーを教会の伝統に合わせることがまだ残っているのは驚きです。今日は昇天日の直近の主日で、「昇天後主日」とも呼ばれています。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天の父なるみ神の許から送ると約束していた聖霊が弟子たちに降る聖霊降臨の出来事が起こります。次主日にそれを記念します。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。

さて、イエス様の昇天ですが、それは一体いかなる出来事で、今を生きる私たちに何の関係があるのかということを毎年礼拝の説教でお教えしているところです。昨年と一昨年はエフェソ1章の聖句と結びつけて説き明かしをしました。一昨年はエフェソ1章の特に19節から21節に注目しました。そこでは、一度死んだ人間を復活させて復活の体を纏わせるということと、その者を創造主の神の御許に引き上げるということ、このことがまずイエス様に起こったわけですが、その実現には想像を絶するエネルギーが必要であるということが言われています。そのようなエネルギーを表現するのにパウロはこの短い文章の中で神の「力」を意味するギリシャ語の言葉を3つ違うものを用いています(δυναμις,、κρατος、ισχυς)。私たちの新共同訳聖書では「力」という言葉は2回しか出て来ません。もう一つはどこに消えてしまったのでしょう。エネルギーという言葉も2回あり(ενεργεια、2回目は関係代名詞ですが)、エネルギーを働かせるという動詞(ενεργεω)も用いています。このようにパウロはこの神の想像を絶する莫大なエネルギーを描写しようと頑張っているのに、日本語訳はそれが見えにくくなって残念です。とにかく死者を復活の体を纏わせて復活させることと、その者を神の御許に引き上げることには莫大な力とエネルギーが必要で、創造主である神はそのエネルギーを働かせる力がある方だということが言われています。だからイエス様の復活と昇天を起こせたというわけです。

ところがそれだけにとどまりません。ここからが大事なポイントです。神はこれと同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者にも働かせると言うのです(19節)。つまり、キリスト信仰者も将来イエス様と同じように神の力を及ぼされて復活できて天の父なるみ神のもとに上げられるのです。それで、神がこのような力を持っていて、それをこの自分にも及ぼして下さる、そう信じられるかどうかが信仰の大きな鍵になるということを一昨年に申し上げた次第です。

昨年はさらにエフェソ1章の終わりの22節と23節に注目しました。教会は「キリストの体」であるとパウロは言います。ここで言われる「教会」は、スオミ教会のような個別の教会ではありません。また複数の教会から構成される教団でも、ルター派とかカトリックというような教派のことでもありません。それは、永遠の命と復活の体が待っている天の御国に至る道に置かれて、今それを進んでいるキリスト信仰者の集合体です。個々の教会、教団、教派という人的組織を超えた見えない教会です。それが「キリストの体」です。

そしてそのキリストはと言えば、今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立って、それらを足蹴にしていると。ここで言う「支配、権威、勢力、主権」とは現実世界にある国の権力だけでなく、見えない霊的な力も全部含みます。そうすると、キリストの体の部分部分である信仰者もキリストにあってこの世の権力や霊的な力の上に立つ者になっているはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。イエス様はそうかもしれないが、信仰者は正直なところいろんな力の足蹴にされている方ではないか?「キリストの体」だなんて、パウロはちょっとはったりを効かせすぎではないか?でもこれはやっぱり本当のことなのです。昨年はこのことを確認しました。今年は、このことを19節から23節全体を見ながら、もっとはっきり出してみたいと思っています。つまり、キリスト信仰者はキリストの体の部分でいるので何があっても本当は大丈夫ということです。

2.イエス様の昇天

その前にイエス様の昇天の出来事をどう理解したらよいかということを毎年お教えしていますが、それをおさらいしておきます。

新共同訳では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみる空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書いてあります(1章9節)。この訳は問題です。これでは、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわいてしまいます。誰もスーパーマンやドラえもんを現実にあるものと思いません。それで、イエス様の昇天を同じようなイメージで捉えてしまったら、あまり真面目に受け取られなくなってしまうのではないかと心配します。

しかしながら、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。これは、スーパーマンやドラえもんとは全く異なる、極めて聖書的な現象であることがわかります。どういうことかと言うと、雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったというのが原文の書き方です。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけで、その中か上にいる筈のイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します。因みに、フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルター版のドイツ語訳聖書もそのように原文に忠実に訳しています(後注)。

そうすると、新共同訳の「雲」は空に浮かぶ普通の雲にしかすぎなくなります。しかし、聖書には旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろありました。それを忘れてはなりません。モーセが神から掟を授かったシナイ山を覆った雲しかり、イスラエルの民が民族大移動しながら運んだ臨在の幕屋を覆った雲しかりです。イエス様がヘルモン山の上でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。さらに、イエス様が裁判にかけられた時、自分は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)再臨すると預言されました。本日の使徒言行録の箇所でも天使が弟子たちに言っています。イエスは今天に上げられたのと同じ仕方で再臨する、と。つまり、天に上げられた時と同じように雲と共に来られるということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」です。それでイエス様の昇天はとても聖書的な出来事なのです。

これで、イエス様の昇天はスーパーマンやドラえもんのタケコプター飛行の類のものではない、聖書に出てくる神の雲の出来事の一つであることが明らかになりました。シナイ山やヘルモン山の雲の出来事が信じられるのであれば、同じように信じられるものです。しかし、それでも生身の体の者が雲に乗って上げられるというのは、やはり空想的すぎると言われるかもしれません。ムーミンにも似たような話があります。「ムーミン谷の春」という物語の中で大きなシルクハットの中から不思議な雲がもくもく出てきて、みんながそれに乗って空を飛び回るという話です。誰もムーミンなんて実在しないとわかるので、同じイメージを持って見たらイエス様の昇天も空想の産物に見えてしまいます。

ここで、忘れてはならない大事なことがあります。それは、天に上げられたイエス様の体というのは普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが多くありました。例えば弟子たちに現れても、すぐにはイエス様と気がつかないことがありました(このことについては今年の復活祭の礼拝説教でお話ししましたのでご関心ある方はホームページで過去の説教をご覧下さい)。また、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て、弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが自分にはあるぞ、と言って、十字架で受けた傷を見せたり、何か食べ物はないかなどと聞いて、弟子たちの見ている前で焼き魚を食べたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主である神と同質な方なので、被造物である天使と同じではありません。いずれにしても、イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。

3.天の御国

イエス様の昇天は聖書的な出来事で、上げられた時の体は復活の体であったということで、私たちの見方も空想の産物から解放されてきました。ここでダメ押しとして、天の御国というものをどう考えたらよいのかということについて見てみましょう。天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通のキリスト教会の礼拝で毎週、信仰告白の部で唱えられます。私たちも説教の後で唱えます。果たしてそんな天空の国が存在するのか?毎年お教えしていることですが振り返ってみましょう。

地球を取り巻く大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くと、成層圏、中間圏等々、いろんな圏があって、それから先は大気圏外、すなわち宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、先日も野口宇宙飛行士の帰還がニュースになりましたが、そういう宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても、天の御国とか天国は恐らく見つからないのではと思います。

どうしてかと言うと、ロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは信仰というものと全く別世界のことだからです。成層圏とか大気圏というようなものは人間の目や耳や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?

信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものです。今、天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の観点は天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたというものです。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などないと考えることも可能です。そうすると当然ながら、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなります。そうなれば、自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった方が思い出として心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す人の脳神経の作用という言い方になっていくでしょう。

ところがキリスト信仰者にとって、自分自身も他の人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものです。さらに、人間の命と人生は実は、この現実の世界だけでなく創造主の神がおられる天の御国にもまたがっていて、この二つを一緒にしたものが自分の命と人生の全体なのだ、という人生観を持っています。そういう人生観があると、神がどうしてひとり子を私たちに贈って下さったのかということがわかってきます。それは私たちの人生から天の御国の部が抜け落ちてしまわないためだったということです。つまり、人間がこの現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。

それでは、イエス様を贈ることでどうやって人間がそのような大きな人生を持てるようになるのかと言うと、次のような次第です。人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てない。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神に対して不従順になって罪というものを持つようになってしまって、人間は神との結びつきを失ってしまったからです。人間の内に宿る、神の意思に背こうとする性向、罪、それは行為や言葉に現れるものも現れないものも全部含まれます。そうした神の意思に背くようにさせようとする罪が神と人間の間を切り裂いてしまった。そこで神は、この失われてしまった結びつきを回復するために人間の罪の問題を人間に代わって解決することにしたのです。

どのようにして解決して下さったかと言うと、神は人間に宿る罪を全部ひとり子のイエス様に背負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせました。つまり罪の償いを人間に代わってひとり子に果たさせたのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、それまで閉ざされていた天の御国への扉を人間に開きました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けるとその人はイエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ったことになります。罪を償われた状態に入ることになるので神からは罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ神の御国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ててその道を進んでいきます。この世を去ることになっても、復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。このようにしてこの世の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を生きる命を持てるようになったのです。

4.キリストの体の部分でいるから大丈夫

キリスト信仰者は永遠の命と復活の体が待っている神の御国に向かう道を進んでいます。この道を歩む信仰者たちが集まって見えない教会、つまり個別の教会、教団、教派を超えた教会を形作っています。パウロはエフェソ1章で、この見えない教会の頭としてイエス・キリストがあり、教会はその体であると言います。人間は聖書の御言葉の力を及ぼされて洗礼を受けることでその体の部分になれます。そして、体の部分である信仰者は聖餐式のパンとぶどう酒で霊的な栄養を受けながら、また説教を通して御言葉の力を及ぼされて体の部分として成長を遂げていきます。

そこで、体の頭であるキリストは今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる、目に見えない霊的なものも含めた「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立っていてそれらを足蹴にしています。そうすると、キリストの体の部分部分である信仰者もキリストにあってこの世の権力や霊的な力の上に立つ者になっているはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっている自分たちはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまう現実がある。イエス様が人間を罪と死の支配から解放して下さったと分かっているのだが、罪の誘惑はやまないし死は恐ろしいです。全てに勝っている状態からは程遠いです。全てに勝るイエス様に繋がっている信仰者なのにどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?

それは、イエス様を頭とするこの体がまだこの世にあるからです。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部、この世です。この世とは、人間がこの世の人生しか持てないようにしてやろうという力が働いているところです。大きな人生なんて無理だよ、と。それで、人間が自分の造り主に心と目を向けられないようにしてやろうとか、そのようにして人間が造り主の神と結びつきを持てないようにしてやろうとか、そういう力が働いています。これらが既にイエス様の足台にされた霊的な力ですが、ただこの世では働き続けます。しかし、それらはイエス様が再臨される日に消滅します。まさにその日に、イエス様を復活させて天の御国に引き上げた神の巨大な力が今度は信仰者たちに働くのです。その結果、イエス・キリストの体は全部が天の御国の中に置かれることになります。聖書のあちこちに預言されているように、その時は新しい天と地が創造されるので、この世自体がなくなってしまうのです。

そういうわけで、イエス様の昇天から将来の再臨までの間の時代を生きるキリスト信仰者は文字通り二つの相対立する現実の中で生きていくことになります。一方では全てに勝るイエス様に繋がっているので守られているという現実、他方ではこの世の力に攻めたてられるという現実です。イエス様はこうなることをご存じでした。だからヨハネ16章33節で次のように言われたのです。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

もちろん、いくら守られているとは言っても、攻めたてられたらそんな気はしません。しかし、私たちが部分として留まっているこの体は神の想像を絶する力が働くことになる体で、今その時を待っているのです。憐れなのは攻めたてる方です。だって、もうすぐ消滅させられるのも知らずに得意になって攻めたてているのですから。そこで私たちとしては、聖餐式で霊的な栄養を受けながら、説教を通して神の御言葉の力を及ぼされながら、この体に留まって成長していくだけで十分なのです。ただ今は、コロナ禍のために聖餐式は受けられません。辛いところです。それだけに説教者は今の時ほど御言葉の力を一層引き出すために説き明かしに努めなければならない時はないでしょう。スオミ教会はキリストの体の末端に連なる取るに足らない教会かもしれませんが、それでも説教者は御言葉の説き明かしにおいては他の立派な教会の説教者と同じように最善を尽くしているということをどうかお忘れにならないように。

最後に宗教改革のルターが、キリスト信仰者はイエス様の強い守りの中にいるということと、体の部分である者同士が祈り合ってお互いを支え合うことを忘れてはならないと教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。その教えとは、マタイ11章27節のイエス様の言葉「私の父は全てのものを私の手に委ねた」の説き明かしです。

「『全てのもの』とは文字通り全てのものである。全てのものが我らの主イエス様の手に委ねられているのである。すなわち、天使も悪魔も罪も義も死も命も侮辱も栄誉も全部、主の手に引き渡されているのである。これの例外は何もない。本当に全てのものが主の下に従属させられているのである。

このことからも、イエス様の御国に繋がっていることがどんなに安全なことかがわかるであろう。彼を通してのみ、我らに真の知識と真の光が与えられる。もしイエス様が全てのものを手中に収め、父なるみ神と同じ全知全能な方であるならば、彼自らが述べているように(ヨハネ10章28ー29節)、いかなる者が来ても、彼の手から何一つ取り上げることは出来ない。確かに悪魔は機会を捉えてはキリスト信仰者をあらゆる悪に手を染めさせようとするだろう。不倫を犯させようとしたり、盗みを働かせようとしたり、人を傷つけようとしたり、妬みや憎しみで心を燃やさせようとしたり、その他考えうるあらゆる罪を犯させようと仕掛けてくるだろう。しかし、悪魔の攻撃を受けてもキリスト信仰者は怯む理由も必要もない。なぜなら、我らには悪魔をも足下に屈服させている最強の王がついていて下さるからだ。その方こそ我らを真にお守り下さる方である。

もちろん、悪魔の攻撃は君をとことん苦しめ追い詰めるかもしれず、それは考えただけでも恐ろしいことだ。それだからこそ君は祈らなければならない。君が堂々と勇敢に悪魔に対抗できるようになれるためには、信仰の兄弟姉妹たちも君のために祈らなければならない。どんなことがあっても神が君を見捨てることはない。これは揺るがないことである。イエス様は必ず君を苦境から救ってくれよう。そうである以上、君の方から簡単に神の御国から離脱するようなことはあってはならないのだ。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

(後注)英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と言うので、イエス様はまず空高く舞い上がって、それから雲に覆い隠された、という訳です。しかし、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に到達した後に雲が出てくるような印象を与えてしまうと思います。

 

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

天のあなたのみ許(もと)に上げられたイエス様のおかげで私たちが日々、罪の赦しの恵みの中で生きられ、いつもあなたに見守られていることを感謝します。どうか、復活の初穂(はつほ)であるイエス様に続いて私たちも、み前にて永遠に生きられる者にして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン

説教「時代の波風猛る時も神の愛に踏み留まり豊かに実を結ぶのみ」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書15章1-8節

主日礼拝説教 2021年5月2日 復活後第五主日
使徒言行録8章26-40節、第一ヨハネ4章7-21節、ヨハネ15章1-8節

説教をユーチューブで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.時代の状況と無縁ではないキリスト信仰

本日の使徒言行録の日課の個所は、エチオピアの高官がエルサレムの神殿にお参りをして帰る途中、使徒フィリポから福音を宣べ伝えられて洗礼を受けたという出来事です。この出来事は、人がイエス様を救い主と信じる信仰に至る時、万物の創造主の神はその人の生きた時代の中にあるいろんなことを用いて信仰に至らせるという、そんな神の大いなる導きを示しています。一般に信仰は個々人の内面のことと言われますが、神はこのように時代の状況を用いて人間に働きかけて信仰に至らせるというのが本当ではないかと思います。本日の説教ではこのことをエチオピアの高官の受洗を通して見ていこうと思います。

それから本日の福音書の日課の個所は、イエス様がキリスト信仰者に対してブドウの木の枝が木に繋がって実を結ぶように信仰者もイエス様に繋がって実を結べと教えるところです。これも、イエス様を救い主と信じる信仰に至った者は今度は神と共に時代の状況に働きかける側になるということを意味しています。このことについても見ていきます。

そういうわけで本日の説教は、キリスト信仰というのは信仰に至るまでも、また至った後も時代の状況とは無縁ではないということがテーゼになります。

2.神は時代の中にあるいろいろなものを用いて人を信仰に導く

エチオピアの高官の受洗について、まずこの出来事が記載されている使徒言行録という書物について述べておきます。この書物は、死から復活されたイエス様が天に上げられ、その後で聖霊降臨の出来事が起こって、聖霊の力で弟子たちがイエス様を救い主であると宣べ伝え始めるところから始まります。弟子たちの伝道がエルサレムから始まって、現在のトルコ、ギリシャを経てイタリアへと地中海世界に広がって行く過程が描かれています。最後はパウロがローマに護送されたところで終わり、大体30年間位の出来事が記録されています。まさにキリスト教の誕生史で、読む人に世界史の新しい時代の幕開けを印象付ける書物です。

本日の箇所にはガザとかエチオピアとか、私たちが耳にする地名や国名が出て来ます。ガザは、今でこそパレスチナとイスラエルの不幸な紛争のために中東情勢の熱い焦点の一つですが、本当は紀元前1500年位からある歴史的な町で、ローマ帝国の時代は平穏な町でした。エチオピアの方は、本日の箇所に出て来るのは現在のエチオピア国家と関係はなく、当時エジプト南部の地域はそう呼ばれていました。当時そこにはユダヤ人の居住地がありました。どうしてかと言うと、イエス様の時代から約300年位前のアレクサンダー大王の時代、ギリシャからパレスチナを経てエジプトに至るまでの地中海東部の地域はヘレニズム文化と呼ばれるギリシャ系の文化が栄えていました。この地域ではギリシャ語が公用語になっていました。まさにその頃、ユダヤ人の居住地が広がり、各地に会堂・シナゴーグが建てられました。使徒言行録のパウロの伝道旅行をみますと、彼はたいてい訪問先で初めにシナゴーグを訪れます。そこで、エルサレムで起きた事件、イエス様の十字架と復活の出来事を知らせ、旧約聖書の預言が実現したことを伝えます。それを聞いたユダヤ人たちはいつも信じる者と信じない者に分裂しました。

 これらの地中海世界のユダヤ人は旧約聖書の言葉であるヘブライ語が出来ませんでした。それで彼らのために旧約聖書がギリシャ語に翻訳されました。本日の箇所でエチオピアの高官が読んだイザヤ書53章7ー8節ですが、よく見ると、私たちが手にする旧約聖書のそれと少し違っています。これは、私たちの旧約聖書はヘブライ語から翻訳されたものなのに対し、エチオピアの高官が読んでいたのはギリシャ語の旧約聖書だったことによります。翻訳文がもとの文と違っているということがよくあるのです。エチオピアの高官は、ギリシャ語系のユダヤ人と接触があって、それでギリシャ語の旧約聖書を読んで天地創造の神を信じるようになり、エルサレムの神殿にお参りに行くようになったのでしょう。ただし宦官でしたので割礼は受けられません。天地創造の神を信じ、メシアの到来を待ち望む信仰を持つには至っても、正式にユダヤ教徒とは認められなかったのです。

地中海世界にユダヤ教が広がったのは、ユダヤ人が移住したことの他に、移住先の現地人たちが改宗したこともありました。ユダヤ教に改宗するというのは、現代の目で見ると少し奇異な感じを持たれる方がいらっしゃるかもしれません。それは歴史を通してユダヤ教やユダヤ人に対する迫害と偏見が長く持たれ、特にキリスト教側から否定的なイメージが作られたことが影響していると思います。ここではそういう後世に出来てしまった見方を脇に置いて、2000年前はどうだったかという、当時の視点で見てみますとかなりイメージが異なってきます。例えば、2000年前のギリシャ・ローマ世界の性のモラルは奔放というかルーズなところがありました(ひょっとしたら現代も似ているかもしれませんが)。そういうところでユダヤ教は、人間を男と女に造った創造主の神は男女の結びつきにおいて姦淫、不倫を許さない、という生き方を示しました。また、当時の地中海世界には間引きの風習がありました。つまり余分な赤子は父親の権限で処分するという嬰児殺しが当たり前のことのように行われていました。これに対してもユダヤ教は、人間は神に造られたもので母親の胎内の中にいる時から神に目をかけられているという生命観を示して間引きに反対したのです。

このように、人間を神に造られたものと見なし、そこに人間の価値を見いだすユダヤ教は多くの人を惹きつけました。特に女性の中に多くの賛同者を得ました。ただし、女性は割礼を受けられないので男性と同じ立場で正式なユダヤ教徒にはなれません。こうして各地のシナゴーグの周りには旧約聖書の神を信じるが割礼を受けられないでいる、そういうユダヤ教徒予備軍が大勢いたのです。使徒言行録の中に何度も「神を畏れる者」という言葉が出て来ますが、まさに彼らのことです。そこにある日突然パウロなる男がやって来て、旧約聖書の預言はイエス・キリストの受難と復活によって実現した!彼を救い主と信じて洗礼を受ければ割礼など受けなくとも神の民、神の子となれるのだ!と教え出したのです。さあ、割礼なくして憧れのユダヤ教徒になれるとなれば予備軍は一気になだれ込みます。このようにしてキリスト教は一気に広がったのです。もちろん、割礼やモーセ律法の儀式的な戒律を大事にするユダヤ人も大勢いました。彼らはパウロの教えを認めることはできません。ローマ帝国の官憲も巻き込んでパウロを迫害します。このようにして、キリスト教はユダヤ教の中から生まれて急速に広まりますが、同時に強い反対も引き起こしていったのです。

以上のような時代状況を使徒言行録は明らかにしています。ここでエチオピアの高官の受洗を見てみましょう。彼はイザヤ書53章7ー8節の、屠り場に引かれる羊や毛を刈られる小羊のように口を開かなかった主の僕とは誰のことか?と悩んでいました。実は、彼が読んだギリシャ語のイザヤ書の箇所はヘブライ語の原文よりやっかいです。ヘブライ語では「羊のようにおとなしい主の僕は捕まって裁きを受けて命を落としてしまい、彼の同時代の者は誰もそのことを気に留めない」という書き方です。ところがギリシャ語の方は「主の僕はへりくだったことによって彼の裁きが取り除かれる」などと言います。それに続いて「彼が死ななければならなかったことを誰が説明することができるだろうか?」などと問います。ヘブライ語とかなり違っています。

(ここで一つ注釈しますと、新共同訳では「卑しめられて、その裁きも行われなかった」と訳されていますが、ギリシャ語原文ではエチオピアの高官が読んだ部分は「彼がへりくだったことによって彼の裁きが取り除かれる」です。ギリシャ語のイザヤ書の個所もその通りになっています。参考までに各国語ではどう訳されているかを見ると、フィンランド語訳とスウェーデン語訳はこれと同じです。ルター版のドイツ語訳は「彼の裁判は廃止される」で、新共同訳の「裁きが行われなかった」に近いです。英語のNIVは「彼の正義が奪われる」で、裁判が行われなかったことを意味するのであれば日独に近いです。フィンランド語訳とスウェーデン語訳は裁き=有罪判決が取り除かれるということで、私はギリシャ語原文の意味はこれだと思います。)

もしエチオピアの高官がヘブライ語で読んだのなら、主の僕が具体的に誰かはわからなくても何か迫害を受けたことはわかります。ところがギリシャ語を読むと、へりくだったことによって裁きが取り除かれるとあり、何のことかわかりません。しかも、主の僕の死の意味を誰かが説明しなければならないとも言っていて、裁きが取り除かれるのに死んだことにもなっています。ますますわからなくなります。

実を言うと、このわかりにくいギリシャ語の文はイエス様の出来事を知っている人ならばわかる内容なのです。へりくだったことにより裁きを取り除かれるというのは、フィリピ2章のキリスト賛歌を思い出すとわかります。そこで言われていることは、イエス様は十字架の死に至るまでへりくだって神に従順だったこと、その後で神に高く上げられたということです(8~9節)。神に高く上げられたというのは、神の力で死から復活させられ、さらに天に上げられて神の右に座すに至ったということです。まさに、へりくだったことによって裁きを取り除かれたのです。

それから、イエス様の十字架の死の意味を誰かが説明しなければならないということについて、誰がそれをするのか?イエス様が天に上げられた後、イエス様の十字架の死と死からの復活について宣べ伝えるのは使徒たちの役目になりました。ギリシャ語版のイザヤ書を読んで悩めるエチオピアの高官のもとに使徒の一人であるフィリポが送られたのです。ヘブライ語で読んでいたらこのような展開にはならなかったでしょう。それでは、なぜ彼は旧約聖書をギリシャ語で読んだのか?それにしてもなぜ彼は旧約聖書を読むようになったのか?なぜエルサレムに巡礼に行くようになったのか?そうしたことは先ほど述べた時代状況を思い起こせばわかります。

フィリポはイザヤ書53章の主の僕についての預言から始めて、イエス様の福音を宣べ伝えました。教えた内容について記述がないので正確なことはわかりませんが、主旨はこういうことです。天地創造の神が贈られたひとり子のイエス様が十字架の上で人間の罪の神罰を受けて死なれ、人間に代わって罪の償いを神に対して果たされた。それで彼を救い主と信じて洗礼を受ければイエス様の果たしてくれた罪の償いが効力を持つ。それで罪を償ってもらった者とされる。罪を償ってもらったから神からは罪を赦された者と見なされ、罪を赦されたのであれば神との結びつきを回復したことになる。さらに神はイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に開いて下さった。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者はその道に置かれてそれを歩むことになる。神との結びつきがあるから、順境の時も逆境の時も常に神から守りと良い導きを得てその道を進み、万が一この世から別れることになっても、復活の日に目覚めさせられて、永遠の命が待つ神の国に迎え入れられるようになった。以上のような福音が伝えられました。時代を超えて私たちにも伝えられる福音です。

イエス様を救い主と信じたエチオピアの高官は洗礼を志願し、フィリポはそれを施します。これでエチオピアの高官は、割礼なくして天地創造の神と結びつきをもってこの世とこの世の次に到来する世の双方にまたがる命を持って生きることとなりました。エチオピアの高官の受洗は、神が時代の中にあるいろんなことを用いて導いたことの結果なのです。

3.キリスト信仰者が結ぶ実 - 神の愛に立つ愛

福音書の日課の方を見てみましょう。有名なイエス様のぶどうの木のたとえです。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は、ぶどうの木と枝のように繋がっているというたとえです。

budounoki

2節をみると、イエス様という木に繋がっている枝の信仰者は、実を結べば父なるみ神に手入れしてもらってさらに実を結ぶ、と言われます。3節では、弟子たちはイエス様の話した言葉によって既に清くなっている、と言われます。興味深いのは、「手入れをする」という動詞(カタイレイκαθαιρει)と「清い」(カタロイκαθαροι)という形容詞がギリシャ語では同類語で言葉の引っかけになっています。それで、弟子たちはイエス様の言葉によって手入れをしてもらって清い枝になっているという意味になります。手入れをしてもらって清い枝になるというのは、栄養を一層受け取る枝になっているということです。

ぶどうの枝が実を結べるのは木と繋がっているからです。枝が木と繋がっていなければ木から栄養を受けられないので結べません。当たり前のことです。それでは信仰者がイエス様という木から受ける栄養とは何でしょうか?それは言うまでもなく神の愛です。神の愛とは、本日の使徒書の日課、第一ヨハネ4章で言われているように、ひとり子を犠牲にしてまでも人間を罪と死の支配から解放して、復活と永遠の命に至る新しい命を生きられるようにしてあげようという愛です。人間が罪と死の支配から解放されるためには先ほど述べたように神のひとり子の犠牲による罪の償いと赦しが行わなければなりませんでした。このような神の愛と罪の赦しの恵みがキリスト信仰者が受ける栄養です。

神の愛と罪の赦しの恵みという霊的な栄養を受けて実を結び、さらに手入れをしてもらってもっと栄養を受けられるようになってもっと多くの実を結べるようになる。ところが、イエス様に繋がっていながら実を結ばない枝は、父なるみ神が農夫のように切り取ってしまう、と言います。イエス様に繋がっていながら実を結ばないとはどういうことでしょうか?

キリスト信仰者が実を結ばなくなるとは、霊的な栄養を受けなくなってしまったことを意味します。それはどういう状態でしょうか?それは、イエス様を救い主と信じることがなくってしまうことです。罪を人間と神の関係にかかわる問題と見ないで、人間と人間の間のことだけと考えてしまうことです。6節でイエス様は、取り除かれた枝は集められて燃やされてしまうと言っていますが、これは最後の審判を意味します。私はここでは、イエス様を拒否することや裁きの問題はこれ以上深入りしないことにします。というのは、本質的なことは、どうしたらイエス様が私たちの間で救い主として保たれるかということです。そのためには、神との結びつきを持って生きることが何ものにも代えがたい価値あることとわからなければなりません。それをわかるようにしないで地獄に落ちるのが恐かったら信じろ、というやり方は本末転倒です。本日の使徒書の日課、第一ヨハネ4章の中でも、恐れと罰は表裏一体である、恐れには神の愛がないと言われています(4章18節)。

それでは、キリスト信仰者が神の愛と罪の赦しの恵みという霊的な栄養を摂取して実を結ぶと言う時、その実とは一体何なのかということを考えてみましょう。第一ヨハネ4章を見ると、愛の実践ということがよく言われます。そこで言われる愛とは神の愛に立つ愛です。

9節 神の愛は、ひとり子イエス様をこの世に贈って彼を通して人間が新しい命を生きられるようにしたことで目に見える形で現れた、と言います。

10節 愛は、人間が神を愛したということにあるのではない。神が人間を愛してひとり子イエス様を人間の罪を償う生贄として贈って下さったことにあるのだ、と言います。

11節 そこでヨハネは「兄弟たち、神はこのように私たちを愛して下さったのだから、私たちもお互いに愛さなければなりません」と言います。19節でも言います。「私たちは愛そうではありませんか。なぜなら、神が最初に私たちを愛して下さったのですから。」

以上、愛についてのヨハネの立場ははっきりしています。人間が普通、愛と言っているものは実は愛ではない。愛とは、人間を罪と死の支配から解放して神との結びつきを持てるようにしてこの世とこの次に到来する世の双方を生きられるようにした、しかもそのためにひとり子を犠牲にしても構わないと思うほどであった、この神の愛が本当の愛だと言うのです。人間はこの愛で愛されて愛することができると言うのです。この愛がなければ愛することができないと言うのです。イエス様に繋がって実を結ぶというのは、まさにこの神の愛に立って愛するということです。

そうすると、キリスト信仰者は愛する時、具体的に何をするのでしょうか?一つには、まだイエス様というブドウの木に繋がっていない人たちを繋がるように導いてあげることがあります。せっかくイエス様というブドウの木がこの世に植えられて立っているのに繋がっていない人たちが大勢います。イエス様に繋がるというのは、イエス様が果たされた罪の償いを自分のものにするということです。そこに導いてあげるのは伝道の働きです。この働きは、いろいろな宗教や死生観があるところでは難しいものです。キリスト信仰者の側としては愛だと思ってやったことが、相手側から余計なお世話だとか脅威に受け取られたりします。人がどの宗教を信じるか、あるいは信じないかということは、詰まるところ、どんな死生観を持つかという問題に収れんすると思います。これは極めて現代的な問題です。

神の愛に立って愛するというのは伝道の働きに尽きません。もっと広いこともあります。それは、隣人に対してどのように振る舞うかという問題です。神の愛に立って隣人を愛するということについて聖書には沢山の教えがあります。有名なのは使徒パウロが第一コリント13章で愛について教えているところでしょう。私自身はいつもパウロがローマ12章で教えていることが大事と考えています。まず9節で「愛には偽りがあってはならない」と言います。その意味するところは、もし何か自分の利益とか名声のためとか下心があれば、もう偽りの愛になってしまうのです。その続きをざっと列挙すると、悪を憎み、善から離れるな/兄弟愛をもって互いを愛し、尊敬を持って互いに相手を自分より優れた者と思え/迫害する者を呪うな、祝福を祈れ/喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け/思いをひとつにし、高ぶらず身分の低い人々と交われ/自分を賢い者とうぬぼれるな/誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がけよ/隣人と平和な関係を築けるかどうかが自分次第である時は迷うことなくそうせよ、少なくとも自分から平和な関係を壊すな/自分で復讐するな、最後の審判の時の神の怒りに任せよ、だから、その時までは敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ/善をもって悪に勝て。

これらの中には不利益を承知のお人好しすぎることがありますが、そういうことが出来るのは、正義の問題を神が最後の審判で決着をつけて下さることに任せているからです。正義というのはやっかいなものです。誰かから害悪を被った時、こんな程度の補償や謝罪では収まらない、ということがよくあります。逆に、誰かに損害を与えてしまった時、確かに自分に落ち度はあったがまさかこんなに法外な補償を求めてくるとは、ということもよくあります。不完全な人間が判断を下して決めることは不完全にならざるを得ず、後々尾を引いてしまうのです。全知全能の神が最終的に決着をつけることでいいんだ、という姿勢でいると、この世ではエスカレートさせない、エスカレートと逆方向のことに心を向けられるのです。皆さんもご存じのように、今の世はSNSに書かれたことが原因で人の命が失われるような時代です。もし投稿する人が皆、このような心を持っていれば、SNSは素晴らしい文明の利器になるでしょう。

4.おわりに - 神の愛に立つ限り最後の審判では堂々としていられる

最後に、神の愛に立って隣人を愛するとは言っても、キリスト信仰者は十戒に示された神の意思に敏感になるので自己採点はどうしても厳しくなります。しかし、それで苦しくならないためにイエス様の十字架と復活の出来事が起きたことをいつも思い起こしましょう。私たちはイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して神の愛を受け取りました。それは人間的でない完璧な神の愛です。それなので私たちは第一ヨハネ4章17節の聖句から大きな励ましを得ます。新共同訳ではこう言っています。「こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちもイエス様のようであるからです。」

これを原文に忠実に解説的に訳すと以下のようになります。「パウロが随所で言うようにキリスト信仰者は洗礼を通してイエス様を衣のように頭から被せられています。その衣の神聖さの重みで私たちの内に残る罪を圧し潰していきます。これが、私たちがこの世でイエス様のようになっているということです。それで愛は私たちのもとで完璧なものとしてあるのです。そういうふうになっているのは、私たちが最後の審判の日に堂々としていられるようになれるためなのです(後注)。」新共同訳では「確信を持つことができます」ですが、何の確信かはっきりしません。ギリシャ語原文では「勇気を持てる、物怖じしない」という意味です。つまり、神の愛に立つ限り、最後の審判で何も恐れる必要はない、堂々としていられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注)第一ヨハネ4章17節 ”Εν τουτω τετελειωται η αγαπη μεθ’ ημων, ινα παρρησιαν εχωμεν εν τη ημερα της κρισεως, οτι καθως εκεινος εστιν και ημεις εσμεν εν τω κοσμω τουτω” をこのように訳したのは、οτι以下をτουτωの内容と考えたからです。οτι以下を理由の文に考えると全体的に上手くいかないように思えます。

特別の祈り 「全知全能の父なるみ神よ。  主イエス様は、私たちがぶどうの木につながる枝のように主につながっていれば豊かに実を結ぶ、と教えられました。どうか、私たちがイエス様にしっかりつながっていられるようにして、あなたから頂く愛と恵みを世の人々にも分け与えられる者にして下さい。  あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン」

説教「主は我が羊飼い、我に不足なし」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書10章11-18節

主日礼拝説教 2021年4月7日 復活節第四主日
聖書日課 ヨハネ10章11-18節、使徒言行録4章5-12節、第一ヨハネ3章16-24節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課の個所は、イエス様が自分のことを命がけで羊を守る良い羊飼いにたとえる教えです。羊とはイエス様を救い主と信じるキリスト信仰者のことです。そうすると、キリスト信仰者はいつもこのようにイエス様に命がけで守られて何にも害を被らないで済むのかと驚かれるかもしれません。しかし、キリスト信仰者だって、大きな病気をしたり事故に遭ったりします。それじゃ、なんだ守られていないじゃないか、イエスは調子のいいことを言ってと思われてしまうかもしれません。しかし、病気になったり事故に遭ったりしても目の前が真っ暗になりっぱなしにならない、必ず前方に光を灯してくれてそこを目指して歩めるようにして下さる、光が見えるまでは暗闇の中で傍にいて支えるように一緒に歩いて下さる、そのようにイエス様は導いて下さる、それで守られていると言うのです。

"The Hirelings run away..." by Lawrence OP is licensed under CC BY-NC 2.0

そういう暗闇の中にもあるイエス様の導きや守りというのは、本日の日課の個所だけからではなかなか見えてきません。実は本日の個所は、10章1節から始まる大きな一まとまりの中の一部です。イエス様はまず、羊の囲いについて話しをします。その後で自分のことを「囲いの門」であると言い、その次に今日の「自分は良い羊飼い」と言うのです。この全部を見ないとイエス様が自分のことを良い羊飼いと言っている意味の全容はわかりません。それに加えて16節で「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない」と言っています。、いきなり「この囲い」と言われても困るのですが、「囲い」については10章の最初で言われているので、本当にそこから見ないと今日の個所はわかりません。日本のルター派教会の区分の仕方がこうなっているためですが、文脈を無視して今日の区分だけに特化して説き明かしするのは無理があります。そういうわけで、本日の福音書の日課はヨハネ10章の11節からですが、1節から見ていこうと思います。11節から18節までは先ほど読んだので、補足として1節から10節までを拝読します。

(ヨハネ10章1~10節の朗読)

イエス様はまず1節から5節まで羊の囲いについて話します。羊の飼育が重要な産業になっているところでは塀の囲いを作って、羊を牧草地に連れて行かない時はそこに入れていました。塀は木材や石で造られました。泥棒が「乗り越える」と言うのをみると、それなりの高さがあったと言えます。さらにイエス様の話しから判断すると、囲いの中には複数の所有者の羊が一緒に入れられていたようです。羊飼いが、さあ、これから自分が所有する羊を牧草地に連れて行こう、とやってきて、囲いの門番に所有者である本人確認をしてもらって門を開けてもらう。そして、自分の羊を呼び集める。羊は生まれた時から同じ羊飼いに飼われていれば自分の羊飼いを声で聞き分けられたでしょう。別の羊飼いが近づいて来て連れ出そうとすれば、すぐわかって引き下がったでしょう。こうして、羊飼いはどれが自分の羊かわかり、羊も誰が自分の羊飼いかわかって、一緒になって牧草地を目指して囲いの外に出て行きます。

以上の話は、当時の人が聞いたら、身近であたりまえなことの描写でした。イエス様は何のためにこんな話をし始めたのでしょうか?イエス様がこの話をしたのは、ある安息日の日に盲目の人の目を開く奇跡を行った後でした。人々の間でイエス様のことを、こうした奇跡が行えるのは神から送られた者だからだと言う人もいれば、逆に、安息日には仕事をしてはならないという律法の掟を破ったのだから神由来などではないとか賛否両論が沸き起こりました。ファリサイ派という当時のユダヤ教社会の宗教エリートたちは、イエス様が神から送られた方ということをどうしても信じようとしない。それでイエス様は彼らの心の目は盲目であると指摘したのでした(9章39ー41節)。このやり取りの続きとしてイエス様は羊の囲いと羊飼いの話をされたのです。

羊の囲いの話は、当時の人なら誰にでも思い浮かぶ身近な光景でした。ただ、イエス様は何か大事なことをわかりやすく教えるために人々にとって身近なことを取り上げたのです。その大事なこととは、自分が何者で何のためにこの世に送られてきたかを明らかにすることでした。宗教エリートたちは6節で言われるように、この話が何を意味するのか理解できません。そこでイエス様は話しを説き明かします。まず自分は羊の囲いの門であると言い、次に自分は良い羊飼いであると言います。門も羊飼いも話の中にありました。キーワードです。イエス様が羊の囲いの門である、良い羊飼いであるというのはどういうことかわかれば、イエス様が何者で何のためにこの世に贈られてきたかがわかります。

2.イエス様は羊の囲いの門

イエス様はヨハネ10章9節で次のように言われます。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」日常身近なこととして考えれば、確かに、門を通って囲いの中に入る羊は危険から免れて安全な状態にいます。そして囲いを基地として今度は羊飼いに導かれて出て行けば牧草地にたどり着けます。ここの霊的な意味は絶大です。新共同訳では「門を出入りして」と言って、行ったり来たりの感じがしますが、ギリシャ語原文を見ると「門の中に入って、そして外に出る」と言っていて、行ったり来たりの感じはありません。「中に入って、そして外に出る」だけです。

イエス様という門を通って中に入るというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者の群れの中に入ることを意味します。どんな群れかというと、万物の創造主である神、人間に命と人生を与えた造り主の神と結びつきを持ってこの世の人生を歩む者の群れです。そして、この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて神の国に迎え入れられる者の群れです。このようにこの世においても、この次に到来する世においても天地創造の神との結びつきを持って生きる者の群れです。

このようにイエス様という門を通って群れの中に入って神との結びつきを持つようになったら、今度は「外へ出て、牧草地を見いだすことになる」と言います。これは、群れに加わった者がイエス様という良い羊飼いを先頭にしてこの世の荒波の中に乗り出して行くことを意味します。そして、この群れは最後には緑豊かな牧草地にたとえられる神の国に到達します。渇いた荒地を長く歩いた羊にとって牧草地は別天地であり安息の場です。それと同じように、この世の荒波を生きぬいた者たちにも神の国という労いと安息の地が約束されているのです。

このように、この世においても、この次に到来する世においても天地創造の神との変わらない結びつきを持てて生きられること、これが「救われる」ということです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は、まさにイエス様という門を通って救われた者の群れに加わるということです。

それでは、なぜ、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることが、そのような神との結びつきを持てて救われることになるのか?それは、人間には神聖な神の意思に反しようとする性向、罪があるためで、この罪の呪縛から人間を解放するためにイエス様が働かれたのでした。父なるみ神はひとり子のイエス様をこの世に送って、彼があたかも全ての人間の罪の責任者であるかのようにして彼に他人の罪を全て負わせて、その神罰をゴルゴタの十字架の上で受けさせたのです。つまり、人間の罪の償いをご自分のひとり子に果たさせたということです。それで今度は人間の方が、このことは自分のためになされたのだとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったことになるので神から罪を赦された者として見なされます。罪を赦されたから、その人は神との結びつきを持てるようになっています。神との結びつきが持てるようになれば、復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれて、その道を歩むようになります。イエス様が死から復活させられたことでそこに至る道が開かれたのです。

イエス様のことを通らねばならない門であるということは、イエス様自身、別の個所でも述べていました。ヨハネ14章6節です。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

ギリシャ語の原文では、「道」、「真理」、「命」それぞれの単語に定冠詞ηがついています。英語で言えばtheです。イエス様は天の父なるみ神のもとに到達できる道、真理、命の決定版ということです。そういうわけで、救いに与る者たちの群れに加われるためには、イエス様は真に通らなければならない門なのです。

「わたしよりも前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」(8節)と言う時の盗人とか強盗とは何か、考えてみましょう。これは、人間を救いの群れから連れ去って、神の国に向かう道から外してどこか別のところに引っ張って行こうとする者たちです。そして引っ張って行った先で屠ってしまい滅ぼしてしまう。「滅ぼしてしまう」というのは、せっかく神との結びつきを持てて生きられるようになったのに、それが全て失われてしまうことを意味します。何が救いの群れの中にいる者をこのような滅びに陥れるのでしょうか?この世には、神との結びつきを壊そうとするもので満ち満ちています。私たちはイエス様の十字架のおかげで神から罪の赦しを日々与えられているのに、それを与えられないようにするものがいろいろあるのです。

もしキリスト信仰者が神の意思に沿うように語ったり行ったり思ったりすることが出来ない自分にガッカリしてしまう時があれば、それは霊的に健康である証拠です。なぜなら、その時その人は心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しが今も打ち立てられたままであることを見て、神への感謝と畏れを新たにして歩み始めることが出来るからです。ところがこの世は、神の意思に沿えなくても、そんなことはいちいち悲しんだりしなくてもいいんだよ、とか、神はそんな厳しいことは言っていないよ、神は愛だから何でも認めてくれるよ、とかいうような声で満ちています。まさしく創世記3章に出てくる蛇の手口と同じです。そういう惑わしに乗ってしまえば、もう罪は気づかないものになってしまいます。罪に気づかなければ、赦しの必要性も感じられなくなります。そうなれば、イエス様の十字架と復活は自分とは関係のない出来事になってしまい、それでイエス様は自分の救い主ではなくなります。まさにこの時、神との結びつきは失われてしまいます。

盗人、盗賊とは、このような惑わす声をもって近づいてくるもの全てを意味します。私たちは、そのような声に耳を傾けず、イエス様の声に耳を傾けるべきです。イエス様の声とは、まず聖書の中に記されているイエス様の言葉があります。それから直接イエス様から世に遣わされた使徒たちの教えもイエス様の声の延長です。これらに加えて、イエス様の言葉や行いの裏付けになるものが旧約聖書の至るところにあります。それらにも耳を傾ければイエス様の声がよりよく聞こえてきます。

ここでイエス様が16節で言われたこと、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」、これについて見てみましょう。「この囲いに入っている」羊と「入っていないほかの羊」がいて、イエス様は両方の羊のグループを荒地の向こうにある緑豊かな牧草地に導いていく、つまり、この世の荒波の海路の向こうにある永遠の安息地、神の御国に導いていく、ということです。囲いに入っている羊と入っていない他の羊とは何を指すのでしょうか?

囲いに入っている羊と言うのは、ユダヤ人の中でイエス様を約束の救世主メシアと信じた者たち、つまり「ユダヤ人キリスト教徒」です。ペトロもヨハネも他の12弟子もイエス様の母マリアも、それからパウロも皆、ユダヤ人キリスト教徒です。囲いに入っていない他の羊と言うのは、ユダヤ人以外の諸民族で後になってイエス様を救い主と信じた人たち、「異邦人キリスト教徒」です。彼らは初めの頃はまだ囲いに入っていませんでしたが、やがてイエス様という門を通って囲いに入って神との結びつきを持つ群れに加わり、そしてイエス様という「良き羊飼い」に導かれて、最初のグループと一緒に牧草地を目指すようになりました。この異邦人キリスト教徒のグループは具体的には、初めはローマ帝国内の諸民族、やがてヨーロッパやアフリカやアジアの諸民族に広がっていきます。イエス様は、この「ユダヤ人キリスト教徒」と「異邦人キリスト教徒」の二つのグループを一つの群れとして、神の御国に導くと言われるのです。

意外に思えるかもしれませんが、聖書のなかで人間界を二分している主要な境界線は、キリスト教徒か非キリスト教徒かではありません。そうではなくて、ユダヤ人かまたは「その他大勢」かです。この「その他大勢」が俗にいう異邦人と呼ばれるものです。そのなかには、日本人だけでなく、ヨーロッパ人も、アメリカ人も、アフリカ人も、中国人も韓国人もみんな全部一緒くたに含まれます。「エフェソの信徒への手紙」2章で使徒パウロが教えるように、キリストは十字架で人間を罪の支配から贖う業を行って、この二つのグループ、つまりユダヤ人と「その他大勢」を一つの体として神と和解させたのです。

3.イエス様はいつも共にいて下さる良い羊飼い

 さて、イエス様という門を通って救われた者の群れに加わったら今度はイエス様を羊飼いとして囲いを出て牧草地を目指して進んで行きます。ここでは、良い羊飼いと雇い人とが対比されます。雇い人は、羊の所有者に代わって羊の番をする者ですが、狼が現れるなど危険が生じると羊をおいてさっさと逃げてしまう。ところが、良い羊飼いはそのような場合でも逃げはせず、羊を守るためだったら、自分の命さえも惜しまないと言うのです。実際、イエス様は人間が罪の支配から解放されるために人間の全ての罪を引き取って、それから生じる全ての神罰を受けて自分を犠牲にされました。イエス様は十字架に掛けられる前の晩、この犠牲を引き受けることができるかどうか自問自答して苦しみますが、それが自分をこの世に遣わした父なるみ神の御心である以上、それに従って引き受けますと言ったのです。

ここで狼が何を象徴しているか見てみましょう。盗人、強盗の場合は、人間を救いの群れから連れ去って、神との結びつきを失わせて滅びに導くものでした。狼の場合は、羊を盗んだり連れ去ることが直接の目的ではなく、羊やその群れを即破壊することを目的とします。その意味で狼は、罪の支配力、罪の呪いそのものを象徴しています。しかし、イエス様は十字架の死を遂げることで抱き合わせの形で罪の力を無にし、人間をそれらから救い出して下さったのです。

次に雇い人ですが、これは本当の羊飼いではない偽りの羊飼いです。本当の羊飼い、良い羊飼いのイエス様は自分の命と引き換えに人間が神との結びつきを回復できるようにしました。御自分の流した血を代価・身代金として、人間を罪の支配下から解放した/買い戻した/贖い出したのです。偽りの羊飼いである雇い人には同じことはできません。偽りの羊飼いについて、ユダヤ民族の歴史には具体例がありました。エゼキエル書34章をみると、神は、自分の民を羊の群れ、その民の指導者を牧者にたとえて、牧者が羊の群れを養わずに自分自身を養っているだけの無責任を非難します。そして、無能な牧者に代わって真の牧者を起こすと約束します(エゼキエル34章10、23節)。イエス様がこの世に送られたというのは、この預言の実現だったのです。

さて、キリスト信仰者は自分の命を投げ出してまで守ってくれるイエス様を救い主と信じて復活の日を目指して進んで行くのですが、それでも大きな病気になったり事故にも遭遇する。そうなると守ってもらえなかったということなのか?そうではないということが、これまでの説き明かしで明らかになったのではと思います。

少し振り返りますと、牧草地を目指して進むというのは、復活の日の神の国を目指して進むことでした。人間が神の国に迎え入れられるようになるために、イエス様はそれを妨げる罪の力を自分を犠牲にして無力にしました。そうして罪の償いと罪の赦しを自分のものにしてその中に留まる人たちが誕生しました。彼らを復活の主が神の国へと導き、道中を守って下さるようになりました。

その道中が害悪の一切ない常時平穏無事な世界でないことは、例えば詩篇23篇4節でも言われています。「たとえ我、死の陰の谷を行くとも禍を恐れじ。」イエス様に守られて導かれる者でも、「死の陰の谷」を進まなければならないことがあるのです。しかし、「禍を恐れじ」。なぜなら、暗闇の時にも「汝、我と共にあり」だからです。暗闇なのにどうやってイエス様が共にいて下さるとわかるのかと言うと、もし道を外しそうになったら、羊飼いが杖で叩いてそっちじゃないと気づかせてくれるように、気づかせてくれると言うのです。「汝の鞭、汝の杖、我を慰む。」一瞬痛みを感じたかもしれないが、主はちゃんと傍におられるとわかる安心が痛みなどなかったようにします。

そういうわけで目の前が真っ暗になりっぱなしにならない、イエス様は必ず前方に光を灯してくれて、そこを目指して進めるようにして下さる、光が見えるまでは暗闇の中でもちゃんと傍にいて支えるように一緒に歩いて下さるのです。イエス様がそんなに身近におられるのがわかる人というのは、聖書の御言葉を身近なものにし聖餐に与る人です。今コロナで聖餐式を持てませんが、その分み言葉を身近なものにすることが大事になっています。主にあって兄弟姉妹である皆さん、このことを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

どうか、あなたに罪を赦して頂いたので十戒を喜んで受け入れる心と、それをしっかり守れない私たちのためにひとり子イエス様を送って下さったあなたの愛に感謝する心を与えて下さい。そして、感謝のうちに、あなたを全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛する心もお与えください。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

説教「復活の主から旧約聖書を教わって、彼の力に与ろう!」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書24章36b~48節

Witnesses of the Resurrection

聖書日課 使徒言行録3章12~19節、第一ヨハネ3章1~7節、ルカ24章36b~48節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

先週申し上げましたように、日本のルター派教会の聖書日課は復活祭から聖霊降臨祭までは第一の日課は旧約聖書ではなく使徒言行録からです。フィンランドでは通常通り旧約聖書からです。どうして違いがあるのかわかりませんが、日本にいるので日本のやり方に従って説き明かしをしていきます。とは言っても、説教の中で旧約聖書に立ち戻ることはいつもあります。新約聖書は旧約聖書を土台にしているので、旧約に立ち返らずに新約を教えることは不可能です。

本日の3つの日課はどれもイエス様の復活が中心にあります。使徒言行録の個所では、ペトロが足の不自由な人を癒した後で驚く群衆に向かってどうして癒しが起こったのか説明します。そこでイエス様の復活を信じることが決め手になっていることを話します。第一ヨハネの個所では、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者は神の子とされており、将来復活の日にはイエス様と同じようになるのだと言います。そして福音書のルカの個所は、ずばり復活したイエス様が弟子たちの目の前に現れた時の出来事です。このように本日の日課は、というか本日の日課も、イエス様の復活はキリスト信仰にとって大事なことなのだと私たちに言い聞かせています。そういうわけで本日の説教でもイエス様の復活と私たちの将来の復活について深めていこうと思います。本説教では、3つの異なるテーマについてお話しようと思います。一つ目は、イエス様の復活によって旧約聖書がユダヤ民族にとっての神聖な書物から全世界の民族にとって神聖な書物になったということ。二つ目は復活の体について。三つ目は復活したイエス様の名前が持つ力についてです。

2.イエス様の復活と旧約聖書の普遍化

復活祭から聖霊降臨祭までは復活節と呼ばれる期間です。約2000年前のその時は復活したイエス様が昇天するまで40日間地上にいて弟子たちを初め大勢の人たちに姿を現し、弟子たちに旧約聖書を正確に教えた期間でした。本日のルカ24章44節でイエス様は次のように言われます。モーセ五書と預言書と詩篇の中で自分について書いてある事柄は全て実現されなければならないということ、これこそが十字架の出来事の前にお前たちに言っていたことなのだ。その次の45節を直訳するとこうです。イエスはこれを言って弟子たちの閉じていた理解を開いてあげて聖書がわかるようにしてあげた。つまり、弟子たちは旧約聖書の随所にイエス様のことが書かれていることがわからず、その意味で旧約聖書がわかっていなかった。それをわかるようにしたということです。

そうしたイエス様について書かれていながら、そうと理解されていなかった事柄の例として、次のことを述べます。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。そして、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」これは旧約聖書のいろんな個所をまとめてくっつけたようなものです。分解すると、まず神から遣わされた神聖な方が人間の罪の償いのために身代わりとなって神から罰を受け苦しみを受けて死なれたということ。これはイザヤ書52~53章にかけてあります。また、ダビデの子孫の死の苦しみについては詩篇22篇にあります。イエス様が3日間葬られた状態でいた後に復活されたことは、預言者ヨナが大魚の腹の中に3日間閉じ込められた後で脱出できたことが暗示していました(マタイ12章39~40節)。ホセア書6章2節では、3日後の復活が暗示されています。またイザヤ書49章6節を見ると、神に遣わされた神聖な方が諸国民の光となって神の救いが世界の果てにまで及ぶようにすることが述べられています。

弟子たちの旧約無理解の是正はエマオの道の出来事にも起きます。これは今日のルカの個所の直前にある出来事です。二人の弟子が沈鬱な表情でエマオに向かっていました。そこに復活したイエス様が合流しますが、なぜか二人はイエス様とはわからない。彼らは困惑した様子で話します。民族の解放者と期待されていたイエス様が死刑にされてしまった上に彼の遺体が墓になかった。墓に行った女性たちが天使からイエス様は生きておられると告げられた。これらは一体何なのだ、全くわけがわからない。そこでイエス様はいかにも呆れたという様子で返します。お前たちは旧約聖書を全く知らないからそうなってしまうのだ、メシアが苦しみを受けた後で神から栄光を受けると書いてあるではないかと。そして弟子たちに旧約聖書について講義を始めるのです。旧約聖書にはイエス様に起こったことを言い当てた御言葉が沢山あることが教えられます。このようにイエス様の十字架と復活の後で旧約聖書はイエス様を知るための書物として立ち現われたのです。

弟子たちが旧約聖書をそのように理解していなかったのは、当時「メシア」の理解の仕方がユダヤ民族を異民族支配から解放してくれる王様というものが一般的だったからでした。確かに旧約聖書のメシアに関係する個所はそのように理解できました。しかも、バビロン捕囚後のユダヤ民族がずっと大国の支配に置かれ続けたという歴史状況の中ではそういう救国の王様への期待が強まるのはやむを得ないことでした。しかし、聖書にはそのような理解では意味不明になる個所が多くありました。イザヤ書53章の人間の身代わりになって苦しみのうちに死ぬ「神の僕」とは一体誰か?「衣を取ろうとしてくじを引く」(詩篇22篇19節)とはなんのことか?「渇くわたしに酢を飲ませようとする」(詩篇69篇22節)とはなんのことか?

ところが天地創造の神の最大の関心事は、ユダヤ民族を他民族の虐げや支配から解放することではなく、民族に関係なく人間全てを支配している罪と死から解放することだったのです。

どうして神はそんな解放を目指したのでしょうか?それは、もともと人間は神に造られた当初は罪と死の支配下になかったからでした。それが、創世記の最初に記されているように、人間が神の意思に反しようとする性向すなわち罪を持ってしまったために神聖な神との結びつきが切れてしまい、人間は死ぬ存在になってしまったのでした。人間を造られた神としては、なんとか結びつきを回復してあげようと計画を立てそれを実行に移したのでした。まず、ひとり子をこの世に贈って人間として生まれさせて人間の痛みや苦しみがわかるようにしました。次に、ひとり子を通して人間に神の意思を正確に教え、また今の世が終わった後に到来する神の国についても教えました。そして解放の業を成す時が来ました。神のひとり子は人間と神の結びつきを断ち切ってしまった原因である罪を全部自分で引き受け、ゴルゴタの十字架の上でその神罰を全て受けて死なれました。イエス様の十字架の死はまさに人間に代わって罪の償いを神に対して果たして下さったことだったのです。

実に復活されたイエス様が旧約聖書とはそうした神の人間救済計画について教える書物であることを明らかにしたのでした。これで弟子たちにも合点がいきました。イザヤ書53章の人間の身代わりになって苦しみ死ぬ「神の僕」とはまさにイエス様のことであり、「衣を取ろうとしてくじを引く」も「渇くわたしに酢を飲ませようとする」もみな、イエス様が十字架にかけられたことについて言っていることが明らかになったのです。こんなのは序の口と言えるくらい数多くの聖句がイエス様の活動や彼に起こった出来事について言っていることが明らかになりました。これでメシアの意味が民族の解放者から人間を罪と死の支配から救う救い主に結晶化したのです。
このようにイエス様の復活によって旧約聖書は人間に救いをもたらそうとする神の意思を表す書物であることが明らかになりました。それなので救いの実現のために大きな役割を果たす神のひとり子について述べるのは当然なのです。

イエス様の復活は旧約聖書の性格を大きく変えただけではありません。彼の復活により死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、また永遠の命が待つ神の御国に至る道が人間に開かれたのです。人間はイエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものに出来れば罪を償ってもらった者になります。罪を償ってもらったら、神から罪を赦された者として見てもらえ、罪を赦されたら、もう神との結びつきを切り裂くものはなくなってその結びつきの中で生きられます。万物の創造主の神と結びついて生きていければ神以外に何も恐れるものはなくなります。万が一この世から別れることになっても恐れなく神に全てを委ねて眠りにつき、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられ永遠の命を与えられて神の国に迎え入れられます。本当にイエス様の復活のおかげで私たちにこのように永遠の命に至る道が開かれました。

そこで、どうすればその道に入れてそこを進めるようになれるかと聞かれるでしょう。それにはイエス様の果たされた罪の償いを自分のものにすることがないといけません。それでは、どのようにして自分のものにすることが出来るのでしょうか?それは、イエス様が私の身代わりになって罪の償いを果たして下さった、だから彼は私の救い主ですと信仰告白して洗礼を受けることによってです。そうすると罪の償いがその人の内に入って、その人は永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。

3.復活の体について

本日の使徒書の日課、第一ヨハネ3章でキリスト信仰者は復活の日にイエス様と同じようになると言われています。イエス様と同じようになるとはどうなるのでしょうか?それを知る手掛かりとして復活されたイエス様がどのようであったかを見てみます。イエス様の復活については、2週間前の復活祭の説教で詳しくお教えしましたが、今日は少し違った角度から見ていきます。

本日の福音書のルカ24章で復活したイエス様が弟子たちの前に現れます。弟子たちの驚きようから察するに本当に突然彼らの間に立っていました。ヨハネ20章ではさらに詳しく、扉には鍵がかかっていたのに、いつの間にかイエス様が弟子たちの間に立っていました。弟子たちが、幽霊が出たとパニックに陥ったのは当然です。しかし、イエス様は、幽霊ではないと否定し、その証拠に手と足を見て触ってみよ、幽霊には肉と骨はないが自分にはちゃんとある、確認しなさいと命じます。このようにイエス様には一応体があります。ただ自由に空間移動をするので私たちの体とは異なっています。しかし、幽霊のように体があるのかないのか不確かな存在ではありません。さらに、食べ物はないかなどと聞いて、みんなの見ている前で食事もする。ここまでくると、復活したイエス様は少なくとも私たちと同じ食欲を持つ存在です。しかし、それでも私たちと異なり自由な空間移動が出来るので、今ある天と地の中で働いている重力Gのような自然法則に支配されていません。

使徒パウロは、第一コリント15章で、体には今のこの世での体と将来の新しい世での「復活の体」の二つがあることについて詳しく教えています。復活の日が来ると、「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」(52-53節)。また、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42-43節)と言います。イエス様はズバリ、死者の中から復活する者は天使のようになるのだと言っています(マルコ12章25節)。

またイエス様は十字架刑の時に被った手足の傷を見せます。これは復活後のイエス様は死ぬ前のイエス様と同一人物であることを如実に示します。イエス様は、体の有り様はこの世的なものから「復活の体」へと全く異なるものにはなったけれども、復活後も同じイエスとしての自我を持ち、死ぬ前の出来事を完全に過去のものとして、今は全く新しい現実に生きる者となっている。このように、神から復活させられる者は死ぬ前と同じ人格と自我を持ち、他方で体は全く新しい「復活の体」という存在になるのです。

このことは実は、日本の仏教の間でごく一般に抱かれている死生観と大きく異なる点ではないかと思います。そこでは、人は死ぬと成仏に至る何十年かの修行の道への歩みを始めるとされます。キリスト信仰では復活の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに眠り、復活の日に目覚めさせられます。また、仏教で修行の道を歩む者は住職から戒名という新しい名をもらいます。

聖書の観点では、「名前」というのは単なる名称にとどまりません。人の名前はその名前を持つ人そのものないしその人がその人である本質も意味します。それなので「神の名により頼む」とは「神により頼む」の意味で、「神の名を侮辱する」とは「神を侮辱する」です。またよく使われる「父と子と聖霊の御名によって」というのも、考えるとわからなくなってきますが、要は「父と子と聖霊と繋がって、結ばれて」です。または、「父と子と聖霊の影響下に服して」と言ってもいいと思います。そういうわけで「父と子と聖霊の御名によって」洗礼を受けると、それは三位一体の神に本気で結びつけられてしまうことになります。洗礼とは本当に大変なことなのです。

話が少しそれましたが、キリスト信仰では亡くなった方がこの世の体から離れて復活の日の体を待っている状態においても、同じ人、同じ人格なので新しい名前を付ける必要はありません。

このようにキリスト信仰では、死からの復活とは新しい体を伴う復活であり、死ぬ前と復活後の人格は同一で復活後も自我を持つということがはっきりあります。そのように復活した者が自分の造り主、自分に命を与え罪と死の支配から解放してくれた神のもとに迎え入れられる。これがキリスト信仰者の死生観です。

ところで、2000年前のイエス様の復活と将来の私たちの復活の間には大きな違いがあります。イエス様の復活は、今あるこの世の中で起きました。つまり、私たちが今生きている天と地の下で起きました。私たちの将来の復活は、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる時(イザヤ65章17節、66章22節)、そして、造られたものは全て揺り動かされて取り除かれ、揺り動かされない神の国だけが現れる時(ヘブライ12章26-28節)に起こります。その時がいつであるかは、神以外に知ることは許されていません(マルコ13章32節)。その時、イエス様は天使の軍勢を従えて再臨し、この世の人生で彼を救い主と信じる信仰にしっかり留まった者たちを神の国に迎え入れます。その時、既に死んでいて眠りについていた人たちは復活させられてから、御国に迎え入れられます。

こうして復活の体と命を得た者たちが一堂に会する神の国は、大がかりな結婚式の祝宴にもたとえられます(黙示録19章7、9節)。それは、この世の人生に起きたあらゆることについての完全かつ最終的なねぎらいを受ける時です。先ほど見たように復活の体は食欲を持つので、祝宴ではこの世離れした最上級のものが供されるでしょう。どんなメニューか考えただけでもワクワクしてしまいそうです。こんなことを考えるのは不謹慎でしょうか?

4.名前の力を信仰で受け取る

先ほど聖書の観点では名前は単なる名称に留まらず、名前を持つ人そのものないしその人がその人である本質も意味すると申しました。この観点は、本日の使徒言行録の個所の理解にとって大事です。ペトロが足の不自由な人を癒す時、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言います。「イエス・キリストの名によって」というのは、「イエス・キリストと繋がって、結びついて、その影響下に服して」ということです。足の不自由な人は歩けるようになりました。イエス・キリストと繋がる、結びつく、影響下に服するとはどういうことか考えてみましょう。その前に、イエス・キリストという名前ですが、キリストは新約聖書が書かれているギリシャ語のクリストスです。クリストスは旧約聖書が書かれているヘブライ語ではムシィーアハ、メシアです。つまるところイエス・キリストというのは、メシアのイエスという意味です。メシアの意味は、先ほど見たように人間を罪と死の支配から解放する救い主です。

「イエス・キリスト」、「メシアのイエス」と繋がる、結びつく、影響下に服するというのはどういうことか?それがわかる手がかりが本日の使徒言行録の中にあります。ペトロが群衆に対してどうしてこの人の足が治ったかについて説明しているところです。16節でペトロはこう言います。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」

名前が強くしたり癒したりするというのは分かりにくいですが、先ほど見たようにイエス様そのものイエス様の本質が強くした癒したという意味です。ここで思い出さなければならないことはイエス様そのものとか彼の本質とは言うまでもなく、彼が神のひとり子であること、十字架の上で人間の罪を償い罪の人間を死に陥れる力を殺いだこと、そして死から復活されて死を超えた永遠の命を持って生きておられること、これらがイエス様そのもの、彼が彼である本質です。そのような本質を備えた方がこの足の悪い人を強める力があったのです。

しかしながら、イエス様そのものにそのような力があるとしても、それだけでは不十分であることをペトロは同じところで言っています。「それは、その名を信じる信仰によるものです。」「その名を信じる信仰」とはずばり、その名前を持つ方、イエス様を信じる信仰のことです。つまり、癒しは二つの条件が重なって起こったのです。まず、イエス様は今は天の父なるみ神の右に座してはいても地上で癒しを行う力を持っているという条件。それと、イエス様を救い主と信じる信仰があり、その信仰がイエス様の力を受け取る受け皿になっているという受け手側の条件。この二つの条件は人間の救いにもあてはまります。イエス様は十字架と復活の業で人間の救いを実現されたのではありましたが、人間の側で信仰の受け皿でそれを受け取らないとダメなのです。受け取らないでいたら実現した救いは人間の外側によそよそしく留まってしまいます。だから、福音の伝道と洗礼は大事なのです。

ペトロの言葉の後半ではこう言われていました。「イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」「イエスによる信仰」とはわかりにくいと思います。各国語の訳も苦労しています。それらについてはここでは立ち入りません(後注)。ここは直訳すると「イエスを経由してある信仰」とか「イエスを手段にしてある信仰」です。つまり、「他の者を経由しない信仰」、「他の者を手段にしない信仰」です。そうすると、やはりイエス様を唯一の救い主と信じる信仰ということになります。ペトロは、イエス様が持つ力と彼を唯一の救い主と信じる信仰がその力の受け皿になっているということ、この、力と受け皿が一緒に働いて癒しが起きたと言っているのです。

それでは、イエス様に癒しを与える力があり、私たちの方でイエス様を救い主と信じる信仰があって、イエス様の力を受け取る受け皿を持っていたら、同じような癒しは必ず起こるのか?これはとても気になるところです。イエス様には力があり、こちらもイエス様を救い主と信じて力を受け取る受け皿はある、それなのに力が来ないで癒しが起きなかったらどうしようと心配もします。その時は次のように考えたらよいでしょう。確かにイエス様には癒しを与える力があり、私も彼を救い主と信じて癒しを受け取る態勢はできている。もし癒しがすぐ起きなくても、それは直ぐには起こさないから引き続き祈りなさいと時間をかけさせようというお考えなのでしょう。あるいは、神は目前の癒しではなく別のことで力を与えたのであり、その別のことで神の栄光を現わしなさいということでしょう。いずれにしても、力ある方と信仰という受け皿の両方がそろっていれば、病気をはじめ他のあらゆる事柄に神の栄光が増し加わる何かが必ず起きます。それなので力ある方が私たちの一番期待していることに働いてくれなくとも、別のことで働かれるので大丈夫です。それで大丈夫と言うのが、復活の希望を持って生きるキリスト信仰者です

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注)使徒言行録3章16節のペトロの言葉の後半にある、足の不自由な人を人々の前で完全に癒したものを「イエスによる信仰」と言っていることについて。ギリシャ語原文はη πιστις η δι’ αυτουで、直訳すれば「彼を通してある信仰」、「彼を手段にしてある信仰」。「彼」でなくて「彼の名前」の可能性もありますが、名前はその人そのものと考えれば「彼」でもいいことになります。それに「彼の名前」だったら、前半にある言い方に倣ってη πιστις του ονοματος αυτοςないしη πιστις αυτουになるのでは?
参考までに他の国の言葉ではどう訳しているか見てみますと、
英語NIVは、Jesus’ name and the faith that comes through him。
ドイツ語(ルター訳1912年版)は、den Glaube durch ihn。
スウェーデン語は、den tro som kommer genom detta namn。
フィンランド語は、usko, jonka Jeesus antaa。
英語は「名前」にこだわったので原文にないJesus’ nameをつけたのでしょう。つけないでthe faith that comes through himだけだったら原文通りになると思います。ドイツ語のihnは恐らく「名前」でしょうね。スウェーデン語はドイツ語と大体同じです。フィンランド語「イエスが与える信仰」は上手に逃げた訳ということでしょうか。考え方は間違ってはいませんが。それにしても新共同訳の「イエスによる信仰」とはどういう意味でしょうか?

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

イエス様が十字架の死に至るまであなたに従順だったおかげで、この世界に死と絶望を超える復活の希望が打ち立てられました。どうか、この希望を持って生きる私たちがいつも主にある喜びに満たされるように、私たちを日々見守り支え導いて下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン