説教「キリスト教徒で何が悪い!」 吉村博明 牧師 、マタイによる福音書10章40-42節

主日礼拝説教 2026年6月28日(聖霊降臨後第五主日)

聖書日課 エレミア28章5-9節、ローマ6章12-23節、マタイ10章40-42節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の旧約聖書の日課は二人の預言者エレミヤとハナンヤの対決場面でした。時は紀元前590年代、ユダ王国は強大なバビロン帝国に攻められて首都エルサレムは陥落。バビロンの王は自分の言うことに聞き従う者を王に仕立てて一旦引き返します。エレミヤは、国民に向かってユダ王国はバビロンによってさらに徹底的に破壊される、その軛を受け入れなければならないと宣べ伝えました。その時ハナンヤが現れて、あと2年したら神はバビロンの軛を打ち砕き、ユダ王国から持ち去った物や連れ去った人たちは祖国に戻るなどと逆のことを宣べ伝えたのです。国民はエレミヤの預言にあきあきしていたので、ハナンヤの預言を聞いて、こっちの水は甘いぞと心が動かされたことは容易に想像がつきます。それに対するエレミヤの反論が今日の個所です。

 実際に歴史はハナンヤが言った通りにはなりませんでした。ほどなくしてユダ王国は再度バビロン帝国の攻撃を受けて、エルサレムは2年間兵糧攻めにあい、最後は町も神殿も完全に破壊されて滅亡します。全てエレミヤの預言した通りになったのです。

 神はエレミヤに国の滅亡を預言させたわけですが、その意図は一体なんだのでしょうか?エレミヤ書を通して見ると、そこには滅亡だけでなく国の復興についても預言されていることに気づきます。民が連行された異国の地で心から神に立ち返ってその名を呼び求め祈りを捧げるならば、神は民を祖国に帰還させると言うのです。神の計画は災いの計画ではなく将来と希望を与える計画であると言われるのです(29章11~14節)。実際、歴史はそのように進みました。紀元前6世紀の終わりにペルシャ帝国がバビロン帝国を倒してオリエント世界の新しい覇者になります。イスラエルの民はこのペルシャの王の勅令によって祖国帰還が認められます。エレミヤが預言した通りになったのです。

 イスラエルの民のバビロン捕囚と祖国帰還という出来事から、神は人間に対して二つの大きな目的を持っていることが明らかになります。罪に対する裁きと罪の赦しという目的です。神は罪を忌み嫌いそれに対して神罰を下さずにはいられない裁きの主です。それと同時に、人間が神罰を受けて永遠に滅びてしまうことから助けたい憐みの主でもあります。これが神についての真理です。私たちは旧約聖書の遥か昔の遠い国の出来事や歴史を見る時、天地創造の神は本当に罪を忌み嫌い罰せずにはおかない方であることをわからなければなりません。しかし、そこで終わってはいけません。神は同時に罪のある人間をなんとかして自分のもとに立ち返らせよう、人間が罪を忌み嫌うようになって罪から離れて生きようとするように変えてあげようとされる方であることもわからなければなりません。

 本日の説教では、まず、この神の真理を礎にして生きる生き方はどんな生き方かということを本日の使徒書の日課ローマ6章から見てみます。次に、その生き方をこの日本で生きるとどういうことになるかということを本日の福音書の日課マタイ10章をもとに見ていきます。

2.神の真理を礎にして生きる生き方

 神は罪を忌み嫌いそれに対しては神罰を下さずにはいられない裁きの主であると同時に、人間が神罰を受けて永遠に滅びてしまうことから助けたい憐みの主でもあるという神の真理、この真理が如実に現れたのが、神のひとり子イエス・キリストの十字架の死と死からの復活の出来事でした。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上であたかも彼が人間の罪の責任者であるかのように断罪して罪の償いをさせました。そして、死なれたイエス様を今度は想像を絶する力で三日後に復活させ、人間が天の神のもとに迎え入れられる道を切り開いて下さいました。神の真理は、イエス様の十字架と復活の出来事で不動のものになったのです。それでは、この真理を礎にして生きる生き方はどのようなものになるでしょうか?

 使徒パウロは教えます。キリスト信仰者は洗礼を受けたことでイエス様の死と復活に結びつけられていると。そして、イエス様の死に結びつけられると「罪に対して死ぬ

のだと。これは、罪がキリスト信仰者にちょっかい出そうにも出せない、影響力を行使しようにもできない、従わせようとしても従ってくれない、全て肩透かしをくらってしまう、それ位にキリスト信仰者は罪に対して冷たく死んでしまっているということです。

 罪に対して冷たく死んだ者は、今度は神に対して生きるのみだと言います。人が罪に対して死ぬと、罪はその人を指図できず、その人は罪から自由になっている、罪と無関係になっている。その時、その人が関係を持つのは神になる。これが神に対して生きることになります。罪に背を向け神を向いて生きることです。洗礼を受けた者は、そういう状態になったのです。ただし、いくらイエス様の死と復活に結びつけられたと言われても、自分はまだ死んで葬られてもいないし復活も遂げていないので、そうなったという実感は起きません。しかし、洗礼はイエス様の死と復活に結びつけるものなので、一度受けたらが最後、罪に対して死に、神に対して生きるという状態になってしまうのです。後は、いつの日か本当に死んで葬られて復活の日に復活を遂げるという外見上のことが残っているだけです。実質的なことはもう既に起きたのです。

 それなので、神の真理を礎にしてこの世を生きるというのは、実質的に新しくされた命を持って生きるということになります。古いものは全てイエス様と一緒に十字架につけられてしまったからです。

 それでは、新しくされた命を持ってこの世を生きるというのはどんな生き方になるでしょうか?12節で大きな命題が掲げられます。「あなた方の体は罪と結託してしまいがちな死の体である。その体の中で罪が支配者として君臨しないようにしなさい。君臨したらあなた方は体の欲望に聞き従ってしまうだけだ。あなた方はそういう状況に陥ってはならない。」「体の欲望」と言うと何か性的なことが頭に浮かぶかもしれません。それも含みますが、もっと広い意味です。神の意思に反するとはわかっていてもやらずにはいられない、口にしないではいられない、そういう何か抗しがたい、本当に「肉の思い」としか言いようがないもの、それが欲望です。具体的に考えるならば、十戒の第四から第十の掟を思い出すといいと思います。両親を大切にしないこと、人を傷つけるようなことを言ってしまったり行ったりしてしまうこと、異性を淫らな目で見たり不倫すること、他人のものを自分のものにしてしまうこと、自分のものを他人のために役立てようとしないこと、偽証したり他人を貶めるようなことを言うこと、他人の持っているものを妬んで、それを損なったり自分のものにしようと思い描くこと等々、これらが「体の欲望」、肉の思いです。

 こうした欲望、肉の思いに従ってしまうのは罪が支配者になっているからですが、洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられたら罪に対して死に神に対して生きることになるので罪は本当は支配者ではなくなっているのです。しかし、キリスト信仰者もまだ肉の体を纏っているので、行いや言葉が自然に自動的に神の意思に沿うものにならないもどかしさがあります。それはまだ復活の体を纏っていないので無理もないことです。それなので、自分は洗礼によって本当はどんな状態にあるか、その真実を知ってそれを自覚して生きることが大切になります。それでパウロは、自分の肢体を神の義のための道具、武器にして肉の思いに対して戦えと言うのです。「神の義」とは、神聖な神の前に立たせられても大丈夫でいられる状態、焼き尽くされない状態を意味します。イエス様に罪の償いをしてもらったことを信じて償いを自分のものにした人は神の義を持てるのです。

 ところでパウロにとって、神の義の武器になりなさい、というような「~しなさい」と命じる教え方は本意ではなかったと思います。というのは、イエス様の十字架と復活のおかげで罪の支配から解放されたのだから、解放は神のお恵みです。人間が神の掟を守り抜いて勝ち取ったものではありません(そもそも、そんなことは不可能です)。だから「私たちは律法の下にではなく恵みの下にいる」と言うのです。しかし、「~しなさい」と言うと律法的になっていきます。本当はそういうふうに命令されないで自然に自動的に肉の思いを消すことが出来ればいいのですが、肉の体を纏っているのでなかなか出来ません。やはり自覚して戦うしかないのです。19節で「あなたがたの肉の弱さのゆえに人間的な言い方で言っているのです」と言っているのはまさにこのことです。本当は罪に対して死に神に対して生きている状態にあるのだから「~しなさい」などと言う必要はないのに、肉の弱さのために言わなければならない。実にもどかしいことですが、この朽ちる肉を纏ったまま神の真理を礎にして生きるとそうならざるを得ないのです。そういうわけで、この「~しなさい」は、律法的に捉えず、自分たちが本当はどんな素晴らしい状態にいるのかを自覚させる注意喚起と捉えるのが良いのではないかと思います。

3.日本で神の真理を礎として生きる

 福音書の日課マタイ10章40~42節のイエス様の教えは、預言者を預言者だから受け入れる人は預言者の報酬を得る、義人を義人だから受け入れる人は義人の報酬を得る(日本語訳では「正しい人」ですが、ギリシャ語のδικαιοςはずばり「義なる人」、義人です)、そしてイエス様の弟子を弟子だから冷たい水一杯を与える人は弟子の報酬を得るということです。これは一体何を意味するのでしょうか?まず「預言者」というのは、神から告げられた言葉を宣べ伝える役目を持つ人です。言葉の内容は将来の出来事の預言に限られません。神の意思や計画を伝える言葉は皆預言になります。一つ注意すべきは、神の言葉が私に下ったなどと言う人がみな預言者ではないということです。神の意思に沿っていないといけません。神の意思は聖書に記されています。「義人」というのは、イエス様を救い主と信じて神の真理を礎にして生きる人です。キリスト信仰者のことです。そして「弟子」というのは、神の真理を宣べ伝える人です。

 マタイ10章はキリスト信仰者が受ける迫害について述べています。それで今日の個所も迫害の文脈で理解します。つまり、迫害のさ中に預言者や義人や伝道者を受け入れて世話をする人は、それらの者が将来神から受ける報酬と同じ報酬を受けるというのです。ローマ帝国の迫害期にそのようにパウロを初めとする使徒たちを世話をした人たちがいたことは想像に難くありません。世話をした人が世話を受けた人と同じ報酬を受けるというのは、世話した人たちにも危険が及ぶことを意味します。使徒言行録17章を見ると、テサロニケでパウロをかくまったヤソンとその兄弟が当局に引っ張られていく場面があります。日本のキリシタン迫害の時もそうでした。例えば、密告に対する報奨金制度がありました。この制度のもとで聖職者や信者だけでなく彼らを世話したり匿った人もキリシタンと見なされて拷問を受けました。まさに世話する人がされる人と同じ報いを受ける事態になったのでした。しかし、次に到来する世ではポジティブな意味で神から同じ報酬を受けられるのです。

 日本で世話する人がされる人と同じ立場に置かれるというのは、江戸時代だけではありませんでした。近代日本にもありました。第二次大戦中の時、フィンランドのミッション団体SLEYの宣教師8人が帰国の機会を逸して戦争中ずっと日本に留まらなければなりませんでした。当時キリスト教会は国家権力の統制下に置かれ、自由に伝道や礼拝が出来なくなっていました。礼拝をしても当局が差し向けた目つきの鋭い男たちがやって来て、説教の最中に質問と称して言いがかりをつけて礼拝を妨害したこともありました。ゾルゲ事件の影響でしょう、宣教師が町中の人たちからスパイ呼ばわりされたこともありました。戦争末期には宣教師たちは軽井沢に集められて軟禁状態に置かれました。彼らの面倒を見たり面会をした日本人の信徒たちは周囲から「宣教師の犬」と呼ばれ顔を背けられました。そういうことが江戸時代ではなく、三世代位前の日本で実際にあったのです。

 現代の日本ではこのようなことはなくなりました。日本には数多くのキリスト教系の学校や施設があり、著名な文化人も多くいて、社会の中でキリスト教の存在や果たす役割はとても大きいです。それでは、もう同じ報酬を受けるという状況はなくなったと言えるのか?最後に少し考えてみましょう。

4.勧めと励まし

 日本の総人口の中でキリスト教徒が占める割合は1パーセント未満です。社会の中での存在や役割は大きいとは言っても、日本人の中にはまだキリスト教に距離を置く何かがあります。それについては宗教学や社会学、文化人類学のいろいろな説明があると思います。一つには、キリスト教は欧米の宗教で日本人の風土と精神に合わないというような議論があります。。遠藤周作の有名な「沈黙」の中で、棄教して仏教徒になった宣教師フェレイラが、日本はキリスト教が根を下ろさない沼地だと言っているところがあります。この見解はいかがなものか。暴力と武力で消滅させた後で、根を下ろさない沼地だなどと言うのは原因と結果のすげ替えではないか?いずれにしても、キリシタンを壊滅したことが日本人のキリスト教に対する態度に遺伝子的な痕跡を残したのではないかと思います。

 キリシタン禁制の時に日本人は全員どこかの寺に所属するという檀家制度が始まりました。所属する寺があり、そこに墓があるというのは私はキリスト教ではありませんと証明するためだったのです。最近、線香をたくことはいつから始まったのかAIに聞いてみました。答えは、仏教が日本に伝わった時に始まったが、最初は線香が高価なものだったので貴族などに限られていた、しかし、江戸時代初期に一般民衆に広まるようになったと。「江戸時代初期

とあったので、線香をたくことと檀家制度は関係があるかと聞いたら、ありますと。檀家制度の下で祖先の霊を弔うことが重要になり、そこに中国から線香を安く大量に作る技術が伝わって線香が広く普及するようになったと。つまり、檀家制度と線香をたくことは、キリスト教の否定と裏表の関係だったのです。

 もちろん、現代では檀家制度と線香にキリスト教否定の意味があるとはあまり意識されていないでしょう。菩提寺がある人も線香をたく人も、子供をキリスト教系の幼稚園や学校に入れたり、キリスト教式で結婚式を挙げたりします。江戸時代だったら拷問ものです。しかし、キリシタン禁制から400年の時が経ち、日本人には死者の霊を祀るという霊性が深く根を下ろすようになったと思います。仏教の儀式を通して仏壇や位牌や骨壺などに亡くなった方の魂が入っていると信じられます。仏壇や墓の前で目に見えない相手に話しかけたり、願いごとを打ち明けたり、見守りを感謝したりしてコミュニケーションを保ちます。そして、そういうことがキリシタン禁制のずっと前からあったかのごとく、日本の歴史そのものであるかのようなイメージが持たれるようになりました。

 そこに、キリスト教がやってきて、亡くなった方は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っている、眠っているから何もしない、だから、墓や仏壇のところでたたずんで焼香や供え物が来るのを待ったりしない、それに私たちを見守ってくれるのは私たちの造り主、天の父なるみ神だけだ、などと言ったら、なんと思いやりのない宗教だ、と言われてしまうでしょう。キリスト教が伝統的な国では亡くなった方を追悼する式をメモリアルサービス、思い出の礼拝と言います。それが日本語でしばしば「慰霊祭

と訳されます。メモリアルサービスでは、亡くなった方の霊を慰めることはしません。慰めるも何も、亡くなった方にはもう何もなしえないので、メモリアルサービスしかないのです。このようにキリスト教では亡くなった方との関係は、その方の思い出(メモリー)を何ものにも代えがたい貴重なものとして大切にするということに尽きます。これが亡くなった方に関するキリスト教の思いやりの形です。それでキリスト信仰者は、その方と過ごせた過去の日々を神に感謝し、将来の復活の日の再会の希望を胸に抱いて神に祈りながら今を生きるというスタンスになるのです。

 そういうのはキリスト教が伝統的に強い欧米の考え方で、日本人には合わないと言われるかもしれません。しかし、檀家制度や線香をたくことが確立する以前の日本で多くの日本人がキリスト教徒になったという事実はどう考えたらよいでしょうか?彼らは、日本人に相応しくないことをしていたのでしょうか?当時の日本は下剋上でまさに諸行無常の世でした。その中で、力によらない真の正義とか諸行無常に代わる永続的なものを求める心が人々の中にあったとしても不思議ではありません。キリスト教がそれにマッチしたのではないかと思います。ただし、明治期のキリスト教受容は、欧米の圧倒的な力の差を見せつけられて、自分たちもああなりたいということがあったのではないかと思います。(第二次大戦後の受容はどうでしょうか?)

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん!確かに、キリスト教は欧米を経由して入ってきました。しかし、聖書の内容は欧米の文化文明の教本なんかではありません。それは、天地創造の神が古代オリエントと地中海世界を舞台に選んで人間を救おうという意思とそのための計画を知らしめたということ、それをその舞台の人たちが一生懸命、後の世界に伝えようとしたのが聖書です。私たち人間の命がどこから来てどこに向かい、その間にあるこの世ではいかに生きるべきかという道を示してくれるものです。先ほど述べた神の真理を礎にして、復活の日を目指して、体の欲望、肉の思いと戦いながら生きることがその道です。一体これのどこが欧米化なのか?これのどこが日本人に相応しくないことなのか?和辻哲郎は第二次大戦直後に著した「鎖国」という本の終わりで、キリスト教を壊滅させたツケは今次の敗戦という形で回って来たのだというようなことを言っているくらいです。キリスト教徒で何が悪い!日本にとって何にも悪いことはないのです!むしろ、今の日本にとっても必要すぎるものなのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「イエス様の憐れみは人を神に立ち返らせる」 吉村博明 牧師 、マタイによる福音書9章9-13、18-26節

主日礼拝説教 2026年6月7日(聖霊降臨後第二主日)

聖書日課 ホセア5章15節-6章6節、ローマ4章13ー25節、マタイ9章9-13、18-26節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課は、イエス様が徴税人のマタイにつき従うように命じ、マタイはその通りにした、そして自分の家にイエス様と弟子たちを招いた、他の徴税人その他もろもろの罪びとたちも一緒の食事の席についた、そこをファリサイ派の人たちに目撃されて非難されたという出来事です。当時は招かれて一緒に食事をするというのは家族並みの近い関係になったことを意味しました。

徴税人は当時のユダヤ教社会のなかで罪びとの最たるものとみなされていました。どうしてかと言うと、彼らの主たる任務は、イスラエルを支配しているローマ帝国のために住民から税金を取り立てたり、交通の要所で通行税を取ったりしたからでした。なぜ、占領された国民から、占領側に仕える仕事につく者が出たかというと、これが金持ちになる早道であったからです。各福音書を見ると、徴税人が認められている額以上の税を取り立てていたことが窺い知れます。例えば、ルカ福音書の3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱りつけて、「定められた以上を取り立てるな」と戒めています。同じルカ19章で改心した徴税人のザアカイは、イエス様に次のように言いました。「過剰に取り立ててしまった人には4倍にして返します。」このように、占領国の利益のためのみならず、自分の私腹も肥やしたわけですから、徴税人が自分の利益しか考えない国の裏切り者と見なされ憎まれたのは当然でした。

 イエス様は、神由来の権威をもって天地創造の神について人々に教え、無数の奇跡の業も行い、大勢の群衆が付き従うようになっていました。宗教エリートのファリサイ派は、この男は伝統的な権威に挑戦する危険人物なのかと気が気でなりません。このように大勢の人に支持されたイエス様が、突然、徴税人その他罪びとと同じ食事の席についたのです。これは、ファリサイ派にとってイエス様の教えが間違っていることを示す証拠になりました。なぜなら、罪びとは神の裁きを受ける者なのに、これを断罪するどころか、一緒に食事までするとは、この男にはもう神について教える資格はない、と。

 イエス様が罪びとを招き受け入れる仕方はよく見ると、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に入るプロセスを先取りしています。今日はそれを明らかにします。きっと、この出来事は私たちの身に覚えにあることがわかってくるでしょう。それと、本日の福音書の日課には12年間出血の病が治らなかった女性を癒したことと、ユダヤ教社会のある指導者の娘を生き返らせた奇跡もあります。これらもよく見ると、信仰に入った者が信仰者としてこの世を歩むとどういうことになるかということを先取りするように示しています。このことを説教の終わりで述べようと思います。

2.「誠実」と「憐れみ」

 ファリサイ派の批判に対して、イエス様は次の言葉を返しました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(12ー13節)。ここには大事なことが沢山詰まっています。まず、イエス様は、自分と罪びととの関係を医者と患者の関係にたとえます。そうすると、イエス様は罪びとの抱える病気を治してあげるということになります。それはどんな病気で、イエス様はそれをどのように治されるのでしょうか?それから、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」というのは、本日の旧約の日課、ホセア書6章6節にある神の御言葉の引用です。これはイエス様が罪びとを受け入れて招くこととどう関係するのでしょうか?さらに、イエス様がこの世に送られてきたのは「罪びとを招くため」と言われますが、罪びとを招くとはどういうことなのか?まさか一緒に飲み食いすることではないことは誰でもわかります。「招く」とは、どこに「招く」ことでしょうか?以下、これらのことを明らかにしていきましょう。

 当時、徴税人は罪びとの最たるものと見なされていましたが、興味深いことに、福音書に登場する徴税人は少し勝手が違います。例えば、ルカ3章では、洗礼者ヨハネが神の裁きの日が来ることを大々的に告げ知らせると、大勢の人たちに混ざって徴税人たちも洗礼を受けにやって来ました。彼らは、不安におののきながらヨハネに尋ねます。「先生、私たちは何をしたらよいのでしょうか?」これらの徴税人は、神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。同じルカの18章にイエス様のたとえの教えで、自分の罪を自覚して神に赦しを乞う徴税人が出てきます。たとえなので実際にあったことではないのですが、それでも、ヨハネのもとに集まって来た不安におののく徴税人のことを考えれば、全く非現実的な話ではありません。ルカ19章の徴税人ザアカイにしても、イエス様をなんとか一目見ようと木に登り、それに気づいたイエス様が彼を受け入れた途端、悪いことをして蓄えた富を捨てるという決心をしました。ルカ5章で、イエス様に従いなさいと声を掛けられた徴税人は「全てを捨てて」つき従いました。つまり、イエス様につき従うや否や、それまでの生き方を捨てたのです。ここが重要です。

 このように福音書に登場する徴税人は、それまでの生き方は良くないと感じつつも、自分の力では変えることが出来ないでいた、それが、イエス様の招きを受けた瞬間に生き方が変えられたのでした。ここが大事なポイントです。イエス様と一緒に食事の席についた徴税人その他の罪びとは生き方が変えられた人たちだったのです。その意味で彼らはその時はもう元罪びとだったのです。しかしながら、宗教エリートはこの変化を本当のものとして受け入れられません。彼らの目ではまだ現役の罪びとです。どうしてでしょうか?

 それは、罪の赦しが宗教エリートが重視する、戒律的な手順を踏まえておらず、イエスという一個人を通して赦しが与えられてしまったからでした。それでは、エリートたちが教えたこと守れと言っていたことが一気に意味を失ってしまいます。そのため、イエスがやっていることは神が認める罪の赦しなんかでない、罪びとたちの新しい生き方も本当ではないという見方になってしまうのです。イエス様の招きや受け入れには本当に罪の赦しがあり新しい生き方をもたらすものであるというのは、旧約聖書の神の言葉に基づいているのです。

 イエス様はホセア書6章6節の神の言葉を引用しました。「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない。」

罪びとたちが罪の赦しを得て新しい生き方を始めたのに、それを疑う宗教エリートに向かって、この言葉の意味を学びなさいと言いました。私たちもその意味をわからなければなりません。ここからが正念場です。

 ヘブライ語の原文を忠実に読むと、「私が求めるのは『誠実』であって、いけにえではない」です。福音書はギリシャ語で書かれているのでイエス様が引用した言葉はギリシャ語のエレオス「憐れみ」です。引用元のヘブライ語の言葉はヘセド「誠実」です。ヘセドは辞書によるとfaithfulnessで、日本語では「誠実」とも「忠実」とも訳せます。以前の説教では「忠実」にしましたが、やっぱり「誠実」がいいと思いました。私たちの新共同訳ではヘセドは「愛」と訳されていますが、これは後で述べるように正しくありません。

 元の言葉は「誠実」なのにイエス様が引用すると「憐れみ」に変わってしまいました。この変化の意味がわかると、イエス様の招きと受け入れが罪びとの生き方を変えたことがわかります。まず、ホセア書のホセアは、ダビデ・ソロモンの王国が南北に分裂した後に活動した預言者です。紀元前700年代の人です。南のユダ王国の国民はエルサレムの神殿で、神から罪の赦しを得るために律法に従って多くの羊や牛を犠牲の生け贄として捧げていました。しかし、それはいつしか心を伴わない表面的な行為になってしまった、儀式を重ねる一方で神の意思に反することを繰り返すようになってしまった、これではいくら生け贄を捧げても何の意味もありません。人間が自分の罪を心から悔いて神の意思に沿う生き方をしますという儀式なのに、心は改めず儀式さえしていればOKと自己満足に陥ってしまったのです。それで神は、そんな生け贄はもういらないと言われたのです。

 それでは、神は生け贄に換えて何を民に求めたかと言うと、それがヘセド「誠実」なのでした。民の神に対する誠実さとは、神に背を向けた生き方をやめて神のもとに立ち返って神の意思に沿うように生きるということです。これが神に対して誠実に生きるということです。新共同訳では「愛」と訳されているのが正しくないと言うのは、ホセア書の大切なポイントの一つとして、民が天地創造の神に背を向けて違う神々を拝むようになってしまったことを結婚相手の不倫にたとえることがあるからです。そういう背景を考えるならば、ヘセドは相手を裏切らないという意味、辞書にある「誠実」がピッタリなのです(ちなみにフィンランド語訳の聖書は「誠実」、英語訳とスウェーデン語訳は「愛」でした)。

 マタイ福音書はギリシャ語で書かれていて、イエス様はホセア書6章6節を引用した時にエレオス「憐れみ」と言ったことになっています。出来事の現場ではイエス様はアラム語という言葉で話しをしています。イエス様はアラム語で「憐れみ」を意味する言葉を発して、それが後にギリシャ語に訳されてエレオスになったわけですが、イエス様はなぜヘブライ語原文の「誠実」を「憐れみ」という別の言葉に置き換えたのでしょうか?

 実はこの変換には背景があります。イエス様の時代の200年前位に旧約聖書がギリシャ語に翻訳されました。そこでホセア書6章6節の「誠実」ヘセドは「憐れみ」エレオスと訳されたのでした。つまり、この個所の「誠実」という言葉を見てそれを「憐れみ」の意味を含ませる考え方が当時のユダヤ教社会の中に出てきたのです。ファリサイ派に反論する時にイエス様はそっちを取ったのです。どうしてか?こういうことです。ホセア書で神は、民には「誠実」が欠けていると指摘しました。生贄の捧げよりも神に対する誠実が必要なのだと。そしてイエス様は、宗教エリートには「憐れみ」が欠けていると指摘したのでした。罪びとが神のもとに立ち返って神に誠実な者になれるためには戒律に従って生贄の捧げを命じるのは意味がなく、罪びとに「憐れみ」を示すことが必要なのだ、それを自分は罪びとを受け入れて招くことで示しているのだということなのです。これが、イエス様がヘブライ語の「誠実」をギリシャ語の「憐れみ」に置き換えたからくりです。兄弟姉妹の皆さん、このことを通してでも聖書はまことに奥が深い、侮れない書物であることがおわかりになったでしょう。

3.十字架と復活こそ私たちに対するイエス様の憐れみの招き

 ところが話はここで終わりません。からくりがわかったからと言って満足してはいけません。なぜなら、イエス様が示した「憐れみ」は当時の罪びとを越えて全ての人間、現代を生きる私たちにも及んでいるからです。次にこのことを見てみましょう。イエス様が示した「憐れみ」は、罪びとを受け入れて招くことでした。受け入れられて招かれた罪びとたちは、今度は神に背を向けていた生き方を止めて神に対して誠実な者に変わりました。イエス様の罪びとを受け入れて招く「憐れみ

は、受け入れられて招かれた者の側に生き方の変化をもたらす力を持っていました。これは、まさにイエス様が行った病の癒しや悪霊の追い出しと同じ奇跡の業です。この同じ奇跡の業は時代を超えて今を生きる私たちにも及んでいるのです。徴税人のように何か具体的な悪行はなくとも、私たち人間はみな神聖な神の目から見たら、神の意思に反しようとする性向、罪を持つ「罪びと」です。そのような私たちをイエス様は憐れみで受け入れて招いて下さり、招きを受けた私たちは神に背を向けていた生き方をやめ、神のもとに立ち返り、神の意思に沿うように生きようという心になる、つまり神に対して誠実になる、そういう憐れみを私たちは受けたのです。いつ受けたのでしょうか?

 イエス様の憐れみの招きは、彼が十字架の死と死からの復活を遂げた時に本格的に始まりました。イエス様は私たちが持ってしまっている罪を全部引き取ってゴルゴタの十字架の上に運び上げてそこで神の罰を受けて死なれました。私たちが罰を受けないで済むように私たちに代わって受けられて、私たちの罪を償って下さいました。神は一度死なれたイエス様を途方もない力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を私たちに切り開いて下さいました。そこで、私たちがこれらのことは本当に起こったのだ、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその通りになるのです。罪を償われたので神から罪を赦された者と見なされるようになって、神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになるのです。そして、永遠の命が待つ神のみ国に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って歩めるようになるのです。

 このように神は私たち人間を憐れんで、ひとり子を贈って私たちが歩むべき道と進むべき方角を照らし出して下さったのです。かつて道を誤ってそれぞれの方角に向かっていた羊の群れのようだった私たちは、罪のゆえに神との結びつきを失うという病に冒されていました。それをイエス様は担って下さり、彼が受難で受けた傷によって私たちは癒されたのでした。まさにイザヤ書53章の預言の通りです。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けたことが、この神の憐れみの招きを受け入れたことなのです。それで私たちはもう、神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返って神の意思に沿うように生きようと志向する者になったのです。神に対して誠実な者になったのです。イエス様と同じ食事の席につける元罪びとなのです。

4.勧めと励まし

 このように神の憐れみの招きを受けて神に誠実な者になると、この世の歩みはどんなものになるか、福音書の日課のもう二つの出来事が先取りするように示しているので、最後にそれを見ておきましょう。

 12年間出血の病に苦しんでいた女性は、イエス様の衣に触れたら治ると信じてそうしました。それに気づいたイエス様は、「あなたの信仰があなたを救った」と言います。それを言った直後に女性は健康になりました。ギリシャ語の原文の「救った」はギリシャ語の特有な現在完了形で、その意味は「過去のある時点から今のこの時まであなたは救われた状態にあった」です。過去のある時点とは、イエス様を救い主と信じ出した時点ですので、「あなたは、私を救い主と信じる信仰に入った時から今のこの時まで救われた状態にあった」という意味になります。女性が治る前にこの言葉が言われたことに注目します。治る前です。つまり、救われるというのは必ずしも病気が治ることではないのです。もっと広い意味があるのです。イエス様を救い主を信じる信仰に入ったら、病気だろうが健康だろうが神との結びつきは変わらずにあり、天の御国に向かう道を歩んでいることにも何ら変わりはないということです。もちろん、この出来事は、まだイエス様の十字架と復活に基づく憐れみの招きが出てくる前のことですが、将来の信仰の有り様を先取りしているのです。

 指導者の娘の生き返らせも同じです。「娘は死んではいない、眠っているだけだ」と言うのは、イエス様にとっては、彼を救い主と信じる信仰に生きる者は復活の日に眠りから目覚めさせられて天の御国に迎え入れられるのだから、この世からの死はその日までの眠りにすぎなくなります。この出来事もまだイエス様の復活が起きていない時のことですが、天の御国に至る道に置かれてその道を歩む私たちにはその通りのことなのです。それで、この出来事もキリスト信仰の有り様を先取りしているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教「キリスト信仰の神の愛とは三位一体からくる愛である」 吉村博明 牧師 、マタイによる福音書28章16-20節

主日礼拝説教 2026年5月31日 三位一体主日

創世記1章1-2章4a節、第二コリント13章11-13節、マタイ28章16-20節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日は教会のカレンダーでは「三位一体主日」です。先週は聖霊降臨祭でした。聖霊がイエス様の弟子たちの上に降って、いろんな国の言葉で神の偉大な業について群衆の前で証し始めました。弟子の一人ペトロが群衆の前で大説教をし、その結果3,000人の人が洗礼を受けてキリスト教会が形成され始めました。先週はそれを記念する日でした。それで、父、御子、聖霊の三者がそろったので今日は三位一体を覚える主日です。

皆さんご存じのように、キリスト信仰では神は父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、三位一体の神として崇拝します。日本語では聖霊のことを「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と人格を持つ者として言い表しています。他の言語は確認していないですが、大体皆そうではないかと思います。三つの人格はそれぞれ果たすべき役割を持っていて、父は無から万物を造り上げる創造の役割、子は人間を罪の支配下から救い出す贖いの役割、聖霊はキリスト信仰者をこの世から聖別する役割を果たします。この世から聖別するとは、人間を神聖な神の御前に立たせても恥ずかしくない、神の目に相応しい者にしていくということです。

これら三つの人格と役割は別々であっても、全部一緒になっているのがキリスト信仰の神です。一つでも欠けたら神という全体が成り立たないのです。それなので、キリスト信仰で普通、神の愛と言っている愛は三位一体から出てくるものです。三位一体から出てくる愛とはどんな愛なのか?今日はこのことについて見ていきます。

本日の福音書の日課はイエス様の大宣教令と呼ばれる個所です。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる。」

三位一体から出てくる愛がわかるために、まず、洗礼が父と子と聖霊の御名によって授けられるというのはどういうことかを見てみます。次にイエス様が世の終わりまでいつも共にいて下さると言っていることについて。彼は聖霊降臨の10日前に天に上げられました。今天の父なるみ神の右におられる方がどうやって地上にいる私たちと共にいられるのか、それについて見ていきます。これらのことを見ていけば、三位一体から来る愛がわかってくると思います。

2.洗礼は三位一体の神に結びつける

父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けられるとはどんなことか?先ほど述べたように、キリスト信仰の神は、創造の業を行う父、人間を罪の支配下から贖う御子、そしてキリスト信仰者をこの世から聖別する聖霊が一緒の神です。父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けられるというのは、洗礼を通してこの三位一体の神に結びつけられるということです。そして、結びつけられた後は、神に創造された者として、罪の支配から贖われた者として、そして絶えずこの世から聖別される者としてこの世を生きていくことになります。そして、今のこの世が終わって次の世が始まる時に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて神の御国に迎え入れられる者になります。

神を三位一体の神と信じるキリスト信仰に入れるかどうかのカギは、実に自分のことを「神に創造された者」という自覚が持てるかどうかにあります。どうして自分が神に造られた者であるという自覚が三位一体のキリスト信仰に入れるか否かのカギになるのでしょうか?

それは、自分が神に造られた者との自覚を持つと、では、造られた自分は造り主と今どんな関係にあるかということを考えるようになるからです。何も問題ない、全てうまく行っている関係か、それとも何か問題があってうまく行っていないか?聖書は、関係はうまく行っていない、だから問題を解決しないといけないという立場です。何がどううまく行っていないのかと言うと、造られた人間と造り主の神との結びつきが失われてしまうようなことが起きてしまったからです。そのことが創世記3章に記されています。人間は神に造られたという立場を謙虚に受け入れていればよかったのに、神と張り合おうという気持ちを悪魔にたきつけられてしまって、その言うとおりにしてしまった。そのために人間の内に神の意思に反しようとする性向、罪が備わるようになってしまった。このいわゆる堕罪の出来事の結果、人間は死ぬ存在となってしまい、この世では神との結びつきもないまま人生を送り、この世を去った後は復活の体も永遠の命もなく神のもとに戻れることもなくなってしまったのです。パウロが教えるように、死とは罪の報酬です。人間が代々死んできたというのは代々罪を受け継いできたことの現れです。

しかし神は、人間がこの世では神との結びつきを持って生きられるようにしてあげたい、この世を去った後は永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげたいと、罪の問題を人間のために解決することにしたのです。それが、ひとり子のイエス様をこの世に贈ったことでした。この神のひとり子が人間の罪を全て背負ってゴルゴタの十字架の上に運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けて人間の罪を神に対して償って下さったのでした。さらに父なるみ神は、一度死なれたイエス様を最大級の力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、復活の体と永遠の命が待っている天の御国への道を私たち人間に切り開いて下さったのでした。

そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになり、その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになって、天の御国に向かう道に置かれてその道を進むようになります。

ところが、この世には人間がその道に入れるのを阻止する力、入れても踏み外させてやろうという力が働いています。そのような力に襲われた時は、洗礼の時に注がれた聖霊の出番となります。聖霊は人間が洗礼によって神との結びつきが出来ていることを思い出させてくれます。私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてイエス様の犠牲の上に築かれた神との結びつきは揺るがずにあることを示してくれるのです。聖霊はまさに信仰者を弁護し、真理を示してくれるのです。その時、私たちは再び神の大いなる恵みの業にひれ伏して、神の意思に沿うように生きようという心を新たにするのです。イエス様が命じたことを守ることができるようになるのは、実にこうした聖霊の働きがあってのことなのです。

このように、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けるというのは、神に造られた人間が神と人間を引き離そうとする力から贖われることです。加えて、造られて贖われた人間が天の御国に向かう道を進む力と支えを得られるようになることです。私たちを三位一体の神に結びつける洗礼は、復活の体と永遠の命が待つ天の御国に迎え入れるという神の約束の当事者にするものなのです。

3.神の創造は今日でも意味がある

ここで少し脇道に入ります。先ほど、三位一体の神を信じる信仰に入れるかどうかは「神に創造された者」という自覚があるかどうかがカギになっていると申し上げました。その自覚がないと、造り主と自分の関係はどうなっているかという問いは起きず、問いが起きなければ、神のひとり子がこの世に贈られて十字架の死を遂げ死から復活されたことが何の意味があるのかわからない。意味が分からなければ、聖霊が聖別の役割を果たそうとしても空振りに終わります。それ位、人間が神に造られたということを認めるか認めないかは信仰に入るか入らないかの決め手になるのです。

ところが、今日では神の創造を信じることが難しくなっています。それは、進化論が生命について説得力ある説明をしていると考えられるからです。生物は長い時間をかけて単純なものが複雑なものに進化していく、そのプロセスで環境の変化についていけないものは消え、変化に適応できる力をつけたものが進化して続いていく、そのように説明すると、生き物は神が一つ一つ造ったなどとは言えなくなります。人格を持った神なんか持ち出さずにいろんなことが説明できるようになります。そうなれば、もう人間は造り主がどう思っているなんて気にしないで自分の好きなようにやればいい、自分こそ自分の主であり、神なんかにとやかく言われる筋はない、ということになります。自分と神との関係はどうなっているか、うまく行っているのかいないのか、などと考える必要はなくなります。イエス様の十字架と復活の業も必要なくなります。さて、天地創造を出発点にする聖書とその聖書を信じて生きる人たちにとって大変な時代になりました。

このことについて私は3年前の三位一体主日の説教で旧約の日課創世記1章から2章の初めまでの個所をもとに説き明かしをしました(2023年6月4日の説教)。そこで、神の創造は、時代遅れの考え方ではない、今日において重要な意味があるということを述べました。どのように述べたかはここでは繰り返しませんが、2点だけ触れておきます。一つは天と地とその他のものを創造されたのが6日間だったことについてでした。それは、創造には6段階あって、それぞれの段階を1日と呼んでいると見れば、天地創造の時間的流れは別に問題はないのではないかということでした(神は時間数にして144時間で全てを創造したかについては、神には不可能なことはないから、その可能性も残しておきますが、1日が今のように24時間の長さになるのは、4段階目に太陽と月が今の配置になる位から始まるのではないか、それ以前は長さは違っているのではないかという見方も可能です。5段階目の創造は明らかに両生類と爬虫類で、「怪物」とは恐竜のことを言っているのではと思われます。6段階目は哺乳類と人類の段階です。)

もう一つは、天地創造のところだけでなく聖書の他のところも見ると、神の祝福は人間だけではなく動物にも及んでいるということです。例えば、イザヤ書11章を見ると動物も人間と共に神の国にいることが言われています。ところが、聖書はもっと踏み込んで動物の救いについて述べません。それはやはり、人間が神の意思に反する性向、罪を持つようになってしまったために救いが人間の問題になったことがあります。人間がどれだけ神の意思に反するものかを示すものとして十戒が与えられました。人間が罪から贖われて神との結びつきを回復できるためにイエス様の十字架と復活の業が行われました。人間が贖いと結びつきを自分のものに出来るために洗礼と聖餐が必要になりました。これらは動物には関係のないことです。しかし、恵みの手段は人間だけに関係するものだとしても、だからと言って動物が神から祝福を受けられないということにもならない。いずれにしても、聖書は本当に人間の問題が中心なので、動物のことは書いてある以上のことは何も言えないのです。人間としては、書いていないことについては神に任せて、神の創造と祝福が動物に及んでいることを覚えつつ、自分たちの救いに専念するしかないのです。そういうわけで、天地創造は救いを人間を超えて生態系にも及ぼしているのだと予感することで十分と思います。それなので、天地創造は時代遅れなんかではないのです。しかも、天地創造はこの世をどう生きるかという倫理的な視点を与えます。自分は神に創造されたと自覚したら、神との関係はどうなのか考えることになります。その時、神が贈ってくれた贖い主がおられる、彼のおかげで神との関係は大丈夫、心配ないとわかれば、神の意思に沿うように生きようとするのは自然なことになります。とやかく言われてするということではなくなります。進化論からはどんな倫理的な視点が出てくるでしょうか?弱肉強食のような視点にならないでしょうか?

4.イエス様は世の終わりまでいつも共におられる

話が脇道に逸れましたが、次に、天に上げられたイエス様はどうやっていつも世の終わりまで私たちと共にいることができるのかを見てみましょう。

まず、イエス様が天に上げられたのに呼応するように聖霊が降ったことを思い出しましょう。洗礼を通して私たちに与えられる聖霊が、イエス様が私たちと共におられることを真実にするのです。イエス様は十字架の業を果たすことで私たちに罪の赦しという恵みを与えてくださいました。先ほど述べたように、聖霊は私たちがその恵みの中に留まって生きられるようにしてくれるのです。罪の赦しの恵みに留まって生きるというのは、イエス様が共におられるということです。

さらに、私たちには聖餐式があります。イエス様が天に上げられることを預言した詩篇110篇の中で、神の右に座す者つまりイエス様はメルキセデク級の大祭司であると言われています。ヘブライ人への手紙の中で言われるように、イエス様は自分自身を犠牲の生贄に捧げて全ての人間の罪を償い、人間を罪の呪いから未来永劫に贖って下さった「大祭司中の大祭司」です。聖餐式は、この完全な償いと贖いを実現した大祭司イエス様と交わる場なのです。

さらに、イエス様が私たちと共におられるというのは、私たちがイエス様を頭とする体の部分であるということがあります。詩篇110篇1節で神が御子に次のように述べているところがあります。「わたしの右に座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」パウロはエフェソ1章20~23節の中でこの個所を引用して、イエス様が再臨するまでの期間はキリスト信仰者にとってどんな期間であるかを教えています。イエス様を死から復活させて御自分の右の座に着かせた神は彼を「全ての支配、権威、勢力、主権の上に」置かれました。支配、権威、勢力、主権とは、現実の権力だけでなく、目に見えない霊的な力も全部含まれます。この世のどんな大国がどんな権力や軍事力をもってしても、神の右に座すイエス様には敵わないということです。また目に見えない霊的な力もイエス様には太刀打ちできません。

ここでパウロは、そのイエス様を頭として教会が体としてあると述べます。教会はイエス・キリストの体で、その頭がイエス様である、と。ここで言う「教会」は教派的、組織的な教会ではなく目に見えない世界大の教会で、キリストの体と化しているものです。どんな体かと言うと、まず、聖書の御言葉、全体として罪の赦しの恵みを目指す御言葉が響き渡る体です。次に、洗礼を通してその部分になれる体です。そして、体の部分である信仰者は聖餐式を通して罪の赦しの恵みを全身全霊に満たして神との結びつきを、イエス様との繋がりを強めていく体です。そういうわけで、キリスト信仰者はイエス様を頭とする体の部分としてイエス様と結びついているのです。

5.勧めと励まし

そうなると、天地創造の神と救い主イエス様とこれだけ密接に結びついているのだから、教会やそこに属する信仰者たちは支配、権威、勢力、主権に対してイエス様のように勝っているかと言うと、そうとも言えない現実があります。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっている自分たちにはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまう現実です。イエス様が人間を罪の支配から解放して下さったことは真理なのに、罪の誘惑はやまないという現実です。全てに勝るイエス様に繋がっている筈の信仰者はどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?

それは、イエス様を頭とするこの体がまだこの世に属していることによります。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部この世に属しています。この世とは、人間がこの世の人生しか持てないようにしてやろう、天の御国なんか入れないようにしてやろうという力が働いているところです。さらに、人間が造り主の神に心を向けられないようにしてやろう、神と結びつきを持てないようにしてやろうという力が働いているところです。これらがイエス様の足台にされた霊的な力です。アダムとエヴァの堕罪の時からずっとこの世で作用し続ける力です。ただし、イエス様の再臨の日に完全に滅ぼされます。その時、キリストの体は全身が天の御国の中に置かれます。私たちキリスト信仰者は、このことを見通すことできればイエス様が今のこの世の終わりまでいつも共におられることはその通りであるとわかって、この世で何も恐れるものはなくなるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「心を騒がせるな、ただイエスの名によって祈り求めよ」 吉村博明 牧師 、ヨハネによる福音書14章1-14節

2026年5月3日 復活節第五主日 主日礼拝説教

使徒言行録7章55-60節、第一ペトロ2章2-10節、ヨハネ14章1-14節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課の箇所は、イエス様が十字架にかけられる前夜、弟子たちと最後の晩餐を共にした時の教えです。初めに「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じます。「心を騒がせるな」とは、この時、弟子たちが不安を抱き始めたためイエス様が述べたのです。弟子たちはどうして不安を抱いたのでしょうか?

弟子たちにとってイエス様はユダヤ民族の期待のヒーローでした。無数の不治の病の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出し、嵐のような自然の猛威も静め、わずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたりするなど沢山の奇跡の業を行いました。誰が見ても天地創造の神が彼の味方にいるとわかりました。さらに、創造主の神について人々に正確に教え、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの誤りをことごとく論破しました。弟子たちも群衆も、この方こそユダヤ民族を他民族の支配から解放してかつてのダビデの王国を再興する真の王と信じていました。そうして民族の首都エルサレムに乗り込んできたのです。人々は、いよいよ民族解放と神の栄光の顕現が近づいたと期待に胸を膨らませました。

ところが、イエス様は突然、私はお前たちのもとを去っていく、私が行くところにお前たちは来ることができない、などと言い始めたのです(ヨハネ13章33、36節)。これには弟子たちも面喰いました。イエス様が王座につけば直近の弟子である自分たちは何がしかの高い位につけると思っていたのに突然、自分は誰もついて来ることができない所に行くなどと言われる。それでは王国の復興はどうなってしまうのか?イエス様がいなくなってしまったら、取り残された自分たちはどうなってしまうのか?ただでさえイエス様は宗教エリートの反感を買っているのに、肝心のリーダーがいなくなってしまったら自分たちは弾圧されてしまうのではないか?こうして弟子たちは不安に襲われて心が騒ぎ出したのでした。そこで、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と命じたのです。この世で敵に囲まれて取り残されてしまう弟子たちが心を騒がせないで済むようにイエス様は教えていきます。その教えは当時の弟子たちだけでなく現代を生きるキリスト信仰者にとっても大事なものです。以下そのことを見ていきましょう。

2.イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版

イエス様は、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて弟子たちをそこに迎えると言われます。「神のもとに行く」というのは、言うまでもなく天の父なるみ神のもとです。イエス様が死から復活して復活の体を持ってそこに帰ることを意味します。「また戻ってくる」というのはイエス様が再臨する日のことです。その日イエス様は弟子たちを自分が用意した場所に連れて行ってくれると言うのです。それは、今のこの世が終わって天と地が新しく再創造される日、死者の復活が一斉に起こり、神の目に義と見なされる者たちが見出されて神の御許に迎え入れられる日です。この迎え入れられる場所のことを聖書は「神の国」とか「天の国」などと言います。

そこは黙示録で言われているように全ての涙が拭われて痛みも嘆きも死もない国です。全ての涙というからには痛み悲みの涙だけでなく無念の涙も含まれます。それで、その国は旧い世の不正義の報いが完璧に果たされた国なのです。また、それは盛大な結婚式の祝宴にも例えられます。イエス様は祝宴に迎え入れられる一人ひとりのために席を用意しに行き、時が来たら迎えに来ると約束しているのです。また来るから心配するな、来たら直ぐお前たちを新しい世の神の国に連れて行ってやると約束しているのです。神を信じイエス様を信じるということは、神とイエス様は約束を必ず果たすと信じることです。信じたら、この世で神の意思に沿うように生きようとして困難や苦難にあっても、この約束があるので何も心配いらないという気持ちでいられるのです。

ところが、イエス様の十字架の死と死からの復活が起こる前に将来の復活の話をされても何のことか理解できません。自分はまた戻って来るから大丈夫だと言った後でイエス様は恐らく反論を予想して言います。「お前たちはわたしが行こうとしている場所に通じる道を知っているのだ」(4節)。予想通りトマスが当惑して言い返します。あなたがどこへ行くのかわかりません。それなので、そこに至る道というのもわかりません。行先が分からなければ道なんかもわからない。もっともなことです。これに対してイエス様は待ってましたとばかりだったでしょう、とても有名な言葉を述べます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。

イエス様自身が天の父なるみ神のもとに至る道であると言うのです。しかも、彼を介さなければ、だれも神のもとに行くことはできないという位、イエス様は創造主のもとに至る唯一の道だと言うのです。唯一の道ということは、ギリシャ語の原文でもはっきりしていて、道、真理、命という言葉全部に定冠詞へーがついています。定冠詞とは皆さんご存じの英語のtheと同じもので、the way, the truth, the lifeです。定冠詞がつくと、イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版という意味になります。いくつかある道の中のどれか一つではないのです。その場合は定冠詞はつかず、英語ならa way, a truth, a lifeになります。イエス様はそうは言っていません。日本語は定冠詞がないので、注意しないと、沢山ある中の一つを言っていると誤解する人が出てきます。

イエス・キリストが道の決定版などと言うと、宗教の業界では煙たがれます。ああ、キリスト教は独り勝ちでいたい宗教なんだ、と。それでか、最近はキリスト教関係者の間でも、この世から死んだあと天国でも極楽でもなんでもいい、そういう至福の状態に至る道はいろいろあっていいのだ、それぞれの宗教がそれぞれの道を持っているが到達点はみな同じなのだ、そうことを言う人が増えてきました。そういうふうに言えば、キリスト教はなんと懐の深い宗教だろうと評価されます。

しかしながら、至福に至る道についてキリスト教を他の宗教と同列にできないことがあることを忘れてはいけません。多くの宗教では人間はこの世を去ってあの世に行ったら、そこからこの世にいる私たちを見守っているというような、この世とあの世が同時に存在してあるという見方をしているのではないかと思われます。キリスト教の場合は復活と天地の再創造があるので同時の存在はありえません。今ある天と地が終わって新しい天と地が再創造される、そこに旧い世の時には異次元にあって見えなかった神の国が唯一の国として現れてくる、死者が一斉に眠りから覚まされる復活が起きて創造主の神の前で義とされる者は復活の体を着せられてそこに迎え入れられるという流れになります(後注)。それなので、キリスト教がゴールと考えているところは他の宗教がゴールと考えているところと次元が全く異なります。他の宗教ではこの世から別れると至福の地点に到達するまで修行の旅をするというような見方をするところもあります。キリスト信仰では復活の日まで特に何もせず、ただ静かに安らかに眠っているだけです。

道以外にもイエス様は、自分は真理の決定版、命の決定版であると言われます。真理の決定版というのはどういうことでしょうか?真理とは普通、時や場所に関係なくいつどこででも妥当する普遍的な法則のようなものです。例えば、イエス様の十字架と復活の業によって人間は罪の支配下から解放されて将来復活を遂げることができるようになる可能性が生まれたこと。これは、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間にその可能性が生まれたので、これは真理です。さらに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、それは可能性に留まらず本当のことになるということ。これも、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間に本当のことになるので、真理です。ところが、最後の審判はキリスト教徒だけの問題だ、キリスト教以外の人は最後の審判は関係ないと言ったら、キリスト教から真理を取り下げることになります。なぜなら、最後の審判はキリスト教徒か教徒でないかに関係なく全ての人間に関わるというのが聖書の立場だからです。それで最後の審判も真理です。

命の決定版ということについて。イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時は、いつもそれは今のこの世の人生だけでなく、今の世が終わった後に到来する新しい世の人生も一緒にした、とてつもなく広大な人生を「生きる」「命」を意味します。死から復活させられたイエス様はまさにその広大な人生を生きる命を持つ方です。そればかりではありません。彼を救い主と信じて洗礼を受けた者たちにも同じ広大な人生を生きる命を与えて下さる方なのです。それで、イエス様は命の決定版なのです。

3.父なるみ神と御子は一体

7節でイエス様は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われます。イエス様を知ることは、父なるみ神も知ることになる。イエス様を見ることは、父なるみ神を見ることである。それくらい御子と父は一体であるということが7節から11節までずっと言われます。そう言われてもフィリポにはピンときませんでした。イエス様を目で見ても、やはり父なるみ神をこの目で見ない限り、神を見たことにはならない、と思いました。イエス様と父なるみ神は一体であるということがまだわからないのです。これは、十字架と復活の出来事が起きる前は無理もなかったでしょう。しかし、十字架と復活の出来事の後に全てが一変します。弟子たちはイエス様が真に天の父なるみ神から贈られた神のひとり子だったとわかったのです。さらにこのひとり子は、人間を罪の支配下から解放して将来復活を遂げられるようにしてあげようとする神の人間への愛を自ら実践した、それで十字架の死は人間の解放のための犠牲の死であったこともわかりました。そのようなことを成し遂げる位にひとり子は父に従順だったこと、彼が人間に教えたり行ったことは全て父が教えたり行ったことで、自分で好き勝手に教えたり行ったのではないこと、それくらい父と御子は一体だったことが明らかになったのです。

12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言われます。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか?まさかイエス様が多くの不治の病の人を完治した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?しかも、信じる者が大きな業を行うことが、イエス様が天のみ神のもとへ行くこととどう関係があるのでしょうか?

弟子たちがイエス様の行う業を行うと言う時、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して広大な人生を生きられるようにする可能性を打ち立てました。これに対して弟子たちは、この福音を宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものとすることができるようにしました。つまりイエス様は可能性を打ち立て、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して、この世とこの次に到来する世を合わせた広大な人生を生きられる道に乗せてあげられるようにするという点では同じ業を行っているのです。

それから、弟子たちの場合は活動範囲がイエス様の時よりも急速に広がったことが重要です。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、それが弟子たちが遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。使徒たちの伝道は地中海世界の東側全域に及びました。パウロはスペインを目指しましたが果たせませんでした。パウロの後に続く者たちに委ねられました。伝説によるとトマスはインドにまで伝道しに行ったとのことです。地理的な意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うことになったのです。ヨハネ16章7節でイエス様は、自分が天の父のもとに戻ったら、今度は聖霊を送ると約束しました。お前たちをみなしごのようにしないと言うのです。聖霊は福音が宣べ伝えられるところならどこででも働き、人間が罪のなすがままの状態にあるという真理と、そこから解放するのが神の愛であるという真理を人々が見れるようにと導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られてきて、弟子たちが伝道すると聖霊が働き、キリスト信仰者の群れはどんどん大きくなっていったのです。

4.勧めと励まし

イエス様は13節と14節で、わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これはとても難しいところです。昔、私の知り合いのキリスト信仰者の方が、自分の抱えている問題がとても大きくて人間的に見て解決はどう見ても不可能、祈っても解決を得られなかったら、自分はイエス様に失望してしまうかもしれない、それが怖くて祈れないと言われた方がいらっしゃいました。気持ちはよくわかったのですが、私としてはやはり、神に全てを打ち明けることは十戒の第一の掟に入るので、義務としてでも祈らなければならなかったと思います。「何でもかなえよう」がその方にとって躓きの石になったと思います。

自分は金持ちになりたい、有名になりたい、というようなことをイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければなりません。利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまいます。キリスト信仰者は神との結びつきを持って復活の日を目指して歩む者です。キリスト信仰者が願うことはもちろん、いろんなことがありますが、つまるところは「イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって得ることができた神との結びつきがしっかり保たれて、道の歩みがしっかりできますように」という祈りに行きつくのではないかと思います。「これしきの困難で歩みが出来なくなるようなことがないように」と祈ると、神はその人の歩みが出来るように、困難を解消してくれるか、または困難を耐えられる忍耐力のどちらかをお与えになります。さらに、まだ神との結びつきを持てておらず復活の日を目指す歩みも始まっていない隣人のための祈り、その方に歩みが始まりますように、そのために何か相応しい言葉や働きかけを教えて下さいと願う祈りも切実なものになると思います。復活の日の再会がかかっていればなおさらです。イエス様がその通りにしてあげると約束された以上は、どんなに時間がかかっても、それを信じて願い続け祈り続けなければなりません。

 冒頭で述べた問題に戻りましょう。イエス様が天のみ神のもとに戻ってしまったら、弟子たちはこの世で敵に囲まれるように取り残されてしまうことになる。それでも心を騒がせないで済むのだということをイエス様は教えられました。何を根拠にそうなれるか?まず、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって自分は父なるみ神との結びつきを持てた、そして永遠の命に至る道に置かれて今その道を進んでいるのだ、という救いの確信がまず一つ。もう一つは、自分がこの道を歩めるために、また隣人も歩めるようになるために願い祈ることはなんでも主は聞き入れてかなえて下さると約束されたこと。救いの確信と神の約束、これらはキリスト信仰者にとって大きな励ましと慰めです。これらがあるのだから、心を騒がせる必要はないのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注)もちろん、この説明は大雑把なもので、細かいことを言えば、復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた聖人はいるし、復活も黙示録を見ると2段階あるように書かれています。詳細は人間の理解力では把握できませんが、大きく見れば、この世とあの世の同時併行ではなく、この世がなくなってあの世に取って代わられるということです。

説教「罪の赦しという神のお恵みに留まって生きる」 吉村博明 牧師 、ヨハネによる福音書10章1-10節

主日礼拝説教 2026年4月26日 復活後第四主日

聖書日課 使徒言行録2章42-47節、第一ペトロ2章19-25節、ヨハネ10章1-10節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課はイエス様のたとえの教えです。最初の1節から5節までをもう一度見てみます。

「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

これは、当時の社会のごく日常的なことを言っています。羊の飼育が盛んなところでは、羊を牧草地に連れて行かない時は木材や石材で作った塀の囲いの中に入れていました。泥棒が「乗り越える」と言うから、それなりの高さがあったのでしょう。イエス様の話し方からすると、囲いの中には複数の所有者の羊が一緒に入れられていたことがわかります。ある羊飼いが、さあ、これから僕の羊を牧草地に連れて行こう、とやってくる、門番に本人確認をしてもらって門を開けてもらう、そして、自分の羊を呼び集める。羊は羊飼いを声で聞き分けられるので、別の羊飼いが近づいてくれば、すぐわかって引き下がる。こうして、羊飼いと羊の群れは一緒になって囲いの外に出て牧草地を目指して進んでいきます。

これは、当時の人には日常的な当たり前な話でした。ところが、これを聞いたファリサイ派の人たちは「その話が何のことか分からなかった」のでした(6節)。どうしてかと言うと、当たり前のことなので話としてはわかるが、だから一体何なのだという感じになったのです。その反応を見たイエス様は今度は、自分は囲いの門であると言い、さらに自分は良い羊飼いであると言います。本日の日課は囲いの門のところまでです。

これらのたとえが何を意味しているかは、イエス様の十字架の死と死からの復活の後でわかるようになります。そもそもイエス様の教えというのは、十字架と復活の出来事と結びつけて、その出来事の意味を知った上でないとわからないのです。それは本日の箇所に限ったことではありません。イエス様の十字架や復活を度外視してイエス様の教えを理解しようとすると、イエス様が教えようとしたことからどんどん離れていきます。注意しないといけません。

私たちは十字架と復活の出来事が起きたことも、その意味も知っているので、今日のたとえの意味をわかる立場にあります。以下それを見ていきましょう。

2.イエス様は羊の囲いの門

9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」ここで注意すべきことは、日本語訳では「門を出入りして」と言って、出たり入ったする日常的な放牧のイメージを出しています。ところが、原文では、「囲いの中に入って、外に出ていく」と言っています。それも未来形で言っています。牧草地を見つけることも未来形で言っています。つまり、囲いの中に入ることと外に出ていくこと、そして牧草地を見つけることは全て日常的な放牧を超えた事柄を意味しているのです。それはどんな事柄でしょうか?さあ、十字架と復活の意味を知る者の出番です。

イエス様という門を通って中に入るというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者の群れに入ることを意味します。それは、人間に命と人生を与えた創造主の神と結びつきを持ってこの世の人生を歩む者たちの群れです。そして、この世から別れても将来の復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて神のみもとに永遠に迎え入れられる者たちの群れです。永遠に迎え入れられる神のみもととは、「神の国」とか「天の国」とか呼ばれるところです。8節で言われるように、彼らはいろんな霊的な声がするのを聞いたけれども聞き従わず、イエス様の声だけに聞き従った者たちです。

このようにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様という門を通って中に入って救われた群れに加わる。そうすると、今度は「外に出て牧草地を見出す」ことになります。これは、イエス様を羊飼いのように先頭にしてこの世の荒波の中に乗り出して行き、最後は緑豊かな牧草地にたとえられる神の国に到達することを意味します。荒涼として渇いた荒地を長く歩いた羊にとって牧草地は安息の場です。それと同じように、この世の荒波を生きぬいた者たちにも神の国という安息の地が約束されているのです。

このように、この世の人生を天地創造の神と結びつきを持って生き、神の国に迎え入れられる日を目指して進み、最後には迎え入れが実現する、この世とこの次に到来する世の二つの世の人生を生きられること、これが「救われる」ことです。10節で「命を持つことが出来るように、それももっともっと持つことが出来るように」と言っているのは、まさに二つの世にまたがる壮大な人生を生きることを意味します。

二つの世にまたがる人生を生きられるために、なぜイエス様を救い主と信じて洗礼を受けないとダメなのか?それは、神と結びつが必要不可欠で、その結びつきはイエス様を抜きにしては持てないからです。もともと人間は天地創造の時に造られた時は良いものとして神との結びつきを持っていました。ところが、神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまったために失われてしまったのです。神聖な神との結びつきを回復するためには、人間は内に持っている罪をどうにかしなければならない。人間は自分の力で罪を除去できないというのが聖書の立場です。この問題を解決するために神はひとり子をこの世に贈ったのです。あたかも彼が全ての人間の罪の責任者であるかのようにして彼に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせたのです。人間の罪の償いを神のひとり子に果たさせたことは、本日の使徒書の日課、第一ペトロ2章でも言われていました。そこでペトロは十字架の出来事が旧約聖書イザヤ書53章の預言の成就だったことを証ししているのです。

そこで今度は人間の方が、これは本当に起こったんだとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、罪の償いはその人にその通りになり、罪が償われたからその人は神から罪を赦された者として見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てて生きられるようになるのです。

このように、私たちが神との結びつきを持てて、今のこの世と次に到来する世の二つにまたがって生きられるようになるためには、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるかどうかにかかっているのです。まさにこれがイエス様という門を通って救われた群れに加わるということなのです。イエス様はさらに、救いの門は自分一つだけであるということをヨハネ14章6節で宣言します。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

3.勧めと励まし 罪の赦しというお恵みに留まって生きる生き方 その1

こうして、イエス様という門を通って救われた群れに加わった者は今度は、良い羊飼いのイエス様を先頭にして囲いを出て荒波猛るこの世に乗り出していきます。牧草地に例えられる永遠の安住の地、神のみもとに向かって進んでいきます。その進みはどのような進みでしょうか?詩篇23篇はこの進みの現実を的確に言い表わしています。4節「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を怖れじ。汝、我と共にませばなり」。つまり、死の陰の谷を通らなければならない時もある、だから、いつも安全とは限らない、しかし、主が共にいるから安心なのだ、と言っています。キリスト信仰者にとって死の陰の谷に例えられる危険とはどんな危険でしょうか?

それは、キリスト信仰者がゴールに到達できなくなるようにする危険です。そのために神との結びつきを失わせようとする危険です。キリスト信仰者はそうした危険に囲まれて生きています。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたと言っても、神の意思に反しようとする性向、罪はまだ私たちの内に残っています。もちろん、罪の赦しがある以上、罪は残っていても信仰者を神罰下しに陥れる力はなくなっています。それでキリスト信仰者は、この罪の赦しは神のひとり子の尊い犠牲と引き換えに頂いたものだからそれを台無しにするような生き方はやめよう、神の意思に沿うように生きようと志向します。ところが、実生活を生きていると自分には神の意思に反することが沢山あることと気づかされます。神に失格者と見なされてしまうのではと心配したり、そういう至らない自分にがっかりします。しかし、その時は直ぐ心の目をゴルゴタの十字架に向けます。あの時あそこに打ち立てられた罪の赦しは今も微動だにせず打ち立てられていることがわかります。これがキリスト信仰者の希望です。信仰者は神の意思に沿うようにしなければと再び心を新たにし、そのような再出発を可能にして下さる神に感謝します。

キリスト信仰者は実にこのような罪の自覚、赦しの願い、赦しの確認を繰り返しながらこの世を歩んでいきます。これこそが罪の赦しのお恵みに留まる生き方です。この世には、キリスト信仰者をこの繰り返しの人生から引き抜こうとする力が沢山働いています。それが、本日の福音書の個所でイエス様が盗人とか強盗と言っているものです。お前は何をしても赦されないと言って絶望に陥れたり、または、そんなのは罪でも何でもないから平気だよ、などと言って神を畏れる心を失くさせようとする力です。さらには、十字架や復活なんて本当のことじゃないよ、などと言って聖書を嘘つき扱いします。しかし、私たちはそれらには耳を貸さず、ただひたすらに罪は罪として認めて心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しの恵みに留まります。そうすることが罪に反抗して生きている、罪を憎んでいることの証しになります。人間は神がお恵みのように与えて下さった罪の赦しにひたすら留まることで神から義とされるのです。

4.勧めと励まし 罪の赦しというお恵みに留まる生きる生き方 その2

このように罪の赦しのお恵みに留まって生きるというのは、イエス様という門を通って救われた者が復活の日の神の国を目指して進んで行く時の生き方です。この時、罪の自覚と赦しの確認を繰り返すことがこの恵みに留まって生きることになります。

罪の赦しの恵みに留まって生きることには、もう一つ大事なことがあります。それは、罪の赦しが神からの一方的なお恵みであるということが真理であるという生き方をすることです。人間が何か神の目にかけられるようなことをして、その見返りとして赦しが与えられるということではない。あるいは、イエス様は十字架と復活をやった、自分はそれに何かを付け加えて赦しを確実なものにするということでもない。罪の赦しは徹頭徹尾、神が人間にして下さった純粋に神的な業で、人間はそれに対して何も付け加えたり加工したりできない、完全に純粋に神のお恵みである。そう観念して、罪の赦しがお恵みとして保たれるようにする。これこそ罪の赦しのお恵みに留まって生きることです。

この生き方を本日の使徒書の日課、第一ペトロの個所が明確に教えています。

20節「しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」「神の御心に適うことです」と言っているのはギリシャ語原文を直訳すると「神にすれば恵みです」です。善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶのは、神から見れば恵みだと言うのです。日本語に訳した人がギリシャ語のカリスを「神の御心に適うこと」と訳したのは、「恵み」という日本語は何かいいものを豊かに受けるという意味なので、善を行って苦しみを受けるのを「恵み」と言うのに違和感を覚えたのではないかと思います。フィンランド語の聖書ははっきり「恵み」と訳しています。19節も同じです。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心にかなうことなのです。」とありますが、ここも「御心にかなうこと」は、ギリシャ語原文ではカリス「恵み」です。フィンランド語の聖書ではちゃんと「恵み」と訳しています。不当な苦しみを受けることになるのが「恵み」だと言うのです。19節でもう一つあります。「神がそうお望みだとわきまえて」とありますが、ギリシャ語原文を直訳すると「神の良心のゆえに」です。「神の良心のゆえに不当な苦しみを受ける」とは一体どんな意味でしょうか?これはまさしく、かつてルターがドイツの帝国議会で自説を撤回せよと迫られた時、「私の良心が神のみ言葉に縛られているゆえに」と言って拒否した、「良心が神に縛られている」ことです。フィンランド語の聖書もずばり、「良心が神に縛られているゆえに苦痛を耐えるのは恵みなのである」と訳しています(後注)。

さあ、大変なことになりました。善を行うことが裏目に出て不当な苦しみを受けることになっても、良心が神に縛られているために、それを回避しないで耐える、これは神からすれば恵みであるというのです。そんな恵みがあるのでしょうか?実は、ここに「恵み」の本質があるのです。

そういうことが恵みであるというのは、まさにぺトロが言うように、善を行えという神の命令に従う時、褒められもせず褒美ももらえず、逆に不当な扱いを受けて苦しんだり耐えなければならない方が、恵みが恵みとして保たれるのに好都合なのです。もし褒められたり褒美をもらってしまったら、善い業をすると見返りがあることが当然になってしまいます。罪の赦しは見返りでも褒美でもない、神の一方的なお恵みです。善い業は神の命令だからしなければならない、しかし、それは神に目をかけてもらって罪の赦しを得られることとか、救われることとかには何の関係もない、何の役にも立たない、だけど、神の命令だからしなければならない、それだけです。善い業をすることは神から赦しや救いを受けることと何の関係もない、何の役にも立たないということは、善い業をすることで不当な扱いを受けて苦しむ時に一番はっきりします。この時、神の命令はもう普通考えらる律法とは異っています。善い業を行って裏目に出たら嫌だ、褒められたり褒美をもらえるほうがいいと思って行うと、命令は律法になります。ペトロの教えは、神の命令が律法でなくなる教えなのです。神の恵みが恵みとして保たれるようにする教えです。極端な教えですが、それだけに真理をついているのです。

もちろん、現実には善い業を行ったらいつも必ず不当な扱いを受けるというわけではありません。しかし、そういう理にかなわないことはありうるのだ、その時が来たら神の命令を律法にしないで行える最上のチャンスなのだと心の中で準備する。そうすれば神の恵みを恵みとして保つ姿勢が出来ていることになります。

これとは逆に褒められたり褒美を与えられたりしたらどうしたら良いでしょうか?その時は、ルカ17章でイエス様が教えたことを思い出します。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」ただし、これを人前で口にすると恐らく、何を気取ってやがるんだ、などと言われるのがおちでしょう。なので、それは心の中で言って、人前ではニコニコ顔で感謝の言葉を述べるのがいいでしょう。しかし、心の中では、褒め言葉や褒美が自分の中に蓄積しないように、父なるみ神よ、これはあなたのものです、と言って、天に向かって一生懸命に押し上げます。こうすることも、自分の業は救いに関係ない、役に立たないという姿勢の表われになります。

以上、罪の赦しというお恵みに留まって生きるとはどういう生き方かお話ししました。一つは、日々罪の自覚と赦しの確認を繰り返して生きること。もう一つは、恵みが恵みとして保たれるように生きることでした。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

(後注)この19節と20節は、日本語、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳を比べると皆さんとても苦労していることがわかります。興味深いことに、ドイツ語とフィンランド語は堂々と「恵み」と訳しています。

説教「イエス様の奇跡の業の本当の意味」 吉村博明 牧師 、ヨハネによる福音書11章1-45節

主日礼拝説教 2026年3月22日(四旬節第五主日)

聖書日課 エゼキエル37章1-14節、ローマ8章6-11節、ヨハネ11章1-45節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課はイエス様が死んだラザロを生き返らせる奇跡の業を行った出来事です。これを読んだ人は、ああ、イエス様は何と愛に満ちたお方なんだろう、悲しみにくれる姉妹を助けるために死んだ兄を生き返らせて下さったのだから、と思うでしょう。死んだ人を生き返らせる位の強い愛を示されたのだ、と。しかし、これを自分に当てはめて考えたら同じことが言えるでしょうか?イエス様は、もし私の愛する肉親が亡くなって悲しみに打ちひしがれた時、祈ってお願いしたら生き返らせてくれるのだろうか?もし、生き返らなかったら、イエス様は私のことをラザロやマルタやマリアよりも愛していないということなのだろうか?だから生き返らせてくれないのか?

 このような疑問は、一見筋が通った疑問に聞こえますが、実は筋違いです。イエス様がラザロの病気のことを「神の栄光のため」と言ったことに注目しましょう。普通それは、イエス様がラザロを生き返らせたことが神の栄光の現れと思われます。ところがそれはまだまだ浅い理解です。本当はもっと深い意味があります。ラザロの生き返らせの奇跡と神の栄光の深い本当の意味を理解しなければなりません。本日の説教でそれを明らかにしてまいります。

2.キリスト信仰の復活について

深い本当の理解に入る前に予備知識として、キリスト信仰の復活についてひと言述べておきます。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。特に出来事を具体的に記してある箇所は、ラザロの他に会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)と未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の例があります。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも、亡くなった方を想う時に「安らかに眠って下さい」と言う時があります。しかし、ほとんどの人は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。ところが、キリスト信仰では本当に眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?それは言うまでもなく、天と地と人間を造られた創造主の神、私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた生ける神であるというのがキリスト信仰です。

 キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、本日の個所のイエス様とマルタの対話にあるように、死からの「復活」ということがあるからです。

 復活とは、マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです。この世の終わりとは何か?聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まったが、新しく造り直される時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。天と地の造り直しですので新しい世の始まりです。なんだか途方もない話に聞こえますが、聖書の観点とはそういうものなのです。死者の復活はまさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言うのは、復活は眠りから目覚めることと同じと見ているからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになります。

 そういうわけでイエス様が行った生き返らせの奇跡は、実は「復活」ではありません。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられるのが復活です。イエス様が生き返らせた人たちはまだみんな肉体がそのままなので「復活の体」を持っていません。彼らの場合は「蘇生」と言うのが正確でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。それと当時の日数の数え方は最初の日も入れて数えるので、今ふうに言えば3日です。イエス様が3日後に復活したというのも今ふうに言えば2日後です。いずれにしても、生き返らせてもらった人たちも、その後で寿命が来て亡くなったのです。そして今は、神のみぞ知る場所にて「眠っている」のでしょう。

3.イエス様の奇跡の業の本当の意味

それでは、ラザロを生き返らせた奇跡の業の本当の深い理解に入っていきましょう。理解のカギはイエス様とマルタの対話にあります。対話の内容を注意深くみてみます。

 イエス様を前にしてマルタは開口一番、こう言いました。「主よ、もしあなたがここにいらっしゃったならば、兄は死なないで済んだでしょうに(21節)」。この言葉には「なぜもう少し早く来てくれなかったんですか」という失望の気持ちが見て取れます。しかし、マルタはそれを打ち消すかのようにすぐ次の言葉を言い添えます。「しかし、私は、あなたが神に願うことは全て神があなたに与えて下さると今でも知っています(22節)」と。「今でも知っています」というのは、今愚痴を言ってしまいましたが、それは本当の気持ちではありません、イエス様が神に願うことはなんでも神は叶えて下さることは決して疑っていません、ということです。これは、「イエス様、神さまにお願いして兄が生き返るようにして下さい」と暗に言っているのです。つまり、マルタはイエス様にラザロの生き返りをお願いしているのです。

 それに対してイエス様はどう応えたでしょうか?「わかった、お前の兄を生き返らせてあげよう、それを父にお願いしよう」とは言いませんでした。イエス様は唐突に「お前の兄は復活する」と言ったのです(23節)。先ほども申しましたように「復活」は「生き返り」とは別物です。マルタはそのことを十分理解していました。次の言葉から明らかです。「終わりの日の復活の時に兄が復活することはわかります(24節)」。この言葉を述べたマルタはハッとしたでしょう。ああ、イエス様は兄の「生き返り」ではなく将来の「復活」のことを言われる、ということは、兄と再び会えるのは復活の日まで待ちなさいということで、今は生き返らせてはくれないのだ、と少しがっかりしてしまったでしょう。もちろんマルタは復活が起こることを信じているのでその時に兄と再会できることは疑っていません。ただ、それは遠い将来のことです。「生き返り」ならば、今すぐ再会できるのに「復活」だと実感が沸きません。

 そこをイエス様は突いてきました。25節と26節です。「私は復活であり、命である。」イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時、それはほとんど「永遠の命」や「永遠の命を生きる」ことを意味します。この世だけの命、この世だけを生きることではなく、永遠の命、永遠に生きるということです。「私は復活であり、永遠の命である」というのは、復活と永遠の命は私の手の中にあって他の誰にもない、それゆえ復活と永遠の命を与えることが出来るのは私をおいて他にはいないという意味です。

 それではイエス様は誰に復活と永遠の命を与えるのでしょうか?その答えが次に来ます。「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」。この「生きる」は今申しましたように「永遠の命を持って生きる」ことです。イエス様を信じる者は、たとえこの世から別れても復活の日に復活させられて永遠の命を持って生きることになるということです。イエス様はさらに続けます。「生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことはない」。「生きていて私を信じる」と言うのはどういうことでしょうか?イエス様を信じて洗礼を受けると永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むことになります。イエス様を信じて生きると神に守られ導かれながらその道を歩みます。そして、復活の日が来たら永遠の命を持って生きることになります。それで永遠に死なないのです。

 それでは「イエス様を信じる」というのは具体的にどうすることでしょうか?それは、イエス様が復活と永遠の命を手に持っていて、それを与えることが出来る方だと信じることです。イエス様がそういう方であることは、彼の十字架と復活の業を通してはっきりします。彼の十字架の死は私たち人間が内に持ってしまっている罪を私たちに代わって神に償うための死でした。彼の死からの復活は、死を超える永遠の命に至る道を私たちに切り開いて私たちにそれを歩ませるための復活でした。イエス様を復活と永遠の命を与えることが出来るお方だと信じて安心が得られればそれでもう信じているのです。

 イエス様はこれらのことを一通り言った後、たたみかけるようにしてマルタに聞きます。お前は今言ったことを信じるか?私は復活と永遠の命を与えることが出来ると信じるか?

 これに対するマルタの答えは真に驚くべきものでした。「はい、主よ、私は、あなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)。」なぜマルタの答えが驚くべきものかと言うと、二つのことがあります。まず、マルタはイエス様がメシアであることを復活と関連付けて述べました。「メシア」という言葉は当時のユダヤ教社会の中でいろんな理解がされていました。一般的だったのは、ユダヤ民族を他民族の支配から解放してくれる王様でした。イエス様の周りに大勢の群衆が集まった理由の一つは、彼がそうした救国の英雄になるとの期待があったからでした。それで、彼が逮捕されて惨めな姿で裁判にかけられた時、群衆は期待外れだったと背をむけてしまったのでした。他方では、メシアは民族の解放者などというスケールの小さなものではない、全人類的な救い主なのだという理解もありました。そういう理解は旧約聖書の中にあったのですが、ユダヤ民族が置かれた歴史的状況の中ではどうしても民族の解放者という理解に傾きがちでした。しかし、マルタの理解は全人類的な救い主の方を向いていたのです。

 マルタの答えのもう一つ驚くべきことは、イエス様が救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではここは現在完了形です。イエス様は「信じるか?」と現在形ピステウエイスで聞きました。それに対してマルタは現在形のピステウオーで答えず、現在完了形のぺピステウカで答えたのです。この時制のチェンジはとても絶妙です。ギリシャ語の現在完了のマルタの答えぺピステウカの意味は「私は過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。なので、今イエス様と対話しているうちに悟って信じるようになりました、ではないのです(その場合はアオリストのエピステウサになります)。そうではなくて、ぺピステウカ、ずっと前から今の今までずっと信じてきました、と言うのです。

 このからくりがわかると、イエス様の話の導き方が見えてきます。それは私たちにとってもとても大事なことです。マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れている、もちろん、将来復活というものが起きて、その時に兄と再会できることはわかってはいた、しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと受け入れられない、今すぐ生き返ってほしいと誰でも思うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても、遠い世界の話にしか聞こえません。

 ところが、イエス様との対話を通して復活と永遠の命の希望がマルタに戻ったのです。イエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認でき、見失っていたものを取り戻したのです。兄を失った悲しみは簡単には消えませんが、一度こういうプロセスを経ると希望も一回り大きくなって悲しみのとげの鋭さも鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しの恵みに留まって生きるだけです。

 ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかでしょう。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではありません。それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまった、それを確認させられて強めてもらったのでした。そうなれば将来の復活は少なくとも心の中では実現してしまったのも同然です。兄ラザロとの再会が現実味を帯びた瞬間です。イエス様を救い主と信じて罪の赦しの恵みに留まって生きるキリスト信仰者についても同じです。ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者にとって復活はもう半分以上実現しているのです。

 イエス様が生き返りの奇跡の業を行ったのは、彼にすれば死など復活の日までの眠りにすぎないことと、彼こそ復活の目覚めをさせる力があること、この2つを人々に前触れ的にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の溌溂とした一声が私にも聞こえて私も起こされるんだ、と誰もが予見したでしょう。

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん!これで、イエス様がラザロの病気は神の栄光のためと言った意味がわかったでしょう。神の栄光とは、ラザロを生き返らせたことよりももっと大きなことを意味したのです。まず、悲しみにくれるマルタとの対話を通して、失われかけていた復活の信仰を確認させて強くしてあげました。そして、生き返らせの奇跡の業を通して、イエス様を信じる者にとってはこの世からの死は眠りにすぎず、その眠りから目覚めさせる力はイエス様が持っていることを人々に具体的にわからせました。これが神の栄光です。このことは、当時の人々だけでなく、全ての時代のイエス様を信じる人々に当てはまりませう。もちろん、私たちにもです。もし、私たちの復活の信仰が揺らぐようなことがあれば、イエス様はマルタにしてあげたように私たちの信仰を確認させて強くして下さいます。マルタの場合はイエス様との対話を通してでしたが、私たちの場合はイエス・キリストについて証言している聖書の御言葉を通してです。以上が神の栄光の全容です。

4.勧めと励まし

最後に、本日の個所にまだ2つほど難しいことがあるのでそれを駆け足で見てみます。一つは、イエス様が大勢の人たちが泣いているのを見て「心に憤りを覚えた」というところです。以前の説教でもお教えしましたが、これはギリシャ語原文では「心が動揺した」、「気が動転した」という意味で、英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書は皆そのように訳しています。イエス様は人々の悲しみを間近に見て、心が動揺して本当に共感して泣いてしまったのです。私たちに死を超える復活と永遠の命を与えることができる途轍もない方は、このように私たちに共感を覚えて下さる方なのです。

 もう一つの難しい所は9節と10節です。よし、ラザロのところに行くぞ、とイエス様が言った時、弟子たちは、反対者が待ち構えている所に行くのは危険ですと押しとどめようとしました。それに対してイエス様は言いました。

「日中明るい時間は12時間あるではないか?明るい日中に歩む者は危険な目に遭わない。この世の光を見ているからだ。暗い夜に歩む者は危険な目に遭う。その者の内には光がないからだ。」

 分かりそうで分かりにくい言葉です。要は、一日には明るい時間と暗い時間がある、それが危険とどう関係するか考えてみなさい、太陽が照る日中は明るいから転んだりぶつかったりしてケガをしなくてすむが、夜は暗くて危ない、それと同じことだ、君たちが私というこの世の光を目で見て、私も君たちの中にいると言えるくらいに私に結びついていれば、何も危険なことはない、ということです。もちろん、私たちは当時の弟子たちと違ってイエス様を肉眼の目で見ることはできません。それでも、彼を救い主と信じてゴルゴタの十字架と空っぽの墓を心の目で見れれば、イエス様というこの世の光を持てることになり、神の守りのうちに復活と永遠の命というゴールに到達できるということです。ところが、イエス様というこの世の光を持たない者は暗い夜道を歩む者と同じになって危険に晒されてゴールに到達できないのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教「聖霊は心の中で湧き出る泉の如く」 吉村博明 牧師 、ヨハネによる福音書4章5ー42節

主日礼拝説教 2026年3月8日 四旬節第三主日

聖書日課 出エジプト記17章1-7節、ローマ5章1-11節、ヨハネ4章5ー42節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課は「サマリアの女」の話です。福音書の中でよく知られる話の一つです。イエス様と女性が交わす会話の中に、「生きた水」という言葉が出て来ます。イエス様がその水を与えると、飲んだ人は永遠に喉が渇くことがなくなる。そればかりか、水は飲んだ人の中で泉となって、そこから湧き出る水が永遠の命に向かって流れていくということが言われます。永遠に喉が渇くことはない、とか、人の中に泉が湧き出てそこから溢れ出る水は永遠の命に向かって流れ出す、と言うのは、何かをたとえて言っているのですが、一体何のたとえでしょうか?

本日の個所にはもう一つたとえがあります。刈り入れをする人と種をまく人のたとえです。イエス様は弟子たちにこれを話す時、目を上げて麦畑が黄金色なのを見なさい、と言いました。弟子たちは刈り入れをする人で、別の者が労苦した結果を刈り入れて、労苦を分かち合うなどと言います。

これらのたとえは具体的な何かを指しています。それを「生きた水」とか「別の者の労苦」にたとえて言っているのですが、その具体的なものとは一体何でしょうか?イエス様のたとえの教えは、字面を追って一瞬わかったような感じにはなりますが、では、それらは何を指していますかと聞かれたら、はた、と困ってしまうことが多いです。本日の説教では、「生きた水」と「他の者の労苦」が何を指すか明らかにします。それがわかって、もう一度この箇所を読むと味わいが一層深くなります。

2.刈り入れをする人、種を播く人、他の者たちの労苦

まず、本日の出来事の流れをざっと追ってみましょう。イエス様と弟子たちの一行はユダヤ地方とガリラヤ地方の間にあるサマリア地方を通過します。サマリア地方とは、遥か昔、ダビデとソロモンの王国が南北に分裂した後に出来た北王国にあたる地域でした。それが、紀元前8世紀に東の大帝国アッシリアに攻められて滅ぼされてしまいます。その時、国の主だった人たちは東の国に連行され、逆に東から異民族がサマリア地方に強制移住させられて来ました。それで同地方は民族的にも宗教的にも混じり合う事態となってしまいました。住民は旧約聖書の一部は用いていましたが、サマリア人の女性が言うようにエルサレムの神殿とは違う場所で礼拝を守っていました。これに対してユダヤ民族は自分たちこそ旧約聖書の伝統とエルサレムの神殿の礼拝を守ってきたと自負していました。それでサマリア人を見下して交流を避けていたのです。そのことはサマリア人の女性の発言からもよく伺えます。

イエス様一行はサマリア地方のシカルという町まで来て、その近くの井戸のところで休むことにしました。旧約聖書の伝統では(創世記48章22節、ヨシュア記24章32節)、付近の土地はかつてヤコブが息子のヨセフに与えた土地と言い伝えられていました。そのため、サマリア人はそこにある井戸をヤコブから受け継がれた井戸と信じていました。

さて、弟子たちは町に食べ物を買いに出かけ、イエス様は井戸のそばで座って待っていました。そこへサマリア人の女性が水を汲みにやって来ました。時刻は正午ごろでした。中近東の日中の暑さでは、誰もこの時間に水汲みなどにやって来ません。まるで誰にも会わないようにするかのようにやってきたのです。何かいわくがありそうです。イエス様がこの女性に水を求めると、女性は驚いて、なぜサマリア人を忌み嫌うユダヤ人が自分に水を求めるのか、と聞き返します。そこから二人の対話が始まります。やりとりの中でイエス様は、自分は「生きた水」を与えることが出来ると自分について証し始めます。女性は、それが何をたとえて言っているのかわからず、本当の飲み水と考えるので話がかみ合いません。最後にイエス様が女性に「夫を呼んで来なさい」と命じると、女性は「夫はいません」と答えます。それに対してイエス様は、その通り、お前には5人の夫が入れ代わり立ち代わりいた。そして今連れ添っているのは正式な婚姻関係にない男だ、だから「夫はいない」と言ったのは正解だ、などと言い当ててしまいます。これで、なぜ女性が人目を避けるようにして井戸に来たかがわかります。

女性はイエス様のことを預言者と見なしますが、イエス様は、自分はメシア救世主であると証します。女性は町の人々にイエス様のことを知らせに走り去りました。人目を避ける境遇にあることを忘れてしまいました。それほど人々に知らせないではいられなかったのです。

女性が町に走り去ったのと入れ代わり立ち代わりに弟子たちが食べ物を買って戻ってきます。イエス様はサマリア人の女性と何を話していたのだろうかと訝しがりますが、それでも、食べるように勧めると、イエス様は突然、自分には食べる物があるなどと言いだします。弟子たちは、自分たちが買い物に行っている間に誰かが持ってきてくれたのだろうか、などと考えます。ここでも、イエス様は何かを食べ物にたとえて言っているのですが、弟子たちは具体的な食べ物を考えて話がかみ合いません。イエス様は、天の父なるみ神の意思を行い、神のみ業を成し遂げることが自分の食べ物であると言います。これは弟子たちにとってちんぷんかんぷんの話だったでしょう。イエス様は構わずに続けて、刈り入れ人、種まき人、他の者の労苦について話していきます。

ここで、イエス様が「刈り入れまでまだ4カ月ある」と言ったことに注目します。イエス様の言葉はこうでした。「あなたがたは『刈り入れまでまだ4カ月ある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目をあげて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている(35節)」。これは少し変ですね。刈り入れまで4カ月あると言っておきながら、畑は既に刈り入れ状態にあると言っているからです。これは一体どういうことでしょうか?

イエス様が目を上げて見よと言ったのは実は、畑のことではなかったのです。イエス様は何かを黄金色の畑にたとえているのです。それは何か?イエス様は、目を上げて見なさい、と言いました。そこで今いる場所よりも高い所にあるシカルの町を見上げると、大勢の人たちがこちらに下ってやって来るではありませんか!サマリア人の女性が、預言者なのかメシアなのか、すごい人がやってきた、と言うのを聞いて、すぐに会おうと出かけてきた人たちです。つまり、女性の証言を聞いて、それを信じてイエス様のもとにやって来たのです。これは、将来起こることを先取りしています。つまり、イエス様が天に上げられた後で使徒たちの証言を聞いてイエス様を救い主と信じる人たちが出ることです。最初は目撃者から直接イエス様のことを聞いて信じるようになる。後には目撃者の証言が記録された聖書を通して信じるようになる。どちらの場合でも、イエス様を救い主と信じる人が刈り入れを待つ実にたとえられているのです。

イエス様は、自分の食べ物とは神の意思を行い、神のみ業を成し遂げることだと言われます。これは、神のひとり子が十字架の死をもって人間の罪を神に償い、さらには死から復活することで死と罪を滅ぼして人間を罪の支配下から解放することを意味します。この使命を果たすことは、人間にとって食べ物が大事なのと同じように自分にとって大事なことなのだとイエス様は言うのです。

それから、刈り入れ人と種まき人について話すところで「別の者たちの労苦」が出てきます。「別の者たち」と複数形になっています。つまり労苦とは、み子イエス様と父なる神が人間の罪の償いを成し遂げることを意味します。父とみ子の労苦です。それを目撃した弟子たちは、迫害にも屈せず命がけで証言し記録に残して伝えました。そのおかげで、多くの人たちが父とみ子の労苦の結晶である「罪の赦しの救い」を受け取ることが出来るようになりました。こうして救いを受け取った人たちは豊かに実る実になり、救いを伝えた弟子たちは実を集め刈り取る者であり、救いは父と子の労苦なのです。

3.生きた水 聖霊

それでは、イエス様が言われる「生きた水」について見ていきましょう。「生きた」水などと聞くと、水が動物のように呼吸して生きているように聞こえます。原語のギリシャ語を見ると「生きる」という動詞の動名詞形なので文字通り「生きている水」です。私が使う辞書はギリシャ語・スウェーデン語のものですが(後注1)、それによれば「生きている」の他に「命を与える」という意味もあります。ヨハネ福音書でイエス様が「生きる」とか「命」と言う時、たいていは今の世の「生きる」、今の世の「命」だけではなく、次に到来する世の「生きる」と「命」も含めています。それなので「生きている水」というのは、飲む人に今の世の命を超えて次に到来する世の命に与らせる水ということで、文字通り「永遠の命を与える水」です。

この、イエス様が与える「永遠の命を与える水」を飲むと、それは飲んだ人の中で泉になって、そこから「永遠の命に至る」水が湧き出る。そもそも泉とは、地下水が地表に湧き出てくるところにできます。穴を掘って地下水が溜まると池になりますが、それは泉ではありません。掘らないでも自然のまま地下から水が押し上げるように絶えず湧き出るのが泉で、溢れ出る水は小川となって外に向かって流れ出て行きます。イエス様が与える水を飲むと、そのような水が絶えず湧き出る泉が飲んだ人の内に生じて、そこから溢れ出た水は永遠の命に向かって流れて行く。美しい描写です。でも、具体的にはどういうことでしょうか?イエス様の与える水が飲んだ人の中でこんこん湧き出る泉になって、そこから溢れ出る水が死を超えた永遠の命へと導いていく。イエス様は何をそのような水にたとえているのでしょうか?

この問いの答えがヨハネ7章にあります。イエス様が仮庵祭りの時にエルサレムにて群衆に向かって述べた言葉です。

「『渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、”霊”がまだ降っていなかったからである。」
(37~39節)

ここで言われている”霊”とは神の霊、聖霊のことです。イエス様は私たち人間の罪を神に対して償うために十字架にかけられて死なれ、三日後に死から復活されて死を超える永遠の命があることをこの世に示されました。これが神の栄光を受けることです。その後でイエス様が天の父のもとに上げられる出来事があり、それに続いて聖霊がこの世に降るという出来事が起こります。イエス様が「渇いている人は私のところに来て飲みなさい」と言うのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると聖霊が注がれることを意味したのです。聖霊が注がれた人は、その内に「生きた水が川となって流れ出るようになる」のです。このようにイエス様が与える水とは実に、十字架と復活の出来事の後でこの世に下って来る聖霊のことなのです。

それでは、聖霊を注がれると人の内に泉が湧き出て、溢れ出た水が尽きることなく永遠の命に向かって流れていくというのはどういうことでしょうか?

人間はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて聖霊を注がれることで神との結びつきを持って生きるようになります。ところが、この世にいる間はまだ肉を纏った状態が続きます。それで、キリスト信仰者の内に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。信仰者の中に内的な戦いが始まります。使徒パウロも認めているように「他人のものを妬んだり欲したりしてはいけない」と十戒の中で命じられて、それが神の意思だとわかっているのに、そうしてしまう自分に、つまり、神の意思に反する自分に気づかされてしまう。心の奥底まで100%神の意思に沿えることが出来ない自分に気づかされてしまうと。それではどうしたらよいのか?心の奥底まで100%沿えるようにしようしようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていない自分に気づいてしまうのです。どうしたらよいのでしょうか?

まさにここで洗礼の時に注がれた聖霊の出番が来るのです。聖霊が私たちの心の目を向けるべきところを示してくれます。ゴルゴタの十字架の上で息を引き取られたイエス様が向けられるべきところです。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神が送られたひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神の罰を受けられたのではなかったか?あの方がお前のために犠牲の生け贄となって下さったおかげで、神はお前の罪を赦して下さったのだ。お前はそのことを信じたからイエスはお前の救い主になったのではなかったのか?

こうして聖霊の働きで心の目を開けてもらった信仰者は、神の大いなる憐れみと愛の中で生かされていることを思い起こし、神の意思に沿うように生きようと心を新たにします。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛そうと。このようにキリスト信仰者は、聖霊のおかげで、絶えず神との結びつきを保つことができ、順境にあっても逆境にあっても神から常に同じ守りと良い導きを得てこの世を歩みます。万が一この世を去ることになっても、神との結びつきを持って去ることができ、復活の日が来ると復活させられて神のみ許に永遠に迎え入れられるのです。

4.勧めと励まし

本日の使徒書の日課ローマ5章を見ると、パウロは、イエス様を救い主と信じる信仰によって人は神の目に義なる者とされ、その人は神との間に平和があると言います(1節)。人間は、イエス様の十字架の業がなされる以前は実に神と戦争状態にあったのです。神との平和な関係は、神からお恵みとして与えられました。なぜなら、神はひとり子を本当に無償の贈りものとして私たちに与えて下さったからです。だから、罪の赦しは恵みなのです。パウロは言います、私たちは神のお恵みの中で立っていられるのであり、それを誇りとしている、と(2節、後注2)。さらに、神との平和な関係をお恵みとして頂いている限り、私たちに降りかかる試練は誇りに思うことができるとまで言います(3節)。どうしてそこまで言えるのか?理由は、一度神との平和な関係に入ったら、試練は忍耐をもたらすものになり、忍耐は鍛えられた心をもたらし、鍛えられた心は希望をもたらすようになるからだ、と言います(3~4節)。このように神との平和な関係に入ってしまうと、試練が希望に転化してしまうのです。(新共同訳で「練達」と訳してある言葉δοχιμηは私の辞書では「思いが鍛えられたこと、揺るがないこと、自信」などとあります。)

ここでパウロが言う希望とは、復活の日に神の栄光に与れるという希望です(2節)。人間が持てる希望の中で究極の希望です。パウロは、この希望は裏切られることがない、必ず成就する希望であると言います(5節)。なぜなら、「洗礼の時に注がれた聖霊を通して私たちの心に神の愛が注がれるからだ」と言います(5節)。この御言葉は真理です。先ほども申しましたように、私たちが罪の自覚のために神が遠ざかってしまったと感じる時、聖霊は私たちの心の目をイエス様の十字架に向けさせ、神は遠ざかってなどいない、神のあなたに対する愛は一寸も変わらないと示してくれます。神が遠ざかったと感じるのは罪の自覚の時だけではありません。私たちが直面する試練、苦難や困難の時にもそうなります。神は私を見捨てたとか私に背を向けたとか思ってしまいます。しかし、聖霊は神の愛が何も変わっていないことを示してくれて、パウロが言うように、試練を希望に転化してくれるのです。

兄弟姉妹の皆さん、神と平和な関係にあり、聖霊を注がれた私たちキリスト信仰者は、このように試練があればあるほど究極の希望が強まっていくという循環の中にいるのです。このことをもっと自覚しましょう。人によっては、究極の希望が復活の栄光に与れる希望だなんて、そんなのはこの世離れしていてこの世の試練の解決に何の役にも立たない、と言う人がいるかもしれません。しかし、もし希望がこの世に関するものだけだったら、そんな希望はいつかは潰えてしまう儚いものです。復活の希望はこの世離れしているからこそ潰えません。まさに究極の希望です。そのような希望があって、それが強められるからこそ、この世の試練を乗り越えられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

(後注1)Heikel, I. & Friedrichsen, A. “Grekisk-svensk ordbok till Nya testamentet och de apostoliska fäderna”

(後注2、ギリシャ語分かる人にです)ローマ5章2節の「誇る」ものは何か?復活の日に神の栄光に与れる希望を誇るのか?以前は私もそう取っていましたが、今回は「このお恵み」την χαριν ταυτηνを「誇る」ものと取りました。というのは、5章1~11節だけ見ても、パウロは動詞「誇る」の目的語に付ける前置詞をενにする傾向があるからです(3節、11節)。それでは、επ’ ελπιδι της δοξης του θεουはどうするかと言うと、「誇る」際の付帯状況と取ったらどうかと。

大体、以下のような感じになります。

δι΄ ου και την προσαγωγην εσχηκαμεν τη πιστει εις την χαριν ταυτην

イエス・キリストを通して我々は信仰によりこのお恵み(=イエス様を救い主と信じる信仰によって義とされたこと)に入る地位をも得ている

εν η εστηκαμεν και καχωμεθα επ΄ελπιδι της δοξης του θεου.

このお恵みの中に我々は立っているのであり、それを誇りにしている、復活の日に神の栄光に与れるという希望にあって

ου μονον δε,

誇りにしているのはこのお恵みだけではない、

αλλα και καυχωμεθα εν ταις θλιψεσιν,

我々は試練をも誇りにするのである。

説教「キリスト信仰者の出身地は実は天国だったのだ」 吉村博明 牧師 、ヨハネによる福音書3章1-17節

主日礼拝説教 2026年3月1日 

聖書日課 創世記12章1~4a節、ローマ4章1~5、13~17節、ヨハネ3章1-17節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の個所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派というグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答です。ここでイエス様は4つの大切なことを教えます。一つ目は、人間は母親のお腹から生まれた有り様は肉的な存在であるが、洗礼を受けると霊的な存在になるということ。二つ目は、霊的な存在になって神の国に迎え入れられることが救いであるということ。三つ目は、人間がそのような霊的な存在になれるために天地創造の神はひとり子をこの世に贈った、これが神の愛であるということ。四つ目は、その神が贈ったイエス様を救い主と信じる信仰が人間を救って神の国に迎え入れられるようにするということ。これらは以前にもお教えしましたが、今日は新しいことも入れて述べていきたく思います。

 その前に、ファリサイ派というグループについて。彼らは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということにとてもこだわった人たちでした。旧約聖書にあるモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則も厳格に守るべしと主張しました。何しろ、自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。

 そこにイエス様が歴史の舞台に登場して、数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々の注目を集めると、ファリサイ派と衝突するようになります。イエス様に言わせれば、神の前での清さというのは外面的な事柄に留まらない、内面的な心の有り様も含めた全人的な清さでなければならない。例えば、モーセ十戒の第五の掟「汝、殺すなかれ」は、実際に殺人を犯さなくても心の中で他人を憎んだり見下したりしたらもう破ったことになる(マタイ5章22節)。第六の掟「汝、姦淫するなかれ」も、実際に不倫をしなくても心の中で思っただけで破ったことになると教えたのです(同5章28節)。イエス様は十戒を厳しく解釈したように見えますが、十戒を人間に与えた神の本当の意図はそこにあるのだと、神のひとり子として自分の父の意図を人間に知らせたのです。

 全人的に神の意思に沿えているかどうかが基準になると、人間はどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方で勝手に規則を作って、それを守ったり修行を積めば神に認められるのだ、と自分にも他人にも規則を課すのは愚かしいことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。

 ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、彼らの中には、このやり方でいいのだろうか、神の国つまり天国に迎え入れてもらえるのだろうかと疑問に思った人もいたでしょう。ニコデモはまさにそのような疑問を持った人だったと言えます。3章2節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。日中だと、ファリサイ派の人たちはいつもイエス様と議論の応酬だったので、夜こっそり一人で出かけたのです。

2.「新たに生まれる」とは「天国から生まれる」こと

 さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである、人間が肉的な存在から霊的な存在になるというのはどういうことか見ていきます。ニコデモにイエス様はいきなり言われます。

「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」(3節)

 「新たに生まれる」ということについて注意が必要です。「新たに」の元にあるギリシャ語はアノーテン、この基本的な意味は「上から」、「天国から」という意味です。それでここは、「上から生まれる」、「天国から生まれる」、つまり「天国を出身地として生まれる」という意味にもなるのです。さて、「新たに生まれる」でしょうか?「天国から生まれる」でしょうか?英語訳聖書NIVとスウェーデン語訳とルタードイツ語訳は「新たに生まれる」です。フィンランド語訳は「新たに、そして上から生まれる」と両方をあてています。

 私はこう考えます。イエス様はこの後で、君たちは地上のことを教えても信じないのだから、天国のことを教えても信じるわけがない、と言っています。イエス様は天国の視点で述べている、なので、彼は「天国から生まれる」という意味で言っている。しかし、ニコデモは、どうやってもう一度母親の胎内に入って生れることができようか、と言っているので、彼は「新たに生まれる」と解してしまっている。それで話がかみ合っていないのです。(ここで一つ厄介なことは、この出来事はギリシャ語で書かれています。それでギリシャ語を元にして二人のやり取りを理解しようとしているのですが、彼らが実際に会話した言葉はアラム語です。どんな言葉を使ったかはわかりません。手元にあるのはギリシャ語の文章なのでそれを基にするしかないのです。)

 さて、イエス様は「天国から生まれる」ことはどういうことかをはっきりと教えます。

「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5ー6節)。

 イエス様が教える「天国から生まれること」とは実に「水と霊による誕生」です。これは洗礼を受けて神の霊、聖霊を注がれることを意味します。人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてきた時はまだ肉的な存在で霊的な存在ではないというのです。その上に今度は神の霊、聖霊を注がれないと「霊から生まれたもの」になれないのです。「水と霊による誕生」の「水」は洗礼を指し、「霊」は聖霊を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は母の胎内から生まれた肉的な存在が、洗礼を受けることで聖霊を注がれて霊的な存在になり、これが「天国から生まれること」であり、それが「新しく生まれる」ことになるのです。

3.キリスト信仰者は天国を出発点として天国に帰る

 それでは、霊的な存在というのはどんな存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえ気味悪く思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。洗礼を受けて聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、外見からではわからない変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)

 なにかとても意味深なことを言っていると思わせる言葉です。何を言っているのでしょうか?風は空気の移動です。風も空気も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。強さによってはゴーっという音もします。聖霊を注がれて霊的な存在になった者はみなそういうものなのだと。一体どういうことでしょうか?

 さて、ニコデモは困ってしまいました。イエス様の言っていることがさっぱりわかりません。この時はまだイエス様の十字架や復活の出来事は起きていません。洗礼を通して聖霊が注がれることもまだ先のことです。イエス様はそれらを先取りして言っているので、理解できないのは無理もありません。

 困ってしまったニコデモに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、なんと情けないことか!清めの規定とかそういう地上の事柄について正しく教えてもお前たちは聞こうとしない。ましてや、こういう天上の事柄を教えて、お前たちはどうやって理解できるというのか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。ニコデモは真剣な眼差しになったでしょう。

 イエス様は核心部分に入ります。これから、今まで述べたこと、水と霊から生まれること、肉的な存在から霊的な存在に変わること、そうなることで神の国に迎え入れらえるようになること、これらのことが、どのようにして起こるかについて明らかにします。

「天から一度この地上に下ってから天に上ったという者は誰もいない。それをするのは『人の子』である。(13節)」

 「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。イエス様は、それは自分のことであると言い、「人の子」はある事を成し遂げた後でまた天に戻るということを意味しているのです。そして、その成し遂げる事というのが次に来ます。

「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』」も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。(14節)」

 モーセが掲げた蛇というのは、民数記21章にある出来事です。イスラエルの民が毒蛇の大群にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅で蛇を作って旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じ掲げることと人を救うことが自分を通しても起こると言うのです。どのようにして起こるのでしょうか?

 イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることでした。イエス様はなぜ十字架にかけられたのか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。人間は神の意思に背こうとする性向、罪をみんな持ってしまっている。そのために神との結びつきを失った状態にある。それを神は結びつきを持って生きられるようにしてあげようと、そのためにひとり子をこの世に贈られたのです。神はこのひとり子を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき罪の罰を彼に受けさせました。それがゴルゴタの十字架の出来事だったのです。しかし、それが全てではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、その命に至る道を人間に切り開かれました。

 それで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、それでイエス様は真に救い主だとわかって信じて洗礼を受ける、そうすると彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見なされるようになります。罪を赦されたから神との結びつきが回復します。それからは神との結びつきを持ってこの世を生きられ、永遠の命に向かう道を進んでいきます。この世から別れる時も神との結びつきをもったまま別れ、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて万物の造り主である神のもとに永遠に迎え入れられるのです。イエス様が言われたこと、洗礼と聖霊をもって「天国から生まれた者」は「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。天国と神の国は同じことです。洗礼を受けて聖霊を注がれて「天国から生まれた」たキリスト信仰者は天国を出身地として生まれた者です。それで、信仰者にとってこの世の人生は実に、天国という生まれ故郷に帰る道を神との結びつきを持って進むことに他ならないのです。

4.勧めと励まし

 洗礼と聖霊をもって「天国から生まれた者」は「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがわかりました。それでは、それはどうイエス様の風のたとえと結びつくでしょうか?前にもお教えしましたが、聖書の元の言葉、ヘブライ語やアラム語やギリシャ語では「風」と「霊」は同じ単語で言い表します。このたとえでイエス様は両方をひっかけているのです。彼が教えようとしていることは、肉的な人にとって聖霊は理解不能なものであるということです。風がどこから吹いてきてどこへ吹いていくのかわからないのと同じである。ただ、風は枝葉の音や風自体の音があるので実在するのはわかる。聖霊も、聖霊降臨の出来事の時に激しい風の吹くような音がしたり(使徒言行録2章2節)、フィリポに向かってエチオピアの宦官のもとに行けなどと言葉を発したりするので(8章29節)、実在するとわかる。しかし、聖霊はあくまで自分の意思に従って往くので肉的な人には聖霊のことはわからない。

 これと同じことが洗礼を受けて聖霊を注がれたキリスト信仰者にも当てはまると言うのです。肉的な人からみたら、キリスト信仰者は姿かたちもあるし声もするから実在するのはわかります。しかし、信仰者は聖霊と同じように肉的な人には見えないわからない独特な意思に従って人生を歩みます。だから、肉的な人から見たら、キリスト信仰者は風と同じように実在するのはわかるが、その行動様式、立ち振る舞いを起こしている原動力はわからないのです。それでは、キリスト信仰者の原動力は何か?私は、それは内なる霊的な戦いと考えます。

 キリスト信仰者の内なる霊的な戦いとは、キリスト信仰者は天国から生まれて霊的な存在になっても、最初に生まれた時の肉の体を纏っています。まだ復活の体ではありません。そのため、神の意思に反する性向、罪をまだ持っています。その点は肉的な人と変わりありません。ただ、人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。この凌ぎ合いがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。この戦いに入るか入らないかが霊的な存在か肉的な存在かの違いになります。使徒パウロも自分で認めたように、「他人のものを妬んだり欲してはいけない」と十戒の中で言われていて、それが神の意思だとわかっているのに、自分はそうしてしまう、そういう神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に従える人はいないのです。どうしたらよいのでしょうか?どうせ従えないのだから神の意思なんか別にどうでもいい、などと言ったら、イエス様の犠牲を台無しにしてしまいます。しかし、心の奥底から完全に従えるようにしよう、しようと細心の注意を払えば払うほど、逆に従えない自分が気づかされてしまう。

 まさにここが聖霊の出番です。聖霊は次のように言って私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて下さいます。「あそこにいるのは誰だか忘れたのですか?あの方が神の意思に沿うことができないあなたの身代わりとなって罰を受けられたのではありませんか?あの方があなたのために犠牲になったおかげで、あの方を真の救い主と信じるあなたの信仰を神は義として下さるのです。それで神はあなたを赦して下さるのです。あなたが神の意思に完全に沿えることができたからではありません。そんなことは不可能です。そうではなくて、神はご自分のひとり子を犠牲に供することで至らないあなたを先回りして赦して受け入れて下さったのです。あなたは先に救われたのです。あの夜、あの方がニコデモに言ったことを思い出しなさい。

「モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、「人の子」も高く掲げられなければならない。それは、「人の子」を信じる者が永遠の命を得るためである。

神はそういう仕方で世の人々に対する愛を示された。それでかけがえのないひとり子を与えることにした。それは、彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るためである(ヨハネ3章14~16節)。」

 この瞬間、キリスト信仰者は自分の内から罪が消えた感じがします。神の意思に沿う存在になった感じがします。それで神への感謝に満たされて、神の意思に沿うように生きようと心を新たにして再出発します。ところが、神との結びつきを持って生きる以上は、再び自分を神の意思に照らし合わせ始めます。すると、消えたはずの罪が戻って来ているのに気づきがっかりします。その時はまた聖霊の出番です。先ほど聖霊が話しかけると言いましたが、普通は聖霊の話し声は聞こえないと思います。ただ、心の目をゴルゴタの十字架に向けることができ再出発できるというのは、耳には聞こえないが聖霊とのやり取りは確かにあったのです。だから再出発に至ることが出来たのです。実にキリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきます。そして、この繰り返しが終わる日が来ます。天と地が新しく再創造される復活の日です。その日、神の御前に立たされた時、繰り返しをしたことは実は罪に与しない生き方、罪に反抗する生き方を貫いてきたことの証しとして認めてもらえるのです。この時、天国を出身地として生まれたキリスト信仰者は天国に帰り着いたのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2026年2月22日(日)四旬節第一主日 礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

マタイによる福音書4章1−11節

「荒野の歩み。み言葉と御霊に導かれて」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今日は、このイエス様が荒野で受けられた誘惑の記録からのメッセージに共に耳を傾けていきましょう。まず、このイエス様が受けられた誘惑ですが、確かに悪魔からの誘惑とは言われます。その通りではあるのですが、しかし1節には新共同訳ですと「霊」に導かれとあります。これは新改訳聖書ですとはっきり「御霊」とあります。ESVバイブルでも大文字の頭文字で「Spirit」とありますので、霊は「聖霊」のことを指しています。つまりこの「荒野の誘惑」は三位一体の主なる神である「聖霊」によって導かれたものでした。ですからこの誘惑は悪魔の悪戯な思いだけでただ突然湧き出たものではありません。主が荒野へ導き、そして知っていたであろう悪魔がすることを許可し、そのままさせたということがわかります。そしてそうさせたことには、この誘惑を受けること、しかし御子がそれに勝利すること、どのように勝利するか、そしてそれら全てのことがこのように聖書を通して世に、時代を超えて、今日もこの朝に説教され伝えられ証されることには、神の私たちへの御心が現されているということに他なりません。その究極の御心は、紛れもなく、世の罪を負うために人となられた御子は、人間がその罪ゆえに陥る根本的で強力な三つの誘惑さえも私たちのために経験され負われるということであり、そしてそれに対し御子キリストこそ必ず勝利されることを示しているでしょう。そしてその勝利は、私たちの核心である、この十字架と復活によるのですから、キリストの十字架と復活こそ罪と悪魔に対する私たちのための勝利なのだという全人類への救いの約束のメーセージが込められています。しかし、このメッセージはまだキリストを受け入れない全人類に対してはもちろんですが、同時に、いやそれ以上に、すでに罪の縄目から解放され信仰が与えられ信仰の道を歩んでいるクリスチャンと教会に語られているものでもあります。それは「荒野に導かれ歩むキリストの教会はまさに荒野の誘惑と試練を通して、そして、そこにおられるキリストにあって勝利がある」という神の御心です。

2、「信仰の道は、荒野の道、試練の道」

 まず第一に注目したいのは、この誘惑の直前の3章16−17節をご覧ください。そこには何が書かれているでしょうか?

「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

 そこにはイエス様が洗礼を受けられたことが書かれているでしょう。そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う天の父の祝福の声もあります。これらのことの直後なのです。イエス様は「洗礼を受けられて」そのすぐ後にこの荒野の誘惑に導かれています。そして1、2節こう始まっています。

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。

 荒野と40という言葉は旧約のある出来事と重ね合わさります。それは、イスラエルの荒野の40年です。出エジプトはイスラエルがエジプトの奴隷の縄目から神様の恵みとみ言葉の力によって解放されたまさに救いの出来事でした。しかしその救いの出来事である出エジプトの後の出来事が荒野の40年です。つまり救われた民、まさに神の恵みを覚えて歩む信仰の生涯が始まった「後」の40年でした。しかしまさにイスラエルが導かれた信仰の歩みが、「荒野の」40年でした。それは大きな試練でした。その道が神はモーセにみ言葉を与え確実に導く道なのですが、空腹など困難の連続に直面します。そしてその度毎に、彼らは恵みと約束を忘れ、疑いが起こり、不平が起こりました。つまり、それは誘惑の40年でもあったのでした。そのことに重ね合わさるのです。このイエス様が聖霊によって導かれる荒野の誘惑は、もちろん全ての人間がその罪深さゆえに受ける誘惑の面もありますが、まさに何より「信仰者の」「教会の」歩みや誘惑を指していると教えられます。それはこの場面でも神の恵みである、洗礼という恵みによって始まります。神はキリストに言われたように、実に洗礼を授けられた私たちにも「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言ってくださっています。そのように聖霊によって導かれて私たちクリスチャンの信仰生活は始まり、教会は歩み始めます。しかしその御霊が導く信仰の歩みは、誤解しやすのですが、人間が合理的に楽観的に計画し思い描くなんでも上手くいく、思い描いた理想通りになっていき、成功に満ち溢れていく、そんないわば「栄光の神学」の道ではありません。それは救われたイスラエルの民がそうであったように、そしてイエス様が御霊に導かれてこの箇所で示し語りかけるように、聖霊とみ言葉による私たちの信仰の道は、荒野の道のりであり、試練の道であり、誘惑の道である。そのことをまず教えられます。

3、「それは本当か?」

 そこに誘惑する者、サタンがやってきます。そして三つの試みを仕掛けます。この誘惑は実に賢く巧妙であり、人間の罪深さや弱さを刺激します。まさに罪人である人間が陥る代表的な誘惑をもちろん表しているのですが、同時に、義人であり同時に罪人であるクリスチャン、教会が受ける誘惑でもあります。サタンは言います。3節。

「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

 イエス様は空腹を覚えています。そこに「石をパンにする」という誘惑です。しかし誘惑する者の意図は「空腹をパンで満たせ」という単純なものではないと言えるでしょう。確かにパンは人間にとって必要な基本的な必要に他なりません。あらゆる物質もまた神の被造物であり神から世に与えられた必要なものです。それは確かなことです。しかしここで誘惑する者は「神の子なら」と誘惑します。それは3章17節の天からの父なる神様の声「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う父なる神の声のことを取り上げているでしょう。

 誘惑するものは言っているのです。「その「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が本当なら」と。その言葉が本当かどうかを証明してみよと。石をパンに変えその空腹を思いのまま、欲望のまま満たすことによって証明してみなさいと。この「もし〜なら」という神とその言葉に疑いを起こさせる言葉にこそ悪魔の誘惑の本質があるのです。

 教会も「必要」や「不足」ということについて誘惑を受けます。「満たされていない」時も「満たされている」時もどちらも誘惑があります。しかし全ての必要はそれはどこから来るでしょうか?「私たちが働いて得るものだ、努力の対価なんだ。」ーもちろんそうです。しかし教会の必要、クリスチャンの必要は全て、それは物質的な必要やそのような私たちの行う奉仕など働きや努力なども含めて、それらは私たちが搾り出す自分の功績ではなく、全て神様が与えてくださるものに他ならないでしょう。イエス様が山上の説教で言っている通りです。しかし「不足を覚える時」は「満たされていない」「足りない」と言ってしまう。もちろん悪いことではありません。その時、足りなさを覚え、与えてくださる神様に求めるのが私たちの信仰なのですから。だから祈ります。しかしそうではなく「満たされていない」「足りない」ーただそのことに右往左往してしまう。その危機感ばかりに取り憑かれてしまい、互いの裁きあいに終わってしまう。そのようにして神の言葉の真実さを信じること、頼ること、求めること、待ち望むことを忘れてしまう。それは荒野のイスラエルが陥った過ちでした。そして人間は高慢ですから、「満たされている時」も誘惑に陥りますね。同じように、神が与えてくださった全てであるのに、教会の良い結果は人間の功績や教会の誇りにしてしまう、それは現代の成功や繁栄に走る教会が陥っている高慢の過ちです。「自分の教会はこんなに大きい、こんなに成功した、こんなに人が来ている。経済的に潤っている。もっと大きな教会を建てられる。それは自分たちが熱心にやってきたからだ、誰々先生のカリスマのおかげだ、私たちの、あの先生の人柄のおかげだ、等々」ー福音宣教も教会も全て、キリスト中心で、どこまでもキリストのみ言葉と聖霊のみわざで自分たちは用いられているに過ぎないのに、そしてイエス様もルカ17章で「自分たちは不束な僕です」すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」(ルカ17章10節)と言っているのに、自分たちの組織力や人の功績と誇りに変えてしまう。まさにソロモンが陥った誘惑です。パン、物質は必要なものです。必要を覚えること自体は何も悪いことではありません。当然のことです。しかし、そこに誘惑がある。神の言葉、神の祝福、神の恵み、それは本当か、それが本当ならと、自分自身の空腹、足りなさ、あるいは達成した、成功した、満足した、等々の基準、自分中心の基準で神の言葉を「もし」と測ってしまうのなら、疑いも、,自慢高慢も尽きません。悪魔はそこをついています。そして人間は罪深いですから、そうなると自分の願うままに、石をパンに変えてでも空腹を満たそう、あるいは、満たすことができる、あるいは、満たしてきた、と勝手に思い描き期待します。まさにパウロが警告した人間が求める空想話です。まさに空腹なもの、不足を覚えるものには、神のわざへの信頼ではなく人間のわざへ信頼する栄光の神学は最善の方法になります。しかしそこに誘惑があるのです。4節 

4、「神の口から出る一つ一つの言葉」

「イエスはお答えになった。

「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

 教会にとって大事なことはなんでしょうか?罪の世は、確かに必要が思いのままに満たされ自分を誇ることが最高の満足かもしれません。満たされないことに不満を言い右往左往するのもそれも罪の世の現実です。しかし、私たち教会には、クリスチャンには、それ以上の素晴らしい命の道があるでしょう。

「神の口から出る一つ一つの言葉」です。それこそが天地万物を創造し、私たちを生きるものとしました。確かにパンに代表される物質的な必要は大事です。私たちの必要も大事です。しかしそのパンや物質が、あるいは私たちの必要や心配や誇りが、天地万物を創造し、私たちを生きるものとしたのではないでしょう。神の口から出る一つ一つの言葉でしょう。それこそが、必要なものを全て満たします。そのように約束してくださっています。イエス様は弟子達に「明日の心配は無用だ」と神の口から出る一つ一つの言葉を持って約束しています。そしてその神の口から出る一つ一つの言葉が、堕落の時からすでにその罪からの救いを約束しました。また、主は、その自身のみ言葉がその約束の通りに実現するのだと繰り返し、アブラハムを励まし、ダビデを励まし、さらには、預言者を通して試練にある民をも励ましました。そして主はみ言葉をもってその通りに救い主を送るのだと約束し、その言葉の通りに御子イエス様を人として世に与えてくださった、そして十字架に従わせたでしょう。そして私たちの方からではない、その言葉である方が私たちのところにきて、私たちに語りかけてくださったからこそ私たちはイエス様の福音の素晴らしさを知った。その言葉こそ信仰を与えてくださり、その言葉が真実で力であるからこそ洗礼を聖餐を、救いの恵みを今日も与えてくださる。その言葉こそが、荒野の試練の日々であっても、日々生かし、日々罪赦され、日々平安を覚え、今日もここから遣わされていく。教会が覚え立ち返らされるのは、そのことでしょう。

『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。

 と。第二、第三の誘惑もじっくり見ていくと非常に沢山のことを教えられるのですが、実は誘惑するものの誘惑は同じ攻め方です。そこでも「もし」と、人間の欲求、ここでは救われたものにさえ、教会にさえ起こる欲求、人間的な必要をさらに求める貪欲さを攻めてきます。第二の誘惑は悪魔もみ言葉を用いて「こう書いてある」というのですが、「もしそうなら」と自分が基準となって自分の欲求の通りにしようとする、み言葉を疑い試す誘惑が実にあからさまです。み言葉を神の言葉としてその通りに信頼し委ねるのではない。あるいは、書かれていないこと、わからないことはそのまま神に託し信頼するのではない。人間中心に自分の側の願望や欲求に合わせて「もしこうなら」とみ言葉を都合の良いように解釈してしまう誘惑、歴史的にも今もそのような誘惑に屈した神学や教えが教会を支配しています。それはサタンの巧妙な誘惑に屈しています。第三の誘惑はどうでしょう。まさに手に取りたい現実、成功や繁栄が目の前にあります。世の繁栄、自分の繁栄、教会の繁栄、しかし神がなす、神が与える、神のみ言葉が実現した栄光でも繁栄でもない、自分達の力や組織力で得ようとする繁栄と成功に神の栄光を見ようとする。地上の栄華への願望です。しかしそれは、まさにみ言葉の前に身を屈め平伏しているのではありません。第三の誘惑に屈してしまっています。

5、「イエスの与える勝利の道」

 イエス様は全て聖書のみ言葉を「こう書いてある」と示すだけです。人間の都合のいい解釈を加えるのではない、神の言葉はその通りですと、神の約束、神がなすこと、神が与えて満たしてくださることに、期待し、信頼、祈り、待ち望む、委ねる。それが荒野の道である信仰の歩みにおいて、イエス様が示してくださっている勝利の道であることを教えてくれているのではないでしょうか?事実、イエス様の十字架の道は、ただパンだけで満足したりさせたりの地上の王国だけの道ではありませんでした。霊の糧として真に魂を満たすために福音を与え罪の赦しと平安を与える「天のいのちの道」であったでしょう。神は十字架にかけられるイエスを御使いの軍勢を送って助けることができます。しかしゲッセマネでイエス様は「御心ならこの杯を取り除けてください。しかしあなたの御心が行われるように」と祈り、神の救いの御心であり計画である十字架に黙ってかけられるでしょう。事実、神もそれを御心とされました。そのようにイエス様は、地上の繁栄と栄華に神の政治的な王国を建てたのではありませんでした。まさにこの十字架にこそ神はご自身の栄光をあらわされたではありませんか。人間の、自分たちの望むようになるところに神がおられ、神の栄光があるのだと見るのは、栄光の神学です。しかしそれは自分たちの栄光を望み、期待し、求め、見ているだけであり、誇っているだけです。まさにサタンの誘惑に屈してです。しかし教会は、このイエス様の十字架のこそ真のいのちのパンがあり、私たちへの御心があり、そして栄光がある、私たちの栄光ではなくキリストに栄光があると信じます。それが私たちの信仰です。それはみ言葉に書いてある通りであり、み言葉の約束が真実でその通りになった、これからもその通りに実現するからこそです。そのキリストとみ言葉に信頼し生きるからこそ、今日も、これからも私たちは、キリストにあって勝ったのです。誘惑に。試練にです。そして、このイエス様の試練の歩みが御霊に導かれ、御霊によって仕えられているように、私たちクリスチャンの歩み、教会の歩みもまた、荒野の試練を通してこそ、そしてそこにおられるキリストにあってこそ、み言葉と聖霊の豊かな働きによって日々聖さにあずからせてられていく、世にあって隣人のために用いられていく、そのように今日もここから遣わされていくのです。イエス様は今日も私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ今日もイエス様からイエス様が与えるみ言葉と聖餐を受け取り、イエス様だけが与えることができる特別な平安をいただいて、ここから遣わされて行きましょう。・

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2026年2月15日(日)主の変容の主日 午前10時半 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会

 

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。

アーメン 

             2026年2月15日(日)スオミ教会説教

聖書:マタイ福音書17章1~9節

説教題:「イエス、栄光の姿に変貌」

今日の礼拝は変容主日礼拝であります。今日の聖書ではイエス様のお姿が三人の弟子たちの前で突然驚くべき姿に変わってしまったと言う出来事であります。マタイ福音書17章1~2節を見ますと「六日の後、イエスはペトロ、ヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて高い山に登られた。イエスの姿が彼らの前で変わり顔は太陽のように輝き服は光のように白くなった」。まず、イエス様は弟子たちの中でも最も信頼し、頼りにしているペテロ、ヤコブ、ヨハネの三名だけを連れて高い山に登られた。イエス様は彼ら三人を大事な場面で特別に選んでおられます。例えば会堂司ヤイロの娘を生き返らせた時にも三人を連れて行かれています。(マルコ5:37~40)また、ゲッセマネの祈りの時にもイエス様は他の弟子を園の入り口に残してこの三人だけを連れて園の中央に進まれ十字架の苦難へと向かわれる前の神への激しい祈りをされました。(マタイ26:37~46)これから起こる、この世では理解出来ないイエス様の変貌の出来事を、メシアの受難と聞き始めた他の弟子たちの中には心が動転して誤解する者もいるでしょう。そこでイエス様は信頼できる三人なら後に他の弟子たちに説得できるだろうと言う確信のもとに三人だけを特別に選ばれて連れて行かれたのであります。選ばれた証人たちの前で変貌は起こりました。この時、山上で起こった出来事はどんな不可思議であったとしても疑う事の出来ない事実です。証人の一人ペテロは彼の第二の手紙1章16節以下で次のように書いています。「私たちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに私たちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちはキリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』と言うような声があって主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。18節、私たちは聖なる山にイエスといた時、天から響いて来たこの声を聞いたのです。」イエス様が三人の弟子を連れられて登られた「高い山」は恐らくヘルモン山であったと思われます。標高3000m以上のヘルモン山の中腹で出来事はで起こりました。此処で何が起こっているかと言う事ですが、此処には以前に「弟子たちはイエスの栄光をみるであろう」と約束されたその約束が確かなものとして証された、実証された、そう言う出来事であります。その約束された栄光の姿は2説~3節にありますように「イエスの姿が彼らの目の前で変わり顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見るとモーセとエリヤが現れイエスと語り合っていた。」その驚くべき光景は宇宙的な深い見方から申しますと、此処では「天の世界との交わりが啓示された。」神からの神秘の中でこの世に表された交わりと確認でありました。それは人間の目で見る事の出来ないような此の世の常識を遥かに越えた驚くべき光景が展開されたのです。天空の雷雲から一瞬ピカピカと稲妻の光が輝いたと言った程度のものではありません。外部からの別の光が必要ないほど地上の自然のあらゆる光を凌ぐところの眩い輝きの中に主イエスは立たれていた。しかも弟子たちは目の前で空中高くそのみ姿を仰ぎ見たのであります。このイエス様のみ姿は私たちの知っているどんなものよりも高く上げられ全く新しい形で表されたのであります。そこには此の世とは次元の違う只中に展開されているその光景を弟子たちは見せられているのであります。マタイ13章43節に約束されている、「彼らは父のみ国で太陽のように輝くであろう」と言うその言葉通りの事がイエス様の上に起こっているのであります。同じ事がヨハネ黙示録にも1章12節~16節にあります。イエス様のこの変貌は単にイエス様の人格が新しくなった、と言った事に留まらない。更に此処に於いて旧約聖書時代にまで時代が遡って神に仕えた預言者たちが現れて空中のイエス様との交わりが現れたのであります。3節に「見よ、モーセとエリヤが彼らに現れてイエスと語り合った。」昔の預言者たちは今、沈黙して現れたのではなく主イエス様と語り合っているのです。この光景を弟子たちはどのように見たのでしょうか。

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弟子たちの時代より遥か千年以上の昔にシナイ山で十戒を頂いたモーセが現れている。イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から導き出し、旧約聖書の律法の代表者と言ってよいモーセであります。又、イスラエルの民がメシア待望の中で大預言者と仰いだエリヤも現れている。旧約聖書のマラキ書3章23節を見ますと「見よ。私は大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とあります。預言者マラキのこの約束の故にイスラエルの民がエリヤを待望したのです。こうして、この偉大な信仰に生きた二人はその最後が秘儀に満ちています。つまり、人生の終わりは謎に包まれています。モーセは独り山の上で神のみ傍近くに死んだ。エジプトからイスラエルの民を救っ年の旅の末、モーセはカナンの地に入ることなく死んでいます。それで人々はしばしば「神はモーセを天に取り去られた」と言ったのです。又、エリヤは人生の最後はどうであったかと言いますと嵐の中にみ使いによって火の車に乗って天高く引き上げられた。この二人の人生最後の姿はなんという神秘に満ちたものではありませんか。神秘に満ちて天に引き取られたモーセとエリヤが今、空中でイエス様と出合っていると言うのであります。そこでは何が語り合わされているのでしょうか。恐らくイエス様のこれから向かわれる十字架の道についてその決断の確認でありましょう。三人の弟子はと言いますと、この幻想的なモーセ、エリヤ、イエス様の天高く空中で話し合われている光景に驚きと喜びに満たされました。ペテロはイエス様の栄光の姿にどんなに感激しつつ、この光景がそのままであって欲しいと何が何だかよく分からず、4節を見ますとペテロはイエスに言った「主よ、私たちがここにいるのは素晴らしい事です。お望みならば私がここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため。もう一つはエリヤのためです。」テロが語っているうちに、見よ!そこに光輝く雲が彼らを覆った。すると、見よ!雲から声があった。「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」。弟子たちはこれを聞いて恐れおののきひれ伏したのあります。イエス様とモーセとエリヤが語っている姿を光輝く雲が覆ってしまった。この光輝く雲はかつてモーセが荒野を通ってイスラエルの民を導いた時の神の印でありました。(出エジプト記13章21節にあります)更にこの雲の中から神の御子イエス様に対する御父の愛を証しする声があったのです。この声はイエス様がヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時も「これは私のみ心に適う愛する子である」と言う御声を天からあったのと同じです。(マタイ3:17)イエス様はこれからご自分の人生の方向を十字架の受難の道に向けられることを決心をされて天からの確認の御声を聞かれたのです。この事はイエス様の心の内に天の神の御心と一つにされた聖霊がここに啓示されて、神の栄光がイエス様の体にはっきりと現わされたのであります。天の空中での「イエスの変貌」のこのみ姿はまさに十字架の死から蘇られたみ姿を予め三人の弟子に示されている出来事であります。弟子たちは神の近さをこんなにまで感じた時、恐怖に襲われたのであります。その時イエス様は弟子たちに手を触れて言われました。「起きなさい。恐れる事はない。」今や、イエス様は再び僕の姿をとって弟子たちと共におられた。こうして彼らは”如何に高くイエス様が彼らの上に聳えたっておられるか”と言う事を心に深く刻んで経験したのでした。更に神の栄光を身近に感じる事が出来たのであります。モーセとエリヤの中に立たれたイエス様は後にゴルゴダの丘で二人の犯罪人の間に立って罪の全てを負って十字架の死を遂げられる。そこには栄光のイエス様は何一つ無いのであります。しかし、私たちは蘇られ天の御国へ返られた栄光の中にあるイエス様を心に信じてやがて神の御国が主と共にある喜びを持って生きたい。

人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。  アーメン