その他

説教:田中良浩 牧師

2018年8月19日(聖霊降臨後第13主日)礼拝

担当 田中 良浩

 

聖書日課 エレミヤ2316、エフェソ21122、マルコ63044

説教題 「五つのパンと二匹の魚]

 

 

序 今日の主日の「説教題」についても、あれこれ考えた。

  けれども以下の三つの理由で私はこの奇跡の物語をそのまま説教題にした。

  一つは、パンとは主イエスが祝福され与えられた“命のパン”であること。

  二つは、魚(ギリシャ語:イクツゥス)が「イエス・キリスト、神の子、

  われらの救い主

という“信仰告白”の意味に、古来使われてきたこと。

  三つには、現在奉仕しているホスピスの“食堂の名前”であること。

 

私は毎週火曜日と木曜日に、杉並区和田にある救世軍の運営するブース記念病院でのホスピスのチャプレンとして働いている。時々、スタッフや

  患者さんから、直接、間接に「いくつ(何才)ですか?」と尋ねられる。

  先日もある看護師から尋ねられ、「お元気ですね。何か特別なものを召しあがっていますか?」と尋ねられたので、私は真面目な顔で「パンと魚を食べているからです。」と答えた。看護師はキョトンとした表情をしていた。

後日、その看護師に食堂で会った。ニコニコしていたので、私は「この食堂の名前知っていますか?」と尋ねたら、彼女は「勿論ですよ。五つのパンと二匹の魚」と答えて、大きな声で笑った。彼女は私が言わんとしたことを

理解しただろうか?やがて理解してくれることを期待している。

 

  私は勤務の日は、その「五つのパンと二匹の魚」という食堂でスタッフと

一緒に食事をしている。この食堂では、病院のホスピス病棟に入院している患者さんの日々の食事にも責任をもっている。

ご存知のようにターミナルな(人生の最後の時を過ごす)患者さんの多くは、

殆ど私たちが食べる普通食を摂ることができない。そこで食堂の責任をもつ

管理栄養士が一人一人を訪ねて、どのような食事ができるか、食べたいかを

相談する。最後の時の食事は、一人一人にとってかけがえのないものである。

考えてみれば、日常を生きる私たちにとっても同様である。

まさに、『医食同源』は、私たちの命と生活に大切な言葉である。

 

  ある日外国の方が食堂に入って来て、暫く入り口の所であちらこちらを 

 見回している。初めてこの食堂に来て不案内な様子なので、私は近寄って

挨拶をすると、非常に喜んで「私はアメリカ人です。日本人と結婚したが

日本語は殆ど話せない。今朝主人がここに来ると、話が出来て、食事もでき

る、と言ったので来ました」と。私は一瞬そのご主人の意向を図りかねたが、

あまり深く詮索しないで、率直にお迎えすることにした。

 私はその方と一緒に食事をした。とても喜んで、帰って行った。こうして、彼女は二度、三度この食堂に来た。彼女はアメリカでも教会の会員であった。

結果的に私は彼女にすぐそばの教会を紹介した。今でも教会の礼拝に連なっていることは感謝である。

 ここで私は『信食同源』という表現を提案したい。(愛餐はまさにそれ!)

 

 

1 今日の福音書の主題は有名な「五つのパンと二匹の魚」の物語である。

 結論をいえば、「主イエス・キリストは、私たちの命の主」である。

 これを現代風に言い換えれば、「主イエス・キリストは私たちのQOL(生命・

生活の本質)の中心である」と言えるであろう。

 具体的には「5000人もの人に食べ物を与えた」という奇跡物語である。

 ◎この奇跡の出来事にも、導入の物語がある。(福音書の冒頭の部分)

  「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。

 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。

 

 

つまり、宣教に遣わされた使徒たち(弟子たち)が主イエス・キリストの

もとに帰ってきて、それぞれの宣教について報告したのである。

  けれどもここには宣教の成否、つまり良い結果があたえられたか、あるい

  は思わしくなかったか、成功したか、挫折したかは語られていない。

   では主イエス・キリストは宣教がどのようなものであったか?無関心な

  のであろうか?決してそうではない。宣教の主はイエス・キリストである。

主イエスにとって宣教は最大の関心事である。主イエスは宣教のすべてを受け入れて下さる。疲れて帰って来た弟子たちに、「人里離れた所へ行って休むように、お命じになったのである。そして一同は、“自分たちだけで”(主イエスと弟子たち)人里離れた所へ行ったのである。

教会で用いられてきたリトリート(Retreat)の出発点はここにある。リトリートとは、「後退、退却、また避難」という意味である。同時に、教会では「修養会、研修会、黙想会」として用いられている。

 

 

2 このような状況にあるにも拘わらず、群衆は、主イエスを追いかけてきた。

  「主イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(マルコ6:34)

  この表現の源は、荒れ野でのモーセの祈りである。(民数記27:17) 

  「彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。」

  

   しかし、モーセの祈りにも拘わらずイスラエルの状況は、次第に悪化していった。預言者ゼカリヤは言う。(102

   「テラフィムは空虚なことを語り、占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る。その慰めは空しい。それゆえ、人々は羊のようにさまよい羊飼いがいないので苦しむ。」と。

   <テラフィムとは、イスラエルで用いられた「神の像」、占い師とは

   「神のみ心を伺う者」である。背景には、祭司、指導者たちが、真正な神の言葉を語ることがないからである!>

   結果的に、神の民は彷徨い歩き、真の羊飼いはいないのである!

   聖書にはこの表現が、しばしば語られている!

(エゼキエル348、ゼカリヤ102、マタイ936

 

 3 それ故に、主イエスは人々を深く憐れみ、教え始められたのである。

  そして記されている、「そのうち、時もだいぶたったので・・・」と

  弟子たちは、「食事のために群衆を解散させてください」と主に願った。

  しかしながら、主イエスは弟子たちに「あなたがたが食事を与えなさい」

と言われた。

 

  弟子たちは答えた、「わたしたちが百デナリオンものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか?」とお聞きした。

  弟子たちのこの言葉には、どのような意味、思いが込められているのか?

  <こんなに大勢の群衆!そんなお金もパンもない!>

  ◎弟子たちは、途方に暮れてしまった!これが現実である!

               3

4 主イエスの聖なる御業

  そこで主イエスは「パンはいくつあるか、見て来なさい」と言われた。

  弟子たちは、「パンが五つあります。それに魚が二匹です」と答えた。

  (ヨハネによれば(69)、パンと魚を持っていたのは少年である!)

 このようにして聖なる出来事が起こった。け

 第一は(マルコ6:39~40):「主は群衆を整えられた

 

 「そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。

 

 

 ◎群衆は、まとまりのない、三々、五々集まって来た人間の集団である。

  主イエスは、このような群衆を、弟子たちに命じて、基本的に“組に分

  て”、50人、100人のグループに分けて座るようにされたのである。

  これは無制約、無秩序に集まっている群衆を、この地上にあって一つの「群衆の整えられた姿」を求められたのであろう。

つまり主イエスの近くに集まってきた人々で、主イエスによって

整えられた人々の姿=それは祝福を受ける教会の原型であろう。

 

  第二は(マルコ6:41):「主は讃美の祈りによって、パンを祝福して

配らせた。魚も同様にして与えた

 

  「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。

 

    ◎主はここで讃美の祈り、祝福の祈りをささげた。

これは主イエスの宣教(ミニストリー)の中で行われたものであり、  十字架を前にして行われた最後の晩餐の時に設定された、聖餐の出来事の予表になっている。

ちなみに、ヨハネ福音書6:33~35によれば、「神のパンは、天か

ら降って来て、世に命を与えるのである。・・・イエスは言われた、

『わたしが命のパンである』と。」

主イエス・キリストの「十字架における自己投与」の予告である。

 

   第三は(マルコ6:42~44)「五千人の人々は満足した」

   「すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。

 

 

  ◎この主イエス・キリストの聖なる御業に与ったすべての人々は、満足し、

   大きな恵みと祝福に与ったのである。大いなる喜びであり、感謝である!

  

「12の籠」とは、イスラエルの12部族を意味するものであろう。

  けれども12部族留まらないであろう。5000人の群衆の中には、

地中海沿岸諸国、異邦の国からも大勢の人たちが集まって来ていたからである。つまり、恵みと祝福は全世界に及ぶのである。

 

 

5 エレミヤが語った預言(エレミヤ23:3~4)の成就

  「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、

もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。」と。

エレミヤは厳しい裁きの言葉を語った。しかし彼は同時に、神の恵みによって、神の民の回復、新しい救い主到来の預言(31:31)を語った。

  この預言は、主イエス・キリストの十字架と復活において成就、実現した。

 

6 フィンランドにおける祝福された交わりの経験

  オウルという北の街でセンニ・ラウマさんという老婦人の出迎えを受けた。

  教会の修養会に出かけるために、私たちをホームステイさせてくださった。

  小さなアパート。センニさんは私たちを“日本からの天使”と言って

  温かく迎えてくださった。センニさんは台所に寝て、私たちはセンニさんのベッドで寝たのである。結果的には彼女も二泊三日の修養会に参加して、

  祝福された交わりを与えられた。=ここでも『信食同源』を体験した。

  毎年のクリスマスカードは「シユウナウスタ!」の一語で十分であった。

 

 最後に今日の詩編は、有名な23編である。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い

魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。 死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。・・・」 昔も、今も、後も!

  主イエス・キリストは、世界の大牧者として私たちを日々導いてくださる!

歳時記

山法師(ヤマボウシ)の実です、今年は昨年に比べて沢山実りました。美味しいのですが食べる人は少ないようです、うす甘くねっとりした感じが好まれないのかも知れません。

 

説教:田中良浩 牧師

2018年8月12日(聖霊降臨後第12主日)礼拝

担当 田中 良浩

3 8月12日(聖霊降臨後第12主日)

  聖書日課 アモス71015、エフェソ13

14、マルコ6;6b~13

  説 教 「宣教に遣わされた弟子たち

 

 

序 今日の主題:私たちクリスチャンは、弟子たちと同様に、主なる神さまに

  召された者であり、そして「この世に遣わされた者、派遣された者」である。いわゆる「キリストの恵みのミッションに与る者

である。

 

1 私は人生の最終章(アメリカでの牧師の務めが終わった直後)に、ひとりの「命の先覚者」に出会った。日野原重明先生である。私をホスピスの

チャプレンとして働くように、“熱心に”お誘いくださって、私はホスピス、ピースハウス病院に働くことになり、結果的に7年間奉仕した。しばしば、先生と一緒に働き、海外旅行を含めて、共にあるよい機会が与えられた。

  

  そのような中で、私が腎盂癌になり、やがて膀胱癌が発見された時に、

先生は「大丈夫ですよ。治りますよ!」と仰った。しかし私はそれらの癌と戦い、7度の手術を経ても、抗癌剤の苦しみを経ても殆ど10年間、治る希望は見えなかった。病理検査の結果はいつも、ローマ数字のVであった。

  日野原先生はお会いする度に「病はあっても、イエスさまがお与え下った使命によって健やかに生きることが出来る。私もです!」と仰った。

  最終的に、私は右の腎臓も膀胱も摘除する手術をしたが、今なお、日々を健康を与えられて生きることができて感謝している!

 

  私たちの人生、それは私たち自身のものである。決して、人と取り換えられるものではない。これは当たり前のことである。両親から生まれそして、

  それぞれの環境で養われ、遊び、学び、自己に目覚めて人格形成していく。

それは決定的に自己が中心であり、その意味で自己中心で、主体的である!

にも拘らず、私たちは「召され、この世に遣わされた者」である。

  何故か?主イエス・キリストが私たちに介在されるからである。

つまり主イエス・キリストが語りかけ、それぞれの生活や職場で私たちを召し、私たちをそれぞれの生活の場へ、職場へと遣わされて行く、派遣されて行くのである!

2 「12人の弟子たちの派遣」は、今日の福音書の中心の物語である。

  世界の歴史を見ても、このような出来事は他にない。つまり「主が弟子たちを召し、教え、そして不思議な聖霊の力を与え世界に派遣する」これは言うまでもなく、主イエス・キリストにおいてのみ起こった出来事である。

 

  1. 先ず、今日の福音書の冒頭には、「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。」(マルコ6:6)と記されている。

この言葉は、実に簡単ではあるが、この出来事の重要な原点を示している。言うまでもなく、他の共観福音書(マタイ10:1、5~15、ルカ9:1~6)にもこの「12弟子の派遣」の物語が記さ

れているが、この事実は同じである。

 

マルコ1:39には最も古い形で「(主イエスは)そしてガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」とある。

 

また、マタイ4:23では「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」と記されているし、全く同様な言葉が、同じくマタイ9:35にも、繰り返し記されている。

 

つまりこのことは、「教会の働きとしての宣教の主は、イエス・キリストご自身」であるということである。かつて弟子たちの時代、また初代教会の時代と同様、現在においても同様である。

「宣教の主は、イエス・キリスト」なのである。そして弟子たちも、

また、私たちもその宣教に召され、与る者なのである。

 

  1. マルコ福音書を始め、ルカもマタイも、12弟子の召命と派遣を

「二段構え」に記している。(マタイは連続的に記している)。

特にマルコの12弟子の召命と任命は(3:13~16)によれば

「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。」と記されている。ルカも場所を山と記している。

     「山」とは、祈りの場、神の顕現の場である。神聖な場である。

  (3)派遣についての、いくつかの興味深い内容について:

  ① (マルコ6:7)「二人ずつ、組にして」

=宣教のためには協働者が必要である。初代教会も同様であった。

      具体的には、かつて世界的な流れとして、伝道のために献身した

夫婦は、教会の協働者であった事実を見過ごせない。

      <現在、このような姿が消失してしまったことは、残念である>

 

  ② (マルコ6:7)「汚れた霊に対する権能」

=神の霊、聖霊に逆らう力に、打ち勝つことができる権能である。

      7月8日(聖霊降臨後第7主日)の礼拝において学んだように、

      神によって与えられる聖霊こそ、私たちが日常生活を生きる根拠

      であり、悪の力、罪に打ち勝つ力なのである。

 

  ③ (マルコ6:8)「旅には(杖一本のほかには)何も持たず、パンも、袋も、金ももたず・・・下着も二枚着てはならない」と厳しく戒められた。

<物質的な貧しさにおいて、神の豊かさを伝える!>

     =これは神の国の到来を告げ知らせること、宣教がそれほどまでに、

一人ひとりの「現実の生活に緊急的な必要性」をもち、全世界の人々にとって「終末的な、生きる希望の必要性」をもっていたからである。これは、現代社会においても「然り」である。

  

   ④ (マルコ6:10)「その家にとどまりなさい。」

=初代教会から、今に至るまで宣教の展開は、家を基盤にしている。

初代教会においても(ペトロの伝道 使徒10章=コルネリウスの家で)、また、(パウロの伝道 使徒16章=紫布の商人 リディアの家で)それぞれ行われた。日本でも「家庭集会」はごく一般的であった。私もどこの教会でも、「家庭集会」を開いてきた。

 

   ⑤ (マルコ6:13)「12人は出かけて行って、宣教した」

=そしてマルコは、素晴らしい宣教の結果を報告している。    「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」と。

      これはイエスの宣教そのものに与る、祝福された結果である!

      これに対して現在の教会の姿はどうであろうか?神は沈黙して

おられるのであろうか?Aトフラーのいう第三の波(情報化の波)

呑まれて、アップアップしているのが現実であろうか?

3 ところで今日の旧約の日課「預言者アモス

について語る必要がある!

  アモスは、いわゆる預言者が盛んに活動する初期の預言者である。

  その時代は、南王国ユダの王はウジヤ、北王国イスラエルの王はヤロブア 

  ムであった。この時代はBC8世紀の半ばである。

  この時代は、ソロモン王国の再興と思われるほど、政治的には強固となり、

経済的にも繁栄した。その結果、政治的支配階級を始め、宗教的な指導者たちも、倫理的にも、道徳的にも、堕落し、退廃していた。

  そのためにアモスは政治的、社会的な堕落に対して、痛烈な批判を加えた。

  同時に宗教的な指導者たちにも宗教的な祭儀の堕落を強く非難した。

 

  しかも、アモスは自ら語るように、彼は「コアの牧者(羊飼い)の

  一人であった」時に、預言者としての召命を受けた。

  そのような理由からか、アモスの審判の預言は痛烈であった。

 

  そのためにべテルの神殿の祭司、アマツヤは王ヤロブアムにも伝えて、

アモスに「北王国イスラエルを離れ、ユダの地へ逃れて、そこで預言せよ」

と命じている。しかしアモスは答えた。(アモス7:14~15)

「アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。

主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。」と。

 

  つまりアモスは王の君臨する神殿において、宗教的な祭儀を執り行う一人としての預言者ではなかった。むしろ神殿とは遠く離れた、在野の預言者であった。それゆえに、真のカリスマ性をもった預言者であった。

  有名な預言の言葉がある。(アモス8:11~12)

  「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。

  人々は海から海へと巡り、北から東へとよろめき歩いて、主の言葉を探し求めるが見いだすことはできない。」と。

 

  アモスは裁きの厳しい預言の言葉は、最終的には、神の国イスラエルの

  繁栄回復の預言で閉じているのである。(アモス9:13~15)

  <これは現代社会に生きる私たちへの大きな希望である!>

4 今日の福音書の内容は「宣教に遣わされた弟子たち」である。

  けれども、同時に私たちも、現在の生活、社会において、弟子たち同様

  宣教に遣わされていることを、改めて確認したい。

 

キリスト者は「神の恵みに生かされる者」である。=<それは受動的生>

今日の使徒書(エフェソ1:6~9)によれば

「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。

神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。

 

 

ここで使徒パウロの言う、神の「秘められた計画」とは異邦人伝道である。

私たちにとっては、何であろうか?一人びとりに与えられた課題である。

 

  つまり神の十字架と復活の恵みによって生かされて私たちは、同時に

その出来事を証しし、伝える者つまり、この意味で、主イエス・キリスのミッションに与り「この世に派遣された者」でもある。=<それは能動的生>

 

  一人びとりがどのような状況にあっても、このような生き方を自覚することができるのは、本当に幸いである!

 

  最後に、今日の詩編85編から読もう!

  「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。

御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に、

彼らが愚かなふるまいに戻らないように。

   主を畏れる人に救いは近く、栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。

   慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし

   まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。

   主は必ず良いものをお与えになり、

わたしたちの地は実りをもたらします。

   正義は御前を行き、主の進まれる道を備えます。」アーメン!

 

   <主なる神さまの平和と正義に与り、

           神さまの平和と正義を宣べ伝えよう!>

宣教師のフィンランド便り(1)

日本の皆様、お元気ですか?こちらフィンランドは、7月16日にヘルシンキで米ロ首脳会談があった前の週から急に連日30℃の猛暑の日々となりました。日本の酷暑ほどではないですが、基本的にクーラーの備えのない国なのでうだる様な暑さです。日本の豪雨洪水はこちらのテレビ・ニュースでもトップ扱いで報じられていました。被災地の方々にお見舞いの意を表したく思います。

6月29日から7月1日にかけてヘルシンキから北へ500キロ程のところにあるカラヨキ市にて、私どものミッション団体「フィンランド・ルター派福音協会」(SLEY)の全国大会が開催されました。今回はその報告です。

SLEYというのは、フィンランドのルター派国教会の中で活動するルター派のリヴァイヴァル運動の団体で、1873年に結成されました。ルター派のリヴァイヴァル運動というのは、「ルターを通して福音の真髄に」という趣旨の信仰活性化の運動です。国民向け伝道の勢いが海外伝道に発展し、フィンランドが独立する前の1900年に日本伝道を開始。現在はケニア、ロシア、エストニア、南スーダン、ミャンマーにも宣教師を派遣しています(今年からドイツにも派遣開始、これは難民移民向けの伝道)。

SLEYは聖書解釈において保守的な立場なので、そうでない国教会とは難しい関係にあります。しかし、国教会の牧師・信徒の中にSLEYに共鳴する人は少なくなく、加えて近年フィンランドの国教会は脱退する人が毎年3~4万人出るなど(昨年は5万2千人が脱退)凋落傾向が著しく、それを憂える人たちの賛同も得ています。

SLEYの全国大会は1874年から毎年開催されており、唯一例外は第二次大戦中の1941年、旧ソ連軍の空襲のために中止になったことでした。従って今年で143回目となります。

カラヨキ市はフィンランドでは珍しく大きな砂浜があるリゾート地で、人口は1万2千人程。SLEYの全国大会には1万4千人が参加したということですから、大会期間は人口が倍増したことになります。

 

 

 

 

 

 

会場はイヴェント・パークと呼ばれる、4千人収容のホールと、追加の席はホールの外にベンチを並べます。

会場には、SLEYが宣教師を派遣している国々の国旗が掲げられます。

メイン会場の回りに、食堂、若者用、子供用プログラム会場、海外伝道テーマの大天幕が張られます。

大会はまずカラヨキ市長と国教会オウル監督区関係者の歓迎の挨拶から始まります。3日間の大会は、SLEY会員の年次総会、聖書の学びの時間、各界著名人のスピーチ、聖歌の時間、コンサート、聖餐式礼拝それに海外伝道地からの報告からなり、これらとは別に、若者向けプログラム、子供向けプログラムが併行して行われます。全体集会のハイライトは3つあり、土曜日の夕方ポップ調メロディーが奏でられる聖餐式礼拝と日曜日朝の伝統的な聖餐式礼拝そして宣教師の派遣式です。

吉村、パイヴィ宣教師のスオミ教会での福音伝道についての報告の様子、ステージの様子が大スクリーンに映し出されます。

若者向けプログラムの一コマ、ゴスペル・ロックの熱演。

演奏の合間に教会のユースリーダーがスピード感溢れる言葉遣いで聖書を教えます。子供向けプログラムでは、国営テレビの子供番組の人気司会者がお遊戯の合間に聖書を教えていました。

宣教師の派遣式。初めに、派遣国の国旗を持った子供たちが宣教師たちの前で歌を歌います。

これから派遣の按手の儀式に臨みます。按手を授けたのは、フィンランド国教会オウル監督区サルミ監督、ケニアのルター派教会のマトンゴ神学校のオモロン校長それにサイラSLEY会長とアウヴィネン同海外伝道局長。

按手を受けるエッサイ、右側はパイヴィ宣教師。吉村宣教師は悦才の左側(SLEYのSanansaattaja紙の記事から)。宣教師の子供も派遣される者として按手を受けます。大学生となった長女のヨハンナは一人ヘルシンキに残ることとなっため、派遣者と見なされず按手を受けられません。子供のいる宣教師家族は皆、子供が大きくなるとこのような別離を経験します。

以上がカラヨキ市で開催されたSLEYの全国大会の報告でした。

全国大会の後、当地で猛暑が始まるや、家族でオーランド諸島をフェリーを乗り継ぎながら、4日間サイクリング旅行をしてきました。写真は、チョーカル島にて次の島に行くフェリーを待っているところと、クムリンゲ島の聖アンナ教会の壁画に見入るパイヴィ宣教師。

この壁画は1500年代半ばのもので、聖書に記述されている出来事が教会の壁中に描かれています。

歳時記

いま街中いたるところで、さるすべり(百日紅)の花で溢れていますね。何時の頃からこんな現象になったのか思い出せません、でも色とりどりな花を愛でています

歳時記

宮が瀬ダムに行ってきました、ダム湖を眺めていますと今は水の底にあったかつての宮が瀬の集落を思い出します。丹沢山にダイレクトで登れる丹沢三峰という登山コースが私のすきな道でした。本厚木からのバスで馬場という停留場で下車、乗客一人の私に運転手は「これからだと着くのは夕方だな、気をつけて行ってらっしゃい。」と声をかけてくれたのが懐かしい思い出です。

歳時記

先週の続きです、夏の清泉寮は学生たち若者で賑わっていました。やはりお目当ては名物のソフトクリームに人気があるようです。

説教:木村長政 名誉牧師

20回コリントの信徒への手紙

617節                                   2018722日(日)

 

今日の御言葉は617節です。これまでの内容と違って、奇妙な事が書いてあります。それは教会の中で争いが起こった時どうしたら良いか、という問題です。その前にもう一度見ておきたいことは、前回の5章のところでパウロはコリントの教会の不品行と堕落に満ちた状況を赤裸々に書いて、どう扱うかを厳しく言ってきました。そして更に417節には弟子のテモテを遣わすと言って「キリスト・イエスに於ける私の生活の仕方を、私が至るところの教会で教えた事を思い出すようにと言ってきました。」このようにしてパウロは教会生活というものをはっきりと知らせ教会の権威を教えようとしているように見えるのであります。5章のところで終わりの方に教会の外の人を裁くのは神である。教会の内の者の問題は教会で全責任を負わねばならないと言ってパウロここでも教会の独自の権威というものを示そうとしています。そうしておいて続いて6章の始めで、それなら教会の内に争いが起こった時どうするのか、という事を語りながらここでも教会の権威が多くの人が考えているよりもはるかに力強いものであるのか、という事をはっきり示そうとしているのであります。現にコリントの教会の中に、もう問題がいっぱい起こっている。手が付けられないようなレベルの低い問題があちこちにある。そういう中に教会の聖なる信徒たちはどうしたのか。詳しい事情のことはよく分かりませんがそこには教会内の事件を外の人によって裁かれているらしいが、これは一体どういうことか、パウロはそれに対して厳しく咎めているわけです。62節を見ますと「あなた方は知らないのですか聖なる者達が世を裁くのです。この世の方があなた方によって裁かれるはずなのに、あなた方には些細な事件すら裁く力がないのですか。」とかいています。ここで」パウロが言いたいのは教会内の問題をなぜ外の人々に裁いてもらおうとするのか、という事であります。教会の問題は教会自身が解決しなければならない、と言って教会が持つ権威の事を語ろうとするのです。

 

不品行な者たちとの交わりについても教会は独自の判断を持っていました。教会の生活は教会の外の生活とは違っている思わせる程教会の独自の判断と権威を持っていると言いました。それは教会の事は教会で、と言うだけのことではなくて教会と言うところは他のものと違う立場を持っていると言うことであります。教会はこの世にあるあるに違いありませんがこの世に支配されない、むしろこの世をさえ裁く力を持っているはずである、というのであります。教会がそういうことを言うのは何か一人で力みかえっているように思われるかも知れません。現在においても日本ではキリストの教会は小さな団体であります。コリントの教会の当時、なおさら弱小なものであったと思います。その中にありながら、パウロは教会はこの世のものではない力と権威を持っているはずである、と確信していたのです。それはパウロだけでなく代々の教会がそうであったのです。人の目にはどう映るにせよ教会は神が建てられたもの、キリストによって救われた者の集まりであります。それならそこで行われるべきことは、まさに神の権威を反映させるべきものであります。キリストを信じることの力がどういうものであるか、ということを堅く確信していなければならない、ということであります。そういうことを言ったのちにパウロは教会の問題をなぜ教会外の人によって裁かれようとするのか、と言って今度は教会こそ実に世を裁くべきものではないかと言うのです。教会が本当の意味で世を裁くもの、いや裁いているものである、と言っているのですしかしだからと言って教会はこの世の事件をいちいち裁いたりするものではありません。教会がそこにある、ことが既にこの世に対する裁きではないでしょうか、と言うんです。現在の日本では教会の数はまことに少ない、神のこと等考えようともしない。しかし私たちは神を信じて教会に集います。教会での神様を礼拝すると言うことが大事であるこを知っています。教会の存在の力、神の力がこの世に働いているのです、教会は神によって建てられ、教会の力は世を裁いていることになるのであります。教会が世の中にあって裁いていると言っても教会の信徒がみな裁判官になるのではありません。そうは言ってもまことに神のいますことを証ししキリストの救いこそ真の救いであることを示すことによって、この世を裁くことになるのではないか、ということです。

 

パウロは3節を見ますとこう言っています。「私たちが天使たちさえも裁く者だ、と言うことを知らないのですか。まして日時生活に関わることは言うまでもありません。」つまり、ここで言われていることはキリスト者が世を裁くだけでなく、御使いをさえ裁く権威を与えられている、ということであります。こうしてパウロの教会の権威についての話は一層進んで御使いの裁きに至って頂点に達した、と言えると思います。私たちは自分が信仰を持っていると言うことをどう考えているでしょうか。キリスト者である事をただ皆と少し違う考えで生きているというだけでしょうか。教会へ来る事も習慣的に集まるというだけの事かも知れません。しかし、そうではなくて今は神のものとせられた者であります。パウロが言うのは私たちは既に神の権威のもとに生きている、と言うことです。それならばこの世の人の知らぬ確信をもって生きてよいのであります。パウロはコリントの教会へ強く迫って言うのです。「それだけの権威を神様から与えられ、そういう生活をしているはずの教会が裁きの事について、間違を犯すはずはないのではないか。」とパウロは言うのです。私たちの教会もコリントの教会とは違う大きな問題を抱えています。神がこの世に建てられた教会に神、また大きな力と権威とをお示しになって神の御業をあらわしていかれるのあります。     アーメン・ハレルヤ!

歳時記

先週、家内の車で八ヶ岳の白駒の池に行って来ました。標高2100mに位地するこの池の周囲は栂の樹林が鬱蒼と茂り地表は苔で覆われているので有名です。先日の連休の名残でしょうか「渋滞」の看板が至るところで見られました。池は北八ヶ岳の縦走路から僅かに外れているので何時もパスしていました。そこで今回思い切って訪れてみました、駐車場からの道も歩きやすく3040分ほどで池に着きました、観光客も少なく静かな佇まいを楽しんできました。

 

 

説教:鷲見達也 牧師

聖霊降臨後第8主日説教 『神の支配』       2018715日スオミ教会

マルコによる福音書42634

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、皆さまお一人お一人の上に、豊かにありますように    アーメン

 

今日の聖書において、イエスは「神の国」について、たとえを用いて、説明しておられます。

 私たちは「神の国」をどのように捉えたら良いのでしょうか。

神の国と申しますと、天の高みにある具体的な3次元の時と場所を考えるかもしれません。しかし、神の国とは、神の領土などという場所のことではなく、神が支配しているということです。「神の国」とは「神の支配」のことです。言い換えますと「神の意志が貫徹している」事態であり状況です。

 

 今日のみ言葉から聞いてまいりましょう。

26節からの「成長する種」のたとえはマルコによる福音書だけが伝えるものです。

これは、福音の伝道について疑いを持っている者に対して言われていると読めるのですが、主イエスは次のように申しました。「[MAR] 4:26また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔くようなものである」と、このように、たとえでおっしゃいました。

 すなわち、農夫が種を蒔いた後、27節~28節ですが、「4:27夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであ」る、と記されております。

 

このたとえの中では「ひとりでに」というところにポイントがあるようです。

 農夫が蒔いた種は、芽を出して成長いたしますが、蒔いた人は、種を蒔いただけであって、その種が、どうしてそのように芽を出して育っていくのかが分かりません。ひとりでにそうなっていくように、神の支配もまた、福音の種を蒔いておきさえすれば、やがて実を結ぶようになることをここでは示しております。

ですから、このたとえの意味は、神の支配というものは、神さまが配慮されるのだから、人間の側で急いだり、あせったりしてはならないということです。

 

 本当の霊的成長は、気がつかないうちに「ひとりでに」行なわれます。伝道において弟子たちのつとめは、種を蒔くことであり、あとは待つことです。そのようにいたしますと、やがて28節~29節、「4:28まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。4:29実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」ということが起こってまいります。

 作物は「目に見える原因もなく、ひとりでに」成長するかのようですが、農夫が直感的に気づいているように、すべてを巧みに導く支配者がそれを行っております。

 

 ひとりでに成長するその理由が、人間に分からないのは、成長のプロセスが「命の育み」だからです。その種に命がなければ、土に蒔かれてもその種はやがて朽ちていきます。しかし、その種に命があれば、種が土に蒔かれることによって、「ひとりでに」成長いたします。ひとりでに成長するのは、種に命があるからで、成長は命の証しだからです。人間は種を蒔くことができます。豊かな実りを収穫することもできます。しかし、命を左右することは人間には結局できません。動物の命であれ、植物の命であれ、おおよそ命には常に何かしら神秘的な要素がつきまとっております。

命を左右することは人間に委ねられた権限に属しておらず、もっぱら神の支配に属しております。私たちは命の神秘に驚きます。何らかの意味で神の尊厳の一端にそこで触れるからです。

 

種蒔きの後、人が収穫の時まで積極的に関与しなくても、種は「ひとりでに(目に見える原因もなく)」成長いたします。それと同じように、神の国も「ひとりでに」成長するということが今日のこの第一のたとえの要点だと思われます。

 

それは、神様が人の思いを越えて育ててくださるからです。パウロはこのことを、植物を例にとって、コリントの信徒への手紙Ⅰ 36節で「[1CO] 3:6わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」と述べております。この神の不思議なみ手を、信仰の目によって見、そして確かめることが、信仰生活の喜びと力です。

 

ですから、日常生活において一つの事柄や計画を進める場合にも、この神の支配を考慮し、神の国のことを考え、神のみ手の働きに委ねて始めるならば、必ず実を結び、刈り入れの時がくるようになる、そのことを、このたとえは教えていると思われます。

 

 そこで大切なのは、私たちはどのような種を蒔くべきかということです。

その種の内容としては、信仰の中身が問題になります。①神が第一であること、②十字架の罪の赦しの福音が中心になっていること、さらに ③復活の信仰、の三つを含んでいる種が良い種ということではないでしょうか。

そして、このような種を蒔いていれば、どのように困難に見える種まきであっても、必ず実を結ぶようになると、私は信じます。

 

 神の国の建設は人の手を通して進展しますが、人の手の中にあるのではありません。神が働いているのであり、人の目には「ひとりでに」成長するように見えます。農夫が補助者として働きながら、豊かな収穫を忍耐強く待つように、私たちも挫けることなく、神の働きを信じて待ち続けるのです。

 

ですから、キリスト者の伝道活動は、ただ福音の種を蒔くだけで良いと言うことです。

地に落ちた種が、「ひとりでに」成長して実を結び、刈り入れの時がくることを確信してあとはお任せして待てばよい、そのことを示しております。

 

30節からの「からし種」のたとえは同じように植物の成長に関するたとえですが、からし種は1~2ミリの小さなもので、パレスチナ地方では、成長すると3~4メートルにもなるといわれています。このたとえでは、小さくて取るに足らない「最初」と、成長して大きくなった驚くべき「結果」の対比が目に付きます。

 このたとえも「神の国」が主題です。ここでのポイントは、先のたとえが「成長の謎」であったのと異なり、「成長の巨大さ」です。からし種のような小さな種から、空の鳥が巣を作るほどに大きな木が育つように、神の国もその発端は気づかれることがないほど小さくても、やがてこの世界の現実を圧倒する巨大な事実として出現する、と申します。

 

 神の国の始まりは小さくても、やがて全世界をおおうようになります。からし種のような小さいものによって始められた神の国のわざ、伝道の仕事、教会の創立も、それはやがて大きくなり、それを求めて宿るものに平安を与えることができるようになります。

 個人の信仰生活も、教会の歩みも、最初は、からし種のように、どんなに小さくても良いのです。生きた信仰であれば良いのです。もし、それが神の支配の中にあって始められたものであれば、必ず成長して多くの人々を宿すようになることを示しております。

 

 今、私たちが生活している現代では、神の福音、主イエス・キリストの言葉と行為とは、全世界に伝えられております。教会は全世界に存在しております。

しかし、この福音がアジアからヨーロッパに伝わりましたのは、ただ一人の人、使徒パウロの祈りによる決断によったものです。

パウロがテモテを連れて小アジア伝道を行なったときに、そこで、行き詰まり、トロアスに下った時に、ここで夜、一つの幻を見ました。それは、一人のマケドニア人が立って、使徒言行録169節の「[ACT] 16:9、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。」というものです。

こうしてパウロは、神の支配と導きとを信じて、マケドニア地方第一の町フィリピへ行って福音を伝えました。それがフィリピの教会となり、そこから福音がヨーロッパに行き渡り、さらに全世界へと広がり、今日に至っても、なお拡大されつつあります。これは神の力と神の支配とによったからだと考えられます。

 

 しかし、人間の力に頼った場合はどうだったでしょうか。

アレキサンダーは、紀元前336年から323年(パウロの約400年前)にマケドニア王であり、アレキサンダー大王と称せられました。アレキサンダー大王は、アリストテレスに師事し、また大軍備をもって人間の力の限りを尽くしてペルシャ討伐のために小アジアに遠征し、インド北西部まで占領し、絶対君主として自分を神格化しようと人々に要求しました。しかし彼は、その大遠征中に死に、今や彼の跡は見るかげもありません。ただ都市名に彼の名をとどめているだけです。

また、ジンギスカンは12世紀に、モンゴル帝国を創立し、西に進出する大計画を計りました。こうしてジンギスカンは世界史上屈指の大英雄とされましたが、彼の跡も今はありません。

 

このように、パウロは神の支配によって立ち、他方、人間の業としての例に挙げたアレキサンダーとジンギスカンは人の力によって活躍しました。神の国と人の国との違いを、そこに見ることができるような気がします。

 

このことから、神の支配によるものは、永続的なものであり、初めは小さく、弱いものであるかのように見えましても、それは大きくなり、強いものであることを、私たちは知らされます。

個人の歩みもまた、神の支配の中にあって、神のことを考えながら進む歩みは、その出発は小さくても必ず成長し、人に役立つものとなることを忘れてはなりません。

 

 ところで、主イエスがたとえを話すのは、ある特定の状況の中で、ある特定の問題に答えるためだと考えられます。

「成長する種」のたとえと「からし種のたとえ」は次のように考えることもできるかもしれません。

 主イエスが活動し、群衆や弟子たちが集まってきます。しかし、それらの多くの者は傷つき、病み、主の癒しを願うような弱々しい集団でした。「こんな小さな弱々しい集団でいったい何になるのか。神の国というにはあまりにもお粗末ではないか」という疑問が投げかけられたことでしょう。それに対して、「成長する種」「からし種のたとえ」のような、たとえ話が語られたのではないでしょうか。

 もしそうであるならば、このたとえの意味ははっきりします。

 

人間の目から見れば、神の国というのは、ほとんど目に留まらないような小さな現実に見えるかもしれません。しかし、それは気づかないうちに、丁度、植物が農夫の知らないうちに「ひとりでに」実を結ぶように確かに成長していきます。そして、この小さな神の国の種から、丁度、からし種の成長のように、驚くべき大きな結果がもたらされるのだ、ということです。

 

 さて、このような多くのたとえを主イエスが用いられたのは、33節、「[MAR] 4:33イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。」と記されておりますように、人々が理解力を欠いていたからでありました。

ですから、人々へはたとえで語られましたが、34節「[MAR] 4:34たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」のです。

弟子たちは、既に主イエスに心を開いておりました。

 このようなわけで、今日においても、神に心を開いて素直に開いていれば、神様は聖書を通し、あるいは人々の動きや出来事を通して、その人に語ってくださいます。

 

ところで、人間の歴史を導くのは「神の摂理」です。神の摂理の全体を展望することのできない人間には、一見無意味なもの、無秩序なものが確かに存在いたします。

7年前の311の問題、東日本大震災は私たちにさまざまなことを考えさせました。また、一昨年の熊本地震や今年618日の大阪大地震がありました。また、今月6日からの西日本豪雨によって200人以上の方14日現在201人)が亡くなり、安否不明者も3014日現在)もいるという大惨事の中で、今も苦しむ方々がおられます。大水による被害、土砂崩れによる被害や、竜巻の自然災害などは、私たちの力を超えた無秩序、カオスのなかに私たちは投げ出されているようにも思わせられます。

しかし、それは、神の視座から見れば、すなわち、神の摂理の全体的な展望の中では、決して無意味なものでも無秩序なものでもありません。

ここには、私たち人間には理解できない時の流れ、神さまの時の流れがあります。私たち人間の理屈では答えのない現実もあります。

確かに、私たちは各自に与えられた場で自分の目で見、自分で判断することを要求されても理解できないことがしばしば起こります。うまく事が進む時も、そうでない時もあります。

 

 主イエスの語る神の国は人間の力によって到来するものではありません。

ですから、人間の予測や思惑は通用しません。ただ神様の働きへの信頼が求められます。

しかし、同時に神の国は人間を通して実現していきます。神の国のメッセージに応え、その中を生きようとする人がいるときにだけ、この神の国は確かに成長していきます。

 キリスト者は「見ることを通してではなく、信仰を通して」歩んでおります。

 

今日の「神の国のたとえ」は、どちらも種を蒔くという作業から出発して、終わりには、「その穂には豊かな実ができる」あるいは、「成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」とありますように、最後は、大きな結果を得るというものです。そしてこの二つのたとえで語られる種とは、まさにイエスの語られた御言葉であります。

御言葉は無視されてもしかたないようなものに見えるかも知れませんが、それはぐんぐん成長し実るもので、神の国そのものであると言われます。そして、イエスはこの私たちに御言葉という種を蒔かれました。

それは休みなく成長し、発展している神の国の姿です。私たちが夜昼、寝起きしている間、知らない間にも、神の国は限りなく成長しております。私たちはこの神の国の成長を信じ、ただ福音の御言葉の種を蒔くこと、そのことの大切さを教えられます。

 

私たちは、思いどおりに事が運ばないと、心穏やかではないといった状態に置かれます。

思うに、それは私たちの時間で考えるからであるかもしれません。ところが、もう一つ異なった時間があります。神さまの時間があるということです。

今日の み言葉で「神の国は次のようなものである……」あるいは、「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか……」とイエスは語られていますが、それはまさに神の時の流れの中でのことを指し示しております。その神の時の流れの中では決して失望することはないと言われ、収穫という終わりの時は必ず来るという安心と確信が語られております。

豊かな実ができるには、時が必要です。成長の時間は、しばしば、あまりに長すぎて、まったく成長していかないように見えるかも知れません。ですから忍耐も必要です。そしてその時は、人間の時間を越えるかも知れません。ペトロの手紙Ⅱ に「[2PE] 3:8 主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」とあります。

 

きょう学ぶことの一つに、この「待つ」ということがあります。「待つ」ということは「信仰に属すること」です。神は生きて働き育ててくださいます。そのことを信じて待つのです。ところが、このことが私たちには中々出来ません。「待つ」ことができずに徒に焦ったり、心配したり、思い煩います。

 

詩篇の121編に、「[PSA] 121:4見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。」とありますように、わたしたちの眠っている間も、神の御力の働いていることを信じたいものです。

真っ暗な闇夜であっても、不思議な神の御手が働いて、事をなしておられます。人はふつう夜は働きません。しかし、人が働いていない夜でも、神は働いておられます。そのことを信じて、神にゆだねるべきことを神におまかせする時に、初めて自分のすべきことが理解できます。神にゆだねるべきことを、真に神にまかせることのできる人だけが、本当に力強い働きをすることができます。

よく信仰や神頼みは、いくじなしの弱い者のすることだと思いがちですが、自分が偉い、自分が大将だと思っている人は、そう言うほどには、力を発揮できないものです。 

 

今日のみ言葉は、私たちが思い煩うことなく、絶対的な神の主権の中で、神が最も良いように必ず成し遂げて下さることを信じて待ち望み、すべてを委ねるようにと言うことを示しております。

私たちは、私たち自身の信仰や、スオミ教会の現状の中で、「神の国」の実現は、ただ神さまの働きであることに委ねたいのです。そして、私たちに理解できないことがあったとしても、ただ神様の働きに信頼しながら、神の国実現において私たち自身を用いていただきたいと、そのように思うことが大切です。

 

どうか、恵みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを恵みにあふれさせてくださるように。アーメン

 

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