説教「罪の赦しと復活の希望を携えて」 神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書6章37-49節

主日礼拝説教 2019年2月17日顕現節第七主日

 エレミア7章1-7節、第一コリント15章12-20節、ルカ6章37-49節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 皆さんは、本日の福音書の個所を読んでどう思われたでしょうか?イエス様の教えはそんなに難しくない、歴史的背景の知識がなくても常識の範囲で理解できる、そう思われたのではないでしょうか?ちょっと見てみましょう。

「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうれば、あなたがなにも与えられる。あなたがたは自分の量る秤で量り返される。」

これらを聞いて、ああ、自分が何か悪いことをされても赦してあげれば、周りもそういう雰囲気になって自分が何か至らないことをしても赦してあげようという態度にみんななっていくんだな、そういう赦してあげようという雰囲気を生み出すためには自分から率先して行うべきなんだな、そう思われるのではないでしょうか?「与えなさい」というのも同じで、周りがケチケチせずに与える態度を持つようになるためにはまず自分から始めないといけないんだな、そんなふうに理解されるのではないでしょうか?

「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる」というのは、小麦粉を升にぎゅうぎゅうに押し込んで、さらにとんとんと叩いて隙間をなくしてたっぷりな量を与えるということです。私などこの個所を読むと、夏のフィンランドのマーケット広場での買い物を思い出します。イチゴやいろんなベリーをリットルかキログラム単位で買うのですが、リットルで買う時(もちろん、ぎゅうぎゅうに押し込むことはしません、潰れてしまいますので)、目の前で店員が升に山のように入れてくれて、上からボロボロ落ちてしまうと、またすくっては山にして落ちないうちにサッと袋に入れてくれます。ケチケチした感じがなくて、それこそ「持ってけ、どろぼー」みたいな気前良さで入れてくれます。日本ではイチゴはケースの中にお行儀よく並べられて一粒一粒ピカピカに輝いて貴重品のようで、フィンランドのように乱雑に扱えません。

さて、こちらが気前よく沢山与えたら、周りもそれに倣って同じようにしてくれるでしょうか?中にはケチな人もいて、こっちは気前良くしたのにそうしてくれず、こっちは損をするということはないでしょうか?同じように、裁かない、赦すということも、こちらが率先しても、みんながみんなそれに倣ってくれるかどうか。ひょっとしたら、心が狭くて同じようにしない人がいて、こちらが馬鹿をみるということが起きないでしょうか?

イエス様の教えを先に進んでみていきます。盲人が盲人の道案内をすることはできない、二人とも穴に落ちてしまう、これは当たり前すぎることではないでしょうか?弟子は師を超えるものではないが、師のように完全なものになれる、というのは、文章としては理解できますが、何か意味をのあることを言っているのでしょうか?新共同訳では「修行を積めば」と訳されていますが、ギリシャ語原文では単に「師のように完全になれる」とだけ言われているにすぎません。そのために何かプロセスを経ることが前提されていますが、それが「修行を積む」ことなのかどうかは決め手は何もありません。

続いて、兄弟の目の小さなゴミを気にするのなら、自分の目の丸太に気づけ、と教えます。もちろん、丸太が目に入るわけはありませんが、これを聞く人は皆、自分のことを棚に上げて他人の至らなさをとやかく言うのは丸太が目に入っているのに気がつかないくらい鈍感ということを思い知らされるでしょう。日本の道徳の教科書に取り入れていい教えかもしれません。

これに続いて、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶといういう教えが来ます。これは次に言われる人間の状態のたとえです。良い人間は心の良い倉から良いものを出し、悪い人間は心の悪い倉から悪いものを出す。「心の倉から出すもの」とは何か?その次に「人の口は心からあふれ出ることを語る」と言っているので、口から良い言葉や悪い言葉が出るのはそれぞれ心の状態を反映しているのだということになります。なんだか当たり前すぎて目新しい感じがしません。ノンクリスチャンが読んだら、なんだイエスなんて大したこと言わないな、世界にはもっと深いことを言う賢者が沢山いるのに、と思うかもしれません。

先に進みます。最後に来る教えが、二つの異なる家を建てる者のたとえです。イエス様の言葉を聞いてそれを行う者は嵐が来ても大丈夫な家を建てる人、言葉を聞いても行わない者は嵐が来て倒壊してしまう家を建てる人と言います。これはどういうことでしょうか?先ほどもみましたように、イエス様は、裁くな、赦せ、豊かに気前よく与えよ、他人の落ち度を取りざたする前に自分の落ち度を正しなさい、と教えました。もちろん、こちらが率先してこうしたことをしてみんなが見習ってくれたら言うことありません。しかし、こちらから謙虚に気前よくしても相手が同じようにしなかったらどうするのか?周りは赦すという態度を持っていないのに、こちらは赦す態度でいなければいけないというのは、どんなものか?そんなお人好しではつけあがられたり、弱みにつけこまれるだけではないだろうか?イエス様は何か倫理的な英雄になれ、とおっしゃっているのだろうか?そのように出来る者は嵐が来ても倒壊しない家を建てる者と同じと言われるが、周囲の無理解や悪意に晒されても気前良さとお人好し路線を続けられる強さを持てということなのか?そのような家はしっかりした土台の上に建てられていると言われるが、土台とはその人の強さのことなのか?一体だれがそんな強さを持てるのだろうか?イエス様は普通の人には無理なことをしろと教えているのでしょうか?

 

2.罪の赦しを携えて

 ここでイエス様の教えを詳しく見てみます。

「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうれば、あなたがなにも与えられる。あなたがたは自分の量る秤で量り返される。」

新約聖書のギリシャ語の特徴の一つですが、受け身の文で「誰々によって」という言葉がない時は、大抵の場合それは「神」を意味しています。つまり、人を裁くな。そうすればあなたがたも神に裁かれることがない。人を罪人だと決めつけるな。そうすれば、あなたがたも神に罪人だと決めつけられることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも神から赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたも神から与えられる。あなたがたは自分の量る秤で神から量り返される。こういうことです。周りの人たちが同じようにしてくれるということではありません。

すると一つ疑問が起きてきます。神が私たちを裁かない、罪人に定めない、赦して下さる、与えて下さる、というのは、まず私たちが他人に対してそうできないといけません。でも、これはおかしくありませんか?キリスト信仰では、イエス様を救い主を信じる信仰によって神から罪の赦しを受けられると言っているではありませんか?特にルター派の場合、人間が神から罪の赦しを受けて神から裁かれないという意味での「救い」は何によると言ってましたか?人間の救いは人間の業績や達成に対する神のご褒美ではないと言っていたではありませんか?イエス様が十字架の上で人間の身代わりになって神罰を受けて死なれて、神に対して罪の償いを人間に代わってして下さった。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の犠牲のおかげの罪の赦しがその人にその通りになる、そういうことではなかったか?それなのに神から裁かれないためにしなければならないことがあるというのはどういうことか?このことについてルター派の張本人であるルターはどう教えているかを見てみましょう。彼の教えは「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」という聖句の解き明かしです(本説教の趣旨に沿うように解説的に訳すので付け加え等あります。)

「これは奇妙な教えだ。まるで神は、自分に仕えることよりも隣人に仕えることの方が肝要なことだと言っているように聞こえるからだ。お前の私に対する罪、私への反抗心、私の意志に反すること、それらはわが子イエスの犠牲に免じて赦してやる、もうお前を責め立てない、そう言って下さった。なのに、我々が隣人に対して悪く立ち振る舞うならば、神はもう、イエス様のおかげで我々が持てた神との和解を忘れて、罪の赦しを撤回すると言われるのだ。

ここで言う『自分の量る秤』とは何か?それは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになって持つことになった秤である。君はイエス様を救い主と信じるようになった時、どんなだったか思い出すがよい。神は、君の業績や達成をご覧になって君の罪を赦して君を受け入れたのではなかった。イエス様の犠牲のゆえに君に罪の赦しをお恵みとして与えて君を受け入れたのだ。神は君が罪を持ったまま御前にヘリ下って来るのを追い返したりせず、来るのをお許しになって罪の赦しをお恵みとして与えて下さったのだ。今神は君に次のように言われる。『お前も他の人々に同じようにせよ。そうしなければ、お前が他の人々にするのと同じことがお前にも起こることになる。もし他の人々に善意を示さなければ、私もお前に示さない。もし他の人々を見捨てたり裁いたりしたら、私もお前を見捨てて裁く。もし他の人々から取るばかりで与えなければ、私もお前から取り何も与えない。』

イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになると、我々の心に神の赦しの思いが芽生える。それは、我々自身が罪の赦しをお恵みとして頂いたからである。それだけではない。我々は信仰にあっても内に宿る罪が時として我々を驚かせ悲しませることがある。罪の赦しを頂くと今度は自分の罪に気づくようになる。罪の自覚が生まれるのである。しかし神は、自覚を持つ度に十字架のもとに立ち返る我々をあの時と変わらぬ恵み深さで迎えて受け入れて下さる。つまり我々はあの時と同じ罪の赦しを毎日携えて歩んでいるのだ。だから、神は我々がどう隣人に振る舞っているかをご覧になって、我々が罪の赦しをちゃんと携えているかどうか知ろうとされるのだ。神の赦しの思いを持てない者は、それをどこかに置き忘れてしまって、イエス様を救い主と信じる信仰がなくなってしまったことを暴露するのだ。」

ここからも明らかなように、キリスト信仰者が他人を赦すというのは、神から罪の赦しを頂いたことが出発点にあります。お前には神罰を下さないと神に言ってもらえる。この世の人生をまさに天地創造の神の見守りと導きのもとで生きられるようになり、この世の人生を終えた後はまさに自分の造り主である神の御許に迎え入れられる。このようなことが罪の赦しに付随してきた。こんな大きなことをして頂いたら、もう他人が自分に何か至らないことをしたとか言ったとかは大したことでなくなります。恨みや憎しみが自分から分離して色あせていきます。神がひとり子イエス様を用いてこんな大きなことをしてくれたというのは、私のことをそれくらい大事に見てくれたということです。それがわかると、神やイエス様がしなさいと言われることは、周りが見習ってくれるかどうかに関係なく行って当然のことになります。

事が日常生活の中のことであれば、赦すとか裁かないとか与えるというのは大変なことではないかもしれません。しかし、もし犯罪の被害者になってしまうとか日常の枠を超えるようなことが起きたらどうなるでしょうか?社会には法律があって刑罰や損害賠償について定められています。イエス様が赦せ与えよと言うから、下された判決に対して無罪にしていいとか、不当に取られたものはくれてやる、と言うべきでしょうか?もちろん、そうはならないでしょう。というのは、神の意志を表す十戒というものがあるからです。盗むな、殺すな、姦淫するな、偽証するな等々あります。裁くな、赦せ、与えよ、というのは、神の意志に反することが大手を振ってまかり通るようにしていいということではありません。じゃ、法律が関わるところでは、それらは無効なのか?難しいところですが、次のように考えたらどうでしょう。

それは、裁くな、赦せ、与えよ、というイエス様の教えがあるところとないところでは法律の見方が異なってくるのではないかということです。それがないところでは、目には目を歯には歯をという考えが支配的になるのではないでしょうか?あるいは気が納まらなくて目には目以上のものを求めるかもしれません。裁くな、赦せ、与えよがあると、社会において神の意志が破られないようにするのにはどんな規定や判決が妥当なのか、まさにそれらとつき合わせながら考えなければならなくなります。具体的にはどんなことがあるかここでは申し上げる余裕はありませんが、少なくとも目には目をということではなくなるのではないでしょうか?こうして見ると、法律や社会規範の形成に信仰も無視できない要因になってくると言うことができると思います。

 

3.復活の希望を携えて

 キリスト信仰者というのは、現実にはいろいろな困難はあるが、「裁くな、赦せ、与えよ」ということを心掛けます。そうするのは、自分の造り主である神が本当にひとり子の犠牲も厭わないくらいに私を罪の支配下から救い上げて下さった、このことが大きなこととしてあるからです。先ほども申しましたように、罪の赦しを頂いてそれを携えていること、これが他の人々に対してもイエス様が教えたようにしようという心にします。イエス様を救い主と信じて生きる者が携えるのはこの「罪の赦し」の他に「復活の希望」もあります。復活の希望も、携えると「裁くな、赦せ、与えよ」を行う心に私たちをしていきます。このことを見ていきましょう。

復活の希望については、本日の使徒書の日課である第一コリント15章12-20節の中でも言われています。本説教ではそれに基づいてお話しします。

この個所で使徒パウロは、キリストは死者の中から復活した、とか、もしキリストが復活しなかったならば、とか、キリストの復活について6回繰り返します。そこで注意を引くのは、ギリシャ語の原文ではどれも動詞の現在完了形(εγηγερται)が用いられていることです。こんなことを言うと学校の英語の授業みたいで嫌だなと思われるかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了形の意味と英語のそれは違いがあるので、英語のことはすっかり忘れて大丈夫です。パウロはイエス様の「復活」を繰り返して言う時、なぜギリシャ語特有の過去形(ηγερθη、アオリストのことです)を使わないで現在完了形を使うのか?今日この個所について説教する人は原文を読んで気づくでしょう。原文を読まない人は参考書に指摘されて気づくでしょう。気づいたら、どういうことか考えなければなりません(参考書の人は答えがあるので、それを引用するだけですむのかもしれません。後注)

ギリシャ語の現在完了形の基本的な意味は、過去に何か出来事が起きて、その状態が現在も続いているということです。過去に起きた出来事が過去に埋もれてしまわないで現在も表面に出ているような感じです。それで考えると、パウロがイエス様の復活をそのように言ったのは、イエス様が復活されて今も生きておられるということを意味しているというのが一つ可能性として考えられます。使徒言行録に記されているように、イエス様は復活した後、40日間弟子たちと共にあり聖霊降臨の10日前に弟子たちの目の前で天の父なるみ神のもとに上げられました。そして今は、キリスト教会の伝統的な信仰告白に言われるように、父なるみ神の右に座して再臨する日まで信仰者を守り導き、その日が来たら眠りについている信仰者を目覚めさせて神の御国に迎え入れらます。再臨が起きる前の今は生きておられ、守り導かれているのです。

パウロがイエス様の復活を現在も続いている状態で言い表したのは、このようにイエス様が今生きて治められていることを意味しようとしたと考えられます。もちろん、それもあるのですが、私としてはそれだと今生きておられることが前面になって復活の出来事が背後になってしまうのが少し気がかりでした。私としては、復活ということも前面に出てくるのではないかと、この個所のことでずっと悩んできました。今回それがわかったと思います。どういうことかと言うと、イエス様の復活というのは彼個人の出来事にとどまらず、私たち自身の将来の復活を確実にする出来事であるということです。イエス様の復活は過去の出来事として過去に埋もれてしまうものではなく、私たちをも復活に向かって押し出していく、まさに今もある復活ということです。

そのことがわかるためにパウロが17節で、キリストの復活がなければ私たちは罪の中にとどまっていると言っていることに注意します。罪の赦しを頂いたにもかかわらず罪の中にとどまってしまうというのはどういうことか?それは、罪の赦しを頂いても復活に向かって進まなければ、ただ単に神聖な神の御前で罪の自覚を持つだけで行き場がなくなるということです。私たちが復活に向かって進めるのは、復活の見本が打ち立てられたからです。イエス様の復活が起きなかったら私たちはどこに向かって進んでいいのかわかりません。そういうわけで、キリストに希望を置くことがこの世と次の世の双方にまたがるような置き方でなく、この世でストップしてしまったら、とても重くつらくなります。「裁かない、赦す、与える」ことも、損することや不利になることが気になってできなくなります。パウロが言うように、最も惨めな人間になります。罪の自覚など持たずに生きた方が楽だと思うようになります。

さらに20節をみると、キリストは復活して眠りについている人たちの「初穂」となったと言われます。「初穂」とは面白い訳です。日本の宗教的な伝統では最初に実った稲の穂を神仏に捧げるものです。ギリシャ語の単語απαρχηはそういう神に捧げるものの意味もありますが、穀物だけに限りません。動物もあります。それで「初穂」は訳としては限定しすぎです。確かにイエス様は十字架の上で私たちのために犠牲になって神に捧げられたことがありますが、その捧げが眠りについた人たちとどう関係するのかがはっきりしません。

ところが、ギリシャ語の単語には「最初の者」という意味もあります。それでいくと、イエス様は死んで眠りについて復活させられた最初の者、復活の先駆者ということになり、罪の赦しを携えて眠りについた者たちは彼に続く者になります。まさに初穂に続く穂になります。その意味では「初穂」という訳は詩的な言葉です。皆さん、麦畑でも田んぼでもいいから思い浮かべて下さい。秋の澄み渡った空の下、最初に穂となったのがイエス様です。後に続いて一斉に黄金色になるのが私たちです。真にイエス様は私たちにとって「初穂」です。

 

4.洪水にあっても倒壊しない家の土台とは?

 以上のように、キリスト信仰者とは、罪の赦しと復活の希望の双方を携えて復活に向かって押し出されるようにこの世の人生を歩む者です。これがわかると、本日の福音書の当たり前すぎてよくわからなかった個所が次々とわかるようになります。盲人が盲人を道案内することは出来ないというのは、復活の主なくして、復活に至る道を歩むことはできないということです。ちゃんと道案内できる師が必要となる。それがイエス様です。十字架の上で私たちの罪を償って私たちに罪の赦しを整えて下さり、さらに死から復活されることで私たちを復活に向かって押し出して下さる方です。その師であるイエス様に弟子はまさらない、つまりキリスト信仰者はまさることはありません。これは当たり前です。誰もイエス様の十字架と復活の業に並ぶことは出来ないからです。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に生き、罪の赦しと復活の希望を携えていけば、復活の日に復活します。イエス様と同じになれる、つまり師と同じになれるのです。

自分の目の木材とは?罪の赦しを携えて生きる者が持つ罪の自覚のことです。自覚がないのはそれを携えていないからです。良い人が心に良い倉があって良いものを出すというのは、罪の赦しと復活の希望を携えていると、「裁くな、赦せ、与えよ」ということを行うのが当然という心になっていきます。それが良い人の心の中にある良い倉です。心から出てくるものは、行為に限られず、口にする言葉もそうであると言われます。

そしてイエス様の言われることを聞いて行う者は洪水にも耐えうる家を建てる者とは?洪水というのは、この世が終わりを告げ今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる終末の大変動を意味します。そのような大変動にあっても家が揺り動かされないで大丈夫というのは、復活させられて神の御国に迎え入れられることを意味します。「ヘブライ人の手紙」12章で、天と地が揺り動かされても唯一揺り動かされないものとして神の御国が現れるという預言があります。家がびくともしないですむその土台は何か?本説教の冒頭で考えたような、人間自身の強さではありません。罪の赦しと復活の希望がそれです。それが、家がしっかり立っていられる土台です。それを携えている者はみな、この世の人生を歩む時も、次の世に移行する際の大変動の時もしっかり守られていて何の心配もないのです。

兄弟姉妹の皆さん、本日の福音書の日課にはいろいろなことがありましたが、どれも捨てることなく解き明かしできました。父なるみ神に感謝です。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

後注 ギリシャ語の現在完了はアオリストと同じように考えてもよいと言う人もいるかもしれません。私が勉強したJ. Blomqvist & P.O. Jastrup の教科書(スウェーデン語デンマーク語の二言語で書かれている)には、古典時代後には叙事文の中で現在完了がアオリストと同じ意味で使われる例も若干ある、などと書かれていました。第一コリントは16章21節から明らかなように、パウロが口述して書きとらせている手紙であることに注意しました。  

 

新規の投稿