説教:木村長政 名誉牧師

 

 顕現節第6主日     2019210日(日)

「主によって、召された自由」

  創世記  45315

 Ⅰコリント 71724

  ルカ    62736

 コリントの教会の信徒への手紙を、今回もいっしょに、みことばに聞いて参りましょう。今日は、717節ー24節までです。

 パウロはこの手紙の中で、7章から、結婚に関する問題、男女の問題について書いています。そして、それは7章の終わりまで書いています。ところで、今日の17節から24節までは、少し話がちがうように思います。

 

 普通に考えれば、話の中にちがうことを書き入れたのではないかと思う程です。

 ここには、7章の結婚に関係することは書いてないからです。他の話を、取り込んだのであろう、という人もあります。

 しかし、ここに書いてあることは何か、と言うと、パウロは、これまでの視点よりちがった方向から、大きく、広げて、そして、それらの基本的な点を述べていくのです。 

 人間、1人びとりの立場はどういうものであるか、ということにふれていきます。

 ここでは、必ずしも、男と女の問題だけでなく、人間が生きていく、生活の仕方そのものにふれていく。今、自分がおかれている、この立場に立っていることは、何にもとづいているのか、ということであります。

 私たちは、各々の生き方をしていますが、自分がこの位置に置かれているのは、何によるのでしょうか。それは、自分が希望したからそうなったのか、それとも、偶然のことであろうか。今の自分にあるのは、自分が望んでいたのか、と言うと、イヤちがう。或いは、又、どうして自分はこんな星のもとに生まれてきたのか、いろいろ考えたりもします。兄弟の中でのことや、自分の仕事について、もっと、あんな仕事をやりたかった、とか、境遇についても思いどおりにいかないことばかり、この世はそんなものです。

 それなら、少しでも改善して、自分の希望するようにしたい、と願うでしょう。いろいろ努力してやってはみたが、結局はどうにもならない、何か大きな力で動かされているような気がして、自分がいかに小さい者であるか、無力な者でしかないと、思い知らされる。誰でも通る道ではないでしょうか。私たちの生き方は、これでいいのかと、深く考えます。何か、すっきりした道はないのか、と考えるのではないでしょうか。

 教会に行ったことのある人なら、神のみ心はどこにあるのだろうか、と考えるにちがいない。神は自分をどうお考えになっているのだろうか。

 

特にパウロがここで語っています中に、もう1つ深刻な問題がありました。それは、割礼を受けることであります。この時代の教会の中で、どうしても考えなければならなかったでしょう。

信者になっても、割礼は受けなければならないものなのか。或は、むしろ、割礼のあとは、なくしてしまった方がいいのかどうか。

 これらの事柄は、信仰に関係があることでした。したがって、自分の救いに、関係のあることでした。そのことは、結婚等とは比較にならない程、重要であったにちがいありません。

 それなら、これらすべての事について、神の御心はどこにあるのでしょう。神はただ、人間のしたいようにさせておられるのか。それとも、はっきりした道があったのでしょうか。その答えが17節であります。

 17節「おのおの、主から分け与えられた分に応じて、それぞれ、神の召された時の身分のままで歩みなさい。」そしてこれについては、すべての教会で、わたしが命じていることです。と言っています。

 

パウロは、ここに、すべての立場にいる者に与えられた道がある、と言っているのです。

 このことは、信仰を抜きにして考えると、ただ、あるがままでいいのである。というように見えます。もしそうなら、最もだらしのないことになってしまいます。それなら、この中で、どこに神のみ心があらわれているのでありましょうか。

 

ここには二つの大事な事があります。

 1つは、「各自は、主から賜った分に応じる」ということです。

 もう1つは「召されたままの状態」ということです。召される、ということは、聖書の中で、最も重要なことの1つであります。それは、「召される」ということが、いつでも救いに関係があるからです。

「救われる」ということと、「召される」ということは、いつも深い関係があります。「召される」というのはお呼びになる、ということであります。

 神が私たちをお呼びになる、というのは、召して、御自分のものとなさる、ということです。

 それなら、召されるのは、神のものになる、ということになるのである、と思います。神のものになる、というのは、何でもないことのように思われるかも知れません。或は、ただ、信仰の話である、と考えられるかも知れません。

 しかし、決してそんなに簡単なことではないのです。なぜなら、もし、神のもの、とされるのでなければ、私たちは、だれのものでありましょう。

 「自分は、自分のものにきまってるよ」と、ふつうの人なら、言うでしょう。しかし、ほんとうに、そうでしょうか。自分は自分のものにちがいないが、そうすると、いかに頼りないことか。ということを痛感させられます。

 ことに、大事な決心をしなければならないような時に、それがよくわかるのであります。自分が頼りないのであります。自分がどこにいるのかが、分からなくなります。

 あちらを立てれば、こちらを立てることができないなんてことは、しばしばです。自分の立場がはっきり定まっていないのです。

 そういう人間が、神に召されて、神のものとせられる、ということこそ、まことに救いではないでしょうか。今や、右を見たり、左のことを考えたりする必要はないのです。

 神のものに、せられたのでありますから、それを自分の足場とすればいいのであります。そうでないと、結局、自分の欲望に引きずられてしまう、ということになるのではないでしょうか。

 自分は、神から召されて、神のものとして、この新しい立場を与えられたのである、ということです。神から召されたことがはっきりした時、今の自分に与えられている仕事、家庭、友人、教会の人々、みんな、神から与えられたものであり、神のご用にある人間ということになります。

 

 神が必要として、与えて下さっている人々、そして又、それがどんなに貧しい業であっても、或は人から見れば、何もないかのように思われても、神はお求めになっておられる、ということであります。そうであれば、割礼があっても、なくても、それは問題ではない、大事なのは、ただ神の戒めを守ることであります。とパウロはここで言っています。

 イスラエルの民にとっては、割礼のことは大変大事なことがらなのです。割礼は、神が召してく、ださったしるしであって、それこそ、救いのしるしであると言わねばなりません。しかし、そこで大切なことは、神に召される、ということであります。割礼はただそのしるしでしかありません。

 神のものとせられた、ということが大切なことになるのであります。

 まことの割礼を受けること、私たちの場合は、洗礼を受けることにあたりましょう。今は、どこに属しているのでもなく、神に属しているのです。それならば、大事なことは、神に属する者らしくすることであります。

 今や、信仰を持った私たちは、自分の奴隷でもない、全く自由にせられ、みな、神のものであります。

 どの人間も、キリストによって救われたならば、神のもの、すなわち、神の奴隷、キリストの奴隷であります。しかし、このことを、ほんとうになかなかわかっていないのが私たちです。

 

 そこで、パウロは、信仰の奥義を語ります。

 「あなた方は、代価を払って買いとられたのだ。人の奴隷になってはいけない。」

 おれはおれの好きなように生きるんだ。そうはいかない、代価をもって買いとられたのである。自然のままの人間ではないということであります。

 代価を払って買いとられなければならないような状態にある、ということであります。

 代価とはなんでしょう。それはキリストであります。キリストの死と復活であります。そういう代価を払わないでは、罪の奴隷をやめて、神の奴隷となり、神のものとなることは、とうていできることではありません。

 こういうことが分かった時、はじめて、「兄弟たちよ、各自は、その召された状態で、神のみ前にいるべきである。」と言うことができるのであります。

 

 人の前ではなく、神のみ前にいる自分、その時人は、はじめてほんとうの人になることができるからであります。

 ある人が言いました。

 <すべてのことは神の憐れみの中にいること。神の憐れみの中にいて、神様に「そうだよ、それでよろしい」と言ってくださることです。>

 すばらしい生き方となるではありませんか。

 アーメン・ハレルヤ

 

 

 

 

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