説教「ペトロとエレミアの召命と遺産」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書5章1一11節、エレミア1章9一12節

主日礼拝説教 2019年1月27日顕現節第四主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の個所は、漁師のペトロにイエス様が「これからお前は人間を捕る漁師になるのだ」と言ってペトロが付き従っていくところです。そのいきさつが他の福音書とは違う角度から詳細に記されています。旧約聖書の方は、イエス様の時代から600年以上さかのぼった昔、ユダ王国がバビロン帝国に滅ぼされてしまう少し前、神がエレミアを預言者に任命した時のやりとりが記されています。ペトロとエレミア、この二人が置かれた時代と状況は全く異なりますが、二人とも神から召命を受けて、一人は人間を捕る漁師として、もう一人は預言者として活動し、その中で天地創造の神の意志や計画を明らかにしていき、それが聖書という形で後世に伝えられることとなりました。聖書の中にペトロとエレミアの遺産があると言ってもよいでしょう。もちろん、ペトロやエレミアだけでなくイザヤやパウロやその他大勢の召命受けた人たちの遺産が聖書にはあるわけです。

本日の説教では、ペトロとエレミアの召命の出来事をよく見て、彼らの遺産がどういうものか、よりよくわかるようにしたいと思います。自分たちの活動を通して神の意志や計画について明らかにして後世に伝えようとしたこと、これを彼らの召命の出来事と結びつけて考えると、天地創造の神の意志や計画は私たちにもっと身近なものに感じられるのではないかと思います。

 

2.ペトロの召命と遺産

  舟も沈まんばかりの大量の魚。それを見たペトロは、イエス様に「私から離れて下さい!私は罪びとなのですから!」と叫んでしまいます。なぜペトロはこの時、罪の告白をしたのでしょうか?9節をみると、夥しい大量の魚をみて恐れおののいたことが、そう告白するに至った原因のように書かれています(θαμβος γαρ περιεσχεν αυτον […….] επι των ιχθυων […..])。それでは、ペトロは大量の魚を見て何を恐れたのでしょうか?そして、恐れることがどうして罪の告白になったのでしょうか?まずそのことを見ていきましょう。

イエス様は湖の岸辺で群衆に教えています。教えの内容は記されていませんが、4つの福音書の記述から、次のような内容であったと推察できます。神の国がイエス様と一体となって到来したこと、人間は神の国に迎え入れられるために罪の問題を解決しなければならないが、その罪の赦しが間もなくメシアの働きで実現すること、人間は神の意志を正確に知って悔い改めて神のもとに立ち返る生き方をしなければならないこと、こうしたことが考えられます。

岸辺には大勢の群衆が集まってイエス様の教えを間近で聞こうと、どんどん迫ってきます。イエス様のすぐ後ろは湖です。その時、岸辺に漁師の舟が二そう止まっているのを目にします。ちょうど漁師が舟から降りて、向こうで網を洗っているところでした。イエス様はペトロの所有する舟に乗って、彼に命じて岸から少し離れたところまで漕がせて、今度は舟から岸辺の群衆に向かって教え続けました。ひと通り教えた後で再びペトロに、もう少し沖合まで漕いで魚を捕るべく網を投げるよう命じます。

ところがペトロは、夜通し頑張ったが何も捕れなかったと応じます。夜の暗い時というのは、魚捕りに最適な時なので、それで何も捕れないのであれば、日中明るい時はなおさら捕れないではないか。ペテロの応答にはイエス様の命令に対する懐疑が窺われます。しかし、それでも、あなたのお言葉ですから網を投げ入れてみましょう、と言って言う通りにします。

無理に決まっているじゃないか、という思いで網を入れたところ、大変なことが起きました。網も破れんばかりの夥しい量の魚がかかりました。もう一そうの舟が応援にかけつけるも、このままでは二そうとも沈んでしまう位の量の魚で舟は溢れかえります。文字通り想定外の出来事が目の前に起こり、恐れを抱いたペトロは叫びました。「私から離れて下さい!なぜなら私は罪びとだからです!」ペトロは何に恐れを抱いたのでしょうか?ここでペトロがイエス様を呼ぶ時の呼称が変わったことに注意しましょう。網を入れる前はイエス様のことを指導者、リーダー、代表者を意味する言葉エピスタテースεπιστατηςで呼んでいました。新共同訳では「先生」と訳されています。それが恐れを抱いた時には一気に神を意味する言葉キュリオスκυριος「主」で呼んだのです。ペテロの罪の告白は、神に対する告白となったのです。

それでは、ペトロはどうして神に罪の告白をするようになったのでしょうか?ここでペトロが恐れたのは、いま目の前に起きている信じられない光景の中に神の力が働いたことをみたからです。神の力が働いたのをみたということは、神が自分の間近にいた、ということです。

神を間近に見ることが人間に罪の自覚を呼び覚まして、大きな恐れを抱かせることはイザヤ書6章によく描かれています。イエス様の時代から700年以上も前のこと、ユダの王国が王から国民までこぞって神の意思に反する道を歩んでいました。そのような時代状況の中で預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃してしまいます。イザヤは次のように叫びました。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は破滅してしまったからだ。なぜなら私は汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ国民の間に住む者だからだ。それなのに、私の目は万軍の主であり王である神を見てしまったのだから」(4節)

(ヘブライ語原文に忠実な訳)。神を目の前にして起きる罪の自覚の悲痛な叫びです。そこでは、神聖な神と汚れに満ちた人間との間の絶望的な隔たりが一気に示されます。神の神聖さには、あらゆる汚れを焼き尽くしてしまう強力な炎のような力があります。それでイザヤは、神殿の祭壇にあった燃え盛る炭火を唇にあてられます。そして、「お前の悪と罪は取り除かれた」と宣言されます。この時イザヤは火傷一つ負いませんでした。これは、イザヤが霊的に清められたことを意味します。

このように、人間が真の神を間近に見る場合、その神聖さと全く逆の自分の汚れを思い知ることになり、罪の自覚が生まれます。神は罪と悪を断じて許さず、焼き尽くすことも辞さない方ですので、神を間近に見てしまった時に強い恐れが生じるのは当然なのです。

さて、罪の告白をしたペトロですが、それに対してイエス様は、お前の罪を赦すとか、赦しの宣言はしません。ただ、お前はこれからは人間を捕る漁師になるのだ、と言われます。神が身近にいることを示した方がそう言う以上、従わないと認めた罪深さを放置することになってしまいます。ここは言われたとおりについていくしかありません。漁師のペトロは網と舟を置いてイエス様に付き従います。

「人間を捕る漁師」とは何でしょうか?宗教団体の勧誘員になれということでしょうか?でも、ペトロや他の弟子たちは人々をイエス様のもとに集めたでしょうか?むしろ集めたのはイエス様自身ではなかったでしょうか?もちろん弟子たちが宣教に派遣されたことがあります。ただ派遣先はユダヤ民族に限られて、仕事の内容も神の国が近づいたことを宣べることとその神の国がどういうところがわからせるために病気の癒しや悪霊の追い出しをすることでした。弟子たちの教えを受け入れた町々から人々がイエス様のところにぞろぞろやって来たかどうかは不明です。むしろ、もうすぐ起こる十字架と復活の出来事に備えて旧約聖書の民であるユダヤ人に待機させるような働きだったのではないかと思います。

イエス様の十字架の死と死からの復活が起きると様子は変わります。ペトロや弟子たちが中心となってエルサレムに教会が誕生し、彼らの宣べ伝えを聞いて、また業を見て教会につながる人がどんどん増えていきます。やがて教会の輪はユダヤ民族の境を超えていきます。こうして見ますと、イエス様がこの地上におられた時のペトロたちの任務はどちらかと言うと、イエス様の教えたこと行われたこと、そして彼に起こったことをつぶさに目撃して記憶することにあったのではないか。それがイエス様が父なるみ神のもとに帰られた後は、彼こそは旧約聖書に約束されたメシア救世主である、それを自分たちが見聞きしたことをもとに証言する、たとえ命はないぞと脅されても怯まずに宣べ伝える(イエス様の復活の後ペトロにはもう主を見捨てて逃げた面影はありません)、そういうしっかり目撃してそれを証言し宣べ伝えることに「人間を捕る漁師」の本質があるのではと思います。

ペトロをはじめとする弟子たちが目撃したことには、旧約聖書の内容が一気にわかるようになることがありました。イエス様の十字架の死と死からの復活が起きたことで、メシア救世主というのは一民族を異民族支配から解放してくれる民族の英雄ではなくて、天地創造の後に神と人間との間に生じた問題を解決してくれるまさに人間一般にとっての救い主であるということが明らかになったのです。神と人間の間に生じた問題とは、神に造られた人間が造り主に対して不従順になって罪を持つようになったために神との結びつきが失われてしまったこと。結びつきがないままこの世を生きることになってしまい、この世を去った後も永遠に造り主のもとに戻れなくなってしまう問題でした。それを神は解決しようとして、ひとり子イエス様をこの世に送られて、罪の神罰を全て彼に受けさせて人間の代わりに罪の償いをさせました。これがゴルゴタの丘の十字架の出来事でした。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させることで永遠の命に至る扉を人間に開かれました。

人間は、これらのことが全て自分のためになされたとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、神からこの罪の赦しをお恵みとして与えられます。罪を赦された人間は神との結びつきを回復してこの世を生き始め、この世を去る時も神のもとに戻れるという確信の中で去ることができます。この世を生きている時も、自分は何も償いをしていないのに赦された、だから、これからは神のひとり子の犠牲を台無しにしないようにしっかり生きようと心がけ、何が神の御心に沿う生き方かを考えて生きるようになります。

ペトロや弟子たちが「人間を捕る漁師」になって忠実な目撃者、証言者となって伝え遺したものが、後世の人たちにこのような信仰と生き方を与えるものになったのです。新約聖書の中にペトロの伝え遺したものはどれだと見つけることができるでしょうか?ペトロの名がついた手紙はありますが、2つしかありません。しかし、イエス様の言行録が記録された福音書の中には、ペトロの目撃談、証言録が織り交ざっているのです。もちろん、他の弟子たちのもです。そもそも福音書とは、弟子たちの目撃談、証言録を土台にして出来上がっています。福音書の他に新約聖書には、イエス様が全ての人間の救い主であるという信仰を表明する使徒たちの手紙があります。旧約聖書を引き合いに出しながら表明しています。それらの書簡はまた、天地創造の神の御心に沿うように生きようと志向するキリスト信仰者はこの世でいかに生きるべきか、同じ信仰を持つ者同士はいかに支え合うべきか、またその共同体はどうあるべきか、そして共同体の外とはどう関わるべきか、そうした実際的なことも教えます。本日の第二コリント12章でも、信仰者の共同体はイエス・キリストの体であり、一人一人の信仰者はその体の部分である、聖霊の賜物について考える時このことを忘れてはいけない、ということを教えています。

後世の私たちが聖書の御言葉を通して、イエス様を救い主と信じて天地創造の神の御心に沿うように生きようと志向するならば、その時は文字通りぺトロをはじめとする使徒たちの網にかかったことになります。この世の対岸にある神の御国に引き上げてもらうためにかかったのです。

 

3.エレミアの召命

 次にエレミアの召命とその遺産についてみてみましょう。本日の個所は1章の9節から12節までですが、召命の出来事は4節から始まっています。4節から8節までは先週の日課でしたが、先週は別に大きなテーマがあったのでこちらの解き明かしは出来ませんでした。今日一緒に見れてよかったです。

エレミアの召命は、先ほど述べたイザヤのエルサレム神殿での出来事と似ています。イザヤは自分は罪で汚れた者であると告白し、神のみ使いから燃え盛る炭火を口に当てられ清められました。エレミアは神の手が直接口に当てられます。燃え盛る炭火ではないですが、神聖な神の手が触れるので、生身の人間は普通は耐えられないでしょう。しかし、イザヤ同様に火傷一つ負わず何事もありませんでした。

ところが違いもあります。エレミアの場合、イザヤのような罪の告白がありません。イザヤでは罪の告白があり、清めが行われて、神のみ使いも清めを宣言します。神が御手をエレミアの口に当てたというのは罪からの清めというよりは、語るべき言葉を与える仕草のように見えます。私、預言者にされても人前でどう話していいかわかりません、と言ったことに対する神の回答ということです。同じことがダニエル10章にもあります。神のもとから遣わされた者がダニエルに宣べ伝えなさいと命じるが、ダニエルには力がない。その者がダニエルの唇に触れるとダニエルは少しずつ話し始めます。

ただ私としては、エレミアの場合も、やはり罪からの清めがあるような気がしてなりません。というのは、エレミア書1章をヘブライ語で読んでいて9節の「わたしの口に触れ主はわたしに言われた」というところにさしかかった時、あれ、イザヤ書の6章7節と同じじゃないかと気づいたからです。イザヤ書のその個所は「彼は私の口に火を触れさせて言った」ととても解説的に訳していますが、ヘブライ語の原文はどちらも「私の口に触れ、言った」で同一です。(どうしてこんなことに気づいたかというと、私10数年前とある理由でイザヤ書の6章全部をヘブライ語で暗記する必要があって、どうやら今でも覚えているのですが、それで、あれ同じだ、と気づいたのです。)エレミア1章9節にさしかかった時、一瞬エレミアの時代から100年ほど遡ったエルサレムの神殿でのイザヤの清めの出来事が脳裏によぎって、それでエレミアの召命にも罪の清めの要素があるのではないかと思った次第です。個人的な思いなので、ここでやめておきます。

エレミアの召命に戻りましょう。ここでの神とエレミアのやり取りのなかで一つ謎めいたことがあります。それは、神がエレミアに「アーモンドの枝」を見せて、それが神の言葉が成就するための「見張り」ということに関係しているように言っているところです。ちょっと複雑です。私たちの新共同訳を見ると、「アーモンド」の下に( )があって、シャーケードと書いてあります。ヘブライ語でアーモンドです。「見張っている」の下にも( )があって、ショーケードと書いてあります。ヘブライ語の「見張る」という意味の動詞の分詞形です。これを見ると、ああ、ヘブライ語の語呂合わせがあるんだな、とわかってきます。でも、シャーケードとショーケードじゃ、語呂合わせとしては少し遠いのではと思われるかもしれません。

そこで、ヘブライ語の記述というのは、もともとは子音文字だけでした。どういうことかと言うと、「中野区」をNKNKと書くようなものです。それぞれの子音にア、ア、オ、ウと母音をつけて「なかのく」になります。「アーモンド」の「シャーケード」と「見張る」の「ショーケード」の場合、子音はシュש、クゥק、ドゥדと同じです。書かれているは子音文字だけなので二つは同一になります。そんなこと言ったら、文章を読む時どうやって区別できるのかと思われるでしょう。そこは、神の民の悠久の歴史の中で読み方は代々ちゃんと受け継がれていました。そのために律法学者のような専門家集団がいたのです。

さて、「アーモンド」と「見張る」は、ユダヤ人にとっては身近に感じる語呂合わせかもしれないが、他の民族にはどうでもいいことに思えるかもしれません。私も以前はその程度の受け止め方でした。ところが、今回そうではないとわかったのです。これからそのことを皆さんと分かち合えたらと思います。これから申し上げることは、ひょっとしたら既に何か注釈書か参考書に書かれていることかもしれません。それでワクワクして話すことになっても、決して発見者気取りの得意のワクワクではないということをご理解下さい。

皆さんは、アーモンドはどんな植物かご存知でしたか?今回私、ネットで調べてみました。それはなんと、桜にそっくりな花を咲かせる木だったのです。薄ピンク色の花が満開に咲き、その時は葉っぱはまだありません。まるで桜です。花が終わった後に葉が出て、あのアーモンドの実をならせます。どうやって育つかと言うと、種からでも苗木からでも育てられるということですが、それに加えて枝を挿し木にしても育つということでした。皆さん、どうです、エレミアの目にしたものがアーモンドの木でなくてまさに「枝」であったことが見えてきたのではないでしょうか?日本語で「枝」と訳されていますが、ヘブライ語の単語מקלは「若芽」の意味もあります。いずれにしても、アーモンドの木ではなく、これからアーモンドになっていくものを見せつけられたのです(後注)。

神からアーモンドの枝ないし若芽を見せられて、それがアーモンドと分かったエレミアは、ああ、あれは大きくなってピンクの花を満開に咲かせて、後で葉が生い茂って実を実らせるやつだな、と一瞬目に映ったでしょう。ちょうど日本人が梅でも桜でも蕾のついた枝を見せられて、まだ花は目で見ていないのに一瞬それが目に映ったような感じがするのと同じです。そこですかさず神は言われます。ヘブライ語を直訳しますと、「お前は正しく見た。なぜなら私は自分の言葉を成就すべく見張りをするからだ(または「見張りをする者だからだ」)」、ないしは「お前は正しく見て、私が自分の言葉を成就すべく見張りをする者であることがわかった」です。いずれにしても、ここはヘブライ語の語呂合わせだけでなく、アーモンドの枝のメタファーも見抜けないといけないのです。

これでさすがのエレミアも、神の言葉が成就するというのはアーモンドが成長して開花して実を実らせるという身近な出来事が起きるように起きるのだと思い知らされたでしょう。桜でもアーモンドでも花が咲いて実がなるのは、神が成長を与えて下さるからですが、それと同じように神は御言葉が成就するようしっかり監視を与えると言うのです。これでエレミアの弱気と疑いは消え去ります。4節からずっと神が言っていたこと、お前を諸国民の預言者に立てる、私はお前と共にある、お前を苦難から救い出す、だから心配するな、若すぎてダメだなどと言うな、誰に何を言うべきか全て私が決める、それ位お前の身に起こることは全て私の手中にある、そこからこぼれ落ちることは何もない、それくらい私はお前と共にある、お前を苦難から救い出す等々、これら全てが神の力で起こるのはアーモンドが神の力で花を咲かせ実を実らせるのと全く同じことなのだと確信したのです。

 

4.エレミアの遺産

 このような素晴らしい仕方で確信を得ることができたエレミアでしたが、いざ預言者として活動を開始してみると、アーモンドの希望に満ちたメタファーは実はそんなに甘いものではないと思い知らされることばかりが起きます。何が起こったのでしょうか?

神がエレミアに宣べ伝えよと命じた預言の言葉は大きく分けて二つ、エレミアの同時代に関わるものと将来に関わるものがありました。同時代に関わる預言は、ユダの王国が滅亡するというものでした。王も民も、エルサレムの神殿で熱心に神崇拝を行っているが、それは外面的に儀式をやっているだけで、それで神の意志に沿う生き方をしているなどとはおこがましい。心の中は神の意志に反することばかりだ。罰としてお前たちはもうすぐ外国に滅ぼされる。そういうことを自国民に宣べ伝えなければならなくなります。国民は改心するどころか、エレミアを迫害してしまいます。エレミアが悲劇の預言者と言われる所以です。

将来に関わる預言を見てみます。こちらの方が同時代の預言より本質的なものです。なぜなら、神はエレミアを諸国民に関わる預言者に任ずると言ったので、もしユダ王国の滅亡だけ預言していたらユダヤ民族だけに関わる預言者にとどまります。将来に関わる預言の中に諸国民が視野に入ってくるのです。3つのことが大きなものとしてあります。一つは、国は滅ぼされて民は異国の地バビロンに連行されてしまうが、そのバビロン捕囚が終わって民が祖国に帰還できる日が必ず来るという預言です。もう一つは、捕囚から帰還した後にダビデ系の理想の王が現れて神の義を実現するという預言。三つめは、31章に見られますが、神と神の民の間に新しい契約が結ばれるというものです。

これだけ見ると、あれ、諸国民ではなくてまだユダヤ民族に関わる預言ではないかと思われるかもしれません。実はそうではないのです。紀元前6世紀終わりに祖国帰還を果たした後になってから、エレミア書の祖国帰還の預言は歴史上起きた帰還とは別のことを意味していると理解されるようになります。それは世界の終末に関係するという理解がダニエル書9章に現れます。神の義を実現する王の預言についてはもういいでしょう。キリスト信仰の観点ではイエス様ということです。

もっと興味深いのは神と人間との新しい契約です。この契約は昔みたいに人間が神の意志に反する生き方をして人間の方から破ってしまったものとは様相が異なります。神の意志を表す掟がなんと人間の心に刻まれると言うのです。つまり、書かれた掟を頭で理解したり解釈したりして行動に移すというのではなく、神の意志があたかも人間の内に自然に備わっている状態だというのです。どうしてそんなことが可能でしょうか?

ここで先ほどイエス様を救い主と信じる信仰について申し上げたことを思い出して下さい。ユダヤ教の伝統的な考え方では、他の宗教も似たり寄ったりと思いますが、神の意志とか掟を守ることで神に受け入れてもらえる、よくしてもらえるということがありました。ところが、キリスト信仰の場合、イエス様の十字架の犠牲があって人間は先に神に受け入れられてしまった、よくしてもらったということが先に起きてしまったのです。そうなると後は、この犠牲がどれだけ尊い大事なものかがわかった人たちが神に対して感謝の気持ちになり、これからは神の意志に沿うように生きようと志向しだす。そういうふうに神の意志に沿うように生きようということが、神に救ってもらうためにするのでなくなって、神に救ってもらったからその結果としてそうするのが当然になるということなのです。まさに、掟が心に刻みつけられた状態です。このことがイエス様が十字架と復活の業を成し遂げることで起こったのです。エレミアは自己の民族だけでなく世界の諸国民にも関わる希望の預言をまさに自分の苦難の生涯を通して後世に伝えたのです。

 

5.ペトロとエレミアの遺産の相続者として生きる

 さて、イエス様を救い主と信じて神の意志が心に刻まれた者になったはずの私たちではありますが、どういうわけか自分の内に神の意志に反することがあることに毎日気づかされます。これは一体どうしてなのでしょうか?私たちの信仰が弱いからなのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。先週の説教でも申しましたが、信仰の目を持つようになると、かえって自分の内に神の意志に反する罪があることも見えるようになります。イエス様を救い主と信じて「愛」と「正しさ」の両方を兼ね備えて生きようとすると必ず起きてくる相克です。「愛」が正しさのない偽りの愛になってしまうか、それとも「正しさ」が愛のない裁きになってしまうか、またはその両方になってしまうか。

どうしてそうなってしまうのかと言うと、使徒パウロも宗教改革のルターも指摘したように、信仰者の内に二つの「人」、肉に結びつく「古い人」と洗礼を通して植えつけられた霊に結びつく「新しい人」ができてしまうからです。新しい人が植え付けられると、古い人は自分が神の罰に晒されていることがわかって、信仰者にただ恐れを抱かせて絶望させるか、または神に背を向けてごまかしの生き方をするように追いやろうとします。これに対して新しい人はイエス様のおかげで神の前に立たされても大丈夫でいられるという希望に全てをかけなさい、全てを託しなさいと促します。信仰者が希望にかければかけるほど、古い人は居場所を失っていきます。ルターは、この状況を木の彫刻を作ることにたとえて次のように教えます。木の彫刻は、木を彫る者が自分の作ろうとしている像に関係ない部分をどんどん削り取ることでその像がだんだんはっきり現れてくる。新しい人を形作るのは希望である。古い人がもたらすのは恐れである。その恐れがあるからこそ古いアダムを削り取ろうと動き出し、希望が成長するのである。だから、キリスト信仰者は、希望がない状態の中に置かれて希望を持つようにと定められているのである。

希望が裏切られることがないことを使徒パウロは「フィリピの信徒への手紙」1章6節で次のように述べています。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」

 この確信は、神がエレミアにアーモンドの枝を見せて御言葉が成就することを確信させたものと同じものです。兄弟姉妹の皆さん、私たちはいつも聖書の御言葉を通して同じ確信を持つことが出来るのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン


後注(ヘブライ語がわかる方にです)מקלマッケールはstatus constructusでもマッケールということでした(エゼキエル書39章9節を除いて)。それでマゾレットのמקל שקדは「アーモンドの枝(ないし若芽)」で大丈夫です。

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