2019年 新年礼拝説教「新年-イエス様の命名日に思う-祈る相手を知ってから祈れ」神学博士 吉村博明 宣教師

新年礼拝説教 2019年1月1日 主の命名日

民数記6章22ー27節、第二ペトロ1章1ー11節、ルカ2章21ー24節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.西暦2019年の幕が開けました。新しい年が始まる日というのは、古いものが過ぎ去って新しいことが始まることを強く感じさせる時です。みんなが、新しい年はこうなってほしい、こういうことが起きてほしいと希望や願いを持ちます。受験とか就職とか人生の節目がある人は、合格することや内定を取ることが願いになりますし、今年はいい人に出会えますようにとか、子供に恵まれますようにという願いもあります。病気の人は健康が切実な願いになります。また志がうまくいかなかった人や何か問題を抱えている人は成功することや問題の解決がやなり切実な願いです。そうした希望や願いを持つ人は、日本では新年になると大抵はお寺や神社に行って、大勢の人の列を秩序正しく進んで祭壇の前に行き、そこで願いを叶えてくれる力があると信じるものに叶うようにとお願いします。人によっては叶うことを確実にするために、神主や住職のところに行って清めの儀式とか祈祷をしてもらうこともします。また、神社やお寺をいくつも回って大勢の列を何度も繰り返すのを厭わない人もいます。全国の初詣者の合計は日本の総人口を上回ると聞いたことがありますが、まさにそのためでしょう。いくつもの場所を巡るというのは、そういうふうに時間と手間をかけることで願いが聞き入れられる努力をしているんだと実感できるということなのかもしれません。

キリスト教会の新年はどうかと言うと、もちろん願いや希望を創造主の神に打ち明けることをしますが、ただそれは礼拝の中でです。教会の礼拝ですから、決まった流れがあります。まず、会衆が一緒に罪の告白をして司式者が赦しの宣言をする。その次にその日の聖書の日課の朗読があり、それに基づいた説教がある。まさに今している通りです。説教の次には、キリスト教会が誕生してから今日までずっと唱えられている伝統ある信仰告白を唱えます。聖餐式はスオミ教会は新年は行わないので、信仰告白の次に教会の祈りが来ます。その時司式者は式文に沿ったお祈りをするほか、司式者が知る範囲で会衆の祈りの課題も祈ります。スオミ教会ではまた、こうした司式者の祈りの後で、会衆が個人的に神に打ち明けたい自分自身の祈りの課題を静かに祈る時もあります。その後でイエス様がこう祈りなさいと命じられた「主の祈り」を全員でお祈りして、最後は司式者を通して神の祝福を受けます。その時唱えられるのは、先ほど朗読した旧約聖書の民数記6章にある「アロンの祝福」です。

以上が礼拝の流れですが、ご覧のように、個人的な希望や願いを神に打ち明ける時が来るまでいろいろなプロセスを経なければなりません。合間合間には讃美歌も歌います。神社やお寺だったら、それこそ希望とお願い事だけですみます。それに比べたらキリスト教会は手間がかかるものです。もちろん神社やお寺だって行列を待つという面倒がありますが。 

キリスト教会で儀式として願いや希望を神に打ち明けるというのは、まさに礼拝の流れの中で行われるということがおわかり頂けたらと思います。そこに願いと希望中心で済むお寺や神社と大きな違いがあるのではと思う者ですが、それだけではないと思います。願いや希望を打ち明ける前提も違っていると思います。土台も違っていると思います。どういうことかと言うと、礼拝の流れの中での打ち明けですので、創造主の神とはどんな方で人間に何をして下さったかということをいちいち明らかにして確認した上での打ち明けになります。して下さったことの筆頭として、天と地と人間を造られたということと、ひとり子のイエス様を贈って下さったということがあります。そういうことを礼拝の最初から終わりまで繰り返しながら確認した上での願いや希望の打ち明けです。つまり、祈りを捧げる相手がどんな方であるのかをちゃんとわかった上で願いや希望を打ち明けるということです。礼拝の中にある聖書日課も説教も信仰告白も讃美歌も、みな願いや希望を打ち明けるお方がどんな方であるかを明らかにするものです。天地創造の神は私たち一人一人に命と人生を与えて下さった方である、そしてその神のひとり子イエス様は十字架にかかられて私たちの罪を償って下さった方である、そういうことを明らかにし思い起こさせるものです。

先ほど朗読しました第二ペトロ1章でこう祈られていました。「神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。」神が与える恵みとは何か?私たちは神の御前に立たされたら罪深さが明らかにされてしまうのに、神は私たちのことを大丈夫と見て下さるためにイエス様に私たちの罪の償いをさせました。恵みとは、このように罪の赦しが神のお恵みとして与えられたということです。神が与える平和とは、イエス様のおかげで私は神の御前に立たされても大丈夫なんだ、神の目に相応しい者とされているんだ、と分かった時に心が満たされる平安のことです。

こういう恵みを受けて平安に満たされた者として願いと希望を神に打ち明けます。そこには、叶えられなかったらどうしよう、とか、そうなったら神に失望してしまうだろうか、とか、そういう気持ちは起きません。ひとり子イエス様を贈って下さったくらい私のことを気にかけて下さった神なのだから、その他のことで気にかけないなどということはありえない。だから、どんな結果を見せてくれるかは神にお任せして、自分としては出来るだけのことをしよう、ただし神の意志に反しないように正しく行おう。神が見せてくれるどんな結果にも必ず神の良い導きが続くはずだ。そういう心意気になるのではと思います。

 

2.キリスト教では新年最初の日はイエス様の命名日に定められています。天地創造の神のひとり子がこの世に送られて乙女マリアから人の子として誕生したたことを記念してお祝いするクリスマスが12月25日に定められています。その日を含めて8日後が、このひとり子がイエスの名を付けられたことを記念する日となっていて、それが1月1日と重なります。このイエス様の命名の出来事を通しても神とはどんな方で、そのひとり子のイエス様はどんな方かがわかりますので、これからそれについてみてみましょう。

イエス様の命名日は同時に、彼が割礼を受けた日です。割礼と言うのは、天地創造の神がかつてアブラハムに命じた儀式で、生まれて間もない男の赤ちゃんの性器の包皮を切るものです。律法の戒律の一つとなり、これを行うことで神の民に属する者の印となりました。こうしてユダヤ民族が誕生しました。イエス様は神のひとり子として天の御国の父なるみ神のもとにいらっしゃった方でしたが、この世に送られてきたときは、旧約聖書に約束されたメシア救世主として、その旧約聖書の伝統を守るユダヤ民族の真っ只中に、乙女マリアの胎内から生まれてきました。民族の違いを超えて人間すべての救い主となられる方なのに、どうして割礼などという特定の民族の伝統に従ったのか?それは、そのお方が歴史的にその民族の一員として生まれてきたことによります。しかし、それだけではありませんでした。後で述べるように、人間を罪の呪縛から救うために一旦、神の定めた戒律に服する必要があったのです。

 神のひとり子が人間としてこの世に生まれてきたことや、彼がイエスの名を付けられて割礼を受けたということは歴史上の出来事です。それは、ローマ帝国が地中海世界に支配を拡大して、現在のイスラエルの地域とその地に住むユダヤ民族を支配下に治めていた時でした。アウグストゥスが帝国の皇帝で(治世は紀元前27年~紀元14年)、プブリウス・スルピキウス・キリニウスという人物が帝国のシリア州の総督に就いていた時代でした。さらに、同州のユダヤ地方を中心とする領域でヘロデ王という、ローマ皇帝に従属する王が一応ユダヤ民族の王としての地位を保っていた時代でした。このような場所と時代に、人間として生まれた神のひとり子はイエスという名を付けられ、旧約聖書の律法の戒律に従い、生後8日後に割礼を受けました。

ここで、人間として生まれた神のひとり子に付けられた、「イエス」という名前についてみてみます。乙女マリアが聖霊の力を及ぼされて身ごもる前の段階で、天使から、生まれてくる子には「イエス」の名前を付けなさいとの指示がありました(マタイ1章21節、ルカ1章31節)。これは、ギリシャ語のイエ―スースἸησοῦϛを日本語に訳した名前です。イエ―スースἸησοῦϛは、もともとはヘブライ語のユホーシェアיהושעをギリシャ語に訳した名前で、それは日本語では「ヨシュア」、つまりヨシュア記のヨシュア、モーセの後継者としてイスラエルの民を約束のカナンの地に導いた指導者です。ユホーシェアיהושעという言葉には「主が救って下さる」という意味があります。יה「主が」יושע「救って下さる」。つまり、「イエス」の名前はヘブライ語のもとをたどれば「主が救って下さる」という意味があります。天使はこの名を生まれてくる子に付けなさいとヨセフに命じたのですが、その理由として、「彼は自分の民を罪から救うことになるからだ」と言いました(マタイ1章21節)。つまり、「主が救って下さる」のは何かということについて、「罪からの救い」であるとはっきりさせたのです。

 「神が民を救う」というのは、ユダヤ教の伝統的な考え方では、神が自分の民イスラエルを外敵から守るとか、侵略者から解放するという理解が普通でした。ところが、ここでは救われるものが国の外敵ではなく、罪であるということに注意する必要があります。「罪から救って下さる」というのは、端的に言えば、罪がもたらす神の罰から救って下さる、神罰がもたらす永遠の滅びから救って下さる、という意味です。創世記に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが造り主の神に対して不従順になったことがきっかけで罪が人間の内に入り込み、人間は死する者になってしまいました。キリスト教はどうして何も犯罪をおかしたわけではないのに、「人間は全て罪びとだ」などと強調するのか、と疑問をもたれるところです。キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた(もちろんそれらも含みますが)、すべての人間に当てはまる根本的なものをさします。自分の造り主である神への不従順がそれです。もちろん世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく神への不従順に染まっており、そこから抜け出られないということの証なのです。

それでは、神は人間をどのようにして罪から救い出すのでしょうか?神はそれをひとり子イエス様を用いて行われました。イエス様は、人間に向けられている罪の罰を全部人間に代わって引き受けて、私たちの身代わりとして十字架にかけられて死なれました。神のひとり子として神の意思を体現する方であったにもかかわらず、神の意思に反する者全ての代表者であるかのようにされたのです。誰かが身代わりとなって神罰を本気で神罰として受けられるためには、その誰かは私たちと同じ人間でなければなりません。そうでないと、罰を受けたと言っても、見せかけのものになります。これが、神のひとり子が人間としてこの世に生まれて、神の定めた律法に服するようにさせられた理由です。

ここで律法に定められた割礼の掟が、イエス様の十字架と復活の出来事の後どうなったかについて一言述べておきます。割礼はイエス様も受けた律法の規定でしたが、天地創造の神の民の一員であることの印としては洗礼がそれにとってかわるものになりました。ただし当初は、キリスト信仰者に割礼は不要ということは自明ではありませんでした。多くの信仰者は当時、イエス様はユダヤ民族の一員としてこの世に来た、確かに旧約聖書に約束された全ての人間の救いを実現したわけだが、それを受け取ることができるのは旧約の伝統を受け継ぐユダヤ民族である、だからそれに属さない異邦人は救いを受け取れるためにはまずユダヤ民族の一員にならなければならない、つまり割礼を受けなければならない。そのように考えらえたのでした。

初期のキリスト教会の中で、この考え方に異議を唱えたのが使徒パウロでした。彼の主張の眼目は、人間が罪の呪縛から救われるのは律法の戒律を守ることによってではなく、イエス様を救い主と信じる信仰によってである、というものでした。パウロが主張の根拠としたように、アブラハムは神から割礼の掟を受ける以前に既に神を唯一の主と信じる信仰があって、それで神に義なる者と認められていたのでした。割礼をしたからそう認められたのではなかったのです。このパウロの主張がきっかけとなって、イエス様を救い主と信じる人たちはユダヤ人の枠を超えて急速に広がっていきました。

私たち人間が罪の呪縛から解放されるために民族の違いを超えて御自分のひとり子を犠牲にするのも厭わなかった父なるみ神がおられます。そしてその神と同質の身分であることに固執せず、父の御心を実現して私たちに救いをもたらして下さった御子イエス様がおられます。父み子聖霊の神は永遠にほめたたえられますように。

 

3.以上、今回も説教を通して、父なるみ神とそのひとり子イエス様のことを知ることをしました。今まで何度も何度も繰り返されたことですが、そうすることで私たちは神が与えて下さった恵みがあることを忘れないで心と魂は平安に満たされます。その平安は、私たちの身近な願いや希望が叶えられることで得られるものではなく、もっと大きく深い平安です。イエス様の十字架と復活の業のおかげで私たちは神の御前に出されても大丈夫、神の目に相応しい者になれるということからくる平安です。

神の御前に出されても大丈夫と言うのは、この世を去った後で神の御許に受け入れられる、天の国に迎え入れられるということです。神社やお寺で、天国に行けますように、などと声に出して祈ったら、周りの人はこの人は少しおかしいんじゃないか、早く死にたいのか、と思うでしょう。しかし、キリスト信仰では、この世の生活で生じてくる願いや希望と同時に神に義とされて天の国に迎え入れられるという希望があり、その希望はイエス様のおかげで既に叶えられて大丈夫になっているという安心が土台にあります。だから、それは大事な願い、希望なのです。もちろん、身近な願いや希望が叶えられず、どうしてなのか?神は何か私に至らないことがあるとお考えなのか?それで聞き入れてくれないのか?そういう疑いはキリスト信仰者でも抱く時があります。そうではない、イエスを救い主と信じるお前は天の国に至る道に置かれて、その道を歩んでいる、物事が自分の思う通りに進まなくても、私の思うとおりに進むから、心配するな、私の目はお前に注がれているから安心しなさい、恐れるな、と神は言って下さるのです。礼拝で父なるみ神やひとり子イエス様のことを知るようにするのは、この安心を取り戻すために大事なことです。

そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、今年も礼拝を大切にして、大いなる安心をもって願いや希望を神に打ち明けて祈ってまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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