クリスマス・イブ礼拝 説教「『クリスマス福音』の真実」吉村博明 宣教師、ルカによる福音書2章1-20節

降誕祭前夜礼拝説教 2013年12月24日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1.今朗読されたルカ福音書の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音」(jouluevankeliumi)とも呼ばれますが、国を問わず世界中の教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読されます。これからこの説教の中で、この、イエス様の誕生について記してあるルカ福音書2章の個所を「クリスマス福音」と呼ぶことにします。

ところでフィンランドでは、ちゃんと教会に通う家族だったら、クリスマス・イブの晩はクリスマスの御馳走が並ぶテーブルに家族全員がついて、「クリスマス福音」が朗読されるのをみんなで聞いて、それから食べ始めたものです。我が家もそうしていますが、現在教会離れが急速に進むフィンランドで果たしてどのくらいの家庭がこの伝統を続けているでしょうか?

御馳走を頂く前に「クリスマス福音」を読み聞かるというのは、誰のおかげでこのようなお祝いが出来るのか、そもそもクリスマスとは誰の栄誉を称えるお祝いなのかを明らかにすると思います。それは言うまでもなく、今から約2000年前に起きたイエス・キリストの誕生を記念するお祝いであり、そのイエス様を私たち人間に贈って下さった天地創造の神の栄誉を称えるお祝いです。それでは、どうしてそんな昔の遥か遠い国で生まれた人物のことでお祝いをするのか?それは聖書に従えば、彼が天地創造の神の子であり、全ての人間の救い主となるべく天上の神のもとからこの地上に送られて、マリアを通して人間として生まれたからです。そのような方のために祝われるお祝いなので、御馳走の前にはお祝いするわけを思い返すために聖書を読み聞かせます。そして、イエス様を贈って下さった神に感謝して御馳走を頂きます。また、神がそんな贈り物をして下さったからには、私たちもそれにならって誰かに何か贈り物をする。さらに、神がひとり子を贈って下さったのは、人間一人ひとりのことを気に留めて下さっているからなので、それで私たちもハガキを出して「良いクリスマスと新年を迎えて下さいね」と書いて、あなたのこと忘れていませんよ、と伝える。そういうのが、本来の趣旨にそうクリスマスの祝い方です。もちろん、教会の礼拝に行って、神に賛美の歌を歌い、聖書の朗読と説教者のメッセージに耳を傾け、神に祈りを捧げることも忘れてはいけません。

最近というよりはずっと前からですが、クリスマスのお祝いの栄誉を称えることがどんどん脇に追いやられて、お楽しみの方が肥大化する傾向があるのはどこでも見られる現象です。そちらの方がお祝いの目的になっている人の方が多いでしょう。しかし、いくらそういうふうになっていっても、イエス様の誕生がなかったらクリスマス自体も存在しなかったという事実は誰も打ち消すことは出来ないのです。

 

2.「クリスマス福音」に記されている出来事は多くの人に何かロマンチックでおとぎ話のような印象を与えるのではないかと思います。真っ暗な夜に羊飼いたちが羊の群れと一緒に野原で野宿をしている。電気や照明などありません。空に輝く無数の星と地上の一つの小さなたき火が頼りの明かりです。そこに突然、神の栄光を受けて輝く天使が彼らの前に現われ、闇が一気に光に変わる。天使が救い主の誕生を告げ、それに続いて、さらに多くの天使たちが現れて神を一斉に賛美し、その声が空に響き渡る。賛美の言葉は詩のように簡潔ですが、大体の意味はこうです。「天上では神は永遠の栄光に満ちておられる。地上でも神の御心に適う人たちの心に平和が訪れる。」賛美し終えると天使たちは姿を消し、あたりはまた闇に覆われる。しかし、羊飼いたちの心には何かともし火が灯されていました。もう外側の暗闇は目に入りません。彼らは何も躊躇せず何も疑わず、生まれたばかりの救い主を見つけるためにベツレヘムに向かう。そして、一つの馬屋の中で布に包まれて飼い葉桶に寝かせられている赤ちゃんのイエス様を見つける。

以上の話を聞いた人は、闇を光に変えた神の栄光、天使の告げ知らせと賛美の合唱、飼い葉桶の中で静かに眠る赤ちゃん、それを幸せそうに見つめるマリアとヨセフ、ああ、なんとロマンチックな話だろうと思うでしょう。本当に「聖夜」にふさわしい物語だなぁ、とみんなしみじみしてしまうでしょう。

 

3.ところが、この「クリスマス福音」をよく注意して読むと、そんな淡い思いを押しつぶしてしまうようなことがあるのに気づきます。その当時の政治状況がこの出来事に重くのしかかっているということです。人の人生や運命は権力を持つ者が上から下に対して牛耳っていて、普通の人はなかなかそれに影響を及ぼせない、民主主義が普及しても難しいことだらけなのだから、ましては民主主義のない昔だったら影響を及ぼせる可能性など全くない、そういうことを「クリスマス福音」は明らかにしています。

そのことに気づくために、なぜヨセフとマリアは自分たちが住んでいるナザレの町でイエス様を出産させないで、わざわざ150キロ離れたベツレヘムまで旅しなければならなかったのか?と聞いてみるとよいでしょう。答えは聖書の個所から明らかです。ローマ帝国の初代皇帝(在位紀元前27年から紀元14年)アウグストゥスが支配下にある地域の住民に出身地で登録せよ、と勅令を出したからです。これは納税者登録で、税金を漏れることなく取り立てるための施策でした。その当時、ヨセフとマリアが属するユダヤ民族はローマ帝国の占領下にあり、王様はいましたがローマに服従する属国でした。ヨセフはと言うと、かつてのダビデ王の家系の末裔です。ダビデの家系はもともとはベツレヘムの出なので、それでそこに旅立ったのでした。出産間近のマリアを連れて行くのはリスクを伴うものでしたが、占領国の命令には従わなければなりません。

やっとベツレヘムに到着した二人を待っていたのは不運でした。宿屋が一杯で寝る場所がなかったのです。町には登録のために来た他の旅行者も大勢いたのでしょう。そうこうしているうちにマリアの陣痛が始まってしまいました。どこで赤ちゃんを出産させたらよいのか?ヨセフは宿屋の主人に必死にお願いしたことでしょう。馬屋なら空いているよ、屋根があるから夜空の星の下よりはましだろう、と。それでイエス様は馬屋でお生まれになったのです。赤ちゃんは布に包まれて、藁を敷いた飼い葉桶に寝かせられました。

子供向けの絵本の聖書などを見ると、この場面の挿絵は大抵、健やかに眠る赤ちゃんを幸せそうに見つめるマリアとヨセフがいて、その周りをロバや馬や牛たちが可愛らしく微笑み顔で三人を見つめているというものです。羊飼いたちも馬屋の近くに来ています。東の国の博士たちももうすぐ貢物を持ってやってきます。なんとロマンチックな出来事なのでしょう!でも、本当にそうでしょうか?皆さんは馬屋とか家畜小屋がどんな所かご存知ですか?私は、妻の実家が酪農をやっているので、よく牛舎を覗きに行きました。最初の頃は興味本位で、その後は子供が行ったきり出てこないので連れ戻すために仕方なく。それはとても臭いところです。牛はトイレに行って用を足すことをしないので、全ては足元に垂れ流しです。馬やロバも同じでしょう。藁や飼い葉桶だって、馬の涎がついていたに違いありません。なにがロマンチックな「聖夜」なことか。しかし、天地創造の神のひとり子で神の栄光に包まれていた方、そして人間の救い主になる方はこういう不潔で不衛生きわまりない環境の中で人間としてお生まれになったのでした。

イエス様の誕生の出来事はロマンチックなおとぎ話ではないのです。マリアとヨセフがベツレヘムに旅したことも、また誕生したばかりのイエス様が馬屋の飼い葉桶に寝かせられたのも、全ては当時の政治状況のなせる業だったのです。普通の人の上に影響力を行使する者たちがいて、人々の人生や運命を左右するということの一つの表われだったのです。

 

4.しかしながら、聖書をよく読む人はもっと広い、もっと深い視点を持っています。どんな視点かと言うと、普通の人の上に影響力を行使する者たちがいても、実はそのまた上にはそれらの者に影響力を行使する方がおられる、その方がその下にいる影響力の行使者の運命を牛耳っている、という視点です。その究極の影響力の行使者は、これはまさに天地創造の神、天の父なる神です。既に神は旧約聖書の中で、救い主がベツレヘムで誕生することも、それがダビデ家系に属する者であることも、処女から生まれることも全て起こる、と約束していました。それで神は、ローマ帝国がユダヤ民族を支配していた時代を見て、これらの約束を実現する条件が整ったと見なしてひとり子を送られたのでしょう。あるいは、その当時存在していたいろんな要素を組み合わせて約束実現の条件を自分で整えたのかもしれません。どちらにしても、この世の影響力を行使する者たちが自分たちこそはこの世の主人で人々の人生や運命を牛耳っていると得意がっている時に、実は彼らの上におられる神が彼らを牛耳っているのです。

人間の目で見たら、マリアとヨセフは上に立つ影響力の行使者に引きずり回されたにしか見えないでしょう。しかしながら、彼らは引きずり回されたのではなく神の計画の中で動いていたのです。神の計画の中で動いたというのは、神の守りと導きを確実に受けていたということです。そういうわけで、イエス様誕生にまつわる惨めな状況というのは実は神の祝福を受けたものだったのです。そのようにして二人には神がついておられ、まさに神と共にある者として、影響力を行使する者たちの上に立つ立場にあったのです。

私たちもマリアとヨセフと同じように神がついて神と共にある者になることが出来ます。それは、マリアを通して人としてお生まれになったイエス様を救い主と信じることによってです。どうしてイエス様が救い主なのかと言うと、十字架の死を引き受けることで人間の罪を全て神に対して償って下さったからです。さらに死から復活されたことで死を滅ぼして永遠の命への道を開いて下さったからです。このイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、人は神の愛する子となり、神の守りと導きを受けることになります。神と共にある者になるので、影響力を行使する者たちの上に立つ立場になります。このことは、ローマの皇帝のような目に見える具体的な者だけではありません。使徒パウロも教えたように、影響力の行使者には目には見えない霊的なものも含まれます。それらは、人間が罪の償いがなされていない状態にとどまることを望み、人間と神との間を引き裂こうと躍起になるものです。しかし、イエス様を救い主と信じる者は、彼がして下さった罪の償いを受け取っているので、見えない影響力の行使者はもう何もなしえません。

そのように神の愛する子となり神と共にある人は、目に見える影響力の行使者と目に見えない行使者の双方の上に立つ者となります。その時、人間的な目では惨めな状態にあっても心が騒ぐこともおびえることもありません。それこそ人間の理解を超えた平和に満たされます。その時、私たちは世界で一番最初のクリスマスの時に神を賛美した天使たちの言った通りになるのです。

「天上では神は永遠の栄光に満ちておられる。地上でも神の御心に適う人たちの心に平和が訪れる。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン

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