説教:木村長政 名誉牧師、ルカによる福音書 1章39~45節

待降節 第4主日(紫)
 今日の礼拝は、教会の一年中で最も喜ばしいクリスマスの礼拝であります。最も大事な、特別の祝福に満ちた礼拝であります。

 今日、世界中のキリストの教会で、クリスマスの礼拝が行われます。私たちも、その世界中で祝われるクリスマスを、このようにご一緒に礼拝できていますことを、感謝の思いでいっぱいです。 

 さて、今日の御言葉は、ルカ福音書 1章39~45節です。マリアがエリサベトを訪ねて喜び合う、という話です。今日のテーマは「出会いのすばらしさ」ということになります。

 マリアが訪ねていきます。エリサベトについては、ルカがすでに1章5節から25節までえんえんとくわしくしるしています。まず、5節だけ見てみますと、「ユダヤの王、ヘロデの時代、アビヤ組の祭司に、ザカリヤという人がいた。その妻は、アロン家の娘の一人で名をエリサベトと言った。マリアについても、ルカはすでに1章26節から38節に至るまでくわしくしるしています。

 

 そこで今日のみことばである39節から見ます。ゆっくり読みますので、今日の御言葉から心に導かれるイメージを受けて下さい。

(3節)「その頃、マリアは出かけて、急いで山里に向かいユダの町に行った。

(40節)そして、ザカリヤの家に入って、エリザベトに挨拶した。

(41節)マリアの挨拶をエリザベトが聞いた時、その胎内の子がおどった。エリザベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。

(42節)あなたは女の中で、祝福された方です。胎内の御子様も祝福されています。

(43節)わたしの主のお母様がわたしのところに来て下さるとは、どういうわけでしょう。

(44節)あなたの挨拶のお声を、わたしが耳にした時、胎内の子は喜んでおどりました。

(45節)主がおっしゃったことは、必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。  以上が45節までです。

 マリアとエリサベトの、二人の、この出会いは、なんと不思議な、驚くべき出会いであることでしょう。

 不思議な事は、この時、マリアもエリサベトも身ごもっているということです。そうしてこう言っています。二人が出会った瞬間,エリサベトは「胎の子が踊った」と言っています。

 マリアとエリサベトの二人について、比べながら見ていきますと、そこには又、不思議なおどろきの奇跡が起こっていることです。

 まず、マリアは、天使ガブリエルから突然驚くべき御告げを受けます。ふつうの生活をしている若い女の子に、天使があらわれただけでもびっくりするでしょう。天使などめったに現れるものではありません。ガブリエルは天使の中でも最もレベルの高い、すごい天使ですよ。それだけ、最も大事な内容と使命を持って、人の世に現れたということです。天使は人間とはちがう次元の存在でしょう。

神からの使いの役をおおせつかっている存在です。ベツレヘムの野原で夜、羊のむれにあらわれたのも、天使の群勢でした。

 マリアは、天使ガブリエルにいきなり「おめでとう」と言われて戸惑っていると、30節を見ますと、

天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは、神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって、男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は、偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に、父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わる事がない。」

 この天使の御告げの一言一言のすべてが、とても考えられない驚きの言葉でした。

 マリアはまだ結婚もしていない処女の身に、どうしてそのようなことがありましょう、と言っています。

35節を見ますと、更に驚くべき、わけの分からないすごいことが告げられています。天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は、聖なる者、神の子と呼ばれる。」

 ここには人間の世の次元を越えた神の世界の御業、聖なる霊の世界が、まともに人間の世に突入して、啓示されていると言っていいでしょう。どこまでも全き、神の自由によってなされることです。

 更に天使はマリアに告げました。36節、「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。」

 何んということでしょう。エリサベトにも子供がさずかっている。これを聞いたマリアは、そのうれしさのあまり、山里のエリサベトを訪ねたのです。

 うら若き女性の一人旅は大変なことです。それより、エリサベトに会えるという思いが、長い旅も恐れも乗り越えていったのです。マリアには、もう、エリサベトにも、神様の特別な働きがある事を感じているでしょう。

 マリアの挨拶をエリサベトが聞いた時、その胎の子がおどったのです。その背景には、すでに、マリアの胎内から、やがて産まれ出る子がどんな子となるか、神の子イエス・キリストの母となるマリアを知っているかのように、エリサベトの胎の子はおどったのでしょう。

 この子はやがて、バプテスマのヨハネとして生まれる、それはすでに、イエス・キリストを指しているのではないでしょうか。

 エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言いました。

「あなたは、女の中で、祝福された方です。胎内のお子様も、祝福されています。わたしの主のお母様が、わたしのところに来て下さるとは、どういうわけでしょう。」

 私は聖書のここのところを読んでいて、新たな発見をしました。何でもないことのようですが気づきませんでした。

 ここで出会っているマリアとエリサベトは、全く対照的な二人であるということです。不思議なことです。エリサベトは祭司の家柄で、身分や生活内容も経験豊かな中で育ってきたでしょう。一方、マリアは素朴なナザレの町の、人知れず育っていた純朴な乙女です。対照的な違いがありますね。

 又、エリザベトは不妊の女だったので、彼らには子供ができませんでした。長い間、待ち望んだけれど、もう年老いて、絶望的でした。祭司の跡継ぎがなくなる事はつらい思いであったでしょう。ところがこの老夫婦に考えられないような奇跡が起こります。エリサベトが高齢にもかかわらず、子供が授かったのです。ザカリヤよ、あなたの願いは聞き入れられた、と天使は告げる。考えられない不思議な出来事がエリサベト夫婦に起こりました。

 一方、マリアは、というと、大工の息子ヨセフと婚約はしているものの、まだ処女の乙女であります。このマリアが男の子を産むという天使のみつげです。望んでもいないこと、処女の身に子が授かるという、これ又、何んという驚くべき出来事でしょうか。

 マリアとエリサベトの二人の全く対照的なことが起こって、二人が出会っているわけです。

 神様のなさる、人知を越えた御業が展開しているのであります。ここには理屈ではない、人の世の医学や科学の領域をはるかに越えた、次元のちがう世界が、この人の世に突入しているのであります。全き、神の自由な恵みの出来事です。

 

 これこそ、クリスマスの奇跡であります。

 

46節から55節まで、マリアは主を賛美して歌っています。純心な乙女の信仰では、とてもとても受け取ることもできない大きな神の恵みを、全身全霊をあげて歌うのであります。

 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は、救い主である神を喜びたたえます。」

 感動的な賛美です。私たちも、このマリアのあふれんばかりの喜びをクリスマスに受けていきたいと思います。

 今から後いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。

 その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。

                                アーメン・ハレルヤ!

 

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