説教:木村長政 名誉牧師

 

23回 コリント信徒への手紙 615節~20節  2018107日(日)

 今日の聖書では、すばらしいことが書いてあります。読むだけですぐわかる、しかも大切なことです。

 前回の613節の中程から、パウロは本調子になって、すばらしい内容へと展開していきます。13節中程「体は、みだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも、復活させて下さいます。」最後にすばらしい福音の内容を語り上げました。そうして、今日の15節へと続いていきます。15節を見ますと、「あなた方は自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」原文では、すぐに「あなた方は知らないのか」という句が先にあります。今日の1520節のところで3回も同じ句を言っています。(15節、16節、19節です)「あなた方は知らないのか」とはどういう意味でしょう。この分かり切った事を、あなた方は知らないのか!と言うのか。こんな重要な事を君たちは知らないのか、そういう意味でしょうか。そうなんです。これらの言葉通り、ここにはきわめて重要な事が書かれています。しかも、どこも決して易しくはないことです。信仰生活の思いもかけない一面を示しているのではないかと思います。

まず第1は、あなた方は自分の体がキリストのからだの肢であることを知らないのかということであります。しかし、それにしても、増して難しいのは私たちの体がキリストの体の肢であるということです。もちろん、それは、この肉体がキリストのからだである程に私たちはキリストのものになり切っているはずであるということであります。私たちは信仰をどうしても心の中、頭の中のことと考えがちであります。実際はそうではなくて、この身も魂もキリストに結びつくことなのであります。パウロはその例として思いもかけないコリントの教会で起こっている不品行のことを持ち出して書いています。もちろんここでは不品行の事が話題になっていたからでしょう。そしてずばり言っています。あなた方の体は言リストの体の肢ですから、そのキリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか、断じていけない。と言っております。不品行な信仰者がまさか自分はキリストの肢体をとって遊女の体としている等とは夢にも思わなかったでありましょう。それだけ、信仰をよく知っていないということになるのであります。

自分がキリストの体であると言う信仰者の生活を考えていないのであります。私たちは、自分の体を汚してはならないと考えているでしょう。或いは、自分はキリスト者だからそういう生活をしてはならないと思っているかも知れません。しかし、それが、キリストの体をとって遊女の体とする等とは考えてもみなかったのではないでしょうか。パウロはその事について決してあいまいではありませんでした。パウロはここに創世記の言葉を引用して言っています。「二人のものは一体となるべきである」という夫婦となることに用いられた言葉を用いて事柄の重大さを説くのであります。それならば遊女と遊ぶものはこのキリストの体を遊女の体にするものであることを知らないかと言うのであります。

信仰者が自分とキリストとの関係をほんとうはよく知らない、又、考えていないからです。そうして見ると、不品行というものはただ悪い事と言うだけではなく、主イエスとの関係を犯すことになる。これは信仰者のみが知り得る罪が示されているという事です。従って、その反対に主につくす者、すなわち主と結ぶ者は主と一つ霊になることになるのであります。少し文字の事に立ち入って言えば、「遊女につく」という字と、「主につく」という字は全く同じ字で極めて強い結びつきを表すものであります。いずれの場合もその結びつきが強烈であることを示そうとするのであります。パウロが言いたかったことは、信仰者は他の者と一体となるべきではない。主と一つの霊になるべきであるということです。パウロきびしい見方です。

パウロは又も「不品行を避けなさい」と言います。コリントの町中があらゆる誘惑に満ちていた。教会の中にもそれがおしよせていた。ですからパウロは何度も警告を繰り返し言っているのです。それには、理由がありました。「人の犯す全ての罪は体の外にある。しかし、不品行をする者は自分の体に対して罪を犯すのである」というのであります。この言い方は少しむずかしい言い方です。どの罪でもある意味から言えば体の外の事でもあるし、又、どの罪も心と関係があるにちがいありません。それなら、いかなる罪も体の外と内とに関係することであるにちがいありません。しかし、パウロは不品行だけは特別であると言いたかったのです。それは体によるこの罪は主イエスと直接に関係があると考えたからであります。主の体そのものを汚すこの罪はほかの罪とは全くちがった意味を持っているはずであると考えたのであります。「自分の体に対して罪を犯す」という字は直訳すれば「体の中にはいるようなもの」ということです。この罪は肉体を用いるだけでなく、それは体の中にまでその影響がある、すなわち人間全体に関わりのあるものであるということであります。

旧約聖書では異教の神を拝む事を姦淫にたとえているところがあります。そのように、このことは人間の生きている全体に関わることであると考えられたのです。不品行のこの罪は肉体上の事で他の罪と何のかかわりもないように軽く考えられています。しかし、世界の歴史を知る者は一つの文明が滅びる時にはいつでも最後には性的な退廃が起こると言った人がいます。パウロが活躍していたローマの世界もその例外ではありませんでした。パウロはその鋭い洞察をもってこの自分の住んでいる世界がどのようにして崩れていくかを見抜いていたことでしょう。そして人間の崩れていく道がどこにあるかを知っていたのでありましょう。それで18節を見ますとこのようにすすめるのです。「みだらな行いを避けなさい」避けなさいという字は逃げるという字であります。逃げるというのは消極的なこのとのように見えますが、この罪から逃れるにはそのような世界から逃げて行くべきであることをパウロは知っていたのでしょう。

人間の生活の内側のことにまで話をすすめたパウロはこの体の生活を内側から説明しようとします。そうして19節で次のように言っています。「あなた方は知らないのか。自分の体は神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなた方はもはや自分のものではないのである。」ここには救われた人の体はどういうものであるかが示されています。今までは人間の体を人間が勝手に用いて罪を犯していた。そして救われた後、人間はどうなるのかを知らないというのです。そこで、救われた人はキリストの体の肢であるということが示されました。ここでは人の体は聖霊の宮であるというのです。宮はもちろん神殿であります。そうなら、人の体は聖霊の神殿であるといえるのです。なぜ、神殿のと言うのでしょう。それはもちろんそこにおられる方が聖霊だからであります。

信仰を持っている人は聖霊のことを知っているでしょう。しかし、聖霊をただ神の力という程度にしか考えていないのではないでしょうか。聖霊の神殿と言うのですから聖霊はもちろん神様でもあります。私たちの中に住んで下さる神様であります。もしそうであるなら、私たちは自分の体を神殿として扱わねばなりません。体はいろいろな事に用います。神はそのために用いるようにこの体をお与えになったのです。しかし、信仰者として生活する時には体は聖霊の神殿なのであります。それなら聖霊にふさわしい神殿としての生活をしなければなりません。たとえどのようなことがあってもこれを汚すようなことをしてはならない。罪を犯してそれが神殿にふさわしくないような生活をする事は許されないのです。

聖霊の神殿はそこで、人々が聖霊をあがめるようなものでなければならないでしょう。つまり私たちの生活を見てそこに人間ならぬもの、聖霊が働いていることを悟る事ができるようでなければならないのです。こに大事な事が書かれています。「神から受けて自分の内に宿っている」と書いてあるのです。聖霊は神が私たちの内に住まわせて力を発揮させて下さるもの、であります。パウロはガラデヤ書220節のところでこう言っています。「生きているのはもはや私ではない。キリストが私の内に生きておられるのである」パウロの言い方によれば、パウロの体の中に生きているのは彼自身ではなく聖霊である、と言う。人々が私たちを見て、聖霊の力を崇めるようになるように、私たちは神から聖霊を受けているはずであります。信仰が与えられた時、聖霊が与えられるのです。それは、何か特殊な経験というよりは信仰を与えられたことが聖霊を与えられることなのです。こうして見ると、私たちは罪の身でありながら不思議な栄光に満たされます。

私たちのこの体はキリストの体の肢であります。この体は聖霊の宮であります。従って私たちの体は自分のものであって自分のものではないのであります。どういうことでしょうか。自分の体でありながら私たちはこれがまことに自分のものであるかどうか時々迷います。そこで悩み苦しむのであります。しかしここにあるようにこれはもはや自分自身のものではないのであります。キリストにより聖霊によってそれを知らねばなりません。それではなぜ自分のものではないのか。それほど自分のものであると思っていたものがいつ自分のものでなくなったのでしょう。パウロは最後にその事を語って今まで述べてきた事の締めくくりをしています。

それは、あなた方は代価をもって買いとられたものであるということです。その背後には誰でも知っている当時の社会があります。奴隷が大勢いて人の売り買い等が毎日のように行われていた頃の話ですから、人々はそのような事情はよく知っています。コリントの教会の中にも売られたり買ったりした人が少なからずいたはずであります。買いとられたらどうなるでしょう。御主人が変わるのです。今までしてきたやり方は全く新しいものに変わってしまうのです。それと同じように、あなた方は代価を払って買いとられたのであるというのです。

そこには奴隷でない自由人もいたでありましょう。この世の見方からすれば、自由人かもしれないが信仰上から言えば、代価を払った買いとられたものであることに変わりはありません。「代価を払って」と書いてありますが、ある人が言いました。代価というのは高い代価という事であると。ではその代価はいくらだったでしょう。代価は神のみ子イエス・キリストであります。これ以上に高い代価はありません。代価を払って買いとられた奴隷は新しい御主人の奴隷になるわけであります。どんな代価を払われてもその事に変わりはないのであります。高い代価で買われた者は安く買われた者とおのずとちがいができてくるでしょう。高い代価を払われた者はそれだけ期待されるわけであります。

それなら最高の値段で買われた者はどうすればいいのでしょう。神の御子イエス・キリストというこの上ない価で買いとられた私たちは何をすべきが明らかなことであります。それはただ一つ、自分のすべてを献げることしかない。パウロの言い方で言いますと「だから自分の体をもって神の栄光をあらわしなさい。」ということであります。私たちは、自分の体のすべてをもってその誰にも与えられていないあなたの美ぼうほほえみ誰にも与えられていないあなただけが持っている才能それら全身全霊を神の栄光をあらわすために献げていくこと、これが主からのメッセージであります。

アーメン、ハレルヤ。

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