説教:鷲見達矢 牧師

 

説教聖霊降臨後第16主日『異邦の女性の信仰』 201899日スオミ教会

マルコによる福音書72430

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、皆さまお一人お一人の上に、豊かにありますように    アーメン

 

 本日の聖書の物語は、シリア・フェニキア生まれの女性の訴える願いをイエスが受け入れられた美しいお話です。

 

 群衆と別れてから、主イエスはティルスの地方に行かれました。ティルスはガリラヤの北西、地中海に面したところです。

そして「だれにも知られたくないと思っておられた」と書かれておりますように積極的なことがあって行ったのではないようです。何をしに主イエスがそのような遠方に出かけたのか不思議に思われます。

 主イエスが外国に行かれたのは、実は、人々に後を追われることから逃れ、隠れるためだったようです。ふつう、評判がよくなると、自信がついて、色々のところに顔を出そうとしたりするのが世の常なのですが、主イエスは反対に、評判が良くなると、御自分の姿を隠しました。

 

誰にも知られたくないと思っておりましたのに、主イエスは人々に気づかれてしまいました。それほどに、主イエスの評判が高く、主イエスに癒してもらいたくて、後を追い求めてきた人が多かったのです。

このような人の中に、「7:25汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女」が、おりました。

 主イエスが今までに、まだ一度も行ったことのなかったティルスやシドンの地方で、この病気の娘の母親がイエスに助けを求めて来たということは、すでにイエスの評判が、この地方にも行き渡っていたことを示しております。

 

[MAR] 7:25汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した」とありますが、この「すぐに」は、女の苦悩と切なる願いがこめられております。

 

彼女は、娘から悪霊を出して欲しいと懇願いたします。「足もとにひれ伏した」とありますから、この女は必死の思いでイエスのもとに来たに違いありません。

このように、イエスに癒していただきたいと主イエスに必死にすがりつく人はこれまでも沢山おりました。

 しかし、これまでと違いますのは、この女が「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれ」であると書かれている点です。彼女はイスラエルの人ではなく、異邦人、よその国の人です。場所も、これまでのようにガリラヤではなく、異邦人の地であるティルスでした。

このティルスの女は、彼女の幼い娘を治して欲しいということのために、ユダヤ人であるイエスの足元にひれ伏しました。異邦人がユダヤ人にひれ伏すということは本来あり得ないことです。カナン人は歴史的にも、ユダヤ人に対して激しい不信感を抱いておりました。そのユダヤ人であるイエスにひれ伏しました。もちろん、幼い娘を治してくれるのであればどのような人でも、という思いがあったからでしょう。

 

主イエスはこれまでに、多くの人を癒し、悪霊を追放してきました。人々は「せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った」のです。すると、「触れた者は皆いやされた。」656とありますように、癒しを一生懸命求める人は、癒されました。

この母親も、そのような主イエスの評判を聞いて、わらにでもすがる思いで、主イエスのところに来たのに違いありません。

 

 このシリア・フェニキヤの女は、「異邦人が信じた最初の実例」です。この女性はイエスの「足もとにひれ伏し」て、悪霊に取り付かれた娘を癒してくれるようにしきりに願います。

その母親が、主イエスに悪霊を追い出してくださいと頼んだところ、主イエスの返事は私たちが抱いている、主イエスのやさしいイメージとは違って、意外なものでした。

 

 異邦人の女に向かって主イエスが語る言葉は次のような冷たい言葉です。

まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」

ここで言われる子供たちとは、ユダヤの人々のことであり、小犬とはユダヤ人以外の人々、つまり異邦人を指しています。これは明らかに拒絶のことばです。また、ここでの比喩では「パン」は救いを意味していることになります。

 

 主イエスのおっしゃる意味は「まずイスラエルの人びとに十分に救いをもたらせるべきで、それを異邦人に与えるべきではない。」ということです。

主イエスは、従って、神の救いはイスラエルの人たちにもたらされるべきであって、異邦人に及ぶことを否定していることを言っているように聞こえます。

 

同じ話が記されているマタイによる福音書での平行箇所15:24をみますと、主イエスはこの女性に対して「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という具合に、もっとはっきりとした拒否の言葉が記されております。

このことは一見したところ、民族・人種の違いを根拠にした「差別」のように思われます。ユダヤ人は、自分たちを「選ばれた民」とし、それ以外のすべての国民・民族を「異邦人」と呼んではっきりと区別しました。いわゆる「選民意識」です。

 主イエスの態度は一見しますと、そうした民族差別と似ているように思われます。しかし、実は微妙な違いがあります。

注目すべきことに、ユダヤ人が異邦人を犬とよんだのに対して、イエスは、小犬とよんだ点です。異邦人にくらべられるような、浮浪している野犬ではなく、村の飼い犬を指す小犬と言っております。

そして、小犬、飼い犬が、家の外にではなく、同じ家の中に子供たちと一緒に居るということを、イエスが言っておられる事が大切です。

 

そしてまた、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない」と言っている点です。「まず」という言葉は意味深い言葉です。ここで「まず」と言っている以上、「その次には」という言葉が当然予測されるからです。

そこには、旧約聖書の民、イスラエルは「まず」大切にされるべき民族として、特別に位置づけております。そして、その後に続いて、救いがユダヤ人を越えて異邦人へと及んで行くことが暗示されております。

主イエスはその救いをもたらす働きを、「まず」契約の民であるユダヤ人の間で進めていきます。しかし、それは「やがて」、ユダヤ人の枠を超えて、異邦人世界へと及んでいくことが暗示されております。

 

 主イエスの拒否に対して、このとき、この母親は実に機知に富んだ応答をいたします。

主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」と申します。聞き方によっては差別の言葉として響く「子供たち」と「小犬」という比喩をそのまま使って、「小犬」は「子供たちの」パンを奪い取るのではなく、子供たちがこぼしたパン屑をもらうに過ぎないのだ、と言うのです。

 

それはこの女性にとって精一杯の嘆願でした。謙虚に、しかしひたむきに主イエスに向かって願います。イエスはその姿に心を動かされていきます。

 女性はイエスの拒否にも屈せず、娘を愛し、癒してもらいたい一心から、きわめて機知に富む答えをいたしました。「イスラエル人が救われるのが、主イエスの第一の目的かもしれないが、少しのおこぼれくらい自分たちに与えて下っても良いでしょう、こぼれた分を食するのは、子供のパンを横取りすることにはなりません」、というわけです。女性は、神の救いがイスラエルという制限を越えて異邦にまで及ぶようにと願っております。

 

実は、主イエスは、異邦人全体に対しては消極的だったようです。それは自分の目の前にいるユダヤ人への働きかけを大切にしたからでしょう。にもかかわらず、主イエスは出会った異邦人の女の叫びにも心を閉ざすことをしませんでした。ここでも、主イエスにとって大切なのは、目の前の一人の人間なのだということです。

 

 この女性は、主イエスが「イスラエルの失われた家の羊」のために「まず」遣わされていることを承認しつつ、それでもなお、その救いが異邦人にも及ぶことを、「食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」という言葉で言い表しております。ガリラヤにおいて主イエスがなさってきた、ユダヤ人に対する奇蹟が、自分の娘の上にも起こることを望んで、そのように語りました。そこには、謙遜な思いと大胆な期待があります。

 

 主イエスは、この母親の答えの中に信仰を認めました。「それほど言うなら、よろしい。」と言う主イエスの言葉はそのことを示しております。

 主イエスが拒否していた態度は、この女性のひたむきな姿(それを信仰といっても良いでしょう)、その姿によって変えられました。

 

 主イエスは異邦人の女の中に、謙遜な、しかし忍耐強い信仰心を見出しました。

(先週の日課)少し前の箇所、7章1節から15節のところで、主イエスは、律法学者やファリサイ派の偽善を問題にされました。そして、それまでに、実は弟子たちの無理解さも強調されておりましたことを考え合わせますと、この異邦人の女性との対比は印象的です。

主イエスは、神の契約の担い手の、その中心である律法学者やファリサイ派の人の中には、信仰よりも偽善を見出しております。弟子たちも主イエスを正しく理解しておりませんでした。

ところが、この異邦の地で、異邦人の、しかも女性(異邦人は低く見られ、女性はまた更に低く見られておりましたから)、この女性の中に、主イエスは深い信仰を見出しました。

救いへの最短距離にいたはずの人々、それは、ファリサイ派の人であり、弟子たちですが、それらの人々の中に本物の信仰が見られず、最も遠いところにいたはずの異邦人の女性の中に信仰を見ました。

すでに6章のところでパンと魚の供食を5000人に行った奇蹟がありました(マルコ6:30以下)が、しかし、イエスの弟子たちの信仰は不徹底であり、その心はにぶいのです。律法主義者たちはイエスを拒絶いたします。

ここでは、ファリサイ派の「不信仰」と、異邦人の女の「信仰」との対比を鮮やかに浮き彫りにしております。

そして、律法学者やファリサイ派の「思い上がり」とこの女性の「謙遜さ」とが、「不信仰」と「信仰」との分かれ道であったことを示しております。この異邦人の女性の信仰はきわだっております

 

 主イエスは母親である女に言われました。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」。そこで母親が家に帰ると、子供はベッドに寝ており、霊が出て行ってしまっているのを見出しました。母親の願っていたことが起こったのです。

 

ここで、イエスの「それほど言うなら」とは、どの言葉、どのような内容だったのでしょうか。

他でもなく、この婦人のあつかましいほどに熱心な、信仰の言葉です。

そうだとすれば、イエス・キリストはこう言っておられるのではないでしょうか。

「私の言葉をもくつがえす、あなたのその信仰深い言葉を、私は聞かざるを得なかった。安心していきなさい。神はあなたの娘をおいやしになります」

女は、どのようにして癒しが起こるのかを問いませんし、また癒しが確実におこることも求めません。しかし、イエスの言葉が確実であると信じて、家に帰ります。そして、女の確信が実証されるのを見るのです。

30節「[MAR] 7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」と記されてあります。

 

キリスト教会にとって、この物語の意味は明らかです。

主イエスは、ユダヤ人はもちろん、それと併せて異邦人に対しても助け手であり救い主であるということ、また、主イエスは家長としてすべてのものに家を開放し、パンを提供するお方だということです。異邦人は、ユダヤ人と共に神の国の食卓に招かれているのです(マルコ2:15176:3044

ユダヤ教的な狭い範囲の救いということが打ちやぶられて、すべての人々に開かれた救いの普遍主義が、イエスによってもたらされました。

異邦人を含む救いでないなら、それは主イエスの福音ではありません。すでに旧約聖書以降、メシア時代には、異邦人も含む、すべての民族が、ヤーウエの救いにあずかることがイザヤ書などにおいて預言されております。(イザヤ書第22節以下、第421節、第603節以下など。)

 

主イエスに出会って救われる人々はどういう人でしょうか。

今日のシリア・フェニキヤの女もそうですが、私たちは、ことごとく苦悩する者、重荷を負う者であることを聞いてきております。追いつめられてのがれ場のない人間であることを知らされます。

 今日の箇所に出てくるシリア・フェニキアの女は、マタイによる福音書第85節以下に出てくる、あの異邦人の百卒長と同様、救いに値しないことをよく自覚しておりました。もし、救いに値すると考えたり、それを強引にせがんだとしましたら、イエスから拒絶されたのではないでしょうか。

イエスは、「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない(マタイ6:7と言われます。祈りと願いの力と実績をつむことによって、力づくででも聞いてもらおうと祈り倒すことではありません。

そうではなく、不義な者、救いに全く値しない者を義としてくださる主イエスというお方の真実を衷心から信じることが、決定的に重要なことです。

ですから「女は謙虚であった」という言い方も本当は不適切だとも言えます。

不義な者を義とし、無から有を創造する主に対する信仰が、主に対する唯一の通路です。聖書の神は、その愛と全能のゆえに、無から有を生ぜしめ、救いを創造し、死人をよみがえらせ、新天新地を創造する神であります。マルコは、この信仰を強調いたします。

 

女はイエスからいったんは拒絶されましたが、あきらめませんでした。執拗にイエスに喰いさがります。しかし、先ほども申しましたが、あきらめない態度がすばらしい、と言うことではありません。彼女の絶望状態が、そして主に一切の望みを置く信頼が、このあきらめない態度を生んだとみるべきです。

 

神様が聞いていないかに見えるのは、私たちが求めないからです。あるいはせいぜい自分の欲のために求めること、それは自我が壊れていないところでの求めですから、益々悪魔のとりこになります。マタイによる福音書77節などにありますように「[MAT] 7:7「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」の言葉どおり、私たちは、心からひたむきに神様に求めるべきです。

主イエスは別な箇所、マルコによる福音書923節で、「[MAR] 9:23イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」」と言われました。神の恵みはあふれております。

聖書が示します神様は、なによりも人の痛みや叫びに心を動かされる神様です。私たちは、苦悩する時、悲嘆に暮れるとき、重荷を負いきれないと感じる時など、特に、主イエスに委ねたいのです。

今日の29節の言葉「それほど言うなら、よろしい」、と神様に言わせるほどに、異邦人の女に習って、私たちはひたむきに、真実なる主イエスに、真心を持って求める信仰を持ちたいものです。

 

どうか、恵みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを恵みにあふれさせてくださるように。アーメン

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